厚木市人権擁護委員会

厚木市人権擁護委員会
は じ め に
中 学 生 人 権 作 文 は 、次 の 世 代 を 担 う 中 学 生 が 、人 権 尊 重 の 重 要 性 や 必 要 性 に つ い て 理 解 を
深 め る と と も に 、豊 か な 人 権 感 覚 を 身 に 付 け る こ と を 目 的 と し て 、厚 木 市 、厚 木 市 教 育 委 員 会 、
厚木市人権擁護委員会の共催で実施しております。
この度、市内の中学校を対象に募集したところ、一四〇五編の応募がありました。
そ の 中 で 取 り 上 げ ら れ た テ ー マ は 、多 岐 に わ た り 、そ の 中 で も 、特 に 子 ど も に 関 す る 問 題
が 多 く 、い ず れ も 自 身 の 体 験 や 身 近 で 気 付 い た こ と な ど 、感 受 性 豊 か に 書 か れ て お り ま し た 。
こ の こ と か ら も 、﹁ 人 権 ﹂ が 、 中 学 生 に と っ て 重 要 な 問 題 と し て 意 識 さ れ て い る こ と が 伺 か が
えます。
こ の 作 文 集 を 、よ り 多 く の 皆 様 に お 読 み い た だ き 、人 権 尊 重 の 精 神 が 地 域 社 会 へ 広 が る こ
とを期待するとともに、人権思想の普及・高揚に寄与できることを心から願っております。
平成二十八年十二月
厚木市人権擁護委員会
市長賞
教育長賞
優秀賞
目
次
自分らしく生きていきたい
・・・・・・依知中学校
・・・・玉川中学校
・・・・・・・・・・・南毛利中学校
忘れてはならない﹁負の遺産﹂
戦争を知ること
・・・南毛利中学校
三年
三年
三年
三年
岡村
鳥井
小林
渡邉
隼希
直
花鈴
友花里
奈都美
唯
山西
春月
和田
三年
山田
優羽
三年
三年
飯田
・・・・・・・荻野中学校
・・・睦合東中学校
三年
生きるために
・・・・・南毛利中学校
・・・・・・・・・・・・・・・睦合東中学校
戦後七十一年を通して思ったこと
私の妹
人間らしく
今日から始める人権理解
誰もが
﹁人権﹂と聞いて思ったこと
1
3
5
7
9
15 13 11
優良賞
・・・・・・・・・・・・・・
向き合ってみよう
私から見える世界
バスの運転手さん
・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
小鮎中学校
南毛利中学校
藤塚中学校
依知中学校
荻野中学校
小鮎中学校
荻野中学校
荻野中学校
厚木中学校
厚木中学校
森の里中学校
荻野中学校
睦合中学校
南毛利中学校
南毛利中学校
三年
二年
三年
三年
三年
三年
一年
三年
三年
三年
三年
三年
三年
三年
三年
三年
小
町田
岩藤
都髙
長田
市川
鈴木
松本
中嶋
矢島
木内
古川
保
久保田
吉野
神崎
旺翼
遥香
凜乃
遥
優未
梨智
藍
真優
穂香
玲奈
綾夏
美優
彩月
由惟
真奈
あいがお
・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・
平和な世界へ
自分が相手なら
どんな人でも人権はある
﹁誰か一人﹂になるために
子どもの権利と貧困
認め合い助け合う社会
きえてほしいなんてもう言わない
ひめゆりの悲劇と人権
高齢者への気持ちの尊重
相手を知ること
・・・・・・・・・・・・・
東名中学校
・・・・・・・・・・
平等な世の中へ
・・・・・・・・・・・・・
千幸
パーツの大切さ

46 45 43 41 39 37 35 33 31 29 27 25 23 21 19 17
自分らしく生きていきたい
支援級に通っていた頃、からかわれたり悪口を言われ
たりする事もありました。でもすごく親切にしてくれる
人もいました。両親は気にしすぎてもいけないよと言っ
課後のディサービスなどで話が出来ない人や歩けない人
隼希
私は、二〇〇一年七月十六日に二九七〇グラムで生ま
大声を出す人などに会う事がありました。でも私は、か
岡村
れました。赤ちゃんの頃は、順調に成長していたのです
らかったり悪口を言うつもりは、ありません。自分がさ
依知中学校三年
が二歳を過ぎても話す事ができず、その後、軽い知的障
れてきてすごく嫌な思いや辛い思いをしてきたからです。
ていました。支援級のミニ運動会や七沢の宿泊学習、放
がいがある事がわかりました。両親は、とても悲しみま
自分がされて嫌だった事を人にする事は出来ません。
ました。でも厳しい事も必要だと言って学校の勉強を毎
を見たり、おいしい食べ物やキレイな景色を見せてくれ
教えてくれたり、沖縄の阿嘉島でシュノーケルで海がめ
ました。北海道の知床で野生のクマを見たり、スキーを
両親は子どもの頃から色々な場所に連れて行ってくれ
したが、医者にいろいろな事を経験させて下さい、努力
をする事を教えてください、と言われて私を育ててくれ
ました。
保育園時代は、先生が付いてくれたので友達と遊んだ
り楽しく過ごす事が出来ました。
絵を書く事や、歌を歌う事が大好きですごく個性的な
日 す る よ う に 言 わ れ 、学 校 も 休 ま ず 通 う よ う に と 言 わ れ 、
今のところ一日も学校を休む事なく通っています。ガマ
子だと言われました。
小学校は、五年生まで支援級、六年生で普通級に通い
中学校へ入学した時は、最初から普通級で頑張ろうと
ンをする事は、将来仕事をする事になった時に必要な事
ました。両親は生きていくために必要な事だよと言って
思っていたけれど不安でした。母も自分のことを伝える
ました。支援級の五年間、先生はとても厳しく、勉強す
泣いている自分をはげましてくれました。今自分は中学
ために、学校へ説明しました。小学校の時のようにから
だと言われています。
三年生で頑張ってやっていけているのは、厳しく教えて
かわれたりする事もあったけれど、優しく声をかけてく
る事、きまりを守る事、落ち着く事、など教えてもらい
くれた先生のおかげだと思っています。
-1-
れる人も多かったので、楽しく過ごす事が出来ました。
勉強も覚えなければならない事が多く大変だったけれど、
家で勉強を教えてくれた両親や兄、学校の先生のおかげ
で、ここまで頑張ってこれました。自分の個性として認
めて伸ばしてくれて本当にありがたかったと思っていま
す。
来年は、高校に通うことになりますが、将来何になり
たいかは、まだ決めていません。勉強も難しくなるし、
バスや電車の通学も不安ですが、いつまでも両親の世話
になるわけにはいかないので頑張ろうと思っています。
今まで自分にされて嫌だった事は、人にする事はせず、
自分によくしてくれた事は、人にしていこうと思ってい
ます。自分の個性として認めてくれたように、他の人も
個性として認めていきたいと思います。これから自立し
て思いやりをもって育ててくれた両親のために、自分が
思いやりのある人間になろうと思っています。
-2-
忘れてはならない﹁負の遺産﹂
会へ追いやられた人々がいた。
ハンセン病。かつてはらい病とも呼ばれた感染症で、
長年の間医学的にも、社会的にも人々を苦しめてきた。
その写真を見て、私は驚き言葉を失った。サングラス
目で見られ、後遺症が残る元患者に対する差別は今も続
もきたした。そのため、当時のハンセン病患者は偏見の
直
をかけた老人が本を舐めている。舌を本の点字にぺった
いている。また彼らは、らい予防法などにより﹁予防﹂
鳥井
りとつけ、よれた紙に這わせている写真だった。その写
﹁治療﹂の名目で、療養所に入れられ、徹底的に隔離さ
玉川中学校3年
真の意味を理解していくにつれ、長年の間人々を苦しめ
れた。
皮膚や末梢神経を麻痺させ、ときには四肢や顔に変形を
てきた病気の存在と、日本人が犯した過ちの歴史を知っ
指先の神経が麻痺してしまい、自身の舌でしか刺激を受
冒頭の老人は長い間ハンセン病に侵されていたため、
私は社会科の授業で戦後の日本のことを学んだ。GH
け取れなくなった。舌で必死に文字を追い〝舌読″をす
た。
Qにより民主化が活性化され、一九四六年に日本国憲法
らい予防法というのは、一九五三年に制定された、ハ
るその姿に、息苦しいような何とも言えない気持ちがこ
﹁すべての国民は法の下の平等であって、人種、信条、
ンセン病が社会に蔓延するのを防ぐための法律だ。患者
が制定された。その中でも〝基本的人権の尊重〟には特
性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は
に対してハンセン病療養所への入所や外出の禁止などを
み上げてきた。
社 会 的 関 係 に お い て 、 差 別 さ れ な い 。﹂
命じることができた。いわば、患者の自由や幸福を制限
に多くのことが定められた。例えば、
﹁生命、自由及び幸福の追求に対する国民の権利につい
また禁止できてしまう恐ろしい法律だった。
しかしある事実を知って愕然とした。本来ハンセン病
の病だからだと思い込んでいた。
私は国がそこまでするのは、きっとハンセン病が不治
ては、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の
上 で 、 最 大 の 尊 重 を 必 要 と す る 。﹂
などがある。しかし、ある病気にかかったことから〝す
べての国民〟の一人として扱われず、日の当たらない社
-3-
無知な自分を心から恥ずかしく思った。同時に、もっと
る と い う こ と 。死 病 で も 、不 治 の 病 で も な い と い う こ と 。
は感染力が非常に低く、現在は特効薬プロシンですぐ治
を 、雰 囲 気 と し て 、空 気 と し て 感 じ る こ と が で き る の だ 。
この場所だから、言葉に表せないほどの蓄積された感情
まで、人々の絶望や悲しみ、涙もすべて受けとめてきた
続けた〝孤独〟だったのだと思う。創立から現代に至る
ハンセン病。その病気に侵された人は、人が持ってい
ことが大切だ。
今の自分には何ができるのだろう。具体的に考えていく
多くのことを知る必要があると思った。
そのために、私は電車で二時間程行ったところにある
国立ハンセン病資料館及び国立療養所の多摩全生園を訪
れた。周りは、外から隠すように柊の生垣で囲まれてい
資料館には、ハンセン病の歴史、療養所での生活、そ
か。ハンセン病問題だけでなく、同和問題など差別に苦
は、世間の理解と差しのべる手だったのではないだろう
る権利や尊厳をすべて奪われた。あのとき必要だったの
してらい予防法廃止後の様子をテーマに展示されていた。
しむすべての人に、この二つは不可欠である。
て、外から中の様子またその逆も全く見えなかった。
療養所での生活に関する展示は、特に気持ちが重くなる
そして最愛の妻が眠る柩の上で泣き崩れる男性の写真。
現したもの。顔が崩れていく恐怖や絶望を綴った文書。
者には、深く学んで後世に伝えていく義務がある。彼ら
めの勉強として考えるだけでいいのだろうか。私たち若
くつもある。果たして、その〝負の遺産〟を偏差値のた
今まで学んできた歴史には、日本人が犯した過ちがい
彼の重ねた両手の指は鉤のように曲がっていた。あまり
の存在とその出来事が無かったことにされないように。
ものが多かったように思う。当時の雑居部屋の生活を再
に苦しく、何度も目を背けそうになったが、しっかり目
そして、真の平和へ向けて自分の手を誰かに差しのべら
れるように。
に焼きつけて前へ歩みを進めた。
都内とは思えないほどの森を抜けると、隣設の多摩全
生園に出た。木の数が多い分、集まった蝉の声も大きく
響いていた。しかし、私は何故か﹁静かだ﹂と感じた。
息苦しい、重い、そんな言葉で表しきれないほどの空気
にふれてそう思ったのだ。それは、彼らが何十年も溜め
-4-
戦争を知ること
南毛利中学校3年
小林
花鈴
戦争を知らない人はいないでしょう。戦争が良い事だ
と思う人はいないでしょう。
﹁戦争が悲惨だったことくらい私はもう知っているし、
旅行に来ているのにわざわざそんな暗いところに行きた
く な い な 。﹂
と思いました。しかし、他に行く場所がなかったので行
く事にしました。
実際に行ってみると、亡くなった女学生の写真が数え
﹁ 戦 争 は 二 度 と 繰 り 返 し て は い け な い も の だ 。﹂
深く知らないのに、大人たちの
く さ ん あ り ま し た 。自 分 の 家 族 が 、友 達 が 、大 切 な 人 が 、
という無惨な事実を私たちに訴えかけるようなものがた
ったもの、戦争を経験された方のお話のビデオなど戦争
切れないほどあったり、戦争での無惨な体験を書きつづ
﹁ 戦 争 は 人 類 の 最 大 の 失 敗 だ 。﹂
目の前で亡くなってもまともに悲しむ間もなく、戦争に
しかし私たちのような中学生や小学生は戦争について
などの言葉を鵜呑みにして戦争を知った気になっている
生きてきた人たちがこんなにたくさんいたのだなと悲し
勝つことと自分の命を守ることだけを考えながら必死に
ほんの一握りしかいないというのが現状です。私たちは
いような切ないような気持になりました。多くの尊い命
ように感じます。実際に今、戦争を経験したという人は
戦争についてもっと知るべきだと思うのです。
