身体心理学ノー ト (W)

愛知教育大学研究報告,
33 (教育科学編),
pp.229
238,
January,
1984
身体心理学ノート(1V)
一一ボディ・ワークの視点
原 口 芳 明
Yoshiaki HARAGUCHI
(特殊教育教室)
1
ボディ●ワークの周辺
心理療法のなかに身体的な技法をとりいれる動向は,現在,様ざまなかたちでみられて
いる。たとえばGraysonとLoew(1978)は,心理療法における新しい動きにふれ次のよ
うに述べている。「フロイトは身体自我(body
ego)について語っているが,精神分析家や
心理療法家の多くは,患者の治療にあたって身体に注意を払ってこなかった。ところが,
この10年のあいだに,身体に対して新しい関心が向けられるようになってきた。身体は心
から切り離しては考えられないということが認識され,また,心理療法においても身体は
重要な次元をなすとみられるようになってきている(こうした動向を示す例として,アレ
クサンダー法(Alexander
Technique),ゲシュタルト療法,新しいセックス療法,バイオ
フィードバックがとりあげられ論じられている。
また, Rappaport (1975)は,フェレンツィ及びライヒがフロイトの分析の道から離れ
たことのなかにこうした動向のルートがあるとし,フェレンツィとライヒは心と体は相関
しているだけではなく機能的に同一である(functional
のことから最近の心理療法の潮流における新旧のbody
ているとしている。 Rappaportはこれらのbody
identity)ことを強調しており,こ
therapy への関心の高まりが生じ
therapy の例として,バイオ・エナジェ
ティック療法(bioenergetic therapy),ロルフィング(Rolfing)のような治療的な技法から,
アレクサンダー法,種々のヨーガ,感覚への気づき及び合気道のような身体技法までをあ
げている。彼によれば,これらに共通する前提は,“あなたはあなたのからだなのだ"とい
うことであり,身体の生と意識的な体験としての生(パーソナリティ,自我,心,リアリ
ティ)とが同一であるというこのことが,後者のような直接的には治療を目的にしていな
い技法をも治療的な働きをするものにしているという。
このような身体的な技法を重視する考え方は,とりあげる技法の違いや,それらを総称
してどう呼ぶかといったことを別にすれば,他の論者によっても様ざまになされている。た
たえば,
Brown (1976)はbody
psychotherapyとしてゲシュタルト療法,正統的なライ
ヒ療法,バイオ・エナジェティックス,原初療法(Primal
Therapy)をあげ, Liss(]982)は
body-oriented therapyとしてバイオ・エナジェティックス'原初療法'セックス療法'
サイコドラマをあげている。また,池見(1981)は,バイオフィードバック,ゲシュタルト
療法を身体的技法と呼び,
Turchin(1979)はトレーガリング(Traggering),バイオ・エナジ
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ェティックス,アレキサンダー法,姿勢統合(Postural
てボディ・ワーク(body
Integration),マッサージを総称し
work」としている゜
ボディ・ワークということばは石川(1983)によっても使われている。石川は心身医学
の領域では,占典的な治療法が精神から身体へ向かっていたのに対し,近代的な治療法は,
身体から精神に向かうものが多いと指摘し,後者の種類の治療法をボディ・ワークと総称
している。石川がボディ・ワークの例としてあげているものは,バイオ・エナジェティッ
クス,アレクサンダー法,ロルフィング,フェルデンクライス法(Feldenkrais
method),
グルジェフ体操(Gurdjieff movement),ヨーガ,太極拳,スーフィ(Sufi),自彊術,調和
道,野口体操である。
本論では石川にならって,身体的な技法を総称するものとしてとりあえす<ボディ・ワ
ーク>ということばを使いたいと思うが/石川がボディ・ワークについての系統的,理論
的及び比較的研究は今後の課題であるとしていることも明らかなようにボディ・ワークと
