1 以下「長崎編Ⅲ」に掲載 49: ルイス=デ=アルメイダの碑(桜馬場中学の石垣の角タバコ栽培の碑の側) 50: トードスサントス教会跡(春徳寺)(県指定史跡)(長崎市で初めての教会) こうだい 51: 皓台寺(寺町) 52:大浦天主堂(国指定文化財)(電車大浦天主堂下車歩いて 3 分) 53: 信者発見百週記念碑(大浦天主堂内) ら てん 54: 旧羅天神学校(資料館)(国重要文化財)大浦天主堂内) 55: ✤:マリアの像(大浦天主堂内) ✤:入口のマリア像 ✤:プチジャン神父像 ✤:パウロ二世来崎の像 教会横の石板の小道 56: 十六番館(廃館)(大浦天主堂道向) 57:大浦カトリック教会(大浦町) 58:幼きイエズスの会修道院(清心修道院) カトリック幼きイエズスの会教会 59:✞善長谷教会(大瀧町) 60: 南蛮船渡来の波止場跡(大波止) 61: 桑姫神社(長崎バス淵神社前下車・三菱武道館前) 62:神の島教会(神の島町) 63: 高鉾島(殉教の島)(神の島教会前の島) 64: 岬の聖母 ( 々 ) 65:大山教会(大山町) 66: 金 鍔 (戸町) きん つば 3)伊王島町(西彼杵郡)(町役場☎:095-898-2211) ①:馬込教会(国指定文化財) (伊王島町) ➁:大明寺教会 4)長崎市のキリシタン墓碑郡(❋追加) ①: 三つ山町のキリシタン墓碑 ②: 三原町の野石墓 ③: 経の峰墓地のキリシタン墓碑郡(市指定文化財) ④: 古賀町福端寺のキリシタン墓碑 ⑤: 悟真寺のキリシタン墓碑 ➅:柿泊のキリシタン墓碑 5)諫早市 (❋追加) 郷土館の十字を刻む石(諫早市郷土館蔵) 6)長崎県西彼杵郡多良見町 0:千々石ミゲル(千々石清左衛門)(伊木力) (❋追加)は荒木英市著「九州のキリシタン墓碑」より 40 史跡と教会を訪ねてー長崎編Ⅲ 作成 ペトロ (長崎市・時津町・伊王島町・多良見町・諫早市) 山本 覚(古賀) (49):ルイス=アルメイダの碑(電車・バス新大工町下車 15 分) 2003・10・31(金)・11・1(土)雨訪問(碑の前・路上駐車) ☆:10・31(金)は夕方日も暮れてよく見ることが出来なかったが、この場所を探していると中 学生の女の子が、車に同乗して教 えてくれた、周辺の歴史に詳しい、 可愛い女の子であった楽いしい デートをしたが、暗くて史跡が良 く分からず、翌日、再訪問した。 場所は桜馬場中学正門を通り 100m行くと、右の角に、この周 辺の観光名所を案内した案内板がある、この通りは、春徳寺通りと銘々され、通りの突き当 たりに碑はある。碑の上は春徳寺の敷地で墓地である。 碑は、一枚の大きな石板にポルトガル語で「1567 年ルイス・デ・アルメイダこの地に渡来布 教す」と記された碑が建っている。 ☆:1567 年(永禄 10 年)に長崎を訪れ初めてキリスト教を長崎に伝えた宣教師である。 (50):春徳寺(トードス・オス・サントス教会)(長崎県指定史跡)(Tel:095-822-1986) (新大工町徒歩 5 分) 2003・10・31(金)・11・1(土)雨 訪問(寺前に駐車) ☆:ルイス・アルメイダの碑がある左の坂道を 30m登りあがると寺がある、高台にあり寺の前か ら長崎港が見える、門前の左に碑は建っている、碑の左に施設があり写真を撮るのに困った。 門前に樹齢 5~6 百年の巨木がある、樹の幹周りは、10m 以上はあろう、悲喜こもごも総てを知 っているであろう、ここからの眺望も素晴らしい。 ☆ :大村藩の長崎知行であったベルナルド長崎甚左衛門純景が場所を提供し、1569 年(永禄 12 年)ガスパル・ヴィレラが長崎に初めて建てた教会トードス・オス・サントス教会である、庭 の片隅に“外道井”と呼ばれていた当時の井戸と祭壇に用いられた大理石の板が残っている。 41 ☆:1573 年深堀純賢の長崎襲撃のとき焼失したが、再建され、後に、コレジオ・印刷所・セミナリオもしば らく有った。 こうだい (51):皓台寺(寺町)(☎:095-823-7212) 2003・11・1(土)雨 訪問(路上駐車狭(一方通行)又は有料駐車場) ☆:甍が並ぶ寺町の端にある浜の町に近い大きな寺だ、門前は大きい門柱が立ちそこから本殿を望 むとかなり長い階段がある、周辺は墓、至る所墓だ、シーボルトの娘楠本イネの墓が母オタキ さんと眠っている、忠庵の墓を探したが数千もある墓から探すことは出来なかった、とにかく、 へいふりさか 坂(幣振坂)は長崎を代表する急勾配の坂である健脚な人でないと歩けない、一度経験すると 長崎の地理事情がわかる。 42 ☆:ポルトガル人宣教師クリストヴァン・フェレイラ(日本名:沢野忠庵)が埋葬された寺、迫 害・拷問により遂に「転 んだ」、幕府から日本人 名・子連れの妻を与えら れた日本人であった。