と言われました。私はひめゆりの塔が戦争にまつわる場
﹁ ひ め ゆ り の 塔 に 行 っ て み よ う よ 。﹂
した。その時に、お父さんとお母さんに
いの年の子どもたちまでもが毎日を恐怖におびえながら
良く戦争の時代には生まれなかったけど、私と同じくら
と私はとても悲しい気持ちになりました。また、私は運
﹁ 命 の 大 切 さ は 、 今 も 昔 も 同 じ は ず な の に ・ ・ ・ 。﹂
が戦争によって失われました。
所だということを知っていました。しかも、
生きていたことを知って、今の私たちの暮らしがどれだ
私は中学一年生の夏休みに、家族と沖縄へ旅行をしま
﹁ ひ め ゆ り の 塔 に 行 く と 気 持 ち が 悪 く な る ん だ っ て 。﹂
け豊かかを改めて感じました。そして、時代が違うから
といって、私たちには関係がないということは決してな
というようなうわさも何度か耳にしたことがありました。
なので、
-5-
を生きる私たちに必要なことは、戦争をしていた時代と
切 だ と 思 い ま し た 。つ ま り 、戦 争 の な い 現 代 と い う﹁ 今 ﹂
考えました。なので、まずは戦争を知るということが大
を知り、向き合い、考えた先に生まれるのではないかと
私は実際にひめゆりの塔に行ってみて、平和とは戦争
ったとしても、私の戦争に対する思いは大きく変わりま
しかし、私が知ったことがたとえほんの一部に過ぎなか
らといって、戦争の全てを知ったわけではありません。
くさんいると思います。私は、ひめゆりの塔に行ったか
のように戦争について知ったつもりになっている人もた
来に平和を築き上げることはできないのです。また、私
しかし、知るということを怖がっていてはこれからの未
いう﹁昔﹂を少しでも知ることなのです。また、私は今
した。だから、戦争を経験した人が少なくなってきてい
いのだと強く思いました。
までどれだけ戦争について知った気になっていたかとい
る中で、たくさんの人が戦争についてもっともっと詳し
く知るべきだと思うのです。そして、いつか戦争を経験
うことに気付かされました。
私は、戦争は悲惨だということは知っていたけど、具
した人が日本から、世界から、いなくなってしまったと
う意識を今から持っておくべきだと思います。これから
体的に何がどのように悲惨だったかを知らなかったので
ませんでした。しかしそれは、戦争が私たちと同じ人類
の未来と平和を創っていくのは、今を生きる私たちなん
しても戦争を二度と繰り返さないようにしていこうとい
が起こしたことであって、時代が違うから関係がないと
だということを一瞬たりとも忘れてはならないのです。
す。確かにひめゆりの塔を出た時、良い気持ちにはなり
いうことはないんだとはっきり気づかせてくれたからだ
と思います。
戦争によってプラスになったことなど一つもありませ
んでした。たとえ戦争に勝ったとしても戦場で戦死した
兵士たちや爆撃によって亡くなった人々の尊い命が戻っ
てくることはありません。残るものは、変わり果てた町
と生き延びた人々の悲しみだけです。だから、戦争につ
いて知るのが怖いという人もたくさんいると思います。
-6-
戦後七十一年を通して
渡邉
友花里
思ったこと
南毛利中学校3年
﹁ 原 爆 投 下 は あ な が ち 間 違 え で は な い 。﹂
友人がふとはなった言葉に私も共感した。
ら言った。
﹁ そ う で す ね 。﹂
心にもない返事をした私におじさんは少し悲しそうな顔
で、
﹁お嬢ちゃんは、原爆が落とされた日、ここがどんなだ
ったか知ってる?﹂
と言ってきた。想像してみた。火災で救助する人たちで
いっぱいだったのだろう。そう答えるとおじさんは少し
﹁この川あるだろ、全部死体や、ドロドロに溶けた人で
笑って
そのきっかけの原爆投下はいいのではないかというのが
う ま っ て い た ん だ よ 。﹂
原爆が投下されたから日本は戦争をやめた。だから、
私の未熟な考えだった。
ことが理解できなかった。
はそんなにすごいのかと思ったし、想像するだけで恐ろ
当時の私は驚いた。ドロドロに溶けた死体、原爆の威力
おじさんが指さす川に目を向ける。今はきれいな川だ。
﹁ 昔 の こ と に つ い て 、 な ぜ そ ん な に 関 心 が あ る の か 。﹂
しかった。そんな私の表情を見ておじさんは、
私は小学生の時、戦争の話になると熱弁になる先生の
とそう思っていた。
五年生の時、父母と一緒に広島の原爆ドームを見に行っ
日ということもあり人がたくさんいた。そこで私は、今
私は資料館へ行ってみた。ちょうどその日は、八月六
﹁ 驚 く だ ろ 。 も っ と す ご い の が 資 料 館 に あ る よ 。﹂
た時だった。蝉がうるさくて暑くて、私はうんざりして
まで自分がはなった言葉や考えが情けなく感じるととも
でも、そんな未熟な私の考えが変わったのが、小学校
いた。旅行なんだからもっといい所がよかったな。そう
に、戦争の悲惨さや恐ろしさを痛感した。
爆者が受けたひどい仕打ち。
焼け焦げた制服、被爆者の痛々しい写真、その後、被
思っていた時、
﹁ ひ ど い も ん だ ろ う 。﹂
後ろから同じ観光バスのおじさんが原爆ドームを見なが
-7-
戦争がどういうものか、平和がどんなに大切か教えて
く れ て あ り が と う 。頭 を 下 げ な が ら そ ん な こ と を 考 え た 。
そ の 中 に 、私 よ り 小 さ い 子 ど も が 書 い た 手 紙 が あ っ た 。
﹁ お 母 さ ん 痛 い よ 、 痛 い よ 、 水 が 欲 し い 。 水 が 欲 し い 。﹂
以来、私は戦争についてのテレビや授業の時は人一倍
きっと今もこうしている間にも戦争で苦しんでいる人
先にこれが浮かんだ。
今年、人権作文のテーマを何にするかという時、真っ
耳をかたむけるようになった。
その手紙の横には水ほしさに川へ飛び込む人の絵があっ
た。その川はさっきおじさんが言っていた川だった。
自分より小さい子が、なにも分からずに死んでいった
子が、なにも悪くないのに死んでいった人が、とてもか
わ い そ う に 思 え た 。同 時 に 、戦 争 を あ ま く 見 て い た 自 分 、
で泣いた。周りの人は、優しく声をかけ、私を父と母の
今、平和に私たちがくらしていることがなんだかとても
今年も八月六日がきて、九日がきて、一五日がきた。
がいるのだろうと思うと胸が痛む。
いる所まで一緒についてきてくれた。目に涙いっぱい浮
ありがたいことだと感じる。
興味を持たなかった自分がなさけなくなり、私はその場
かべて泣きじゃくる私を見て父と母は、
しかし、私が平和で暮らしている裏では、どこかの国
で、戦争で悲しんでいる人や苦しんでいる人がいるのだ
﹁どうしたの?﹂と聞いた。
で も 、そ れ と 同 時 に 父 と 母 の 顔 は 少 し う れ し そ う だ っ た 。
ろう。
続けば良いなと思った。
と同時に、今、私がくらしている平和な毎日がずっと
きっと私に、戦争の怖さや戦争から生まれる悲しさを知
ってもらいたくて、旅行先に広島を選んだのだろう。
帰り道、さっきまで気にもとめなかった川や原爆ドー
﹁ こ こ に 来 て 良 か っ た で し ょ 。﹂ と 聞 い た 。
に語りついでいかなくてはいけないのではないかと考え、
年前のような悲惨な出来事が起こらないよう、次の世代
まだ、幼い私たちにできることは何もないが、七十一
﹁ う ん 。﹂ と
しっかりと、一日を大切に生きたいと思う。
ムや歩いてきた道が少し重々しく感じた。母が、
私は迷いなくそう答えた。
一緒に観光に来ていた外国人が原爆ドームに頭を下げて
いた。私も一緒に頭を下げた。
-8-
私の妹
睦合東中学校3年
和田
唯
私には三歳年の離れた妹がいます。妹は、ダウン症と
妹と喧嘩をすれば、しょうがないでしょ。という理由
で私が怒られるし、私の友達が家に遊びにきた時は、仕
方がないから一緒に遊んであげて、私の考えが子どもな
のかもしれませんが、他にも嫌だと思ったことがたくさ
んありました。
妹のことについて相談できる友達など周りにはいなく
もないと思ってしまいます。ですがそれは、普通の人と
げたように嫌な思いばかりするし、良いことなんて一つ
私は正直、妹のことが好きではありません。前にも挙
て、すごく嫌な思いをしたことが何度もあります。普通
比べて少しできないことが多いだけで、ダウン症という
いう障害をもって産まれてきました。
の 子 に は で き る こ と が 妹 に は で き な く て 、馬 鹿 に さ れ て 、
障害をしっかりと理解してあげたらきっと優しく受け入
きっと友達も多くはできなくて、普通の子と同じよう
﹁ 私 が こ う や る ん だ よ 。﹂ と 教 え て も な か な か で き な い 。
私が小学四年生の頃、妹は小学一年生でした。入学し
に遊ぶことができない妹の方が苦しいはずなのに、狭い
れてあげることができると思うのですがきちんと妹と向
たばかりで不安もあったのか、休み時間や授業中にも教
考えしかできない自分がすごく嫌です。親や妹に強く当
きっと妹が一番苦しいと思いますが、私もすごく苦しか
室を抜け出して私のクラスに来てしまうことがよくあり
たってしまったことが何度もありますが、これからは他
かい合えない自分に一番嫌気がさします。
ました。何だか分からないけど私は、それがすごく恥ず
の人と比べるのではなく、妹をしっかりと理解したいと
ったです。
かしくて、いつもイライラしたようにそっけない態度を
思います。
というだけで周りからは少し変な目で見られたり、冷た
﹁障害をもっている﹂
ります。
ですが、妹が私の妹で良かったと思う時もたくさんあ
妹にとっていました。どうして他の子はしっかり授業を
受けているのに妹はそれができないのか分からなくて、
家に帰っては毎日お母さんに話をしていました。
今思うと、もっと優しく小学校のことを教えてあげれ
ばよかったな、と少し後悔しています。
-9-
に接するのはすごくおかしいことだと思いますが、もし
私は、障害を持っているだけで普通の人とは違うよう
のいい生活ができるような世界を目指して、私もできる
ると思います。そんな人たちが少しでも、今より居心地
別、世界中でもっといろいろな差別を受けている人がい
でなく、お年寄りの方、路上生活者の方や国籍による差
私の妹が障害をもっていなかったら、障がい者の人たち
ことから始めていこうと思います。
い態度をとる人が妹の友達にもたくさんいます。
を身近に感じる事はなく、よくわからないから私も普通
と き が あ り ま す 。妹 の 友 達 に も 障 害 を も っ て る 子 が い て 、
きたいです。きっとこれから先も辛いことや嫌なことが
れてきてくれたのだから、これからも妹を大切にしてい
私の妹は普通の子とは違うけれど、私の妹として産ま
その子たちと話すのはやっぱり少し緊張しますが、話し
たくさんまっていると思いますが、きちんと向き合って
の人とは違うように接してしまうかもしれない、と思う
てみると普通の子となにも変わらなくてすごく明るい子
いこうと思います。
妹がもっと大きくなった時に、今まであったことを話
ばかりです。障害を持った人たちとたくさん触れ合うこ
とで私は多くのことを学んでいます。これからももっと
﹁ 私 の 妹 で い て く れ て あ り が と う 。﹂
して、最後には、
けたらいいなと思います。障害を持った人たちとたくさ
と伝えたいたいです。
たくさん交流して、差別のない世界を少しでも作ってい
ん関わることができるのは妹のおかげです。妹に感謝し
ています。
妹は来年から中学生になります。その時、私はもう中
学を卒業しているので、妹は一人で三年間学校へ通うこ
とになります。中学校は、小学校よりも大変なことが多
いので少し不安です。でもきっと妹なら、元気に三年間
中学校へ通ってくれると信じています。
私がこんな心配をしなくていいくらい、世界で差別と
いうものがなくなってほしいと思います。障がい者だけ
- 10 -
山西
今日から始める人権理解
荻野中学校3年
奈都美
なぜなら私には、知的障害を持つ兄がいて、障害を持つ
人 へ の 差 別 は と て も 嫌 っ て い た か ら で す 。﹁ な ん で そ ん な
こ と を す る の 。﹂と 心 底 思 い ま し た 。だ け ど こ の 時 の 私 は 、
その行為を注意できず、家に帰って母にその出来事を話
族。それらの人が突然、事故に遭って、この先ずっと障
公 園 で の こ と を 伝 え た と こ ろ 、施 設 で 働 い て い る 方 か ら 、
後日、母が男性のいる障がい者施設に電話をし、あの
すことしかできませんでした。
害を持って生きていかなければならなくなったら、あな
﹁ 伝 え て く れ て あ り が と う 。﹂
あなたの身近にいる大切な人、友人、恋人、そして家
たはその人を差別しますか?そして、もしそれらが自分
とお礼を頂きました。本当に安心しました。
け ま せ ん 。﹂
﹁他の人を下に見て、いじめたり差別したりしてはい
だったら、あなたは大切だった人からの差別に耐えられ
ますか?
