Proletkult and Proletarian Culture in Early Soviet Russia

プロレトクリトと「新しい文化」
─初期ソヴィエト政権下におけるプロレタリア文化の創造をめぐって─
Proletkult and Proletarian Culture
in Early Soviet Russia
TAKIGUCHI Junya
瀧 口 順 也
概 要
本稿は、新たな権力体制が構築された初期ソヴィエト政権下における「新しい文化」の理念
とその創出に向けた運動の実態に着目し、革命から内戦期にかけての国家と社会および大衆の
関係について考察する。とりわけ、内戦の最中に急激に支持層を拡大したものの、1920 年代
の初めには衰退した文化集団「プロレトクリト」に着目し、その盛衰の原因を検討すること
で、上記のテーマへの接近をこころみる。
キーワード:プロレトクリト、内戦、アレクサンドル・ボグダーノフ、プロレタリア文化
Abstract
The Bolshevik Party regarded culture as a no less important domain than politics and
economics in sustaining power. As a source of class identity, the creation of new culture is a
crucial means of instilling new modes of thought and behavior into people. This article discusses
the contestation and the practices for the creation of a proletarian culture in the first years of the
Soviet regime, with particular focus on the philosophy and the practices of Proletkult (proletarian
cultural-educational organization). It also addresses the interplay between the state and the
society by considering the causes of Proletkult s ebb and flow.
Keywords:Proletkult, Cultural Revolution in Soviet Russia, Alexandr Bogdanov, proletarian
culture
プロレトクリトと「新しい文化」 17
1917 年 10 月の武装蜂起による政権掌握の前後
1.はじめに*
から、ボリシェヴィキの幹部たちは新しい世界に
おける新しい社会において、「新しい文化の創造」
近年の初期ソ連史研究において、国家と社会の
は必要不可欠な課題と認識していた。「新しい社
関係を新たな視角からアプローチする方法が広が
会主義的世界の文化」、すなわち「プロレタリア
りを見せている。かつて、ソ連と言えば「全体主
文化」の創造によって、ボリシェヴィキ権力は持
義国家」の代表とされ、その社会において私的な
続することができ、それを通じて「新しい人間」
生活領域などは存在せず、あらゆる日常の側面が
も 創 造 さ れ る と 考 え て い た(David-Fox 1997;
監視と密告の対象であるというイメージで語られ
Halfin 2000; Halfin ed. 2002; Stites 1989)。
ていた。一方で、ソ連解体後に公開されたアーカ
当時のボリシェヴィキ幹部の多くは「新しい文
イヴ史料から、このジョージ・オーウェル的な世
化」がどのようにあるべきかについて次々に提起
界観を揺さぶるソ連社会の日常をテーマとした著
し、論争を続けていた。1920 年代前半までは、
作が次々と公刊されている。それらの嚆矢となっ
「文化」は政治・経済と並んで「第三の戦線」と
たのは、1930 年代におけるテロルの時代を生き
みなされていたし、ボリシェヴィキ権力の維持に
た「個人」によるスターリン権力の中で形成され
とって根幹となる課題であった(Diament 1923;
る主体性に関するものが主であった(Fitzpatrick
Trotsky 1973)。何よりも焦点となったのは、ボ
1994; Hellbeck 2006; Kotkin 1995)。S・ フ ィ ッ
リシェヴィキの掲げたプロレタリアートのための
ツパトリックは、「異常な時代の日常」をテーマ
「プロレタリア文化」に関するものだった。これ
にし、市民による権力への投書など、直接的に権
までに被支配者階級として歴史に刻まれてきたプ
力者に声を上げたソヴィエト市民らに注目した
(Fitzpatrick 1999, 2005)。
ロレタリアートによる独裁的権力の構築と、その
「前衛としての党」のもとでプロレタリア文化を
このようなスターリン権力が確立した 1930 年
構想することは、マルクス主義者たちの視点から
代に対する歴史家たちのまなざしとは対照的に、
は歴史的必然であり、社会主義権力の達成のため
1917 年の武装蜂起によるボリシェヴィキの権力
には不可欠な社会の装置だったのである(Stites
掌握直後における国家と社会および大衆の関係を
1989; Trotsky 1925)
。
捉えようとするこころみは、現在も限定的なもの
初期ソヴィエト権力下における新しい文化の
と言える。1) しかし、革命直後から内戦期にか
創造を考察するにあたり、本稿は「純然たるプ
けては、革命の熱情の中、ソヴィエト体制がその
ロレタリア文化」の創出をこころみ、「文化領域
理想とする社会と「ソヴィエト的人間」の構築に
におけるプロレタリア独裁」をうたった集団、
向けたさまざまな実験的こころみが、さまざまな
「プロレトクリト」(Пролеткульт)に焦点を合
機関や媒体を通じて実施された時期でもあった。
わせる。プロレトクリトとは、プロレタリア文
そこでは、新しい社会における新しい人間像の構
化(proletarian culture: пролетарская куль
築に向けて、大衆の現状を把握し、社会全体の革
тура)の略称から名づけられた組織で、内戦下
命をこころみようとする時代であった。他方で、
のソヴィエト国家において他に類をみないほどの
内戦下のソヴィエト権力領域内は、「上から」の
人気を博した文化的社会集団となった。しかし、
指令によって社会が簡単に組織され、新しい権力
その人気も内戦の終息とともに下火となり、組織
の浸透のために従順に機能するような状況でもな
としてはその後も存続したものの、1921 年末ま
かったのである。
でに当初の目的を達成しないまま形骸化していっ
本稿は、新たな権力体制の黎明期に創出されよ
た。
うとした「新しい文化」の理念とその運動の実態
このわずか数年間ではあるが、革命から内戦期
