第 120 号 - 天理教一れつ会

第 120 号
いちれつ会報 第 120 号
目次
1
創立 83 周年記念式(平成 23 年 10 月 16 日)
理事長挨拶
思召に添う努力を
田中信行
理事長
3 扶育生感話 天理中学校森井喜美 『詰所の生活』
天理教校学園高等学校 石井勝也 『おかん』
天理高等学校第一部 大野柚依 『私を成長させてくれた場所』
『人生のターニングポイント』
天理大学 仲野大吾
10
知ることは人生を豊かに
12
いちれつ会報第 120 号発行記念
いちれつ会報の歴史 14
未来への道しるべ
扶育願い出の初心に返って
15
永尾教昭
理事
今西國直
評議員
出身者インタビュー
布教師として歩む
北嶋正直
18
扶育生座談会
将来に向けてのこころづくり
浅田宗助/坂本かねよ/田中満陽/渡邊洋
22
活動報告
扶育生のつどい in TOKYO
扶育生のつどい開催にあたって
扶育生のつどい開催の意義
吉川万寿彦
宮内泰夫
25
しんなんとう
感謝すべきことは
平成 22 年度卒業扶育生統計/平成 23 年度在学扶育生統計
井久保斉
陽心寮主任
26 記録
いちれつ会報在学生版第 120 号
発行
印刷
立教 174 年 11 月 26 日
財団法人天理教一れつ会
天理時報社
一れつ会創立八十三周年記念式
理事長挨拶
けの有為なようぼく、人材に育ってくれるこ
とを念じて、おつとめをつとめさせていただ
きました。
二代真柱様が一れつ会を創設してくださっ
たその思いは、布教一すじに通る親が子ども
頂かれたお祝い金のすべてを基金として「天
寄付金、一れつ会で扶育を受けた人々の真心、
での喜びごと、悲しみごとに際しての真実の
ことを、常にお考えになっておられた二代真 この二代真柱様の思い、一れつ会の趣旨に
柱様は、昭和三年十月十八日のご結婚に際し、 賛同してくださる大勢の方々が、教会や家庭
ご承知のように、教内の子弟の教育という
教会本部からお下げ頂く回付金、これも信者
思召に添う努力を
の教育(特に基礎的判断を培う時期の学校教
育)に心配することなく布教に専念できるよ
うに、またその子どもも親同様に陽気ぐらし
理教いちれつ会(現在の財団法人天理教一れ
さん方の真実のお供えであります。これらを
田 中 信 行
皆さん、おはようございます。
つ会)」を創設くださいました。その日を創立
理事長 世界建設のようぼくに育ってもらいたい、と
本日は、天理教一れつ会の創立八十三周年
記念式に朝早くからお集まりいただき、誠に
記念日としておりますが、一れつ会扶育生の
もって扶育を推し進めさせていただいている
いうのが創設の目的であります。
ありがとうございます。
皆さん方が一同に会せるように、日にちを繰
いているということを忘れてはなりません。
そ のよう に、 皆さん 方 は、多く の人 々の真
実 に よって、 今、 学生生 活 を送ら せて いただ
り上げて、今日十六日、日曜日でありますが、 のです。
わざわざお集まりいただいたのであります。
先程は、全国二千八百十八人の扶育生を代
表 し て、 親 里 に 学 ぶ 皆 さ ん と、 世 話 取 り に 当
たってくださっている担当委員の方々と共に、 創立五十周年の折、前真柱様は次のように
仰せくださっています。
神殿でお礼の参拝をさせていただきました。
会が親の望まれる姿へとご守護いただけます
教 祖、 祖 霊 様 に 申 し 上 げ、 こ れ か ら も 一 れ つ
と い う も の は 付 き 物 で あ り ま す。 苦 労 と
たとえどんな道を選んでも人生には苦労
める人になってほしい。一人前になって、
「応分の教育を受けさせて頂く子供たちが
日ごろ学業に専念させていただき、健康に 成 長 し た 暁 に は、 自 分 か ら 進 ん で 道 を 弘
お連れ通りいただけることへの御礼を親神様、
よ う に、 ま た、 扶 育 生 の 皆 さ ん が、 世 界 た す
1
恩返しの道を通ってもらいたいというこ
言う恩返しをしてもらいたいということ、
る よ う な 人 間 に な る こ と で あ っ て、 私 の
「しっかり学業生活を無駄にしないように
修 め て、 や が て は 大 勢 の 真 実 に 応 え ら れ
しい、と望まれています。
も、道の上のご用につながるようになってほ
く人もおられると思います。何をするにして
大半がこの道に専心される方でありましょ
う。 ま た、 自 分 の 能 力 を 活 か し て、 仕 事 に 就
い。」と。
じ苦労をするなら道の上で苦労してほし
な い こ の 道。 広 い 時 も あ る。 せ ま い 時 も
し か 歩 め な い、 二 度 と 歩 め ぬ か け が え の
い が、 ほ か の 人 に は 歩 め な い。 自 分 だ け
『自分には自分に与えられた道がある。天
与 の 尊 い 道 が あ る。 ど ん な 道 か は 知 ら な
その松下氏の人間観が託された象徴的な
エッセイを紹介したいと思います。
いいます。
が氏の経営理念に少なからぬ影響を与えたと
んに励む姿に強く心を打たれ、その時の印象
景や、大勢の教友たちが喜び勇んでひのきし
す。その際、「昭和普請」に沸き立つ親里の光
人の誘いを受けて、初めて親里を訪れていま
松下氏と本教の関わりは昭和七年三月にさ
か の ぼ り ま す。 氏 は、 本 教 の 信 者 で あ っ た 知
の言葉で訴えかけたものであります。
み ず からの 運 命を知 り、 そして、 その 運命
を生かし立命する。その大切さを松下氏なり
ばならぬ。
ま ね ば な ら ぬ。 心 を 定 め、 懸 命 に 歩 ま ね
ら け な い。 道 を ひ ら く た め に は、 ま ず 歩
他 人 の 道 に 心 を う ば わ れ、 思 案 に く れ
て 立 ち す く ん で い て も、 道 は す こ し も ひ
けてくる。深い喜びも生まれてくる。』
ある。のぼりもあればくだりもある。坦々
という字に横棒を一本引っ張りますと、〝幸〟
人生には苦労はつきものです。立に十と書
いて〝辛〟(つらい)と読みますが、その辛い
◇
と し た 時 も あ れ ば、 か き わ け か き わ け 汗
(しあわせ)という字になります。「千里の道
い う も の は 付 き 物 で あ る が 故 に、 お ん な
と は、 そ の 点 で あ る と い う こ と を よ く 考
それがたとえ遠い道のように思えても、
休まず歩む姿からは必ず新たな道がひら
えて頂きたいのであります。」
とお話しくだされ、また、
するときもある。
め た く な る 時 も あ ろ う。 し か し、 所 詮 は
深い喜びも生まれてくるのです。
休 ま ず に 歩 い て い く と こ ろ に 運 命 が 開 け て、
こ の 道 が 果 た し て よ い の か 悪 い の か、 も一歩から」ともあるように、お互い陽気ぐ
思 案 に あ ま る 時 も あ ろ う。 な ぐ さ め を 求 らしという大きな目標に向かって、一歩一歩
「教えにふさわしい人間になる努力を重ね
て、陽気ぐらしの働きに有能な人材になっ
て頂きたい。」
とも、お述べくださっているのです。
この道しかないのではないか。
と押し上げ、「経営の神様」と称された松下電
皆さん方は、若くして起業(新しく事業を
起こすこと)し、一代で世界有数の大企業へ
な い か。 自 分 だ け に 与 え ら れ て い る か け
る。 自 分 だ け し か 歩 め な い 大 事 な 道 で は
ともかくもこの道を休まず歩むことであ
以上で、私の挨拶とさせていただきます。
しょう。
えるよう、努力を積み重ねさせていただきま
◇
器産業(現パナソニック)の創業者・松下幸
がえのないこの道ではないか。
あきらめろと言うのではない。いま立っ 扶育生に対する前真柱様のお言葉をしっか
て い る こ の 道、 い ま 歩 ん で い る こ の 道、 り胸 に 治めて、 そ れぞれ の 立場で、 思召 に添
之助氏をご存知でありましょう。
2
一れつ会創立 83 周年記念式
扶育生感話
詰所の生活
天理中学校 三年
森井 喜美
天理教校学園高等学校 3 年
石井 勝也
天理高等学校第一部 3 年
大野 柚依
天理大学 4 年
仲野 大吾
ば、父母がことあるごとに、「ありがたいなぁ」
「もっ
たいないなぁ」と言っていたのを思い出します。
何よりおぢばが近くにあり、本通りは近いので、
何でも欲しいものが揃っています。雨の日でも屋根
がついているので、行き帰りの通学もとても便利で
す。食事は、炊事本部の配食をいただいています。
カロリーが計算されていて、メニューも豊富です。
教祖もお初を召し上がっておられると聞かせていた
私は、生後四ヵ月から現在に至るまでずっと詰所
で生活をさせていただいています。なぜなら両親が
いです。浴場は三ヵ所あり、西左棟は、高知、中河、
泉に入れていただいているようでとても気持ちがい
守なのでギリギリに入ると忙しいです。でも毎日温
森井喜美
十五年前、私たち兄弟を連れて詰所勤務をすること
夫がされています。以前は、三ヵ所のお風呂をそれ
になったからです。
ぞれに沸かしていましたが、現在はお互いに協力し
おやさとやかたについて書いてある本で調べてみ
ると、この「おやさとやかた」は、教祖の「屋敷の
合って、毎日一ヵ所のお風呂だけを当番制で沸かす
中は、八町四方と成るのやで」とのお言葉に基づい
ことにより、燃料費と水道代が大幅に削減でき、省
て、ぢば、かんろだいを取り囲む東西南北の八町四
エネを実現しています。
だき、好き嫌いなど言っていられないと思いました。
方の線上に、計六十八棟のおやさとやかたを立て巡
郡 山 詰 所 が 連 な っ て い て、 お 風 呂 を 沸 か す の に 工
お風呂は地下にある大浴場に入っています。時間厳
らす構想のもと建築が進められているそうです。
その理念には、親神様、教祖の待ち望まれる陽気
ぐらしの世界の実現に向け、まず親里に陽気ぐらし
のひながたを実現しようというものだそうです。昭
和三十年(一九五五年)以来、これまでに二十六棟
が竣工し、別席場をはじめ、天理小学校、天理教校、
天理大学、修養科、よろづ相談所病院憩の家など、
さまざまな目的に使われています。
そして、私の住まわせてもらっている敷島詰所は、
西左第五棟にあたります。あらためて、このやかた
で住まわせていただいていることがとてもありがた
く、もったいないことに気がつきました。そういえ
3
天理中学校 3 年
西左棟は七階まであります。大教会長様は、毎日
朝づとめ四十五分前に階段を昇り降りされます。詰
所勤務者である私の父母たちも一緒に昇っていま
す。健康のため、また、会長様といろいろなお話を
するための毎朝の日課です。また、専修科生さんや
修養科生さん、詰所勤務の家族とも仲良くさせても
らっています。他の詰所の人たちとの交流もありま
す。そんないろんな人との出会いも詰所でしかでき
おかん
であることがわかり、しかも直腸から転移してきた
もので、肺にまで転移していました。この母の身上
から、大教会をはじめ、上級教会、所属教会、部内
教会など、いろいろなところから、たくさんの人が
母のためにお願いづとめやお供えをしてくださいま
した。この当時、修養科教養掛を務めていた会長さ
んは、かんろだい、教祖殿、祖霊殿へと一日六回も
参拝してくださいました。また、おじいちゃん、お
す。二代真柱様が創設してくださった一れつ会のお
育をお願いして、しっかり勉強に励みたいと思いま
もう少しすると高校受験です。どうしても天理高
校へ入学したいです。それと同時に、一れつ会の扶
の心でいっぱいです。
る日が近づくと、なおさら、感謝ともったいないと
えたことをすごくよかったと思います。大教会に帰
ぢばで、天理幼稚園、天理小学校、天理中学校に通
店など全くといっていいほどありません。なのでお
です。そこは、ちょっと田舎で寂しいです。近くに
井の三輪にある敷島大教会に帰ることになったから
私にとってこの十五年間の詰所での生活は、一生
の宝物になると思います。というのも、近日中に桜
り残されました。普段からたまに一人で留守番をす
父はそう言うと急いで広島の自宅から神戸まで車
で行きました。そして広島の自宅には自分一人がと
のある病院に運ばれました。
いっこうによくならず、八月三十日に救急で脳外科
した。そこでは「夏バテ」と診察されていましたが、
にある所属の教会の近くの病院で診察してもらいま
母はその年のこどもおぢばがえりごろから、頭痛
を訴えており、おぢばがえりが終わってから、神戸
てくる」と言いました。
「お母さんが救急で病院に運ばれたから今から行っ
父の言葉を聞いて返す言葉が出ませんでした。父は
としていました。
「どこに行くん?」と聞いた私は、
平成二十年、中学三年の夏、いつものように部活
か ら 帰 る と、 父 が と て も 慌 て て、 ど こ か に 行 こ う
ことがない」というほど元気になっていました。そ