私が小学生だった頃の実体験です。私が犬の散歩で家
元の水溜りから手で泥水をすくい、それを飲むふりをし
ているのかと思い遠くから見ていると、一人の少年が足
うにして数人の少年が立っているのを見ました。何をし
飲ませてもいいだろう﹂という考えが、あの少年たちの
﹁あの人は自分より下の存在だから、いたずらで泥水を
い る と 思 う こ と で 、安 心 感 や 優 越 感 に 浸 る の で し ょ う か 。
うしてそれほどまでに他人を見下して、自分より劣って
そんなこと分かっているけれど、人間の心というのはど
ています。すると別の少年が男性に話かけ、同じことを
心にはあったのだと思います。ですがそれは立派な人権
の近くの公園に行ったとき、大人の背丈の男性を囲うよ
するように促しました。男性は少年と同じように泥水を
人を、面白半分でいじめて楽しもうなんて、あるまじき
侵害だと思いませんか。障害というハンデを持っている
私はその時、
﹁ あ の 人 、こ の 近 く の 障 が い 者 施 設 に 住 ん
行為です。その人が自分の友達じゃなければ差別してい
すくい、飲んでしまったのです。
で い る 人 だ 。﹂と 気 付 き ま し た 。よ く そ の 施 設 を 出 入 り し
いなんていう考えは、全くもって不必要です。
あなたにとって大切な人がいるように、差別を受けた
ているのを見かけた事があるからです。私はこの少年た
ち の い た ず ら を 見 て 、強 い 憤 り と 悲 し み を お ぼ え ま し た 。
- 11 -
人も、大切な人がいるはずです。あなたを大切にしてく
れる人がいるように、あなたが差別した人のことを大切
に思っている人も当然いるのです。こうやって、決して
自分勝手な考えでなく、広い心を持った私たちになりま
しょう。そうすることこそ、誰にでも平等にある人権を
認め、また他者から自分のもっている人権を認めてもら
うことにつながる第一歩なのだと思います。
誰もが平等に持っている人権ですが、目にその形は見
えません。目に見えない人権をどう守っていくか、その
ためにはやはり、他の人も自分と同じ人権を持っている
ことを理解し、そして他の人からも自分の人権を理解し
てもらうことが大切だと考えます。誰かの人権を理解す
ると自分の考え方が変わり、行動も変化し、差別をしな
いで・されないで楽しい人生を過ごせるのだと、私は思
うのです。
改めて質問します。もし、あなたの大切な人が障害を
持ってしまったらどうしますか。そして自分とは関係の
ない他人に障害があったら、あなたはその人を差別しま
すか︱。
人権の大切さは、あなた一人が理解することで多くの
人に広まります。自分を含めた世界中の人たちの人権を
守る第一歩は、今日から、あなたからも踏み出せるので
す。
- 12 -
誰もが人間らしく生きるために
な人物で、あまり逆らえなかったというのと、少し共感
できると思ったので、私は手を挙げました。いつの間に
か、そこにいた全員が手を挙げていました。
生に怒鳴られて呼び出されました。その時、心がドキッ
春月
私は小学生の頃、心に大きく残った体験をしました。
として、なんとなくどんなことで怒られるのか分かって
山田
当時の私のクラスは、明るい人たちがいっぱいいて、
いました。他の二人もそうでした。私たちはもう既に一
睦合東中学校3年
比較的仲の良いクラスでした。ある日、そんなクラスで
線を越えていて、罪悪感でいっぱいだったのです。
次の日の昼休み、私を含めた三人の生徒が、担任の先
急 遽 行 わ れ た の は 、﹁ い じ め ﹂に つ い て の 話 し 合 い で し た 。
先生は私たちをクラス中に聞こえるくらい大きな声で
怒鳴って叱りつけました。
クラスでは、いじめが起こっていました。いじめられ
ていたのはAさんでした。簡単に言ってしまえばAさん
﹁ あ な た た ち は 最 低 だ 、 そ れ は 立 派 な い じ め だ 。﹂ と 。
ませんでした。
私たちは何も言えず、黙って立っていることしかでき
は我が強く、自分の思ったことやしたいことをやり通さ
ないと満足のいかないようなそんな子でした。
私も、Aさんの事をいじめているうちの一人でした。
の悪いところを徐々に見てしまうようになっていました。
家もAさんと近所で、よく遊んだりしていた分、Aさん
ち を 持 つ 子 と 一 緒 に な っ て 、よ く 陰 口 を 言 っ て い ま し た 。
うものでした。もちろんさっきの私たち三人は当然立ち
人は席を立ち、いじめてしまった本人に直接謝る、とい
話し合いは、このクラスでいじめをしたと自分でわかる
皆に﹁いじめ﹂の話し合いをしようと持ちかけました。
そのすぐ後の五時間目、先生は授業を急遽変更して、
ある日の昼休み、私はクラスの何人かの友達と校庭に
ました。すると、クラスのほとんどの人が一斉に席を立
私は正直Aさんのようなタイプの人は嫌いで、同じ気持
ドッヂボールをしに行きました。帰ってくるとき、一人
ち始めたのです。
人が誤るべき相手はAさんでした。謝る人の中には、思
残酷なのは、ここからでした。席を立ったほとんどの
の男子が、
﹁ A っ て う ざ く ね 。 そ う 思 う 人 ︱ ︱ 。﹂
といって、挙手をとりました。その人はクラスの中心的
- 13 -
たちは、誰も目を合わせられず、ただただ自分たちの犯
まりに辛く、教室の外に出てしまいました。その時の私
チでずっとあふれてくる涙をふいていました。途中であ
た。Aさんは、その場にいれないほど泣き崩れ、ハンカ
わず泣いてしまう子もいて、皆本気でAさんに謝りまし
嫌いな人にだって人権はあって、誰もが人間らしく生き
生まれながらにして一人一人﹁人権﹂があります。その
ることは、絶対にしてはいけないのです。私たちには、
人をいじめたり、いじめられるのを黙って見ていたりす
経験すると思います。でももし嫌いな人がいても、その
いじめは、どこでも起きてしまうし、誰だって一度は
私はあのとき罪を犯しました。それは絶対許されない
決して許されないのです。
られるためのその権利を、私たちが勝手に奪うことは、
した罪の重さを噛みしめていました。
そ の あ と は 、皆 で A さ ん と 握 手 を し て 会 を 終 え ま し た 。
帰り道は、Aさんと一緒に帰りたいと言う人もいて、私
も家が近かったので、Aさんや皆と、ぎゅっと手を繋い
ことだと思います。あの話し合いがあったから、気づけ
たのだと思います。これからもそのことを胸に刻んで、
で帰りました。
あれからずいぶん経って、私はAさんととても仲が良
一人一人の人権を大切にしながら、誰もが人間らしく、
っていきたいです。
自分も自分らしく生きていけるような明るい未来をつく
くなりました。一緒に帰ったり、駄菓子屋さんに行った
り、お互いの家にも行ったりしました。
私は気づきました。今までは、Aさんのことを嫌いと
いう目で見ていた分、嫌なところばかり意識してしまっ
ていたのに、今は不思議とたくさんAさんの良いところ
が分かります。確かにわがままなところもあります。で
も、その分Aさんはまっすぐで、正義感が強くて、どこ
かか弱くて、そんな人間らしいAさんをいつのまにかと
ても好きになっていました。
そしてあの話し合い以来、私たちのクラスでは、また
いじめをする人は誰一人いませんでした。
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人権と聞いて思ったこと
南毛利中学校3年
飯田
優羽
人 権 と い う 言 葉 を 聞 い て 、私 は 歴 史 の 授 業 で 学 ん だ﹁ 人
二〇一五年度に初めて十万件を越えたとのことです。
また、暴力などの身体的虐待よりも、暴言や脅しで子
どもの心を傷つける心理的虐待の方が割合が高いという
ことです。
その中でも、心理的虐待にあたる﹁面前DV﹂の件数
﹁人権宣言﹂とは、フランス革命時に人間の自由と平
子どもが見聞きすることです。その様な環境下で育った
力を振るったり、暴言を吐く、物にあたるなどの行為を
が多くなっているそうです。
﹁ 面 前 D V ﹂と は 、相 手 に 暴
等、三権分立などの基本原則を記したもので、一七八九
子どもは、身体的虐待と同様に心の傷を負うということ
権宣言﹂という言葉を思い出しました。
年 に 憲 法 制 定 国 民 議 会 に よ っ て 採 択 さ れ ま し た 。し か し 、
です。
私は、暴力を振るわれたときは体に傷が残りますが、
約二二〇年前から人権を守ろうという運動があったにも
かかわらず、最近では、その人権が守られていない問題
毎朝、新聞を読んでいて、何かしらの紙面に親が子ども
その一つが、いじめや児童虐待などの問題です。私は、
その中でも、子どもに関する問題が後を絶ちません。
相談をしないといじめやDVがもっとヒートアップする
はとても勇気がいることだと思います。しかし、そこで
警察に通報したり、電話をして相談をするといったこと
一 生 心 に 残 る も の だ と 思 い ま す 。し か し 、虐 待 を 受 け て 、
暴 言 を 吐 か れ た り 、陰 湿 な い じ め な ど で は 心 に 傷 が 残 り 、
を殺したというものから、子どもが親に暴力をふるうも
かもしれないし、事態が深刻化して、後戻りができなく
が日本でも多数起きています。
のまで、いろんな事柄の記事が載っています。それを読
なることがあるかもしれないので、早めにSOSを送る
いるという状況を日本中の人々が知ることと、相談室の
んで子どもの小さい命がなくなっていくのがとても悲し
そ ん な 中 、い つ も の よ う に 新 聞 を め く っ て い た ら 、
﹁児
設置が進んでいないという県や事件が発生しても十分に
ということが大事だと思います。そして、DVが増えて
童 虐 待 が 初 の 十 万 件 ﹂と い う 見 出 し に 目 が 止 ま り ま し た 。
対応ができていないといったことが起きているので、対
いと思っています。
その記事を読むと、児童相談所が対応した児童虐待が、
- 15 -
制整備が必要だと思いました。
策をもっと練ること、支援を身近な場所で受けられる体
両親は心の底から私に
か分からないと主治医に言われたそうです。そのとき、
と願ったそうです。そして、その願いのおかげで、私は
﹁ が ん ば っ て 生 き て 。﹂
親になりきれずに子どもを遺棄してしまうといった問題
一ヶ月後に元気に退院したそうです。私は、こんなにも
もう一つは、子どもを授かったにもかかわらず、親が
です。どうして、こういった問題が起こるのかが私には
両親に愛されて幸せだなと思います。
このように出産は、簡単なことではないと思います。
分かりません。授かった命にはもうすでに人権があると
思います。親の身勝手な行動で大切な人権を侵すという
んな大変な思いをして、産んだ子どもに苦しい思いをさ
無事に生まれてくることが普通ではないと思います。そ
人は、約十ヵ月かけて母親の体から生まれてきます。
せるということは、親としても未熟さを感じずにはいら
ことはあってはならないことだと思います。
その間、だんだんと大きくなるにつれて、母親は母親に
れません。突発的に子どもに手をあげたくなった時は、
すべきです。どんなに言うことを聞かなくても、子育て
なるという気持ちが芽生え、子どもに対する愛情や愛お
かってからの期間に父親になるという心の準備をしてい
がうまくいかなくても、その時の気持ちを思い出せば、
出産した時の苦しみや、産まれてきた時の喜びを思い出
くのだと思います。このような問題が起こる背景には、
愛しさでそれ以上、エスカレートすることはないと思う
しさを育てていくのだと思います。あわせて、父親も授
両親の心の未熟さがあるのだと思います。
私は生まれてくるまでにどんなに大切にされていたのか
薬を飲むことにならないように注意していたそうです。
娠 期 間 に は 、食 事 に 気 を 遣 い 、体 調 管 理 に も 気 を 付 け て 、
もたちの大切な人権が守られていくといいなと思いまし
と思います。そして、世の中の悲しい事件が減り、子ど
は、自分の親を思い出し、子どもを大切にしていきたい
私は、いつか親になる時がくると思います。その時に
からです。
分かりました。出産時には、緊急手術となり、母も身体
た。
私は、母から私を出産したときの話を聞きました。妊
的に大変だったそうです。
私も、生まれたときは仮死状態で一日二日、命が持つ
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バスの運転手さん
南毛利中学校3年
﹁おい!はやく動けよ!﹂
神崎
真奈
去 年 、私 は 鮎 ま つ り に 行 く た め バ ス に 乗 っ て い ま し た 。
私が乗っていたバスには、たくさんの小さい子どもや
ご高齢の方々が乗っていました。道は車や人がたくさん
と言っていました。
その男性の言葉は、運転手に対する暴言へと変わってい
きましたが、バスの運転手さんは、ずっと
﹁ 申 し 訳 ご ざ い ま せ ん 。﹂
と謝り続けていました。
するとその男性はあきらめたのか
﹁もういい!おろしてくれ!﹂
とバスの通路をズタズタと歩いて降りていきました。
ましたが、さっきの男性のように、思ったことを率直に
確かに私も早くバスが動いてくれないかなと思ってい
すると、後ろに座っている子どもが泣いてしまいまし
言っては相手を傷つけてしまい、自分勝手な事をしては
い て 、私 が 乗 っ て い た バ ス は 道 を 前 に 進 め ず に い ま し た 。
た。エアコンがきいている車内なのにじめじめとした空
いけないなと私は思いました。
まっていました。
性は私が乗っていたバスに気付き、バスを見ながらかた
すると前の方にさっき降りた男性がいました。その男
たのです。
男性が降りてから5分位たつとバスが順調に進み始め
気の中、さっき泣いていた子どもの近くに座っていた男
性が怒った表情でバスの運転手さんに
﹁ お い 、何 や っ て い る ん だ ! 子 ど も が 泣 い て い る だ ろ !
