WIJC161002聖書の言う人間の罪(3)

2016
2016年 10 月 2 日 聖書:ローマ人への手紙
聖書:ローマ人への手紙 2 章6-
章6-24 節
タイトル:「
タイトル:「人間の罪(
人間の罪(3)」
序 論
●孔子の教えをまとめた「論語」の中に「中庸の徳」と言う言い方、考え方がある。
孔子の教えをまとめた「論語」の中に「中庸の徳」と言う言い方、考え方がある。それは、「両極
それは、「両極
性」に溢れたこの世界で、「
性」に溢れたこの世界で、「二つの対照的アイデアのどちらにも偏らない」
二つの対照的アイデアのどちらにも偏らない」姿勢のことで
姿勢のことである。ギリ
ある。ギリ
シャ哲学ではアリストテレスの言う「メソテース」に当たるものである。
シャ哲学ではアリストテレスの言う「メソテース」に当たるものである。
●儒教においても、アリストテレス哲学においても、そのようないずれにも偏らない、中庸的な考え方、
あり方は、人間の持つべき最も高い徳と考えられた。
●クリスチャン人生にも同じことが言える。クリスチャン人生においても、沢山の「対照的」な要素を
●クリスチャン人生にも同じことが言える。クリスチャン人生においても、沢山の「対照的」な要素を
挙げることができる。今日のメッセージに関連するものを少し例として挙げるなら、
挙げることができる。今日のメッセージに関連するものを少し例として挙げるなら、
1.信仰の「理論と実践」
2.信仰の「理性面と感情面」などの「両極」性
2.信仰の「理性面と感情面」などの「両極」性である。
の「両極」性である。
●それらのいずれにも偏ることの
●それらのいずれにも偏ることのない信仰、それらの両面をもった信仰が望ましい。
●あるクリスチャンたち
●あるクリスチャンたちは、感情面だけ
クリスチャンたちは、感情面だけを
は、感情面だけを強調し
強調して、「頭だけの信仰ではダメだ
て、「頭だけの信仰ではダメだ、喜びがほとばしる信
仰が必要、それが恵まれている人であり、集会の徴である
が必要、それが恵まれている人であり、集会の徴である」と
、それが恵まれている人であり、集会の徴である」と言って
」と言って、とにかく、
言って、とにかく、集会や日常生活に、
、とにかく、集会や日常生活に、
感情的高まりを求め、期待する
感情的高まりを求め、期待する傾向が強い
め、期待する傾向が強い。
傾向が強い。
●勿論、そ
勿論、そのような面は必要であり、大切である。
のような面は必要であり、大切である。感情的に高められる
は必要であり、大切である。感情的に高められる「喜びや笑い」に溢れる生涯
感情的に高められる「喜びや笑い」に溢れる生涯や
「喜びや笑い」に溢れる生涯や
生活は何と魅力的なこと
生活は何と魅力的なことか!
なことか! 「笑う宗教」
笑う宗教」と言うのがあるのもその顕われ
と言うのがあるのもその顕われであり
のもその顕われであり、
であり、「笑う」
笑う」ことを
ことを
代表とする感情的な喜びや高まりは、肉体的な健康にも大いに影響することは皆が認めること
代表とする感情的な喜びや高まりは、肉体的な健康にも大いに影響することは皆が認めることである。
や高まりは、肉体的な健康にも大いに影響することは皆が認めることである。
●しかし、人間の
●しかし、人間の感情面は、信仰者であっても、必ずしも一定も、安定もしていない
感情面は、信仰者であっても、必ずしも一定も、安定もしていない。
は、信仰者であっても、必ずしも一定も、安定もしていない。上がったり、下
がったりする。当てにならない。そのような中、その不安定な人間の感情を支える
がったりする。当てにならない。そのような中、その不安定な人間の感情を支えるのが、人間の理性
当てにならない。そのような中、その不安定な人間の感情を支えるのが、人間の理性
である。即ち、困難・試練・時間の経過の中で、信仰の感情面が、冷えたり、下がったりするとき、
である。即ち、困難・試練・時間の経過の中で、信仰の感情面が、冷えたり、下がったりするとき、
私たちは理性的に信仰を考え始めるのである。そして、理性を通して信仰が働き始めるのである。
●だから、私たちは、信仰を理性的に整理しておく必要があるのである。そのことを聖書はペテロを通
しても
してもこのように言っている。「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、誰にで
もいつでも弁明できる用意をしていなさい」(
もいつでも弁明できる用意をしていなさい」(第一ペテロ 3 章 15 節)と。
●その意味で、私たちが持っているキリスト教信仰が何であるかを知性的に整理するために、
●その意味で、私たちが持っているキリスト教信仰が何であるかを知性的に整理するために、3
私たちが持っているキリスト教信仰が何であるかを知性的に整理するために、3 週間前
から私たちは、題目的と言うより、
から私たちは、題目的と言うより、どちらかと言うと
目的と言うより、どちらかと言うと講解的に
どちらかと言うと講解的に「
講解的に「ローマ人への手紙」
ローマ人への手紙」を学び始めた。
●今日は、その第四回目である。そして、今日も、先々週、先週に引き続いて、「人間の罪とは何
か?」について学ぶ。私たちにとって「聖書で言う罪とは何か?」を学ぶことは
