P21 - 宜野湾市

が、
このように残ったものもありました。
並松のほとんどは戦争で姿を消しました
真下を通っていた宜野湾並松の一部です。
本の松が印象的です。
この松は、
かつて佐
上の写真は1970
︵昭和 ︶
年に現在
の佐真下公園付近で撮影したもので、2
現在の松のある風景はきちんと守って残
し む か の よ う に 松 が 植 え ら れ て い ま す。
辺には、まるで並松のあった時代を懐か
した。しかし現在の佐真下公園やその周
ていた並松もすべてなくなってしまいま
できなくなりました。
また、わずかに残っ
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▲現在の佐真下公園周辺 2017
(平成29)
年2月撮影
開発され、嘉数中学校まで見通すことは
写真中央に見える四角い建物は嘉数中学
していきたいものですね。
にも松が残っていました。
校の校舎です。この嘉数中学校の校門前
多くみられます。道の周辺は宅地として
国際大学もあるため学生用のアパートも
茶ぐゎ〜ゆんたく
ひといき
ち ょっと
…
佐真下の松のある風景
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市立博物館 ☎870 9-317
陶 器 な ど ︶が 出 土 し た 他、石 斧 や 銭
貨、獣魚骨などの食 料 残滓が確認さ
両 遺 跡 は、喜 友 名 バ ス 停 留 所 一 帯
に広がる先史時代∼グスク時代相
ます。
遺跡の内容
今 回 調 査 し た 地 点 は、喜 友 名 貝 塚
と喜友名グスクの範囲に含まれてい
残していくことを目的としています。
遺跡の情報を詳細に記録して後世に
さ れ て し ま う 遺 跡 を 事 前 に 調 査 し、
発 掘 調 査 と は、開 発 工 事 に よ っ て 壊
近い親族や家臣などが居住していた
もしかすると喜友名グスクの権力
者︵当時の支配者階級︶またはそれに
などが挙げられます。
磁盤などの大型製品が見られること
た ほ か、出 土 し た 陶 磁 器 の 内 容 に 青
根 拠 と し て は、グ ス ク 時 代 相 当 の 柱
料 で は な い か と 推 測 さ れ ま す。そ の
見 る と、喜 友 名 グ ス ク に 関 係 す る 資
当 初、喜 友 名 貝 塚 の 一 部 か と 想 定
し て い ま し た が、今 回 の 調 査 結 果 を
れています。
当 の 遺 跡 と し て 知 ら れ て い ま す。喜
場 所 で は な い か と 期 待 さ れ ま す。今
はじめに
今 月 は、昨 年 十 二 月 に 喜 友 名 地 区
で実施した緊急発掘調査の成果につ
友名グスクは過年度の開発工事等に
後、調 査 成 果 を 整 理 し て 発 掘 調 査 報
い て 速 報 と し て ご 報 告 し ま す。緊 急
よって大半が壊滅したとされていま
告書を作成する予定です。
の跡などが比較的密集して確認され
した。しかし、今回の調査の結果、グ
スク時代︵八百年前∼四百年前頃︶の
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文化課☎893 4-430
調査状況
遺構︵柱の跡や掘り込み︶が八十基程
柱の跡
検出されました。また、当時の生活雑
2017・3・10
市報
21
器 で あ る 中 国 産 陶 磁 器︵ 青 磁 や 褐 釉
青磁
(碗)
下 の 写 真 は 現 在 の 佐 真 下 の 様 子 で す。
静かな住宅街になっており、近くに沖縄
▲松の残る佐真下の風景 1970
(昭和45)
年 『写真集ぎのわん』より
其の30
歴 史・文 化 遺 産 を歩く
ぎのわんの
45