"1955年5月18日、通産省から「国民車育成要綱案 (いわゆる国民車構想

"1955年5月18日、通産省から「国民車育成要綱案
(いわゆる国民車構想)」が発表された。 この2年
前頃から、多くの自動車メーカーが海外メーカーと
技術提携をはじめていた。そうした状況に不安を感
じた政府は、日本独自の自動車産業を育てなければ
ならないと構想を発表。開発や試作を行う企業に助
成金を出し、仕上げた試作車から最終選考に残った
1社を資金援助し、集中生産させるというものだっ
た。選考のために乗車定員や最高時速、エンジン排
気量、価格などの一応の基準を示したが、設定に絶
対的な根拠があったわけではなかった。 "
航空技術から生まれた「三菱500」三菱自動車工業株式会社
"この構想を受けて、日本自動車工業会は各社の技術
責任者を集めて検討会を開いた。当時の技術力や生
産力から考えて、かなり厳しい基準を目の前に、構
想は将来の研究課題にするという見解をまと
め、1955年9月に通産省に提出した。 将来の夢のよ
うに思えた構想であったが、自動車工業にもたらし
た影響は大きい。自動車メーカーにとって技術的な
目標となっただけでなく、自動車に対する国民の期
待を高め、モータリゼーションを進展させる大きな
きっかけとなった。まだスクーターやバイクが中心
だった庶民にとって、それまで縁のなかった自動車
は、もはや夢ではなくなっていた。 "
航空技術から生まれた「三菱500」三菱自動車工業株式会社
"当時、新三菱重工業(現、三菱重工業)は、スクー
ターや小型三輪トラックを生産していた。GHQから
乗用車生産の許可が降りなかったことが響き、先発
メーカーからのボディの受注生産にとどまっていた
のだ。しかし、この構想が新たな時代を切り拓く
チャンスとなり、1957年、名古屋製作所で独自の乗
用車事業がはじまった。 "
航空技術から生まれた「三菱500」三菱自動車工業株式会社
"――自動車開発のコンセプト 新三菱重工業が戦後
はじめて開発する乗用車は、先発メーカーと競合す
る1,000cc以上のクラスではなく、当時ヨーロッパや
アメリカで注目されはじめた大衆コンパクトカーに
決まった。決定されるまでには「遅れて参入するか
らには、ドイツのベンツ車に匹敵するような超高級
車の生産から出発すべし」という強気の意見もあ
り、激しい論争があった。"
航空技術から生まれた「三菱500」三菱自動車工業株式会社
"大衆コンパクトカーの開発の目的は、当時の日本人
の多くが入手しやすい便利な自動車を提供すること
だった。そのため、必要にして十分な走行性能や居
住性をもち、4人乗りの超コンパクトセダンである
こと、徹底した軽量化で安く仕上げるだけでなく、
低燃費で維持費が少ないことという、明確な方針が
打ち出された。 初期計画では1955年に制定された
軽自動車規格内の自動車を仮定した。しかし、規格
の360ccでは当時主流の2サイクルエンジンにしない
限り性能が不十分である。しかも、規格の全幅1.3m
ではペダル配置も狭く、市外にまだ鋪装されていな
い道の残る当時の道路事情では、十分な走行性能を
確保できないことがわかった。そのため、あえて軽
自動車規格を少しオーバーする仕様となった。"
航空技術から生まれた「三菱500」三菱自動車工業株式会社
"――航空エンジニアの活躍 三菱500の開発にあたっ
ては、1/5モデルを使った風洞実験が行われた。今
では珍しくない風洞実験であるが、空力特性を測る
この実験を日本で初めて行ったのは三菱500であっ
た。航空機設計に携わっていたエンジニアたちに
とっては、実験はいわば当たり前のこと。知らず知
らずのうちに、航空機設計の思想や技術が投入され
ていった。"
航空技術から生まれた「三菱500」三菱自動車工業株式会社
"当時の車体としては珍しい、軽量かつ高剛性なモノ
コック構造もそのひとつである。さらにアルミ鋳造
技術を駆使した、軽量かつシンプルなサスペンショ
ンアーム、エンジンの排気弁座のコバルト合金、三
菱航空機規格AMS特殊鋼を素材とした高張力ボルト
など、並べればきりがない。当時の自動車メーカー
にとって、知識や素材さえ不明なものが、三菱
500には何の抵抗もなく投入されていった。 また三
菱500のデザイン開発は、当時としては珍しく、す
べて社内スタッフで行われた。その基本になったの
は「航空機デザインに装飾はひとつもなく、すべて
が機能を追求した美しさである」という航空機設計
思想であった。しかも、わかりやすい製品開発コン
セプトだったため、デザインコンセプトにも迷いは
なかった。"
航空技術から生まれた「三菱500」三菱自動車工業株式会社
まず軽量化のために薄板構造とし、構造強度を高め
るために丸みのある卵形をイメージした。そのうえ
で、安く提供できるよう、プレスや組立での生産性
の向上を考え、パネルなどをできるだけシンプルに
した。さらに部品を大型化することを考えながらデ
ザインを進めた。装備部品も単なる装飾ではない。
例えば、鳥の羽根のような飾りは燃料キャップを兼
ねていた。フロントグリルがスペアタイヤルームの
フタとなり、特徴的なヘッドランプベゼルやボン
ネット上のモールさえも、実は外板のつなぎの目隠
しとなっていた。
航空技術から生まれた「三菱500」三菱自動車工業株式会社
"――三菱500の意義 1960年、航空エンジニアたち
の活躍のもと三菱500が完成した。高度な技術を駆
使しながらも、多くの人に利用してもらうため
に、39万円という低価格で発売された。当時の新聞
には「国民車の時代の幕開く40万円を割る新車」
「初めての国民車候補完成」「工業史に一転機」と
センセーショナルに取り上げられた。しかし、軽自
動車の規格をオーバーしていたことで、税金などで
優遇されていた当時の軽自動車の勢いにはかなわ
ず、残念ながら短い生涯に終わった。 "
航空技術から生まれた「三菱500」三菱自動車工業株式会社
"価格をのぞけば、ほぼ国民車構想をクリアし、メカ
ニズムや素材を優先した三菱500のもつ意義は大き
い。 その後、2回にわたり規格を拡大した現在の軽
自動車は、かつての三菱500とほぼ同様のサイズ、
スペックとなった。それは三菱500の高い実用性を
証明している。また、それ以上に三菱500は、エン
ジニアたちの誇りと良心が注ぎ込まれ、彼らの体温
が感じとれるような自動車だった。"
航空技術から生まれた「三菱500」三菱自動車工業株式会社