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二葉亭四迷『其面影』における語り手研究
喜界高等学校 国語科
若松 拓郎
1 はじめに
「現代文」と呼ばれる言文一致体の小説が書かれ始めたのは明治時代初頭である。この
時代は同時に,語り手の視点が意識されるようになった時代でもある。本稿では,自ら日
本初の言文一致体による小説『浮雲』を創作した二葉亭四迷の,
『其面影』における「三人
称視点」の語り手について考察したい。
2 一貫した「三人称視点」の語り手を用いる『其面影』
小説の語り手の分類について,山本(2014)は次のように述べている。
小説テクストには、登場人物と作中世界での出来事を語る語り手が存在する。小説
の作者は、この語り手に小説の展開を託すため、だれが小説の語り手になるかが小説
の形式を決定づける鍵となる。
小説テクストにおける語り手の位置について石丸(1985)は、一人称視点を「語り
手が主役で登場し一人称で語る文章」と、単に「一人称の語り手を登場させて主役の
側から主役の周辺に生起する文章」に分類している。また、三人称視点を「三人称の
主役に身をよせ主役の側から主役の周辺に生起する文章(一元描写)」と、「作中に登
場せず全知全能の『神の視点』から語られる文章」に分類されると指摘している。つ
まり、小説における語り手には、「一人称視点」と「三人称視点」の場合があり、小説
のテクストを考える際にはいずれも物語の事件を描く語り手の位置を考えることが重
要である。
二葉亭の創作三作をこれに従って分類すると,
『浮雲』,
『其面影』の語り手は「三人称視点」,
『平凡』の語り手は「一人称視点」である。
二葉亭は「作家苦心談」において,
一体『浮雲』の文章は殆ど人真似なので,先づ第一回は三馬さんと饗庭さん(竹の
舎)のと,八文字屋のものを真似てかいたのですよ。第二回はドストエフスキーと,
ガンチャロッフの筆意を模してみたのであツて,第三回はまったくドストエフスキー
を真似たのです。稽古する考で,色々やツて見たんですね。1
以上のように,
『浮雲』においては実験的に様々な描写方法を取ったことを述べている。
一方,
『其面影』の描写方法は以下のようなものである。(傍線は筆者による。)
よく\/
いつ
な
り
熟々視ると,其細長い方は,毎も秋になると,此服装で此ポートフオリオを抱へて,
うつ む
こつ \/
毎日午前八時ごろ,神田の某私立大学の赤煉瓦の門を,俯向き加減に躘踵と這入って
あのひと
いつ
行く彼人で,聞けば其処の講師で,講義録の編輯主任で,校友会の幹事の一人で,常も
お
の て つや
ぜん
経済原論と貨幣学の講義を担任する小野哲也といふ,七八年前に大学を出たといふか
1
ちゆうぶる
ら,今年は即ち三十五か六の中 古 の法学士。生徒の噂に依ると,此人の講義は乾燥無
あくび
から
味で 欠 を誘ふ代り,義理明晰で曖昧な処がないと云ふ。尤も点が辛いので,余り人望
はない。2
つ
やが
衝と其箱の中に姿を隠したかとすれば,軈て外へ漏れる其声を聞けば,又しても懲
りずまに葉村を呼び出すのであつたが,3
このように,語り手は全知全能ではなく,物語の舞台上に存在し,観察や伝聞によって描
写する,
「三人称の主役に身をよせ主役の側から主役の周辺に生起する文章(一元描写)」
である。
本稿では,二葉亭が「三人称視点」の語り手を用いる小説のうち,最後の作品にあたり,
一貫した描写態度を取る『其面影』の語り手について考察する。
3 『其面影』の反響
『其面影』の描写について同時代の人間から次のような意見があった。
蓋写実派又は所謂自然派の述作を読んだ読者の脳裏に不快感の外何物をも遺さぬと
いふことは,即作家がその作の主人公に対する同情の足らぬためであると吾人は信ず
るが「其面影」の主人公哲也に於ても吾人は不幸にして作家の厚い同情を発見するに
苦しむ,4
哲也の境遇や煩悶やその運命には,現代生活の一部を深く動かしてゐる目に見えぬ