に着目し、初期ソ連政権下の国家と社会および大
のソヴィエト政権下で他のどの組織よりも(もち
衆の関係についての議論を提起することを目的と
ろん、ボリシェヴィキよりも)大衆を惹きつけた
している。2)
魅力とは何だったのか。また、それほどの人気を
18 国際文化研究 第18号(2014)
博したにもかかわらず、なぜ急激に終焉を迎えた
した人物で、革命以前から名の知れた理論家だっ
のか。これらが本稿の扱う主要な問いである。
た。ボグダーノフは結成当初のプロレトクリト中
プロレトクリトについての網羅的な研究は L・マ
央委員会にも属し、組織の定期刊行物『プロレタ
リーらの手によってすでに行われている(Mally
リア文化』(Пролетарская культура)の編
1990)。 本稿 は、プ ロ レト ク リト を、 当 時 の ソ
集の中心も担っていた。19 世紀の終わりごろに
ヴィエト政権下の国家と社会の問題と関連させ考
マルクス主義に傾倒し始め、1903 年のロシア社
察を進めていく。
会民主労働党の分裂時にはボリシェヴィキに参画
した。3)しかし、後に述べるように、V.I. レーニ
2.プロレトクリトの誕生から隆盛へ
ンとの不和から、1909 年以降はボリシェヴィキ
との関係を断ち、10 月革命にも否定的な立場を
(1)プロレトクリトと A・ボグダーノフ
とっていた。
まず、プロレトクリトがどのような組織であっ
あまりにも幅広い教養と関心を有するボグダー
たかを概観することから始めたい。プロレトクリ
ノフの知的関心の全貌を解明することは非常に難
トの原型は、1917 年 10 月 16 日から 19 日にかけ
しい。しかし、ボグダーノフがプロレタリア文化
てペトログラード市議会において開催された第一
創造の絶対的な必要性を感じたのは、第一次世界
回ペトログラード文化啓蒙組織代表者会議によっ
大戦の勃発時に労働者たちが戦争に対して熱狂的
て結成された。この日付からも明らかなように、
な態度を示したことにあった。それまでの階級闘
プロレトクリトの船出は、ボリシェヴィキが主導
争や組合運動を放棄し、「敵」であるはずのブル
した武装蜂起によって臨時政府が権力を明け渡す
ジョア階級に誘導され、国家間の戦争に簡単に熱
一週間ほど前のことであった。この会議には、左
狂をもって動員されたことに対して強い危機を感
派政党に所属する活動家たちに加え、労働組合や
じたのである。どのような想定外の状況において
工場の組合から選出された代表者たち、また軍や
も、階級的利害と階級としての使命を果たすため
農民たちの集団から派遣された者も含まれてお
には、十分に成熟した独自の文化を確立しておく
り、参加者総数は 208 人に上った。この会議で選
ことが不可欠だと考えていた(White 2013)。
出された中央委員会は翌月にも参集し、この組織
ボグダーノフは、過去のあらゆる文化は本質的
をプロレトクリトと命名することを決定した。プ
に「ブルジョア的」であり、新しい社会における
ロレトクリトの結成の目的は「科学や芸術、また
文化の形態は「純然たるプロレタリア的」なもの
日常生活などの全ての人間の精神に関わる分野に
でなければならないと考えていた。すなわち、来
おいて、全くもってプロレタリア独自の自立した
たる革命後の社会においては、あらゆる伝統的な
精神文化」を発展させることを目的とし、「プロ
文化の名残は除去されねばならなかった。ボグダ
レタリア文化の実験場」となることを目指してい
ーノフによればプロレタリアートが「古い文化世
た(Kerzhentsev 1984)。すなわち、その設立当
界とそれにまつわる政治の力と経済計画」を拒否
初から、プロレトクリトは「新しい社会」におけ
し、「新しくより高度な方法による新しい文化世
る「新しい文化」の醸成の場と目されていたので
界」を達成した時に、はじめて社会主義の建設は
ある(Fitzpatrick 1970; Mally 1990; 佐藤 2000)
。
達成されるのであった(Sochor 1981)
。
上記のように、プロレトクリトの結成とその船
ボグダーノフの理想的な文化形態は、何も芸術
出は、ボリシェヴィキ権力の始まりとほぼ時期を
に関わる諸分野に留まらない。ボグダーノフにと
重ねている。しかし、組織として結成される以前
って文化とは、あらゆる人間生活の様式と実態を
から、プロレトクリトの理念の雛形は提起されて
含んでおり、全ての分野における刷新と変革を望
いた。プロレトクリトの理念と実践の根幹を形成
んでいた。例えば、科学も、「労働者には、プロ
したのは、非ボリシェヴィキの知識人アレクサン
レタリア科学が必要だ」と説き、科学の進歩とプ
ドル・ボグダーノフであった。ボグダーノフは自
ロレタリア文化の達成は関連付けられた。家族も
然科学や物理のみならず、経済学や哲学にも精通
これまでの形態は「ブルジョア的」と糾弾され、
プロレトクリトと「新しい文化」 19
特に両親から子供への影響は真にプロレタリア的
世界的闘争の熱の中で、
な思想と活動の妨げになると考えていた。事実、
炎を燃え上がらせ、
モスクワのプロレトクリトでは、「子供の権利宣
情け容赦はするな―
言」が決議され、子供たちに親から解放される権
運命とやらの薄っぺらい身体を
利と、自身で教育と宗教を決定できる権利を認め
締め付けろ。
た。いくつかの地方では「子供たちのプロレトク
リト」も結成され、8 歳から 16 歳までの子供た
音楽の部門では、より実験的なこころみが実施
ちが所属した(Mally 1990; Stites 1989)。このよ
されていた。特筆すべき実験的音楽の一つは、機
うな家族観はボグダーノフに特別なものではな
械音のみで構成されたオーケストラで、エンジン
く、多くのボリシェヴィキ幹部も共感するもので
音の響きや工場の喧騒、車のエンジン音やサイレ
あった。かつての家族の形態はブルジョア的であ
ン、また機械の軋む音などで構成されていた。労
り反革命的なものとして理解され、特に党に献身
働の現場と新しい芸術文化の形態を重ね合わせ
する幹部たちほど家族から「解放」されることを
る「プロレタリア音楽」だった。また、音楽の分
進んで実践していた(Figes 2007, pp.8-13)。
野で他の形態よりも積極的に実施されたのはコー
ボグダーノフにとって、プロレタリアによる階
ラスだった。ボグダーノフにとってもコーラスは
級的純潔性を保持することは、何よりも新しい社
「集団性および『身体』と『精神』の統合」を示
会における文化の前提となっていた。農民も本質
すものとして高く評価されていた(他方で、他の
的には「個人主義、個人的利益、私有財産の精神
種の音楽がプロレトクリトで否定されていたわけ
に惹かれる」階級であり、集団主義を善とすべき
ではなく、フォーク音楽や一見はブルジョア音楽
プロレタリアートとは相いれない。知識人階級に
の代表ともうつるピアノ演奏のレッスンなども、
対してはより批判的であり、やはり彼らも「個人
地方のプロレトクリトでは行われていた)。ペト
主義」の体現者なのであった(佐藤 2000、pp.
