第66号 - 黄檗宗 霊亀山 九島院

〒550-0022 大阪市西区本田3丁目4番18号
℡ 06(6583)2725
FAX 06(6583)0908
本年は、黄檗宗大本山萬福寺開創三五〇年記念の年です。
とは 努力 の意 味で すが 、努 力し よ
うに もど うに もな らな い状 況に 置
かれている被災者の方々にとって、
問題 の解 決は むし ろ、 他者 の行 為
によ るの です 。阪 神淡 路大 震災 や
中越 地震 の時 は﹁ がん ばれ 神戸 ﹂
﹁が んば れ新 潟﹂ では なく 、﹁ が
んばろう神戸﹂﹁がんばろう新潟﹂
とい うキ ャン ペー ンで した 。﹁ が
んば る﹂ のは 、支 援す る我 々に 本
気でがんばる決意が必要なのです。
そ うい った 意味 で、 ﹁何 かお 役
に立 てる こと はあ りま せん か。 私
たち が何 とか しま すか ら。 あな た
が生 きて いる だけ で十 分で す。 先
のこ とは 考え ずと りあ えず 今日 を
生きてください。あせらずに、ゆっ
たり 精進 なさ って 下さ い、 何と か
しま すか ら。 ﹂と 、お 声を かけ れ
ばい いの では ない でし ょう か。
墓地管理費のご納付をお願いします。墓参りの折、郵便振込みでも結構です。
被 災者を傷つ ける﹃が んばれ!﹄ という言葉
ところが、 日本人が ﹁がん ばれ!﹂
と言う時に は、必ず その上 に﹁もっ
と﹂ と い う 言 葉 が つ い て き ま す 。
日本 語 の ﹁ が ん ば れ ! ﹂ は 、 す で
に最 善 を 尽 く し て い る 人 に 向 か っ
て、 も っ と 頑 張 ら な い と い け な い
と鞭打 って いる ので す。
人間にはどうしてもベストを尽
くせ な い 状 態 に な っ た り 、 ス ラ ン
プに 陥 る 事 も あ り ま す 。 ﹁ も っ と
がん ば れ 、 も っ と 努 力 し ろ ﹂ と 言
われてもど うしよう もあり ません。
非常に 酷な 話で す。
今回の被災者も、地震と大津波
によ っ て す べ て 失 っ て し ま わ れ 、
菅首 相 の ﹁ 全 て の 被 災 者 が 盆 ま で
に仮 設 住 宅 に 入 居 し て も ら う ﹂ と
の声 明 が 虚 し く 聞 こ え る な か 、 さ
らに 原 発 事 故 に よ っ て 故 郷 に 帰 れ
ない 方 々 に と っ て ど う 頑 張 れ ば い
いので しょ うか 。
では、どのように被災者の方々
を慰 め 励 ま し た ら い い の で し ょ う
か。
仏教で は、﹁精 進 し(ょう じん ﹂)
という 言葉 があ りま す。 ﹁精 進﹂
∼被災者の為に本気で頑張る決意が必要∼
東日本 大震 災で被 災さ れた 皆様 、
大切 な 家 族 や友 人 を 亡く さ れ た 皆
様に 、 心 か らお 見 舞 い申 し 上 げ ま
す。
自 衛 隊 や 全国 の 自 治体 職 員 、 多
くの 民 間 ボ ラン テ ィ アや 著 名 な ス
ター や ア イ ドル の 方 々が 、 被 災 地
に入 り 、 連 日支 援 活 動を 続 け て お
られ ます 。
震災のあっ た当初、AC 公
(共
広告機構 の
) CM などで﹁がん ば
れ日本!﹂﹁前を向こう!﹂とい っ
たメ ッ セ ー ジが 繰 り 返し 流 さ れ て
いま し た 。 そう し た ﹁が ん ば れ ﹂
とい う 言 葉 は、 は た して 被 災 者 の
方々 を 励 ま すこ と に なっ て い る の
でし ょう か。
人 を 励 ま す時 、 ﹁ どう か 、 が ん
ばっ て く だ さい ﹂ と 言っ て し ま い
ます 。 老 若 男女 に 関 わら ず 、 何 か
言うとつい﹁がんばれ、がんばれ ﹂
と言 いま す。
こ の ﹁ が んば れ ﹂ とい う 言 葉 英
語に 訳すと ﹁ DO YOUR BEST!
