Title 原子力発電の発展 Author(s) - HERMES-IR

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原子力発電の発展
井出野, 栄吉
一橋大学研究年報. 商学研究, 24: 3-58
1983-04-30
Departmental Bulletin Paper
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http://hdl.handle.net/10086/9743
Right
Hitotsubashi University Repository
原子力発電の発展
原子力発電の発展
σの GEと原子力発電
㈹ 民間企業と原子力
二 軽水炉の出現
㈲ その他の原子炉
一 緒 言
GE、WHと原子炉
e 原子力発電コスト
三 軽水炉による原子力発電の発展
井出野栄吉
臼 濃縮ウランと軽水炉
⇔ 原子力発電の発展と原子炉間の競合
一九四六年原子力法
⇔
GEとBWR
WHと原子力発電
原子炉開発計画
GEと原子力
㊧
四 結 言
四
一九五四年原子力法
3
e
㊨
㈲
紛
一橋大学研究年報 商学研究 24
緒 言
第二次大戦後、原子力の平和利用としての原子力発電の研究開発が進み、各国ではそれぞれの情況に適した原子炉
による原子力発電所が建設されていった。
英国では諸種の事情から独自のガス冷却炉による原子力発電を早くから進めていった。一方、原子力開発では最も
進んでいた米国は経済的にもエネルギ;資源的にも余裕があり、かつ濃縮ウランも利用できる立揚にあったので、原
子炉の将来性を考慮して原子炉の開発を単一の炉型に絞らず、種々の炉型の原子炉の開発に取組んでいった。やがて、
これらの原子炉の中から軽水炉が実用化され、英国よりも約一年遅れはしたが実用規模の軽水炉による原子力発電所
が誕生した。その後、この軽水炉による原子力発電の成長は著しいものがあり、漸次、先に英国で開発されていたG
CRおよびその後に開発されたAGRによる原子力発電を凌駕して世界の原子力発電の主流となったのである。
筆者は、米国において軽水炉による原子力発電所が出現した背景およぴそれが世界の主流になっていく背景を述ぺ
てみたい。
二 軽水炉の出現
e GE、WHと原子炉
米国海軍が潜水艦の原子力による推進に関心を持つようになったのは、一九三九年三月にフェル、、、イが海軍に核分
裂の軍事利用を急ぐよう要請したのが契機である。海軍はそれまで続けてきた濃縮ウランの製造法の研究成果を一九
四三年に陸軍へ提出した後はマンハッタン計画との研究契約を打切られた。しかし研究者らは海軍の艦船、とくに潜
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原子力発電の発展
水艦に原子力を応用するため海軍のみの計画を作る意見を捨てなかった。その後海軍の研究は少しずつ進展し、一九
四六年の初め頃にはナトリウムーカリウム合金を冷却材とする原子炉による高速潜水艦の概念が報告されている。
を派遣し原子力技術を修得させていった。
この頃から海軍は原子力に積極的に取り組むようになり、オークリッジ国立研究所へ、リコバーらの海軍グル⋮プ
および制御ならぴに計測装置の部門を担当し、その中で多種類の電気機器や制御機器を開発して各種装置に組み入れ
一方、GE︵ゼネラルエレクトリック︶は第二次大戦中マンハッタン計画に関係はしていたが、主として電力供給
るというような役割を演じたものの直接原子爆弾製造などの重要な仕事はしていなかった。GEが原子力開発に積極
的に乗り出したのは戦後からである。マンハッタンエ兵管区はハンフォードの運営契約者であるデュポンが戦後の契
約更新を断ったためその後継者として将来の動力利用を見越してGEにその運営請負を交渉した。GEは戦時経済か
ら平和経済への社内体制の転換を理由に一度はその申出を断ったが、結局一九四六年五月これを受入れた。その際G
Eは軍艦、潜水艦用原子炉の開発を行なうノルズ原子力研究所の設置とGEによるその運営とを受入れの条件とした。
GEは早くも六月に駆逐艦用およぴ潜水艦用の中速中性子によるナトリウム冷却炉を使った原子動力機関の開発計画
を提出し、海軍との契約でGEが運営することになったノルズ原子力研究所でさきの金属冷却による潜水艦推進用動
力の考えを受けついでいった。一九四六年九月GEは、原子力の研究開発と同時にプルトニウム生産炉や再処理工揚
をそなえた完全な原子爆弾生産工揚であるハンフォードの運営管理を行なうこととなり、GEの原子力部門はその後
米国の軍拡と共に成長していくのである。
第二次大戦終了直前に米国はすでに科学者に商業的用途に適した安価な原子動力の研究を行なわせていたが、戦争
終了後は広汎な動員解除などで研究者、技術者は大学その他の職揚に戻るなどしてその数は減り、研究能力は全般的 5
一橋大学研究年報 商学研究 24
に低下し、また研究施設は老朽化していた。
たとえばハンフォードの三基のプルトニウム生産用原子炉は一九四五年以来殆んど休みなく連続運転されてきたた
め、大型の黒鉛ブ・ックが膨脹するという現象をおこしていた。この膨脹はウラン棒を収容しその隙間を冷却水が流
れるように作られたアルミニウムの管を振じ曲げて変形させる原因となるもので黒鉛ブロックの膨脹を防ぎ止める方
法を見出さなけれぱ三基の原子炉はすべて運転不能になってしまう。一九四六年の初めに当時のマンハッタン計画の
本部は三基の原子炉のうち最も古い原子炉の運転を停止してこれを予備用として残しておく.︼とにし、残る二基には
その寿命を少しでも延長させるために低出力で運転を続けさせていたのである。当時マンハッタン工兵管区はすでに
原子爆弾の製造を完成させその目的を果たし終えており、あとは政府が新たに戦後の原子力体制を確立する時期とな
っていたが、研究施設の荒廃を前にして軍事研究の停滞を憂えたマンハッタンエ兵管区はそれまでの研究施設の再編
に着手した。再編に際してまずコンプトンを委員長とする研究開発諮問委員会を発足させてその報告を求め.︸のコン
プトン報告に基づき施設拡充計画を進めていった。戦後における最初の米国の原子力開発は軍の機関であるマンハッ
タン工兵管区によって行なわれることになったのである。
コンプトン報告は、原子力に関する基礎部門の研究と平和利用部門の研究に重点をおいたものであってその中で、
基礎的研究に関しては戦後における大学、民間研究機関の役割は主として非機密の基礎的研究に限るぺきであるとし
てその役割を明確化し、そのために必要な国立研究所を設立し、その運営を研究に参加する大学、研究機関に委ねる
ぺきであることを提案すると同時に平和利用の面では、発電炉として高温ガス炉と高速増殖炉の二つをそれぞれオー
クリッジとアルゴンヌで開発するよう勧告するものであった。
一方、コンプトン報告とは別にマンハッタンエ兵管区は独自の立揚で軍用炉開発の体制を進めていた。マンハッタ
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原子力発電の発展
ンエ兵管区は原子力の応用開発研究所であるノルズ原子力研究所には予算を重点的に投入しており、同研究所でのG
Eの最初の研究受託契約は艦船用推進炉に関する海軍との契約であった。
一九四六年春頃、オークリッジでは軽水冷却の原子炉を動力源としようとする考えが検討されていた。当初オーク
リッジでは重水減速軽水冷却炉を考えていたが、そこで使用される重水は高価なためこの原子炉に関してマンハッタ
ンエ兵管区の承認が得られなかったので後に炉型を軽水減速軽水冷却に改めた。軽水を減速材と冷却材とに用いる軽
水炉は、軽水が減速材として最良ではないこと、常圧では熱伝達の手段として効率が悪い点などから動力炉として成
りたたないであろうと思われていたが、温度三七四度C、気圧二一五気圧までの高圧水は十分に減速材としての役割
を果たすことが実験で解明され、またこのような高圧水がステンレススチールやアルミニウムを腐食する度合もそれ
程大きいものではないことなどがわかったので、軽水は最良の減速材、伝熱材ではないかも知れないが、大量に安価
︵−︶
に得られその上扱い慣れているという利点などを考慮し高圧水動力炉はガス炉や液体金属冷却炉よりも開発が容易で
信頼性も大きいと考えられるようになった。この型式の実験用原子炉の建設計画が建てられた際、海軍に研修参加の
要請が出されここにこの原子炉と海軍との関係が生じ動力炉としての軽水炉の開発が始まる契機となった。この炉は
後にアルゴンヌとWH︵ウエスチングハゥス︶との間でウィザード計画として開発が進められていった。WHは一九
四八年、海軍艦艇推進用原子炉開発計画を実施するベッチス原子力研究所が設立された際にその運営担当者となって
いる。
かくて海軍の原子力推進炉は以後GEによる液体金属冷却炉とWHによる軽水炉との二つの路線がとられるように
なったのである。
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◎ 一九四六年原子力法
一九四五年一〇月、トル:マン大統領は議会に対して核原料とその製造工程などを国家管理として原子力を国の独
占とする反面、原子力の平和的利用の必要性を指摘して平和利用の努力を求める内容の原子力に関する教書を送った。
これにより、米国は核軍事技術の優位を保持するとともに平和目的の開発を可能にする原子力管理の法律を作ろうと
した。この直後陸軍省は戦時中と同様に陸軍の主導下で原子力開発を行なおうとし、大統領が任命し軍人を含みうる
九人よりなる委員会が核物理における科学研究に対して絶対的な統制力を持つという内容の法律案を下院に提出した。
研究の自由を求めていた多くの原子力関係の科学者、技術者は基礎物理の研究所の中まで軍の統制により極端な秘密
が保持され、研究の自由が制限されようとしていることを感じとった。戦時中には研究は分業化され科学者間で互い
に知らないうちに重複した仕事をしていたり、または関係の深い研究を行なっているのに互いに連絡がとれなかった
ということなどから科学者、研究者は不満を持ったことが屡々あった。これらの不満を持つ人々は各研究所で団結し、
やがて原子科学者連盟という組織を作り科学者の意見をひろめていった。かくて原子力開発の軍部統制に反対する科
学者の意見は世論と政界に影響を持ち始めるに至ったのである。
また米国議会は戦時中秘密ということのため、マンハッタン計画に二〇億ドルという巨額な支出が議会の統制なし
に行なわれ、また対同盟国との協力に関する政策が事実上国務省の知らぬ間に発案されたということから明らかなよ
うに、原子爆弾開発をはじめ戦争政策の多くに関与できなかったため戦後における議会の関心は議会本位の立法権の
回復に向けられており、原子力の管理問題が軍の主導で進められるのを欲していなかった。
上院議員マクマホンは、これらを背景にして将来の原子力に関する立法の研究を目的とした民主・共和両党の上院
議員からなる委員会設置を上院に承認させ、一九四五年一一月から一九四六年四月までの間に公開非公開の会合を開
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原子力発電の発展
催し、米国の核計画に責任あるポストで参加した人々の証言を集めた。科学者らは、核爆弾製造についてもエネルギ
ー生産についても秘密などは存在しないことを立証しようとした。基礎的な事実は世界中の物理学者が知っているこ
とであり、それを利用する技術的な秘密の多くは長期間に亙り十分な努力を惜しまなければ解決されることを述ぺた
のである。
軍と学者との抗争はトルーマン大統領が、民間人のみによって構成される委員会設置に賛成したため終結し遂に原
子力開発の貴任は軍の手から外され、特殊核物質の生産、所有、使用など原子力に関するすべての問題は上院の承認
の下に大統領が任命する五人の民間人からなる原子力委員会に委ねられることになった。かくて、原子力開発は原子
力委員会の管理下におかれたが反面原子力に関する事項は国家機密となりその技術、情報などの移転や公開は国内外
とも制限された。これにより原子力発電技術は非公開となり、研究用原子炉を含めて一切の原子炉情報は一九五〇年
代に入るまで公開されなくなった。また軍との関係では、核兵器は文官よりなる原子力委員会が開発、生産、管理し
大統領の命令により軍に引渡す考えであったが、軍の締め出しに対して軍からの反論があり結局原子力委員会と軍と
の連絡委員会であり、国防各省長官が任命する現役軍人で構成する軍事連絡委員会が作られ、この軍事連絡委員会は
原子力の軍事利用に関する問題で原子力委員会に勧告する権限を与えられ、原子力委員会の決定に不満がある時は陸
軍長官を通じて大統領に訴える権利を認められた。また原子力の軍事利用については、軍人を長とする部が兵器の製
︵2︶
造と実験を受持つこととされた。
一九四六年八月、原子力開発の文官支配、原子力の国際的独占などを内容とした原子力法が成立した。同時に議会
は原子力委員会の活動を監督するため上下両院合同原子力委員会を設置し、大部分が秘密に進められることになって
いる高度に技術的な原子力計画について立法面からの支配を維持することにした。
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一橋大学研究年報 商学研究 24
一九四七年一月、米国の原子力計画はマンハッタンエ兵管区から原子力委員会に移り、この結果、原子力委員会は
当時存在していた膨大な原子力施設の管理を託されることになった。その中には第二次大戦中にマンハッタン計画の
ために作られた研究開発計画も含められていた。
国 GEと原子力
原子炉内で燃焼したウラン棒中にはプルトニウムが生成存在している。戦時中ハンフォードに建設された化学分離
工揚は一九四七年当時も運転を続けていたが、それまでの分離方法では照射済燃料からプルトニウムは回収されたが、
大量のウランは高レベルの放射性廃棄物や核分裂生成物と一緒に地下のタンクに流れ込んで回収できなかった。
原子力委員会が軍から原子力施設を受けついだ一九四七年当時は軍拡の初期であるにもかかわらずそれら施設は損
傷し特殊核物質の生産量は戦時中の水準よりも大幅に減少していたし、原子力委員会の手持ちのウラン量はすくなか
った。軍拡の下で核兵器の貯蔵を確立するためには上述の燃料の再処理にカを入れ、プルトニウムとウランとを効率
よく分離回収すると同時に、既存の原子炉は老朽化しているため早急に新しいプルトニウム生産炉を建設することも