早くバスを動かせ!﹂
と怒鳴り散らしました。
すると運転手さんは
すると運転手さんは次のバス停にとめて、男性を待っ
ていたのです。男性はそれに気付き、走ってバスに乗り
﹁ 申 し 訳 ご ざ い ま せ ん 。た だ い ま 道 が 混 雑 し て い る た め 、
も う 少 し お 待 ち く だ さ い 。﹂
恥ずかしそうに、座席に座りました。
支払っていき、男性の順番がやってきたとき、運転手さ
そして目的地に着いた時、皆一人一人パスモや現金で
と冷静に対応しましたが男性の怒りは収まらず、
﹁そんな言い訳を聞いているんじゃない!早くバスを動
かせ!﹂
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﹁ 先 ほ ど は 申 し 訳 ご ざ い ま せ ん で し た 。﹂
んが
感動しました。
でした。運転手さんが与えてくれたのかなと思い、私も
た時と全然違って、優しさや自信に満ちあふれた後ろ姿
した。
なので私は何事も笑顔で乗り越えていきたいと思いま
た。
優しい心を持てば相手が楽しくなるのかなと思いまし
と男性に謝っていました。
自分は男性が悪いのに、自分が悪くなくてもずっと謝
り続けてすごいなと思いました。
その時、男性が
﹁ 俺 が 悪 か っ た 。 迷 惑 を 掛 け て ご め ん 。﹂
と謝っていました。
すると運転手さんはニコッと笑って
﹁大丈夫です﹂
と言っていました。
そして男性はペコッと頭を下げてバスをおりていきま
した。
私は、早く動かせ等暴言をはかれていたのに笑顔で対
応していた運転手さんを見て、自分もそうしなきゃと勇
気をもらいました。
私と友達が合流してバスであったことを話すとビック
リ し て 、ド ラ マ み た い だ ね と 言 っ て い ま し た 。確 か に 今 、
思えばドラマのような出来事だったかなと思います。
そんな話をしていると私の横をバスに乗っていた男性
が通り過ぎていきました。
その時の男性の後ろ姿は、怒ってズタズタと歩いてい
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私から見える世界
南毛利中学校3年
吉野
由唯
小学校二年生の時、私は父の仕事の都合でアメリカ
ら肌が黒い人も眼が青い人も髪が赤い人もそれがその人
達の個性なのだと思っていた。そして見た目だけでなく
その言動や習慣などに攻撃することもないし、認め合っ
ていて、驚いたりすることがあっても最後は素晴らしい
とかそういう考え方もあるのかと全ては受け入れなくて
で精一杯だった。けれど、ある日ふと、日本人の行動や
分の気に入らないタイプや考え方に接すると変だと言っ
だが日本に来て、自分のクラスの様子を見てみると自
も尊重はするという環境だった。
国が抱える問題に疑問を持った。それは外国人に対する
て仲間はずれにしたり、言葉の暴力で傷つけたりしてい
から日本に引越してきた。最初は日本の環境に慣れるの
人権問題が差別という目に見えて分かりやすい形で起き
た。
来てみたらその人を知らない周りの人達に
なかなか学校に来ることができない人が時々頑張って
ていることだ。例えば﹁イスラム教徒﹂と聞くとイコー
ル﹁イスラム国﹂イコール﹁テロをする人達で怖い﹂と
か﹁変﹂と思ったり、アメリカ人は肉が好きだからホー
ん出してくれたけど、そのまま普段食べている物が食べ
い方がいいか分からなかったので呼びかけを聞かず、そ
と呼びかけていたことがあった。私はどうして関わらな
﹁ あ の 子 に 関 わ ら な い 方 が い い よ 。﹂
たかったという話を聞いたこともある。要するに﹁何々
ういう人達の所へ真っ先に向かって話をしてみた。でも
ムステイで受け入れた家庭が気を遣って肉料理をたくさ
人﹂と聞くとあるイメージが強すぎてその国の人みんな
ができないだけだったり、少し繊細でうまくクラスにな
それほど変な人ではなくて、ただ体調が悪くて来ること
また日本人同士でも、一人ではなくグループを作って
じめなかったり、家のことで悩んでいたりと精神的に苦
がそうじゃないかと思いすぎるように感じるのだ。
行動することが多いこと、なかなか学校に行けない人を
しんで、一生懸命どうしたらいいか考えているような人
けれどもうわさを信じやすく、事実を知ろうとしないと
達だった。私はその事実を知って日本人は全員ではない
悪く捉え、避けたりすることだった。
私 は 物 心 つ い た 時 、周 り に は 色 ん な 人 種 の 人 達 が い た 。
でもこの環境は私にとって当たり前のことだった。だか
- 19 -
このような小さな短所長所がお互いに少しずつ積み重
ーを使っていたのだが、勝手にこちらのスペースを使っ
﹁差別﹂は子どもだけでなく大人もしているのを知っ
なっていくと、理解不足や誤解が生まれ、それがさらに
感じた。事実を全て知ろうとしなくてもいいとは思うが
てびっくりし、ショックだった。何よりショックだった
積み重なっていくと差別が生まれ、それが地域や国の戦
たり、サンドイッチなどの食べ物を入れっぱなしにして
のは友達が﹁差別をする大人﹂を見抜いていてその大人
争 や 紛 争 、冷 戦 状 態 に 繋 が っ て い く の で は な い だ ろ う か 。
うわさを全て信じて、人のことを悪く捉えるのはあまり
に媚びるということだった。それでも私は正直にありの
だから私は小さなことと考えず、互いの意見や考え方を
も平気だったりしていた。
ままの自分でいたいし、それを認めてくれる大人も多い
理解しようとする、それは全てを受け入れるというくら
良くないと私は思う。
と信じたいと思う。
いでもよくて、こういう考え方もあるのかと自分と違う
意見や考え方を全部否定しないことが大事だと思うのだ。
何か悪く映ることばかり考えていたが、これでは自分
も偏見的な見方しかしていないと思ったので、次は良い
そこからどこか共通点や歩み寄りができる点がないか見
いう問題は減らすことができるのではないだろうか。
つけあい、調整していくことができれば、争いや差別と
点を探してみることにする。
まず日本の、日本人の良い所は基本﹁困っている人﹂
には手を差し伸べてくれる人が多く、相手がどうしたら
喜んでくれるかと考えて﹁おもてなし﹂するのは素晴ら
しいと思う。外国人、私がよく知るアメリカ人も基本的
親切で、高齢者や障がい者、子どもなどに対しては優し
く、バリアフリーの施設や設備は日本より進んでいると
思う。しかし自我も強く、意見がぶつかることがあると
自分が一番的なところがある。そしてあまり人のことに
気を遣わなかったり、気にしないことがある。
例えば私はアメリカの小学校の時二人で一つのロッカ
- 20 -
向き合ってみよう
睦合中学校3年
久保田
彩月
突然ですがみなさんは﹁障がい者﹂についてどう考え
ていますか?
私は、つい先日まで普通の人とは違う、変わった人だ
なと勝手に思っていました。でも、ある先生の話を聞い
て、障がい者の人について考え直すようになりました。
先 日 行 わ れ た 体 育 大 会 で 、ク ラ ス み ん な で 大 縄 を し て 、
その数を競うという競技があり、私は回し手になりまし
た。
私のクラスには人よりも苦手なことの多い障がい者の
子がいます。その子は普段、クラスにいても友達とあま
り話すことができなかったり、あまりなじめていなかっ
たので、私は本当にクラス全員で跳ぶことができるのか
すごく不安でした。
そんな不安を抱えたまま一回目の練習に入ると、やっ
ぱりその子は跳べなくて、すごく悲しい顔をして、特別
た。
私は、もっと回し方を変えて、その子を本番までに跳
ばせられるようにしたいと思って、一緒に回す子といろ
いろ考えました。
練習二回目で、私たち回し手の二人は前日に考えた方
法で回すと、その子は跳ぶことができました。
でも、二回目でひっかかってしまって、またクラスの
雰囲気は悪くなりました。
でも、練習しないと前には進めないので、三回目の練
習をしていると、私はその障がい者の子がいないことに
気が付きました。
担任の先生はその子を探しに行ったのですが、その子
がその場からいなくなったことに対して、またクラスの
みんなの雰囲気が重たくなりました。
私は、本当にどうしたらいいのか分からなくなりまし
た。
次の日、また普通に練習をしたのですが、その日の練
習に、その子は来ませんでした。
練習が終わった後の朝の会で先生からクラスのみんな
﹁障害を持っている子はみんなよりもできることが少
にお話がありました。
そ の こ ろ 、ク ラ ス で は﹁ あ の 子 が 跳 べ な い か ら 。﹂と か
なくて、実際、他のクラスに障害を持っていて大縄に参
クラスへ帰っていきました。
﹁ あ の 子 は い な い 方 が い い 。﹂と い う 声 が 聞 こ え て き ま し
- 21 -
み ん な で 本 番 が ん ば ろ う よ 。﹂と 涙 を 流 し な が ら 話 し て く
大縄ができるんだから、障害がある、なしに関わらず、
加できない子がいるけど、このクラスは三十三人全員で
した。
すごく楽しめて、みんなを跳ばせてあげることが出来ま
スタートの笛が鳴ってからは、私も覚えてないくらい
たちが目標にしていた二百回を超すことができて、とて
結果は、他のクラスより跳べた数は少なかったけど私
先生が話してくれたのをきっかけにみんなで声をかけ
もうれしかったです。何よりも、障害がある、なしに関
れました。
合いながらクラス全員が団結してみんなが跳べるように
わらず、クラス全員で跳ぶことができて、目標の二百回
を超すことができたことも、とてもうれしかったです。
練習をしました。
練習を重ねていくうちに、クラス全員がほぼ完璧に跳
私は、この出来事から、障害がある子は、人よりも出
今まで本気で練習してきて良かったと思いました。
他のクラスに比べると飛べた数はすごく少なかったけ
来る事が少なくて苦手なことも多いけど、回りのみんな
べる様になっていきました。
ど、一人一人がしっかりと声を出し、みんなで協力して
と力を合わせればできないこともできるようになるし、
クラスに馴染むことができるということが分かりました。
全員がしっかりと飛べる様に練習しました。また、仲間
に声をかけ合っている様子を見て、私は本番までにもっ
障害を持っている子とは、確かに関わりづらいことは
ずは声を掛けてあげる事が大切だと思いました。
でも、障害を持っている、持っていないに関わらずま
あります。
と上手に回せるように頑張って、みんなを二百回以上跳
ばせてあげたいと思いました。
そして体育大会当日、大縄が始まるまでの間、様々な
競 技 に 本 気 で 取 り 組 み 、応 援 も す ご く 盛 り 上 が り ま し た 。
大縄になると、みんなが他学年の応援から集中してい
ました。
私たちの番になるとみんなとても集中していました。
でも、みんなで声をかけ合って緊張をほぐしていきまし
た。
- 22 -
高齢者への気持ちの尊重
いと、とても残念な気持ちになりました。
また、この前、家族と買い物にいった時に、腰を丸め
て両手いっぱいに買い物袋を持ち、大変そうに歩いてい
袋を持ってあげたいと思いましたが、この間の電車での
美優
今現代では、少子高齢化が進んでおり、日本の人口の
出来事が頭に残り、違和感を感じました。それでも私は
保
高齢者の割合が約二十五パーセントと四人に一人が六十
声をかけ、
荻野中学校3年
五歳以上という割合になってきています。あらゆる公共
﹁ 大 丈 夫 で す か ? お 持 ち し ま し ょ う か ? 手 伝 い ま す 。﹂
るおばあさんを見かけました。その時に、すぐに買い物
の 場 で は 、お 年 寄 り に な に 不 自 由 な く 生 活 で き る よ う な 、
と声をかけました。しかし、そのおばあさんは一度は止
たような気がしました。
私はこの時に、あの違和感がなんだったのかが分かっ
っくりと歩いて行きました。
まってくれたものの、私の顔を見るなり無視し、またゆ
様々な施設や法律も整えられています。
そんな中で、電車やバスの中にある優先席に、若者が
何食わぬ顔で座っていたり、お年寄りの方がいても見て
見ぬふりをして、席を譲らない人がたくさん見受けられ
ます。
あの時感じた違和感は、決しておばあさんは誰かに手
伝ってほしいなんて思ってはいなく、助けは求めていな
私 は こ の よ う な 人 た ち を 見 て 、な ぜ 席 を 譲 ら な い の か 、
席を譲るのは当たり前じゃないのかと思ってしまいます。
かったのではないかと思いました。おそらく、自分でで
きる事は自分でやりたい、お年寄り扱いするな、という
しかし、この間、電車の中で、お年寄りの方がこのよ
うな会話をしていました。
想いがあり、訴えていたのではないかと思いました。
私 た ち は 、全 て の 高 齢 者 の 人 た ち を 、体 が 弱 く 不 自 由 、
いのです。
助けてほしい、手伝ってほしいと思っているわけではな
このように、高齢者だからといって、全ての高齢者が
﹁この間、電車に乗った時、席を譲ってもらったのよ。
自分はまだ元気だと思っているけれど、周りからはお年
寄 り 扱 い さ れ て い る の ね 。 悲 し い わ 。﹂
私はこの話を聞いて、今まで当たり前と思って席を譲
っていたことが、その人を悲しませていたのかもしれな
- 23 -
というマイナスなイメージを持っているのではないでし
