i スリランカにおける演劇史と日本の伝統演劇から の影響について

i スリランカにおける演劇史と日本の伝統演劇から
の影響について
クラティラカ、クマーラシンハ
スリランカ{Sri Lanka}は,紀元前三世紀ごろから長い文学の歴史を持っていますが、
その中に演劇という物は、つい最近までありませんでした。わが国の古典文学は「パー
リ」{Pali}文学と「サンスクリット」{Sanskrit}文学の影響を受けましたが、「サンス
クリット」で一番人気があった演劇から影響をうけて書かれた演劇がなかったと言うの
は残念なことだと思います。
私たちには古典演劇はありませんが、現在、十八世紀ごろから始まった民俗芸能を当
時のまま上演しています。この民俗芸能の多くは、いろいろな宗教の信仰から始まった
悪魔払いの踊りと言われる儀礼と祭礼です。これは全国各地で行われ、特に地方の村で
行われていました。「悪魔のダンス」{dance}と言われる物の中で、「ス-ニヤンケピ
ッラ」{Suuniyan kepilla} や、「ラタヤクマ」{Ratayakuma}(A devil dance to bless
childless women)や、 「サンにヤクマ」{Sanniyakuma}や、「マハソホンサマヤマ」
{ Mahasohonsamayama}などの物は宗教上の儀礼であると考えられます。今でもスリラ
ンカの中央で行われている「コホンバカンカーリヤ」{Kohonbakankariya}と地方で行わ
れている「ガムマドウワ」{Gammaduwa}と言う物です。この儀礼と祭礼は現在の演劇
の原型を持っています。
その他に、十八世紀ごろから始まって今まで続いている民俗芸能が三つあります。
それは「コーラム」{Kolam}と「ソカリ」{Sokari}と「ナーダガム」{Nadagam}で
す。
「コーラム」は、スリランカの南の海岸地方に住んでいる一般の人々の中で一番人
気がある民俗芸能です。その主な特徴は、色のついた仮面をつけることです。仮面の民
俗芸能と言われます。仮面は、「カドゥル」{Kaduru}と「ルクアッタナ」{Rukattana}
と「サマダラー」{Samadara}と言う木材から作られます。この「コーラム」という民
俗芸能は、結婚している女性に子供が長い間、生まれない場合に行われる祭礼です。子
供が授かる様に特にインドの神「ヴィシュヌ」{Visnu}を思い出しながら演じられます。
「コーラム」は芸能であり、そこには儀礼のような目的はないと言う学者もおり、儀礼
の目的があると言う学者もおり、「コーラム」が純粋な芸能であるか否かについては学
者が分かれています。「コーラム」の内容は「ジャータカ」物語{Jataka Tales}から取
られた物です。特に、「ウェッサンタラ」、{Wessantara}「チュッラダヌッダラ」、
{Chulladhanuddara}「サンダキンドゥル」{Sandakinduru}と言われる物語から作られ
ました。
その物語の中には、支配階級の上に住んでいる人々と支配者に手伝うした人々の登場
人物が見られます。特に、この支配階級の大臣と公務員の様な人々の愚かな機能と弱点
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を批判するために「コーラム」演技指導者は努力したと思います。そのために、役者は
物まねと対話を使います。
「コーラム」は、神様とお釈迦様に拝んで祈ってから始まります。この芸能を演じさ
せる舞台はシンハラ語で「ターナーヤムポラ」{Taanaayampola}と言われます。これの
形は丸いです。これは日本の薪能の様に、建物の中ではなく外で演技されます。「コー
ラム」は主に二つの部分に分けることができます。これのあらすじにしたがって、初め
の部分に、入るのは「ターナーヤムポラ」と言われる舞台を作ることの仕事です。この
様な舞台を作ることは内容の部分です。特に、「コーラム」は屋外舞台で演技するから
です。これは作るために酒を飲んで、酔っ払ったの様に演技される役者が来ます。この
人たちは「コーラム」の登場人物です。彼らは自分の仕事をはっきり、正しくすること
ができないで、冗談をして回りにいる観客が笑わせる様になります。これは日本の狂言
と尐し似てる物です。この様な役者の喜劇の様な物を見る観客は笑いながら楽しみます。
王様と王妃が、「ターナーヤムポラ」へ来られたから次の部分が始まります。舞台のあ
る横には太鼓をたたく人々と語り手が座るために伝統的なマットを敷いて置きます。
「コーラム」の起源についていろんな意見があります。スリランカの有名な演劇学者
エデイリウィーラ。サラトチャンドラ{Ediriweera Sarachchandra}が「コーラム」は
「サンニヤクマ」と言われる悪魔払い踊りから生まれた物と言います。他の評論家は、
もともとのインドの伝説と言われる「マハーサムタ」{Mahasammata}と言う物語の
「マハーサムタ」と言われる王様の王妃の欲望を満足するために、「コーラム」が生ま
れたと言われます。
二番目の「ソカリ」は、特にスリランカの中央とワンニ[Wanni]と言う地方と「サタラ
コーララヤ」{Satara Koralaya}と言う地方の人々の間には行われていました。ある学者
は、これが初めて行われた民俗芸能であると述べています。今では、別の村でも行われ
ています。物まねで表現するのが、その演劇の特徴です。歌の中に出来事が織り込まれ
ています。
この演劇には、他の演劇と同じ様にいろいろな物語を演技しません。一つの物語が上
演されたのは特徴です。これは簡単で村人が見てよく分かれる様に書いてあります。物
語は王様、王子、大臣の様な支配階級の登場人物が含めた物です。この話から描いてい
る総理大臣、王様、王様の娘、「アーンデイグル」{Andiguru}青年、「ソカリ」、「パ
ッチャミーラー」、「カーリ」が登場人物です。総理大臣が自分の娘と愛をしている事
を助言する人から聞いて、怒った王様は、総理大臣 を殺して、娘と一緒に彼女の親し
い友達になっていた尐女を追放しました。そうしている間、「アーンデイグル」と言う
青年は、合うような相手を探していました。後で、その青年は王様の娘と結婚をする様
になりました。彼女に手伝うしていた友人の尐女も、その夫妻と一緒にいることにしま
した。王様の娘は「ソカリ」と呼ばれて、尐女は「カーリ」と呼ばれる様になりました。
彼らは住んでいた村はある悪魔によって隠れて支配していました。とかくするうちに、
この悪魔が怒って村人を死亡するようになりました。ですから、怖くなっていた村人は
王様に会ってこの事件を表現されました。この悪魔を捕まえられる人に、その人が好き
な物をお土産にしてくれると、王様は表現されました。「アーンデイグル」と言う青年
は、悪魔を捕まえて自分の気持ちのしたがって、王様からお土産にして、王様の息子を
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自分の家の仕事の手伝いにもらいました。後で、王様の息子は、「パッチャミーラー」
{Pachchameera}と呼ばれます。そして、「アーンデイグル」{Andiguru}青年と、「ソ
カリ」{Sokari}と、「パッチャミーラー」と、「カーリ」{Kari}が船を作って、それ
に乗ってインドからスリランカと言われる島国へ来ます。スリランカへ来ましたが、住
む所がなかったので、困る事になりました。よく考えた後、「ソカリ」は家を建てるた
めに、土地がなかったので、それを取り入れるに、その村の村長を会いに行きました。
村長からもらった土地で家を建てて、住むことになりました。この間、「パッチャミー
ラー」と言う人は「カーリ」と言う女性と結婚しました。彼らは一緒に生活していた間、
食べ物の問題があった時、それらを見つけるために村の真ん中に行く時、途中で、走っ
ていた犬に彼は足を噛まれました。それを治すために、薬だけではなくて、悪魔払いも
するようになります。悪魔払いをやっている間、それをしていた人は「アーンデイグル」
青年の奥さん、「ソカリ」と一緒に逃げて行きます。けれども、「アーンデイグル」青
年は、努力して、彼女を見つけます。その時、「ソカリ」は妊娠していました。そこで、
神様を拝んで祈る所で、物語を終わることになります。
この民俗芸能は、スリランカの中央地方の芸術と言われ、踊りと音楽のために「ゲタ
ベラヤ」{Getaberaya」と言う特別な太鼓を使うのは、特徴と言います。けど、ある地方
では、「ウデッキヤ」{Udekkiya}と「ダウラ」{Daula}と言う太鼓も使っています。
日本の能舞台の様に、大きい作り物を使いません。小さい作り物が尐しぐらい使います。
