岡鹿門﹃観光紀游﹄訳注1その二 本稿は本弐苗ぢに発表した岡鹿門﹃観光紀游﹄訳注親準ある。 柴 、、 、Υ t京女少 t少え冒、 t青 由 子子里子継 (柴田清継、二0 三二年十一月二十八日記す) 原文六日︹十Ξ日︺湖黄浦江。一名中江。櫻、春申君鑾此利漕運。其称黄若申、皆取于春申裂也。至且訟萬謬擁砲臺 、ヨノ 、哥{注の形式等については、前稿冒萌^の説明をご覧いただきたい。また、^ノ考にした1立:南犬の主なものは^末に掲げた0 ら一無州までの船旅、一鮴州滞在、妹州から杭州までの船旅ということになる。 杭日記巻上﹂中の陽暦六月二十一日から七月四日までの部分である。旅程としては、鹿門一行の上,陸、上海滞在、上海か 今回需の対象としたのは、赤上え船日記﹂中の陽暦六月六日以後倫分、二繞日記﹂の王稲序、丸山錨序、巻三﹁殊 斐崎田川田 盛土沙屹然壁立。謬霄、﹁絵襲全、皆置江門之外、洋面ウ両樹鵠以招敵、使敵得以活砲、攻呆蝶。而我反以呆砲、雌 -51- 甲山冨d 活船0 故敵百発百中、而我十発九虚。若移之港内岸艦之処、則我得以活砲撃活船]。以今所見、砲臺自洋面斜折亘江上。豈以 俄有凹疋論増築歎。自是江広四五百氏ノ、而大小汽艦、劣午上下、無少儀碍。 午牌至上海。岸設浮板、出入艦上。潮盈昂起為梯、潮退平接為橋。岸田吟香出迎。共至広業洋行。広業洋行、販北地海産、 三井洋行、販高島石炭。大倉洋行、欝讐者、為我邦大肆。鶴田姓︹幸吉︺延舎楼上、午飯。伴二宮姓昼述、詣公署。品 匂一 川領事 ︹ 忠 道 ︺ 不 在 、 見 呉 ︹ 碩 ︺ 松 延 ︹ 珪 ︺ 一 玉 邑 訪王詣、日﹁条白以後、日夜以待﹂。曾根︹俊虎一品川二氏、従松村少将︹惇蔵一来過。余与坐客俔耘励︹鴻一"室筆 話。已而酒出、与諸賓酌。勿宝見舷暈、吐両次。葢連日舟走、袖気未復也。飲半辞帰、就{齢復。 ︻注︼①﹁春中君﹂戦国時代の楚の人、黄歌のこと。②﹁哉牛﹂黙倭染の田墾丞魏源(一七九四S 一八五七または一八五六)の字 この引用文の出処と考えられるのは、隈の﹃聖武記附録﹄巻十四軍"の一節。示武元﹄はH木では一加永二(一八五0)仟に即さ tW付 れている。道光二十六(一八四六)年木を底本とする魏源批、輔錫鐸・孫文良点校﹃聖武託﹄(中染倒局、一九八匹卸)にょり、原文を 易げる。﹁卸河壱、但有守内河之法、処{寸海面.驫。而四需東西懲ルイ近拠内港、皆導世洪倒門之夕洋面之征桂割以拓商 こ 以活磁攻呆蝶、而我反以呆磁殺活船。故賊百攻百中而我十y北ナ虚和川移諸港仏片芽之処、使リ仔X得カタ"¥之冷窓可チ卞上昂磁小寸 ての鹿円の^十X那没j娃H一一礼L 一九0五。訂記き・美条教亭一八七七仔 7粂洋行﹂当時上河にあった三軒の日オ人貿 は﹁江幅不六七町﹂とある。それなら七百メートル前後。④﹁岸田吟直一八三二S 棗銀座に旦障﹁筆、邑を開き、一八八0年には上海に渡り、その支店を開いた。⑤ 易商店の一っ。経営者は鶴畢吉。一八七六年八打開業。北霊の海産物の努に従乎。⑥﹁三井洋下S﹂三井洋行はしわゆる三訓杉産 鷲暑は東京出身の上田安三郎。一八七七年十二月開業。﹁高島﹂蛙柔以来、炭鉱として栄えた器岫市尚島。⑦﹁大倉洋行﹂いわゆ る大倉組のこと。零者は東京出身の赤聖教。一ハハニ年八月開業。⑧﹁二宮姓︹景竺一八五九S?・。宮城県人一八七九年以後、 -52- S 一八九 J L0 ブ 0。海軍大尉。この時清国 梁少将。⑬﹁俔耘助︹鴻︺﹂前掲の﹁支那漫遊日記﹂には﹁耘勧広西 一九一 は幕末長峪の唐通事。維新後は上海など四醍 一八九一。長崎出身で、もとオランダ逓詞。在清初代領事、総領学 S﹂呉碩(一八二四S 石炭業に従事し、上海綜袈。⑨﹁品川領事︹巾芭﹂一八四一 務めた。この年の七月に解任、帰国した。⑩﹁呉︹碩︺ - ブ 館に動務した。松延玻は日木人。翌一八七五年には煙芳領邪に就任。⑪﹁曾根(俊虎︺﹂、一八四七S に派曾れていた。⑫﹁弁少将︹惇蔵︺﹂一八四二S 桂林人、現{巳福建、有文名﹂と述ベられている。当時、輪船招商局に在職。 訳文六日、黄浦江を湖った。黄浦江は一に申江ともいう。春申ゑがここを嬬休して水運を利したと伝えられている。この川 を黄とか申とかと称するのは、いずれも春申君に由来するのである。呉世着いた。たくさんの家屋が群がり取り巻く中、砲 条士砂を盛り上げ、屹然と壁のようにそそり立っている。謬一条﹁呉港の砲臺は、みな河口の外の海に面した要衝に置い てあるが、それはわざわざ的を立てて敵を招く結果になっている。すなわち、敵をして移動できる砲にょって、固定した胸壁 を攻撃することを可能にさせ、一方、我が方は逆に、固定した砲にょって、移聖きる船を野のである。故に敵は百発百中 だが、我が方は十回撃って九回は当たらない。群室を港内の、両岸の迫った所に移せぱ、我が方は移動できる砲にょって、移 動できる船を撃つことが可能になるだろう﹂と述ベているが、今見たところでは、砲臺は海面から斜めに折れて、黄浦江上に まで連なっている。魏源に以上のような論があるからとて、蝉六する必要はないだろう。ここから川幅は四、五百歩になり、 大小の汽船が数夕夕く行き来するが、小ノしも妨げになる物はない。 正午ごろ上海に着いた。岸に浮板が設けられていて、それを通って艦内に出入する。潮が満ちると、盛り上がって梯子とな リ、禦引くと、平たく柴って橋となる。岸田吟香氏が出迎えてくれ、共に、粂洋行ヘ行った。広業洋行は北方の海産物を 商っており、三井洋行は高島の石炭を商っている。大<県行鞭貨の転売を事とするもので、我が国の大商店である。広業洋 行の上の階に病所を与えられ、昼食をとり、二{昌輪氏を伴って公署ヘ行った。あいにく品川領事は不在で、呉碩・松延玻の - 53- 両書記に会った。 王紫詮氏を訪ねたところ、﹁手紙をいただいてから、日夜お待ちしておりました﹂と言ってくださった。曾根俊虎・品川の 二氏が、松村惇蔵少将について立ち寄られた。私は俔耘効氏と別室で護献をしていたが、やがて酒が出たので、それらの諸賓 ﹂﹁ 客と酌み交わした。ところが、急にめまいに見坪われ、何度か吐いた。恐らく連日の船旅のため、精気がまだ回復していない のだろう。途中で辞して帰り、睡眠をとるとすぐに治まった。 J、ー 原文七日︹十四旦朝陰。耘勧来訪。<姦開其著﹃桐嘩器﹄。故一見袖契。出﹃山塘聴雨図巻﹄、徴<森和。問上海名流、 5 1J 日胡公寿、揚<楊>侃甫、欝耕、哀翔甫、銭畍伯、萬剣盟、倫潭<譚>、黄式権、而王君此詮為第一流。 平野文夫来訪。文夫少游余門、卒海軍学科、為小府乗扶桑艦客此。楊君来要観劇塲。乃伴吟香・文夫及濯往観。塲広容千 ノL 人、四架楼欄、中央設舞臺、煤燈烱燦、皷板喧闡。演岳飛包抵商輪故事、及男女相悦雑戯。余不解華語、楊君自傍一条大要、 稍了一斑。夜半塲散。 ︻注︼①﹁﹃桐嘩編ヒ全八巻。日木国内には、国立国会図書館に一八五八年出版のものがあるというが、未見。②﹁﹃山塘聴雨図巻辻山塘 蛙翁虎邱の勝地。③﹁出﹃山塘聴雨図巻﹄、徴<森和﹂この時、鹿門が和した詩は﹃観光導十﹄巻上に﹁糧耘勧山塘聴雨図﹂という 題で載っており、次のようなもの。﹁穴響見耘勧桐蔭需、紫翁坐話此事称奇遇。汰日示此図、求<壽。耘勧伶艮曼籍、山塘為虎邱勝地。︺ 一自風辻染虎邱、繁華不復説揚州。君詩亦似生公舌、吟烈臼游石点頭。︹虎邱有生公鞭石旧跡︺,,、,十里山塘緑施藍、呉門故事我算叩。請 一八八六)、字は公脊。文人画家。楊伯潤(一 一九三)、字は似南(夫)、高家。翌龍(同治、光緒問の人)、字は隠耕(畊)、詩文・叢に傭ていた。京祖志(一ハニ 君発他年夢、一帯煙光好共探。︹余黒効、謙俳︺﹂。④﹁胡公寿S﹂認(一八二三S 八三 七 S -54- 七S 一八九八)、字は翔甫。寝の垂、詩文を得意とした。銭徴全八三二S?・)、字は所伯、詩文を鴛芯した。断盟は、楊県﹃海 上墨林﹄に﹁器、碕門、又字澗民、螂県人。女得︽黄器︾幾。工詩文、有︽鶴澗詩寵条︾八巻﹂とあゑ備綴りである可能 ?. S ^ミ、し 0 宮謡裟。当時海軍少主計。⑥﹁岳飛包抵商蛤幣﹂岳飛は南宋の忠臣。金との和平論 業高い。呉竺一八二七S?)、字は鞠潭、文章にたくみで、か尋を善くした。黄式権(一八五三S 一九二四または一九二五)は﹃申 報﹄の玉。⑤﹁野文夫﹂ 者の秦檜と音省ルが合わず、投獄され死んだ。包抵は北宋の政治家。伝統的一襖劇等で造雛潔白な官吏の代表的キャラクターとなる。商中旨は 明代の政治家。 訳文七日、朝、"雲っていた。耘勧氏来訪。私は以前、氏の著﹃桐嘩編﹄を読んだことがあった。だから、ひとたび会うや、 意気投合した。耘効氏は﹃山塘聴雨図巻﹄を出して、私に詔を求めた。私が上海の名流を問うと、﹁胡公寿、楊侃市護耕、 衷翔甫、銭所伯、萬剣盟呉熱岬、黄式権。王紫詮氏が、そ案萌どということであった。 Uム、マ^日氏;父シーt ・濯をイーPい、出牲卜けた。劇上昜は千人﹄又{谷のプくきさで、四ブ丁に 平野文夫来訪。文夫は若くして我が門に入り、海軍の寺を葉して少尉となり、軍艦﹁扶桑﹂に乗って上海に来て、滞在 ゞ劇上昜見物を^研いに来た。そこで、 欄干が架けられ、中央に舞台が設けられている。ガス燈がまぱゆく華やかで、拍子木の音がけたたましい。岳飛、包抵、商轄 にまつわる物語や、恋愛ものなど、さまざまな芝居が演じられた。私は諜叩が分からぬため、楊氏が傍らから大要を女て示 してくれ、それである程度分かった。芝居は夜半に跳ねた。 原文八日︹十五日︺晴。出観密、父三界、日法租界、輪界、米租界。毎界三W欝'卒巡璽号沿岸大路、各 国公署、輪於司、欧米銀行、△瓢堂、海関税務署、架楼三四層、{盗無比、街柱接蚕線、一為喝信線、一為電燈線。瓦斯 -55- 燈・自来水道、皆鉄為之。馬車漸六、人車東製。有一輪車、四人自後推之。大道五条、称馬路。中土市街、不容馬車、唯租 、) 界康街四通、可行馬車。故有此称。市街問大路、概皆中士商店。隆棟曲様、丹碧煥発、百貨標袴、燐然舷目。人馬絡繹、昼夜 暄闡。王琴絡上海殷賑、日﹁連街車馬、達旦笙歌、海水為沸﹂、十殻其状者。 2 寺 f 恐捕葉山房。挿架萬巻、一半塾白。偶閲生書、皆坊器本。姦子読ミ外史﹄。余曾見子琴、筆栗器。吟香貝弓外 ノΦ 史﹄一禽其師斉学袈之手。子琴三年前死、其妻無可食、屡来乞雌。又日、﹁中人漸用心東洋大勢、﹃麥浮撰﹄﹃朝鮮志昇﹄え女 南国志﹄等書盛雋﹂。 一八九己一荏その字。免官後、多くの詩文を著した。②﹁尋六山房﹂沽代の代表的版元の一っ。 過楽盖呈昊晩餐。吟香日、﹁此壽数説頭痛、如不勝坐者。汎黛毒﹂。 ︻注︼①﹁王器似﹂王術(一八五二?S 一八八一?・)、字は子琴。幕末期に来日し、長崎に五回渡航した。子琴は一八七九年、自ら露叩を加えて、 一九0五年の灸手制度廃止後、無職の詰審人ミ圭に使って、廉価な石印本を大量に出版したことにょり、一躍その名が知られた。③﹁銭 子琴所評﹃外史﹄﹂銭悍(?・S 一八七五在也。﹃海上里遜巻三にょれぱ、﹁字は器、婆源の人。詩を能くし、書法に工﹂であった。⑥﹁﹃東 頼山陽﹃日本外史﹄を上璽乢史堂から刊行した。④﹁余曾見子琴S﹂前掲の﹁支那鐙R記﹂には﹁余見子琴於東京﹂と述ベられている。 ⑤﹁斉学袈﹂一八0ΞS 一郭撰﹄﹃朝無昇﹄﹃安南黒﹄﹂亘鸞選﹄住災の学者兪憾稀んだ日本人の漢台契笈。岸田吟香が日木の百数十家の詩集を兪楸 のもとヘ持ち込んだ。﹃朝無昇﹄は﹃認史略﹄か。﹃安南黒﹄は前掲の﹁支那漫遊日記﹂では﹃安忠略﹄になっている。﹃安南志略﹄ はベトナムの狭則撰のベトナム古代史。ほぽ十四山紀三十年代に成書。一八八四年五月に岸田吟香経営の上海の峯墨から銅活字本が出 版された。 訳文八日、晴。市街を見物に出かけた。市街は三界に分かれている。フランス租界とイギリス租界とアメリカ租界である。 -56- 三国がそれぞれ呈一察署を置き、暹卒が街を巡って敬趣している。黄浦江沿岸の大通りには、各国の公署、汽竺一社、欧米の 銀行、会璽昊税関・税務署が三、四階建てで建っており、大きくきれいなこと、この上ない。街柱には二本の鉄線がつない である。一木は電信線で、もう一本は電矯称である。ガス燈、水道は、いずれも鉄で作ってある。馬車は西漸六で、人力車は 日本製である。二人を載せ、後ろから押す一輪車もある。大道は五条で、馬路と称している。中国の市街は、馬車が通るだけ の道幅がないが、租界だけは大通りが四通し、縞車の通行が可能である。故にそのように称されるのである。市街の大通りに 並ぶのは、概ねいずれも中国の商店で、棟木が高く桃が曲がっており、朱色と土緑色とが輝くようで、百貨の看板が鮮やかで ﹂'ロ 、 見知らぬ書籍もあるが、 目にまぶしい。人や馬がひっきりなしに行き来し、昼も夜も喧しい。