P2~5少年の主張大会(PDF:1454KB) - 鞍手町

今
少年の主張
伝えたい
ことがある
5年生の部
主張した子どもたち(敬称略)
11 月3日に中央公民館で行われた第 26 回鞍手町「少年の主張」大会。
町内の小学5・6年生、中学生の代表がそれぞれに自分の思いを主張しました。
その中から最優秀賞に選ばれた3つの作品を紹介します。
依藤 郁(剣南小)
・命について
野田 未侑(室木小)
・大切な命
田中美智子(新延小)
・伝えたい永谷盆綱引き
満石 陽(西川小)
・柔道から学ぶもの
下徳辺こころ(剣北小)
・私の将来の夢
吉田 和代(古月小)
・三月十一日の出来事
6年生の部
主張した子どもたち(敬称略)
・命ありて 都甲 晴(剣南小)
・鞍手町や地域の行事を通して考えたこと 井ノ上翔太(室木小)
・ラグビーから学んだこと 小田 航暉(新延小)
・伝えられてきたこと、伝えるもの 小原 唯(西川小)
・わたしにとっての 6 年 1 組 井上 芹加(剣北小)
・川の中の小さな命 楠本 美幸(古月小)
中学生の部
主張した子どもたち(敬称略)
水元ひろえ(鞍手北中1年)
・人間と動物の共生を
澄田 秀斗(鞍手南中1年)
・不便さを感じない生活をするために
大村奈実希(鞍手北中2年)
・東日本大震災の年に 阿部 悠太(鞍手北中3年)
・私の中学校生活-今伝えたいこと-
平田 実(鞍手南中3年)
・アタック№1
2011.12−2
での練習の成果を見せる日で
す。体操などをして、体を温
めたら開会式です。開会式が
終わると、すぐに試合開始で
す。
まず、団体戦です。私たち
の チ ー ム は、 1 回 戦 は 勝 っ
て、2回戦では負けてしまい
ました。2回戦のとき、私が
引き分けてしまったので、私
のチームが負けてしまいまし
た。くやしかったです。
次の個人戦では、そのくや
しさを、ぶつけようと思いま
した。
次は個人戦です。私は 試
合目です。私の番がきました。
私の相手は、洞北の岡くんで
す。私は気合いをこめて、
「お
願 い し ま す。 よ し。 こ い。」
と 言 い ま し た。 岡 く ん も、
ずきました。
メダルまでは、ほど遠いで
す け ど、 あ と 少 し で 高 木 さ
ん に 勝 つ こ と が で き た の で、
もっともっとたくさん練習
し、倒せるようになりたいで
す。
この柔道は、お父さんとお
じいちゃんにすすめられて始
め ま した。お 父 さんも、 お じ
いちゃんも、私に大きな心と
強い体を持った人になってほ
しい、と思って柔道をすすめ
てくれました。
私も、もっともっと練習を
がんばって、もっともっと大
きな心と強い体を持った人間
になりたいです。
最優秀賞を見事獲得された3人のみなさん受賞おめでとう。優秀賞を受賞さ
れたみなさん、審査結果は最優秀賞と僅少差でした。この大会に向けたみなさ
んの努力を大いに讃えます。
本年度の内容は、東日本大震災・命・伝統文化・スポーツ・環境問題など、しっ
かりした論旨で、自己を高めようとする意志が多くみられました。表現力や発
表の態度もよく、訴える力は学年の発達段階に応じたものであり、多くの感銘
を受けました。
今年も素晴らしい大会となりましたことを関係者各位に心から感謝します。
審査委員長(教育長)の講評
月 日、 北 九 州 西 地
区少年柔道大会が行
わ れ ま し た。 私 は、
団体戦と、個人戦の選手に選
ばれました。選手に選ばれた
と き、「 よ し! が ん ば る ぞ。」
と思いました。
私は試合当日まで、練習を
一生懸命がんばってきまし
た。毎週3回、2時間の練習
が終わると疲れはてぐったり
します。次の日、学校で手や
足が痛いこともよくありま
す。練習ではいつも、私は思
いっきり先輩に投げられま
す。でも、その投げられたく
やしさを、力に変えて先輩を
投げるときもあります。先輩
を投げられたときは、とても
気持ちがいいです。
(西川小学校)
11
きました。最優秀賞がとれてうれしかったです。
緊張したけど発表しはじめたらリラックスで
いよいよ試合当日、それま
◉5年生の部 最優秀賞
満石 陽さん
28
柔道から学ぶもの
「 し ゃ ー す。 よ し こ い。」 と 言
い ま し た。 審 判 の「 は じ め。」
の声と同時に始まりました。
まず、最初に私が投げられ、
「技あり」というポイントを
