大分県と栃木県の同和地区現地研修記 - 大阪市立大学

大分児 と栃木県の同和地区現地研修記
山
名
伸
作
はじめに
1. 大分県の場合
2
.栃木県の場合
は じめ に
大阪市立大学同和問題研究室が毎年実施 している現地研修は、あ らためて こ
とわるまで もな く差別の実態を現地で学ぶためであ り、同時に解放運動の歴史
と今 日の当面 している諸問題を学ぶ ことであるし、また行政の政策の内容を調
査す ることで もある。 この研修の各年度 において実施 した状況は本誌の第 3号
以来の各号 に報告 している。
9
83
年の冬に訪ねた大分県の場合 と、同 じく1
983年の夏
今回報告す るのは、 1
9
83
年 2月 2日と 3日の 2日間で
に実施 した栃木県の場合である。大分県へは1
あり、参加者は、上田一雄 (
同和問題研究室長)、村越末男 (
同和問題研究室)、
山本
登 (文学部)、横田三郎 (
文学部 )、桂
(
法学部 )、吉村
正孝 (文学部 )、牧
英正
励 (
経済学部 )、星川順一 (
経済学部 )、山形健三 (
医学
部)、柴田善守 (
生活科学部)、三輪嘉男 (
工学部)、崎山耕作 (
経済研究所)、
山名伸作 (
商学部)の各教員 と大学事務局の金原正明の 1
4人であった。 また栃
983
年 7月2
0日と21日の 2日間であ り、参加者は、山本
木県へは1
題研究室長、文学部)、村越末男 (
同和問題研究室)、牧
三輪嘉男 (
工学部)、桂
務局の金原正明 と殿村
登 (
同和問
英正 (
法学部)、
正孝 (
文学部)、山名伸作 (
商学部 )の各教員 と事
猛の 8人であった。
以下の報告 は私の聞きとりメモと現地で頂いた資料を もとに し、それ に私の
感想を加えた ものであることをお断 りしてお く。
-1
0
7-
1.大分県の場合
●
. ●l l 1
1. 1 国東半島で一
2月 2日の朝、別府市内の宿舎を出たわれわれは北上 して国東半島へ向 う。
右手 に大分空港への道をみなが らそのまま国道 2
1
3
号線を さ らに北へ進 む。 こ
のあた りはソニーや アメ リカ系企業の工場が進出 して きていて、いわゆる臨空
港地域 と して脚光を浴びつつある地域である。その中央部が瀬戸内海国立公園
に含 まれて いて、多 くの寺社の残 る 「仏跡の里」と して知 られ る国東半 島 もい
まや新 しい時代を迎えつつあるようである。 しか しわれわれの 目的はハ イテク
ノロジーの新工場の見学 にあるのではない。国東町のほぼ真申にあたる附近で
小 さい川が海に出るところで車か ら降 りる。
川の両岸 に沿 って集落が展開 しているが、川の右岸である南側に部落が立地
6
戸であるが、 この うち農業は 5戸で タバ コ、 イ
している。 この K部落は現在 1
0アールであ る。 日傭 いの土
チゴ、メロンの栽培を している。平均経営面積は9
0アール
方仕事や運転手 を して いるのが 5戸あ り、 これ らの世帯の農地 は平均5
である`
。海岸の近 くに公営住宅 と共同倉庫があるが、 そ こに漁具 もある。 ここ
は漁業 もあ るのであ る。部落の うちの 3戸は海苔栽培、釣、モダ リ漁の専業漁
家であ り、 3戸は農業 も兼業 していて平均で4
0アールの田を持 って いる。防波
堤の外側の海岸は干場になっているが特別な設備は何 もない。地区の海岸のす
ぐ近 くに墓地があ るが、墓地の大部分は地区外の家の ものであ る。 この墓地を
一括 して他の場所へ移転す ることが課題になっているが結論はでていない。
地区を一巡 したあと集会所で懇談す る。部落解放同盟大分県連執行委員、国
東地協委員長、同書記長、同会計の諸役員 と地区の人 たちが出席 してわれわれ
にいろいろ教えて くれる・
。8
0才に近 い老人 もお られて昔の差別がひどか った こ
とをいわれ、それにいまで も孫の嫁 になって くれ る人がいないといわれる。
国東町は昭和2
9
年 に 6つの村が合併 してできた町であるが、 この頃よ り人口
が減 りは じめ、2.
