9.1 本論文の結論

結論と今後の課題
9.1
本論文の結論
近年は自動車,電子精密機器の発展や,機械の小型化が進められており,その構成部材,あるいは
加工用部材(シリコンウェハーのワイヤ切断など)として細線材の需要が高まっている.細線材は多
種の材料にわたり,多目的に使用されており,現代社会において必要不可欠な部材である.よって,
細線材を対象とした材料の機械的性質の研究は重要であり,得られた知見の波及効果は大きいといえ
る.
細線材に要求される技術課題は,細径化,高強度化,高延性化,高真直度化などである.これらの
うち,高強度化に関する技術が最も注目を集めている.本研究は,高強度化の観点から,一般的な工
業材料において確認されている最大到達強度に線径の影響がある,いわゆる寸法効果(または,線径
効果,サイズ効果)を究明することにした.これは線径が小さくなるほど,延性が維持されて大きな
加工量が取れ,高い引張り強さが得られる現象である.この寸法効果が解明されれば,ピアノ線をは
じめ細線材の一層の高強度化が大きく前進することが期待できる.
この寸法効果の要因のひとつとして,筆者は付加的せん断ひずみ層に着目した.これは,伸線加工
においてダイスと線材の摩擦によって発生する,付加的せん断変形によって材料表層部に生じる硬化
層である.さらに,寸法が小さくなる場合,表面積は寸法の 2 乗で減少するのに対し,体積は 3 乗で
減少する.体積に対する表面の比率が大きくなり,表層部に発生しているせん断ひずみ層の効果も細
線材ほど顕著になることが考えられる.
そこで,本論文では,初めに 1 パス伸線加工を対象として,せん断ひずみ層の基本的性質,例えば
深さ,引張り強さ,延性,内部組織状態などを把握した.つぎに,多パス伸線におけるせん断ひずみ
層の挙動を究明し,サイズ効果とせん断ひずみ層の関係を検討した.このようにして得られたせん断
ひずみ層に関する知見は,伸線加工だけにとどまらず,その他の接触をともなう塑性加工の材料表層
部全般にも応用可能であると考えられる.
本論文は 9 章から構成される.2 章から 6 章までは,低炭素鋼 SWRM6 の 1 パス伸線を対象として,
せん断ひずみ層の深さ,引張り強さなどの基本的性質の把握,および,加工条件がせん断ひずみ層に
与える影響を検討した.7 章では低炭素鋼 SWRM6 を用い,多パス伸線を対象として,多パス伸線に
おけるせん断ひずみ層の挙動を検討した.8 章では高炭素鋼 SWRM82 を用いて,パーライト鋼のせん
断ひずみ層を,フェライト鋼と比較して検討した.それぞれの章で得られた結論を以下にまとめる.
2 章では低炭素鋼線 SWRM6 を対象として,せん断ひずみ層の深さを測定することを目的とした.
線径 5.5 mm から 0.5 mm までの焼鈍材を減面率 16%で伸線した 1 パス伸線材,および線径 5.5 mm か
らの連続伸線において,途中段階でサンプリングした線材を用意した.それらの線材に対してマイク
ロビッカース硬さ試験によってせん断ひずみ層の深さを測定した.その結果,せん断ひずみ層の深さ
は,線径に関係なくほぼ 40 μm で一定であることが観察された.また,1 パスごとに焼鈍しない連続
伸線材の実験結果でも,せん断ひずみ層は観察され,深さは 55 μm で一定になることが確認された.
この結果から,線径が細くなるほど,せん断ひずみ層が線材に占める面積割合が増加することが考え
られる.
3 章では,せん断ひずみ層が線材の引張り強さに与えている影響を明らかにした.低炭素鋼 SWRM6
の減面率 Re = 16%で 1 パス伸線した線材を対象として,せん断ひずみ層の引張り強さを測定した結果,
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結論と今後の課題
中心部の引張り強さσC は 338 MPa であるのに対して,せん断ひずみ層の引張り強さσS は 610 MPa で
あり,σS は焼鈍材の引張り強さ 2 倍の値を示している.このように,せん断ひずみ層の引張り強さは
極めて高く,線全体の引張り強さを大幅に上昇させていると考えられる.
