2017 年 2 月 12 日 ワシントンインターナショナル日本語教会にて 主日礼拝メッセージタイトル:盲人の目を開かれる主 テキスト:ヨハネの福音書9章1―7節(内容は、9章全般) イントロダクション: 人は、誰しも将来に向かって、未来に向かって生きている。誰しも、明るい未来、楽しい将 来を夢見て生きていると思う。皆さんも 2017 年の始まりにあたり、新年の抱負、目標を立 てられた方もいるだろう。 これは、2010 年の統計だがアメリカ人の大人1000人を対象に行われた調査だが、「将来 の生活で、最も願うものは?―これがあれば、自分の将来は明るい」と言う質問に対して、 1 位 91%の人たちが、健康が最も願うものである、と答えたそうである。 2 位 高い品性、誠実さに基づいた生き方(Living with a high degree of integrity) 3 位 生涯一人の結婚相手と過ごす。(Having one marriage partner for life) 4 位 親しい友人を持つ。 5 位 人生の明確な目的を持つ。 6 位 神様と親しい関係を持つ。 また、十代の青年たちの答えで最も、多かった答えは、大学の学位をとるということだっ た。 果たして、本当にこれらは、統計のごとく私たちの人生にとって大切なものなのだろうか? 世界的有名なプロゴルファーである、アーノルド・パーマーが、盲人たちで組織されている ゴルフの会に、スピーカーとして呼ばれて行った時の話し。その中で、パーマーは、目の見 えない人が、どうやってボールを正確な方向へ打つことが出来るのか、と不思議に思った。 一人の人が、その説明をはじめた。彼によると、プレイする時は、必ずキャディーさんがい て、自分が打つ方向に前もって行って、ベルをならし、その音の聞こえる方向に向かってボ ールを叩くという。パーマーは、驚いて、また、もっと興味をもって、「へー、それで、上 手く行くのかい?」と彼に聞いた。そうしたら、彼が、自信満々に、「もちろんさ、なんな ら、勝負してもいいよ。勝った方が一万ドルをもらうのはどうだい。」 「一万ドルだって!」パーマーは、少し戸惑いました。そこで、その男性は、急き立てるよ う言いました。「まさか、まさか目の見えないゴルファーに負けるのを怖がっているんです か?」と。パーマーは、その賭けに同意して、言いました。「分かった!じゃあ、何時にス タートするかい?」と彼に聞いたところ、彼が言ったのは、「今晩の11 時半にスタートで いいかい?」 (英訳)Arnold Palmer, a famous professional golfer, was once invited to speak to a convention of blind golfers. He asked them how they were able to know what direction to hit the ball. One blind golfer explained that the caddie went on ahead of him with a little bell, which he would ring as he stood near the hole. The blind golfer would then hit toward the sound of the bell. Arnold asked how well it worked and the blind golfer said it worked so well he was willing to take on Palmer for a round of golf! Just to make it interesting, he was willing to bet Palmer $10,000 he could beat him. That just blew Palmer's mind! Ten thousand dollars! Palmer was a bit hesitant, so this blind golfer pushed him by saying, "what's the matter, are you afraid to play a blind golfer?" So the deal was struck. Palmer said, "When do we tee off?" And the blind golfer said, "Tonight at 11:30PM! 残念なことに、この勝負がどうなったかは、私は知らないが、 この話しは、目が見えることが、いつでもどんな場合でも目が見えないことに勝っているこ とではない事を教えてくれる。ことわざに「一寸先は闇」と言う言葉があるように、次に何 が起こるかは、誰にも予測はつかない例えである。私たちが、普段、これがあれば大丈夫 だ、安心だと思っているものも、まわりの状況が180度変われば、まったく役にたたなく なることが実際、あるのではないか。 本論:本日の聖書の個所を読んでみよう。ここで、9章全体の話しの概要をかいつまんで説 明したい。 イエス様は、道端でひとりの盲人に出会われる。(1節)その盲人をイエス様は、いやされ た。その癒し方が大変ユニークである。 まず、地面につばきををかけ、それで泥を作り、それを盲人の目に塗り、そしてそのまま、 シロアムという池に行って洗うように言って、彼はイエス様の言われる通りに従ったことで 癒された。イエス様の言葉や行動には、いつも度肝を抜かれる。おそらくそこにいた誰も が、イエス様のこのような行動を予想していなかっただろう。もしかしたら、イエス様なら ば、その盲人の目に手を置くぐらいで、簡単に癒すこともできただろうと不思議がる人たち もいたかもしれない。それをわざわざ、つばきで泥を作り、それをその男の目に塗り、それ だけでなく池まで行って目を洗うようにと命令された。 弟子たちのこの男に対しての最初の反応はどうであっただろう。彼らはこの男を見て、イエ スにこう尋ねたと書いてある。「先生、彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したから ですか。この人ですか。その両親ですか。」(2節) この盲目の男性も、弟子たちのこの言葉が耳に入って来ただろう。当時、ユダヤ教の教えに は、施しは善行の一つとして教えられていたから、道にいる物乞いたちに、ユダヤ教の教師 たちやお金持ちが、施しをするので、物乞いの数も増えていたようである。しかし、施しを する人たちの中には、もちろん哀れみをもって善行としてする人もいたであろうが、多くの 場合、その行為を町行く人たちに見せるために行うのが多かった。表面的で偽の動機から善 行だった。 