華麗なる古都エスファハーンとイラン周遊の旅(PDF)

西はイラク、東はアフガニスタンとパキスタンに挟まれ
待機。その後、イランの首都テヘランに到着したのは約8
たイランを12日間巡ってきた。知人に話をすると必ず返っ
時間後の夜中11時55分だった。機内で女性は全員が観光客
てくる言葉が「平気だった?怖くなかった?」である。実
でもチャドと呼ばれるスカーフで髪の毛から首筋まで隠す
は出発前に身内には「ペルシアに行ってくる」と告げた。
服装が義務付けられ、イスラム圏に入国する実感が湧いて
イランをイラクと取り違えたり、イランが昔はペルシアだっ
きた。無事入国手続きを済ませ空港ロビーに移動したが、
た事を忘れたりしている人が多い。
深夜にも拘らず賑やかであった。バスでホテルに到着した
前の年にシリアとヨルダンを旅して、パルミラとペトラ
のは2時近くになってしまった。
深夜の到着であったが翌朝は6時に目が覚めた。いつも
の様に機内でぐっすり眠れたからだろう。ホテルのフロン
ケメネス朝王国の遺跡と、その後イスラム化が進みササン
トで手持ちの20米ドルを現地通貨に両替したら18万5千リ
朝ペルシアが15世紀に華を咲かせたエスファハーンを中心
アルになり、分厚い札束を受け取った。最小単位の100リア
に旅をして、現在のイランの国民が明るく元気に生活して
ル(約1円相当)迄紙幣である。
いる様子を知る事が出来た。
ホテルを10時に出発した大型バスは本日から我々25人の
ツアー専用バスだ。片側2車線の高速道路を一路南に向い、
古都ゴムを通過し最初の観光地カーシャーンに午後2時半
古墳の見学だ。日干しレンガをピラミッド型に積み上げた
四層の丘で高さが20m 位ある。フランスとイランとの共同
作業で発掘中だ。BC5000年である事が証明されると「従来
の BC2700年の歴史が塗り替えられる」と得意げにガイドの
アリさんから説明があった。その後、王の庭園であった
フィーン庭園を見学しホテルに一泊した。
翌日はイランが平和利用を表向きにして核開発を行って
いるナタンツの施設を右に見ながら、ゾロアスター教徒が
午後3時30分に成田を離陸したイラン航空801便(ジャン
ボ機)はほぼ満席だった。日本人の観光ツアーが四組の他
にはイランへのビジネス客と中国人を多く見掛けた。約3
時間半掛かって給油の為に北京に到着し、1時間半の機内
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今でも多く住んでいるアビアネ村に向った。イランには現
ると中央に1500年以上も前から燃え続けている聖火を見る
在5万人近い信者が居ると言われている。ゾロアスター教
事が出来た。薪か炭がくべられて燃え上がっている様だが、
は300年前のササン朝ペルシアの時代には国教になり、その
物の本には天然ガスが噴き上がり自然に燃え続けていると
後モンゴルの進撃により多くの信者はインド方面に追いや
書いてあった。その後、シルクロードと言うホテルでラク
られた。BC2000年前後に聖人ゾロアスターが善の神アフラ・
ダの肉料理を昼食で食べ、ササン朝時代のゾロアスター教
マズダと悪の神マングラ・マイニュの二つの原理によって
神殿の跡地に建設された金曜日のモスクを見学した。金曜
世界は構成され、最終的には善の神が宿命的な勝利を勝ち
各都市には必ず一つは在り重要視されている。二本のミナ
㈱マツダやエジソンランプのマツダの語源だそうだ。太陽・
レットが聳え立っているがこの高さ53m はイランで最も高
星・ 火・ 水・ 大 地 を そ の 象 徴 と し て 崇 め て い る。 標 高
いミナレットだそうだ。上に登る事は出来なかったがタイ
2200m の緑の渓谷に囲まれたアビアネ村に到着すると女性
ルが綺麗に仕上げられていた。
はバラ模様のスカーフ、男性はダボダボのズボンを履いて
その後、土壁の旧市街を散策していると所々に大きな塔
いた。見掛ける人は年配の人ばかりだが日本でも現在問題
