パネルディスカッション 多文化・国際協力コース歴代担当教員による 座談会 パネリスト(50 音順) 小倉充夫(津田塾大学名誉教授) 加納弘勝(津田塾大学国際関係学科教授) 北村文(津田塾大学英文学科講師) 佐藤響子(横浜市立大学国際総合科学部教授・ 津田塾大学非常勤講師) 丸山淳子(津田塾大学国際関係学科講師) 三砂ちづる(津田塾大学国際関係学科教授) 三澤健宏(津田塾大学国際関係学科教授) 横山久(津田塾大学国際関係学科教授) ●パネリストのご紹介 小倉 充夫 OGURA Mitsuo 主な担当科目は「アフリカ研究」「国際社会学」。ザンビアなど南部アフリカの研究を専門とし、現在は「南 部アフリカにおける植民地支配と現代の暴力」をテーマに研究を行う。2013 年 3 月に津田塾大学を退職。多 文化・国際協力コースでは、国際協力ユニットで 2006 年度入学の第 4 期生を担当。 加納 弘勝 KANO Hiromasa 主な担当科目は「地域研究序説」「中東の社会と文化」。第三世界における社会・文化の変容を、中東地域を 中心に、アフリカ・ラテンアメリカ・アジア地域と比較しながら検討している。国際協力ユニットの 2003 年 度入学の第 1 期生、2007 年度入学の第 5 期生を担当。 北村 文 KITAMURA Aya 主な担当科目は「多文化共生論」「言語教育とジェンダー」。専門は社会学、ジェンダー研究。「日本人」「女 性」などのカテゴリー、イメージ、そしてアイデンティティについて、言語と相互行為をキーワードに考え ている。2010 年度入学の第 8 期生より、多文化・言語教育ユニットを担当。 佐藤 響子 SATOH Kyoko 主な担当科目は「PronunciationⅠ」 「CS CompositionⅡ」。専門は言語とジェンダーで、現在は、会話・小説・ 雑誌などで、異性愛規範がどのように語られているのか、語ることによって生まれる変化などを研究してい る。多文化・言語教育ユニットで 2008 年度入学の第 6 期生を 1 年間担当。 丸山 淳子 MARUYAMA Junko 主な担当科目は「文化人類学」「国際開発論」。アフリカの少数民族や先住民の生活、社会関係の変化を、フ ィールドワークによって明らかにし、彼らが直面している現代的課題を考察している。2009 年度入学の第 7 期生から、国際協力ユニットを担当。 三砂 ちづる MISAGO Chizuru 主な担当科目は「国際保健論」 「国際福祉論」 「健康教育」。公衆衛生の一分野である疫学を専門とし、母子保 健・国際保健分野の研究をしている。2003 年度入学の第 1 期生より国際ウェルネスユニットを 10 年間担当。 三澤 健宏 MISAWA Takehiro 主な担当科目は「人口と社会」「ラテンアメリカの社会と文化」。ラテンアメリカを中心に、発展と国際人口 移動の関連について検討している。国際協力ユニットで 2005 年度入学の第 3 期生を担当。 横山 久 YOKOYAMA Hisashi 主な担当科目は「経済学」「開発経済学」。東アジアの成長と所得平等化の同時的達成、さらにその通貨危機 との遭遇を踏まえた途上国一般の開発問題を研究テーマとしている。国際協力ユニットで 2004 年度入学の第 2 期生と 2008 年度入学の第 6 期生を担当。 30 けですから、方向性を出していけば、よその大 現場で実践的に学ぶ多文化・国際協力コース 学にはない「津田バージョン」の人材育成がで きるだろうと考えていました。 ――多文化・国際協力コースが設置されてから 小倉 2011 年に丸山淳子先生が多文化・国際協 の 10 年間を振り返って、いろいろなお話をう 力コースの専任として赴任される以前は、国際 かがえるのではないかと楽しみです。まず、本 関係学科の教員が出張して国際協力ユニット コースがどのようにできたのかについて、設置 を担当しました。私は 4 人目で、手を挙げたの に深くかかわられた先生方からお話いただけ は一番最後です。 ればと思います。