りして、病院の先生も「こんなに回復するのは見た
車で買い物に行ったり、歩いてにをいがけに廻った
気に帰ってくることができました。母は一人で自転
みんなのお願いが神様に届いたのか、母はみるみ
るうちに体調がよくなって、家族で正月を迎えるこ
院を繰り返していました。
度も何度も、抗がん剤や放射線の治療に耐えて入退
りました。それからも、毎日神様にお願いして、何
思いました。ご守護をいただいたと思っていたけど、
れしく、
「神様にお願いしてたら治るんやなぁ」と
退院することができました。そのときは、本当にう
後、日に日にご守護をいただき、十月二十日ごろに
そして母は、九月から十月までの一ヵ月あまりで、
脳、直腸、肺と大きな手術を三回行いました。その
石井勝也
かげで、兄は東京にある三才寮から大学へ通い、姉
るときがあり、慣れていましたが、この日は一人で
んな話を聞いて「うちのオカンはすごいな」と母を
三年
天理教校学園高等学校 は天理高校へ、私は天理中学校で勉強させていただ
いるのが怖くて、一晩中泣きながら過ごしたのを覚
い て い ま す。 こ の 一 れ つ 会 へ の ご 恩 と や か た で の
えています。
を受験するときも、入寮するときも、入学するとき
ばあちゃん、兄たちもそれぞれが心定めをしました。
十五年間で学んだことを忘れずに、大きくなったら
もずっと一緒についてきてくれました。母が身上に
ない貴重な体験です。
何からでも恩返しをしていこうと思います。そして、
母は「小脳腫瘍」ということで、
そして検査の結果、
すぐに手術を受けることになりました。九月二日に
尊敬するようになりました。そして、私が教校学園
とができ、教祖誕生祭やこどもおぢばがえりにも元
約一ヵ月後、頭部にがんが再発していることがわか
「やっぱり道の子やなぁ」と言われるような学生に
小脳腫瘍摘出手術を行い、悪性腫瘍、つまり「がん」
なりたいと思います。
4
創立 83 周年記念式
にいるから、時間があるときは、神殿に行って参拝
たことを全部思い返しました。それから私はおぢば
だいたことを忘れていたこと、自分勝手に通ってき
ました。そのときに、私は母の身上やご守護をいた
そんな日が続いて、母が最初にがんとわかって一
年と一ヵ月くらいたったとき、また、がんが再発し
れて生活していました。
これまでと同じように、ご守護いただいたことを忘
づかず、そのまま帰寮しました。帰寮してからも、
ままを通してしまっていました。そのときは何も気
に自分で決めたことをすっかり忘れて、自分のわが
うとしませんでした。母が最初に身上になったとき
言われても「めんどくさい」とか言って、何もしよ
ると、父や母から「あれやって」
「これやって」と
たことを考えなくなっていました。夏休みに帰省す
ぱいになり、母の身上のことや、ご守護をいただい
そして私は、教校学園に入学しました。入学して
私は寮生活や部活で忙しくなり、自分のことでいっ
てもうれしい時間でした。
なってから、一緒にいる時間が少なかったので、と
この言葉が母と交わした最後の言葉になるなんて
たらまた来るわ!」と言い、母と別れました。
といけない時間になりました。私は「合宿が終わっ
た。でもやっぱり一緒にいるのは無理で、帰らない
んとなく「オカンと一緒におりたいな」と思いまし
て、歩くのが困難になっていました。このときにな
母は元気そうでしたが右手と右足に麻痺が出てい
込んでいました。そして七月二十五日、母は修養科
そして、それから私は、あまり母のことを知らさ
れなくなりました。私は母がよくなっていると思い
院することができました。
難しいものだったらしいのですが、三週間後には退
込めてさせてもらおうと決めました。手術はとても
に気づきました。そうして日々おつとめなども心を
きにまた、私は神様とした約束を守れていないこと
ばからお願いしてくれ」ということでした。そのと
があって、
「また手術することになったから、おぢ
した。そして帰寮して生活していると、父から電話
そのときの母の顔は本当に悲しそうな顔をしていま
いくらいになっていて、母が必死に止めていました。
ことで兄弟喧嘩となり、私はまわりの声が聞こえな
いました。しかし、帰寮する日の朝、ちょっとした
いました。そのまま冬休みになり、また家族がそろ
また今度」としているうちに、足を運ばなくなって
した。
「行かなあかんな」とか思いながら「また今度、
が、自分はいつの間にか参拝に行かなくなっていま
拝するようになって母はまたよくなってきたのです
しようと決め、神殿に足を運ぶようにしました。参
から、母は自分の命が残り少ないのをわかっていた
父に「明
母は容態が悪くなる前日の八月十四日に、
日は来ないの?」と言っていたそうです。そのとき
にしか見えませんでした。
でした。いつもと同じ優しそうな顔で寝ているよう
ました。私には今も生きてるようにしか見えません
た。その日に、私は詰所に行き、母に会いました。 「さっきまで生きとったんやで」と泣きながら言い
教養掛の御命をいただいて、おぢばに帰ってきまし
のかな、と思います。
んでも、手を握っても母は起きませんでした。父が
いました。母の側に行って、何回「オカン」って叫
に 寝 て い ま し た。 で も ま わ り の 人 は み ん な 泣 い て
それから約一時間後の、十一時三十分ぐらいに病
院につきました。病室に入ると母は気持ちよさそう
ない」と言い聞かせていました。
泣いていました。私は何も言えず自分自身に「何も
たけど、起きると叔父が誰かと電話をしていました。
それから時間がどのくらい経ったのかわからなかっ
目を閉じていて、気づいたら寝てしまっていました。
けど、触れたらダメな気がしました。そしてずっと
ついて一言も触れませんでした。なぜかわからない
母のもとへと行きました。車の中、私は母のことに
ど経つと、東京にいる叔父夫婦が迎えに来てくれて
めて帰る準備をしろ」と起こされました。三十分ほ
に「お母さんの体調が悪くなったから、荷物をまと
十六日、朝の三時か四時くらいにラグビー部の先生
杯でした。そして、合宿も後半になったときの八月
と し か 考 え ら れ な く て、 毎 日 の 練 習 や 試 合 で 精 一
そしてこどもおぢばがえりも終わって、私はラグ
ビー部の合宿に行きました。合宿中はラグビーのこ
少しも思っていませんでした。
5
拍がゼロになり、八月十六日十時三十五分に出直し
りになっていき、父が右手を、兄が左手を握り、脈
柏手を叩き終えると同時に脈拍がだんだんとゆっく
方におさづけを取り次いでいただきました。そして
見守る中、大教会からこられた、清水初女様という
めとして、大教会にいる伯母、父、兄、母の友人の
りできるのも一れつ会からお世話いただいているお
最後に元気に学校で勉強したり、寮で大好きな友
だちと話をしたり、部活動でラグビーに打ち込んだ
らもう一回母の子として生まれたいです。
私も年をとって、いつか出直して、生まれ変わった
ても、一日も母のことを忘れる日はないと思います。
げで今の自分があります。これから先、何十年経っ
十七年間しか一緒に過ごせなかったけど、母には
大切なことをいっぱい教えてもらったし、母のおか
ごちゃとした人間関係の中で成長させてもらえたか
手に本音をぶつけられるようになったのは、ごちゃ
く、喧嘩などしたこともなかった私がはっきりと相
る中で、お互いのやり方に納得ができずぶつかり合
ことのないタイプの人がいます。話し合いをしてい
は全く理解できない考え方をする人や今まで会った
が一緒に生活をしていれば、当然のように、自分に
を苦しめたのが人間関係です。二百人もの女子生徒
いと思ったことは何度もありました。他にもしんど
ていったそうです。
かげです。一れつ会には感謝の気持ちでいっぱいで
らです。今までを振り返ってみて思うことは、人に
気づきました。
今まで母と過ごしてきたときのことや、母が笑っ
た顔を見ることも、母の料理を食べることも、話す
す。この思いを忘れずに、これからも今まで以上に
ついて考え、悩み、怒ったり、涙したりした時間は
何一つ無駄になることなく、すべてが今の私の財産
うこともありました。中学生までは自分の意志が弱
いことはたくさんありましたが、いちばん悩み、心
ことも、喧嘩をすることも、何もできなくなってし
勇んで通りたいと思います。
そして八月十五日の夜十時半ごろ容態が急変しま
した。そして八月十六日、会長さん、奥さんをはじ
まいました。もっとああしておけばよかった、こう
しておけばよかったと思っても、もう何もできませ
になっているということです。苦労をしたら、その
たおかげです。
なったのは、すべておぢばで生活をさせていただけ
強い思いがあります。こんな考え方ができるように
挑戦し、経験をしてたくさん苦労をしたい、という
うことを知りました。今はできるだけ多くのことに
苦労をすればする程人は成長し、強くなるんだとい
分何倍も大きな経験となって自分に返ってきます。
大野柚依
ん。私が大人になった姿も、結婚して子どもの顔を
私を成長させて
くれた場所
天理高等学校第一部 三年
私は十五歳のとき天理高校に入学し、おぢばでの
生活がスタートしました。今まで家庭に守られ、学
る私と弟には伝えないことにしていたそうです。母
ただしくしていたこともあり、両親は、おぢばにい
て聞かされました。六月はちょうど部活も忙しく慌
校でもできるだけ目立たないように人の後ろをつ
の口から話を聞いたときは、何も言葉にできず、信
そして、母は自分が身上であっても、親や会長さん
いてまわっていたような私にとって、初めての寮生
じることができませんでした。ただ、どうしてすぐ
またもう一つ、私を変えた大きな出来事がありま
す。高校二年生の六月、私の幼なじみが自殺をした
から言われたことを素直に聞いていました。そして
活はとても辛いものでした。自分のことはすべて自
見せることもできません。もっと私にはできること
があったと思って後悔しても遅いのに、毎日後悔し
てしまいます。母とはもう一生会うことができませ
ん。でもどこからか見守ってくれていると信じてい
ます。いるはずがないのにどこかにいるような気が
します。
私は母にすごいことを教えてもらいました。それ
は母の「強さ」
「素直さ」
「優しさ」です。どんなに
しんどい治療や手術をしても「辛い」とか「しんどい」
常に人のために動いているのが、私から見てもよく
分で行い、寮の仕事では先輩に毎晩怒られ、帰りた
の で す。 私 は そ の 事 実 を 夏 に 帰 省 し た と き に 初 め
わかりました。
などという言葉を、母から聞いたことはありません。
そんな母の子に生まれて、私は本当に幸せやなと
6
創立 83 周年記念式
うことは今でも信じられません。自殺の動機は今も
憎たらしいくらいの子だったので、自殺だったとい
ました。本当に明るくて、悪だくみが得意な、少し
かったのでまわりの私たちも何も気にせず接してい
た。 彼 自 身 が あ ま り 髪 の 毛 の こ と を 気 に し て い な
りも元気でやんちゃな運動神経のいい男の子でし
して閉じこもっているという訳でもなく、他の人よ
と生えてこないままでした。ですが彼はそれを気に
のころ、原因不明で髪の毛がすべて抜け、以来ずっ
の毛が生えていませんでした。小学生低学年くらい
い年で、同じ部内の教会の男の子でした。彼には髪
がでてくる、そんな状態でした。幼なじみは私と同
たくない、でも心の奥では理解をしていて勝手に涙
らず涙が流れるばかりでした。認めたくない、信じ
に教えてくれなかったのかと母に問い、わけもわか
行事や話し合いに忙しい日々を送っていますが、そ
た。 私 は 今、 寮 の 自 治 会 長 と い う 立 場 を い た だ き
このことがあってから私は以前よりさらにたくさ
んのことに挑戦したいという気持ちが強くなりまし
学びました。
一瞬を全力で陽気に生きるということを彼の死から
たさ、目の前にあるたくさんの喜びを見つけて一瞬
いうことに気づきました。生きていることのありが
いている時間がどんなにもったいないことなのかと
くよしたり、誰かに怒ったり、自分は不幸せだと嘆
う十分幸せなことと知り、限られた時間の中でくよ
を目にしたとき、人は、生きているだけでそれはも
気がつきました。彼の家族が彼を思って涙する光景
んなにありがたいことなのか、ということにはっと
えているとき、ただ生きているだけということがど
を言って何も考えず、ただ生きているだけだなと考
同じような毎日を繰り返し、つまらないことに不足
使われる言葉ですが、多くのことは後になってから
針が大きく変わるような出来事や事柄を表すときに
という意味になります。自分の価値観や、人生の指
ニ ン グ ポ イ ン ト を そ の ま ま 訳 す と、
「人生の転機」
に変わり目や転換期を指す言葉であり、人生のター
人生のターニングポイントを皆さんは経験されたこ
た。俗に言う「天理エリート」です。突然ですが、
私の名前は仲野大吾と申します。託児所から大学
までの約二十年間を、おぢばでお育ていただきまし
