滝 の 城 跡

埼玉県指定史跡「滝の城跡」整備事業に伴う第5次発掘調査現地説明会資料
2017/2/4(土)予備日 2/5(日)
埼玉県指定史跡
た
き
じ ょ う
あ
と
滝 の 城 跡
1.位置と概要
滝の城は所沢市の東部、東川と柳瀬
川の合流点に築かれており、南側は高
きゅうがい
さ約 25mの 急 崖、北側は三重の堀や土
塁によって守られています。
本郭・二の郭・三の郭の内郭とそれ
らを囲む外郭で構成される多郭式の平
山城で、東西 350m×南北 200m、面積
は約 63,000 ㎡になります。内郭は現在も遺構が良好に残されていることから、大正
14 年に埼玉県史跡として文化財指定されています。
2.歴史と背景
やまのうちうえすぎ
滝の城は山 内 上 杉 氏の重臣で、当時武蔵国入間郡・多摩郡に領地を有していた大
石氏が 15 世紀後半に築いたと言われています。この時期、大石氏の主家である山内
おうぎがやつうえすぎ
上杉氏と江戸城・河越城を築いた太田氏の主家である 扇 谷 上 杉 氏は敵対関係にあり
ました。このため滝の城は太田氏の2城を分断するための「境目の城」として大石氏
によって築かれたと言われています。また別の説では、滝の城が江戸城と河越城を結
ぶ清戸道の中間地点に位置することから、「つなぎの城」として反対に太田氏によっ
て築かれたとも言われています。
てんぶん
しかし、天文15 年(1546)に起きた河越夜戦によって、両上杉氏が北条氏に破れた
うじやす
うじてる
ため、滝の城は北条氏に接収されて、北条氏康の三男、氏照の持ち城になりました。
すけまさ
その後、滝の城は反北条の太田資正がこもる岩付城への「境目の城」として重要な
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りんばん
役割を担い、柳瀬川の対岸(現東京都清瀬市清戸)には番所が置かれ、輪番で城の警
固をさせていたことが「清戸三番衆交代命令状(1564)」として残されています。
岩付城が落ち、北条氏の支配がさらに北へ進むと、今度は「つなぎの城」として、
えいろく
てんしょう
やしゅう
じんぞろ
永禄~ 天 正 年間にかけての野州(栃木県方面)への出兵の際には陣揃えの地になっ
たと言われています「小田原編年録(1812)」。滝の城の外郭もこの時期に整備され、
兵站基地として多くの兵が駐留できるようにしたものと思われます。
しかし天正 18 年(1590)、滝の城は豊臣秀吉による小田原攻めの際、浅野長政勢の
北方からの攻撃を受けて、一日で落城したと言われています「新編武蔵風土記稿
(1830)」。
3.遺構の特徴
(1)内郭
内郭は本郭を中心として、二の郭・三の郭が同心円状に配置される構造です。本郭
は城の南端に位置し、郭の周囲は高さ1~2mの土塁で囲まれ、南は柳瀬川の低地に
きゅうがい
こぐち
落ち込む比高差 25mの 急 崖 、他の三方は空堀が廻っています。虎口は北東部で、発
し きゃくもんあと
掘調査により四 脚 門跡が検出されています。虎口から内堀を跨いだ北側の平坦地は
「馬出し」と呼ばれています。二の郭は本郭の北西部にあり、外側には空堀と土塁が
2重に配されています。三の郭は本郭の北東部に位置し、土塁を廻らし、三方に空堀
を配しています。
(2)外郭・出郭
外郭・出郭は北条氏時代に付け加えたとされる部分になります。外郭は内郭の北東
部にあり、南を除く三方に大規模な空堀が回っています。東側には物見櫓と呼ばれる
高さ3mほどのマウンドがあり、ここを大手口とする説があります。出郭は外郭の東
部に張り出すように位置し、谷によって台地と画されており、この谷には滝の城の名
の由来となった滝がありました。
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4.過去に行った開発に伴う発掘調査
過去 11 回、開発に伴う発掘調査を行いましたが、その中で主だった調査をここで
紹介します。
(1)第7次調査(平成2年度)
城山神社の社殿改築工事に先立って行われた発掘調査になります。本郭には高さ
1.5m~2.0mの土塁が回っていますが、北東側に切れ目があり、そこを調査したとこ