ょうか。中には、まだまだ社会の一員として働ける、趣
味を生きがいとして、活力ある高齢者もいるのです。
私たちは、その﹁全ての高齢者﹂というイメージを捨
て、現代を一緒に生活し共存していくことが大切だと思
います。
これからも、私は困ったり大変そうにしているお年寄
りの方がいたら、今までと変わらず積極的に声をかけ、
助けていきたいと思います。しかし、高齢者の方の気持
ちをしっかりと考えて、あらゆる状況を把握していきた
いです。
また、高齢者に対しいたわりの気持ちから、かける言
葉が高齢者に悪い印象を与えてしまったり、高齢者の方
の意欲を無くしてしまったりと、声をかける側に問題が
あるのかもしれません。
高齢者がその人らしく生きるためにも、私たちは高齢
者に対する偏見を無くし、一人一人しっかり人権を尊重
できるよう、みんなでよりそい、認識を深め生活してい
くことが必要なのではないかと思います。
- 24 -
ひめゆりの悲劇の人権
綾夏
ら戦争の話をよく聞くようになった。特にひめゆりの塔
で学んだものは衝撃的で、戦争に対する考え方が大きく
変わった。なので私は、ひめゆり部隊について詳しく知
今から七十一年前、米軍との地上戦を目前に控えた頃
古川
﹁ 人 権 を 大 切 に し よ う 。﹂小 さ い 頃 か ら ず っ と そ の 言 葉
に沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範校女子部の生徒合
森の里中学校三年
を 聞 い て き た 。﹁ 人 権 と は 、 ど ん な も の だ ろ う 。﹂ 昔 か ら
わせて二百二十二人と引率教師十八人の合計二百四十人
りたいと思い、調べることにした。
そ う 思 っ て い た 。な の で 、私 は 辞 書 を 使 っ て 調 べ て み た 。
で、ひめゆり学徒隊が結成された。彼女たちは、沖縄陸
にやりたくない。なので、初めは強制参加だと思ってい
すると、
﹁ 普 通 の 人 に は 当 然 与 え ら れ る 権 利 。命 、自 由 な
そんな人権をどうすれば守れるのかを考えてみた。そ
た。しかし、調べてみるとそれは、強制でなく志願であ
軍病院に看護要員として動員された。私だったら、絶対
の 結 果﹁ 平 和 を 保 つ こ と 。﹂だ と い う 結 論 に 至 っ た 。な ぜ
ることが分かった。最初は、驚きを隠せなかった。なぜ
ど が 保 障 さ れ る 権 利 。﹂ と あ っ た 。
なら平和でなければ、命も自由も保障されないからであ
最 初 は 、親 が﹁ 戦 争 に つ い て 学 ぶ た め 。﹂と い っ て 、ひ
るを得なかったのかもしれない。そう思うと胸が痛い。
はありえない。たとえ嫌でもひめゆり学徒隊に参加せざ
こんなに志願者が多かったのか、理解できなかった。で
めゆりの塔に行くことになった。なので初めは、そんな
沖縄戦での悲劇は勿論、太平洋戦争での悲劇は、多く
る。そんな平和について強く意識し始めたのは、中学一
にノリ気ではなかった。しかし、実際に行ってみて私は
の命を奪った。それと同時に、多くの人々の自由を、人
も、よく考えてみると沖縄県は、四方を海に囲まれてい
衝撃を受けた。なぜならひめゆり部隊に入っていた方達
権 を 奪 っ た 。戦 争 を す る と い う こ と は 、人 々 の 命 や 自 由 、
年生の頃の夏休みにひめゆりの塔に行ったのがきっかけ
の話をまとめた動画での言葉はどれも悲しく、思わず耳
人権を奪うことになることを学徒隊だった人達の証言で
て、逃げ場がない。その状況で志願しないという選択肢
をふさぎたくなってしまうくらい残酷であったからであ
思い知らされた。私達は、平和と人権を守るため、学ん
である。
る。それ以来、戦争や平和に興味を持ち、祖父や祖母か
- 25 -
だことを後世に語り継いでいかなければならない。悲劇
を忘れてはいけない。二度と戦争をしないためにも、悲
しい歴史から目をそらしてはいけないと思う。忘れたい
く ら い 、つ ら い 過 去 だ か ら こ そ 忘 れ て は い け な い と 思 う 。
平和になるためには、相手の立場を互いに理解しあう
ことだと思う。なぜなら、戦争の主な原因は文化や考え
方の違いが、衝突するからである。国や地域によって文
化や考え方が違うのは、仕方無いことだと思う。まして
や考え方を世界共通にするのは、無理がある。そして、
なにより人権侵害に値する。たとえば、もし私が大好き
なものを、今から禁止されたら恐らく一カ月くらいは立
ち直れないだろう。だから、自分たちの文化や考え方を
押し付けるのではなく、異なる文化を尊重し、理解しあ
うことが平和への道しるべなのだと思う。
人権を守ることは、決して簡単なことではない。しか
し、不可能でもない。この世から、人権に害を与える戦
争をなくすためには、私達が知恵を絞り、平和へと世界
を導かなければならない。人権保障のためには、その土
台となる平和を保っていかなければならないと思う。
私は、ひめゆりの塔に行って、命の尊さと戦争がどれ
だけ悲惨かを学んだ。第三次世界大戦を起こし、再び多
くの人々の命と自由、人権が奪われることがないよう、
精一杯努力していこうと思う。
- 26 -
きえてほしいなんて
木内
もう言わない
厚木中学校3年
玲奈
私の兄には発達障害があります。このことについては
今ではだいぶ障害についての理解はできていきましたが、
家族と外出をするときに、知り合いなどに兄を見られた
くないという気持ちもあり、あまり、一緒に外出したく
ないと感じていました。
しかし、ある事件をきっかけに、私の兄や障がい者に
対 す る 気 持 ち が 大 き く か わ り ま し た 。そ れ は 、
﹁津久井や
まゆり園﹂で起こった障がい者殺傷事件です。この事件
違うと感じていました。例えば、買い物をしている時に
私に物心がついた頃、私は自分の兄が他の人と何かが
たらと考えると、今まで兄に対し思っていた、いなくな
い事件です。この事件にもし、私の兄が巻き込まれてい
設の障がい者を十九人も殺害したという、とても恐ろし
は、
﹁ 津 久 井 や ま ゆ り 園 ﹂の 元 職 員 の 男 性 が 、障 が い 者 施
は、すぐにどこかへ行ってしまうし、家の中では気に食
ってほしいという感情がどれだけ恐ろしいものか理解で
小さい頃から嫌な思いをしてきました。
わないことがあるとすぐに泣き出す。これらのことは、
このように、きっかけがなければ、人の気持ちを変え
き、もう、きえてほしいと思わない様にしようと思いま
面倒を見るのに精一杯だったため、私のことをあまりか
る事はできません。したがって、このような事件を二度
物心がついたばかりの小さな私でも、おかしいと感じて
まってくれず、とても寂しい思いをしていました。この
と起こさないためには、小さな頃からの教育が大切だと
した。
時の私は、兄なんていなくなってしまえばいいと思って
私は思いました。教育の内容は、自分とは違う感覚の人
いました。また、これらのことから、親は二人とも兄の
いました。
じように障害を持った兄弟、姉妹のいる友達もいました
障がい者は健常者とは、少し感覚の違いがあるために、
なぜ、このような教育が必要だと思ったかと言うと、
を理解し、受け入れられるようにすることです。
が、やはり、嫌なことはたくさんあり、兄なんて本当に
理解できず、変な人間、おかしな人間というレッテルを
また、私が小学生になった頃になると、まわりにも同
いなくなればいいと思っていました。
- 27 -
貼られてしまうからです。また、小さな頃からの教育も
大切で、大人になってから理解を得る事は、なかなか難
しいことだと思ったからです。
最近は、発達障害についての認知度が高まり、今まで
発達障害があっても、障がい者と認められなかった人も
認められるようになったため、障がい者の人数が増えて
き て い る と 言 わ れ て い ま す 。に も 関 わ ら ず 、私 は 今 ま で 、
身体障がい者についての教育は受けてきましたが、発達
障がい者に対する知識や理解を深める教育はされたこと
がありません。
発達障がい者の人数が増えてきていると言われてる今、
小さい頃からの幅広い障害に対する理解を得る必要があ
るのではないかと思います。
今回、この作文を書いてみて、私は改めて、障害につ
いての知識が深まり、障害に対しての印象もさらに変化
し、もっと、障がい者が生活しやすい社会になっていけ
ば良いと思いました。そんな社会にしていくために、私
たちができることは、障がい者についての知識を深めて
いくことだと思います。知識を深めるためには、教える
人も必要です。これからは、障がい者などの人権も取り
入れた授業をし、みんなが楽しく、そして生活しやすい
社会になっていくことを私は強く願います。
- 28 -
認め合い助け合う社会
活習慣もだ。周りにいる人を見まわしても、誰一人とし
て同じ人間などいない。人間、皆違いがあって当然なの
だ。それを理解したうえで、人と付き合っていかなけれ
私の友達にはAちゃんとBちゃんという人がおり、そ
穂香
私の母は、ミュージカルが大好きだ。母はアメリカの
の二人も友達同士である。Aちゃんはある歌手が好きだ
矢島
演劇及びミュージカルの賞、トニー賞を楽しみにしてい
が 、B ち ゃ ん は そ の 歌 手 に 対 し て 批 判 的 で あ る 。あ る 日 、
厚木中学校3年
る。
Aちゃんが私にこう言った。
ばならない。
﹁舞台上では、全ての人種、宗教、性別が平等であり、
﹁○○︵歌手の名︶が嫌いだから、Bちゃんのことは嫌
い 。﹂
尊 重 さ れ ま す 。力 を 合 わ せ て 憎 し み に 打 ち 勝 ち ま し ょ う 。﹂
これは、今年のトニー賞の司会者が言っていた言葉で
や銃乱射事件、紛争などの悲しいニュースを毎日のよう
て 全 否 定 す る の だ ろ う 。な ぜ 、
﹁ 自 分 の﹃ 当 た り 前 ﹄を 人
ぜ、趣味が違うだけで、その人の人格を﹁嫌い﹂と言っ
その時、私はどうしてだろうと思った。BちゃんとA
に聞く。そういった事件が多いのは、お互いの違いを認
に押し付けようとするのだろう、と。これは何も歌手に
ある。この日の朝、アメリカでは銃乱射事件が起こり、
めることができないからではないだろうか。一人一人の
限った話ではない。好きな野球チーム、芸能人、小さな
ちゃんは、その歌手の話でなければとても仲が良い。な
人間が対等に扱われ、人権が尊重されるような世界を作
意見の食い違いなどでも起こりうる話だ。
多くの人々が無差別に殺された。最近、このようなテロ
るために、私たちには何が出来るだろうか。
否、それぞれが思い思いに答えるだろう。例えば、好
このように聞かれたら、皆が同じ答えを言うだろうか。
ようだ。私はこの事件について、違いを認めないことも
いう事件だ。犯人は重度の障がいを持った人々を狙った
襲われて、たくさんの人々が亡くなったりけがをしたと
先日、ある悲しい事件があった。ある障がい者施設が
きなものだって違う。今、隣にいる人を見てみよう。顔
原因の一つであると思う。ニュースで、私はこのような
﹁ あ な た に と っ て 、﹃ 当 た り 前 ﹄ っ て 何 で す か 。﹂
も体も、着ている服も考え方も何もかも違う。勿論、生
- 29 -
雄さんの言葉である。近江学園によると、この言葉には
これは児童施設﹁近江学園﹂の創設者の一人、糸賀一
﹁ こ の 子 ら を 世 の 光 に 。﹂
んで領土を拡大しよう、などと言って、戦争や紛争など
たちよりも生活の仕方が野蛮だ、劣っているから攻め込
の、近くの地域は○○教徒が多いから、あの民族はおれ
大概、宗教や文化の違いから生まれる対立だからだ。あ
紛争、テロなどにもつながる。なぜならこれらの原因は
﹁障害のある子どもでも、それぞれに個性があり命の輝
が起こってしまうこともある。勿論、歴史的な恨みなど
言葉を目にした。
きがある。それは一見、異質なものに見えるかもしれな
が絡んでおり、一概には言えないものの、違いを認める
違いを認めること。少し考え方を変えるだけだが、ポ
い し 、他 の 人 の 目 に は 映 り に く い も の な の か も し れ な い 。
る 社 会 に な っ て ほ し い 。﹂と い う 気 持 ち が こ め ら れ て い る
ジティブに生きていくことが出来る。なぜなら、違いを
ことが平和への第一歩になると私は思う。
そうだ。私はこれを読んで、やはり私たち一人一人に違
認め人権を尊重するということは、即ち、人の悪いとこ
しかし、そのささやかな光であっても、一人一人が輝け
いがあることは当たり前だと改めて思った。
た言葉が叫ばれているが、本当に私たちは個性を大切に
持 っ て は い な い だ ろ う か 。近 年 、
﹁ 個 性 を 大 切 に ﹂と い っ
様々な人に対し、気がつかないうちに少し差別的意識を
だりして、多くの国の人々のことを理解し、違いを知る
来るのだと思う。そのために私は、世界の歴史など学ん
け合う事で皆が過ごしやすい社会を作り上げることが出
ある。そして、お互いに欠けている部分を補いあい、助
ろではなく、いいところに注目することが出来るからで
できているのだろうか。皆さんも一度は耳にしたことが
とともに違いを認められるような人になりたい。
たとえば、私たちは障がい者やエイズ患者の方などを
あるだろう。金子みすゞさんの詩﹁私と小鳥と鈴と﹂の
一 説 、﹁ み ん な 違 っ て み ん な い い 。﹂ こ の 言 葉 に 感 銘 を 受