王心瓢が上海の殷賑ぶりを﹁連街の中馬、朝まで続く笙 歌、海水もために沸きかえる﹂と述ベているが、真にその有様を尽くせるものである。 万チに入乞ち名〒つた。^則架に丸立、^られた萬岩}のうちの一一斗主は、見11tれたヨ上易朱昔である。 見てみると、いずれも坊間の顯本である。銭子琴氏の評の付いた﹃日本外史﹄もあった。私は以前、子琴氏に会ったことがあ リ、筆談をしたが、ちゃんとした話ができなかった。吟香氏日く、﹁﹃Π本外史﹄罪は、彼の師である斉学袈の手に成るもの である。子琴氏は三年前に死に、彼の妻が食うに困り、しぱしぱ憐れみを乞いにやって来た﹂。また日く、﹁中国人もしだいに 東洋の大勢に恩を向けるようになってきており、﹃束瀛詩撰﹄﹃朝雛僅﹃安南黒﹄等の書がよく売れている﹂と。 器泉︹本礼Y姚子譲︹文栴︺来訪。談及詣流毒中士。余日、﹁聞 登呈呈に寄り、夕食を摂った。吟香氏日く、﹁此壽氏が何度も頭痛を訴えておられ、座っているのも大変なようだが、おそ らく阿片 の 中 毒 だ ろ う ﹂ 。 原文九日〒六旦張帯︹煥綸︺・葛子源︹喜︺ 紫弥近喫洋烟﹂。子源日、﹁洋烟盛行、或由憤世之士、 借烟排一切無卿、非特誤庸県民、聡明士人、亦往往嬰柱五。 -57ー 午後、文夫導観扶桑艦。大砲四門、重十五噸、弾力達二三里之外。破裂丸大如斗。設機器注砲門。上層列砲八門、稍小。一 砲連粧八丸。此属英人創巧者。櫓上設将座、四囲皆鉄。繁屯線伝号令。側設電燈、日﹁能照三里﹂。下層為蒸汽器械。設蚕柱、 運転機輪、一進一退、不復労転舵。四鬪鉄板、吃水処、鉄厚瑜尺。号令用旗幟、約束用符号、極為厳粛。中法構難以後、各国 発軍艦、巡視中士各埠。軍艦碇泊埠内井我扶桑天城二艦、凡八隻。見松村小匠日﹁法使方在天津、議安南事、和戦未决、 将駛天城艦、往観長江各埠﹂。留饗酒飯。将辞出、日﹁霊観楽隊奏四。既而楽隊整列、四人撃大小皷、八人吹則叺。其声悲壮。 少将游学英国十年、専修海軍学科。我邦軍艦Ξ十隻、皆少将所督。 ︻注︼①﹁器甫︹器︺・葛子源︹士溶︺・器泉︹本礼︺・姚子誠︹文桐︺﹂いずれも上海の正蒙書院と龍W院の志子。この四人に姦を 一九0六)、経甫はその字。中国系も早い私立の小学堂である長書院を一八七八年に創始した。葛士溶(一八四八 加えた五人と岡鹿門との簸験が、明治十七年の七打九日から十一日までの﹃郵便机知新聞﹄に﹁筆話﹂と題して迎載されている。張煥 綸(一八四六?・S 一八九五)、子源はその号。﹃皇朝経世文続編﹄を編染した。范本礼(一八五四?・S 一八九四)、字は劾泉。﹁蕩﹂と﹁越は同音。姚文 相(一八五七S 一九三三)は、民国後、衆議院議員になった。子該はその¥。駐日中国使館随員を務めた姚文棟(字は子梁)の弟。 訳文九貝張経甫︹器)、葛子源︹士直謡泉︹本礼︺、姚子竺文栴︺の諸氏が来訪。阿片の京中国じゆうに広まっ ているという話になった。私が﹁聞くところにょると、紫詮氏も近頃、阿片を吸っていらつしやるようですね﹂七冒うと、子 とます 源氏が言うことには、﹁阿片が流行するのは、あるいは世を憤る士が阿片の力で一切の無耶を排しようとするためということ もあるのだろうが、愚かな下々の民のみではなく、聡明なる士人もまた往々その毒にかかっているわけだL一と。 午後、文夫の案内で扶桑艦を見学した。大砲が四門、重さ十五トン、弾き出す力は二、三里以上に達する。破裂丸は斗ほど の太さ。機器が砲門に置かれている。上層には砲が八門連なっている。やや小さい。一砲に八丸が連ねて茶ハされている。イ -58- ギリス人の創辛夫にょるものである。櫓上に将条設けられ、四囲はみ姦である。電祭つながれており、それにょり号 令が伝わる。その傍ら号燈が設けられている。三里先ま姦らすことができるという。下層県気の器械で、二本の鉄柱が 設けられて、タービンを回転させ、一進一退、転舵を労しない。四剛の鉄板の喫水線の辺りは、鉄の厚さが一尺を超えている。 号令には旗幟を用い、互いの畜心伝達には符号を用い、極めて厳粛である。中・仏問に戦禍が起こって以後、各国が軍艦を出 し 動させて、中国の各港を巡視させているため、砥が港内に碇泊しており、我が国の扶桑・天城の二艦と併せて、全部で八隻 寸少将に会った力ゞ、一﹁フランスの^節力ゞ/、マ、天村上にいて、{^南.のヨエについて話し^口っているところだ力ゞ、和戦の ずれか未だ決しない。そこで、天城艦を馳せ、長江の各港を見に行こうと思う﹂七百い、酒と食事を馳走してくれた。辞去し ようとすると、松村少将は﹁楽隊の演奏をご覧ください﹂七吾った。やがて楽隊姦止列した。大小最を打つ者が四人、ラッ パを吹く者が八人である。悲壮な楽音であった。少将はイギリスに遊学すること十年、海軍学科を専門に修めた人であり、我 が国の軍艦三十隻は、み な 少 将 の 監 督 す る と こ ろ で あ る 。 原文十日(十七日︺徐允臨・林曾来・楊誠之・王維折、及其弟器・雄潘来見。皆姚子梁学友。誠之日、﹁今日接得、急 装赴天津﹂。子繋叩余日、﹁楊君好論五洲形勢。可1欣﹂。此席勿卒一見為憾。 午後与二宮姓、訪品川領事。領事在任十年、買地郭外。竹籬茅舎、蕭然野趣。会不在、請茶一畷。帰路入夜、経英米二界。 自江西路沿岸右折、度第二橋。此為一術江。瓦斯電気二燈、悦如昼。経吉祥街帰館。 ︻注︼①﹁徐允臨S﹂発臨は高琴この日の来訪者について、一八八四年七月一日の﹃郵綴知話﹄﹁文一鎚賞﹂般の鹿門の﹁支那漫 遊日記﹂には﹁十日。王維新紲勤維折徐允深林曾贅来見。牛畢田学友﹂とあり、林曾来ではなく、林曾賓という名が見える。林曾贅なら、 -59- 後の事になるが、一九0六年冬に江一箸で設立された法政団体の一つ、地方公益研究会の訓査員の一人。なお、﹃郵便帳知新聞﹄の上引 の記事に見える他の人名表記は、必ずしも参ぎにならない。楊誠之、名は兆切主。清末に外交官となり、ベルギーに使節として赴いた。王 維折交八三七S 一八九0)以下Ξ人は、道光年冏に上海で沙船業(大型平底の木製帆船にょ金送業)にょりマ家を起こした紳商、王 文源全七六一 S 一八三二)・文瑞(一七六四S 一八三五)兄弟の曾孫の代の人物。誹と雜藩は文源の孫である慶堂の長男と三男。維 折は紹皿ハ・湖州等の厘局殴辧を歴任し、維藩は漸江海運一鸞を二十餘年にわたり治めた。一方、維勤は文瑞の孫である儒お次男で、 一九二九)。 一八六七年に父親が死んだ後は、﹁意を仕進に絶ち、一に弟妹を教養するを以て務めと為Lた﹂という。姚子梁は前掲の姚文棟交八五 三S 訳文十日、徐允臨・林曾来・楊誠之・王維折、及びその弟維勤・難潘の諸氏がやって来た。みな姚子梁氏の学友である。誠 之氏が言うことには、﹁今日、電報があったため、急いで支度をした。これから天津ヘ行く﹂と。子梁氏が﹁楊君は好んで五 洲の形勢について論じる。とも倫るに足る人だ﹂と教えてくれた。今日の席客卒として、ひとたび顔を合わせるのみで終 わったのが、残念である。 午後、二宮氏と品川領事を訪ねた。領事は在任十年、郊外に宅地を買って(屋敷を構えて)いる。その竹籬茅舎は誤一とし て野趣があったが、不在であった。茶を振排っていただいただけである。帰路は夜になり、英・米の三租界を通った。江西路 から黄浦江岸に沿って右折し、二つ目の橋を渡った。その橋がかかっている川を殊州江という。ガス燈と電燈とが光っていて、 昼問のようであった。吉 祥 街 を 通 っ て 帰 館 し た 。 原文十一日︹十八日︺与耘勧訪楊君、観﹃古逸叢書﹄。楊君要余鼎蕉杭。耘勧亦日、﹁一繞不独富山水、実為人文淵叢﹂。 -60- 余病無舌人、偶斎在坐、日、﹁僕将取帰路蕉杭、不復煩舌人﹂。偶斎久住日束、善器叩。乃訂期日。 ι 与吟香訪曾根氏、方病。過本願寺、見僧孝純。坐有丸子姓、自福州経安俳<漸>江二省、至此、日﹁武夷旧跡、今猶有朱 子学舎、為道士居﹂。 夜与二宮平野二姓、散歩市街。一楼標﹁洋炯﹂二字、ル硬烟客。入観。去索双転丸場。丸斗大、観煮森。左右為烟去土。床 上陳烟具。管長尺餘。両人対臥、盆点小玻燈、枯烟﹂発呂孔、且燈且嘘。其暑然如眠、喫如酔、咲如死、皆入佳境者。二姓 ル゛ 往年英国開国会、懲示洋烟販運、時郭 ノ1 日、﹁烟店大者、室埀繍帷、如王侯閣閤﹂。按洋烟之行、自宛正年問、其風H織、勢不聾小、至道光、林則徐設"繁開辺堤一 敗塗地、遂解烟禁。猶禁在官人員ご会士子、及営兵喫烟、而衆視為文目一<、如無焚1 ,h、 響契厶使在英国、上書日、﹁阿片,尋不除、勢必将至尽中国之人、皆失其生理、槁隔舐、気息綿綴、盤<残廃人。今英国 一'一 知其毒為梨口、与中国受李琵相与女会、裟木止阿片販売。臣開之大斬二明以三年為期、設裟歪↑。朝議不决、至今日、 未敢答英国。噴。 7父苑雅賞﹂所載の鹿門の﹁支那隆日記﹂ ︻注︼①﹁過木願寺、 1孝純﹂僧孝純は松林孝純全八五六S?・)のこと。東本願寺の布教偕。痘の﹃東一瓢選﹄編築において、北方心 泉と共に日本側との迎稔を務めた。②﹁丸子姓﹂一八八四年七月一日の﹃郵便報知新朋﹄ 一八五0。官僚、政治家。イギリスにょる阿片密輸の取り締まりを強行した。価)一﹁辺鰍L一国境での争いの意。具体的に では﹁丸子濶﹂と記されているが、それ以上のことは来詐。③﹁武爽S道士居﹂朱喜一が武爽山で越子したところを武爽梨、口という。④﹁林 、一一七八五S \一.\ S a)この 一八九一。一八七六年、 は、林則徐が一八三七年にイギリろ油人たちの阿片を没収して焼き払い、これに怒ったイギリスの阿片商人が﹂仏州を攻獣し、イギリス本 国も艦隊を出動させて、箔国を攻撃したことにょり始まった、いわゆる阿片戦争のこと。⑥﹁繋森ご 使英国大臣となった。西洋の科'ぢ't技司寸を学ぶことを主張し、洋務運動を支持した力ゞ、加固派の攻撃に遭い、官を舌辛した。 上書は時の出使英国大臣繋五叢が副使劉錫鴻とともに光逃一全八七七)年に行ったもの。楊堅校補﹃凱轟奏稿﹄(岳熊U社、一九八 - 61- 三年)に依拠すれぱ、ここでの引用文の原文と考えられるのは、同書瓢の尋累止鴉片折附上諭﹂の次の箇所。﹁吸食者日衆、勢将 尽中国之人皆至失其生理槁頂黄誠、奄奄僅存、盤ハ残廃。西洋人士知鴉片煙為筈之烈、﹄ナ中国位箸之深也、相与設条谷、広勧禁止栽 種販売。(中略)而於中国、為男女儒臥吸食鴉片煙之象、以取笑楽。臣荏之。(中略)宜先示限三年'、只成督撫分筋州県、多制戒煙方薬。 施散勧諭、以満三年為期﹂。﹁槁1誠﹂は一荘子﹄列御冠篇に見える雫、痩せて肉のない首と荏ん径悴した顔竪。 訳文十一日、耘勧氏とともに楊氏を劼ね、﹃古逸業昌を見せてもらつた。楊氏は私にとも尿・杭ヘ遊ばないかと電て くれた。耘勧氏もまた、二鰍・杭は山水に富むだけではなく、実に人文の豊かな所でもある﹂と言った。私は通訳のいないこ とを苦にしていたのだが、その場にいた暢斎氏がこう言ってくれた。﹁私が"杭を通って帰省するから、わさわさ通訳を煩 -62- わす必要はない﹂。暢斎氏は久しく日本に住み、日本語を善くする。かくして期日を定めた。 1及とともに^凹本艮氏を訪ねたが、病中であった。本煩頁寺に入乞ち{奇り、僧孝糸屯氏に会った。丸子という人力ゞ同席していた。 福州から安徽・漸江の二省を経て、上海に来たといい、﹁武夷の旧跡には、今なお朱子の学舎があるものの、道士の住まいとなっ ている﹂ということを話した。 夜、二宮・平野の二氏と市街を散歩した。﹁洋煙﹂の二字を掲げ、阿片の吸飲客を待っている禁あった。中に入って見て みた。部屋の中央に転丸場が設けられていた。丸は一斗くらいの大きさで、見る者が群がっている。左右にある部屋を煙室と ベッドの上に煙具が並んでいる。管は長さ一尺餘り、二人の人が向かい合って横になり、盆の上の小さな豆ランプを点 ,、 うになった。道光年間に林則徐が厳しい禁令を設けたため、国境での争いとなった。その結果一敗地に塗れ、禁制を解いた。 王侯の寝屋のようだ﹂と。按ずるに、阿片の流行は、死正年間からだんだん盛んになって、止めることのできぬ勢いを持つよ 恍惚たること死せるが如く、みなうっとりとしている。二氏が言っことには、﹁煙店の大きなものは、部屋に刺繍の帳を垂らし、 じ、阿片¥管の穴倫め、燃やしながら吸ったり吐いたりする。昏然たること眠れるが如く、陶然たること酔えるが如く、 し、 し、 在官の人員や科挙を受ける士子、及び兵士の吸引は禁じられたものの、衆は空条文と見なし、禁令はないに等しい。往年、イ ギリスの国会で阿片の仕入れ・運搬の禁止が璽酬された。そ倫、公使としてイギリスにあった郭崇難が、次のような内容の 上亨した。