8・文化としてのさくら 2010.11.10. 成蹊・文化人類学Ⅱ 8・文化としてのさくら 2010/11/10 - [2] 「日本文化」として選ばれた「さくら」 前回資料映像8「桜紀行」前半より、「さくら」は以前 からひとびとに親しまれてきたけれども、特に明治以降 のナショナリズム形成期に、歌舞伎や相撲などとともに 日本文化を体現するものとして「選び出された」ことが わかった それ以前(=前近代)においても、地域ごとに(=local)それぞ れに「種蒔き桜」を愛でては来たが、それが「日本の」もの(= national)になるのは「近代」 「近代」において戦勝記念や皇太子即位記念などの国家的行事の 際にそれを祝うために植えられ、それが現在も残る各地のさくら の名所を創り上げていった 8・文化としてのさくら 2010/11/10 - [3] 「選び出す」という行為 さくらが日本文化の要素として選び出された、というこ とは何を意味するのだろうか? さくらと日本(日本人)の結びつきは「嘘だ」「でたらめだ」と いうことではない……cf. 種蒔き桜・春山入り かといって逆に「それは日本人のDNAに刻まれている」「いにし えより日本人の心である」というような見方も正しくない それは「つくりごと」だ(あるいは「やらせ」だ)とい うのが一番近い やらせにしろつくりごとにしろ、ゼロから捏造するでたらめでは 説得力を持たない ある程度の「本当」「事実」の上に、さらに意図的に築き上げら れたものである ということは、そうしたものを「築き上げる」プロセスを、歴史 をたどると発見することができる(大概は近代の産物である) 8・文化としてのさくら 2010/11/10 - [4] なぜさくらが選ばれたのか? 農耕作業的には、 江戸庶民の娯楽としては、 (1)一定の時期に咲くこと、(2)むらの誰もが気づくような大きな 木になること、(3)ことさらに悪印象を与える要素(臭いとか、汚 いとか、かぶれるとか)がないこと 上の(1)(3)に加え、(4)並木など広く群生させて植えるのに適して いること、(5)さまざまな樹種のバリエーションがあって楽しめる こと 江戸~近代のナショナリズムにとっては、 (6)中国を初めとする他国にはあまり見られないこと、(7)既に庶 民・国民に広く親しまれていて利用しやすかったこと、(8)潔さ・ はかなさのイメージを利用しやすかったこと 8・文化としてのさくら 2010/11/10 - [5] さくらの意味の多様性 このような多様な意味合いを込められたさくらを、単純 に「日本の伝統ですばらしい」「日本人であるからこそ そのよさがわかる/日本人にしかそのよさはわからない」 「ずっと変わりなく日本人が愛してきた」と考えるのは 適切ではない わたしたちがさくらを好むのは、もはや「自然なこと」 ではない 過去の強制的な刷り込みによって植えつけられた影響を、抜き去 ることはできなくなっている cf. 親・先輩を「自然に」敬うことと、それを一度でも「強制」さ れて以降の複雑な感情とは、同じではない 8・文化としてのさくら 2010/11/10 - [6] 中古~近世のさくら たしかに、江戸時 代にも花見はあっ たし、古今和歌集 や源氏物語をはじ めとする中古・中 世文学の中でも、 さくらは重要なモ チーフである 「願わくは花のも とにて春死なむ その如月の望月の ころ」(西行) 種名 源氏物語 古今和歌集 万葉集 順位 回数 順位 回数 順位 回数 マツ 1 61 3 20 3 76 サクラ 2 49 1 53 5 50 ウメ 3 43 2 30 2 119 フジ 4 30 7 10 10 28 ヤマブキ 5 23 11 6 19 17 ナデシコ 6 22 2 11 26 キク 7 20 ハス 8 19 オミナエシ 9 17 3 20 20 14 タチバナ 10 16 15 4 4 68 タケ 11 15 9 8 17 19 ヨモギ 11 15 0 1 アサガオ 13 13 1 5 オギ 13 13 0 3 ムグラ 13 13 1 2 ハギ 16 11 ユウガオ 16 11 ヤナギ 18 9 コケ 18 9 1 11 ゴヨウマツ 20 8 0 0 6 5 15 0 1 4 16 1 0 17 3 142 0 9 39 8・文化としてのさくら 2010/11/10 - [7] 江戸期のさくら(1) 江戸時代までのさくらは、いまでいうヤマザクラ・シダ レザクラが中心 18世紀初頭、徳川吉宗の命により、御殿山(品川)・上 野・浅草・隅田川・飛鳥山(王子)などに桜並木が整備 される(庶民向け政策の一環) 開花期がソメイヨシノよりもやや遅い 群生するのではなく、寺の境内などに一本だけ植わっている「寺 桜」や、実際山中に自生している文字どおりの「山桜」が主 「庶民の花見」の成立(ただし品種はヤマザクラ) 18・19世紀を通じて、江戸時代のさくらは圧倒的に、庶 民の物見遊山の対象であった 桜の種別(1)・ソメイヨシノ 緑の若葉が出る前に、まるで木全体を塗りつぶすように花が開く。 花びらは5枚で白に近い淡紅色、花は3-4個集まって付き、直径は 4cm前後。エドヒガンとオオシマザクラの雑種と考えられている。 明治初年に東京染井村の植木商が広めたことからこの名がある。