安政期の幕府の同化政策による アイヌの風俗改変に関する史料について

安政期の幕府の同化政策による
アイヌの風俗改変に関する史料について
遠藤匡俊
1. 目 的
ロシアの南下政策という北方の脅威が高まったときに,蝦夷地 は 2度にわたり幕府の直轄地
となった。それとともに
アイヌに対する同化政策が幕府によって実施された。この幕府の同
化政策によって,アイヌの偶人名がアイヌ語のアイヌ名から日本語の和名へ改名されたり,ア
イヌの風俗,習慣などが和人風に変えられ,この同化政策に従ったアイヌは,より優遇された
;新北海道史
7
3
9
;新撰北海道史編纂委員会, 1
8
1
9
(村尾元長, 1892;北海道史編纂委員会, 1
)。 このような幕府の同化政策によって,いかにアイヌ文
4
7
9
編 纂 委員会, 1970;海保嶺夫, 1
化が変容したのか,あるいは変容しなかったのかについては,これまでに多くの研究例がある
;海保嶺夫,
0
7
9
;新北海道史編纂委員会, 1
2
7
9
2,1
4
9
2, 1905;高倉新一郎, 1
9
8
(村尾元長, 1
;稲 垣
9
9
9
4, 1
9
9
1 1
,
9
9
4, 1
8
9
2,1
8
9
;菊池勇夫, 1
2
9
9
2, 1
8
9
5, 1
7
9
1974, 1979;海保洋子, 1
)。
2
0
0
1,2
0
0
;遠藤匡俊, 2
7
8
9
985;)[1上淳, 1986;榎 森 進 , 1
令子, 1
幕府の同化政策がアイヌ文化に及ぼした影響について研究する場合には,眠られた地域の詳
細な分析の一方で,より広い地域を対象とじた上での地域差の 分析が必要とされる 。地域間比
較を行う上で ,有効な史料の残存状況があま吟良いとは言えないなかにあって,概略的ではあ
るものの,アイヌ文化の変容状況の地域差を知り得る貴重な史料が,高倉新一郎によって示さ
) が整理・紹介した史料は,その後
2
4
9
1
)0 高倉新一郎 (
2
7
9
2, 1
4
9
れてきた(高倉新一郎, 1
;
2
7
9
;高倉新一郎, 1
0
7
9
もほぼそのまま引用され続けてきており(新北海道史編纂委員会, 1
上
1
1
)
) が整理
2
4
9
1
),今後も活用されることと考えられる。しかし高倉新一郎 (
6
8
9
, 1
淳
した史料を原史料と照合し,アイヌ人口に占める帰俗者数の割合を改めて計算し直したところ,
少し数値の異なる部分がでてきた 。
) が整理・紹介した史料のなかで修正が必要とされる部分
2
4
9
1
本稿の目的は,高倉新一郎 (
を示し,微修正を施した上で改めて提示することである。
.史料と方法
2
2)が用いた
7
9
2,1
4
9
1
史料としては,高倉新一郎 (
蝦夷日記Jを
,r
観国録 j
],r
協和私役j
f
使用する。
) 年に著したものであり 5冊からなる 。老中堀田
6
5
8
1
協和私役j は,窪田子蔵が安政 3 (
f
正陸(佐倉藩主)が蝦夷地の状況調査のために派遣した佐倉藩 士たちの道中日記であり,安政
3年 6月 2 3 日の箱館到着より宗谷,標津,厚岸を経由して蝦夷地を周囲し
9月末に松前に
逃藤医俊
2
6
帰着するまでのものである(北海道大学附属図書館, 1
9
9
0
)。北海道大学附属図書館北方資料
室所蔵本(写本)と函館市立図書館所蔵本(写本)を史料として用いた。
『観国録Jは,石川和助(関藤藤蔭)が安政 3安政 4 (
1
8
5
6
1
8
5
7
) 年に著したものであ
り 7冊からなる。老中阿部正弘(福山藩主)の命を受け,安政 3年および安政 4年の両度にわ
