現代トルコの基礎理解 - 名古屋女子大学 学術情報センター

名古屋女子大学
紀要
47 (人・社)
57∼67
2001
現代トルコの基礎理解
1990 年代の人口、 生活、 教育、 保健・福祉を中心に
伊佐治大陸
A Basic Understanding of Modern Turkey :
Focused on Population, Life, Education, Health and Welfare in the 1990s
Tairiku ISAJI
はじめに
「世界人口白書 2000」 (1)によれば、 西暦 2000 年のトルコ共和国の人口は 6,660 万人、 年平均
人口増加率 (1995 ∼ 2000 年) は 1.7 %、 2025 年の推計人口は 8,790 万人である。 都市人口の
割 合 は 69% (1995 年 ) 、 都 市 成 長 率 は 3.5% (1995 ∼ 2000 年 ) 、 合 計 特 殊 出 生 率 は 2.50
(1995∼2000 年)、 乳児死亡率 (出生 1,000 対) は 45、 5歳未満児死亡率 (出生 1,000 対) は男
67、 女 52、 平均寿命は男 66.5 歳、 女 71.7 歳、 初等教育5年目まで留まる児童の割合は男 92%、
女 93%、 中等教育就学率は男 68%、 女 48%、 15 歳以上の識字率は男 93%、 女 76%、 1人当
たり GNP は米ドル換算 6,594$ (1998 年) である。 以上に紹介した諸指標を手がかりとして、
人口、 社会、 教育、 経済等にかかわる現代トルコの全体像をある程度イメージアップすること
は可能である。 トルコは先進国の我が日本とは異なり、 開発途上国に位置付けられる国の一つ
である。 しかし、 アフリカの多くの最貧国とは同一ではなく、 ヨーロッパ先進諸国への仲間入
りを果たそうと努力する 「優等生的」 開発途上国であると言えよう。
本稿では、 主として“TURKEY ∼ A Country Study ∼ 1996”(2)を参照しつつ、 人口、 生活、
教育、 保健・福祉等にかかわる現代トルコの全体像を描写することに努める。 本著書は筆者が
知り得た最新改定本の一つであり、 トルコに関する客観的事実を紹介することが意図されてい
る。 従って、 そこでの情報、 統計はかなりの程度正確に現実を反映していると考えられる。 し
かし、 本稿に示す統計数値は全く正確なものという訳ではなく、 トルコを理解するためのおよ
その概数であること、 現代トルコとは言っても、 それは 1990 年代前半におけるトルコを意味
することを予め断っておきたい。
人
口
1994 年現在のトルコの人口は 6,120 万人である。 これは 1990 年 10 月実施の第 12 回国勢調
査における 5,650 万人と比較して 8.4%の増加である。 国立統計研究所 (SIS) は 1990 年以降
の年平均人口増加率を 2.1%と推計しているが、 1980 年代の年平均人口増加率 2.5%より増加
率は減少している。 トルコの人口は 1985 年に 5,070 万人、 1980 年に 4,470 万人を数え、 1980
年から 1994 年の 14 年間で 37%増加した。 1980 年以来、 年平均人口増加率は徐々に減少して
はいるが、 ヨーロッパ諸国と比較して相対的に高い。 1990 年の国勢調査によれば、 トルコは
若年人口が多く、 全人口の 20%が 10 歳以下である。 全人口の 50.5%が男性、 49.5%が女性で
あり、 平均寿命は男性 67 歳、 女性 72 歳である。 人口 1,000 人当たりの出生率は 28、 死亡率は
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6 である。
人口密度は全体としては低いが、 幾つかの地域、 特にヨーロッパ側のトラキア地方とエーゲ
海岸、 黒海岸では高い。 黒海岸沿いのゾングルダクから西に向かってイスタンブルまでと、 マ
ルマラ海の周囲一帯、 エーゲ海岸に沿ってイズミールまでは人口が集中する。 これらの地域は
トルコの国土面積の 25%足らずであるが、 1990 年にはそこに全人口の 45%が生活した。 これ
とは対照的に、 アナトリア高原と東部山岳地は国土の 62%を占めるものの、 全人口の 40%が
そこに住むだけである。 残りの人口 15%は、 国土の 13%を占める南部の地中海岸沿いに住む。
1990 年の場合、 人口のほぼ 50%が地方に住む。 1950 年には全人口の 82%が地方に住んでい
たから、 この 40 年間で 30%以上の減少である。 1990 年の地方の人口は合計 36,000 を数える
村に住むが、 その殆どは 1,000 人以下の住民規模の村である。 行政上のねらいとして、 一つの
