弥生時代の集落跡の一部発見!

弥生時代の集落跡の一部発見!
▲遺構記録作業風景
平 成 1 6( 2 0 0 4 )年 6 月 ∼ 8 月 に か け
たるみちょう
じ っ し
て吹田市垂水町 1丁目で実施 しました
た る み い せ き
や よ い
垂水 遺跡 第 26 次調査では、弥生 時代か
ちゅうせい
い こ う
い ぶ つ
ら中世 にかけての多くの遺構 ・遺物 を
けんしゅつ
しゅうらくあと
検出 しました。特に弥生時代の集落跡
ぐん
の一部とみられるピット群 と残りの良
い遺物を多く検出し、弥生時代の垂水
じったい
かいめい
遺跡の集落の実態 を解明 する上での重
しりょう
くわ
要な資料 となりました。詳 しくは4・
5頁をご覧ください。
▲調査地周辺図(数字は調査次数)
―1―
え
ど
平 成 1 6( 2 0 0 4 )年 度 吹 田 市 で は 、 江 戸 時 代
め い じ
おおがたみんかけんちく
後期から明治時代にかけて大型民家建築
え ば ら けじゅうたく
である榎
とよつちょう
家 住 宅( 豊 津 町 )が 、 平 成 1 6
( 2 0 0 4 )年 6 月 9 日 付 け を も っ て 、 国 の
ぶ ん か ざ い と う ろ く げ ん ぼ
文化財登録原簿に新たに登録されました。
く に と う ろ く ゆ う け い ぶ ん か ざ い
これで吹田市の国登録有形文化財は、
せ ん り じ ほ ん ど う
だ い こ う じ た い し か ん
なかにしけじゅうたく
千里寺本堂・大光寺太子館・中西家住宅に
続いて、4件となりました。
まいぞうぶんかいざい
▲高城遺跡発掘調査風景
埋 蔵 文 化 財 の 調 査 で は 、 平 成 1 6( 2 0 0 4 )年
た る み い せ き
じ っ し
や よ い
へいあん
6月から8月にかけて垂水遺跡において第 26 次発掘調査を実施し、弥生時代・平安時
ちゅうせい
い こ う
い ぶ つ
まいぞうぶんかざいほうぞうち
代∼中世の遺構・遺物を確認することができました。また、埋蔵文化財包蔵地及びそ
の 周 辺 地 に お い て 、 2 2 件 の 確 認 ・ 試 掘 調 査 と 6 0 件 の 立 会 を 行 い ま し た( 2 月 末 現 在 )。
たかしろ
しょうわちょう
このうち、高城遺跡の周辺地に当たることから、昭和町において実施した試掘調査で
こ ふ ん
は、古墳時代を中心とする遺構・遺物が検出され、高城遺跡の範囲がこの地点にまで
広がることが新たに判明しました。
お お さ か ふ ぶ ん か ざ い あ い ご す い し ん い い ん
この他の文化財事業としましては、文化財調査として、大阪府文化財愛護推進委員や
すいたきょうどしけんきゅうかい
きゅうどう
せきどうぶつ
吹田郷土史研究会、市民の方々に依頼して旧道とそれに関わる石造物の調査を行いま
した。
はくぶつかん
す い た
ま た 、 平 成 1 6( 2 0 0 4 )年 8 月 7 日 か ら 9 月 1 2 日 に か け て 、 博 物 館 に お き ま し て「 吹 田
しはっくつちょうさせいかてん
え さ か
市 発 掘 調 査 成 果 展 」を 開 催 し 、 今 回 は 平 成 1 5( 2 0 0 3 )年 度 に 実 施 し た 榎 坂 遺 跡 第 7 次 調
くろうど
さ い で ら や き か ま あ と
て ん じ
査をはじめ、これまで整理を進めてきた蔵人遺跡や佐井寺焼窯跡での出土資料の展示
れきしこうえんかい
どうししゃじょしだいがくしょくたく
を行いました。そして、成果展にあわせて歴史講演会を開き、同志社女子大学嘱託
▲新たに発見された遺跡
▲小路道標[岸部北 2](石造物調査)
―2―
こ う し
す み や
え
つ
こ
ばくまつ
講 師 の 角 谷 江 津 子 氏 に「 幕 末 に 生 ま れ た 吹 田