必要であった。ウラン鉱石の不足に悩まされている原子力委員会は照射済みの燃料からウランとプルトニウムとを効
率よく回収する方式を実現させ、この新原子炉に装荷するウラン燃料を回収しなければならなかった。
シカゴの冶金研究所のシーボルグや他の化学者らは、そのための分離方法の開発を提唱していた。戦後いわぱ残務
処理的に原子力施設の管理を維持していたマンハッタンエ兵管区は、この問題は戦後の計画に属する開発テーマであ
るため研究に着手することを承認できなかった。オークリッジ、アルゴンヌ、ハンフォードの各研究所でも新しい効
率的な分離方法の研究を小規模ながら行なっていたが、それを成功させるにはなお多くの努力が必要であった。
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原子力発電の発展
GEは照射済み燃料の再処理方式としてレドックス法に取組み、幾多の困難に逢いながらも遂に一九五〇年の初め
にレドックス再処理工揚の建設を開始し、一九五一年八月試運転に入った。GEは原子力に進出すると同時にすぐに
再処理の問題を解決しなければならなかったのである。
原子力委員会は一九四七年七月、ハンフォードのプルトニウム生産用原子炉の新規計画を発表した。これまでの原
子炉は老朽化の徴候が出はじめ、原子炉の中心部の黒鉛ブロックの膨脹はウラン棒が通らない程にアル、・三ウムの管
を変形させていたし、アルミニウム管の腐食も激しくなり冷却水が黒鉛に流れ出すようなことまであった。GEは新
しい二基の原子炉を古い原子炉の近くに建設する計画をつくった。かくてGEの技術者はハンフォードの既存の原子
炉の点検・保守あるいは改修などの作業を行ないながら原子炉技術を修得し原子炉を運転していった。
第二次大戦中のマンハッタン計画のなかでは重要な役割を演ずることのなかったGEは、戦後すぐ原子力の分野に
進出し原子力委員会による当時の軍拡計画の多くをハンフォードで担当しその間に再処理工揚や原子炉の設計建設を
︵3V
行なった。GEの原子力技術の基礎はこの時期に培われたのである。
㈲ 原子炉開発計画
一九四八年六月、原子力委員会は先にマンハッタンエ兵管区が決定を持ち越した原子炉開発計画を決定した。この
計画はオッペンハイマーを委員長とする一般諮間委員会の報告を受けて、発電炉としてアルゴンヌ国立研究所の高速
増殖炉とノルズ原子力研究所の中速増殖炉、潜水艦推進炉︵軽水炉︶および材料試験炉が選ばれた。また、この一次
選定に続いて、その後に研究が進展した潜水艦推進炉︵中速炉︶、均質炉、改良研究炉および航空機推進炉が加えら
れ結局合計八炉型の研究開発が決定された。さきにコンプトン報告の中で有望として取り上げられていた高温ガス炉
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一橋大学研究年報 商学研究 24
は、高温発生による材料面の技術的間題の解決が困難なため、今度の原子力委員会の原子炉開発計画には採用されな
かった。
この原子炉開発計画にあげられた内容の特徴は、当時はウラン資源量、とくに米国内のウラン資源量は乏しかった
ので軍用のウラン需要を考慮に入れると発電炉には増殖炉を選ばざるを得なかったこともあり、発電炉としては、高
速増殖炉、中速増殖炉およびトリウム増殖の均質炉の三つがあげられていること、戦時中に開発された経験豊かな黒
鉛炉および重水炉は開発の対象となっていないこと、軍用炉が三つもあげられていることおよぴ炉の予算額として潜
水艦炉は高速増殖炉の八倍もあったことである。軍用炉開発を重視する傾向は以後も続き、この中でGEが戦後から
独自に研究していた唯一の中速中性子による動力・増殖炉計画は一九五〇年のトルーマン大統領の水爆開発命令とい
う軍拡によって大量の研究者がその方面に割かれることになったことから研究の集約を余儀なくされ結局原子力委員
会によって中速増殖炉計画は中止されることになり軍用中速潜水艦炉への研究に一本化されていった。
一方発電用増殖炉は産業界とは切り離され国立研究所だけで開発されていた。しかし、そこでは国立研究所が炉の
設計や据付けの監督を行ない、炉の契約者は単に建設工事を請負うという段階を出ていなかった。
このように産業界の動力炉開発は軍用炉開発に比して強力なものではなかった。これは当時の軍拡を反映したこと
にもよるが、ただそれのみの理由に帰せられるものではない。
米国の大企業は原子力委員会の委託運営者として、政府所有の施設を運営して原子力開発の主要部分をになってき
たし、また委託運営者にならなかった多くの企業でも、技術者を原子力研究所へ派遣して原子力開発に関係をもって
きた。しかし原子力法により原子炉を製造する権限は原子力委員会が持ち産業界にはなく、また特殊核物質は国有化
されていてその供給は全く考えられなかった。加えて、エネルギー資源的にみても、当時米国内には原子力に対して
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原子力発電の発展
それ程大きな要請もなかったので動力炉開発に投入される莫大な資金が短期間に成果を産むという見通しはなかった。
ヨーロッパ諸国や日本はまだ戦後の荒廃から立ち直るまでに至らず、原子力市揚は米国国内に限られてしまう。従っ
て原子力を動力として利用するとなると結局は採算を無視できる軍事用、即ち、艦船用あるいは潜水艦用動力に向か
わざ る を 得 な か っ た と い う 理 由 も あ っ た の で あ る 。
を進めていた。
しかし一方において、原子力委員会は原子炉開発計画に着手した頃から企業を原子力開発に参加させるための準備
㊨ WHと原子力発電
オークリッジでは高圧水炉の研究が進んでいる時であったが、一部の研究者はそのままオークリッジに残ったものの
叫九四七年一二月、原子力委員会は各国立研究所の分担を再編し原子炉開発はアルゴンヌに集中させることにした。
高圧水炉のグループの大部分はアルゴンヌに移り、そこで海軍炉計画として再出発することとなった。
一九四八年、リコバーは原子力潜水艦を完成させるために必要な研究計画を作ってアルゴンヌ研究所を訪れ、海軍
と研究所間の研究面の関係を作っていった。GEは早くから液体金属冷却炉を通じて海軍と接触していた。一方、W
HはGEよりもやや遅れはしたが動力炉開発計画がアルゴンヌに集中される頃からその研究の進展に関心を抱くよう
になった。リコバーの所属する海軍原子力計画本部艦船局はGEの競争相手としてWHを考え戦後は原子力に殆んど
関係していなかったWHをアルゴンヌの蓄積技術を修得させるため動力開発計画に参加させたいと感じており、特に
加圧水型の原子炉を担当させる意図で同社に働きかけ参加させることに成功した。一九四八年六月にWHは原子力潜
水艦用の加圧水型動力炉の研究と開発を内容としたウィザード計画に関する契約を締結した。また一方、元オークリ
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一橋大学研究年報 商学研究 24
ッジの動力炉部長でその後アルゴンヌの海軍炉計画に参加したエザリントンらは、潜水艦用の動力炉に目標を絞った
上で多くの計算や試験結果を分析し、制御、腐食、燃料加工、遮蔽、放射線下における水の分解などの諸間題が技術
的に解決されれば加圧水型炉は潜水艦推進用の動力炉として利用できるという結論を下した。
同年一二月、WHはマークーと名づけられた熱中性子による潜水艦推進用の動力炉の開発に協力するという内容の
契約をアルゴンヌ国立研究所と結んだ。一九五〇年三月、海軍炉の概念設計が報告書としてまとめられ、その中で今
後アルゴンヌとWHが開発するマークーとマークH原子炉は減速材と冷却材に加圧水を用いることが決定された。後
にマークーはPWRの陸上原型炉となり、マークHは最初の原子力潜水艦ノーチラスに積み込まれていくのである。
この間、一九四八年二一月にはフランスで最初の原子炉ELIIが臨界となった。当時のフランスは原子力の情報
は公開するという政策であった。従ってフランスは原子力に関する研究成果や原子炉についての情報を詳細に公開し
ていた。また一九四九年八月に行なわれたソ連の原爆実験によって、ある種の原子炉の機密化は無意味になったので
ある。このような外部的な状況による影響の外、国内でも原子力に関する情報が少数企業に独占されていることが議
会で問題となってきた。かくて一九四九年八月原子力委員会は電力産業と協力諮問委員会を設置し、電力産業に原子
力情報への接近を与えて電力会社がどの時期から発電炉の開発に参加すぺきかを検討した。また原子力委員会は同年
一二月には原子力特許の一部を開放し民間企業が原子力開発に参加できるよう段階的措置を進めた。電力産業界は一
九五〇年、電力とプルトニウムとを生産する二重目的炉について、その設計、建設、運転のために出資する用意があ
ると述べ、それまでは原子力委員会の資金でまかなわれてきた原子力活動に初めて民間資金を使用する提案を行なっ
た。当時原子力委員会は動力炉の開発と軍拡下での核兵器増強のための核物質の増産という二つの問題を抱えていた
ので、この目的をより早く達成させるために産業界と連携して企業の技術力を大規模に動員し発電と同時に核兵器と
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原子力発電の発展
なりうるプルトニウムを得る方がよく、また企業にとってもこれによリプルトニウムの政府買上げによる原子炉の採
プを結成させ原子炉情報に接近させることを認め、政府資金で二重目的炉の設計研究を行なわせることにした。デュ
算性の向上という利益をもたらし得ると考えた。かくて原子力委員会はこの提案を受けて民間企業による研究グルー
ポン、ユニオニカーバイド、GE、WHなどすでに原子力に深く関与している大企業を除いた企業二社ずつが協力し
て、新しい動力炉の可能性を探るための四グループが誕生しそれぞれ各グループで炉型の検討が行なわれた。やがて
これらのグループに参加する企業の数も増加し原子力発電機器製造の潜在力を持つ企業は一九五三年にはほぽ出つく
しここに原子力産業時代は到来し、同時に原子力委員会による原子力独占体制の修正、が迫られてきたのである。
当時すでに英国、フランス、ソ連以外の国汝でも原子炉を保有しまたは保有しつつあった。カナダは戦時中からの
実績もあり、発電用重水炉の開発を進めていた。戦時中から重水の供給国であり戦後はフランスから原子力情報を受
けていたノルウェーは、オランダと共同して天然ウラン重水研究炉を一九五一年六月完成させている。この重水炉は
一部を除いて殆んどオランダとの協力だけで製造されたもので、これは原子力に関する経験の少ない国でも比較的短
期間に原子炉を完成できることを立証し、米国の原子力機密化政策の効力に対する反証であったともみられる。この
事例はまた平和目的の国際協力としても最初の例であり、一九五一年のフランスとインド、フランスとスエーデンな
どの原子力協力協定とともに核兵器に係りを持たない新しい原子力研究の潮流を示してい︵妃。
力に推進したのは一九五三年四月の英国コールダーホール発電所建設計画である。英国のこの発表に刺激されて・原
このような国内および国外の情勢が発電炉情報の機密化を解除するカとなっていったのであるが、さらにこれを強
子力委員会は、発電炉開発を促進するためWHと海軍との間で契約されていた大型艦船用推進炉の設計を転用したシ
ッピングポート計画を開始した。
一橋大学研究年報 商学研究 24
一九五三年一〇月、原子力委員会は加圧水型原子炉PWRによる電気出力六万㎞の原子力発電所を建設する計画を
発表し、この計画に参加する企業を募集した。目的は電力生産システムに原子力が利用できるア︸とを実証することと
PWRの技術を実際の発電所という形で実証するための施設を提供することであった。
この計画には産業界から多くの関心が集った。電力会社は発電設備に資金を提供しそれを運転すること、また原子
力委員会の資金によって建設される原子炉から生産される蒸気を購入するという形式をとることになった。このPW
Rの圧力容器はルーケンス鉄鋼会社の素材にコンバッシ日ンエンジニアリングが加工を行なって製作した。炉心部は
W且、また二基の蒸気発生器はバブコック&ウィルコックスとフォスターウィラーが製作した。
この原子炉は、その後に設計、建設、運転された多くの軽水炉と異なり、炉心を二つの領域に区分したシード・ブ
ランケット炉心でシード部分には九三%の濃縮ウランを使用し、ブランケット部分には天然ウランを使用したもので
あ匙 ・
WHは先の原子力潜水艦用動力炉のためのマ;クー炉の実績を着実に発展させて、シッピングポート発電炉へとす
る必要があった。PWRは炉心で発生した熱を取り出す一次冷却水系とタービンヘ送るための蒸気を発生する二次冷
却水系とがありそれらは完全に分離されているので熱の有効利用には効率のよい熱交換器や加圧装置が必要となる。
しかし、このシッビングポート原子力発電所建設計画は米国の威信をかけたものであったから資金は国が全面的に支
出し、WHはただ技術面にだけ力を集中していけばよく、効率とか経済性は重要な事項ではなかった。また当時、加
圧水の技術は技術者にとってはすでに開発ずみで十分な知識を有していた。一九五七年一二月、シッピングポート原
子力発電所は発電を開始した。
このシッビングポート原子力発電所の建設計画は、それまで立遅れていた米国の原子力発電促進計画であり、軍拡
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原子力発電の発展
面からそれまで米国が踏襲してきた増殖炉線から軽水炉線への転換でもあった。
因 GEとBWR
アルゴンヌ国立研究所は潜水艦推進用の加圧水炉の研究を海軍と協力して続け、WHがその製作設計にとりかかる
段階までの実質的な開発を行なってきた。その間に加圧水型炉の概念をさらに単純化した沸騰水型の原子炉構想が生
まれた。加圧水型炉は熱交換器を通して蒸気を発生させる必要がある。当時、熱交換器の製作には高度の技術と相当
の日時を要しており、大型で原子炉用の熱交換器の製作となると特にそれらの点が問題となっていた。一方、沸騰水
型炉BWRは原子炉容器内で水を沸騰させ、直接に蒸気を発生させてタービンに送るので熱効率が高く、加圧水炉に
見られる熱交換器は不要となる。従ってそれに伴い二次冷却水系の循環ポンプも必要でないので系統が簡単になり、