7
万人 いたのが現在 は 1
.
8万人で あ る。 町 内に大分 県柑橘試
験場 もあ り、 「オ レンジ道路」と名前をつ けられた道 もある ミカ ンの産地であ
る。海岸 には国民年金保養セ ンターもある 「いこいの村」で もある美 しい自然
に恵まれた、それに平安末期から鎌倉期の石仏 も残 っている歴史の里で もある。
しか しいま述べたようにこのおだやかな土地に少数世帯の部落が在存 して い
-1
0
8-
るのである。町全体で同和関係世帯数は3
0
戸でその人 口 も約 1
0
0人であ る。町
の同和事業は、昭和4
7
年に3
∝)
万円で築いそをつ くったのが は じま りで、その
後、漁礁、水路の改修、冷凍庫、漁船などの漁業関係施設、農耕具、格納庫、
農道整備の農業関係、それに5
1
年にK地区へ集会所、5
3
年 と5
4
年に住 宅を建設
している。昭和4
7
年か ら5
6
年までの事業費の合計は約 2億 6千万円である。
1
3
号線を北上 し、やがて西 に向い、西南 に
昼食のあとわれわれは再び国道2
進んで豊後高田市に入る。
7
年1
2
月末で2
1
,
0
0
0
人、世帯数は約6,
5
0
0
戸である。
豊後高田市の人口は昭和5
ここには世帯数が3
0
戸か ら4
0
戸までの同和地区が 3カ所あ り、地区外の1
0
戸を
2
0
人、約 1
1
0世帯であ る。
合せて同和関係人 口は約 3
われわれは案内を受けて早速地区へ行 ってみる。小 さな屠場の跡がまだ残っ
0
年まで使用 されていたとの こと。地区の外れの小 さな墓地がま
ている。昭和5
だ整理 されていない。今度は反対の方-歩いてい くと、地区と地区外 とは連結
していて何の区別 もない。 ところが眼に見えない一線で土地価格がまるでちが
2,
5
0
0円のとき部落に隣接 している土地は 4万円で
うのである。部落では単価 1
あったと聞かされる。差別はこのように空間的に表現 されているのである。
もう一つの部落を訪ね る。先ほどの部落は平地であるが、今度の部落は谷間
の斜面にへば り着いている。いまでは道路改修がなされてよ くなっているが、
それで も集落内の古い道 も残っている。人一人がや っと通れ る程度である。 こ
こではこういう話がでた。それは部落には信心深い人が多いが、西本願寺系の
寺で、部落の人だけが冬の寒い一月に仏臭みがさを奉仕 しているというのであ
る。話 して くれたかたは少 しはおか しいとは思 っていて もそれが差別であると
までは考えてはいないよ うであった。なぜ部落の人たちだけがそのような奉仕
をしなければならないのか。その寺の僧侶はそれを当然 としか思 っていないの
であろうか。
4時半か ら隣保館で懇談会が開かれ る。そのなかで昭和5
0
年に解放同盟高田
1
年に同対室を発足 させ生活環境整備 と老人医療な
地協が結成 され、行政例 も5
1
年に
ど社会福祉に力を注いできたとの説明がある。主な施設 としては、昭和5
まずN地区に集会所が建設 され、 5
2年 にはS地区、 5
3年 にはSN地区に も集会
所が作 られた。 ところが懇談会の開かれた隣保館は集落か ら離れた農地の中に
-1
0
9-
独立 してある。 こうなったのはは じめN地区へと計画 したのが議会の同意 がえ
られず、同和地区の人たちだけでな く一般の人 も利用す るということで地区外
へ建設 されたのである。
.
