Title よみがえる重建懐徳堂 - 大阪大学リポジトリ - Osaka University

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よみがえる重建懐徳堂 : 元模型の制作について
湯浅, 邦弘
懐徳堂センター報. 2006 P.5-P.14
2006-02-28
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/11094/24403
DOI
Rights
Osaka University
日
実
ニOO六年 二月二八日発行)
浅
︽大阪大学大学院文学研究科文学部懐徳童センタ ー
復元模型の 制作に ついて
重建懐徳堂玄 関
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湯
﹃博徳宜センタ ー報﹄ニOO六
よみがえる重建懐徳堂
懐徳堂と重建懐徳堂
懐徳堂 ﹂は、江 戸幕府の崩壊とともに明治 二
江戸時代の大原学問所 ﹁
年 (一八六九)に閉校した。憤徳堂百四十年余の歴史が途絶えたのであ
る。
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と ころが、 それか ら約四十年の後、懐徳堂の復興を期待する声が歴史
、大阪の政財言論界
を大きく動かしていった。明治四十 三年 { 一九一 O)
を挙げて懐徳堂記念会が設立され、その翌年には、懐徳堂貴章一番の復刻
刊行、歴代教授を祭肥する師儒公祭の挙行、貴重資料の展覧会の開催な
どの顕彰事業が相次いで行われた。
さらに大正五年二九二ハ)には待望の学舎が建設された。場所は江
戸時代の懐徳堂があった所から南東に約一回の地に移動 したため、 その
学舎は単なる改築ではなく、新たな場所に﹁重建﹂された懐徳堂、すな
わち ﹁
重建懐徳堂﹂と呼ばれることとなった。重建懐徳堂は安仙な学費
で講義を公開し、大阪の市民大学文科大学と して大きな役割を果たした。
研
大正十五年(一九二六)には、鉄筋コンクリー ト造り三階建ての 書庫 ・
究室棟も培鼓されたロ
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究室)による懐徳堂文庫資料の総合調査が始まった。この研究会は、そ
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重 建 懐 徳 堂 書 庫 ・研 究 室 棟 ︼
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の翌年の大阪大学創立七十周年記念事業に向けて組織化されたもので、
記念事業の 一環として公開された懐徳堂貴重資料のデータベ ー スの作成
に貢献した。また、この研究会メンバ ーが 中 心 と な っ て 、 同 じ く 平 成 十
三 年 の 大 阪 大 学 附 属 図 書 館 新 館 設立に伴う懐徳堂文庫移転作業を進め、
資料の整理・調査を行った 。
この 一連 の 作 業 の 中 で 、 懐 徳 堂 文 庫 の 中 に 、 重 建 懐 徳 堂 の 設 計 図 面
懐徳堂設計図
(育焼き)が残っていることが確認された。主な図面は全五枚からなり、
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研究所に重一建懐徳堂模型制作の見積を依頼したが、二十分の一 1 三十分
ただちに筆者は、精密模型の制作を専門にするトータルメディア開発
保 存 し 、 以 後 、 懐 徳 堂 記 念 会 と 阪 大 と が 協 同 し て 、 資 料 制 査 、 公開講座
年間予算規模からは到底実現不可能な経費であった 。
の 一 の 精 密 模 型 で 約 五 百 万 円 になるとの試算結果を得た。文学研究科の
平成 + 二年(二000)、 懐徳 掌 研 究 会 ( 事務 局 大 阪 大 学中国哲学研
-6-
表紙に﹁大正四年九月
三百
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復元模 型 制 作 への道
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平成十六年(ニO O四)十二月、俵徳堂記念会運営幹事会において、
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) に向 けて、 どのような記念事業を行っていくのかが議され
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重建 懐徳堂 設 計 図 の 発 見
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たのである 。 その席 上、筆者は、右の重建懐徳堂設計図のことを紹介し、