まず、当時、学長補佐として 加納先生と私は大学時代からずっと共に学 設立に尽力された加納先生、お願いいたします。 んできた仲です。多文化・国際協力コース設立 加納 2003 年に多文化・国際協力コースが設置 時、加納先生はまさに次の時代の津田のために され、10 年たったことは非常に感慨深いものが 奮闘されていました。 あります。新しいコースをつくる際に何を考え 実は、私はどちらかというと新コース設立に ていて、どのようにしたのかを少しだけご説明 反対しているほうでした。なんとなく違和感を させていただこうと思います。 持ったのは「多文化・国際協力コース」という 1 つには、グローバルにローカルに活躍され 名前です。総合文化やグローバル・スタディー ている津田塾大学の卒業生・在学生がたくさん ズなどと怪しげな看板を掲げた学部・コースが いらっしゃることです。たまたま旅行でスーダ あちこちの大学にできており、一歩間違うとい ンに行った際に、日本大使館の専門職員や NGO い加減な内容になってしまうのではと危惧し からの派遣で地雷撤去の仕事をしている卒業 ていました。加えて、国際関係学の中に多文化 生にお会いしましたし、在学生の皆さんも現地 理解や国際協力の内容は十分入っています。そ に出向いて学ぶ強い姿勢を持っています。 のうえでさらに新しいコースをつくることは そのような方たちが潜在的にいる大学です 説明しにくいのではないかと思ったのです。 から、少し方向性を出せば勝手に動いてしまう しかし、2006 年に第 4 期生を担当することに でしょう。これからはグローバル化の時代です なり、積極的にかかわろうというふうに気持ち し、私が途上国側から見ていても「異質で多様 が変わってきました。結局、一番重要なのは「人」 な発想を持って活動できる人」が絶対に必要で、 なのです。どんなにきちっとした計画性や合理 新しいコースがつくれないかと考えていたの 性を持っていても、教員あるいは学生が駄目な です。ここに津田のアカデミックチャンスがあ ら駄目になってしまいます。 るはずだと思いました。 非常に意欲的な教員と学生によって展開し それから 3〜4 年ほど、コースを新設するこ てきた結果、設立されてから数十年たつ国際関 とについて議論を重ねました。いくつかの反対 係学科に強烈なインパクトを与えるコースに の中で一番大きかったのは「もうほかの大学で 成長しました。多文化・国際協力コースで得ら は行っている。今さら時代遅れではないか」と れた知見やよさを、学科の改革にまで結びつけ いうものでした。しかし、潜在的に力があるわ ていかなくてはならないのではないかと思っ 31 ています。 っていました。津田はそもそも英文学科が単独 横山 実は、私は 2001 年に海外研修で外に出 であり、次に国際関係学科がいち早くできまし ており、帰ってきたらこのコースができていて た。さらに、女の子が理系の学問をするのが珍 非常に驚きました。それまで国際関係学科は理 しい時代に数学科をつくり、IT の隆盛とともに 論や歴史あるいは先進国重視で、途上国を専門 情報科学科も設立されています。津田は伝統を にしている私は寂しい思いをしていたのです。 大切にしつつ、時代に合ったものをしなやかに しかし、このコースには実証や現状、そして途 取り入れていっていますね。 上国を重視するスタイルがありました。 その中で、多文化・国際協力コースは、英文 コース設立に勇気づけられ、2 番目の担当と 学科の学生にとって大きなメリットがあると して手を挙げ、2004 年度入学の第 2 期生と 2008 思いました。私は津田の英文学科出身ですが、 年度入学の第 6 期生を担当しました。 私が大学生のころは英語ができることは 1 つの 三澤 国際協力ユニットで、2005 年度入学の第 強みでした。ところが、今は法学部や経済学部、 3 期生の担当教員を務めました。多文化・国際 理学部の学生だって英語ができる人は相当で 協力コースができる前に、私は実践的な側面に き、そのうえで専門性を持っています。