いうことばは未だ厳密に規定されているわけではない。そのことをおさえたうえで,ここ
では以下の点を指摘しておく。
第一に,これらの身体的な技法(ボディ・ワーク)は必すしも治療的な技法として行な
われてきたものばかりではないが,にもかかわらす,従来の心理療法に対していわばその
境界を拡大する役割を果しているということ。
Rappaportの表現を貸りれば,心理療法は
今や人間の身体的次元を含むものになってきたといえよう。
第二に,これらのボディ・ワークの発達の背景には文化的価値意識の変化があるように
思われること。そのことを同じくRappaportは,統制,分析,理性,精神を至高のものと
する時代が終熄しはじめ,人びとが<意味の生物学的基盤>や<生命の身体的及び感覚的
(9)
次元>を再発見しつつあると指摘している。勿論,こうした変化には文化や時代の情況が
大きく影響するものであるから,一概に述べるわけにはいかないが,我が国における様ざ
まなボディ・ワークの隆盛の背景にも同様の変化がうかがえるように思われる。
このことに関連して,第三に,ボディ・ワークの目的は狭義の<治療>ではなく,むし
ろ<成長>におかれるべきだと考えられること。実際のところ,ボディ・ワークの参加者
の多くは,自分の何らかの症状なり問題行動なりを治療しようとしているというよりも,
からだを通しての経験の拡大や自己実現を目指しているというべきだろう。そういう意味で
<治療>に対して<成長>というのである。但し,そうだからといって,ボディ・ワーク
における治療の側面を無視するというわけではない。問題は比重の置き方といったことで
もあろうが,いづれにせよ,成長や治療のいとなみのなかでボディ・ワークの果す役割に
ついては今後検討してゆく必要があろう。
以上のような大まかな概観をもとに,以下ボディ・ワークでの経験におけるより具体的
な問題の幾つかについて検討してみる。 0の(11)
2
身体が語ること
われわれが他者の身体に手をあて,その時感じられることを相手にフィードバックして
ゆくとしたら,ます,温かさやなめらかさの微妙に変化する度合を告げることになるだろ
う。あるいは,相手の身体の緊張や弛緩の状態がます感じられるかも知れない。いづれに
せよ,この時,相手の身体はわれわれに多くのことがらを刻々と伝えてくる。われわれは
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それをわれわれの手が知っている限りでの認知的な図式によって判断してゆく。少し緊張
しているとかちょっと熱っぽいという風に。
たとえば,脳性マヒ児に対する動作訓練のなかで,われわれがます直面するのは,相手
の子どもの身体が表現している多くのことがらのうち,緊張と弛緩という身体感覚である。
実際は,様ざまなレベルの緊張や弛緩の感覚がわれわれの手を通じて得られるわけだが,
それを相手の子どもに即座に伝えてゆくということになる。われわれの手は,こういう体
験のなかで,相手の子どもの緊張や弛緩の状態にたいして徐々に鋭敏なものになってゆく。
他方,当然ながら,見ることによってもまたわれわれは相手の身体が表現していること
を知る。というより,われわれはます見ることによって知るというべきだろう。動作訓練
での場合でいえば,たとえば,握手するという課題にたいして,ある子どもは,ます頭を
片方の肩に引きつけるような動きをするとともに同じ側の腕を胸に抱く恰好で屈げこみ,
次いで,課題となる握手する側の手を外側からカーヴを描くようなかたちで前に伸してゆ
<……。こうした一連の動きは,相手の脳性マヒ児が示す<動作不自由>の表現として,
われわれは理解する。
ただ,このばあいの理解の仕方は,先程述べた手が感じるような理解の仕方とは随分異
なるものであるし,更にまた,たとえば,相手のその動きをわれわれが真似することによ
って得られる理解とも異なる。
訓練に当って重要なことは,相手の子どもが示すすかたちとしての不自由ではなく,その
不自由を結果している子どもの主体的な動きや感覚の問題である。したがって,単に見る
だけではなく,手で触れ,恰好や動きを真似ることをとおして全身で理解してゆくことが
要請される。成瀬(1982)が相手を理解することに際して<共動作>や<共体験>が重要