村は一つの集落ないしは散在する家族の一群であって、 村長 (muhtar) によって運営される。
1995 年迄に、 トルコの人口の 65%強が都市部に住むこととなった。 都市部とは1万人以上
の居住者を擁する家の建て込む地域を指す。 都市部の人口は 1950 年に全体の 18%に過ぎなかっ
たが、 それ以降急速に増加した。 都市部の人口増加の主要原因は村人達による間断なき移住で
あり、 それは 1990 年代も続いている。 都市化傾向は 1990 年の国勢調査にも見られ、 20 万人
以上の人口規模を持つ 19 都市に全人口の 30%強に相当する 1,760 万人が居住する。 最大都市
イスタンブルの人口は 660 万人で、 これは全人口の凡そ 12%である。 100 万人以上の人口を持
つ都市は他に首都アンカラ (260 万人) とエーゲ海の主要港で工業中心地イズミール (180 万
人) である。 トルコの第4、 第5の大都市はアダナ (1990 年に 91.6 万人) とブルサ (83.5 万
人) で、 年平均3%以上の増加率を示す。 両市ともに 2000 年迄に 100 万を越すと予測される。
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南東部のガジアンテプとアナトリア高原のコンヤは 1990 年で 50 万を越す。 10 大都市として
は他にメルシン (42.2 万人)、 カイセリ (42.1 万人)、 エスキシェヒール (41.3 万人) の3都市
が含まれる。
移
住
最近の入国移住者はブルガリア系トルコ人とボスニア系ムスリムである。 1989 年、 32 万人
のブルガリア系トルコ人が強制的同化キャンペーンから逃れるためにトルコに避難した。 同年
のブルガリア共産主義者政府崩壊後は、 トルコに逃れようとするブルガリア系トルコ人の数は
月平均 1,000 名以下に減少した。 事実、 ブルガリアに帰国したブルガリア系トルコ人の数
(125,000 人) は新しい入国移住者数を上回った。 1994 年3月迄に合計 245,000 人のブルガリア
系トルコ人がトルコの市民権を与えられた。 しかし、 トルコはもはやブルガリア系トルコ人を
難民扱いしない。 1994 年初め、 トルコへの新しい入国移住者は留め置かれ、 国外退去となっ
た。 1994 年 12 月末、 推定2万人のボスニア人がトルコで生活し、 その大部分はイスタンブル
の地域内に住む。 凡そ 2,600 人が野営地に住み、 残りは私的居住地に分散する。
1994 年、 政府は 200 万人のイラン人がトルコに住むと主張したが、 この数字は殆どの国際
組織が誇張し過ぎだと見做した。 トルコはイラン人がビザ無しで入国できる数少ない国の一つ
である。 このため、 当局の考えによれば、 イランからトルコへの比較的容易な旅行のため、 多
くのイラン人が観光客としてトルコを訪れ、 或いはヨーロッパ、 北アメリカ諸国へのビザ取得
のための通過点としてトルコを利用するからである。 移民、 難民問題を扱う EU や国連の専門
機関の考えでは、 トルコ在住のイラン人の現実的数字は5万人である。
1960 年代、 労働年齢のトルコ人 (主に男性) がゲスト・ワーカー (guest worker) として雇
用されようと西ヨーロッパに移住し始めた。 こうしたトルコ人労働者の多くは結果的にその家
族をヨーロッパに連れて行った。 1980 年代初期、 推計 200 万人のトルコ人労働者と扶養家族
が西ヨーロッパに居住した。 厳しい失業をもたらした経済不況が開始される以前のことである。
ドイツ連邦共和国 (西ドイツ) はトルコ人のゲスト・ワーカー受け入れ計画を展開した。 しか
し、 1990 年代、 ドイツはトルコ人労働者の自発的な本国帰還を勧める経済的奨励策を導入し
た。 1994 年末、 推計 110 万人のトルコ人が半永久的居留外国人として西ヨーロッパに住む。
こうしたトルコ人移住者の約3分の2はドイツ、 10%はフランスに住む。 相当規模のトルコ人
コミュニティーを持つヨーロッパ諸国としては、 オーストリア、 ベルギー、 オランダ、 スウェー
デン、 スイスも含まれる。 更に、 最低 15 万人のトルコ人がサウジアラビアやペルシャ湾のア
ラブ産油諸国で働いている。
人口政策
(1) 子だくさんの奨励から人口増加の抑制政策へ
トルコ共和国建国の 1923 年以来、 基本的には2つの異なる人口政策 (3)が行われた。 第一の
政策は、 続々と起こった戦争の結果もたらされた人口減少に歯止めをかけ、 人口の増加を図る
政策であった。 このねらいに対応する公衆衛生に関する法律第 1593 号では、 人口増加の奨励
に関する規定がなされた。 更に 1926 年施行のトルコ共和国刑法では、 人工的、 医学的妊娠中
絶を禁止した。 1936 年、 本刑法は改正され、 不妊 (断種) と避妊の処置が禁止された。 この