あまり有名ではありませんが、「カウィナーダガム」{Kavi Nadagam}と言われる,歌
劇も、当時中央地方の田舎で行われていました。「コーラム」民俗芸能からこの劇も始
まったとある学者が言います。なぜなら「カウィナーダガム」の演技するスタイルが、
「コーラム」と似てるからです。その他、「コーラム」で使う特別な太鼓がこの劇の音
楽にも使うからです。この太鼓は、「ヤクベレヤ」{Yakbereya}と言います。役者グル
ープの先導者は「ポテーグル」と言われる語り手です。その人は舞台の上で、劇に入っ
ている他の役者を紹介する様になります。劇の物語は、詩的の対話で発達させます。
「コーラム」で上演した、物語は「カウィナーダガム」演劇でも演技しました。けれど
も、「カウィナーダガム」では「コーラム」の様に演技する時役者が仮面を使わなかっ
たです。悪魔払いから影響を受けて「ヤクベレヤ」{Yakberaya}と言う特別な太鼓を使
います。最初の上演した「カウィナーダガマ」は「サンカパーラ。カターワ」
{Sankapaala Kathawa}と言う物語を背景した物です。そして、「サンダキンドウルワ」
{Sandakinduruwa}と、「マナメ」{Maname}と言う「ジャータカ」物語{Jathaka Tale}
から選んだものを背景にして劇を作って演技しました。
この民俗芸能の中で、とても人気があったのは「ナーダガム」{Nadagam}と言われる
物です。「ナーダガム」の起源については、学者の中でいろいろな意見があります。南
インドの{India}演劇、「テルックットゥ」{Terukkuthu}から影響を受けて作られた
とも、「ポルトガル」人が「Portugeese」伝えた、「ジャナワンダナー」{Janawandana}
と言われる芸能から影響を受けて、作られたとも言われます。スリランカで始めて上演
された「ナーダガム」は、南インドでとても人気があった「ハリスチャンドラ」
{Harischandra}と言うタミール人が上演した劇でした。出版された最初の「ナーダガム」
は、「エヘ-レポラ」{Ehelepola}です。これは 1814 に、上演されたと言われます。初め
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の「ナーダガム」の脚本家と演技指導者は、ピィリップシンヨ{Pilippusinyo}で、彼は
「キリスト」{Cristian}教徒でしたので、「キリスト」教の「コンセプ」{concepts}と
で、「ナーダガム」を作りました。そして、この人は「シンハワッリ」{Sinhawalli}、
「サーンタ。ジョーセプ」{Santa Josep}、「スセム」{Susemu}「,ヘレーナー。サー
ンタ。ニコロス」{Helena Santa Nikolos},「ウィスワカルマ」{Wiswakarma}、「ムル
タガム」{Murtagam}、「マータラン」{Matalan}、「セナガップ」{Senagappu}、
「ラジャトウンカットウワ」{Rajatunkattuwa},「スラバーワテイー」{Sulabawathie}、
「スターッキ」{Stakki}などの「ナーダガム」も上演されました。W.キリステイヤン。
ペレーラー{W.Cristiyan Perera}も「ブラムポーデイ」{Brampord}、「オリサンとパー
レンテン」あるいは「ベラサンタ」{Orisan and palenten alias Berasantha}と言われる
「ナーダガム」を書いて上演されました。トーマス。シルワー{Tomas Silva}と言う演技
指導者は「りやのーらー」{Liyanora}と言う「ナーダガム」を書いて上演し、その時、
これも有名になった劇でした。これらの演劇を書いた時、サンスクリット語{Sanskrit}
の言葉とタミール語の言葉をミクス{Mix}しました。その後、仏教の脚本家はお釈迦様
とお釈迦様の教え、基にして劇を作る様になりました。
この中で、とても人気があったのは、「ウェッサンタラ」{Wessantara}、「マナメ-」
{Maname}、「サンダキンドウル」{Sandakinduru}、「カーラゴーラ」{Kalagola}、
「ペラクンバ」{Perakumba},「ブワネカバー」{Buwanekaba},などの劇でした。最初
で、「ナーダガム」も演技したのは薪能の様に建物の外です。この舞台は、「カラリヤ」
{Karaliya}と言われました。舞台の前には、観客は床に座って、演劇を見るようになり
ました。その時、観客のために西洋の席を使わなかったです。
「ナダガム」を演技された、役者の先導者は、「ポテーグル」{Poteguru}と呼ばれま
す。全ての劇にはこの人物が現れます。彼も登場人物の一人ですが、特別な人物を演技
されません。この人の機能は物語に従って、時々舞台に乗って「ナーダガム」を演技す
る役者が別々に紹介することと物語の演技されないある部分を説明するようなことです。
「ナーダガム」伝統に従って、いつも「ナーダガム」が始まるのは「ポテーグル」がお
釈迦様と釈迦の教えとお坊さんたちと神様に拝んで祈ってからです。「ナーダガム」劇
の台本にはこんなことを買いてあります。これは、「ポテー。カウィヤ」{Pothe Kaviya}
とか「プールワ。ウィルドウワ」{Puuruwa Viruduwa}と言われます。そして、物語は短
く説明します。それから、「ポテー。シンドウワ」{Pothe Sinduwa}とか「プールワ。
シンドウワ」「Puuruwa Sinduwa」と言われる歌を歌います。初めて、舞台に入る役者は
「コーラマー」{Koolama}とか「バフブータヤー」{Bahubhutaya}と呼ばれます。こ
の人は、舞台の上で観客を笑わせるために喜劇をします。狂言の太郎冠者と言う登場人
物に似てます。「コーラマー」は特別な踊りをしながら舞台に入って、「ポテーグル」
と一緒に長い対話をする様になります。そして、「セッラムラマー」{Sellamlama}と言
われる登場人物は、舞台に入ります。彼は、いつも手にペンを持っています。作家に似
ています。それから、「ベラカーラヨー」{Berakaarayoo}と言われる人が三人ぐらい舞
台に入ります。彼らは、太鼓を運んでいる人たちです。次に、「ハンダドウータヨー」
{Handaduutayoo}と言う登場人物が舞台に入って劇の台本には述べたように、王様と大
臣たちが舞台に着くことを表現します。それから、王様と大臣たちが舞台に入って、席
に座ります。これまでの出来事は、「ナーダガム」演劇の初めの部分です。その後から、
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本当の物語を演技するのです。スリランカの「ナーダガム」演劇はタミール演劇から影
響を受けたとはっきり言うことができます。
この「ナーダガム」は十九世紀の後半まで行われましたが、後に、観客の気持ちを取
られることができなかったために衰退しました。
その他、日本で行われる文楽と同じような「パペット」{Puppet}(操り人形)も当時
にありました。これもスリランカの海岸地方で盛んになりました。 「ワイサーカ」
{Waisaka}祭と言われる祭りも時々、さまざまな地方で演じられました。これも、お釈
迦様の誕生,成道、入滅をお祝いする祭りです。この祭りは南方諸国の仏教徒の間に行
われています。伝承によれば、これらの出来事はすべて同じ月の満月に起きた出来事と
されています。仏教徒は、インドれき「ワイサカ」月の満月の日に仏陀の誕生、成道、
涅槃があったと信じ、「ワイサーカ」際として、この日にまとめて祝って祈るのです。
この日、祝うために劇作家が、釈迦の前世のことを含めている「ジャータカ」物語の中
で人気があった物を使って劇を作って、町の中で一時的に作られた舞台に、演戯する様
になります。この劇の特徴は、仏教徒の観客の心に忠実的な感情を誕生させることです。
その後、十九世紀の後半にシンハラ演劇史上に大きな変化が起こります。北インドか
ら来た演劇「グループ」{Group}がスリランカの南から北まで旅をしながら芸能を演じ
て回る様になったのです。その「グループ」の中で、「エルピノストネ」{Elphinstone
Dramatic Company}と言われる演劇「グループ」が最も有名になりました。その中心で、
あったインド人、バリワーラー{Baliwala}は、都市から都市を回りながら、北インドの
劇を演技しました。その時代の観客も、その芸能が大好になりました。これ以前の民俗
芸能は、いつも一晩中も行われる物でしたが、北インドの新劇は三、四時間で、終わる