豊後高田市では下水処理場汚職問題をめ ぐって困難な問題 もあるようである
が、熱意 と能力のある若い書記長にこれか らの活動を期待できる。差別問題に
関 しては書記長 自身結婚差別を 2回受けた体験があ.
8.それにここででた話の
なかに、昭和4
2
年、46
年、5
0
年になされた国の調査に際 して、行政がなん ら地
区に知 らせ ることなr
く勝手に調査 した こと、 しか もそれは大変 くわ しい内容の
ものであったということがある。書記長は、大分県では、大分市 と別府市を除
けば、誰が部落の人であるかはみんな知 っている。われわれは自らをか くす こ
.とはできないという。 この ことは国東町で も同 じことを聞いた。それは自分た
ちは何にも知 らせ も受けないままに、家族の 1人 1人までちゃん と役場で調査
されているというのである。行政が事業の対象 とする地区の指定 も、本人たち
に一切連絡す ることな く勝手 に決定 したというのである。
大分県の解放運動 も昭和5
0年からとい うその出発が非常におそいというの も、
このようにどこの誰の息子であるということが知 られていて、 しか も国東町で
も豊後高田市に して も少数世帯の散在型であり、生活基盤が安定 していない と
いう困難な事情におかれていたことによるといえよう。 もちろん同和対策事業
による環境整備 も一定の前進があるし、豊後高田市の高校進学率の推移をみて
も、同和地区の進学率は、該当者の少ないことか らくる変動の大 きさもあるが、
地区外 と同水準に達 しているし、内訳 としての公立への進学率 も差がないとみ
てよい。
1. 2 九重町で
夜おそ く別府まで引き返 して泊 ったわれわれは、次の 日の 2月 3日の 日、今
度は九重町へ向 う。別府か らの 「
やまなみ-イウェイ」は、夏ならば快適であ
ろうが、真冬の こ の日は登 るにつれて急に寒 くなりときに雪になる。九重町は
西が熊本県に接 していて2
,
7
0
0
平方キロ以上 もある広大 な面積 を有 して いる。
0
0か ら
町の中央部を筑後川の上流である玖珠川が東西に走 り、東南方 は標高8
1
,
7
0
0メー トルの九州の屋根九重連山で囲まれている。 町内の あち こちに温泉
-1
1
0-
が あ り、地熱 を利用 した発電 所が あ る し、 この恵 まれ た自然 を利用 した リク リ
エー シ ョンの地 と して知 られつつあ るが、 町の大部分 は山林原 野で あ り、耕地
は玖珠川 沿 いは まだ しも、 あ とは標 高 3
0
0メ ー トルか ら1
,
0
0
0メ ー トルの地 に
階段状 に散在 して い る ことか らも分 るよ う.
に、 この土 地 で の生活 を と りま く諸
0
年 2月 に 4ケ町村 が合併 して 九重 町 とな った当
条件 は きび しい。事 実 、 昭和 3
0
1
,
0
0
0
人 を超 えて いた人 口が、 その後急速 に減少 し、 昭 和 5
0年 に は 1
4,
8
時 は2
人 まで に落 ち こんで い る。最近 は この傾 向 もよ うや くとま り人 口は横 ばい状況
で あ るけれ ど も、 町の産 業別人 口の構成 をみて も、第 1次産業従業者 数が なお
4
4
%を 占めて お り、 それ も大部 分が農 業 で あ って、林業 は わ ず か にI
.
1
2
0人 で あ
9
%で しか な く、 その 内わ けをみて も建設業の ほ うが製造業
る。第 2次産 業 は 1
よ りもか な り多 い状態で あ る。
この九重 町へ 入 ったわれわれ は 「や まなみ- イ ウェイ」か ら少 しはずれ た と
ころで、霧 の中の出迎 えを うけて Y地 区で降 りる。 この地 区は開拓 地 で あ る。
比較 的広 い耕地が あ るよ う.