政策方針は子だくさんを奨励する教育とも関連しつつ 1965 年まで継続した。
第二の政策方針は、 1963 年開始の計画的発展の結果として打ち出された。 この政策は 1965
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年の人口計画に関する法律第 557 号の採択により明確となった。 本法律に規定される人口計画
は、 個々人は望む時にいつでも、 望むだけの子供を持つことを重視している。 この新しい法律
により子だくさんを奨励する法律第 1593 号の条項は無効となり、 避妊・中絶のための器具や
処置方法は合法となった。 その後 1983 年には、 法律第 557 号は法律第 2827 号と置き換えられ、
人口計画におけるいっそう自由で幅広いサービスが認められることとなった。 人口計画にかか
わりのある教育・訓練は、 この新しい政策方針の実施を意図する政策の中で重要な位置を占め
ている。
法律第 2827 号の第2条では、 国は人口計画に関する教育・訓練を確実にするための適切な
方法を講ずる責任があることを規定している。 同法第3条によると、 人口計画に関する教育・
訓練は施行法に基づいて全ての関連諸組織が実施しなければならない。 それは、 保健省の調整
的役割の下に、 教育省その他関連団体の参加によって準備されなければならないとされている。
法律第 509 号の人口計画・サービス施行法では、 そうした教育・訓練とサービスは、 フォーマ
ルとノン・フォーマルの2グループに分けられる。 前者のフォーマルな教育・訓練とは初等・
中等・高等教育機関及び保健関連職員養成学校、 医学校における人口計画教育である。 後者の
それは保健省母子保健・家族計画総局が行う全国規模の各種プログラムと各県の保健局長、 母
子保健・家族計画長が県レベルで実施する教育・訓練である。 教育省所管のノン・フォーマル
教育機関もこれにかかわりを持つ。
(2) 人口増加の抑制に向けて
1923 年のトルコ共和国成立後のほぼ 40 年間、 政府は人口増加を奨励した。 避妊の実施と避
妊法に関する情報流布は法律で禁止され、 国は家族規模拡大を奨励する経済支援を行った。 し
かし、 1950 年代、 政治エリート達はほぼ3%という相対的に高い人口増加率が国の経済発展
を妨げることに徐々に関心を示すようになった。 1960 年5月の軍事政変後、 人口計画は主要
な政府目的の一つとなった。 「1965 年家族計画法」 は保健・社会援助省内に家族計画局の設置
を規定し、 できるだけ多くのカップルに産児制限に関する情報とサービスを拡大させようとし
た。
「1967 年法」 は中絶を合法とし、 広範囲の医学的理由から中絶処置が正当化された。 中絶は
1983 年の法令により更に自由化され、 妊娠後 10 週間迄は要請があれば公立病院で法的に中絶
できると規定している。 中絶を望む既婚女性は夫の了解を得ること等が必要である。
家族計画サービスは 1960 年代半ば以降かなり拡大した。 出産制限と出産間隔を置くことは
物質上、 健康上の利点があることについてカップルを教育することが強調された。 保健省は
1978 年国際会議の PHC (Primary Health Care) 勧告を導入した。 それは、 家族計画が母子保
健サービスと連携し、 都市と地方の国立病院、 産婦人科病院、 保健センター、 クリニックの協
力の下に実施されるとする勧告である。 家族計画に関する公教育の支援に加えて、 保健省はボ
ランティア団体や国際組織の協力を呼びかけて、 家族計画プログラムを促進させようとした。
しかし、 小規模家族を奨励する政府の努力にも拘わらず、 1965 年と 1994 年の間のトルコの出
生率はかなりスローペースで減少し、 人口 1,000 人当たりの出生率は 33 から 28 に落ちたのみ
である。
持続する高い出生率に対する関心が集まり、 1986 年、 保健省は出産率が最高の地域に対す
る集中的な新しい人口抑制キャンペーンを開始した。 キャンーペーンには、 新しい保健クリニッ
クの建設、 家族計画相談の医療専門家を訓練するセンターの拡大、 工場における産児制限に関
する情報・教材の配布に当たっての民間部門の協力も含まれる。 民間企業はトルコ家族保健・
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計画財団を設立し、 専門訓練プログラムと全国的テレビ広告のための財政援助を通じて、 1986
年以来、 国の人口抑制の努力を支援している。
宗教は産児制限の障害になっていない。 トルコのスンニ派ムスリムの指導者達は宗教的刊行
物の中で産児制限について、 イスラムは既婚カップルが出産間隔を配慮したり、 家族規模を制
限することを禁止していないと述べる。 産児制限手段の行使は宗教的書物の中では一般的に強
