恩地孝四郎 展 - 東京国立近代美術館

 MOMAT Press Release
恩地孝四郎展
恩地孝四郎展
形はひびき 色はうたう
日本における抽象美術の父にして木版画近代化の立役者、
そして時代に先駆けたマルチクリエイター
恩地孝四郎、
過去最大規模の回顧展を東京国立近代美術館で開催。日本で最初の抽象表現《抒情『あ
かるい時』
》はもちろん、海外美術館所蔵の重要作 62 点を含む約 400 点を一挙公開。
会期
2016 年 1 月 13 日(水)~ 2016 年 2 月 28 日(日)※月曜休館
会場
東京国立近代美術館 1 階企画展ギャラリー
本展のポイント
・日本の抽象表現が誕生して 100 年を記念するにふさわしい、日本の抽象美術の父のひとりで
ある恩地孝四郎、版画250 点を中心に出品点数約 400 点を誇る過去最大規模の回顧展です。
・海外に流出した恩地孝四郎の重要作 62 点が、大英博物館・シカゴ美術館・ボストン美術館・
ホノルル美術館の 4 館から一堂に里帰り展示されます。
・木版画のみならず、恩地孝四郎の領域横断的な活動がうかがえる油彩、水彩・素描、写真、ブッ
クデザインなど多彩な作品をご紹介、時代に先駆けたマルチクリエイターともいえる彼の創
作の全貌に迫ります。
上左:《抒情『あかるい時』》1915、木版・紙、東京国立近代美術館
上右:《あるヴァイオリニストの印象(諏訪根自子像)》1946、木版・紙、東京国立近代美術館
1
MOMAT Press Release
恩地孝四郎展
イントロダクション
このたび、日本における抽象美術の先駆者として、また自画・自刻・自摺による高い芸術性を持っ
た創作版画の大成者として知られる恩地孝四郎(1891-1955)20 年ぶりの回顧展を開催します。
恩地孝四郎は 10 代で竹久夢二に私淑し、1914 年に東京美術学校に通う田中恭吉・藤森静雄と
ともに木版画と詩の同人誌『月映』を創刊、表現者の道を歩み始めました。また装幀家としても
人気が高く、萩原朔太郎詩集『月に吠える』や室生犀星詩集『愛の詩集』などに恩地の活躍を見
ることができます。
昭和期になると、ヨーロッパの新思潮に共鳴して構成的な人体像やクラッシック音楽に想を得
た〈音楽作品による抒情〉シリーズを制作する一方、イメージと言葉とデザインの総合を目指し
た数々の詩版画集や、油彩画にも匹敵する重厚な肖像版画などを発表しました。
戦後は、GHQ関係者として来日した外国人コレクターたちの理解と励ましを受けて、抽象美
術に専念するようになりました。晩年の 10 年間に作られた版画作品の半数以上が海外の美術館
や蒐集家の手に渡っています。
本展は海外に流出した重要作 62 点を含め、木版画を中心に、油彩、水彩・素描、写真、ブッ
クデザインなど、彼の領域横断的な活動をご覧いただきます。大正期から昭和の戦後期にかけて
前人未踏の足跡を残した、恩地孝四郎の多彩な世界をお楽しみください。
出品点数 計 約 400 点 (うち海外所蔵品 62 点)
版画 250 点 油彩 11 点
水彩・素描 26 点
写真 20 点
ブックデザイン 79 点
資料 14 点
上:《音楽作品による抒情 No.4 山田耕筰
「日本風な影絵」の内「おやすみ」》
1933[1935]、木版・紙、ボストン美術館
Museum of Fine Arts, Boston, Gift of
L. Aaron Lebowich, 49.737
右:《裸膚白布》
1928、木版・紙、ドゥファミリィ美術館
2
MOMAT Press Release
恩地孝四郎展
恩地孝四郎とは何者なのか?