にみ え るの もそれ まで は手 をつ け られ なか った原野
を拓 いて い った苦斗 の成 果 で あ る。道 のす ぐ側 の畜舎、 い くつかの農 家 の集 っ
て い る附近 に保育所 、少 しはなれ た ところに集会 所 な どが建て られてい る。地
区の 中を歩 いたあ と地 元の方 の説 明 を受 け る。
0ヘ クタールの 開畑事業 が実施 され 、
同対事業 で、かんが い用 水路 の新 設や 1
0
0メー トル とい う高 冷 地 の 条
外見 的 にはか な り整備 され て きて いるが、標 高8
件 は いぜん と して さび しい。栽培 で きる作物 は限 られて い る し、土 地 も必ず し
もよ くない.
。 昭和 5
5
年
4月現在 で戸数 2
6
戸、人 口約 9
0
人 の この地 区 に別 れ を告
げて、われわれ は北 西へ 向 って 深 い渓谷 に沿 って下が って い く。途 中 いた ると
ころに先年 の洪水の あ とが残 って い るム
よ うや く国鉄 九大線 が走 って い る玖珠川 の谷筋 - 出 る。 川の左岸 がか な り広
い水 田にな って い るが、川の 右岸 は急傾斜 の崖 にな って い るその崖 の斜面 に人
家がへ ば りつ いて い る。 こ こが G地 区で あ る。 それ らの家 々に行 くに は幹 線 道
路 か ら細 い道 を辿 らな けれ ば な らない。部 落 はや は り条件 の悪 い と ころへ立地
させ られて い るので あ る。
この地区 を過 ぎて さ らに北 へ進 み、隣 りの K町 との境 いの小 さ・
い谷 間 に も う
ひ とつのS
地 区が あ る。
-1
1
1-
部落解放同盟九重地協の用意 して下 さった資料 によると、この地 区は明治 1
4
年 に久留米か らF氏が 「いなか 」 (
牛馬の移動、責買の権 利、の こと)の権 利
4
を求めて移動 して きた ことがは じまりであるとい う。明治の終 りごろは戸数 1
戸、人 口は5
0人 ぐらいであ った。道はば三尺 (
90セ ンチ)程度で、川 には橋 も
な くて とび石が置かれてあった。
菓
折口会」が発足 して 6ケ年計画で環境改善事業が行 なわれ、村
昭和 2年に 「
に中央道路が新設 され、翌 3年 には川 に も土橋がで き、 その後に コンク リー ト
橋がで きた。 また部落産業 と して 「とさつ」業を営むよ うにな り、昭和 5年 に
は当時の村長 に抗議 してわずかの採草地を手 に入れた。昭和 6年 には共同作業
所が建設 されて部落産業 と して竹皮製品 「南部表」が作 られ るよ う.