﹁阿片の害際かれなければ、中国人全体が生命を維持する機能を失い、痩せて肉のない首と黄ばん径悴した 顔となり、息も絶え絶えになって、不具者と異なるところがなくなってしまうこと、必定である。今、イギリスは、阿片の毒 が列釜口をなすことと、中国がその毒に深く侵されていることを知り、、公会を設けて、阿片の販売の禁止を図っている。私はこ のことを聞いて、ひどく恥ずかしく思う。向こう三年を期限として、法を設け禁止せられんことを請う次第である﹂と。にも かかわらず、朝議決せぬまま、今日に至り、未だイギリスに答えることができていない。ああ! 原文十二日︹十九日︺従文夫観城内。自小東門而入市鼎水日、街如袈隣、稜気拠を悪臭撲鼻。得識廟。門画人物、廟 列塑像、香火一秀。廟背東園、広数十畝、池水需。一楼、日﹁湖心亭﹂。石橋盤曲、日﹁九曲橋﹂。池上列肆、業白興玉古 器物、稍有雅致。唯不栽一十汁木、無些幽趣。取別路、出一龍門。 晩与馨此壽之避。劉子良・衷翔甫・姚賦秋・俔耘勧・銭所伯来会。翔甫{詣園先生孫。問小倉山房、日﹁已火﹂。問﹃随 園三十種一、日﹁大版已亡﹂。随園一代夫小斗、貿毎外。而未三世子孫懇零、遺著散逸。此為可嘆。紫詮有詩、与坐・賓和答。 ︻注︼①﹁城賠﹂都市の{玉祁を祭った社。②﹁劉子良﹂﹁清代台東直諾知州胡八,璽化繋迎の同治四(一八六五)年以後のことを述ベ た部分に﹁殊撫劉子良﹂と見える。あるいはこの人物か。﹁殊撫﹂は詠巡撫の縣。③﹁姚綬・俔栽勧・銭所伯﹂いずれも﹃申械﹄ 初期の示。姚賦秋は布衣、銭断伯は秀才の出身。④﹁W先生﹂詩人、衷枚(一七一六S一七九七)のこと。随園はその別塑の名。⑤ ﹁小倉山房﹂随園のこと。江寧(南京)の小倉山下に築かれたことにちなむ命名。⑥﹁﹃随剛三玉﹄﹂襄の女を条めたもの。小倉山 -63- 房文集、小倉山房詩集、小倉山房外集、矣史時文、小<品房尺朧、随園詩話など。⑦屡狂有詩、与坐賓和效巳この時の鹿門の詩は﹃観 光游草﹄巻上に﹁王紫籍陪哀翔市・俔蒜勧・銭所伯・劉子良・織秋、紫詮有詩和答︹翔甫随園先生孫︺﹂という題轟っており、次 のようなもの。﹁一酔諭交河下欄、沈沈清夜鴛蘭。廿年心折倉山集、相見莫為門外后。/繊繊眉月倦柳、銀燭飛鯱酒興闌。到底随翁 十益小、不如張使余看︹随胤日、右酒余不飲、鉦賀永不飲。不如招飲客、・誤使余酒。是席余酒半肱雄、不欲飲故云︺﹂。 訳文十二日、文夫の案内で城内を見て回った。小東門から入ると、店舗がひしめき、通りは狭艦で、汚い臭気が立ち込め、 悪臭が鼻につんと来る。城隍廟があった。門には人物が描かれご廟には塑像が並び、線香の火がくすぶっている。廟は東園を 背にし、広さ数十畝、池の水が環流している。湖心亭という楼があり、そのそぱのジグザグに連なる石橋は九曲橋という。池 のほとりに並んだ店には、書画・筆墨・古器物が売ってあり、やや雅趣がある。ただ、廟内には一本の草木も植えられておら ず、いささかの奥ゆかしさもない。別の道を取り、新北門から出た。 晩は濯と、紫詮氏の招きに応じて出かけた。劉子良・哀翔甫・姚賦秋・俔栽勧・銭畍伯の諸氏もやって来た。翔甫氏は、か の随園先生の孫である。小倉山房につい五ねると、﹁焼けてしまった﹂とのこと、﹃随園三十種﹄につい恩ねると、﹁大版 はなくなってしまった﹂とのことであった。随園は一代の泰斗で、海外にもその名が知られている。にもかかわらず、三世に も達せぬうちに、子孫が落ちぶれ、遺著が散逸している。噂かわしい事である。此詮氏が詩を詠み、同席している客人たちと 応酬し た 。 原文十三日︹二十日︺我邦風化、皆源于中土。故中士風俗、与我出入。今此挙三一。凡中人始相見、先問姓名、次問郷貫、 次問父母兄弟具在、次谷族多少、次年庚幾何。逢人、問食否、蓋問安否之義。作柬賊累番、先書紅笈。有喪者、名刺用白紙、 -64- 盛、往往破産。 と重墻 ここに一二の例 謹月貼白紙。食具器、見一異口叩、必問価幾何。・基必進茶。賓下<不>蚤汰、待一匙而一畷、主見之為送,貞ウX 葬、互夸資贈之侈述佐ノ 訳文十三日、我が国の匝L教は、みな中国に源がある。故に中国の唖L俗は、我が国と似通ったところがある0 を挙げてみょう。凡そ中国人は初対面際は、まず姓名を問い、次に出身地を問い、次に父母兄弟の有無を問い、次に親矣の 多少を問い、次に年齢を問う。人に会うと、食事を済ませたか否かを問うが、これは安否を問う意味が込められているのだろ う。岩簡をしたためることが何度にも及ぶときは、まず赤い讐紙に書く。服喪中の者は、白紙の名剣を用い、月日が経っと白 紙を張る。食器や服の類は、珍品を見かけたら、必ず値段を問う。客が来ると必ず茶を進める。客が樫々しく大まず、立ち上 がる前に畷ったら、主はそれを機に客を送り出す心づもりをする。極めて婚儀・葬礼を重んじ、互いに贈り勿累華さと、葬 儀の盛大さを誇り、往々にして破産に至る。 夫桑 原文十四日︹二十一旦文夫来曾、﹁我邦轟大砲操練、需測量、歪一外人。や土軍艦、機県耘、三雇*人0 一旦 有事、各国中立、外人不敢致力。凡百機関、不可得而運転。凡砥有軍礼、士.即時、互通使問、符号約規、各国一聿0 其殴今日之事、 艦之入呉曾、発砲廿一、祝皇帝ウ美而醒至丕器'人問故、不見一将校。見遵而是事、'日、﹃欧米軍霊、紙テ是L者﹄0 蓋中士需軍礼、故各国亦外之也﹂。中人開口、報日、﹁夷狄殊類、不知礼義﹂。自外人而観之、為孰知L義0 実有故也 。 ︻注︼①亘芒府県を監督する清朝の地方官。名の下に置かれた行政単位﹁道﹂の責壬者0 -65- 訳文十四日、文夫が来て、こんな話をした。﹁我が国の軍誓、大砲の操練、航海の測邑、外国人は一人も雇っていないか、 中国の軍艦は、機関の運転をすべてご屍った外国人任せにしている。有事の際には各国は中立し、外国ノは力を貸そうとは しないから、すべての機県運¥きなくなる。凡そ軍艦には軍礼かあり、吉凶や祝賀・零すべき事柄のある時には互いに 挨拶を交わすことになっており、そ際の符号・規約は各国一律である。ところが、扶桑艦か呉湘口に入った時、二十一洗y元 帝の美予をぢししたにもかかわら司'、砲臺はこれに上途じる^元祈包をしなかった。その王里由を問し^口わせ.るべ;くノを造1わし たが、一人の将校にも会えなかった。纂尋に会って、こ皐を尋ねたものの、ただ﹃欧米の軍艦には、この軍宇を行うものが ない﹄との返答であった。思うに、中国が軍礼を講ぜざるが故に、各国もこれを疎んじているのだろう﹂。中国人は口を開けぱ、 ﹁夷狄殊類は礼義を知らない﹂七冒うが、外国人から見れば、礼義を知らぬのは、どちらであろうか中国か今日のような事 (廿二日︺耘勧伴一客至。杜邪竺西鳴︺、出示壁梨大字十熱杢子極奇異。日﹁仂北魏碑板﹂葢康皿転隆二朝 態に陥っているのには、まことにしかるべき理由があるのである。 原文十 五 H 専学警台月、朝野獄然。唯董法之師、至今漸属陳腐、争為古怪。此亦可以見世変也。 張経甫造价来迎。経市憂薹釜法、駐艮待来学者。生徒百餘名、彬好學。学舎翻木、楼上舎生徒楼下為講堂肺立 鴛、率之以躬行。葛・姚・一担二氏来会、歴問東士冊、政体、及海外大勢。巳<已>而延別室、供点心。二昇及濯追踵、 業座擁卓、各手一枝第、暢紗瓢日。雨至、経雨人"覆辞之オ可 広東人で、書法にたくみであり、﹂二海に届.住して孤才と訂Lたという(Z)一﹁蹴告1、一ブきな文才を智くブ法ブきな,r -66- 極め 9込んだ所に人れて握って書くこと。転じて、大きい'.子。(3)一﹁碑村丈L一佃!喝こ刻まれた文字。(i)一1哉t、昌^明tの文人画ミ、ルヨ 一.^ 訳文十五日、耘助氏が一人の客を伴ってやって来た。郁農︹西鳴︺という人で、壁築の大字十数柴を出して見せた0 て奇異な字で、﹁北魏の碑板に倣った﹂ということであった。思うに、康煕乾隆の三朝の人々は、専岳芯昌を学び、その点、 朝野軌を一にしていた。しかし、董法を教える師匠は、今ではしだいに陳腐になってきており、争って古怪な書貝を追うよう になってきているのである。ここにもまた慨の中の変化を見ることができる。 張経甫氏が使用人を寄越し、迎えに来た。経甫氏は子どもの教育に手だてが講じられていないのを憂い、腎院を没け、入学 者を受け入れている。百餘名の生徒がいて、彬々として学問に励んでいるJ響を新たに築き、粘上には上徒を寄価させ、階 後から にしている。噺左しいま見則を^双け、身弓行にょり生衣をを汝^いている。一局子.源・が上子、一一誤・范益泉のΞj1Rも来て、一洛になっ た。日本の風俗、政体、及び海外の大勢について次々に質問された。やがて別室に案内され、点心を御馳走こなった0 先生 来た二宮氏と濯も卓を囲み、各々一本皐を手にして、終日歓談した。雨が降り出したため、経甫氏が嬌を命じ、我々を送り 返してくれようとした。断ったものの、聞き入れてくれなかった0 原文十六日︹廿三日︺平野・武田︹秀雄︺二姓'観米国砥。一将校出接、見余名刺、日﹁聞日東学上、来游上梅0 不顎言、 J需乎﹂。葢記﹃申報﹄所載、﹁日東文馨木、携系凹千巻、為中士山K之芽﹂吾也。杜、用心*,、可田0-1監内、匡下大卜包 え 女機関用法。更臣艦。陳大砲十五門、瑩鈴認州。陳野籍袈。契日、﹁中法発大臣、艀安南条約0 則有戦耳﹂。二織拠碕髪暑無北需。我泌収各科講欧学。後進粘出成器、駛大1巨砲、上子欧米各国、亢L満支、彼小1 -67ー 友朋国、此宜大為家国慶也。 詣公署、見豊<・松延二氏、 一九四二。一八七八年、海軍兵段禽科に入学、一八八昂"争諾士海ーノ②﹁﹃申訓﹄ 告一繞之游、且醜熊 ︻注︼①﹁武田秀雄﹂一八六三S 1 S語﹂大清光緒十年五月念二Ⅱ(器一千八百八十四年六月十五日)の﹃申繊﹄箇壬零十二号に﹁文士を﹂と題するーか小ってい る0 句一賢を施して、その全文を引用しておく。なお、訓肌しかたい文字があり、﹁.﹂で示した﹁日41門先生、宏千仞、字振Z =ノ.五十ね一架ル昇、jii方、Ⅱ下山] 1戈1長.;と舌伊1毛巳,渚.デ一イ↓、ノヨニ剛ミーナ.為訂上、ΞE、 0ι!行攘紀宇.渉史偶卸ヨ生メー垂ク思イh.中1之1が:拶 1昔J^。糸隹刃i﹂}1牙で岡親ヨξ牙{一Π小メ、史会官^'デ、十父j砂書目俳ーイ.﹄,萢ウ分一イ又岡岩.首イ ・米;古、・ 。古女万く打E打又ブく工1j。^和老. 才寺i﹁ラ△叩{上大1ji界ヤニ浦干右.司^^﹂上伶ヲF 一迩Ⅱ又一トーi沃凡^Ⅱ寺1Hノ危1Ⅱiン﹁;谷.^﹄田ネ示江乞一呂佑小ブ右.ル丁イ Ξモ 哥 i ノーg老.法hL 南窮劉叉北極蕉趙一誓ハ襟、:売文所入一千五百金為游質、亦足以・、美前旦需行俵d有書数百繰﹂、諸友彦1斗11凾Ⅱ 固日本名流中之矯矯者也。想聖之処必当倒厩争迎矣﹂③﹁如新発例﹂﹃荘子﹄養生、器の﹁刀刃若新発於剖﹂を踏まえる。④﹁安南希﹂ いわゆる天製太約のこと。沽仏戦mの結果、この年の四月にハリ議{緝か竹成され、それ発、つぃて六月にナ津でフランス仏下ノトノー ルと李淫十と四義か行われ、同月九日に全文寸か条から成る天津条紗か赴和された 訳文十六日、平野武田秀雄、二氏の案内でアメリカの軍艦を見学した。一人の将校か出迎え私の名刺を見て、こ、つ言っ た0﹁日東の学士、来り上海に遊ぶと聞いておりましたが、先生のことですね﹂。﹃申郭﹄に載った﹁日卵の,父琴某、著書千巻 を携え、中士山水の游を為す﹂の草覚えていたのであろう。彼らが外国の事柄に関心を向けていることか知られる。将校は -68- 艦内を案内し、大小の砲宗一気機関の使用法を説明してくれた。さらに、フランス艦も見に行った。大砲十五門が並び、光り 輝いていて、研ぎたての刀のようであった。無数の野戦砲も並んでいた。説明者四言うことには、﹁中・仏は大臣を造わして、 安南条約を"確させた。我々のE分に従わなければ、戦をするしかない﹂と。平野、武田の二氏は英暫嵐{しており、応 答にいささかの滞りもない。我が国は名科を設けて欧米の学問を講じている。後進が輩出して一人前になり、大艦を馳せ巨砲 を取り付け、欧米各国と対等の交際をするようになれぱ、欧米各国も友朋国として相対してくれるだろう。これは大いに国家 のために喜ばしいことである。 公署ヘ行き、且<・松延の三氏に会い、殊・杭ヘの旅行計画を告げ、誰熊宝朋うた。 原文十七日︹二十四日︺論W院。葛・姚二氏出迎。書院本李氏{雨。応敏斎︹{武︺為道臺畦買烹白院、以待四方士 i 1 子。有泉石之勝。竹樹蕭迺古璽雅潔、昇似我邦禅利。堂壁録朱子﹁白鹿洞掲芭其設科、一以経史、宋小玉王。延一間室 -3- 供忠、贈劉融斎屍進荒旦司繁梨桃陪致繋、督学政。弟佐雀祠、斈。厳条日︹文藻︺贈家著数重。 q)﹁龍門書院﹂道墜の丁日昌が一八六五年に上海に創没し、初めは他の学堂を惜用して教学を行っていたが、その二年後に道臺の応宝 是夜在埠邦人、張宴咸和館、饒品川領事。