WIJC170205教会の成長 - ワシントン インターナショナル 日本語 教会

2017年 2 月 5 日 聖書:使徒の働き 2 章 37-47 節
タイトル:「教会の成長:命の誕生と出発」
序 論
●私たちは、今年に入ってから、この日曜礼拝で「成長」と言うテーマで聖書からのメッセージを学ん
で来た。言うまでもなく、それは、基本的に「クリスチャン」としての「成長」についてであったが、
●どちらかと言うと、それは、「個人」の成長と言うことにフォーカスして来たと言える。
●今日からは、数回にわたって、「教会」としての「成長」にフォーカスして学んでいきたい。
●そのために最もふさわしい聖書の箇所は、実際に、教会が誕生し、成長して行った出来事を記してい
る「使徒の働き」である。
●イエス様は十字架と復活を通して私たちのための救いを完成された後、天に帰られた。その後、使徒
たちと 120 名ほどの信徒たちは、エルサレムのある家に集まって真剣に祈っていた。
●祈りの目的は、「聖霊」の著しい働きを求め、一人一人が「聖霊」に満たされることであった。
●そして、「ペンテコステ」と呼ばれるユダヤ教の祭りの日に、そのことは起こった。使徒たちも、弟
子たちも、皆聖霊に満たされたのである(使徒 2 章 4 節)。
●多くの神学者、聖書学者が認めるように、聖書から明らかなことは、聖書の言う「教会」は、この日
に誕生し、スタートしたのである。
●私も何回も申し上げてきたことであり、皆さんも様々なところで聞いて来られたことであると思うが、
「教会」は建物でも、組織でも、プログラムでもない。「教会」は「人の集まり」である。
●日本語では「教会」を「教える会」と記すが、単にキリスト教のこと、聖書のことを教える場所では
ない。原語のギリシャ語では「エクレシア」である。その意味は「召された者たちの集まり」である。
●即ち、教会は「神に召され、救われた者たちの集まり」であり、その意味で、教会は、「イエス様の
救いを通して集められた神の家族」と言える。
●世の中には、色々な家族がある。大家族がり、小さい家族がある。大きな家に住んでいる家族もあり、
小さな家に住んでいる家族もある。決まりや約束ごとがしっかりしている家族もあれば、そんなもの
が何もなく、自然体と言うか、極めて自由な家族もある。
●私の知っている家族で、当時小学生の低学年のお子様二人のいるご家族であった。そのお宅には、家
族の決まりや、毎日の子どもたちを含めた家族の仕事(カーテンを開ける、ゴミをだす、食事のテーブ
ルセットをする、等々)が書いてある表が貼ってあり、それらを実行したら印を付けて行くのであった。
お母さんは元幼稚園の先生。しっかりとした方であった。気持ちが良いくらい統率の取れた素晴らし
い家族だなと思ってみていた。でも、そんなお母さん、そんな家族ばかりではない。色々な家族があ
っていいのである。
●教会も同様である。色々な教会があって良いのである。
●でもそれがどんな家族であれ、またどんな教会であれ、家族として、また教会としてなくてならない
ものがある。それは、家族としての本質、教会としての本質をしっかりと持つことである。
●教会の本質の第一番目は、神の家族の一員となることである。即ち、神の子として生まれること、霊
的に誕生することである。
●今日は、「教会の成長」を学ぶ第一回目として、「神の子」として生まれること、「霊的誕生」のこ
とについて学びたい。
●テキストは先ほどお読みした使徒の働き 2 章 37 節~47 節であるが、特に今日のメッセージのため
には、41 節までである。
本 論
Ⅰ.最初に、「誕生の重要性」について考えたい。
A.成長は、誕生から始まる。即ち、誕生なくして、成長を語ることは意味がない。だから私たちは誕生日を毎
年のように祝うのであり、産んでくれた母、また父親に感謝するのである。
1.肉体的誕生においても、まず生まれなければ、成長もないことは明らかである。
2.クリスチャンも同じである。霊的誕生なくしてクリスチャンとしての成長もない、まずクリ
スチャンとして生まれることが必要である。
