人びとの健康のために研究と現場を架け橋する人づくり

Journal of International Health Vol . 29 No . 2 2014
[第 32 回西日本地方会 講演・シンポジウム]
人びとの健康のために研究と現場を架け橋する人づくり
樋口倫代(名古屋大学)
はじめに(シンポジウムテーマの中での筆者の分担)
日本国際保健医療学会第 32 回西日本地方会のシンポジウムのメインテーマは「人づくり」
で、キーワードは「30 年」と「底力」である。近年教育・トレーニング分野でも評価が重
んじられるようになったのは、効率や説明責任の観点からは好ましいことである反面、その
行き過ぎからいわば「突貫工事」になってしまうことはないのだろうか。プログラムやプロ
ジェクトの期間が短くなり、目に見える(数えられる)形での成果が求められるようになっ
てきている中、人づくりの分野では何を大切にすればよいのか。「潮流」や「重点課題」と
いう名のはやりすたりに影響されず、ちょっとやそっとのことでは揺らがない持続性と汎用
性のある本当の力をつける・つけされるにはどうしたらいいのか。そもそも、今の我々を取
り巻く環境下で人づくりに理想を持つことは可能なのか。これらは、著者自身、考え続けて
いる課題である。「過去半世紀の人づくりを振り返る」と「近未来のための人づくりを模索
する」という 2 つのディスカッションポイントが挙げられた中で、筆者はその後半部分、特
に「public health*に関わる保健職」の「高等教育」という点に焦点をあてて問題提起をす
ることになった。
public health 教育に関わる一考察
さて、筆者はプライマリヘルスケアマネージメント修士課程(MPHM)に進学したこと
で臨床から public health に方向転換をした経験を持つ。その後、アジアの現場や公衆衛生
博士課程(DrPH)などを経て、2009 年からは日本の大学で教えている。最近、年度の最初
の講義で学生たちに見せているスライドがある。「自分の教える目的は、自分が学んできた
ことを、人びとの健康のために働く他の人に伝えること」というものである。もう少し具体
的には、研究に関心のある現場の実践者(research-minded practitioners)と現場志向の研
究者(practice-oriented researchers)の両方を育てたい、そして、それによって現場と研
究の間のギャップを埋めたい、さらには、そのことで健康格差を埋めることに貢献したい、
という目標をもって教えていると話している(図 1 は同時に提示しているフレームワーク)。
「自分が学んできたこと」は二つの大学院の影響が非常に大きい。紙面の関係で全文引用は
避けるが、いずれの課程の説明でも、public health のマネージャーやリーダーが、問題を
解決できるようになり、public health の向上を実践できるようになる、という主旨の教育
目標を掲げていた1、2)。これは、MPHM も DrPH も専門職大学院として位置づけられていた
ことにも関連するのだろう。
個人的体験を超えて public health の研究教育機関をもう少し客観的に概観してみる。
表 1 は Johns Hopkins Bloomberg School of Public Health と London School of Hygiene &
Tropical Medicine の概要をまとめたものある。他にもいろいろ有名校はあろうが、この 2
つが代表的機関のうちに入ることに異論はないだろう。それぞれのウェブサイトからそれぞ
れ引用している。(基準は違うだろうし、London School は 3 つの学群(faculty)のうち 1
つは臨床医学系で単純比較はできない。)いずれも設立は 100 年ほど前、学生数は 1,000 人
を 超 え、 教 員 数 は そ れ ぞ れ 800 近 く、 学 科(department) は 10 な い し 11 あ る。Johns
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Hopkins の修士課程は MPH で 11 のエリア、London School は MSc で 19 のコースを備え
ている。これに比べれば自分が卒業した MPHM は歴史も短く規模も小さい。しかし「Johns
Hopkins に倣ったカリキュラム構成をしている。」という説明を受けた。そしてその説明に
は根拠があった。図 2 はアメリカ公衆衛生校協会の Core Competency Model である5)。中
心 5 領域として、疫学、生物統計学、社会・行動科学、保健政策・マネージメント、環境保
健科学、そして、分野横断的領域が挙げられているが3)、MPHM ではこれらをカバーして
いた。
さて、私たちが MPHM で受けてきたようなことを日本で実現しようとするにはいくつか
のバリアがあるのではないだろうか。誤解のないよう断っておきたいのだが、日本にも、も
ちろん素晴らしい public health の研究者、とりわけ疫学者はたくさんおられる。そのよう
な研究者を輩出するしくみ・道すじは確立しており、筆者が論ずべきところではない(本稿
の論点ではない)。しかし、public health の実践や施策に役立つ、包括的な大学院教育、特
に修士課程を提供するには向いてはいない環境と言わざるを得ないように思われる。数える
ほどしか「公衆衛生大学院(school of public health)
