ある元村 - 中島村

平成26年3月
ゆ
め
未来ある元村
将来像 「あたたかなふれあいあふれる元村」
平成26年度~平成30年度
元村行政区
元村行政区総合計画について
元村は、地域住民の生活の場として、農産物生産の場として、工業生産に係る
労働の場として重要な地域です。
また、豊かな自然や伝統文化を有する地域でもあります。
今日、世界的には、人口の急増や異常気象の影響で、エネルギーや食糧の不
足、環境悪化が懸念されており、今後日本もその影響を間違いなく受けるであろ
うといわれています。
この大問題の解決に向け、近い将来私たちの地域も、解決策を実施するうえ
で、必ず役割の一端を担うことになります。
このため、地域が持つ貴重な財産を生かして、これまで以上に人と人とが接近
して知恵を出し合うような場面を大事にするときにきています。また、これまで
同様伝統文化を大切にし、環境美化に努め、私たち住民一人一人がますます誇り
とすることができる地域にしていくべきときにあります。
このような考えに基づき元村行政区総合計画を作成しました。
御協力のほどよろしくお願い申し上げます。
元村行政区総合計画策定委員会会長
緑川孝夫
目
次
元村行政区の現状と課題
………………
1
元村概説
………………
4
元村行政区の文化財など
………………
8
熊野講・滑津市
………………
8
小正月・団子さし
………………
9
滑津盆唄
………………
14
年中行事等
………………
15
元村行政区の文化財など(地図)
………………
16
元村行政区総合計画策定委員会設置規約
………………
17
元村豊年盆踊り保存会規約
………………
18
平成25年度元村行政区総合計画策定委員会委員
………………
20
元村行政区の現状と課題
1
現状
(1)元村行政区の位置
中島村の北東部に位置する。
北 緯
37度8分55.522秒
東 経
東経140度21分0.733秒
(2)区域状況
東
滑津小学校、田圃、畑、阿武隈川
西
工業団地、林、畑
中央
元村コミュニティーセンター、善通寺、本法寺、海潮寺跡、秋葉神社、蟹沢池、
林、田圃、畑、県道泉崎石川線、県道母畑白河線
南
新田遺跡、新池、大池、林、田圃、畑、阿武隈川、県道母畑白河線バイパス
北
羽黒神社、熊野神社、林、池、田圃、畑
(3)戸数と人口
年
文化元(1804)年の滑津村(「上滑津」と
「下滑津」を合わせた数である)
平成21(2009)年の元村
平成25(2013)年の元村
戸数
男
15歳~59歳
女
65歳以上
人口
329人
96戸
606人
277人
208戸
215戸
419人
468人
446人
207人
394人
432人
437人
206人
865人
831人
2,558人
平成25(2013)年10月の中島村
1,480戸
5,186人
2,628人
1
(4)産業
米作
蔬菜園芸
花卉園芸
自動車整備工場
工芸店
歯科医院
魚店
酒店
関口電器製作所
ライスセンター
英語塾
老人福祉施設
タカラ福島工場
佐藤製作所
富士工業
フジ機工
髙野工業
サカモト・ダイテム
ウチヌキ
ワイケープレシジョン
農機具店
鶏卵店
八代運輸
理容店
建設会社
矢内興業運輸
(5)地域の団体
消防団、 老人クラブ(Ⅰ・Ⅱ)、 青年会、 子ども育成会(たけのこ・あすなろ)
2
課題と方策
(1)元村行政区の課題と方策
課
題
方
策
人口減少
企業誘致、教育の充実、福祉の充実
高齢化の高まり
人口減少対策の実行による若年人口増
人と人の疎遠化
交流事業計画立案と実施
地区で取り上げて解決に向けて取り組むべきこと、村政に任せるべきこと、自助努力による
べきことなどに分けて考えました。
その結果、元村行政区は、人口が減少傾向にある中での「人と人の疎遠化」を解決に向けて取
り組むべき課題としました。
伝統文化の一つである盆踊りの活性化や、地域の文化財や歴史を大切にすることや、地域の環
境美化活動などを通じて、高齢者同士、高齢層と少年層及び壮年層の交流を促進することで、解
決を図っていきます。
また、商店が減少することで街灯が少なくなり、为要道路に暗い所があるので、明るいムー
ド作り、防犯に向けて街灯を新設します。
2
元村行政区の将来像
あ
たたかなふれあいあふれる元村
元村行政区のスローガン
あかるいあいさつ
あかるいもとむら
具体的な取り組み
基本目標1「あたたかな交流のある元村」
取り組み
担
当
① 伝統文化の継承(盆踊り)
櫓の飾り花作成
盆踊りの合同練習
保存会主催の盆踊り
老人クラブ会員
老人クラブ会員、子ども育成会会員、青年会会員
青年会、消防団、老人クラブ、子ども育成会、元村行政区
② 伝統料理の継承
伝統料理教室の開催と試食会
③ 地域の環境美化と安全な環境の保持
・元村コミュニティセンター、公園、花壇の美化
・街灯の新設
④ 文化財や歴史の保全
・地域の歴史や文化財及び行事についての案内書の作成配布
・「私たちのふる里」の題で写真展の開催(出展作品は全て中島村文化祭へも出展する)
3
もと むら がい せつ
元 村 概 説(『中島村史』から引用。一部改訂。)
あ
ぶ くまがわ
ぜんめん
ひか
か が ん だんきゅう
なんめん
しぜん
みず
めぐ
ちいき
阿武隈川を前面に控え、河岸 段 丘 のなかに南面して、自然と水に恵まれた地域である。
おお
か が ん だんきゅう
じょうもん じ だ い
いぶつ
はっけん
かりゅう
なり た い せ き
きゅうせっき じ だ い
多 くの河岸 段 丘 から 縄 文 時代 の遺物 が発見 されている。また、下流 の成 田 遺跡 から旧石器 時代 の
いぶつ
はっけん
ちいき
はや
ひと
す
つ
遺物が発見されていることからしても、この地域には、早くから人が住み着いたとみられる。
きげん
せいき
さめかわ
く
じ がわ
みんぞく
きたかんとう
はい
みんぞく
きたきゅうしゅう