成 長が早く、満開のときや散りぎわが見事なので全国に広がった。 この花種は、江戸時代までは「存在していない」というのは重要 桜の種別(2)・ヤマザクラ 日本の代表的な桜で、山地に広く自生する。奈良県の吉野山は昔か らヤマザクラの名所として有名。いわゆる里桜(ソメイヨシノ、ヒ ガンザクラなど)は、花が咲いた後から葉が出るが、山桜(ヤマザ クラ、エゾヤマザクラなど)は、葉と花がほとんど同時に開く。ヤ マザクラの幼葉は赤みがかってるため遠目には、花が赤っぽいよう に見える。 桜の種別(3)・シダレザクラ エドヒガンの園芸品種で枝が長く垂れるものを、シダレザクラ(枝 垂れ桜)またはイトザクラ(糸桜)という。エドヒガンは長寿の桜 として有名で、山高神代桜(山梨県)や薄墨桜(岐阜県根尾谷)、 樽見の大桜(兵庫県)など、天然記念物に指定されている巨木がた くさんある。シダレザクラでは、角館の枝垂れ桜(秋田県)や三春 滝桜(福島県)などが有名。 桜の種別(4)・カンヒザクラ 濃いピンク色の桜。散り際になると更に濃さを増す。釣鐘型の形で ソメイヨシノのように広がることもなく、散り様も椿のように花ご と落ちる。カンヒザクラは沖縄が有名だが、色も白から紅紫色まで、 花の形も広がるなど、様々なものがある。沖縄では1月、関東でも3 月近くになると次々と咲き始め、ソメイヨシノが咲く頃には終わっ ている。 8・文化としてのさくら 2010/11/10 - [12] 江戸期のさくら(2) そうした「庶民のさくら」の一方で、「中国に比べて」 日本独自のものとしての、また「武士」と結びついたさ くらのイメージの形成が始まる 「日本の桜と云物は、中華に無之」「中世以来、桜を花と云」 (貝原益軒『大和本草』1709年) 「花は桜木、人は武士」(『仮名手本忠臣蔵』1748年) 「もろこしの人に見せばや三吉野のよしのゝやまの山ざくらば な」(賀茂真淵(国学者)1697~1769年) 「しきしまの大和心を人とはば朝日ににほふ山桜ばな」(本居宣 長(国学者)1730~1801年) 8・文化としてのさくら 2010/11/10 - [13] 近代のさくら(1) 明治初年、一気に咲いてぱっと散るソメイヨシノの登場は、 日本の春のイメージをがらりと変えることとなる さらに、軍隊を通じて、ソメイヨシノは国花 national flower としての地位を占めていくこととなる 近代化に伴う土木工事(学校・公園・道路・堤防)の際に、さくら (ソメイヨシノ)の植栽がすすめられる 軍隊の帽子・軍馬の鞍に用いられる桜の徽章 1895年の日清戦争祝勝・1905年の日露戦争の祝勝を期に全 国に広まる紀念植樹 弘前城(1900年) 皇太子=大正天皇の成婚紀念 盛岡・高松公園(1906年) 日露戦争戦勝紀念 上越・高田公園(1909年) 陸軍第十三師団入場紀念 長浜・豊公園(1914年) 大正天皇御大典事業 久留米・浅井一本桜(1929年) 昭和天皇御大典事業 各地の学校における、紀元二千六百年紀念植樹(1940年) など 8・文化としてのさくら 2010/11/10 - [14] 近代のさくら(2) 「さくら=日本」のイメージを、国民のあいだに広く行 き渡らせたのは、学校教科書というメディアであった 1886年 小学校の義務教育(尋常科4年)がスタートする……就学 率は当時50%程度(通学率は30%台) 1900年 市町村に小学校の設置義務が課せられる(尋常小学校4年 =義務+高等小学校2年) 1904年 国定教科書制度が導入される……就学率は当時90%程度 (通学率は70%台) 1907年 小学校の義務教育が6年に延長される(尋常小学校) 義務教育下の国定教科書におけるさくらの記述をみてみ ることにしよう 国定教科書第2期(1910-17年) 尋常小学読本・巻三 国定教科書第3期(1918-32年) 尋常小学読本・巻一 国定教科書第4期(1933-40年) 尋常小学読本・巻一① 国定教科書第4期(1933-40年) 尋常小学読本・巻一② 国定教科書第5期(1941-45年) ヨミカタ 一 ① 国定教科書第5期(1941-45年) ヨミカタ 一 ② 8・文化としてのさくら 2010/11/10 - [21] 戦後のさくら ナショナリズム~軍国主義ときわめて強く結びついたさ くらは、戦後の一定期間、日本・日本人・日本文化との 結びつきが避けられる傾向にあった こうした傾向が変化するのが、1964年の東京オリンピッ ク・1968年の明治百年記念事業・1970年の大阪万博で ある 各地のさくらの開花予想をマッピングした「桜前線」は 1965年から全国的に発表され、メディアに取り上げられ るようになる 東京オリンピック1964年・大阪万博1970年シンボルマーク 桜前線:入学式のさくら? 8・文化としてのさくら 2010/11/10 - [24] さくらをめぐる2つのベクトル 桜をめぐる2つのベクトル 桜は、確かに「昔から」庶民の娯楽としての要素は持っ ていたが、一方で、そこにはさまざまな変化の要素が働 いてきたことも確か 特に近代=明治に入ってからは、意図的な力が働くよう になった……「やらせ」「つくりごと」としての「日本 のさくら」
© Copyright 2024 ExpyDoc