にな った。
しか し朝鮮 か ら輸 入 して いた材料が入手で きな くなって昭和 1
2
年 ごろ作業で き
な くなって しまった。
また昭和 6年か ら 9年 にか けて 2人の人が県の社会教育課の主催 によ る中堅
人物養成講習会 に参加 している。戦後 にな り昭和 31
年 には町営住宅が 1
0戸建設
8年よ り解放運動がは じまった。 その成果 と して道路、橋 などが改
され、昭和 4
善 され、5
0
年 には同和集会所、同和住宅などが建設 された。地区の戸数も昭和
50
年には3
8戸にな って いる。
なお この地区の H氏のお宅には幕藩時代の警吏の使用 して いた長吏棒 や鉄製
の 「首がせ 」が伝 え られてお り、われわれ も実物 を見せて頂 いた。
その あ と町役場 で解放同盟九重地協委員長、書記長、会計、婦人部長、県連
委員長な どと、行政側か らは収入役、同対室長、係長 などの出席 をえていろい
ろ説明 して頂 く。
地協委員長 F氏の話で は、戦前 は部落の人の仕事 といえば ほとん ど土方 で あ
り、夜 なべに ワラ草履 を作 って いた。水田は牛 も入れないよ うなのを 1-2反
持 って いるのが 2-3戸 しかな く、 ほとん どの家は持 って いなか った。 「南部
表」はF氏のお父 さんが講習を受 けて きては じめたので あ る。 また支部 長の K
氏はいま8
0
才になるが、小学校 6
・
年生の とき暗号で差別用語 をはや したて られ
たことをいま もはっきりおぼえて いるといわれ る。婦人部の人か らは今 日もな
お差別がある.例えば遠 くへ革職して行った子 ど もにはげま しの手紙 を書 くと、
さし出・
し地の ところの名を書かないで くれ といって くるという。それに結婚差
-1
1
2-
別に関 しては、お嫁 に もらうはうはいいがお嫁に行 くほうは大変である。祝言
のときに親がでて こない。子どもが 1人、 2人できてや っと向 うの親が くるよ
うになるという.若い婦人で 自分は地区外か らきたとい う人 もこたいていの親
が差別はいけないというけれと も自分の ことになると困 るというのが実状だと
いわれる。
以上のように、大分県で も海岸であれ山村であれ部落はなおきび しい状況に
おかれている。
.
2.栃木県の場合
2. 1 栃木県庁で
は じめにふれたように、昭和5
8年度の現地研修は栃木県を訪ねることに した。
これまで実施 して きた現地研修の場所 はたいてい西 日本の各地であ り、東の方
では長野県の北信 と佐久へ行 った ことがあるだけである。そこで今回は関東地
方の実状 にふれたいとい うことになり∴ 7月2
0日の朝、大阪を出たわれわれは
午後 3時 まえに小雨の中を栃木県庁に着 く。
早速、同対課長以下教育委員会の担当者を含む方々の説明を受 ける。それに
7
年の県議会における知事の一般対策で対処
よると栃木県の同和対策 は、昭和3
するとの方針表明では じまった。昭和4
8
年に全国調査の補完調査 として大平町
と小山市の実態調査を実施 したが、それは当時は解放同盟のみだった運動団体
0
年には県庁に同和対策室を設置 し、
によりかかってすすめたものである。昭和5
この年に同和地区を有す る全市町村の調査を行なった。その結果明 らかになっ
たのは、県下4
9
市町村 の うち3
2市町村 に 1
0
8の地 区が あ り、約 4,
4
0
0世帯数、
2
1
,
0
0
0
人の人口があ り、混住率は3
2
.
5%であった。 この率 は全国平均 のL
6
0%、
6
%に比べて低い。 1地区当 りの平均は41
世帯 、 1
9
4人で あ っ
関東地方の平均3
て、地区の9
3.
5
%までが 1
0
0
世帯以下である。つま り栃木県の同和地 区は少数
点在型である。それにもうひとつの特色 として、地区の分布が県南に偏在 して
いることがあげ られる。地区数の 7割までが交通が発達 し都市化の進んでいる
南部 に立地 しているのである。
栃木県の同和行政にとって困難な問題 となったのは、昭和51
年に起 きた運動
団体の分裂である.解放同盟の一部が小山市を中心に 「部落解放を愛す る会」
- 11
3-
を組織 したのであろ。 この組織 は栃木、埼玉、群馬、神奈川の 4県のみf
∈展開
しているローカルな団体である。それにこの年には全解連 も組織 されたため、
数ヶ月間にわたって混乱 し、同和行政 もス トップす ることにI
f
i
lって しまった.