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3.初代教会においてもそうであった。彼らも、成長にさきだって、まずは「誕生」という事実
を経験した。
(1)それが記されているのが、使徒の働き 2 章 37 節~41 節である。
(2)ここに記されていることは、単に、人々が、教会のメンバーになったことではない。
(3)ここに記されていることの意味は、彼らが、神の子として生まれ、神様の家族の一員と
なったことである。今日のメッセージは、そのことを説明し、学ぶことである。
B.そもそも、「誕生」とは命を頂くことである。その意味で、クリスチャンになるとは、父なる神さまから、肉体の
命とは別に、霊の命を頂いて、「霊的に誕生する」ことである。
1.使徒の働き 2 章 37-41 節で、彼らは、今の言葉で言うなら、確かにクリスチャンとなり、
教会を形成するメンバーとなったのである。
2.そして、そのことの意味は、彼らが、単に、キリスト教の教理に納得して、何らかの手続き
や儀式を経て、教会の会員になったことを意味しない。
3.それは、むしろ彼らが、神の子として生まれるという新しい霊的誕生の経験を意味していた。
4.これがいわゆる英語で「ボーン・アゲイン」と呼ばれるものである。これから説明するが、
これは元々聖書の表現であり、「もう一度生まれる」「新しく生まれる」と言う意味である。
Ⅱ.「新しく生まれる」「もう一度生まれる」「新生する」と言う表現が、「クリスチャンになる」と言う意味で用いられて
いる聖書の箇所をいくつか紹介して、このことに対する理解を深めたい。
A.最初は、テトス 3 章 5 節:
「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による新
生と更新との洗いをもって私たちを救って下さいました」
B.次は、Ⅰペテロ 1 章 23 節:
「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、
いつまでも変わることのない、神の言葉によるのです」。
これら、「新生」「新しく生まれた」の表現が、どちらも、イエス様によって救われたこと、即
ち、クリスチャンになったことを意味していることは明らかである。
C.もう一つ、最後にご紹介したいのは、ヨハネ 3 章 1-15 節である。
そこには、イエス様とニコデモとの会話が記されているが、そこでイエス様が用いられた表現で
ある。
Ⅲ.このヨハネ 3 章の記事について、もう少し詳しく学んでみたい。
A.ここに登場するニコデモと言う人物について少し説明したい。
1.ニコデモは、彼は、生まれたときから宗教の世界に生きて来た人物であり、
2.また長い間、その世界のリーダー、教師、経験者としてキャリアを積み上げて来た人物であ
り、権威者でさえあった。
3.しかし、なお、彼は、正直な気持ちとして、それら外面的な地位や立場とは裏腹に、心の中
では、何かが足りない、「これが宗教のすべてか?!」と密かに悩んでいた。
4.だからこそ、夜(ユダヤの文化的、社会的象徴表現として、「夜」は「密かな」行為を意味
していた)、まだ名もない、つい最近現れたばかりの信仰宗教のリーダーに過ぎないイエス
様に、社会的評判を危険にさらすことをも覚悟して会いに来たのである。
B.そのようなニコデモに、イエス様は開口一番、唐突にこのように言われた:
1.「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(3 節)と。
2.確かに、後で分かることではあるが、これは、ニコデモの一番必要な答えであり、彼の悩み
の解決のために的を射た言葉であった。
3.しかし、ニコデモは、最初この言葉に戸惑い、困惑した。
4.なぜなら、彼は、ユダヤ人の宗教家として「救いの道」について先入観を持っていた。
(1)信仰の道をもっと勉強すること
(2)また、その中の道徳的な教えを実行し、守ること(善いわざを行うこと)
(3)更に、その中の儀式的・宗教的義務を果たすこと
2
と堅く信じて、忠実に実行して来たからである。
5.ニコデモとしては、イエス様のお答えは:
(1)「まだ、君は努力が足りないね。今までしてきたことをもっと努力、精進しなさい」