たって蝦夷地,北蝦夷地"を調査した福山滞士の道中日記である(北海道大学附属図書館,
1
9
9
0
)。北海道大学附属図書館北方資料室所蔵本(写本)を史科として用いた。
『蝦夷日記』は,
f
E名が同じであっても著者と内容が異なるものが多い。本稿で用いたのは
後藤蔵官が安政 5 (
1
8
5
8
) 年に著したものである。安政 5年 2月末に箱館を出立して西岸沿い
に宗谷に至り,樺太(カラフト)南部を周回ののち東蝦夷地を巡見して 9月 18日に箱館に帰
着するまでの記録である(北海道大学附属図書館, 1
9
9
0
)。北海道立文書館所蔵本(写本)を
史料として用いた。
高倉野「一郎(19
4
2,1
9
7
2
) が用いた史料と同じものを用いて,表として整理された蝦夷人ロ
ヘ 帰 俗 蝦 夷 人 数ω,制合(蝦夷人口に占める帰俗蝦夷人数の割合),および表に関わる文章な
どについて,数値の照合や計算によって再検討した。
表 1 安政 5 (
1
8
5
8
) 年のアイヌの帰俗事
蝦災人口
有i
丹
美国
余市
忍路
高島
小樽内
石狩
浜益毛
I
目毛
n
r
官出
苫前
天境
宗谷
2
9人
1
8
4
9
1
1
2
7
6
7
9
8
5
4
3
2
0
2
9
1
1
9
3
1
1
6
2
6
9
3
6
9
紋自Ij
盟主
根室
厚i
宇
6
1
4
2
1
6
1
.
3
0
6
1
.
3
2
4
釧路
十勝
而i
f
:
骨
蝦
m人数
1
5
人
3
2
9
5
9
7
1
3
2
9
2
0
2
0
2
9
3
1
2
6
2
0
6
4
4
5
4
3
0
4
2
4
6
2
0
割合
備考(出所)
5
1
.
7%
1
6
.
7
6
0
.
1
7
6
.
4
1
9
.
4
2
9
.
6
3
.
7
9
.
9
3
1
.
9
『矧図録J
•
後藤蔵古『蝦
今
•
•
•
今
通
エ
4
2
2
.
4
7
.
5
1
7
.
3
6
.
7
7
0
.
0
込旦
3
.
5
立2
m日記j
•
•
4
シ
。
•
•
『協和私役J
•
後藤蹴干~{
高 官 珊 郎 ( 19
4
2
.1
9
7
2
)による。
ただし,去のタイトル,去中の数字の F紘,罫線は i
l
l
蝉による。
旧写体は新字体に改めた。
f
M
!
l
i
f
i日記J
安政期の幕府の同化政策によるアイヌの風俗改変に関する史料について
2
7
表 2 安政 5 (
1
8
5
8
) 年のアイヌの帰俗率
場所名
干
i
'
t丹
美国
余市
忍路
尚島
小樽内
}自制
、
ιp
i
町益毛
増毛
官'
1
M
出
}
首
天晦
宗谷
紋別
根室
J!~fj:j-t
釧路
卜
勝
蝦夷人数
2
9人
1
8
4
9
1
1
2
7
6
7
9
8
5
4
3
2
0
2
9
1
1
9
3
1
1
6
2
6
9
3
6
9
笠2
6
1
4
2
1
6
1
.
3
0
6
1
.
3
2
4
帰俗土人数
1
5人
3
2
9
5
9
7
1
3
主
旦
2
0
2
0
2
9
呈l
2
6
2
0
6
4
4
5
4
3
0
4
2
4
6
2
0
剖合
出
J
)
l
!
5
1
.
7%
1
6
.
7
6
0
.
1
7
6
.
4
1
9
.
4
2
9
.
6
3
.
7
9
.
9
3
1
.
9
『観図録1
。
後藤蔵吉『蝦夷日記J
イ
シ
•
イ
少
•
今
•
•
•
立込
2
2
.
4
1
,
2
。
1
7
.
3
6
.
7
7
0
.
0
•
•
•
当主
3
.