つぎに,伸線加工にさいして線材の引張り強さに影響を与えると考えられる主な要因として,ひず
み時効,および残留応力がある.そこで,せん断ひずみ層と両者の関係を究明した.ひずみ時効を抑
制した線材,および残留応力を除去した線材でも,表層部の引張り強さが大きいことが観察された.
したがって,表層部における引張り強さ向上は,ひずみ時効,残留応力の影響が非常に小さい現象で
あることが確認された.
最後に,細線材と太線材を対象として,せん断ひずみ層が線材に与える影響の相違を検討した.D =
0.92 mm の 1 パス伸線された太線材の場合では,表層部を除去しても引張り強さに変化は見られなか
った.一方,D = 0.275 mm の 1 パス細線材の場合では,表層部を除去するにつれて,引張り強さが減
少した.このように,線径が細くなるほど,せん断ひずみ層が引張り強さに与える影響が大きくなる.
それは,せん断ひずみ層の深さが線径によらず,一定であるので,線全体に対して占める面積割合が
増加することに起因すると考えられる.
4 章では,せん断ひずみ層の引張り強さ向上を結晶学的に検討した.低炭素鋼線 SWRM6 の連続伸
線材を対象として,EBSD によって集合組織を測定した結果,中心部には 1 つの結晶方位のみが観察
された.それに対して,表層部では 2 つの結晶方位が測定された.このように,中心部と表層部の集
合組織には相違点があることが観察された.この中心部で観察された結晶方位は,伸線加工に対する
最終安定方位であることを示した.つぎに,表層部の集合組織に関して,連続伸線途中の線材におい
て表層部の結晶回転を観察すると,中心部では発生していない結晶回転が観察された.この第 2 の結
晶回転は付加的せん断変形が加わることによって,発生していることが考えられる.
5 章では,せん断ひずみ層の引張り強さ上昇の要因を,表層部に発生していた第 2 の結晶回転によ
る内部組織変化と考え,結晶粒分断化に焦点をあてた.低炭素鋼 SWRM6 の線材を対象にした EBSD
による結晶方位測定によって,伸線後の結晶粒は,15 deg 以下の結晶方位差で分断化されていること
が観察された.また,中心部と表層部を比較した場合,表層部の結晶粒がより細かく分断化されてい
ることが確認された.さらに,結晶粒を分断化している結晶方位差θd に着目すると,中心部ではθd = 2
deg であるのに対して,表層部ではθd = 5 deg であることが観察された.これは,第 4 章で示したよう
に,表層部には第 2 の結晶回転が発生しているためだと考えられる.
つぎに,観察結果の亜結晶粒界に対して,Hall-Petch の法則を適用して,実際に引張り強さに影響
を与える結晶方位差について検討すると,5 deg 以上の結晶方位差θd を亜結晶粒界と設定した場合の推
定引張り強さσB-cal が,実験結果σB-exp に最も近いことが確認された.5 deg 以上の結晶方位差θd では,
粒界と同じように,隣接する結晶粒への転位伝播を抑制し,引張り強さを向上させていると考えられ
る.
6 章では,低炭素鋼線材を 1 パス伸線する場合の,ダイスと線材間の摩擦,ベアリング長さ lB,ダ
イス半角α,減面率 Re などの伸線条件がせん断ひずみ層の生成に与えている影響について検討した.
ダイスと線材間の摩擦はせん断ひずみ層生成の最重要要因であるといえる.本実験では,高摩擦の
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結論と今後の課題
無潤滑伸線と,動粘度 1023 cSt の潤滑剤を使用した低摩擦の伸線を比較したが,無潤滑伸線の場合に
おいて,線材最表層の引張り強さは 605 MPa に達した.一方で,低摩擦伸線の場合は 450 MPa 程度で
あり,せん断ひずみ層の引張り強さ上昇に大きな差があることを確認した.また,その現象を裏付け
るために, EBSD によって結晶粒分断化を観察した.高摩擦伸線では,表層部結晶粒の分断化による
細粒効果が多く観察されたのに対し,低摩擦伸線では,結晶粒分断化は観察されなかった.このよう
に,せん断ひずみ層生成には工具と材料間の摩擦が最も影響をおよぼすことが確認された.