会一。東妓む弘、歌呼酬酬。頓為在郷之念。 ^注^ 7日鹿洞掲辞﹂﹂﹁由鹿洞需﹂は、正しくは﹁白鹿洞書院掲示﹂。朱立妥現在の江西省 時か銀一器を支出して、禽(現在の尚文雛円村)に惑夫樅廊、墜口四十一冏を建設した。②﹁応敏斎︹{砥︺﹂応{轟。倣斎は その字。道光から同治にかけての人。③﹁朱子 三S 一八八ご、融斎はその号。小参小、嵳署。官は左中允まで至ったが、後、龍W院の雄我を担当して、一生を終えた。その 矯山五老峰の施に再建した白庇洞陛のために定めたもので、朱子学の教育譽の靴と言えるもの。④﹁劉融斎︹煕聖劉載全 ノ -69- 茗のうち、﹃鞭﹄﹃昨非集﹄一四音定切﹄﹃持志塾言﹄﹃説文双声﹄﹃説文畳談﹄を﹁古規倒屋六種﹂という。⑤司笈香︹文竺来詐。 訳文十七昌、龍門書院ヘ行った。葛子源・姚子譲の二氏が出迎えてくれた。書院はもと李氏の家の庭であったが、応敏斎︹宝 時︺が道臺であった時、買い取って欝とし、四方の生徒を受け入れたのである。泉と岩石の優れた眺めがあり、竹は清く、 亭、器は優雅で醜係で、やや我が国の禅寺に似ている。堂の壁に朱子の﹁白鹿洞掲辞﹂が写されている。学科の編成は'史 と宋学を主としている。一室に案内され、点心を器われ、劉融斎︹織︺の喜六種を贈られた。敏斎は書院を創設後融 斎を招聽して学務を統轄させた。生徒たちが融斎の徳を慕い、校内に祀っている。厳鳧香、・ヘ文藻^に家伝の著作数種を贈られ 7 留の邦人力ゞ阿戈和会官で宴を弓長り、品川領事:を饅別した。出向いて参:加した。日オ丈人藝者がjr\弓i1く^以の^日に合わ せて高吟し、かなり酔い、にわかに母国にいるような気持ちになった。 2 原文十八日︹廿五日︺見惺悟<吾>・暢斎、商議游事。偶斎導過葉氏蒜臣見董慎夫︹折︺。現官中翰。'美男夫日﹁希芝 僧在家以待﹂。伴至求志欝。中士州県、皆系白院。大官.品、所以狷甚設。芝僧出見一酒、 H ﹁方草﹃桐城県書贈 J ;ー 1 、 または芝僧と号した。漸江省桐 刻本三巻。市街艦樋不潔。唯所陳貨物、皆精良。見一朱唖。板厚四五寸、竪六尺餘、横二尺餘、両頭刻獣。問之、始知其為凶 器。中士厚葬為弊、可知也。 ︻注︼①﹁董慎夫︹折︺﹂未詳。②﹁小翰﹂沽代の内開中書。③﹁芝僧﹂厳辰(一ハニニS 一八九三)。 勤めた後、故郷に掃って誠学した。編著:に^桐娘f県え長主一などがある。@)一﹁求志.、倒院L一兪玉地力ゞ主宰した舌:院。(豆)ニニ桐力或県志仁 ーフ0- ﹃桐郷県志﹄倫りと考えられる。﹃光緒桐雛盡と竿る光緒十三(一八八七)年の刻木がある(﹃中国地方志集成漸江府黒﹂輯 23、上禦U店、一九九三年)。 訳文十八目、惺吾氏と偶斎氏とに会い、旅行のことを相談した。偶斎氏の案内系氏の一鄭に立ち寄った。一穫夫︹垳︺氏 が来て、一言うことには、、﹁伯父の芝僧が家で夫予つている、一と。鳧香上ミに連 れられて求蚕白院に着いた。中国の州・県には、みな書院がある。大官や名士が財産を拠出し五てたものである。芝僧氏が を羽長涯ってくれ、一、今、^桐妨戈県士ι旦︼を書いているところだL一七瓦い、刻え丈三赤﹂を脳由与してくれた。市判手は非^吊に 狭苦しくて不潔系、陳列されている商品は、みな精良である。朱色の箱を見かけた。板Rさ四、五寸、雙尺餘、横二尺 竺、両端に獣羅柄劣み込んである。尋ねてみて、それが棺桶であることが分かった。中国では髭ルが弊fなっている というが、もっともと思った。 原文十九日︹廿六日︺朝雨。公署給収隷抗<杭>至寧波、護照一通。条掲公埠以外、不得買物、恪守国法等十三件。鶴田姓 ノーL 請余践李中堂当見乃書日、﹁有為之士、不留心末藝。今見伯相晝不似今能書人、一縦凹仂唐。此伯相所以為伯相也則{﹂。或凹、﹁世 多伯墾国 、 多 出 門 客 手 ﹂ 。 ︻注︼①﹁李中堂﹂李馨十(一ハニ、二S 一九0 こ。 訳文十九日、朝、雨。公署から、殊州・杭州を経工寧波に至る護照一通を支給された。公埠以外では物を買ってはならぬ、 ーフ1- 謹んで国法を守れ竺丈十三か条が書き連ねられていた。鶴田氏から、李中堂のき皷を書くよう頼まれた。そこで、こう書い た。﹁有為の士は、心を末藝に留めず。今伯相の書を見るに、今の輩月の人に似ず、晋を墓し唐に仂えり。此れ伯相の伯相 たる所以ならんか﹂と。なお、世問に伯相の書と言われるものは多いが、タタくは門客の手に成るものという。 n 原文廿日︹廿七日︺晨起、抵公署、見系領事。過紫詮・吟香告別。松延氏来訪、日﹁昨有公命召還﹂。吟香来、出沸酌、 . 日﹁本願寺僧無適、寓杭弥勒寺。杭有西湖名勝。盗謀此僧、為小留消夏之計﹂。作書介無適。遣濯候楊氏日、﹁今夜乗船以待﹂。 三宮・平野・島田︹友春︺三姓助理行李。此游旧故送迎到処架、不復知為殊終客。姦契。 一九二四)のこと。外務省、農翻省の局長等を歴任した。この当時は上海領事。②﹁島 一九四七)は明治から昭和にかけての謡払徒日本画家。一八八四年六阿にル街に渡り、上海で銭 ︻注︼①﹁安藤領亊﹂姦ホ荏通称太郎(一八四六S 田( 友 春 ︺ ﹂ 島 田 友 春 ( 一 八 六 五 S 吉生・沈心海に師事し、人物画を学んだ。 訳文二十日、朝起きて、公署ヘ行き、{深領事に会った。此嘉氏や吟香氏にもお目にかかり、別れの挨拶をした。松延氏が 来訪、﹁昨日、公命があり、召還されることになった﹂と言った。吟香氏が来て、酒を出して別れの盃を酌み、、﹁本願寺の僧無 適氏が、杭州の弥勒寺に{晶している。杭州には西湖という名勝もある。無適氏と相談して、しばらく滞在し避暑でもしてはど うか﹂と言って、無適氏ヘの紹介状を書いてくれた。濯を楊氏のところヘ行かせ、﹁今一'に乗って待つことにする﹂と伝え させた。二宮、平野、島田友春の三氏が旅支度を整えてくれた。このたびの上海滞在は、旧友たちが送迎してくれ、至る所で 我が家に帰ったかのようで、異域の遠客ということを意四せられなかった。蒸し暑い夜だった。 ーフ2- 原文序 ^鯖村︹日記 ノJ 日本鹿門岡君<1家侠士也。少有用出患、好一器姓白、上下千十U、鹿丸激昂。時為天下画奇計、纏纏千言、値幕﹂倫政、 イ 国内騒擾、君在奥羽、争藩主之主明祐節行益著。轍朝下而夕行、懐慨就道、器難色、卒排群議、有所建立。而尭不得行其 1 志、天也。平生尤留心史事、披拾前後事笑、成工舌。曾築野史一広鹿門山下、閉門授徒、暁心大義、及門多幹材。後移居東 京、堅臼史自娯。 ノ3 余於己卯春、作東瀛之游、始見君於蓮池酒亭、辱投麺打集無間。浮舟浬水、畿<晃山、抵{前談、蛾及五洲大勢。君以一 ノ一勺 、6 堂、眸晩当世、砂視朝貴。其志可謂大矣。余独惜其不能見用於世也。然君畿勃壮気、不以是少衰、平生不欲耀耀於一島域、 闇J﹂ 、、 轟南極奥嬌、北釜郊、膽皇居之誌、撹都邑密丙尽交且傘家長著。此約已五年、而今日始得一践。君知余巳<已>回 呉中、改道泥漉、郡先見顔色。交友之誠、如君者葢変千矣。君既巳<已>買舟游籍、俳佃稽豈水之問、訪朱舜水之後六冏、 9 与之留連往復。樂貝西湖僧利、安懇奔、将為消夏之計。会法虜駮雇、風鶴頻驚。渥上友人呈凹促之、勿勿鎧返。以不遍捜呉 越諸名勝、為此游憾事。△"研京師。京師為戦国一籍之地。不知有煉慨悲歌之士、混迹屠估走販者否。余老年多病、日事閉 ノ1 a ノ' 天南涯叟票捍手 関習静、百歩之外、略然若喪、不能従君一游。慨織凹此、以送、一欝必有所遇也。 光緒十年甲申秋八月七日 ︻注︼①﹁好読経世霄、上下千古、意気腎﹂明末の陸梨の﹃酔古断掃﹄の﹁匡坐一室上下千古、明目念以蕩需中之抑塞姦唯読 ししあち¥Li 書乎﹂を踏まえている可能性がある。(亘)﹁築野史亭於鹿門山下﹂野史亭は岡鹿円の轡斎、草私史亭のことと思われる。草私史亭が完成し たのは、元治元(一八六五)年の年末。鹿門山は仙臺の瑞儷(仙臺藩祖伊謬宗の廟所)のある山、梨屋山。現在も﹁鹿磯﹂全月 ーフ3- 一雀霊屋下と太白区向山にまたがる坂道)の名が残っている。③﹁己卯﹂ここでは、一八七九年のこと。④﹁蓮池聖丁﹂王誓﹃扶歪 記﹄にょれぱ、彼が初めて鹿門に会ったのは、、一八七九年五月十七日、来京久保町にあった﹁売韓〒﹂という名の鷲デにおいてであった。 売茶亭については、服部誠一の﹁束京新繁昌四編﹂(一八七四年八月刻成)に泥舎は戊辰年冏に興り、熊Υを模して桜田久保坊 に搭す。絵更に巨大の洋器を起こして、肌誤縦巴の肌味を併呑す。︹兼ねて西洋料理を為す︺﹂とある。場所は今の役新橋 一丁目付近。これ左拙1の詐しい関係等については未詐。⑤﹁氏四五嶺以南の豊。五嶺とは、大庚嶺・越城嶺・崎隠嶺、吻渚 刀口 Jη 一六八三)。明の余姚(漸江省)の人。消兵帯京を陥れるに及んで、舟山に退 嶺・儒嶺黒称。江西・湖南・広束・広西四告の冏に位捌し、長汀と珠江張の分水嶺。⑥〒爺﹂北京、河北名一帯。⑦﹁条﹂ 興県の南の籍か。⑧﹁朱条﹂名は之瑜(一六0OS いて援兵をU本に乞うたが、ついに亡命して徳川光圀に仕えた。安積檐泊が入門し、木下順礎や山鹿玉打も師亊した。舜水は日木に来て 4◎一﹁ヨ答然一右喪L 4今一﹁ウtιむ十年甲中不火ノ入、j1七Π﹂一陽Ⅱ手では一ノ\七づL1﹁Ξ九 鷲"瑪悲歌之τL、混翅1屠估走販者L-^史記卜一刺客列在ミの荊ψ1についての記小力ゞ、表^の下虫女きになっている。 喪共稱L一に^づく表︺沙ι。 月二十五日。⑬﹁天南迹叟﹂王曾号。 訳文日本の岡鹿門氏は、現代の筏の士である。若い時から、出に用いられんと忠があり、好人五出の書を読み、千古 と今とに思いを巡らし、意気が激昂するのであった。その頃ちょうど、天下のために奇計を画策し、千言を連ねた。幕府が政 権を朝廷に返すに当たり、国内が呼桜していた時、氏は奥羽にあって、・熨羽越列藩同盟の盟主となろうとすゑ竺と争い、そ の節操ある行いがますます出に知られた。佐幕決定の椒が下るや{寺に移されると、懐慨して獄に下り、まったく非難がまし い態皮は見せなかったが、結局群議を排して、建立するところがあった。にもかかわらず、最後までその志を行うことができ なかったのは、天命である。圭、歴史上の出来事に恩を持ち、前後皐実を拾い集めて、再丞言を成した。以前は鹿門山 下に野史亭を築ミ門を閉じて門弟に教授し、大義を心にさとらせた。門下に至る名には才能のある者が多かった。その後、 ーフ4- 東京に居を移し、典籍を も っ て 自 ら 楽 し ん だ 。 私は己卯の春に日本ヘ旅し、初め五池酒亭で氏に会い、かたじけなくも贈り物を頂戴し、隔てのなゞ藤をした。隅田川 に舟を浮かべ、日光に車を迎ね、掌を誓て、高きなく話し合うたびに、話は五洲の大勢に及んだ。氏は一書生の身をもって 当世を眸晩し、朝廷の誓<をも軽く見ていた。大きな志を持っていた七言える。私は氏が世に用いられなかったことを惜しむ のである。とはいぇ、氏の畿勃たる壮志は、そのことにょっていささかも衰えなかった。平素から一島域に鰯酬としているこ とを欲せず、南は奥嬌を極め、北は十発に至り、皇居の壮麗なさまを見、都市や村々の大きさも見て取り、それらの地のあら ゆる取塁家長者と交わろうと菅ていた。その逝局はすでに五年たって、今ようやく{寺に移されることになった。氏は、私が すでに呉に帰っていることを知ると、予定を変更して上海に来て、まず私に会うことを望んだ。交友鼠実さという点で氏ほ どの人は稀であろう。氏はすでに舟を雇って一循・杭州に遊び、稽山・鏡水の問を俳佃し、朱舜水の後渚を劼ね、彼らと何度 か行き来した。次いで西湖の寺を借り、叢国を置いて、避暑をするつもりであったが、その頃たまたまフランス軍が践尼し、 戦争の気配にしぱしぱ不安な気持ちになった。上海の友人窒白簡を送って促したため、直ちに上海に帰ってきた。呉越の諸名 勝のすべてを訪ねることのできなかったことが、今回の旅の遺憾なことだという。 今は京師に出掛けようとしている。京師は戦国熊趙の地である。屠丸業者や酒屋に身をやつした、懐慨悲歌の士が今でも いるのだろうか。私は老年で病気がち、毎日、門を閉じて静かな生活を送るのだけが日課である。すっかり弱ってしまい、氏 天南返叟森翌手 に付きしたがって旅をすることはかなわない。慨然たる気持ちでこの文章を沓いて送り、氏が必ずいい出会いに恵まれるよう、 真う次第である。 光緒十年甲申秋八月七日 原文序 甲申五月鹿門岡先生将遊清国。余在廓兇品朏瓣約錢先生瓊浦。先期<霧輪船金聾,至瓊浦。瓊浦西海大港、巨商列肆、翠楼 ーフ5- 凌雲、漢人欧客之届出没于林砲陵埠之間。山水之観、風月之勝、蓋与楊<揚>州西湖昇翻。既而先生至。金津上一楼、 D 挙杯属日、﹁壮哉遊也。本邦維新以来、外交日闡、籍紳官冕、往往観風於殊域。