財政政策でインフレは実現するか

みずほインサイト
日本経済
2017 年 2 月 3 日
財政政策でインフレは実現するか
みずほ総合研究所
誤解されがちな「FTPL(物価水準の財政理論)
」
03-3591-1298
調査本部
経済調査部
○ 最近注目されているFTPLは、金融政策ではなく財政政策が物価の決定を主導するという理論。具体
的には、実質国債残高が実質財政余剰の現在価値に等しくなるよう、現在の物価が変動すると想定
○FTPLは財政拡大の論拠とされがちだが、想定する経済環境次第で様々な解釈が可能。赤字拡大がデ
フレ圧力をもたらすケースのほか、物価上昇には潜在成長率の引き上げが必要といった含意も
○インフレ目標の達成と財政健全化の早期化(=将来世代の負担軽減)のいずれを優先すべきかは価
値判断の問題であり、経済理論では答えられず。FTPLの一面的な解釈は避ける必要
1.シムズ教授来日で注目される「FTPL」
1月末から2月初にかけて、「FTPL(Fiscal Theory of the Price Level、物価水準の財政理論)」
を提唱するクリストファー・シムズ教授(プリンストン大学)が来日し、一橋大学や日本経済研究セ
ンターで講演を行った。シムズ教授は、2016年のジャクソンホール講演において、FTPLに関する講演
を行っている(Sims [2016])。その後に、内閣官房参与の浜田宏一教授(エール大学)が賛同したこ
とで、今後の日本の政策運営に影響を与え得る考え方として、FTPLの注目が高まっている。
今回の来日講演やジャクソンホール講演などでのシムズ教授の主張を要約すると、図表1のようにな
る。日本経済との関連では、「消費増税の計画を、インフレ目標の達成・維持と明示的にリンクさせ
る」との提言を行っている点が重要だ。今後、消費増税の再延期のための理論的根拠とされる可能性
もあり、財政規律派からは警戒も強まっている。
図表1 シムズ教授の主張内容
中央銀行の独立性について
中央銀行のバランスシートの拡大は
安全か
日米欧で、金融政策の効果が薄い
のはなぜか
中央銀行の独立性は重要。ただし、ハイパーインフレ時や低インフレ時には、金融
政策だけでは限界があるため、財政政策との協調が必要
中央銀行の損失発生に政治的な関心が集まり、中央銀行の独立性を危険にさら
す可能性があるため、望ましくない
財政のサポートがないため
財政赤字のファイナンスは金融政策
の代替となるか
ゼロ金利制約下では金融政策の代わりとなり得るが、財政拡張と財政赤字のファ
イナンスは異なる。財政赤字が増税や歳出削減によってではなく、将来のインフレ
で賄われると捉えられなければならない
財政拡張は本当にインフレをもたら
すか
増税延期や財政赤字そのものがインフレをもたらすのではなく、インフレ目標と明
示的にリンクさせるコミットメントが重要
(資料) Sims(2016)等より、みずほ総合研究所作成
1
ただし、シムズ教授の提言の是非を考える上では、その主張内容と、背景にあるFTPLの内容を正確
に把握する必要がある。例えば、シムズ教授は、財政健全化をインフレ目標達成と整合的なものにす
べきと述べているが、財政健全化そのものを否定しているわけではない。また、必ずしも、財政支出
の規模拡大を提案しているわけでもない。後述するように、FTPLにおいても、財政支出が無駄なもの
に使われれば、むしろ将来の増税が見込まれることで、家計の節約志向を高め、デフレ圧力につなが
ってしまうためだ。さらに、経済の前提条件によっては、標準的なFTPLの想定とは異なる結果に終わ
るリスクにも目を配る必要がある。
そこで、本稿では、シムズ教授の提言の背景にあるFTPLの内容とその政策的示唆とを、拡張モデル
を含めてサーベイする。その上で、シムズ教授の提言の是非を考察することにしよう。
2.FTPL における物価変動メカニズム
FTPLは1990年代から2000年代前半にかけて活発に研究された後はやや下火になっていたが、金融政
策の限界が世界的に意識されるようになった近年、再び注目を集めている。はじめに、その概要を見
てみよう。
ごく簡略すると、FTPLは、政府の予算制約式から出発して、次のような式によって物価水準が決定
されると考える(数式の導出は補論参照)。
民間部門が保有する国債残高
今期の物価