ベアリング長さがせん断ひずみ層に影響を与えていることが確認できた.これは,ベアリング部に
おいて表層のみが塑性変形しているという知見と一致している.しかし,その影響による引張り強さ
上昇は 10 MPa 程度と非常に小さいことが観察された.
ダイス半角を小さくするにつれて,せん断ひずみ層の引張り強さが上昇し,また表層部の結晶粒分
断化が促進されていることを確認した.一方で,大きいダイス半角では,せん断ひずみ層の引張り強
さ上昇も飽和する傾向が確認された.これは摩擦仕事とダイス半角の関係に一致するため,せん断ひ
ずみ層には摩擦仕事が大きな影響をおよぼしていると考えられる.
減面率を大きくするほど,せん断ひずみ層の引張り強さが大きく上昇していることが確認できた.
高減面率の伸線では,接触長さの増加,引太り量増加によるベアリング部の効果増大などが引張り強
さ上昇の要因であると考えられる.
7 章では多パス伸線された低炭素鋼線 SWRM6 を対象として,多パス伸線におけるせん断ひずみ層
を検討した.多パス伸線材においても,せん断ひずみ層が存在することが確認された.真ひずみεが
0.3 まではせん断ひずみ層の引張り強さ,および深さが増加したが,それ以上の真ひずみでは,せん
断ひずみ層と中心部の引張り強さ差と深さが一定となることが観察された.収束する引張り強さ差は,
各パスでの減面率によって異なる.5%の場合は 120 MPa,15%では 160 MPa,28%では 175 MPa とな
り,減面率が大きくなるにつれて,引張り強さ差も大きくなる.深さに関しては,各パスの減面率と
は関係なく,60 μm の深さであることを確認した.つぎに,表層部と中心部において,結晶方位差θd =
5 deg による結晶粒の分断化が観察された.真ひずみε = 0.3 に至るまでは,中心部と比較して,表層部
の結晶粒分断化が促進される.しかし,ε = 0.3 以上では,表層部と中心部の結晶粒分断化の差が小さ
くなり,最終的には表層部と中心部の結晶粒数は一定の比率を保つことになる.したがって,せん断
ひずみ層と中心部の引張り強さ差も一定になると考えられる.最後に,多パス伸線でも,せん断ひず
み層の延性維持効果が観察された.したがって,線径が細くなるほど,せん断ひずみ層による引張り
強さ上昇,および延性維持が大きくなり,伸線限界が上昇し,その結果,高い引張り強さを示すと考
えられる.
8 章では,高炭素鋼線 SWRM82 を対象として,付加的せん断ひずみ層を検討した.高炭素鋼線の減
面率 Re = 16%の 1 パス伸線材の表層部に付加的せん断ひずみ層が確認された.せん断ひずみ層の引張
り強さは中心部の 1.32 倍となり,深さは 35 μm であった.これらの結果は低炭素鋼線を対象とした実
験とほぼ一致している.高炭素鋼線の多パス伸線では,真ひずみ量が増加するほど,せん断ひずみ層
の引張り強さ,深さが上昇する傾向が確認された.ただし,深さに関しては 60 μm の深さに漸近して
いく傾向が観察された.これは低炭素鋼線の実験結果と一致している.一方で,引張り強さに関して
は,真ひずみε = 0.88 以上でも,さらに上昇していくと予想される.また,高炭素鋼線においても,せ
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結論と今後の課題
ん断ひずみ層は延性を維持しつつ引張り強さが上昇することが確認された.線径が細くなるほど,せ
ん断ひずみ層が線全体に占める面積割合が増加すると考えられる.したがって,細線材では伸線限界
が上昇し,さらに高強度に加工できると考えられる.
以上の結論から,本論文で得られた知見をまとめると以下のようになる.
(1) 鉄鋼系材料の場合,せん断ひずみ層は,線径,および C 含有量とは無関係に一定の深さで発生し,
その深さは連続伸線でも保持される.
(2) せん断ひずみ層では,延性を維持しつつ引張り強さが上昇する.これは,付加的せん断変形によ
る結晶回転で発生する結晶粒分断化を起因としている.
(3) 以上の結論から,細線材ほどせん断ひずみ層の占める面積割合が増加するため,伸線限界が上昇
し,高い引張り強さを示すひとつの有力な要因と考えられる.