ログラードのプロレトクリト集団は、有名な「プ
151- 165)
。
ロレタリア詩」にメロディーをのせた「革命讃
美歌」を製作し披露していた(Mally 1990, pp.
(2)プロレトクリトの活動実態
125- 141; Stites 1989, pp. 159- 160; Taylor 1991,
日常生活を含めたあらゆる生活様式の変革が、
p. 48)。
新しい文化の創出には必要とボグダーノフは説い
演劇分野においては、プロレトクリトは比較的
ていたが、プロレタリア文化の涵養のために、地
高い評価を得ており、また積極的に国家的なイベ
方のプロレトクリト組織が心血を注いだのは、参
ントにも参加していた。5 月のメーデーや 11 月
加者たちの芸術性を高めるための活動であった。
の革命記念日に開催された国家的な祝祭イベント
すべてのプロレトクリトは、演劇、音楽、文学、
にも参加していた。革命後の初のメーデーにおい
絵画の四部門を必ず活動の中に含めることを求め
ては、ペトログラードのプロレトクリトが唯一
られた。これらのアート・スタジオでは、多岐に
の組織化された演劇集団であり、そのパフォー
渡る分野において芸術作品が産み出され、それら
マンスは好意的な反響を得ることとなった(von
の一部はプロレタリア精神の発露を象徴するもの
Geldern 1993)。
でもあった。例えば、1918 年にプロレトクリト
多くの同時代人や歴史家が指摘するように、演
に参加していた、当時まだ 10 代だったアレクサ
劇は初期のソヴィエト政権にとっては、最も効果
ンドロフスキーという少年の発表した詩は次のよ
的なプロパガンダの形態と考えられており、党幹
うなものであった(Stites 1989, p. 72)。
部たちもその有益さを認めていた。識字率の低い
状態にあった国家にとって、住民たちが認識で
ぶち壊せ、
きる形式で革命と権力の正統性を伝える手段と
こなごなに
して機能していたのである(Fülöp-Miller 1927;
古い世界を !
Lunacharskii 1920; Wood 2005)。すなわち、演
20 国際文化研究 第18号(2014)
劇は、エンターテイメントであるのみならず、重
クリトと名の付けられた組織であってもトップの
要な政治的教育の手段でもあったのだ。
全国プロレトクリトと関連を一切有していないも
ただし、内戦中に文化的・教育的機関として活
のも多数存在していた。かなりの頻度で、各地の
動の実態があったのは、なにもプロレトクリトに
熱心な活動家による独自のプロレタリア文化につ
限らない。政府機関である教育人民委員部(ナ
いての見識をもとに、多数の地方組織が設立され
ルコムプロス)、赤軍、地方ソヴィエト組織、労
運営されていたのである。結果的に、中央機関が
働組合なども類似した芸術スタジオの開放やワ
意図し把握していたものとは比べ物にならないほ
ークショップの開催、教育機関の運営などを都
どに多種多様な活動が全国的なプロレトクリトと
市でも地方でも行っていた。しかし、教育人民
して行われていた。
委員部の指導的役割を担っていたレーニンの妻
これは、組織形態としてのピラミッド型のヒエ
である N・クループスカヤですらも、1919 年初
ラルキー構造とは矛盾するが、ボグダーノフの理
めには、プロレトクリトが大衆に「多大な影響」
想とする文化創出の形態とは合致する。ボグダー
を与えていることを認めざるを得なくなってい
ノフがプロレタリア文化の特質としてこだわり続
た(Krupskaya 1959, p. 483)。また、別の機会
けたのが、草の根レベルから生み出される労働者
では、より率直に「人びとは、〔教育〕人民委員
自身による自発的創作活動であった。ブルジョア
部ではなく、プロレトクリトに惹きつけられてい
文化が富や権力によって「上から」統制されてい
る。なぜならわれわれは大衆と密接ではないから
る文化であるならば、プロレタリア文化は反権威
だ」とも述べている(Mally 1990, p.55)。
主義的であり反中央集権主義的であろうとした。
引き続く干渉戦争と内戦による経済的な困窮
結成当初のプロレトクリトは、労働者大衆による
にもよらず、1920 年までにプロレトクリトの参
自発性を妨げないように「布告を出さない」と決
加者は 40 万人を超したと見積もられている。ま
めたほどであった(Read 1996, p.126)
。
た、全国に 300 近くもの支部を拡大させ、文化的
この「上から」の統制の欠如は、大衆による運
なワークショップ、教育、芸術スタジオ、劇場な
動に柔軟性を与えるものであったが、プロレトク
どを組織し運営することを成功させていた。 リトの根幹となる理念をも希薄化させるものであ
果たして、問題となるのは、革命と内戦の混乱
った。ボグダーノフらによる理念とは相反するよ
と貧窮の中であっても、なぜそれほどまでに多く
うに、階級的な純粋性とは乖離し、かなり多数の
の大衆がプロレトクリトに興味を抱き、活動に参
非プロレタリア階級の大衆(中産階級者、熟練
加したのかという点である。先に述べたような、
工、農民など)が、地方のプロレトクリトには参
芸術的側面における活動が興味を抱かせたことは
加していた。都市部においても同様で、例えばモ
否定できないが、それだけでは他の機関と比べて
スクワ支部では、より積極的に農民らの参加を促