お
紀元 1世紀 ごろ、鮫川 や久慈 川 をさかのぼった民族 、北関東 から入 ってきた民族 が、 北 九 州 に起
やよいぶんか
かんが
こったとされる弥生文化をもたらしたと 考 えられている。
やよい じだい
すいとう のうこう
ちしき
もの
ぞくちょう
し
き
か
いなさく
おこな
弥生 時代 には、水稲 農耕 の知識 のある者 が「 族 長 」となり、その指揮下 で稲作 が 行 われた。そし
かいこん
ようすい か ん り
だ い き ぼ
ろうどうりょく
ひつよう
しゅうだん
おおがたか
しんこう
て、開墾、用水管理などで大規模な 労 働 力 が必要とされるようになり、 集 団 の大型化が進行した。そ
おおがたか
しゅうだんかん
び ち く こくもつ
こうさくち
すい り け ん
めぐ
たたか
はっせい
かてい
しゅうだん
の大型化した集 団 間 に、備蓄穀物や耕作地や水利権などを巡って 戦 いが発生し、この過程で、 集 団 の
とうごう
じょうげかんけい
しょう
けっか
かくち
ちい
う
統合・上下関係が 生 じ、結果として、各地に小さなクニが生まれた。
せいき
せいき
ちほう
どごう
しょう
こだい
ち ほ う ごうぞく
こだか
さんぷく
おか
4世紀 から5世紀 ごろになると、この地方 の土豪 と 称 される古代 の地方 豪族 は、小高 い山腹 や丘 に
みずか
はか
ぞうえい
こふんぶんか
や ま と ちょうてい
ちから
ひろ
ものがた
こふん
自 らの墓を造営するようになった。この古墳文化は、大和 朝 廷 の 力 の広がりを物語るもので、古墳の
おお
ちほう
はや
くにのみやっこ
お
しらかわ
お
多い地方には、早くから 国 造 が置かれ、白河にも置かれた。
じん き がんねん
ねん
む つ の くに
たがじょう
せっち
つづ
じん き
ねん
ねん
神 亀 元年 (724年 )、陸奥 国 に多賀城 が設置 される と、続 い て、神 亀 5年 (728年 )には、
しらかわぐん
ぐんだん
お
じょうじせんにん
へいし
きんむ
白河郡に軍団が置かれ、常時千人ほどの兵士が勤務した。
ぐんだん
なめつ
じんてき
きょうきゅう
かんが
ぐんだん
しょくりょう き
ち
この軍団 には、滑津 からも人的 な 供 給 がなされたと 考 えられる。また、軍団 への 食 糧 基地 とし
なめつ
さか
はってん
て、滑津が栄え、発展したとみられる。
へいあんちゅうき
ふじわらうじぜんせい
ぜんこく
しょうえんか
平安中期には、藤原氏全盛で、全国が荘園化された。
へいあん ま っ き
しらかわ ち ほ う
ふじわら のぶより
し は い か
へいじ
らん
のぶより
まっ さつ
たいらのしげもり
りょうち
平安末期の白河地方は、藤原信頼の支配下 にあったが、平治の乱 で信頼が抹 殺 され、 平 重 盛 の領地
へいし
ほろ
げんじ
りょうち
となり、さらに平氏を滅ぼした源氏の領地となった。
ちいき
ふる
なめかた
はら
こしょう
この地域は、古く、「行方の原」と呼称された。
なめかた
はら
にっぽん ち め い じ て ん
ちょ
とうげん
なんげん
あふ くまがわ
「行方 の原 」は『日本 地名 辞典 』(吉田東伍・著 )には、「その東限 、南限 は逢 隈川 (おおくまが
いた
さいげん
せき わ
ぐ
いずみざき
お お わ ぐ
いた
いま
さんじょうめ
やぶき
なかはた
なめつ
へいや
わ)に至 り、西限 は関 和久 、 泉 崎 、大和久 に至 り、今 の三城目 、矢吹 、中畑 、滑津 にわたる平野 の
きゅうめい
旧 名 なり」とある。
なめかた
はら
ぜん く ね ん
えき
ねん
こせんじょう
ぎ け い き
ゆきがた
はら
「行方の原 」は、前 九年の役 (1051~1062年 )の古戦場で、『義経記』には、「行方の原 」
なめかた
はら
か
はら
とあるが、やがて、「行方の原」と変わり、「なめつ原」となったものとみられる。
おんぞうし
ろうどう
さいとう
むさしぼう
また をんじょうじ
み い で ら
ほうし
たず
まい
ひたちぼう
い せ の さぶろう
(御曹司の郎等には西塔の武蔵坊、又 園城寺《三井寺》法師の、尋 ねて参 りたる常陸房、伊勢三郎 、
さ と う さぶろうつぎ のぶ
おなじく し ろ う ただのぶ
ら
さき
よ
き むま
はらすじ は
き
すね
くだ
し
佐藤三郎継 信、 同 四郎忠信これ等 を先として三百余騎馬の腹筋馳 せ切り、脛 の砕くるをも知 らず、
も
も
は
のぼ
あ
づ
か
し
なかやま は
こ
あだち
おおき
うち とを
ゆきがた
はら
み
揉みに揉 うで馳 せ上る。阿津賀志 の中山馳 せ越 え、安達の大城(戸)打 通り、行方の原 、しゝちを見
たま
しらかわ
せき
み たま
ぎ け い き
給へば《白河の関を見給へば》、)(『義経記』より)
4
ふくしまけんない
しょりょう
も
いた
ごうぞく ぶ
し
おお
みなもとのよりとも
おうしゅうへいてい
き
しゅつげん
福島県内で、 所 領 を持つに至った豪族武士の多くは、 源 頼 朝 の 奥 州 平定を機に 出 現 している。
いしかわ ありみつ
みなもとのよしいえ
じゅうぐん
こう
へいあん ま っ き
いしかわ ち ほ う
しはい
ありみつ
ごなん
石川有光は、 源 義 家 に 従 軍 しての功 により、平安 末期から、石川地方を支配した。有光の五男 、
な め つ み つ ふ さ
なめ つ たて
きず
いちぞく
なが
しはい
奈目津光房は滑津舘を築き、一族が長く支配した。
かまくら じ だ い
き ぞ く て き そうごん
じ い ん しゅうきょう
しょみんてき か ん そ
かまくらぶっきょう
てんかい
鎌倉時代には、貴族的荘厳な寺院 宗 教 にかわり、庶民的簡素な鎌倉 仏 教 が展開された。
ぶんあんがんねん
ねん
しらかわ ゆ う き うじ か し ん
