安房妙本寺文書の古文書学的研究︱特に無記名文書の筆者特定

安房妙本寺文書の古文書学的研究︱特に無記名文書の筆者特定について︱
A Diplomatical Study of the Archives of Awa-Myohonji Temple, with
Special Reference to the Author Identification of Anonymous Documents
SATO
佐藤博信
Hoyo
Hironobu
坂井法曄
SAKAI
要旨
本稿は安房妙本寺所蔵文書について、古文書学の視点から研究を行ったものである。特に無記名文書の筆者について、内容はもとよ
り、筆蹟・花押を照合することによって特定する手法を多用した。このたびの研究によって多くの無記名文書の筆者が明らかとなり、妙本
理するかなど、新たな問題が生じたことも事実である。
て、文書の真偽問題、判断することの困難な正文・案文をいかに処
籍との関係を明らかにしなければならない。また編さん作業を通じ
にも、豊富な典籍︵約六〇〇点︶があって、今後、これら文書と典
ただ﹃県史﹄を評した、川添昭二氏︵注2︶や、千葉県文化財保
護審議会︵注3︶の指摘するように、妙本寺には、右の文書群の他
全容が、ほぼ明らかにされたことになる。
寺歴代住持の事蹟や支配者の特定につながる成果をおさめることができた。
はじめに
平成十三年三月、財団法人千葉県史料研究財団編﹃千葉県の歴史
﹃県 史﹄ と
資料編
中世3︵県内文書2︶﹄︵千葉県発行。以下、
略記︶が上梓されたことにより、房総の古刹、妙本寺︵鋸南町吉浜︶
の研究は飛躍的に進展した︵注1︶。﹃県史﹄に収録された妙本寺所
蔵の文献は、十五巻に分巻された古文書を中心とする五一〇通、関
者についても、筆蹟・花押を照合して、その特定につとめたが、紙
﹃県史﹄では、妙本寺文書を収録するにあたり、あたうかぎり、
文書の錯簡修正・年代推定・人物比定を行い、また無記名文書の筆
世日珍にいたる、都合四二点︵内、板曼荼羅二点・一遍首題一点︶
数や図版の制約、編集方針からはずれることもあって、照合結果を
から同寺十六
の﹁妙本寺所蔵曼陀羅本尊目録﹂が掲げられ、史料として﹁本尊銘﹂
﹃県史﹄に掲載することはできなかった。また千葉県文化財保護審
係文書八通・検地帳二点・典籍六点、さらに宗祖日
もひろく公開されたのであった。これで妙本寺所蔵の、特に文書の
1
人文社会科学研究 第 23 号
ことは、やはり重要であると判断した次第である。
た見解を提示している︵注4︶こともあり、照合結果を示しておく
議会が、正文・案文・無記名文書の筆者について、﹃県史﹄とは異なっ
くと、弘賢は安房清澄寺等の別当職を兼帯していたことが明らかで
証は存在する。たとえば、
﹃鶴岡八幡宮寺社務職次第﹄
︵注5︶を披
なかったことは残念であるが、このような人物比定を導き出せる微
そこで本稿では、妙本寺文書にみえる無記名文書の筆蹟・花押等
の検討、すなわち妙本寺文書の古文書学的研究の成果を提示し、
もっ
もあって、弘賢が安房国内の諸寺を支配していたであろうとの推測
︵注6︶と見られ、これらの記録を用いた山川智應の研究︵注7︶
あり、実際、清澄寺の梵鐘銘に﹁当寺主前大僧正法印大和尚弘賢﹂
て﹃県史﹄に示した見解の正否について、諸賢に問うこととする。
はできる。
なけれども、宰相阿闍梨日郷の自筆に相違ないことは房山正本にて
一、先行研究について
いっぽう、妙本寺の典籍類に目を転じてみると、同寺に伝わる﹃日
興遷化次第﹄︵﹃県史﹄五〇二号︶︵注8︶について、堀日亨は﹁開
昭和六一年七月、重永卓爾・亀井秋男両氏は、日本古文書学会第
十九回学術大会において﹁安房国妙本寺文書について﹂と題する報
認められるが、有学能筆といわれる郷師にも、筆の謬りといおうか
山上人︵日興︶の御遷化記録は、この分よりほかにはない。記名は
告を行い、その要旨は同年一二月発行の﹃古文書研究﹄第二六号に
﹁興﹂と書くべきを二か所まで﹁與﹂と書いてある﹂︵注9︶と指
摘している。
掲載された。重永・亀井両氏は、妙本寺の沿革、妙本寺文書の概要、