ことができました。北インドの音楽も人気があり、踊りも面白く、すぐに観客の中で評
判になりました。評論家は、この有名になった演劇のことを「パールシ」{Parshi}演劇
と言います。
スリランカの脚本家と演技指導者は、この「パールシ」演劇から影響を受けて、新し
い演劇を広めようと積極的に取り組みました。最も有名になったのは、C。ドン。バス
テイヤン。バンダーラ{C.Don Bastiyan Bandara}と言う人でした。彼は、始めて「ナーダ
ガム」の脚本家となり、演技指導者にもなった人です。この「パールシ」演劇から影響
を受けて生まれたスリランカの演劇が「ヌールテイ」{Nurthi}」です。その「パールシ」
から影響を受けた最初の演劇は「ロリナー」{Rolina}と言います。これは英語の物語か
らシンハラ語に翻訳された物です。この人の演劇の中で観客が感動された物は、「シェ
ークスピア」{Shakspeare}の「ローミヨー。と ジュリアット」{Romio and Juliot}は
シンハラ語に翻訳されて演技した劇です。それから、この人は「プランコローとインガ
ルリ」{Pranklo and Ingarly}、「リヨナインとエウリン」{Liyonain and Ewlin}、「ロム
リン」{Romlin}「,プローテイヤス、と ウェランタイン」{Protius and Welantian}、
「シンハバーフ」{Sinhabahu}、「スダーサとサリニー」{Sudasa and Salini}、「シュ
ラー」{Shula}「,スワルナテイラカー」{Swarnatilaka}、「デイナカラ」{Dinakara}
と言う劇を書いたり、翻訳したりして演技しました 。この演劇は西洋の演劇から影響を
受けたことは劇の名前でも現れます。当時、「ヒンドウスターン」{Hindustan}音楽が
脚本家の間で、有名になりました。この人は、「シンハラ。ヌチャ。サマーガマ」
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{Sinhala Nutya Samagama}と言う演劇組織も作りました。{Bastiyan Bandara}は、この
演劇の創設者でしたが、この新しい演劇を大成するために努力したのは、ジョーン。デ。
シルワ{John de Silva} とチャールス。ダヤス{Charles Dias}と言う学者でした。
この二人の演技指導者が、シンハラ人の伝統的な文化と宗教を広めるためにがんばり
ました。彼らは、スリランカの歴史や古典文学、そして民話などを取り入れた「シナリ
オ」{Sceneries}を書くようになりました。彼は五十ぐらいの劇を書いて上演されました。
時代ものの中で、「ドウトウ。ゲムヌ」{Dutu Gemunu}、「パンドウカーバヤ」
{Pandukabhaya},「ガジャバー」{Gajabha}、「シリサンガボー」{Sirisangabo}、
「スリ。ウィクラマ。ラージャシンハ}{Sri-Wickrama Rajasinghe}、「ワラガンバ」
{Walaganba}、「マハーナーマ」{Mahanama}、「ダスコン」{Daskon}、「パラン
ギハタナ」{Parangi Hatana}、「アラケースワラ」{Alakeswara}と言う劇は大事です。
仏教の物語を背景して「ウェッサンタラ」{Wessantara}、「クサ。ジャータカヤ」
{Kusa Jataya}、「ウィドウラ。ジャータカヤ」{Widura Jatakaya},などの劇を書いて上
演されました。シェークスピアの演劇から「オテロー」{Otelo}、「ウェニーシイェー。
ウェレンダー」{Merchant of Venice}(ベニスの商人)、「ハムレット」{Hamlet},などの
劇を翻訳して演技されました.現代スリランカの社会問題を背景して、「パラーバワ」
{Parabhawa}「 ,マラナーヌスムルテイ」{ Marananusmurthi} 、「 スラーソンダ」
{ Surasonda}と言う劇を書いて演じしました。
{John de Silva}によって、サンスクリット文学の「ラタナーワリー」{Rathnawali}や
「サクンタラー」{ Sakuntala}や「ナーガーナンダ」{Nagananda}や「ナララージャ。
チャリタヤ」{Nalaraja Charitaya}や、「ウッタラ。ラーマ。チャリタヤ」{ Utthara
Rama Charitaya}や「シーター。ハラナヤ」{Seeta Haranaya}などの六つの演劇が翻訳さ
れて上演しました。{John de Silva} のはじめの演劇は「ラーマーヤナ」{Ramayana}でした。
彼の劇の中で名作は[シリサンガボー]と言う劇でした。
これの物語は「サンガテイッサ」{Sanga Tissa},「シリサンガボー」{Sirisangaboo}、
「ゴーターバヤ」{Ghotabhaya}と言う三人の登場人物が中心されて発達します。「サ
ンガテイッサ」王様は亡くなってから「シリサンガボー」王子は王様になります。彼は
王国を支配することが、初めからも好きではなかったです。「シリサンガボー」は王様
になったのは大臣が頼んだからです。彼の下の弟はすぐ王様になりたがっていました。
この人はいい人ではないので、「シリサンガボー」を殺させるためにいろいろな悪い事
をしていました。これを理解した、「シリサンガボー」は自分の命を守るために森に入
って隠れていました。「ゴーターバヤ」によって表現された声明書にしたがって、「シ
リサンガボー」の頭を切って持ってる来る人に、お金をたくさんあげると言うことを発
表されました。その間、「シリサンガボー」は自分の頭を切って、森に入って売るため
に木材を探していた人にくれました。脚本化は親切的な感情を現れる様に、この劇は書
いて演じされます。面白い歌を含めているから、この劇をとても有名になりました。後、
「ヌールテイ」演技指導者は東洋の演劇会で大成しました。{Charles Dias}と言う人も、
{ John de Silva}と同じ様に、スリランカの歴史的王たちの性格を背景にして、演劇を作
りました。幸いに、{Charles Dias}は劇場を持っていたので、自由に自分の劇を上演する
ことができました。この二人は、劇を作る時、東洋のサンスクリット演劇からではなく、
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西洋のシェークスピア{Shakespeare}の様な劇作家の演劇からも影響を受けました。伝
統的な民俗芸能で、この二人の演劇は一時的に、有名になりましたが、二十世紀の初め
ごろには人気がおとろえました。
1930年からは、「B.A.W.ジャヤマーンナ」「B.A.W.Jayamanne」と言う劇作家が演
劇を作って上演させました。彼の演劇は、「ジャヤマーンナ」演劇と言います。また、
彼は「カダウナ。ポロントウワ」{Kadauna Poronduwa}、「ペラレナ。イラナマ」
{Peralena Iranama}、「ウェラデウナ。クルマーナマ」{Weraduna Kurumanama}、
「 ウマトウ 。ウィ スワー サヤ 」{ Umatu Wiswasaya}、 「センガ ウヌ 。ピリト ラ」
{Sengauna Pilitura}と言う演劇を上演しました。「ジャヤマーンナ」はその後、劇を背
景にして映画にしました。彼の演劇には、当時の国民の普通の生活が描かれていました。
それらの演劇は長い間、上演されることはありませんでした。特に、都会の 観客の間で
は、一時的に有名になりましたが、地方には広まりませんでした。
また、1940年から学者の間では、演劇について語られる様になりました。脚本化
は西洋の演劇から影響をうけて、演劇を作るようになりました。スリランカで、最も
有名な「ペーラデニヤ」{Peradeniya}大学は、演劇活動の拠点としてあり続けました。
当時、大学の英語学科の学科長は、イギリス人E.F.C.ルドワイク{E.F.C.Ludowyke}
でした。その人は、1933年に、大学演劇協会を創設しました。{Ludowyke}はいく
つかのイギリスの演劇を上演させました。この人は、英語の演劇会のために、西洋の演
劇 を上 演さ れま した 。こ の中 で 、 19 33 年、 クウ ィン タロ ース {Quintarose }の
{Where Women Rule},1934 年、シェリダン{Sheridan}の{The Rivals},1935 年、モリ
ヤル{Molior}の{Imaginary Invalid},1936年、クウィンタロースの{The Ladies from