ふね お まさただ
なめ つ たて
じょうしゅ
のち
さ た け うじ
文安元年(1444年)には、白河結城氏家臣の舟尾昌忠が滑津舘の 城 为 であったが、後に、佐竹氏
はいか
てん しょう
ねん
ねん
だ
て まさむね
せ
らくじょう
どうねん
ひで よし
配下 となり、天 正 18年 (1590年 )4月18日伊達 正宗 に攻 められ、 落 城 した。同年 、秀 吉 の
ぜんこくとういつ
な
しらかわ ち ほ う
あいづりょう
全国統一が成り、白河地方は、会津領となった。
かんえい
ねん
ねん
ばくふ
しらかわはん
せいりつ
しらかわりょう
まんごく
しょだい はんしゅ
に
わ ながしげ
寛永 4年 (1627年 )、幕府 は白河藩 を成立 させた。 白 河 領 10万石 の初代 藩为 は丹羽 長重 。
なめつ
かわはらだ
ふ た ご つか
ふ た ご つか しんでん
よしおか
まつざき
かくむら
かん ぽう がんねん
ねん
ねんかん
滑津、川原田、二子塚 、二子塚 新田、吉岡、松崎の各村が、寛 保 元年(1741年 )まで、115年間
しらかわはんりょう
つづ
白 河 藩 領 として続いた。
に
わ
し じだい
さんきん こうたい せ い ど
せいりつ
かいどう
せいび
ひ た ち かいどう
かわはらだ
ふ た ご つか
なめ
丹羽氏 時代に参勤交代制度が成立し、街道の整備がすすめられた。常陸街道は、川原田、二子塚 、滑
つ も と むら
へ
なかはた
つう
かわはらだ
なかはた
しゅくえき
なめ つ も と むら
えきば
とんや
津元村を経て中畑に通じていて、川原田、中畑が 宿 駅 となっていた。滑津元村には、駅場があり、問屋
なら
こうさつば
と並んで高札場があった。
かんぽう
ねん
ねん
りょうしゅ
ひめじいほう
どうじ
りょういき
へんこう
まつざきむら
しらかわはんりょう
寛保2年(1742年)、 領 为 の姫路移封と同時に、 領 域 の変更があった。松崎村(白 河 藩 領 のま
のぞ
ごそん
えちご
た か だ は ん さかきばらしりょう
あさかわ
せっち
じんや
し は い か
ま)を除く五村は、越後の高田藩 榊 原 氏領となり、浅川に設置された陣屋の支配下となった。
ぶんか
ねん
ねん
たかだはん
とびりょう
まん よ こく
うち
まん よ こくぶん
ば く ふ ちょっかつりょう
のこ
まん
文化6年(1809年)、高田藩の 飛 領 8万余石の内、5万余石分が幕府 直 轄 領 となり、残り3万
ぜん よ こく
あさかわ
かまこ
うつ
じんや
し は い か
なめつ
かわはらだ
ふ た ご つか
ふ た ご つか しんでん
3千 余 石 が、浅川 から釜子 に移 った陣屋 の支配下 となった。滑津 、川原田 、二子 塚 、二子 塚 新田 は、
ばくりょう
ねんかん
か ま こ じ ん や あず
ぶんせい
ねん
ねん
めいじじだい
幕 領 となり、10年間は釜子陣屋預かりとされ、文政3年(1820年)からは、明治時代になるまで
はなわだいかんじょ し は い か
お
塙 代官所支配下に置かれた。
のうみん
いなさく
てき
い
のうち
ぜい
おさ
こめ
つく
つづ
ぜいりつ
たか
農民は、稲作に適しているとは言 えない農地で、税として納めるための米 を作り続けたが、税率は高
てんこうふじゅん
かさ
え
ど じだい
つう
こんなん
れんぞく
く、天候不順なども重なり、江戸時代を通じて困難の連続であった。
め い じ がんねん
ねん
なめ つ む ら
さ く や ま は ん しらかわ みんせい とりしまりじょ し は い
めいじ
ねん
明治 元年 (1868年 )、滑 津村 は、佐久山藩 白河 民政 取 締 所 支配 とな り、明治 2年 (1869
ねん
もりやまはん し は い
しらかわけん
ぞく
めいじ
ねん
ねん
にほんまつけん
へ
ふくしまけん
年)、守山藩支配から白河県に属し、明治4年(1871年)、二本松県を経て、福島県となった。
めいじ
のうみん
く
らく
こくさく すいしん
かげ
え
ど じだい
くる
明治 になっても、農民 の暮 らしは楽 にならず、国策 推進 の陰 で、むしろ江戸 時代 よりも苦 しくなっ
た。
え
ど じだい
ねんぐ
すけごう
め い じ い し ん い こ う だ い に じ せ か い たいせん はいせん
ぜいきん
へいえき
のうみん
おお
江戸時代は年貢と助郷、明治維新以降第二次世界大戦敗戦までは税金と兵役が、農民にとっての大 き
かだい
な課題であった。
5
め い じ じ だ い い こ う
ねんぴょうがいりゃく
明治時代以降の年表 概略
年 代
出
めいじ
な め つ しょうがっこうそうりつ
明治 7年(1874年)
滑津 小 学 校 創立。台湾 出 兵 。
明治13年(1880年)
入江開墾始まる。
明治17年(1884年)
明治22年(1889年)
明治23年(1890年)
明治26年(1893年)
明治27年(1894年)
明治33年(1900年)
明治37年(1904年)
明治38年(1905年)
明治40年(1907年)
明治43年(1910年)
たいしょう
大正
大正 9年(1920年)
大正14年(1925年)
たいわんしゅっぺい
い り え かいこんはじ
なめ つ は ら
なんぼく
じゅうだん
ちょくせんてき ど う ろ かいつう
滑津原を南北に 縦 断 する直 線 的 道路開通。
なめ つ む ら
まつざきむら
がっぺい
滑津村、松崎村が合併し、滑津村となる。
あ
ぶ くまがわはんらん
りゅういき
ひ が い じんだい
阿武隈川氾濫し、 流 域 の被害甚大。
のうかいほっそく
滑津村農会発足。
にっしんせんそうぼっぱつ
日清戦争勃発。
じんじょうしょうがっこう
とういつ
尋 常 小 学 校 4ヵ年に統一される。
に ち ろ せんそうぼっぱつ
日露戦争勃発。