利用して室内に涼しい空気を入れる自然クーラーであった。
教育を受け医者や役人を目指しているとの事だった。ゾロ
家々の入口の扉には左右大きさの違う取手が付いていて外
アスター教徒が今でも多く住んでいると言われているヤズ
部の訪問者が男性か女性かを知る為の工夫だそうだ。
20世紀に入ってからイラン政府は鳥葬を法的に禁じたが、
ここヤズドでは数十年前までは秘密裏に行われていたそう
ゾロアスター教の故郷ヤズドを後にしてザーグロス山脈
だ。日干しレンガで作られた関連施設が幾つか並んだ先に
左右二つの丘がある。左が男性用、右が女性用の鳥葬をす
ポリスに我々のバスは向った。山脈の麓に辿り着くまで暫
る丘だ。左の方が高く右の丘の頂上の様子が見下ろせると
くバスはイラン平原をひた走る。アリさんがしきりに外に
ガイドブックに書いてあったので、一行とは別れて単独で
目をやり何か探している様子だ。突然道の脇にバスを停車
急いで登る事にした。息が切れる勢いで登って行ったが最
させて我々を砂漠の花が咲いている荒地に案内した。目の
後の壁が高くてよじ登る事が出来なかった。それでも右の
前には丘が連なっている。地面の一箇所が盛り上がってい
丘の頂上にある窪地を遥かに見下ろす事が出来た。引き続
たが、深さ10m はある穴を掘った跡の盛り土だそうだ。直
き右の丘を登ると既に一行は見学を済ませ降りて来るとこ
ぐ脇に残されている竪穴を覗くと底には今でも水が流れて
ろだった。こちらは入口が低く中に入る事が出来、中央の
窪地も間近で見る事が出来た。ここに遺体を細かく砕き鳥
して山の伏流水を街まで運ぶ工夫だ。遥か山の方から20m
と風にまかせて葬る様子を想像すると寒気がした。
毎に100年掛けて掘り続けた古代からのイラン人の熱意には
驚かされる。100年も掛けると言う事は自分達の為ではなく
池があり建物正面の頂上には大きく翼を広げたゾロアス
子孫の為に体力を惜しまないと言う事だ。現在では水道が
ター教の象徴であるアフラ・マズダの像があった。中に入
完備しているが農業用水には活用しているそうだ。
2600m の峠を越えるとキャラバンサライが待ち受けてい
た。この付近はシルクロードの一角でラクダに乗った商隊
が一夜を過ごした場所だ。日干しレンガを積んだ10m はあ
ながら属州の統治状態を巡察したそうだ。
根本から沢山に枝分かれした巨木は高さ25m、周囲8m だ
そうだ。確かに古そうではあるが5000年物とは思えなかっ
た。
待ち望んだパサルガダエにやっと到着した。有名なキュ
に向った。ここの敷地は大変広く、夫々の遺跡は点在して
いてバスで移動する必要がある。そもそもパサルガダエと
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昨晩、久し振りにアルコールを飲んだのでぐっすり眠っ
ス大王(二世)の下で建設が開始されたアケメネス朝最初
てしまい、目が醒めたら6時を過ぎていた。ペルセポリス
の首都である。キュロス二世の死後、ダレイオス一世に建
の入口まで散歩する事にしていたが朝食迄1時間しかない
設は引き継がれシューシュに都が移される迄栄えた。小鳥
ので急いで着替えた。ホテルを出ると真っ直ぐの道の遥か
がさえずり黄色い花が咲くのどかな小道を歩くと足元に太
向こうに丘が見え、遺跡らしい円柱が立っている様に見え
い円柱が転がっていた。基礎の台は残されているが宮殿と
る。誰も居ない静かな松並木には小鳥のさえずりだけが聞
こえる。次第に入口に近づくと世界遺産のマークが見えて
発掘調査を進めている様子で、鉄筋の支えが在った。城塞
きた。ペルセポリスの入口だ。急ぎ足で来たら15分だった
の土台を登る途中には真っ赤なポピーが咲き乱れて綺麗
のでこのまま戻れば朝食時間に間に合う。道路の右側には
丘が二つ見える。アレキサンダー大王が遥かマケドニアか
高さ11m のピラミッド型に石壇を積み上げた堂々たる物で、
ら遠征して来た時にはあの丘を越えて来たのだろうか?