プロレトクリトの相対的な優位性を説明したこと
していたし、赤軍や労働組合の類似した機構との
にはならない。これにはプロレトクリトの組織と
共同活動も推進していた。結局のところ、マリー
しての独自性について考察が必要である。後に述
が結論付けるように、プロレトクリトがその参加
べることになるが、この独自性はまた、プロレト
者を選定していたわけではなく、「構成員がプロ
クリトの組織としての脆さでもあり、諸刃の剣で
レトクリトを形づくっていた」のであった(Mally
もあったのだ。
1990, p. 90)
。
逆説的なことではあるが、プロレトクリトがこ
(3)自発性と統制
れほどまでに多くのソヴィエト市民を魅了したの
プロレトクリトは、理論上では、全国プロレト
は、ボグダーノフの理念と哲学が、プロレトクリ
クリトを頂点として、そこから順に州レベル、地
トの実際の活動に完全に注入され組織化される前
方レベル、郡レベル、各地の工場レベルと、ピラ
だったからなのである。このような状態で拡大し
ミッド型のヒエラルキー構造を従えた中央集権的
たプロレトクリトだからこそ、階級的閉鎖性を薄
組織であった。しかし、実態としては、プロレト
めたままで拡大し、活動の範囲も限定されること
プロレトクリトと「新しい文化」 21
がなかった。4)
紙である『イズヴェスチヤ』は、数ページの紙
この階級的純潔性の放棄については、組織とし
面が、月に一度程度の頻度で、わずか数部だけ
ての構造的問題とあわせて、当時のソ連の社会的
が到着するようなありさまだった(Brooks 1985;
状況も大きく影響していた。内戦期を通じて、
Kenez 1985)
。
200-300 万人近くの労働者の減少が生じていた。
このような状況下において、地方に党中央の
彼らの多くは故郷の農村に帰るか、共産党組織の
メッセージを届けることを期待されたのは、文
指導的地位に昇進していたのである(Fitzpatrick
字通り「生の声」、すなわち口頭での伝達であっ
1992, pp. 18-19)。このように内戦、大量の人口
た。ただし、地方でその役割を担う人材も限られ
移動、階級的な流動性が生じた社会において、プ
ていたし、伝達者による党のメッセージの誤解は
ロレトクリトが果たした役割は大きかったのだ。
頻繁に繰り返されていた。5)党によって派遣され
第一に、都市の労働者に対して、継続的に文化
た「演説者」たちは、徐々にその信頼性を失って
的活動を提供できた唯一の機関であった。労働
いったし、内戦が終結した後になっても、プロパ
者にとっての教育やクラブでの活動の重要性は
ガンダに従事できる人材の確保に党は苦心し続け
L. トロツキーも強調していたが、内戦下におい
ていた。(RGASPI 17/34/15/8)
。他方で、人気を
ては、組合も教育人民委員部も組織的統一性の欠
得ていたのは、プロレトクリトの劇団員たちによ
如や資金的な問題によって、活動が不確実な状況
って行われたレーニンやトロツキーの「ものま
にあった。プロレトクリトは、このような状況下
ね」によって疑似的に伝えられる党幹部の声であ
でも、カフェや図書館といった施設のみならず、
り、唯一の興味を惹くニュース・ソースとなって
文化活動の機会や政治的教育の機会を提供できる
いった(Gorham 2003, p.49)
。
唯一の媒体となっていたのである。
あらゆるプロパガンダは、一方通行のコミュニ
また、ボリシェヴィキにとっては致命的なほど
ケーションではなく、双方向性を有している。ソ
に、内戦期は中央と地方の間に、また国家と社会
連初期の人びとも例外ではなく、一方的に党や政
の間に、埋めがたいほどの「コミュニケーショ
府からの布告を受け入れた受動的な主体ではな
ン・ギャップ」が産み出されていた(Gorham
く、能動的な参加主体なのである。地方都市のゼ
2003)。権力を掌握した直後から、一部の都市労
ムストヴォの研究が示すように、第一次世界大戦
働者を除いて、ボリシェヴィキの支持層は確固と
のさなかにでも、ロシア帝国内の人びとの知識に
したものではなかったし、党・政府幹部もそれを
対する渇望は、混乱と貧窮のなかにあっても減退
認識していた。だからこそ、革命初期の党と国家
することはなかった(Seregny 2000)
。
にとっての最大の課題は、権力の正統性を示し、
政権奪取の直後から、ボリシェヴィキは新たな
その権力を国家の隅々に浸透させることだったの
形態での権力の循環を構築させることに尽力して
である。積極的に文化・芸術・教育活動を普及さ
いた。その中で党は社会に対して指導的な役割
せようとしたのも、ボリシェヴィキ権力を確立化
を担い、「文化的でない人びと」を「文化的なソ
させるためであった。ボリシェヴィキ幹部の意志
ヴィエト市民」として教育することを目指してい
に反して、内戦はこれらの活動を難しくさせるば
た。しかし、革命と内戦の混乱のなかで、ソ連領
かりか、大衆に直接的に語りかける機会すらも
内の個人に対しても社会に対しても、その指導的
奪うものであった。トロツキーは、新聞の配布
役割と権力を行使する回路を確保できずにいたの
を「広く大衆に向けた政治的・文化的教育のため
である。プロレタリアートによる国家という理念
の主要な道具」と位置付けていたが、印刷から配
すらも、当時の現状とは符合せず、党の基本的理