調されてはいない。 しかし、 1990 年代初期、 産児制限の手段として避妊や中絶に訴えること
はイスラムの下では容認されないとする考えが宗教指導者の間で合意があるらしい。
生活 ∼ 都市、 町、 村 ∼
(1) 都市の生活
トルコの人口 (1995 年) の凡そ3分の2は急速に増加を辿る都市部で生活する。 都市化、
工業化は全ての大都市 (人口 10 万以上) と大部分の都市 (人口2∼10 万) における社会階層
構造の醸成に役立った。 行政官吏、 裕福なビジネスマン、 専門職は都市の上層階級を構成する。
都市のビジネスエリートは多様であり、 一般に実業家、 金融業者、 大商人、 卸売業者、 不動産
開発業者、 建築会社オーナー、 運輸会社経営者、 アンカラとイスタンブルの出版・放送会社オー
ナー等を含む。 ビジネスエリートは上層階級の最大構成要員であり、 政府による民間投資家、
事業者奨励の結果として、 1980 年代初期以降、 拡大している。 しかし、 トルコでは個人収入
に関する統計は不完全で信頼できないため、 上層階級の構成要員の正確な測定方法は存在しな
い。 政治権力と教育は従来から重要であり、 1980 年の政変以前から上層階級の地位のための
資格である。 上層階級は都市の全人口の約 10%を構成する。
都市の中間階層は上層階級よりも大規模かつ多様である。 役人、 中間レベルの官僚、 公務員、
大卒資格のないエンジニア、 ジャーナリストと著述家、 企業・商売・社会事業の経営者、 小規
模小売店・レストラン所有者、 技術者、 自営の職人、 専門職、 商人等のいろいろなタイプが含
まれる。 教育とくに大卒は中間階層参入への鍵を握る。 中間階層は 1980 年代初期に拡大した
が、 その殆どは頑固な高いインフレに脅かされ、 蓄えを台なしにしたり、 上層への社会移動を
妨げられてきた。 1995 年、 中間階層は都市部の全人口の 20∼25%を構成すると推定される。
繁栄する都市ではその割合はより大きく、 経済的に不景気な地域ではより小さい。
1950 年以降、 都市の増大化は低階層の村人達の大規模な移住をもたらした。 1995 年、 トル
コの都市人口の 60%強は下層階級に属する。 仕事を求めて都市にやって来る殆どの村人は適
当な住まいを見つけることが出来ない。 そこで、 彼らはアンカラ、 イスタンブル、 その他の大
都市郊外の未開発の土地に一時的な仮住まいを建てる。 こうした不法占拠居留地であるゲジェ
コンド (gecekondu = 一夜づくりの不許可の建物、 急ごしらえで寄せ集めの建物) はしばらく
して永久的な近隣社会となるが、 水道、 電気、 舗装道路等の都市設備を欠いたままである。 結
果的に都市に組み込まれ、 電気使用が可能となるゲジェコンドも存在する。 1980 年迄に、 ア
ンカラ、 アダナ、 ブルサ、 イスタンブル、 イズミールの住民の 60%以上は新しいゲジェコン
ドないしゲジェコンドから始まった都市部近隣社会で生活する。 1970 年代、 調査研究者達は
政府基金による研究機関と提携して、 拡張するゲジェコンドを地方からの移住者の都市環境へ
の適応を助長促進する居留地として把握しようとした。 実際には、 そうした近隣社会は全て、
都市のスラムであり、 そこでは貧困と貧困にかかわる社会的疾病が 1990 年代半ばに広がった。
民間製造業や国営企業への就労は、 安定した雇用と賃金の故に下層階級の人々の典型的目標
である。 産業労働者はグループの一体感と連帯感という長い伝統を持つ。 全産業労働者の 79
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%以上が組合員であった 1975 年迄は、 労働指導者は労働者の権利を擁護する法律の故に政治
的影響力を行使することができた。 こうした状況は 1980 年の政変後は劇的に変化した。 軍事
政府は労働組合の強制的解散、 著名な労働指導者の逮捕、 ストライキの禁止を行った。 その後、
組合が政府の指導監督下にあることを確保するために、 オザール (Turgut Özal) の文民政府
は商人・職人ギルドの形成を奨励した。 しかし、 1995 年迄にこうしたギルドは全労働勢力の
僅か 10%しか代表せず、 以前の組合のような政治的影響力を欠如させた。
軍事政変後の経済的、 政治的不安定が支配する状況下で、 幾つかの工場は生産を中止した。
数千人の労働者の即時失業と収入ストップを意味する状況であった。 文民支配の回復後でさえ、
下層階級の経済条件は改善されなかった。 1980 年代、 ゲジェコンドに住む 25%以上の成人男
子は失業していた。 1990 年代前半、 産業未雇用のレベルは 10∼11%のままであった。 産業労
働に対する過剰供給は賃金下落傾向を助長した。
都市では産業労働よりも非産業労働が多い。 下層階級の都市の家族の3分の2は暮らしのた
