1 小 説 『 坊 ち ゃ ん 』 と 徳 島 の 人 た ち 三 原 茂 雄 は じ め

小
説
坊
ち
ゃ
ん
は
じ
小
説『
愛
媛
県
は
近
い
か
わ
り
を
語
る
こ
師
論
で
読
み
の
視
点
で
徳
島
県
1
)
弘
中
又
一
は
明
治
6
年
『
坊
ち
ゃ
ん
』
の
モ
デ
の
教
師
の
よ
う
に
思
漱
石
が
赴
任
後
、
は
弘
中
だ
っ
た
挨
拶
で
あ
る
。
松
山
中
学
い
る
が
、
た
ど
っ
て
(
め
『
と
徳
島
の
人
た
三
原
ち
茂
雄
に
坊
弘
』
ち
』が
発
表
さ
れ
て
百
年
に
な
る
。
ら
か
徳
島
県
も
こ
の
小
説
と
か
か
と
が
出
来
る
人
が
い
る
。
文
学
や
教
取
る
方
は
居
る
と
思
わ
れ
る
が
、
数
学
は
少
な
い
。
と
関
わ
り
の
あ
る
人
物
山
口
県
の
生
ま
れ
。
ル
と
言
わ
れ
一
般
に
は
数
学
わ
れ
て
い
る
が
、英
よ
ろ
し
く
、
と
挨
拶
に
伺
っ
た
の
。
も
ち
ろ
ん
英
語
の
教
師
と
し
て
の
校
の
本
校
か
ら
西
条
分
校
に
転
勤
し
て
あ
ま
り
本
意
で
は
な
か
っ
た
の
か
、
伝
を
徳
島
中
学
校
の
第
二
分
校
・
富
岡
分
校
、
中
ゃ
又
ん
一
~
モ
デ
ル
1
語
で
あ
る
。
現
在
の
3 0
富
年
岡
ほ
西
ど
高
前
校
の
に
富
赴
岡
任
西
し
高
て
校
く
の
る
。
同
窓
会
名
簿
に
は
、
弘
中
の
名
前
は
あ
る
が
、
赴
任
期
間
や
離
任
年
の
記
録
は
な
い
。
弘
中
に
つ
い
て
徳
島
で
の
研
究
は
四
国
女
子
大
の
新
垣
宏
一
の
研
究
が
初
期
の
も
の
で
あ
る
。
(
2
)
富
田
小
学
校
の
和
室
に
「
探
玄
究
幽
」
と
筆
で
書
い
た
額
が
掛
か
っ
て
い
る
。
東
北
大
学
教
授
で
あ
っ
た
林
鶴
一
の
書
い
た
も
の
で
あ
る
。
徳
島
中
学
校
か
ら
第
3
高
校
を
経
て
東
京
大
学
を
卒
業
。
後
に
父
と
知
り
合
い
で
あ
っ
た
松
山
中
学
校
の
校
長
か
ら
の
た
っ
て
の
頼
み
で
松
山
中
学
校
の
数
学
教
師
と
し
て
松
山
中
に
赴
任
す
る
。
山
嵐
の
モ
デ
ル
の
教
師
が
大
物
な
の
で
、
彼
を
人
物
・
学
力
共
に
指
導
で
き
る
教
授
と
い
う
こ
と
で
あ
っ
た
。
京
都
大
学
の
助
教
授
か
ら
は
異
例
の
人
事
。
だ
が
、
こ
の
経
験
が
林
の
中
等
教
育
に
取
り
組
む
切
っ
掛
け
と
な
る
。
林
は
個
性
が
強
く
、
上
に
向
か
っ
て
も
言
う
べ
き
と
を
言
う
こ
と
が
、
坊
ち
ゃ
ん
の
モ
デ
ル
と
噂
さ
こ
林
鶴
一
~
モ
デ
ル
2
れ
る
ゆ
え
ん
。
本
人
は
そ
の
事
数
学
教
育
学
会
の
初
代
会
長
。
(
3
)
「
さ
い
わ
い
物
理
学
校
の
前
を
通
生
徒
募
集
の
広
告
が
出
て
い
た
か
と
思
っ
て
規
則
書
を
も
ら
っ
て
す
を
し
て
し
ま
っ
た
」 ( 『
る
の
は
、物
こ
の
物
理
学
校
の
創
設
者
の
一
人
が
三
守
の
寺
島
町
の
出
身
と
な
っ
て
い
る
が
、
詰
の
藩
士
の
子
で
あ
り
、
明
治
初
期
戸
籍
を
置
い
た
が
、
短
期
間
で
東
東
京
大
学
物
理
学
科
を
卒
業
の
普
及
こ
そ
国
の
発
展
だ
と
校
。
三
守
は
、
東
京
工
業
に
勤
め
て
い
た
の
で
、
物
理
学
校
に
関
わ
っ
の
は
あ
た
り
ま
え
金
面
で
も
援
助
ま
た
、
日
本
三
守
っ
た
。
日
本
り
か
か
っ
た
ら
ら
、
な
に
も
縁
だ
ぐ
入
学
の
手