Alfaqueque},1937年、カーロー。ゴールドニ{Carlo Gooldoni}の{The Servant of two
Masters」,1938年、グオージ。バルナード。ショー{Gorge Bernad Show}の{Arms
and the Man}, 1940年、シェークスピヤーの{The Merry Wives Windsor}、1941
年、クウィンタロースの{Peace and Quite}、1942年、エユージン。オーニール
{Eugine O’neil}の「Marco Millions」などの演劇が、有名になりました。この英語の劇を
見た、シンハラ観客がそれらの影響で、シンハラ劇を作るために努力しました。この様
な演劇は、学生たちに演劇に興味を持たせるのに役立ちました。
当時、西洋の国々に広まっていた、現実主義的な演劇から影響を受けて、スリランカ
特有の演劇を作るために努力したのはエデイリウェーラ。サラトチャンドラ{Ediriweera
Sarachchandra}と言われる学者でした。1940年代の初めから、1952年まで登場
した演劇は、現実主義的な演劇と言われます。その演技指導者によって上演された最初
の演劇は、「ヤンタン。ゲラウナー」{Yantan Gelauna}です。これは、グナパーラ。マ
ララセケラ{Gunapala Malalasekera}と言う人を含めて三人の劇作家によって書かれた物
です。 これは、独創的な劇だったので、もっと有名になりました。その後、シンハラ
演劇社会{Sinhala Dramatic Soceity}によって、「バダギンナ」{Badaginna}、「プドウ
マ。ベーリッラ」{Puduma Berilla}、「ウェラドウヌ。デイーガヤ」{Weradunu D
eegaya}などの劇を書かれて、登場されました。そして、{Sarachchandra}は、「バヒナ。
カラーワ」{Bahina Kalaawa}と「ワンデインナギヤ。デーワーレ」{ Wandinnagiya
Dewale」と言う独創的な劇を書いて上演されました。このころ、最も有名になったのは、
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西洋の演劇から影響を受けた劇でした。特に、ロ シ ア「Russia」のアントヌ。チェコウ
{Anton Chekhov}とニコライ。ゴゴル{Nikolai Gogol} の演劇が当時、スリランカの観
客の中で、人気がありました。{Nikolai Gogol の 結婚{The Marriage}と 警視総監
{ Inspector General}という演劇と{Chekhove}の寸劇と言われる (熊){The Bear}
と「フロポーサル」{ The Proposal}と「マネージャ」{The Manager)と言うものがシン
ハラ語に翻訳されて、上演されました。その他,英国のオスカル.ワイルド{Oscar Wilde}と
フランスのモリヤレ{Moliere}と言う劇作家の作品も上演されました。多くの西洋の演劇を
英語からシンハラ語に翻訳するためにがんばったのは{Sarachchandra}でした。{Nikolai
Gogol} の{The Marriage}( 結婚) と言う劇をシンハラ語 に翻訳して、,上演した[カプワー.
カポーテイ]{Kapuwa Kapoothi}と言う劇は、スリランカの演劇が、大きく変える転換期を
もたらしました。それが登場したのは1945年でした。それを翻訳したのは。
{Sarachchanra}を含めて三人でしたが演技指導者はイギリス人の{E.F.C. Ludowyke}と
言う学者でした。{Kapuwa Kapoothi}が上演される前に、(シンハラ舞台に)本当意味
での演劇は、興らなかったと私は思います。その後も、さまざまな劇が上演されました
が、それはあまりいい評価を得ていなかったと考えられます。
「カプワー。カポーテイ」のあらすじは、「グナテイラカ」{Gunatilaka}、「カルナ
ーラタナ」{Karunarathne}、「セーパーリカー」{Sepalika}と言う三人の登場人物が背
景して、発展します。「グナテイラカ」は、結婚生活が好きでしたが、時々それに怖く
なります。けれども、彼が結婚させるために、彼の友達「カルナーラタナ」が、努力し
ます。彼は「グナテイラカ」の怖さを亡くなるために結婚生活の楽しいことについて、
話す様になります。後で、「グナテイラカ」は、「セーパーリカー」と結婚をしに決め
ます。結婚する日も決める様になります。しかし、結婚式を行われる日、突然怖くなり、
その時、座っていた部屋の窓から跳び降りて隠れて逃げます。このために、恥ずかしく
なった、「セーパーリカー」は、涙ぐんでいました。それに心配された、「カルナーラ
タナ」は「セーパーリカー」と結婚する様になります。このあらすじは、喜劇的な物で
す。観客は、これを見て笑いながら楽しくします。この演劇から皮肉に満ちたユーモア
を表現されると評論家が言います。
西洋の演劇から、スリランカの本来の演劇を作ることはできないと理解した
{Sarachchandra}が,195〇年ごろから土着の演劇を作るために、いろいろな演劇を試みま
した。特に、東洋の国々で流行していた、新劇のような形式的スタイルと西洋の国々に
盛んになっていた、現実主義的スタイルをミックスして1952年、「パバーワテイー」
{Pabawatii}と言われた劇を登場させました。それもあまり面白い劇ではありませんで
した。けれども、その間,{Sarachchandra}は幸いにも米国から[フェローシップ]{Fellowship}
をもらって、いろんな国々を旅行する機会を持ちました。それは1956年からシンハ
ラ演劇の発達に多くの影響を与えました。
1956年、登場した{Saracchandra}の劇{マナメー}は、シンハラ演劇史の中で大
きな転換期をもたらしました。「マナメー」の内容は{Sarahcchandra}が日本で演劇に
ついて研究していた間に、黒澤明の映画(羅生門)から取り入れたものでした。(羅生
門)の多情丸と武弘と真砂という三人の登場人物について{Sarachchandra}は、注目し
ました。羅生門の三人の登場人物と似た話は、「ジャータカ」物語の中にあります。そ
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れは{Chulla Dhanuddara}と言われます。{Sarachchandra}は「マナメー」を書くにあた
って、それを下地 にしました。もともとの{Chulla Dhanuddara}は彼の意図によって、
改作されました。{Sarachchandra}は長い間、脚本家としての経験があり、「マナメー」
は「オペラ」のように表現されました。この内容は「マナメー」王子と「マナメー」王
女と「ヴェッダー」{veddha}王と言う三人の登場人物の中で、展開されています。こ
れに羅生門の影響があることは、前にも申しました。羅生門の内容には、仏教の影響が
見られますが、{Sarachchandra}は「マナメー」の「ストーリ」{Story}の中で、仏教
の主張を表現するために、日本の伝統芸能である能楽の表現を取り入れました。能楽の
内容が、宗教的な内容であると言われるのは本当のことです。われわれの生活は、無常
であると言う事は、お釈迦様の教えの主な特徴だと思います。日本人はあまり意識して
はいませんが、能楽堂で能を見るときに、無常を感じ、仏教の悟りのメッセージを受け
取っています。{Sarachchandra}は、能楽の影響が宗教的なことだけではなく、能楽の
技術やお囃子や舞台や背景や衣装などからも影響されました。能楽の様に
{Sarachchandra}の演劇にも、物語を語る語り手がいます。これは、たぶん能楽からよ
りも、スリランカで有名になっていた、民俗芸能「ナーダガム」から、影響を受けたも
のです。
それまでのスリランカの演劇にも、見せ場はありましたが、マナメーは「クライマッ
クス」{Climax}を特に盛り上げました。それ以前の演劇では、見られなかったことです。
「マナメー」は、東洋の国々と日本の伝統的な演劇や民俗芸能に見られる形式をベース
にした演劇でした。それは西洋の国々に見られる現実主義的な形式とは違います。
マナメーの背景となったあらすじ。
「マナメー」王子{Prince Maname}はインドで、有名だった一流の学校へ入り、いろ
いろな勉強をしました。特に、彼は王子でしたので、武術を習わなければなりませんで