けた人も少なくないだろう。だが、今どれだけの人が違
い を 、個 性 を 認 め 大 切 に し て い る の だ ろ う か 。も う 一 度 、
人との違いについて考えてみたい。
違いを認めないことは冒頭でも述べたとおり、戦争や
- 30 -
子どもの権利と貧困
では、貧困家庭の子どもの現状とこの権利が、どのよ
うに関わっているのでしょうか。
私が子どもの貧困に興味を持ったのは、テレビのニュ
これは、十八歳未満の子どもの、基本的人権を国際的に
﹁子どもの権利条約﹂というものを知っていますか。
割合だけで考えると、一クラス三十六人と考えて、その
っ て い ま す 。最 初 に 聞 い た と き 、私 は と て も 驚 き ま し た 。
子どもが貧困のもとで暮らしていて、今や社会問題とな
真優
保障するための条約です。日本は、千九百九十四年に批
内の六分の一が貧困家庭のもと、暮らしている計算にな
中嶋
准しました。私は、この権利条約で保障されている権利
ります。私は、これまで考えたことがなかった貧困問題
荻野中学校3年
が貧困で苦しんでいる子どもたちに、保障されていない
が、とても身近なものに感じました。貧困家庭では、家
ース番組がきっかけです。現在、日本では六人に一人の
と思います。
養 を 得 て 、健 や か に 成 長 す る 、
﹁ 生 き る 権 利 ﹂。二 つ 目 は 、
目は、子どもたちが健康に生まれ、安全な水や十分な栄
は、大きくわけて四つの柱から成り立っています。一つ
どもにとって最も良い事﹂を第一に考えなければならな
は 、少 な く な っ て い る の が 現 状 で す 。権 利 条 約 で は 、
﹁子
した結果、貧困家庭での親と子どもが一緒に暮らす時間
仕事をしていて、家に居ないことが多くあります。そう
族が生活していくためのお金が十分に足りず、両親の共
あ ら ゆ る 種 類 の 差 別 や 虐 待 、紛 争 下 や 障 害 を 持 つ 子 ど も 、
いとしています。親と子どもが一緒に過ごす時間はとて
そもそも、この﹁子どもの権利条約﹂で保障されてい
少 数 民 族 の 子 ど も な ど が 、﹁ 守 ら れ る 権 利 ﹂。 三 つ 目 は 、
も大切です。しかし、家庭環境によっては、一日に一,
働き、もしくはひとり親家庭で、朝早くから夜遅くまで
教育を受ける権利があり、自分らしく成長するためにと
二時間も親と過ごせていない子どももいます。それでも
る権利には、どのようなものがあるのでしょうか。それ
て も 重 要 な 、﹁ 育 つ 権 利 ﹂。 四 つ 目 は 、 自 分 に 関 係 の あ る
権利は守られているのでしょうか。
りに差別を受け、学校でいじめにあう子どもがいます。
貧困問題は、これだけではありません。貧しさから周
事柄について自由に意見を表現したり、集まりグループ
を 作 る な ど 、活 動 す る こ と が で き る 、
﹁ 参 加 す る 権 利 ﹂で
す。
- 31 -
ていくための十分なお金がないことが根本にあります。
貧困家庭での大きな問題について、その家族が生活し
がいたら、何かできることをしたいと思います。話を聞
た。けれども、もしも私の周りに、貧困で悩んでいる人
どもの私には、考えても考えても、思いつきませんでし
この﹁子どもの権利条約﹂を初めて知りました。貧困家
子どもの権利条約の第二十七条には、子どもの心とから
くだけかもしれませんが、そうした小さなことでも自分
最近では貧困家庭での虐待から、命をなくしてしまった
だの健やかな成長に必要な生活を送る権利をもっている、
から行動したいです。そして、子どもの権利条約をより
庭 の 子 ど も た ち の 現 状 を 知 り 、私 も 子 ど も た ち の た め に 、
と あ り ま す 。こ れ は 、親 の 力 だ け で 生 活 が 守 れ な い と き 、
多くの人に知ってもらいたいです。そのようにして、多
子どもたちのニュースが多くあります。こうした子ども
国も協力します。また、第二十六条では、子どもや家族
くの人が権利について考える事で、こうした問題が解決
何かできることはないかと考えました。しかし、まだ子
が、生活をするのに十分なお金がないときには、国がお
する、第一歩となるといいと思います。
たちの権利を守ることはできないのでしょうか。
金を払うなどをして、暮らしを手助けしなければならな
い、とあります。これらの権利があるにも関わらず、日
本の貧困率は十五パーセントを上回ります。こうした状
況を変えるため、どうすべきなのでしょうか。
改善策として、母から﹁大学のボランティア﹂の話を
聞きました。貧困家庭の子どもは、そうでない子どもに
比べ学力が低い傾向にあります。それが原因でよい就職
先が見つからず、貧困家庭から抜け出せない悪循環に陥
ってしまいます。そこで、大学生のボランティアが、無
料で勉強を教える場を設ける取組が行われているそうで
す。
私 は 、子 ど も の 貧 困 に つ い て の ニ ュ ー ス を き っ か け に 、
- 32 -
松本
﹁誰か一人﹂になるために
荻野中学校3年
藍
クだった。確かに、障がい者の人の中には、周りとコミ
ュニケーションをとるのが苦手な人が多いだろうし、す
べてが私たち健常者と同じようにはできないと思う。し
かし、それは障がい者の人たちを避ける理由にはならな
健常者の中に、運動や勉強が苦手な人がいるように、
い。
あげたいと思っていた。しかし、ふと気がついた。人権
障がい者も、人と接することが﹁苦手﹂なだけ。だから
人権作文を書くにあたり、私はぜひ難しい問題をとり
とは、いつも私たちと共にある身近なものだ。ならばと
健常者と障がい者にはなんの差もない。同じ人間だ。
に、その通りだ、なんて素晴らしい考えだろうと思い、
このような言葉を今までに何度も聞いてきた。その度
日常の中の人権侵害を探してみて思い当たったのが、近
所の飲食店の駐車場だった。
私が毎日使っている通学路の途中に、その駐車場はあ
い﹂という感覚が自分の中にあることに気がついた。障
し ま う の だ ろ う 。改 め て 考 え 直 し て み て 、
﹁障がい者=怖
ぎりぎりまでよけていた。無意識だった。なぜそうして
てくると身構え、すれ違う時には顔をうつむけて歩道の
く思い出してみると、私は、障がい者の人が前から歩い
は、そこへ向かう人たちとすれ違う。その時のことをよ
いて、そのとおりだと思っている。しかし、こうして振
は、差別はあってはならないものだということを知って
人は多いと思う。私を含め、そういう人たちのほとんど
しなくても、やはり障がい者と聞くと一歩引いてしまう
り、馬鹿にする人を見たことがある。また、そこまでは
際に、障がい者の人たちに対して、露骨に嫌な顔をした
このような体験があるのは私だけではないと思う。実
そ の 言 葉 を 行 動 に あ ら わ そ う と 決 め て い た 。そ れ な の に 、
がい者というだけで、何を考えているか分からない、自
り返ってみれば、無意識のうちに差別をしてしまってい
る。そこは、脳に障害を持つ人たちが、施設へ行くバス
分とは違っている、と勝手に思い込んでいたのだ。
た。それでは、差別のない社会をつくるためには、どう
気づかないうちに差別をしてしまっていたのだ。
﹁ 差 別 は し て は い け な い 、 そ ん な こ と 分 か っ て い る よ 。﹂
していけばいいのだろうか。
の乗り場として使っている場所なのだ。学校へ行く時に
そう思っていただけに、自分も差別していた事がショッ
- 33 -
ような日常の言葉にもっと注目して、差別に気付けるよ
ごと批判するような言葉は差別であることが多い。この
や﹁ 男︵ 女 ︶の く せ に 。﹂な ど 、あ る 一 つ の ま と ま り を 丸
や す い ポ イ ン ト に な る 。例 え ば 、﹁ こ れ だ か ら 外 国 人 は 。﹂
は潜んでいる。その差別に気付くには﹁言葉﹂が分かり
まで挙げてきた例のように気が付かないところにも差別
まずは、身近な﹁差別﹂に気付くことが必要だ。ここ
たい。
なくす近道であり、私がその﹁誰か一人﹂になっていき
動していく。そんな社会をつくっていくことが、差別を
い。誰か一人が、見知らぬ誰かを想い、真剣に悩み、行
懸命に考えても、完璧な答えは出ないと思う。それでい
深く考えられる。しかし、どんなにたくさんの人が一生
る。この波が広がっていけば、社会全体で人権について
うにならなければ、差別はずっと消えない。
しかし、ここで問題がある。差別に意識して生活して
いくと、自分は差別だと思っても、他の意見を持つ人が
現れるということだ。その人の意見も、確かに筋が通っ
て い れ ば 、迷 宮 入 り し た よ う な 気 分 に な る か も し れ な い 。
﹁差別﹂か﹁差別でない﹂か、その線引きはとても難
しい。だからこそ、いろいろな考え方、見方を知る必要
がある。自分が一生懸命に考えた事を、ある人の一言で
あっけなく崩されてしまったら、確かにとてもつらい。
しかし、私が重要だと思うのはそこからだ。反対された
ことによって、自分の意見の弱さと、新たな見方を知る
ことができたと捉えまた考えを広げていく。この姿勢が
一番大切だ。さらに、反対意見を出した人も、反対した
ことによって人権を考える機会をもてた。自分が人権に
ついて考えを示したことで、他の人にも影響を与えられ
- 34 -
どんな人でも人権はある
小鮎中学校一年
梨智
て い く 中 、一 部 の 人 は 、﹁ 認 知 症 の 人 は 施 設 に 入 る べ き だ 。﹂
や 、﹁ 外 に 出 る な 。﹂ な ど と い っ た 言 葉 が 出 て き て い る 。
また、認知症の人が線路に入ってはねられた事や、殺
しかし、そうならないために、監禁するという意見もあ
鈴木
人など、認知症に関わる事件が多発している。線路の事
﹁ お う 、 今 日 は ど っ か 行 く の か 。﹂
っ た そ う だ が 、私 は そ の 人 た ち が 持 つ 、
﹁人間が生存と自
故 で は 、お そ ら く 徘 徊 し て 、入 っ て し ま っ た ん だ と 思 う 。
と元気に話しかけてきた。5分くらい経ち、
由を確保しそれぞれの幸福を追求する権利﹂が、無くな
私の祖父から電話がかかってきた。
﹁ お う 、 今 日 は ど っ か 行 く の か 。﹂
活していけなくなり、殺してしまうケースや、本人に頼
ってしまうし、例えそうしても、私の祖父のように、散
知症になり、散歩には今まで通り行くが、迷子になって
ま れ て 殺 し て し ま う ケ ー ス が 多 い 。私 は 、介 護 す る 人 や 、
と、またかかってきた。私の祖父は認知症だ。
しまうようになった。それに最近の事を忘れてしまう。
本人が言って殺してしまって、その人は楽になるかもし
歩が好きな人などは、きっと外に出てしまうと思った。
昔 住 ん で い た ア パ ー ト の 事 な ど 、昔 の 事 は 覚 え て い て も 、
れないけど、命はとても大切だから、大事にしないとい
祖父は、散歩が大好きで、そば屋に行ってお酒を飲ん
今の家は忘れてしまっているため、家に帰ってこられず
けないんじゃないかと思った。それに、認知症の人は、
殺人事件では、その人の介護をしている人が大変で、仕
迷子になってしまっている。そのため、祖母は毎月のよ
昼と夜が逆になったりもするため、行方不明になったり
だり、マッサージ屋に行ったりなど、特に会話する事が
うに捜さないといけなくなったため、デイサービスに行
する事や、みんなと違うからって、差別がおこったりし
事を辞めたりしなければならなくて、お金が無くなり生
かせたり、GPSや、名前と住所のカード、人感センサ
てしまっている。しかし、認知症の人は、なりたくて病
好きで、誰にでも声を掛ける社交的な人だ。しかし、認
ーをつけ、工夫をした。そして今は、そのGPSに頼っ
気になったわけでないから、差別をするのは、その人の
人権を傷つける事と同じだと思った。その人たちの権利
ている。
今、高齢者社会になってきていて、認知症の人が増え
- 35 -
ー、GPSなど、様々な道具があり、認知症の人たちな
り・SOSネットワークや、相談センター、人感センサ
を守るために今、行われている事は、認知症の人の見守
要だと考えた。
など、一人一人の違いを理解していく事が、これから必
必要だと思う。例えば、お年寄りとの触れ合いを増やす
どが、より良い生活を送っていくための工夫がされてい
る。もし、GPSがなかったら、私の祖父は、ずっと行
方不明になっていたかもしれない。また、警察の人が捜
してくれたり、見つけた人が、家まで連れてきてくれる
優しい人がいて、私にも、出来る事はないかと考え、困
っている人がいたら、声をかけてあげる事や、危なかっ
たら、声をかけるなどをして、その人たちの人権を傷つ
け な い よ う に 、考 え て 行 動 す る 事 を 心 が け た い 。も し も 、
差別をしている人を見たら、しっかりと注意したい。そ
して、祖父にも、散歩にいける時は一緒に行ったり、た
くさん会話をしたりしていき、祖母にも、困っていたら
相談にのってあげたり、手伝いをするなど、助け合いな
がら、生きていきたいと思う。
私は、認知症であろうが、みな違って、みな良いと思
