日本科学哲学会第37回大会ワークショップ「リスク分析

日本科学哲学会第37回大会ワークショップ「リスク分析の
方法論と哲学」提題
応用科学哲学の問題としてのリスク
伊勢田哲治
名古屋大学情報科学研究科
[email protected]
問題設定
応用科学哲学(applied philosophy of
science)の問題としてリスク分析(リスク評
価)を考える
応用科学哲学:理論倫理学に対する応用
倫理学の立場に相当するものを科学哲学
に対して想定したもの。
問題設定
リスク分析は二つの点で応用科学哲学の
対象として興味深い
・ほかの科学分野では正面に出てきにくい不
確実性の要素が顕著に現れる
・「科学的」とされる判断の客観性が具体的
な形で批判にさらされている
「リスク論」に対するSTS系の分
析
「(前略)予防原則は非科学的だという批判に対し
ては、そもそもリスクの問題では"科学的妥当性"
と"政治的正統性(legitimacy)"は切り離せないの
だと応戦できるだろう。つまり(中略)リスクの原
因と結果に関する科学的判断に求められる確実
性の程度は、現在または将来の被害者の利害
が、確実性を追求するあまりに犠牲にされては
ならないという、"社会的・環境的正義"の要求と
釣り合わされねばならないのである」(平川1999)
「リスク論」に対するSTS系の分
析
「リスク論は一定の偏差をもった意図を隠
し持つにもかかわらず自分をできる限り中
立な「科学」として提示しようと苦慮してい
る」
「リスク論を奉じる論者たちの産業主義的
で現状維持的なバイアスはほぼ否定しよう
がない」(金森2003)
「リスク論」に対するSTS系の分
析
「定量的リスク評価には限界がある。もっとも本
質的な限界は、こうした評価手法が確率論を前
提としているのに対し、現実には確率論の前提
が満たされないことに由来する。(中略)すなわち
、リスクを構成する場合の数が事前に決定でき
た場合に限りリスクを定量的に評価できるが、現
実にはリスクを構成する場合の数を事前に決定
できない。」(松本2002, pp.47-49)
「リスク論」に対するSTS系の分
析
以上の引用における論調は穏健なものか
ら攻撃的なものまでさまざまだが、「リスク
論」が科学として独立性を持つことを否定
し、主張内容の検討に非専門家が参加し
なくてはならない、という認識ではこれらの
議論は一致している。
「リスク論」に対するSTS系の分
析
こうした言説が科学技術に関する政策決定へ非
専門家が参与する可能性を開いたという点は評
価できるが、そこで想定される介入の程度次第
では、非常に危険な反科学主義的主張にもなり
うる。
最良の科学的知見(工学的リスク分析では工学
的知見も当然含む)に基づいて行われるべきリ
スク管理が、単なる憶測に基づく迷信的反応にも
なってしまいかねない。
本提題での用語法
リスク分析(リスク評価)----どの程度のリスクが
あるのかの見積もり
リスク管理----他の選択肢のリスクや費用・便
益との比較、リスクの受容可能性についての判
断
リスク管理に社会的意志決定が必要であることを
否定する人はリスク学者や行政までふくめてほと
んどいない。しかしリスク分析は?
取り組むべき課題
リスク分析にも社会からの参加が必要なのか、
必要だとしたらどの程度必要なのか
どのパターンのリスク分析のどの部分に登場す
るどの不確実性について、誰が判断するのが一
番適切か、を丁寧に考えていく必要がある
「不確実だから科学だけでは解決できない」のか
どうかを判断するには科学哲学の手法が有効
リスク分析への科学哲学の枠組
みの応用
メイヨーの枠組みにしたがって、次の二つのテー
ゼへの態度をもとに三つに区分する。
(A)分離可能性テーゼ
リスク分析・リスク管理における事実判断と価値
判断は明確に分離できる
(B)科学的客観性テーゼ
リスク分析は科学的に客観的なものでありうる
三つの立場
実証主義モデル: (A)(B)両方が成り立つ
社会構成主義モデル:
(A)(B)両方とも成り立たない
ポスト実証主義モデル:
(A)は成り立たないが(B)は成り立つ
(Aだけ成り立つとする立場には事実上支持者が
いない)
現在の科学哲学における主流はポスト実証主義モデル。社会構成主義はも
ともとクーンらの「新科学哲学」に端を発するが、現在では科学哲学内では
ほぼ否定されている
三つの立場
リスク分析については
ダグラスとウィルダフスキの『リスクと文化』が社
会構成主義の代表。引用したSTS系の言説もこ
の主張をしていると受け取られかねない側面が
ある(特に金森氏の言説)
K.S シュレーダー=フレチェット、D.メイヨーらがポ
スト実証主義の立場から論じている
社会構成主義の問題点
客観性の基準を不当に高く置いている。「
不確実な状態で少しでも確実な選択肢を
選ぶ」のも十分客観的選択でありうる。
科学の主流とされる諸分野でも、ある種の
不確実性や過ちの可能性は合理性と矛盾
しないものとして受け入れられてきた。