取 ら れ ま し た。 も う 一 つ「 技
あり」をとられる私は負けて
しまいます。その後、私が「技
あり」を取り返しました。そ
してラスト 秒のとき、奇跡
が起こりました。
「 ラ ス ト 秒。 が ん ば れ。」
と お 父 さ ん の 声。 そ の と き、
「いやーっ。」のかけ声ととも
に、「一本!」審判の声。
勝負の結果は私が勝ちまし
た。 私 は ギ リ ギ リ 秒 で、 岡
くんを投げて勝ち、とてもう
れしくて、思わず涙が出まし
た。
2回戦は、香月の高木さん
です。高木さんは強い相手で
す。試合が始まりました。
私 は、「 い や ー っ。」 と 投 げ
ましたが、ポイントになりま
せんでした。その後も何度も
投げようとしましたが、ポイ
ントになりませんでした。そ
して、投げ技から押さえこま
れ、逃げられずに負けてしま
い ま し た。 私 は、 泣 き な が ら
お父さんのところに行きまし
た。
「 陽。 が ん ば っ た。 で も、
寝技がまだまだだから、もっ
と寝技の練習をしなさい。で
も、 お し か っ た よ。」 と お 父
さんに言われると、私はうな
3− 2011.12
ひなた
み つ い し
8
小学
5年生の部
13
13
13
◉6年生の部 最優秀賞
川の中の小さな命
西
川 は、 生 き 物 が 住 め
な い 川 だ っ た。 私 は、
地 域 の 方 か ら、 そ う
聞 い て 驚 き ま し た。 西 川 は、
きれいな川とは言えないけれ
ど、魚や昆虫などが住んでい
る普通の川としか思っていま
せんでした。
鞍 手 は、 昔、 炭 鉱 で 栄 え た
町だということは知っていま
し た。 で も、 そ の た め に、 川
が炭鉱施設から流れ出た水で
黒くにごり、生き物が住めな
くなっていたとは知りません
でした。昔は、川全体が黒く
濁 っ て い た の で、「 ド ベ タ ン
川」とか「ぜんざい川」と呼
ばれていたそうです。それか
ら、 年ほど前に、炭鉱が閉
山になり、少しずつ川が元の
姿に戻っていったそうです。
私 は、 ど の よ う に 川 が き れ
いになっていたのか興味を持
77
き
楠本 美幸さん
ゆ
み
く す も と
(古月小学校)
ても心臓がバクバクしていました。賞がとれる
とは思わなかったので、とてもうれしかったです。
ち、インターネットで西川や
遠賀川について調べてみまし
た。 す る と、 西 川 や 遠 賀 川
は、昔、鮭が上流まで戻って
くるような川だったというこ
とがわかりました。鮭は海で
成長し、川の上流で卵を産む
ため、海から川を上ってきま
す。だから、きれいな川でな
いと鮭は川を上れません。ま
た、そんな川に戻そうと、い
ろいろな取り組みをしている
団体が もあることもわかり
ました。そんな方たちの清掃
活動などの努力で、西川もき
れいになっているんだという
ことがわかりました。そして、
6年前には、西川で約 ㎝の
鮭のつがいが発見されていま
す。これも、鮭の稚魚の放流
事業を行っている団体の成果
だと思います。私は、鮭が川
を上る姿が見られる西川に
主張を終えて…自分の順番が来る前まで、と
70
小学
6年生の部
50
なっているんだなとわかって
うれしくなりました。
鞍 手 町 は、 筑 豊 炭 田 の 一 角
として栄えたそうです。でも、
石炭産業の面影は、今はどこ
にもありません。自然豊かで、
とても住みやすい町だと思っ
ています。では、これからも、
どんどん西川はきれいになっ
て い く の で し ょ う か。 私 は、
川のことを調べていると、残
念ながらそうは思えなくなり
ました。
最 近 は、 河 川 敷 に は、 家 庭
ゴミをはじめ発泡スチロー
ル、空き缶、バイク、自転車、
テレビ、冷蔵庫などさまざま
なゴミが不法投棄されてい
ま す。 私 も、 西 川 を 通 っ て い
るとき、自転車が川の中にあ
る の を 見 て、「 こ ん な も の が
捨 て て あ る。」 と び っ く り し
たことがありました。これら
のゴミは梅雨時期など大雨が
降って洪水になるたびに遠賀
川流域から河口に流され、河
口堰に流れ着きます。だから、
もちろん西川のゴミもそこに
流れ着いているのです。その
ゴミは、年間一千五百万円も
のお金を使って、回収し処理
されているそうです。
生活排水や廃油の流出等に