おそらく、何十年の間、弟子たちが言った言葉を彼は聞き続けていただろう。そんな中、周 りから先生と言われるある男の口から出た言葉は、かつて一度も聞いたことないような言葉 であった。その言葉とは、 3 節「この人が 罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神の業がこの人に現れるため です。」 こんな言葉を今まで自分に投げかけた方は一体いただろうか?彼の真ん前で今起こっている ことは彼自身、見ることもできないし、まして自分にこのような言葉をかけてくれた男の顔 を見ることもできない。彼は、彼自身を取り巻く状況を何一つ理解することなく、ただこの 言葉をかけてくださった方の言うことを信じて、その命令通りに行動しただけである。 その結果、どうなったかは、聖書の書いているとおりである。 7 節「そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰っていった。」 弟子たちの言葉「先生、彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人 ですか。その両親ですか。」(2節)に対して、私たちは決して弟子たちを非難できる立場 ではない。なぜなら、彼らの言葉や心情が、彼らにとって、私たち人間にとってできる限り のアプローチであるから。人は、事の問題の解決は、過去までさかのぼり、その原因を突き 止めてそれを修復するところから始めるため。 水の出ない水道の蛇口があったなら、その原因を突き止めるため、パイプをずっと追ってい き、破れ口や詰まったところを見つけてそれを修理する。肝臓が悪い人がいれば、飲酒のし 過ぎに問題があることが分かり、禁酒したりなど。人は誰しも、問題の原因を過去のライン をさかのぼって、問題の原因の分岐点まで戻り、今度は失敗しないように別の道を歩み始め る。しかし、新たに歩み始めた道が、今度は本当に大丈夫だとどうやって確信がもてるのだ ろう? 神様を知っている人でも、神様を知らない人でも、同じようにさかのぼる時点で、後悔の思 いが出てくる。「ああ、こんなことをするんじゃなかった。」「なんて自分は、男性を(女 性を)見る目がなかったんだろうか。」「神様、今度は失敗しないようにお願いいたしま す。」このような、歩みは疲れるだけである。 イエス様の問題解決のアプローチは、一般の人間のアプローチと全く違う。イエス様は、こ の盲人の男に、 3 節「この人が 罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神の業がこの人に現れるため です。」 「神の業がこの人に現れるためです。」彼の過去にも触れず、ただ今の現状のまま、すべて が神の業、栄光が現れるためであると言い切ったのである。 すなわち、今の時点で、過去に戻ることなく、現状の問題を抱えたままで、それらをすべて 神様の栄光に 180 度変えてくださると約束して下さったのである。これが出来るのは、神様 しかいない。ハレルヤ! 今の私たちの困難や、自らが招いたであろう問題でさえ、そのまま神様にゆだね、信じ行う なら神様はそこから、誰しも想像できなかったほどに素晴らしい御業を現してくださるので ある。ハレルヤ! 今日の個所から、問題の中においても神様の解決を経験できるため、あるいは、自分自身現 在、問題にぶち当たってない場合でも、将来または、周りの困難の中にいる友人のためにア ドバイスをするために、この盲人の男を模範として学べる事3つは。 ① 信仰は、聞くことから始まる。 そもそも、会ったことのない、しかも文字通り見えない相手の言葉を、それもかなり奇妙な 命令をそもそもどうして彼は、信じ従うことが出来たのであろう。それは、イエス様のお言 葉による。今まで聞いたことないような言葉の力に彼は、何かを感じたのである。イエス様 の言葉は、いつもこのように人をハットさせる。この盲人に会われるすぐ前に、イエス様 は、姦淫の現場で捕らえられたひとりの女性に出会われる。(ヨハネ8章) パリサイ人たち から、「モーセの律方によれば、この女を石打にするようにと命じているが、あなたは、何 と言いますか?」このイエス様を巧みにに引っかけようとする悪どい質問に対して、イエス 様は、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石をなげなさい。」と言われた。 その後、「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き」(8: 9)とある。個人の証しになるが、自分が最初に聞いた聖書の言葉は、苦しみもだえて、生 き絶え絶えに十字架上でイエス様が言われた「父よ、彼らをお許し下さい。彼らは何をして いるのか分からないのです。」この言葉に、深い感動をしたことを覚えている。 ② 自分が実は盲人であることを認める。せっかく良い言葉を聞いても、それが本当に自分 に必要かどうかは、本人の自覚次第である。この盲人の男は「藁をもつかむ」思いでイ エス様にすがられたのである。何とかして今の状況から抜け出したい。そのためなら何 でもするといった乾きがあった。 もし、私たちが今の状況の中で、神様に頼らなくてもいいと満足しているならば、あな たはその場所から一歩も進むこと、出ることは出来ない。 5 わたし は ぶどう の 木 で、 あなた がた は 枝 です。 人 が わたし に とどま り、 わたし も その 人 の 中 に とどまっ て いる なら、 そういう 人 は 多く の 実 を 結び ます。 わたし を 離れ ては、 あなた がた は 何 も する こと が でき ない から です。 ヨハネの福音書 15 章 5 節 ③ そのみ言葉を実行に移す。 聖書の話を聞いて、それを「いい話だった。」だけで終わらしては何にもならない。もしこ の男性も、イエス様の「池に行って、泥の付いた目を洗いなさい。」という命令に従わなけ れば、奇跡は起こらないままだろう。み言葉を読み、み言葉を聞いているだけでは、奇跡の 一歩手前で後戻りしているようなものである。「神様の事をもっと知りたい。」「御業や奇 跡を体験したい。」そのような思いが、与えられたとしたら、そこで後戻りしてはいけな い。 そんな思いを神様からいただいた時、すぐに邪魔する思いが出てくる。その最たる思いは、 「そんな余裕はない。」(時間の余裕、お金の余裕、能力の余裕) そんな思いにどんなに、あなたに神様が起こそうとされた御業、かつて誰も、自分自身でさ せも想像できないほどの奇跡が、あなたの目の前で消えていたであろう。 皆さんは、今年こそ、そんな思いをまず振り切り、神様の栄光を体験していただきたい。
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