力の後が出ている,哲也の性格には現代人の悲しみが,強く逼ることなく出ている。
個の強く迫らぬといふ調子,これがこの作品の全体を貫いてゐる。哲也の境遇や小夜
子その他の境遇が,随分不快苦痛なものでありながら,どこかやんわりと触ってくる。
作者自身が悠々として迫らぬ態度で総ての人物を見,総ての対境を見て描いてゐるや
うに思ふ,つまり作者の人生に対する態度に,どこかゆつたりとした,慌てぬ様があ
る。経験の乏しい若い者ならば一生懸命になるところを,作者は,さう急ぐにも及ぶ
まい,世の中はかうしたものさといつて、掌の中へ載つけて見てゐるやうな心地がす
る。作者の態度には、勿論その心があつてその眼で作中の人物なり事件なりを描写し
てゐる。それはいふまでもないが,その余裕のある客観的態度に,何うも少し突き放
し過ぎた嫌ひがありはせぬか。作者があまり手放し過ぎた傾きがありはせぬか。作の
一体の手ざはりが何となく小奇麗すぎて,掃除の行き届いた、キチンと片づいたよそ
フアミリアリテイ
の座敷へ出たやうな感じがする,余裕はある,底光りはするが,親 昵 性 に乏しい,泣
きかけてよさねばならぬやうな,もう一と息きのところで喰い足りぬ。それがところ
\/゛表に出て、
「そこがソノ……」といつたやうな調子で,明らかに作者が作中の人
物を手玉にしてゐるやうな軽い,洒落気味な調子が出てゐる。以上は直ちに作者の芸
術的態度の老熟せる所以でもあるが,吾等はその巧み,老練といふ点に敬服すると同
時に,何となく翻弄せられてゐるやうな,かすかながらも一種のiオツフエンシーヴな
i
offensive いやな,不快な。
2
感じを懐く。5
両者は二葉亭の老練した描写に敬服すると同時に,作者の作中人物に対する同情の薄さ,
悠々とし,客観的に人物や事件を描写する態度に突き放した傾向を見て取っている。
そこで,本稿では二葉亭の『其面影』における語り手の描写方法を分析し,それが客観
的で,人物に対する同情が薄いという印象を与える要因を考察したい。
4 写実主義小説における描写方法
二葉亭はロシア文学の影響を強く受けており,写実主義小説における描写の方法につい
て,
即ち言葉を換へれば,此の世の中を見るに二つの見方があると思ふ,作家で云ツて
みればドストエフスキーとツルゲーネフとは、此の二様の観世法を代表してゐる気味
キヤラクター
があります。前者は作者と作中の主なる人とは殆ど同化してしまツて,人 物 以外に作
キヤラクター
者は出てゐない趣がある。後者は作中の 人 物 以外に作者が確に出ている趣が見える。
幾分か篇中の人物を批評してゐる気味が見える。勿論詩人の批評であるから智に属す
る批判とは別物であるが,何となく離れて傍観してゐる様子があります。約めて云ツ
て見れば、直ちに世の実相の真中にとびこんで,其れから外囲の方に歩を進めてゆく
のと,外囲の方から次第々々に内部の方へ這入ツてゆくのと,二通りあると思はれる
んですよ。私は今のところでは直ちに作中の人物と同化して仕舞ふ方が面白いと思ツ
リ リ カ ル
て居ます,が是れには動もすれば叙情的に傾く弊がありまして,種々なる人物を活現
する妨げをなす慮はあるのです。併しながら,是れは弊ですから,何とか好い工夫を
凝らしたら宜しからうと思ひますんですがね,だが又考へて見ると,此の見やうでは
いけない場合もありませうよ,併し人生の或点は此の作中の人物と作者と一体になる
方法でかくのが至極面白からうと思ふのです。(中略)
キヤラクター
キヤラクター
ドストエフスキーの方は 人 物 と 人 物 との関係の上に或iiアイデヤが著く出てゐる
キヤラクター
けれども,ツルゲーネフの方は爾ぢやなくツて,個々の 人 物 の上にのみ或アイデヤが
見らるゝと云ふ風ですね。其の代りツルゲーネフの方は一々人物が浮きあがツて,躍
動する気味があるがドストエフスキーの方は爾いふ訳にはゆきません,幾分か人物は
ぼんやりしてゐるのですね。其の代り又人物と人物との関係に大なるアイデヤが熾ん
に見えるのです。6