」がなく public health が医学部や医学
系研究科などの 1 ユニットになってしまっていることに根本的問題があるのかもしれない。
この点も含め、public health 分野の人材育成に関する米英日比較の総説が昨年保健医療科
学院から出ている4)。筆者なりに、もう少しミクロ、メソレベルでバリアの原因を分析する
ならば、1)リソースが分散し、さらに、所属先以外のリソースへのアクセスが難しい、
2)学術と実務のバランスが取れた体系的なティーチング理論や方法論の経験が乏しい、
3)学位取得のためにこなさなければいけない課題、ということを超えた教育目標というか、
どういう人材を育成したいのかという理念のようなものがあまり論じられていない、という
ことに要約できるのではないかと考えている。
バリアを乗り越えるための提案
どうしたらよいのだろうか。従来の形式にこだわっていては正直なところ非常に難しいよ
うに思う。とりあえずは「マインドセットを変えよう!」ということなのかもしれない。先
に挙げた最初の 2 点に関しては、必要なリソースのためのネットワークを構築し、世界中、
そして身近にある膨大な経験の蓄積を活用することはできる。以前は、ネットワーク構築や
図 1 研究と現場を架け橋するためのフレームワーク案
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図 2 米国公衆衛生協会・Core Competency Model
文献 5)を基に筆者が翻訳
表 1 Johns Hopkins Bloomberg School of Public Health と London School of
Hygiene & Tropical Medicine の概要
以下のウェブサイトを基に筆者が作成
http://www.jhsph.edu/about/school-at-a-glance/
http: //www.lshtm.ac.uk/aboutus/introducing/annualreport/2 013/annual _
report_2013_web.pdf
*
臨床医学系を含む
DL: distant learning(通信教育)
経験の共有などということは物理的にするしかなかった。しかし、今はインターネットの力
でより広く、コストもそれほどかけずに展開が可能である。いずれは、日本でも公衆衛生大
学院が増えたりするのかもしれないが、それまでの間、個々の教員レベルでどうやったら対
処できるのか少し考えてみた。まず、学生が何を学ぶべきか、学んで欲しいのかをリストす
る。その際、先に挙げた Core Competency Model など欧米で用いられている既存のモデル
が役に立つかもしれない。それに対して自分(教員)の対応を決める。例えば、自分の専門
範囲内、一部は対応可能だが他の専門家の力も必要、他の専門家に依頼、など。自分で対応
できない部分に関しては、MOOC(massive open online course)を利用したり、他に講師
を依頼したり、外部の研究会に出させたりする。こういったことは、これからますますオン
ラインでのやり取りが可能になって来るだろう。このように考えていくと、小規模の教室で
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も存外対応は可能なように見えてくる。
MOOC やスカイプ研究会で勉強させるなら、教師の役割は何?と言われてしまうかもし
れない。しかし、インターネットで多くの情報へのアクセスが可能になっている今日、どの
分野でも、また、基礎教育・高等教育に関わらず教員の役割は変わっていくだろうというこ
とは、既に各所で論じられている。高等教育の場合、特定の分野に専門性があるという旧来
型の研究者・教員の資格はもちろん今後とも必須だろう。専門以外の博識があり、それもフ
ル活用した教育を実践している先生も従来から大勢おられる。それに加え、先ほど例に挙げ
たような方法を取るならば、これからは、感度のいいアンテナ、すなわちどこにどんなリ
ソースがあるのかを察知できる能力が求められ、また、ネットワーク力や、教育を体系付け
るコーディネーション力も問われるようになってくるのではないだろうか。
3 点目の教育目標については、MPHM と DrPH の経験を基に、問題提起としての提案を
したい。まず修士課程では、問題意識を持つ、問題意識を取り組み可能な問いにする、問い
に相応しい解決手段を計画する、その手段をもって問いの答えを見つける、それを適切な方
法を持って発信できる、といった一連のプロセスを「一通り経験する」という目標を提案し
た い。 修 士 論 文 は そ の た め の 1 手 段 に は な る。 西 日 本 地 方 会 前 日(2014 年 3 月 7 日 )、
MPHM の日本人同窓生の一部でフォーカスグループディスカッションをしたのだが、「1 年
という限られた期間で仕上げる修士論文に、アカデミックレベルで高望みできないとして
も、これに必要なプロセスを、順を追って取り組めたのは後々の宝となった。」というのが
共通認識だった。それとともに、修士課程では、その先のトピックエリアとしてどのような
ものがあるか、public health がカバーする範囲の多様性の理解も必要だろう。さらに博士
課程では、先に述べたような一連のプロセスを「自分でマネージメントできるようになる」
ことと、得意のトピックエリアを確立することが目標になるのではないだろうか。
保健職のキャパシティビルディングとは?
