夜を賭けて 著者 梁石日 出版社 株式会社幻冬舎 平成9年4月25日初版発行 松元麻美・吉田真理・潮谷くらら 『在日コリアンの戦後の社会状況』 ・前半は大阪造兵廠跡、後半は大村収容所を舞台に 全く違う環境を書いてあるように思われたが、作品全 体を通してみると在日コリアンが戦後日本でおかれて いる状況や、どのように生きてきたかということが中心 に書かれており、前半も後半も登場人物を通して著者 が言いたいことは「どういう状況の中で生きていたか」 ということではないかと思い、このテーマにした。 作品のあらすじ ・前半:1958年かつてアジア最大といわれた兵器工場跡 地であり国有地でもある土地に忍び込み鉄屑を盗み出し 大金を稼ぐ在日コリアン達。血の気盛んな若者から年寄り まで、戦後の混沌とした社会の中で貧困と差別の壁にぶ つかりならもたくましく生きていく人々の姿が書かれている。 部落の人間模様を柱に鉄屑を盗み出す部落の者達と、そ れを追い詰めていく警官との激しい攻防劇が展開する。 ・後半:攻防戦の末、主人公の一人、金義夫は捕まり 長崎にある大村収容所に収容される。この騒ぎの一 方で、国内は在日コリアンの北朝鮮の帰国運動が盛 んになっていく。部落からも帰国する者、日本に残る 者とで別れていく。収容所に収監された義夫と義夫を 追いかけ単身長崎に移り住み釈放の為に奔放する 同胞の初子の純愛を軸に物語りは展開していく。 登場人物 • 金 義夫 中学を出てロクロ工員になり内灘村基地反対 闘争に参加。もともと短期で自己主張が強く、 思い立ったら行動に移す性格。一見やぶから ぼうな正確に見えるが心がまっすぐで正直な 人物。まっすぐで正直であるがために「国家 社会」の国では不利な立場になりやすいが裏 を返せば‘彼の存在により周囲を見渡すこと ができる‘ことを記している。 ・新井初子:6歳の時戦争で両親を亡くし、近所のお ばさんに育てられるが中学3年の時家出し、16歳の夏キャ バレーで働き始める。以降キャバレーを転々としている時に 偶然新聞で叔母であるヤン婆さんのことを知りアパッチ村に 住み始める。義夫に行為を持っており、義夫が大村収容所 に収監された時、自分も追って長崎で水商売をしながら長年 義夫が出で来るのを待った。義夫に対して心が広く無償の 愛を与えている。女性であり母のような存在で一見女性らし く弱々しく見えるが心が強く、一途で真っ直ぐな性格。在日の 多くの女性が水商売で生活していたという人たちの代表的な 姿で、義夫にとっては希望の光として表現されている。 • 張 有真:金義夫の友人で著者自身。 初めは姉のいる集落にたまにしか行かな かったが、姉の夫に誘われ一緒に仕事をす るようになる。後半では大阪から東京へ来て、 タクシーの運転手を経て作家になっている。 「ワン・コリア・フェスティバル」で金義夫と再 会する。小説の後半ではアパッチ族として働 いていた頃の張有真とは違う考え方を持って いるような印象を感じる。 ・ヨドギ婆さん:九州の飯塚炭鉱で石炭を積んだ 天秤棒を担いで仕事をしていた。落盤事故で夫を亡くし た後、7人の子供を必死で育てた。大阪造兵廠跡で金 属を拾い大金を得る。アパッチ村の人々が大阪造兵廠 跡に危険を顧みずに入るようになったきっかけを作った 人物。みんなに大金になる金属の場所を教えず自分だ けのものにしている貪欲な人物であるように思われる。 • 金聖哲:冷静で知的な詩人。後半では 在日の間で有名な金時鐘という詩人となる。 アパッチ族として一緒に大阪造兵廠跡で金属 拾いの仕事をしていた。この人物がいること で、まとまりがないような人物ばかりの義夫た ちの班も落ち着いて行動をすることができた。 正義感が強く、精悍で激しやすい性格の反面、 涙もろくお人好しでもある。 