布に至るまで大きな影響を被っていた(Trotsky
念すらも見直しを迫られていたのだ。
1973, p.394)
。内戦期の新聞の流通部数は、第一
その中でプロレトクリトが果たした役割は、革
次世界大戦の開戦前年と比較しても半分以下にま
命と内戦の混乱期にあって、中央から伝達され得
で落ち込んでいたのである。都市外部への新聞の
ない情報や知識、また娯楽などを国家と社会の間
流通となるとさらに酷い状況にあり、政府の機関
に入り媒介する役割を担ったことに尽きるであろ
22 国際文化研究 第18号(2014)
う。それ故に、多くの市民を惹きつけ、また国家
じ、「プロレトクリトは、前進すべきすべての道
と社会を最も効果的に媒介する機能を有したので
を照らしてくれる光り」であると讃えた(Paul
あった。1920 年代半ばではあるが、A・グラムシ
1921)。
は、ボリシェヴィキの中央委員会に対して直接
帝政期に亡命したロシア人夫妻の子としてアメ
に手紙で語りかけている。労働者の国家と革命
リカで育った L・パスヴォルスキーも、プロレト
という大義を犠牲にしてでも、労働者 - 農民間の
クリトに興味を示していた。後にワシントンの高
紐帯の強化を行わない限り、「プロレタリアート
官に上り詰めるパスヴォルスキーは二月革命につ
は、支配的階級にすらなりえない」し、「そのヘ
いては好意的な評価を下していたが、10 月革命
ゲモニーと独裁を維持」することはできないと。
以降に反ソヴィエト的姿勢をあらわにする。しか
(Gramsci 2000, pp. 164- 171)。ある意味で、プ
し、パスヴォルスキーはプロレトクリトに対して
ロレトクリトの実態は、グラムシの提言を先取り
は好意的で、1921 年にプロレトクリトを紹介す
していたのである。プロレトクリトは革命と内戦
る記事を雑誌上で発表した。この記事はプロレト
によって混乱したソヴィエト社会における新たな
クリトを「ロシアにおける共産主義実験の最も興
ヘゲモニーを一時的にではあれ占めていたのであ
味深い副産物」と描写し、その意義を「未来の新
る。
たな文化(new culture of the future)」と評価
労働者クラブやニュースの伝達の例が示すとお
した。また、ソヴィエト政権下におけるプロレト
り、プロレトクリトやプロレトクリトの参加者た
クリトの活動の実態を適切にアメリカの読者たち
ちは、都市部においても地方においても、他のア
に伝えようとこころみている(Pasvolsky 1921)。
クターが埋めることのできなかった重要なメディ
国際的な反響を呼び始めていたプロレトクリ
アだった。プロレトクリトに参加したある女性労
トではあるが、国内の状況はこの頃に暗転して
働者は記している(Mally 1990, p. 137)。
いく。急速にその組織を拡大していたにもかか
この建物のなかで、われわれは最も素晴らしい
影響力は衰退していくのである。組織としての
わらず、内戦が終焉を迎えた 1921 年頃にはその
日々を経験した。日々の労働と家事から離れ
プロレトクリトは 1932 年まで存続するが、当初
て、素晴らしく価値のあることを学んだのだ。
に意図された形としての活動は 1920 年代前半に
これまで知る由もなく触れることもできなかっ
完全に終局した。1922 年の中ごろまでに、40 万
たことを学んだのだ。わたしたちは、それまで
人近くいた参加者は 2500 人程度にまで減少し、
音楽とは何か、文学とは何かを理解していなか
全国的にも 20 ほどの組織しか活動が記録されな
ったし、その他の素晴らしいものも知らなかっ
くなっていた(Mally 1990, p.221)。1921 年頃に
た。
モスクワに滞在していたフェミニスト活動家で
いま、わたしたち労働者は、かつては思いも
よらなかったことを学んでいるのだ。
(4)国際的反響と国内での衰退
ありアナキストの E・ゴールドマンは記している
(Goldman 2012, pp. 114-15)
。
プロレトクリトはボリシェヴィキの甘やかされ
1920 年の終わりごろには、プロレトクリトの
た坊やに過ぎない。多くの親がそうであるよう
活動と理念は国境を越えて伝えられ始める。イギ
に、自分の子供たちの特筆すべき才能を主張し
リス在住の著述家であり翻訳者であった E・ポー
ている。ボリシェヴィキはプロレトクリトを、
ルは、イギリスにおけるプロレタリアの教育を説
新しい価値観とともに世界を豊かにする使命を
く著作を夫人とともに発表し、その中でプロレト
背負った才能であると讃えている。そうすれ
クリトを絶賛している。自国イギリスの労働者た
ば、大衆はもうこれ以上、ブルジョア文化によ
ちに向けて、ソヴィエト政権下のロシアでは新し
って毒された井戸から水分を摂取する必要がな
い倫理観と精神性を備えた労働者たちが自立し
いと。彼ら自身の創造的動機と自己努力によっ
始め、労働者の国家を安定へと導いていると論
て、文学、芸術、音楽などの分野に素晴らしい
プロレトクリトと「新しい文化」 23
功績をもたらせるだろうと。しかし、ほとんど
。
過ぎなかった(Fitzpatrick 1992, p.33)
の神童として扱われる子供たちがそうであるよ
革命前からのレーニンとボグダーノフの対立
うに、プロレトクリトも初期の見通しを果たす
も、プロレトクリトとソヴィエト権力の関係を複