ろ、礫を敷き詰めた土台を持つ焼失した四脚門と推定される門跡が検出されました。
また、内堀を跨いだ北側の「馬出し」とは橋で結ばれていた可能性があります。
馬出し
四脚門跡
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四脚門跡
H字形の石積みと炭化した木材が検出され、地面には焼土が広がっていました。こ
のことから門は戦火?で焼失したものと思われます。遺物はかわらけ・鉄砲玉・飾り
金具などが出土しました。
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(2)第 11 次調査(平成 16 年度)
外郭の北東部で障子堀が検出されました。堀の形態は幅約12m、深さ約7m、底
部は幅1mにも満たない「V」字状を呈していました。また、堀底には高さ2mほど
の畝が数m間隔で掘り残されており、堀底を仕切っていました。
障子堀
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5.現在行っている整備事業に伴う発掘調査
滝の城跡は平成21年度に「滝の城跡整備基本計画」が策定され、指定史跡内の
管理方針が決まり、平成23年度からは今後の保存・整備を行うにあたり、必要な
資料を得るために発掘調査を行っています。
(1)第1次調査(平成 23 年度)
二の郭を調査しました。土塁にトレンチを入れたところ、盛土の厚さが4mにも
なりましたが、高く盛ったわりにはしっかりとした版築がされず、急いで構築され
たように見て取れました。また、土塁と土塁の間が低くなっている箇所があり、こ
ういった切れ目は郭の出入り口がある可能性があることから調査を行いましたが、
残念ながら出入り口の痕跡は確認できませんでした。
すりばち
遺物としては、かわらけ・陶磁器・ほうろく・擂鉢・火鉢・甕・銭貨・板碑片・
石臼等が出土しました。年代的には15世紀後半~16世紀前半のものが多かった
ようです。
土塁間の切れ目
ほうろく
土塁 トレンチ
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板碑
石臼
永楽通宝
擂鉢
かわらけ
常滑甕
(2)第2次調査(平成 24 年度)
二の郭の残り部分・馬出し・三の郭の調査を行いました。まず、昨年度二の郭に入
れたトレンチで、盛土の下の地山に方形の掘り込みがあることを確認したことから、
改めて調査することにしました。方形の掘り込みは約 1.5m×2.7mの長方形を呈し、
四隅からは柱穴が検出されました。また柱穴内からカワラケ、土坑底面からは鉄製の
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ノコギリが出土しました。この土坑は二の郭の造成前に掘り込まれ、遺物を埋納した
のち、すぐに埋め戻されていること、屋根が掛けられていた形跡があること、ノコギ
リという大工道具が埋納されていたことなどから、築城に伴う地鎮祭祀跡と考えられ
ます。
方形土坑と四隅の柱穴
柱穴内のカワラケ
土坑底面のノコギリ
ノコギリの刃
馬出しと三の郭の間を通る現遊歩道を掘り下げたところ、1列の石敷と4本の柱穴
が検出され、炭化材と焼土が出土しました。ここには門があったと考えられます。
1列の石敷
炭化した門の部材
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三の郭には調査前から不自然に凹んだ箇所がありました。そこで凹地に十字のトレ
ンチを組んで掘り下げたところ、径10mの井戸の存在が見えてきました。そして西
側からは6段からなる階段が検出されました。当時、この井戸を掘り下げるため、ま
たその後利用するために使われたものと思われます。井戸は深さ8.5mまで掘り下
げましたが、底部に達することができず、これ以上掘り下げることは危険と判断し、
調査終了となりました。
三の郭は標高が高く、ここから水の出る深さまで掘るには、相当深く掘らなければ
なりません。まして三の郭は四方に堀がまわり、水脈が絶たれています。つまり、堀