一 組の切支丹夫婦の棄教を 証明する「転び証文」が 保存されている、証文に は、了順・了伯・忠庵と 3 人の証人の名がある、忠 庵すなわちフェレイラで ある。 寺町は、今も、古き長崎の面影を残した一角で古い民家が立ち並び、町の名の通り 13 もの 寺が甍を並べ大木に抱かれた苔むした町である。 永井荷風が「世界中で最も好きな 道の一つ」とかいっている。長崎 は一見、中国風な色彩華やかな、 また、文明開化の華やかな建物に 彩られたロマンチィクな街である と思われがちであるが、この一角 は、そのような文化に汚されなか った町であった、しかし、通りは 何故かオランダ石畳で、古来この 通りは変わっていないと案内文に ある、寺の最上段には、高島秋帆 の墓があり中北側には道富丈吉の墓がある。 43 (52) :大浦天主堂 (日本 26 聖殉教者天主堂) (国宝) (電車大浦教会下車) 2003・11・1(土)雨 (☎:095-823-2628) 訪問(有料駐車場) ☆ :この通りは、長崎文明開化曙の時代を、そのまま受け継いでいると思われ、長崎の当時残 した姿を代表する異国文化の場所だと 思われがちだが、グラバー邸も、この教 会も、石畳も全部人工的だ、騒々しい街 になり観光用につくりあげられたもの だ、長崎港はもう見渡せない、ただ変わ らぬ姿(地形)は、26 聖人の丘が見渡せ る、この丘の眺望は最高の場所であった ろう、今も変わらぬ 当時の姿は、教会正門にある聖母マリア の像が西坂の至聖を向いて建っている ことだけだ。 ☆:永年続いた鎖国令も江戸末期の 1845 年(安政元年)に日米和親条約が結ばれ約 200 年続 いた鎖国が解かれ、開港された長崎にはイギリス・フランス等の外国人が居留するようになっ た。 1863 年(文久 3 年)1 月 22 日フランス・パリ外国宣教会フューレ神父とジラール神父両神父 44 の設計図を基に熊本天草出身の棟梁小山秀の施工で建立した。 天主堂は 1864 年(元治元年)12 月 29 日竣工した、翌 1865 年(慶応元年)2 月 19 日祝別式を 行い日本 26 聖殉教者天主堂と命名された、1879 年(明治 12 年)拡張され、外壁も煉瓦構造の ゴジック様式に改築し 1933 年(昭和 8 年)日本洋風建築の初期を飾る代表的な建築構造物 として国宝に指定された日本最古の天主堂。 (53):信者発見百周年記念碑(大浦天主堂内) ☆:聖堂へ行く階段の左に庭 がある、その右にプチジャン 神父と信徒が描かれている 銅版がある、信徒の顔は後ろ 向きの図であるため喜びの 顔は分からぬがプチジャン 神父と喜びを分かち合い、神 に感謝している図である。 ☆:慶応元年(1865 年)3 月 17 日浦上在住のキリシタン数人がサンタ・マリアの像はどこと信仰の告白をした。 45 ら てん (54):旧羅典神学校(国の重要文化財指定)(大浦天主堂内) ☆:外観は海の色に塗られ明治時代の様式を残した 2 階建ての建物である。 ☆:明治 6 年(1873 年)キリシタン 禁止令が解除され各地に流配されて いた信徒が釈放されたのを契機にプ チジヤン神父は神学校の設立を計画 し 1875 年(明治 8 年)に完成、設計 はド・ロ神父、現在はキリシタン資料 室として踏み絵・マリア観音・納戸 神・コルベ神父の遺品を展示している。 (55):マリアの像(二十六聖人西坂を向いて立つマリア)と(大浦天主堂聖堂内右側) ☆:堂内の写真は撮れない、小祭壇の右にある、胸に幼子イエズス・キリストを優しく抱いた像 である、色も褪せ黄色みを帯びている。 ☆:教会内部の左右に小祭壇がある左はイエズスの御心の像・右に「マリアの像」を配置し 1865 年キリシタン禁教に屈せず密かに信仰を守っていた。 ☆:浦上の信徒が発した「サンタ・マリアの像はどこ?」と名指したマリアの像である。 プチジャン神父はこの喜びを横浜のパリ外国宣教会日本管区長ジラール神父に 1862・3・12 付け 手紙で報告している「天主堂の門は閉まっていた、男女小児 12~15 人ほどの一団が天主堂前に来 46 て、一人の婦人が胸に手を当てて“ここにおります私たちは、皆貴師様と同じ心でございます、 私たちは浦上の者でございます、サンタ・マリアの像はどこ?と尋ねました」そのマリアの像で ある。 (56):十六番館(グラバー邸下)(廃館) 2003・11・1(土)雨 訪問(駐車場なし)(2006・4・閉館) ☆:東山手十六番地に建てられた日本最初の女子高等教育の学校である、昭和 34 年現在地に移 された、今、資料館としてキリシタン・グラバー氏の遺品・古いギヤマン・ビードロ等が展 示されている。 ☆:私は、遠藤周作の著書「沈黙」を読 んだ、目的があって読んだものではなく、 ただなんとなく読んだのがこの本であ つた、しかし、この本は私に「信仰とは 何か」を考えさせる本であった、あれか ら二年過ぎる、改めてこの踏み絵をみた、 まだ分からぬ、史跡の現地・石碑を自分 の足で歩いて、確かめ、思い、考え「信 仰とは何か」を求めて生きたい。 ☆:多くの踏み絵がある「これは後で造ったものですか」と説明者に聞くと「当時のものです」 と言う、純心大学の宮崎先生は「にせもの」(本物は国立東京博物館にある)と言う、私は 「にせもの」とは思わない、展示品の中に、気になる一枚の踏み絵がある、薄暗い館内の照 明に照らされている踏み絵の右上の枠に、薄黒く墨をこぼしたような染みがある、踏み絵の 枠端に残された「汚れ」は本当にためらった汚れのように思えてならない。 当時 6 万人の信者が踏み絵を踏んだ、中には「躊躇い疵があり」「汚れも」も意識的に出来 ると思う、この「汚れは」は、踏んだ多くの人が残した、ためらいの「汚れ」であろう「疵」 であろう。 ☆:この、汚れ、疵が「何を」意味するのか私には分る、キチジロウ的苦しみが分かる。若し私 が当時の切支丹であれば、いや、今の私は踏まないのか?いや、私は、踏んだであろう、 「踏 み絵」を踏み、そして「転び」転んでなお密かに「ぜず・きりすと」と叫び「子育て観音」 47 や「白衣観音マリア」にマリアを見立てて納戸神で祈ったであろう。 踏んで転んだ弱者としての負い目、哀しさ、後ろめたさゆえにこそ、私は「私を許しくれる」 優しい母親としてマリアにすがったであろう。 これが「沈黙」の中で、キチジロウが「踏み絵ば踏んだもん(者)には、踏んだもん(者) の言い分があっと」つぶやいた意味ではないだろうか。しかし、沈黙のキリストはキチジロ ウの思いを知っていながら沈黙している。 「踏むがいい お前の足の痛さを この私が一番よく知っている」 (「沈黙」から) (57):大浦カトリック教会(聖ヨハネ五島)(大浦町) 2003・11・1(土)雨 訪問(駐車場なし) :大浦天主堂の前、天主堂を一般に開放したため 地域信徒の為新たに作られた、一階は商店街、 教会は 3 階になる。教会の正面は広い階段で信徒会館、教会の屋根は 青銅その上に高い塔があり十字架がある。 48 ✝:大浦天主堂横の小道(遠藤周作が好んだ) (58):カトリック清心修道院教会(幼きイエズス) 2,006・1・18(水)雨(駐車場あり) 大浦教会の先約 200m右に古風で重 厚なレンガ造りの建物があるイエズ ス会古来の建物で戦中は軍の司令部 として使用されていた。 :今、長崎では五島・平戸・長崎を結ぶ 三角形の教会群を世界遺産として申請し ている、この建物は世界遺産に申請した建 物の一つである。 建物の中に実に素晴らしい聖堂がある、私 は方々の教会を見たがこの教会は温かさを感じるそして大変落ち着ける。 祭壇はゴジック式で古風で重厚な歴史を思わせるものであるが聖堂全体は柔らかい温かみがあ る。 49 ぜ ん ちようだに (59):善長谷教会(巡回)(無原罪の聖母)(大籠町) 2003・11・1(土)雨 訪問(駐車場あり) ☆:この教会は、長崎でも深堀の奥地で僻地にある、香焼の方へ行く途中、自動車学校の前を通 り、少し先の交番前に信号機がある、そこから左に海岸沿いに行くと、途中大きな新しい道 に出る、そこから暫く行くと左の橋の手前に教会の案内板がある左折し登りあがると教会が 見えて来る。 ☆:教会から見る長崎外港の眺望は、外港にある総ての島が見え、広い海の先には樫山が見える、 教会前の大木には鐘が吊るされ時を知らせている広い海には、マリアの海を感じ、神の恵み を受けているように思える、ここには、平和を感じる。 賢者達は迫害時には山中の耕地を耕し辺地で隠れて生活していた。 ☆:文政 6 年(1823 年)外海地方(東樫山)よりの隠れキリシタン 7 戸が移り住んだことに源を 50 発すると言われているが、その後西彼三和町岳路へ別れて移り住んだ半分は改宗しないまま で居るのに対し、現在地に留まった者は改宗した、善長谷はその子孫である。 (60):南蛮船来航の波止場跡(天正の少年使節が出発した)(大波止) 2003・10・31(金)訪問(路上駐車) ☆:大波止と呼称されるが、変わった大変貌だ大きなビルが建ち商店が並びホテルが建った。 ☆:大波止から少し大浦天主堂よりに行くと、中島川 に掛かる出島橋があるそこが出島であるポルトガル 人の居留地があった、1582 年(天正 12 年)2 月 20 日少年使節伊藤マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリ アン・原マルチノの四人はここ大波止から出帆した。 (61):桑姫神社(淵神社内)(渕町バス淵神社前下車) 2003・11・1(土)雨訪問(駐車場あり) ☆:期待せず神社の片隅にでも祭られているのかと思ったが神社の左に案内柱を設け赤い鳥 居には桑姫神社の鳥居まであり非常に大切にされている。 