実質財政余剰の現在価値
(1)
(1)式が成立している状態から、例えば政府が恒久的な財政出動や減税を実施すると、実質財政余剰
の現在価値は減少する(ここで、「恒久的」というのがポイントである。次節参照)。このままでは
(1)式の右辺が左辺より小さくなってしまうので、再び(1)式が成り立つよう、左辺の分母における物
価が上昇する。この裏で起きているのは、恒久減税によって家計(民間部門)の生涯所得が上昇する
ため、消費が増加し、需給のひっ迫を通じて今期の物価が上昇する、というメカニズムである(国債
残高は期初において所与とされるため、変動しない)。このように、FTPLでは、財政政策の変化を民
間部門の調整に委ねている。
こうしたFTPLの考え方は、伝統的なマクロ経済学の理論とは異なるものだ。伝統的な理論は、物価
水準はマネーの量に依存するという貨幣の数量方程式(マネー×貨幣の流通速度=物価×実質GDP)
に則り、物価変動の「原因」はマネーの変化であり、(1)式は結果として常に成り立つ恒等式であると
する。一方、FTPLは数量方程式こそが恒等式であり、マネーはあくまで物価が変動した後に決定され
る「結果」であると捉えている(木村他[2011]参照)。実際、前段落の例でもマネーの出番がないま
ま物価が決定されており、中央銀行が物価決定の役割を担うという伝統的な考え方とは対照的である
と言える。
2
3.FTPL の示唆は多岐にわたり、一般的な理解には誤解も
(1)標準モデルからの含意:単純に「財政出動→物価上昇」ではない
以上のように、FTPLは物価調整後の実質国債残高が将来にわたる実質財政余剰の現在価値(の期待
値)に等しくなるよう、物価が調整されると想定している。しかし、それは財政出動が物価上昇をも
たらすことを保証しているわけではない。FTPLの政策的なインプリケーションについてみていこう。
①FTPLにおいても、基礎的財政収支の黒字化は必要
まず、確認しておかなけらばならないのは、FTPLは、財政健全化を否定しているわけではないとい
うことだ。これは、(1)式(あるいは同式を少し変形した図表2の式)をみれば、容易に理解できるこ
とである。この等式が成立するためには、基礎的財政収支がプラス(黒字)であることが必要だ。も
し、基礎的財政収支がマイナス(赤字)であるとすると、等式は成立しない。FTPLは、あくまで基礎
的財政収支の黒字化を前提としており、その上で、インフレを生じさせるために、「基礎的財政収支
の黒字化時期を遅らせる」ことや「黒字化達成後の黒字幅を抑える」ことを主張しているのである。
この点、最近の日本でのFTPLの紹介のされ方は、FTPLが財政健全化を否定しているかのような誤解を
招きかねず、懸念される。
②一時的な財政出動は、必ずしも物価上昇の効果を持たない
前節で触れたように、FTPLでは財政余剰の減少は物価上昇をもたらすが、現在の物価を決定するの
......
は現在の財政赤字ではなく、将来にわたる財政余剰であることには留意が必要だ。すなわち、今期に
政府が支出拡大策をとっても、例えばその中身が無駄なものとみなされるなどして、いずれ増税が避
けられないという予想が広がれば、民間部門にとっての財政余剰の現在価値は変わらず、今期の物価
も影響を受けない。財政に対する懸念が高まっている現在の日本がこうした状況にあるとすれば、今
期に財政支出を拡大しても物価は上昇しないことになる。
③物価上昇のために、成長戦略が重要
FTPLからは、物価の安定的な上昇のためには成長戦略の推進も有効だ、という結論も導ける。成長
戦略が奏功し日本経済の潜在成長率が高まれば、均衡実質金利(景気に中立的な実質金利の水準)の
上昇によって右辺が下落し、財政余剰の現在価値が低下するからだ。この背後にあるのは、潜在成長
率の上昇によって家計の生涯所得が増加し、消費の活発化・需給のひっ迫がもたらされるというメカ
ニズムだ。逆に、財政支出を重視するあまり、「バラマキ」と言われるような節度なき政策を行えば、
非効率な資源配分が潜在成長率を低下させ、物価下落圧力を強めてしまう可能性すらある。
図表 2 基本モデルによる物価上昇メカニズムと留意点
固定
①黒字である必要
民間部門が保有する国債残高
今期の物価
財政余剰
......
②将来にわたる財政余剰の低下
...