然而其以文学遊清国者、自先生而始爲﹂。 先生少時游昌平讐。会幕府末造、慨然侶大義、以挽回衰運自誓。与松本奎堂・松林飯山諸人深相結、将有大所為。奎堂・飯 ) 2 山皆禽事。先生楊粂、一喜排悶。王政薪、先生擢為大学助教。時余為生員、旦夕器。後七八年又見先生於棗。会 清国造公使何子峩・副使張魯生於我国、王紫詮亦来游。余幸列諸名士之末、与清客游。詩酒徴逐、雙加激昂、傑蕪所問、以 適天下之楽。然而紫詮西偏、余亦官游薩畷子峩・聖諸人任満而帰。余在西海、索居無肌追懐往時、恍如夢森。今又饌先 生此遊於萬里極浦之上。感慨果為如何。 ノ、 { 先生行矣。先生此行、山則望終南・太華之秀且高、水則観黄河・長江之大、洞庭・一姦之広。与其朝士大夫游従、上下其議 一八六七)は肥前大村藩儒。昌平讐 一八六一己竺、河刈谷藩士。昌平髪で学んだ。文久三年、天株組を組織して'木鉄石 澀ミ丸山金贄子、Ξ 論、則将見清国伝先生文名。又猶昔時李白・王維諸人、於晃衡・吉備諸人也。 明治十七歳次甲中五月 ︻註︼①﹁松本烹土・松林飯山﹂松奎、堂(一八三三S 吉判虎太郎とともに孤鞭となり、大和五条で光典したが、同年九打戦死した。松林飯山(一八三九S 畢んだ。文久二年、大坂釜堂・鹿門とともに双松岡塾を開いた。慶応示、佐幕派藩士に顎された。②﹁大学助教﹂鹿門は一八七 一八九一)。子峩はその字。沽国 一ハハハ)。魯生はその号。清国の初代駐日副使。④﹁終南・太華﹂繁闇は峽西省にある終南山。 0年、熱至から上京して、大学中助教に就仟した。③﹁公使何子峩・副使張魯生﹂何如那つ八三八S の初代駐日公使。張斯杜(一八一六S 峽西名にある華山のことか。(豆)、﹁洞庭・彭難、一洞庭は湖南省北部にある洞庭湖。彭叢は江西省北部にある都陽湖のこと。(亘)^李白 王維諸人、於晃衡・ーー﹁備諸人﹂晃衡・吉備は、それぞれ迅唐留学生として渡唐した阿倍仲麻呂と吉備真備。特に阿倍仲麻呂が李倒・王維 ら、唐の詩人と交流したことは、よく知られている。 ーフ6- 訳文甲申五月、岡鹿門先生が辻街ヘ態一とうとされた際、私は鹿誓円にいて、乎紙を送って、長崎で先生を饅別せんことを 日に先んじて、私は汽"合一﹁断Σ.能丸﹂一に,灸り、長Ⅲ奇に着いた。^川奇は1q海の大きなH昔で、ブく商人力ゞ店を選1ね、高 楼奈一を凌ぎ、漢人・欧客の住まいが林や丘の問に見え隠れし、山水の眺めや風月の素晴らしさは、揚州や西湖に類するもの である。やがて先生がお着きになった。私は埠頭の近くのある楼に先生をお招きし、杯を挙げて、こうお願いした。﹁先生の ご旅行は壮挙というほかはありません。本邦は維新以来、外矧との行き来が日に日に広がり、官歴のある人物や現役の官吏が して異上女の人情匝L件〒を観察しに出井卜けております。しかし、学藝に"ぢわる立ぢ吉で清国に出牲卜ける方は、ラモ生が初めてで す﹂。 先生は若い時、昌平鬢に遊学された。一俳の末期長会するや、慨夕して大義を唱え、一益を挽回することを自会一われ た。松本奎堂・松林飯山をはじめとする方々と深く相結び、大いなる働きを成し遂げようとされた。ところが、奎堂と飯山は 国事に身を殉じ、先生は欝夕して楽しまず、当著しく愛さを晴らされた。王吹得となるや、先生は大学助教に抜擢され た。時に私はその在学生で、朝晩訪問した。その後、七、八年たって、再び先生に東京でお目にかかった。その頃たまたま、 清国から公使の何子峩氏と副使の張魯生氏が我が国に派造され、王紫詮氏も来遊された。私も幸い諸名士の末席に連なり、清 国からの客人と交遊した。詩や酒で招き招かれて、雙加激昂し'昌ぱしい気持ちで打ち解け、天下の楽しみに適うものであっ た。やがて紫詮氏は西に帰り、私せご旺摩の職場に戻り、子峩氏と魯生氏らは任満ちて帰国された。私は西海にあって、孤独な 暮らしを送っていて楽しみが無く、ハ"を追懐すると、恍として"燕のようであった。今また萬里のはるかに洪海辺の町か ら先生の今回の旅に錢をすることになった。この感慨を一体何七吾えぱいいだろう。 先生、旅立たれよ。先生の今回の旅は、山は甫・太華の秀でて且つ高いさまを眺め、水は黄河・長江の大きなさまと、洞 庭・彭益の広いさまとを見ることになられるであろう。また、中国の士大夫と一藤して、音見をやり取りされれぱ、清国に先 ーフフー 嘉辰 丸山錨子堅 宮城県 姪濯萬里校訂 岡千仞振衣撰著 生の文名が伝わることになるであろう。 苣李白や王維らにょって阿倍沖麻呂や吉備真備の名が伝わったように。 明治十七歳次甲申五月 観光紀游巻二 蕪杭日記巻上 原文是游森首希州1子峩、血彬四方。会揚<楊>君惺悟金巳将游蕉杭日﹁子霊先珠杭而輪州﹂。余日、﹁従 名士為勝地之游、百年難復乍牙﹂。同舟W<泓江、誓<中諸勝。小血暴州出杭州t犠塘江、歴訪N丁・禹陵・天・需旧 Z 蹟。帰杭州、借寺小寓。開器心之変勿皇帰棹。無幾有福州之変、造船局羅兵火、子峩僅保一命。事固有不可知名矣。 社^ 4)﹁蘭亭・禹陵上人・童諸旧顕﹂闌才は紹興市のーー]街西南十四キロメートルの蘭渚山の鑓にある。東晋の沓家千云美之がここで行った修硬 の杖様を記した﹁N条斥﹂で有名。禹陵は切典而の東南四キロメートルにあり、伝1、夏王朝の創始者禹の弊空とされている。一釡 寺。(豆)、﹁鶏気乢之変﹂二伝州之亦ご左消仏戦争において天河上条約が締結されたにもかかわらず、この久木約はフランス本国においても北 京政府においても歓迎されず、清仏両舌またもや衝突して、誕様再び惡化した。フランス木国政府墜研威圧の方針をもって甑むこ とを災叩し、謬同クールベーの命を受けた海軍小蒋レスペスが八打五日、臺湾の基隆(鴫籠)港を砲撃し、これを沈黙させたが、陸戦隊 は清兵に破れた。これを器お変という。ここに至って、クールベーは福州攻撃の計画を定め、八打二十三日に戦開を開始し、三十八日 ーフ8- に陥落させた。これを福州の変という。 訳文この旅はもともと、まず福州ヘ行って何子峩氏にまみぇ、それから四方を回るつもりだったのだが、たまたま、蕪州 こうとしていた1昜恒1吾.氏力ゞ一﹁まず一^・村︹ノ\行き、ネ品州は後回しにしないかL一と中寺ち壮卜けてくれたため、私も一﹁名 つて名脳,の地を児'て回るのは、肖年に一﹂皮もないことだL一とi匡した。舟に同男モして^<溌}t工を潮り、^<の計1名1券 NY・禹陵・天童の諸旧蹟を歴訪し、杭州に帰って、 bi区︻ぎ司合で﹂二一御:に一方でつた。その岳セて、いくば、くもな を探訪し、しばらく一術に滞在してから、杭州に出、銭塘江を婆て、 くり丈﹁主まいしていたところ、叉身籠の功く久のことを開いたため、 くして福州の変が起こった。造船局が戦火を被り、子峩氏はかろうじて一命を保ったという。事には不可知の面があるわけで ある。 ' 原文六打廿一日︹五月廿八日︺過蔡同徳薬鈍促偶斎同発。二宮・高平︹芋ご・鳥田・今村︹勝太︺四姓、送至岸上。是 為呉減江、絵一籍江。揚<楊>君巳<已>在。舟長三丈餘、設案卓椅子、置臥林二所、窓巖務、扇日﹁皷浪長風﹂、極為 7諸僑﹂。中江且石為橋聖一所、頗為奇巧。過之原野 雅潔。船老叩鉦拝天、火紙丸、髪肴声。一烹告天之、枯。黄浦大江、大艦巨舶所繋。而旦軍X流、船隻候潮往来。両岸皆市 街、矗立高厘梨監燈・瓦斯燈・製絲・自来水諸機器所。一橋額日 北而天宇四埀、不見一山。帆走半日、潮落小泊。散歩岸上。有周太僕祠。・粧年問人。興水利有恩政、祠于此。凉風徐起 撃昂顕吠。始開蛙吉。 ︻注︼①二伶徳薬紗開穫の一ハハニ年に上海に器した老舗四渓力一篇。漢方の四火名店の一つ。②二呈アナ区﹂未詐。③﹁今村︹勝 ーフ9- 太︺﹂未詳。④﹁周太僕祠﹂道教の宮観﹁川沙三元宮﹂のこと。上海市川沙県にある。雍正六(一七二八)年創建。清代の松江知府、周 中鉱を祀る。現在、上一帶内唯一の坤道宮観。 訳文六月二十一日、蔡同徳一齢に寄り、暢斎氏を促して一緒に出発した。二宮・高平与一・島田・今村勝太の四氏が、岸辺 まで送ってくれた。川は呉泓江といい、俗に一籍江ともいう。楊氏はすでに来ていた。舟は長さ三丈餘、案・卓・椅子が設け られ、ベッドが二か所に置いてあり、窓にはガラスがはめられている。﹁皷浪長風﹂と横書きで書いてある。極めて備で清 潔である。語一が銅鎌を叩いて天を拝み、爆竹を燃やすと、はじけるような音盆Hいた。天を祭って架吹を祈る意味が込めら れているのであろう。黄浦は大河で、大きい象繋がれ泊まっているが、呉詮支流であって、船は潮の満ち引きに合わせて 往来する。両岸には市街が続き、高い建物が+峡し、嘉・ガス燈・製糸・水道などの機器所が軒を連ねているご儲橋と書 かれた橋があった。川幅の中ほど、三か所に石を醒上げて橋基としてあり、すこぶる巧みである。そこを過ぎると、原野が 広々としていて、大空が四方に垂れ、一つの山も見えない。帆走すること半日、潮が引いたので、しぱらく舟を泊めた。岸上 を歩いてみたところ、周太僕倫というものがあった。周太僕は班正年開の人で、水利を興して徳政を施したため、ここに祀っ たという。涼風がおもむろに起こり、薦が震えている。ようやく蛙の声が聞こえてきた。 原文廿二日︹廿九日︺晨起、泊在磯鎮。地宜綿与藍。一希葉五次、至築路而止。有一田共鳥似鷹而小、顎'。土人以 此鳥多鳴、為綿稔之兆。転出大江、国四江口。支流西疏、日白鶴江。石橋額日曹滕橋。官船牧砲、税往来賣船、臼抽鼈局。一 <轟鷲屯房﹂三字、日﹁官新鷲織置兵巡湿﹂。舟子日、﹁近有繋牛線柱者、為暹兵所檢、賄百<樟免﹂。張張帆、駛走 極快。已而雷起、駅雨傾盆鎖船窓j暗如夜闇。泊陸家浜。臥聞雨声、客懐捺一。 -80- 客悴懐妖C:、この辺り高適一﹁除,イ文竹L一の一﹁旅鯲寒燈独不恨、客心川41上云迹然﹂がF敦きこなった.ミ児か。 訳文二十二日、朝出発し、瑛畿に舟を泊めた。そこは綿轟お産地である。藍呈露まで、五回にわたって葉を商むと 11 う。変わった鳥かいた。鷹に似ているが、もつと小さく、鳴き声が人語に似ている。現地の人はこの鳥が多く鳴くのを吊がよ く実る吉兆としている。転じて大河に出た。そこを四江口という。西に通じるナ需を由鶴江という。曹滕橋と記した石橋があ る。砲を装着した官船が、往来する商船から税を徴収する。抽諸局とい、つ。﹁巡電房﹂の三字が標された建物がある。﹁お上が 新たに電線を設け、兵を置いて巡避させている﹂という。水夫が一言うことには、﹁近頃、電柱に牛ナ'いだ者がいて、暹兵こ wiハこなって付寸^凹を 1Ⅱいているうち、、つC)ニーΞ心、し、笊 取り締まられ、ひそかにーを贈って免れた﹂と。順丹帆を張り、劣速度纏かった。やがて雷が鳴りだし、需器を 金貨したため、"一イ文のよ、つに吉^<?暗になった。陸家浜に泊した。 の思いに包まれた。 jミ用、 鉦防他舟衝突。上岸観県城。蔓墓ル炯、満目一張哈楊君日、﹁血匪と乱、兵火一裟小、佃二完邑﹂。観石速立判凍,、高二丈キ、 原文廿三日︹三十日︺午晴。海望璽笠山翅旦告昆山。得一間橋、城壁吃然。此為琵山県。鳴鉦而進。凡舟至駅延鳴 : W高、門画璽、左右闌路。題﹁支門﹂二大字0 前列屏、樹鳥頭正門、閥開一丈二尺、白童一柱一等以瓦桶、築双閥一丈、在白重く南三丈七尺﹂、是也。過一壁門。此為新場県0 有聖廟、四器墻、熱凡裂一、標韓曾、劉零。黒得一密。 門内列朱牌、題﹁進士出身﹂﹁父子同科﹂等字、是為県庁。市人観余異服、前後群擁、使人不勝。帰舟午餐。自此江流砂漫、 -8]ー 田高水面四五尺、岸設水車、男女拙立踊車、一浜漆転旋、直濯田畝。范石湖所詠﹁龍骨車﹂、是也。此車極便涯枇而我チ所未見 W"甚。 得一市、日﹁婁門﹂。遥見女措綿亘雲表。此為一籍城。相伝伍子膏所城。周回四十二里城門水門各八﹁呉者賦]、イ通 抵笑亭。両岸皆市街、石闡理巽東西相対。過之泱然為湖水。此問村落、溝渠縦横、運搬耕具飯餉、皆用弓般穿溝与開路 一般0 門二八﹂、是也。就壁而南。萬舸幅輪、中流僅餘通舟餘地。仰見石橋智径直接城門、是為閣門。 ︻注︼①﹁W之乱﹂太平天国の乱のこと。奥匪は両広地城で蜂起した洪秀全らに対す急称。②﹁﹃五代史辻五代、すなわちル条.後唐 三九三)。号は石湖居士。⑤﹁伍舌﹂春秋時代末の策士。本名は員、舌は字。⑥﹁呉都賦﹂西晋の左思の 0 後晋・修渓・倫の歴史を記した正史。③﹁聴平﹂﹁白邑は正門の所に条れたこの構築物全体の名称と考えられる。④﹁范石湖﹂ 宋の范成大(三二六S -82- 魏・呉・罰三国の首都の繁華の様を拙いた﹁三都賦﹂のうちの一っ。 訳文二十三日、昼ごろ晴れた。はるか向こう、一つの業山頂に聳えている。その山を箟山という。ある水門橋に差し掛か るとt局くそびえたつ城壁があった。そこを兇山県という。銅鎌を鳴らLながら進んだ。