ことはなかった。すぐにその作品の質は平均以
雑にすることになった。ほとんどのプロレトクリ
下であること、革新性を欠いていること、独創
トの指導部が党員でもあったのに対して、ボグダ
性を有していないこと、またその力を保持でき
ーノフは 1909 年に離党して以来、再入党するこ
ないことを示したのである。すでに 1920 年に
とはなかった。ボグダーノフの離党は、レーニン
は、プロレトクリトの二人の養父である〔マキ
との理論的な対立によるものであった。レーニン
シム・〕ゴーリキーと〔アナトリ・〕ルナチャ
は 1908 年に執筆した『唯物論と経験批判論』に
ルスキーから、プロレトクリトが失敗であった
おいて、ボグダーノフはマルクス主義を理解して
と伝えられていた。
おらずその理論は空虚で偽りだらけのものと糾弾
している(Lenin 1947)。これに対してボグダー
プロレトクリトの終焉は、なぜかくも早々に訪
ノフも、1917 年のレーニンによる「四月テーゼ」
れることになったのだろうか。
を「狂人のたわごと」と漏らしていた(Sukhanov
3. プロレトクリトの衰退
1984, p. 286)
。
ボリシェヴィキが政権を獲得した後に生じたプ
ロレタリア文化をめぐる論争も、彼らの「プロレ
前述の通り、ボグダーノフらプロレトクリトの
タリア文化」をめぐる見解の相違と、「プロレタ
理論家たちが想定していない範囲においてプロレ
リアートの前衛としての党」のテーゼをめぐって
トクリトは普及し、人気を博することができてい
の対立を反映していた。前述のとおり、ボグダー
た。ただし、この矛盾はプロレトクリトが継続的
ノフは新たな思考様式と実践形態を備えたプロレ
な組織として機能し続ける足枷をうむものでもあ
タリア文化の創造なしには、プロレタリア独裁は
った。1920 年末のプロレトクリトの衰退した要
不可能であると信じていた。プロレタリア革命に
因を、以下「階級的純潔性を標榜する組織として
とって、テクノロジーの発展によって促進された
の矛盾」と「自治性へのこだわり」の二点を中心
純然たるプロレタリア文化をうみだすことは、必
に考察したい。
要不可欠であると。
レーニンは当時の社会の状況をある程度把握し
(1)階級的純潔性へのこだわり
ていたし、現実主義者のレーニンにとって、ボグ
同時代の観察者であったイタリア共産党員グラ
ダーノフのプロレタリア独裁理論はやはり絵空事
ムシがいみじくも述べたように、ロシアでの革命
に過ぎなかった。レーニンは社会主義の建設には
はプロレタリアとしての階級文化の成熟の前に訪
「資本主義社会の残滓を活用する」ことが必要と
れてしまった「カール・マルクスの資本論にそ
論じることをためらうことはなかったし、帝政期
ぐわない革命」だったのである(Gramsci 2000,
の知識人たちを登用する必要も認めていた。「わ
p.33)。ボグダーノフの理想主義的な文化構想と
れわれコミュニストの中から専門家たちを育て上
異なり、プロレタリアートが実態として存在を確
げるには時間が足りない」と感じていたのである
立し、その階級的文化意識が高まる以前に、プロ
(Lenin 1950 a, p.358; 1950 b, p. 52)
。
レタリアートによる国家の建設を標榜するボリ
ボグダーノフにとってもレーニンにとっても、
シェヴィキによって政権が掌握されたのである。
新しい社会の建設には大衆の教育が必要であると
レーニンの理論によれば、党はプロレタリアの前
いう認識は共有されていた。しかし、ボグダーノ
衛であり、政治意識の未熟なプロレタリア大衆に
フがプロレトクリトを原点とした大衆の自発的な
啓蒙的な役割を与えるエリートであった。しか
プロレタリア精神の発展を繰り返し強調したのに
し、当時の現状は、フィッツパトリックの言葉を
対し、レーニンは政治意識の未成熟な労働者およ
借りれば、党は「存在していない階級の前衛」に
び農民大衆に対しての党による指導を重視した。
24 国際文化研究 第18号(2014)
この対立は、プロレトクリトと国家権力との関係
も自発的な「プロレタリア的公衆」の出現を切
にもかかわるものであった。
望するような見解を示していた(Bukharin and
Preobrazhensky 1922; Bukharin 1989)。
(2)国家機構からの独立と自治の確保
ボグダーノフは、プロレトクリトはあらゆる種
ボリシェヴィキにおける最大のプロレトクリ
トの擁護者であり、その設立に携わった A・ルナ
類の権力から解放された自発的な集団であるべき
チャルスキーは、1920 年 10 月になっても、レー
であると想定していた。しかし、内戦がピークを
ニンの意向に反してプロレトクリトを自治的な組
過ぎ、ソヴィエト政権が国家の安定に向けた方針
織として存続させることを画策していた。同月に
を打ち出し始めると、プロレトクリトの自発性と
開催されたプロレトクリト大会における演説で
(実態としての)超階級的集団性は、批判の目を
も、プロレトクリトを全面的に擁護していた。
向けられるようになっていく。とくに教育担当の
しかし、このルナチャルスキーの行為を政府の
クループスカヤはプロレトクリトの国家指導から
機関紙である『イズヴェスチヤ』紙上で知ったレ
離れた性質と教育人民委員部との活動の重複を強
ーニンは、怒りをあらわにし、自らの手によって