とうほく ち ほ う だいきょうさく
東北地方 大 凶 作 。
じんじょうしょうがっこう
ぎ
む
尋 常 小 学 校 6ヵ年となり、義務づけられる。
かんこくへいごう
韓国併合。
だい
3年(1914年)
じ せ か い たいせんさんせん
第1次世界大戦参戦。
そんない
でんとう
村内に電灯がつく。
とお
村内にバスが通る。
しょうわ
な め つ じんじょうこうとうしょうがっこう
昭和 2年(1927年)
滑津 尋 常 高等 小 学 校 と 改 称 。
昭和 3年(1928年)
昭和 5年(1930年)
昭和 6年(1931年)
昭和 7年(1932年)
昭和 8年(1933年)
昭和 9年(1934年)
来 事
さいしょ
かいしょう
ふ つ う せんきょおこな
最初の普通選挙 行 われる。
なめ つ は ら
ゆうびんぶつとりあつかいじょ
滑津原に郵便物 取 扱 所 できる。
まんしゅう じ へ ん ぼっぱつ
満 州 事変勃発。
まんしゅうこくどくりつせんげん
満 州 国独立宣言。
な め つ ゆうびんきょくほっそく
滑津 郵 便 局 発足。
ていおん き こ う
いなさくだいげんしゅう
低温気候により稲作 大 減 収 。
に っ か じ へ ん ぼっぱつ
昭和12年(1937年)
日華事変勃発。
昭和16年(1941年)
阿武隈川未曾有の氾濫。太平洋戦争勃発(第2次世界大戦参戦)。
昭和20年(1945年)
第2次世界大戦敗戦。
あ
ぶ くまがわ み
ぞ
う
はんらん
はいせん
6
たいへいようせんそうぼっぱつ
だい
じ せ か い たいせんさんせん
年 代
昭和21年(1946年)
出
だいかん
しゅうかく か い む
90年ぶりの大干ばつで農作物の 収 穫 皆無。
そんないがい じ ぬ し
昭和22年(1947年)
のうさくぶつ
来 事
こうさくしゃ
でんぱた
よ ちょうぶかいほう
村内外地为から耕作者に田畑360余町歩解放となる。
小学校6ヵ年、中学校3ヵ年となる。
な め つ のうぎょうきょうどうくみあいせつりつ
昭和23年(1948年)
滑津 農 業 協 同 組合設立。
昭和27年(1952年)
善通寺 全 焼 。
昭和30年(1955年)
昭和33年(1958年)
昭和38年(1963年)
昭和39年(1964年)
昭和43年(1968年)
昭和45年(1970年)
ぜ ん つ う じ ぜんしょう
なめ つ む ら
よ し こ がわむら
がっぺい
なかじまむら
にしごう だ
む しゅんこう
滑津村、吉子川村が合併し、中島村となる。西郷ダム 竣 工 。
ぜ ん つ う じ さいけん
善通寺再建。
のうぎょうこうぞうかいぜんじぎょう し て い
農 業 構造改善事業指定。
けんえいほじょう せ い び じぎょう し て い
県営圃場整備事業指定。
しらかわけいさつしょなかじまちゅうざいしょしんせつ
なめつ
よ し こ がわとうごう
白河警察署中島 駐 在 所 新設(滑津、吉子川統合)。
のうしゅう で ん わ ぜんそん か く こ かいつう
農 集 電話全村各戸開通。
なかじまそんしょうせいてい
中島村 章 制定。
なかじまそんりつ よ う ち え ん かいえん
昭和46年(1971年)
中島村立幼稚園開園。(日本最初の幼稚園は、明治8年(1875年)京
都に設置された。また、最初に幼稚園を名乗ったのは、明治9年(187
6年)開園の東京女子師範学校附属幼稚園である。)
昭和48年(1973年)
昭和55年(1977年)
そんないゆうせんほうそう か い し
村内有線放送開始。
そんないすいどう せ い び
むら
き
まつ
むら
はな
けってい
村内水道整備。村の木を松、村の花をさつきと決定。
7
元村行政区の文化財など
熊野講(くまのこう)
き
あ
げ
る
。
青
年
た
ち
男
性
の
み
は
、
こ
れ
を
千
の
前
に
餅 もち
つ
き
の
準
備
を
し
、
千 せん
本 ぼん
杵 ぎね
で
餅
を
搗つ
ご
ろ
に
、
青
年
た
ち
男
性
の
み
が
、
熊
野
神
社
元
村
地
区
で
は
、
き
旧 ゅう
暦 れき
土ど
用 よう
の
日ひ
八
月
下
旬
祓
と
い
う
。
い
る
と
思
わ
れ
る
。
十
二
月
の
大
祓
を
年 とし
越こ
し
の
(
本
杵
の
先 せん
端 たん
で
、
高
々
と
持
ち
上
げ
て
、
地
区
内
を
)
威い
勢 せい
の
い
い
掛
け
声
を
発
し
な
が
ら
駆
け
巡
る
。
(
こ
れ
を
見
物
す
る
地
区
の
人
々
を
見
か
け
る
と
、
)
青
年
た
ち
男
性
の
み
は
、
そ
こ
で
立
ち
止
ま
り
、
(
人
々
に
護ご
符ふ
と
し
て
餅
を
ち
ぎ
り
取
ら
せ
、
人
々
)
は
ち
ぎ
り
取
っ
た
餅
を
柿
の
葉
な
ど
に
包
ん
で
食
)
ま
た
、
地
区
の
入
り
口
に
当
た
る
四
方
の
道
路
べ
、
五
穀
豊
穣
、
無む
び
病 ょう
息 そく
災 さい
を
得
る
風
習
で
あ
る
。
(
に
し
め
縄
を
張
り
、
邪 じゃ
鬼き
邪 じゃ
神 しん
が
入
っ
て
く
る
の
)
を
防
ぐ
と
い
う
昔
か
ら
の
習
慣
を
受
け
継
ぎ
、
現
(
在
も
行
っ
て
い
る
。
る け
。 ・
六
疫 えき
月
び
病 ょう
の
除よ
大 おお
は
け
ら
祓え
を
で
熊 くま
あ
野の
る
権 ごん
な
夏
現 げん
ご
越し
に
祈き
の
は
願 がん
祓 らえ
す
に
る
基 もと
祭
づ
り
い
で
て
あ
古
く
か
ら
、
夏な
越 ごし
祭 さい
と
し
て
、
五ご
穀 こく
豊 ほう
じ
穣 ょう
と
天 てん
災 さい
除よ
滑津市(なめついち)
一
七
ご
ろ
し
か
し
、
元げ
ん
禄ろ
く
時
代
一
六
八