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の設置を前提としたトータルプランの作成について指示があった。
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の 大 阪 大 空 襲 に よ り 、 重 建 懐 徳 堂 は 書 庫 ・研
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昭和二十年(一九四五
究室棟を残して焼失した。拠点を失った懐徳堂記念会は、昭和二十四年、
大阪大学に文学部ができたのを機に、三万六千点に及ぶ貴重資料を大阪
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などの各穣事業を継続することとなった。
大 学 に 寄 贈 し た @ 阪 大 で は 、 そ の 貴 重 資 料 を ﹁ 懐 徳 堂 文 庫 ﹂ と命名して
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そこで筆者は、平成十七年一月十七日、設計図面を携えて、大正当時
力を要請した。この席で、この設計図面は当時の本物(実物)であるこ
作途中の模型の一部サンプルを提示された。文学研究科からは柏木研究
それから約五ヶ月の後の七月十一日、野田氏と三浦氏が来学され、制
復元模型の完成
と、この図面は現在竹中工務庖には残存していないこと(すなわち大阪
科長、江川温副研究科長、国府寺司教授および筆者が立ち会った。なお、
の設計・施工を担当された株式会社竹中工務庖を訪問し、模型制作への協
大学懐徳堂文庫のものが唯一の図面であることてこの図面に基づいて復
ズのものを二点寄贈いただき、 王十分の一サイズのものを文学研究科玄
この席で、復元模型は、王十分の一サイズのものを一点、百分の一サイ
なお、訪問以前、文学研究科と竹中工務庖とには交渉がなく、筆者も
聞に、 百分の一サイズのものを大阪大学総長室と中之島センターにそれ
元模型を制作することが可能であること、などが確認された。
その手がかりを探しあぐねていたが、幸いにも、平成十二年度以来、懐
この日程に沿って最終的な制作が進められる一方、文学研究科では、
ぞれ設置し、その受贈式典を十月十一日に挙行することが決まった。
会社の森津和明課長より、竹中工務庖秘書役の上回全良氏を御紹介いた
受贈式典にあわせて玄関の改装と「懐徳堂と大阪大学文学研究科」と題
徳堂文庫のデジタルコンテンツ化に御協力いただいている凸版印刷株式
だき、右の訪問が実現したものである。当日は、凸版印刷の森津氏、森
した大型説明パネルなどの制作・設置を進め、十月一日、二学期の開始
その四日後の十月五日、野田氏と三浦氏が来学され、文学研究科玄関
田敬子氏にも同席いただき、上回秘書役からは、模型制作について「前
これを承けて、二月一日、柏木研究科長と筆者が再び竹中工務庖を訪
ならびに研究科長室において、完成した模型を披露された。制作担当の
に合わせて施工が完了した。
問し、本城邦彦常務取締役に面会した。ここで、文学研究科から正式に、
三浦氏からは、五十分の一サイズのものについては、さらに敷地内に書
向きに検討する」との回答を得ることができた。
重建懐徳堂復元模型制作について要請を行い、竹中工務庖からは、模型
生数体、敷地外に人力車や材木を引く人物を設置したい旨の説明があっ
平成十七年十月十一日午前十一時、完成した復元模型が大阪大学文学
受贈式典の挙行
文学研究科側も了解した。
た。建物のスケールを実感しやすいという点でも評価できる案であり、
を制作し大阪大学に寄贈していただける旨の正式回答を得た。
この決定を承けて、二月十六日、竹中工務庖の設計部設計課長の野田
隆史氏と模型制作を担当されることとなった三浦模型の三浦良雄氏とが
来学され、懐抱堂文庫所蔵の全ての設計図面を詳細に確認された。この
際、文学研究科として、平成十七年秋に受贈式典を挙行したい旨を伝え、
了解を得た。野田氏からは、夏頃までに一部のサンプルを提示できるよ
うな日程で制作を進めたいとの意向が示された。
研究科に搬入された(カラl 口絵参照)。午後一時半より、関係者三十八
一7 -
柏木隆雄文学研究科長に よる僕型披露 ︼
〆
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感謝状贈呈 ︼
-8-
︻マスコミ各社取材の様子 ︼
名を招待して、大阪大学文法経中庭会議室において記念式典が挙行され
た。冒頭、文学研究科の柏木研究科長から、模型制作の経緯について概
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要の説明があり、続いて宮原秀夫大阪大学総長による式辞、竹中工務底