また原子炉容器については、加圧水型炉の容器よりも圧力が比較的低くすむため、その製作上あるいは価格上PWR
より有利であるなどの利点を有している。アルゴンヌでPWRに取り組んでいた技術者がBWRの開発を考慮したの
は当然であった。しかし、一九五〇年代の初期の頃は、炉内で水を沸騰させれば気泡の発生や崩壊がおこり、このよ
うな状態の下では安定な核反応を実現させることが困難であるので原子炉内で水に沸騰をおこさせる原子炉の設計は
実際には不可能であると考えられ、また炉内で発生した蒸気を直接ターピンに導くのはその蒸気とともに放射性物質
が移動していく恐れがあるなどの多くの未知の問題点を抱えていたため、その開発は遅れていた。
初期のBWRの基礎実験はアルゴンヌ国立研究所の研究グループによってBORAXと名付けられて行なわれた。
この実験は動力炉の開発を目指す目標の下に、BWRの可能性と安全性の確認を最大の目的としたものであった。B
ORAXの当初の実験課題は、もし原子炉が安全装置の作動しない条件下で臨界以上に達したらどのような状態にな
17
一橋大学研究年報 商学研究 24
るかということであった。BORAXと呼ばれる小型原子炉による実験は第五次まで行なわれた。その中には実際に
アルゴンヌ国立研究所の技術グループは第三次までの実験結果を一九五五年八月にジュネーブで開かれた第一回原
原子炉から得られた蒸気をタービンに送り発電する実験、欠陥燃料を装荷して原子炉を運転し、タービンに対する影
パ ロ
響や冷却材としての水に対する影響などを調査する実験が行なわれている。
子力平和利用会議で発表し、その中でこの実験が新しい原子炉の開発の基礎となることを予言している。
GEは一九五四年の段階でBWRが発電炉として有望であることに着目し、ノルズ研究所の方向転換以後、それま
で開発してきたナトリウム冷却の潜水艦炉と航空機炉は技術的困難が多いため、原子炉の開発対象をBWRに選ぴ変
え、原子力発電への道を採ることになった。
㈹ 一九五四年原子力法
一九五三年五月、米国はそれまでの原子力開発方針である原子力委員会独占体制を緩和して、原子力委員会以外で
も原子力活動を認め原子力発電の開発を民間に移行させる意図を持った声明を発表した。声明は、一、原子炉の民間
所有と運転の承認、二、特殊核物質の民間所有または使用の承認、三、技術情報と特許の自由化という原子力委員会
の体制の本質に触れるものであった。
この声明の発表と同時に各産業参加グループの原子力発電の開発状況を発表し、高速増殖炉、均質炉、ナトリゥ
ム・黒鉛炉などの多種類の炉型が存在していることを公表した。
原子力発電に対する民間企業の関心の高まり、一九五二年一〇月の英国の原爆実験、一九五三年四月の英国コール
ダーホール原子力発電所建設計画、一九五三年八月のソ連の水爆成功など米国の核の独占が崩壊している状況の下で、
18
原子力発電の発展
一九五三年一二月アイゼンハウアー大統領は第八回国連総会で平和のための原子力という演説を行い、また一九五四
年二月には議会に国内向け特別教書を送り、原子力の平和利用を内外に示し米国の原子力政策を方向づけた。前者の
趣旨は、ソ連を含む主要関係国が、許容される範囲内でウランと核分裂性物質を全体の利益のために使用する目的で
国際原子力機関に提供し、それを各国に配分することによって原子力平和利用の世界的促進を図ろうとするものであ
った。これは核兵器開発競争の下で原子力の軍事利用が優先され、公開することが拒まれてきた原子力の研究開発を、
平和利用の分野にかぎって世界的に探究しようとするものであった。また後者ではその中において、﹁核兵器の使
用については機密情報がわれわれと連合している諸国にもっと容易に提供されるなら、原子力の有効性は増大するで
あろう。原子力の平和利用については友好国との協力拡大と米国の産業界の参加の増大でそれが一段と促進され、そ
︵7︶
の利益を広く実現することができる﹂と述ぺ米国の原子力政策の背景に政治的意味が含まれていることを示してい
るo
原子力に対する期待が高まるにつれて米国は自由世界に広範な原子力圏を作りあげる目的で一九五五年以降、カナ
ダ、インド、日本などと次々に二国間あるいは多国間の原子力機関と原子力協力協定を結ぴ、一九六〇年末までにそ
の数は四〇にも及んでいる。米国はかくて原子力の研究協力、ウラン供与を行ない、原子力の市揚を増大していった
のである。英国とソ連もこれにならい二国間協定を結んでいった。ここに米国、英国、ソ連、フランスなどの原子力
技術情報が公開されるようになり、原子力の平和利用は世界的に進展していったのである。
一九五四年三月、原子力委員会は、原子力発電振興のため在来火力と競合する可能性のある加圧水型、沸騰水型、
ナトリウム・黒鉛型、高速増殖型、均質型の五型式の発電所を建設するという非軍事用原子力発電五力年計画を発表
した。当時、これらの建設計画のうちPWRのみが海軍とWHとによって開発の進歩がみられていたにすぎなかった。
19
一橋大学研究年報 商学研究 24
原子力委員会によるこれらの炉の開発見通しは、二ないし三年以内に大規模実験を行なうことができ、設備として成
︵8︶
功する合理的な機会があるのは加圧水型とナトリウム・黒鉛型炉、五年以内に大規模実験が可能であるのは沸騰水型
炉で、均質炉と高速増殖炉は大規模実験までに五年以上かかるというものであった。産業参加グループによって開発
されつつあった三つの増殖炉のうちナトリウム・黒鉛型炉以外の均質炉と高速増殖炉は軽水炉に比してその開発見通
しは低いものと考えられた。
軽水炉のうちPWRについては既に記した通りである。一方のBWRは当時アルゴンヌ国立研究所の原子炉開発部
の技術者がBORAXIIの実験結果をまとめにかかっていた頃であって、まだその先の開発手順も明確になってい
なかった。
一九五三年五月の原子力委員会の声明の内容はやがて一九五四年八月の新原子力法に反映されていった。改正され
た新原子力法は、米国の民間企業が原子力開発に一層深い関心を抱くよう奨励すること、米国の同盟国に対してその
防衛に不可欠の軍事的原子力情報を譲渡できるということを目的とし、また議会の原子力合同委員会の同意を得れば、
核物質およぴ平和利用に関する情報を外国へ移転することを認めた。
一九四六年当時は、一、原子力について不明の点が多くあったことならぴに特殊核物質の取扱い、原子炉などの施
設の運転およびこれらに関連した安全性の問題についてほとんど経験がなかったこと、二、核兵器の原料として特殊
核物質を全面的に政府所有とすることは核兵器を米国のみが所有していた当時においては以後も長期的にこれを確保
する上で是非とも必要であったこと、三、一九四六年当時は、原子力の平和利用についての研究開発がまだ進展して
いなかったため、原子力利用における平和利用の占める位置はきわめて小さく、民間企業の原子力開発への参加を考
慮する必要は殆んど無かったことなどから特殊核物質の生産施設および利用施設ともに全面政府所有となった。しか
20
原子力発電の発展
しその後、米国における原子力の平和利用についての研究開発が進展し、原子炉などの施設の運転およぴこれらに関
連した安全性の問題についての経験が得られたので、原子炉などの施設の民間所有が認められることになった。しか
し特殊核物質については、その取扱いに関する種々の問題は次第に解明されはしたが、一九五四年当時においても、
特殊核物質はまだ供給不足なので戦時に備え、その全面政府所有を継続することになった。また核兵器の米国におけ
る独占が破られたことに関連し、特定国に対して、特殊核物質の供給、原子力平和利用に関する情報の提供などの協
︵9︶
カを行なうこととなったのである。
︹W 民間企業と原子力
しかし民間企業の参加を求めることは容易ではなかった。民間企業が原子力発電に投資することを促進するため政
府は多くの計画を実施することとなった。この計画の中には、政府資金による原子力発電の開発、実証計画、政府の
補助金による保険、原子力発電の事故の揚合の責任限定制度などがある。
一九五五年一月、原子力委員会はさきの動力炉開発五力年計画を動力炉実証計画へと拡大した。この計画は原子力
技術がまだ十分に実証されていないと考えられているため大量の資金を原子力開発に投入するのをためらっていた民
間企業に投資を促進させ同時に原子炉の商業的将来性を実証するため原子力委員会が政府の研究機関を動員して民間
原子力産業の発達に不可欠な問題の研究を行なうとともに今までよりも高度な原子炉の研究に資金を提供したり、炉
心製造の費用を支払い核燃料を無料で供給するというものであった。民間企業の原子力の将来性に対する関心ととも
にこのような政策も一つの刺激となって原子力発電所建設の気運が進展しその成果として遂に一九五七年一二月シッ
ビングポート原子力発電所が運転を開始するに至るのである。
21
一橋大学研究年報 商学研究 24
一九五四年の原子力法改正により民間企業に原子力の商業利用が開放されて間もなく、商業用原子力発電に対する
第三者責任︵天災以外で生じた損害に対して放射性物質使用者が負う責任︶の問題が民間企業の原子力発電計画への
投資の障害となっていることが明らかになってきた。原子力の危険性の評価について全く経験のない保険会社は原子
力を敬遠し、一回の事故の結果生ずる莫大な損害に対する第三者損害賠償保険の契約を結ぼうとはしなかった。また
電力会社や原子力機器メーカーなど産業側は適当な保険による保護が得られない以上、原子力開発は進められないと
考え、なんらかの方法による適切な財政的保護の措置がとられない場合、一回の事故によって生ずる賠償責任のため
企業が破産してしまうと警告した。原子力委員会は一九五六年、潜在的責任額の評価に必要なデータを得るための研
究をブルソクヘブン国立研究所で行ない、一九五七年三月、その研究結果を﹁大型原子力発電所における重大事故の
理論的可能性とそのもたらす結果﹂と題して議会に提出した。この研究によると、熱出力五〇万㎞の原子炉が大都市
から三〇マイル離れた場所で運転中に安全装置が故障し放射能を放出したと仮定するとこの大事故一回について三四
〇〇人の死者と、四三〇〇〇人の負傷者および七〇億ドルの財産損害をもたらすという結論が得られた。ア︶のため民
間企業は大事故に伴なう多額の損害賠償請求に直面しなければならないのなら商業的な原子力事業に参加できないこ
とを明らかにした。社会に対する貴任負担の危険を冒すことなく民間企業を原子力に参加させる何らかの方法を見つ
けないと、原子力に対する民間企業の関心が無くなってしまうことが明らかになった。
このような懸念に応えて合同原子力委員会は一九五七年、原子力発電所の事故によって生ずる損害に対する総責任
額を五億六〇〇〇万ドルと限定するとともに、民間の保険業者が支払う額を超える分については、政府が補助金を五
億ドルまで支出するという内容のプライス・アンダーソン法を起草し議会を通過させた。.︶の法律は、原子力発電所
の事故の際の公衆への補償を容易にし、また商業用原子力発電所で大事故があった揚合に生ずる責任負担のため破産
原子力発電の発展
︵加︶
するかも知れないという民間企業の不安を緩和したのである。
この法律の内容は次のようなものである。一、原子力委員会は、認可を受ける企業︵電力会社︶に対して原子力発
電所認可の条件として、保険会社が受け入れる最高額の保険をかけるよう要求する︵制定当時の最高額は六〇〇〇万
ドルで、企業は.一れに相当する保険料を払い込む︶。二、原子力委員会は認可を受けた企業との間に、この民間保険
のほかに、五億ドルの範囲内で賠償する契約を結ぶ。この賠償の対象には、認可取得企業だけでなく、認可された原
子力発電所の事故によって損害を受ける個人も含まれる。三、民間保険と政府責任保険の合計五億六〇〇〇万ドルは、
公衆に対する可能な責任負担を示し、被保険者の法律上の責任限度を示すものとする。四、原子力施設自体の損害に
は、この五億六〇〇〇万ドルからは支払われず、施設所有者の自己負担あるいは別の民間保険によって支払われるも
のとするとしたものであった。
一九五五年一月、原子力委員会による動力炉実証計画が発表され、原子力発電促進のために原子力発電を建設しよ
うとする電力会社に財政援助を行なうようになると、その意図に応えて電力会社から原子力発電所建設の提案が出さ
れるようになり、民間企業の原子力発電に対する関心は高まった。BWRについては、実験用沸騰水型発電炉EBW
Rには予算がつき、一九五五年五月、アルゴンヌ国立研究所でその建設が始まった。EBWRの設計と炉心の製作は
アルゴンヌ国立研究所の原子力工学部が担当した。原子炉容器はバブコソク&ウィルコックスが、またタービン発電
機やポンプその他の機器はアリスチャーマーズが製作を行なった。この原子炉は一九五六年一二月に臨界に達した。
㈹ GEと原子力発電
これとは別にGEは独自のBWRを建設する計画を急いで固めていた。
23
一橋大学研究年報 商学研究 24
シカゴを地元とするコモンウェルスエジソンは、アルゴンヌ国立研究所の研究開発の進展に関心を寄せており、特
に新しい動力炉の開発を目指したBORAXの一連の実験から、経済的な大型の原子力発電所の可能性を確信するよ
うになっていた。一九五五年三月、コモンウェルスエジソンを始めとする電力七社とエンジニアリング会社のベクテ
ルの合計八社の連合したグループであるニュークリァパワーグループが、原子力委員会の計画に沿って一八万㎞のB
WRによる原子力発電所︵後のドレスデン原子力発電所︶の建設を提案した。GEとコモンウェルスエジソンとの間
でこのBWRの建設に関する契約交渉の折、GEはこの実用規模のBWRを完成させるためには小型の実証炉を独自
に建設して経験を蓄積しておく必要を感じ、一九五五年の暮にその設計に着手した。この炉の建設許可は一九五六年
六月に得られ、自己資金で、施設全体は約一年で完成、一九五七年八月に臨界に達した。同年一〇月に原子炉およぴ
発電設備とも全力運転に成功し、生産された電力は電力網にのせられた。これはシッピングポートのPWRより五カ
月早く、アルゴンヌのEBWRより約八ヵ月遅かった。この原子炉は運転実績が良好で、炉の性能の優秀さが確認さ
れた一方、技術者の訓練用として、GEのみならずニュークリアパワーグループの技術者の養成、将来ドレスデン原
子力発電所で管理的地位を占める予定の技術者の訓練、BWRの市揚拡大に備えた運転要員の育成に役立った。
この間の一九五六年五月にコモンウェルスエジソン社にBWR原子力発電所建設の許可がおりた。GEはこの段階
