近世長崎と肥前陶磁器生産地の関わりについて 野上 建紀(長崎大学多文化社会学部) 近世の肥前地域で生産された陶器を「唐津」 、磁器を「伊万里」とよんでいた。いずれも生産 初期の積出し港の名前に由来する消費者側の名称であり、港やその商人がそれらの陶磁器の流通 において大きな役割を果たしていたことを示唆する。 同じく肥前に位置する長崎は、肥前の陶磁器生産地に直結した一次的な積出し港ではなかった が、肥前の生産地と深い関わりをもつ港であった。とりわけ、鎖国政策下において、長崎は数少 ない海外との窓口であったし、最も重要な貿易港であった。そのため、多くの肥前の陶磁器が長 崎から海外へ運ばれ、そして、海外の原材料、意匠、技術などが長崎を介して肥前の生産地に伝 えられた。 磁器の主体を占めた染付の生産に欠かせない呉須とよばれる顔料は、輸入に頼らざるをえない ものであり、必然的に長崎を介して生産地に持ち込まれたし、意匠においても長崎に輸入された 清朝磁器の影響を受け続けた。また、色絵などの技術も、長崎において市中に雑居していた唐人 によって伝えられたと古文書には記されている。 そして、海外との窓口という役割だけでなく、幕末においては、長崎の商人が長崎市内および 近郊に窯場を築き、直接、経営に携わった例もある。代表的な例は、亀山焼であり、官民一体と なった経営が知られている。 肥前の陶磁器生産地は、近世の海外貿易港である長崎の存在が前提となって成立したものでは ないが、産業としての発展において長崎の存在が極めて大きかったことは疑いない。
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