この事轡に苦慮 した県当局は磯村英一氏に同和対策審議会の会長就任を頼みそ
2
年に設置 された審議会は5
3
年に中間答申を出 し、5
4
年に
の承諾をえた。昭和5
最終答申として、栃木県における同和対策事業に関す る基本的事項を示 した。
5
4
年には同和対策室を同和対策課に強化 し、栃木県同和対策新総合計画を策定
5
年に
した。同 じ年、同和対策審議会を条令にもとづ く県の附属機関 と した05
は 3つの運動団体 も加わって同和問題調査 プロジェク トチームを発足 させて実
態調査を実施 した。
このように栃木県の同和行政はその出発がおそ く、その うえ途中で混乱 もあっ
たが、ようやL
く異な った運動団体が同席につ くという状態をつ くり出す こ.
tが
できたのである。同対事業の実施で地区の環境改善はすすんだ といえる。県民
意識 としては、就職差別はあまりないけれども結婚差別 はある。現在の課題 と
しては総合計画のね ら直 しがある.それは県民のなっと くで きる対策であるこ
とが条件 となる し、それには県民への啓発活動が もっと積極的笹なされなけれ
ばな らない。 この ことは同和教育について いえ ることであ り、地区のあるな し
にかかわ らず全県のすべての学校での推進を図 る・
と教育委員会の人はいう。
0
万
その具体的施策の 1つ として、 8月は強化月間として、県下の全戸数約5
世帯 に リーフレッ トを配布す ることに してい る。
2.2 小山市で
7月2
1
日の朝、宇都宮市の宿舎を出たわれわれは一路南下 して小 山市に入 り、
.
1
0
時から市役所で、助役以下、同対室長、総務部長、教育委員会社会教育課長、
学校教育課長などの出席をえて説明 して頂 く。
小 山氏は東北新幹線の駅 もある交通の要地であ り、昭和5
8
年 7月現在では人
3
万7
0
0
人、3
6,
3
0
0
世帯である。 この小山市内に昭和 5
0年 6月 1日現在 の
口は1
調査で、2
9の地区がある.地区世帯数 は5,
9
3
8世帯 、地 区人 口は2
5
1
,
0
2
7人であ
るが、同和関係世帯 数 は 1
,
4
91
世帯、人 口は 7
,
7
2
0人 な ので 混在 率 は 2
9.
0
4%
となる。
-1
1
4-
これ ら2
9
地区の■
うち小山の市街化区域内に位置 しているのは1
0
地区であ り、
各地区は散在 している・
。市街化区域内にある一番大 きい地区は現在区画整理中
である。小山市q
)市街は南北に伸びているが、西側は市街地に沿 って思川が流
れていてその西側は広 い水田地帯になっている。 この水田地帯 に散在す る地区
は農業が主である.市街地は思川の東部の台地に乗 T
iている. この台地にある
地区の各戸はたいてい広 い宅地を所有 しているが、それは昔 この土地の開拓者
として定住 したことによる。職業的には東部の地区には造園業者が若干多い。
小山市の同和対策事業は昭和4
9
年から実施 され、5
0
年に同和対策室を設置 し、
5
4
年には同和対策審議会 をおいた。現在同和対策室は室長 1名、係長 1名、主
査 1名である。同和関係団体は 「
部落解放を愛する会小山市協議会」、 「
部落
解放同盟小山市協議会」、 「
全国部落解放運動連合会小山市協議会」の 3団体
がある。
小山市役所での説明で興味深か ったのは、市史の編 さんの仕事を してわ られ
るY先生の話であった。 それによると現在の小山市の昔は、思川を境 に して西
側の水田地帯と東側の台地とでは支配地がちがっていて、封建時代の資料が残 っ
ているのは主にこの台地のほうの ものである。中山宿は結城か ら佐野、足利へ
の街道にあ り、現在の台地にある地区の造園業者の祖先は中山宿がで きたとき
に開拓部落 としてよそか ら移転 させ られた人たちではないか と推定 され る。ま