このよ 対する学生の非常に真摯な関心や問題意識を うなコースが用意されていることで広く世界 うすうす感じていました。津田の特徴は、積み に目を向けられる、素晴らしい環境が整ったの 重ねられてきた国際関係に対する取り組みと、 ではないでしょうか。 それを前提としてさらに実践的な部分に足を ――2004 年に赴任され、2003 年度入学の第 1 踏み込んでいこうとすること。他大学では研究 期生から国際ウェルネスユニットを担当され 科レベルで実践的なことをもっと深めようと た三砂先生は、本コースを育てられてきたメン しますが、多文化・国際協力コースでは学部で バーのお 1 人ですが、いかがでしょうか。 同時に取り組んでいくということですね。 三砂 私が赴任した際に感じたのは、多文化・ 佐藤 横浜市立大学国際総合科学部の教員を 国際協力コースが 「よき意志」と「期待」で しており、非常勤講師として多文化・言語教育 つくられていることでした。国際協力の現場で ユニットで 2008 年度入学の第 6 期生を 1 年間 多くの津田の卒業生に出会い、皆さんあまりに 担当しました。 立派な方々だったので喜んで赴任しました。 実は、このコースを立ち上げるときに大変ご 「やっぱり、あのような人たちはここでつくら 尽力をなさったクレア・マリィ先生*とずっと一 れてきたのだ」と理解できる学校の雰囲気と、 緒に研究をしており、横からチラチラと話を聞 卒業生がつくってきた歴史を踏まえてこのコ かせていただいて、すごいものをつくるなと思 ースが新設されたことに対して感じた「よき意 志」は、事実だったとしみじみ思います。 多文化・国際協力コースは学科横断のコース * クレア・マリィ氏 2004 年〜2010 年まで、津田塾 大学に勤務し、多文化・国際協力コース多文化・言 語教育ユニットを担当。専門分野は談話分析・言語 分析・ジェンダー/セクシュアリティ論。現在、メ ルボルン大学アジア・インスティテュート教員(日 本語・日本研究)。 で、英文学科と国際関係学科の学生を同じよう に扱い、自分のテーマを持ってフィールドワー クをして論文を書くことだけに 3 年間を使える 32 という非常にシンプルなつくりでできていま す。2 年生から 3 年間かけて、1 つのテーマを ゼミの同じメンバーと教員で追っていくとい う設定で、それは教員・学生に大きな自由と、 関係性が深まっていく楽しさをくれたように 思います。 自分が一生付き合っていけるようなテーマ を見つけて、フィールドワークを行って論文を 書くというプロセスを学ぶことによって、自分 の人生の次のステップに進めることを教員も しゃいましたが、本当にそうなっているように 学生も経験できる。非常によいかたちでコース 思います。「異質で多様」というと、かっこい ができている。つくってくださった皆さまに、 い気配がしますが、ようするに「変わっている お礼申し上げたいと思います。 人」を育てているということなんでしょうね (笑)。そして、学生たちは「私はこういうこ 活発で自信に満ちた学生と共に とがしたい、知りたい」と、それが変だと思わ れるかどうかなんて、あまり気にしないで、そ ――多文化・国際協力コースの学生に、先生方 れこそ勝手にやっていくのです。 はどのような印象をお持ちでしょうか。 これには、担当教員としては、もちろん心配 佐藤 多文化・国際協力コースの学生は、非常 になることもありますが、それ以上に面白いこ に活発です。一番驚いたのは、自分たちでどん とでもあります。「これをやりなさい」と言っ どんやっていくこと。担当させていただいたの て、「はい、そうします」という学生にまだ一 は 1 年間だけでしたが、こちらが何もしなくて 度も会えない。そして、皆さん、それぞれでモ も、みんな卒論を書き上げてしまいました。そ チベーションをすでにお持ちなので、それを伸 ういう勢いは素晴らしいと思います。 ばすだけでいいんですね。これは、教員として 丸山 2009 年度入学の第 7 期生より、国際協力 は、本当に楽しいことです。 