した。勉強している間、先生のきれいなお嬢さんと恋をしました。卒業して、自分の国
へ帰る準備をするのはなかなか難しいことでした。特に、先生の娘と別れなければなら
ないからです。「マナメー]王子が、彼女のことを考えながら悲しんでいた時、先生は、
他の生徒に「マナメー」王子を自分の所に連れて来させました。その学校の習慣に従っ
て、真面目で、優秀な学生に自分の娘を結婚させると言うのです。先生は自分の娘と
「マナメー」王子が、お互い間に恋愛感情があったことを知らなかったのです。ですか
ら、二人にお互いを好き立ったことを知らなかったので,呼んで結婚をゆるしました。結
婚してから、二人は「マナメー」王子の国へ行くことにしました。王子の国は、遠くに
ありましたので、到着するのに 時間がかかりました。森の中も通らなければなりませ
んでした。森の自然に、感動しながら帰る途中で、「ウェッダー」{Veddha}と言う悪
魔の様な野蛮な人々が現れました。純心で美しい王女は、彼らを見て怖くなりました。
その悪魔の様な人々に自分は殺されると彼女は思いました。けれども、王子は彼らを怖
がりませんでした。「マナメ」ー王子は武術にたけていたからです。その野蛮人たちは、
いったん見えなくなりましたが、今度は{Veddha}王と一緒に現れました。{Veddha}
王は「マナメー」王女を好きになりましたので、彼女だけそこに残して「マナメー」王
子に帰国する様に言いました。その言葉に怒った、「マナメー」王子は{Veddha}王と
争いになりました。自分の刀を王女に預けて、{Veddha}王と刀を持たずに戦いました。
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最後に、{Veddha}王を倒して、殺すために王女に預けていた刀を渡せと言いましたが、
彼女は Veddha 王が、一人で戦ったことに慈悲の心を持たれて{Veddha}王を殺さないで
くれと言いました。これは、マナメー王子には信じられないことでした。その一瞬をつ
いて{Veddha}王は突然立ち上がり、「マナメー」王女が手に持っていた刀を取って
「マナメー」王子を殺しました。彼女はこの様な事になるとは、まったく思っていませ
んでした。彼女は、とても悲しんで「マナメー」王子のために、泣きましたが、しばら
くすると{Veddha}王の助けが、ほしくなりました。最初は、{Veddha}王を責めまし
たが、次第に彼を愛する様になりました。ところが、彼女が、「自分は前から深く
{Veddha}王が、好きだった」と言うのを聞いて、{Veddha}王は怒りました。信じら
れない女だと言って、{Veddha}王は彼女を置いて森の中へ去りました。「マナメー」
王女は、悲しみのショックで、心臓麻痺を起こして亡くなりました。
この話に1917年に、書かれた(羅生門)と(藪の中)と言う二つの短編小説と
の類似点がある事をみなさんお気付きのことと思います。
そのあと、{Sarachchandra}は「ジャータカ」物語と仏教の物語を背景にして、いく
つかの演劇を書いて上演しました。1958年と1959年に上演した「ラッタラン」
{Rattaran} と「 エロワ。ギヒン。メロワ。アーワー」「Elova gihin melowa aawa」と言
う演劇は悪魔払いの儀礼から影響を受けました。「エロワ。ギヒン。メロワ。アーワー」
は、人間の普通の生活が、重要だと言うメッセージを伝えました。1959年の後半で、
(腕輪){Kadaawalalu} と「ハスティカーンタ。マンテレー」{ Hasthikaantha Mantare}
と「ウェェッラ。ウェフム」{Wella Wehum}と言う演劇を上演しました。{Kadaawalalu}
は、日本の伝統的な歌舞伎からも、影響を受けました。{Kadaawalalu}の舞台には、花
道を見ることができます。これはスリランカの観客にもとても人気がありました。
{Hasthikaantha Mantare}は、「サンスクリット」演劇から影響を受けました。{Wella
Wehum}は、スリランカの民俗芸能、「コーラム」から影響を受けました。1951年
から1961年まで上演した「エーカタ。マタ。ヒナーヒナー」{Ekata mata hinahina}
(笑いが止まらない)と言う劇の背景になったのは、「ジャータカ」物語の中で、面白
い話と言われる「カーらゴーら」{Kalagola}です。一番 背の低い男が、一番背の高い
女と結婚する話です。ふさわしくない男性と女性が、交際した時生まれる問題を取り上
げました。1968年に、{Mahasaara}「マハーサーラ」と言う劇が、{Sarachchandra}
によって書かれて上演しました。「プレーマトー。ジャーヤテイー。ソーコー」
{ Prematoo 。 Jaayathi Soko } ( 愛 は 苦 し む を 生 む ) は 「 サ ッ ダ ル マ ー ラ ン カ ー ラ ヤ 」
{Saddharmalankara}と言う古典文学作品にある[スワルナテイラカー]{Swarnatilaka}と言う女
性が迎える問題について書いた音楽舞踊劇です。それは「マナメー」と同じぐらい観客
が,興味を持った演劇でした。この劇の日本の能楽から受けた影響を見ることができます。
愛が苦しむを生むことを表したこの演劇からは,お釈迦様の教えである,この世は無常であ
ると言う主張がはっきり見えます。能楽と同じように釈迦の教えの大切さがこの演劇か
ら伝わってきます。
{ Sarachchandra } の 劇 の 中 で 、 も う 一 つ 面 白 か っ た 劇 は 、 「 シ ン ハ バ ー フ 」
{Sinhabahu}でした。スリランカ人の一番古い伝説と言われる、紀元語世紀ごろ書かれ
た、「マハーワンサ」{Mahawansa}と言う本から取り入れたものです。その内容を現在、
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住んでいる人々の考え方に合うように、改作して世代の問題を象徴的に表現するように
努力しました。観客の中で、それの歌がとても有名になりました。評論家によって、
「シンハバーフ」{Sinhabahu}が演劇的に高く評価をしていません。この劇は、196
2年から最近まで上演される、とても人気のある音楽舞踊劇です。
「 シ ン ハ バ ー フ 」 物 語 は 「 シ ン ハ ヤ 」 { Sinhaya } 、 「 ス ッ パ ー デ ー ウ ィ 」
{ Suppadewi } 、 「 シ ン ハ バ ー フ 」 { Sinhabahu } 、 「 シ ン ハ シ ー ワ リ ー 」
{Sinhaseewalee}と言う四人の登場人物が、中心になって発展します。「スッパー
デーウィ」は王女です。彼女は、昔インドの「ワンガ」{Wanga}と言う王国の王
様になっていた、「ワンガ」王の娘です。「スッパーデーウィ」は、城を出かけて、
自由の生活のために、森道の中を歩いて行っていました.そこで、「シンハヤ」は
彼女を見て交際をして、一生に住む事になりました。「シンハヤ」は本当の「シシ」
と言う動物です。そして、彼女は森の石洞穴に、かくらせられて生活するようにな
りました。後、彼女は息子と娘を生んで、成人させました。「シンハヤ」は動物で
すが、彼の子供たちが人間でした。「シンハバーフ」は、十六歳になると、石洞穴
に生活することについて質問するようになりました。彼は、洞穴の生活が大嫌いに
なりました。洞穴の外の生活について考え始めました。洞穴を出て森の自然さを見
る感情も持っていました。「シンハヤ」は、毎朝洞穴を出て、食べ物を見つけるた
めに、森の中に入って、また、夕方ごろ戻って来ます。「シンハシーワリー」は、
父が戻って来るまで待っています。彼女は父があごがれました。「シンハヤ」はい
つも自分の家族を守るためにがんばりました。けれども、「シンハバーフ」は、母
が王女と言う事を聞いて、喜びました。後で、「スッパーデーウィ」は、子供の将
来生活につぃて考えて、洞穴を出かけて、「ワンガ」王国へ帰国するために決めま
す。「シンハヤ」は、それに反対することも理解して、彼に何も言わないで、子供
と一緒に行くことにしました。一週間ぐらい後で、彼らは「ワンガ」王国に着きま
す。「スッパーデーウィ」は、自分が「ワンガ」王様の娘と言う事を王様の助手に
なっていた副王に言います。それを聞いて、楽しくて、感動した副王は、きれいな
「スッパーデーウィ」を結婚する様になります。「シンハバーフ」は、王国の強力
な大臣になります。そのうち、食べ物を見つけた、「シンハヤ」は、洞穴に入って