伴 い、 川 の 水 が 汚 れ、 遠 賀 川
の 水 質 は 九 州 の 一 級 河 川 中、
なんとワースト1位となって
い る そ う で す。 し か し、 そ ん
な川でも、魚類をはじめエビ
や 貝、 昆 虫、 鳥 類 な ど さ ま ざ
まな生き物が今もなお生息し
て い ま す。 で も、 決 し て、 住
みやすい環境ではないと思い
ます。
河川敷や水辺に生育するヨ
シなどの水辺の植物は水質の
悪化を防ぎ、さらに茎につく
微生物によって水の汚れを分
解する働きもあり、私たちの
くらしと川にすむ生き物に
とって重要な役割を果たして
い る そ う で す。 で も、 私 は、
自然の力を頼っていても、川
は決してきれいになるとは思
いません。
川を汚しているのが人間な
ら、川をきれいにするのも人
間だと思います。川の水質を
きれいに保つことは、すべて
の命あるものにとってとても
大切なことなのです。
炭 鉱 の た め に 汚 し た 川 が、
やっと鮭が戻ってこれるよう
なきれいな川になってきたの
に、今度はゴミや生活排水で
汚したくはありません。
人 間 が ゴ ミ を 捨 て る と、 川
が汚れ、魚たちがいなくなる。
つまり、魚たちの小さな命を、
私 た ち が 奪 っ て い く の で す。
豊かな自然や川の中の小さな
命と私たちが共存していくた
めにも、ヨシなどの水辺の植
物を有効に活用していくとと
もに、私たちの毎日のくらし
の中で少しでも生活排水を減
らせるように工夫していきま
し ょ う。今、私 た ちがで き る
ことは、2つあると思います。
ま ず、 一つ目 は、 川など に 生
活 ゴ ミ を 捨 て る こ と を や め、
テレビやコンロ等の不法投棄
も や め る こ と で す。 こ れ は、
当たり前のことだし、絶対し
てはいけないことです。そし
て二つ目は、一人ひとりが汚
れている川をきれいにする活
動をすることです。今回調べ
てみて、自分たちの住む川を
きれいにしようとしている人
たちがたくさんいることがわ
かり ま した。ま た、川 をきれ
いにするために、いろいろな
活動が行われていることを知
りました。
私 の 願 い は、 ゴ ミ が 少 し で
もなくなっていき、魚たちを
はじめ小さな生き物たちが安
全に過ごせる川にすることで
す。 そ の た め に、 私 も、 こ れ
から川のゴミをなくしていく
活動や、一人でも多くの人が
川をきれいにしようと思って
くれる活動をしようと思いま
す。
み な さ ん、 西 川 を 鮭 が 戻 っ
てくるような、そしていろい
ろな生き物がたくさんいるよ
うな、すてきな川に戻したい
と思いませんか。私たちの町
に流れる西川が、小さな命で
さえ安心して生きられる川に
なるよう、みんなで行動して
いきましょう。
2011.12−4
成 年4月、私は植木
小学校から、この鞍手
北中学校に入学してき
ました。鞍手北中に入学すると
決めたときは、友だちのいない
学校に行く不安でいっぱいでし
た。あれから2年7か月、あと
数か月で私の中学校生活も幕を
閉じます。今ここで、私の中学
校生活を通して多くの人との出
会いやさまざまな出来事を振り
返り、母校、鞍手北中学校で学
んだことを心に刻んでおきたい
と思います。
まず、私がなぜ鞍手北中への
進学を決意したのかをお話しし
ます。私の住んでいる直方市植
木には、植木中学校があります。
植木中は、家から近いうえに、
校舎も新しい、幼馴染は皆植木
中に行くことが当たり前、それ
に比べて北中は、通うには遠く
て不便、校舎もかなり古い、だ
からいつもどこかを修理してい
る。教室に入ると 人くらいの
人がいて、広い教室といえども、
身動きがとれないほどだ。そん
な北中への進学を敢えて決意し
たのは、どうしてか?そこを思
い起こすことが、私の中学校生
活での「学び」について振り返
る原点だと思います。
私の父は、元々鞍手の生まれ
で、北中の卒業生であり、野球
部の出身です。そんな父が、北
中へのわが子の進学を望んだの
も自然なことかもしれません。
それに、顧問の先生が父の恩師
である吉良先生であったこと。
そしてなんと言っても私が、鞍
手北中の野球部の練習を見に
行ったとき、北中の野球のレベ
ルが高かったことが私の北中へ
の進学を決めさせたのでした。
しかし、入学して早々、私の
不安は的中しました。まず回り