5
且2
『協和私役J
•
後藤政吉『蝦夷日記J
新北海道史編纂彊員会(19
7
0
)による。
ただ l,去のタイトル,京中の数字の F
線,罫線は過臨による。
3目安政 5年の帰俗蝦夷人数に関する史料
9
4
2,3
8
2頁),あるいは「安政
「安政五年の記録に依てその成績を見ればJ(高倉新一郎, 1
9
7
2,3
6日頁)として,積丹(シャコタ
五年の記録によってその成総を見ればJ(高倉新一郎, 1
ン)場所,美園(ピクニ)場所,十勝(トカチ)場所など 18カ所の各場所の蝦夷人口,帰俗
)
蝦夷人数,割合(蝦夷人口に占める帰俗蝦夷人数の割合と思われる)が示されている(表 1。
つまり,各場所の蝦夷人口,帰俗蝦夷人数,割合は,安政 5 (
18
5
8
)年の数字として整理され,
紹介されている。この表をもとに,
r
すなわち場所によっては,例えば根室のように六割以上
の成績を示したものもあったようであるが,他はいずれも大した成績ではなく,精々役土人程
度の小範囲に止どまったらしい J(高倉新一郎, 1
9
7
2,3
6
1頁)と考察されている。この考察内
1
9
4
2
) においてもまったく同嫌である。
容は,高倉新一郎 (
なお,表 1や表 2のように具体的な数字や史料名は示されていないが,
r
安政五・六年頃の
合七割に逮
諸書に依るに,帰俗土人の割合は場所によって著しく異なり,其総人口に対する創J
する場所もあるが,二分にも達しない場所もあり,一-二割の場所が最も多い J(新撰北海道
史編纂委員会, 1
9
3
7,6
5
5
6
5
6
頁)という記述が既にある。この記述内容を表 1および表 2と
1) 帰俗の状況が安政 5--安政 6 (
1
8
5
8
1
8
5
9
) 年頃の史料に依拠するもので
比較すると, (
r
あること, (2) 七割に達する場所」とは忍路(オショロ),根室(ネモロ)場所のことと考
r
えられること, (3) 二分にも逮しない場所」とは十勝場所のことと考えられること, (4)
「一・二部の場所が最も多い」こともほぼ当てはまること,などのことが確認される。つまり,
2
8
遠藤匡俊
新撰北海道史編纂委員会(19
3
7
) の記述内容は,表 lおよび表 2の内容と非常に類似している
ことが判る。
安政 5 (
1
8
5
8
) 年の根室場所において,蝦夷人口に占める帰俗蝦夷人数の割合が他場所より
も高かったことは,文化 5-文化 8 (
1
8
0
8
1
8
1
1
) 年に国後(クナシリ)場所と択捉(エトロ
7) 場所において,アイヌの役職者"が自らのアイヌ名を和名に改名する事例が多かったとい
9
7
9
) と同様に,重要な事実であると考えられる。ロシアの南下政策に関
う報告(海保嶺夫. 1
わる千島列島およびその周辺地域において,アイヌの風俗改変がより進んでいたことになり,
幕府の対 7イヌ政策がロシアの南下政策と深く関わっていたことを,この数字が示していると
考えられるためである。
4
.アイヌの風俗改変に関する数値の微修正
(1)風俗改変を示す史料の年次
表 lにおいては. 18カ所の各場所の蝦夷人口,帰俗蝦夷人数,都合が,安政 5 (
18
5
8
)年
の数字として示されている。しかし,史料として用いられたもののなかで,安政 5 (
1
8
5
8
)年
却
のものは『蝦夷日記』のみである。厚岸(アッケシ)場所と釧路(クスリ)場所は『協和私役J
を史料としており,安政 3 (
1
8
5
6
) 年の数字である。同様に,積丹(シャコタン)場所と美国
1
8
5
7
) 年の数字である。つまり
1
(ピクニ)場所は『観図録』を史料としており,安政 4 (
8カ所の場所のうち 2カ所は安政 3 (
18
5
6
) 年 2カ所は安政 4 (
1
8
5
7
) 年. 14カ所は安
政5 (
1
8
5
8
) 年の数字である。
(2) 蝦夷人口,帰俗蝦夷人数,割合の数値の一部修正
表 1においては,紋別(モンベツ)場所の蝦夷人口は 672人となっているが,史料とされ
J
レJ
レモツベ)場所の帰俗蝦夷人数
た『蝦夷日記j には 674人と記されている。また,留萌 (