ユニットを担当しています。津田に来て 3 年目 北村 2010 年度入学の第 8 期生から多文化・言 です。着任する前に、小倉先生にご案内いただ 語教育ユニットを担当しています。実は、この いて学生の顔合わせに参加しました。そのとき コースの皆さんが強い意志を持って自信に満 は、「かわいらしくて華やかな学生さんだな」 ち、活気があって活発なことを、赴任する前か という程度の印象でしたが、実際に津田に勤め ら知っていました。2005 年に大学院生としてこ るようになって「あのときはわかっていなかっ のコースの講演に講師として参加したことが たな」と思うことがたくさん出てきました。 あり、まったく同じことを感じました。なんて 先ほど、加納先生が「“異質で多様な発想を すごい人たちなのだろうと。 持って活動できる人”を育てたい」「少し方向 着任して 2 年目になった今も、そのときに抱 性を出せば勝手に動いてしまうだろう」とおっ いた印象は変わっていません。ただ、力があっ 33 て、強くてどんどん進んでいく人たちであるこ があります。その両方を兼ね備える人になって とを感じる一方で、皆さんが心の奥底に心配や いただきたいですね。 不安、少し臆病な気持ちを持っていることもわ かってきました。そこも含めて、皆さんのこと 教員それぞれの研究テーマ が大好きで、ここにいられることを幸せに感じ ています。 ――シンポジウムを開催するに当たって、先生 三澤 私自身は気がつかなかった関心が、学生 方に質問したいことを、事前に学生から寄せて からどんどん出てきます。そういったとき、個 もらいました。その中に「先生方の研究につい 人的な経験や先入観にとらわれてしまうと、教 て教えてほしい」という意見が多く、フィール 員として「その研究はやめておいたほうがいい ドワークと絡めてお話いただきたいと思いま のでは……」と言いたくなってしまうこともあ す。特に、加納先生には「なぜビーズの研究な りますが、私が「常識的に無理だろう」と思っ のか?」という質問が複数寄せられています。 ても、学生は打開してなんとかしてしまうので 加納 まさか、ここでビーズの話をやってもい すね。学生と一緒にいると、教員も学ぶことが いと、そういう機会はないと思っていたのです 非常に多いと感じています。 が(笑)。 横山 加納先生がおっしゃったように、津田の 当初は、中東の研究をしていて、その後に都 学生は立派だと思います。私が担当してからや 市研究に移りました。私はもともと社会学です ったことといえば学生の後ろをついていった ので、社会に暮らす人たちの価値観や社会規範 だけで、皆さんに引っ張られてここまで来たよ を具体的なもので知りたいと思っておりまし うな気がしています。 たが、徐々に人々の希望や願いに関心を持つよ ただ、一言申し上げるとすれば、理論をもう うになりました。それを何で見ようかと思った 少し勉強していただきたい。ゼミのときに、私 ときに、ビーズだったのです。人々が思いを込 はいつも「cool head but with warm heart」 めてビーズをつくっている、こんな素晴らしい とお伝えしています。皆さんには「warm heart」 ものはありません。なぜみんな気がつかないの は間違いなくある。しかし、「cool head」にな かと、異質な世界に私は 1 人で走りました。大 ると「……」なんですね。ですから、ぜひご自 きな狙いがあれば、たどり着くには異質で多様 分のフィールドワークを相対化する努力をし な道があるはずと考えてきました。グローバル ていただきたいと思います。 化時代の一様化という流れに棹差し、集団の中 小倉 「詩だけで世界は変わらない。学問だけ で一様化すれば先があるとは思えなかったの で世界は変わろうともしない」という言葉があ です。 ります。 丸山 アフリカのカラハリ砂漠に住んでいる 熱い情熱や思い、善意が根本にあることは非 狩猟採集民の研究をしています。なぜこのよう 常に重要です。