(2)或いは、少なくとも、今までやって来たことの評価と共に、多少の修正するべき点の指
摘やアドバイスだと期待していたであろう。
6.しかし、イエス様のお答えは、彼の意表を突く、全く別のものであった。
(1)今までして来たこと、その努力の延長ではなく、即ち、もっと儀式を守ったり、もっと
道徳的な努力をして「善人」になることではなく、
(2)「生まれ変わって、新しい人になる」ことだと言われたのである。
(3)それは、ニコデモには全く理解できない、受け入れられないことであった(4、9節)。
(4)そして、新生に対する、このニコデモの戸惑い、不理解(理解できないこと)、不信仰(受
け入れられないこと)は、今も多くの人々の姿に見られる。
(5)なぜか? それは、「生まれる」と言うことが、英語の I was born が文法的にも示す
ように、全く「受け身」で起こることで、自分がコントロールできないからである。
●人は、自分自身の行為でそれを獲得することが好きであり、安心を覚えるからである。
●自分の救いを全面的に人に頼ることは、罪のもつプライドがそれを許さないのである。
(6)しかし、それを本当にやった人は、自分の力で自分を救うことが、如何に難しいか、否
それ以上に不可能であることを体験するのである。
(7)逆に私たちの側からすると、救いが全面的に「受け身」と言うことは、全面的に神様に
よるものであると言うことで、救いが安定した浮き沈みのない完璧なものになる。
(8)私の知っているあるクリスチャンの男の子が小さい頃の話。まだ沢山の人がタバコを吸
っていた時代。クリスチャン=タバコを吸わない人と言う時代。同じ教会に来ていた友
達に聞いた。「お前んちのお父ちゃん、未だタバコ吸ってんのか?」。友達は答えた。
「うーん。時々吸ったり、吸わなかったり」と。すると、彼はその友達に言った。「そ
れじゃ、お前んちの父ちゃん、天国行ったり、地獄行ったりだな」と。笑い話であるが、
これは自分の行いに頼った信仰、救いと言うものが如何に不安定で当てにならないもの
であるかをよく表している。
(9)だから、私たちは、二度と自分の救いを疑うことをしてはならないし、その必要は全く
ないのである。
Ⅳ.最後に、それでは、どのようにして私たちは、新たに神の子として生まれることができるのかのメッセージを頂き
たい。(自分のためにだけではなく、まだ救いを知らない多くの人にこのことを伝えるためにもこれを学びたい)
A.第一に、「聞く」ことである。
1.使徒
1.使徒 2 章 37 節。「人々はこれを聞いて・・・」
2.ローマ人
2.ローマ人 10 章 14 節「聞いたことのない方をどうして信じることができるでしょう」、
16 節「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリスト
節「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみ言葉によるのです」
キリストについてのみ言葉によるのです」。
についてのみ言葉によるのです」。
3.正にこの通りである。まず聞くことである。
(1)それは、「読む」ことも含んでいる。
(1)それは、「読む」ことも含んでいる。
(2)それは、具体的に言って、
(2)それは、具体的に言って、
●教会や集会
●教会や集会に誘って
や集会に誘って、牧師のメッセージを聞いてもらう
に誘って、牧師のメッセージを聞いてもらう
●聖書のメッセージの録音を聞いてもらう(
●聖書のメッセージの録音を聞いてもらう(CD,インターネットなどを通して)
CD,インターネットなどを通して)
●聖書のメッセージの書いてある本やパンフレットを渡す、
●自分で、信仰の証しをする(
●自分で、信仰の証しをする(自分の入信の体験談を話して聞いてもらう)
自分の入信の体験談を話して聞いてもらう)
4.それゆえ。まだ信仰をもって新しく生まれていない方には、もっと聞いて頂きたい。既に信
仰をもって新たに生まれた人には、他の人にもっと福音を聞かせて欲しい。
1.使徒の働き
1.使徒の働き 2 章 37 節。「人々は、・・・心を刺され・・・」
2.ペテロのメッセージを聞いた