のために成長していきたいです。ここに導いてくだ
でも私をさまざまなことに使ってくださるよう、人
くださるのではないかと今は思います。神様が少し
はさらに大きな親孝行になり、何より神様もお喜び
が、その中でいろんな経験をし、成長していくこと
だけでも親やまわりの人は喜んでくれると思います
ことだと思っています。私が毎日元気に生きている
く機会を与えていただいたことも本当にありがたい
の中に世界地図のタイの位置が出てきた方は、よほ
学でタイ語を学んでいます。タイと聞いてすぐに頭
まず、一つ目の出来事ですが、これは現在私が天
理大学に通っている理由に直結します。私は天理大
と思います。
事からなるのですが、一つ目から順にご紹介したい
と自負しています。それは大きく分けて二つの出来
今までに人生のターニングポイントを経験している
初めて気づくものであります。若輩者ながら、私は
とはありますか。ターニングポイントとは、一般的
四年
天理大学 人生の
ターニングポイント
わかっていません。元気に見えていた彼が知らない
れもすべて私を成長させてくれるものだと感じてい
仲野大吾
ところで大きな闇を心に持っていたのかもしれませ
ます。また、今日ここに立ってお話をさせていただ
をもたらしました。
ん。同い年の身近な幼なじみの死は私に大きな影響
私は今までの自分の生き方を見つめ直しました。
さった神様のお引き寄せに感謝をし、これからも、
どの勉強家でしょう。タイという国は、東南アジア
の大陸部に位置する人口六千万人ほどの国です。一
強く、陽気に生きていきたいです。
7
漠然としたものでした。もっともお道の教えや学校、
は、「とりあえず天理から出る」というとても歪んだ、
と不足にばかり思っていました。そのころの私の夢
の私は、
そのことを「縛られている」だとか、「窮屈だ」
に励む、というのが当然なのだと思いますが、当時
どの環境で勉強できることを喜び、日々勇んで成人
ていただきました。本来であれば、もったいないほ
先ほども申しましたが、私は幼少期から約二十年
間天理管内の学校で、一れつ会の扶育生としてお育
ければなりません。
きっかけを説明するには高校時代までさかのぼらな
るマイナーな言語を勉強しようと思ったのか、その
等で有名な国です。なぜ私がタイ語のようないわゆ
に代表されるきれいな海水浴場、タイ式ボクシング
た。それからはタイのことについて調べ、タイ語を
タイ語は、本当に神様からのおてびきだと感じまし
といった考えを持ち合わせていなかった私にとって
くださいました。英語でなくても海外布教ができる
した。そんなとき、海外部の先生がタイ語を勧めて
苦手な私にとっては夢のまた夢だと諦めかけていま
れを感じたのを今でも覚えています。しかし英語の
しく頭の中に映り、それと同時に海外布教に強い憧
を知り、敬愛し、陽気ぐらしを目指す姿がとても眩
たが、講師の海外部の方の話す、世界の人が親神様
方へにをいがけをするなど毛頭考えもしませんでし
に教えを伝える、ましてや言葉の伝わらない海外の
まだまだ信仰心に目覚めたての私にとっては、人様
きをくださいました。それは海外布教の勧めです。
理高校のようぼくコースの時間を使って私におてび
これまでの話は、私の淡い思い出として少し美化
させている部分もありますが、親神様はさらに、天
教えに魅了されていきました。
の中で眠っていた信仰心が一気に輝きだし、お道の
働きを見せていただきました。このことにより、私
に出場できたというフィクションドラマのようなお
その友人は鮮やかなご守護をいただき、見事に試合
めてお願いづとめをさせていただきました。すると
といってもいい心定めをさせていただき、仲間を集
出場が危ぶまれていました。その際に、人生初めて
時期。その友人も引退のかかった試合を控えており、
たと思っていても、微塵も自分の感情を伝えられな
をへし折られた気分でした。日本ではある程度でき
いくとは思っていませんでしたが、いきなり高い鼻
わからない。友だちがいない。留学当初からうまく
タイに渡った私を待ち構えていたのは、すべてに
対する劣等感です。まず、言葉が通じない。文化が
ものです。 ニングポイントは、自分自身の価値観の崩壊による
になります。一つ目とは異なり、この二つ目のター
ただきました。これが二つ目のターニングポイント
三年生になって、私は大学の試験に合格し、タイ
に一年間留学へ行かせてもらえる機会をあたえてい
所で、私自身日に日に磨かれていくのを感じました。
激し合いながらモチベーションを高め合えるこの場
勉強する学生に出会いました。学生同士が相互に刺
スタイルで海外布教を思い描き、日々夢に向かって
からSATOMに入会した私は、そこでさまざまな
の略で、直訳すると、
「天
TenrikyoOverseasMission
理教の海外布教を志す学生の集まり」となります。
で し た。 S A T O M と は
のニーズに答えてくれるサークルが「SATOM」
理の学習とタイ語の学習は欠かせません。そんな私
した。もちろん大学に来たからには目的であった教
人生の大きなターニングポイントを得た私は、大
学に通う中でさまざまなサークル活動にも参加しま
わけです。
した学校が、唯一現在通っている天理大学だという
家が嫌い等といった具体的な理由は見当たらず、今
い憤りが消えない日々が続きました。また、異文化
ました。三年生の春といえば部活動も集大成に入る
思えば反抗期が抜けきっていなかっただけに過ぎな
勉強できる学校を探しました。私の思いとしては、
接触によるストレスも多く感じました。自分の思う
一れつ会の要員候補だということもあり、入学当初
StudentsAssociationfor
いのかもしれません。
したい」の二つしかなかったので、その条件を満た
「天理教のことをもっと勉強したい」
「タイ語を勉強
般には、金のお寺や象、パタヤビーチやプーケット
そんな高校生活も終盤、三年生の春ごろ当時いち
ばん仲がよかった友人に身上のお手入れをいただき
8
創立 83 周年記念式
ました。できるだけたくさんの人にお道の教えを知
た。この出来事を機に、タイでの私の生活は一変し
ら鈍っていた信仰心にまた火をつけられる思いでし
実に衝撃を覚えました。それと同時にタイに来てか
人が、私よりも強くおぢばを敬愛しているという事
よりもずっとおぢばから離れたところに住んでいる
それがあたりまえのことだと認識していました。私
身、心の中でおぢばへ帰ることへの安心感を持ち、
す。 私 の 心 は 喜 び と 羞 恥 心 で 複 雑 で し た。 自 分 自
の際に鮮やかなご守護を見せていただいたそうで
の方は修養科でおぢばがえりをしたことがあり、そ
たいんだ」と言いました。後に聞いた話ですが、そ
の方はまっすぐな目をして、
「俺は教祖にお会いし
りたかったのですが、私の不純な動機とは違い、そ
悩んでいたときなので、帰れるものならおぢばへ帰
ないと話されました。私もちょうど、人間関係等で
信者さんは、おぢばに帰れることが羨ましくて仕方
返しのころでしたので、そのように伝えると、その
いて聞かれました。当時、留学期間もちょうど折り
除をタイの信者さんとしていると私の帰国日程につ
いつも快く迎えてくださいました。ある日、神殿掃
信者さんもたくさんおられます。私が拠点に行けば
に、タイにもお道のにをいがかかっており、現地の
辛いことや悩みごとがあるときには決まって近く
にあるお道の拠点へと足を運びました。幸いなこと
での暮らしはとても刺激が強いものでした。
懐かしく、恋しく思いました。思えば初めての異郷
にありました。心が砕けそうになる度に、おぢばを
あたりまえの仕草が失礼に値したりすることも頻繁
天理大学に通えたことを誇りに思っています。残さ
なっていると言っても過言ではありません。今では
後残り数ヵ月で、私は学生生活を修了します。天
理 大 学 で 得 た 経 験 は、 今 の 私 の 考 え 方 の ベ ー ス に
のだと私は思います。
生のターニングポイントを掴めるかどうかが決まる
来事をどのようにとらえ、行動するかによって、人
は、決して少なくないと思います。起こってくる出
ニングポイントを親神様から与えていただいた人
なのではないでしょうか。私のように、大きなター
受け取り、自分なりに答えをお返しすることが大切
さっています。私たちはそのメッセージをしっかり
事情のもつれ等を通し、私たちにメッセージをくだ
ださっています。その手段として、身上のさわりや
神様は私たちを陽気ぐらしへ導こうと常にお働きく
たときこそ人は大きく変われるものであります。親
「人生のターニングポイント=親神様からのおて
び き 」 だ と 私 は 考 え ま す。 何 か 大 き な 節 に 直 面 し
りました。
ますが今までよりもはっきりと思い描けるようにな
かった自分の未来のあるべき姿が、わずかではあり
た。それと同時に今までぼんやりとしか見えていな
り一層強い海外布教への思いを持つことができまし
え て い ま す。 タ イ で の 留 学 経 験 を 通 し て、 私 は よ
留学を終え、おぢばに帰り、両親と共におつとめ
をさせていただいたときの身震いを今でも鮮明に覚
くださったのだと感じることができます。
えば、あの一瞬の出来事すらも、親神様がおてびき
りの留学期間を充実させることができました。今思
づけば自然と異文化に対する恐怖は消えており、残
いただきます。
せていただくことを誓いまして、これまでおぢばで
して大学で学んだ言語を武器に勇んでご用を勤めさ
義に過ごすこと、そして卒業後はお道のようぼくと
れたわずかな期間を一れつ会の扶育生として、有意
お育ていただいたことへのお礼の言葉と代えさせて
り、理解してもらうために懸命に勉強しました。気
9
『知ることは人生を豊かに』
永 尾 教 昭
社会では、今も商店など日曜日が休みのと
理 事
からきています。
の理由によります(ユダヤ教は土曜日とな
旧約聖書という書物があります。これは
キリスト教やイスラム教などの母体となっ
ります)。
ころが多いですが、それはそういう宗教上
か。よく考えてみたら、7 というのは中
たユダヤ教の聖典です。この中に、創世
突然ですが、皆さんは、なぜ一週間は
7 日なのかと考えたことはありません
日と
途半端な数字です。仮に一週間が
私は、一九八四年から二〇〇九年まで
年間、フランスにある天理教本部の海
◇ ◇
に安息されました。さらに、十戒という、
外拠点「天理教ヨーロッパ出張所」に勤
記、つまりこの世が創られた由来が書かれ
神の人間に対する の約束事の中で、神は
務しました。フランスは当然、キリスト
したら、日数などは今よりもっとわかり
りませんか。
7日目に休んだのだから、人間もそれを守
教社会です。そこで、曲がりなりにもお
ています。それによると、神は6日間でこ
これが、もし宗教上の理由だと言われ
たら、本当だろうかと思いませんか。し
るようにと命じます。それゆえ、一週間は
道の布教をしました。そこで気づいたこ
やすかったかも知れません。あるいは、
かし、本当です。一週間が7 日なのも、
7日で、その週末を休むのです(別の説も
とは、人々がごく普通に常識として知っ
の世と人間を創りました。そして、7日目
週末が休みなのも、宗教、もっと正確に
あります)。キリスト教を基盤とする欧米
なぜ週末が休みなのか、考えたことはあ
言えばユダヤ教などのセム系宗教の教義
25
10
10
10
のです。いや布教どころか、人々と交わ
知らないで、布教はできないと痛感した
し、人々が常識として知っていることを
初、知識としてありませんでした。しか
でした。前述したようなことも、私は当
ていることを、私は知らないということ
書かれている場合があります。世界の常
事をしたといった、どうでもいいことが
きに、日本の新聞は、首相が昨晩誰と食
して国連で承認されるか否か、というと
ば、世界の関心事がパレスチナが国家と
日本人は、内向きであるという国民性
があると思います。新聞の一面も、例え
しょうか。
そして、世界のことを知ってほしいと
思います。それによって、その後の自分
大いに勉強をしてほしいと思います。
皆さんは、一れつ会という全教の教信者
の真実をいただいて勉強をしています。
とが以前より一層わかりました。
れません。しかし、その結果、お道のこ
係ないかも知れません。だから、生きて
ない」と言うかもしれませんが、「秋
私は欧米人のようには宗教のことは知ら
でいくからです。皆さんは「それでも、
識を知っているという前提のもと、進ん
思いませんか。世の会話は、お互いが常
聞かれたら、ちょっと話にならないなと
祭って、アイドル歌手の名前?」などと
の日って、どんなお菓子?」とか「祇園
自分を知ることになると思うのです。
てくれます。そして、そのことは、結局
ろなことを知ることは、人生を豊かにし
役にも立っていません。しかし、いろい
新」の年を覚えることなど、日常の何の
て「サイン、コサイン」とか「大化の改
わけではありません。例えば、私にとっ