凡そ舟は混み合うところに至ると、 銅鎌を鳴らして、他の舟から衝突されぬようにする。岸に上がり、県城を見て回った。つる草がはびこり人煙は立ち上ってお らず、満旦誤一としていた。楊氏否うことには、﹁噂匪の乱で、兵火に破壊されてしまい、担なわれていない村は一っもない﹂ と0 石碑が荊軌の中に立っているのをよく見てみると、高さ二丈ほど、棟木と株が三層になり人物花鳥か却まれている。こ れを名牌または坊牌という。最高位での科挙及第や節孝の表彰、いずれの場合もこの牌を立てることができる。﹃五代史﹄の 李自倫伝に﹁役所の歩廊の前に塀を列ね、鳥頭を正門に立て、功業を記した柱と柱の問隔は一丈二尺とし、烏頭の三柱の先端 る0 一壁門を過ぎた。そこからは新陽県である。聖廟があった。四周は垣で、棟瓦が高く、イバラが地面いっぱいに生い茂っ むながわら には筒瓦をかぶせ、門は一丈の高さで築き、その位置は鳥頭の南三丈七尺とする﹂という腔表式が載っているのが、それであ 子' ていて、廃屋のように静かである。一里ほどで一市街があった。衙署は南に向き、門には凶悪な鬼が描かれていて、左右に道 を遮っており、﹁韓門﹂の二大字が標されていた。門内には朱牒が並び、﹁進士出身﹂﹁父子同科﹂等の字が標されていた。こ れが県庁である。私の異服を見た住人たちに前後から取り巻かれるので、耐えられなかった。舟に戻って昼食。そこからは川 の流れが限りなく広がっていて、田畑が水面より四五尺高く、岸に水車が設けられていて、男女が並び立って踏む水車がくる 0 くる回り、田畑に氏でいた。范石湖が詠んだ﹁朔能骨車﹂は、これのことであろう。このような車は極めて纏瀛に便利そうだ が、我が国では見たことがない 笑亭に着いた。両岸はずっと市街で、石の水門が鳥の両券ように広がり、東西に相対していた。そこを過ぎると、胡水が 広がっていた。この辺りの村落には、溝渠が一瑞にめぐらされ、智、<や食事の運搬には、小舟を使っている。道を開くのと同 じように、満が掘られている。一っの市に着いた。﹁災円﹂とある。姫佰緊示の上まで続いているように見える。殊州城である0 伍子青か築いたと伝えられてぃる。周囲四十二里で、城門と水門が各々八っある。﹁呉都賦﹂の﹁門を通ずること二八﹂とは これを言う。壁沿いに南ヘ進んだ。たくさんの舟が幅帳し、川幅の中ほどはわずかに舟を通す餘地しかない。見上げると、弓 なりに曲がった石橋がそのまま城門に繋がっている。それが閻門。相当ににぎやかなところである。 原文廿四日︹閏五月一日︺移泊青門。此為城東門。子復目懸東門、是也。与楊君上岸観閻門。楼識<巍>峩、市鄭宏麗、 萬貨琳瑚、烱然肢目。唯街加契艦。弓徒尾客、横臭曾"。大為可厭。過一店、午飯。 璽云腎邑中人牙東洋鬼﹂。余日、﹁僕幸免此目。俣非有票之 一儒訪李梅生︹鴻高︺。凡訪人、坐嬌為礼。門者捧名刺、揖入堂上。塑出接。余出黎粒斎︹庶日昌書、一識来故。延別室 暢話。問草游馨、且日、﹁詣不易草。竹添井1 美、市人擁観、殆為渠所看醇梅生大笑。梅生年貌六七十、曾任監司、為当代名流。告老治庭園、名日悲園。泉石布置、幽 、 -83- 遼之致、-W之趣、余行天下所未目。 り 訪倭甫先生︹世︺。先生長老拠富学殖、文章著述、為一世之泰斗一撰﹃東需選﹄。故於我邦撰著、無所不渉問日東ナ 家、楊君挙狩屋般斎為第一、国﹁森養竹伝其学、為方今名家﹂。夫学豈考拠之謂乎。若日考拠服斎為第一、可也至挙養竹、 阿所好、亦甚矣。一循繁華大都、而奥匪乱後鼎市塲、鞠為茂草、壊糖廃礎、満目耶舛其復旧観、十小三四耳 S 一歳 一八八五)、字は眉生。﹁眉一と﹁初﹂とは、現代小国壽 ︻注︼①﹁f哀目懸東門﹂逃、1又けた伍舌は県子る前に、﹁京眼を扶り、呉の束門のーに懸けよ以て越の冠の入りて呉を滅ιすを 観ん﹂と言った。﹃史記﹄伍書列伝。②﹁李語璽冏ご李需全八三一 では県口。官は江蕪拡{祭使まで至り、官を辞めてから條州に移り住んだ。当哩に塗鬮か深く、詔と↓U文を弓意としたこのとき1h1 一八九七)。苅斎はその字。一八八一圷から駐H公使を務めた。④﹁竹江羽村三集厶岐雨邑 一九一七)は一八七1、修史局御用掛となり、森有礼に随行Lて渡沽、翌一八七六介Πび消国を旅行して、﹃桟 ③﹁北籍斎曾巳﹂黎庶昌(一八三七S 竹添井井(一八四二S 一談雨日記﹄を著した。璽辰雨日記﹄は一八七六年五月、北京を出発して罰に入り、さらに長江を下って.ノ河上海に至るまでの紀 兜.L一中国i吾における日木人に対.する匙杓;。(6)一﹁衛]子→L一晋の人。ヲ芝男子で、打,にt1,た時多くの人かC)見られたt、め、労﹂" と呼ばれるようになった。﹁鴇﹂と﹁蓬﹂とは、巾鼎Hが同じ。同治年闇の初めに六而高のものとなった。⑧﹁會ぬ南先生︹微︺﹂兪椒全 に椛って死んだという尋山﹄本伝)。⑦﹁蓮織﹂網則匝のこと。一博本に琴W途村に買し取られて改鮮され﹁樫剛﹂または﹁高↑ i↓闇^子正女を圧f 一ノエ、二五江戸時 一八八五)、養竹は森。江戸砺から明治にかけての医師にして、野乢学者 開設した。四)一﹁狩屋般斎L一一七七^S 代のぢ擧者。⑩﹁水韮竹黒立之(一八0七S 訳文二十四日、移って青門に舟を泊めた。この門を城東門という。子膏か目を快って東門に懸けたのは、ここである。楊氏 と岸に上がって間門霽市を見て回った。楼が高大で、店も大きく立派で、美しい玉のような沢山の商品が目にまぶしい。ただ -84- 通りはひどく狭い。乞食がついてきて、森なにおいおを衝き、いとわしい限りである。一軒の店に入り、昼食。 輪を雇って森生璽冏︺氏を訪ねた。凡そ人を訪ねるには、暫乗るのを礼とする。門業名刺を捧二ち、揖して堂上 に入った。梅生氏が迎えに出て来てくれた。私は黎一純斎︹﹂庶日国^氏の書簡を出し、筆で来,愆を述ベた。別室に案内されて歓談 した。梅生氏は、遊記を書いているかと問い、か?﹂、つ言った。﹁遊記圭国くのは大変だ。竹添井井が﹃桟中姦雨記﹄を著し たが、中国人は彼のことを東洋鬼と呼んでいるしね﹂。私はこう返した。﹁私はそのような目には遭っていない。ただ、私には 衛玲のような美貌などないのに、住人たちが取り巻いて、じろじろ見るので、ほとんど殺されかけている始末だ﹂。梅生氏は笑っ た。氏は年のころ六、七十くらい、かつ璽司に任じ、当代の名流である。老い五任して庭園を治めており、一倫の名を蓬 園という。泉石の布一直、幽達な有様二Wな趣は、私がこれまで天下を巡ってまだ見たことのないものであった。 兪一伶先生︹樋︺を訪ねた。先生は考証き長じ、希に富み、烹尋述において、一世畢斗であられ、かつて﹃東﹂静 選﹄を撰せられたので、我が国の撰きっいて、通じないものはない。先生が日東の大家をお尋ねになったところ、楊氏は狩 屋般斎を第一として挙げ、否餐竹がその学を伝え、方今の名家となっている﹂と説明したが、老'子だけが学問であろうか。 考証学なら肱斎が第一だと言うのは、いいとしても、養竹を挙げるに至っては、自分の好みにおもねり過ぎである。一蹄は繁 華な大都会であるが、奥匪の乱後、賑わっていた市場も、ことごとく草范々となり、崩れた垣に荒れ果てた礎、見渡す限り物 {叔しい光国発った。旧観を復しているのは、三、四割に過ぎぬという。 原文廿五日安一日︺擬買舟一游虎邱、以聖。将金口>雑陳在東所獲古江、把玩不置、日﹁此猶晋時筆法。宋元以下、 、、 無北致﹂。我邦南都学、及{蚕厳"、我郷中尊寺古ア五皆霊糖'画鞭。惜不使惺晤金巳一見。陳松泉︹寿 目巳来過。楊君旧知、在此知書局。 -85- 午後従暢貢業氏希。宏傑況、此間狩頓。中士街路局束<促>、僅得子。葢由稠密萬戸、限以城壁 不似我邦市井 在城壁之外也。奥匪之乱、委為荊軌、改設城市之制、此時為然夜聞人{玉鎌吹笙。婦女号泣。問之契死也。 ︻注︼①﹁虎邱﹂殊州市の小山。春秋時代の末期、呉王夫条父親を葬った所。②﹁紺地金泥﹂紺色に染めた誓金泥を用いて者いた経巻や 仏画などを一冒う。③﹁陳松泉︹寿昌︺﹂陳瓣昌。松泉はその号か。④﹁猫頓﹂春秋時代の吉崇。河東で判章業に従事し、巨万の富を得た としう 訳文二十五日、舟を雇って虎邱ヘ行こうかと思ったが、雨のため中止。惺吾氏が、日本で手に入れた古写経を並ベ、手に取っ て矯めつ沙めつし、こう言った。﹁これは晋の筆法を残している。宋元以後は、このような本物の趣がない﹂。我が国の南都の 諸寺や、安藝の厳島社、我が古里にある中尊寺の古写荏、いずれも紺地に金泥で、筆画が端正である。惺吾氏に見せてやれ なかったのが残念である。陳松泉︹寿日巳氏が来た。楊氏の旧知で、この希で書局を響している。 午後、暢斎に付いて、蔡氏暴舗ヘ行った。奥行きのある大きな店構えで、この地の猫頓である。中国は街路が狭く、やっ と築通れる程度である。思うに、市井が城壁の外にある我が国と異なり、たくさんの稠密な家々を、城響限っているため であろう。奥匪の乱で荒廃して後、改めて都市の制を設けようとしたというものの、まだ以前のままだった。夜、人家で銅釧 を撃ち、笙を吹き、女性が号泣している声が聞こえてきた。尋ねてみると、人の死を契しているとのことであった。 ノ、 原文廿六日︹四旦偶戈尋観盛氏留園。出閻門、南行二三里得一第宅。四匝垣矯、是為留園。園四五百畝、鷲至重畳、亭 W浬。標深遠以太湖五、飾幽遼以花并池沼、取製以諸名流肩額噸齢。塾文瓦為逕、俄石帖為壁畜孔雀騎<非忽謎禽以 -86- 雛籠。余前見李君蓬園、憐一、至是晤然自失。中士大国。奇偉壮麗、何所不在爲。観伶碑、日﹁園劉氏所關、奥匪之兵火、 此園独免。条盛氏、以劉留音同改称﹂。腎門外一店。見大官之過。輿馬係従、鳴鉦翻姉、可長擁、猶我幕府時列侯。雇 1L 嬌与暢斎訪沈器︹仲復︺・楊醒甫︹引伝︺・汪上舎(謬Y秦府雨︹三皆不在。 ;︺ ,一﹂ 晩与楊君赴陳松泉之遂。会者為柴一孫璽否・汪少符︹兆曾︺・文小披︹輝︺。楊尹護日東一事、満街然。余不解需、 療坐基方。因以為我俗席地而坐、食無案卓、器嵐床、服無衣裳之別、婦人湿歯、帯広蔽腰囲等、皆為外人所靜者。而中人辯 髪埀地、唯母烟甚食色、婦女約足、人家不設則、街巷不容車馬、皆不免樋者。未可以内笑外、以彼非此。抑我与中士同文隣域、 而猶異其風俗如此。況欧米遼遠、人異種類、宗教文字、氷炭相反者乎。而今.五洲往来、互訂友誼。此真宇内一大変。 一九一八)、小披はその号。内閣中書を務めた後、四十餘年にわ 書を善くした。中華民国成立後数年、七十肌顎で卒した。汪、文の両人は米詳。なお、﹁汪少符︹兆曾︺文小披︹悼︺﹂の部分は﹁汪少符 ︹兆︺鄭小城︹文悼︺﹂の誤りである可能業高い。鄭文悼(一八五六S に隠1舌Lた。詞金石、古:画、医学を善くした。(石)﹁衣裳之別L一本来、上半身に着けるものを﹁衣L一といい、下半身に着けるも のを匝という。その断。 訳文二十六日、偶斎氏の案内で、盛氏の留園を見た。閥門を出て、南に二、三里行ったところに、一邸宅があり、周りに垣 がめぐらしてあった。留園である。園は四、五百畝の広さで、墜室が折り重なり、亭・樹がくねくねと挟ている。太湖石で -87ー ^注^ 4)﹁留園﹂明の萬暦二十一(一五九三)年に建てられた。創建当時は﹁東園﹂と呼ぱれたが、その後、﹁劉園﹂と呼ぱれるようになり、 さらに同治十二(一八上己年尿康(一八一四S 一九0二)に購入されて以後、﹁留園﹂と呼ぱれるようになった。②﹁太湖石﹂峰・渓 画を善くした。楊引伝は江誓<県の人で、字は醒述(﹁甫﹂と同音)。﹁上舎﹂は清代の国子監の 洞などの形をした石。太湖から出る。③﹁沈廉や﹂沈仲復は、名は秉成。一八二三S 一八九五。仲程その字。帰安の人。靡訪は按察 使の通称。亥の厳少監とともに詩 上一」 。誹垂雲く子廻ウtから官詞机にかけての人、ノは、字は膚雨。詞曲が得,愆であった。(亙)、﹁陸雲孫S^陸打木念木、{子は雲孫。江芽^吊敦お人。 f【1' 深遠さを表し、花并・池沼で幽撞さを飾り、諸名流の肩額題聯で韻致を醸し出している。文様のある瓦を敷いて小道とし、石 帖を巖めて壁とし、肌籠に孔雀・窈翠など羽毛に文彩のある鳥を飼っている。私は一昨日、李氏の悲園を見て楞然としたが、 ここに至って髪首失した。中国は大国である。立派で壮脆なるものは、何でもそろっているのだ。際甫氏の碑文には、こう 書いてあった﹁園は劉氏の閥きし所にして、奥匪の兵火は、此の園のみ独り免れたり。盛氏に帰するに及びて、劉・留音同 じきを以て改称せり﹂。閻門外のある店で食事をした。高官が前を通って行った。車や馬、従名を従え、銅鎌を鳴らし茄を釧し、 前後を守られて、我が国の幕府時代の大名のようであった。幡を雇って、偶斎氏とともに論訪︹仰復︺・楊酬甫︹引伝︺・汪 上舎︹痩吟︺・秦眉雨︹.