「奥の細道」と川瀬屋

G6両面 表
なめりかわ宿場回廊
6
か わ せ
芭蕉
﹁奥の細道﹂
と川瀨屋
ばしょう
や
元 禄 二 年 ︵ 一 六 八 九 ︶、 松 尾 芭 蕉 と 同 行 の
そ ら
曾 良 は、 奥 の 細 道 の 旅 の 途 中 、七月十三日
ち じゅう
︵新暦では八月二十七日︶の 夕 方 滑 川 に 着 き
せ
宿った。旅籠の川瀬屋という説が有力でこ
はい かい わ
の 辺 り に あ っ た 。 宝 暦 十 三 年︵ 一 七 六 三 ︶ に
を記念して自家の壇那寺である徳城寺の境内
﹃俳諧早稲の道﹄を著した川 瀬 知 十 は翁の宿泊
に﹁早稲の香や分け入る右は有磯海﹂の吟詠
まち
を刻んだ句碑を建立した。徳城寺は、この頃
あら
は ま だ 新︵荒︶
町の海辺にあったが、明治十三年
あらまち
︻荒町の成立︼
新町は、大町、瀬羽
町に次いで、慶長年間
に新しくできた町であ
ったと伝えられる。海
岸線に平行して東西に
その両側に家並みが連
北国︵北陸︶街道が走り、
なり、浜に抜ける小路
が発達した。
滑川市
~Namerikawa Guidepost series #6 of 13~
︵一八八〇︶に、句碑とも現在地に移転した。
古地図
Bashou' s 【Oku no Hosomichi】 and Kawase Family
On July 13th, 1689, Bashou Matsuo and his apprentice Sora, in the midst of their travel to the Northern Prefectures, arrived in
Namerikawa during the evening hours. It was believed that the men stayed at an inn owned by the Kawase family. In 1763, Chijuu
Kawase engraved a poem of Bashou's in the Tokuzyouji Temple, to commemorate the poet's visit. At that time the temple was located in
Ara-machi, but was moved to its current location in 1880.
【The Establishment of Ara-machi】
Following Oo-machi and Sewa-machi, Ara-machi is said to have been the next established region during the Keicho years
(1596~1615). The Hokkoku road runs both east and west of Ara-machi's coastline, and houses were built on both sides of the road.
G6両面 裏
なめりかわ宿場回廊
か わ せ
ばしょう
や
滑川市
Bashou' s 【Oku no Hosomichi】 and Kawase Family
On July 13th, 1689, Bashou Matsuo and his apprentice Sora, in the midst of their travel to the Northern Prefectures, arrived in
Namerikawa during the evening hours. It was believed that the men stayed at an inn owned by the Kawase family. In 1763, Chijuu
Kawase engraved a poem of Bashou's in the Tokuzyouji Temple, to commemorate the poet's visit. At that time the temple was located in
Ara-machi, but was moved to its current location in 1880.
【The Establishment of Ara-machi】
Following Oo-machi and Sewa-machi, Ara-machi is said to have been the next established region during the Keicho years
(1596~1615). The Hokkoku road runs both east and west of Ara-machi's coastline, and houses were built on both sides of the road.
芭蕉
﹁奥の細道﹂
と川瀨屋
そ ら
元 禄 二 年 ︵ 一 六 八 九 ︶、 松 尾 芭 蕉 と 同 行 の
曾 良 は、 奥 の 細 道 の 旅 の 途 中 、七月十三日
ち じゅう
︵新暦では八月二十七日︶の 夕 方 滑 川 に 着 き
せ
宿った。旅籠の川瀬屋という説が有力でこ
はいか い わ
の 辺 り に あ っ た 。 宝 暦 十 三 年︵ 一 七 六 三 ︶ に
を記念して自家の壇那寺である徳城寺の境内
﹃俳諧早稲の道﹄を著した川 瀬 知 十 は翁の宿泊
まち
に﹁早稲の香や分け入る右は有磯海﹂の吟詠
あら
を刻んだ句碑を建立した。徳城寺は、この頃
は ま だ 新︵荒︶
町の海辺にあったが、明治十三年
あらまち
︻荒町の成立︼
新町は、大町、瀬羽
に新しくできた町であ
町に次いで、慶長年間
岸線に平行して東西に
ったと伝えられる。海
その両側に家並みが連
北国︵北陸︶街道が走り、
なり、浜に抜ける小路
が発達した。
~Namerikawa Guidepost series #6 of 13~
︵一八八〇︶に、句碑とも現在地に移転した。
古地図
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