八
~
一
七
〇
三
手て
間ま
代だ
い
で
購こ
う
に
入ゅ
う
し
た
。
農
民
は
、
生
活
必ひ
つ
需じ
ゅ
品ひ
ん
の
衣
料
や
履は
き
物も
の
下
駄
な
ど
、じ
什ゅ
う
器き
、
米
・
麦
以
外
の
の
二
回
、
五
十
ほ
ど
の
店
が
立
て
ら
れ
、
市
が
開
か
れ
て
い
た
。
宿
場
に
お
い
て
、
正
月
前
十
二
月
二
十
五
日
と
盆
前
盆
の
月
の
十
日
ご
ろ
)
農
産
物
な
ど
を
、
盆
に
は
、
養
蚕
の
繭ま
ゆ
代だ
い
金き
ん
、
正
月
に
は
、
米こ
め
売う
り
代だ
い
金き
ん
や
し
小ょ
う
農の
う
の
(
以
後
、
村
内
農
民
の
生
活
が
困こ
ん
き
窮ゅ
う
近
世
の
初
め
、
白
河
藩
成
立
の
こ
ろ
に
は
開
か
れ
て
い
た
と
み
ら
れ
て
い
る
。
)
8
に
お
陥ち
い
り
、
市
が
立
て
ら
れ
て
も
売
買
成
立
が
難
し
く
な
り
、
店
は
繁
盛
せ
ず
、
自
)
し
収ゅ
う
を
受
け
て
の
然
に
成
立
し
な
く
な
っ
て
し
ま
っ
た
。
(
こ
れ
は
、
元
禄
ご
ろ
か
ら
、
藩
为
の
贅ぜ
い
沢た
く
を
補
う
高
い
税
ち
徴ょ
う
)
の
初
め
ご
ろ
、
農
民
の
便
利
を
図
り
、
村
の
経
こ
と
で
は
な
か
っ
た
か
、
と
考
え
ら
れ
る
。ち
逃ょ
う
散さ
ん
が
あ
っ
た
の
か
、
こ
の
こ
ろ
人
(
一
八
〇
四
~
口
も
激
減
し
て
い
る
よ
う
で
あ
る
。
(
(
一
八
そ
の
後
、
文
化
)
へ
文
書
を
以
て
願
い
出
て
、
文
化
の
末
済
発
展
の
た
め
、
隣
村
の
村
役
人
な
ど
の
賛
同
を
得
て
、
村
内
の
庄
屋
や
組く
み
が
頭し
ら
な
(
奉
行
所
)
に
復
活
し
た
と
推す
い
察さ
つ
さ
れ
る
。
ど
が
中
心
と
な
り
、
役
所
(
せ
た そ
。 う
し
て
以
後
太
平
洋
戦
争
直
前
ま
で
元
村
に
市
が
立
て
ら
れ
賑に
ぎ
わ
い
を
見
)
な
お
、
旧
暦
の
正
月
前
の
市
は
、
昭
和
三
十
年
代
ま
で
続
け
ら
れ
た
。
か
な
り
古
く
か
ら
元
村
は
宿
場
に
な
っ
て
い
た
と
み
ら
れ
る
。
小正月(こしょうがつ)
な
ど
を
小
正
月
の
訪
問
者
と
い
う
。
せ に い と
ど 祝 、 は
り 福 一 、
を 年 小
佐 与 の 正
賀 え 最 月
市 た 初 に
や と の 家
北 す 満 々
部 る 月 を
九 古 の 訪
州 い 夜 れ
信 に 祝
な 仰 、 福
ま か 神 し
は ら が て
げ 来 来 らい ま
り
秋 て 臨 んわ
し る
田 い
て 者
県 る
。 人 を
、 か 々 い
訪
問
者
、
な
ど
の
行
事
が
行
わ
れ
る
。
小
正
月
の
訪
問
者
な
ど 農
耕
の に
行 関
事 す
や る
、 様
鳥 々
追 な
い 予 よし
・ 祝 ゅく
ど ・
ん 年 とし
ど 占 うら
焼
た
き 俵 わら
・ 引
小 き
正 や
月 相 すも
の 撲う
十
五
日
を
中
心
に
し
た
数
日
を
小
正
月
と
い
う
。
元
日
か
ら
一
月
七
日
ま
で
年 とし
神 がみ
や
祖 それ
霊い
を
迎
え
る
行
の 事
お
大 おしの
正 よう多
月 がつい
に 一
対 月
し 一
て 日
、 ま
一 た
月 は
(
ま
で
か
竈 まど
を
休
邪 じや
気き
を
祓 はら
い
健
康
を
願
っ
て
、
小
正
月
に
は
小 あず
豆 きが
粥ゆ
を
(
一
月
七
日
食
べ
る
習
慣
が
残
っ
て
い
る
地
域
が
あ
る
。
)
ま
た
、
本
来
は
人 じん
日 じつ
の
節
句
)
ま
せ
る
は
ず
の
松
の
内
に
忙
し
く
働
い
た
为
婦
を
ね
ぎ
ら
)
う
意
味
で
、
女
正
月
と
い
う
地
方
も
あ
る
。
嫁
い
だ
人
が
、
(
実
家
に
帰
っ
て
も
良
い
日
と
さ
れ
、
盆
の
十
六
日
と
と
も
)・
に
お
嫁
さ
ん
に
と
っ
て
は
き
わ
め
て
重
要
な
日
で
あ
っ
)
た
。
お
嫁
さ
ん
が
実
家
に
帰
る
の
で
、
夫
が
料
理
を
作
る
こ
(
と
か
ら
、
小
正
月
は
男
が
家
事
を
す
る
正
月
と
さ
れ
る
よ
(
う
に
な
っ
た
。
団子さし(だんごさし)
…
…
飾
る
。
地
方
に
よ
っ
て
は
、
団
子
を
ゆ
で
た
お
湯
を
、
家
の
ま
わ
り
に
ま
鯛 大 だい 木
、 黒 こく
俵 様 さま に
、 、 さ
大 恵 えす
判 比 び。
・ 寿 すさ さ
小 様 まら
判 、 に
な 千 、
ど 両 ふ
な
を
吊 つ箱 せ
り 、 ん
下 宝 べ
げ 船 い
、 、
茶 ま 最
の ゆ 中
間 玉 の
の 、 皮
な
中 かば打 の
よ
柱 しらち う
に 出 な
結 ゆの も
わ 小 こづ の
え 槌ち
て 、 の
9
だ
け
米
」
の
餅
を
搗
き
、
こ
れ
を
山
か
ら
と
っ
て
き
た
ミ
ズ
キ
あ
る 一
月
を 十
つ 五
く 日
り の
、 朝
そ 、
の
餅も
後 をち
で 搗つ
、 き
団 、
子 重
さ ね
し 餅
で
使 鳥
う 追
団 い
子 餅
用 と
と 呼
し ぶ
て と
団 、 こ
子 「 ろ
の く も
(
二
十
日
に
な
っ
た
ら
片
付
け
、
乾
燥
し
た
団
子
は
保
存
し
て
お