めに非産業・非熟練労働に依存する。 そうした仕事には、 職工、 自動車整備工、 レンガ職、 肉
屋、 大工職、 配達、 バス・タクシー運転、 芸人、 パン屋、 クリーニング屋、 工具店、 造船職人、
家屋修理塗装、 公衆浴場床屋・美容院・個々の家の個人サービス、 小売雑貨店経営、 ホテル・
研究機関・役所・レストラン等でのサービス業務、 通りの清掃・維持管理、 行商、 家での織物、
輸送運搬等が含まれる。
(2) 町の生活
大小の都市に加えて、 トルコには公式に町として分類される半ば都会的な場所がある。 町
(kasaba) は人口 2,000∼20,000 人の定住集落として定義される。 一般に町はその地域に基礎的
な経済的、 政治的サービスを提供する。 規模の大きい町の社会構造は都市のそれと相似する。
政府の行政家、 軍人、 若干の富裕な地主・商人・専門職の家族から構成されるエリート層、 役
人・商人・小売店主・兵士・教師から成る中産階級、 職工や多様な種類の労働者から成る下層
階級が存在する。 これらの多様な職業集団のいくつかは小規模の町には存在しない。
伝統的に、 町のエリートの地位は裕福な家系の家族が継承する。 政治的、 経済的影響力は、
町を運営するために政府から送り込まれたオスマン帝国時代の役人と結婚した地方の地主の家
族が数世代にわたって行使する。 しかし、 1920∼1930 年代にアタチュルクによって導入され
た政策は殆どの町のエリート構成を変化させた。 適応出来ない又は適応したくない家族は影響
力と権力を失った。 一方、 新しい価値を取り入れた家族は継続して地方の影響力を行使した。
1960 年代以降、 伝統的土地所有エリートのうちの教育を受けた子孫達は、 行政家、 町長、 医
者、 法律家、 裁判官、 商人や近代的農場の技術・ビシネスの実践を取り入れた大規模地主等に
なった。 これらの人々は政党の地方ヒエラルキーにおいて指導性を発揮している。
(3) 村の生活
1950 年代初期迄、 トルコの住民の 80%以上は 36,000 を数える村に住んでいた。 政府の定義
によれば、 村 (köy) とは 2,000 名以下の人口を抱える集落である。 トルコの地方の人口は増
加し続けたが、 村に住む全人口の割合は地方から都市への移住の結果として減少した。 1970
年、 人口の約 67 %が村に住んだ。 1975 年にはその割合は 59 %に下降した。 1980 年には猶も
54 %が村に住んだが、 1985 年迄にはついに都市部の人口の方が多くなった。 1995 年には 35
%しか村に住まなくなった。
1950 年以降、 農業は絶えず機械化されるようになった。 こうした傾向は土地保有形態と農
村社会に影響を及ぼした。 小規模土地所有者と土地を持たない家族は一般的にこうした変化の
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恩恵を受けず、 結果的に都市に移住することとなる地方在住者であった。 これとは対照的に、
大規模土地所有者は新しい農業方法から利益を得て、 収穫を増やし、 増加した富を産業投資し
た。 1980 年代初期迄に、 土地所有者、 農業労働者、 借地人の間の人的、 物納的関係は新しい
非人格的な賃金関係に置き換わった。 こうした展開は土地所有者に対する不満を持つ稼ぎ手に
農業賃金を促進し、 町の労働組合ないし労働者志向グループから支援救援を得ようとした。
1990 年代、 殆どの家庭が核家族構成となる傾向があるにも拘わらず、 拡大家族のつながり
は農村社会における最も重要な社会単位である。 拡大家族は村では決定的な経済的機能を果た
し、 農機具、 労働、 現金収入に関するインフォーマルな調整を通じて、 繋がりのある家庭間の
協力関係を促進する。 拡大家族は又、 拡大家族の構成要素である核家族の一つが経済的、 政治
的、 社会的危機に直面すると、 支援・援助を行うことが期待されている。 拡大家族は父、 既婚
の大人の息子、 その子供達と妻から構成されるが、 通常は一人の男性の祖先の家系を受け継ぐ
一人又は複数の年長男性が支配する数世代を包含する広い概念である。 この意味から、 拡大家
族は家父長制家族である。 そうした血縁集団は慣習や法律における統合的全体性のような地位
を欠くものの、 明瞭な家族メンバーの権利、 義務における重要な役割を持つ。 一定の地域内の
村には重要な類似性が見られる。 地域間の違いも見られる。 この意味から、 3つの明白な地理
的地域間、 つまりアナトリア地方、 海岸地域、 トルコ南東部では村の違いを見ることが出来る。
従って村の生活を把握するためには、 3つの地域に分けて、 それぞれの生活実態を明らかにす
る必要がある。
教
育
現代のトルコの教育システムの礎は 1924 年に制定された。 アタチュルクが宗教学校を閉鎖