が人生を通っていく上で役に立っている
私たちは、小学校以来、さまざまなこ
とを学んできましたが、必ずしもすべて
にしていただきたいと熱望します。
にお道の教義を伝えていく上での肥やし
れをお道を歩む上で、あるいは世界の人
いく上で絶対必要なものでもないかもし
ることさえできないと感じました。
識を知らないと、世界の人は日本人とは
自身を豊かにし、さらに望むらくは、そ
◇ ◇
付き合えないと思うでしょう。
もし皆さんが、普段接する外国人の友
人がいて、彼との会話の中で、「今日
分の日」も「祇園祭」も、宗教的なこと
◇ ◇
です。つまり欧米の人が旧約聖書を知っ
私はフランスで生活していて、他宗
教、とりわけキリスト教のことを勉強し
は、秋分の日だね」とか「祇園祭を見に
ているのと、私たちが秋分の日の意味を
ましたが、それは直接天理教の教義と関
行こうか」と言ったとき、彼から「秋分
知っているのは同程度のことではないで
11
いちれつ会報の歴史
創刊から 62 年を経て、120 号という区切りの号数になりました。
今ではフルカラー版になった「いちれつ会報」ですが、創刊号か
らの歴史を表紙をみながらふりかえってみました。
に梅の花が浮かんだ下絵にいちれつ
会報と墨書されているロゴが使用さ
ロゴは火水風をモチーフにした小松
B 5 サ イ ズ、 い ち れ つ 会 報 の 誌 名 と
後 に 配 布 さ れ ま し た。 現 在 と 同 じ く
創 刊 号 は、 昭 和 二 十 四 年 十 月 十 八
日に行われた創立二十一周年記念式
よっては目次が掲載されるようにな
に 模 様 替 え、 さ ら に こ れ 以 降、 号 に
ま た、 五 段 組 だ っ た 表 紙 が、 四 段 組
号 ま で 約 十 五 年 間 使 用 さ れ ま し た。
がこのロゴは記念号等を除いて六十
草創
原 義 則 常 任 理 事 の 作。 構 成 は 五 段 組
り ま し た。 第 十 九 号 は 創 立 三 十 周 年
れ て い ま す。 誰 の 作 品 か は 不 明 で す
ポイントの活字を使用
る と と も に 各 方 面 と の 連 絡、 出 身 者
性 が 述 べ ら れ、 更 な る 助 力 を 懇 願 す
会の担う教内子弟の教養育成の重要
理 事 長 の﹁ 創 刊 の 辞 ﹂ に は、 一 れ つ
に掲載されている当時の竹村菊太郎
し、 ペ ー ジ 数 は 四 十 頁 で し た。 表 紙
紙 カ ラ ー 版 の 会 報。 表 紙 の 絵 は 小 松
第五十九号は創立五十周年記念号
と し て 発 行 さ れ ま し た。 初 め て の 表
廣海理事長の墨書。
で﹁火・水・風﹂。題字は当時の永尾
絵は扶育出身者の深谷忠夫氏の作品
記 念 号 と し て 発 行 さ れ ま し た。 表 紙
で本文には
在学者の連絡教導に資するために創
原義則元理事作﹁人間創造の元の理﹂。
集 後 記 に も﹁ 経 費 す れ す れ の 処 ま で
及 ぶ、 ボ リ ュ ー ム の あ る 号 で す。 編
も 一 新 さ れ ま し た。 い ち れ つ 会 報 の
き く 使 用 す る よ う に な り、 イ メ ー ジ
第 六 十 一 号︵ 昭 和 五 十 四 年 十 二 月
二十六日発行︶から表紙に写真を大
展開
の墨書。表紙と裏表紙は厚紙を使用。
す。 題 字 は 当 時 の 山 本 久 二 夫 理 事 長
身者美術展に特別出品されたもので
この作品は一れつ会五十周年記念出
刊した旨が記されています。
進展
創立二十五周年記念特集号として
発 行 さ れ た 第 九 号 が、 初 め て の 記 念
号 で す。 表 紙 の 絵 は 乾 勝 二 氏 に よ る
も の で、 題 字 は 小 西 利 臣 扶 育 委 員 の
頑張りました。﹂と記されており、当
題字には当時の梶本國彦理事長の墨
墨 書 が 採 用 さ れ て お り、 六 十 四 頁 に
時の情熱のほどが伝わってきます。
す。 百 二 十 号 の ち ょ う ど 半 分 が こ の
書 が 使 用 さ れ、 現 在 ま で 続 い て い ま
第十号は昭和二十九年五月十八日
に 発 行 さ れ ま し た。 こ の 号 か ら 水 面
創刊号
第9号
第 10 号
第 19 号
第 59 号
9
12
(右上の創刊号から左下の 119 号まで順に並べた写真)
題字で、見慣れた方も多いのでは⋮。
内 容 を 見 て み る と、 創 立 記 念 式 で の
理 事 長 挨 拶、 そ の あ と に 座 談 会 な ど
の 企 画 が 続 い て い ま す。 そ れ ま で は
寄 稿 中 心 だ っ た 内 容 か ら、 少 し ず つ
変 化 が 見 え る よ う に な り、 こ の 編 集
方針は現在も踏襲されています。
現在
第 八 十 九 号︵ 平 成 十 五 年 ︶ で 初 め
て表紙におぢばの風景カラー写真が
使 用 さ れ ま し た。 カ ラ ー は こ の 号 が
最 初 で す。 第 百 六 号 か ら 第 百 十 四 号
ま で は モ ノ ク ロ。 た だ し、 写 真 と と
も に﹁ 稿 本 天 理 教 教 祖 伝 逸 話 篇 ﹂ の
抜 粋 が 表 紙 に 掲 載 さ れ ま し た。 そ し
て、 デ ー タ 入 稿 な ど に よ っ て 経 費
が 低 く 抑 え ら れ る よ う に な り、 第
百十五号からは毎号全ページがカ
ラーになり現在に至っています。
◇ ◇
六十二年の時の流れの中で、いちれ
つ会報は体裁を少しずつ変えてきまし
た。 し か し 各 号 に 読 み 取 れ る、 教 内
子弟育成に対する多くの方の熱意は変
わっていません。これらの思いと、﹁創
刊の辞﹂に示された、会報発行の趣旨
は今後も会報編集の基本精神として堅
持していきたいと思います。
13
第 61 号
第 89 号
第 106 号
第 109 号
第 115 号
扶育願い出の
初心に返って
評議員
今西國直
先日、私がお預かりする教会の記念祭で、
私が大学生のとき、当時天理高校の前に
真柱様から、「この所で教会をお許し頂いた
あったいちれつ会館へ扶育費を頂きに行った
初代はじめ先人の並々でない決心を、今、信
帰り道、真南通りにバサッと落ちている 1 万
仰している者がしっかり受け継いで実践する
円札を見つけました。慌てて拾って数えると、
こと。それを次の世代へ責任を持って伝えて
なんと 8 万円!
行くこと。この心を新たにするところに記念
拾得物は警察に届けるのが常識ですが、私
祭の意義がある」と、お言葉を頂きました。
は(どうしようか)と迷いました。それは先
そんなとき、寄稿を求められたので、つい
ほど私が一れつ会で頂戴した後期授業料と同
額だったからです。(落としたのは扶育生か
「一れつ会」の創まりに思いが走りました。
「一れつ会のしおり」にも記されています
も)と思った私は、すぐ引き返し事務の先生
が、昭和 3 年 10 月 18 日、二代真柱様がご結
に渡しました。今の授業料なら約 30 万円に
婚され、そのお祝い金のすべてを、教内子弟
相当するでしょう。
・
・
・
・
の育成に役立てようとされたのが「いちれつ
ところが、一ヵ月経っても何の音沙汰もな
会」の創まりと聞かせていただいています。
いので、事務所へ行って尋ねますと、「 落と
子どもたちが与わった徳分をしっかり伸ば
し主が出てきたので、君の名前と学科を言っ
し、陽気ぐらしの実現に役立つ人間に育つよ
ておいたんだがね 」 ということでした。
う、また我が身我が家のことは二の次、三の
自分の善意が相手に伝わらないのは空しく
次にしておたすけに励む親たちが後顧の憂い
悔しいものです。でもいちばん腹立たしかっ
なく道の御用に明け暮れできるように、との
たのは、一れつ会で頂いた扶育費が、一般の
真柱様の熱い思いがこもっています。
金融機関のおカネではなく、設立の趣旨に賛
その後、教内からの寄付金や御本部からの
同された方々の寄付や、大勢の信者さん方の
回付金によって運営されるようになり、今や
真心こもったおぢばへの御供ということが、
扶育生は毎年 3,000 名近くに及びます。
同じ扶育生仲間でありながらわかっていない
私も一れつ会扶育生として、天理高校、天
のではないか、ということでした。
理大学と、教祖のお膝元でお育ていただいた
一れつ会生は、真柱様の親心と多くの教信
一人なので、毎年 10 月 18 日前後の休日に開
者の皆さんの真実に支えられ、有為なようぼ
催される 「 一れつ会創立記念式 」 に出席し、
くに育つよう期待されていることを自覚し、
創立の経緯や目的を幾たびも聞かせていただ
そして扶育出願の際、願書に記入した自分の
きました。
家の信仰の元一日を、しっかり心に治めるこ
しかし同じようにお話を聞いても、治め方
とが、まずは大切であると思うのです。
はさまざまだなと感じた出来事がありました。
14
布教師
として
歩 む
出身者インタビュー
布教活動をしている北嶋正直さんに布教を通
北 嶋
インタビューしました。
正 直
自分の元一日
―布教の家に入寮された理由は?
わってからにをいがけに行っていた
ときに、出会ったあるご婦人とお話を
させてもらう機会がありました。その
方は悪性リンパ腫という病気で、憩の
北嶋 小さいころから父親に布教の家 家を退院したばかりだということでし
に行きなさいと言われ続けてきたこと た。それから毎週一回通うようになり、
がいちばんの理由です。両親からいろ いろいろ話をさせてもらう中で、一度
いろ話を聞かせてもらいましたが、そ も本部に参拝したことがないというこ
の中でもとくに二十歳のときに僕が生 とでしたので、ご案内させていただき
まれたときの話を聞かせてもらったこ ました。その後五ヵ月経って初席を運
と が 布 教 の 家 に 行 き た い と 強 く 思 う んでくださいました。毎月別席を運ん
きっかけになりました。僕は教祖百年 でくださっていましたが、あるとき病
祭のご誕生祭の日が予定日だったそう 院の検査でもう一度抗がん剤の治療を
なのですが、予定より一ヵ月早く生ま しなければならないかもしれないと言
れて、最初は保育器の中で育ちました。 われたそうで、私も心定めすることに
病院の先生から、人よりハンディを背 しました。その方には「治療に戻られ
負って育つ可能性が高いと言われたそ るかもしれませんが、助けてもらった
うです。父と母は当時の高松大教会長 からこそ今があり、今こうして過ごさ
であった祖父と祖母に相談すると、
「そ せてもらっていることを感謝して、自
れはお前たち親の成人が足りないから 分がたすけてもらった話を他の人にし
だ。理の親になれるように努力をしな てください」と提案して、僕は学校が
さい。そのためには教会をつくりなさ あるけれども、毎日一軒でも戸別訪問
い」と言われたそうです。その話を聞 に行くという心定めをしました。正直
一ヵ月後検査の結果が出て、治療に戻
かせてもらい、布教師としてしっかり 僕はどうなるかと、大変心配でしたが、
通ろうと思いました。
らなくてもよくなりましたと病院から
大学卒業後、天理教校本科実践課程
に 在 学 中、 友 だ ち と 二 人 で 授 業 が 終 電話があったそうで、共々に喜ばせて
15
して感じたことや布教に大事な心づくりなど
お
な
さ
ま
ま
じ
た
き
そ の 後 も 毎 月 欠 か さ ず 別 席 を 運 ん で、
こ と あ る ご と に 話 し て い た そ う で す。
すけてもらったという話を近所の方に
き、おさづけを取り次がせていただき がいて、さまざまな意見や布教の方法
続けるうちに病気の話などを詳しく聞 ありますけど、岡山寮には六人の寮生
て、両足を切断されていました。通い だけでは意見や考え方など偏ることも
出会いました。その方は糖尿病を患っ 家に入ってよかったと思うのは、自分
いました。そんなとき、あるご婦人と びを探してみたら勇めますね。布教の
僕が実践課程を卒業する三月にようぼ
ました。病気のため尿や便が出にくい もそれぞれで違い、互いに高め合うこ
もらいました。その方は天理さんにた
くになられ、現在はご主人と息子さん
らしいのですが、おさづけを取り次い とができたと思います。同期の人たち
種まき
に別席の話を聞いてもらいたいとがん
い、天理というところに一度行ってみ
たい」と仰ってくださり、五月の月次
喜びを探す
た先までバイクで四十分くらいかけて
通っています。大教会の青年としての
立場もありますので、大教会の御用も
しています。
―布教するにあたって心がけているこ
ろいろ楽しいことを思い返したり、喜 いただきました。だからこそ出会う方
テナを立てようと努力しています。い ばに帰って助かる人をたくさん見せて
北嶋 勇めないときもありました。そ とはありますか。
んなときは普段喜べることが喜べなく 北嶋 おぢばで学び、人間として、ま
なっているわけですから、喜べるアン た信仰面でもお育ていただいて、おぢ
たか?