でベクテルと共同で政府の補助なしに一八万㎞のBWRの設計と建設を行なうことになり、一九五九年一〇月には最
初の実用規模のBWR型発電所であるドレスデン原子力発電所が臨界誕生した。さらに一九六〇年八月、三番目の原
子力発電所ヤンキi・ウがWHにより、一九六二年八月にはインディアンポイント原子力発電所がバブコック&ウィ
ルコックスにより、同九月にビッグ・ックポイント原子力発電所がGEにより、また一九六三年二月フンボルトベイ
原子力発電所がGEによりそれぞれ臨界に達した。
24
原子力発電の発展
一九六五年初めまでに米国では一六発電所、約一〇九万㎞が運転に入っている。このうち軽水炉はPWR四基五四
万㎞、BWR七基四三万㎞、その他の炉型は五基一一万㎞で、軽水炉が圧倒的に多かった。しかし単基容量はたかだ
か二〇万㎞程度であった。
ω その他の原子炉
動力炉開発初期にはいくつかの原子炉が考えられていた。しかしながら炭酸ガス冷却炉や軽水冷却炉の開発が進み、
当初考えられていた問題点が克服され実用化が進んでくるとそれ以外の炉型の開発は種々の理由から意義がうすれて
しまった。例えば、液体金属冷却炉はGEによりそれまでに海軍艦船用に陸上原型炉SIGと第二号原子力潜水艦シ
ーウルフに建造された。シーウルフは一九五八年一二月までに七一六二海里を航行したがナトリウム技術を十分習
得しきれず洩れをおこし、海軍に採用されなかった。また、発電用の原子炉として研究が進められていたナトリウム
冷却黒鉛減速型の実験炉と原型炉はそれぞれ一九五五年と一九五八年に着工され、一九五七年と一九六二年に臨界に
達したが、この炉は単に伝熱特性の良さだけに着目して採用されただけなのでそれ以上の進展はみられなかった。さ
らに高速増殖炉の揚合は、中性子に対して減速性のある軽水や重水が使用できず、かつ熱中性子炉に比べて出力密度
が非常に大きくなるので、水以外の伝熱特性の良い冷却材が必要で液体金属がそれに用いられるが、この炉は他の面
で技術的困難がありその研究が進められている状態である。有機材炉は、低圧で高温化が可能であり、炭化ウランの
ように密度が高く熱伝導率のよい燃料に対する冷却に適しており、発電コストは軽水炉や重水炉に比べて安くなると
言われているが、有機材冷却という新技術の開発には多くの問題点が予測され、単に発電コストが他の原子炉に較べ
て優位にたっているだけにすぎないので、開発に進展がみられなかった。結局米国で有機材炉で発電用として運転さ
25
一橋大学研究年報 商学研究 24
れたのはピッカー原子力発電所のみで、それも一九六三年に運転を開始したものの一九六八年には運転を停止し、そ
の後は有機材炉の建設計画はない。また燃料の再処理を考慮してその合理化を目指した均質炉の開発は、その着想自
身は良かったのであるが多くの技術的問題に遭遇し、水均質炉は原型炉段階で中止され、溶融塩炉は実験炉段階に留
まっている。
︵11︶
三 軽水炉による原子力発電の発展
O 原子力発電コスト
第二次大戦後、サウジァラビァの油田開発促進のため、エクソンとモーピルとがアラムコに参加することを前提と
して、テキサコはヨi・ッパの販売施設を一九三六年に設立されたソーカルとテキサコ両者共有の販売会社カルテッ
クスに売り渡し、スエズ以西のテキサコの市揚をアラムコに提供した。ここに関係四メジャーによるサウジァラビア
の原油の生産と販売体制が確立された。クエート原油は一九四六年から本格的な輸出が開始された。ガルフとシェル
の間ではこのクエート原油を、またBPとエクソンおよぴモービルとの間ではクエートおよびイラン原油をそれぞれ
二〇年間長期売買する契約が締結された。これら一連の動きは販売力の強いシェル、エクソン、モービルが原油過剰
で販売先を探していたBP、テキサコ、ガルフと競争をしないで相互にその弱点を補完し合ったものである。またイ
ラン原油は、一九五一年モサデグによる国有化騒動後、一九五四年、八大メジャーにより結成されたコンソーシアム
の共同所有になった。このようにして、サウジァラピア、クエート、イランを中心とする中東原油の供給体制はほぼ
完全にメジャーの支配下におかれることになったのである。
当時石油製品販売価格については、戦前から確立されていたガルフコースト基準地点制度に基づく価格方式が世界
26
原子力発電の発展
のどの地点でも採用されていたが、原油価格については、戦後、ガルフコーストに加えてペルシァ湾が新たな基準地
点として設定されたため、ここに二重基準地点制度によってその価格が決定されることとなり、均等化地点は中東原
油の価格低下とともに西に移動し、一九四五年には均等化地点は地中海中央部であったのが一九四九年にはニューヨ
ークにまで達した。かくて中東原油は西ヨーロッパから米国にまで販売できるようになっていった。第二次大戦後ヨ
ー・ッパ経済復興を目ざすマーシャルプランの下で、西ヨー・ッパの精製能力拡大とこの価格制度とが調和しヨーロ
ッパで確立した消費地精製方式を通じて、中東の原油はヨーロッパで消費されていった。
豊富で安い中東原油は、一九五〇年の朝鮮動乱、一九五一年のイラン石油国有化、一九五六年のスェズ動乱等によ
り供給過剰の危険が表面化されずにすんでいたが、一九五〇年代末になると遂に次のような過程を経て石油の供給過
剰が顕在化しその価格は低下していった。
一九五六年のスエズ動乱は、メジャーに対して平常時においても石油輸送力増強のために、タンカーの大型化を図
ることや石油供給地域の分散化が必要であることを痛感させた。そのため後者に関する対策として、リビァ、アルジ
ェリァなど北アフリカの石油資源開発が推進されていった。一方、主要石油消費国、とくに西ヨーロッパ諸国にとっ
ては中東石油への依存度が非常に高いこと、およびスエズ動乱において石油の緊急供給がメジャーによって行なわれ
たことから、国が石油事業に参加するか、石油産業に対して政府が規制を増大することなどのエネルギー政策を検討
し始める契機をつくることになった。
かくて、この時期はリビア、アルジェリア、ベネズエラで原油開発が進み、またソ連では第ニバクー油田が開発さ
れていた。一方、採油技術は進歩し、油井当りの産油量は増加し、石油供給地域の分散化と相俊って石油供給の安定
度は増加した。各地における石油の増産による過剰産油の累積、米国を中心とする独立系企業と後進消費国の国家資
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一橋大学研究年報 商学研究 24
本系企業の新規進出、ソ連石油の輸出増大、自国石油産業保護のための米国の強制的輸入制限の実施等により遂に石
油過剰は顕在化し、石油輸送費は大型タンカー、パイプラインなどの輸送技術の向上によって低下していった。石油
価格もその影響を受け低下して、ここに原油価格の値引きが普通にみられるようになったのである。
かくてエネルギー需給は緩和し、安い石油は発電の分野にも進出していった。
火力発電コストは一九五五年当時、エネルギー需給の逼迫を反映してエネルギー価格が上昇するため、それにつれ
て上昇すると考えられていたが、実際はこの予想と異なり、技術進歩によって発電容量の大きい火力発電所が建設で
きるようになり発電所の建設単価が低下したことおよび火力発電所における熱効率の向上による燃料消費量の減少、
エネルギー需給の緩和による燃料価格の低下とによって火力発電の燃料コストは著しく低下して行き、当時の火力発
ユ
電コストは祠当り米国で六∼七ミル︵二・一六円∼二・五二円︶英国で○・五ペンス︵二・一〇円︶となっていた。
一方、原子力発電については、一九五五年の第一回原子力平和利用会議当時の予想では、原子力発電はまだ発足し
たばかりであるからその発電コストは在来火力発電に比して高いが、将来は技術進歩によって低下し競合可能時期は
比較的早く到来するであろうと考えられていた。当時はまだ商業用原子力発電所の建設、運転の経験は殆んど無く、
この考えは実績を持たない理論的な計算に基づくものであった。
原子力発電コストの低下も火力発電の揚合と同様に容量の大型化、技術進歩に伴なう効率上昇、核燃料費の低下な
どによってもたらされていった。最初の商業用原子力発電所である英国のバークレー︵一九五七年一月着工、一九六
二年一一月営業運転開始、正味出力二七・六万㎞︶の建設単価はキ・ワット当り一八五ポンド︵約一九万円︶であった
が、サイズウェル︵一九六一年着工、一九六六年三月営業運転開始、正味出力五八万㎞︶ではキ・ワット当り建設単
︵12︶
価は一〇七ポンド︵約一〇・八万円︶となり四年間に建設単価が約四〇%低下した。
28
原子力発電の発展
米国においても、英国と同様に、シッビングポート︵一九五七年一二月運転開始、正味出力六万㎞︶のキ・ワット
当りの建設単価一二二〇ドルは別として、その後建設されたヤンキー︵一九五七年着工、一九六一年七月営業運転開
始、正味出力一七・五万㎞Yのキ・ワット当り建設単価は二二三ドル︵約八万円︶であり、ドレスデン︵一九五七年
三月着工、一九六〇年一〇月営業運転開始、正味出力二〇万㎞︶の建設単価は二五五ドル︵約九二芳円︶となるとみ
ら毯 ・
一九五〇年代におけるウラン価格は比較的高い水準を保っていた。東西冷戦を背景に膨大な軍需を満たすため、米
国、英国などでは政府自ら積極的にウラン開発活動を行なうとともに、その同盟国や民間のウラン資源開発に財政援
助、技術援助を惜しまなかった。例えぱ、米国原子力委員会では、ウラン探鉱、採掘、精錬などを原子力委員会が管
理し、民間企業の積極的な開発を進めるために投下資本を援助したり、減税措置をとったり、ウラン鉱石を買い上げ
るなどの方法を採用した。このため一九四〇年代末頃から一九五〇年代に入ると、コロラド州のほか、ニューメキシ
コ州やワイオ、、、ング州でカーマギー、アライドケ、・・カルなどの大手企業の外に中小企業がウランの探鉱開発に乗り出
した。こうして、米国国内のウラン生産量は増加していったが一九五六年頃にはすでに生産過剰となり、一九五八年
には、国内での買い付けを縮小した。加えてカナダ、南アフリカとの間の買付協定の更新を中止するなどの措置をと
った。一九六〇年代に入ると、冷戦の緩和、核軍縮の国際情勢の変化の中でウランの需要は急速に落ち込み始めた。
米国はそれに呼応してその買入れ価格を一ポンド当り八・ニドル︵一九六〇∼一九六四年平均︶から七・八ドル︵一九六
︵⑭︶
五ヒ一九六九年平均︶と漸次下げていった。
原子力発電の発電コストの低下は上述のように、単基容量の大型化による建設単価の低下、技術進歩による効率の
向上、核燃料費の低下などからもたらされたが、まだ技術的に解決すべき間題は残されており、原子力発電の安全性
29
一橋大学研究年報 商学研究 24
確保に応えるための費用増加もあったため、バークレーの発電コストは一.二七ペンス︵五.三三円︶/㎞サイズウェ
その発電コストは低下し、ヤンキー原子力発電所のコストは九.九三、、、ル︵三.五七円︶/㎞、ドレスデンでは九.O
ルでは○・七ペンス︵二・九四円︶/曲であった。一方、火力発電に石炭を使用している発電所が多い米国では、原子
力発電は石炭価格の高い地域で石炭火力発電と競合可能であるとしてその開発が進められ、ここでも同様な理由から
三ミル︵三・二四円︶/Wであった。
このように原子力発電の発電コストは低下していったが、それ以上に火力発電コストも低下したため遂に原子力発
電は在来火力発電と競合し得るまでには至らなかった。従ってその当時の立地点は産業地から遠いか、あるいは火力
資源に乏しいという理由から在来エネルギー価格の高い地域、例えば米国の東北部、カリフォルニァ地域、英国の南
東部、南西部などに限られていた。
⑭ 原子力発電の発展と原子炉間の競合
英国は戦後増大するエネルギー需要に対して、これを充足すぺき石炭の供給力の先行き不安とその価格上昇、石油
の対外依存の不安定と依存による国際収支の赤字増加、水力資源の不足、などから原子力発電を早期に開発すること
が必要と考えられ各国に先がけて早くから原子力発電の開発を進めていた。この時期は原子力発電の技術開発に意義
があったのであり、従って前述のように、経済的には在来火力よりも劣っていた。
英国における一九五五年から一九六五年までの第一期原子力発電計画は、コールダーホール第一号原子力発電所の
成功やスエズ動乱によって一九五七年一挙に三倍にまで拡大されたが、その後エネルギー情勢の変化により、石炭の
供給は十分となり、その供給見通しも改善され、石油購入先は十分分散され燃料供給事情を理由として原子力発電の
30
原子力発電の発展
増加を早める必要はなくなり、石炭火力ならぴに重油火力発電は予想以上の技術進歩と燃料費の改善により発電コス
トは引き下げられたため、原子力発電計画の期限は延期されるに至った。しかし、英国の開発政策自体は変更されず
その計画は着々と実現 さ れ て い っ た 。
米国においても、一九五四年から一九五七年にかけて急成長した原子力発電に対して、原子力発電は長期的にみれ
ば商業的に可能であり経済的に競争できるという考えを持ったが、現状は一九六〇年のマッキニー第二次報告にみら
れるごとく﹁今日の原子力発電は米国でも他の国でもまだ商業的に競争可能ではない。競争に勝つには原子力発電は
在来発電よりも低コストであるか、またはコスト上の不利を償うに足る別の利点がなければならなかった﹂し、また
﹁原子力技術は、安定あるいは低下傾向にある在来燃料を使用する火力発電と競争して原子力発電コストを低下させ
るほど十分且急速な進歩はなかった﹂状況であった。
原子力発電はここで従来の使命であったエネルギーの量的不足を補う目的から在来エネルギーとの価格競争に打勝
たなければならなくなってきた。
このため各国では、原子力開発政策を明確化し、開発態勢の整備を行ない経済的な原子力発電を目指して着実な研
究開発を推進していっ た の で あ る 。
マグノックス炉を主とする一連のガス冷却型動力炉の基となったのは英国が一九五〇年にウィンズケールで運転を
開始したプルトニウム生産炉であった。この原子炉は黒鉛減速材中に水平に装置された燃料チャネルを持ち、チャネ
ル中に天然ウラン金属をアル、・二一ウムで被覆して燃料として挿入し、チャネルを通る大気圧の空気で炉を冷却するも
のであった。
この構想から出発した動力炉の最初のものは英国のコールダーホールに建設されたプルトニウム生産・発電両用炉
31
一橋大学研究年報 商学研究 24
32
で、この揚合には黒鉛減速材中の燃料チャネルは垂直になり、天然ウラン金属燃料の被覆はマグノックスと呼ばれる