か?」について学ぶ。私たちにとって「聖書で言う罪とは何か?」を学ぶことは大切なことである。
いて学ぶ。私たちにとって「聖書で言う罪とは何か?」を学ぶことは大切なことである。
なぜなら、キリスト教の言う「
なぜなら、キリスト教の言う「救い」
救い」は、「罪からの救い」であるからである。
●即ち、このような学びを通して、
●即ち、このような学びを通して、私たちがどこから、どんなところから救われたかが明確となり、
このような学びを通して、私たちがどこから、どんなところから救われたかが明確となり、救
私たちがどこから、どんなところから救われたかが明確となり、救
われたことに対する感謝を新たに
われたことに対する感謝を新たにすることができる。更には、私たちが、今現在、またこれからも、
感謝を新たにすることができる。更には、私たちが、今現在、またこれからも、
どんな歩み方、生き方をするべきかの指針を明確にすることができるのである。
●そのような意味での、罪に関する学びとして、私たちは、先週から、ユダヤ人たちの中に代表される
人たちの中に代表される
罪について学び始めた。その筆頭として先週は
頭として先週は「
先週は「他人を裁く罪」
く罪」について学んだ。
について学んだ。
●今日は、その次として、聖書の言う罪とは、「律法の言っていることを行わない」ことであることに
ついて学びたい。
●パウロは、罪について語るこの章で、「
ロは、罪について語るこの章で、「律法」と言う言葉を、新改訳聖書を見る限り、実に
り、実に 22 回に
もおよんで用いている。
●その
●その数の多さは、明らかに、聖書の言う「罪」と「
は、明らかに、聖書の言う「罪」と「律法」との「
との「密接」な関係を暗示している。
●即ち、罪とは、神の「律法」を無視することであり、律法をなおざりにすることであり、律法に背く
ことであるからである。今日は、このことを少し
ことであるからである。今日は、このことを少し詳しく学びたい。
本 論
Ⅰ.まず、最初に考えたいことは、「律法」そのものについてである。即ち、律法とは何かである。
A. 「律法」は、私たちに神の御心を教え、私たちになすべきこと、また、ことの善・悪を教えるものである。
1
1.ローマ2章1
1.ローマ2章18-19節を見て頂きたい。「御心を知り、なすべきことが何であるかを律法
に教えられてわきまえ、また知
に教えられてわきまえ、また知識と真理の具体的な形として律法を持っている」。
を持っている」。
2.即ち、私たちに
2.即ち、私たちに取って「
って「律法」こそが、私たちに何が真理であり、何が
理であり、何が神の御心であり、何
が善であり、何が悪であり、何をなすべきか、何をなすべきでないかを教えるのである。
3.「律法」なしに人生を歩むことは、地図も、旅行ガイドも、何も持たずに、未知の世界への
旅に出るようなものである。その
るようなものである。その結果は、・・・・
(1)個人的には:
人的には:導き手である羊飼い元から迷い出た羊と同じである。イ
と同じである。イザヤはこのように
記す。「私たちは皆羊のようにさ迷い、おのおの、自分勝手な道に向かって行った」(
った」(同
53 章 6 節)。
(2)社会的には:無秩序と混乱である。それは、絶対的な指導者、支配者のいなかった、即
ち「導く」者のいない社会の姿である。
●モーセを失い、ヨシュアを失い、神さまを失ったイスラエルの「士師」の時代の社会
が、正にそれであった。
それであった。
●それゆえ、「
え、「士師記」の記者はこのように締めくくる。「そのころ、イスラエルには
王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っている」(21
っている」(21 章 25 節)。
4.先日、日本語のテレビ番組で、「こどもたちの恋愛問題」に親としてどのように対処するべ
きかと言うテーマの番組があった。
(1)あるテ
(1)あるティーン・エージャーは母親に、率直に、(
に、(聖なる講壇からこのように言うことを許
して戴きたいが)
きたいが)、「私、Hしても良い?!」と
?!」と聞いたと言う。親は返事に詰まった、
まった、戸
惑ったと言う。逆にここまで聞かれると返事はし易かったのかもしれない。
(2)しかし、
(2)しかし、問題はそこで終わらない。それじゃ、セックスでなくても、「キス」はどうな
セックスでなくても、「キス」はどうな
のか? 等々の問題が、現実には、
題が、現実には、次々に出て来る。
(3)番組では、母親たちを中
たちを中心に(「さすが日本」と思った。父親が余り子育ての場に登場し
ない)
ない)色々な悩みが紹介されていたが、見ていて、
ていて、突き詰めるなら、
●親たち自身が、何を基準に、それを良い、それは
い、それは悪いと判断するかの
するかの基準をもってい
ない。
●今は、もうそんな時代じゃない。絶対的価値観など存在しない。だから、
在しない。だから、誰かが
だから、誰かが価値
観を決めるのではなく。それを
めるのではなく。それを押し付けられるのでもなく、
●一人一人が自分で自分のための価値観を決めるのである。だから、誰も、それはダメ
だなどと他人、たとえそれが自分の子供でも言えない、
でも言えない、等々の議論が出て来る。
5.しかし、そのような現代的風潮は、本当に正しいのか?!
