日本語版の序文 - 東京大学出版会

日本語版の序文
日本の科学者,医師,公衆衛生の専門家は 20 世紀から今世紀まで,世界
的に問題となっている寄生虫感染症および熱帯感染症の研究において,常に
第一線で活躍し,多大な貢献をしてきた.たとえば第二次世界大戦終結後の
30 年間で,日本は集団薬剤投与や清潔な水の供給,環境コントロールに統
ぜんちゅう
合的に取り組み,また経済発展を積極的に進めることで,マラリアや蠕 虫
感染症などの顧みられない熱帯病(NTDs)を排除できることを初めて証明
した 1.NTDs の発症は貧困の結果であると同時に,NTDs 自体が貧困の原
因ともなっており,1950 年から 1980 年に至る戦後日本の飛躍的な経済発展
は NTDs の排除によるところが大きいと考えられている 1.NTDs を排除で
きることを現代の「概念実証」として初めて示したのは,さまざまな点にお
いて間違いなく日本政府と日本の科学者であった.
日本の科学者や公衆衛生の専門家は,日本固有の寄生虫感染症と NTDs
との闘いに向けて対処していく過程で,多くの知識と経験を蓄積したが,そ
れらは 1990 年代には「橋本イニシアティブ」〔1997 年の G8 サミットで橋本龍太
郎首相が提唱した国際寄生虫対策〕 を通して,さらに 2000 年に発表された沖縄
感染症対策イニシアティブを通して,低所得国に伝えられ活用されてきた 1.
日本政府はミレニアム開発目標設定後の 2002 年に設立された世界エイズ・
結核・マラリア対策基金においても,方向性を示すリーダーとして重要な役
割を果たしている.
日本は NTDs に有効な公衆衛生対策に限らず,NTDs の研究開発でも第
一線に立ち続けている.日本は世界に先駆けてアジア型の住血吸虫症の排除
に取り組んだだけではない(日本での感染例の報告は 1977 年が最後であっ
た)
.日本の桂田富士郎教授は 1904 年に日本住血吸虫症を引き起こす日本住
血吸虫を発見し,病原体であることを特定した.また,日本住血吸虫の生活
環全体を明らかにしたのも,巻貝が中間宿主であることを発見したのも日本
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人科学者である 2.日本の科学者の素晴らしい功績の中には,たとえば,小
はる じ ろう
こい の しめす
林晴治郎(1915)の肝吸虫の第二中間宿主の魚類の発見,濃野 垂 (1922)
ひさきち
による回虫症の幼虫の肺移行期の発見,松林久吉ら(1959)によるヒトの微
胞子虫症の初めての報告などもある 3.また 2014 年は目黒寄生虫館が『日
本 に お け る 寄 生 虫 学 の 研 究 』 第 1 巻 の 英 文 版(Progress of Medical
Parasitology in Japan)を発行してから 50 周年という節目の年でもあった 4.
私が本書,Forgotten People, Forgotten Diseases(忘れられた人々,忘れ
られた疾患)を上梓したのは,大学生や大学院生をはじめとする教養のある
一般の人々に,グローバルヘルスと,世界各地で発生している主な NTDs
の経済的影響について意識を高めてほしいと思ったからである.またこの恐
ろしい貧困病をいずれ対策,あるいは排除できる可能性についても知っても
らいたかったからである.NTDs の対策や排除を実現するためには当然のこ
とながら,NTDs のための治療薬や診断薬,ワクチンなど,たくさんの新し
いツールを研究し,開発していく必要がある.
こうした観点から私はここで,日本政府が将来を見据えてグローバルヘル
ス技術振興基金(GHIT Fund)の設立に加わり,産学それぞれの新世代の
科学者が研究開発に取り組むことを奨励,支援していることに感謝の意を表
したい 5.GHIT Fund は,NTDs,マラリア,結核のための新しい技術の発
見のために,日本の国内と海外の組織が新しいパートナーシップ(非営利の
製品開発パートナーシップ[PDP]など)を締結することを後押ししてい
る.その成果として,すでに日本の研究機関と共同で新たな製品のための強
力なポートフォリオが作られつつある.GHIT Fund はわずか 2 年で,数十
の新しいスクリーニングプログラム〔Screening Platform: 病気に効果を発揮する化
合物の探索に関するプログラム〕や「ヒット・トゥ・リード」プログラム〔Hit-toLead Platform: 探索で見つかった化合物[ヒット化合物]を改良し,最終的な医薬品によ
り近い化合物[リード化合物]にする研究に関するプログラム〕を推進し,また同時
に多様な医薬品やワクチンの開発も進めてきた.
優れた日本の科学が NTDs やマラリア,結核に関する研究開発に向けら
れ,今後数十年が病気と貧困と闘うための成果の時代となることを大いに期
待している.
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GHIT Fund の設立に対する感謝の意を込めて,日本政府と日本の皆様に
この日本語版を捧げる.臨床寄生虫学および熱帯医学に携わってきた日本の
科学者たちのこの数十年間の実績に対しても本書を捧げたい.また GHIT
Fund の黒川清氏(会長)と BT スリングスビー氏(CEO)には特に感謝を
申し上げる.最後に,このような素晴らしい日本語版に仕上げてくださった
東京大学出版会にもお礼を申し上げる.
ピーター・J・ホッテズ
注
  1. Takeuchi T, Nozaki S, Crump A. 2007. Past Japanese successes show the way to
accomplish future goals. Trends Parasitol 23: 260−267.
  2. Tanaka H, Tsuji M. 1997. From discovery to eradication of schistosomiasis in
Japan: 1847−1996. Int J Parasitol 27: 1465−1480.
  3. Cox FEG. 2002. History of human parasitology. Clin Microbiol Rev 15: 595−612.
  4. jsp.tm.nagasaki-u.ac.jp/en/modules/tinyd0/index.php?id=1〔英語.以下で和文・英
文が公開されている.kiseichu.org/Pages/books.aspx〕
  5. ghitfund.org
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