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今後の課題について
最後に本研究に関連した今後の課題を述べる.
本研究においても,多パス伸線における付加的せん断ひずみ層を検討しているが,真ひずみで 1 程
度までである.実際に流通している細線材は,真ひずみで 3 程度まで加工されている.本研究で得た
知見は真ひずみ 1 以上でも,適用できると考えられるが,この点に関して検証実験は必須である.
本研究では,せん断ひずみ層は 60 μm を保持したまま連続伸線されていくことが観察されたが,こ
の知見によると,線径 D = 120 μm において線全体が付加的せん断ひずみ層になると考えられる.実際
に線径 D = 120 μm 以下の線材の需要も高いため,これらの線材に対して,本研究の知見がどこまで適
用可能であるかの検証実験は必須である.本研究の知見から,D = 120 mm 以下の線材に対するせん断
ひずみ層の挙動を予想する.本研究では,せん断ひずみ層の深さ 60 mm 内における分布に関しては検
討していない.だが,実際はせん断ひずみ層内でも,ビッカース硬さ,引張り強さの両方において表
層から中心部にかけて減少することが確認された.したがって,結晶粒の分断化に関しても,せん断
ひずみ層内で不均一に発生し,表層ほど細かく分断化されていると考えられる.また,せん断ひずみ
層全体のマクロ的な視点では,結晶粒分断化は飽和したが,深さ 10 μm までの表層部ではさらに結晶
粒が分断化する可能性がある.以上のような観点から,線全体がせん断ひずみ層になった以降は,せ
ん断ひずみ層内において,新たなせん断ひずみ層が発生するものと考えられる.これは今後の課題と
したい.
このように線全体がせん断ひずみ層となった以降の伸線加工におけるせん断ひずみ層の挙動を把握
することは,サイズ効果の真相解明,および線材の高強度化にとって非常に重要であるといえる.し
かし,線径 120 μm 以下の線材では線径測定の誤差が 1μm で,引張り強さの誤差が 10 MPa 以上にな
り,表層を除去したさいの引張り強さの差からせん断ひずみ層を判断することが非常に困難になる.
仮に,ロードセルの精度を高くして引張り強さの差を明瞭に測定できても,線全体がせん断ひずみ層
に占められた線材であっても表層から中心部にかけて引張り強さが減少していくことは変わらないと
考えられ,せん断ひずみ層が線全体を占めた場合の相違点を把握できないことが考えられる.本研究
においても,線径 120 μm 以下の線材に対して,実験および検討を試みたが,上記の理由により明確
な知見を得るには至らなかった.今後は 120 μm 以下の線材に対する実験方法から新たに考案する必
要がある.線径 120 μm 以下の細線に対する引張り試験には,SEM 内で引張り試験する試験機が有効
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結論と今後の課題
であると考えられる.本研究で使用した EBSD による結晶方位測定法も有効な手段であるといえる.
ただし,測定できる分解能がサブミクロンであること,例えば,表層から 10 μm の深さ刻みの測定の
ような絶対位置での測定が困難であること,セメンタイトに関するデータベースが不足しているため,
パーライト組織には適用できないことなどが問題点として挙げられるが,このような問題点はいずれ
解決することが期待でき,近い将来本研究の知見を実証することが期待できる.
最後に,本研究の知見を他の加工に応用することを検討する.まず加工への応用については接触を
ともなう加工,たとえば鍛造,深絞り加工などの材料表層部にはせん断ひずみ層が発生していると考
えられる.したがって,これらの加工に対して,せん断ひずみ層を最大限に利用した加工方法を提案
することも可能と考えられる.ただし,それを実現するためには,付加的せん断変形よって発生して
いる結晶回転のさらなる解析が必須である.具体的には,純粋なせん断変形に対する結晶回転を把握
することが必要である.一方,本研究でも使用した Schmid factor は垂直応力を対象としているため,
せん断応力には適用できないのが現状である.そのため,Schmid factor のせん断応力への適用拡大を
検討する必要がある.このような検討の末,付加的せん断変形よって発生している結晶回転のメカニ
ズムが究明されれば,せん断ひずみ層に対する最適加工条件が提案できると考えられる.
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