続
き
) と
あ
あ
る
。
守
。
徳
島
阿
波
藩
江
戸
に
一
度
地
元
に
京
に
帰
っ
た
。
し
た
者
た
ち
が
理
学
創
設
し
た
の
が
物
理
学
高
校
(
現
在
の
東
工
大
)
創
立
か
ら
自
身
が
死
ぬ
ま
で
た
。
無
報
酬
で
教
壇
に
立
っ
た
で
あ
り
、
維
持
同
盟
に
加
わ
り
資
し
た
。
数
学
教
育
学
会
の
二
代
目
の
会
長
。
守
理
~
学
物
校(
理
現
学
校
を
の
嫌
創
が
立
者
坊
っ
ち
ゃ
ん
』 2 0
在
の
東
京
理
大
3
)で
頁
東
京
理
大
の
五
十
年
史
や
百
年
ペ
ー
ジ
の
と
こ
ろ
に
三
守
守
の
真
が
あ
り
、
そ
の
功
績
に
応
え
(
4
)
「
床
の
ま
ん
中
に
大
き
な
懸
の
顔
ぐ
ら
い
な
大
き
さ
な
字
る
。
ど
う
も
へ
た
な
も
の
ら
、
漢
字
の
先
生
に
、
麗
々
と
か
け
て
お
く
生
が
あ
れ
は
海
屋
も
の
だ
と
教
え
お
れ
は
い
ま
だ
ち
ゃ
ん
』 1 3 2
と
で
、 1 7 8 8 ~
1 8 6 3
ん
だ
。
幕
末
の
三
筆
と
し
て
も
優
れ
て
『
坊
ち
ゃ
ん
見
て
み
た
い
合
に
呼
ば
れ
に
徳
島
海
城
に
は
、
前
か
ら
数
1 ペ
ー
ジ
全
面
の
写
い
る
。
物
が
あ
っ
て
、
お
れ
が
二
十
八
字
か
い
て
あ
だ
。
あ
ん
ま
り
ま
ず
い
か
な
ぜ
あ
ん
な
ま
ず
い
も
の
を
ん
で
す
と
尋
ね
た
と
こ
ろ
、
先
と
い
っ
て
有
名
な
書
家
の
か
い
た
て
く
れ
た
。
海
屋
だ
か
な
ん
だ
か
、
に
へ
た
だ
と
思
っ
て
い
る
」 (『
坊
っ
)(
こ
の
海
屋
が
、 貫
名
海
屋
の
こ
徳
島
市
に
生
ま
れ
京
都
に
住
に
数
え
ら
れ
る
書
家
で
、
画
家
い
た
。)
』
の
注
釈
で
気
付
い
た
へ
た
な
字
を
と
探
す
と
、
徳
島
で
菘
翁
と
多
く
の
場
て
い
る
と
分
か
っ
た
。 1 0
年
余
り
程
前
の
三
筆
屋
博
~
へ
頁
物
館
た
の
な
春
懸
物
の
4
史
て
の
企
字
画
展
「
幕
末
貫
名
菘
翁
」
と
い
う
パ
ン
フ
レ
ッ
ト
字
を
見
る
こ
と
が
出
来
る
。
そ
こ
に
が
あ
る
。
海
屋
で
は
な
く
、
菘
翁
と
あ
変
更
は
そ
れ
な
り
に
思
い
が
あ
り
そ
は
わ
か
ら
な
い
。
新
蔵
町
に
「
菘
翁
る
が
、
第
お
わ
り
に
中
学
校
の
生
徒
と
師
範
の
学
生
が
喧
嘩
す
る
、
今
で
は
考
え
ら
れ
な
い
。
チ
ッ
プ
が
五
円
、
高
い
の
か
や
す
い
の
か
。
何
と
な
く
3
年
で
卒
業
、
当
時
ス
ト
レ
ー
ト
に
物
理
学
校
を
卒
業
し
た
の
は
、 約
1
割
足
ら
ず
。
先
祖
の
自
慢
の「
こ
の
オ
チ
が
「
「
下
読
み
」 と
で
あ
る
。
徳
2 ,
島
4
土
た
の
に
曜
だ
所
は
日
の
は
関
以
外
清
和
饅
頭
、 数
係
が
が
5
休
源
」
学
な
教
い
の
一
端
の
字
の
も
の
る
。
名
前
の
う
だ
が
、
私
に
美
術
館
」
が
あ
か
笑
師
。
そ
2 8
み
氏
は
で
な
で
あ
る
。
ら
多
田
満
仲
」、
え
る
。
ま
た
、
ら 「
下
調
べ
」
【
引
用
文
献
】
・
夏
目
漱
石
『
坊
っ
ち
ゃ
ん
』
新
学
社
、
1 9 7 9
同
書
か
ら
の
引
用
は
括
弧
内
に
そ
の
ペ
ー
ジ
を
記
す
。
坊
っ
ち
ゃ
ん
秘
話
』
青
葉
図
書
、
【
参
考
文
献
】
・
近
藤
英
雄
『
1 9 8 4
・
平
岡
1 9 9 2
年
敏
年
年
数
。
夫
『「
坊
っ
ち
ゃ
。
6
ん
」
の
世
界
』
塙
書
。
房