以上のように,ツルゲーネフ流に作中の人物から離れ傍観して描写する方法と,ドストエ
フスキー流に作中の人物と同化して描写する方法との二通りがあると述べている。また前
者は人物と人物との関係の上に,後者は個々の人物の上にそれぞれ社会の思想が反映され
るとする。
ii
idea 観念,思想。
3
5 『其面影』の描写態度
二葉亭は『其面影』の創作に当たり,
成程目付顔色などの具体的描写をして,それで心内の波瀾や葛藤を見せることも必
要だが,そればかりでは十分深い処まで這入り得ない。ツルゲーネフなどは飽くまで
具体的描写で行く方でそれが彼の彼たる所以だが,然しそれが為に彼は浅薄だと非難
あ ちら
するものが,西洋には随分ある。其処へいくとガンチャロフは直截で深く透る。勿論
はつきり
弊を言へば,ガンチャロフは具体的の描写が足らない為に人物の輪郭が瞭然出ない傾
がある。ツルゲーネフは其処は遺憾なしだ。つまり具体的描写も当然為さるべきもの
モノログ
だ。恰ど劇に独白の必要であるやうなものだ。イブセンなどにしても其れをやつてい
ひとりご
る。尤も近来は心中を独語つといふは不自然だ。独白は廃すべしといふ説もあり,そ
れを省いた作もある。然し対話の中に独白の分子はやつぱりあるので、それが無くて
は物にならない。我々の実際話してゐる通りにやつたら,劇中の人物の心理などは薩
張分からぬことになる。やはり直截に、心の内を語るやうな部分があるので深い処ま
で出てくるのだ。だから,一概にツルゲーネフ流を崇拝してそればかり真似るといふ
やうにはしたくない。7
と述べ,ツルゲーネフ流の傍観による描写だけでなく,心の内を語る方法も用いようとし
たことがうかがえる。
また『其面影』を振り返り,
「其面影」の時には生人形を拵へるといふのが自分で付けた注文で,もと\/人間
を活かさうといふのだから,自然,性格に重きを置いた8
とし,
『其面影』においてドストエフスキー流の,人物と同化して心の内を語り,個々の人
物の上に社会の思想を反映させる方法を取ったことを述べている。
6 小夜子の内心描写考察
『其面影』の語り手は物語の舞台上に存在し,傍観によって観察した結果を描写する。
これが土台となる描写方法である。しかし時に作中の人物と同化し,その心の内を語る。
語り手が人物に同化して描写する文量は,男主人公哲也との同化(125 文)において最も
多く,物語は哲也の内面を中心に描写されている。そのため,語り手と哲也との主観が区
別しにくいことが考えられる。
そこで,語り手が同化して描写する文量が哲也に次ぎ,哲也の内面に寄り添って描写さ
れることのある女主人公小夜子の内心の描写(30 文)を分析することで,基本的には傍観
の方法を取る語り手が,人物の内面を語る際の方法とその効果を考察する。
以下に,小夜子の内心が語られた全描写について,小夜子の内心の描写に直接かかる特
定の助詞,助動詞に注目して分析し,それが描写に及ぼす効果について考察した。(該当箇
所に記号と傍線を付した。
)
4
ねえ さん
常は長湯した覚えない身の,今夜に限って斯う遅くなっては,姉様が変に思ひます
お っ か さん
おつ しや
まいか,阿母様が何とか仰有りはすまいかaと小夜子は其ばかりを苦にしbながら,
急いで我家へ帰つて見ると,9
たく
もう何とやら気後れがして,成らう事なら此儘女部屋へ隠れて顔を出し度ないkや
うな気がしたcけれど,然うもならず,厭々ながら茶の間へ来て,10
すく
ハツaと思ふと,身体が竦むで,急に胸がドキ\/としたcけれど,拠どころなく
其処に座ると,11
うつ
かほ
俯むいて了つたのは、面に苦悶の現はれるのを見られまいとしたのlである。12
つ
あゝ,嘘を吐くは辛いものaと,今始めて知つた訳ではないcけれど,教を奉ずる
小夜子の身にしてみれば是程辛いことはない。
うしろぐら
いつ
あからさま
何も後 暗 い事で会つたのではないのゆゑ,寧そ明 白 に言つて了はうか,aとhも思
み
あ
ったcけれど,言へば看す\/彼れ程自分を思つて呉れる兄の迷惑になることを,辛
いgからdとて言つては済まぬ。