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副社 長山原一晃氏による御挨拶があった。
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称略)。
隆史(同・大阪本底設計部設計課長)
邦彦(同・常務取締役)
一晃(株式会社竹中工務庖取締役副社長)
な お 、 当 日 の 出 席 者 ( 懇 親 会 の み の 方 も 含 む ) は次の通りである(敬
た
。
答えた。また、会場を文学研究科第 一会 議室に移し、懇親会が 開催され
展開し、殺到図と模型との関係について説明を加え、記者からの質問に
対応を筆者が行った。式典では披露しなかった重建懐徳堂の政計図而を
式典終了後、 N H Kテレビ、毎日新聞、読売新聞などのマスコミへの
長に感謝状が贈呈された。
れた。式典の最後を飾って、宮原阪大総長より、竹中工務庖の山原副社
(評議員)、向山彰事務長によって取り除かれ、出席者から感動の芦が漏
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(同・販売促進本部本部長)
良雄(株式会社 三浦模型)
和明(問 ・販売促進本部企画促進都銀長)
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小谷友 一郎(凸版印刷株式会社第二営業本部本部長)
野 本 山 外
田 城 原
森 竹
浦 海 中
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型部
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嘉夫(事務局安全衛生管理課長)
洋一
玉井暗
工藤真由美
泉
正則(評議員)
温(副研究科長)
隆雄(研究科長)
文学研究科教授会構成員
奥平
裕一
章男
また、当日は複数のマスコミの取材をうけた。現時点で把握している
報道は次の通りである。
ユースの中の地域情報「もっともっと関西」で取り上げられる。受
①式典当日(平成十七年十月十一日)、 N H Kテレビ午後五時からのニ
利夫(法学研究科・高等司法研究科事務長)
贈式典の模様、模型と設計図、筆者のインタビューの模様などが放
記事が掲載された。
寄贈」「学びの原点立ち返るきっかけに」とのタイトルで写真入りの
@平成十七年十月十八日、読売新聞夕刊、「「懐徳堂」復元模型阪大に
堂」」とのタイトルで記事が掲載された。
@平成十七年十月十二日、日本経済新聞夕刊、「よみがえる「懐徳
タイトルで写真入りの記事が掲載された。
@平成十七年十月十二日、毎日新聞朝刊、「阪大のルl ツしのぶ」との
順一(経済学研究科・国際公共政策研究科事務長)
亨(中之島センター長)
太郎(総合学術博物館長)
仁信(附属図書館長)
裕昭(経済学研究科長)
賢次(法学研究科長)
一彦(副学長)
直(副学長)
秀夫(総長)
利男(懐徳堂記念会会員)
正治(ダイキン工業総務担当部長)
一弘(日本生命保険相互会社本庖秘書室長)
久夫(三井住友銀行総務部部長)
懐徳堂記念会関係者
学内
仁科
菊野
宮下
伸二(附属図書館事務部長)
映された。
木下
越進(保健センター事務長事務取扱)
大永(言語文化研究科事務長)
美濃
員一(基礎工学研究科事務長)
良起(財務部豊中調達センター室長)
木下タロウ(微生物病研究所所長)
橋本日出男(事務局理事)
道夫(事務局監査室長)
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大阪市民の学びの場
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毎日新聞
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日本経済新聞
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( 大 阪 版 )︼
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重建懐徳堂設計図
それでは、 この模型制作のきっかけになった設計図 と は、どのような
一枚 目は ﹁懐徳堂 新築図 平 面図
尺度百分之壱 ﹂と し て講堂および二
尺度五拾
階建て事務所の平面図、二枚目は﹁懐徳堂新築図建図尺度百分之壱﹂
として全体の正面図と側面図、 三枚 目 は ﹁ 憾 徳 盆 新 築 図 建 図
尺度試拾分之壱﹂、玉 枚 目は﹁慎徳堂新築図
分之壱﹂として床伏図 ・基 礎 図 ・ 屋 根 問 屋 伏 図 、 四 枚 目 は ﹁ 懐 徳 堂 新 築
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ものであったのか。その点について説明しておこう。