(≠現在の赤字拡大の拡大)
1
③潜在成長率の上昇
3
1
1
実質金利
(2)拡張モデルからの含意:物価上昇はますます不確かに
以上の基本モデルは現実の経済をごく単純化したものである。以下では、①長期国債の存在、②国
債デフォルトの可能性、③金融仲介機関の存在という現実的な仮定を加えた研究を概観し、追加的な
インプリケーションを探る。
①今期の国債償還は物価上昇にプラス
ここまでの議論は国債を全て前期に発行され今期に満期を迎える短期国債と想定していたため、今
期において国債残高は所与(期初に名目額が固定される)とし、右辺の財政余剰や実質金利の変動は
全て左辺の物価水準に吸収されていた。しかし、2015年度末の普通国債の平均残存期間は8年5カ月に
達しており(財務省)、現実には多様な年限の国債が発行されている。長期国債が存在する場合、将
来の物価予想に応じて国債価格は変動するため、左辺の名目債務残高は固定されず、物価水準が1対1
に変動するという理屈は成立しなくなる。
FTPLにおける国債の満期構成の影響を分析したCochrane (2001)によれば、基礎的財政収支を一定と
したまま長期債を発行すると、翌期から償還までの将来の物価水準は上昇する一方、今期の物価には
低下圧力がかかる。逆に言えば、財政収支一定のまま今期の国債償還額を増やせば、今期の物価は上
昇することになる。FTPLを真剣に捉えると、財政再建こそが物価上昇につながる、というインプリケ
ーションも得られるのである1。
なお、基本モデルでは潜在成長率の上昇が物価上昇に寄与すると述べたが、長期債がある場合、潜
在成長率の上昇は金利の上昇(=国債価格の下落→国債残高の減少)も招き、物価上昇圧力は幾分弱
まると考えられる。
②デフォルト確率が上がれば物価は上昇せず
基本モデルでは、政府が恒久的な減税等を実施しても、国債価格は影響を受けないことが仮定され
ていた。しかし、債務残高が積み上がっているような状況では、デフォルトの蓋然性が高まり、国債
価格は下落すると考えるのが自然だろう。デフォルト確率を規定する式が別にない限り、FTPLの枠内
では物価水準は一意に決まらないが、財政余剰の減少がデフォルト懸念を通じ国債価格の下落を招く
ことになれば、今期の物価が上昇する必然性はなくなるだろう。
③金融仲介機関を通じたスタグフレーション
最近の拡張モデルとして興味深いのがAndrade and Berriel (2016)である。彼らは、銀行等の金融
仲介機関をモデルに明示的に組む込むことで、財政政策による物価上昇がインフレ下の景気低迷(ス
タグフレーション)につながる可能性を示した。そのメカニズムは次の通りである。
財政余剰の減少による物価上昇(という期待)
→
名目金利の上昇
→
金融仲介機関のバランスシート悪化
・貸出金利が固定されている既存の貸出の収益性低下
・預金(金融機関の負債)金利の上昇
・保有国債の価格下落
→
貸出金利の更なる上昇、貸出額の減少
→
一定の条件次第で、スタグフレーション
4
「一定の条件次第」とは、(a)銀行における調達と運用の期間のミスマッチの度合いが強い(長期の
固定金利貸出が多い)ほど、(b)国債価格の金利に対する感応度が高いほど、(c)銀行の総資産に占め
る国債の割合が高いほど、財政赤字ショックを受けて景気後退に陥りやすくなるということだ。あく
まで理論上の話ではあるが、緩やかなデフレが長期化した日本経済は、上記の条件を満たしていると
考えることもできる。インフレを優先するあまり、FTPLが望ましくない帰結に至る可能性があるとい
うことは意識しておくべきだろう。
4.おわりに:インフレ目標の達成か、将来世代の負担軽減か
以上のように、FTPLはデフレの処方箋として財政支出を奨励しているわけではなく、想定する経済
環境次第で様々な解釈が可能である。財政を拡大させるべきだという議論は、FTPLの一つの側面を誇
張したものと言える。FTPLの知見を活かすためには、理論が暗黙の前提とする経済環境を把握し、メ
リット・デメリットについて、より現実に即した議論を行うことが重要である。
ここで、冒頭で紹介したシムズ教授の「消費増税の計画を、インフレ目標の達成・維持と明示的に
リンクさせる」という提言に戻ると、FTPLの限界に配慮して、注意深く考えられたものであることが
分かる。したがって、それ以上にも、それ以下にも解釈してはならないだろう。例えば、シムズ教授
は、財政健全化を放棄しろとは主張しておらず、無制限に財政支出の規模拡大を唱えているわけでも
ない。
ただし、注意深く練られた提言とはいえ、それでも、円滑にインフレ目標を達成できる保証はない。
例えば、消費増税延期によって国債のデフォルト確率が上がったと家計が考えれば、金融システムへ
の不安から節約志向が高まり、インフレ率は高まらない。また、仮に、インフレ目標を達成しても、
金利上昇のコストが金融機関に集中し、貸出や設備投資へのマイナス効果を通じて景気後退となるリ
スクもある。そうしたリスクも考慮に入れると、現時点で、シムズ教授の提言を全面的に受け入れる