な媒介となると指摘しているゆえんでもあろう。
ところで今度は,相手の身体がかたっていることではなく,われわれ自身の身体がかた
っていることの理解について考えてみよう。たとえば,向かいあった相手に自分につい
て気づくことを次々あげて貰うとする。この時,相手のあげることがらで身体に関するも
の一例えば,“額にシワを寄せている"一一をどれだけわれわれ自身が気づいているか
というと,案外気づいていないことが多いのをわれわれは知らされることになる。とりわ
け,無意識のうちにわれわれがとるような表情や身ぶりはなかなか気づきにくいものであ
る。このばあい,相手の指摘で始めてそれに気づくということになる。
他方,相手に気づかされるのではなく,自分の内的な体験をとおして自分の身体がかた
ることに気づくといったことがある。とりわけ特定の心理療法の条件下ではこうしたこと
が明確なかたちで現われ易い。
たとえば,バイオ・エナジェティックス証)ワークショップのなかで経験されることのひ
とつに次のようなことがある。ワークを行なう人が床に仰臥位で横たわると,ます,深く
呼吸することが,次いで,呼吸しながら声を出すことが求められる。ワークを行なう人の
傍に座った援助者はその人の呼吸を見守るとともに,身体面(たとえば胸郭部)の緊張が
みられるばあい,それをゆっくりマッサージしてやる。こうしたなかで,ワークを行なう
人は,たとえば自分の腕や手がしびれてくる感じを味わう。するとそれに呼応するかのよ
04)
うに,身体がいわば不随意的な動きを始め出すのである。勿論,不随意的といっても,当
人が感じる不随意感には様ざまなレベルがあるようであるが,ともかく,人によっては手
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足はいうに及ばす,全身にわたる激しい動きが誘発されてくることになる。一方,こうし
た動きの生起とともに(多くのばあい)怒り,悲しみ,恐れ等の強い感情が表出されてく
る。
一時間程のワークのなかでかなりの時間こうした激しい動きと感情の表出を示す人も
少なくない
ワークの過程は当然ひとりひとりによって異なっており,一概に述べることは出来ない
が,多くの人が感情的なカタルシス体験とともに自分の身体についての感覚が変化したと
報告する。気分がスッキリして落ついたとか,身体がとても軽くなった感じがする等々。
と同時に,それまで無意識的であったり,あるいははっきりとは意識していなかった自分
の身体の緊張やそれに関連した感情の問題が,極めてリアルに体験されることが少なくな
いようである。ある人は,声がうまく出ないことを苦にしていたが,ワークを受けること
で身体が生き返ったような感覚をおぼえるとともに,如何にそれまで自分が自分の喉や身
体を緊張させていたかに気づいたと報告している。こうした気づきはまさに内的な体験を
とおした身体への気づきといえようが,この時身体はいわば自らをかたっているのであり,
われわれはそれに気づかされるとごいかえることができよう。
ところで,こうした変化や種々の身体現象は何故生じるのであろう。それに関してバイ
オ・エナジェティックスの理論に沿って考えてみよう。
バイオ・エナジュティックスはローウェン(Alexander
Lowen)がライヒ(Wilhelm
Reich)
の治療法をもとに発展させたものである。ローウェンはライヒの考えを受け継ぎながらも,
より身体現象に則した分析を基本にして独自の治療法を形成したのであるが,ローウェン)
によれば,バイオ・エナジェティックスとは,人のパーソナリティを身体とそのエネルギ
ー過程の観点から理解する方法であり,同時にまた,体と心を結びつけるワークによって,
人が自分の感情的な問題を解決し,喜こびや楽しみをよりよく実現できるよう援助してゆ
く治療であるという。また,その基本的な考えは,体と心は機能的に同一のものであり,
心で生じていることは体で起きていることを反映しており,またその逆でもあるとしてい
る。
(17)
ロ-ウェンの実践は"The
Betrayal
of the
Body"
(邦訳「引き裂かれた心と体」)のな
かで精密な身体現象学的分析として示されている。ここではとりわけ,分裂質の人の特性
が取りあげられているが,ローウェンによれば,健康な人では心と体がうまく統合されて
