現代 左官事情 <その 160 > 「建築と左官」 23. 明治以後の 民衆建築の変遷(60) ものつくり大学 特別客員教授 鈴木 光 菊薫る好季節となりました。いかがお過 ごしでしょうか。今月号では、前回に引き 続き商店建築の変遷を見ていきます。 (編集部) 4.2博覧会の落とし子 写真286 忠勇社 大正初期の建設 写真機材料の店である。この建物自体が看板であり、欧米のあらゆる 装飾模様がここにある。夜になると2階の丸い窓には電気がついた。 4.2.2 洋風に似て非なる建築 ⑦商店建築2 明治14年(1881)の「東京防火令」に よって黒磨きの蔵造りになった日本橋 れて、ショーウィンドーがある陳列販 銀座をぶらぶらしている地回りや遊び 通りであったが、 「 東京市区改正条例」 売方式の店舗に変わっていく。一方、 人を称していた。大正4〜5年頃から によって、モルタルや漆喰塗りの洋風 土蔵建築にもショーウィンドーにし は、散歩を意味し、昭和になると新 商店が瞬く間に建設された。この時期 て、時代に遅れないというものが見ら 宿をぶらつく「新ブラ」のように、 「〜ブ は、先に記載したが、アール・ヌー れる。 ラ」という言葉が、各地に多彩に生ま ヴォーの時代を迎え、軽快で過剰装飾 店舗の陳列方式の変更によって、街 れてくる。 の街並みを形成した。蔵造りと洋風商 を歩きながら商店を冷やかしながら、 また、そぞろ歩く不特定多数の客を 店の混ぜ合わされた日本橋のこの街並 そぞろ歩く「銀ブラ」という現象が出現 引き止めるためには、自分の商店の建 みは、その後の我が国の駅前にみられ するのである。散歩を意味する「銀ブ 物そのものに、世間の評判と注目を る無秩序の街並みの手本ともなったよ ラ」を楽しんだのは、当初小説家、詩人、 集めることが必要になった。商店の建 うに思われる。 画家といったインテリ層であった。銀 物は看板の役割にもなってきたといえ 日本橋に限らず、神田・京橋付近で 座に点在する溜まり場のカフェー、特 る。そのためこの時期の看板建築の特 も道路拡幅に伴い、従来の土蔵造りの に「プランタン」等が有名である。プラ 徴として、建物の上部に塔をあつらえ 商家が取り払われ、木造漆喰塗りの洋 ンタンの会員には、岡田信一郎、岸田 たりしていた。しかし、この塔のある 風建築が思い思いに建てられるように 劉生、永井荷風等の名前が見られる。 看板建築も関東大震災後は屋根にある なり、人目をひいた。これらの建物は、 9月号にも記載したが、 「 銀ブラ」と 塔が見られなくなる。 今までの土蔵建築と異なり靴のまま入 は、明治期に「銀座のブラ」と呼ばれた 24 No.482 2016 年 10 月号
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