さ い で ら や き
の や き も の − 佐 井 寺 焼 − 」を テ ー マ に 講 演 し
ていただきました。また、博物館文化財担
当職員による吹田市内の発掘調査の近況報
告も行いました。
れ き し て き け ん ぞ う ぶ つ
ほ
さらに、今年度は、歴史的建造物の保
ぞん
かつよう
きんだいわふうけんちく
存・活用事業としまして、近代和風建築と
きゅうにしおけじゅうたく
うち
し て 高 い 評 価 を 受 け て い る 旧 西 尾 家 住 宅( 内
ほんまち
本 町 2 丁 目 )に つ い て 、 そ の 保 存 と 活 用 を 図
▲発掘調査成果展
るために、保存活用検討委員会を開き、委員の方々に今後進めるべき指針をまとめて
いただきました。
す い た し ぶ ん か ざ い ほ ご じ ょ う れ い
し て い
とうろく
この他、吹田市では、吹田市文化財保護条例によって指定及び登録された文化財の保
しゅうり
ほ じ ょ き ん
こ う ふ
ゆうけいみんぞく
存 ・ 修 理 等 に 対 し て 補 助 金 を 交 付 し て い ま す 。 平 成 1 6( 2 0 0 4 )年 度 は 、 市 指 定 有 形 民 俗
ぶ ん か ざ い
かねでんちょうだんじり
しんけいちょうだんじり
む け い み ん ぞ く ぶ ん か ざ い
文 化 財 で あ る「 金 田 町 地 車 」・「 神 境 町 地 車 」の 修 理 に 対 し て と 、 市 登 録 無 形 民 俗 文 化 財
や ま だ い ざ な ぎ じ ん じ ゃ た い こ み こ し
い づ ど の ぐ う か ぐ ら じ し
ごんろく
で あ る「 山 田 伊 射 奈 岐 神 社 太 鼓 神 輿 」・「 泉 殿 宮 神 楽 獅 子 」・「 権 六 お ど り 」に 対 し て 、 そ
の保存と活用を図ることを目的に補助金を交付しました。
▲旧西尾家住宅見学会風景
―3―
た る み い せ き
まるやまちょう
たるみちょう
しょざい
しょうわ
じゅうたく
垂水遺跡は円山町から垂水町1・2丁目にかけて所在する遺跡です。昭和初期の住宅
かいはつ
きゅうせっき
ちゅうせい
ふくごう
開発に伴って遺跡が発見され、これまでの調査で旧石器∼中世の複合遺跡で、中でも
や よ い じ だ い
しゅうらく あと
きょうどうじゅう
中心となるのが弥生時代の集落跡であることが判明しています。今回の調査は共同住
たく
宅建築に伴う事前調査として実施したものです。
調査の成果
きゅうけいしゃ
きゅうりょう
ひょうこう
当地は現在、急傾斜の丘陵下の標高
へいたんめん
8.8m 前後の平坦面に位置します。調査区
じゅんじ
をこの平坦面にA区からC区まで順次設定
きかいくっさく
じんりき
し、機械掘削及び人力掘削により調査を行
いました。
a .検出遺構
A区ではかつて第 7 次調査が一部実施さ
れており、今回は部分的な調査に止まりま
ちゅうけつ
しょうきぼ
あな
し た が 、ピ ッ ト
(柱穴などの小規模な穴)
群 、 ▲ A 区 土坑(中世)検出状況
ど こ う
き
けんしゅつ
土 坑( や や 規 模 の 大 き な 穴 )7 基 等 を 検 出 し
ました。B区では現地表下約 1m のやや平
こくしょくどそう
みぞ
坦 な 面( 1 次 面 黒 色 土 層 )に 中 世 の 溝 、 土
くい
坑、杭等の遺構、その下の層のゆるやかな
しゃめん
は い い ろ さ し つ ど そ う
斜 面( 2 次 面 灰 色 砂 質 土 層 ) に 弥 生 時 代
のピット、土坑等の遺構を検出しました。
たて
弥生時代のピットは 40 基以上もあり、建
ものあと
物跡などの集落跡の一部の可能性がありま
いぶつほうがんそう
す。C区では遺物包含層を確認しました。
▲下駄(中世)出土状況
b .出土遺物
やよいちゅうき
こ う き