して新しい世俗学校を設立し、 義務制の初等学校をスタートさせた年である。 その後多くの年
月を費やして、 トルコは男女共学の初等普通教育を施すための教育の基盤整備を行ってきた。
1980 年代以降は6∼10 歳の年齢の殆ど全ての子供が就学する。 識字 (リテラシー) に関する
1990 年のデータによれば、 トルコの成人の識字率は 81%である。 この統計数値は 15 歳以上の
男性では 90%、 同一年齢女性では 71%と変化する。
公教育システムには、 5段階の学校、 つまり就学前学校、 小学校、 中学校、 高等学校、 大学
がある。 1953 年制定の非義務制の就学前教育では4∼6歳の子供に教育が施される。 就学前
教育の要求は限られている。 親は家庭外の施設に幼児の教育を委ねることを好まないからであ
る。 しかし、 就学前教育は大都市ではごく普通となり、 1980 年代以降、 人気が高まった。 就
学前教育の施設数は増加している。
小学校は男女共学の義務制であり、 6∼11 歳の5年制である。 全国の約 46,000 校を数える
小学校への就学率は 1994∼95 学年度で 97%である。 教育行政官によれば、 就学は都市部より
地方農村部で低い。 農村部の親は年長の子供、 とりわけ年長の女子を家庭に留める傾向にある。
12∼14 歳の3年制中学校も男女共学で、 1972 年以降は義務制である。 しかし、 当局は中学
校就学を一般に強制しない。 特に地方ではそうである。 地方では中学校数そのものが不十分の
ため、 多くの生徒は長距離通学をしなければならない。 教育省は中学校就学に関するデータを
公表していないが、 全体的に就学率は当該年齢の 60%を越えないとされる。 より高率の就学
奨励のために、 1983 年法では 14 歳以下の若者の雇用を禁止した。 中学校卒業は普通高校、 職
業高校、 技術高校進学の必要条件であり、 多くの職業訓練プログラムへの入学に有利とされて
いる。
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第
号(人文・社会編)
中等学校は義務教育ではないが、 全国の約 1,300 校の公立高校は無償である。 教育省が高校
を管轄する。 高校はリセ (普通高校) と職業高校に分かれる。 リセは男女共学で、 3年間の大
学準備教育が行われる。 大都市のリセの数校はバイリンガルであり、 トルコ語クラスと英語、
フランス語、 ドイツ語クラスでの授業が行われる。 12 校のリセは3つの少数民族のアルメニ
ア人、 ギリシャ人、 ユダヤ人の生徒向けであり、 幾つかの教科ではアルメニア語、 ギリシャ語
による授業が行われる。 一方、 職業高校の多くは4年制である。 職業高校には男子の技術訓練
校、 女子の家政学校、 教員養成学校、 保健看護学校、 商業学校、 農業学校、 ムスリム導師養成
学校、 その他の専門施設が含まれる。 ムスリム導師養成学校は imamu hatip okullar1 と呼ばれ、
1970 年代以降、急激に拡大した。 宗教科目を重視する以外は、 ムスリム導師養成学校のカリキュ
ラムは職業高校よりもリセのそれに類似する。
高等教育は数百機関を数え、 それには専門学校、 アカデミー、 研究所、 芸術学校も含まれる。
主要なものは 34 校の国立大学 (Istanbul Univ. Istanbul Tech.Univ. Ankara Univ. Karadeniz
∨
Tech.Univ. Ege Univ. Atatürk Univ. Middle East Tech.Univ. Hacettepe Univ. Boagiçi Univ. Dicle
Univ. Anadolu Univ. Çukurova Univ. Cumhuriyet Univ. Inönü Univ. Firat Univ. Ondokuz May1s
∨
Univ. Selçuk Univ. Uludag Univ. Erciyes Univ. Akdeniz Univ. Dokuz Eylül Univ. Gazi Univ.
Marmara Univ. Mimar Sinan Univ. Trakya Univ. Y1ld1z Univ. Yüzüncü Y1l Univ. Gaziantep
Univ. Adnan Menderes Univ. Canakkale Onsekiz Mart Univ. Mustafa Kemal Univ. Sakarya Univ.
Gaziosmanpasa Univ. Pamukkale Univ.)(4) であり、 1993∼94 学年度で 45 万人強が在学した。
1980 年代半ば、 オザール首相在任中に政府はトルコで初めての私立大学としてアンカラのビ
ルケント大学 (Bilkent Univ.) を認可した (その後、 イスタンブルに私立大学 Kadir Has Univ.