は 31人となっている(表 1)が,史料とされた『蝦夷日記Jには 32人と記されている。
同様に,表 1の割合の値については,史料には記されておらず,高倉新一郎 (
1
9
4
2
) によっ
て計算された指標と考えられる。割合の値を算出した方法については,説明がないので,蝦夷
人口に占める帰俗蝦夷人数の割合を算出すると,その値はほとんどの場所で割合の値と一致し
た。つまり,高倉新一郎(19
4
2
) のいう割合とは,蝦夷人口に占める帰俗蝦夷人数の割合であ
ると判断される。ここで,蝦夷人口を P
. 帰俗蝦夷人数を a
. 割合を A Rとそれぞれ表記する
ことにすると,割合 (AR) の値は,
a
AR(%)=100X1となる。ただし,割合 (AR) の値は,計算した値の小数点以下 2桁を四捨五入(小数点第 2
位の位を四捨五入)して小数点以下 1桁(小数点第 l位)まで表記されている。表 1によれば,
割合の値は,留萌場所 16.7%.天塩(テシオ)場所
勝(トカチ)場所 0.2%とそれぞれ記されている。
7.5%. 厚岸場所
14.9%. 十
しかし,改めて計算した上で,計算値の小数点以下 2桁を四捨五入(小数点第 2位の位を四
捨五入)して小数点以下 l桁(小数点第 l位)まで表記することにすると,それぞれ留萌場所
拐の幕府の同化政策によるアイヌの風俗改変に関する史料について
安政 J
4 %,厚岸場所
16.6%,天塩場所. 7.
19.4%,十勝場所
9
2
.5%となり,少 しではあ
1
る が 表 1の も の と は 異 なる数値となる。
2においても 表 1とまった く同じ個所 において数 値が異なっ ていた。た だし
表 2で は , 小 樽 内 ( オ タ ル ナ イ ) 場 所 の 帰 俗 土 人 数 が 39人となって いるが,史 料とされた
『蝦夷日記 j には 29人と記され ている 。
司様にして ,表
j
協和私役 jが史料とされており,
なお,厚岸 (アッケシ )場所と釧 路(クスリ )場所では f
館所蔵本の 2種類がある。
館市立図書
この史料は 北海道大学 附属図書館 北方資料室 所蔵本と函
蝦夷人口と 帰俗蝦夷人 数の値は, いずれの史 料において も同じであ った 。
r
(3) 協 和 私 役 j と
蝦 夷 日 記j
f
厚岸(アッ ケシ)場所 では,
) 年の蝦夷人 口は乙
6
5
18
協 和 私 役 j を史料とし て,安政 3 (
r
)
1 6人 , 帰 俗 蝦 夷 人 数 は 42人,割合は 14.9% (実は 19.4%)と示さ れている( 表 1。
) 年の蝦夷人 口は 200人,帰俗蝦
8
5
18
しかし, 蝦 夷 自 記 j によれば, 厚岸場所の 安政 5 (
) 年から安政 5
6
5
18
.5%である。 つまり安政 3 (
夷 人 数 は 119人 で あ り , 割 合 の 値 は 59
r
) 年 ま で の 2年間に,帰 俗したアイ ヌの人数, およびその 対人口比は ,かなり増 加した
8
5
8
1
(
表 3 安政 3~ 安政 5
場所
シャコタン(積丹)
ピク三(美国)
ヨイチ(余市)
オショロ(忍路)
タカシマ(高島)
オタルナイ(小樽内)
イシカリ(石狩)
ハママシケ(浜益毛)
マシケ(増毛)
ルルモッペ(留萌)
トママイ(苫前)
テシオ(天塩)
ソウヤ(宗谷)
モンベツ(紋別)
ネモロ(根室)
アッケシ(厚岸)
アッケシ(厚岸)
クスリ(釧路)
トカチ(十勝)
) 年におけるアイヌの帰俗率
8
5
8
(1 856~ 1
アイヌ人[] 帰俗したアイヌの人口 帰俗率
) 年
% (a/p
人 (a)
人 (p)
9
2
8
1
1
9
4
7
2
1
7
6
8
9
3
4
5
2
0
2
1
9
3
9
1
6
1
1
9
6
2
9
6
3
4
7
6
4
1
6
0
0
2
6
1
2
6
0
.3
1
4
2
.3
1
5
1
3
も
5
9
2
7
9
3
1
9
2
0
2
0
2
9
2
2
3
6
2
0
2
4
6
5
4
0
3
4
9
1
1
2
4
6
4
0
2
7
.