しかし、同時に歴史的な視点や な研究をするようになったのかと聞かれても、 認識、構造的な理解、枠組み、捉え方をきっち 実はあまりかっこいいストーリーではありま り勉強しないと思いが空回りしてしまうこと せん。大学時代はほとんど飲み会しかしていな 34 いような学生でした。そうすると、当然就職先 は決まりません。いろいろ頑張ったもののどう しようもないので、「遠くにでも行くか」と思 ったんですね。 カラハリ砂漠は南部アフリカにあり、日本か ら行くと 4〜5 日ほどかかります。確かに「遠 いところ」ですが、フィールドワークを続けて いると、そこで生活している人たちの考えてい ることや思っていることは、私たちが日本で考 えたり悩んだりしていることと似ていたり、あ に思っています。 るいは、それが、もっと凝縮した形で起こって 三砂 多文化・国際協力コースに入ってこられ いたりすることに気づくようになってきまし る学生さんと大学時代の私はとても似ていて、 た。そして、彼らがいろいろな問題にどう対応 薬学部に通っていた大学時代に、国際協力ワー しようか、どう毎日を暮らそうかと、試行錯誤 カーになりたいという志を立てました。当時、 していることから、学ぶことがたくさんある。 薬学部は 4 年制で朝から晩まで実習と講義があ それが楽しく、やめられなくなって今に至って り、体育会のテニス部に所属していたためテニ います。 スウエアの上に白衣をひっかけて実習に行く 北村 私はずっと自分のことだけを研究して という、態度の悪い学生生活でした。 います。大学生のころ、髪の毛の色をピンクや 大学 4 年生のときに自分の人生についてふと グリーンにしたり、そうかと思うと坊主にした 考えました。当時はアフリカの飢餓が話題にな りという生活をしており、それこそ変、異質な っていたころで、「どうしたら自分がこのよう 人でした。でも、やっぱり不安で、自分のやっ な国とかかわっていけるのか。自分は何も勉強 ていることがわからない。どうも人生のつじつ しておらず、世の中の成り立ちもわかっていな まが合わないけれど、合わせようと必死でした。 い」と悶々としていました。「もっと勉強をし その結果、「自分は誰なのか」という研究や、 て「理論武装」をしないと途上国に出ていけな アイデンティティの研究をするようになり、そ い」と思い、大学卒業後は薬剤師として働きな こから社会学やジェンダー研究に移っていっ がら、神戸大学経済学部の夜間の学部に学士入 たのです。 学しました。 研究をしていてよかったと思うのは、つじつ その後、「まずはフィールド」と思ってアフ まが合わなくてもよい、ということがわかった リカに行ったりしているうちに、だんだん公衆 ことです。研究をするうちに、つじつまが合わ 衛生をやるようになりました。どうやって仕事 なくて困っている人たちが私の他にもたくさ をしていこうかと考えているうちに、30 歳くら んいることもわかってきて、いつの間にか他者 いでマスターをとって、40 歳くらいでドクター や社会のことも考えるようになりました。皆さ をとって、できる仕事をしていたら大学の教員 んがやっていることとすごく似ていると勝手 になったという感じです。 35 途上国で国際協力や援助の仕事をするより 人口現象そのものがなぜ他の要因から影響を も、研究者として途上国の人にかかわるのが非 受けて変化していくのかということに、私は面 常にフラットなよい関係だということに途中 白さを感じました。 で気づいたことが大きかったです。さらに、イ 今は、国際人口移動、栄養や児童の生存の問 ギリスの大学で働いていたときに、国際協力ワ 題をテーマに取り組んでいます。ラテンアメリ ーカーたちが何年かごとに現場・国連・NGO・ カにいるマイノリティーに関心があるため、日 大学と職場を変えて働いているのを見たこと 系人や国境地帯にいる先住民のコミュニティ も、参考になりました。 ーを対象にしてきました。 