言の各氏を訪ねたが、みな不在だった。 晩に楊氏とともに、陳業氏の招きに応じて出かけた。そこで会したのは、柴一孫璽示︺・汪少符︹兆曾︺・文小披︹悼︺ の諸氏であった。楊氏が日本の事を一つ一つ話すたびに、満座がどよめいた。私は一需を解さぬので、傍らにぼうっとして座っ ていただけである。そのとき思ったのは、次のようなことである。すなわち、我が国では床に座り、食時の際、テーブルは使 わず、{誉時もベッドは使わず、服に衣裳の別なく、婦人はお望一をし、帯の広さは腰の周りを蔽うが、これらはいずれも外 国人に誇られる点である。一力、中国人は難次を地面まで垂らし、阿片を好み、食欲・色欲が甚だしく、女性は足を縛り、人 家に回を設けず、表通りも裏通りも車馬も通さぬほど狭く、いずれも醜さを免れぬものである。しかし、内をもつて外を笑い、 彼をもつて此れを非としてはならない。そもそも我が国と中国とは同文の隣同士であるとはいぇ、これほど風俗を異にしてい る。となれば、もつと遼遠で、人種が異なり、{示教も文字も氷炭相反するがごとき欧米は、なおさらであろう。にもかかわら 原文 皆人問有数者。已而酒出。鳳亥鶴焚、極海山之珍。中士富貴家、自奉聆貴。{秀県叉 廿七日︹五日︺膚聖談、贈其著二種。赴栫生之招、延至奥室。廻廊泡浬、庭院深沈、 文房器具、古香可掬。出示宝軸 ず、今では五洲の人々が往来し、互いに友誼を結んでいる。これは真に宇内の一大変化である。 美女1 -88- 帰途過顧艮庵、、、文彬︺。門陳粛清道臺翰林布政等朱牌、皆在官時所用。導観其所剛怡園。曲房埀阿、問以奇十汁異草、澄池虚潭、 ︺、リ 交以古木怪石。石大者二Ξ丈、巖賓四雙突怒恨塞、無斧削之痕。髪心飼孔雀丹鶴八為璽<禽。未知洛陽名園、有此壮麗否。 t は尿1力Ⅱ。﹂廷晒ξはその号.カ、。 i者,ーヨ、を上舌fEした後:、Ⅱ免 11F↓↑色禾ナⅡにj詞}り、寸一玉1子f劣ミ上弓し 乾隆帝南幸Ξ次、曾、﹁身為天子、不尋繞十導尽渓楽自由﹂。余歴観留鬨・蓬園・怡園三名園、始徴是言。 ︻注︼①﹁頗艮庵︹文彬︺﹂顧文彬(一八 1ノ て卒した。②﹁ゑ佃楽﹂柳発の 一に見える語句。(豆)一﹁洛陽S壮麗木ご.宋の李千台非の一﹁洛陽名園記L一をj屯1識したーそ現。 訳文二十七日、眉雨氏来談、その著蚕をくれた。柳生氏の招きに応じて出かけた。奥の部屋に案内された。回廊が曲がり 香;りが千に掬い河又れるほど薪ミれていた。、^玉軸数11重を出して見せ.てくれた。 ずれもこの世に有数のものであった。やがて酒が出た。まさに牙焼き物倫暴といったところ、山海の珍味を極めていた。 中国の一呉な{永は、自分の財布をはたいて自分を古契に見せようとする。本当に笹くべきである。 見を訪れた。門に一﹁刷す辻佰道古^瓢L一石で物オ木布政L一竹^寸の朱1卑力ゞ陳列されていた。いずれも右1官時に用いてい たものだという。自ら開いた怡園を案内してくれたf奥まった部屋や東屋は、珍しい草花で隔てられ、水の澄んだ池やその岸 の周りには、古い樹木や変わった形の石が交じつている。石の大きなものは二、三丈あり、穴があちこちに空き、勢い激しく 7身は天子たるも、"杭の十邸田 突っ立ち高く連なっており、小細工を加えた痕はない。彩色の施された籠には孔雀・丹鶴・<轟等の珍しい鳥が飼われている。 洛陽の名園にも、これほどの壮麗さがあったかどうか。乾隆帝は南幸すること三度、常に 翁の快楽と自由自在なのに及ばない﹂七言ったそうだが、私も留園・悲園・怡園の三名園を見て、はじめて﹂太をもつて納得 しえ三。 -89- 原文廿八日︹六日︺与楊君観張亭。与紫陽書院相対、門肩日五百名賢祠。有僧寺日大雲庵、池水漢、環大湖石作仮山、 ﹂、 穿洞而上下。大厘二宇、所掲聯額、呰名人↑畿。其右有名賢祠、刻季札・伍員以下五百人肖像、各附四憂。有三層楼、臨観 府城。蕪舜欽遷訥築是亭、後人相伝至今日。餘風入人者深矣。 , ' 赴畢保哉之饗。子、谷出接。坐客数名、皆文士。問此間勝地、日﹁范文正墓、距此半日程、今猶有義田宅。寒山寺在城四 乱後荒凉、無足観﹂。帰途過艮庵。出示東城謝表・松雪臨王帖・宋画・一繊像・{木人写経・{木刻﹁九成宮銘﹂。末附元明大家践 語。艮庵刻之園壁日怡園法書。贈一本。艮庵七十Ξ、容貌如五六十歳人、長島、今老林下。為将金巳旧知。 ︻注︼①﹁季札﹂春秋時代、呉の護王の第四子。②写舛欽﹂北宋の人。中央の権力倒争の犠牲になって官位を剥奪され'州に隠逝し、 四萬銭で滄淫二もと五代中条の節度使孫承石の池館。その後、荒れ果てた)を買って、そこ除生を過ごした。③﹁襟誌﹂一ハニ - 0五二)。宋の名臣。碑州呉県の人。字は希文。文正二。⑤﹁詣宅一公共のための田地や住宅。范仲淹は晩年、 くの人。編,参、江殊蕪州﹂附知府を務めた。潘存原輯、イ昜守敬編^1皆法捌源﹄(一ノ{、七ノミ、年)に序を邑1いている。(ー)^苹父正L 范仲沌(九八九S 一生倫えを子孫に残さず、郷里尿州に広く義田や義宅を設け、困窮した人々を救ったという。⑥﹁翻表﹂臣下が沿主の恩遇に対する 1皆啓を与女ぶ時の 感謝を述ベる'。⑦﹁笛臨王帖﹂松雪道人は、詩人で習画にも巧みであった元の黒類の号。⑧﹁九成宮銘﹂九成{乎曾水鎚九成宮 N円ゾ辻ル唯0 泉ノ、村、い泉、ノカゞ湧き出したのを肩己念:し、太宗の徳︹をたたえるため女Eてられた祈鄭に刻された銘。古、来、 三L 住 り 町 訳文二十八日、楊氏と滄浪亭を見て回った。紫陽書院と向かい合っていて、門に﹁五百名賢祠﹂という肩梨懸かっている。 大雲庵という寺があり、池の水がいっぱいに満ち、太湖石をめぐらして築山としてあり、穴を通って上り下りする。大きな建 -90- 物が二っ、掲げてある聯額は、みな著名な人物案単ある。その右に﹁名収貝祠﹂というものがあり、季札・伍員以下五百人 の肖像が刻まれ、各々四言の賛が附してある。Ξ層の楼がありご磯を見下ろしている。眛'談な詣されてこの亭を築いた と、後人が相伝えて今日に至っている。餘条深く人に染み込んでいるわけである。 畢保楚氏に食事に誘われていたので、出かけた。子の嘉樹氏が出迎えてくれた。座っている客は数名、みな文士である。こ の地の勝地を問うと、﹁范文正の墓が、ここから半日ほどの道のりで、今も義田宅がある。寒山寺は城西にあり、乱後、深と して、見るに足るものはない﹂とのことだった。帰途、艮庵氏を訪ねた。艮庵氏は東岐の謝表、松雪の臨王帖、宋画、一淡像、 宋人の経、{断の﹁九成宮銘一を出して見せてくれた。末尾に元明の大家の践語が附してあった。艮庵氏はそれらを園壁に 刻しており、怡園法主臼という。一本をくれた。艮庵氏は七十三というが、{谷貌は五、六十歳の人のように見えた。官は貴顕を 経て、今は隠居して老後の生活を送っている。惺吾氏の旧知である。 ヨ 原文廿九日︹七日︺眉雨与其友潘祭︹錘瑞︺来訪。祭贈﹃庚轟"巡。紀,罷陥一靜'家属遁乱。一穫鼻。奥匪 陥十六省・三百州・六百城、乱亘十五年、保金陵十二年、繁口将¥以百萬数。曾文正背冬契挙、翌<弟国茶復金陵。李中堂 自上海、長袈籍、左元帥入杭州、復両漸<漸>琵二省。中士有今日、実由此二三公之力云。 .5 蔭甫先生来報。余一窮措大。而先生名位徳望冠絶一世。而先生不敢部棄、杠問答礼。此亦可吐気矣。一言及為学之方。先生 日、﹁文章一道、固無中東之分。吠咲叟講学、須先照紺門逕。不用意于此、則工夫亦詮了。露糞国詩。難未足以尽貴国 之長、頗足以除貴国之短。露問軌途、必無大庇病。経学須上法漢唐、一壽文、則不必拘泥。然而多読古書、則杼叙性霊、墓 写景物、気味自別﹂。皆開讐裏1壽。 晩間散歩闇門外。橋側見弓徒儷死、及刑人頸穿力板二三尺許、踞路左、乞銭食莱、恬無差色。 -91- ︻注︼①﹁謡生︹鍾瑞︺﹂聳瑞(一八二三S 一八九0)。消朱の官吏、 一八九0)、字は喫(麟)生。﹃海上里迎巻一一にょれぱ、﹁呉県人。諸生。作防馨、詫靡匹。 S一八七二)。文正はその詮。③﹁其弟国茶﹂曾里(一八二四S 一八八五)。清末の政治家、革人。⑤﹁靴﹂﹁来訪﹂最りか 長於金石老証﹂。②﹁曾文正﹂曾鼎(一八三 災。 ④ ﹁ 左 元 帥 ﹂ 左 { 黍 ( 一 八 ご 一 S 訳文二十九日、廟雨氏がその友、潘整︹鈍瑞︺氏と来訪。麟生氏から﹃庚申麗苗巡の賠呈にあずかった。奥匪が籍を 陥れた時、家族を連れて乱を逃れたことを記したもので、一毓して蟹"である。奥匪は十六省、三百州、六百城を陥れ、乱は 十五年にわたり、金陵を十二年間保ち、何百萬もの無棄の民を殺害した。曾文正が義勇軍を募って大挙し、弟の里を派遣し て金陵を回復させた。また、李中堂が上海から長駆して蕪州を回復し、左元帥が杭州に入り、両漸・福建の二省を回復した。 中国に今日があるのは、実にこの二三公の力にょるという。 サ伶先生が来訪。私は貧しい害生であるのに対し、先生は名声・官位も鰐主も、一世に冠絶しておられる。にもかかわらず、 先生は私を郡棄されず、杠げて訪問し依口礼してくださった。気を吐くことができたと言える。学をなす方法についての話になっ た。先生日く、﹁文章の道には、もともと中・日の区別はない。とはいぇ、文を論じ学を誠ずるには、まず乎がかりをはっき りと見定めるべきである。この点に意を用いなければ、せっかくの努力も誤った方向ヘ進んでしまう。以前'只国の詩を選ん だことがある。貴国の長を尽くすところまでは行かなかったにせよ、貴国の短を除くには十分であった。これを基準にして道 筋を問えば、必ず大きな庇はないであろう。廷子は漢唐にのっとるべきだが、詩文は必ずしも何かに拘泥するには及ばない。 とはいうものの、タタく古籍を読めぱ、心を述ベ表すにも、景物を模写するにも、気味がおのずから際立ってくる﹂。いずれも 学をなす際の甘苦を嘗めてきたところから出左呈であった。 晩に開門の外を散歩した。橋の傍らに、行き倒れになった乞食の死体があった。また、首に二三尺ほどの四角い板をはめら -92- れた受刑者がいた。道端にうずくまり、物乞いをして得た金で物を食い、恬として蓋じる様子がなかった。 原文Ξ十日︹八日︺朝雨。訪蔭甫先告別、且請反棹日、受教門下。先生一荏事、問何所帰着。余日、﹁小人無当世。所 呈法米二砧﹃尊碆輩﹄、是也。後悟此事有命、且天下之妥非一書生所能了、甑総念于此、以曾業、為.先生析然日、 ﹁書史為遣老之具極是人生楽事﹂。 与偶斎及濯、往観獅子林。為爲一林旧顕。鼎且積大湖石、牧占W裏。一劣窟室妹為峰難。屈曲通逕、.司以登降。石大名二 1諸桃 Ξ丈、如郷女、如鷹隼、如倦仏、如夜叉、虎踞税墫極璽叫之妙。門肩日真趣、壁デ刻康廓帯留題詩。而奥匪乱後、亭樹楼閣、 破梦不理、名沈勝蹟、漸怨徒為可加倫。 帰途観円妙観。架竺層、隆起聳天、仏像大二丈許、銭塘大商胡雪巖所再建。茶肆聖Υ、左瓢永列、呑剣*竿・ 戯、無一不有。士女衛架、極為親一。雨起、条ノ而還。街路塾石、石面鋸紋、防滑沢。或{県瓦碑、為凸状。故難雨不病泥淳。 唯病路太 狭 爾 。 楊君以官有程期、期明晨発此反棹。燈下話別、日﹁<淡W方、而交遍地織。子不求当世、而多饗待。両人身世、何爾相 。此行、速月共寝食、忘形爾汝、使人杏然為対虐ノ\虚\ノ舟之念。子終是游、湖長江過余黄州寓。盆桓一月、共話平生心亊。 而後、一帆度海。余日夜懸楊以待﹂。又為余作書、奨4半名人。夜半移乗也拾。籬緒凄然。 ︻注︼①﹁業二誌・マ暴紀亊辻法米念は﹃倫西志﹄と﹃米利堅戸前名はフランス史。丁八七八年に刻成り、野姿から上梓。票題 には﹁猶里氏凉畏倫西志﹂とあり、下編竺熊述、里仭刑定﹂と四れている。﹁M﹂はジユリー'橋の学ところにょれば、 フランスのジユリーの﹃論史要﹄全八六六年)・一近代史略﹄(一八六九年)・一法国史﹄(一八0七年)の三゛取り、その要領を訳し -93- て一編とし、鹿門が剛定を加えた。後者は格堅扶(カッケンブろが原著者。一八七一年頃、河野筌汀(通之)と共訳。一八七三年に光 啓社から上梓。﹃尊希事﹄は、ペリー来航から大政奉還までを祭し条未・維新史。一ハハニ年刊。②﹁獅子林﹂硫州の拙政園のす ぐ南にある庭園。籍四大庭園の一つ。③﹁俔雲林﹂俔讃。元末四大画家の一人。森子がその号。④亘区石碑を粳之〒。⑤﹁円妙 一八八五)。雪巌はその字。清末の実業家。 観﹂道教寺院。晋代に真慶道院として創建され、その後、元代に玄妙観となり、消代に聖祖の諒を避けて円妙観と改称された。⑥﹁胡雪 巌﹂胡謡(一八二ΞS 訳文三十日、朝雨。一陰甫先生を訪ねて辞別し、﹁一循に帰ったら、門下に入り、教えを受けたい﹂とお願いした。先生はフ めい ランスとの事を心配され、どのように吐耕するだろうかと尋ねられた。私はこう申し上げた。﹁私は当世につい需るのが好 きだった。