も、誰もいなかったので、怖くなって、家族の皆様を探すために、森の中を走りま
した。彼はとても悲しくて、大好きな「シンハシーワリー」の名前を呼びながら、
悲しむのショックであちこち行くことになりました。後で、怒って人間が住んでい
る村にも入って、村人を殺される様になりました。じゅんぼくな人々が、千人以上
死亡しました。人々が副王に会って、涙ぐんで、この事件を表現されました。副王
は、それを聞いて、悲しくなって、「シンハヤ」を殺させるために努力しました。
後で、強力な「シンハバーフ」は、「シンハヤ」を殺すために行きます。「シンハ
ヤ」は、前に来られている人は自分の息子と言う事を理解し、抱きしめるために着
きましたが、「シンハバーフ」は「シンハヤ」を突然殺しました。「シンハバーフ」
努力したのは、村人に平和的に生活をする様な社会を作る事です。この「シンハヤ」
が、自分の父と言う事を彼は信じられなかったです。なぜなら、自分の父、「シン
ハヤ」は、いつも親切で、静かな人と言う事をよく理解していたからです。この劇
から、世代の問題を表わすために、演技指導者は努力しています。目に見えるのは、
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父と息子の間の争いですが、それより深く世代の問題を説明するために、がんばっ
ているようです。
{Sarachchandra}の演劇が有名になり、多くの若い脚本家と演技指導者が生まれまし
た。彼らの中で一人はダヤーナンダ。グナワルダナ{Dayananda Gunawardhana}です。
彼は,民話を背景にして「ナリベーナー」、{Naribeena}と言う劇を書いて演出んしました。
この劇は,とても有名になりました。また卒塔婆小町と言われる日本の能楽から影響を受
けて、「ガジャマン。プワタ」{Gajaman Puwata}、(女性詩人の名前)と言う音楽舞踊
劇を書き上演させました。それからまた、シンハラ演技指導者が現実主義的な西洋の演
劇から影響を受けて、演劇を作ることになりました。{Sarachchandra}の生徒の一人で
ある、グナセーナ。ガルパテイ{Gunasena Galappatthi}は現実主義的な西洋の演劇から、
影響を受けて、劇を作りました。彼は、スペインの「ガルシア。ロルカー」{Garcia
Lorca}の「イエルマ」{Yerma}と言う劇の内容から影響を受けて、「ムフドウ。プット
ウ」{Muhudu Putthu}(海の息子たち)と言う劇を上演しました。この劇の主人公は、
子供が大好きな女性でした。結婚していても、子供がいない時、直面する問題を描いた
物でした。また、現実主義的な演劇が有名になったので、外の若い演技指導者も、その
様な演劇を書いたり、上演したりしました。1960年、始まり、その後の十年はこう
した現実主義的な演劇を上演した時代と思われます。ヘンリ。ジャヤセーナ{Henri
Jayasena}と言う演技指導者は、大人と若者の世代の問題について劇を書いて上演しまし
た。「マナランジャナ。ウェダワルジャナ」{Manaranjana Wedawarjana}や「 ジャネー
ラヤ」{Janelaya}(窓)や「アパタ。プテー。マガ。ネテー」{Apata Pute Magak Nete}
(私たちには道がない)などの劇は、人気がありました。彼は、1960年代後半に、
世界中にとても有名になっていたドイツの脚本家、「バートル。ブレーチ」{Bertold
Brecht}の演劇を登場人物の名前と背景をスリラカ風に作り変えて上演しました。特に、
彼の「フヌワタヤ」{Hunuwataya}は、{Bertold}の{Caucasian Chalk Circle}の内容か
ら影響を受けて作った物でした。その後、{Bertold} の{Mother Courage and her Children}
(母の奮闘と子供たち)と言われる演劇から、影響を受けて「デイリヤマワ」
{DiriyaMawa}と言う劇を作りました。
西洋の脚本家の作品からではなく、自からの経験から劇を書き、上演した人たちもい
ました。その中で、「スガタパーラ。デ。シルワー」{Sugathapala de Silva}は高く評価
されました。彼の演劇には、労働者の問題や失業者の問題、若者の社会的不安と言った
事が、背景にありました。
サラトチャンドラの「マナメー」劇から影響を受けてプレーマ。ランジト。テイラカ
ラトナ{Prema Ranjith Tilakarathne}が、1963年、「ワグルビマ」{Wagurubima}と
言う劇を書いて上演しました。その後、書いて演技された「ボーデインカーラヨー」
{Boodinkaarayoo}は、「テイラカラトナ」の名作として、評論家が感謝しました。この
評論家に従って、これはサラトチャンドラの「シンハバーフ」と言われる、劇から影響
を受けた成功した物でした。この劇から父と息子の間に起こる永遠争いをよく演技的に
議論するために、演技指導者ががんばりました。これは現実主義的なスタイルで上演し
た物でした。そして、テイラカラトナはジョー。オールタン{Jo Ortan}の{Entertainning
Mr Sloane}と言う劇をシンハラ語に脚色して[トッタババー]{Tottababa}と言う名前
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で、現実主義的なスタイルを使って登場しました。スリランカの演劇史の中で、初めて、
この劇から女と女の間の性の事を語ります。これには、登場人物が四人入られています。
観客がこの劇が好きでしたが、評論家は見えた弱点が、ひどく批判する様になりました。
特に、劇の筋は、スリランカの社会にふさわしくありませんでした。テイラカラトナが、
1968年、{West Side Story}と言う映画の影響を受けて形式的なスタイルで、「コー
ンタレー」{Koontare}と言われる劇を書いて上演しました。この劇から劇作家が、シン
ハラ人とタミール人の間、当時、起これていた、国民争いを話し合います。音楽舞踊劇
のように、これには、含めていた 歌が観客の間に有名になりました。その後、197
0年、テイラカラトナは、ルイジ。ウィヤレリ{Luiji Wiyareli}の{Mask and the Face}の
影響を受けて「ムフヌ。サヤキ。ルーカダヤキ」{Muhunu Sayaki Ruukadayaki} と言わ
れる劇を書いて、上演する様になりました。それから、1980年、「セラデー。シー
ター」{Serade Seeta}と1988年、「デーウィ」{Dewi}と言われる劇が、現代スリ
ランカの社会問題を背景にして、書いて上演されました。
その他、 R。R 。 サマラコーン{R.R.Samarakoon}、 サイマン。ナワガテーガマ
{Saimon Nawagattegama}と言う作家が有名でした。1970年代には、当時フランスで
始まった不条理劇{The Theatre of Absurd}形式的な演劇とも、現実主義的な演劇とも、
違う演劇でした。このような演劇には、明確な物語を持ちません。しかし、成り立たな
い対話の先に、クライマックスがあります。1967年、ケラニヤ大学講師J.セルワド
レー{J.Selvadore}フランス人のサムエル。ベケット{Samuel Becket}の(ゴドーをまた
ながら){Waiting for Godot}をシンハラに翻訳し、特に若い演技指導者たちを感動させ
たことが、契機となったのです。スリランカの映画監督、ダルマセーナ。パテイラージ
ャ{Dharmasena Pathiraja}は、この時、不条理劇から影響を受けて、自分の経験に基づ
いて「コラー。サハ。アンダヤー」、(一本足と盲目){Kora saha Andaya}と言われる
劇を書いて上演しています。
長い間、劇を作らなかった{Sarachchandra}は再び、1980年以降に演劇を書いて、
上演する様になりました。その中で、一番人気があった劇は、お釈迦様の前世の話「ウ
ェッサンタラ」{Wessantara}と「 ローマハンサ」{Lomahansa}です。「Wessantara と
言う劇は、音楽舞踊劇です。これは、「ジャータカ」物語の中で、一番有名な物語で、
お釈迦様が、お釈迦様になる前の一番近い前世の生活を描いたものです。この時、お釈
迦様は、「ウェッサンタラ」王でした。彼は、自分が持っているすべての物を貧しい
人々に、与えてしまいました。特に、普通の人々の生活のことをよく理解した「ウェッ
サンタラ」王は、とても悲しみました。後で、城の国庫を開けて、人々が好きな物を持