文老人 • 東京の荒川区に妻と子供とでお好み焼き屋 を営んでいたある日突然、妻は「密入国」とい う身に覚えのない容疑で入国管理局に身柄 を拘束された。妻への愛と死ぬことより闘うこ とを選ぶという老人であり、志し高い人物。こ れにより在日コリアンと日本人の間は、無学 ということよりも「正義心」を人間がどれほども てるかを表現している。 ・蔵田刑事:義夫やアパッチ村の人々を捕まえ ようと追っている。特に義夫を目の敵にしていて義夫 を収容所に入れた人物。行動には行き過ぎた部分が あり言葉は冷酷に思われる。当時の日本警察の代表 的なものとして表現されているのではないか。いつも 自分の行動に自信満々のように見えるが、アパッチ村 を恐れている。朝鮮人はみんな犯罪者だと思っている。 • 多田幸四郎:クリスチャンで初子や 文老人たちと一緒に闘う。デモをする前の会 合の場所である家の主人。穏和な口調だが 強い意思を持っている。デモ隊の代表者の一 人で、デモの最初の方は穏便さを出していた がだんだん興奮し声を上げて抗議する。穏和 な雰囲気だが行動力がある。心から収容所 に入れられた人々を救おうとする懸命さが感 じられる。 原口弁護士 • 文老人・初子の弁護士。正義感にあふれ、国 に流されることはなく、「一人の人間」という謙 遜した態度に満ち溢れている人物。そのため 彼は個人の力、集団の力、暴力、討論の成 す術を知っており、その「術」を知っている人 の強大さが表現されている。 時代背景 1.在日コリアンが増えた理由(在日コリアンと戦争の関係) ・1910年に韓日併合から1945年の終戦までの36年間、日本は朝 鮮半島を植民地支配していた。日本に安住している韓国・朝鮮人の多 くはこの間に日本に渡ってきた人とその子孫だ。日清戦争で慢性的な 米不足に陥っていた日本は「産米増殖計画」といって植民地である朝 鮮半島から大量の米を収奪した。それにより朝鮮の民衆は貧しくなり 職を失う人が続出した。はじめにそういう人たちが大量に日本に職を 求めてやって来た。 そして1939年には、日中戦争の泥沼化や太平洋戦争突 入による労働不足の為に、いわゆる強制連行が始まった。 広大な戦線において世界を相手に戦う羽目になった日本 は国家の総力を戦争遂行に注ぎ込む国家総動員体制をし くことになる。植民地として最大の人的資源を有していた朝 鮮は真っ先に総動員体制に組み込まれ、朝鮮が兵力や労 働者として強制的に動員された。このうち、1939年から始 まった毎年度の国家総動員計画の労働員計画によって、 内地の軍需産業にも朝鮮から延べ60万人の労働者が送 られた。「募集」方式、「官斡旋」方式、「徴用」方式の3段階 があり、このことによって在日コリアンの人口が急増した。 「募集」方式:1939年7月28日の内務・厚生両次 官通牒「朝鮮労働者内地移住に関する件」の基づく 「朝鮮労働者募集要綱」にのっとって行われた方式。 労務動員計画による計画割当人数の徴発を、朝鮮 総督府の指定した地域において、石炭会社などの 事業主(企業)が「募集」という名目で行った。 「官斡旋」方式:1942年2月13日の閣議決定「朝鮮人 労務者活用に関する方策」に基づく「鮮人内地移住斡旋 要綱」にのっとって行われた方式。各企業間や「内地」側 と朝鮮側の朝鮮人労働者の奪い合いを調整し、移送途 中の逃亡を防ぎ、かつ必要な労務訓練を事前に行う為 に編み出されたもので、徴発事務を朝鮮総督府内の官 製団体である朝鮮労務協会が一元的に行い、隊組織を 組んで労務訓練を施した後、割当事業所へ提供した。 「徴用』方式:1944年8月の閣議決定「半島人労務者の移入に関す る件」により、国民徴用令による一般徴用を朝鮮においても発動。