い
て
冷
い
て
病
気
が
家
の
中
に
入
ら
な
い
よ
う
に
願
っ
た
。
(
害
の
時
や
農
繁
期
に
、
蒸
し
た
り
囲
炉
裏
の
熱
い
灰
に
入
れ
て
焼
い
て
食
)
べ
た
。
会
津
で
は
二
十
日
過
ぎ
、
団
子
汁
に
し
て
食
べ
た
。
今
は
、
油
で
(
前
も
っ
て
期
待
す
る
結
果
を
現
実
の
も
の
に
似
せ
て
表
現
す
る
と
、
揚
げ
て
砂
糖
を
ま
ぶ
し
た
り
し
て
食
べ
る
。
)
予
祝
行
事
)
そ
の
と
お
り
の
結
果
が
得
ら
れ
る
と
い
う
俗
信
に
も
と
づ
い
て
行
う
行
事
。
ま
た
一
家
の
繁
栄
、
豊
か
な
生
活
を
願
っ
て
飾
り
付
け
を
し
た
。
で
あ 昔
っ 、
た 農
か 家
ら に
、 と
農 っ
家 て
で 、
は 米
そ や
の 絹
年 は
の 「
ぜ
豊 税い
作 」
と と
養 ようし
蚕 さんて
の 納 おさ
安 め
全 る
を 大
祈 いの切
っ な
て も
、 の
行
事
で
あ
る
。
花
が 冬
咲 、
い 外
た に
よ 花
う が
に な
し い
、 の
豊 で
作 、
や 赤
一 い
家 色
繁 はん の
栄 えい ミ
や ズ
豊 キ
か の
な 枝
生 に
活 団
を 子
祈 きが を
願 んさ
し し
た て
農
耕
に
関
す
る
予
祝
行
事
と
し
て
行
わ
れ
て
き
た
。
元村行政区の文化財など
新田遺跡(しんでんいせき)
しょうわ
ねん
ねん
やく
ほ
さ
昭和54年 (1979年 )、約 1m掘 り下 げたところから、
せき ふ
は
じ
き
しゅつど
石斧、土師器が出土した。
やよい じだい
ませい せっき
いし
つく
おの
はば やく
石 斧は、弥生 時代 の磨製 石器 。 石 で作 った斧 。幅 約 8c
なが
m、長さ約12cm。
こふん
な
ら
す
や
ど
き
土師器は、古墳 時代から奈良 時代ごろの素焼 きの土器 。約
つぼ
しゃしん
いせきふきん
ふうけい
20cmの壺。(写真は、遺跡付近の風景)
羽黒神社(はぐろじんじゃ)
日子波限建鵜草葺不合命(ヒコナギサタケウガヤフキアエ
じ ん む てんのう
ちち
さいじん
ズノミコト、神武天皇の父)を、祭神としている。
のうぎょう
かみ
しんこう
ふうふわごう
あんざん
しんとく
農 業 の神として信仰されている。夫婦和合、安産の神徳
もあるとされる。
10
熊野神社(くまのじんじゃ)
伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)
さいじん
を祭神としている。
わかやまけん
く ま の さんざん
く ま の ほんぐうたいしゃ
はやたま
和歌山県の熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野
な
ち
ごんげん
ぶんれい
うつ
まつ
那智大社)の祭神(熊野権現)の分霊をお移しして祭ったとされ
ている。
秋葉神社(あきばじんじゃ・あきはじんじゃ)
あきはさん
さんがくしんこう
しゅげんどう
あ
しんぶつしゅうごう
ひ よけ
秋葉山の山岳信仰と修験道がとけ合った神仏 習 合 の火防・
ひ
ぶ
かみ
ひろ
しんこう
あ き は だいごんげん
さいじん
火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現を祭神としている
えんしゅう だ い と ざ ん しゅうようじ
ぶんれい
うつ
まつ
とみられる。 遠 州 大登山秋葉寺の分霊をお移しして祭ったと
推察される。
大島山海潮寺(だいとうさんかいちょうじ)
しんごんしゅう
真 言 宗。
そうけん
ふる
ふめい
創建は、善通寺よりも古いとみられるが、不明である。
なが
あいだじゅうしょく
じょうたい
つづ
ま
おとろ
かん
長い 間 住 職 がいない 状 態 が続き、いつの間にか 衰 えて、その間に
だんか
うつ
い
じ こんなん
おちい
つた
檀家は善通寺に移って、しだいに維持困難に 陥 ったと伝えられている。
めいじ
ねん は い じ
明治6年廃寺となった。
ほんぞん
じゅういちめんかんのん
びょうき ち
ゆ
げんぜりやく
きがん
まつ
本尊は十 一 面 観音。病気治癒などの現世利益を祈願して祀られたよう
である。
きょうわ
なめ つ む ら ぜ ん か す う え
ず
ちょうかんず
もとむら
享和2年(1802年)の、滑津村全家数絵図(鳥瞰図)によると、元村
ち
く
ちゅうおう
い
ち
ひがし
こうさつば
にしがわ
だいしんりん
はい
どうどう
地区の 中 央 に位置し、 東 に高札場があり、西側に大森林を配し、堂々
じいん
けいだい
さいしき
びょうしゃ
たる寺院で、境内が彩色(カラー) 描 写 されている。
11
常瀬山善通寺(じょうらいさんぜんつうじ)
そうとうしゅうつう げ ん は
ほんざん
えちぜん
ふくいけん
えいへいじ
曹 洞 宗 通 玄派。本山は、越前(福井県)の永平寺。
そうけん
ぶんあんがんねん
創建は、文安元年(1444年)。
な
め
つ じょうしゅ ふな お さえもんのじょう やましろの かみ まさ ただ
ふな お ひたちの すけ まさ ただ
南面津 城 为 舟 尾 左衛門尉 山 城 守 昌 忠 (舟 尾 常陸 介 昌 忠 )を
かいき
てら
そうりつしゃ
開基(寺の創立者)とする。
かいさん てら
そうししゃ
かんしつえいきょくだいおしょう
開山(寺の創始者)は、寒室永 旭 大和尚。
ほんぞん
もくぞう ざ ぞ う
しょうかんのん
本尊は、木造坐像の 聖 観音。
か
ぼとけ ちゅうせい
さく
どうしょう ほうれき
ぞう
掛け 仏 ( 中 世 の作)、銅 鐘 (宝暦12年(1762年)造)などがある。