2.ペテロのメッセージを聞いた人々の反応である。
ペテロのメッセージを聞いた人々の反応である。
B.第二が罪の自覚である。
3
3.「心を刺される」とは、自分たちのしたことに、申し訳なかった、何と悪いことをしてしま
ったのか、して来たのか、と言う悔恨の気持ちを持つことである。
4.これは聖霊のお働きである。またみ言葉によるものである。即ち、ご聖霊が、聖書のみ言葉
を通して、私たちの罪深さを自覚させてくださるのである。
1.2 章 37 節:ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちは、どうしたら良いでしょう
か」と言った。
2.彼らは、自ら積極的に救いを求め、しかも、「どうしたら良いか」と謙遜な質問をもって求
めた。
3.聖書は明確に「求めなさい。そうすれば与えられます」と、積極的な求めを勧めている。
4.また、同時に、救いを砕けたへりくだった心をもって求めることの大切さを奨めている。
(1)詩篇 51 篇 17 節
(2)自分で自分の救いの道を勝手に自分で決めて、それを神様に押し付けるような傲慢な心
を神様は認めない。
(3)聖書:「神は高ぶるものを退け、へりくだる者に恵をお授けになる」(ヤコブ 4 章 6 節)
1.使徒 2 章 38 節:そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい」
2.ギリシャ語原語では、「悔い改め」は「メタノイア」で、その意味は「方向変換」である。
3.即ち、それは、単なる後悔や、罪の告白・懺悔ではない。それは、「方向変換」と言う明確
な意志行為であって、感情的悔恨やリップサービス的な口だけの行為ではない。
4.即ち、これまで神様に背き、神さまを無視して、神さまのみ言葉と無関係に生きて来た罪深
さを一つ一つ認識、自覚し、これからは、そのような人生から離れて、神さまと共に生き、
神さまのために生きると言う、方向変換を明確に神様の前に約束し、罪のお詫びと共にそれ
を実行することである。
5.これなくして「信じます」と言う言葉は神様には届かない。だから、イエス様も言われた。
「悔い改めて、福音を信じなさい」と。
1.使徒 2 章 38 節:イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。
2.マルコによる福音書 16 章 16 節の「信じてバプテスマを受ける者は救われます」、
3.また、ヨハネの福音書 1 章 12 節の「しかし、この方を受け入れた人々、即ち、その名を
信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」等々とのみ言葉と合わせて味
わうとき、
4.これらの聖書の御言葉は、イエス様を救い主として信じ受け入れるとき、救われる、神の子
C.第三が、救いを、謙遜にかつ積極的に求めることである。
D.第四は、悔い改めである。
E.第五は、イエス様を、その名「イエス」の通り、「救い主」として受け入れること、信じることである。
として誕生することを明言している。
結
論
●教会の成長は、その誕生から始まる。
●しかし、それは、その教会を構成する一人一人のメンバーが、イエス様を救い主として信じ受け入れ
て、神の子として霊的に新しく誕生することから始まる。
●初代教会の誕生、スタートもそうであった。ペンテコステの日に聖霊を受けた使徒たちによって、福
音が述べ伝えられた。それを聞いて、受け入れられた人は、イエス様の御名による救いを通して、神
の子としての誕生を経験した。聖書は、そのような人々が、その日 3000 人いたと記している。
●一人一人がこのような救い、新たな霊的誕生を経験することこそが、教会の誕生の基礎である。これ
をスキップ、いい加減にして教会の成長はない。
●たといホームランを打っても、たといセカンドベース、サードベース、更にはホームインをしても、
もしファーストベースを踏んでいないなら、ホームインした瞬間にアウトと宣言され、すべてを失う
のである。
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