いるが,分裂質の人の場合,心と体が分離しており,その分離を代償するために分裂質の
人は,意志の力で自分の体を支配しようとするという。そして,「その結果として,筋肉は
絶えす収縮した状態にある。筋肉の緊張は分裂質の人に特徴的な体の硬さを表わしている。
そして,この硬さが,とりも直さす恐怖に対するバリケードの役目を果たしているのであ
(18)
る」という。
こうした分析は,ライヒの<性格の鎧character
armor
(19)
>の考えにほぼ対応するもので
であるが,ローウェンは,バイオ・エナジェティックスのゴールは,人が自己の本来の性
質を取りもどすことを援助することであるとして,その具体的な手だてを示している。こ
の場合,ローウェンは,身体の基本的機能に注目する必要があるという。それは,呼吸。
(20)
体の動き,感情,自己表現である。
これらについて細かく紹介する余地はないが,たとえば呼吸に関してローウェンは次の
-
ように述べている。「一般的に言うと,分裂質の患者が呼吸を深めるやいなや,体は震え
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身休心理学ノート(Ⅳ)
ピクピクし始める。すなわち,筋肉の収縮を起こすのである。
うずうずする感覚が腕や足
に現われ,汗をかき始める)
この記述は,最初に述べたバイオ・エナジュティックスのワークでの多くの人の体験と
共通する(だからといってその人たちが分裂質という訳では必すしもないだろうが)。ロー
ウユンは続けて述べている。「体に新たな感覚を覚えて,それにおびえるようになると,
恐れと不安が現われるだろう。この不安は自制心を失うことの恐怖,あるいは,ばらばら
になる恐怖などと関係しているように思われる。)不随意的な身体の動きやうすうすする
感覚に続くこうした感情の出現も,感情の内容の違いを除けば,前述したワークでの体験
と近似している。
ところで,ワークのなかで生起する,こうした不随意的な身体の動きや感情の表出等
は,身体が自らを語ることとして,われわれに極めて強い体験をもたらすが,この体験は
必すしも治療的なもののみとはいえない。むしろ,参加者の多くは,ふだんの体験のなか
では気づかない自己の心身のおり方に,こうした体験のなかで出会っているのである。
この点については,ローウェンも述べている。すなわち,バイオ・エナジェティックス
は,治療のみに関わっているわけではなく,人のパーソナリティの発達に関心を向けてい
ると。そしてローウェンは,参加者が自分の身体について感じ,自己への気づきを高め,
自己表現を促進させてゆくこのバイオ・エナジェティックスでの体験を<自己発見の旅>
(23)
と呼んでいるのである。
本論の文脈から述べれば,ワークのなかで身体に語らせることをとおして,われわれは
自己への気づきを高め,心身を成長させることを目指しているといえよう。
3
身ぶりへの気づき
バイオ・エナジュティックスではます個人の身体に焦点があてられ,ワークが行なわれ
る。ところが当然のことであるがわれわれの身体は自分のうちで完結してしまうわけでは
なく,とりわけ他者との関係のうちに開かれている。そうした側面に焦点をあてたレッス
ンについて次にみてみよう。
竹内敏晴のグループレッスンのひとつに次のようなものがある。課題としてぱ適当な
相手を見つけて並んで下さい",あるいはただ“並んで下さい"というものだが,グループ
メンバーの反応はじつに様ざまである。互いに目を合わさないように並ぶもの,片方の人
が他方の人の背側に並ぶ(縦隊のように)もの,あるいはできだけ相手から距離をおこう
としているもの等々。そしてその時並んだ相手の人に対して何を感じるかについて竹内氏
の問いかけにある人は"何も感じない"と答え,別な人は(人と並んでいるというよ
り)物があるような感じ"と答えた。また他の人の答えぱ一緒に並んでいるなという感
じ"であった。
並ぶというありふれた動作を要求させてわれわれが示すこうした反応パターンは何を示
すのだろうか。上にあげた反応に特徴的なことは,並んでいる相手にたいする感じを意識
的にせよ,無意識的にせよ遮断あるいは抑制するか,または,感じではなく判断(一緒に
並んでいる)を述べているということである。(こうした吟味自体があとでの吟味であり,