って生かせるような機会を準備されました。ついには、大好きな子供たち二人も、ある
こじきの様な人に、くれてしまいました。それではなく、妻もある人にあげました。こ
の劇は、貧しい人々にお金とか、他の物を与え、社会の弱者を助けるべきだと言う、仏
教の考え方をよく表した物でした。心の豊かさと大らかさと言う「テーマ」{Theme}
がこの演劇からはっきり伝わって来ます。スリランカのほとんどの人々が、仏教徒だと
言う事もあって、とても有名になりました。
1984年、上演された「ローマハンサ」劇に、背景したのはジャータカ物語の「マ
ハーパドウマ」{Mahaa Paduma}と言われる「ストーリ」です。しかし、サラトチャン
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ドラは、この物語を当時のまま、演技しなかったです。現在社会に合う様に、それを改
作しました。それによって、劇に発展する粗筋はこのようです。バラネス王様、パドウ
マ王子、女王、大臣などの登場人物を中心になって、筋を発達されます。王子は、小さ
い時、女王は亡くなりました。そして、王様は若くて、美しい王女と結婚します。彼女
は、城でハンサムな「パドウマ」王子を見て、彼が好きになります。若い女王は、彼と
交際をするために努力しましたが、王子はそのような関係が好きではなかったです。そ
のうち、王国のある地方に、騒動が起こったので、それを解決するために王様は、兵隊
と一緒に行くことになりました。この間、また若い女王は王子と好きあいになるために
がんばります。けれども、王子は、彼女の頼みが拒絶しました。後で、王様は、騒動を
敗北させて城ヘ来られました。女王は、王子に大変面倒をかけられたと王様に言いまし
た。それはうそですが、信じられた王様は怒って、大臣から本当のことを聞かないで、
王子を殺すことになりました。王様は、このように王子を殺させると思わなかったので、
若い女王は、後で、とても悲しくなって、悩んで自殺するようになりました。この筋か
ら若い女王の心理的な感情をよく表すために、演技指導者は、努力したと思います。こ
の劇を見た観客が、とても悲しくなりました。
この演劇では、女性の心理が深く描かれています。けれども、この劇は、評論化の意
見に従って、サラトチャンドラの他の劇と比べて成功した物ということができません。
1990年、上演した「バワカダトウラーワ」{Bhawakadaturawa」劇にも背景したの
は、「ジャタカ」物語の「スワルナ。ハンサ」{Swarna Hansa}と言うストーリです。こ
れは、スリランカの仏教徒の中で、最も有名な話です。お釈迦様は、前世に金ハクチョ
ーウになって生まれます。この時も、前世の人間家族は住んでいました。金ハクチョー
ウの前世の家族の妻と子供たちは、苦しく生活していることを理解した、金ハクチョー
ウは彼らに生活出来る様に、庭に毎日一枚の金羽を落ちる様になりました。それから、
これを売って、経済の面倒がなくて、いい生活をすることができました。そのうち、先
日、妻が欲望が大きくなって、後の日、金ハクチョーウを捕まえて,羽を全部、取る様
になりました。この事件で、金ハクチョーウは痛くなりました。その後から、金ハクチ
ョーウは、羽を落ちられなかったです。このために、また、お金がなく、苦しい生活を
する事になりました。欲望は、人間を悲しく位置に置きます。この劇を見た、仏教徒の
観客は、とても悲しくなったと思います。けど、演劇的に、この劇は、あまり面白いも
のと言うことはできません。これも、サラトチャンドラの最後の大切な劇ではないかと
思います。
日本の伝統的な演劇から受けた影響
{Sarachchandra}は、14世紀ごろから今まで、現存している日本の能楽から、影響
を受けたことが明白です。スリランカは、紀元前三世紀ごろから、小乗仏教の国ですが、
スリランカでは、仏教から演劇は誕生しませんでした。残念な事に、僧が歌舞音曲を禁
じられていた当の理由でした。
ある学者の意見によると、能楽演劇を紹介した劇作家は、観阿弥清次です。けれども古
典文学の様に、能楽を作って上演するのに努力したのは、劇作家だけではなく、役者と
理論家である、世阿弥元清です。彼は、劇作家からではなく能楽の理論を書いた本から
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も特に、禅仏教と阿弥陀仏教から受けた、影響が見られます。芸術家と画家と文学者が、
当時影響されたのは、禅仏教からです。それは世阿弥によって書かれた、遊学主導府県
と言われる、本によく表現されています。禅仏教は、深くて哲学的な主張を好まなかっ
た中国人と日本人によって、仏教の世親(essence)を理解するために、作られた宗教で
す。亡くなる前に、観阿弥と世阿弥は、禅仏教の僧になりました。
私が、短く説明した演劇の中で、大切なのは{Sarachchandra}が、1956年、書い
て上演した、「マナメー」と言う劇とその後、続いて上演した劇です。{Sarachchandra}
はその時、スリランカの一番人気があった、「ペーラーデニヤ」{Peradeniya}と言われ
る大学の「シンハラ」{Sinhala}文学学科の先生でした。彼は、「ロンドン」大学で研究
をして、哲学について博士を取って、また、スリランカに帰国してから、スリランカ独
自の演劇を作るために試みをしていました。当時、米国から「フェローシップ」
{Fellowship}をもらった{Sarachchandra}は、世界中の調べた国々に行かれて、演劇に
ついて研究する事になりました。彼は、初めて中国へ行き、「ピーキン。オペラ」
{Pekin Opera}について研究をして後、日本へ行きまして、能楽と歌舞伎と他の民族芸
能についても、研究する事になりました。特に、能楽と歌舞伎を見て、感動した
{Sarachchandra}は六ヶ月ぐらい、日本にいることになりました。
仏教哲学の研究の経験を持っていた、{Sarachchandra は}、日本で能楽と歌舞伎を見
ながら、それらの特徴に注目していた時、禅仏教のことについても研究してそれの特別
な概念も深く取り入れたと思います。土着のシンハラ演劇を作るために、その理解が影
響したそうです。多くの能楽の背景にされたのは、伊勢物語や大和物語や源氏物語や平
家物語や古事記や日本書紀などの日本の古典文学です。インドと中国の古い物語を背景
にした能楽もあります。能を書く時、仏教の当然影響を受けたはずです。禅仏教の影響
を強調する学者もいます。けれども、能楽を背景にした、物語について考えますと、私
は、能は禅仏教より阿弥陀仏教の影響を強く受けていると思います。敦盛、花月、尼、
小町、葵上、安宅、土壌寺、隅田川、小袖祖、くる図化などの能楽に、はっきり見られ
ます。能楽から、阿弥陀仏教と禅仏教の影響が見られる様に、{Sarachchandra}の演劇
からも仏教の影響がよく見ることができます。彼の作品の中に見られる仏教は、スリラ
ンカ、タイ、ミヤンマール、カンボヂヤなどの国々で盛んになっている小乗仏教です。
「マナメー」の筋を説明する時に、これもよく分かる様になります。「マナメー」王子
とマナメー王女が迎えた戦前思わなかった災難からも「プレーマトー。ジャーヤテイー。
ソーコー」{Pemato Jayathi Soko}の「スワルナテイラカー」と「ウッダーラ」夫妻が迎
えた思わぬい悲しい出来事からも「ローマハンサ」の若い王女と「パドウマ」王子が迎
えた苦しい事からにも表現されているのは、仏教の思想です。生きている人間は、楽し
さを求め、お金や土地をほしがり、それを手に入れるようとしますが、そう言う物は、
一時的な物であると言うことが表現されています。結婚して、愛に感動して、自分の国
へ帰国する途中で、若い「マナメー」王子と王女が、そうぐうするドラマチックな
{dramatic}経験からは、無常観と言うものが伝わって来ます。世界のすべての物は、亡
くなります。世俗の生活の中で、満足できる物は一時的です、楽しいと言われる物は、
何も世界にはありません、苦しくて悲しい事で人間の生活は覆われていると言う仏教の
概念を確認するでしょうね。若くて美しい妻に一時的にも離れることができないで、愛
欲していた「ウッダーラ」と言う人は最後に思わぬ災難に会いました。プレーマト―。
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ジャーやテイー。そーこー」{Pematoo Jayathi Soko}と言う演劇は、人間の理想的な生活
を描いています。「スワルナテイラカー」と結婚した、教師「ウッダーラ」は愛欲にお