く批判していた。また、当初の目的のように「新
プロレトクリト大会の決議案を起草する。その中
しい文化の実験室」として機能していないことに
でレーニンは、名指しでルナチャルスキーを批判
も憤慨していた(Fitzpatrick 1970, p.105)。プロ
し、プロレタリア文化に関する独自の理論を展開
レトクリトの全国的組織の代表を担い、同時に教
した(Lenin 1950c, pp.291- 292)。
育人民委員部の構成員でもあった P.I. レベデフ・
ポリヤンスキーは、二つの組織が競合していない
『イズヴェスチヤ』[1920 年 ]10 月 8 日号から明
こと、また相互補完的であることを主張していた
らかなように、同志ルナチャルスキーは、プロ
が、他の党幹部からの批判を翻すほどには十分で
レトクリトの大会で、われわれが昨日彼と約束
はなかった(Lebedev-Polyansky 1984, p. 66)。
したことと全く反対のことを話した。
独自の資金源を確保していなかったプロレトクリ
大至急(プロレトクリト大会の)決議草案を
トは、教育人民委員部に経済的にも依存してお
起草し、中央委員会をとおし、これをプロレト
り、プロレトクリトの立場は弱められていった。
クリトのこの会議に採択させるよう提出するこ
両組織が調和的に活動している地域もあったが、
とが必要である。きょう、すぐさま中央委員会
サラトフのようにプロレトクリトが国家機構に対
の名において教育人民委員部参与会でも、プロ
する従属を示さない限りは、会議場などの地方の
レトクリト大会でも採択させなければならな
施設使用を認めないなどの対応をとるケースもあ
らわれ始めていた(Raleigh 2002, p.221)。
い。なぜなら、大会は今日終わるからである。
(強調は原文)
プロレトクリトの中心となった人物たちの多く
は、ボグダーノフを除いて党員であったし、党や
この序文に引き続くプロレトクリト大会の決議
政府の要職に就いていることも多かった。対し
草案において、レーニンは、プロレタリア文化
て、ボリシェヴィキ指導部のなかにも、プロレト
は、ブルジョア文化の基盤の上に成立するもので
クリトの理念に強い共感を示した者も存在した。
あるとの考えを披露する。また、プロレトクリト
たとえば、党を代表する理論家となる N・ブハ
の「自治」への固執を糾弾し、党による指導性
ーリンはボグダーノフの影響を強く受けた人物で
と政府による統制が必須であることを主張した
あったし、プロレタリア革命の実現を促す過程に
(Lenin 1950c, pp.291- 292)。
おけるプロレトクリトの意義を高く評価してい
た。1920 年に出版された E・プレオブラジェン
決議草案
スキーとの共著『共産主義の ABC』には、ブハ
【中略】
ーリンがボグダーノフの影響を受けていること
四、マルクス主義は、ブルジョア時代のもっと
が明確に表れている。さらに 1920 年代に入って
も価値ある成果を拒否するどころか、二〇〇〇
プロレトクリトと「新しい文化」 25
年以上にわたる人類の思想と文化の発展におけ
までのこだわりにあった。プロレトクリトにとっ
る価値あるもののすべてを吸収し加工すること
ての最大のジレンマは、「下から」の自発的な運
によって、革命的プロレタリアートのイデオロ
動へのこだわりを保ち続けた一方で、「上から」
ギーとしての世界史的意義を獲得したのであ
の「プロレタリア文化」についての指針が示され
る。あらゆる搾取に対する闘争の最終段階とし
ない限りにおいては、純粋な階級文化の創造も新
てのプロレタリアート独裁の実際の経験に励ま
しい文化の実験場となることも困難だったことに
されながら、この基礎のうえに、この同じ方向
ある。疑いなく、プロレトクリトの最盛期は中央
に向かって続けられる将来の活動だけが、真の
が地方の実態を統制も把握もできていない時期で
プロレタリア文化の発展と認められる。
あった。ただし、これは「純然たるプロレタリア
文化の追求」と矛盾する活動が行われた時期でも
五、全ロシア・プロレトクリト大会はこの原則
ある。比較的に自由で、かつ娯楽と知識を提供す
的見地を固持し、自分たち独特の文化を生み出
る媒体であったからこそ、プロレトクリトは人気
し、孤立した組織に閉じこもり、教育人民委員
を博したのであり、全ての参加者が「プロレタリ
部とプロレトクリトとの活動分野をはっきりと
ア文化」に共鳴していたわけではなかったのだ。
区別する、あるいは教育人民委員部の内部でプ
ボグダーノフの階級的純潔さへのこだわりとは反
ロレトクリトの「自治」を打ち立てようとする
対に、初期のプロレトクリトの活動には多くの知
などのあらゆる試みを、理論的に誤っており、
識人が関わっており、彼らの給与は主要なプロレ
かつ実践的に有害なものとして断固として排撃
トクリト活動家よりも高いものでさえあった。こ
する。反対に、大会はプロレトクリトを教育人
のような状況は、クループスカヤが、プロレト
民委員部のネットワークの補助機関とみなし、
クリトは反革命的知識人にとって「天国」とな
ソヴィエト権力(とくに教育人民委員部)とロ
っていると苦言を呈すほどであった(Fitzpatrick
シア共産党の指導のもとに、プロレタリア独裁
1992, p.20)
。
の諸任務の一部である自らの任務を遂行するこ