に話す相手がいないのです。誰
が見ても落ち着かない不安な表
情をしていたと思います。しか
も、出席番号は「アベ」だから
1番、先生方も新入生の様子が
あまりよくわからないので出席
番号順に指名されたり、席もと
りあえず1番前なので突然質問
されたりと常に臨戦態勢といっ
た感じで緊張のとけない毎日で
した。今だから正直に言います
が、本当に当時は学校に行くの
が嫌でした。しかし、覚悟をし
て飛び込んだのだから投げ出す
わけにはいきません。幸い5月
のふれあい学級をはじめ、クラ
スマッチ、体育祭、文化祭と日々
の学校生活を送る中で、新しい
友だちもでき、徐々に北中生と
しての自覚を持てるようになり
ました。そして1年生の3学期
には評議委員に立候補し、リー
ダとしての活躍の場を自ら求め
るまでに成長することができま
した。
一方、本来の目的である部活
動では、1年生でベンチ入りを
し、2年生でレギュラーをとり、
3年生ではキャプテンを務め、
まさにチームの要としての役割
を果たすまでになったと自負し
ています。こう言えばとても順
調な道だったかのように聞こえ
ますが、実はいいことばかりで
はなく、2年生のときには、野
球人生における最大のスランプ
に陥り、何度打席に入っても打
てない日々が続きました。練習
試合や公式戦では、バットは空
を切り、あたってもボテボテの
ゴロ。打てない、落ち込む、へ
こむ…どれくらい繰り返したこ
とでしょう。しかし、自分はこ
の野球のために小学校時代の友
に別れを告げ、ここまで来たん
だと自らに言い聞かせ、小遣い
で野球の本を買っては、スラン
プ脱出のヒントを探し、これを
乗り越えるためには練習しかな
いと言い聞かせ、必死に練習に
励みました。部活動を終えて家
に帰っても何度も何度もバット
を振り続けました。おそらく一
日千回以上バットを振っていた
と思います。そして、そんな努
力が実ったのか突然打てるよう
になりました。本当に「突然」
といった感じでした。でも、こ
のことは「突然」であっても決
して「偶然」ではありません。
まさに毎日の練習の、努力の賜
だと思います。私はこのことを
通じて「練習」は「努力」は「嘘
をつかない」ということを学び
ました。
私がこの中学校生活で最もう
れしかったのは、植木から来て
いる言わばよそ者の私をみんな
が生徒会長にしてくれたことで
す。選挙で当選させてくれたこ
ともそうだし、まずは形ばかり
名ばかりの生徒会長をみんなが
支えてくれ励ましてくれ、徐々
に本来の役割を果たせるまでに
してくれました。そしてもうす
ぐその役割を終えようとしてい
ます。思えば私の鞍手北中での
中学校生活は多くの人に支えら
れ、励まされ背中を押されの3
年間でした。何事においても影
になり、ひなたになり、支えて
くれた両親、いつも優しく包ん
でくれた祖父母、スランプ時に
励ましてくれたチームメイト、
打てない私を根気強く使ってく
れた監督、
「生徒会長やってみ
なさいよ」と背中を押してくれ
た担任の先生。こうして一つ一
つのことを思い返していくと、
改めてこの「阿部悠太」という
一人の人間がどれだけ多くの人
たちに支えられ存在しているか
ということに気づかされます。
私たちはややもすれば、一人
で生きているかのような思いあ
がった態度をとることがありま
す。でも、あなたの回りにいる
人の顔や姿を思い浮かべてみて
ください。あなたが辛い思いを
◉中学生の部 最優秀賞
しているとき、悲しい思いをし
ているとき、躊躇しているとき、
あなたの思いを分かち合い一緒
に涙を流し、温かく包んでくれ、
励まし、ともに歩んでくれた人
の顔が浮かびませんか?
私がこの鞍手北中学校で学ん
だ最も大切なことは「感謝の心」
でした。
今、私には一つの目標があり
ます。それはこの場では言えま
せんが、私はその目標に向かっ
て、一生懸命努力しています。
そして必ずその目標を達成し、
3年間支えてくれた「家族」
、「友
だち」
、
「先生」
、この鞍手北中
学校に、そして私の第二の故郷
である鞍手町に恩返しをしたい
と思います。
阿部 悠太さん
(鞍手北中学校3年)
てくれた人たちに感謝。中学校生活を支えてく
れた人たちに感謝。最優秀賞はとてもうれしかっ
たです。
私の中学校生活 ―今伝えたいこと―
5− 2011.12
た
ゆ う
べ
あ
平
中学生の部
21
40
主張を終えて…発表の場、原稿作成を手伝っ