マグネシウム合金に変更され、炉の冷却材としては加圧炭酸ガスが使用された。最初のコールダーホール原子炉は熱
出力一八㎞、電気出力四二一万㎞で一九五六年に運転が開始されている。この型式の有用性を認めた英国は一九五八
年末までに全く同一の原子炉をコールダーホールに三基追加建設し、さらにこれに引続いてチャペルク・スに全く同
一の炉四基を一九五九年末までに建設した。これら合計八基の原子炉は運転経験が蓄積するにつれて一基当りの出力
も上昇していった。
一方、コールダーホール原子炉を純発電用に設計改良した商業規模の原子力発電所として、英国のブラッドウェル
万㎞二基︶と同じくバークレー︵一三・八万㎞二基︶がいずれも一九六一年に運転を開始した。それ以後、一
マグノックス炉の開発の過程で遭遇した技術上の問題のうち大きなものとしては金属ウラン燃料棒の照射挙動、黒
くる規模の限界がはずされることとなった。またウィルファでは原子炉一基当りの電気出力は五〇万㎞に達している。
用された。このコンクリート容器の採用により従来の鋼製容器に課されていた鋼板の厚さと現揚での溶接の制約から
した。またガス圧の上昇からオールドベリ、ウィルファでは圧力容器としてプレストレスト・コンクリート容器が使
増加に成功して、出力増大に伴う炉の所要容積を相対的に小さくし、原子炉とその付属機器の製作費を下げるのに成功
を上昇させて冷却材の循環を早め、炉内で発生したエネルギーを効果的に取り出し、またウラン単位重量当りの出力の
これら一連のマグノックス炉は、建設・運転の経験を通じて改良された。単基容量の増加に伴って冷却ガスの圧力
して い た 。
㎞︶とイタリアのラチナ発電所︵二〇万㎞︶を加えるとこの当時では単一の炉型としては最も多くの運転経験を蓄積
九六八年までに合計九地点に一八基の原子炉が建設され、これに英国外で建設された日本の東海発電所︵一六・六万
(一
原子力発電の発展
鉛減速材のウィグナー.エネルギーの蓄積とウィグナー変形、黒鉛と炭酸ガスとの照射下での反応による黒鉛の質量
移行、燃料温度測定装置の絶縁低下、負荷時燃料取替装置の運転上の信頼度などがあったがこれらはいずれも建設開
始後の設計変更運転経験を加味した装置の改造などによって解決がはかられた。
マグノックス炉を使用した最も新しい原子力発電所であるウィルファ原子力発電所における燃料装荷量は五九五t、
目標燃焼度は三六〇〇MWD/t、発電所熱効率は三一・四四%で蒸気は貫流型ボイラで発生され、蒸気タービン四
基へ送られる。これはほぼその極限まで開発されたマグノックス炉の例である。
この炉型には原子炉構想自身からくる限界がある。マグノックス炉の基本構想は、天然ウランと黒鉛との組合せか
ら出発している。従ってこの基本構想から離れない限り、最も密度の高い核燃料である金属ウランと、中性子吸収断
面積のできるだけ小さい被覆材としてのマグネシウム合金とが必然的に使用されることになり、その結果、金属ウラ
ンの変態点からくる六六〇度Cの使用温度限界と、マグネシウムの発火点である約六二〇度Cの使用温度限界が、蒸
気温度の上限と出力密度の最大値とを制限し、後者の制限から炉心の寸法はどうしても大きなものとなってくる。
マグノックス炉で開発されたガス冷却型発電炉の技術を最大限に利用し、しかも上記の制限から逃れようとして開
発を進めた結果到達したのはAGRである。これは濃縮ウランの二酸化ペレットをステンレス鋼で被覆した燃料棒三
六ないし六〇本の燃料集合体を作り、黒鉛減速材中の垂直燃料チャネルに挿入し加圧炭酸ガスで冷却するものであっ
て、この方式の原型炉は一九六二年八月に英国のウィンズケールで運転を開始している。ウィンズケールAGRの設
計.建設およぴ運転経験から商業規模発電所として計画された最初のものはダンジネスB発電所︵電気出力六〇万㎞
二基︶で、引き続いてヒンクレーポイントB、ハンターストンBの建設が開始されていった。
これらの発電所はいずれも六〇万㎞級のAGR二基を備えたもので、例えぱヒンクレーポイントB発電所の主要バ
33
一橋大学研究年報 商学研究 24
ラメーターは、炭酸ガスについて、圧力四三㎏/㎡、温度六五四度C、蒸気条件について、圧力一六二・八㎏/㎡、
温度五三八度C、燃料装荷量一二二・五t、目標燃焼度一〇〇〇〇MWD/t、原子炉熱出力一五〇万㎞、電気出力
六二・五万㎞、発電所熱効率四一・七%で、貫流型ボイラで五三八度Cの再熱サイクルを用い、原子炉一基にタービ
︵15︶
ン一基を組み合わせたユニット方式の採用で、一般の新鋭火力発電所と差異のない条件を備えている。
米国が核エネルギーを軍事利用に向けて開発している時、英国は発電用原子炉の研究開発を進め、コールダーホー
ル、チャペルク・ス、バークレi、ブラッドウェルなどで順次発電を行なった。
この頃までに実働していた米国における軽水炉はわずかに一九五七年のシッビングポート、一九六〇年のドレスデ
ンー、一九六一年のヤンキーなど数える程でしかなく、大幅な経験が集積されていたとは言えなかった。またその発
電コストは火力発電の水準をかなり上回っていた。
米国は国内に石炭、石油、天然ガスという豊富なエネルギi資源が存在しているので、原子力発電を早期に開発す
る必要性は少なかった。従って初期の原子力政策は、最も先端的な分野である原子力で世界をリードし、それと共に
原子力産業の海外市場進出を図ることであり、従って多種類の原子炉型式を総花的に採りあげて競争的に開発を進め、
そこから最適の炉型を見出すというものであった。
一九五五年から一九五八年にかけての原子力発電ブームが過ぎると地道な再検討の時代が来た。従来の総花的な開
発政策の見直しとして一九五九年一月米国原子力委員会は﹁原子炉政策とその計画﹂についての委託調査報告書︵タ
マ・・スマイス報告︶を発表した。この報告の要旨は、原子力の平和利用技術での米国の指導的地位を保持し、原子
力発電は高エネルギーコストの友好国で七∼八年以内に、また米国内の一部高エネルギー価格地帯︵七・五∼九・五
ミル/W︶では一〇年以内に採算がとれるようにし、さらに二〇∼三〇年で大幅なコスト低下をもたらすことなどを
k
34
原子力発電の発展
O
目標にするというものであった。この目標を具体化したものが一九五九年一一月ピットマン米原子力委員会原子炉開
発部長の発表した一〇力年非軍事用動力炉計画で、その中で従来の総花的な開発政策を放棄して重点的な開発方針に
転じ、それまでの研究開発の成果の上にたって現在十分な技術的基礎と将来性とをもっているとみられる加圧水型軽
水炉、沸騰水型軽水炉、ナトリウム・黒鉛炉、重水減速有機材炉、スペクトル移行炉、高温ガス炉、高速増殖炉の七つ
点
を
集
中
し
、
約
一
〇
年
以 二
・
五
二
∼
二
・
八
八
円
︶ の 炉 型 と 核 過 熱 に 研 究 開 発 の重
内 に 発 電 コ ス ト を 七 ∼ 八 ミ ル︵
/ wに
低下させること、またこの目的達成に必要な研究開発および研究炉、実験炉建設のための予算一七一〇万ドルを要求
し、研究開発の促進を図り、技術的な進歩改良によって原子力発電コストを目標通り低下させることを述ぺている。
当時民間電力会社によって開発された実用規模の原子力発電所としては、一九五七年に運転を開始したシッピング
ポート︵加圧水型︶の外、一九六〇年に発電を開始したヤンキi︵加圧水型︶、ドレスデンー︵沸騰水型︶があった。
次いで一九六二年にはインディアンポイント︵加圧水型︶、一九六三年にはフンボルト・ベイ︵沸騰水型︶が臨界に
達した。これらの原子炉は軽水炉であって実用化において軽水炉は他の原子炉よりも一歩進んでいた。しかし原子力
発電開発の速度は決して早いものとは言えなかった。
前記の原子力発電所は、原子力委員会所有のシソピングポート原子力発電所を除いて民間会社が所有していたが、
これらはいずれも米国政府の財政的援助によって進められたものであり、原子力発電の技術的な実証は得られたが経
済性の面では在来火力発電と競合できるまでには至っていなかった。米国には豊富にエネルギー資源が存在し、在来
火力発電によって低廉な発電コストが実現されていた上、電力事業は多数の民間企業によって行なわれているため発
電所建設に際しては特に経済性の観点が考慮されていたからである。
一九六二年三月、ケネディ大統領はこのような原子力発電の開発状況に鑑み、原子力委員会に原子力発電の開発を
35
一橋大学研究年報 商学研究 24
振興するため、米国経済における原子力発電の役割を検討するよう要求した。これに応えて同年一一月、原子力委員
会はケネディ大統領に非軍事用原子力発電に関する報告書を提出した。その内容は、原子力発電は今後のエネルギー
需要増加に対処するためには不可欠なものでその開発を積極的に推進することが必要であり、このための政府の役割
りを明確化すること、軽水炉の経済性は現在も競合力があるので、この炉型の建設により経済的な原子力発電を実際
に示すとともに、核燃料の有効利用度の高い改良型転換炉および最終目標として増殖炉を開発することが長期的な観
点から必要な開発目標であること、強力な国内原子力発電計画と海外諸国との適切な協力援助によって世界における
米国の技術的指導権を保持すべきこと、原子力産業を早期に確立する必要があること、核燃料物質の民有化、使用済
燃料再処理の民間移行などの方針を述べて、民営の原則を完成する態度を明らかにしたものであった。
この当時の原勇書の発電コスー竺o万鍍のもので九1・−ル/聖あり、一方五・万犠の大容量葉
炉原子力発電の揚合では技術的進歩などを考慮に入れると六∼六.五、、、ル/㎞程度と見積もられていた。この価絡
は、化石燃料の価格が一〇〇万BTU当り三〇∼三五セント︵一〇〇〇キ・カ・リー当り○.四三∼○.五〇円︶以上の
高エネルギー価格地域においては、在来火力と競合可能であるとみられ、このため高エネルギi価格地域の電力会社
はその地域における化石燃料の価格、経済的水力資源の有無、などの諸条件を考慮した上経済的判断の下に原子力発
電を計画しようとする動きが生じていた。
原子力発電の開発に関する政府の政策の明確化と技術開発の進歩により、原子力発電は漸く実用化段階に入り、将
来の見通しが明るくなったのである。この頃から軽水炉による五〇万㎞級の大容量商業原子力発電所の建設計画が発
表され、その最初のものが一九六四年に発表されたジャージイセントラル社のオイスタークリーク発電所計画であっ
た。
0
36
原子力発電の発展
原子力委員会は一九六二年末の報告において、五〇万㎞級の軽水型原子力発電所は資本費率一四%、稼働率八○%
という前提で、一九七〇年代には発電コスト五.三、、、ル/㎞、建設単価一五六ドル/㎞、一九八○年代には発電コス
ト三.八、、、ル/㎞、建設単価一二五ドル/㎞となるであろうという予想を示し、また石炭火力との競争では一九六七
年前後で一〇〇万BTU当り三三∼三九セント、一九七五年前後で二〇∼二四セント、一九八○年前後で一七∼一九
セントの石炭を利用する揚合を目標としている。
ジャージーセントラルはフィラデルフィァ市の東六〇マイルのオイスタークリークに五〇万㎞の原子力発電所を一
九六七年実働の予定で設置する計画をたて一九六三年五月に入札公募し同年末までに評価作業を続けた。この原子力
発電の採否は、西ペンシルバニァ産炭地で一〇〇万BTU当り一七セント︵一〇〇〇キ・カ・リー当り○・二四五円︶と
いう安い石炭を使用する六〇万㎞山元火力発電所と、原子力発電所と同一地点で一〇〇万BTU当り二六セント︵一
〇〇〇キロカロリー当り○.三七四円︶の石炭を入手できる六〇万㎞火力発電所の二つの発電所と対比して決めるという
方式を採り検討した結果、一二月にGEのBWRによる原子力発電所を建設することになった。
って一〇〇万BTU当り二六セントの価格で石炭の供給が可能であるとしてその長期契約を申し入れてきた。同社は
ジャージーセントラルが原子力発電所設置の検討を始めると、石炭業者は山元から発電所までの専用貨車輸送によ
一九六二年までは一〇〇万BTU当り三四セントの石炭を購入していたが、一九六三年末にはその価格は一〇〇万B
TU当り二九・五セントまでに低下していた。そこで発電所の経済性の評価を行なうにあたって、オイスタークリー
クの地点に一〇〇万BTU当り二六セントの石炭火力発電所をおき、さらに西ペンシルパニァ州の産炭地に一〇〇万
BTU当り一七セントという安い石炭を利用する山元発電所を考え、それぞれ六〇万㎞の火力発電所を一九六七年に
運転を開始するという設定で原子力発電所と比較することにした。なお、この火力発電所の性能と建設単価について
37
一橋大学研究年報 商学研究 24
はニユニットによる一八○万㎞の出力を持ち、一号ユニットは一九六七年に、また二号ユニットは一九六八年に実働
予定で建設単価は九三ドル/㎞と見込まれていた。一方、原子力発電所については、GEの提案した間接サイクルB
WRとし、設計出力五一・五万㎞、中間出力五六・五万㎞、およぴ期待しうる最大出力六二万㎞の三例について算定
することとした。
火力発電所を西ペンシルバニアとオイスタークリークに建設する揚合はそれぞれ建設単価は一〇五ドル/㎞と一一
〇ドル/㎞で、原子力発電所の揚合は設計出力で一三ニドル/㎞、最大出力で一一〇ドル/㎞と算出された。GEの
契約価格である六〇〇〇万ドルに、同社の負担すぺき設計変更、建設中利子、土地代、予備費などを含めた総投資額
は六八○○万ドルであった。なお山元火力については三〇〇マイルの送電線の新設費用を三〇ドル/㎞として加算し
ており、直接建設費の差は両州の労賃の開きを反映している。
発電コストの算定に用いた前提は、同社の経理基準に基づいており、固定費率は外部負債︵利子四二一五%︶と株
式︵収益率一〇%︶を六三対三七の割合で行なう資金調達による平均金利六・三七七五%とくりのぺ払いによる諸税
負担四・OO八%との和の一〇・三九%で償却は三〇年の定額法をとっている。また原子力発電の核燃料費について
は、一九七三年央までは現行通りの原子力委員会による管理制度がとられ、四・七五%の賃借料を、またその後は民
有制に移行するものとし平均金利六・三七七五%を適用している。設備利用率は、発電所の耐用年数を三〇年とし、
それを五年ごとに六区分した上で、それぞれの区分ごとに設定した数値を用いた。発電コストの計算は現在価値換算
法によっている。
評価作業の結果は、原子力発電所の最大出力︵六二万㎞︶による発電コストは三.五〇、、、ル/㎞と試算され、ほぽ
同一容量の火力発電所が産炭地で一〇〇万BTU当り一七セントの石炭を使用すると仮定したときの発電コスト三.