Koç Univ.等も誕生している)。 1946 年法はトルコの大学に大学の自律性 (academic autonomy)
を与えた。 しかし、 1980 年の軍事政変、とりわけ 1981 年の高等教育法成立以降、 政府の政策
は大学問題への広範な政府介入を制度化した。 軍事指導者達の考えによれば、 大学は彼等が嫌
う政治思想の中心であり、 トルコの安定維持に有害なものと映った。 彼等は 1981 年の高等教
育法と 1982 年憲法の関連条項に基づき、 大学のしくみとカリキュラムの改変を導入しようと
した。 例えば、 憲法の規定によれば、 大統領は学長の任命、 新しい大学を創立するための政府
権限の確立、 高等教育審議会 (YÖK=Yuksek Ögretim Kurumu) への職務割り当てを行う。 高
等教育法は全ての教師と在学生に政党への所属と政党活動を禁止し、 全ての大学で標準カリキュ
ラムを必要条件とする。
YÖK のメンバーは 27 人であり、そのうち8人は大統領による直接任命、 8人は大学連合協
議会、 6人は閣僚会議、 2人は教育省、 1人は軍事参謀本部により任命される。 YÖK の議長
は大統領が任命する。 YÖK の権限には、 学長、 学部長、 教授の推薦又は任命、 学生の選抜と
割り当て、 新しい大学創設の企画計画が含まれる。 YÖK は或る大学から他の大学への学部メ
ンバーの人事異動の権限も持つ。 YÖK は 1980 年以前には大学規則を制定する権限を持った学
部評議会を巧妙に弱体化させ、 それを単なる指導助言団体とした。
教育は社会的上昇移動の重要手段として機能してきた。 少なくとも 1975 年以降は、 毎年の
大学入学志願者数は合格受け入れ数を大きく上回った。 入学適格となるためには、 志願者は全
国共通大学入学試験に合格しなければならないが、 それは学生選抜・配置センター (The
Center for Selection and Placement of Students) が企画、 運営、 採点を行う。 1990 年代初期は
毎年 10 万人以上の志願者が入試を受験した。 得点は複雑なシステムに基づき、 合格者数は有
効受け入れ総数を確実に越えないしくみとなっている。 たとえ志願者に入学資格があるとして
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現代トルコの基礎理解
も、 個々の実際の得点によって、 志願者の選択する学科で学ぶか第二志望の学科を受け入れる
かどうかが決まる。
以上に述べた5つのレベルの教育に加えて、 障害を持つ子供のための特殊教育や広範な成人
教育、 職業プログラムも存在する。 労働専門家はトルコの高い失業率の一要因として未熟練技
能をしばしば引き合いに出す (トルコでは技術教育、 職業教育の充実が課題の一つとされてい
る)。 1990 年代初期の年間平均失業率は 10%である。 1995 年の都市失業者の半分が小学校を
卒業しているに過ぎない。 推定 40%の子供が初等教育をドロップアウトした。 1980 年以降、
教育省は特に女性、 都市部ゲジェコンドの住民、 農業労働者に力点を置いた 14∼44 歳人口を
狙いとする識字キャンペーンを実施している。 教育省は教育水準アップのために小学校、 中学
校、 高校相当のプラグラム・コースも提供している。 更に、 徒弟訓練・ノンフォーマル教育局
を通じて、 教育省は必要な技能を持たない人々にノンフォーマル職業訓練を提供している。 学
校をドロップアウトした者、 季節農業労働者、 都市のインフォーマル部門の人々に対する職業
訓練である。
世界銀行 (World Bank) は 1970 年代初期以降、 工業訓練プログラムへの資金提供を行って
いる。 世界銀行はノンフォーマル職業訓練プログラムへの主な資金提供機関である。 これらの
プログラムは、 フォーマル教育システムからの供給を越える技能職員の提供のために企画され
た。 フォーマル教育システムからは、 1995 年の技能労働者、半技能労働者に対する推定工業需
要のうち 86%が供給されている。 政府の計画はノンフォーマル職業訓練システムの拡張のた
め の も の で あ り 、 更 に 65 万 人 が 雇 用 関 連 職 業 に 就 く こ と が 予 測 さ れ て い る 。 そ れ に は
1994∼95 年の工業技能において訓練された 15 万人が含まれる。 政府のプログラムはトルコ東
部のような開発の遅れた地域における技能教育の質と有効性を改善することが期待されている
が、 1991 年以来の当地域での激しい戦闘のため職業訓練は効果を上げていない。
保健・福祉
1990 年代の保健・看護とそれに関連する社会福祉活動は保健省の管轄下にある。 法律によっ
て保健省の仕事が方向づけられ、 医療看護、 予防保健事業、 保健職員訓練等を行うよう保健省
に権限が与えられている。 保健省は有効なサービス前・サービス中訓練を行い、 病院その他の
保健看護センターの設立と運営、 医薬品価格の制定、 医薬品生産と薬局の統制を行う。
1990 年代半ばの保健看護の有効性はその 20 年前よりはるかに改善されたが、 質については
まだまだの状態である。 医療施設は都市や大きな町に集中し、 殆どの地方では適切な医療看護
にアクセスすることが困難である。 こうした状況はとりわけ東部アナトリアにおいて厳しく、
そこでの医療看護は一般的に県庁所在地においてのみ有効である。 公務員の医者に支給される
給与は開業医の稼ぎと比較して低い。 結果的に、 殆どのトルコの医者はより開発された都市部
中心で働きたがるか、 移住さえする。
住民に対する医者の数の比率は相当に改善されてきている。 1965 年は 2,860 人に1人の医者