と同等またはそれ以上の深さまで掘らないと水が出ないと考えられます。もっと低い
所で掘れば簡単に水は得られますが、そこでは敵に井戸を押されられてしまう可能性
があります。籠城戦に備え、どうしても城の中心部に井戸が欲しかったものと思われ
ます。
不自然に凹んだ箇所
6段からなる階段
深さ8.5mの調査最深部
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(3)第3次調査(平成 25 年度)
三の郭の郭面を調査しました。グリッドを設定して当時の郭面まで掘り下げ、柱穴
等の遺構の有無を確認しました。浅いピットがいくつか見つかりましたが、規則性が
見られず建物跡にはなりませんでした。また、遺物はかわらけ・ほうろくなどが出土
しました。
三の郭 郭面
浅い不規則なピット
かわらけ
ほうろく
(4)第4次調査(平成 26 年度)
大型土塁1の東側を調査し、北側から堀跡が見つかりました。また、堀跡は途中で
北に向きを変えていることも確認できました。遺物は見込みに沈線ウズマキが施され
た扇谷上杉氏関係の城館で多く見られる「ウズマキかわらけ」が出土し、ウズマキが
左巻きであることから 16 世紀前半~中頃に比定されました。
「ウズマキかわらけ」は
この他にも本郭の四脚門跡や馬出し虎口の門跡でも出土していることから、滝の城は
この時期、扇谷上杉氏の支配下にあったと考えられます。
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土塁から続く堀跡
ウズマキかわらけ
(5)第5次調査(平成 28 年度)
大型土塁1・2を調査し、第4次調査で見つかった堀跡の延長が見つかりました。
堀跡は大型土塁1と2の間を進むものと大型土塁2の外側を回るものに分岐してい
ました。しかも堀底には仕切りが設けてあり、北条氏特有の障子堀であることが分か
りました。障子堀は外郭の第3・5・11 次調査で見つかっていますが、今回の大型土
塁1と2の間を進む堀は中堀に接続することから、中堀も障子堀であることが考えら
れます。滝の城は全面的に北条氏の改修を受けている可能性があります。
障子堀
大型土塁1・2間を進む堀跡
大型土塁1の断面と堀の法面
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6.その他
(1)城山神社
ちん ざ
あたご
まつ
現在、本郭には城山神社が鎮座しています。滝の城の落城後は愛宕神社が祀られて
ごう し
いましたが、明治41年に村内の天神・熊野・八幡社を合祀し、城跡の名をとって「城
山神社」となりました。
(2)霧吹きの井戸跡
滝の城跡西側の七曲坂を下りきった所に残る井戸跡です。昔、井戸に竜が住んでい
て、たびたび悪さをしたことから、村人たちは竜を退治するために、柳瀬川の対岸に
い
舞台を作りお祭り騒ぎをして竜をおびき出し、弓で射たという伝説があります。弘化
3年(1846)建立の大峯大権現と刻まれた石造物があります。
(3)血の出る松
滝の城跡西側の七曲坂の途中には傷を
つけると赤色の樹液が出るとされる大き
な黒松が立っていました。その赤色から落
城した際に討ち死した城兵の血ではない
かという言い伝えがあります。昭和47年
に枯れて伐採されましたが、跡地には「血
の出る松の跡」の碑が残っています。
(4)七曲坂
明治43年に大出水で決壊した柳瀬川
の堤防を修復するため、外堀を開削し、そ
の発生土を充てました。沿道には夜間通行
じょうやとう
する村人のために常夜灯 が設けられてい
ました。
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血の出る松(昭和40年代)
行き方
滝の城跡にはJR東所沢駅より徒歩30分、または所沢駅東口発~JR東所沢駅経
由~志木駅南口行の西武バスで20分、城バス停下車徒歩5分になります。お車でお
越しの方は城跡の下にあります滝の城址公園駐車場をご利用下さい。
問い合わせ
所沢市教育委員会文化財保護課
04-2998-9253
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