その場面では,まさにそうとしか反応しないことが問題なのだが。)
次いで“相手の人を押して下さい"という指示にもまた様ざまな反応がみられた。指
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先に力を入れて相手のからだにそっと触る人,腕だけで押している感じの人等々。この時
も,そうした反応の仕方は必すしも当人には十分意識されていないことがわかった。
これらのレッスンでのねらいは,各自が自分の身体を用いて他人と出会うときのそれぞ
れの動きや反応の仕方の特徴を自らの体験をとおして感じとるところにあると思われる。
いいかえれば,身体のはたらきについての概念的理解ではなく,まさにはたらきつつある
身体についての気づきが求められているのだが,実際のところ,レッスンの場で自分の身
体が表現していることに気づくことは思いがけない強い体験をわれわれにもたらす。また
一方では,こうしたレッスンをつうじて,ふだんわれわれが自分の身体のはたらきについ
て気づいていなかったことが予想以上に多いことに気づかされることにもなる。こうした
気づきは肉体レベルでの気づさてはなく,対人的内容をはらんだ状況における身体への気
づきであるから,これをここでは<身ぶりへの気づき>と呼んでおく。
竹内は<身ぶり>とは「流動し起こると共に消え去ってゆく身動きすべて」のことで,
さらに「身動きは,こころの動きの現れであり,また,こえとことばも身動きの一部にす
ぎない(7)と述べているが,その意味では,<身ぶりへの気づき>とは,生動しつつある心
身のはたらきの全体についての気づきということができよう。
ところで竹内が示している例によると,<並ぶ>レッスンの際に,ズラリと一列縦隊に
並んでしまう場合があるという。(竹内によれば教師の場合にそれが目立つというが)。こ
うした例をきくと,われわれは,その人たちのふだんの生活習慣が反映されているのだろ
うと想像してしまうが,そうであったとしても,問題はそうした習慣化した動きとなるこ
とによって<身ぶりへの気づき>が欠如しているかあるいは非常に乏しくなっていること
であろう。ここではいわば<定型化した身ぶり>が優位を占めている。
このような<定型化した身ぶり>自体は,勿論,良いとか悪いとかいうことはできまい。
そのような身ぶりが有効にはたらくといったことはいくらでもありうる。日常的な動作の
多<は<定型化した身ぶり>となることによって安定性を獲得しているともいえよう。た
だ問題であるのは,それによってわれわれが自分の動きや行動を狭め,あるいは,自らの
心身を歪めているような場合であろう。
たとえば,竹内のレッスンのひとつに<話しかけ>というのがある。
向を向いて不規則に座り,
4,
5,6人がある方
5 m後ろからもうひとりの人が,そのうちの誰かに話しか
けるというものだが,レッスンを始めてみて気づくのは,話しかけの声が相手に届かない
ことが少なくないということである。この時,座っている人の感じでいうと,たとえば,
声は大きいがファーと拡散してしまい特定の人に話しかけているとは感じられないとか,
途中で声がストンと落ちてしまう感じ等々,かなり具体的で,いわばモノ的性質をもった
声の状態が感じられるのであるが,しかもそれは,しばしば,話しかけている人の身ぶり
の特徴をまざまざと伝えていると感じられることが少なくないのである。
一方,話しかけている人は,専ら話しかけることに気を配っていて,こうした自分の声
一身ぶりが示す独得の状態については気づかないことが多いようである。竹内は「言葉一
声が相手の体にふれ,『胸にしみ』『腑に落ちる』(中略)つまりからだの内に入っていっ
(25)
で,相手のからだと心を動かす,変える,これが話す,ということでしよう。」と述べてい
るが,それを実感として感じとる契機としても,ます自分の定型化した声一身ぶりに気づ
-
くことが重要であるように思われる。
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ところで,身ぶりについてのこうした竹内の視点は,いわゆるnon-verbal
communication
における身ぶりやジュスチャーについての研究の視点とかなり異なるものである。これら
の研究の多くにおいては,身体の動きはそれ自体が独立したひとつのシステムとして検討
