が、 このように残ったものもありました。 並松のほとんどは戦争で姿を消しました 真下を通っていた宜野湾並松の一部です。 本の松が印象的です。 この松は、 かつて佐 上の写真は1970 ︵昭和 ︶ 年に現在 の佐真下公園付近で撮影したもので、2 現在の松のある風景はきちんと守って残 し む か の よ う に 松 が 植 え ら れ て い ま す。 辺には、まるで並松のあった時代を懐か した。しかし現在の佐真下公園やその周 ていた並松もすべてなくなってしまいま できなくなりました。 また、わずかに残っ ︻問合せ︼ ▲現在の佐真下公園周辺 2017 (平成29) 年2月撮影 開発され、嘉数中学校まで見通すことは 写真中央に見える四角い建物は嘉数中学 していきたいものですね。 にも松が残っていました。 校の校舎です。この嘉数中学校の校門前 多くみられます。道の周辺は宅地として 国際大学もあるため学生用のアパートも 茶ぐゎ〜ゆんたく ひといき ち ょっと … 佐真下の松のある風景 154 市立博物館 ☎870 9-317 陶 器 な ど ︶が 出 土 し た 他、石 斧 や 銭 貨、獣魚骨などの食 料 残滓が確認さ 両 遺 跡 は、喜 友 名 バ ス 停 留 所 一 帯 に広がる先史時代∼グスク時代相 ます。 遺跡の内容 今 回 調 査 し た 地 点 は、喜 友 名 貝 塚 と喜友名グスクの範囲に含まれてい 残していくことを目的としています。 遺跡の情報を詳細に記録して後世に さ れ て し ま う 遺 跡 を 事 前 に 調 査 し、 発 掘 調 査 と は、開 発 工 事 に よ っ て 壊 近い親族や家臣などが居住していた もしかすると喜友名グスクの権力 者︵当時の支配者階級︶またはそれに などが挙げられます。 磁盤などの大型製品が見られること た ほ か、出 土 し た 陶 磁 器 の 内 容 に 青 根 拠 と し て は、グ ス ク 時 代 相 当 の 柱 料 で は な い か と 推 測 さ れ ま す。そ の 見 る と、喜 友 名 グ ス ク に 関 係 す る 資 当 初、喜 友 名 貝 塚 の 一 部 か と 想 定 し て い ま し た が、今 回 の 調 査 結 果 を れています。 当 の 遺 跡 と し て 知 ら れ て い ま す。喜 場 所 で は な い か と 期 待 さ れ ま す。今 はじめに 今 月 は、昨 年 十 二 月 に 喜 友 名 地 区 で実施した緊急発掘調査の成果につ 友名グスクは過年度の開発工事等に 後、調 査 成 果 を 整 理 し て 発 掘 調 査 報 い て 速 報 と し て ご 報 告 し ま す。緊 急 よって大半が壊滅したとされていま 告書を作成する予定です。 の跡などが比較的密集して確認され した。しかし、今回の調査の結果、グ スク時代︵八百年前∼四百年前頃︶の ︻問合せ︼ 文化課☎893 4-430 調査状況 遺構︵柱の跡や掘り込み︶が八十基程 柱の跡 検出されました。また、当時の生活雑 2017・3・10 市報 21 器 で あ る 中 国 産 陶 磁 器︵ 青 磁 や 褐 釉 青磁 (碗) 下 の 写 真 は 現 在 の 佐 真 下 の 様 子 で す。 静かな住宅街になっており、近くに沖縄 ▲松の残る佐真下の風景 1970 (昭和45) 年 『写真集ぎのわん』より 其の30 歴 史・文 化 遺 産 を歩く ぎのわんの 45
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