﹂で 、
あな た が で きる ベ ス トを 尽 く せ ば
いい の で あ り、 そ れ 以上 の も の を
求め てい るわ けで はあ りま せん 。
奥 田 啓 知 (智證)
第廿五代住職
発行者
霊亀山
大阪市史跡
龍渓禅師墓所
発行所
号
66
第
1日
7月
平成23年
第 66 号
灯
龍
(1)
そ
︵龍渓禅 師一代記︶その七
∼ 龍渓と 隠元禅師③ ∼
ま
み
じ
ん
っ こん
か
めのうちは何らの自由も与えられず、
一般俗僧の参見も禁じられていた。
十月十 二日 、隠元 は板 倉重宗 の訪
問を 受 け 、渡 来 の 事由 を 問 わ れ、
也嬾首 座の 渡来が なら ず、長 崎か
「
ら再 三の懇 請によ って 来朝 した と
」
答えた。
十九日 には 再度の 訪問 を受け 、設
斎茶話をした。茶 話は和やかなうち
に行われ、重宗は 隠元より﹃独真性
空﹄という法名を 授かっている。こ
のようにして疑い も徐々に薄れ、俗
僧が少人数ずつな らば、隠元に参見
してもよいという 許可が下りた。こ
れには、笠印の奔 走も関係していた
が、隠元に対して は、幕府もかなり
慎重な態度をとっていた。
十一月八日、老中阿部豊後守忠秋・
松平伊豆守信綱・ 酒井讃岐守忠勝・
酒井雅楽守忠清連 署で、板倉重宗・
京都所司代牧野親 成の両人に宛てて
書簡 を送り 、 重
「 宗 の訪 寺以後 少人
数ずつ隠元に参見 しても苦しくない
ように申し渡した そうだが、今のう
ちは多人数になら ぬようにせられた
い。ぜひとも隠元 に会う必要のある
者は格別だが、と かく多くの者が入
り込んでは、隠元のためによくない。
もくあんしょうとう
その点 考慮 し、高 槻城主 永井日 向守
直清・ 代官 小堀仁 右衛門 正春に 時分
を見計 らっ て見廻 るよう に申し 付け
られたい と」注意を与えている。
ところが、 隠元を拝することができ
ると伝え聞き、十一月二十八日には、
折から の親 鸞聖人 の祥月 命日で 、普
門寺近 くの 一向宗 寺院に 参詣し た数
千人の 群集 が、制 止も聞 かずに 普門
寺に入 り込 み、そ のため 笠印は 重宗
に呼び 出さ れて大 いに叱 責され 弁解
せざる をえ なかっ たと﹃ 黄檗外 記﹄
には記す。
隠元は、普 門寺に晋山したが、本国
に帰る気持ちを忘れたわけではなかっ
た。翌 明暦二 年 一
( 六 五六 は
) 、隠元
東渡二 年、 いよい よ隠元 が中国 黄檗
山の僧衆 諸
・檀越に帰山を約束した年。
一時帰 国し ていた 無上性 尊が四 月に
再来し て黄 檗山の 僧や信 者たち の隠
元帰国 を促 す書簡 を持参 した。 それ
らはす べて 、三年 の約束 を守り 隠元
に帰国 を促 すもの であっ た。折 から
江戸か ら帰 寺した 龍渓に 懇留さ れ、
帰国を思い止められた。
龍渓 歳、この時より龍渓の江戸下
向が始 って いた。 隠元を 普門寺 に留
め置く こと を幕府 に懇請 するた めで