既刊書に収録される妙本寺文書の問題点を的確に挙げ、八項目にわ
たる報告の要旨を記している。重要な指摘も多い。要旨の一つをあ
従来某安堵状とされているものは、
︵一︶ 鶴 岡 八 幡 宮 別 当 弘 賢
ともに、客観性をもたせるためには、やはり筆蹟照合の提示が求め
亀井両氏による諸見解、また﹃日興遷化次第﹄を日郷筆とする堀説
このように﹃県史﹄に先だって、妙本寺に伝わる無記名文書の筆
者を特定するという作業は、少なからず存在した。しかし、重永・
安堵状・同賢誠奉書︵応永八年一〇月二七日︶
︵二︶ 同 別 当 尊
げると、発給者未詳とされてきた文書について、
賢安堵状︵応永一七年二月一八日︶︵三︶同別当足利定尊禁制・
書状写︵﹃県史﹄四九九号︶
当文書︻図1︼は、内容から日 書状﹁南条兵衛七郎殿御書﹂
︵注
①日興筆日
二、無記名文書について
られよう 。 次 節 で は、 右 の 先 行 研 究 の 指 摘 を ふ ま え な が ら、 無 記
名文書の筆者について、筆蹟照合を中心に検討を行うことにする。
牧定基奉書︵享徳三年七月一日︶︵四︶同別当足利定尊安堵状
︵享
徳三年一二月一五日︶であること。この事実に基づき当地が守
護支配、足利家領︵政所︶
、関東公方家・同連枝社家支配、里
見氏の勃興戦国大名化の試論を永享・享徳の乱を軸として論究
する。
とある。文書の筆者を右のように特定した根拠について、聴聞でき
2
安房妙本寺文書の古文書学的研究(佐藤・坂井)
の﹁御判﹂が据えられていた、すなわち日侃は、当
していた。また日侃は﹁御判 ハ悪党切取之﹂といっているから、も
とはそこに日
︶の末尾であることがわかるけれども記名はない。また差出人の
箇所が故意に削り取られており、そのことについて、同寺十五世日
文書を日
花押の据えられていたことを示す﹁御判﹂﹁在
宮市︶に伝わっており、日興写本によると差出人は﹁日 ﹂とだけ
ちなみに、日 書状﹁南条兵衛七郎殿御書﹂は、日 の本弟子で
おもす
ある日興︵一二四六∼一三三三︶の写本が重須本門寺︵静岡県富士
筆と認識していたと思われる。
侃︵一五二五∼一六〇一︶は、表具裏︻図2︼に﹁御消息十三行、
御判 ハ悪党切取之﹂と記していて、すでに日侃当時、当該部は欠損
︻図1︼
書 か れ て い て、 日
御判﹂等の記載はない。﹁南条兵衛七郎殿御書﹂は、内容から文永
は花押を使用していなかった可能性が高く︵注 ︶
、
元年︵一二六四︶の書状であることが明らかにされているけれども、
この時期、日
真蹟に花押が据えられていなかったからではなかろうか。
日興が﹁御判﹂の存在を記さなかったのは﹁南条兵衛七郎殿御書﹂
の日
﹁御
してみると、当文書の差出人も﹁日 ﹂とだけ記されていて、
判﹂の存在はもとよりなかったと思われる。推考を重ねていえば、
︻図2︼
3
11
10
人文社会科学研究 第 23 号
︻図3︼
日侃のいう﹁悪党﹂が当該部を切り取ったのは、そうすることによっ
かれている。
﹁法華証明抄﹂は、日 の檀越で、弘安五年︵一二八二︶
当時、重篤だった南条時光の平癒祈願について、日 が日興へ指示
を与えた書状である。
﹁死活抄﹂のタイトルは、その内容から付け
の真蹟が
の 法 孫、 日 道 に よ
の 直 弟 が 編 纂 し た﹃ 御
られたと推測される。ちなみに、
﹁法華証明抄﹂は、日
︶、その他、日
︶ に 全 文 が 収 ま っ て お り、 ま た 日
断 片 で 伝 わ っ て い て︵ 注
筆集﹄︵注
る元徳四年︵一三三二︶三月の写本が大石寺︵静岡県富士宮市︶と
蓮華寺︵大阪市北区︶に分蔵されている。
妙本寺における当文書についての記録としては、同寺九世日安筆
︵一四八五︶
﹃当家聞書︵本尊抄等雑々聞書︶﹄︵妙本寺典籍︶に﹁文明十七年︿乙
巳﹀十一月二日夜、子ノ刻計ノ時分、本乗寺ニシテ吉浜妙本寺之死
活抄・南条殿御案持之大曼荼羅、師範日永上人ヨリ奉ト預授与之夢
想也、貴々々﹂︵注
︶ と あ る の が 初 見 で あ る。 こ こ に﹁ 死 活 抄 ﹂