(26)
され,手や指の動き,顔の表情等が伝える<意味>にしたがって分類される。肯定のサイ
ン,否定のサイン,拒絶のサイン等々。ここでは結局のところ,身ぶりは,
verbal commu-
nicationを補完するもうひとつの言語システムとしてみられているだけにすぎまい。もっ
といえば,身ぶりは形としてとらえられverbalな世界と対置させられているといえよ
う。
問題はしかし,身ぶりを形としてとらえ,それに一定の意味を与え解決するといったよ
うなことではなく,一人の人かおる身ぶりを示すとき,その人のその時の心身の全体との
関連で,それがどのように表現されるかということであろう。こえやことばも身ぶりとし
てとらえる竹内の視点は,こえと身ぶりを分離して考える上記の立場を超えているだけで
なく,まさに身ぶりが発生する現場に立って,その生成をとらえようとしているといえよ
う。
とりわけこの現場とは対人的状況の場である。身ぶりへの気づきも,そうした具体的状
況の場のもとで,その時の一回性のものとし体験されるといえよう。
4
治療と成長
心理療法やグループレッスン等の特別の場面でなくても,われわれは身体への気づきを
体験することがある。たとえば,頭痛が生じたとする。数多くあるだろう原因のうち,われわ
れはたとえば,何らかの心理的な葛藤がその原因ではないかと推測し,あるいは,はっき
りそれと気づくかもしれない。こうしたとき,ふだんはいわば地として背景に沈んでいる
身体が図化され,特別の意識のもとで吟味されることになる。
この時,単に身体のことが気になるといったレベルから,より深い自己の身体の状態へ
の気づきまで様々な気づきのレベルがあると考えられるが,ここで問題となるのは身体の
生命行為と深く結びついた気づきであろう。
松田道雄は,毎年夏の同じ頃おこる自分の身体の故障のことについてふれ,その故障が
自然になおる経過がわかってきたことを述べ,次のように書いている。「生活に支障をき
たすほどのことでなかったら,病気はなるべく自然になおしたほうがいい。いちど自然に
なおすと,その病気の自然の経過をおぼえる。この故障は,あのときとおなじだという記
憶は,世界中で自分ひとりしかもっていないものだから国宝のように大事なものだ。イ)
ここにみられるような,身体の自然な生命力とでもいうべきものに耳を傾けることは重
要なことであろう。いわゆる<自然治癒self
healing >の意義が,近代医学への批判の一
方で強調されているが,身体にそなわった本来的な力は,単に治療の面からだけではなく,
人間の成長を考える立場からも見直すべきであろう。
たとえば, Lapatra (1978)はあるゲシュタルト療法家のself
healing の体験を紹介して
いる。この女性療法家は,あるワークショップが始まる一時間程前になって激しい偏頭痛
に襲われたのであるが,その時この人はひたすら祈ったという。やがてその頭痛が自分の
師で自分を祝福しているというひらめきが起こるとともに,痛みに身をまかせることに態
度を切りかえていった。すると,自分が痛みの中核にはいりこんだように感じたのでそこ
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に祈りながらとどまった……。一時間後にワークが始まった時,この女性自身が驚いたこ
とには,痛みはほとんど消えていたという(それまでは痛みは数時間から数日も続いてい
(29)
た)。
こうした現象は,たとえば,ブラシーボ効果ての治癒(healing)の過程に介在する信じ
ることの意義,として論じられていることと共通のものがあると思われるが,それはさ
ておき,ここでは,この女性が「私は自分を癒すには病気に抵抗してはいけないというこ
(3D
とを学んだ)と述べていることに注目しておく。病気を受け容れる(抵抗しない)ことと
治癒することとはどんな間連かおるのだろうか。
山崎(1983)は,ある対人恐怖の菁年とのかかわりの例を述べながら,<治る>とは何
かを問題にしている。それによれば,この青年は氏の勧めた断食療法によって完治したよ
うにみえたのだが,その後突如として自殺を図った(未遂)という。氏は大きなショック
をうけるのだが,この菁年は,その直後にある宗教団体に入ることで心の安心を得て救わ