あった 。そ の結果 、幕府 は五月 三日
付けの 覚書 を下し てこれ を許可 した
が、前 年七 月九日 に隠元 を追う よう
にして 長崎 に来航 した木 庵性滔 の普
門寺への来寺は、許可されなかった。
木庵は隠元渡来前の嗣法者 法
( の跡継
ぎ で)ある。
龍渓は帰郷の念を募らせる隠元を
引き留める為に、 月 日西来亭を
建立し、また禅堂の建立を求め同覚
書で許可された。
七月二十六日、幕府は再び普門寺
に覚書を下し、厳しい制約のもとで
はあるが、隠元にいくばくかの自由
を与えた。①京都・奈良・大坂・大
津・堺の五箇所に、隠元が 日 ・
日ほど在留で出掛けてもよいが、龍
渓・禿翁・笠印の内誰か一人付き添
うこと。それ以外の地へは寺社奉行
に伺いを立て指図を受けること ②
普門寺に集まる日本僧は二百人に限
ること ③俗人の隠元への参謁は、
龍渓・禿翁・笠印の三人協議の上、
信心ある者に限ること。以上三ヵ条
が通達された 慶
( 瑞文書 )
十月には、禿翁・笠印の二人に招
かれて、初めて京都に上り、妙心寺
南
・ 禅寺・東福寺等などを巡歴し、
笠印が開創した龍華院に三宿した。
隠元を懇留する為、龍渓はその後
幾度も江戸往復し幕府に画策する。
︵つづく︶
20
墓地管理費のご納付をお願いします。墓参りの折、郵便振込みでも結構です。
波濤の夢
お
ちょう
普門録・隠元全集二六〇五によれ
ば隠元が普門寺に入寺した二週間後、
明暦元年 一(六 五五 九)月二十一日に
は龍渓は隠元を近隣の西原の慶瑞古
蹟に案内し、中興の志を述べた。こ
の慶瑞古蹟は後に復興された。九島
院の本寺にあたる。
同日、板倉周 防守右少将重宗 一(五
八六∼ 一六五 六 が
) 初 めて普 門寺を
訪れた。﹃普照国師年譜﹄によれば
謙
「 恭、 致重に して、 相見え るをの
晩きを恨んだ と」ある。
当時、 京都所 司代は 牧野佐 渡守親
成が補されていたが、笠印とも昵懇
で、隠元の普門寺招請にも好意をう
けた板倉重宗も補佐して京都に在留
していた。
龍渓も かつて 紫衣事 件の際 、妙心
寺の伯蒲慧稜の弟子琢首座であり、
板倉重宗とは旧知の間柄であり、大
檀越として寺主の龍渓らと共に隠元
を、普門寺に招請し、禿翁・笠印ら
と祝国開堂 祝(聖開堂などともいう。
天子の聖寿無窮と国家の平和を祝祷
する儀 式をと もな う開堂 を) 請い、
十一月四日に開堂が行われた。
普門寺 晋山当 初、隠 元は中 国の間
諜ではないかと幕府から疑われ、始
当院は、阪神なんば線で、なんばから7分です。
10
普門寺 仏殿に掲げられた
隠元書の額『獅林』
1日
7月
平成23年
第 66 号
灯
龍
(2)
55
5
21
350
9
行 事 報 告
⋮花まつり
行 事 案 内
開催日
お寺
月
月
ヨガ
月
参(加者
日︵月︶
日︵土︶
日︵日︶
名
)
時∼
時∼
時∼
三回 目 の開 催で す。 老若 男女 問
わ ず、どなた 様でもご 参加 。初心
者 向きです 。本堂で 寝転がっ てみま
せんか?