―布教中落ち込んだことなどありまし
えるようになりました。
さっているなと、布教活動を通して思 廻ったり、布教の家在寮中に通ってい
神 様 は や は り 喜 べ る よ う に し て く だ ま す。 そ こ か ら 玉 野 市 内 を 布 教 し て
た方になり、その後も信仰につながっ 北嶋 単独布教をするために岡山県玉
て 現 在 は よ う ぼ く に な ら れ て い ま す。 野市にある部内の教会に住み込んでい
その方が初めて僕と帰参してくださっ ―布教の家を修了してからは…?
祭 に お ぢ ば に 帰 っ て く だ さ い ま し た。
だその日は久しぶりに出たそうで、電 には本当に恵まれて、勇んでがんばる
布教師として
思い直し、にをいがけに廻らせてもら
らえるように努力することが大事だと
て神様の手足となり、神様に働いても
した。二ヵ月目からは、ようぼくとし
の高慢なところを気づかせてもらいま
いただくことができず、自分の心の中
一ヵ月が終わったとき誰にも帰参して
淡 い 期 待 を も っ て い ま し た。 し か し、
連 れ て 毎 月 帰 れ る の で は な い か、 と
気持ちだったので、おぢばに帰参者を
で、自分もできないわけがないという
も父も布教をしていたと聞いていたの
北嶋 布教の家に入ったときはやる気
に満ち溢れていて、また曾祖父も祖父
らはどうでしたか?
―布教の家(岡山寮)に入寮されてか
ばっておられます。そのことが布教の
努力することが大事
話 が か か っ て き て、「 お さ づ け は す ご ことができました。
神様に働いてもらえるように
家に行く心の後押しになりました。
ようぼくとして神様の手足となって
16
には少しでもおぢばの理を伝え、神様 ちは今でも繋がってますし、お互い切
の話をさせていただいています。すぐ 磋琢磨しながら信仰を深めていくこと
メッセージ
ん一人からお供えをしてもらえるまで
丹 精 し て い く こ と が、 ど れ だ け 大 変 か
と い う こ と も 肌 で 感 じ る し、 信 者 さ ん
―扶育生に向けて、ひとことお願いし が な い お 金 を お 供 え や 寄 付 し て く だ さ
に信仰されなくても、いつか何かあっ ができ、本当に人に恵まれた学生時代
たときに、あのときチラシをもらった だったと思います。
ます。
る、 そ の 心 が す ご い と い う こ と を 布 教
な と か、 あ の と き こ う い う 話 を 聞 い
たなとか思い出してもらえば、身近に ―学生時代と現在とでは心に変化はあ 北嶋 一れつ会の扶育がなければ 学校 を通して実感できるようになりました。
に も 行 け な か っ た の で、 本 当 に あ り が 今 の 自 分 が あ る の は、 一 れ つ 会 を は じ
いる天理教の人を通じておぢばに帰っ りますか?
てもらえるかもしれないし、そういう 北嶋 僕は日々常々ということがとて た く 思 っ て い ま す。 高 校、 大 学 時 代 そ め 信 者 さ ん 方 の お か げ と い う こ と を 感
種まきができたらいいなと思っていま も 苦 手 で し た。 し か し お 道 の 教 え は れ が わ か っ て い た か と い え ば 実 際 は た じ る こ と が で き る よ う に な り、 育 て て
きな欠点かもしれません。でも欠点は 基 本、 前 提 な の か な と 思 っ て い ま す。 ました。
すから持続力がないのは信仰的にも大 覚 す る こ と は、 学 生 生 活 を 喜 ん で 通 る ―本日はお忙しい中ありがとうござい
運命も変わってくると思うんです。で 学 校 に 行 け る の は 扶 育 の お か げ だ と 自
す。 そ う い う 気 持 ち で に を い が け に 日 々 常 々 と い う こ と が 大 事 で あ っ て、 い し て 理 解 し て い な か っ た け れ ど も、 もらったんだなあと感謝しています。
廻っています。
学生時代
科実践課程へ進学。卒業後、布教の家
ありがとうございました。
(岡山寮)に入寮。布教の家修了後、
誰にでもあると思います。大切なのは と く に 布 教 に 出 て み て、 本 当 に ど れ だ 北嶋
天理大学宗教学科卒業後、天理教校本
欠点と自覚していても、マイナスの意 け あ り が た い か わ か り ま し た。 信 者 さ
高松大教会
―学生時代はどうでしたか?
北嶋 正直 (25 歳)
北 嶋 自 分 で 言 う の も 偉 そ う で す が 味でしか捉えずに放置しておくことだ
信 仰 的 に は ま じ め だ っ た と 思 い ま す と思います。これは僕の勝手な解釈で
何も抵抗はなかったし、それが生活の 人させるために与えてくださった、欠
一部だったので、高校や大学のときも かせない点なのではないかと思うんで
参拝に行くのがあたりまえで、参拝に す。ですから欠点に気づいて、あらた
行かないと気持ち悪いっていう感じで めることで、成人の道に近づくことが
したね。学校生活で勇めなかったこと 大切だと思います。今は学生時代に苦
もありましたが、まわりの同級生や学 手だった続けることに重点をおいて歩
生会の仲間にもたすけてもらって、本 んでいます。
17
当に感謝しています。九年間おぢばで
学んで、おぢばで出会った信仰の友だ
現在岡山にて布教活動中。
(笑)。小さいころから信仰に関しても すが、欠点というのは神様が人間を成
出身者インタビュー
会 将来に向けての
談
こころづくり
座 生
育
扶
天理大学四年 浅田
宗助
坂本かねよ
天理大学四年
京都大学四年 田中
満陽
渡邊 洋
大阪大学二年
大学扶育生4人に集まってもらい現在勉強していることや
学生会活動を通して信仰についてどのように感じているか、
また将来へ向けてどのように考えているのか話し合ってもらいました。
ま す。 授 業 で は よ く 発 表 が あ る ん で
べ て、 み ん な の 前 で 発 表 す る の で 多
す け ど、 自 分 で そ の 概 念 に つ い て 調
―それぞれの大学で現在どんな勉強
くの本を読んで調べたりしないとい
学ぶ
をしていますか。
しています。
年が上がるとより人の側に添うとい
ろ ん な 心 理 学 を つ ま ん で い っ て、 学
理 学、 教 育 心 理 学、 老 年 障 害 な ど い
生 の と き は 概 論、 臨 床 心 理、 社 会 心
多くなったと思っています。一、二年
しろ自分の心について考える機会が
け ど、 全 然 そ ん な こ と は な く て、 む
ん じ ゃ な い?」 と か 聞 か れ る ん で す
坂 本 私 は 天 理 大 学 で 臨 床 心 理 学 を
学 ん で い て、 よ く「 人 の 心 が わ か る
いろいろ考える感じですね。
い感じです。それをみんなで読んで
ま読みます。なので語学の授業に近
ス語だったらフランス語で原文のま
の哲学者が書いたテキストをフラン
えてもらって、演習の方は実際にそ
この哲学者はこう考えてますとか教
習があって、講義の方はたとえば、
してるところです。内容は講義と演
いていくために、入門書を読んだり
から専門が始まって、今は授業につ
ぶことができてよかったです。
以外にもいろいろな宗教について学
か っ た の で す が、 大 学 に 来 て 天 理 教
た の で、 天 理 教 に つ い て 何 も 知 ら な
校までずっと地元の鹿児島県で育っ
や 伝 道 学 な ど の 講 義 が あ り ま す。 高
天理教学の講義では教会学や原典学
ス ト 教、 イ ス ラ ー ム の 講 義 が あ り、
て き ま し た。 宗 教 学 で は 仏 教 や キ リ
浅 田 僕 は 天 理 大 学 宗 教 学 科 な ん で
す け ど、 宗 教 学 と 天 理 教 学 を 勉 強 し
をします。
やった後にはそれについて必ず考察
る 実 習 も あ り ま す。 ど ん な 実 習 で も
で絵の具を使って自由に書いたりす
紙 に 貼 っ た り、 何 も 考 え ず に 手 だ け
習 を し ま す。 雑 誌 を 切 り 抜 い て 画 用
その他にも実習の授業は毎週違う実
りして、それを考察するんですけど。
坂 本 箱 庭 っ て 聞 い た こ と が あ り ま
す か? 砂 が 入 っ た 箱 に 人 形 を 置 い た
渡邊 実験とかはないんですか?
けないのでたくさん本を読むように
渡邊 僕は大阪大学文学部で哲学を
専攻しています。現在二年生で今年
う形の臨床心理について学んでいき
18
扶育生座談会
いうと心理学的要素が強い学科です
す。 教 育 学 部 で す け ど、 ど ち ら か と
学、 認 知 心 理 学 な ど を 勉 強 し て い ま
勉 強 の 内 容 は、 臨 床 心 理 と 社 会 心 理
田 中 私 は 京 都 大 学 教 育 学 部 教 育 科
学科で教育心理学を専攻しています。
勉強ですね。
という心理学的な方法論を研究する
どもにどういう教育をしたらいいか
を し ま す。 教 育 心 理 学 で あ れ ば、 子
ればよいのかっていう根本的な研究
教育の質を良くするためにはどうす
は 少 な い で す ね。 ど ち ら か と い う と
ね。 心 理 学 と い う も の を 概 観 し、 学
や れ 」 と 言 わ れ て、 そ の 言 葉 に 影 響
さ れ て、 一 般 的 に は い ち ば ん 世 間 か
らかけ離れている哲学を専攻しまし
た。 だ か ら、 哲 学 に 対 し て 熱 い 思 い
があるとかそういう感じではないで
す が、 い ろ い ろ 試 行 錯 誤 し な が ら 今
的 に 測 定 し ま す。 心 の 動 き っ て 目 に
無意識的な反応などを科学的に数値
が で き ま し た。 認 知 心 理 学 の 方 で、
臨 床 専 攻 じ ゃ な い で す が、 授 業 の
中で一通りそういう知識は得ること
を学ぶっていう面が多いです。
カウンセリングができるような技法
ど の 実 験 を や っ た り し て、 最 終 的 に
パ タ ー ン が 多 い で す。 臨 床 は 箱 庭 な
認知かっていうどちらかに分かれる
志望しました。
き に 少 し で も 役 立 つ よ う に と 思 い、
入 っ た の は、 将 来 教 会 長 に な っ た と
よ う に な っ た か ら で す。 宗 教 学 科 に
とずつ天理教のことを学ぼうと思う
ばなあかんってなったときに、ちょっ
浅 田 僕 は 教 会 の 長 男 な の で、 高 校
三 年 生 に な っ て、 大 学 を い よ い よ 選
専攻を選びましたか?