私自身は、社会科学・人文科学と医療の分野 ラテンアメリカには小さなころからいろい をつなぐ仕事をするのが夢だったので、医療系 ろな意味でコミットしてきたこともあり、ラテ のバックグラウンドを持ちながら、社会科学・ ンアメリカ社会と政治経済一般の二本立てで 人文科学の先生方と一緒に仕事をさせてもら 貢献できればと思っています。 っている今は大変幸せです。 小倉 私はアフリカの農村にこだわって研究 三澤 大学を出たら南米に移住したいと思っ をしてきました。それは、世界を動かしている ていたので、大学時代は言葉と体力をつけるこ 側よりは、動かされている側から物事を見るほ とに専念しました。ラテンアメリカで勉強した うが、精神的に健全なのではないかと思うから のは、人口研究です。出生・移動・死亡につい です。大学 3 年生のときに調査で沖縄に行って、 て、複雑な社会の現象や文化・政治経済・自然・ 衝撃を受けました。日本の近現代や東アジアの 生態系との関連をみるのです。 問題を考えるときに、東京ではなく沖縄から見 ちょうど 80 年代のはじめ、私がラテンアメ ることによって見えてくるものがあります。そ リカに留学したときには、多くの国が軍事政権 のような関心を持って、アフリカ研究に取り組 で社会科学のテーマはできることが限られて んできました。 いました。しかし、人口研究では、再生産行動・ 今、研究しようとしているのは「南部アフリ 出生力に至るプロセスと社会・文化の関連を重 カにおける植民地支配と現代の暴力」です。ア 視し、「発展」の意味について人口と社会経済 フリカにかかわっている人は「日本はアフリカ を含めたより複雑な関係でみることができま に植民地を持ったわけでも直接侵略したわけ す。実は、その中に政治や貧困の問題等の軍事 でもない。そういう意味では欧米とは違う」と 下では面と向かっては研究できない社会科学 よく言いますが、これは思い違いです。アジア のテーマが含まれているわけです。さらに、政 においては植民地支配をした側であることは 治に直接結びつくものでないとみられていた 確かで、アフリカの人や政府とかかわるときに、 ことから、外部資金を獲得するうってつけのテ 植民地支配した欧米の人たちと共通した態度、 ーマの 1 つでした。 考え方をする危険性があります。 ラテンアメリカの中でも構造的ないくつか 先進国の人々は、いまだに植民地支配とそれ の問題として、あまり焦点が当たっていなかっ を支えてきたメンタリティーから自由になっ た、経済発展の与件として扱われてきた人口、 ていない気がします。 36 佐藤 「言語とジェンダー」を専門としていま 次 5 カ年計画にかかわり、「理論と実証」を絡 す。津田の英文学科には「英語の教員になりた めて学ぶ醍醐味を知りました。 い」と思って入りました。当時は男女雇用機会 均等法がありませんでしたから、男性と平等に フィールドで学ぶ人へのアドバイス 女性が一生仕事をできるものと考え、思いつい たのが英語の教員でした。 ――学生へのアドバイスをお願いします。 英文学科で出会った「統語論」がとても面白 佐藤 1 年間、ゼミを担当させていただいて、 く、英語の教員になることは忘れ去って大学院 女子大のよさを痛感しました。皆さんが男性の に行きました。修了後、すぐに就職した横浜市 目を気にしないで、素直に自分の人生観や悩み 立大学は、教授会のメンバーが 9 割 9 分男性。 を相談したり話したりする雰囲気は素晴らし そこで、「日本語が通じない」経験をしたので いですね。 す。私も普通にしていて、向こうも普通にして 国際協力の仕事に対しても、リミットを設け いるのに、なぜか話が通じない。なぜだろうと ずに考えられています。横浜市立大学にも国際 考えていたときに、社会言語学や会話分析と出 協力を専門にするコースがあり、時々、男子学 会い、人はどうやって話をしているのか、コミ 生から「彼女が夢中になっていて困っています。 ュニケーションをとっているかについて研究 危ないところに行って心配だし、先生からなん を始めました。 とか言ってやってください」と相談を受けるこ 現在は、異性愛規範を研究しています。