38
原子力発電の発展
八六ミル/Wおよぴ原子力発電所と同一地点で一〇〇万BTU当り二七セントの石炭を使用するときの発電コスト
k h
四.一八、、、ル/㎞のいずれよりも下回っていた。またその直接建設単価は㎞当り一一〇ドル、間接建設単価を合わせ
て一二七ドルで、火力の前者の一〇五ドルおよぴ一四〇ドル、後者の一一〇ドルおよぴ一一八ドルと拮抗していた。
カ
オイスタークリーク原子力発電所の発電コスト三・五〇ミル/Wは石炭価格が一〇〇万BTU当り二〇セントの火
k
力発電コストを下回っているとみられ、米国内の電力用炭の平均価格は当時一〇〇万BTU当り二六セントと言われ
たので、この原子力発電所が示した発電コストは一九六七年の時点で米国内の広範な地域で石炭火力との競合に優る
ことを明らかにし、一方また原子力委員会が先の報告で示した一九七五年以降の設定目標をすでに突破したことを示
した の で あ る 。
かくてジャージーセントラルはオイスタークリークに建設する原子力発電所をGEに発注し一九六五年に着工した。
このオイスタークリーク原子力発電所は軽水炉の設計を規絡化し、大型化することによってそれまでに開発されてい
たヤンキー、ドレスデン両発電所に比して建設単価およぴ発電コストを約半分に低下させ経済性が著しく改善された
ことを社会に強く認識させその反響は非常に大きく一方ではBWRの地位を強く認識させるのに役立ったのである。
しかし一方において、この発電コストの低さについての疑問が出され、議会でも間題となった。スポーンは一九六
四年の上下両院合同委員会で、オイスタークリークの発電コストについて問題点のあることを指摘している。
英国は一九六九年までに第一次原子力発電計画のマグノックス炉五〇〇万㎞の建設を終えたが、一九六四年に引き
続き第二次原子力発電計画︵八○○万㎞、一九七〇∼一九七五年︶に入ることを発表し一九六六年から着工することにな
った。一九六五年、第二次原子力計画に基づく最初の原子力発電所のダンジネスBの建設に際して、英国は英国原子
力公社が開発した改良型ガス冷却炉AGRと米国型の軽水炉とを競争入札させることにした。
39
一橋大学研究年報 商学研究 24
ダンジネスB発電所は、二基の炉による出力一二〇万㎞と予定されていた。BWRの入札時の容量は二基で一〇四・
八万㎞であったが、ご一〇万㎞に拡大したケースについても比較にのせた。発電コスト算定にはCEGBの経理基準
が用いられ、それによると長期金利七・五%、短期金利五・五%、償却期間二〇年、利用率七五%であり、炉の始動
テストが終了し、商業発電を行なう直前の時点による現在価値換算法が適用された。BWRに対しては原子炉部品一
四%、同機器二五%、初期装荷燃料一四%の輸入税が課されている。この課税分は発電コストに換算してO・00六
五ペンス/Wに相当するが、この換算額をBWRの最終の発電コストから差し引いてもAGRの優位は動かない。ま
たAGRでは炉の運転中に燃料を取替えることが可能であり実際には七五%以上の利用率が期待できるのに反し、B
WRでは燃料の取替えの都度炉を休止させる必要があり、そのために失なわれる時間は年間一九・五日に相当すると
いわれ、したがって同一の利用率についてBWRにはペナルティを付すべきであるという考えから利用率の調整とい
う項目が設けられた。AGRには英国で初めての濃縮ウランが用いられるが、その濃縮ウランは原子力庁のカーペン
ハーストエ揚から供給され、燃料体の加工も原子力庁のスプリングフィールドエ揚で行なわれる。一方、BWRでは、
燃料の性能保証条項と関連させて米国内で加工される。濃縮ウランの価格は英国の方が米国よリニ○%割高とされる
がここでは米国原子力委員会の価格表によった。双方とも五年後には加工費を四分の一切り下げることが可能である
としている。使用済み燃料の残存価格算定のために平均燃焼率をAGRで一八OOOMWD/t、BWRで二二〇〇
OMWD/tとしている。結局、発電コストはAGRで○・四五七ペンス︵一・九二円︶/W、BWRの○・四八九ぺ
ンス︵二.〇五円︶/wとなり、世界の注目を集めたこの競争入札はAGRが僅少の差で有利ということでその採用が
k
︵ 1 6 ︶
決定された。
この比較に対して米国原子力委員会のシーボーグ委員長の反論があり、英国国内でも批判が行なわれたが、第二次
40
原子力発電の発展
原子力発電計画の炉型は英国が自主開発したAGRと決定されたのである。
一九六五年一〇月に動力大臣が議会に提出した燃料政策には、英国で独自に開発したマグノックス炉の改良発展に
より原子力発電の経済性が着実に向上し、大きく期待されるようになった模様を次のごとく述べている。
﹁原子力発電は商業的規模での信頼すべき発電方式として確立しつつある。原子力発電は資本費が高く、燃料費が安
いから、原子力発電所が建設されたらそれをできるだけ効率よく稼働させて十分な経済的利益をあげるようにしなけ
ればならない。核燃料のウランあるいはトリウムは英国では採掘されないから輸入に頼らざるを得ないが、その輸入
コストは輸入する形態によって異なるものの石油の輸入コストよりも石炭換算でみてはるかに低くなる。ウラン資源
は世界中に広く分布しており、原子炉にひとたび燃料を供給すれば、その後は相当な期間、燃料を補給する必要はな
いので、全体として原子力発電は、海外の状況変化による供給中断に対して比較的安定である。このように原子力発
電はエネルギi供給の安定性、国際収支上の理由から輸入石油よりもむしろ国産石炭に近い地位を占めている。
原子力発電の経済性に関する初期の判断は早まったものとなったが、第一次原子力発電計画に基づいて次々に建設
されてくる発電所のコストは着実に低下しつつある。ダンジネスB原子力発電所の揚合、最近認められた入札では、
現在の電力用炭の価格で発電する将来の石炭火力発電所よりも発電コストは低廉となっている。ダンジネスB原子力
発電所の発電コストは慎重な仮定条件の上に立ってみても約○・四六ペンス/Wとなるものと推定されている。この
値は中央電力庁が投資評価に利用している七・五%の償却率を基礎とし、負荷率七五%、耐用年数二〇年として計算
されたもので、もしも設計通りの負荷率八五%、耐用年数三〇年という数値をとると発電コストは○・三八ペンス/
Wとなる。一方目下建設中または計画が決定した石炭火力発電の発電コストは○・五二∼O・五四ペンス/Wであり、
h h
k h ︵∬︶ k
k
建設中の重油火力発電所はO・五二ペンス/wである﹂。
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一橋大学研究年報 商学研究 24
英国は戦後から積極的に世界に先がけてマグノックス炉を開発しそれを実証済み炉とし、さらにAGRの開発を行
なうなど順調に原子力開発を続けてきた。しかし、英国は国内の低い経済成長による電力需要の伸ぴ悩みと単基容量
の大型化に伴なって発電所建設基数が相対的に減少したことにより、一九五七年当時原子力に関係していた五原子力
グループは一九六七年までに三グループに集約されていった。しかしそれでも年間一、ニヵ所の原子力発電所による
原子炉の発注では、各グループは二、三年に一基程度の受注しかなかった。一方、GCRによる原子力発電の発電コ
ストは在来火力による発電コストと較べてかなり割高であったため、世界市揚での評価は得るに至らず、国外ではわ
ずかに日本の東海発電所とイタリーのラチナ発電所に設置されたのみであり、米国の軽水炉には対抗できなかった。
GCR最後のウィルファ発電所の発電コストでもO.七ペンス︵二.五二円︶/㎞で、産炭地から離れた地点にある高
コストの石炭火力発電所の発電コストと同水準であった。これは、原子力発電所建設に際して、単基容量の大型化と
設計改良が加えられたためその性能は改善されたものの、反面、原子炉構造の単純化と標準化を妨げる結果となり、
経済性の実現を遅らせたことにもよると思われる。このため各グループの企業経営は悪化し、一九六七年末に原子力
産業再編成の方向づけが打ち出されていった。
低濃縮ウランを燃料としたウィンズケールのAGR実験炉は電気出力二・七万㎞で一九六三年に運転を開始してい
る。この実験炉の炭酸ガスの炉心出口温度、圧力はそれぞれ四六〇度C、二〇気圧でそれほど高い値ではないが、一
九六六年着工したダンジネスB原子力発電所に使用される実用炉では、それが六五〇度C、四三気圧で電気出力六三
万㎞と高性能のものであった。この炉は、マグノックス炉と同様に炭酸ガスを冷却材として使用しているため、高温
下での炭酸ガスと減速材の黒鉛との作用、あるいは炭酸ガスと圧力容器鋼材との作用が大型化、高温化への制約条件
となり、また、この原子力発電所の主契約者となったAPCグループ内の企業は、ボイラーメーカーのICLとアー
42
原子力発電の発展
キテクト・エンジニァのフェアリーエンジニアリング社の二社だけであって、グループ内に原子力発電の建設に必要
なすべての能力を持っていない弱さがあったため多くの困難に遭遇し、その建設は著しく難航した。APCはこれに
よって致命的な打撃を受け、原子力産業の集約化がさらに進んでいった。
米国では、オイスタークリーク原子力発電所につづいて大容量の原子力発電所としてはその後一九六五年に七五万
㎞のドレスデンH︵BWR︶の建設がある。原子力発電の発電コストは技術の進歩にともない著しく低下してきたが、
このことをさらに鮮明に示したのは一九六六年、米国のTVAが発表したブラウンズフェリー原子力発電所の建設計
画である。TVAは一九七〇年および一九七一年に運転開始予定の二基、総出力二〇〇万㎞の発電所建設計画につい
て、入札を行ない火力発電所と原子力発電所の経済性比較を行なうこととした。
TVAが原子力発電所と比較する石炭火力発電所は、テネシー州北西部のカンバーランド市近郊におくと予定した
ニュニットによる二二〇万㎞発電所である。そのボイラi部分と機器の一部はすでにB&Wに優先権が認められてい
たので今回はそのターボ発電機だけの入札であった。GEとWHの外、スイスのブラウンボベリーがこれに参加し、
結局ブラウンボベリーが選ばれた。火力発電所の直接建設費は一億九二〇〇万ドルであった。
原子力発電所はニユニットニ○○万㎞とし、アラバマ州のブラウンズフェリーの地点を選んだ。これに対しGEは
単基容量一〇六・五万㎞のBWRを、WHは単基容量九九・五万㎞のpWRを提案しその入札価格はGEのBWRは
一億二二六〇万ドル、WHのPWRは一億二二〇〇万ドルであった。
TVAは以前から原子力発電の編入を検討してきた。とくに一九六五年一月以来、発電炉メーカー、原子力発電の
経験を持つ電力会社、政府機関などと原子力発電に関して共同研究を行なっていたし、GEやWHからは一〇〇万㎞
の大型原子炉の設計仕様を聴取し、これに対するTVAの要求を織り込む努力をしていた。
43
一橋大学研究年報 商学研究 24
これらの結果、TVAは、従来の原子力発電所の発注方式であるターンキー方式︵特定企業が原子炉からタービン
発電機にいたる発電機器全体を一括受注し、設計、建設、工事などを行ない、満足な結果が得られてはじめてそれを
所有主に引き渡す方式︶によらず、TVAが経験のある設計・建設部門にその建物設計と建設工事を行なわせること
として、炉、蒸気発生器、発電機などの主要部分についてのみ一括購入するように決めた。同時にTVAは、一九八
二年までの運転開始後一ニカ年について核燃料の供給保証と熱量当りのコスト保証を発電炉製造業者に求めている。
このコスト保証は一〇〇万BTU当りBWRで一一・八六セント、pWRで一三・一七セントで火力の一八.九〇セ
ントと対比されている。
GEとWHの入札価格を基礎にして、TVA側の設計、工事分を加算した直接建設費はBWRで一億八○○○万ド
ル、PWRで一億七七〇〇万ドルであった。さらに送電線費用と間接建設費の各費目を合わせるとBWRで二億四七
〇〇万ドル、pWRで二億四一〇〇万ドルで、火力では二億五八OO万ドルであった。TVA側は、両社との交渉に
当って、炉の設計出力からの拡張を考慮してターボ発電機の容量を設計出力より一〇%高くとるよう求めたところ両
社とも直ちにこの高い出力値を炉の保証出力とすると回答し、GEは商業運転の時点から、WHは商業運転に入って
六ヵ月以内にこの出力を実現すると保証した。GEはBWRの設計出力から一〇%高い一〇九・八万㎞を保証定格出
力とすることからはじめて、バルブの全開でこれより五%方高い一一五・二万㎞を、さらに給水加熱機の一部をバイ
パスさせることで八%方高い一一八・八万㎞が期待できるとし、またWHはPWRの設計出力九二・四万㎞から出発