た江戸時代に浅草の弾左衛門が関八州を支配 していたときの、小山が 4人の小
頭によって管理 されていたことを示す絵図をY先生が見せて くれ る。 「
捨場 」
の位置 も記 されているし、Y先生によれば、 「捨場」は質入れ もで きた し売買
もされた らしいとの ことである。そのような売買の記録 として享保時代の もの
がある。当時の生活は死牛馬の処理 と農耕からの収入でかなり裕福な家 もあっ
たようである。
小山の部落史研究は今後着実にすすめ ら一
れるであろう。われわれが これまで
に訪ねたところで も長野県望月町、長崎県など地域の部落史研究がなされてい
る。 こうした努力が次第 に積み重ね られてやがて横断的につなが ってい くこと
が期待 され る。
2.3 大平町で
-1
1
5-
小 山市の国鉄駅近 くの、区 画整理事業の行 なわれて い る地 区をみ たあ と、今
度 は大平町へ と西 に進 む。み ごとに整備 されて い る水 田地帯の真申を一直線 に
西に向 う。国道か らそれて少 し北へ 入 った ところで車が とまる。 そ こには小 さ
いが新 しい白山神社 が道 の ほ とりにまつ られて あ る。 これ は地区の人が加 賀の
白山神社 に参 詣 して帰 ったあ と、-それ までの古 い小 さいのを建て 直 した との こ
とで あ る。
案 内 して頂 いて水 田地帯 の なか に作 られた共 同墓地、畜舎 と集会所、 それ に
水道揚水場 を見て廻 る。 と くに古 い城 のあ とといわれ る ところの そばの水道施
設 は、 その供 給範囲 が地 区だ けに とどま らず一般地区 に も給水 されて い る.同
和対 策事業 が決 して 地区民のみの利害 に関す る ものでは ない ことを示す実例で
あ る。
このあ と役場で同対課長や解放同盟の役員の 出席 をえて懇談す る。大平 町は
小 山市 の西隣 りで栃木県の最 南部 に位 置 し、南東部 は広 い水田地帯であ るが、
北部 か ら西部 にか けて は山地 となって い る。 町 は昭和 3
1
年 に 3つの村 が合併 し
たあ と3
6
年か ら町制を施行 している。 町の人 口は昭和 2
5
年 に約 1
8,
0
0
0
人強で あ っ
0
年代 に入 って か ら増 え は じめ5
6
年 1月 1日現在 で 2
5,
0
0
0人 を超
たのが、昭和 4
えて い る。 この よ うに町が発展 して い るのは、 昭和 1
9
年以 来 日立製作所栃木工
7
年 にはいす ゞ 自動車栃木工場 も操業開始
場 が操業 して い る こと、 さ らに昭和 4
す るな ど、工業化 の波 がお しよせて きたか らで あ る。事 実工場数 は昭和 3
7
年に
は2
1しか なか った の が 5
5年 に は 1
5
6あ り、従 業 員 数 も5,
5
0
0人 か ら6,
5
0
0人 へ
とふ えて い る。業種 別 にみ る と多 いの は事業所数で は金属、電気機械、一般機
械 の順で あ るが、従 業員数で は電気機 械が圧倒 的 に多 く約 5
,
0
0
0人 で あ る。 こ
れ は 日立 の工場が いか に大 きいか を示す ことにな る。次 いで輸 送 機械 が 約 9
5
0
人で あ りその主力 は いす ヾ 工場で あ る。
8
年 2月の調査で は 1
,
4
0
0
さて大平 町には同和地 区が 8地 区あ る。人 口は昭和 3
人、4
8年 5月 で は 1
,
2
0
0人 、 5
0年 6月 調 査 で は 3
2
6世 帯 、 1
,
4
85人 とな って い
9.
8
%であって、 この率 は栃木県平均の 3
5.
2
% よ りはかな り高 く、
る。混住率 は5
全国平均 の 6
0.