て、むしろ当文書の原形には、日
とセットであげられる﹁南条殿御案持之大曼荼羅﹂とは、同寺十五
の﹁御判﹂が存在していたこと
14
を暗に示し、価値を高めようという意図があったのかもしれない。
そのように推論するのは、じつは当文書の筆蹟を検討したところ、
当文書もまた、重須本門寺本と同様、日興の筆写本であることが明
︶と記しており、これは現存する当文書を指していると考えらる。
また大石寺十七世日精が、延宝四年︵一六七六︶二月﹁大行寺御
坊・妙本寺諸役僧中﹂へあてた書状に﹁貴寺ニ壹巻死活抄也﹂
︵注
御漫陀羅﹂と同一の本尊であろう。
世日侃筆﹁日興相伝之大事写﹂︵一九二号︶に記録された﹁死活之
16
的な字体を有している︻図4︼
。そこで、妙本寺門下上代諸師の文書・
典籍にあたってみると、開山日郷の弟子、日睿︵一三〇九∼六九︶
の筆勢と酷似していることがわかる。︻図5︼は日睿自筆﹃類聚記﹄
︵妙本寺典籍︶で、当文書に見られる縦長の片仮名、伸びのある筆
4
15
前掲した日安﹃当家聞書︵本尊抄等雑々聞書︶﹄によれば、当文
書は同寺八世日永を遡る写本と推定され、片仮名混交の極めて特徴
17
らかになったからである。照合の結果は︻図3︼に示したとおり。
書状写﹂として収
﹁弟 子﹂
﹁南 条
﹁無上道是也﹂﹁日 ﹂﹁日本第一﹂﹁唱﹂﹁法華経﹂
七郎殿﹂、どれをとっても、同一人の筆と見て間違いあるまい。よっ
て﹃県史﹄には、タイトルのとおり﹁日興筆日
録した︵注 ︶
。
書状写︵﹃県史﹄五〇三号︶
13
当文書は日 が日興へあてた書状︵注 ︶の写で、
﹁法華証明抄﹂
と通称されているが、当文書の冒頭には﹁死活抄﹂とタイトルが書
②日睿筆日
12
安房妙本寺文書の古文書学的研究(佐藤・坂井)
書状写﹂と判断し収録した。
勢は、まさしく日睿の筆と見てよかろう。よって﹃県史﹄では、当
文書を﹁日睿筆日
③日郷筆日興遷化次第写︵
﹃県史﹄五〇二号︶
【図5】
当文書︻図6︼の末尾には、異筆にて﹁右之僊化次第者日郷上人
之御筆無紛者也、日濃︵花押︶
﹂︵注 ︶とあり、また先述したとお
18
【図4】
5
人文社会科学研究 第 23 号
︻図6︼
︻図7︼
り、すでに堀日亨が﹁宰相阿闍梨日郷の自筆に相違ない﹂と判断し
ている。本書は全体、丁寧な筆致で、このような楷書体で書かれた
日郷の筆は、他に見られないので、比較・対照は困難をともなうが、
可能な限り照合してみると、
﹁年﹂
﹁月﹂
﹁御﹂
﹁於﹂﹁郷﹂
﹁後﹂の輪
郭はいずれも日郷筆の特徴がよく出ており︻図7︼、従来の説のと
蔵坊臈次事二通
おり、当文書はまさしく日郷の自筆と認められる。
④日郷置文六通ならびに大石寺
妙本寺には同寺開山日郷の署名・花押の据えられた置文が六通伝
わっている。内一通は文和二年︵一三五三︶卯月八日付︵
﹃県 史﹄
一号︶︻図8︼で、本文から花押まで一筆と認められ、内容は大石
北朝時代の制作と推測される。﹃日郷置文﹄に記される日
像に当
画像﹂について、千葉県文化財保護審議会は﹁浄光院本に続く南
10
たる蓋然性が高い﹂
︵注 ︶といい、両者の関連を指摘している。
20
6
寺東御堂ならびに坊地について定めたもの。これは日郷へ大石寺東
坊地を寄進したことを証する﹁南条時綱寄進状﹂
︵
﹃県史﹄七八号︶、
および同地に違乱なきよう定めた﹁南条時綱置文﹂︵
﹃県史﹄七九号︶
をうけてのものである。
﹃県史﹄二号︶
︻図9︼で﹁本尊聖教事﹂について定
また同日付︵
めたものがある。その﹁本尊聖教﹂とは﹁日 聖人御自筆本尊一鋪
聖人御所釈等﹂
﹁天台六十巻一部﹂
自 筆 本 尊 は、 現 在 も 通 称﹁ 万 年 救 護 本 尊 ﹂
︵注
︿文永十一年甲戌十二月日﹀﹂
﹁日
で、 こ の う ち 日
︶として同寺に伝わっている。
﹃県史﹄三一四号︶
︻図 ︼で、日 ・日興・日目
同じく同日付︵
の御影の厳護を定めたものがある。ちなみに、妙本寺に現存する﹁日
19
安房妙本寺文書の古文書学的研究(佐藤・坂井)
【図 12】
【図8】
【図 13】
【図9】
【図 14】
【図 10】
【図 15】