ぼれてすごしていましたが、一瞬足りとも、妻と離れることができなく、生徒たちに教
えることができませんでした。しかし、そんなことを続けていると、どんな災難が起こ
るとも、知れないので、「スワルナテイラカー」は、生徒たちに教えることを怠っては
いけないと諭しますが、「ウッダーラ」は、聞き入れませんでした。そして、最後に純
粋な生徒たちによって、「スワルナテイラカー」が殺されてしまう事になりました。
能楽の一つの目的は、演劇の中に人間社会の奥深い思想を込めると言う事です。その
伝言から仏教の強い教えへと導くことです。人間社会は、無常であり、苦痛に満ちてい
ると言う考え方を伝えようとしています。この世に、再び生まれ変わらない様にするに
は、釈迦の教えに従って、修行し悟りに至らなければならないのです。能楽の舞台でも、
そうしたことをテーマにした演技があります。例えば、世阿弥の息子と言われる観世十
炉元雅によって書かれた、隅田川と言う演劇にも、そうしたメセージが込められていま
す。
一年前に、失った息子を見つけながら狂った女の人が、隅田川の船着場に着きます。
夜になる前に、自分を向こう側に連れて行ってくださいと船頭さんに言います。船頭さ
んは、女の人と一緒に、船で行く途中で一年前に、人買いと一緒に来た男の子が隅田川
の近くで死んだことを聞かせます。死んだ子は、自分の息子と言う事を理解した母親は、
とても悲しくなります。川の向こう側に着いた船頭さんは、苦しくて発狂した母親を子
供の墓まで、連れて行きます。涙が出て悲しくなったその女の人は、死んだ息子の魂の
ため、阿弥陀仏の似祈る事になります。その時、死んだ男子の幽霊は、母親の前に現れ
て、自分が迎えた悲しい出来事を説明します。夜が明けて、太陽が東の空にだんだん上
がって来る時、母親が見たのは、草を生えた築山だけでした。狂気から覚めた母親は、
人の世は無常という事がはっきり分かる事になります。
演技指導者は、この物語の「ストーリ」をとうして禅仏教と阿弥陀仏教の中にある、
深い思増を伝えるために努力しました。母親の感情を現すために、詩的な言葉が使って
あります。はやし方は、それを語ります。母親の心の中にある苦しい感情からも、禅仏
教の主張の影響うが見られます。
この演劇の最後で阿弥陀仏を思い出しながらこの世の中で人間が、出会う苦しいこと
を忘れるための解決法は、お釈迦様の教えに従って修行する事です。
歌舞伎と比べると能楽は演劇芸術と言う事が言えません。仕手、脇、のような人物は、
舞台の上でゆっくり体を動きます。狂言とか歌舞伎の役者の演技スタイルと比べると能
の役者は演技はできないの様とこの演技伝統をよく知らなかった観客が思います。能楽
の役者の動きは、あまりにも地味で素朴です。演技もとてもゆっくりです。ある西洋の
評論化は、能は舞台の上で散歩する芸術と表現しました。能楽演劇が、始まって時間が
経過しても舞台の上では何も演技らしいことをしません。けれども、最後には、思いが
けない一番の見せ場が展開されるは素晴らしい事です。
「マナメー」演劇が、形式的なスタイルを使って、演技するように努力したのは、能
楽から受けた影響と私は思います。能楽演劇の物語も演技スタイルもとても簡素です。
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歌舞伎舞台のような幕もありません。使っている大道具とか小道具も尐ないです。ほと
んど象徴的に、感情を表現します。これが能楽の特徴です。
{Sarachchandra}の演劇からは、能楽舞台の影響もよく見られます。能楽舞台に余分
な飾りはありません。演劇の背景も、きらびやかではありません。
能舞台は三つの方向から観客のところに開いています。しかし、この特徴は、スリラ
ンカの劇場にはありません。スリランカの劇場がふさわしいのは、現実主義的な演劇を
演技するためのです。観客はスリランカの演劇を見て幽玄な世界に浸りますが、文学者
はその演劇の演技を見るだけでなく、能の精神までも読んで、文学的な幽玄を感じて感
動する事になります。能は、散文の言葉と韻文の言葉を混ぜて書かれた、まじめな古典
演劇です。ある部分は、語り手と地謡によって歌われます。語り手は、大きい声で語る
対話があります。顔の動きと同じ様に語りも大切です。この特徴をよく理解した
{Sarachchandra}は、自分の{Maname}や { Pematoo Jayathi Soko}や{Sinhabahu}や
Wessantara や {Lomahansa}などの演劇を書く時、詩的な言葉を使いました。人物の感情
を感じるために、散文と韻文を混ぜて作った言葉を使うのに能楽演技指導者が努力した
と私は思います。合唱と管弦楽団を組織するためにも{Sarachchandra}は能から影響を
受けたそうです。能楽の地謡は、大体八人以上の歌手を集めています。それの影響を受
けた{Sarachchandra}は、自分の演劇にも合唱段を作るとき八人とか九人の歌手を集め
ました。
{Sarachchandra} は、 {Sinhabahu}と言う演劇の主人公の中で、特に「獅子」の演技
を作る時、日本の最初の民俗芸能と言われる、神楽から影響を受けたと思います。私は、
この間熊本城の谷貝舞台(open theatre)で上演した神楽演劇の主な人物「獅子」の役者
の演技を見た時これをよく理解しました。人物の演技からではなく、衣装にもこの影響
が現れています。それに、{Sinhabahu}の「獅子」の役者の演技から歌舞伎に見える、
荒事と言われる、演技スタイルも見られます。これは、「マナメー」劇の{Veddha}王
と彼の仲間たちの荒い演技からもはっきり見えます。人物の化粧にも歌舞伎の化粧と隈
取からも、{Sarachchandra}が影響を受けたとはっきり言うことができます。他の演劇
の化粧にも、能からの影響があります。{Sarachchandra}も{Wessantara}演劇の化粧は、
能から影響受けたと言っています。
歌舞伎の舞台に見られる特徴として、役者が舞台に入る事ができる花道と言われる部
分があります。それは、演劇のある場に盛り上がる機会を見せるためにも、役者が舞台
を離れるためにも必要です。歌舞伎は、女の人物を男の役者が演じる事も有名です。
{Sarachchandra}は「エロワギヒン。メロワ。アーワー」{Elowagihin Melowa Awa}や
「カダーワラル」 {Kadawalalu}(腕輪)などの演劇を上演した時、歌舞伎の影響で、花
道を含んだ舞台を作りました。「セーリワーニジャ」{Seriwanija}「ジャータカ」物語
を背景にした「カダーワラル」{Kadawalalu}(腕輪)の最後で、「カッチャプタ」
{Kacchaputa}と言う登場人物は、花道を走りながら左側の出口から出て行きます。「セ
ーリワーニジャ」{Seriwanija}と言う登場人物は彼の後ろを走って行きます。二人の間
の交わされる、最後の対話も花道の上で交わされます。
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最近、若い演技指導者は、日本の狂言とか、新劇の様な物をシンハラ語に翻訳すると
か,脚色して上演する様になりました。木下順二の譲ると言う劇は、シンハラ語に翻訳
したアジット。プレーマクマーラ。ムラゲ{Ajith Premakumara Murage}は、1998年、
それを上演しました。けど、観客の中であまり有名ではありませんでした。2003年、
ヘーマンタ。プラサード{Hemanta Prasad}と言う若い演技指導者は、黒澤明の映画羅生
門を脚色して、上演されましたが、それもいい評価を取らなかったです。2010年、
トユミントユ。ドダムテンナ{Tumindu Dodamtenna}と言う演技指導者は、ぶすと墨塗
りと言う二つの狂言は「ワハ」{Waha}と「キンブル。カンドユ」{Kinbul Kandulu}ル
と言う名前で登場されました。特に、大学生観客の間、この喜劇を盛んになりました。
その他、プリヤンカラ。ラタナーヤカ{Priyankara Rathnayaka}は他の狂言から「カダダ
ーシ。ベルナヤ]{Kadadasi Belunaya」と言う劇を作られて、上演しました。2011年、
プリヤンカラ。ラタナーヤカはまた、羅生門から影響を受けて、「マゲーマ。ムフナ]
{Magema Muhuna」と言う劇を演技しました。
この様に、現代スリランカの演劇の発展のため、日本の伝統的な演劇から影響を受け
た事が多く見られます。
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