娯楽としての側面も、その創出に携わることへ
とを、プロレトクリト全組織の無条件の義務と
の興味と関心であり、ボグダーノフらが期待して
する。
いたようなプロレタリア芸術の昇華とは程遠い状
況にあった。ゴールドマンの記録にもある通り、
ブハーリンの最後の抵抗によって、プロレタリ
プロレトクリトが生みだす作品群は未来を予感
ア文化の理論に関する項目についての若干の修正
させるどころか、その価値を酷評されるものも
が施されたが、この決議は、一週間のうちに政治
多 か っ た(Clark 1995, p.110; Goldman 2012,
局で採択された。事実上、この決議はレーニンと
pp.14-15)
。結果的に、プロレトクリトは大衆的
党および政府からのプロレトクリトに対する最後
であることを放棄し、特定の優れた才能を示す芸
通牒であった(Biggart 1987)
。
術家の育成に舵をきることになる。1920 年 10 月
レーニンがプロレトクリトの活動に対してその
には、「芸術活動における労働者の専門職化が彼
自治性を批判し、党への従属を求め、その統制に
らの属する階級との亀裂を生みだすと危惧する必
乗り出すと、組織としての一体性も一貫性も有し
要はない」と宣言せざるを得ない状況にまで陥っ
ていなかったプロレトクリトは、一気に衰退へと
ていたのだ(Mally 1990, pp. 152- 159)。
向かうことになったのである。その後も党による
M・フーコーが論じるには、権力の行使は、国
プロレトクリト批判は相次ぎ、組織としての実態
家や支配的な社会階級に独占されるものではな
を奪われていく。ボグダーノフも 1921 年にはプ
く、日常のさまざまな関係の中に偏在している。
ロレトクリトに見切りをつけ、医学研究に軸足を
ただし、フーコー自身がその後期の活動の中で着
移してしまう(佐藤 2000, pp.231- 232)。
目する観点ではあるが、統治と権力の行使は同一
プロレトクリトの最大の問題は、階級文化への
のものではない。社会には複雑で独立した現実が
盲目的な追従と草の根からの自発性への偏狭的な
あり、それはそれぞれが独自の反射的また制御的
26 国際文化研究 第18号(2014)
メカニズムと混乱の可能性を有している。統治
することは、その社会を扱うことに他ならない
(Foucault 1986, pp.239-256)。翻ってレーニンに
率いられたボリシェヴィキ政権は、すでに存在し
ていた社会の条件を基として、新たな社会と個人
を創出しようとしていた。他方で、プロレトクリ
トにとっての統治の精神性とは、既存の権力構成
とメカニズムから完全に独立した社会を構成する
ことであり、それはまた自発的に生み出されるこ
とを想定していた。プロレトクリトは、革命と内
戦の混乱期において、国家と社会を媒介するヘゲ
モニー空間を構成するものであった。しかし、そ
れは統治を目指す運動ではなかった。これが、プ
ロレトクリトが大衆運動足り得た理由であり、ま
た大衆運動としかなり得なかった理由であると言
える。
4.おわりに
注
*編集部注)本 稿の審査関連業務はウルフ編集委員が
代行した。
1)正 式な政党名称は、1918 年までは「ロシア社会民
主労働党」(ボリシェヴィキ派)であり、1918 年に
「ロシア共産党」と改称される。本稿は、通名のボ
リシェヴィキもしくは党と呼称する。
2)本稿は 1920 年代の共産主義者アイデンティティの
構築に関する比較考察の準備論稿として執筆され
ており、多くは二次史料に依拠していることをこ
とわっておく。
3)ボグダーノフの生涯とその思想的全貌については、
(ボグダーノフ 2003, pp. 190- 221)の佐藤正則によ
る訳者解説及び佐藤自身の著作(佐藤 2000)に詳
しい。
4)最 新のボグダーノフのプロレタリア文化概念の研
究においても、この点は強調されている(White
2013)。
5)この問題には、1920 年代半ばになっても十分に解
決されていない(Takiguchi 2009)。
参考文献一覧
トロツキーが『ロシア革命史』の冒頭部に記し
た文章は、プロレトクリトの考察にとっても非常
に示唆的である(トロツキー 2000, p. 44)。
指導組織なしには、大衆のエネルギーはピスト
ンつきのシリンダーに注入されなかった蒸気のよ
うに発散してしまうであろう。しかし、動力をつ
くりだすのはやはりシリンダーでもピストンでも
なく、蒸気である。
この言葉は、革命における政治指導者と大衆の
関係の考察の中で記されたものであるが、内戦期
のプロレトクリトの盛衰にも一部当てはまるであ
ろう。「理念としては純階級的、実態としては超
【文書館史料】
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いた矛盾は、大衆に人気を博していた要因でもあ
った。しかし、大衆運動としての勢いを持ちえた
一方で、国家権力からの介入を受けると同時にそ
の影響力は急速に衰えていったのだ。
革命期から内戦期にかけて隆盛し衰退していっ
たプロレトクリトへのまなざしは、黎明期のソ
ヴィエト政権における国家と社会の関係、また国
家と文化の関係を考察するうえで多くの示唆を与
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