三度の外国からの侵略にも破壊されずに残っている。アリ
朝食を済ませバスでいよいよペルセポリスの見学だ。何
さんの説明ではアレキサンダー大王はキュロス大王を尊敬
の事はない!早朝散歩した道を再び辿り入口に向かった。
していた為、トルコは別の場所と偽り騙された、そしてモ
大階段の前でアリさんの説明が始まった。「ガイドブックに
ンゴルはここ迄攻めてこなかったとの事だ。
は階段の段差が約10cm と低いのは馬に乗っても昇り降りが
容易に出来る為と書いてあるが嘘である」と自慢げに話し
ている。確かに馬でも登れるようにステップがゆるく出来
ている。大きな一つの岩から五段分の階段を切り出したそ
うだ。両脇には有名な獅子と牝牛の戦いのレリーフや貢物
を運ぶ各国の元首の横顔が描かれている。大階段を登りき
トには牡牛像、東ゲートには人面有翼獣神像の対の彫像が
朝日に照らされて見事だ。儀仗兵の通路が真っ直ぐ延び未
完成の間の手前左側に空飛ぶ双頭鷲像が転がっていた。イ
ラン航空のシンボルマークのモチーフになっているがあま
りにも表面が綺麗で傷んでいなかったので最近復元したレ
プリカだと勝手に解釈して写真も撮らずに通り過ぎた。後
で説明を聞いたり物の本で読んだりしたらここに在るのは
ペルセポリスの正面入口から真っ直ぐの道路に面したコ
なってアメリカの考古学者らが発掘したとの事だった。
テージ風のホテルに連泊した。イランに入国して5日目に
一旦遺跡から離れ、丘に登り壁に彫ってあるアルタクセ
なるが全くアルコールを飲むチャンスが無かった。イスラ
ルクセス二世の王墓を見学した。ここからは横幅450m、奥
ムの厳しい戒律とはいえ観光客にも全くそのチャンスが無
いのには驚かされる。イラン人であっても外国に出掛けた
折にアルコールの味を覚えれば国内でも飲みたくなるのが
自然だ。蛇の道は蛇。イランにも矢張り蛇は居た。公に販
売する事は禁じられていて購入は不可能だが、どうやら好
きになった人は自分達で飲む分だけは秘かに造っている様
だ。今回、特別ルートで手に入れたワインを有志のみ集まっ
て飲む事になった。飲みたい人は部屋からグラスを持ち寄
り、秘かに一室に集まった。ラベルも何も貼ってないボト
ル瓶にはピンク色の液体が入っており、グラスに注ぎ小さ
な声で「カンパイ!」をした。決して美味しいとは言えな
いがワインらしい香りはした。自分の部屋に戻る途中で見
上げた夜空には北斗七星、オリオン座そして夏の大三角形
の星が輝いていた。
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行300m の広大な基壇(テラス)の上に約2500年前に造られ
一般客が全て立ち去る頃には夕日が地平線に沈み掛けてい
る。急いで写真スポットを見付けカメラのシャッターを押
し回る。ビデオも撮り忙しい愉しい嬉しい一時だった。
ち並び、その上にレバノン杉で天井が張られていたが、ア
レキサンダー大王により焼き払われてしまい今では基礎部
バラと詩で知られるシーラーズはテヘランから約600km
直径2.1m、高さ18.3m の石柱が12本も残っていて、最上部
南方で標高1600m の高地に位置するファールス州の州都で
には背中合わせに反対方向を向いた3m もの人面牡牛像が
ある。イラン第五の都市でアケメネス朝はこの地方から起
飾られている。
こった。
ペルセポリスの遺跡から一旦外へ出て昼食を済ませ、ナ
にあるシーラーズ大学の隣で庭園の一部は大学が管理して
いる。バラは殆ど咲き終わっていたが地元の学生が沢山見
が刻まれている。ナグジェ・ラジャブにはアルデシール一
学に訪れていて、しきりに我々観光客と一緒に写真を撮る
世とシャープル一世の戴冠の様子とササン朝初期の聖職者
愛嬌のある明るい笑顔を振り向けていた。
が描かれている。
ペルシア語で綴られたペルシア詩は10∼15世紀が古典黄
もう一方のナグジェ・ロスタムはアケメネス朝歴代の四