妙慶山本法寺(みょうけいさんほんぽうじ)
にちれんしょうしゅう
日蓮 正 宗 。
そうりつ
げ ん な がんねん
創立は元和元年(1615年)。
にちれんしょうにん
しゅうそ
にっこうしょうにん
は
そ
しずおかけん ふ じ の み や し
たいせきじ
ほんざん
日蓮 聖 人 を宗祖として、2祖日興 上 人 を派祖とし、静岡県富士宮市の大石寺を本山とする。
かいさん
せい
にっしゅしょうにん
開山は、大石寺14世、日为 上 人 。
ほんぞん
いた ま ん だ ら およ
にちれんしょうにん み え い ぞ う
本尊は、板曼荼羅及び日蓮 聖 人 御影像。
12
元村行政区の文化財など
年 代
出 来 事
ぜんつうじ
かりこうしゃ
じゅぎょう
かいし
か と う しょうがく
かてい
9月20日、善通寺を仮校舎にして 授 業 を開始。下等 小 学 の課程を
明治7年(1874年)
きょうじゅ
きょういくねんげん
きょうせいりょく
びじゃく
ぜんこく
しゅうがくりつ
教 授 。 教 育 年限は4年だったが、 強 制 力 は微弱。全国の就 学 率 は、
だんじ
じょじ
男児46%、女児17%。
は ぐ ろ まえ
ばんち
しんちく
いてん
明治10年(1877年)
11月20日、校舎を羽黒前2番地に新築して移転。
明治17年(1884年)
中野目 小 学 校松崎分校を合併。
な か の め しょうがっこうまつざきぶんこう
がっぺい
な め つ じんじょうしょうがっこう
明治25年(1892年)
かいしょう
しゅうぎょうねんげん
しゅうがく ぎ
む
9月1日、滑津 尋 常 小 学 校 と 改 称 。 修 業 年限4年。 就 学 義務につ
か て い がくしゅう
にんか
いて家庭 学 習 でも認可。
明治40年(1907年)
しゅうぎょうねんげん
3月、 修 業 年限6年に。
な め つ じんじょうこうとうしょうがっこう
かいしょう
こうとうか
3月25日滑津 尋 常 高等 小 学 校 と 改 称 。高等科修業年限2年(明治23
せ い ど かいせい
昭和 2年(1927年)
さい
ひんそん
せっち
年、国の制度改正の際、貧村だったため、高等科を設置することができな
まな
さわだ
なかはた
かよ
かった。このため、高等科で学びたい子どもは、澤田や中畑の小学校に通っ
た。)
昭和16年(1941年)
なめ つ む ら こくみんがっこう
かいしょう
滑津村国民学校と 改 称 。
な め つ そ ん り つ な め つ しょうがっこう
昭和22年(1947年)
かいしょう
な め つ そ ん り つ な め つ ちゅうがっこう
滑津村立滑津 小 学 校 と 改 称 。高等科は滑津村立滑津 中 学 校 として
しんほっそく
新発足。
はいこう
昭和27年(1952年)
なめつ
よ し こ がわくみあいりつなかじま
4月20日、滑津中学校廃校。5月1日、滑津・吉子川組合立中島
ちゅうがっこうそうりつ
中 学 校 創立。
なかじまそんりつなめつ しょうがっこう
昭和30年(1955年)
かいしょう
1月1日、中島村立滑津 小 学 校 と 改 称 。滑津・吉子川組合立中島中学校
なかじまそんりつなかじまちゅうがっこう
かいしょう
を中島村立中島 中 学 校 と 改 称 。
昭和49年(1974年)
そうりつ
しゅうねん き ね ん しゅくてんきょこう
4月21日、創立100 周 年 記念 祝 典 挙行。
13
滑津盆唄
1
2
ホイヤーハアーヨーホイヤー
ホイヤーハアーヨーホイヤー ホイヤーハアーヨーホイヤー ホイヤーハアーヨーホイヤー
盆の十六日ヤーアレヨー
浅川のコリア
花火ヨー
誰も行かないヤーアレ
なんだヤロー
3
4
おどり踊るならヤーアレヨー カラス鳴きでもヤーアレヨー
品よくコリア
踊れヨー
知れそうなコリア
ものヨー
タイコしっかど打てヤーアレ
ヨーおんど取りがコリア
品の良い子はヤーアレ
カラスその日のヤーアレ
わいヨー
なんだヤロー
なんだヤロー
下で踊る子はヤーアレ
嫁に取るヨー
役でなくヨー
なんだヤロー
わし一人ヨー
こ
なおこわいヨー
5
6
7
ホイヤーハアーヨーホイヤー
ホイヤーハアーヨーホイヤー
ホイヤーハアーヨーホイヤー ホイヤーハアーヨーホイヤー
滑津やぐらはヤーアレヨー
お月様さえヤーアレヨー
細木でコリア
建てたヨー
五人上がればヤーアレ
なんだヤロー
夜遊びコリア
なさるヨー
わしの夜遊びはヤーアレ
8
遠く離れてヤーアレヨー
会いたいコリア
時はヨー
月が鏡とヤーアレ
二度あるコリア
ならばヨー
親の墓場にヤーアレ
なんだヤロー
なんだヤロー
盆の十六日はヤーアレヨー
なんだヤロー
なれば良いヨー
ユラユラだヨー
無理もないヨー
9
10
11
12
ホイヤーハアーヨーホイヤー
ホイヤーハアーヨーホイヤー
ホイヤーハアーヨーホイヤー
ホイヤーハアーヨーホイヤー
踊り三角だよヤーアレヨー
踊り三角だよヤーアレヨー
ほれたからとてヤーアレヨー
ほれてみやがれヤーアレヨー
四角にコリア
四角にコリア
気はコリア
金こそコリア
なおせヨー
なおせヨー
二度参れヨー
許されぬヨー
ないがヨー
四角三角ヤーアレ
四角三角ヤーアレ
女心にヤーアレ
金で買われぬヤーアレ
なんだヤロー
なんだヤロー
なんだヤロー
なんだヤロー
それなりにヨー
それなりにヨー
秋の空ヨー
心持ちヨー
13
14
15
ホイヤーハアーヨーホイヤー
ホイヤーハアーヨーホイヤー
ホイヤーハアーヨーホイヤー
遠く離れてヤーアレヨー
お医者様でもヤーアレヨー
逢いに来たのにヤーアレヨー
互いにコリア
草津のコリア
この戸がコリア
しんぼうヨー
湯でもヨー
開かぬヨー
後ろ向きでもヤーアレ
ほれた病はヤーアレ
ヘタな大工さんだヤーアレ
なんだヤロー
なんだヤロー
なんだヤロー
そばが良いヨー
治らないヨー
気がきかぬヨー
14
年中行事等
月
正
月
二
月
行
事