【図 11】
7
人文社会科学研究 第 23 号
同じく同日付︵﹃県史﹄三一五号︶︻図 ︼は、南条牛玉丸を出家
以後、安房国北郡法華宗の導師とするべきことを定めたもの。南条
︼と一
丸﹂
﹁牛玉丸﹂
﹁勤仕者也﹂﹁状如件﹂
﹁文和年﹂の筆蹟が一致し、ま
︼
︻図
︻図
︼
た︻図 ︼には、越中阿闍梨日忍・山城阿闍梨日明・紀伊阿闍梨日
︻図
︼
16
牛玉丸は、日郷の後嗣となった日伝︵日賢︶の幼名である。
︶に
同日付︵﹃県史﹄三一七号︶︻図 ︼がもう一通あって、これは香
菊丸を出家以後、上総国大貫郷内上畑法華宗の導師とすべきことを
定めている。同寺十四世日我の﹃当門徒前後案内置文﹄
︵注
やつやま
よれば、この香菊丸は、山城阿闍梨日明の舎弟で、のちに日高を名
乗り、山中顕徳寺を譲られ、また谷山妙顕寺にも住したという。
それから同年同月十七日付︵﹃県史﹄三一九号︶︻図 ︼がある。
これは、山城房︵阿闍梨︶日明を﹁安房国安西三富保内伊戸村法華
宗﹂の導師と定めたもの。﹁安西三富保内伊戸村法華宗﹂
については、
未詳である。また同日付︵
﹃県史﹄三二〇号︶で大輔房日賢を﹁上
総国大貫郷内下沢法花堂︵宗ヵ︶﹂の導師と定めたものがあるけれ
ども、同置文は写であり、ここでは取りあげない。
さて、ここに掲げた図版のうち、日郷自筆と認められる︻図8︼
を除き、
︻図9︼∼︻図 ︼の本文はすべて一筆で、同人が本文の
月﹂の年月をはじめ、︻図9︼と︻図 ︼の本文一行目﹁安房国北郡﹂
13
られているが、どれをとっても全くの同筆といって差し支えない。
︼ が あ っ て、 そ の 筆 蹟 も︻ 図 9 ︼ ∼︻ 図
13
8
13
聖人﹂にいたる筆蹟、さらに︻図 ︼∼︻図 ︼の
11
17
11
本文四行目以降は﹁右謹勘先師之制誠称﹂云云と、ほぼ同文が列ね
∼三行目﹁日
10
さらに注目すべきは、これと同筆の文書﹁大石寺 蔵坊臈次事﹂
︵﹃県史﹄三二一号︶︻図 ︼・﹁大石寺 蔵坊三月宛番帳﹂
︵
﹃県史﹄
三二二号﹂︻図
16
18
21
12
筆を執ったことがわかる。各文書に共通する﹁文和二年︿癸巳﹀卯
13
14
致するのである。︻図 ︼のように﹁事﹂﹁勤仕者也﹂
﹁山城﹂
﹁香菊
15
15
安房妙本寺文書の古文書学的研究(佐藤・坂井)
【図 23】
【図 19】
【図 24】
【図 20】
【図 25】
【図 21】
【図 26】
【図 22】
9
人文社会科学研究 第 23 号
円の裏花押が据えられているから、この三者のいずれかが、
筆を執っ
りがあって、登場する人物等、文言の重なるものが多く、文字の対
事者である中納言律師日伝に関するものだから、内容的にもつなが
照は比較的容易である。
まず漢文体の文書の文字を照合してみよう。︻図
︼︵※図中の算
た可能性が極めて高い︵注 ︶
。
いずれにしても、妙本寺に伝わる︻図8︼∼︻図 ︼は、日郷の
自筆、もしくは日郷直参の弟子が本文の筆を執り、これに日郷が花
ろう。また︻図
︼︻図
︼の﹁処﹂も、共通してみられる極めて
をはじめ、差出人の﹁心省﹂
﹁泰 範﹂ い ず れ も 同 人 の 筆 と 見 て よ か
用数字は各図の番号。以下同︶のとおり、
﹁中納言﹂﹁律師﹂
﹁日賢﹂
27
特徴的な字形として挙げておいた。ちなみに、﹁処﹂の同形は︻図
24
押を据えたもので、その文献的価値は高いといえよう。
なお、これら置文に据えられた日郷の花押については、
﹃県 史﹄
上梓の後、東京大学史料編纂所編﹃花押かがみ六
南北朝時代二﹄
︵吉川弘文館、二〇〇四年三月︶に収録された。
23
︼
︻図 ︼にも見られる。
︻図 ︼
27
⑤大石寺東坊地相論文書一〇通
さて、これら妙本寺に伝わる相論関係文書の写本を子細に見てみ
ると、内一〇通は、当事者である日伝が自ら筆者したものであるこ
10
妙本寺には、駿河大石寺東坊地の相論に関する文書が正文・写本
を含め多数伝わっている。これらはいずれも相論の当事者で、同寺
五世中納言律師日伝︵はじめ日賢と号す︶に関するものである。
、
前節にてふれたとおり、大石寺東坊地は、建武五年︵一三三八︶