金時代と言われている。セウジューク朝時代に30年間も中
大王が眠るお墓で歴史的に古い物である。アルタクセルク
東や北アフリカ・インドを放浪し70歳を過ぎてからシーラー
セス一世、クセルクセス一世、ダレイオス一世そしてダレ
ズに戻り代表作を書き上げたサアディーの廟を見学した。
イオス二世の墓とされている。墓の様式は午前中にペルセ
地下水槽があるチャーイハーネ(喫茶店)で休憩し地元の
ポリスで見学したアルタクセルクセス二世の物と同じで、
女学生と談笑した。もう一人の詩人ハーフェズの廟は女性
崖の壁面がギリシヤ十字型に彫り込まれ、上部に王の玉座
に人気がある。大理石の墓石には彼の詩が彫られている。
恋や酒や音楽についての詩が彫られているが、実は比喩で
アフラ・マズダのレリーフが鮮やかに残っている。墓の下
神への愛や信仰心を詠んだものだそうだ。現地女性ガイド
部にはササン朝の王シャープル一世と捕虜となった東ロー
のアミーリさんが詩の一部を墓の前で読み上げてくれた。
マ帝国皇帝ヴァレリアヌスが高さ7m もの大きさで描かれ
バザールに立ち寄りテーブルクロスを選んだ。ガラム・
カール(ペルシア更紗)と呼ばれる民芸品で木綿の布に木
片を用いて唐草模様をプリントしたものだ。赤とベージュ
ホテルに一旦戻り休憩後、夕方になりペルセポリスを再
び訪れた。一般見学が終了する午後5時が過ぎるのを待ち、
特別な計らいで我々だけ専用の見学時間だ。高さ11m の基
壇が夕日の陰になり上部の遺跡がシルエットになり始めた。
を基調にした伝統的な柄で落ち着いた色調と細かい柄が魅
力だ。しかも絨毯と比べて遥かに安い。
空港のビュッフェで夕食となった。大きな釜で焼いてい
る出来たてのナンが美味しくて何度もお代わりをした。人
なつっこい店員ですっかり仲良しになり、お互いにサイン
を取り交わし記念に持ち帰った。
シーラーズからエスファハーンまで今回唯一の国内飛行
機移動だったが40分で到着した。我々が乗ったバスはトラ
ンクを乗せて市内見学中にエスファハーンまで走りホテル
に先に到着していた。
創建が8世紀に遡るエスファハーンで最も古いモスクで
失したがその後何度も増改築を繰り返した。そのお陰で様々
な建築様式が比較できる。最古の部分は9世紀の物でタイ
ルとレンガのみで作られている。そして、次の時代はタイ
ルを使わずレンガのデザインも違う。地震対策で木の棒が
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一部挿入されているのには驚いた。次は12世紀製で、アー
の仲間と好きな柄を選び買った後、ホテルに戻りチキンカ
チの作り方が違い中央にジョイントがある。一部タイルの
レーの夕食を食べた。夜になり、エマーム広場に再び戻り
貼る向きが違う部分あった。イラン・イラク戦争の時にミ
王のモスクの夜景を眺めた。昼間と違いブルーのタイルが
サイルが打ち込まれ破壊されたが、修復した際にわざと破
夜空に浮き上がりとても幻想的な雰囲気に浸れた。
壊された部分が解かる様にしたとの事だった。
次にイランには珍しいキリスト教会が13あり、最も有名
エスファハーンの二日目は街を南北に分断するザーヤン
デ川に掛かるハージュー橋とシャフレスターン橋の見学か
で観光客に開放されているヴァーンク教会に立ち寄った。
らスタートした。ハージュー橋は2層構造になっていて上
アルメニアからの移住者がザーヤンデ川の南側に多く住ん
層部はアッパース朝時代に夏の夜、王が宴を楽しんだとい
でいる。教会の敷地内にアルメニア博物館が併設されてい
うテラスが設けられている。下層部は川の水量を調整する
る。いよいよ翌日がアルメニアにとって記念すべき日で記
水門の役割をしている。袂には小さなライオンの像があり、
念式典の準備中だった。1914年から15年に掛けて起こった
跨ると立ち処に結婚できるという説がある。次のシャフレ
