国労東日本本部 書記

国労東日本本部 書記
1975年に国労宇都宮支部に職を得てか
とも簡単に作業していたのが強く印象に残っ
ら42年間、労働組合の書記として働いて来
ています。
ました。
この頃、朝・昼・晩と通っていたのが、宇
大変多くの仲間に支えられて、再雇用を含
都宮駅の運輸室でした。朝はホームで案内を
めて働き続けられた事に、まずお礼を申し上
している(ホーム中ほどに放送室があった)
げます。
仲間と挨拶し、昼はうどんを食べに運輸室に
行き「笑って!いいとも」を見ながら談笑し
1.国労宇都宮支部に就職
ていました。夕方も運輸室に寄ってから帰っ
1975年、その年11月にはスト権スト
ていました。そこには2歳先輩のYさんが居
があり、支部に入って1ケ月以内に今世紀最
て、彼は19歳の時に宇都宮貨物ターミナル
大と言われるストライキを経験することとな
構内で突放車両に轢かれ片足の膝から下が切
りました。ストに入って3日もすると線路が
断されていました。働く仲間の過酷な実態を
錆始めたことにビックリしたことや、スト突
知らされました。彼には公私に亘り本当に世
入に際しての乗務員引っこ抜きなどを目の当
話になりました。しかし残念ながら若くして
たりにしました。実はこのストの最中に実の
亡くなりました。この時運輸室にいた仲間が
妹が博多で結婚式をあげることとなり、スト
後に国労宇都宮支部の運輸職場の中心的存在
最中に飛行機で博多に飛んで式に参列しまし
となりました。
たが、帰りに新幹線で帰った際、スト解除一
番電車を取材するテレビカメラに晒される恥
2.仲間作りで4箇所学習会
ずかしい事となりました。
宇都宮支部に入っての私の任務は、国労の
日常業務を徐々に覚え始めたころ、支部委
若い仲間と共に活動の中心部隊を増やして
員長は職場オルグに運転手として私を使うよ
いくことでした。そのために学習会を組織し
うになり、そのお陰で職場の仲間の顔・名前
ました。まず、青年部の若手で今後に期待の
を覚え、会話を聞き取ることで実際の国労運
持てる I と S 君と行いました。場所は喫茶店
動に接することができました。
や自宅で学習会を行ないました。余談ですが
思い出にあるのは、宝積寺駅の信号所でポ
I は後に義理の弟となりました。更に、白河
イント転換の方法を教わり、実際に運転に影
保線区の白河と黒磯に一つずつ作り、毎週白
響のない転換をさせて頂いたことです。若い
河と黒磯に夕方出かけました。その頃は焼酎
私でもびくともしないテコを年配の先輩がい
と焼き鳥のうまい「かどや」があり、小さい
コップの9割に焼酎を入れ、残りに甘い梅か
仲間を信頼し相談に乗り、共に闘おうと話
レモンのシロップを入れて飲むのですが、3
したにも関わらず裏切られ、一部の極左組織
杯以上飲むと腰が抜けました。白河はことの
が A さんを使って陥れる行為をしたことに、
他寒くて、雪は降らないけれど、通りが凍っ
怒りとともに悲しみも覚えました。
ていたのを覚えています。ところで白河保線
この時のT青年部長の反対派は全て、Nを
区には学習会の中心メンバーが何人かいまし
先頭に真国労となり、後に東労組に編入しま
たが、中でも若いながらも旺盛な青年が居て、 した。
自分より若いのにイチローと呼び捨てにする
鉄ちゃんというのが居ましたが、それから
4.
14年間の宇都宮から東京へ
10数年後に自宅の納屋で自殺をしました。 分割・民営化から4年目になって、宇都宮
残念でなりません。悩みも話さず、突っ張っ
支部の書記定数を1名削減する案が出され
て生きてきた彼でしたが、彼の内面まで踏み
ました。T さんが東京に通勤することは難し
込めずにいたことに後悔が残りました。
かったので、私が手を上げました。宇都宮支
また宇都宮と小山の信号通信区でも学習会
部と東京地本の事情がうまくまとまって、転
も組織しました。夕方、事務所を借りて何年
勤が決まりました。
か続けましたが、分割民営化の前に行われた
分割・民営化当時のことは殆ど記憶にあり
「血の入れ替え」によって、学習会のメンバー
ません。あまりにも激動であった事かもしれ
が根こそぎ配転させられ、何故?と同時に動
ません。
揺したりもしました。その学習会が他労組に
毎日が激闘、組織の減少、仲間との相談・
知られ、ある種の差別化が行われたのでは?