の割合であったのが 1976 年には 1,755 人、 1985 年には 1,391 人となり、 1995 年には 1,200 と
推計されている。 1977 年から 1995 に保健看護施設 (病院、 保健センター、 クリニック、 診療
所) 総数は 7,994 から 12,000 施設に増加した。 同時に、 有効病院ベッド数も人口増加率より速
い速度で増加した。 1995 年の場合、 400 人に1ベッドの割合である。
トルコは様々な知的・身体的障害の統御と主要感染症の治療を進歩させた。 はしか、 百日ぜ
き、 腸チフス、 ジフテリアの発症率は 1969∼1994 年の間に劇的に減少した。 都市部、 地方に
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名古屋女子大学紀要
第
号(人文・社会編)
おける飲料水の利便確保は水による感染症とりわけ乳幼児のジフテリアの減少をもたらした。
1980 年の出生児 1000 人につき 120 人という乳幼児死亡率は世界で最高位に位置したが、 1992
年には 55 人へと減少した。 しかし、 ヨーロッパの標準と比較して今なお非常に高率であり、
隣国ギリシャの乳幼児死亡率9人と比べて6倍の高さである。
トルコは 1994 年9月期までのエイズ患者数を世界保健機構 (WHO) に 16 例と報告した。
人口 10 万人当たりのエイズ罹患率は 1992 年、 1993 年ともに 0.1 であり、 患者数としては
1992 年に 29 例、 1993 年に 30 例と報告されている。
1990 年初期における最も重要な社会保険プランは、 国家公務員退職基金、 社会保険機構、
自営業者向け社会保険機構であった。 1995 年、 労働人口の少なくとも 15%がこの3大社会保
険システムのいずれかに加入した。 労働人口は多いが加入率の低い農業部門を除外すれば、 こ
の比率は 40%に拡大する。 農業労働者の1%は 1995 年の社会保険システムに加入している。
政府は少なくとも 10 年間、 農業労働者の加入増加に力を入れている。 雇用者は労働障害、 職
業病、 出産休暇を含む保険料を手当する。 雇用者、 被雇用者ともに病気、 障害、 退職、 死亡給
付のために一定割合の保険料を拠出する。 かくして、 これらの事例に見られる如く、 トルコは
社会経済、 教育、 保健、 社会保険等の諸課題へのヨーロッパ水準化を目ざし、 EU 加盟のため
の基盤整備を図ろうとしている。
おわりに
1990 年代初期の 「トルコとの出会い」 を契機として、 筆者はトルコの人口と教育にかかわ
る継続研究の足跡を本紀要に掲載してきた。 都市部ではなく、 トルコの地方農村部の人々の生
活に対する研究関心から、 ここ一両年はアナトリア地方の村落デミルジレール (Demirciler)
村(5)とギョクレル(Gökler)村(6)の実態について究明を試みた。 前者は人類学研究者の J.E.ピアー
ス、 後者は C.デラニーが当該村落に実際に在住し、 そのフィールドワークの成果をまとめた
著書を土台とする究明である。 村の人々の生活実態を何故事例研究対象としたかについては、
トルコにおける教育と人口をめぐる問題は地方の村々にこそ典型的に顕在化すると考えたから
である。
トルコでは、 村の自給自足的な従来からの生活維持の暮らしと生業は徐々に崩壊し、 市場原
理に基づく余剰農産物の生産システムが進行しつつある。 地方から都市部への人口移動が著し
く、 トルコ全体が農業社会から都市化社会への変貌過程にあることが分かってきた。 そこで、
次の課題としては、 地方の村々ではなく都市生活あるいは都市部にかかわる教育と人口の問題
について研究を進めたいと考えた。 しかし、 このテーマをうまく進める方法が今のところまだ
見つかっていない。 そのための文献・資料もまとまったものがない。 そんな訳で、 今回は、 都
市部を含むトルコ全体について、 現代的状況を俯瞰することとした。 人口、 移住、 人口政策、
生活 (都市、 町、 村)、 教育、 保健・福祉にかかわって、 トルコの社会状況全体の俯瞰を試み
た次第である。
今後は、 何らかの形でトルコの都市の人々の生活と人口、 教育にかかわる問題、 課題につい
て研究したいと考えている。
注
(1) 「世界人口白書 2000 ∼ 男女共生と見えない格差・変革の時∼」
Fund) 2000 年
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UNFPA (United Nations Population
現代トルコの基礎理解
(2)“TURKEY ∼ A Country Study 1996 ∼”Area Handbook Series, Library of Congress, Cataloging-inPublication Data
1996 年
(3)“Population Education and Development in Turkey”State Institute of Statistics, Printing Division Ankara,
1993 年
(4) 拙稿 「20 世紀後半におけるトルコ共和国の大学改革の軌跡」 名古屋女子大学紀要 (人文・社会編) 第
44 号 1998 年
(5) 拙稿 「1960 年代初期のトルコの村の生活」 名古屋女子大学紀要 (人文・社会編) 第 45 号 1999 年
(6) 拙稿 「1980 年代初期のトルコの村の内外 ∼ 中部アナトリアのギョクレル村を事例として ∼ 」 名古
屋女子大学紀要 (人文・社会編) 第 46 号 2000 年
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