っ た 。こ の 人 は 、み な と 違 う か ら 、差 別 す る な ど も な く 、
人の権利を大切にしていけばいいと考えた。人権は、人
の思いやりの心によって守られるもので、人が生きてい
く上での大切な役割を果たしている。だから、これから
は、みながより良く、楽しく生きていけるような工夫が
- 36 -
自分が相手なら
荻野中学校3年
市川
優未
普段、障がい者の方と会話したり、関わったりしたこ
とがありますか。私はあります。そして私も友達や他人
から見たら、障がい者の一人かもしれません。
せんでした。なので母に言われたことを無視し、二度と
このようなことにはなりたくなかったので、脳の発達が
遅い人、コミュニケーションがとりにくい人、大人なの
に身長が低い人など、とにかく大きな障害、小さな障害
でも、障害をもっている人を避けるようになり、目を合
わせないようになりました。
そのころ、私と同じクラスで少し頭の悪い男の子が、
中学校に向かって歩いていました。歩いている途中、前
今まで、普通に会話していたその子とも、障がい者と思
た。学習室とは、障害を持っている人が行く場所です。
勉強に追いつけなくなり、学習室に行くことになりまし
から一人の大人の男性がこちらに向かって来たので、私
ってしまうと、上手に話すことができず他の子とは、違
私 が 小 学 生 中 学 年 の こ ろ 、姉 の 体 育 発 表 会 を 見 る た め 、
はその人にあいさつをしました。しかし、その人は障害
う態度をとってしまい差別してしまいました。その態度
に 気 づ い た 男 の 子 は 、私 に﹁ 何 で 冷 た い 対 応 す る の 。﹂と 、
を持っている人で、私はそのことを知らずあいさつをし
たら、大声をあげ急に走りだし、私を追いかけてきまし
私が高学年になり、仲の良い友達と遊んでいた時のこ
聞いてきました。しかし私は答えず、そのまま冷めた対
ったらどうしようと、恐怖しか頭にありませんでした。
とです。私は生まれつき、口の右側に神経がなく、下口
た。道には人の気配はなく、助けを求めることができな
何とか逃げ切った私は、母のもとへすぐに行き、今あっ
唇 麻 痺 と い う 小 さ な 病 気 を 持 っ て い ま し た 。そ の 病 気 は 、
応をしてしまいました。その子が辛い思いを、している
た出来事と、学校に電話した方が良いのではないかとい
手術しなければ治らないものでしたが、特に大きな問題
かったため、母がいる中学校に全速力で走りました。
うことを、必死に話しました。しかし母は、私に﹁障が
は な く 笑 っ た り 泣 い た り す る と 、左 の 唇 だ け が 伸 び た り 、
ことを知らずに。
い 者 の 方 だ よ 。大 丈 夫 、だ か ら 避 け て は だ め だ よ 。﹂と 言
人によっては食べこぼしが激しくおこってしまうくらい
私はその時初めて、殺されてしまうのではないか、捕ま
いました。でも私は、怖くて恐ろしくて、仕方がありま
- 37 -
は違う返答が返ってきて、私はとても傷つきました。今
い 者 と か 無 理 だ か ら 、ご め ん 遊 べ な い や 。﹂と 、い つ も と
そのことを言ってみると、
﹁ そ れ っ て 障 害 な の 。私 、障 が
気のことを伝えていました。しかし、遊んでいた友達に
聞かれるので、質問される前に自分から友達に、この病
ま せ ん で し た 。友 達 に よ く﹁ 右 側 の 口 は 伸 び な い の 。﹂と
で、私はそこまでひどくなかったので、特に気にしてい
えよう、自分が苦しんでいる相手なら。
に、人の気持ちを考えなければいけないと思います。考
も傷ついています。自分自身も、相手も傷つかないため
立場になるまえに気づかないと、その間に他の人はとて
ならないと、気づかないことがたくさんあります。同じ
違っています。人は自分が苦しんでいる人と同じ立場に
す。だから、障害という病気だけで、差別することは間
ま で は﹁ そ う な の 。大 丈 夫 。﹂な ど の 優 し い 返 答 が 返 っ て
きたため、私は仲の良い友達に否定された時、停止状態
でした。少しの記憶はあったけど、頭の中は真っ白で、
心に深い傷がついていくのが自分でもわかりました。自
分が障がい者だと思ったことは一度もなかったため、障
がい者扱いされたことにも傷ついたし、また、障がいを
持っているというそれだけで、嫌われる悲しさを知りま
した。それと同時に、中学年のころの記憶が頭に浮かび
ました。私はあの時、男の子にひどいことをしてしまっ
たと。その時から、障がい者を差別してはいけないとい
うことを、強く固い意志で心に決めました。
﹁ 障 が い 者 ﹂と 聞 い て 、多 く の 人 が 関 わ り た く な い と 、
考えていると思います。でも、障がいとはそんなに悪者
なのでしょうか。人間はみな平等です。障がいを持って
生まれてきたいと思っている人は、一人もいないはずで
- 38 -
ロといった争いがおこり多くの人々が犠牲になっている。
その中には、幼い子どもたちや、何の罪もない人など平
夢や希望に向かって生きてゆく。多くの人々が平和と豊
平和な世界へ
和を望みながら死んでいく人たちがいる。私たち人間は
﹁ 空 襲 で 辺 り は ま る で 火 の 海 だ っ た 。﹂こ れ は 、私 が 九
かな生活を望んでいる。私も、戦争のない平和な世の中
遥
歳の頃、曾祖母が戦争の話をしてくれた時の言葉だ。私
へとなってほしいと思っている。それなのになぜ、真面
長田
はその時初めて、戦争時の様子を知り、怖さを感じた。
目に生きている人々から未来を奪う戦争がなくならない
依知中学校3年
曾祖母の声はとても低く、震えていたことを今でも覚え
のだろうか。また、どうしたら誰もが平等に暮らせるよ
誰もが自由に生きる権利をもって生まれてくる。自分の
て い る 。当 時 の 私 は 幼 く 、
﹁ 怖 い ﹂と い う 感 情 し か で て こ
私は先日、学校の道徳の授業で、戦争がおきてしまう
うな平和な世界がくるのだろうか。
人々を殺すだけの争いは二度といけないということを曾
原因について一つのお話を聞きながら考えた。その話は
なかったが、戦争での悲しみ、いらだち、そして多くの
祖母は私に伝えたかったのだと思う。また、私の祖母も
私たちの身近な学校生活でも起きてしまうようなものだ
一人の男の子が誰かにいじめられて泣いている。しか
戦争の経験者だ。祖母は幼いながらも空襲に遭い、火の
建物のガラスはどろどろと熱さで溶け、いたるところで
し誰も助けには来ない。もちろん、周りにはたくさんの
った。
火が上がり夜なのに昼間のように明るかったそうだ。祖
クラスメイトがいた。その子がいじめられるのをずっと
中を母と一緒に走って逃げたことを覚えているという。
母はその時、まだ四歳だったが、そんな幼い子どもが今
見 て い た 子 、途 中 か ら 見 た 子 、一 緒 に な っ て い じ め た 子 、
ている男の子をかわいそうだと思った子。いろんな人が
となっても覚えているくらい戦争はひどく、残酷なもの
戦争とは、国家が他国に対して勝利という目的を達成
見ていたのに誰もその子に声をかけようとしない。そし
止めようとしたけど勇気がなくて出来なかった子、泣い
するためだけに武力を行使するという人類の中で一番最
て 見 て い た 子 は 口 を そ ろ え て こ う 言 う 。﹁ 私 は 悪 く な い 。
だったのだ。
悪な人権侵害だ。しかし、今もまだ、世界では紛争やテ
- 39 -
り、そういう思いやりを持たない言動が、戦争という結
んなやっていたから〟と言って自分もいじめに参加した
いじゃない″と言って相手の気持ちを無視したり、〝み
いる、本当の犯人だと思った。それと同時に、〝私のせ
ぬふりをしている周りの人たちこそが男の子を傷つけて
気持ちになった。仲間が助けを求めているのに、見て見
私 の せ い じ ゃ な い 。﹂私 は こ の 話 を 読 ん で 、と て も 悲 し い
じことをしたくないと強く願うことも今の日本の平和を
むけずに、戦争の怖さについてよく知り、もう二度と同
解決できるのではないかと思う。また、争いから目をそ
し、思いやりの心を持てば、武力ではなく他のやり方で
とうとするからだ。私は、皆が一人一人の人権を大切に
に武力を使いお互いの人権をつぶし合うことで有利に立
手よりも何かしら上回りたいなどの要望が原因で、すぐ
このことを踏まえて、これから私は曾祖母が私に伝え
守り続ける上で大切なものだと思う。
時代の戦争にも国の勝利のためだけに武力を用いてしま
てくれた戦争の怖さをずっと忘れず、次の世代にもそれ
果を招いているのではないかと考えた。もちろん、どの
うことがおかしいと考える人はいたと思う。もしもその
をしている友達には、
﹁ そ れ は 違 う ﹂と は っ き り 主 張 で き
を伝えていきたいと思う。それに小さなことかもしれな
の権利を大切にしていれば、戦争は起こらずに済んだの
るような人でありたい。一人一人の人権を守ろうと皆が
人たちが戦争をするという論理をねじふせるほど、争う
ではないだろうか。怖くてもいじめを止めようとする勇
考えれば世界から戦争が消え、平和な未来がいつまでも
いが、誰に対しても思いやりの心を持ち、間違ったこと
気や、誰もが思いやりの気持ちを持つことこそが平和な
続くと、私は思う。
ことの無意味を訴えていれば、誰もが人間が生きるため
世界への道だと私は思う。
今、私たちは恵まれた環境の中で何一つ不自由なく生
活している。しかし日本には、戦争で国のために死ぬこ
とが立派とされ、多くの人々から夢や希望を奪われた時
代があった。それに今でも世界には数多く、紛争やテロ
で苦しんでいる人たちがいる。戦争はとても無意味で何
も生まれない。けれども争いはなくならない。それは相
- 40 -
﹁あいがお﹂
藤塚中学校3年
﹁ 怖 い 。﹂﹁ 気 持 ち 悪 い 。﹂
都髙
凜乃
ったけど、さすがに障害を持っている人だってことは分
かったらしい。ついぽろっと、
﹁ 気 持 ち 悪 い 。﹂
と言ってしまった。あまり記憶はないけれど、その女の
子は、何も言わず、ただただ悲しそうな顔をしてうつむ
私 の 家 は 、祖 父 と 祖 母 、ど ち ら も 兄 弟 が 多 い 。だ か ら 、
もそのまた次の年も、あの女の子を見るたびに﹁気持ち
かに行ってしまったのを覚えている。それ以来、次の年
いていた。それなのに私はそっぽ向いてスタスタとどこ
まぁ、一人くらい障害を抱えている親戚がいてもおかし
悪 い 。﹂
﹁ な に こ の 人 怖 っ 。﹂な ん て こ と を 思 っ て し ま っ て
これを思わない年はない。でもそれは間違っていた。
くはない。毎年、親戚が大集合して、えんやわんやする
いつの年だっただろう。私のお父さんと同じ年齢で、
いた。
ラスボスと戦う時の気持ちと、なんら変わりはない。私
同級生の人で、名前は知らないけど、車イスに乗ってて
のがあるけれど、私にとってそれに行くのは、ゲームで
はラスボスは嫌い。全然HPが減らないんだもん。それ
ど、小学校四年生の時、初めて行った。衝撃を受けた。
夜遅くまでやってるから、小さい時は行かなかったけ
なかった。嫌だなぁと思いつつ握手した。その時に、ぎ
ここで断っても怒られるだけだし言うとおりにするしか
んと、帰り際に握手をしなさいと親が言ってきたのだ。
障害を持っている人も集まりに来た年があった。嫌で嫌
同年代の子が全然いなくてしばらくうろうろ探している
こちないけど満面の笑顔で
とこれとはちょっと違うかもしれないけど、とりあえず
と、同じくらいの背で、しかも女の子の後ろ姿が見える
﹁ あ い が お 。﹂
で近づきたくもなかった。そんな私に悲劇がおこる。な
じゃん。うきうきだったなその時は。でもそんなこと思
と 言 わ れ た 。 ど う や ら こ れ は 、﹁ あ り が と う ﹂ み た い だ 。
私はその集まりが大嫌いだった。
っ て た の も つ か の 間 。﹁ ね ぇ ね ぇ 。﹂ と 声 を か け て ふ り か
それを言われた時、罪悪感が込み上げてきた。
そんなこんなで帰宅すると、祖母がこう語りだした。
え っ た そ の 女 の 子 は 、ま ぎ れ も な い 、
﹁ ダ ウ ン 症 ﹂の 女 の
子だった。当時の私は、ダウン症なんて言葉は知らなか
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︵私の父︶たちと、今は駐車場になっちゃっているけど
﹁あの子はねぇ、小さい時から野球が大好きで、やすし
ん に ち は 。﹂ と 言 っ て く れ た 。
葉を言い捨てて、それでも次の年には満面の笑顔で﹁こ
大先輩だ。自分はその頃はガキで、何も知らずあんな言
私 に は 、将 来 の 夢 が な い 。だ か ら 進 路 に つ い て 先 生 に 、
裏の広場でよく野球を楽しそうにやっていたのよ。いつ
だったかしらねぇ。なにかのきっかけがあったのよ。そ
然、目の前が真っ黒になるかもしれない。だから小さな
﹁将来やりたいこととかあるの?﹂と聞かれても答えら
本当にびっくりした。私は当時障害を抱えている人は
ことでも目標を見つけて努力し、悔いのないようにした
のきっかけであの子はあんな状態になってしまったの
生まれた時からそうなんだと思っていたからだ。ある日
い。そして、あの二人のように、素敵な心を持った大人