開催日
お寺
五回 目の 開催 です 。ど なた 様で も
ご参加可能です。
開催日
写経会
多く の子 ども 達に ご来 院い ただ き
楽 しいひと時を 過ごしましょう 。
開催日
地蔵盆子ども会
YOGA
月
日︵土︶
時∼
フラワーアレンジメント
永代供養墓
大(亀地蔵尊
)
○継承者がいなくても安心
○無縁になる心配がない
○お寺が続く限り供養される
○永代位牌が位牌堂に祀れる
○彼岸 お・盆には大勢の僧侶で
の回向がなされる
○ご 遺骨は 大亀地 蔵尊の 蓮台
下 で土に 還るよ うに埋 葬さ
れる
○永代供養だけの方も大丈夫
○生前に依頼もできる
○維持管理料は不要
○永代志納金 一霊三十万円
○永代位牌は二種類
○宗旨 宗・派は問いません
○お 墓を整 理して 合祀さ れる
方もおられます
◎新規境内墓地 西( 区で当院だけ
も募集しています。
お問い合わせ下さい。
⋮写経会 参(加者 名 )
お 墓を建 てても いずれ は無
縁に なるか ら、と のお考 えの
⋮先代十七回忌 並びに先代坊守
方の 相談を 受けて できた 永代
一周忌法要を厳修致しました。 供養合祀墓です。
3/26
初めての開催となります。新たな
取り組みです。老若男女問わず、ど
なた様でもご参加 。材料費込みの
参加料二千円。
)
墓地管理費のご納付をお願いします。墓参りの折、郵便振込みでも結構です。
14
詳しくは、当院ホームページをご覧下さい。→http://www.kyutouin.or.jp
本年は、黄檗宗大本山萬福寺開創三五〇年記念の年です。
12
年 記念 行事 延期☆
350
3/27
檀信徒の皆さまへ
)
5
4/2
☆ 東日本大震災義援金☆
今春彼岸にご協力いただいた
﹃東日本大震災義援金﹄は、六
萬参千参百参拾八円になりまし
た。日本赤十字社に 月 日に
振り込みました。引き続き、募
金活動は続けていきますので、
ご協力をお願いします。
☆ 開創
4
☆駐車場新設☆
回修養会☆
日です。 別(紙参照
8
龍燈 会館 の隣 家 の建 物と 土 地
を 購入 しま した 。 坪 の敷 地 に
台分 の駐 車場 と 階 建て の 積
水ハウスがあります。
昨今 の厳 しい 駐 車違 反取 締 り
で 、境 内駐 車ス ペ ース に限 り が
あ り、 墓参 や参 詣 に来 院さ れ る
方々 が、違 反切符 を切られ たり 、
レ ッカ ー移 動さ れ 、憂 慮し て お
350
10:30
26
14
15
14
OK
14
4
11:30
22
1
2
26
10/21
10/22
10
de
10
de
1
ら れま した 。た ま たま 、隣 家 の
東 日本 大 震災 の被 害甚 大 に鑑
購 入の 話が 持ち 上 がり 購入 し た
み、 月 に 予定 され てい た 黄檗
次第です。
当該 土地 は戦 前 、当 院の 境 外 宗大 本山 萬福 寺 開創 年記 念関
地 でそ こに 借家 を 持っ てい ま し 連の 法要 は 左記 の通 り延 期 され
た が、 昭和 年に 本堂 再建 費 用 ました。
の一 部とし て売却 したもの です 。
金( 授
) 戒会 午前 午・後
今春 、先 代弘 忠 和尚 十七 回 忌
申込締切
月末日
を 厳修 した おり 、 霊前 に報 告 し
ま した 。先 々代 榮 忠和 尚と 弘 忠
土( ) 松隠堂修復落慶法要
和 尚が 、泣 く泣 く 手放 した 寺 有
地 が戻 って きま し た。 こん な 嬉
しいことはありません。
萬福寺開創 年記念法要
月 日に 建物 の撤 去工 事 に
着 手し 、約 ヶ 月 の工 期で 、 来
院 者の 無料 駐車 場 にし ます 。 今
夏 のお 盆の 墓参 に は間 に合 う か 九州国立博物館での﹃黄檗展﹄
と存 じます ので、 ご利用下 さい 。 は好評のうちに 万人の入場者
尚、 乗用車 台が 駐車可能 です 。 を集め終了しました。秋には、