―それぞれどんな思いがあって大学、
は い ろ い ろ 悩 み ま し た。 文 学 部 は 一
渡 邊 僕 は 大 学 で と く に や り た い こ
と と か は な か っ た の で、 入 っ て か ら
がいちばん大きいですね。
する仕事をしたいなあって思ったの
幼 稚 園 の 先 生 に な り た く て、 人 と 接
選 ん だ の は、 も と も と 小 さ い こ ろ は
り 京 大 を 志 望 し ま し た。 教 育 学 部 を
けたらいいなあって思ってたのがあ
い っ て 言 っ て た ら し く て、 京 大 に い
くなった祖父が京大にいってほし
あ っ て い う こ と が 一 つ で、 あ と は 亡
じ で す。 家 か ら 通 え る 大 学 が い い な
なりました。
実 し た と い う か、 考 え 方 が 前 向 き に
と が で き、 お か げ さ ま で 前 よ り も 充
し て く れ た り し た ん で す。 そ れ で 何
で 話 を 聞 い て く れ た り、 一 緒 に 参 拝
で、 一 年 間 く ら い 毎 日 の よ う に 神 殿
担当の幹事さんは臨床心理出身の方
く だ さ る ん で す け ど、 私 の ク ラ ス の
北寮の幹事さんが担当としてついて
コ ー ス と い う の が あ っ て、 各 ク ラ ス
で た と き に、 天 理 高 校 で は よ う ぼ く
て い た だ き、 す ご い 気 分 が 落 ち 込 ん
坂 本 高 校 二 年 生 の と き、 教 祖
百二十年祭の年でいろいろ節を見せ
は勉強しています。
見 え な い も の な の で、 反 応 時 間 の 早
田 中 私 は 自 分 が し た い こ と で 選 ん
だ と い う よ り、 学 校 を 先 に 選 ん だ 感
般的にはあまり役に立たないって言
ん で い っ て、 そ こ か ら さ ら に 臨 床 か
い っ て、 そ れ を で き る だ け 数 値 に 置
け ど、 高 校 の 先 生 に「 文 学 部 に 進 学
これっていうものもなかったんです
を 選 択 し な い と い け な く て、 と く に
だけど二年生になるときに専門分野
びました。
て、 そ れ が き っ か け で 臨 床 心 理 を 選
きるなんて本当にすごいなって思っ
話を聞くだけで人を助けることがで
とか自分の気持ちの向きを変えるこ
き換えて示すということをやってい
わ れ て る の で、 将 来 も 不 安 で し た。
渡 邊 そ の 心 理 学 が 教 育 と 関 係 し て
るっていうことですか?
(教会本部)
さなどでそのプロセスをたどって
ます。
(山名・真緑)
話を聞いてくださっただけでとく
に 何 も 言 わ れ な か っ た ん で す け ど、
WATANABE
HIRO
し た ん だ か ら、 自 分 が や り た い こ と
19
田 中 そ う で す ね。 教 育 学 部 で す け
ど教員養成を主目的としてる訳では
な い の で、 教 員 に な る っ て い う 学 生
SAKAMOTO
KANEYO
に な っ て、 三 年 生 の と き に は 滋 賀 教
た ん で す け ど、 ス タ ッ フ を す る よ う
田 中 私 は、 大 学 に 入 っ て か ら 姉 の
影響で学生会に参加させてもらって
になりました。
となんだと感じることができるよう
いていることが本当にありがたいこ
い て、 今 こ う し て 生 活 さ せ て い た だ
変な中通られてきた方々から話を聞
県 に あ る 療 養 所 に 行 き、 そ こ で 昔 大
養 所 が 全 国 に あ る ん で す け ど、 宮 城
た り、 夏 休 み に は、 ハ ン セ ン 病 の 療
バラエティーに出演させていただい
は、 お ぢ ば が え り の ひ の き し ん で、
幹 部 を さ せ て い た だ き ま し た。 活 動
や っ て 呼 ん で い た だ い た と き は、 で
と こ ろ で 生 活 を し て い る の で、 そ う
よ う に し て ま す。 お ぢ ば か ら 離 れ た
るときはなるべく参加させてもらう
会のキャンプのひのきしんなど行け
りのとき詰所でのひのきしんや少年
て い た だ い た り、 こ ど も お ぢ ば が え
渡 邊 僕 は 直 属 の 山 名 大 教 会 で 学 生
会の行事など機会があれば参加させ
しています。
模擬店などの企画を立ち上げて活動
す が、 そ れ に 向 け て 学 生 で 集 ま っ て
様の就任奉告祭が執り行われるので
今 年 は 直 属 の 湖 東 大 教 会 で、 創 立
百二十周年記念祭ならびに七代会長
する機会が増えました。
ができました。
ら こ そ、 た く さ ん の 人 と 出 会 う こ と
ろんな活動をさせていただいてるか
な り ま し た。 お ぢ ば で 学 生 会 な ど い
の総会に参加させてもらえるように
の 実 行 委 員 を し た り、 教 区 の 学 生 会
が 多 く な り、 春 の 学 生 お ぢ ば が え り
んな活動に参加させてもらえること
た。 そ れ か ら 知 り 合 い が 増 え、 い ろ
た の が き っ か け でC S I に 入 り ま し
も学生会の活動やりたいと思い始め
姿 を 見 て、 い い な っ て 思 っ て、 自 分
な ど、 会 の た め に が ん ば る み ん な の
ちゃお道のことや自分の直属のこと
伝いに行ったときに、学生なのにめっ
講習会に一年生の夏にスタッフで手
す。 毎 年 開 催 し て る 直 属 の リ ー ダ ー
い く 会 が あ り、 そ こ で 活 動 し て い ま
いう直属の学生会の活動を推進して
て も ら っ て ま す。 現 在 は、 C S I と
震えて、台本を読むのも、パンフレッ
す け ど、 め ち ゃ く ち ゃ 緊 張 し て 手 が
浅 田 路 傍 講 演 が い ち ば ん 印 象 深 い
で す。 大 阪 の 難 波 駅 の 前 で し た ん で
たなって思います。
勇んでできました。印象深い体験だっ
ど、 学 修 の 場 と い う こ と だ っ た の で
たら勇気が出なくてできなかったけ
か っ た の で、 神 名 流 し な ど 一 人 だ っ
がけさせてもらう機会があまりな
普段自分が学生という立場でにをい
会 を し て い て 機 会 は 増 え ま し た が、
残 っ て る の は に を い が け で す。 学 生
て 思 っ て ま す。 私 が い ち ば ん 印 象 に
い刺激をもらえる一週間やったなっ
中 お 道 を 求 め て い る 子 が い て、 す ご
い ろ ん な 子 が い て、 い ろ ん な 境 遇 の
全 然 違 い ま し た。 共 通 し て い る の は
して大学の部も参加したんですけど
田中 一年生のときに参加しました。
高校のとき参加した学修をイメージ
が、どうでしたか。
―皆さん学修に参加したと思います
区 委 員 長 を、 今 年 は 本 部 の 常 任 委 員
きるだけ都合をつけて行くようには
子青年活動やいろいろな活動をさせ
会で近畿ブロックの地区委員という
し て ま す。 自 教 会 の 月 次 祭 は 休 み が
信仰活動
立 場 を い た だ い て、 結 果 的 に は 四 年
重なれば地元に戻って手伝うように
教会の活動はしていますか。
浅 田 教 会 で は 少 年 会 の お と ま り 会
な ど で す ね。 宗 教 学 科 で は 成 人 会 と
(薩隅)
い う 会 が あ り、 僕 は 三 年 生 の と き に
ASADA
SOUSUKE
― 信 仰 面 で す が、 現 在 学 生 会 活 動 や
間 学 生 会 に 関 わ っ て き ま し た。 今 年
はしてます。
い た り し て、 自 分 自 身 天 理 教 に 熱 く
教のことを熱く語って泣いてる子も
び は 大 き か っ た で す。 同 じ 班 に 天 理
でも受け取ってくださったときの喜
トを配ったりするのも怖かったです。
か ら 時 間 が で き る よ う に な っ て、 本
坂 本 私 は、 学 生 会 を き っ か け に 女
(湖東・山上)
部の月次祭に参拝させてもらったり
TANAKA
MICHIYO
20
扶育生座談会
な ど を し て、 い ろ ん な 人 の 話 を 聞 く
坂 本 自 分 の 信 仰 を 見 つ め 直 す 機 会
に な っ た と 思 い ま す。 班 で ね り あ い
て、みんなで盛り上がりました。
な り ま し た。 天 理 教 っ て い い な あ っ
も印象に残っています。
い な あ と 素 直 に 思 え た こ と が、 と て
を 聞 い て 泣 い て し ま い ま し た。 す ご
な の か 」 と い う 話 で、 初 め て 人 の 話
はなんなのか」「にをいがけとはなん
心の面をすごく感じた大学生活だっ
だ く 中 で、 科 学 で は 探 求 し き れ な い
生会やお道の御用と関わらせていた
て や っ ぱ り 深 い な っ て 思 い ま す。 学
も わ か ら な い こ と が 多 く、 人 の 心 っ
ロ ー チ 法 を 学 ん で い ま す が、 そ れ で
生方への感謝の気持ちも込めて伏せ
機 会 を 与 え て く れ た 両 親、 本 部 の 先
く ん で す け ど、 こ う い う 貴 重 な 学 ぶ
本部で女子青年勤めをさせていただ
卒 業 後 は、 修 養 科 へ い っ て、 そ の 後
実 践 的 な 場 だ っ た な っ て 思 い ま す。
ことで自分自身を振り返ることもで
に同じ班の仲間と一緒に一週間生活
につながることだと成人会を通して
と ぐ ら い で す が、 そ れ も 相 手 の 助 け
分にできることは話を親身に聞くこ
た い と 考 え る よ う に な り ま し た。 自
間 を さ い て 話 を 聞 き た い、 力 に な り
その人が助かってくれると思うと時
え、 い い ア ド バ イ ス が で き な く て も
受 け る こ と が 多 く な り ま し た。 た と
浅 田 成 人 会 の 幹 部 を や っ て、 い ろ
ん な 人 と 接 す る 機 会 が 増 え、 相 談 を
えていますか。
来どのように活かしていきたいと考
や活動していることで得たものを将
―自分たちが現在勉強していること
で考えていきたいと思います。
将来のことは大学で勉強していく中
て い け た ら い い な っ て 思 っ て ま す。
ある程度自分なりの信仰の道を探し
で天理教をどう受け止めていくのか、
て る の で し っ か り 勉 強 し て、 そ の 中
渡 邊 僕 は ま だ 二 年 生 な の で、 と り
あえず大学には勉強するために行っ
りたいなと思います。
いろんなことを吸収できるようにな
てもらえるかなって考える二年間に
の後自分がどうやってお道に役立て
て い た だ い て、 そ の 二 年 間 の 中 で そ
で す け ど、 今 度 は お 道 の 御 用 で 使 っ
勤務させていただこうと思ってるん
た な っ て 思 い ま す。 今 後 二 年 間 本 部
と を 活 か し、 他 の 学 生 の 手 本 と な る
し て い っ て も ら い た い で す。 そ し て
一れつ会扶育生として今後も学業
を は じ め、 将 来 に 向 け て 心 の 成 人 を
られるでしょう。
ど、 信 仰 面 で も た く さ ん 刺 激 を 受 け
学生会活動や教会でのひのきしんな
クラブ活動以外にも道の学生として、
身 に つ け、 将 来 に 向 け て が ん ば っ て
ー 皆 さ ん は さ ま ざ ま な こ と を 学 び、
と思っています。
然と姿で表していける人になりたい
て 心 を 動 か し て く れ ま し た。 私 も 自
て く れ た 人 た ち は、 行 い や 姿 を 通 し
す。 今 ま で 私 の 考 え 方 に 影 響 を 与 え