れない。けど、いつ、なにが起こるのか分からない。突
突然自分の世界がガラッと変わって、みんなの対応も変
になりたいなと思う。
よ 。﹂
わって、私のような何も考えないガキには気持ち悪がら
れ。それでも笑顔で、
﹁ あ い が お 。﹂
と言ってくれたんだ。握手も嫌がった反省の気持ちと、
ほんわか温かい気持ちが入り混じった感じがした。
私 が 、﹁ 気 持 ち 悪 っ 。﹂ と 言 っ て し ま っ た 女 の 子 は 、 そ
の時は同い年だと思ってたけど、二十歳は余裕で超えて
いる大人の人だった。その人は、ボランティア的なとこ
ろで頑張っているらしい。けど、そこでもいじめっぽい
ものにあってたらしい。今は知らないけど。それでも前
を向いて、震える手で一生懸命頑張っているんだって。
なんか、自分には持っていないものをたくさん持ってい
るんだなと思った。年もそうだけど、いろいろな意味で
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相手を知ること
南毛利中学校3年
岩藤
遥香
うと試みた。
一つは、子どもの声がずっと騒がしいから。もう一つ
は、子どもの送り迎えをする保護者が路上で行う長時間
の会話の声。それに伴う、車の路上駐車や渋滞が起こる
私はこんな体験をした。一年半前、我が家の裏に六軒
事だと思った。
そして通信教育で資格を手に入れたのだ。なぜ今更にな
の住宅が建った。そこにはかつて畑であった。季節ごと
昨 年 の 冬 、母 が 突 然 保 育 士 に な る た め の 勉 強 を 始 め た 。
って保育士の資格を取ったのか、と私は不思議に思い、
事が多い。夏休み中、大きな泣き声が聞こえた。その泣
の野菜が育ち、豊かな自然があった。時には、野菜のお
ここ数年、新聞やニュースで待機児童の問題がよく取
き声から裏に住むK君だと分かった。K君はよく兄弟ケ
母に聞いた。母は、
り上げられている。保育士が少ない事と、保育所が足り
ンカをする男の子だ。その子が結構な勢いで泣くので、
裾分けをあげたりもらったり、いろいろな人がコミュニ
ない事が主な原因だという。保育士を増やすために、母
どの位の間泣いているか計ってみた。長く感じたあの泣
﹁保育士が少なくて困っているとニュースで言っていた
の様に新しく資格をとる人を増やすことや、資格を持っ
き声は、たったの三分だったのだ。私はとても驚いた。
ケーションをする場所であった。新しく引越してきた家
ている人に仕事についてもらうこと。さらに、保育士の
人の感覚はとてもいい加減なのだなと思った。このK君
でしょ。だから、今はまだ自分の子どもに手いっぱいだ
給 与 の 改 善 を す る な ど 、政 府 は 努 力 を し て い る 。し か し 、
のなき声を、うるさく感じた住民もいるのではないか。
族の多くには、二、三歳の子や幼稚園児がいた。その子
保育所を建てる事は地域の住民が建てる事に反対をして
しかし、私はうるさいとは感じなく、どちらかといえば
け ど 、 い つ か 落 ち 着 い た ら 保 育 士 を や り た い ん だ 。﹂
いるので、一向に進まないらしい。保育所が地域住民の
微笑ましいように思えた。人によって受けとめ方が違う
たちは、朝の七時半から夕方の六時過ぎまで遊んでいる
反対によって、建設する事が出来ないのはなぜだろう。
のだなと思った。
と言っていた。
私は地域住民が反対している理由を彼らの立場で考えよ
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想像することが私には出来る。私はこれらの事から、人
ん に 怒 ら れ た の か な 、お 兄 ち ゃ ん と ケ ン カ し た の か な と 、
しみを持つようになった。K君が泣いていても、お母さ
やK君がここに慣れようとする事と同じで、私も彼に親
くれた。今では一緒に遊ぶようにもなった。K君の家族
思った。その後も会う度に、K君の家族から挨拶をして
くれた。今でもその事を覚えている。良い人たちだなと
K君が越してきて間もない頃に、家族で挨拶をしに来て
私はK君との出会いから現在までを思い返してみた。
知り互いに絡み合って生きていくべきだと思う。
きていくのだから、自分の事だけにならず、相手をよく
が少なくなってきている。せっかくたくさんの人間と生
今、たくさんの人が言葉で直接話すコミュニケーション
夫すれば良いと思う。これは、保育所の事に限らない。
などの機会を取り入れたりして、人とのつながり方を工
育所の近くの地域の人に子どもたちの活動を見てもらう
毎日の散歩コースにして、地域の人と挨拶を交わす。保
設する問題を解決するには、新しく保育所を作る地域を
と人とが関われる事が必要だと思った。もし、全く知ら
な い 人 に 騒 が し く さ れ た ら イ ラ ッ と す る だ ろ う 。や は り 、
お互いを知り、触れ合う事で広い心を持つ事ができ、良
い関係が作れ、人に対する気持ちが変わると思う。
新しい保育所が近所に建つ事になったら、知らない多
数の子どもや大人が、ほぼ毎日、近所で大きな声を響き
渡らせるだろう。そう考えただけで、今までの自分の穏
やかな生活が乱されると思うと、人は身構えるだろう。
新しい相手を受け入れる事ができる様になるためには、
どうしたら良いのだろう。普段の生活でもよく言われる
が、挨拶をする事がまず第一にするべき事だ。また、お
互いを知るために、地域の行事に参加したり親しみを持
ち合える機会を増やしたら良いと思う。この保育所を建
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平等な世界へ
身が動かない?そんなの嘘でしょ﹂と思い、数日後、病
院に祖父の様子を見に行くと、本当に右半身が機能して
いなかったのです。その時僕は、目の前の出来事に対し
せんでした。前とはまるで、別人の祖父を見て、それま
旺翼
最近、ひどく胸を痛めたニュースがありました。それ
で障がい者を馬鹿にしていた自分を責めました、身近な
町田
は、相模原の障害者福祉施設事件です。健常者が、刃物
人が、そういう姿になって、この時から僕は障がい者を
小鮎中学校2年
を使い、死亡者は十九人、負傷者は二十六人という、大
馬鹿にするのではなく、支えていかなければいけないと
て、心の動揺が収まらず、咄嗟に受け入れる事ができま
騒 動 を 巻 き 起 こ し た 、歴 史 に 深 く 刻 ま れ る こ と で あ ろ う 、
僕 は 、七 月 の 事 件 が き っ か け で 、祖 父 の 事 を 思 い 出 し 、
思うようになりました。
これが一番印象に残っています。何故かというと、僕が
障害者について、改めて考える事が出来ました。事件の
残酷な事件です。最近、殺人事件などが相次ぐ中でも、
住んでいる、神奈川県内だったという事もありますが、
犯人や、今までの僕のような、障がい者を差別するよう
な人が一人でもいなくなれば、より良い世の中になると
一番の理由は、障がい者という四文字の言葉から、祖父
が連想されたからです。
僕は思います。また健常者がバスの席を譲るなどのちょ
僕としては将来、福祉に携わり、たくさんの人に勇気
僕の祖父は、遠く離れた新潟に住んでいます。そんな
仕事に就いていたため、自宅の屋根の上に登るという危
と希望を与え、社会に貢献したいです。それは障がい者
っとした気遣いが障がい者が安心して暮らす事のできる
険が伴う事をしていたある日、屋根の上から落ちてしま
についてよく知っている僕だからこそ真心を持って出来
祖父に突如、人生を変える、大きな出来事が起きたので
ったのです。病院に搬送され、幸いにも、一命をとりと
る事です。誰もが平等になる日が来る事を心から祈って
世の中への第一歩となるのではないでしょうか。
めたのですが、強く頭を打ったため、脳卒中を起こし、
います。
す。それは、僕がまだ小学生だった頃、祖父は建築系の
右半身が機能しなくなってしまったのです。
そ の 知 ら せ を 祖 母 か ら 電 話 で 受 け と っ た 時 に は 、﹁ 右 半
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パーツの大切さ
 千幸
ました。そして、私よりも辛く、苦しい思いをしている
友達を必ず支えていこうと思いました。
私は、友達とのこのきっかけで自分の体や他の人をも
前のことが本当は当たり前でなかったり、自分の体の一
小
あなたは﹁ドナーカード﹂という言葉を知っています
部一部のパーツがどれだけ重要な役割をしているのか改
東名中学校3年
か。
﹁ ド ナ ー カ ー ド ﹂と は 、臓 器 移 植 に お い て 、提 供 者︵ ド
めてよく分かりました。
っと大切にする必要があると思いました。また、当たり
ナー︶の意思をはっきりと示すもののことです。私は三
手が確実に生きていける方を優先にしたいなと思いまし
そ し て 、も し 私 が 成 長 し て い く 中 で 友 達 よ り も 悪 い﹁ 脳
ある日、私は友達と二人で話していました。すると、
た。でも、その時、家族は私が臓器移植することについ
年生になるまでこの言葉を耳にしたことがなく、道徳の
突 然 、友 達 は﹁ 肺 を 悪 く し た 。﹂と 言 い ま し た 。そ の 子 は
て反対をすると思います。なぜなら、私も家族が臓器移
死 ﹂と い う の に な っ た ら 、今 は 、
﹁ ド ナ ー カ ー ド ﹂に 記 入
吹奏楽部で高校でも吹奏楽をやりたいと前から言ってい
植 を し た い と 言 わ れ た 時 、反 対 す る か ら で す 。
﹁ 脳 死 ﹂は
授業で知りました。まだこの時は自分の身近にないせい
ました。でも、医者からは﹁治るかもしれないが、中学
心臓は動いたまま、髪や爪は伸びていきます。あなたも
をして臓器移植を選びたいなと思いました。身近にこん
で 最 後 に な る か も 。﹂と 言 わ れ た そ う で す 。私 は そ の 話 を
想像してみてください。自分の家族が﹁脳死﹂になって
か深く考えることはできませんでした。しかし、あるこ
聞いて、とても辛く、悲しく、心が苦しかったです。で
こ の よ う な 状 況 に な っ た 時 、臓 器 移 植 に 賛 成 で き ま す か 。
なに辛く、苦しい思いをしている人がいるのを知ったな
も、私はその思いと同時に医者の言っていた﹁治るかも
人の意思はそれぞれあると思いますが、反対をする人が
と が き っ か け で 、ま た 、
﹁ ド ナ ー カ ー ド ﹂に つ い て 考 え る
しれない﹂という言葉に可能性を感じました。まだ楽器
多いんではないかなと思います。でも、きっと最終的に
らば、私は自分が生きれるか分からない状態よりも、相
を吹けないと決まったわけでないと私は思いました。私
はその人がやりたいようにさせてあげたいなと思うはず
ことがありました。
はその可能性を信じて、その友達のそばにいようと思い
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です。なぜなら、その人が思う最後の意思だからです。
私はこのように考えますし、きっと、家族もこのように
考えてくれるだろうと思います。また、反対したことで
﹁ あ な た は 大 切 な 人 な ん だ 。﹂と い う 愛 の 気 持 ち が 届 い て
いき、逆に、反対されたことで﹁自分は大切にされてい
る 。﹂ と い う 愛 の 気 持 ち が 伝 わ っ て く る と 思 い ま す 。
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あつぎ市民ふれあい都市宣言
厚木市は、先人のたゆまぬ努力により、自然と調和する都
市として発展してきました。そして今、少子高齢化の進展や
価値観の多様化により、人と人との関係が変化し、市民相互
の絆(きずな)がより大切になっています。
私たち一人一人が地域に関心を持ち、日頃から助け合い、
市民協働により、身近な課題に取り組むことで、笑顔で暮ら
せる安心・安全なまちをつくることができます。
家庭や地域で思いやりの心を育み、ふるさと厚木を世代を
超えて愛し、誇れるまちとするため、ここに「市民ふれあい
都市」を宣言します。
ふれあいの家庭づくり
家族との絆(きずな)を深め、人を思いやる豊かな心を育み、
ぬくもりのある「心ふれあう家庭」をつくりましょう。
ふれあいの地域づくり
地域に暮らし、働き、学ぶ中で、地域活動の輪を広げ、み
んなで支え合う「心ふれあう地域」をつくりましょう。
ふれあいのまちづくり
人とのつながりの輪を広げ、希望に満ちた、未来に輝く
「心ふれあうまち厚木」をつくりましょう。
厚木市人権擁護委員名簿
(敬省略)
氏 名
松本 成美
成川 三八子
宮田 和子
髙橋 功雄
前頭 七恵
片倉 祐司
仁藤 和子
中村 美惠子
三和田 秀夫
小俣 明美
朝倉 國夫
安部 眞知子
山本 栄子
江藤 玲子
(平成 28 年 12 月 1 日現在)
厚木市 市民協働推進部 市民協働推進課
〒243-8511
厚木市中町 3-17-17
(市役所第二庁舎 3 階)
Tel:046-225-2215
Fax:046-225-4612
http://www.city.atsugi.kanagawa.jp/
平成 28 年 12 月発行
みんなで築こう 人権の世紀
∼考えよう 相手の気持ち 未来へ
つなげよう 違いを認め合う心∼