弥生時代∼中世の多量の遺物が出土しました。その中でも、弥生中期∼後期の土器が
き し ゅ
つぼ
かめ
たかつき
はち
き だ い
最も多く、その器種は壷、甕、高杯、鉢、器台等があり、残りの良いものもあります。
か わ ち
お う み
こ ふ ん
河内地域、近江地方など地元以外で作られたと考えられる土器もみられます。古墳時代
は
じ
き
す
え
き
つき
さら
こくしょく
の 遺 物 に は 土 師 器( 壷 、 甕 、 高 杯 )、 須 恵 器( 杯 、 甕 )、 平 安 時 代 に は 土 師 器( 皿 )、 黒 色
ど
き
わん
りょくゆうとうき
かわら ひらがわら
が
き
せ い じ
土 器( 椀 )、 須 恵 器( 杯 )、 緑 釉 陶 器 、 瓦( 平 瓦 )、 中 世 に は 土 師 器( 皿 )、 瓦 器( 椀 )、 青 磁 、
まるがわら
のきまるがわら
し っ き
も っ き
げ
た
きゅうじょうもくせいひん
せんこつ
瓦( 平 瓦 、 丸 瓦 、 軒 丸 瓦 )、 漆 器( 椀 )、 木 器( 下 駄 、 球 状 木 製 品 、 扇 骨 )等 が あ り ま す 。
c .まとめ
今回の調査では主に弥生時代と平安時代∼中世に遺構・遺物の検出がありました。以
がいりゃく
下にそれぞれの時期についての概略を記し、まとめとします。
―4―
▲B1区 ピット群(弥生時代)検出状況
▲B2区 ピット群(弥生時代)検出状況
弥生時代
A・B区で弥生時代のピット、土坑等を
きょじゅう
確認したことから、当地に弥生時代の居住
いき
けいせい
域が形成されたと考えられます。垂水遺跡
たるみじんじゃ
の居住域は垂水神社背後の丘陵上で実施さ
たてあなしきじゅう
れた第1∼5次調査で弥生後期の竪穴式住
きょあと
とう
たかゆかしきたてものあと
居跡 4 棟、高床式建物跡などが検出され、
こうちせいしゅうらく
丘陵上に立地するいわゆる高地性集落とい
う評価がなされています。一方、第7次以
すそ
後の丘陵裾∼丘陵下の平地部に対する調査
で、弥生時代中期の残りの良い土器が出土
▲弥生土器出土状況
( 第 9 次 調 査 )し 、 中 期 の 溝 を 検 出( 第 1 1 次
調 査 )す る な ど 、 居 住 域 は 丘 陵 裾 ∼ 平 地 部
てんかい
にも展開すると考えられるようになりまし
せ い か
ほ
た。今回の調査はこうした成果をさらに補
きょう
強したといえます。
平安時代∼中世
溝、土坑等の遺構が確認され、当地の西
かんれん
そうてい
側にある垂水神社との関連が想定できま
え ん ぎ し き な い み ょ う じ ん た い し ゃ
す。垂水神社は延喜式内名神大社で
とよきいりひこのみこと
しゅさいじん
そうけんねん
豊 城 入 彦 命 を 主 祭 神 と し て い ま す 。 創 建 年 ▲弥生土器(甕)出土状況
だい
え ん ぎ し き
しんせんしょうじろく
代 は 不 明 な も の の 、 平 安 時 代 前 期 成 立 の『 延 喜 式 』や 平 安 時 代 初 期 成 立 の『 新 撰 姓 氏 録 』
き さ い
に記載され、平安時代には既に成立していた神社です。今回の調査で出土した平安時
こうきゅうひん
代の遺物に緑釉陶器、青磁という高級品が認められることから検出遺構は垂水神社に
関連した可能性が高いといえます。
―5―
ご た ん じ ま い せ き
や よ い じ だ い
ちゅうせい
ふくごう
五 反 島 遺 跡 は 弥 生 時 代 か ら 中 世 の 複 合 遺 跡 で す 。 昭 和 6 1( 1 9 8 6 )年 度 に 発 掘 調 査 を 実
こ ふ ん
か ど う あ と
へいあん
ていぼうあと
い こ う
施した結果、古墳時代の河道跡、平安時代の堤防跡、平安∼中世の河道跡などの遺構
けんしゅつ
ぼうだい
い ぶ つ