のは時期尚早といえるだろう。現実的には、非効率な歳出の削減(経済財政諮問会議で議論されてい
る「ワイズスペンディング」)を優先して進め、それでもインフレ目標達成への道筋がつきにくい場
合には、再度の消費増税延期を検討することになろう。
なお、インフレ目標の達成を優先して消費増税を遅らせた場合には、当然ながら、将来世代に先送
りされる財政負担が増加するという問題がある。世代間の格差は許容できないほど大きくなっている
との見解に立てば、「当面の低インフレを受け入れてでも、消費増税を優先すべき」という考えも成
り立つだろう。インフレ目標の達成と将来世代の負担軽減(=早期の財政健全化)のどちらを優先す
べきかは、価値判断の問題であって、経済理論から答えが出るものではない。こうした価値判断が絡
む問題について、国民の間の妥協を図り、国家としての方針を形成していくのは、最終的には政治の
役割である。ただ、将来世代(まだ生まれていない世代)は、議会に代表者を送ることができないと
いう政治的に不利な状況に置かれていることも忘れてはならない。そうだとすれば、景気が回復して
いるにもかかわらず、インフレ目標達成のために消費増税を延期することは、極力慎むべきであると
考えられる。
5
補論.本文(1)式の導出
家計(民間部門)と政府しか存在しない単純な経済を想定すると2、家計は国債という形でしか貯蓄
をすることができないため、ある一時点(t期)において、
(A1)
1
という予算制約式を持つ。左辺第1項は、前期に取得した(したがって今期においては決定済みの)
に、(やはり前期に決まった)受取利子
保有国債残高
を加えた期初の貯蓄、第2項は期中
に得られる可処分所得(労働所得 -政府への純支払 )である。この今期において使用可能な資金
の合計(左辺)を用いて、消費 と貯蓄 の水準(右辺)が決定されるというのが、(A1)式の意味で
ある(なお、 は今期の物価水準を表す)。この式に、財市場の均衡条件(
、ただし は
政府支出)を代入して整理すると、次のような政府の予算制約式が得られる。
1
(A2)
⟹ ただし、
はt期における期初の名目国債残高、 ≡
≡ 1
は実質基礎的財政収支
と定義した。(A2)式は、名目国債残高の変化(左辺)が、今期の名目基礎的財政収支(右辺)に等し
くなる(基礎的財政収支の黒字分だけ、国債残高が削減される)という関係を表している。
(A2)式を将来に向かって繰り返し代入すると3、
1
1
1
1
1
1
⋯
となる。両辺を現在の物価水準 で実質化し、簡単化のため実質基礎的財政収支 と実質金利
1
/
/
を一定とすると、
1
1
1
⋯
1
1
(A3)
となり、本文(1)式が導かれる。
1
2
3
土居(2017)参照。
FTPL では、政府と中央銀行を合わせた統合政府部門を考えて、家計は国債の他にマネーの形で貯蓄することができるという定
式化が一般的だが、ここでは簡略化のため中央銀行を省略した(結論は変わらない)。
技術的には、政府債務の将来的な返済可能性を担保する条件として、次式も必要である。
lim
→
1
6
0
参考文献
Andrade, Moises S. and Berriel, Tiago C. (2016) “Is there an Output Free Lunch for Fiscal
Inflationary Policies?” Mimeo.
Cochrane, John H. (2001) “Long-term Debt and Optimal Policy in the Fiscal Theory of the
Price Level,”Econometrica, 69(1), pp.69-116.
Sims, Christopher (2016) “Fiscal Policy, Monetary Policy and Central Bank Independence,”
2016 Economic Symposium, Jackson Hole, Wyoming, August 26.
河越正明・広瀬哲樹(2003)「FTPLを巡る論点について」ESRI Discussion Paper Series No.35
木村武(2002)「物価の変動メカニズムに関する2つの見方―Monetary ViewとFiscal View―」『日
本銀行調査月報』2002年7月号
木村武・嶋谷毅・桜健一・西田寛彰(2011)「マネーと成長期待:物価の変動メカニズムを巡って」
日本銀行金融所『金融研究』第30巻3号、pp.145-166
土居丈朗(2017)「安倍政権を賑わす『物価水準の財政理論』とは」東洋経済オンライン、1月9日
[共同執筆者]
経済調査部主任エコノミスト
徳田
秀信
[email protected]
経済調査部主任エコノミスト
市川
雄介
[email protected]
●当レポートは情報提供のみを目的として作成されたものであり、商品の勧誘を目的としたものではありません。本資料は、当社が信頼できると判断した各種データに
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