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こ の 図 面 は 、 大 正 五 年 (一九 二 ハ ) に 再 建 さ れ た 慎 憶 堂 ( 重 建 懐 徳
竹中工務
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堂)の設計図である。 いわゆる背焼きで、 主図面は 全五枚綴 り。縦五 一
懐徳堂設計図
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重建懐徳堂平面図 ︼
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五団×横七回忌 五咽。表紙に﹁大正四年 九月
底﹄とある。
重述懐徳堂設計図 ︼
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園前平聖徳懐
入り、車寄せ、講堂、その左側(北)に別棟の事務所があったことが分
区本町橋)の東横堀川に面した公道に西向きに配置され、公道から門を
これによれば、重建懐徳堂は、大阪市東区豊後町十九番地(現・中央
徳堂竣工。十月十五日開講式挙行、十一月四日、定期学術講演会を開催。
を得て、懐徳堂重建の議が決定。十月、地鎮祭執行。大正五年九月、懐
敷地として府立大阪博物場の西北隅に当たる三六一坪の無償使用の許可
年一月、会計規則、講義規則を制定、理事西村天国に講師を依嘱。一月
十二月、広島高等師範教授松山直蔵を招鴨して懐徳堂教授に任命。翌六
図面の数値は尺貫法で記入されており、講堂床図面の数値「五四・O
二十七日、松山教授、『大学』首章を講義、四月、素読科開設、十月十四
かる。
(九間)×八五・玉(十四間二五ごによれば、縦二十六メートル×横十
その後、大正十五年十月三十一日には、鉄筋コンクリート造り三階建
日、記念祭恒典挙行。
半を占める「大講堂」は、玄関・車寄せから廊下を通った奥(東)に配置
ての書庫・研究室棟が増設されたが、二十年三月十四日、大阪空襲によ
一二六坪)となる。その内、建物の大
されており、「五拾八坪玉合」、その廊下を挟む二つの「小講堂」はそれ
り、書庫を除く講堂・事務所を焼失した。昭和二十年「仮設住居兼事務
2m(
ぞれ「十七坪五合」と記載されている。大講堂の奥(東)の両側の空間
所設計図」によれば、仮設住居兼事務所は八畳、六畳、四.五畳から成
六・四メートル、床面積四二五
は、この設計図面では、各々「講師溜八坪」「(内)玄関土間」と
る平屋であり、焼け残った書庫とともに、戦後の焼け野原の中でなお事
堂は、大正五年の建設以後、一部改造・増設を経ているが、これらの設
図」、昭和十四年、「懐徳堂表門改造図」なども残されている。重建懐倍
部改造設計図」、昭和十四年、「懐徳堂表門(塀重門)及び掲示板実測
所」の位置が若干異なっている。また、大正十五年の「懐徳堂事務所一
りと継承していく必要があろう。重建懐徳堂の復元模型は、そのための
た学問に対する熱き思いを、我々は真撃に受け止め、その精神をしっか
徳堂を待望する声が沸き上がっていたのである。当時の人々が抱いてい
ど九十年後の出来事となった。九十年前、大阪には市民大学としての懐
このたびの復元模型制作は、重建懐徳堂講堂が建設されてからちょう
重建穣徳堂復元模型の意義
業が継続されていたことが分かる。
なっているが、後にこれらは「素読室」「物置」に改造された。
また別棟の「事務所」は二階建てで床面積は「四間」×「三間半」(十
四坪)。一階が「受付」「小使室」など、二階が「会議室」となっている。
懐億堂文庫には、別に、この内の一枚目・二枚目とほぼ同様の「懐飽
計図でその過程を確認することができる。さらに、昭和二十年の「仮設
重要な象徴になると思われる。
堂新築図平面図」もあり、数値はこちらの方が読み取りゃすいが、「便
住居兼事務所設計図」は、大阪空襲による焼失後に設けられた仮設建物
の設計図である。
なお、懐徳堂重建前後の様子は次の通りである。大正四年六月、講堂
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o
---.
-
縦二六 m× 横 一 六 ・ 四 円 床 面 積 四 二 五
竹中工務庖」
2m(
書庫・研究室棟(鉄筋コンクリート三階建)
講堂(木造平屋)、事務所(木造二階建)、
二六一坪
(現在の中央区本町橋、大阪商工会議所)
大阪市東区豊後町一九番地
【関係デlタ}
重建懐徳堂
地所
敷地面積
講堂規模
設計図面(主図面)
懐徳堂設計図
全五枚綴り。各縦五一. 五四×横七四. 王価。
表紙に「大正四年九月
重建懐徳堂復元模型(縮尺〈問。、単位剛)
一二三O ×九三O ×四三O
一二六坪)
外観寸法(講堂、門、敷地、外塀を含む) 一二O O×九O O
アクリルケl ス寸法
主 材 質 硬 質 紙 ・ モ デ ル ボl ド・プラスチック・木
-
41
ー
建
物