1
5
7
.
6
1
1
.
0
6
4
.
6
7
4
9.
1
6
.
9
2
7
.
3
9
.
9
.9
1
3
6
6.
1
4
2.
2
4
.
7
3
.
7
1
7
.
6
0
.
0
7
5
.
9
5
4
9.
1
5
.
3
.5
1
)
7
5
18
安政 4 (
シ
イ
)
8
5
8
1
安政 5 (
イ
シ
l
'
l
'
/;
l
'
タ
l
'
l
'
〉
ぞ
。
。
ン,
。
)
6
5
8
1
安政 3 (
ン
d
)
8
5
8
1
安政 5 (
安政 3年),厚岸場所は
, ~II路場所は f協和私役四 J (
)
下
観 国 録 三 j (安政 4{
積丹,美国場 所は f
蝦夷日記 J(安政 5
f
場所は
年),その他の
5
政
安
(
J
日記
!J~
側~
年)および
協 和 私 役 四 J(安政 3
f
年)により作成。
遠藤匡俊
3
0
ことになる。このような事例があることからも,すでに述べたように,記された値が安政 3
(
1
8
5
6
) 年,安政 4 (
1
8
5
7
) 年,安政 5 (
1
8
5
8
) 年のいずれよの年次のものであるかを明確にし
たほうが良いと考えられる。
r
協和私役Jによって安政 3年の帰俗蝦夷人数の
r
蝦夷日記Jには戸数と人口のみが記されているにすぎず,帰俗蝦夷人
ただし,釧路(クスリ)場所については,
値が示されているが,
数の値は記されていない。
以上のような微修正を施した上で作成したものが,表 3である。
5 まとめ
幕府の同化政策がアイヌ文化に及ぼした影響について研究する場合には,限られた地域の詳
細な分析の一方で,より広い地域を対象とした地域差の分析が必姿とされる。概略的ではある
ものの,アイヌ文化の変容状況の地域差を知り得る貴重な史料が,高倉新一郎によって示され
(高倉新一郎, 1
9
4
2,1
9
7
2
),その史料と計算値は今後も活用されることと考えられる。しかし,
高倉新一郎 (
1
9
4
2
) が整理した史料を原史料と!照合し,計算値を再検討した結果,若干の修正
が必要であると判断される部分がでてきた。そこで,修正が必要とされる部分を示し,微修正
を施した上で改めて提示した。
注
1)北蝦夷地とは,傑太(カラフト)のことである。
2)蝦夷,土人とは,アイヌのことである。
3)帰俗蝦夷人数とは,アイヌの)jll
l俗,習慣等を和人風に変えたアイヌの人々の人数のことであ
る
。
4)アイヌの役職者とは,アイヌ社会におけるいわゆる村方三役に相当するものであり,乙名,
小i
ll!.土産取などのこととする(!il藤匡俊, 2
0
0
1
)。改俗奨励に従い風俗を改め和名化した場合
には,乙名を名主,小使を年寄~[:産取を百姓代などと役職の名称を改めさせられた(北海道
史編纂委員会, 1
9
1
8
;新擬北海道史編纂委員会, 1
9
3
7
;尚治新一郎, 1
9
4
2
)。
5) 表 lおよび表 2には『協和私役Jとあるが,
文 献
稲垣令子 (
1
9
8
5
)
r
協和私役Jであると忠われる。
[近世蝦拠地における儀礼支配の特質】ウイマム・オムシャの変巡を通し
r
て j,民衆史研究会編: 民衆生活と信仰・思想 J
,雄山閑, 111-130頁
。
桜 森 進 ( 19
8
7
)
)
述藤匡俊 (
2
0
01
r
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(2) -j,三省堂, 2
6
3頁
。
[
1
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頁
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0
0
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)
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(
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),48-59
頁
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海保嶺夫 (
1
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)
r
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海保嶺夫 (
1
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7
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[アイヌ人名の日本語化
i
年保洋子 (
1
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)
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3
2
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1上
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