最近情報交換をさせてもらった研究所で、職員(研究者)の間で共有されている「INNE
model」の話を聞いた。Individual、Node(自分の所属部署という意味合いのようだった)、
Network、Environment のことだそうだ。「個人のトレーニングはキャパシティビルディン
グの入り口に過ぎない。個人の能力や関心を維持できる環境となり、彼らの貢献が最大限に
活かされるようにならなくては、真のキャパシティビルディングとは言えない5)。」と力説
された。話し合う中で改めて理解したのは、人づくりには実際的な方法も必要だが、それ以
上に必要なのは「長期的な、将来を見据えた視点」と「どういう人材を育てたいかという意
志」ということだった。
基礎教育は基本的人権かもしれないが、高等教育には逆に義務が伴う。特に保健専門職の
高等教育を受けた者が負うべき義務は大きいと考えている。この点はいつも学生たちに強調
している。毎年最後の講義では「もし、私から学んだことが、あなた方の地域の人々に還元
されないなら、私があなた方に教えたことは失敗したことになる。」と話している。話はや
や逸れるが、インドネシア保健省職員の制服などについているロゴには「Bakti Husada」
というフレーズが添えられている。意訳かもしれないが「健康への奉仕者」という意味だ、
と教えてもらった。このロゴを付けている人のうちうちどれだけがそれに忠実かは別とし
て、これは、保健に関わる人間の原点ではないだろうか。
おわりに
昔から「砂上の楼閣」という言葉がある。はじめに人目を引くのは楼閣の方だが、楼閣を
支えるのは決して人目につかない土台の方で、砂の上にいきなり建てれば「砂上の楼閣」で
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ある。一方、土台さえしっかりしていれば、時の変化や必要に応じて建物に手を加えていく
ことは、後からいくらでもできる。また違ったたとえになるが、それほど大きいとは見えな
い土俵を作るのに、実は 40 トンほどの土が必要だそうだ。呼出などが、何度もたたいて、
水をかけて、またたたいて作っているとのことである。彼らのしている仕事はあまり注目さ
れない。しかし、これがあるから、あんなに重たい力士たちが、何度も激しい取り組みをし
ても壊れない。人づくりというのは、この土俵づくりに似ているのかもしれない。
文 献
  1)ASEAN Institute for Health Development. Master of Primary Health Care Management. Available from: http://www.aihd.mahidol.ac.th/eng/aihd_mphm.html.
  2)London School of Hygiene & Tropical Medicine. Doctorate of Public Health: Overview.
Available from: https://www.lshtm.ac.uk/study/research/doctor_of_public_health__
drph_.html.
  3)Calhoun JG, Ramiah K, Weist EM, Shortell SM. Development of a core competency
model for the master of public health degree. Am J Public Health, 2008; 98: 1598-1607.
  4)綿引信義,Guevarra JP. 公衆衛生分野における人材育成の動向と課題─コンピテンシー
に基づくアプローチ─.保健医療科学,2013; 62: 475-487.
  5)Pitayarangsarit S, Tangcharoensathien V. Sustaining capacity in health policy and
systems research in Thailand. Bull World Health Organ, 2009; 87: 72-74.
*
「public health」の定義はいろいろあるが、WHO の定義によれば、個人の病気に取り組
むのを「clinical medicine」とするなら、集団の健康に取り組むのが「public health」であ
るという大まかな解釈ができると考えられる。「公衆衛生」という日本語訳が広く使われて
いるが、本稿では「public health」のままとする。
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