上野郷の地頭で南条氏の惣領であった時綱が日郷に寄進し、日郷も
阿闍梨日行は、新地頭の興津氏に対し、
これを門下に託した。ところが、南条時綱と日郷の入寂後、大石寺
西坊地を相続した加賀野
︶
、日郷
大石寺の東西の坊地は、自身が本主︵南条氏︶から寄進され、先師
︵弁阿闍梨日道︶から相続されたものであると訴え︵注
にわたったが、その詳細については、いまはふれない︵注 ︶
。
の後嗣、日伝との間で相論となった。この係争は七十年以上の長期
23
24
20
13
以上︻図 ︼∼︻図 ︼の一〇通は、先述したとおり、相論の当
26
18
22
とがわかった。まずは文書の写真を示し、次に照合結果を掲げる。
17
安房妙本寺文書の古文書学的研究(佐藤・坂井)
︻図 ︼について検討する。
︻図 ︼に掲げ
次に仮名書の︻図 ︼
たとおり、端裏書に記された﹁案﹂ならびに﹁明徳﹂
、ならびに書
特に﹁明徳﹂は、字形としては破格といってよく、これが先に同
一人と特定された文書と同様に見られることから、︻図 ︼もまた
同人の筆と判断してよかろう。
︻ 図 ︼ は 対 照 で き る 文 字 は 少 な い け れ ど も、 全 体 た て な が の 特
徴が一致しており、わずかながら﹁法西﹂
﹁申候﹂﹁五﹂の三つを︻図
︼にあげておいた。
︼
11
17
︻図
30
22
留文言の﹁恐々謹言﹂
﹁謹言﹂を比べてみると、やはり同一人の筆
致と判断される。
︻図 ︼
28
29
22
28
︻図 ︼
29
17
人文社会科学研究 第 23 号
本節の最後に日伝筆と相論関係文書、ならびに﹁日郷三十三回忌
諷誦文﹂︵﹃県史﹄三二九号︶の筆蹟を対照・提示しておく。これま
で確認されてきた日伝の筆は非常に少なく、わずかに本尊六幅、置
文二点だけであった。それだけに上掲の相論関係文書が日伝筆と判
明すれば、日伝の事蹟研究に裨益するところ大といえよう。ちなみ
に、﹁日郷三十三回忌諷誦文﹂も無記名で、筆者不明であったため、
﹃県史﹄の編さん作業で筆蹟の照合を行った。
対 照 で き る 文 字 が 限 ら れ て い る た め、 あ ま り 多 く は 掲 げ ら れ な
かったが、結果は︻図 ︼に示したとおりである。なお、図中の﹁日
伝﹂は﹁日伝置文﹂、﹁ 回﹂は﹁日郷三十三回忌諷誦文﹂をさして
同別当足利定尊禁制・牧定基奉書
︵四︶享徳三年一二月一五日付︵
﹃県史﹄一〇四号︶
同別当足利定尊安堵状
については、
先述したように諸状況からして可能性は高いが、
︵一︶
確証を得ることはできなかった。
﹃県史﹄では﹁弘賢ヵ﹂としたが、
︶
、
なお検討の余地はある。ちなみに、応永七年︵一四〇〇︶九月十七
日付﹁別当弘賢供僧職補任状﹂
︵
﹃神 田 孝 平 氏 所 蔵 文 書﹄
︶
︵注
︶に弘賢の花押が据えられているけれ
および文安四年︵一四四七︶閏二月二十八日付﹁別当弘賢宛行状﹂
︵
﹃鶴 岡 八 幡 宮 文 書﹄
︶
︵注
ども、花押形は一致しない。
26
⑥安堵状・禁制について
では、これらの文書を日伝筆として一括収録した次第である。
たものと思われ、
︻図 ︼
のとおり、
応永二十二年正月二十五日付
﹁別
﹁富士上方﹂
﹁上野﹂
﹁務﹂
﹁道﹂
﹁他﹂
﹁法﹂
﹁年﹂
﹁月﹂
右のとおり、
︵二︶ は、 ま さ し く 尊 賢 の も の と 認 め ら れ た。﹃県 史﹄ 一 〇 ○・
ともに、日伝筆の筆勢と酷似していることがわかる。よって﹃県史﹄
一〇一号は、
いずれも写ではあるが、
花押まで比較的丁寧に写し取っ
いる。
25
当尊賢書下﹂
︵
﹃鶴岡八幡宮相承院文書﹄
︶
︵注 ︶の花押形とほぼ一
として収録した。
致する。よって﹃県史﹄には、二通ともに﹁栄快奉尊賢安堵状写﹂
27
︼
︵三︶の差出人は﹁上座﹂で、これは花押形から牧定基︵定延︶
とわかる。牧定基とその花押については、すでに佐藤博信﹁雪下殿
︻図
31
先述のとおり、重永卓爾・亀井秋男両氏は、報告﹁安房国妙本寺
文書について﹂で、従来某安堵状とされてきた文書につき、次のよ