して保証定格出力を条件づきで一〇三・三万㎞とし、さらに発電機のタービンを全開することによって四%の出力拡
張が期待できるとした。建設単価は保証出力の場合BWR一甲六・Oドル/㎞、pWRでは一二丁ニドル/㎞で、火
力の一一七・○ドル/㎞と対比され、もし期待出力をとる場合はBWRで八・八ドル/㎞、PWRで四・八ドル/㎞
44
だけ引きさげることができるという。
発電コストの算定に当っては、利用率八五%、金利四・五%、償却期間三五年、利率四・五%とする減債基金法によ
る資本費率が適用され、火力発電所の資本費○・九〇ミル/曲︵送電線の資本費を加えると○・九五ミル/曲︶に対
h h h
k k
四.五%、償却期間三五年という緩い条件下での値であることは注意する必要はあるが、原子力発電の著しい経済性
その他の運転費および原子力保険を加えた総発電コストはBWR二・三九ミル/曲、PWR二・五六ミル/曲・火
h k k
力二.九〇、・、ル/Wとなり、ここにBWRの採用が決定された。
TVAが発表したブラウンズフェリー原子力発電所の発電コストはTVAが一般の企業とは異なっているため年利
㎞であり、火力の一.六九、、、ル/㎞を下回り、最終的なコスト差に大幅に寄付している。
燃料費支出に加算されることになり、この加算分を合わせてもBWRで一・二五ミル/曲、PWRで一・三九ミル/
h h 期装荷燃料の調達にはBWRが六六〇〇万ドル、pWRでは五〇〇〇万ドルを要し、このインベントリ金利は年々の
を考慮した平均価格として一〇〇万BTU当りGEが一一・八六セント、W且が一三・一七セントを示した。また初
ントであった。原子力発電所の側では、同じく一二年間にわたる供給保証を約束した上でこの経過期間中の価格改訂
証を提示し、また専用貨車輸送による運賃契約もこれに添付されその引渡し価格は一〇〇万BTU当り一八・九〇セ
燃料費に関しては、カンバーランド火力発電所の年間石炭消費量に対し四社が一〇∼二〇年にわたる長期の供給保
発電の資本費が火力発電よりも有利となっている。
㎞)
の向上とともに、石炭価格が一〇〇万BTU当り一八∼一九セントという米国でもっとも安い産炭地においても火力
45
鴨BwRは。.八九ミル/㎞︵同じく。.九。ミル/㎞︶、PwRでは・.九一ニミル/㎞︵同じく・.九四ミル/
いう値が示されている。適用金利が四.五%という低利率であることにもよるが、従来の場合と異なり原子力
原子力発電の発展
一橋大学研究年報 商学研究 24
発電より有利になってきたことが証明され、本格的な実用化段階に達したことを示した一方小規模な電力会社の多い
米国で大規模な水力火力発電系統をもつTVAが火力よりも原子力を選択したことは原子力発電の経済性を強く一般
に印象づけることとなり米国を含め世界における原子力発電開発に大きなカとなったのである。
また今回のコスト評価ではBWRが建設単価と燃料費の両面でPWRに対して有利となっていることが示されてい
る。GEの優位性は出力保証や燃料供給の条項でWHよりも柔軟な取決めに応じていること、GEが提出したBWR
の仕様書では、出力密度の上昇を炉心制御法の改善、炉心内の出力分布の平担化、比出力の向上、冷却水の流動と熱
伝達の改善などによって実現させ、これまでの設計と同一容積の炉心から約三〇%高い熱出力をとり出せるといわれ
ることおよび燃料費の面で、燃料体の設計に変更を加え所要の濃縮度を一〇%方引下げて燃料費を三%節減すること
ハ レ
に成功するなどそれまでの原子力発電所運転の経験や改良研究の成果が反映しているものと考えられる。
米国における原子力発電開発は、一九六二年に原子力委員会から大統領に提出された非軍事用原子力発電開発計画
に沿って進められてきたが、その後着実に軽水炉による原子力発電の経済性の向上がみられるようになり原子力発電
の情勢に変化がおこってきたので、原子力委員会は一九六七年二月、大統領にさきに提出した計画の改訂報告を行な
った。その中で原子力発電の経済性について次のような見解を示している。
﹁米国における発電コストは、ここ数年、着実に低減を続けてきた。この低減は第一に化石燃料プラントの熱効率の
改善、第二に化石燃料プラントおよぴ原子力発電プラントの建設単価の低下によるものであり、とくに原子力発電の
一九六二年当時においては、五〇万㎞級基底負荷原子力発電所の発電コストは、六.二、、、ル︵二.壬二円︶/㎞であ
揚合、明らかに単基出力の大容量化の傾向によるものである。
った・現在の五・万叢の発電所の推箋電原価は叩四−ル︵丁五八円︶/腰ある.現在、民営による大容量の
原子力発電の発展
軽水炉の経済性試算︵一九七〇∼七一年運転開始︶では、基定負荷用で三・五∼四・ニミル︵丁二六∼一・五︸円︶
/㎞程度、また公営の同じ規模のものでは、二・六∼三・○ミル︵○・九六∼一・○八円︶/曲とされている。一般的
に言って、これらの最近の予測値は一〇〇万BTU当り引渡価格一七∼二五セントの石炭火力発電コストに相当する。
なお、一九六五年の米国の石炭引渡価格は、連邦動力委員会の七地域で一〇〇万BTU当り一八・九∼三三・四セン
トであった。この七地域では、発電に使われるエネルギーの一〇%以上を、平均引渡価格一〇〇万BTU当り二四・
四セントで石炭が供給している。全化石燃料の平均引渡価格は一〇〇万BTU当り二五・ニセントであっ︵肥﹂。かく
て改訂報告は原子力発電が火力発電より有利になってきたことを示したのである。
◎ 濃縮ウランと軽水炉
米国の濃縮ウラン生産は、マンハッタン計画に基づいて始まった。第二次大戦中にオークリッジエ揚が建設された
のを皮切りに、戦後は米ソ冷戦下の米国の核軍拡計画の下で、オークリッジエ場の拡張、パデュカエ揚、ポーッマス
エ場の新設が行なわれ、これら三工揚でガス拡散法により主として軍需用濃縮ウランが生産された。全工揚の建設費
は約二三億ドル、全工揚運転に必要な電力は約六〇〇万㎞で、総分離作業量は一七〇〇〇tウラン/年と言われてい
る。一九五四年の原子力法の改正によりここで生産された濃縮ウランは賃貸制度の下で軽水炉の燃料として国内外へ
供給されていった。以後、一九六〇年代に入り、原子力発電の停滞、冷戦の緩和、核軍縮などの国際情勢の変化の中
で濃縮ウランの需要は低下し、一九六四年には、ジョンソン大統領による濃縮ウランの生産削減命令が出されるなど
した。しかし同年八月ジュネーブで開かれた第三回原子力平和利用国際会議を契機として原子力発電の将来性に対す
る期待が高まるとともに同年八月には原子力法の再改正により核燃料の民間移行の措置に伴って一九六九年一月より
一橋大学研究年報 商学研究 24
ウラン濃縮は委託濃縮制度の下で行なわれることになり、世界の原子力発電の発展の状況からみて、一九七〇年代の
後半には、米国国内はもとより、外国からの委託濃縮を行なうには現有の三工揚では能力不足となると考えられ、新
しい濃 縮 工 場 が 必 要 に な る と み ら れ る に 至 っ た 。
前記の三濃縮工場では、従来軍事用濃縮ウラン生産のため各工揚はそれぞれ独立して運転されていたが、.一れら三
工場では委託濃縮に対応して動力炉用濃縮ウランの供給ができるようそれぞれ連携して効率よく運転されるようにな
った。軍需生産のために工揚が運転されていた時代には膨大な量の減損ウランが排出されていたが、資源の有効利用
のために、減損ウランは最初にパデュカエ揚に供給され、最高○・九六%までに濃縮され、その一部がポーツマスエ
揚に輸誉れてそこ叢高九七・六彦の山局難ウランとされる.その他の徴濃縮ウランは、オークリッジ蕩脹
給されて四・○%低濃縮ウランとなり、その大部分は軽水炉用燃料として使用されるというように改善されている。
一九五四年八月に改正された米国原子力法は諸種の事情の下で一九六四年八月に再度改正され、それに伴い政府の
特殊核物質の保有量の増大による財務負担の軽減、原子力産業の健全な発展などのため、次のような事情を考慮して
﹁特殊核物質の民有化に関する法律﹂が制定されることとなった。一、特殊核物質の民有化により、原子力発電事業
者は、他のエネルギー産業の揚合と同様に正常な経済関係︵自由市揚︶の下におかれるア︸ととなり、これに伴い、燃
料コスト面における政府の援助は得られなくなるが、自由市揚における長期的見通しの下に原子力発電事業に取り組
むことができる。二、国内ウラン鉱業は、これまで政府の需要のみに依存してきたが、今後のウラン需要は、民間に
おける平和利用は特に原子力発電が中心となるので、市場を電気事業に求めなければならない。民有化に伴い、政府
が国内産ウランなどを対象に委託濃縮業務を開始することにより、電気事業者は国内ウラン鉱業者から天然ウランを
買入れて委託濃縮によりこれを濃縮ウランとすることができるので、国内産ウランに対する電気事業者等の民間需要
原子力発電の発展
を確保でき、国内ウラン鉱業の健全な発展に資しうること、三、特殊核物質の民有化を認めることにより、特殊核物
質の全面政府所有に伴う莫大な財政負担を軽減しうること︵特殊核物質の全面政府所有に伴う原子力発電事業者と政
府との結ぴつきは、いずれは断たなければならないが、これを先に延ばせぱ延ばす程民有化に移行したときの混乱が
大きくなるだけである︶。四、外国に対しても、委託濃縮業務を開始することにより、外国に対する濃縮ウランの安
定的供給を確保し、これにより外国の原子力平和利用に対する影響力、特に、米国から輸出される濃縮ウラン系原子
炉の競争的立揚の強化に資しうること、五、政府は、特殊核物質に関して、今後も種々の規制を行なう必要があるが、
そのために特殊核物質の所有権を政府に留保しておくことは必ずしも必要ではないこと︵特殊核物質の民有を認めて
産
物
質
と
同
様
特
殊
核
物
質
に
つ
い
て
所
要
の
規
も 、 原 料 物 質 お よ ぴ 副
制 を 行 な う こ と が で き る ︶ か ら で あパ
っぬ
たマ。
同時に米国は一九六九年一月以降、ウランの濃縮については、天然ウランまたは減損ウラン中のウランニ三五の含
有率を高める.︼とおよぴ特殊核物質中の濃縮ウランまたはその他の同位元素の含有率を高めることに対し料金を支払
うという委託濃縮を実施することとした。即ち、希望濃度の濃縮ウランを欲する者は、天然ウラン、減損ウランまた
は濃縮ウランを原子力委員会に提供し、それに相当する量の濃縮ウランを料金を支払って受取ることになった。
英国は、ダンジネスBに始まる第二期源子力発電計画︵一九七〇∼一九七五年︶のAGRの濃縮ウランを自給する
ため、カーペンハーストの軍用ガス拡散工揚の改良拡張に着手した。始めは低濃縮部の改装と効率向上とにより、後
には規模を拡大する.︼とにより、能力を高める予定であるが、分離費は四二∼五六ドル/㎏SWUであるという。
また、フランスでは、ウラン濃縮計画は早くから考えられていたがその割に進展は遅かった。フランスは一九五六
年初期、フランス原子力庁がウラン濃縮について実験計画を建て、一九五七年初めにサクレー原子力研究所がこの研
究を受託し、一九五八年四月に一二段のカスケードを組み定常運転に成功した。このバイロットプラント試験から得 4
一橋大学研究年報 商学研究 24
られた成果に基づき一九五八年、政府はローヌ川沿いのピエールラットに本格的なウラン濃縮工場を建設するア︾とを 0
5
決め、主要民間会社と協力を保ちながら技術的に問題のある部門の開発研究を行ない、一九六〇年初めに工学的、技
術的な試験を開始した。一九六〇年、ウラン濃縮工場建設に際して、○・九%濃縮を目標とするパイ・ットプラント
試験とプラントの建設に従事する低濃縮作業班、三%濃縮を目標とするための中濃縮作業班、約二〇%濃縮を目標と
するための高濃縮作業班、およぴ約九〇%濃縮を目標とするための超高濃縮作業班の四グループが組織され一九六一
年から一九六四年にかけてウラン濃縮工揚の建設を進めていった。ここでの分離費は一〇八ドル/㎏sWUとなると
いう。
一方、ソ連および中国も同様なガス拡散法で濃縮ウランを製造しているが、これら両国の状況は不明である。
ウラン濃縮はその技術が難かしい。またその最大分離係数は一・OO四三と小さいために非常に多くの段数のカス
ケードを組まなければならなくなり広大な敷地を必要とする一方、莫大な電力を消費し、濃縮規模を相当大きくしな
いとスケールメリットが働かない。英国はカーペンハーストエ場を、またフランスはピエールラットエ揚を操業して
いるが、これらは米国の工揚に較べると規模が小さく、分離費は米国の二六ドル/㎏SWUに対し英国では四ニドル
/㎏SWU、フランスでは一〇八ドル/㎏SWUと著しく高い。また生産量は米国に比して小さく例えば二.五%濃