ぬ
死んでも言ふまいaと決心して,冷汁にしとしと湿れbながらcも,13
ま
福も使ひに出た留守の間こそ幸ひfと,小夜子は窃と奥を覗いて見ると,14
こ
ん
を
り
ゆ うべ
しま
此様な機会は又とないfと,昨夜まんじりともせず考へた事を言つて了ふ気にはな
いざ
ためらは
つたcけれど,卒となれば例の内気の,胸ばかり躍つて,何とやら躊躇れるのを,強
ひて自分と気を励まして,中へ入り,15
胸の動悸も収まつて,語調も沈着いて来たcが,16
小夜子はハツaと思つた。なるほどこれは覚えがある。17
あなが
強 ち知れて悪い事でもないgから、先づ安心したやうなeものゝ,一寸弁解に困っ
ていると,18
お っか
き
家で相談する時は、私の意見は無視せられ,阿母さんや姉さんの勝手に極められて
にい さん
了ふは分かつてゐる,外でお話して下すつたのは,兄様のお情aと,心には思つた
cけれど,明けて其とは言ひかねて,あゝ何と言つたら好いものかfと,身悶えすれ
cど……19
にい さん
いつ
あゝ兄様には済まないcけれど,もう斯うなつては是非に及ばぬ,寧そ打明て言つ
しま
おもひきり
さ すが
ためらは
て了はう……aとは思つたcが, 思 切わるく,尚流石に躊躇iれて……20
あんま
えい, 余 りなfと,
「そんなら事実を言って了ひます。21
お っか
か
えゝ,阿母さんは姉さんの言ふ事ばかりを信用して,私の言ふ事には耳も藉して下
すぐ
ど
う
さらぬaと,小夜子も少しは恨めしくも思つたcが,直ともう如何jでも好いaとい
ふ気になつて,22
せめ
にい さん
すぐ
責て一筆兄様にaと思つたcが,直と其は思返して,一つ二つと話してゐると,23
ど
う
はずみ
せま
つ
かけ
あ わて
ハンケチ
かほ
如何した 機 か,急に胸が逼つて衝と涙が迸り懸たgので,周章て手巾を面に当たまゝ,
24
たよ
友を便つて他郷の空を志す身は,今頃の道行く人は,大方は我家へ帰る人aと思つ
5
は にう
よ
そ
てさへ,其幸福の身の上羨ましく,あゝ,家と名が付きや埴生の小屋も,余所の金殿
玉棲にも勝るものを,其懐かしい家の味を,まだ十分に味はつたことがなく,生れた
それ
さ すら
家はありながら夫にさへ生付かれず,かうして独り淋しくも浮世に流離ふ此身の果て
しみ\/゛
つたな
は何となる事かaと,小夜子は沁 々 我運命の 拙 きを歎くのlであつた。25
や っぱ
つく\/゛
うみ
矢張り辛抱してゐる外はなく,熟 々 辛いと思ふ事のある度に,顔さへ見知らぬ生の
しきり
な さけ
そゝ゛
母が 切 に恋しく,慈悲深かつた亡父が 坐 ろに慕はiれて,物を言ふことさへあった。
26
や っぱ
孤独の身は矢張り孤独と感ぜられて,堪へがたい淋しさを独り泣くこともあつたの
はじめ
ひど
あ
に
lであるcが,不思議な事は, 初 は甚く心の置かれた義兄の哲也に漸く親しむで,其
しのゝめ
温かに濃やかな同情を受けるにつれ,今迄暗黒であつた此世が,どうやら東雲の空ほ
どには明るくなり,我身にも添ふ影があるかと思へhば,淋しさも幾分か薄らぎ,此
う きよ
まん ざら さ
頃になあつては,浮世は憂世といふcけれど,萬更然うばかりでもないaと思ふこと
は
ゝ
に っとほ ゝゑ
も有つて,継母や姉に虐待されbながらcも,尚時には心から莞爾微笑まiれるなど,
ゆ とり
段々心に余裕が出来て来て見ると,其人の情が尚更嬉しくなり,頼もしくなつて,ど
し みつ
ねえ さん
うも心に染付いて忘れられず,あゝ姉様は頼もしくないcけれど,其縁に繋がれて,
い
にい さん
ひそか
我は好い兄様を持つて幸福なfと,窃 に運命の我に笑ひ出したを喜むでゐたcものを,
なさけ
そむ
由ない姉の嫉妬に隔てられて,今は其人の側にも居られず,深き厚き人の 情 に我から背
いて又便りない身にならねばならぬ仕儀となつたcが,それにしても暇乞もせずに東
あんま
うぬぼれ
京を去るとは, 余 り恩を忘れた仕方fと,若し後で恨まれたら……は余り自惚らしい
つまはじ
cけれど,爪弾きされたら何とせう。