8
% に近 い。地 区数の 8地区は県下で は小 山市の 2
9
地区、 佐 野市
の1
0
地 区 に次 いで多 く、世帯数 で は小 山市、栃木市、佐野市の次で あ る。人 口
,
0
0
0
人 を超 えて い るが 、 栃 木 市 、佐 野 市 の
で も県下で一 番多 いのは小 山市で 7
-1
1
6-
2,
0
0
0
人 台につづ いて 4番 目であ る。
0
年 6月 1日現在の
大平町の同和地区はほぼ南北に 2列に並んでいて、昭和5
6
世帯、 5
01
人であ り、 2番 目が 9
2
世帯、 4
3
6人であ
調査で一番大 きい地区で9
5
世帯、 1
1
7
人 と規模が小 さ くなる。 いちお うあげて お く
る。 3番 目になると3
9
世帯、 1
1
6人、 5番 目は2
7
世帯、 1
0
5
人、 6番 目は2
0
世帯、8
9
人、
と 4番 目は2
7番 目は 1
6
世帯、8
2
人、 8番 目が 1
1
世帯、3
9
人である。◆
混住率は一番大 きい地
0
%、 4番 目と 5番 目が 1
0
0
%と、地区の規模 と周辺 の事情 との関係でば
区で5
らつ きがある。
3
年 に草津で開かれた第
大平町の同和対策の推移は町の資料によると、昭和4
1回関東地方研究集会に当町か ら 4人出席 している。その翌年伊香保での第 2
回集会で当町関係者 K氏が栃木県連を代表 して県の姿勢を批判 してい る。 4
7
年
になって栃木県知事 と大平町長は同和対策事業に取 りくむ ことをきめたが、そ
の年に部落解放同盟栃木県連委員長で氏より関係者の同意書をつ けて 同和地区
実態調査の要望が提出された。 この頃か ら行政側 も積極的に準備をすすめ、昭
和4
8
年度か ら県内関係市町村 に先がけて施策を実施す ることに した0 4
8
年 6月
に大平町同和対策協議会 を設置 し、4
9
年には同和対策室を置いた。5
0
年には同
和対策協議会を同和対策推進協議会に改組 し、同和対策事業 4年計画を策定 し
2
年の改訂のあと5
4
年 に新総合計画となった。
た。 この計画は5
大平町の同和政策は、われわれ との懇談会へ出席 された解放同盟の役員 も積
極的に評価 されている。 それは解放同盟の県連委員長、書記長が この町の人で
あること、事業を始めたときの前町長が積極的であった ことによる。行政 と運
動体が協力 して地区であろうとなかろうと事業を通 じて大平町の環境改善を し
たいとの熱意で取 りくんだのである。運動側 も逆差別の起 こらないよ うに気を
つけた。 こういうことの結果がさきにふれた水道事業である。行政側の姿勢 も
8年か ら5
6
年まで
現在の町長 も前町長の方針を受けついで積極的である。昭和4
になされた事業の主な ものをみると、集会所が 5つ、保育所が 1つ、児童公園
5ヶ所、墓地移転 3、同改良 1、簡易水道 1、畜産団地 1団地、 農集団 5集
団、消防 ポ ンプ 1台、井戸 1基などである。
以上のように今回は大分県 と栃木県での現地研修であった。両県に共通 して
-1
1
7-
いるのは同和対策事業の発足がお くれたことである。国の法律が施行 されて何
年 も過 ぎてか らや っと始まっている。前号で報告 した長崎県や宮崎県 もそ うで
あった。それ もさび しい差別の風土のなかで立 ち上が った運動休の要求 と力量
によるところが大 きい。他方、成果をあげているところは行政側が積極的に取
り組んでいるところであることはた しかである。そのことはまたそれぞれの地
域 ごとに様相が異 なることで もある。われわれは各地を訪ねるときいっ もその
ことをあ らためて学ぶのであ る。
-1
1
8-