“日本における抽象美術の先駆者であり、
木版画近代化の立役者”
従来通りの美術史の文脈から彼を語るのであれば、この一言で
全ての説明が事足ります。しかし、それだけでは恩地孝四郎の魅
力を語るには不十分であると言わざるを得ません。
今日、表現者と言われる人の多くはデザインや音楽・映像・写真・
文章といった手法を使い分け、紙や電波だけでなくウェブ、SNS
などあらゆる媒体を活用する、マルチなクリエイターです。それ
は何を使うかよりも何を表現するのかが重要視され、最適な手法
を選択することが当たり前な現代だからこその状況です。
恩地は抽象美術がまだその名を持たなかった頃、心の内側を表
《自画像(ブルーズ)》
1919 頃、油彩・キャンバス、
東京都現代美術館
現することに生涯をかけた人物です。彼の創作領域は一般に良く
知られ評価の高い木版画のみならず、油彩、水彩・素描、写真、ブッ
クデザイン、果ては詩作に及ぶ広大なものです。恩地孝四郎は、
持てる全てを駆使し、言葉だけでなく色と形を用いて心をうたう、
現代に先駆けたマルチクリエイターであったと言えるのではない
でしょうか。
なぜ今、恩地孝四郎なのか?
戦後、恩地の作品を真っ先に評価しはじめたのは日本を訪れた
外国人たちでした。彼らは非凡な情熱をもって収集を行い、そう
して集められた恩地の重要作の多くが海を渡っていきました。
その後、ここ 20 年間の国内における評価の高まりとともに、海
外コレクターが手放した恩地の重要作を日本の個人コレクターや
《オバタマムシ(『博物志』)》
1938-42 頃、ゼラチン・シルバー・
プリント、東京国立近代美術館
画廊が買い戻す動きが活発になり、国内でも少しずつ恩地の戦後
の作品が充実してきました。
また今回の回顧展では、大英博物館・シカゴ美術館・ボストン
美術館・ホノルル美術館の 4 館から、現存作が一点しか確認され
ていない作品や摺りが最良の作品など、恩地の重要作 62 点が出品
されます。
折しも恩地による日本で最初の抽象表現《抒情『あかるい時』》
が生まれて 100 年が過ぎた今日、日本においては 20 年ぶり 3 回目、
当館では実に 40 年ぶりとなる回顧展が、国内のみならず海外所蔵
館の多大な協力を得て過去最大規模でついに開催です。
《春の譜》
1944、木版・紙、東京国立近代美術館
3
MOMAT Press Release
恩地孝四郎展
本展詳細
本展は 3 章仕立てで、色と形を操ったマルチクリエイター、恩地孝四郎の生涯に迫ります。
第 1 章 『月映』にはじまる 1891-1924 年 0-33 歳
東京の裕福な役人の家に生まれた恩地は父親から医者に
なるよう求められ勉学に励むも、受験に失敗。失意の中、
美人画の巨匠竹久夢二と出会ったことが、恩地が表現者を
志すきっかけとなりました。夢二の画集に感激した恩地(当
時 18 歳)が書簡を届けたのを機にふたりの親密な交友が
はじまり、また恩地が生涯にわたって携わることになる装
幀の仕事が舞い込むようになったのも、夢二の引き合わせ
によるものでした。恩地が何よりも共感を覚えたのは詩歌
と同等の、心の内側から涌き出てきた表現であり、その最
初の舞台となったのが、木版画と詩の同人誌『月映』です。
東京美術学校に通っていた三人の学生、恩地孝四郎・田
中恭吉・藤森静雄によって編まれた青春の金字塔である『月
映』は、田中の夭折や資金繰りの問題で早々と終刊になり
ましたが、そのわずか 1 年ほどの間に、恩地の画風は大き
く変わります。性の怖れにおののくような線描主体の裸体
像などを経て、ライフ・ワークとなる〈抒情〉シリーズが 《音楽作品による抒情 ドビュッシー「金色の魚」》
1936、木版・紙、養清堂画廊
生まれ、やがて色面の重なりの中に淡い光を湛えた未聞の
空間へ。後年、日本における最初の抽象表現として高く評
価される《あかるい時》が生み出されたのは、まさにこの
時のことです。同人誌『月映』は言わば、日本抽象美術の
ゆりかごであったとも言えるでしょう。
1915 年に親元から離れて独り暮らしをはじめた恩地は、
美術学校を退学し、翌年結婚して家庭を持ちます。美術家
への正道からドロップ・アウトし、実社会に一歩踏み出す
なかで、彼は木版画と同じか、それ以上の情熱を油彩画(自
画像と静物画)とペン画に注ぎはじめました。抽象化のは