なま
母に逢はずに行けと言はれた時には,憗じ逢つたら別れがaと,それに同意はした
それ
そむ
いつ
やつ ぱり
cけれど,夫では人間の義理に背く。寧そ車を引返させうか,いや\/矢張此まんま
逢はずに行つたがお互の……27
こ
ん
そば
併し考えて見ると,今頃此様な処で逢ふ筈がない,我ながら馬鹿々々しいaと思ふ傍
ひよつと
から,萬一此処らでお目に懸れたらaと,つい又頼まれぬ事を頼む気にjもなる。
うち
ひたもの
其中に柳原も過ぎて了ひ,心は後髪を引かれるやうに思ひbながら,身は一向走る
ふ
車に運ばれて,いつしか両国の橋も渡ると,偶と,「小夜さん!……」と聞慣れた其人
のびあが
み まわ
の声が何処かでしたkやうに思はiれたgから,延上がつて其処らを回顧して視たが,
やつ ぱり そらみみ
つい
よこちやう
そ
其人らしい影も見えねhば,矢張空耳だつたか知らと思ふ途端に,車が衝と横 町 へ逸れ
る。
ステーション
は つと
と,もう向ふに停車場の電気が燦然華やかに見えたgので,あゝ,もう是非に及ば
いき せ
やんは
かぢ ぼう
おろ
と
ぬfと諦めきれずに諦めたが,車夫が息急き切つて駆付けて,和 りと轅棒を卸すや,疾
けたたま
し遅し,消魂しい汽笛の声と共に汽車が出た。
のりおく
ど
う
あ,乗後れたaと思ふと,諦めた身にjも如何やら嬉しいkやうな気jもして,車
うら はづ
夫は気の毒がつて言訳迄するのにfと,其手前も少しは心恥かしかつたcが,待つよ
よう
り外は如何為よう様(ママ)もない身となつた。28
6
ど
う
しま
あんま
尚ほ考えてみたcが,如何考へて見てjも,此儘にして行つて了ふのが, 余 り名残
せめ
り惜しいgので,切て電話でなりと,お暇乞をして行かうか知らaと思つた。
さ
き
さう思つたばかりで,未だ然う極めた訳ではなかつたcが,赤帽が通ったgので,
呼止めて聞くと,29
あれ,五分過ぎ,六分過ぎ,え,もう十分になつて了つた。後二十分aと思ふと,
もう堪まらなくなつて,前後の弁もなく,手荷物は隣の人に託し置き,30
次に,取り上げた語句ごとの使用数と,描写に及ぼす効果の考察を述べる。
a 指示・引用の助詞「と」
(20 回)
内心を引用することで,人物と同化し,内心を代弁する方法を取っている。
b 継続の助詞「ながら」
(4 回)
c 逆接の助詞「けれど」
「ど」
「も」
「が」「ものを」(23 回)
d 逆説仮定条件の助詞「とて」
(1 回)
e 対立・矛盾の助詞「ものの」
(1 回)
(b~e計 29 回)内心を語り,直後に表れた動作の観察をあわせて行っている。
f 動機・理由の助詞「と」
(8 回)
g 原因・理由の助詞「から」
「ので」(7 回)
h 順接確定の助詞「ば」
(2 回)
i 自発の助動詞「る」
「らる」
(4 回)
(f~i計 21 回)行動の観察から,行動の原因・理由となる心情や,その場面において
自発的に生じるであろう心情を,語り手の思想に基づき,導き出して語るような効果があ
る。
j (それ一つではないの意味から)意味を和らげる助詞「も」
「でも」(6 回)
k 婉曲の助動詞「ような」
(3 回)
(j・k計 10 回)内心を婉曲に語ることにより,人物と語り手との同化が弱まると考え
られる。
l 断定の助動詞「である」
(3 回)
語り手の観察・思想によって,断定的に描写している。この方法は語り手が人物と離れ
て内心を断定しているようにもとらえられる。
以上のことから,助詞,助動詞の使用回数はb~e(計 29 回)が最も多く,次いでf~
i(計 21 回)が多いことが分かる。これらを用いた場合,続く文章で人物の表面に現れた
言動が観察される描写が多い。このことから,語り手が完全に人物と同化することはなく,
どこかに語り手の観察や思想に基づいた描写がなされていると考えることができる。
7
7 まとめ
『其面影』は個々の人物の上に思想を反映させ,その観察により社会の実相を描こうと
する写実主義小説であった。描写において二葉亭は語り手を作中の人物に同化させ,その