込ませていただきたいと思っていま
き た し、 普 段 い ろ ん な 人 と 一 緒 に 過
するっていうことは、格別だったなっ
学 ぶ こ と が で き ま し た。 今 後 も、 親
坂 本 大 学 で は 臨 床 心 理 の 専 門 知 識
を 学 ば せ て も ら っ て、 自 分 の 心 に つ
よう日々通ってください。
活かす
て思います。
身 に な っ て 相 談 に の り、 相 手 の 心 の
いてもすごく考えるようになりまし
本日はありがとうございました。
渡 邊 僕 は 学 修 の 中 で い ち ば ん 印 象
に 残 っ た の は、 選 択 講 義 で 聞 か せ て
ご し た り し て い ま す が、 学 修 み た い
い た だ い た お 話 で す。 岩 井 喜 市 郎 先
曇りが晴れるよう悩みを聞ける人に
た。 学 生 会 や 女 子 青 年 や C S I の 活
し た い で す。 今 後 お 道 の 御 用 の 上 で
生のお話だったんですけど、「信仰と
なりたいです。
動などいろんな信仰活動の場がその
これからも経験したことや学んだこ
い る と 思 い ま す。 学 生 時 代 は 学 業 や
田 中 私 は 心 の 勉 強 を 通 し て、 科 学
的な方法も含めた人の心へのアプ
21
一れつ会扶育生のつどい inTOKYO
日々勉学に励み忙しい毎日を送る扶育生。
今回は、東京の大学に通う扶育生に東京教務支庁に集まっていただき、
扶育生のつどいを開催しました。
平成 23 年 6 月 5 日 於:東京教務支庁
扶育生のつどい開催にあたって
扶育課長 吉 川 万 寿 彦
この「一れつ会扶育生のつどい 」を開
T
O
K
Y
O
と強く願っております。
つ け、 そ し て、 教 区 を 通 し て 信 仰 の 実 践 を し て も ら い た い
かりとお道の仲間を つくり、今で しか学 べない信仰を 身に
育してくださっています。だからこそ、学生のうちからしっ
できるようぼくになってもらいたいという思いを持って扶
いる徳分を存分に生 かして、それ ぞれの 立場でおたす けが
皆さんの学生生活はたくさんの方々のありがたい親心に
支 え ら れ て い ま す。 歴 代 真 柱 様 は、 扶 育 生 み ん な が 持 っ て
いと考えております。
を盛り立て、自分自 身の心の成 人へと つなげてい って欲し
参加することによっ てさまざま な人と 関わりを持 ち、教区
らの将来に生かして いくととも に、教区 の活動に積極 的に
し て く だ さ い。 こ こ で 経 験 し た こ と、 学 ん だ こ と を こ れ か
し て く だ さ い。 そ れ と 同 時 に、 教 区 と の つ な が り も 大 事 に
来のために今の学生の時期にお道の活動に参加するように
のは将来自分自身の 財産になり ます。是 非とも皆さん の将
学生という立場は、 真剣に信仰 に関し て話し合う機 会が
多くあります。学生 時代に真剣 に語り 合った友だ ちという
の趣旨をしっかりと理解してもらいたい。この三つです。
か り と 教 区 と つ な が っ て も ら い た い。 三 つ 目 は、 一 れ つ 会
一 つ は、 皆 さ ん が 今、 学 生 と し て の 立 場 で し か 学 ぶ こ と
の で き な い 信 仰 を 身 に つ け て も ら い た い。 二 つ 目 は、 し っ
催するにあたり、私には三つの思いがありました。
i
n
22
一れつ会扶育生のつどいinTOKYO
扶育生のつどい開催の意義
一れつ会東京教区委員
いう方もいます。そういう方が、これからの人生の
ために、一生懸命何をされているかというと助け合
いと感謝なんです。つまり人間というのは神様から
大きな事情、節をお与えいただいたことの中に本来
何が幸せのために必要なのかということに気がつく
のです。そして、天理教を知らない人たちも一生懸
自分はどうすることが正しいのかという判断を身に
どんな時でも教祖ならどうされるのかな、今ここで
いくかということになります。天理教の教えでは、
吸収した情報をこれからどう生かして人生を歩んで
いうことは皆さん方わかってると思います。自分が
という疑問がわいてきます。決してそうではないと
いることを全部履修したら人間は幸せになれるのか
の幸せということを考えると、今皆さんが勉強して
れは学生の本分ですから一生懸命やるとして、人間
よりよい人生を目指して勉強しているわけです。そ
皆さんは大学生ですのでいろんなことを勉強して
いると思います。毎日いろんな情報を吸収しながら
をしてもらいたいということです。
ります。もう一つは学業を通して自分を鍛える努力
うのはどんな中にいても幸せになるための定規にな
す。生きていく上で、お道の教え、教祖の教えとい
心におさめる努力をしてもらいたいということで
私は、皆さんに二つのことをお願いしたいと思い
ます。一つ目は、学生という立場で、教祖の教えを
お願いしたいと思います。
ても必ず役に立ちます。以上二点をまずは皆さんに
命に勉強した、鍛えた心というのはどの分野にあっ
とを大切にして欲しいのです。努力して我慢して懸
す。とともに、勉学を通して自分を鍛えるというこ
命努力して身につけたらそれは絶対プラスになりま
が積み重ねてきた一つの学問の分野ですから一生懸
ことは大事なことです。どんなことでも、先人先輩
択して入った大学ですから、卒業するまでやりぬく
なことがこの学生生活の中でありますが、自分が選
なるのかなとか思うこともあると思います。いろん
どいことです。だから、途中でこんなことして何に
分がやるべきことを一生懸命するということはしん
学を通して自分で自分を鍛えるということです。自
努力をしてもらいたいと思います。もう一つは、勉
的に参加して、教祖の教えをしっかり心におさめる
今まで以上に青年会、婦人会、学生会の活動に積極
とです。学業とともに学生という立場の中で今後
に絶対に役に立つものだと自覚してほしいというこ
だきます。
して自らを鍛えてください。今日のつどいが有意義
定規を心におさめる努力をするとともに、学業を通
んです。学業を続けていく中で、教祖の教えという
んは、天理教にとって、人類にとって大切な人材な
に連絡をさしてもらったということなんです。皆さ
なってもらいたいという大きな期待を寄せて皆さん
来教祖の教えを守って、人助けのできるようぼくに
まさにこの一れつ会のいちばんの目標なんです。将
活躍してくれる人を育てなければならない。それが
めに、どんどん若いうちから将来ようぼくになって
くして、一人でも多くの人に教祖の教えを伝えるた
をしなければならない。そういう人を一人でも少な
ん作らなかったら知らない人はその分だけ辛い思い
導いてくださる。しかし、それを伝える人をたくさ
いうことは、どんな中にいても人間を幸せの方向に
います。助け合いや感謝という教祖の教えを守ると
を喜ばなければならない、そんな心の和が広がって
たらもっと感謝しないといけない、今の自分の生活
被災地から遠く離れた人たちは被災者のことを思っ
宮 内 泰 夫
つけることが人間にとっては幸せへの近道だと教え
三月十一日大きな地震がありました。私も何度か
被災地に行きましたが、地域によってはふるさとを
命助け合いの輪を広げようと努力しています。また、
てくださっています。まず皆さんに望むことは、生
全部失い、あるのは命と今自分が着てるものだけと
なものになることをお願いして私の話とさせていた
きていく上で教祖の教えは皆さんが幸せになるため
23
一れつ会扶育生のつどいinTOKYO
森井史洋/中央大学 2 年
東京教区学生会委員長
寺﨑栄一/東京大学院修士課程 1 年
扶育生のつどい式次第
大学院生ということで最初はどう
なるかと思いましたが、来てよかっ
たです。同世代の人、年下の子、み
■
吉川課長挨拶
んながやっていく学生会。また来
■
宮内委員挨拶
■
各活動案内
■
学生会主催行事
■
扶育生面談
■
記念撮影
■
懇親会
たいです。
小西匠/東洋大学 4 年
普段関わることのない人とこうい
う機会をいただいて、自分が扶育
生であるという自覚を再確認でき
たので、今回本当に来てよかった
学生会と関わりのない扶育生と会
い、1 人でも多くの人に春の学生お
ぢばがえりに誘えるチャンスをい
ただき本当に感謝しています。
石田ゆめの/大正大学 4 年
いつも女子青年として教区に来て
いますが、学生会とは関わりがな
かったのでこの機会に関わってみ
て、学生会のよさがわかりました。
です。
天理教東京教区『三才寮』のご案内
東京教務支庁内に男子学生寮『三才寮』があります。この寮は、寮生活を通じて信仰を深め、
将来の道のようぼくを育成することを目的としています。
寮生活また教区学生会活動などを通じ、お道の仲間同士の絆を深め、笑顔あふれる充実
した大学生活を過ごしませんか?
【寮
【寮
【募 集 定 員】5 名(新 1 年生のみ)
【願 書 受 付】平成 23 年 11 月 1 日~平成 24 年 1 月 17 日
【願書提出先(問い合わせ先)】
〒 170-0003 東京都豊島区駒込 7 丁目 1 番地 4 号 東京教務支庁
TEL 03-3917-0247 FAX 03-3917-1441
※入寮願書は上記教務支庁の他、一れつ会事務所及び学生担当委員会事務所にあります。
費】25,000 円(自室電気代は別) 舎】6 畳和室、エアコン付き(炊事場、風呂、トイレ共用)
24
あることがきっかけでウォーキングをす
ることになり、せっかくならゆとりをもっ
﹁感謝すべきことは﹂
ができていたでしょうか。人として最も純
のような気持ちをどれほど自然に思うこと
くごく普通にあちらこちらで耳にするよう
た東日本大震災の後、こういった言葉をご
て長続きするようにと、ゴミを拾いながら
粋に感じることができる「喜び」の心を私
◇
毎日の学生生活では、あたりまえのよう
に 学 校 へ 行 き、 授 業 を う け、 ク ラ ブ 活 動
たちは忘れていたのかもしれません。
になりました。この震災が起こるまで、こ
始めることにしました。
車 や ミ ニ バ イ ク で 通 り 慣 れ て い る 道 で、
普段気にもとめなかったのですが、ゴミ袋
がいっぱいになった翌日でも、前日ほどで
はありませんが、不思議とゴミは溜まって
とではありますが、とても喜びとしての実
じられることに気づきました。何気ないこ
ありませんが、その日によって、違いを感
気温や湿度など。数値的な細かなものでは
感じることがありました。風の強さや向き、
いる状況・立場・生活を省みて、いかにけっ
を経験し、あらためて今おいていただいて
少なくありません。しかし、こうした震災
ゆえの不便さなどを感じ、不足をいう者も
す。さらに寮生活をする上では、団体生活
すると単調な時間の繰り返しと感じがちで
をいただき、テレビを見て、寝る。ややも
をするでしょう。また、生活面では、食事
感をかみしめられた気がしました。大層か
いきました。正直気持ちのよいものではあ
りませんでした。しかし、それ以上に肌で
もしれませんが、自然の恵みを感じること
こうなものであるかを実感することができ
もっともっと毎日の身近なものに目を向
けてはいかがでしょうか。
るでしょう。
ができた身体に感謝。
「生きていることがあたりまえではない
ことがわかった」
「たくさんの方々からのた
(井久保 斉・陽心寮主任)
4
2
662 281
84
1
59
60
3
1
1
1
138 143
61
791 805 342
4
4
2
2
50
180
458
441
520
633
3
51
2336
219
254
13
56
542
2878
70
156
110 110
174
148 169
54
159
110
175
148
1
6
653
69
69
おやさと
おやさと
全国各地
全国各地
25
すけがあって今ここにいる」
「感謝の気持ち
をもてるようになった」など、
三月に起こっ
卒業生
50
56
143
111
171
168
2
39
740
61
64
13
56
194
934
計
1学年 2学年 3学年 4学年 5 学年 6 学年
区分
天理小学校
天理中学校
天理高校第一部
天理高校第二部
天理教校学園高校
天理大学
天理大学院
留学生(受入)
小 計
高校・高専
大学・大学院
留学生(派遣)
海外委員会
小 計
合 計