うに結論している。
︵一︶応永八年一〇月二七日付︵﹃県史﹄九九号︶
鶴岡八幡宮別当弘賢安堵状・同賢誠奉書
︵二︶応永一七年二月一八日付︵﹃県史﹄一〇○・一〇一号︶
同別当尊賢安堵状
︵三︶享徳三年七月一日付︵﹃県史﹄一〇二・一〇三・三八七号︶
31
12
33 30
安房妙本寺文書の古文書学的研究(佐藤・坂井)
に関する考察﹂︵注
︶、同﹁鑁阿寺文書の再検討﹂︵注
︶の成果
29
︶の花押と一致する。したがって﹃県史﹄
むすび
大学史料編纂所の影写本も、そのように写している。しかし、原本
一点つけくわえておくと、当文書は従来﹁享徳三年﹂とされ、東京
も﹁定尊安堵状﹂として収録した。なお、
﹁定 尊 安 堵 状﹂ に つ い て
た、妙本寺住持や支配者の活動について、新たな視角を提示できた
ないかと考えている。
これによって、
それまで知られることのなかっ
提示したことで、ある程度の客観性をもたせることはできたのでは
ろうかと思う。しかし、本稿では、特徴的な文字を抽出し、列挙・
た字形が類似するか否かは、諸賢によって見解のことなることもあ
を子細に見ると、﹁五﹂の一画が故意に削られたものであることが
と思う。妙本寺文書全体を見渡すと、解明しなければならない問題
の兄である、鎌倉公方足利成氏は、反幕府の立場から、幕府の改元
は多い。今後もさまざまな視点から、妙本寺文書の研鑚をすすめて
ところが後人は、そうした事情を知らず、年号の合わないことを
いたんで、これを削除したのだろう。
る。
注
︵1︶佐藤博信﹃中世東国日 宗寺院の研究﹄
︵東京大学出版会、二〇〇三年
一一月︶
、同﹃中世東国政治史論﹄
︵塙 書 房 、 二 〇 〇 六 年 一 〇 月 ︶
、同﹃安房妙
本寺日我一代記﹄︵思文閣出版、二〇〇七年一〇月︶等がある。
﹄﹂︵
﹃千 葉
︵2︶川添昭二﹁書評﹃千葉県の歴史 資料編 中世3︵県内文書2︶
県史研究﹄一〇号、二〇〇二年三月︶
。
︵3︶﹃千葉県の指定文化財﹄一六集︵二〇〇九年三月︶。なお、﹁妙本寺聖教
類及び関係資料﹂
︵古 文 書 三 一 巻 四 八 一 点 、 典 籍 一 四 二 点 、 絵 画 一 点 、 工 芸 品
六点︶は、平成十九年度﹁千葉県指定文化財﹂に指定された。
︵4︶千葉県文化財保護審議会は、後述する日郷置文について筆勢・墨筆・紙
質を注視して﹃県史﹄の見解に疑義を呈し︵後注︵ ︶︶、また日郷門下が買
22
31
︻図 ︼
33
なお、本稿に掲載した図版の使用にあたり、所蔵者である妙本寺
鎌倉日誠師のご高配を賜った。末筆ながら衷心よりお礼を申し上げ
ゆく所存である。
4
に従わず﹁享徳﹂の年号を襲用し続けたと考えられる︵注 ︶
。
わかった︻図
︼
。享徳五年は、京暦の康正二年にあたるが、定尊
︵
﹃鑁 阿 寺 文 書﹄
︶
︵注
︵四︶も︵三︶と関わり、定尊の妙本寺支配を示す文書である。 以上、妙本寺所蔵の主要な無記名文書について、文字の対比、照
当文書の袖判は︻図 ︼のとおり、無年号八月三十日付﹁定尊書状﹂ 合結果を提示しおわった。筆者を特定する作業は非常に難しく、ま
定基奉定尊禁制写﹂として収録した。
がある。重永・亀井両氏の指摘は的を射たものであり、
﹃県史﹄も﹁牧
28
32
30
︻図 ︼
32
13
33
人文社会科学研究 第 23 号
得した鳥辺山関係の文書について、
﹃県史﹄は写と判断したが、
﹁原 本 と み て
まちがいない﹂等と指摘している。
︵5︶
﹃群書類従﹄四輯︵補任部︶四八六頁。
︵6︶
﹃千葉県史料︵金石文篇一︶
﹄三九頁。
︵7︶
﹃日 聖人研究﹄第一巻︵新潮社、一九二九年九月︶。
︵8︶﹃日興遷化次第﹄には諸本があり、その異同は、大黒喜道﹁日興上人御
遷化次第﹂
︵
﹃日興門流上代事典﹄興風談所、二〇○〇年︶に掲げられている。
また筆蹟について大黒氏は﹁日郷のものに非常に近いと判断される﹂と指摘
する。
︵9︶
﹃富 士 日 興 上 人 詳 伝 ﹄
︵創 価 学 会 、 初 出 一 九 五 二 年 七 月 ︶ 四 四 四 頁 。 ま た
堀日亨は、後述する﹁日郷置文﹂と﹁大石寺番帳﹂についても両者の筆蹟が