例え とがあります。津田ではこのようなことはあり ば、男性は女性と恋愛・結婚をしなければなら ませんから、皆さんが女の子同士でのびのびと ない、女性は男性と恋愛・結婚をしなければな 研究して深めていけることのよさをぜひ生か らないという規範が私たちの中にあります。女 していただきたいと思っています。 性が女性を好きというと、「えっと……」とな 横山 赴任していたクアラルンプールで、家内 ったりすることはありませんか? それらが がひったくりにあいました。日本国内でも同じ どうやって語られ、どんなふうに抵抗したり、 ですが、道路側にバッグを持っていると危ない 語ることによって再生産または変化があるの です。フィールドワークの際は、道路とは反対 かといったことを調査しています。フィールド 側にバッグを持っていただきたいですね。 は会話全般と小説や雑誌です。 小倉 自慢ではないけれど、私はフィールドで 横山 学生時代は、ざっくばらんに言って、ま 病気になったことはありません。なぜかという ったく勉強しておりません。学生運動でヘルメ と、あまり一生懸命に調査をせずに、さぼるん ットをかぶっていました。就職が決まったとき です。現地では、いつも昼寝をしています。 に、ゼミの教員に「推薦状を書いていただかな それから、車を持っていると無料のタクシー いと就職できません」と言うと、「おまえ、勉 がわりにさせられることも多かった。あちこち 強してないだろう。推薦状を書くわけにはいか に連れていってと頼まれます。例えば、「お産 ない」と言われ、困りましたね。 が始まった女性がいるから、病院へお願いしま 幸い、大学院に拾われて、インドネシア第 2 す」「反政府勢力が襲ってきたから警察に通報 37 したい。乗せていってくれ」などと言われ、1 思えるなら、私もはるばるアフリカに行って、 日 4〜5 時間ほど調査をしようとしていても、2 いろいろなことを考えることなんて、とっくに 時間ほどしか調査ができないのです。 やめているでしょう。わからないことの面倒く そんなふうに、いろいろなことが起こったり ささに付き合い続けることは苦しい、でも、ぜ 失敗したりする中に、宝物があります。これか ひ皆さんにそれをしてもらいたいと思ってい ら大学院などで長期間の調査に出かけられる ます。 こともあると思いますが、熱心で体力がある人 三砂 学生にやってほしくないことはありま ほど危ないですから、注意してやっていただき せんが、やってほしいことはあります。このコ たいですね。 ースに来たら、フィールドワークを行い、しっ 加納 多文化・国際協力コースとして、次の 10 かり勉強をして卒論を書いてもらいたいです。 年を見据えて、狙いを定めたいですね。それが まともなフィールドワークをして、「いかに自 ないと、先生方も学生の皆さんも、やっていて 分が何も知らないか」に常にたたきのめされて も面白くないと思うのです。 ほしい。 学生の皆さんには、ビーズのように輝きを失 自分が今見えているところは、少しだけ、と わないでほしいですね。 いうことに気づいてほしい。らせん階段を上る ように少しずつ勉強していくと、最初はわから 学生に「やめてほしいこと」は? なくても、あるときふっと少し遠くまで見える ようになります。「すごいな」と思って、上っ ――学生から、 「私たちに“やめてほしいこと” ていくとまた見えなくなりますが、上り続ける はありますか?」という質問がありました。担 と、また違う世界がふっと見えるようになりま 当されていて、何か感じたことはありますか。 す。その繰り返しなので、「自分は何も知らな 北村 「1 人で頑張るのはやめましょう」とい い」と思って勉強を続けてほしい。そのプロセ つも思っています。1 人でフィールドワークの スで学ぶことの厳しさや楽しさが見えると一 ことを考えて、計画して、実行して、卒論を書 生学び続けられます。 くことほど、つまらないものはない。