・初詣・若水汲みと献茶・破魔弓・羽子板・二日(買い初め・売り初め・書初め)・六日(山
入り)・十一日(鍬入れ)・十四日(団子さし、鳥追い)・二十日仕事始め
・節分・初午 (ぼた餅)・針供養
・上巳の節句(餅草を摘んで草餅を作りおひな様に供えた。これを凍み餅にして保存し、田
三
月
うないや田植えのさつきに中間食用として珍重した。)・念仏供養・子安講(餅米を持ち寄っ
て餅を搗いて祝い合った。)・彼岸の中日(ぼた餅・団子)
四
月
五
月
六
月
・花まつり(お釈迦様の誕生日を祝い、餅つきをして供えた。)
・八十八夜(ぼた餅)・端午の節句 ・さなぶり(さなぶり餅と称し、田植えが終了すると、手
伝ってくれた人や、親戚または「ユイ」の仲間に配った。)
・天王祭
・たなばた祭り・土用の丑の日(ハラワタになると称して、シソの葉などに包んだ餅を食べ
七
月
た。)
・盂蘭盆(盆の十三日に餅を搗き、仏前に供えた。)・盆踊り・ねぶた祭り
八
月
・八朔(八月)(一日、赤飯をかやの箸で食べた。)・中秋の名月(十五日)(団子)
・月見(くり月見)(ぼた餅・団子)・鎮守の祭り(餅を搗いて、氏神、村社に供えた。また、
九
月
丸餅五個を招待客のみやげとした。)・熊野講(餅米を持ち寄って餅を搗いて祝い合っ
た。)・念仏供養・彼岸の中日(ぼた餅・団子)
・刈上げ祭(収穫を祝い餅を搗いた。)・恵比須講・ツツボ餅(土穂餅)(収穫をすべて終わっ
十
月
た時点で餅を搗き、手伝いを受けた人や「ユイ」仲間親類等に配って、五穀豊穣をお互いに
祝い合った。)・鍬柄講
・七五三の祭り・油じめ祭り(十五日)(餅を搗き、けんちん汁を作って、お汁粉にして食べ
十一月
た。)(仕事終わりを祝う豊作祝い。菜種油絞りが最後の仕事である。)・新嘗祭(新米で餅を
搗き、氏神や田の神に供えた。)
十二月
・煤払い・冬至カボチャ・歳の市・門松と鏡餅飾り・餅つき(隣組のユイで回り搗き)(あん
こ餅・お汁餅・納豆餅・黄な粉餅・大根(たかど)ずり餅・凍み餅)・大晦日
15
元村行政区の文化財など(地図)
16
元村行政区総合計画策定委員会設置規約
(目的)
第1条 元村行政区(以下「行政区」という。)のよりよい地域づくりの推進に向けて総合計画を策定する
ため、行政区総合計画策定委員会(以下「委員会」という。)を設置する。
(業務)
第2条 この委員会は、前条の目的を達成するため、次の業務を行う。
(1) 総合計画に係る調査研究に関すること。
(2) 総合計画の策定に関すること。
(3) その他前条の目的を達成するために必要な事項。
(委員)
第3条 この委員会の委員は、次の各号に掲げる者の中から行政区長が委嘱する。
(1) 行政区長及び副行政区長
(2) 元村行政区内各部落の行政連絡員
(3) その他行政区長が認める者
(会長及び副会長)
第4条 この委員会に会長1名及び副会長1名を置く。
2
会長は、行政区長があたり、又副会長は、副行政区長があたる。
3 会長は、委員会を代表し、会務を総理する。
4
副会長は、会長を補佐し、会長に事故あるときはその職務を代理する。
(会議)
第5条 この委員会の会議(以下「会議」という。)は、会長が必要に応じて招集し、会長が議長となる。
2
会議の議事は、出席委員の過半数で決し、可否同数の場合は議長の決するところによる。
(庶務)
第6条 この委員会の庶務は、行政区で処理する。
(意見参考人)
第7条 委員会は、必要に応じて意見参考人として、地区担当職員を出席させることができる。
(その他)
第8条 この規約に定めるもののほか、委員会の運営に必要な事項は、行政区長がこれを定める。
附 則
この規約は、平成25年10月1日から施行する。
17
元村豊年盆踊り保存会規約
(名称)
第1条
本会は、元村豊年盆踊り保存会と称し、事務局を元村行政区長宅に置く。
(目的)
第2条
本会は、青年会、消防団、老人クラブ、子ども育成会、行政区が一つになり、伝承活
動を行うことを通じて青少年の健全育成を推進しつつ、地域文化の発展に寄与すること
を目的とする。
(事業)
第3条
本会は、前項の目的を達成するために、次の事業を行う。
1)盆踊りと盆踊り太鼓の伝承活動
2)青少年の健全育成
3)会員相互の親睦
4)その他本会の目的達成に必要な事業
(会員)
第4条
本会の会員は元村行政区に在住する者とする。
第5条
会員は所定の金額を会費として納入する。
(組織及び構成)
第6条
Ⅰ 本会は次に示すそれぞれの役員を置く。
1)代表1名
2)副代表1名
3)総務若干名
4)会計1名
Ⅱ この会に、顧問を置くことができる。
(任務)
第7条
代表は、本会を統括する。
第8条
副代表は、代表を補佐し、代表に事故ある時はこれを代行する。
第9条
総務は、会務を記録し整理する。
第10条 会計は、本会の出納事務を処理し、必要な書類を管理する。
第11条 役員の任期は1年とし、再任を妨げない。
第12条 役員は、会員の推薦により選出する。
18
(会議)
第13条 会議は必要に応じて、代表が会員を招集し、議長には代表が当たる。
(雑則)
第14条 本会の事業年度は、4月に始まり、翌年3月に終わる。
第15条 本会の規約の変更は、会員による会議での議決を経なければならない。
第16条 会員の入会・退会は、代表に報告し承認を受けなければならない。
附
Ⅰ
則
この規約は、平成26年4月1日から施行する。
19
平成25年度元村行政区総合計画策定委員会委員(順不同)
役
職
氏
名
部
落
会
長
緑
川
孝
夫
横
町
副会長
岡
本
達
郎
下大町
委
員
野
木
哲
夫
上大町
委
員
長谷部
一
善
東荒町
委
員
生田目
建
一
横
委
員
上
野
利
明
委
員
芳
賀
真
司
新
委
員
野
木
豊
八幡前
委
員
長谷部
栄
一
西荒町
委
員
吉
尚
二
御蔵場
田
20
町
中島東ニュータウン
田
元村行政区