縮ウランについて言えば年間米国の七四三〇tに対し英国では二二〇t、フランスでは一二〇tと言われ、他国への
供給力はないと言ってよい。
米国原子力委員会は一九六七年一一月に濃縮六フッ化ウランの基本価格、賃貸料、濃縮業務料金の改訂を発表した。
この新しい料金および料率は一九六八年一月から適用される。
濃縮ウランの価格は、天然ウランの価格と分離費とから構成されている。米国原子力委員会の濃縮ウランの価格は、
原子力発電の発展
一九六一年七月の第一次改訂で供給天然ウランの価格が約四〇%引下げられ、一九六二年七月の第二次改訂では、圧
縮機効率の上昇およぴ電力費の低下などにより分離費が約二〇%引下げられた結果、大幅に引下げられた。引下げ幅
は一九五七∼一九六一年の価格水準の約三〇%にも及ぶものであった。今回の改訂は分離料金の二一一%引下げと特殊
核物質の賃貸料率がそれまでは原子力の非軍事利用を促進するための補助政策から年四・七五%と低くおさえられて
いたが、.一の補助政策は原子力発電の進展により圧迫されている全米石炭協会の反撃や原子力発電の経済性促進のた
めには補助政策の廃止と核燃料の民有化が必要であるという強い要望が電気事業者からも出ていたため年率五・五%
に引上げられたことである。
分離費の二一一%引下げによって燃料費は二.五%濃縮ウランを二〇〇〇〇MWD/tの燃焼率で使用する五〇万㎞
規模の軽水炉では○.一、、、ル/㎞の減少になるといわれる。原子力発電の燃料費は発電容量、炉型などによって異な
るが、例えぱ一九七〇年稼動の八O万㎞軽水炉で種々の不確定要因を考慮に入れた当時の評価として燃料費一・二二
、、、ル/㎞をとれぱ前記の燃料費の減少は、約八%に相当するのである。この分離費の引下げは発電コストと外国の濃
縮事業に影響を及ぼした。
米国は一九四六年の原子力法以来濃縮ウランの国有制をしきその非軍事的利用には核兵器原料の戦略物資として極
めて厳しい制約下で少量ずつを技術援助の︸環として米国が諸外国に貸与ないし提供するという形で世界市揚に供給
してきた。その後、水爆の開発に伴い兵器原料としての濃縮ウランの生産は低下していった。しかしその需要面では
一九六四年には濃縮ウランの民有化が米国で実施され、軽水炉の販路を確保するため原子力委員会は相当量を動力炉
燃料用に供給保証するようになった。一方ソ連、英国に続いてフランスと中国も兵器用濃縮ウランの生産能力を獲得
した。しかし、これらの国々における濃縮ウランの供給能力と生産価格は、米国におけるそれらと比較するとはるか
一橋大学研究年報 商学研究 24
に劣っていた。ウラン濃縮の技術と濃縮施設の規模については、どの国もそれを殆んど公表することはなかったが、
一九六八年米国原子力委員会は濃縮施設の運転と経済性についての資料を公表した。この結果、戦後二五年間の改良
研究により、単位分離作業費はインフレの進行にかかわらず大幅に低下し、一九七五年の技術により新工場を建設す
ると、一九六八年のドル価格で、二〇ドル/㎏SWUで操業できるところまで進歩していることが明らかになった。
従って、米国以外の国でみられるような小規模な濃縮事業では到底米国と競合するカのないことは歴然としており、
その上にこのような濃縮ウランの価格引下げが行なわれたことは、原子力発電における軽水炉が英国のGCRならび
にAGRに対して経済的に優位に立っていることをはっきり認めさせたものとなった。
四 結 言
第二次大戦後、米国は原子力委員会を設置して原子力に関する基礎研究、核兵器の開発生産、核実験など原子力全
般を国の管理下におき、東西冷戦の進行の下で、多数の国立原子力関係研究施設を大企業や大学に委託運営させて核
兵器の開発を強力に推進して行った。かくて、米国は水爆の開発にも成功したものの、英国、ソ連も共に原爆、水爆
実験に成功し、ここに米国の核兵器独占は完全に打ち破られた。一方、フランス、ノルウェー、オランダなどの諸国
では原子力の平和利用研究が進み、その情報が公開されたため、米国の核独占のための機密政策はこの面からも崩れ
て行った。
英国は一九五三年四月、コールダーホール原子力発電所建設計画を発表した。これは米国を強く刺激した。米国は
これに対抗して同年一〇月、シッピングポートにPWR型原子力発電所を建設する計画を発表、同年一二月には国連
総会で、アイゼンハウァー大統領は原子力平和利用を各国に奨励するため、平和利用に必要な核分裂性物質を国際機
52
原子力発電の発展
関に提供し、それを各国に分配することを提案した。一方、国内では、マンハッタン計画や軍事用原子炉開発への参
加、あるいは軍事生産施設の委託運営などを通じて原子力の研究開発の機会を持ってきた産業界に対して、新たに発
電用原子炉の研究開発、その実証化への参加などの道を開く気運を醸成していった。一九五四年六月にはソ連で世界
最初の原子力発電所が運転を開始したことが報ぜられた。
かくて一九五四年八月、一九四六年に作られたさきの原子力法は改正され、一、原子力の軍事利用と平和利用両面
での情報交換を拡大する、二、原子力の非軍事利用について友好国との協力を拡大する、三、民間産業に原子力発電
開発計画への参加を認めるなどの内容を盛った新原子力法が誕生した。原子力発電開発競争がここに展開されるに至
ったのである。
九五七年には米国のシッビングポート原子力発電所が発電を開始した。
一九五四年のソ連の原子力発電所運転開始に引続いて、一九五六年には英国のコールダーホール原子力発電所、一
しかし、原子力発電は発電コストの面で在来火力発電より劣っていた。また原子力開発の困難さも認識されたため
原子力発電の開発は一時停滞した。各国はこの間、原子力発電実用化のために地道な基礎研究と開発政策にカを注い
でいった。このような研究開発が実を結び始めたのは一九六三年頃である。一九六三年一二月に行なわれたオイスタ
ークリーク原子力発電所建設に際し、GEは発電コストが山元の石炭火力発電コストよりも安いBWRによる原子力
発電所を提案した。ここに原子力発電は米国内のかなり広範囲な地域で火力発電と対抗できることを示したのである。
さらに一九六五年七月の英国電力庁のダンジネスB発電所建設に際しての入札結果および一九六六年六月の米国T
VAのブラウンズフェリー原子力発電所建設に際しての入札結果は、在来火力発電に対する原子力発電の優位性を示
すものとなり、原子力発電は世界的に注目されるようになった。
53
一橋大学研究年報 商学研究 24
原子力発電の経済性の向上は原子炉の単基容量の大型化、技術的改良などにより実を結んだが、これは軽水炉にお
いてのみみられるものではなく、英国で開発されたGCR、AGRにもみられた。
英国は米国と並んで早くから原子力開発に着手し一九五六年コールダーホールで初めて商業用原子力発電所の運転
に成功して以来、自主開発したガス炉路線を歩んできたが、その過程は経済的にも産業的にも満足すべきものであっ
たとは言い難いものであった。このマグノックス炉は出力密度が小さいので、出力を大きくするためには炉を大型に
することとなり経済性が低下する。この原子炉による原子力発電の経済性到達は早くから期待されてはいたが結局在
来火力の経済性に対抗できなかった。このため国外輸出も殆んど実現せずガス炉の市揚は拡大しなかった。
英国における原子力開発方式は米国と異なり、研究開発は原子力公社が中心となって行ない、その成果を民間に提
供するというもので原子力公社の研究所、工揚などの施設が民間に委託されることはなかった。従って、軍需、民需
を問わず過去に行なわれた研究開発の成果と経験は原子力公社に蓄積され、艮間企業が直接に研究開発の経験をつむ
ことはなかった。民間企業は原子力公社の開発した原子力設備を設計通りに製作するという状態であった。このため、
英国の原子力産業は商業政策に合致した原子炉の設計開発を行なうカが弱く、研究開発と設計能力とを持つ米国企業
との間に大きな格差を生じたのである。また、商業用原子力発電所の建設およぴ運転は国営の中央電力庁が行なって
おり、この点でも英国の民間企業のカは米国の民間企業より弱かった。
ガス炉の市揚が拡大しないため、英国では一九五七年の原子力発電計画に対応して一九五四年に形成された民間原
子力五グループの採算が悪化し再編成の止むなきに至り漸次三グループに集約されていった。一九六六年末に民間原
子力三グループは原子力公社と英国原子力輸出機関を設立し、軽水炉の優位性に対抗してガス発電炉の輸出を振興し
たがその成果はあがらなかった。
54
原子力発電の発展
これに対して米国内では一九六六年頃から原子力発電の発注が相ついだ。原子力発電に対する国内発注は一九六五
年には四七〇万㎞であったが、一九六六年には一七〇〇万㎞、一九六七年には二七〇〇万㎞となり、運転中の原子力
発電所設備容量では英国に劣るものの建設および計画中の原子力発電所設備容量においては英国をはるかに上回るも
のとなった。
には英国のGCR、AGRによる原子力発電にも打勝ち、その優位は明らかなものとなった。これは、軽水炉の供給
一九六〇年代末頃には、米国の軽水炉による原子力発電は国内的には在来火力発電との競合に打勝ち、また国外的
者であるGE、WHが核開発から得た技術を蓄積し、過去の原子力開発に投じた支出の回収や人的資源を活用するた
め積極的に火力から原子力開発に重点を移していったことにもよるが、一方、軽水炉に必要な濃縮ウランの供給保証
を一九五四年の原子力法によって米国政府が外国との原子力協力協定の締結に際して行ない、国有の大規模な軍事用
濃縮ウランエ揚から核燃料を他の国々よりも安い料金で提供したことが軽水炉市場獲得の大きな推進力となっている
ものと思われる。
文 献
︵1︶ 吉川秀夫、原子力工業、二七巻、三号、六二頁、一九八一年。
︵2︶ 甲Oo一身3旨曾い窃見貯巴まu馨o巨2串 矢田部厚彦訳、 秘録核開発をめぐる国際競争、五二頁、一九七〇年、毎日
新聞社。
︵3︶ 吉川秀夫、原子力工業、二〇巻、一号、六二頁、一九七四年。
川上幸一、原子力の政治経済学、七六頁、昭和四九年、平凡社。
55
一橋大学研究年報 商学研究 24
︵5︶
︵4︶
吉川秀夫、原子力工業、二七巻、一号、五八頁、一九八一年。
浅田忠一、日本原子力学会誌、一一巻、一号、二七頁、一九六九年。
川上幸一、原子力の政治経済学、二二三頁、昭和四九年、平凡社。
川上幸一、原子力の政治経済学、二三四頁、昭和四九年、平凡社。
安井 昭、核エネルギー政策︵佐藤・斎藤共編︶四七頁、昭和五四年、日本国際問題研究所。
︵6︶
︵7︶
=・薯・国①&巴一魯巴・い目冨国¢寄928一①巽勺o≦段寄88挙日本科学者会議原子力問題研究委員会訳、原発の安全
科学技術庁原子力局監修、原子力ポケットブック︵昭和四三年版︶、五一頁、日本原子力産業会議。
︵8︶
︵10︶
︵9︶
ω‘>国ρ目ぎoo9︷oぞoh28一〇碧勺o毛R園雷g9ω︵ご⑳算≦鋒o﹃占oo一a︶帥口匹幻o一鉢a問8臣菖o幹≦>ω寓一霧O
性への
疑
問
、 一三頁、一九七九年、水曜社。
平山省一、日本原子力学会誌、一=巻、四号、二五頁、一九七九年。
冨
ソ 木原博等監訳、原子力安全性ハンドプック、二八六頁、一九七五年、産報。
d,
(一
野沢豊吉、日本原子力学会誌、一〇巻、二号、二三頁、一九六八年。
科学技術庁原子力局監修、原子カポケットブック︵昭和四三年版︶、五二頁、日本原子力産業会議。
通商産業大臣官房エネルギ;政策課・原子力産業政策室編、日本の原子力産業、一三九頁、一九六九年、電気タイムス。
科学技術庁原子力局編、原子力開発長期計画、一二三頁、昭和四三年、大蔵省印刷局。
武井満男、原子力発電の経済、三二頁、昭和四二年、東洋経済新報社。
科学技術庁原子力局監修、原子カポケットブック︵昭和四三年版︶、五五頁、日本原子力産業会議。
武井満男、原子力発電の経済、二〇頁、昭和四二年、東洋経済新報社。
浅田忠一、日本原子力学会誌、一一巻、一号、二七頁、一九六九年。
一、国。↓曽覧05罫U。くoぎ一一︸く①一一〇≦8ぎ。℃■Noo”︵一〇圃Oy勺oお帥日oコギo。。。。・
同右、一四頁。
武井満男、原子力発電の経済、一九頁、昭和四二年、東洋経済新報社。
22 21 20 19 18 17 16 15 14 13 12 11
((((((((((((
))))))))))))
56
原子力発電の発展
大山義年、日本原子力学会誌、三巻、三号、四六頁、一九六一年。
下川純一、日本原子力学会誌、三巻、三号、四七頁、︸九六一年。
今井隆吉、日本原子力学会誌、=二巻、一号、四五頁、一九七一年。
科学技術庁原子力局監修、原子カポケットブック︵昭和四六年版︶、三〇〇頁、 日本原子力産業会議。
57