一致することを指摘している︵同上五五五頁︶。その他、妙本寺文書の筆蹟に
関する研究に、菅原関道﹁保田妙本寺所蔵の﹃日 遺文等抄録﹄について﹂︵﹃興
風﹄一四号、二〇〇二年一二月︶があり、
﹃県 史 ﹄ 二 一 三 号 を 日 澄 筆 で あ る こ
とを証している。
︵ ︶
﹃昭和定本日 聖人遺文﹄三一九頁。
︵ ︶山上弘道﹁日 大聖人の思想︵三︶
﹂
︵
﹃興風﹄一〇号、一九九一年一月︶。
ち な み に 日 興 は、 日 の 本 尊・ 書 状 等 を 多 数 書 写 し て い る が、 日 の 花 押 が
存在する場合、かならず﹁在御判﹂
﹁在判﹂
﹁御判﹂等と記している。
︵ ︶南条氏は日興の教化によって、日 の教えを信奉するようになった一族
と考えられる︵高木豊﹁日興とその門弟﹂
︹
﹃中世日 教団史攷﹄山喜房佛書林、
初 出 一 九 八 一 年 四 月︶
。
﹁南条兵衛七郎殿御書﹂は、日 が南条一族へあてた
最初の書状であり、日興がこの書状を重ねて書写した背景には、そうした感
慨があったのかもしれない。
︵ ︶
﹃昭和定本日 聖人遺文﹄一九一〇頁。
︵ ︶﹃日 聖人真蹟集成﹄一︱二四〇頁以下。ちなみに﹁法華証明抄﹂の真
蹟には﹁継目裏に日興の花押・同銘﹂があり︵寺尾英智﹃日 自筆資料の原
本の形状に関する基礎的研究﹄平成 年度∼ 年度科学研究補助金︹基盤研
究︵C︶
︵2︶
︺研究成果報告書、二〇〇〇年三月参照︶
、所蔵者である西山本
門寺の記録としては、永正元年︵一五〇四︶一二月の﹁日栄重書目録﹂に﹁死
活 書 か ミ 七 ま い﹂
︵
﹃静 岡 県 史 資
・ 料編7 中
・ 世 三﹄ 三 七 九 号︶ と あ り、 ま た
同寺一二世日建の記した﹁重宝注文﹂にも﹁死話︵活︶抄紙数七ツ﹂︵﹃同上﹄
三三二一号︶と記録されている。西山本門寺には現在も﹁法華証明抄﹂の﹁七
紙﹂が伝わっている。また大石寺一七世日精は、寛文二年︵一六六二︶一二
月﹃富士門家中見聞抄﹄上において﹁日興ニ御書一通被下大聖ノ御筆也、號
死活抄、今在西山ナリ﹂︵﹃日 正宗歴代法主全書﹄二︱一四五頁︶と記録し
ており、西山本門寺に伝わる﹁死活抄﹂は﹁大聖︵日 ︶ノ御筆﹂であり、
妙 本 寺 に 伝 わ る﹁ 死 活 抄 ﹂ と は 別 物 と 見 て い た こ と が わ か る︵ 後 掲 注︵ ︶
史 料 参 照︶
。
﹁死活抄﹂のタイトルは現在確認されている中では、当文書が最
古のものである。
︵ ︶﹃御筆集﹄については、坂井法曄﹁日興写本をめぐる諸問題について﹂︵﹃興
風﹄二一号、二〇〇九年一二月︶を参照。
︵ ︶
﹃当 家 聞 書 ︵ 本 尊 抄 等 雑 々 聞 書 ︶
﹄の全文は、大黒喜道﹁日興門流におけ
る本因妙思想形成に関する覚書︵四︶﹂
︵﹃興風﹄一九号、二〇〇七年一二月︶
に翻刻されている。また大黒論文では﹃当家聞書︵本尊抄等雑々聞書︶
﹄と﹃日
安筆妙本寺勧進日記﹄
︵
﹃県史﹄妙本寺文書三五五号︶・日安写本﹃法華経題目
抄﹄︵妙本寺典籍︶の筆蹟を照合し、三者ともに同筆=日安筆であることを実
証している。
︵ ︶
﹃日 正 宗 歴 代 法 主 全 書 ﹄ 二 ︱ 三 一 九 頁 ︵
﹁保 田 妙 本 寺 諸 役 僧 中 ﹂ と し て
収録︶。
︵ ︶この日濃は、重宝売却等を行い後に除歴されている。
︵ ︶山中喜八編﹃御本尊集﹄︵立正安国会、一九七四年一〇月︶一六号。﹁妙
本寺所蔵曼荼羅本尊目録﹂
︵﹃県史﹄一〇四九頁︶№1。
︵ ︶前掲注︵3︶
。
︵ ︶﹃定善寺文書﹄︵﹃宮崎県史 史
・ 料編 中
・ 世1﹄︶三二号。
︵ ︶この三名のうち、堀日亨は﹁日明か日賢かが執筆して郷師が名判だけを
筆にした﹂︵前掲﹃富士日興上人詳伝﹄︶と指摘し、佐藤博信﹃中世東国日
宗寺院の研究﹄︵前掲︶は﹁日明の可能性が極めて高い﹂︵二三頁︶と指摘する。
また、三名の一人である﹁越中阿闍梨日忍﹂が、日郷の在世中、その側近にあっ
たことも留意しておきたい︵坂井法曄﹁道郷論争と大石寺当坊地の係争﹂
︹﹃興