性格を活き活きと描こうとした。それにも関わらず同時代の人間から,人物や事件を客観
的に,突き放して描いているという評価を受けた。
その要因は二葉亭の卓抜した写実の筆によるものであると考える。語り手は常に社会全
体,人間全体を見渡し,社会の道理を踏まえ,人物の細かな動作や表情を的確に取り出し
て描写した。そうして人物の主観に完全に同化することなく,その心の内を語ってみせた。
それが読む者にどこか突き放された印象を与えたのだと考えられる。
8 おわりに
近代以降の小説においては,語り手の手法について様々な試みが行われてきた。語り手
の種類によって,それぞれに異なった特質があり,さらなる研究が期待される表現装置で
あると考える。また,語り手に注目することで,より幅広い読書態度を養うことができる
と考える。
今回の研究では『其面影』の「三人称視点」の語り手による,人物の内心描写の考察に
とどまったが,今後は,二葉亭が影響を受けたロシア文学の語り手についても,ロシア文
学同士の分類や比較を行う等して考察を行い,それが日本の近代文学に与えた影響を明ら
かにしたい。
註
二葉亭四迷「作家苦心談」明治 30 年 5 月「新著月刊」所載(二葉亭四迷『二葉亭四迷全
集』第 5 巻,明治 40 年 1 月,岩波書店)162 上 13-下 1
2二葉亭四迷『其面影』明治 39 年 10 月 10 日至 12 月 31 日「朝日新聞」連載(二葉亭四迷
『二葉亭四迷全集』第 3 巻,明治 39 年 11 月,岩波書店)222 下 2-11
3 (2 に同じ)242 下 6-下 9
4 茘舟,明治 40 年 10 月『帝國文學』第 13 巻第 10 第 555 号所載(二葉亭四迷『二葉亭四
迷全集』第 3 巻,明治 39 年 11 月,岩波書店)396 下 6-下 10
5 銀漢子「
「其面影」合評」明治 40 年 12 月「早稻田文學」所載,
(二葉亭四迷『二葉亭四
迷全集』第 3 巻,明治 39 年 11 月,岩波書店)403 下 17-404 下 12
6(1 に同じ)165 上 15-166 下 4
7 二葉亭四迷「文談五則」明治 40 年 10 月「文章世界」所載(二葉亭四迷『二葉亭四迷全
集』第 5 巻,明治 40 年 1 月,岩波書店)224 下 17-225 下 1
8 二葉亭四迷「私は懐疑派だ」明治 41 年 2 月「文章世界」所載(二葉亭四迷『二葉亭四迷
全集』第 5 巻,明治 40 年 1 月,岩波書店)230 上 12-上 14
9 (2 に同じ)286 下 17-287 上 2
10 (2 に同じ)287 上 5-上 7
11 (2 に同じ)287 上 8-上 10
12 (2 に同じ)287 上 18-下 1
13 (2 に同じ)288 上 18-下 4
1
8
(2 に同じ)291 下 5-上 7
(2 に同じ)291 下 9-下 12
16 (2 に同じ)292 上 13-上 14
17 (2 に同じ)295 上 7
18 (2 に同じ)295 上 14-上 16
19 (2 に同じ)297 上 7-上 12
20 (2 に同じ)297 下 2-下 4
21 (2 に同じ)297 下 8-下 9
22 (2 に同じ)299 上 7-上 10
23 (2 に同じ)300 上 7-上 8
24 (2 に同じ)300 上 18-下 1
25 (2 に同じ)300 下 9-下 17
26 (2 に同じ)301 上 3-上 7
27 (2 に同じ)301 上 15-302 上 1
28 (2 に同じ)302 上 10-下 11
29 (2 に同じ)302 下 16-303 上 2
30 (2 に同じ)303 上 8-上 11
(異体字は標準字に改め,ルビは引用元の通りとした。
)
14
15
参考文献
山本和恵「夏目漱石の三人称小説テクストにおける発言動詞の受動態の選択─能動態との比較
を通じて─」(『同志社大学
日本語・日本文化研究』第12 号,平成26年3月)
9