を検出し、弥生時代から中世の膨大な遺物が出土しました。中でも古墳∼平安時代の
さ い し
かまどがたどき
けんちょ
とくちょう
祭祀遺物とされる竃形土器が顕著にみられるのが特徴で、今回はこれを取り上げ、最
近判明したことも交えてご紹介します。
竃形土器について
に
竃形土器は煮
た
かまど
炊 き に 使 う「 竃 」
けいじょう
の形状をし、持
ち運びができる
こうぞう
構造をした土器
で、古墳時代中
期( 5 世 紀 )頃 に
我が国にもたら
されたと考えら
れています。竃
たきぎ
形土器は薪など
ねんりょう
たき
燃料を燃やす焚
ぐち
かめ
なべ
口と甕・鍋を置
かけぐち
こう
く掛口などで構
せい
成され、他に両
と っ て
側面に把手を付
とったい
けたり、凸帯を
巡らすものもあ
ります。焚口の
▲五反島遺跡出土竃形土器実測図(本文中の①∼⑪に対応)
ひさし
上 部 に 庇 を 設 け る も の が 多 く 、 庇 の 有 無 と 形 状 に よ っ て 、 庇 を 曲 げ る も の( 曲 げ 庇 系 )
ね ん ど
は
と 庇 を 別 の 粘 土 を 貼 り 付 け て 作 る も の( 付 け 庇 系 )、 庇 の 無 い も の の 3 種 に 分 類 で き ま
す 。 ま た 、 竃 形 土 器 は 大 き さ に よ っ て 高 さ 2 0 c m 未 満 の 小 型 竃( ミ ニ チ ュ ア )と 高 さ
とらいじんけい
ひ そ う
20cm 以上の大型竃の 2 種に分類できます。小型竃は古墳時代には特に渡来人系の被葬
しゃ
そうそうぎれい
な
ら
とじょう
はらい
者の葬送儀礼に使われ、奈良∼平安時代には都城での祓など祭祀に使用されたと考え
えんぎしき
からかまど
られています。大型竃は実用品ですが、
『 延 喜 式 』に 祭 祀 用 物 と し て「 韓 竃 」と 記 さ れ て い
るように、祭祀に使用されたものと考えられています。付け庇系竃形土器は基本的に
ひさしこう
かけぐちこう
は 庇 の 高 さ( 庇 高 )が 掛 口 の 高 さ( 掛 口 高 )に 及 ば な い も の は 古 く 、 し だ い に 庇 が 大 き く
へんせん
高さも高くなり、さらにピークを過ぎると逆に庇が小さく低くなるという変遷をたど
へんねん
り 、 第 1 ∼ 4 段 階 の 編 年( 稲 田 編 年 )が 設 定 さ れ て い ま す( 稲 田 1 9 7 8 )。
―6―
五反島遺跡の竃形土器
五反島遺跡では小型竃 1 点、大型竃で形状と大きさのわかるもの 10 点、破片が約 180
点出土しました。小型竃 ⑪
( 実 測 図 中 の ⑪ に 対 応 、 以 下 同 様 の 表 記 )は 庇 の 表 現 が な く
おおさか
やまとがわいまいけ
る い じ
簡 略 化 さ れ た も の で 、大 き さ と 形 状 は 大 阪 市 大 和 川 今 池 遺 跡 出 土 竃
(8 世紀末)
に類似し、
すす
ほぼ同時期頃のものと考えられます。大型竃は概して煤の付着は顕著ではなく、1点
のみ曲げ庇系で、他は付け庇系です。曲げ庇系①は庇の上方にさらに凸帯を付けた特
徴 の あ る も の で す 。 付 け 庇 系 は 大 き く 3 種 に 分 類 で き ま す 。 Ⅰ 類( ③ ∼ ⑥ )は 外 形 に 丸
たい ぶ
みをもち、庇高は掛口高に及ばず、体部に凸帯を巡らし、把手を伴うものです。Ⅱ類
( ⑦ ・ ⑧ )は 庇 高 が 掛 口 高 と ほ ぼ 同 じ で あ る も の 、 Ⅲ 類( ⑨ ・ ⑩ )は 庇 の 出 が 小 さ く 、 外 形
が全体的に角張るものです。Ⅰ∼Ⅲ類の時期については、稲田編年でⅠ類は第1段階
( 5 ・ 6 世 紀 )、 Ⅱ 類 は 第 2 段 階( 7 世 紀 )、 Ⅲ 類 は 第 4 段 階( 平 安 時 代 以 降 )に 相 当 す る と 思
が し つ