トルコのアルメニア大虐殺を抗議する横断幕が中庭に掲げ
スターン橋は街の外れに在りササン朝時代に築かれた最も
られていた。
古い橋で素朴な感じがした。
昼食後、17世紀当時のイスラム建築がそのまま残り、
「こ
次は王様と8人の奥さんが住んでいたと言われる木立の
こに来れば世界の大半の文化が見られる」と賞賛された事
中に建てられたハシュト・ベヘシュト(八天宮)宮殿を見
縦510m 横163m の長方形の広場を囲む様にモスク、宮殿そ
れた。20本の柱が建物の前庭に反射して合計で40本に見え
学してから、チュヘル・ソトゥーン(四十の柱)宮殿を訪
してバザールが東西南北に配置されている。回廊部分には
る事から名付けられたそうだ。宮殿内部は博物館になって
絨毯や工芸品等沢山のお土産屋さんが軒を連ねている。い
いて宴と戦いの様子が大きく描かれた6枚の歴史画が見事
くら時間があっても足りない。中央にある大きな池の周り
だった。
を馬車が観光客を乗せて鈴の音を鳴らしながら走っている。
チャーイハーネで一休みした。隣接の遊園地では親子連
れが滑り台やシーソーで楽しく遊び、庭の芝生では老人が
ス一世は「政治・経済・信仰の全てを集約した最高の広場
ノンビリ横になって本を読んでいた。当日は金曜日でイス
を造ろう」と、1598年から何十年も掛けて完成させた。南
側に一段と高く2本のミナレットが立ち、アーチ型ドーム
イスラム教徒でない我々観光客は通常見学できないが特別
の曲面天井を持つ典型的なペルシア式建築様式のマスジェ
許可が取れた。地元の人が次から次へと黒い衣装を身にま
デ・エマーム(王のモスク)が聳え立っている。ドームの
とい大混雑する中、我々は異常に見えると思う。女性は白っ
下で現地ガイドのマジットさんがコーランの歌声を高らか
ぽい特別な布を纏い、女性専用の入口から中に入って行っ
に披露すると、遠足の女子生徒が合いの手を入れて合唱し
た。特別許可の為ボディーチェックが厳しかった。既に壇
てくれ微笑ましかった。門をくぐり短い回廊を抜け45度折
上では牧師らしい人が演説をしていた。舞台の袖から我々
れ曲がり中庭に出ると、メッカの方角に向いて礼拝堂があ
男性陣は一人ずつ案内人に付き添われ演壇の近くまで誘導
る。ブルーの鮮やかなタイルが大変美しかった。バザール
された。何千人も居る聴衆はお祈りをしながら演説を熱心
ではテーブルクロスを纏めて買うと安くなるとの事で、旅
に聞いている。次から次へと群集は集まり会場は満席にな
りつつあった。
タジンと呼ばれる名物料理であるオコゲご飯で昼食を済
ませ、再びエマーム広場に戻った。今度は東側にあるマス
ジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー(寺院)の見学だ。
サファヴィー朝建築の傑作でレバノンの著名な説教師シェ
イフ・ロトゥフォッラーを迎える為に1601年から17年間も
の歳月を掛けて造られた。ドームの内部に入り、天井を見
上げると中央から周辺に掛けて扇状に光が反射して輝いて
いるのに気が付く。アリさんの説明で解かったが中央に孔
雀の絵が描かれていて輝いている部分は大きく羽根を広げ
ている様に見える。更に目をタイルに移すと、この国では
珍しく全てモザイクで出来ている。色調もブルーでは無く
べージュを基調にしている。曲線で構成されているペルシ
ア文字も全てモザイクなのには感心した。
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次にエマーム広場を挟んだ反対側にあるアーリー・カー
エリアに到着し、昼食になった。アリさんが「この近くに
プー宮殿に移動した。広場から見ると3階建てに見えるが、
は核基地が在るので写真撮影は禁止されている」と大きな
建物の裏側に回ると実際には6階建てだった。アッパース
声で叫んでいた。ところが写真を撮る様な建物は見当たら
