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第
回
青森
タイムトラベル
【問合せ】 市民図書館歴史資料室
― ―5271)
(☎
西部地区の発展と変わる街並み
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鉄道敷設と「松前街道」
明 治 年( 1 8 9 1 )、 青 森 ― 東 京 間
の鉄道が開通し、安方町に青森駅が建設
年に駅舎が南
が、明治
通るようになりました【地図①―C】。
され、「松前街道」の利用者はこの踏切を
年に新庁舎(現青森市森林博物館)が
しまいました。そこで、貯木場・製材所
入された滝内村大字沖館・新田を中心に、
西部地区の歴史を紹介します。
大林区署の移転による変化
大林区署庁舎の建設は沖館の街並みを
大きく変えました。例えば、大林区署の
完成しました。
図②―D、E】を通るよう、先に述べた
そこで、機関庫より南方にある踏切【地
する列車が頻繁に往来するようになり、
踏切は危険な場所になってしまいました。
建設地内にあった沖館尋常小学校(現沖
号)【地図①
(現市役所柳川庁舎付近)が整備されて
管理局青森事務所)によって青森貯木場
24〉に青森営林局と改称、現東北森林
大林区署庁舎が建設される以前は庁舎北
現在は森林博物館の前を通っていますが、
とから「松前街道」とも呼ばれています。
政時代に松前藩主が参勤交代で通ったこ
さらに、周辺の道も変わりました。沖
館から北へ延びる現在の国道 号は、藩
転することになりました。
すなろ橋付近に跨線橋が整備されました。
受け、大正6年(1917)に現在のあ
求める声が挙がりました。そうした声を
ならず、地域住民からは跨線橋の建設を
新道は明治 年に開通しましたが、従
来の道と比べると大幅に迂回しなければ
ました。
―B】と国道 号(現国道7号)を繫ぐ
観客1千
もので、佃野球場より少し狭いものの、
た「青森都市振興会」が建設を計画した
上必要な施設を整備するために組織され
りました。青森球場は青森市の都市振興
(現東北森林管理局新田宿舎付近)があ
された浜館村の佃野球場と昭和8年(1
新田にあった青森球場
以降、林業に関わる施設が集まり、発展
側(森林博物館裏手)を通っていました
さらに、大正 年には古川跨線橋が開通
都市振興会」の会長は青森営林
「青し森
んばかせい
局の榛葉可省局長でした。榛葉は昭和5
大林区署前の道(現国道
してきました。青森大林区署は、翌明治
(以下「旧松前街道」)。「旧松前街道」
し、青森市の中心街と西部地区を結ぶ主
年に現在地へと移
年には日本初の官営製材所である青森
は庁舎建設によって大林区署の敷地内を
要な道路として大きな役割を果たしてい
館小学校)は、明治
製材所(青森貯木場隣)の操業を開始し、
通ることになったため【地図①―A】、
933)に建設された新田の青森球場
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人を収容できる規模でした。
500
新道【地図②―F】を建設することにし
戦前、青森市民が利用した主な野球場
としては、大正 年(1924)に建設
また、沖館を起点とする津軽森林鉄道の
これにかわって庁舎正面に新しく道が建
写真① 青森球場で行われた沖館尋常小学校の運動会
(昭和戦前 『記念誌おきだて』より転載)
建設に着手しました。
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ます。
沖館は明治 年(1905)に林野行
政を司る青森大林区署(大正 年〈19
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設されたのです【地図①―B】。
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この頃、青森大林区署の庁舎は浦町
(現青森商工会議所付近)にありました
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ました。今回は昭和2年に青森市へと編
のある沖館へ移転することになり、明治
( 現 在 の 位 置 )へ 移 る と 踏 切 も 南 へ 移 設
ことができました。明治
前街道」を通って駅の東西を行き来する
したが、駅構内に踏切を設けたため、「松
「 松 前 街 道 」を 横 切 っ て 線 路 が 敷 か れ ま
この時、沖館から新町通りへ通じていた
さ れ ま し た(現 在 の 駅 舎 よ り や や 北 側)。
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青森市は昭和 年(1951)に滝内
村と合併して西に市域を拡大しますが、
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それ以前にも滝内村の一部を編入してい
年1月に火災のため焼失して
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しかし、明治 年、踏切の南方に新し
い機関庫が完成すると、機関庫を出入り
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2017 年 1 月 15 日 広報あおもり
青森タイムトラベル ― 西部地区の発展と変わる街並み
たことを示す記念碑と解説板が設置され
実科高等女学校(現県立青森中央高校)
そして、昭和6年に校舎を再建すること
どを間借りして授業を行っていました。
で、昭和5年に浦町へ移転しました)な
年まで局長を務め、青森ヒ
年から昭和
が関係していました。というのは、独立
が決まり、工芸学校と同じ業者によって
校舎を持っていなかった実科高等女学校
が工芸学校の校舎を使うことになり、そ
工事が進められ、ともに昭和6年
月
こで、工芸学校は別の場所に移転するこ
ています。
青森工業高校篠田校舎
バの利用促進活動を積極的に行う一方、
職場におけるスポーツの振興にも尽力し
ました。青森営林局には野球チーム・青
森林友野球部があり、球場の建設はチー
県立青森工業高校は平成 年(201
1)に馬屋尻の新校舎へ移転しましたが、
ムの発展に繫がるものとして期待されて
いたようです。
とになったのです。移転先に造道尋常小
つの校舎は戦災を免れ、昭和
日に落成式を行いました。そして、ふた
年代まで
学校(現造道小学校)の校舎を利用する
案も出されましたが、検討の結果、篠田
使われました【写真②】。なお、工芸学
年に市から県へ移管され、昭
校は昭和
現在、青森工業高校の跡地は住宅地と
して生まれ変わろうとしています。校舎
年に現在の校名となりました。
青森工業高校は大正2年(1913)、
市立工業徒弟学校として莨町に開校し、
いました。沖館尋常小学校は昭和4年に
和
に新校舎を建設することが決まりました。
の運動会の会場として使われたこともあ
大正6年に市立工芸学校と改称、大正
跡地にできた新しい住宅地の一角には旧
工芸学校の建設と同じ時期、沖館では
沖館尋常小学校の校舎建設も進められて
るそうです【写真①】。
校舎の前庭を利用して公園が整備され、
情報広場
タイムトラベル
火災で校舎を失い、青森営林局やその向
元気まち
かい側にあった私立昭和女学校(油川出
年間は篠田にありました。
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年には橋本へ移転しました。そして、昭
年まで
の
昭和6年(1931)から平成
青森球場は全国中等学校優勝野球大会
の予選や都市対抗野球など様々な試合に
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和6年に沖館字篠田(現篠田三丁目)へ
利用されました。また、沖館尋常小学校
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しかし、戦後に土地は売却され、営林
局の官舎が建設されました。現在、東北
健康元気
地図② 新道開通後の沖館(大正11年発行「実地踏査 青森新市
街図」に加筆 歴史資料室蔵)
「学舎跡地記念碑」がこの地に工業高校
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身の柿崎平蔵が昭和3年に開校した学校
お知らせ
地図① 新道開通前の沖館(明治45年発行「青森市全図」に加
筆 『新青森市史』資料編7付図)
と移転するのですが、この移転には市立
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森林管理局新田宿舎の前には球場があっ
トピックス
があったということを伝えています。
写真② 青森工業高校(昭和20年代後半 『復興した 新
しい青森』より転載)
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(市民図書館歴史資料室嘱託員 村上亜弥)
2017 年 1 月 15 日 広報あおもり
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