らむ図案化の危機をよく見通していた彼は、小画面の木版
画によって抽象世界に足を踏み入れたのち、油彩画やペン
画を通じてもう一度リアリティに向き合う道を採ったので
はないでしょうか。
《アレゴリー No.2 廃墟》
1948、木版・紙、東京都現代美術館
4
MOMAT Press Release
恩地孝四郎展
第 2 章 版画・都市・メディア 1924-1945 年 33-54 歳
油彩画やペン画による試みの後、恩地は木版へと回帰します。恩地は近代にふさわしい表現方法として、色
面の摺り重ねという版画ならではの表現方法を自覚したのです。写実と抽象という全く違う表現がこの頃の恩
地の作品に同時に現れますが、彼にとって抽象とは表現様式上の選択肢の一つなどではなく、彼が若い頃に吸
収した美術のあらゆる表現がやがて合流することで生まれる未知の何か、であったのでしょう。それは当時海
外において、抽象美術が伝統的な様々な美術表現の上に生まれつつあった状況にとても良く似ています。恩地
はその“何か”に到達するための手段として、彫刻刀・絵筆・ペンだけでなくカメラや言葉といった持てるモ
ノ全てを利用し、様々なメディアによって表現の幅を広げていきます。
また恩地は 1923 年の関東大震災の後、罹災した都市が鉄とセメントによって復興し、出版・ラジオ放送・
レコード・トーキーなど大衆向けの情報・娯楽産業が勃興してくるなかで、複数つくることができるという版
画のもう一つの特質にあらためて注意を向け始めました。会員制の版画頒布や版画誌の編集、テキストとイメー
ジとデザインを総合した「出版創作」などの試みによって、版画の社会的認知度の向上に努めたのです。
《リリック No.21 かげのある心情》
1952、紙版・紙、ドゥファミリィ美術館
第 3 章 抽象への方途 1945-1955 年 54-63 歳
1945(昭和 20)年 8 月 15 日の終戦を境に、恩地と、そして版画をめぐる社会状況は大きく変わりました。一つは、
GHQ 関係者のなかに、W. ハートネットや O. スタットラーなど恩地孝四郎らの「創作版画」に傾倒し、戦後の
新作(抽象版画)を収集する庇護者が現われたこと。またもう一つは、毎日新聞社主催の美術団体連合展
(1947 ~ 51 年)をはじめとして、絵画・彫刻と一緒に版画を発表する場が次々に創設され、1951 年のサンパウロ・
ビエンナーレ(恩地も出品者のひとり)を皮切りに、日本の版画家が海外で作品を発表する機会さえ生まれた
こと。恩地の戦後作はほとんど全てが抽象版画ですが、彼が晩年の 10 年間、抽象に思う存分没頭できた背景
には、こういった美術界を取り巻く状況の変化がありました。彼は抽象表現の探究を深めるべく、人物・静物・
風景といった従来のジャンルから離れ、シリーズ(連作)という表現形式に取り組みます。中でも 7 つのシリー
ズ(抒情・ポエム・イマージュ・フォルム・コンポジション・即興・オブジェ)を亡くなる前年まで並行して
制作し続けました。
恩地はまた、戦後まもない 1948 年頃から、版を彫らない版画、つまり型紙・布地・紙ひも・木切れ・木の
葉などの実物を版として用いる「実材版画」の技法を、さまざまなシリーズのなかに採り入れはじめました。
それは、都市の中で打ち捨てられてしまうような廃材や小さな自然の遺物によって掻き立てられた感情を版に
よらずダイレクトに作品にする試みであったといえるでしょう。
5
MOMAT Press Release
恩地孝四郎展
恩地孝四郎 略年譜
1891 年(明治 24 年)7 月 2 日、東京生まれ
1909 年(明治 42 年)第一高等学校受験に失敗。竹久夢二と出会い、画家を目指す
1910 年(明治 43 年)東京美術学校予備科(西洋画科志望)に入学
1911 年(明治 44 年)最初の装幀本『悪人研究』(西川光二郎著)を手掛ける
1914 年(大正 3 年)田中恭吉、藤森静雄とともに詩と版画の同人誌『月映』を創刊
1915 年(大正 4 年)『月映』にて日本で最初の抽象表現《抒情『あかるい時』》を発表。東京美術学校退学
1916 年(大正 5 年)小林のぶと結婚
1917 年(大正 6 年)萩原朔太郎詩集『月に吠える』装幀
1918 年(大正 7 年)室生犀星詩集『愛の詩集』装幀。日本創作版画協会の創立に加わる
1922 年(大正 11 年)日本創作版画協会の『詩と版画』編集を担当