献呈した法米二,マ暴紀事﹄は、その所産である。しかし、その後、こうした事には命があり、かつ天下の事 は、一書生の手に負えるものではないと悟り、断然そこには念を絶ち、以前の事業を温めることを事としている﹂。先生は析 然として、おっしやつた。﹁史を書くのは老後を過ごす慰めとなり、人生の楽しみとしてこの上ない﹂。 、 暢斎氏及び濯と、獅子林を見に行った。獅子林は俔雲林の旧蹟である。園は太湖石を積み重ねて、景色に彩りを添えている。 穿たれた地下室もあれば、從〒える峰々もある。小道が屈曲して通じており、登降することができる。石の大きなものは二、三 丈あり、蝦蟇のように見えるもの、鷹や隼のように見えるもの、仙人や仏のように見えるもの、夜叉のように岡ルえるものが 虎や唐獅子のようにうずくまっており、布置の妙を極めている。門の肩額には﹁百延とあり、碑亭には康邸帝か留絵した 詩が刻まれている。しかし、尋匪の乱後、亭樹楼閣は破壊されたまま、修理されていない。名流の遺跡がしだいに荒廃に帰し ていくのは、深く惜しむべきことである。 帰途、円妙観を見た。三層倫で、隆起して天に聳えており、仏像は二丈ほどの大きさである。銭塘の大商人、胡雪巌の再 誓係る。茶店や酒屋が左右に張、呑剣'竿のぼり・猿回し等、いろいろな雑戯をやっていた。男も女も業り集まり、極 -94- めてにぎやかである。票降りだしたので、速足で邑た。街路には石が敷かれており、石の表面の鋸傍凹凸が滑沢を防 いでくれる。密に瓦と煉瓦が埋められて凸状になっている所もある。そのため、雨が降っても、鰄"に脳まされることがない。 ただ、道があまりにも狭 い の は 困 っ た も の で あ る 。 楊氏は、官に任期があるため、明朝、船でここを発し蚕州に帰ることになっており、燈下に別れを語り、次のように言っ てくれた。﹁私は四方に漂泊し、多くの貴顕や紳士と一藤した。一方、あなたは世に用いられることを求めていないが、名士 1旻t工を測ーリ、私の黄州の{晶見}に に賓客として待遇してもらつている。両人の身の上は、何とよく似ていることか。この旅は、連月、{饗を共にし、形を忘れ、 つような仲になり、虚、心、畑一懐のし、ふを1包くようになった。/入マ回の方kを奴RえたC)、 来て、一月逗留されよ。平生の思いを語り合おう。その後、海を管て帰国したらよろしい。日夜楊を呼艀て待っている﹂。 そして、北京の名士ヘの紹介状を書いてくれ、夜半、移って私とは別の船に乗った。別雜の寂しさがこみ上げてきた。 原文七月一日︹九日︺傑。辰牌解績。回観城鞭映水袈糊之中。頗為佳観。 N門・見渡二橋。群崟腕挺、天末拓翠。 為呉中諸山。観軍営。列楼櫓、戎士数百、出門外警ハ。前為槍隊、M器隊。腔旗翻繰、旗卒居丘ハ京玉猶我甲越軍制。自是江 流湛、石橋祓水心、亘三三里。肩日宝帯橋。此問橋梁、甃石成門、以通行舟。我邦所謂毅継好。而宝帯橋穿門五十餘、為 最鍾工。暹望七長見為呉江旧ポ。 暮泊松陵鎮。上岸観一叢祠。神像供具、無異我邦。唯聯額烱然為異耳。隣舟有宵<{旦吹毒烟、妖臭稔一、終夜不准。 ︻注︼①﹁辰胤﹂午前轟から九時までの二時間。②﹁緩耕﹂霊橋。アーチ橋。 訳文七月一日、繋*つていた。辰の刻に績を解いた。見渡せば、模糊とした需の中に城壁が掩映している。素晴らしい眺め -9 - である。呉門・見渡の二橋を過ぎた。峰々が蜘挺と連なり、空の果てに翠の線が引かれているように見える。呉の山々である。 軍営には物見やぐらが連なり、数百人の兵士が門外に出て臂ハをしている。前か槍隊、後ろが銃隊で、腔旋か翻っている。旗 士が丘余十の半ぱを占めるのは、我が甲越の軍制と同じである。この辺りから川の流れか広くなり、ニ、三里にわたって一鳥が 架かっている。宝帯橋と標された橋があった。この地の襟木は、門の形に石を積み重ね、行き交う舟を通している。我が国の 所如嬰継重ある。宝帯橋は門が五十鯰牙たれていて、最も大きい。暹か向こうに七層の蹴見える。そこからは呉江県であ る。 日奪れて、松陵鎮に泊した。岸に上って、林の中にある祠を見た。神像稲られていて、その点では我奇と異なるとこ ただ、対.瑪1の史、かれた盆頁力ゞまばゆく華やかなのは異なっていた。隣の舟.に智<官かいて、阿片の央垂をⅡ士いていた。 ︹十日︺平明舟人躍、日﹁説発舟﹂。輯竺一逸戸。暁器斂、四朗重廓、見旭日出撃一芝間。唐邑歎乃 妖しい臭いが紛然として 、 終 夜 絶 え な か っ た 。 原文二 H 一声山森一者。正午抵平望。希隆起Ξ四丈、上誇回望。市人塑、皆呼東洋人。内是湖沼永荏。一橋日長虹、一聚 2 一秀王江淫。此為江漸二省分界。往往見脚傍,"峯之中。偶斎旦王発本為此問名邑。余少時従洋人来此、冒郵絲。奥肝 乱後、流亡昇尽。自此至嘉善、兵禍尤惨、良田沃土、尽皆汚莢。官新移四方浮戸、従事開墾﹂云。 日噂泊姦ヘ観杉青園。有帆影・一枇一吾〒、為宋代勝蹟。名人哨詠、壁無餘地。堂安李内像、日面王酒戸。故祀青誓 問陸贄・曹彬祠、日﹁陸祠乱後未復、曹祠在南門外、己<已>復旧観﹂。与暢南一店。河色如昼。 ︻注︼①﹁歎乃一声山森﹂禦元屡羽﹂の第四句。②﹁暢﹂掛札、張のこと。しかし、それでは﹁聖蔓草と中﹂という揣写と合わ -96- ないから、﹁牌坊﹂終りではないかと疑われる。﹁楞﹂は本稿六月廿三Hの条に見える﹁坊牒﹂と同じ。③足戸﹂士着でなく、籍の 定まっていない者。④﹁杉青園﹂一読史力輿蛋﹄巻九十一﹁嵐ハ・府﹂秀水県の条に載る﹁杉青堰﹂のことと考えられる。⑤﹁姦﹂青 蓮居士は李白の号。⑥﹁陸贄﹂唐、昧州嵐お人。その奏議を録し食'基奏議は政占として有名。⑦﹁曹彬蚕寿(河北)の人。後周 北宋の軍人、北宋建国の元勲の一人。 訳文二日、明け方、水夫が﹁帆を揚げ、舟を出すぞ﹂と大きな声を挙げた。起きて苫を上げてみると、朝舗も治まったとこ ろで、月袋す限り広々としており、朝日が薦の問から昇ってくるのが見える。唐詩の﹁效乃一声山水緑なり﹂といったとこ ろである。正午に平望に着いた。石橋の隆起は三、四丈である。橋に上って眺めてみた。群がり集まった住民たちがみな、﹁東 洋人﹂と叫んだ。そこからは湖沼が広がっていた。長虹という名の橋があり、王江淫と呼ばれる架落があった。ここが江・漸 二省の分界である。往往、つる草の中に牌袴の從耳え立っているのを見かけた。暢斎氏が一言うことには、﹁王江淫はもともと、 この辺りの名邑だった。私は若い時、西洋人に従って、珀累を買いに来たことがある。しかし、奥匪の乱後廃れて、ほぼだめ になってしまった。ここから嘉善までの一一価は、戦禍がきわめて枯だしく、良田も沃土もみな荒れ果ててしまった。お上が近 年、四方の浮戸を移住させ、開墾に従事させている﹂云々。 日が暮れて、嘉興に泊した。杉青園を見た。帆影・落帆の二亭があり、宋代の旧蹟である。著名な人物の題詠で、壁には餘 す所がない。堂には李白の像が置かれている。﹁園主が上戸であるため、青蓮を祀っているのだ﹂ということだった。陸贄と 曹彬の祠について問うたところ、﹁陸祠は乱後まだ修復されていない。曹祠は南門外にあり、すでに旧観を復している﹂との ことだった。偶斎氏と、ある店で酒を酌んだ。昼問を思わせるような月色だった。 原文三日︹十一旦見Ξ大塔。日龍王廟。劣司禁白﹁報国尽墨四大字。知其為織祠。一愆日﹁東披三過題詩処﹂。 - 97ー i 披集有﹁三過本覚寺文長老﹂詩、是也。問本覚寺国、﹁廃己<已>久﹂。一語空日摸辰橋。有僧希下、唱髪銭。此橋或 僧聳か縁所建。抵石門県。伝為勾践築石門防呉兵処。就壁左折、泊東門下。見輪船竺大艦、載大官駛走。江漸二告、自上海 血新、卓新西、経太湖而出長江、東経杭州而至寧波。、河流四達。芦硲船、以資商旅、通心鉦、天賦形勝、一変為陸海也 必矣。聞政府亦有此談而恐失業細民'獲生事、不行。姑息亦往。 ﹁秀州帳本禅院郷僧文長老方丈﹂﹁夜至、輩文長老院。文時臥病退院﹂﹁過永楽文長老院已 ^注^①﹁武穆﹂岳飛の論。(Z)﹁﹁三過本覚寺文長老﹂詩﹂碑軸に三度にわたり秀州公ソの漸江省嘉興県)の机木神院(本覚寺)の文長老(長 老は住職の敬称)を訪れて詠んだ三首昇1 卒﹂がある。それらをまとめて、こう称したもの。 訳文三日、三大塔を見た。龍王廟という名である。傍らの祠は、壁に﹁穀国尽忠﹂という四大字が書いてあったから、武穆 "ということが分かる。﹁東城三たび過りて詩を題せし処﹂と標された橋があった。東披の集に﹁三たび本覚寺の文長老に 過る﹂という詩があるが、それにちなむ所であろう。本望寸について問うたところ、﹁廃れて久しい﹂ということだった。空 に跨るほど隆起した橋があった。摸辰橋という。橋の下に立って、経文を唱え曾乞うている僧がいた。橋は僧徒が浄財を募っ て建てたものかもしれない。石門県に着いた。勾践が石門を築き呉兵を防いだ、その場所と伝えられている。壁沿いに進んで 左折し、束門の下に泊した。汽象二隻の大きな船を繋ぎ、高官をfて走っていた。江・漸二省は、上海から一鈴ヘ進み、 一籍から西ヘ向かえぱ、太湖を経て長江に出るし、東ヘ向かえば、杭州を経下寧波に至る。そのように、河染四方に通じて いる。もし汽船を浮かべて、商人に資し、水運を通じたならぱ、天賦の形勝が一変して物産の血呈品な陸地となること必定であ る。聞くところにょれば、政府にもそのような八張があったものの、失業中の細民が序桜して事が起こるのを恐れ、実行しな かったという。姑息なること甚だしい。 -98- 原文四日︹十二日︺見一石博起半天'船希。東忠二山。大為臨平、小為半山。自上海至此、琵山.虎邱、不過一音 K光Π 而七硫湊合地 儒平真O 域、唯此二山隆起、稍強人意。過龍光橋。器日、﹁前程九里古業郵、此処一名落瓜堰﹂。所在橋主、皆題爺句0 名、極為 妙 擶 。 午牌至塘西。両岸皆市街。二石開屹立、挟市街、為郭門吠。自此以南、称武林又虎木。以音近有此二尓0 錚、萬象包砂、斐荷叢生、路鰐群集、修然有真趣。宋人詩好詠臨平風景。今始知其抄尽0 暮泊一漁村。日謝村。杭州距此猶二十里餘。 こ 訳文四日、空の半ぱまで盛り上がるほどの石橋を見かけたので、船をつなぎ止め、登ってみると、東南の方に二つの山が見 えた。大きいのが臨平で、小さいのが半山である。上海からここまでの闇、崖山やだ邱は卜高、丘と、、つ呈度に過ぎょ、0 b処 名落瓜堰﹂とあった。どの橋柱にも対聯の句盆白きつけられているが、この対傑地名を一つに合わせて、て、亟めて の二山だけは隆起しているので、なんとか納得できたような気がした。龍光橋を過ぎた。題爺に﹁前呈九里古の巣郵o 1 巧みである。 Kの光が亮のように、 正午ごろ、塘西に着いた。両岸にはずっと市街が広がっている。二つの石の水門が吃立して市街を央み、町のーのようになっ ている。ここより南は、武林または虎林と称する。音が近いため、二称があるのである。臨平真に属すO 萬象かその影をさかさまに映し、菱や蓮が叢生し、鷺や梨群集し、本物の趣がある。宋人のーに子んで臨平の鳳景ゞ永まれ ているが、今初めてEその織奈くされていることが分かった。 日か暮れて、謝村という一漁村に泊した。杭j十1はここからまだ二十里餘の五航である0 -99- 参考文献 魏源薯、興亜院政務部訳﹃袈記﹄(生活社、一九四三年)。明治文.集4 ﹃成島柳北服部袈栗え鋤雲 単行本三箇功﹃阿片の話﹄(南満洲鉄道庶務部調査課、一九二四年)。対支功労者伝記"谷編輯兼発行﹃対支回雅録﹄下巻 全九三 六 年 ) 0 1務.山本和義﹃ル卵城 集﹄倉津書房、一九六九年)。﹃明治過去帳<椴人名輔ご(棗美術一九七一年)。石山語編茗﹃中国契諾<﹄(国 書刊行会、一九七四年)。小川環樹・山本裂﹃一業岐詩架﹄第二冊(筑摩書房、一九八四年) 詩集﹄第三冊(筑墜印房、一九八六年)。下中彌三郎編戸朝東洋歴史大諾<﹄(愉刀舌店、一九八六年)。中国国{秀文勃事業 管理局編、鈴木博訳﹃中国名勝旧跡事典﹄(ペりかん社、一九八六年)。京大東汗史辞血尋女会編﹃東洋史諦<﹄(卵京創元社 一年)。中村元・福永光司.田村芳朗. 4野 一九九0年)0 朝日新聞社編﹃朝日日本歴史人物事典﹄(朝日新開社、一九九四年)。張治国彬﹃最羽中国地名事典﹄(日タア ソシエーツ、一九九四年)。木苅外﹃呪歴史文学集﹄第四巻含石馨店、二00 達・末木文美士編﹃岩波仏教詑<﹄第二版(岩波書店、二00二年)。三浦叶﹃明治の碩學﹄(汲古書院、二00三年)。陳玉 希著﹃中鼎現代人物名号大辞典(全編増訂工(漸江古籍出版社、二00五年)。富田仁編﹃新N袖海を越えた日本 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