一世の時代に1∼2階部分が造られ、アッパース二世が更
ない。矢張り先程通過した所が本当に核基地だったのかも
に上階とバルコニーを増築した。バルコニーからは王がポ
しれない。
ロや競馬を見学したそうだ。確かに見晴らしが良く、正面
テヘラン迄あと135km のゴムの街にようやく到着したの
には先程見学したマスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー、
は午後1時を過ぎていた。イランの東、パキスタンとの国
右手にマスジェデ・エマームそして遠方には金曜日のモス
境に近い所にあるマシュハドに次ぐイスラム・シーア派の
聖地である。国内外から熱心な巡礼者が訪れ、独特な雰囲
気が漂っている。建物の中には入れないがタマネギ型のドー
た。流石のイラン人もビックリして手を振っていたが、我々
ムが黄金色に輝くハズラテ・マアスーメの聖域広場で暫し
も世界を一周以上回った気分になった。
佇んでいたら、白い衣装に身を包んだ大柄な男連れが歩い
ホテルで夕食を済ませた後、徒歩でスィー・オ・セ橋の
夜景散策に出た。スィー・オ・セはペルシア語で33を意味し、
ていた。アリさんの説明ではサウジアラビア方面から来た
人達だと教えてくれた。
橋の上部のアーチが33ある。長さ300m の橋を歩き反対側ま
で行った。さすが OPEC 第2位の産油国で、
電力豊富の様だ。
橋もホテルもライトアップされていてとても綺麗だった。
ホテルに戻る帰り道には河原の芝生にシートを敷いて家族
連れがピクニックをしている光景を見掛けたが微笑まし
かった。
ゴムから更に1時間ドライブし、ホメイニ廟に立ち寄っ
た。イラン革命の指導者ホメイニは1900年生まれ。生地は
ホメイニ村と名付けられた。生後間も無く父は殺され母と
おじに育てられ1922年に聖地ゴムにやって来た。1950年代
にイラン宗教指導者になったが、アメリカの後ろ盾による
らパリに移り住み1979年に「民衆から待望された隠れエマー
丸二日間見学したエスファハーンを後にして、テヘラン
ムの再来」となって凱旋帰国しイランの最高指導者になっ
迄約400km をバスで移動した。主要道路なのでバス・乗用車・
た。そしてイラン・イラク戦争停戦協定の翌年1989年に生
トラック等様々な車が行き交う。時には上りと下りの道路
涯を閉じた。それから20年が経っているがホメイニ廟は未
が見えない位離れている場所もあった。キャラバンサライ
完成である。内部には沢山の見学者が訪れていた。我々観
の名残と思われる日干しレンガの建物跡を時々見かける。
光客は珍しいらしく、地元新聞の記者からインタビューを
地図と道路沿いの標識を見ながら自分の走っている場所を
受けた。観光目的やイランの感想そして人生観等を聞かれ
確認していると、往きに通り過ぎた核基地があるナタンツ
たがどのような記事になったのかは知る由も無い。11日前
に近づいているのが解かった。高い塀が続き等間隔に見張
の深夜に到着したのと同じテヘランのホテルに戻ってきた。
り台が見えてきた。ここが本当に今話題になっているイラ
最後の夕食はホテル内の高級レストランでタイ料理をピア
ンの核基地があるのか?その様な施設が主要道路に面して
ノの生演奏をバックに堪能した。
本当にあるのか?疑問に思うが・・・。暫くしてサービス
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そして1736年にインドに遠
イラン滞在最後の日になった。先ずは考古学博物館の見
征したナーデル・シャーが
学である。紀元前6000年から19世紀に至るまでの考古学的、
戦利品として持ち帰ったと
歴史的に重要な美術品が年代順に解かり易く展示されてい
2万6千個もの宝石がちり
暗く観察しにくかったが矢張りこの様なものは建物の内部
ではなく遺跡があった場所で見るのが一番だと感じた。エ
エメラルド、陸にはルビー
