た。そのため、村の困窮は甚 社、北東に多賀神社がそれぞ に 館は、田川左岸の低台い地 な り 位置しており、北西に稲荷神 こ んきゅう はなは ています。川中子村は、これ だしく、たびたび助郷役の免 れ氏神として祀られていまし 郷土かみのかわの歴史・文化財 除を願い出ていました。 た。西側にはかつて川が流れ か て ん ぽ う ご うちょう しもかわ な なか まる むら じ うちむら なか おち あい むら むら まつ こ ぬか うち ご むら ちん た はただか ご ま け い あ ん ご うちょう え ぶん か け ん ちょう 年 よこ た よりなり け い ちょう ます。 けての歴史は色濃く残ってい が ら七ヵ村の総称でした。 て、字上落合には和泉守 ちさ かつな ち くじょう お ち あ いやかた 親綱が築城した落合館があっ ており、田川とともに自然地 かみ か も う かみこうぬし しもこう 町域の中央部西 代の天保郷帳には、 川中子たはが、 江戸時 わ かわ な ご むら かみ おち あい むら 寄り、田川左岸の低地に位置 「 古 者 川 中 子 村・ 上 落 合 村・ やな わき かいえき き のう た した。村内の家数は、文化 た と い わ れ て い ま す。 親 綱 形が防御の役割を果たしてい おおやま じゅ からす や ま は ん 年(1815)は 戸、天保年 は、 建 長 元 年(1249)に ました。 ぬし ぬくい し ょりょう うじがみ 間(1830~1844)は 上三川城を築いた横田頼業の ご 戸です。慶安郷帳には、当時 玄孫です。落合館は代々親綱 川中子に落合館はもうあり ませんが、中世から近世にか な の田畑高が記録されており、 の 子 孫 が 継 承 し、 慶 長 か わ 中 落 合 村・ 中 丸 村・ 小 糠 内 大麦・小麦・荏胡麻・木綿な あか さ まき いずみのかみ しています。東は上蒲生、西 村・鍛冶内村・下川中子村七 どが作られていたことが分か (1597)の宇都宮氏改易に そう ち お あざ 主・大山・梁と接しています。 ヶ 村 」と あ り、 そ れ ぞ れ が 鎮 は田川を隔てて上神主・下神 守・脇鎮守を祀り、小さな集 伴い、所領を返上して帰農し 地名の由来は、この ひら 戸時代の初めは烏山藩 りょ江 う ば く ふ りょう 領で、のちに幕府領となりま 地区内を田川・赤沢川・温川 落を形成していました。惣鎮 ります。また、農作業の合間 ました。 上三川の地域と歴史 川中子 が南流しています。川中子の 守の熊野神社は、鍛冶内村内 に男性は薪を作り、女性は木 川の内側に拓けた集落の意と やしゃご 本の河 に鎮座しています。各村の地 綿を織って賃金収入を得てい えんてき ました。田川の豊富な水量を わりつけ 利用して、水車商売を営む者 ねん ぐ もいたそうです。 お、当時の年貢の割付と じょな うのう 「川中 上 納の状況を記録した 子 村 年 貢 割 付 状 」は、 町 の 指 定有形文化財となっています。 すけごうやく 列の 川 中 子 村 は、 大 名 行 い し ば し しゅく 通 過 な ど の 折 に は、 石 橋 宿 の助郷役を課されました。川 中子村に限ったことではあり ませんが、小さな農村にとっ 人・馬 て人馬提供は大きな負担でし やと 田川から臨む川中子 ( 奥は落合館があったといわれる地 ) 12 48 頭もの労役を割り当てら た。時には、人足約 約 90 2 65 れ、足りない人馬は賃金を払 40 って他の村から雇っていまし 広 報 か み の か わ 29.2.1 17 縁的結束は強かったといわれ いわれています。 ※大字界は正確ではありません。 3
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