従 来、朝鮮人労務者の移入に際しては移入業務を断続的に進めるた め、徴用という強権発動を差し控え、名目的に募集とか斡旋とか称 していたが朝鮮内における人員も払底し、労務動員に対する反発も 高まってきた為、仮名をかなぐり捨て、法的強制手段に訴えた。新し く労働者を徴発する新規徴用の他、重要事業所の従業員を釘付け にする「現員徴用」も同時に発動。国民徴用令は朝鮮内においても 軍要員の徴発に際して早くから発動されており、日本本土在住朝鮮 にも1942年から適応。こうして1945年の終戦当時には230万人 を超える朝鮮人がいた。その多くはすぐに自力で朝鮮半島に戻って 行ったが、戻るためのお金や手段がなかった人は取り残された。 又、財産の持ち出しを制限されていた為、朝鮮に生活基 盤がなくなっていた人も帰ることが出来なかった理由の 一つだが、朝鮮は戦後、急速に経済事情が悪化し在日 コリアンは本国の困窮した経済状態を耳にしていたため、 多くの者は帰国を躊躇していた。さらに本国のいたる朝 鮮人が日本からの帰国を心良く思っていないということ も知っていた。そして結局1947年の時点で約53万人 が日本に残った。これが在日コリアン一世で、在日コリ アンが増えた理由は戦争が大きくかかわっている。 2.大阪造兵廠について • • • • 大阪造兵廠の歴史は戦争時代の象徴であるかの様に発展してきた。明治2年 (1869年)に設けられ、砲兵第二方面、大阪陸軍兵器本所、昭和15年(1940 年)には大阪陸軍兵器補給所となった。ここでは航空関係を除いた全ての兵器 が造られ、戦争の拡大とともにその規模を拡張されて35万坪の大工場となり、 一時は関連工場の人員を含めて、6万8千人が兵器づくりに従事していた。 明治以来の日本陸軍を支えてきた大阪陸軍造兵所は明治政府が「富国強 兵」・「殖産興業」の夢をかけた最新技術の官営工場として出発し、帝国陸軍の 大兵器工場として大砲・爆弾などを製造し続けたこの工場は、日本が経験した戦 争の度に拡張され、太平洋戦争期には延々と広がる広大な地域を占めていた。 これだけ巨大な兵器工場であったため、歴史的・社会的に果たした役割は大きく、 工業都市大阪の形成に大きくかかわった。 軍工所の宿命として大阪砲兵工廠は明治期からおよそ10年ごとに引き起こさ れた戦争のたびに拡張し、戦争の終結とともに縮小するパターンを繰り返してき た。そのため在日朝鮮人にとって造兵所は戦前も戦後も生きていくための重要 な場所であった。 現在この跡地は大阪城公園、ビジネスパーク、森之宮電車区となっている。 3.貧困がどこからきたか • 在日コリアンは、戦後の朝鮮が急速に経済 状態が悪化し、困窮した経済状態であること を耳にしていた。その為、祖国に戻る時期を 延ばしているうちに在日の生活が長くなり、 朝鮮半島での生活基盤をなくしていた。日本 に住み続けることを余儀なくされた在日コリア ンの住居は、「朝鮮部落」と呼ばれる日本人 が忌避して住まない場所に密集していた。生 活は戦前に比べて変わらず、大多数が失業 していた。 • 日本各地への米軍による空襲で多くの企業 は操業不能の状態であり、操業が可能な工 場も資材不足から生産マヒ状態に陥っていた。 • 消費財、日常生活物資の不足から各地に 「闇市場」が自然発生的に生まれ、在日コリ アンもその闇市場で統制物資(米や酒など)の 密売買で生活の糧を得るようになっていった。 • 1959年6月には、朝鮮人の14%が日本政 府から生活援助を受けていたが、ぎりぎりの 生活だった。 • 日本人のように生産手段(農地など)を所有していな いので物を生産して生活する場所がなく、闇市場で 統制物資の取り扱いは他に手段がなかった在日コ リアンにとって仕方がなかった。そこには、経済構造 から疎外される立場にいる者たちの切迫感があっ た。 • 酒の密造など非合法の仕事に入り込むこともあった 為、犯罪率が多かった。さらに「解放国民」には日本 の法律が適用されないという強い意識があり、日本 の取り締まりに従わず治安当局と朝鮮人社会の衝 突が多発した。このことは反朝鮮人感情となって日 本社会に広がった。 4.大村収容所について • 主として、日本から韓国への強制退去者を一時収 容する施設で、長崎県大村市にある。1950年10 月1日外務省に出入国管理庁が設置され、同年末 に大村の元海軍航空所本館を改修し、移転し、大 村入国者収容所となった。1951年に出入国管理 例が施行され、朝鮮からの難民を不法入国者として 一時収容し、強制送還したが、以前からの日本在 留者も強制送還の対象とされた。また、非収容者の 処遇が刑務所の犯罪者と同じような状態であった。 • 現在この収容所は在日朝鮮人の人々の要請など により取り壊され、大村入国管理センターとなってい る。 • 非収容者とは? 朝鮮からの密入国者であり、その一部は日本に 移住していた者のうち刑事処罰を受け不良外人とさ れた者。 →「不法入国」「不法上陸」「不法残留」 これからの人々は一般人の通報などにより逮捕され る。 ↓ 警察署で22日間程度留置拘留後、起訴されると 3ヶ月~1年程度が進行。 ↓ 刑務所にて求刑もしくは法務省入国管理局審 査員の審査 • 審査 1.審査官の審査(書類の作成で簡単な口述調 書) 2.特別審査官の審査 3.法務大臣への意義申請及び裁決。(公開審 理がなく、大臣の自由裁量) 以上3段階を経て全て却下になると退去強制 令書が発布。 大村収容所へ・・ このように在日朝鮮人に対する日本国の適当 かつあいまいな対応により罪のない在日朝 鮮人までも収容所に入れられたりなどされた。 まとめ • P63.「この廃墟は鬼ヶ島のような場所 です。船で川を渡って鬼退治をして宝物 を持って帰るのですから。」…日本人に とっては廃墟だが、当時の在日コリアンに とっては何か1つでもお金になる金属を見つ けると今までとは打って変わって金持ちにな れるという社会状況(集落の状況)が表れてい る言葉だと思った。 • 「警察はわしらから生きる権利をうば おうとしてるんじゃ。」…日本政府によっ て日本からも祖国の朝鮮からも孤立してし まった状態になった在日コリアンが、廃墟か ら金属をとってくることが生活をする上で重要 になっていることが表れている。どうにもなら ない立場にいる在日コリアンの感情が表れて いると思った。 松元麻美 P526.「どのような体制であろうと権力の本質は 同じであるというのは真実だろう」…これが心に残っ たのはこの作品で疑問に抱いていた答えが書かれている からだ。その疑問とは、この作品は作者自身の体験も含 まれているのに彼自身が在日コリアンとして生きてきたこ とより金義夫の在日コリアンとして生きてきたことが多く書 かれていることだ。それを考えると一つ、「意志」の結論が 出てくると思う。この「どのような体制であろうと権力の本 質は同じ…」という考えは金義夫が言うことによりその言 葉の「重さ」があり、それだけの重さを読者に感じてほしい と共に、これから先の在日コリアンの姿をも指しているの ではないだろうか。これを考えるのは在日コリアンだけじゃ なく私たち日本人や世界の多くの人々がすべきことで「国 家」とは何なのかという根底があると思う。 吉田真理 • 「糞詰まりの最底辺にP128.生きているわし らをこれ以上追いつめてどないしますねん。 わしらはただ飯が食えたらそれでええんです わ。それ以上のことをわしらは望んでまへ ん。」P152.「戦争が終わってもまた戦争が 始まる。この廃墟は人間の愚劣さをさらけ出 した醜悪な場所や。」P350.「ここで生きられ へんもんは向こうへ行っても生きられん。」