61
162
129
160
141
0
39
692
75
47
4
18
144
836
天理中学校
天理高校第一部
天理高校第二部
天理教校学園高校
天理大学
天理大学院
留学生(受入)
小 計
高校・高専
大学・大学院
留学生(派遣)
海外委員会
小 計
合 計
区分
卒業扶育生統計
平成 23 年度 在学扶育生統計(平成 23 年 4 月現在)
平成 22 年度
記
録
春野享 松村義司 本部准員、少年会
本 部 委 員 長、 高 安 大 教 会 長。
鹿尾辰文 本部准員、表統領
室 世 話 課 長。 天 理 大 学 卒 業、
歳。
一れつ会事務所 (○印は新任)
事務長 岩谷富太郎 《扶育課》 課長 吉川万寿彦
寺田裕司 網島分教会長。天
理大学卒業、 歳。
柏 木 大 明 東 中 央 大 教 会 長。
日本大学大学院修了、 歳。
今西國直 山陰大教会長。天
理大学卒業、 歳。
山本忠治 城法大教会長。天
理大学卒業、 歳。
宇 野 美 和 越 乃 國 大 教 会 長。
大阪市立大学卒業、 歳。
47
野口 求一
片亀 理治
加藤 一郎
船
井 一二(学校)
小
谷 明広(学校)
池
野栄美子(学校)
天理高等学校第一部
福
原 章(学校)
長
谷 幹男(北寮)
大
瀬 裕 ( みのり寮)
委
員 飯
降 成彦(校長)
宮
谷 理(副校長)
竹
森 博志(教頭)
○
掛
鹿
尾 辰文( 世話課長)
横
山 徳義(詰所会)
林
直人(学校)
井
久保 斉(陽心寮)
山
下 幸司( さおとめ寮)
委
員 飯
降 成彦(校長)
宮
谷 理(副校長)
○ 大
仲 賢(教頭)
斉
藤 仁(学校)
坂
内弘三郎(学校)
天理高等学校第二部
掛 山
本 幸代(学校)
宇
野明二郎(北寮)
岩
谷 富男(北寮)
○ 久
保 洋子 ( みのり寮)
事務所掛員として扶育生
の世話取りにあたっていた
扶育委員・掛
五月三十一日付で退職した。
任し、清水ゆうこ(会計課)は
部三日講習課から庶務課に着
へ異動、池田真実は教化育成
み(庶務課)はひのきしん寮
また、四月一日付で野本ひと
は三月三十一日付で退職した。
異 動、 曽 谷 ま さ み( 扶 育 課 )
一日付で教化育成部研修課へ
松 本 恵 太 郎( 会 計 課 ) は 三 月
江 川 嘉忠
梶谷 悟
池田 真実
天理中学校
野口 基志
《評議員》
大和 豊人 委
永尾洋夫 本部准員、教化育
員 山
本 洋(校長)
○ 平木 利幸
島
成部研修課長。天理大学卒業、
幹典(教頭)
○ 野村 有理
歳。
掛 大
木 博(学校)
《庶務課》 課長 統領室次長兼
高知大学卒業、
本 部 准 員、 内
内統領室修練
役員・評議員
《理事長》
田中信行 本 部 員、 治 理
掛 主 任、 岸 部
歳。
分 教 会 長。 天
歳。
岡 大 学 卒 業、
部次長兼ヨー
本 部 員、 海 外
本 部 准 員、 事
ロッパ・アフ
歳。
分 教 会 長。 静
50
理 大 学 卒 業、
永尾教昭 務 長。 天 理 大
リ カ 課 長。 天
理 大 学 卒 業、
51
55
学卒業、 歳。
学生担当委員
歳。
会 副 委 員 長、
48
45
《常任理事》
岩谷富太郎 梶本宗彦 金山雄大 養 科 授 業 掛 長、
本 部 准 員、 修
鍜冶惣分教会
淀 分 教 会 長。
歳。
天理教校本科
卒業、
歳。
《監事》
長。 天 理 大 学
卒業、
本部員、道友社
長。カリフォル
ニ ア 大 学 卒 業、
歳。
46
58
58
55
中野 悦男
増井幾博 本部員、輸送部長、
田口 元太 天理小学校
大縣大教会長。天理大学卒業、
委員○ 後 藤 典郎(校長)
妹尾 智昭
歳。 石上 理恵
西浦忠一 本部准員、道友社
○ 森 島 義則(教頭)
○ 森岡小百合
編集出版課長。天理大学卒業、
掛○ 赤 木 初美(学校)
《会計課》 課長 石 塚 成男
○ 谷 田 雅人(学校)
歳。
61
50
《理事》
諸井博和 52
50
54
63
60
26
山田 建司(陽心寮)
林
美
記( さおとめ寮)
○ 中
村めぐみ( さおとめ寮)
近
藤喜一郎(詰所会)
早
渕 隆憲(詰所会)
○ 清
水 直信(憩の家)
天理教校学園高等学校
委
員 中
村三藤志(校長)
藤
原 俊英(教頭)
大
西 吉治(教頭)
○ 藤
野 和彦(学校 )
王
子 久則( あらき寮)
○ 岩
佐 元明( かがみ寮)
天理教語学院〔日本語科〕
委
員 鈴
木 茂則(学校)
掛 中
井 健治(学校)
森
口 千壽(寮)
また、各地の大学生、大学
院生には返還のしおりを含む
手続きに必要な書類一式を二
月一日にそれぞれ送付した。
卒業お礼参拝
平成二十二年度
天理大学および天理大学院
扶育生を対象とした、扶育費
月二十一日に卒業お礼参拝を
喜びの卒業を目前にした
扶育生六六三人が参加し、二
扶育費返還説明会
返還説明会が、一月二十二日、
行った。
二月五日に行われた(於教庁
四 階 講 堂 )。 説 明 会 で は、 岩
東礼拝場にて卒業お礼の参拝
を行った。
学生生徒修養会・大学の部
新扶育生決定懇談会
平成二十三年度新扶育生
八九二人の内、おやさと管内
七五二人を対象に、創立の趣
旨の徹底をはかるため、扶育
決定懇談会を開催した。
(四月一日)
天理大学
(四月六日)
天理大学(育英生)
天理教校学園高等学校
天理教語学院
(四月七日)
区(五教区)においては、扶
育決定書を送付し、懇談会に
要員決定懇談会を五月十四
日に開催して、平成二十三年
代えた。
天理中学校
(四月十四日)
度の要員をそれぞれ決定し
要員決定懇談会
天理小学校
(五月三十一日)
生 六 九 人、 天 理 大 学 扶 育 生
五二三人の内、各地大学扶育
七 日 間 開 か れ、 全 参 加 者 計
た。なお東日本大震災により
日 か ら 五 月 八 日 ま で の 間 に、 ・縦の伝道要員(三年一人)
全国各地高等学校の新扶育
生六六人に対しては、教区委
三月二十五日には、要員予
定者懇談会を開催した。
二 十 七 の 教 務 支 庁 に 於 い て、 ・学生層育成要員(三年七人)
員会主催のもと、四月二十九
・本部各部署要員(一年六人)
た。
一四一人が参加した。
懇談会が開催できなかった教
三年二人)
・ 海 外 伝 道 要 員( 四 年 二 人・
各地大学扶育生に対して
は、閉講式の後に懇談会及び
扶育決定懇談会が開催され
個人面談を行った。
学生生徒修養会・大学の部
が、三月三日から九日までの
天理高等学校(育英生)
た。その後、一同は揃って神
天理高等学校第一部
殿に赴き、感謝の思いを胸に、 天理高等学校第二部
(四月八日)
育生一同に餞の言葉を贈っ
参拝に先立ち、本部第二食
堂に於いて、田中理事長が扶
谷事務長挨拶の後、扶育費返
島
根 忠雄( ひとすじ寮) 還のしおりをもとに返還の概
掛 三
谷 豊人( あらき寮) 要および事務手続きなどにつ
○ 平
田 泰隆( かがみ寮) いて説明し、最後に質疑応答
金
山 澄明( ひとすじ寮) を行った。
天理大学
奥
田 好廣(学生部)
岡
本 吏司(学生部)
委
員 澤
井 義次 鈴
木 光( 事務局長)
佐
藤 真一( 学生部長)
掛 和
田八重子(学生部)
近
藤 善成(学生部)
○ 植
田 善治(学生部)
中
西 彩(学生部)
土
井 寿恵(学生部)
27
直属教会扶育生
育成担当者会議
各直属教会ごとの扶育生育
成担当者 一二五 人が参加のも
と、平成二十三年度担当者会
議が五月二十五日午後四時か
ら教庁四階講堂で開催され
た。席上、直属教会ごとの在
学扶育生名簿、卒業予定扶育
式を行った。午前八時、東礼
拝 場 に て 扶 育 生 役 職 員 一 同、
べ、大学扶育生として今後の
さらなる決意を誓った。奨励
心をひとつにお礼のおつとめ
六十四歳。先生は、平成十六
年六月から石川教区長、あわ
せて一れつ会石川教区委員会
信行理事長挨拶の後、扶育生
き、第二食堂に移動し、田中
和五十年四月から昭和五十六
た。享年九十一歳。先生は昭
二十三年三月十八日出直され
松 山 和 子 先 生(江州分 教 会
前 会 長 夫 人 ) は、 去 る 平 成
第である。
に謹んで哀悼の意を表する次
種々ご尽力くだされた。ここ
元評議員 松山和子先生
の代表四人による感話を発表
委員長として子弟育成の上に
し、創立記念式とした( 一か
年三月まで評議員として子弟
あとがき
ら九頁に理 事 長 挨 拶 及 び 扶 育
▼ご協力いただきました皆さまあ
育成の上に種々ご尽力くださ
りがとうございました。センスの
ある人たちに助けられ何とかなり
ました。今いちばん欲しいものは
れた。享年八十九歳。先生は
二十三年十月二十五日出直さ
中 村 一 義 先 生(掛川分 教 会
第 六 代 会 長 ) は、 去 る 平 成
を押して元の状態に戻してもらい
▼会報作成中、困ったときは z
に厚くお礼を申し上げます。(かめ)
ことを幸せに感じます。多くの方々
▼一れつ会で御用をさせていただ
センスです。
(求一)
昭和四十四年三月から昭和
ました。人生における z を使え
元評議員 中村一義先生
五十三年三月まで評議員とし
たら使ってみたいものですね。(一)
いた軌跡としてこの会報を残せる
て子弟育成の上に種々ご尽力
れた。ここに謹んで哀悼の意
生感話掲載)。
をさせていただいた。引き続
生は次の通りである。
( )内は学部・学年
大谷 拓也(体育・四年)
坂梨 徹(人間・四年)
松田 理代(人間・三年)
山村 聡美(文・二年)
学生生徒修養会・高校の部
たは近い日にそれぞれの教会
を表する次第である。
学 生 生 徒 修 養 会・ 高 校 の
部(一三五五人参加)が八月
でお礼のおつとめやひのきし
なお全国各地で学ぶ扶育生
に対しては、記念式当日、ま
配布し、各直属教会における
九日から七日間開かれた。参
んをさせていただくよう呼び
生名簿及び返還適用者名簿を
扶育生の丹精をお願いした。
加 者 は お ぢば で の 合 宿 生 活 の
◇
かけた。
◇
元理事 山澤秀信先生
訃報
中で教理を学び、信仰につい
内、一一五人が参加した。ま
奨励内規の適用
一れつ会では、学芸及びス
ポーツに丹精して顕著な成果
た他に天理高校扶育生の中
を挙げつつある扶育生に対し
で自宅生の参加は、一一人で
て深く語り合った。今回、全
て、扶育の一環として奨励内
あった。
くだされた。ここに謹んで哀
石川教区委員会委員長
悼の意を表する次第である。
山 澤 秀 信 先 生(本部員 ) は、
去る平成二十三年十一月十一
▼最後の会報ほぼ何もせず任せっ
きり。編集員みんなに感謝。来年
は結婚して嫁と一緒に会報楽しみ
にしてます!!( )
とは言わないかっこいい皆さまに
安
田清治先生
昭和五十年三月まで理事とし
かなり助けていただきました。(真)
て子弟育成の上に種々ご尽力
安 田 清 治 先 生(尾山分 教 会
長 ) は、 去 る 平 成 二 十 三 年
日出直された。享年八十五歳。
先生は昭和四十四年四月から
創立八十三周年記念式
国各地高校扶育生 二一四 人の
規を適用し、奨励金品を授与
している。
今年度は、天理大学扶育生
四人が奨励対象者となり、七
月 十 四 日 に 授 与 式 を 行 っ た。
平 成 二 十 三 年 十 月 十 八 日、
一れつ会は創立八十三周年を
くだされた。ここに謹んで哀
かキツイって言うけど決して無理
▼被っていた猫はどこへ…大変と
ともに、奨励金が手渡された。 ( 日 ) に お や さ と 管 内 で 学 ぶ
にねぎらいの言葉をかけると
扶育生を中心に、二○七四人
その後、奨励生を代表して
坂梨徹君がお礼の言葉を述
七 月 三 日 出 直 さ れ た。 享 年
式では、田中理事長が奨励生
ctrl
悼の意を表する次第である。
迎えた。本年は、十月十六日
ctrl
が集まり創立八十三周年記念
T
28
親神様が望まれる陽気ぐらしの世界は、心一つの治め方によって与えて頂ける
のであります。人々の暮らし方や能力に差別があっても、心の治め方一つによっ
て、苦しみも転じて喜びと変えて頂くことが出来るのであります。成ってくる
理を喜んで受けられるのは、心一つの理によるものであります。心一つによっ
て、我々は、日々明るい、陽気な、平和な世界を与えて頂けるのであります。
真に親神様の思召に添うた一人の陽気ぐらしから、多くの人々の陽気ぐらしが
もたらされ、ひいては、明るい平和な陽気世界が成り立ってくるのであります。
創立二十四周年記念式における二代真柱様のお言葉