ジプトからの貢物との説明があったヒエログリフの像の周
そして西南アジア、イラン、
りには小学校の男子生徒が熱心に先生の説明を聞いていた。
英国の部分には特別にダイ
ペルシア語の説明で内容は全く解からないが、通り一遍の
ヤモンドと全部で5万1366
押し付けの説明ではなく、生徒に頻繁に質問をして考えさ
個の宝石が光っている。少
せる様子が伝わってくる。次にガラス器と陶器が沢山展示
しでも身を乗り出すと警報
しているアーブギーネ博物館に移動した。1910年に権力者
が鳴り係員が飛んでくる。
の邸宅として建てられ、エジプト大使館としても使われた
イランを10日間以上巡りこの国の人達と身近に接すると
建物が木立の先に見えた。2階には9∼19世紀の作品が展
プラスの印象ばかりが残った。本当に核兵器を秘かに作ろ
うとしている危険な国なのだろうか?ペルシア帝国の過去
スの壷があった。戦地に赴いた夫を待つ妻が、夫の無事を
の栄光だけでなく、日本とは80年以上も続いている友好国
祈って流した涙をこの壷に貯めたと言われている。1階の
である。世界ともっと仲良く付き合える国になって貰いた
奥の暗い部屋には正倉院の宝物である白瑠璃碗とそっくり
いと願う次第である。
(元広報部 部長 奥津 和久)
のガラス器が特別ケースに入れて展示されていた。シルク
ロードを経由して伝達した文化交流の素晴らしさを感じた。
イラン最後の昼食は名物料理ビゼー・アブーシュト。羊
の尻尾を野菜と混ぜて数時間煮込み、専用のヘラで潰して
ナンに包んで食べる。店のボーイが各テーブルを回って指
導してくれた。尻尾の形状は全く解からず美味しく味わえ
た。
最後の最後に凄い博物館を見学した。トルコのトプカプ
宮殿やモスクワの武器庫を凌ぐ程の宝石が展示されている
宝石博物館だ。そもそもここはイラン中央銀行の地下室で
イランが保管している世界に誇る宝石なので入館が非常に
厳しい。カメラは勿論殆どの持ち物は持ち込み禁止で、入
口の係員に預ける事になっている。長い時間掛かってやっ
と館内に入ると先ずは沢山の王冠が照明されて輝いている。
参考資料
1 地球の歩き方「イラン(ペルシアの旅)」ダイヤモンド社発行
2 知求アカデミーブックス「イラン」ワールド航空サービス発行
3 「ペルセポリス(古代ペルシア歴史の旅)」 芙蓉書房発行 並河亮
著
4 「早わかり中東&イスラーム世界史」日本実業出版社発行 宮崎正
著
5 目で見る世界の国々56「イラン」 国土社発行 メアリー・ロ
ジャース著 東眞理子訳
6 新潮選書「ペルシア湾」 横山三四郎著
7 「王宮炎上」吉川弘文館発行 守谷公俊著
☆都市名や見どころのペルシア語標記は極力「地球の歩き方」を参考
にした
庭内を歩いていると、突然女子高校生に囲まれてしま
た。
」
「最近イラン、鼻の整形する人多いよ。みんな低く
い大撮影会。初めて知ったのは「イラン人は日本人を写
したがる。
」
「見てごらん。鼻に絆創膏貼っている人多い
真に撮るのが好き」と云う事。とにかく積極的に話しか
でしょう?みんな手術した人。
」そんな話を聞きながら、
けてくるは、携帯電話のカメラやデジカメで撮りたいと
添乗員が「もしかしたら、私たち日本人の鼻の低さに憧
アプローチしてくるはで、静かに庭園を眺めている余裕
れて、お医者さんに『この鼻にしてください。
』と言う
もなかった。まるで親善大使のようで、本当に驚いた。
のかも知れませんね。
」
「今度イランに来たときは、イラ
こんな中年おばさんや、老人会のような団体を写して何
ンの女の人の鼻が自分そっくりかもしれませんよ。
」こ
が楽しいんであろう。アリさん曰く「イラン人、日本人
の話にみんな爆笑。 好きね。テレビの『おしん』を見て、みんな好きになっ
(同行者 S さんの「イラン見聞録」より転載)
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