… 違うセリフの中に在日コリアンがおかれていた状況が表れて いる。特に印象深かった三つのセリフの中には贅沢を言って いるわけではない、ただ普通の暮らしがしたいのにそれさえ も許してくれない日本の警察に対する怒り、廃墟が醜悪な場 所だと分かりながらもそこを生きていく為の糧にしなければ ならない自分たち自身への矛盾した感情、貧しいものはどこ に行っても貧しいという絶望的なものなど様々な心理が読み 取れると思う。 • また、映画の中の義夫が留置所で「わし の血美味しいか。味も色も日本人と同じ やろ。それなのに…」と言ったセリフの中に同 じ人間なのに差別され人間扱いされない、人から信 じてもらえない怒りよりも悲しみを感じた。普段弱音 を吐かない義夫が言った言葉だからこそ、その悲し みが伝わってくるし、重みがあり考えさせられたセリ フだった。私はこの作品を読むまで大村収容所のこ と、大阪造兵廠跡のことは全く知らなかった。私たち は在日コリアンの状況を他人事だと思って外から眺 めてはいけないと思う。私のように無知が差別を生 み出すこともある。日本の中で起こっている以上私 たち全体の問題であり部外者ではないはずだ。 • この作品を通して今までの在日コリアンの社 会状況・立場、今現在のこと、これから先のこ と、どうしたら暮らしやすくなるか、差別をなく す為になにができるか、堂々と本命で名乗れ るようにする為に…など一人ひとりが何をす べきか一緒に考えなければ何も発展しないと 感じた作品だった。 潮谷くらら 参考文献 • 「在日朝鮮人の歴史」 リチャード・H・ミッチェ ル 彩流社 • 「在日朝鮮人の歴史」 金英達著作集 明石 書店 • 「昭和の歴史➇ 占領と民主主義」 神田文 人 小学館ライブラリー • 「昭和の歴史➈ 講和から高度成長へ」 柴 垣和夫 小学館ライブラリー • 「大村収容所」 朴正功 京都大学出版 • 「大阪工廠における製鉄技術変遷史他」 久保在久 編 日本経済評論社 • 「朝鮮人強制連行の研究」 金英達 明石書店 • 「朝鮮を知る辞典」 伊藤亜人 平凡社 • 「在日韓国・朝鮮人問題の基礎知識」 中尾宏 明 石書店 • 「写真図説 日本の侵略」 アジア民衆法廷準備会 編 大月書店 • 「日本の侵略」 アジア民衆法廷準備会編 大月書 店 大阪鶴橋コリアタウン • 大阪市生野区の鶴橋及び隣接する桃谷の一 部は、在日韓国、在日朝鮮人2万人が生活 する日本最大のコリアタウンであり、また人 情味の溢れる大阪下町中の下町である。 ワン・コリア・フェスティバル • ワン・コリア・フェスティバルは、朝鮮半島を ルーツに持つ在日コリアンの若者を中心に構 成されている。 1.ワン・コリアとは? 「朝鮮半島の平和を願う」と同時に「日本からア ジアひいては世界への共存の思い」という意 味。 2.フェスティバル実行委員会の目的 1.祖国に先駆けて在日コリアンこそハナ(ひとつ)に なってワンコリアのシンボルになり、祖国南北・海外 同胞のパイプ役としてワンコリアの実現に貢献する とともに究極においては、世界市民に連なる「アジア 市民」創出のための「アジア共同体」を展望すること。 2. 「アジア共同体」構想。つまりアジア地域の安全保 障と発展のために韓・日・中の連携と強調を求める こと。それは経済統合ではなくアジア地域内の経済 格差の縮小から解消、環境問題や安全保障におけ る「アジア市民」の創出を目指すこと。 過去の活動 • • • • 「ワンコリア囲碁大会」 「ワンコリア花見大会」 「ニューヨーク・ワン・コリア・フェスティバル」 「韓国議政府市・ワン・コリア・フェスティバル」
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