われます。②は付け庇系ですが、瓦質で庇に丸みがなく、体部内外面にタタキが密に
ほどこ
施されていることから上記の分類に該当せ
ず、産地も不明です。なお、破片の中に掛口
どうしんえん
の上端に同心円タタキが施されたものがあ
た い ど
き ん う ん も
かくせんせき
り、胎土は茶褐色を呈し、金雲母と角閃石が
かしわら
おおがた
含まれています。柏原市大県遺跡出土竃形土
るいれい
い こ ま や ま
器に類例があり、河内地域のいわゆる生駒山
せいろくさん
西麓産のものとみられます。また、注目すべ
いたじょうどせいひん
き資料として板状土製品⑫があります。細長
い板状の破片で、両面とも斜め及び縦方向の
平行タタキを施した痕跡がみられます。類例
いばらき
みぞくい
ね や が わ
ち ょ う ぼ じ
として茨木市溝咋遺跡、寝屋川市長保寺遺跡
かんこく
等の出土土製品があり、これらは最近の韓国
▲五反島遺跡出土板状土製品実測図
(本文中の⑫に対応)
かまどわく
での発掘調査例から住居内の造り付け竃の焚口前面に貼り付ける竃枠と考えられてい
ま す 。 な お 竃 枠 は 凸 帯 の 有 無 と 付 く 位 置 及 び 数 に よ っ て A ∼ D 類 に 分 類( 濱 田 2 0 0 4 )さ
れ 、 五 反 島 遺 跡 例 は そ の 内 の 凸 帯 の な い B 類( 5 世 紀 前 半 )と 思 わ れ ま す 。
以上、五反島遺跡の竃形土器は古墳時代中・後期から平安時代頃まで幅広い時期のも
の が あ り 、 特 に 古 墳 時 代 中 ・ 後 期 に 主 体 が あ る こ と 、 稲 田 編 年 第 3 段 階( 8 世 紀 )の も の
がないことなどが指摘できます。煤の付着が顕著でないことから何らかの祭祀に使用
されたものと考えられ、産地は地元産だけでなく、河内地域や産地不明のものもあり
かんはんとう
ます。また、古墳時代中・後期の五反島遺跡には韓半島から持ち込まれたと考えられる
か ん し き け い ど き
韓式系土器の出土数は多く、さらに今回新たに竃枠の存在が判明したことで韓半島か
らの渡来人との関係がより想定できるものと思われます。
<引用文献>
稲 田 孝 司 「 忌 の 竃 と 王 権 」『 考 古 学 研 究 』 第 2 5 巻 1 号 1 9 7 8 年
濱 田 延 充 「 U 字 形 板 状 土 製 品 考 」『 古 代 学 研 究 』 第 1 6 7 号 2 0 0 4 年
―7―
▲主屋
え ば ら けじゅうたく
榎
え
榎
とよつちょう
家住宅は、豊津町に所在しています。
ど
じ だ い
しょうや
家は、江戸時代には庄 屋 を 勤 め る こ と も あ
りました。
とうろく
しゅおく
ながやもん
ど ぞ う
今 回 登 録 さ れ た 住 宅 は 、主 屋 や 長 屋 門 、土 蔵 、
かけべい
とう
けんぞうぶつ
掛塀など6棟の建造物からなります。主屋につ
けいしき
ぎ ほ う
いては、その形式や技法からみて江戸時代後期
に建築されたものと考えられています。また、
め い じ
そ の 他 の 建 物 に つ い て は 、 お お む ね 明 治 時 代 に ▲長屋門
なってから建てられたことがわかっています。
や
ね
いりもやづくり
主屋は、屋根が入母屋造で、ツシとよばれる
さんがわらぶき
屋根裏に二階のような物置場をもった、桟瓦葺
ツシ二階造の建物となっています。主屋の東側
には長屋門が建ち、土蔵を取り込みつつ塀が屋
敷地をめぐります。
榎
家住 宅 は 、 江 戸 時 代 後 期 か ら 明 治 時 代 に
で ん ぱ
かけての住宅の建築技法の変化や伝播を知る上
で貴重な文化財となっています。
▲掛塀
◎現在、榎
家住宅は一般公開していません。
―8―
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