1927 年(昭和 2 年)帝展がはじめて版画の受理を認めたことを受け、版画《幼女浴後》を出品
1931 年(昭和 6 年)室生犀星の新聞連載小説『青い猿』の挿絵を担当
1932 年(昭和 7 年)文化学院美術部講師となる
1934 年(昭和 9 年)詩・写真・版画による『飛行官能』を刊行
1942 年(昭和 17 年)写真・エッセイ集『博物志』、エッセイ集『工房雑記』刊行
1945 年(昭和 20 年)太宰治の新聞連載小説『パンドラの匣』の挿絵を担当
1951 年(昭和 26 年)第一回サンパウロ・ビエンナーレ展に出品
1952 年(昭和 27 年)第二回ルガノ国際版画展に出品。サンフランシスコでの現代日本美術展に出品
1954 年(昭和 29 年)ニューヨークでの第十八回アメリカ抽象美術展に出品
1955 年(昭和 30 年)6 月 3 日、心臓麻痺のため死去
関連イベント
1 月 30 日(土)14:00-15:30 講演会 桑原規子(聖徳大学文学部教授)
2 月 14 日(日)14:00-15:30 講演会 山口啓介(現代作家)
※聞き手・松本透(当館副館長・本展企画者)
《リリック No.6 孤独》
1949、マルチブロック・紙、東京国立近代美術館
6
MOMAT Press Release
恩地孝四郎展
開催概要
タイトル(日) 恩地孝四郎展
(英) ONCHI KOSHIRO
会期
2016 年 1 月 13 日(水)
会場
東京国立近代美術館
〒102‐8322
主催
開館時間
休館日
アクセス
観覧料
-
2016 年 2 月 28 日(日)
1 階企画展ギャラリー
東京都千代田区北の丸公園 3-1
東京国立近代美術館/和歌山県立近代美術館/東京新聞
10:00-17:00(金曜は 20:00 まで)
入館は閉館の 30 分前まで
月曜日
東京メトロ東西線「竹橋駅」1b出口より徒歩 3 分
一般 1,000(800)円、大学生 500(400)円
*高校生以下および 18 歳未満、障害者手帳をお持ちの方とその付添者(1
名)は無料
*(
)内は 20 名以上の団体料金。いずれも消費税込
*上記料金で入館当日に限り、同時開催の「MOMATコレクション」
、
「ようこそ日本へ:1920-30 年代のツーリズムとデザイン」もご覧いた
だけます。
お問い合わせ
03-5777-8600(ハローダイヤル)
ホームページ
http://www.momat.go.jp
同時開催
2015 年 12 月 22 日(火)
-
2016 年 2 月 28 日(日)
「MOMATコレクション」
2016 年 1 月 9 日(土)
-
所蔵品ギャラリー(4F-2F)
2016 年 2 月 28 日(日)
「ようこそ日本へ:1920-30 年代のツーリズムとデザイン」
ギャラリー4(2F)
*観覧料:一般 430(220)円、大学生 130(70)円
*高校生以下および 18 歳未満、65 歳以上、障害者手帳をお持ちの方とそ
の付添者(1 名)は無料
*(
)内は 20 名以上の団体料金。いずれも消費税込
※巡回スケジュール
2016 年 4 月 29 日(金)~ 6 月 12 日(日) 和歌山県立近代美術館
【報道関係お問い合わせ先】 広報担当:三輪紘子、滝本昌子 内容:松本透
TEL:03-3214-2564
FAX:03-3214-2576
7
e-mail:[email protected]
MOMAT Press Release
恩地孝四郎展
広報用貸出画像一覧
貸出ご希望の場合は画像番号をお知らせくださるか、別紙申込書をご利用ください。
画像掲載の際は、画像貸出時にお送りしますキャプションをご記載ください。
①《抒情『あかるい時』》1915
②《あるヴァイオリニストの印象
(諏訪根自子像)》1946
③《音楽作品による抒情 No.4 山田耕筰「日本風な影絵」の内
「おやすみ」》1933[1935]
⑤《自画像(ブルーズ)》1919 頃
⑥《オバタマムシ(『博物志』)》
1938-42 頃
④《裸膚白布》1928
⑦《春の譜》1944
⑧《音楽作品による抒情 ドビュッシー「金色の魚」》
1936
⑩《リリック No.21 かげのある心情》
1952
⑨《アレゴリー No.2 廃墟》
1948
⑪《リリック No.6 孤独》1949
8