社会構成主義の問題点
・社会的構成というプロセスを経たからとい
って、結論が科学的合理性をもたないとは
限らない。(個別の例でさまざまな反論が
ある)
・社会構成主義者も自分と対立する立場
は「バイアスがかかっている」といって非難
するが、これは社会構成主義の立場と矛
盾(この問題はダグラスとウィルダフスキの
本に顕著に現れている)
シュレーダー=フレチェットの立
場
客観性の基準は「片手落ちでない」
(evenhanded)こと
科学的合理性の一般原則として、予測力・
説明力がある仮説が選ばれるべきである
ことは認める
しかし合理性は客観性の必要条件だが十
分条件ではない
シュレーダー=フレチェットの立
場
→科学的手続き主義(scientific
proceduralism)
いろいろな立場の専門家・非専門家のチェ
ックという民主的手続きをへてはじめて客
観的と呼べる判断にたどりつく
メイヨーの立場
社会構成主義はリスク分析における社会的価値
を重視しすぎ
事実判断と価値判断の分離は不可能なだけで
はなく、分離を求める事自体、リスク評価者とリ
スク管理者の意志疎通を難しくして十分なリスク
評価ができないようにするという悪影響がある
ただしこれは無意識のバイアスや仮定を明るみ
に出すための非分離主義。非専門家の視点を取
り入れることが逆説的に科学的合理性に貢献す
る
メイヨーの立場
メタ科学的分析
科学の一分野としての科学方法論の観点から分
析
リスク分析から距離をおいて、リスク分析のプロ
セスそのものについて批判的探求をするという
意味で「メタ」
なにが「よい科学か」については交渉の余地があ
るが、証拠の受容可能性や証拠からの推論の正
しさについては交渉の余地がない。
メイヨーの立場
体重計の例:
10分の1ポンド体重が増えたかどうか気にする
のはポリシーの問題だが、1ポンド単位でしか表
示しないデジタル体重計がその目的に適してい
るかどうかはポリシーの問題ではない。(BSEの
全頭検査についても同じようなことがいえるはず
)
両者の立場の評価
シュレーダー=フレチェットとメイヨーの路線は大
筋で一致
本提題者もこの路線(特にメイヨーのバージョン)
に共感する
ただし、リスク分析の営みの中で事実判断と価
値判断が混在するとしても、より微妙なレベルで
分離可能性テーゼは維持可能ではないか
メイヨーはベイズ主義(後述)に批判的だが、リス
ク分析においてはベイズ主義は重要な視点だと
思われる
リスク分析における不確実性
不確実性の諸類型
不確実性とベイズ主義
不確実性と非専門家の介入
不確実性の諸類型
不確実性にはいろいろなパターンがある。ここで
はリスク分析に関わるものだけを取り上げる。(中
西ほか編 2003 第八章、Ascher 2004などを参考に作成)
(1)対象そのもののばらつき (暴露量の個人差
、感受性の個人差、製品のばらつき 等)
(2)標本誤差 (サンプリングの際ランダムに生
じる誤差)
不確実性の諸類型
(3)データのバイアス(サンプリングの手法の妥
当性、データ処理の仕方の妥当性)
(4)モデルの不確実性 (モデルのベースとなる理
論の不確実性、外挿の際のモデル選択の不確
実性、システムの重要な要素の見落とし、計算
能力の限界に由来する不確実性、パラメータの
不確実性、初期値の不確実性 等)
不確実性の諸類型
■ 実はこれらの不確実性はどれをとっても(程度
の差こそあれ)科学の諸分野に共通する不確実
性
強いてリスク分析に特徴的な不確実性を挙げる
なら
・対象に存在するばらつきを人為的に減らせない
こと
・毒性や用量反応関係については理想的なデー
タが得られないので大きな情報不足が常に残る
こと
不確実性の諸類型
しかし
前者については観察的な科学(生態学、天
文学等)に共通
後者については人間を対象とする科学(医
学、社会学、心理学)に共通
→これらの不確実性が科学内部の選択基準
で処理できないと考える理由はない
不確実性とベイズ主義
ベイズ主義:仮説の確からしさやモデルの信頼
性をその仮説やモデルに対する信念の度合いと
してとらえ、この信念の度合い(主観的確率)が
確率論の公理(特にベイズの定理)に従って変化
するのが合理的だという立場
補助規則:客観的なばらつきや頻度が分かって
いる場合にはそれを主観的確率の基礎として使
う
不確実性とベイズ主義
ベイズ主義を採用すれば
古典統計学で扱えない不確実性もベイズ主義な
ら扱うことができ、古典統計学で扱える不確実性
も補助規則を通して組み込むことができる
古典統計学の検定法そのものは一定の条件下
でのみ合理的なものとして条件付きで受け入れ
ることになる。区間に対する主観的確率を割り当
てることもできるのでベイズ的信頼区間推定も可
能
不確実性とベイズ主義
モデルの不確実性や情報不足による不確実性
などに対し最低限の科学的合理性の枠(確率論
の公理に従った改訂)をはめることができる
仮説やモデルがどの程度確からしいかを定量的
に表現できる
→単に「定説です」「非科学的です」というだけでな