れたという。つまり,神経症的基調は残っていても気にならなくなったというのである。
(32)
山崎は,ここでの「治る」ことと「救われる」こととの対比を手がかりにして,症状の
消失を治癒ととらえる考え方とは別に,「病的状態からの回復を治療目標とはせす,人そ
(33)
のもの,病人そのもののあり方を問題にする」東洋的な考え方があることを示唆したうえ
で,ヨーガの立場からの治癒像を検討している。山崎はここで<治療的成長>という表現
を用いているが,この言葉の定義は必すしもはっきりとは述べられてはいない。前後の文
脈から判断する限りでは,人間を全体としてとらえる立場から,治療と成長を切り離して
考えす,両者が一体となったあり方を指示しようとしていると推測される。
いわゆる西洋医学のなかでも,人間を全体として,つまり,環境・身体・心というひと
つの有機的システムとして考える動向(holistic
medicine と総称される)がみられるが, (34)
そこで強調されることのひとつはhealingということであり,また,人間の成長と密接に
関係しあった治療ということであるように思われる。
Lapatra は holistichealingとか
holisticdevelopment ということばで,そのあたりの事情を述べてぃぶ。)
ところで,ボディ・ワークの立場からいえば,こうした治療や成長に関わることがらは,
あくまでも具体的な身体をとおしての実践によって明らかにされるべきものであるのは当
然であろう。治療や成長にかかわる内発的動きを身をもって知ることがそこでのひとつの
課題といえようが,ここでは以下,それに関わる問題の幾つかを述べておく。
第一に,生きた身体のはたらきについて体験し,身体への気づきを深めるための場が必
要である。この場は,狭義の治療の場に限らす,成長を目指す人々が自由に参加できるよ
うな場である。今のところ,そうした場は十分であるとはいえない。たとえば,バイオ・
エナジェティックスのばあい,ワークショップの開催数は,現在年に全国で10回足らす
というところである(バイオ・エネルギー研究センター:金沢,ホウイズン・センター:
東京等が開催するもの)。勿論,数だけの問題ではなく,内容が重要であるし,更に,極
端にいえば,こうした場は一人でもっくることができるものであろう。いづれにせよ,こ
の場は互いに学び合うとともに,自己の体験をとおして学ぶ場ということである。
第二に,これと関連して,ボディ・ワークを教育としてとらえる観点が必要であろう。
既に成長や気づきの問題として繰り返し述べたことからも明らかなように,ボディ・ワー
クは身体をとおした教育という側面をもっている。このばあいの教育とは,人格の基盤に
236
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ある<身体>にはたらきかけることをとおして,ひとの発達を援助してゆくいとなみとい
うことである。なお・この点に関連して.
Rappaportは,とくに幼児に対して,ヨーガや
他の身体システムによるケアを行なうことにより,精神的健康の促進と疾病の予防を計る
ようなプログラムを捏案しているが,興味ぶかい意見であろう。
(36)
第三に,ボディ・ワークはあくまでも,ひとりひとりの生きた身体のはたらきを,謙虚
にきくことから始められるべきである。これが易しそうで案外難しいのは,たとえば,身
ぶりへの気づきの項で述べたように。われわれは自分の身体についても気づいていな
いことが多い,ということを想起すれば推測がつく。
したがってここでは,ひとつの技法
を性急に適用するような態度は避けねばならない。幾つかの方法のうち,その人に最も適
した方法を選択できるような工夫が必要となろう。
第四に,ボディ・ワークにおける治療的役割と成長を促す役割については更に検討して
ゆく必要がある。本論では十分検討できなかったが。たとえば,バイオ・エナジェティッ
(37)
クスの色々な運動や姿勢が自己治療の非常に有効な形態であるとの指摘かおる。身体が本
来そなえている自然治癒力や成長を促す力を明らかにしてゆくうえから,実践にもとづく
理解が更に必要であるといえよう。
-
(昭和58年9月1日受理)
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