風﹄一三号、二〇〇〇年三月︺参照︶。なお、千葉県文化財保護審議会は、こ
こで検討した﹃日郷置文﹄、すなわち﹃県史﹄一号︵︻図8︼︶と他の置文︵︻図
9︼∼︻図 ︼
︶について﹁1号文書と6点の文書はあきらかに筆遣いが異筆
であり、日郷︵花押︶があって、同筆であるから、日郷の自筆の正文か、右
筆書で日郷が署判をくわえた正文とみることに疑問をおぼえる。しかも、6
点 の 右 筆 文 字 は 1 号 文 書 の 筆 よ り も 時 代 が あ た ら し い よ う に 思 う ﹂ と し、 1
号文書について﹁本文と日郷までが一筆書であり、﹃花押﹄のみが異墨であり、
花 押 の 主 と 本 文 の 筆 者 が 異 な る か ど う か 不 明 で あ る が、 あ き ら か に 花 押 は 墨
を別にしている﹂と指摘する。また行書体で書かれた﹁日郷書状﹂︵﹃県史﹄
五〇一号︶の署名と、楷書で書かれた﹁日郷置文﹂
︵
﹃県 史﹄ 一 号︶ の 署 名 を
比較し、
﹁日 郷 の 書 体 も 現 在 の よ う な 楷 書 体 で は な く 、 草 書 ま で は い か な く て
も 行 書 体 の﹃ 郷 ﹄ を 用 い る の が、 通 常 の 流 れ と 考 え る。 そ れ を あ え て 楷 書 体
で﹃ 日 郷 ﹄ と 書 き、 花 押 の み 墨 を 換 え て い る こ と か ら す れ ば、 や は り 1 号 文
書 は 右 筆 書 で 日 郷 が 花 押 を 据 え た 正 文 と 判 断 し て お き た い﹂ と の 見 解 を 示 し
ている。ただし、日郷は、確かに書状には行書体をもって署名している︵前
掲﹃定善寺文書﹄六三号︶が、本尊には置文と同様、楷書体に近い筆致で署
名をしており、異とするには足らないと考える。
︵ ︶﹃静岡県史 資
・ 料編6 中
・ 世二﹄七二八号。
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安房妙本寺文書の古文書学的研究(佐藤・坂井)
︵ ︶大石寺東坊地の相論に関する主要論著に、堀日亨﹃富士日興上人詳伝﹄
︵前掲︶
、坂井法曄﹁道郷論争と大石寺当坊地の係争﹂
︵前 掲 ︶
、高橋粛道﹃日
正宗史の研究﹄︵妙道寺事務所、二〇〇二年一一月︶、佐藤博信﹃中世東国
日 宗寺院の研究﹄
︵前掲︶
、菅野憲道﹁河東一乱と富士門徒﹂︵﹃興風﹄一六号、
二〇〇四年一二月︶がある。
︵ ︶
﹃鮮明鶴岡八幡宮古文書集 影印篇︵鶴岡叢書三︶
﹄
︵鶴岡八幡宮社務所、
一九八〇年一〇月︶二四七号。
︵ ︶
﹃同前﹄八四号。
︵ ︶﹃同前﹄一七三号。図版も同書より転載した。またここに図版は示して
いないが、永和四年︵一三七八︶八月二十四日付﹁別当前僧正補任状﹂︵﹃西
南院文書﹄
︶にも同形の花押を見ることができる。
︵ ︶佐藤博信﹃古河公方足利氏の研究﹄
︵校倉書房、一九八九年一一月︶所収。
︵ ︶佐藤博信﹃中世東国の支配構造﹄
︵思文閣出版、一九八九年六月︶所収。
︵ ︶﹃同前﹄巻頭口絵に写真掲載。花押も同書より転載。また定尊の花押に
ついては、同編﹃戦国遺文・古河公方編﹄
︵東 京 堂 出 版 、 二 〇 〇 六 年 四 月 ︶ に
分類を示している。
︵ ︶この件に関しては、佐藤博信﹁妙本寺と鶴岡八幡宮﹂︵﹃県史﹄第一部﹁本
書を理解するために﹂二一頁︶を参照。
︻付記︼
本稿の成果は、主に﹁千葉県史編さん中世史部会・安房妙本寺分科会﹂に
お い て、 検 討 を 重 ね て 得 ら れ た も の で あ り、 佐 藤・ 坂 井 の ほ か、 寺 尾 英 智 氏
からも種々指摘のあったことを特に記しておく。
︻追記︼
なお、
︻図3︼の﹁日興筆﹂は、重須本門寺所蔵日興自筆文書から、︻図7︼
の﹁ 日 郷 筆 ﹂ は、 安 房 妙 本 寺 所 蔵 日 郷 自 筆 文 書 か ら、 そ れ ぞ れ 対 照 す る 文 字
を取りあげた。
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