当日長崎日ロ教会・海の長崎学研究会・旧淵村の歴史を顕彰する会の各会長をしている松村 秀雄氏と会う、氏は淵神社について詳しく桑姫神社の由来について説明を聞いた、桑姫がい た当時のこの周辺は蚕が盛んで至る所桑畑であった、桑姫も生活のため繭をつぐんでいたと 言う。 51 ☆:日本に三箇所(外海町の「枯松神社」・伊豆大島の「おたあね神社」)しかない珍しいキリシ よしむね タン神社の一つで大友宗麟の子義統次女阿西御前を祀っている。大友家が滅びたとき数人の 子孫が長崎に亡命した、その中の宗麟の孫マセシアは 1605 年(慶長 10 年)19 歳で亡く な ったが徳の高い人で、この年のイエズス会年報にその事が記されている。 蚕を育てて生活したので桑姫として知られた。大友の家臣の1人が祠を建てたが、後年神社 に移され桑姫神社として祀られるようになった、現在、長崎ロープウエーの入り口に桑姫の 碑だけが残っている。 ここの宮司は桑姫が大友宗麟の次女であると言う自説を持ち、一般的な説である大友宗麟の孫 姫説と対峙し桑姫神社の説明案内は作れないと言う。 (62):神の島教会(聖フランシスコ・ザビエル)(神の島 2-148)(☎:095-865-1028) 2003・11・1(土)雨 訪問(教会下に駐車場あり) ☆:旭日大橋を左に渡り、三菱重工の方へ走る、三菱の正門を過ぎると信号がある左に行く(神 の島方面の案内板がある)とトンネルが2つある、2 つ目のトンネルから左に海岸沿いに走る と右に白亜の塔が見える。 ☆:駐車場の横から教会まで35度勾配の階段87段を登り上がった、ここの信徒は健脚揃いだ ろう途中一回休んで登った。 ☆:外壁は塗り立てたばかり、ことのほか白亜の教会が特別美しく神の棲家として、これ以上の ものは無い、長崎外港にあって長崎で起こったキリシタン迫害で殉教した聖者たちの遺体は、 この海から外港に流された、ここの信徒と聖職者は殉教者の霊を慰め、信仰を守っていた。 52 ☆ :長崎の矢上・諫早・佐賀等からの移住民、明治 9 年(1876 年)仮教会が建ちフランス人宣教師 であったが、現在の教会は、明治 39(1906 年)に建てられ、邦人司祭が司牧となる、長崎市内で は大浦天主堂についで二番目に古い教会である。 (63):高鉾島(殉教の島)(神の島教会の前) 2003・11・1(土)雨 訪問(教会の駐車場) ☆:教会横に案内板がある 1617/10・2 殉教し たガスパル彦次郎はナバレット神父・アンドレ 吉田はエルナンド神父の宿主であつた、二人は 平信者として長崎では 26 聖人以降最初の殉教 者となった。 ☆:1617 年(元和 3 年)二名の信者が殉教し た、又、島の海岸では多くの信徒が殉教し、付 近の海には西坂の丘の殉教者の遺体と共に投げ込まれた。 53 (64):岬の聖母(神の島教会前) 2003・11・1(土)雨 訪問(教会の駐車場) ☆:沖合いの島にある聖母像は、陸地より歩いていける島の手前に鳥居がある、これは島へ上がる 麓から島の途中に仏像がある仏教徒がキリシタン殉教者を慰霊したのか? ☆:聖母の像は白亜で高さ 4・6m、S、24 年フランシスコ・ザビエル渡来 400 周年を記念して世界平和と航海安全を祈ってこの地に立てられた。 風雨の傷みにより 1984 年 6 月 19 日に再度建立した、製作者ファロニー師(サレジオ会イタリ ア人)による。 長崎外港に置かれた聖母の像はここを行き来する人々に癒し、安らぎを与える。 ☆:干潮時には陸続きとなる)毎年、聖母月の第一日曜日に聖母祭が行われている。 (65):大山教会(絶えざる御助けの聖母)大山町 569 ☎095-878-4093 2004・1・24(土)駐車場有 ☆:朝から降雨で動けず昼からの行動となった、なんと大変な場所であった、長崎市内からバ イパスを通る道を香焼の方向へ走ると途中、活水大学が見える、その手前に歩道橋が見える手 前から左折するバス道である暫く走ると右に水源地がありその前に左に「大山教会」の案内標 識があるそれに従い細く狭く曲がりくねった坂道を登る、当日は雨後霧で 10m先が見えない離 合の場所もない大変な所に来たものだ長崎に未だこの様な道と場所が在ったかと思った、後日、 54 長崎の信者 10 数名に大山教会の有り場所を聞いたが誰一人行った人は居なかった、浦上・大浦 教会も有名であるが 140~150 年の歴史を持つ教会である。 ☆:教会は外壁がレンガ造りの大きな教会である正面は長崎港に向いていて入口には青く大きな塔 を持ちその上に大きな十字架が掲げられている。 聖堂内天井は舟底形で祭壇は平型、後ろの左右にイエズスとマリアのステンドグラスがある左 右は大きな窓がありセンターには真紅のカーペットが張られ見事なバランスを持っている 200 人は収容できる大きな教会である。 ☆:大山に外海のキリシタン信徒が黒崎村永田から 10 戸が移住したのは今から 140~150 年前弘化 年間(1844~1847 年)に移住して来たのに始まる。 大山へ移った信徒は他の信徒に比べ比較的キリシタン禁令が緩かった佐賀藩領地で深堀領への 移動が遅く既に長崎近郷の伊王島・木場・木鉢・善長谷へ行ったが土地が狭い・信者が密集す る危険等により住むべき場所を探すのに苦労したが一族の水方であった市兵衛が深山の丸山に 住居を決めた。 ☆:大山のキリシタン迫害 1868 年(明治元年) 「浦上四番崩れ」から長崎全県キリシタン迫害が始まり伊王島・陰の尾・高 島・大山の頭目と見られる 67 人のキリシタンが捕らえられ「佐賀藩流罪」となった、殉教を覚 悟で旅立ったが 46 日で釈放されたがこの流罪は「深堀領キリシタン佐賀送り」事件として大き な問題になった、明治政府はこの問題が外字新聞に出たので急遽佐賀県にキリシタン釈放令を 出した。 きんつば (66):金鍔 2004・1・24(土)路上駐車 ☆:長崎市から香焼方面へ下道を行くと途中 戸町トンネルを過ぎると切り通しへ出るそ の先にバス停「金鍔」でる、金鍔とは長崎歴 史懇談会が付けた名前で話の根源は外海キ リシタン洞窟でおなじみのトマス金鍔次兵 衛神父に付けたニックネームである。 ☆:トマス金鍔次兵衛神父は1602年大村 藩身分の低い武家に生まれ有馬のセミナリョを卒業後マカオ・フイリッピンに留学しアウグス 55 チノ会へ入会した、司祭として 1631 年帰国し長崎奉行の馬番屋として住み込むがキリシタン疑 惑が広がり外海で捕らえられ 1637 年 11 月西坂で穴吊の刑で殉教した、神父が馬屋番として差 していた刀の鍔が金であったことから「金鍔」と呼ばれていた、長崎で隠れていた所が「金鍔」 と呼ばれる今の場所である。 (3)伊王島町(町役場☎:) ☆:ここ数日、長崎は久しく豪風雪に見舞われたが今日は天気も良く、波も静か、この上ない船旅 である、船上から見る長崎も大変貌を遂げようとしている女神から対岸に大きい女神大橋を架 ける工事が進んでいる長さこの美しい港の風情が破壊される寂しい風景になる。 伊王島は長崎港の西端沖合い 10kmの海上にある、長崎から定期便が出ている片道 30 分、キリ スト教弾圧・迫害があった江戸期外海から移り住んだ潜伏キリスタンが生活していた。 1878 年(明治 6 年)キリスト教解禁されて島外へ逃げていた信者や流刑に処されていた信者も戻 りカトリックに復帰した島の人口の 60%が信者である。かつて、この島は、炭鉱で栄えたが今 は海上レジヤーが盛んであるが漁業が主力である、又、年間 25 万の観光客がある。 (1):馬込教会(大天使ミカエル)(国重要文化財)(☎:095-898-2054) 2004・1・23(金) ☆:伊王島町沖ノ島にある桟橋から左の方に約 20 分歩くと右上に鋭角な多塔を持ちセンターの塔 はひときわ大きく先端には大きい十字架が輝いている。 56 外観は白亜、聖堂は碧い海を向き重厚な構えを持ち、内部は八分割のコウモリ天井、木造のゴジ ック式祭壇は古くいかにも古い教会の歴史を思わせる、教会聖堂入口には「国の重要文化財」の 標識が掛かつている。 ☆:明治 4 年(1871 年)8 坪の仮教会を建てた、信徒の増加によって明治 23 年ゴジック式の教会 を新築したが台風のため倒壊した 1931 年(昭和 6 年)に再建されたもので 1992 年(平成4年) には外装の修復工事が行われた。 明治 23 年(1931 年)に建築された旧聖堂は、島原の乱後この地に移住していた潜伏キリシタン が 1884 年にカトリックに復帰したのを受けたものである。 (2) :大明寺教会(聖パウロ) (巡回) 2004・1・23(金) ☆:船着場から右折し約20分歩くと左に伊王島小学校がある、その先は二手に分かれる、左に登 り上がると右側に大明寺口のバス停がある、手前左に手摺りが付いた細い道を登り上がると教会が 見える。 教会下に信者の墓地が見える海を背にして教会の方に向いて建っている。 57 教会は碧い海に向かって建っている、モダンな構造で菱形をした建物だ、正面入り口上には独立し た三角形をした高い塔がある塔の上には大きな十字架が架か りその横にあるアンジェラスの鐘がある、外壁は白、屋根は茶 誠にコントラストが美しい碧い海に映える教会だ、心の安らぎ を覚える、聖堂内部は平の祭壇と中央に真っ赤なカーペットが 敷かれている、約 100 人程度収容できる。 ☆:旧教会は長崎では大浦教会についで古く明治 12 年木造の 教会を建てたが、愛知県の明治村に引き取られ、今の教会は昭 和28年に建設に着手したが完成したのは昭和 48 年 9 月コン クリートの教会が完成した、永年の苦労を思うと信徒の深い祈 りと篤い信仰が生きた教会であろう、信仰が生きている。 