せっかく 仲間がいて、津田の長い歴史の中に皆さんはい フィールドワークでのハプニング らっしゃるわけですから、助け合い、頼り合い ながら、研究や人生のことを考えていただける ――フィールドワーク中のハプニングをお聞 とよいですね。 かせください。アフリカやラテンアメリカです 丸山 簡単に「わかった」と思わないでほしい と、驚きの体験もあるのではないでしょうか。 ですね。「わかった」という気にならないとい 三澤 12 月、クリスマスの 1 週間前に、現地の うことが、現場を重視した研究を行ううえでは 学生を連れて調査をしたことがあります。私が 大事なことの 1 つだと思います。「なんでこん 車を運転していて、辺りが暗くなってきたころ、 なにわからないのだろう」という気持ちは面倒 対向車のトラックがセンターラインよりのラ くさいんですよ。でも、簡単に「わかった」と イトを消して近づいてきました。そのとき、開 38 けていた三角窓とサイドミラーが対向車とぶ つかり、全部割れてしまったのです。散り散り になったガラスを学生が頭にかぶってしまい ました。このことから学んだのは「時期をわき まえて動く」「必ず保険に入る」ことです。 私の友人は、留学中に鉄道の脱線事故に巻き 込まれて、下半身を複雑骨折しました。日本で 手術をしなければならなくなり、救済者保険に 入っていたので、日本から父親が来て JAL の 4 席を占めて寝ながら日本に帰れたわけです。途 私は 10 年ほど前にアフリカで調査を始めた 上国ではどういう病院に連れていかれるかは ころからお世話になっているお父さん・お母さ わかりませんから、保険をかけていくように気 ん、その親戚たちに「変な男につかまって勉強 をつけてください。 を続けられなくなったら困るから」と、いつも 三砂 女性として、危険を察知する力を常に身 大事にされながらフィールドワークをしてい につけてほしいです。日本でも身につきますか ました。村の若者たちと夜遊びをして帰ると、 ら、自分の感覚を鋭くしてもらいたいですね。 次の日の朝には「おまえは何をしにここに来た 「ここは入ってはいけない」「みんなが行くと んだ!? あそこの娘は中学校に行っていた 言っても、私は行かない」などという感覚です。 が、妊娠をして勉強が続けられなくなったんだ そういう感覚がない人が途上国に行っては駄 ぞ」という話を聞かされたりしたものです。 目です。1 本違う道に入ると危険な場所が登場 ところが、先日訪れた際には、もはや誰もそ するわけですが、その空気をパッと感知して逃 のようなことは言ってくれなくなっていまし げられるような人でないと危ない。 た。以前は村のエリートを結婚相手に紹介して 海外に行って、むやみに笑わないように。学 もらう程度だったのに、今では「あの人は、酒 生には「サングラスをかけていけ」と言うこと 飲みだけれど性格は悪くない」とか「第一夫人 があります。ヘラヘラしていると何でもオッケ はいるけど、第二夫人も楽しいよ」などと熱心 ーだと思われることがありますから。男性と 2 に言われるようにまでなってしまいました。長 人で部屋に入らない、2 人だけで車に乗らない、 く通うようになって、驚くことも減っていくの 夜暗くなったら外を歩かない。当たり前のこと かと思いきや、最近は、この自分の位置づけの ですが、日本にいると基本的な安全確保に関す 急激な変化に、かなり驚いています。でも、こ ることが甘くなってくると思います。やってほ うやって遠く離れたところに暮らす人たちと、 しくないこと、ありますね(笑)。 人生の一部を共有できることは、やっぱりフィ 丸山 アフリカやラテンアメリカに行くと、驚 ールドワークの醍醐味なんだと思いますね。 きの体験があるという発想はまずいと思いま ――時間となりました。多文化・国際協力コー すよ。驚くことは、どこにでもありますから、 スの学生たちには、非常に参考になったと思い 遠くに行けばあるというものではありません。 ます。ありがとうございました。 39
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