対策など、早く時間が過ぎました。
とも思いました。
東京へ行って、担当になったのは組織と業
務でした。その当時の「出向者連絡会」や組
3.青年部選挙と後の真国労部隊からの攻撃
織速報、組織対策に忙殺されました。
話は前後しますがT青年部長の頃、支部青
年部大会で選挙が行われました。本当に一票
5.東京地方本部
を争う中で、私も積極的に知り合った青年部
私が東京地本に転勤したときの地本役員は
組合員と話をしました。中でも小山保線区の
S委員長・H副委員長・T書記長・K企画部
A組合員と何回か話をしましたが、職場に来
長でした。そして業務部長がTさん。この体
てくれと言われ、私が出向くと根掘り葉掘り
制の中での業務はかなりシビアーで、執行委
の話や誰がそうなのかと聞いてきたので、私
員会や委員長・戦術委員長会議など厳しい雰
の判る範囲で話しをしました。しかし突然
「時
囲気でした。
間」だから帰ろう!と言われ、何か不安を感
同時に書記局も、物資販売などを担当する
じました。その予想は当たり、私の話した
東京事業センターに4名が配置となり、書記
内容がテープ起こしされ、何日か後にはNを
仲間の軋轢も生まれ、事業センターに配属に
先頭に10数人が支部に押し掛け恫喝される
なった仲間は徐々に退職して行きました。
事となり、果ては「福地書記を解雇する決議
私は、ますます忙しくなり、組織と業務、
案」が青年部大会で出される事態となりまし
青年部などとの付き合いで毎日が過ぎていき
たが、仲間の奮闘で否決されました。
ました。
6.機関としての重点分会指定と執行委員会
るのです。
への参加
私が『アジア平和の船』に乗った時、岩井
ある年、
更なる組織の強化と拡大に向けて、 章さんと一緒(部屋は別)でしたが、国労の
各支部毎に重点分会設定を決めました。東京
参加者が集められて、
岩井さんが「頭(役員)
地方本部として、私とA書記が分担して執行
を変えないとだめだ」といった話をされまし
委員会へ参加し、その様子を文章にして執行
た。私は、
「僭越ながら、下を変える事が今
委員全体の共有物とし、傾向と対策を行う事
は大切なのでは」と言わせてもらいました。
としました。
これは一般的なことですが、総じて言えま
私は甲府・宇都宮・八王子・大宮・上野の
す。嫌いなのは、保身と贅沢です。
分会を担当し、その報告を行いました。しか
し、当事者の分会としては、東京地方本部か
8. 21年間の東京地本から東日本本部へ
ら来るということで、方針や方向性について
そして、また異動でした。
の質問が出る事がままありました。そうした
これからの国労運動を進めていく上で、書
時は機関で決められた事は答えましたが、不
記の存在は重要だということで、退職者が多
明や判断が付きかねる時は次回に回してもら
くなる前に、各級機関の書記局体制を整備す
いました。その事が、私たちにも勉強になり
ることで東日本本部に配置されました。そし
ましたが、当事者分会の執行部としても東京
て再雇用を含めて7年間、私のやりたい事を
地方本部が身近になったようでした。
やる積りで業務を続けてきました。
私とA書記は今でも良いお付き合いをさせ
東日本本部でも様々な組合員とのお付き合
て頂いていますし、強化・拡大の中心になっ
いがありました。そうした経験から、以下の
て運動を進めて頂いています。
結論となると思います。
組織の強化・拡大への重要な取り組みで
あった事は、その分会から上部機関への役員
私たちには武器があります。人とのつなが
の選出、上位職への登用、動員への中心的な
りです。今まで大切に育んできた人間関係を
役割、直接的な組織拡大など成果が上がって
十二分に発揮することで組織は守れるし、拡
いると言えます。
大できます。
国労は必ず大きく強くなります。それは、
7.好きな役員と嫌いな役員~人を大切にす
国労組合員の人間性です。大多数の組合員の
る?
魅力を前面に出して、若い組合員と全人格的
私は総じて、国労組合員は大好きです。こ
な付き合いをすれば必ず若い仲間は共感を得
の事がなければとっくに違う仕事に就いてい
ると思います。
たでしょう。
周りの雑音に惑わされず、情勢を的確に把
「国労を強くしたい。国労を増やしたい。 握し、そこから導き出される教訓を皆で話し
国労のような労働組合を増やしたい。この国
合い、方向性を出して取り組めば必ず多数派
を変えたい」という思いから、働き・学び・ への道は切り開かれると信じています。
仲間を増やす努力を進めてきました。
奮闘を期待します。
しかし、国労組合員としては好きでも、役
員になると「どうしようもなくなる」方はい
2016年12月記