難波高島屋で読売新聞社主催で
﹃黄檗展﹄が開催予定です。
5
☆第
月
OK
29
11 17
25
1
5
5
11
3 31
1日
7月
平成23年
第 66 号
灯
龍
(3)
(4)
龍
灯
第 66 号
奉納便り
す ゆき
8月 23
日(火 )午後 7時半より
※大亀地蔵尊埋葬者供養の法要
ま
大亀地蔵尊盆
○金参拾萬円御寄進 ︵平成廿三年二月二十四日︶
小林陽子 様よ りご主人故潤伍様のご冥福を
祈り、金参拾萬円が 寄進されました。お寺の
為に有意義に使わせ ていただきます。誠に有
難うございました。
ご回向お申込み下さい。法話:住職
編集後記
8※ご先祖供養です。宗旨に関係ありません。
月 19日( 金)午 後 1時半よ り
1日
5
川津波記﹄ という石碑があります。安政 大地
震 (1854)
で の津波被 害を詳 細に記し 、 百「 五
十年年前も 宝永大地震による津波でも多 数の
死者が出た が、年を経て伝え聞く者も少 なく
なり再び多 くの犠牲者が出た。地震が発 生し
た ら津波が 起こる と心 得て舟 に乗る な と」 警
告していま す。そして、最後に毎年文字 が読
みやすいように墨入れをせよと結んでいます。
▼私たちは 先人の遺した貴重な教えを風 化さ
せないで、 防災意識をより一層高めてい かね
ばなりません。
水灯会(お施餓鬼法要)
12
7月
癒えない 月には台風まで上陸 し被害を与え
ました。
▼ 天「災は忘れた頃にやって来る と」は昔の話
で 毎「日天災がやって来る と」覚 悟しなければ
ならないご時世です。
▼三百四十一年前には台風によ る大津波が大
坂を襲いました。枚方あたりま で浸水したそ
うで、当院開山龍渓禅師が水定死されました。
﹃波濤の夢﹄ 拙(紙連載中 で)後 日詳しく書き
ます。
▼木津川に架かる大正橋東北詰 に﹃大地震両
ご 案 内
九条から阪神三宮駅・近鉄奈良駅まで直通電車が走ってます!
川柳相合傘の例会で、「悩む」という課題が出ました。小生
の句は「言うべきか 言わざるべきか 空(から)の布施」でした
が、偶然同じ発想の句が出て負けてしまいました。「言うべき
か 言わざるべきか ヅラのずれ」
福島の原発事故で記者会見している、原子力安全保安院の西
山審議官がカツラをしている為か、保安院の隠蔽体質を「カツ
ラ疑惑」と絡ませて、インターネット上に書き込みが多く出て
います。件の作者も保安院の記者会見を見て創作したのだそ
うです。
そういえば、イギリス王室のチャールズ皇太子とケイト・ミ
ドルトンさんとのロイヤルウエディング。パレードでの皇太
子の頭髪が少々薄く、俗に言う若ハゲだったのには驚きまし
た。ロイヤルウエディングはアメリカでも大騒ぎだったよう
ですが、髪の毛のことについては全く話題にならなかったそ
うです。
欧米諸国はハゲには寛容的で、むしろ男性的でセクシーとい
う感覚があるようで、ハゲを恥と思っているのは日本人だけ
なのかもしれません。
世界的な皮膚医学の権威、ドイツのホフマン博士は、神経系
統の中心である脳髄が発達するほど頭髪は微弱になる。頭を
使うほど人間はハゲる。ことに近来、文明社会の高度の発達
は益々それに拍車をかけ、やがて人類は無毛の時代にはいる
であろうと予言しています。
情報化社会、神経を使う人間が激増している今日、日本でも
程度の差こそあれ日本人の人口の1割、一千万人がハゲてい
るそうで、しかも年々30%ぐらいは確実に増えていると,あ
る男性カツラメーカーが話していました。
剃髪している小生から言えば、高
価なカツラを買うぐらいなら、カミ
ングアウトして、心のカツラを脱ぎ
ましょう。「ヅラを棄てて街に出よ!」
と言いたい。それでこそ、安上がり
で精神的に開放されますよ。
▼今年の入梅は平年 より 日も早く史上二番
目だそうです。東日 本大震災の惨状が今だに
●ヅ ラを 棄て て街 に出 よ●
平成23年
墓地管理費のご納付をお願いします。墓参りの折、郵便振込みでも結構です。