く、その仮説がどの程度確からしいかを伝えるこ
とができる。リスク管理の意志決定において非専
門家に専門家の判断を伝達する際重要な役割
を果たす。
不確実性と非専門家の介入
シュレーダー=フレチェットやメイヨーの考
えるような非専門家によるチェックに意味
があるタイプの不確実性は限られる
不確実性と非専門家の介入
不確実性の特定に関して
(3)や(4)で列挙したようなバイアスや見落とし
については立場の違う非専門家がチェックしてそ
の存在を指摘する場合がありうる
しかし
(1)(2)の不確実性の存在については非専門家
の介入でそれまで認識されていなかった不確実
性が明るみに出ることは考えにくい
不確実性と非専門家の介入
不確実性の特定に関して
(3)についても分野ごとに気をつけるべき点は違
い、その分野における妥当な実験やデータ処理
の基準が満たされているかどうかは専門家が判
断せざるをえない
(4)についてもモデルの基礎となるべき理論やモ
デルそのものがどの程度検証されているか、モ
デルが全体としてどのくらい信頼できるかも専門
家の判断すべき領域
不確実性と非専門家の介入
不確実性への対処法に関して
ある程度の対処の路線は合理的判断によって絞
られ、特に(1)(2)については非専門家の介入
する余地は少ない(メイヨー自身も例として使うの
は信頼区間推定の手法)
(3)について、実験手法やデータ処理の手法に
見落としがあることが分かれば、それをどうやっ
て解消すればいいか考えるのは専門家たち自身
の仕事
不確実性と非専門家の介入
不確実性への対処法に関して
最終的なモデルの選択やパラメータの選択はリス
ク管理との関わりが深いので、非専門家を交え
た判断にも意味があるはず
不確実性と非専門家の介入
検証度の低い理論や信頼性の低いモデルをそ
れでも使うかどうかは政策判断の領域。水俣病
の例、環境ホルモンの例など
→検証度や信頼性が第三者に分かる形である程
度量的にあらわされるのが望ましいか(ベイズ主
義的分析が威力を発揮する場面)
→もっともありそうな値やもっとも確かな仮説のみを
使うのか、確からしさの低い仮説もあえて採用し
て安全策をとるのか
まとめ
リスクについて応用科学哲学の観点からの考察
があってしかるべき
最近のSTS系の「リスク論」批判には社会構成主
義モデルを採用しているように見える部分がある
が、このモデルは科学哲学においては支持者は
いない
リスク分析にかかわるさまざまな不確実性は科
学の他の分野にもみられるものであり、それ自
体では特に非専門家の助けを必要とする性格の
ものではない
まとめ
リスク分析のどこにどのように非専門家がかか
わっていくべきかについては個々の不確実性の
タイプにそって丁寧に考える必要がある
仮説やモデルの不確実性についてはベイズ主義
の考えを採用して量的な判断をするのが望まし
いのではないか
補論:用量反応評価を例にとる
話を具体的にするために、化学物質のリス
ク分析の中心となる用量反応評価につい
て考える
用量反応評価 ---- どれくらいの量の暴
露に対してどれくらいの影響(発ガン、発病
)があるか
補論:用量反応評価を例にとる
データとしては疫学データや動物実験が用
いられるが、ここでは動物実験に話をしぼ
る
動物実験においては動物にハザード物質
を大量に投与する実験が行われる
補論:用量反応評価を例にとる
二重の外挿の問題
外挿---データから予測をたてる際に、得られたデータの範囲外へむ
けた予測をすること。
(1)動物から人間への外挿
一般に体重や体表面積に毒性が比例するとされ
るが、同じ物質でも種が違えば毒性を持たない
場合もある
(2)大量投与から少量暴露への外挿
既知のデータポイントをどういう曲線で近似する
か、閾値のあるモデルを使うかないモデルを使う
かで全く外挿の結果が変わってくる
補論:用量反応評価を例にとる
これだけでもさまざまなタイプの不確実性が関わ
ってくる
・実験動物の個体差
・外挿の対象となる人間の方の個体差
・実験結果の標本誤差
・実験手続きに不備やバイアスがある可能性
・閾値の有無や実験動物と人間の種差についての
仮説の不確実性
・データポイントが少ないことによる近似曲線の不
確実性
補論:用量反応評価を例にとる
・一番信頼できる外挿をするか、危険を大
きく見積もる外挿をするかでリスク管理に
関する結論は全く変わってくる。
補論:用量反応評価を例にとる
危険を大きく見積もる外挿は「安全策」で
はあるが、根拠のないモデルを使ってまで
安全策をとるのは不合理
→根拠があるかないかの二値的判断よりは
、ここでも「どの程度根拠がないのか」を量
的に表現できた方がコミュニケーションが
とりやすいはず
補論:用量反応評価を例にとる
「安全係数」というような形でこの判断をブ
ラックボックス化するのは非専門家のニー
ズにあわせて情報を提供するという観点
からは問題があるかもしれない。
場合によっては推定の確からしさを生の形
で提示した方が相互理解がはかれるはず
。