4)長崎市内のキリシタン墓碑群 ☆:伊王島行きの船の時間には未だ早く、近くの紀伊国屋書店に寄った、郷土書を覗くと荒木英一 氏著「九州のキリシタン墓碑」 (十字架に祈りて) (出島文庫)が目に留まった、墓碑に係わる説明 書も記載されカラーの写真で詳しく紹介されており私は魅了されすぐさま購読した。 船内で読むにつれ、居ても立ってもおられず、明日予定の長崎市内の「皓告寺」行きを中止し長崎 市内のキリシタン墓碑を見るため雪降る中を東奔西走した、先祖を大切に思い見事に管理されてい る墓も在れば、在るがまま荒れ放題の墓もあるその一部を紹介したい。 (1):三つ山のキリシタン墓碑 2004・1・25(日)・(月)駐車路上 ☆:三つ山教会の先、犬継バス停から150 m先の右側の下る道を行くと長崎バイパス 高架に架かる新平床橋を通ると右に小谷墓 地が見える変則四差路にでる、車はここまで 右の道を行くと塗装店の倉庫がある細い山 道を登ると正面に墓地が見える。 58 ☆:狭い道は降りしきる大雪で、一面雪化粧で美しいが積もった雪で歩きづらい、竹林に囲まれた 石碑郡は絵になるほど美しい、墓は整地さ れてなく伏型の墓碑は雑草で覆われその上 に雪が積もり、立柱の墓碑しか分らなかっ た、墓は荒れ放題であった、雪を払い、雑 草と蔦を取り除くと、そこに顔を出した墓 碑郡は当時のキリシタンの歴史をそのまま 残し秘めた信仰を重く思わせ印象に残る墓 碑郡であった。 ☆:墓地は 6 段からなり、一番下は仏式墓碑が並び、2 段目は鋭角で大太刀を立てたような姿で立っ ている無名・無紋の素朴な墓が拾数基並んでいる。 三段目は伏石墓碑と野石墓碑が拾数基並んでいる、この墓石の下に眠る先人は弾圧迫害の時代に葬 られたキリシタンの伏石墓碑・野石の墓碑では無いだろうか、その墓碑には蔦が絡み、雑草が覆い その様には落涙の思いであった、四段は道上にあり野石と伏石の墓碑郡である。 a:5 段目は左奥竹林の側に3つの伏石墓碑がある、竹林に近い小さい伏石墓碑の真ん中に小さい十字架 が彫られている、素人の手になる彫り方である。 この墓は表面を蔦と枯葉に覆われその上に昨夜降った雪が墓石を隠していた、見つけるのに散々苦 労したが石碑に彫られた小さい十字架を見つけたときは嬉しく何回も十字架をなぞった、墓石は長 さ 80cm幅 59cm彫の深さは 0.3cm程度である、この石は他の墓石と比べ小さい、子供の墓だろ うか・・・・と思い巡らし、彫人の流した涙を思いをめぐらし、思わず「主の祈り」を唱えずには おれなかった。 b:5 段目には柿本家の先人がキリシタン禁令から解放された後建立した墓碑が土手に立てかけられて いた、この墓碑は、明治6年キリシタン禁令が廃止されキリシタン墓碑も自由に建立出来るように なった以降の墓である、この墓碑には十字架・霊名・紋・氏名等が刻銘に印されている、明治17 年西浦上村(大村藩領)とある、ここに眠る先人は、浦上4番崩れで「旅」をお終え浦上に戻った キリシタンであろうか・・・・ ✰:更に、この墓碑郡とは別に、この奥にキリスト教信者だけの墓地がある墓碑は荒れるがままであ る迫害・弾圧・苦しみの中から信仰をつないだ先人の思いはこの墓地には無い。 59 (2):三原台のキリシタン墓碑群 2004・1・25(日)駐車路上 ✰:フランシスコ病院から本原教会のほうに行く教会の手前に本原郵便局がある、そこから右へ下 ると川渕へ出る、右折し橋を渡り直ぐ左折し直ぐ右折する、坂道を登り上がると法泉寺前にでる。 神仏混交の広く大きい墓地だ、墓は仏教徒の墓とカトリックの墓に分かれているがカトリックの墓 が圧倒的に広く大きい、余りにも多量の墓碑群である為野石の墓地を探すのが大変であった。 a:野石墓碑(5基) ✰:寺から5つ目の細い道を進むと黒い墓 石で本田家・山田家と続く墓がある野石は 後方本田家にある。 野石墓碑は伏碑(冠石)の洋風の形をして いる、この形はキリスト教布教時各地に見 られる形である。 キリシタン禁止令以降墓石には立柱の仏式 で石塔・戒名を刻むことを命じられたがこ の 5 基は無名の墓碑となったが伏石で潜伏 キリシタンの信仰を守り通した墓である。 b:伏碑墓碑(1) ✰:明治 6 年以降浦上の信者岩永龍造の逝去時に合わせ明治 2 年に死亡した岩永ツ子と共に祀る西 洋式伏碑である「浦上4番崩れ」で「旅」をしたであろう、墓は十字架の輪郭もくっきりと鮮明に 彫られ、心あらわれる綺麗な花が添えられていた。 c:伏碑墓碑(2) ✰:安政元年(1854 年)に没しキリシタン禁令の為墓碑も建立出来なかったが信仰の自由を得た明治 6 年以降建立したシナセダ片岡?二郎とジナ片岡セキの墓がある。 (3):経の峰のキリシタン墓碑群2基(長崎文化財指定) 2004・1・25(日)路上駐車 ✰:長崎大学病院正門の前を通り坂道を登り上がると左にマンションがあるその先左に道上公園が 60 ある、車はここまで、その先から左折し階段を登りあがると坂本 3 丁目 5‐28 高橋さん宅横から坂 道を登り上がると橋本家と相川家の大きな墓がある史跡はその先西田家の墓にある。 ✰:長方形で勾配がついた屋根の型をした墓碑が2基、平たく長方形の墓碑が4基計6基が墓地の 両隅に置かれている、史跡の1基には「おそも明和 4 年(1767 年)亥 5 月 18 日」と「明和 7 年(1770 年)寅 3 月 11 日忠吉」と刻字されていたが今は履落し読み取れない、墓碑は、長さ 124cm高さ 25cm幅 68cmである。 長崎市の史跡案内文によると「キリシタン墓碑とはキリスト教と共に伝わったヨーロッパ方式の墓 石を云い伏碑(冠石)の洋風の形が特色である。 ✰:キリシタンを禁じた江戸幕府は 墓石に仏教式石塔に戒名を刻むこ とを命じたが潜伏信仰を守り通し た浦上のキリシタンは、キリシタン 墓碑を用い続けたので寛政年間 (1789~1800 年)に長崎代官の取 調べを受け破壊を命じられた、しか し、浦上の人は破壊しなかったので 今日までキリシタン墓碑洋式の墓 が残った寛政 8 年(1796 年)に長 崎代官が「異形の墓碑」を調査した記録に名前がある貴重なものである。 寛政の取調べ以降浦上のキリシタンは、キリシタン墓碑に変えた野石(自然石)を用いるようにな ったのでここに 2 つの様式が残っている。 近世初期のヨーロッパ墓碑を伝える民族資料としても信仰弾圧下の抵抗心理をものがたる、遺物と しても歴史的価値を持つ」と説明されている。 ✰:この文に「抵抗心理」とあるが・・・・・抵抗する為ではなく、キリシタン信仰を守り通した 墓碑である、市の説明文は当時のキリシタン信仰を守る為の信徒の「信仰真理」を現したものであ ろう、市の説明は史実の真理であろう、表現にはキリシタン真理の説明が不足していると思う、数 百基もある広い墓碑には未だ沢山の自然石の墓碑が残っている。 61 (4):古賀町福端寺のキリシタン墓碑 2004・1・26(月)寺の駐車場 ✰:国道 34 号線を諫早市の方から長崎 バイパスを通らず左の東長崎のほうに 走ると古賀町の信号機がある、手前に 親和銀行(18 銀行?)が見える、その 信号左に寺があるそこが福端寺である、 信号を見をとし、過ぎたら右に交番が あるいずれにしても寺は道沿いにあり 分かりやすい。 ✰:本殿右奥に住職の住居がある、住居 の庭にこの半円楕円形(半円柱蓋石= 蒲鉾形)の石碑は丁重に置かれている、端部には花十字が鮮明に彫られている、長さ 150cm高さ 67 cm幅 46cmで比較的大きい墓碑である。 ✰:この地は、当時、島原藩の所領地で松倉重正が治めていた、寛永 4 年(1627 年)フランシスコ大 曲喜助・妻エレネ・養母アグネスの 3 人斬首、寛永 7 年(1630 年)には五反田でミゲルと言う青年が 父系助らと共に 4 日間鋸で首を引かれ殉教した、この残忍な刑を執行したのは松倉重正であった。 (5):悟真寺のキリシタン墓碑 2004・1・26(月)寺の駐車場 ✰:稲佐橋から稲佐山登山口の方に行くと、悟真寺通りに出る左に稲佐警察署が見える、その反対側 に寺はある寺の横を右折すると寺の駐車場がある、稲佐国際墓地を管理している大きな寺である、寺 は隅々まで手入れされ「寺の心」が現われっている。 ✰:この墓地は、中国・ロシアの墓が多くヨーロッパ・アメリカ人の墓は坂本町の国際墓地にあり両 国際墓地が人種で区分けされているのも面白い。 ✰:入口の両サイドは人工の池が掘られていて中国の墓と関係する池らしいが私には分らない、墓地 は登り勾配で左にロシア人の墓・右手に中国人の墓が並び人目で外国人墓地と分る、墓地全体が良く 整地され墓地公園である。 62 ✰:墓は没者の経歴・写真を添えた ものが多く、誰が埋葬されているの か判る、この形の日本人墓地は無い。 全外人の墓地の中に、しかも、墓地 の中央に真新しい大きなカトリッ ク信者の墓地がある。 ✰:キリシタン史跡はロシア人墓地 の最上段の木下にある形は半円筒 の伏石墓碑(蒲鉾型)である、京都帝国大学文学部考古学研究報告(新村 出 1923 年)にも報告さ れている「全体は蒲鉾型の石棺蓋状のものして長さ 4 尺 3 ヶの石を隣接してつくる、その壱面耶蘇の 徴章を現し縁辺にも欧字の如きものあり表面には何等文字無し・・・・・」とある。 (6):柿泊キリシタン墓碑 2004・1・26(月)路上駐車 ✰:県道 112 号線長崎・式見線を城栄町より小江原総合運動公園方向に走る公園を過ぎると長崎バ ス停「手熊」の手前から左折する約 30m先左に史跡案内標柱が立ってい る。 目先に白髪神社がある麓から 140 段 の急勾配を登る、この巡礼も体力が ないと続けることは出来ない、息絶 え絶え登り終えた、頂上は神社の本 殿である、そこを右に行くと「キリ シタンの石碑」と書いた標柱が立っている、雑木林を過ぎると「史跡案内板」がある、その先ブド ウ畑の先に 2 基並んでいる。 ✰:この地は、当時、大村藩の領地で福田村と呼ばれ西海町の横瀬浦から貿易港を引き継ぐと同時 に、キリシタンの布教が行われ多くの人が改宗した、福田村を治めていた地頭福田兼次が藩主純忠 の命によりポルトガル船との貿易港として福田港を開港した、受洗し霊名はジュウチンであった。 ✰:旧福田村出身の郷土史家の林純夫氏によると、2 基の墓石は福田家 17 代兼次とその夫人の墓で 63 はないかと推定している。 墓碑は幅広く薄型で珍しい形である、この石が墓石と見做されるところは2基のうち 1 基が墓碑中 央に 3cm×2cmで深さ 5cmの四角い穴がある、これは例祭の時十字架を立てたといわれる。 5)諫早市のキリシタン墓碑 2004・4・31(水)駐車場有り 十字を刻む墓碑(諫早市郷土館) ✰:国道34号線を長崎から来ると宇都の信号機より右折し次の天佑禅寺の信号機を右折すると右一帯 が天佑禅寺である、この前の高台に郷土館がある、駐車場もここにある。 ✰:古い門構えで門から玄関入口まで のアプローチまで桜が満開であった見 事な桜のトンネルを潜る、郷土館では 2 人の館員が対応してくれたキリシタ ン史が不得手であると言っていたが郷 土史家では諸説紛々で解明は今後に待 つと言っていたが屋敷の石垣から発掘 されたことから屋敷神であったろうと も言われている。 岩石は「玄武岩」だと思う、表面は疵一つ無く丁重に扱っている。 ✰:このまま墓碑とするには小さい、一辺が欠けているがこのまま石垣に隠し礼拝用に用いられたもの と考えるのが・・・・・とおもうが、十字架は克明で鮮明に彫られているが優しく温かみがある。 64 6)多良見町 千々石ミゲル(千々石清左衛門)の墓 2004・4・27(月)路上駐車 ✰:国道 34 号線を諫早市より長崎の方へ行 くと多良見町の化屋の信号がある右折する (時津町方面への案内がある)国道 207 号 線である道なりに走ると途中右に「のぞみ 公園」がある、更に走ると左に大草駅があ る、更に走ると道が二股に別れる左折する と左にファミリー(酒屋)がある、ここか ら左折すると右の方に小さい陸橋がある史 跡はこの手前左上にある。 ✰:千々石ミゲル(千々石清左衛門)の出身地は島原半島の千々石町である、天正少年使節団の 1 人で 有馬晴純仙巌の孫、大村純忠の甥、有馬晴信の従兄弟であり釜蓋城主であった(1569 年築城)、帰国 よしあき 後大村藩主大村善前に使える、1606 年善前が棄教するとそれに従い法華宗に改宗した、そして、イエ ズス会を脱会し妻帯した。 また、大村藩を追われ有馬藩に仕えたが有 馬藩も追われ以後の消息は不明、晩年は長 崎で過ごしたと言われていたが・・・・・ 以後の生活は分らなかつたが。 ✰:最近(2004・2)千々石ミゲルの墓が発 見された、場所は長崎県多良見町山川内郷 い き り き で、この地は旧大村藩領で、この地の伊木力 村はミゲルに与えられていた領地であった と言われる、ミゲルは永禄 12 年(1569 年) に千々石に生まれ発見された没年が寛永 9 年(1632 年)とすれば 63 歳の生涯である。 65 ✰:今回発見された墓は建塔者がミゲルの四男千々石玄蕃の名が碑の裏に刻まれている、表は自性院妙 信霊と本住院常安霊とあり没年が寛永九年壬申年十二月とある、両親の墓であろう 碑は高さ約 1800mm幅約 120mmと大きい墓碑である。 千々石玄蕃の娘が嫁いだ大村藩家老浅田安昌の菩提寺で西彼杵郡琴海町戸根郷にある日蓮宗自證寺 に「自性院常安」「自性院妙信」の位牌が安置されている、この地は潜伏キリシタンが多くいた所で ミゲルも浅田氏に保護されていたと思われる、「自證寺」は浅田氏の祖母「自性院妙信の供養の為建 立されたものである、が浅田氏は「イエズス会 1617 年報」に禁教令下にも信仰を貫いたと紹介して いる、ミゲルは信仰を捨て潜伏したように見せかけキリシタンの里で暮らし復宗したのではないかと 思われる。 よしさき ✰:墓碑には「妙法」が刻まれている、これでミゲルが法華宗であることが分かる、大村藩主大村善前 の棄教によりミゲルも棄教し、妻帯し、藩主に従ったが大村善前に「殺されかかり」恨みを持つよう になったとも言われる、大村藩から旧領主有馬藩へ逃げたがここも追われるように姿を消した以後消 息不明となった、帰国後ノミゲルは辛酸な生活を送った事は分かっていたが終焉をこの地で迎えたこ とであろう事が分かった。 ✰:墓は道上の高台にあり、周辺にはこの地の有名な名産「伊木力みかん」畑が多くその中に建ってい る、今、周辺は史跡までの道路工事の最中で史跡は丁重に管理されている。
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