(1)確かに、私たちは、一人一人、性
(1)確かに、私たちは、一人一人、性格も、考え方も違う。違って良いのである。皆が同じ
であってはならないのである。
(2)しかし、同時に、人
(2)しかし、同時に、人類として、人間として、すべての人に共通の価値観があるのである。
それは私たちがそもそも偶然の所産としてではなく、神さまに造られた目的と計画にか
なうために必要である。また、ほかの人々と共に生きて行くためにも不
くためにも不可欠である。
6.「律法」はそのためにある。私たちの個人と社会を正しく導くために必要なのである。その
ために神様が私たちのために作られたのである。
B. 律法とは何か? 次に学ぶことは、「律法は私たちの世界に、色々な形で存在している」ことである。
1.イス
1.イスラエルの人々は、一つの「律法」しか考えられなかった。
(1)即ち、モーセを通して神様から与えられた「十戒」を中心とする彼ら独特の「律法」だ
けが「
けが「律法」だと堅く信じていた。
(2)そのことが、
(2)そのことが、彼らの「選民思想・信仰」を歪めた。他民族を見下げ、傲慢になった。
2.しかし、
2.しかし、神さまは、人間が必要とする「律法」は、イスラエルの人々に与えられた「律法」
だけではない。それは最も典型的な律法ではあるが、それだけでないと言われる。
(1)イスラエルの人々のように、いわゆる典型的な律法を持っていない人々にも、
を持っていない人々にも、神さまは、
さまは、
「その心の中に」「
の中に」「良心」と言う形で「律法」を刻み込まれたと聖書は言う。
2
(2)即ち、ローマ
即ち、ローマ 2 章 14-
14-15 節
●14 節「・・・・」
●15 節「・・・・・」
(3)言い換えると、異邦人と呼ばれるイスラエル人以外の人々、即ち、私たち日本人は勿論
のこと、その他すべてのアジア人、アフリカ人、欧米人、すべてにこのことが言える。
人、すべてにこのことが言える。
●彼らは、民族的に、宗教的に、イス
的に、宗教的に、イスラエル人が、神様からモーセをとおして与えられ
たような「律法」は持っていない。
●しかし、聖書は、「形・様態こそ違うが、彼らにも、神さまは、イス
さまは、イスラエル人と同じ
ように伝えたい律法のメッセージを、彼らの心の中に刻み込んで記している」と言う。
3.このように、神様は、形は違っても、世界中の人々に等しく語り、等しく扱い、等しく裁か
れるのである。神様は、すべての人に
は、すべての人に等しく公平・公正であられるのである。
(1)パウロは言う。6-11節全体を見たいが、特に 11 節でこのように言う「神にはえこ
ひいきなどはない」と。
(2)だから、イス
(2)だから、イスラエル人も、異邦人も、「知らなかった。律法がなかったから」と言い訳
はできないのである。
(3)即ち、
(3)即ち、石の板に書かれた「
に書かれた「モーセの律法」であろうと、心の肉皮に記された「
された「良心と言
う律法」であろうと、「神の律法」として、真理と善悪のメッセージを伝えるのである。
(4)それ
(4)それゆえ、私たちは、神の御心とお声を聴くために、もっともっと書かれた律法、今で
言うなら聖書に、また心に記された律法に耳を傾けるべきである。
(5)私たちは、
(5)私たちは、余りにもこの世の声に、サタンの声に耳を傾けすぎていないか?!
Ⅱ.次に、この「律法」との関係で「罪とは何か?」について考えたい。
A. 罪とは何か? それは、「律法」を求めないこと、「律法」の声を聞こうとしないことである。
1.罪
1.罪の始まりは何か? 神の御心を求めようとしないことである。
を求めようとしないことである。
2.ローマ 1 章 28 節でも、罪人の一つの姿をこのように述べている。即ち、「彼らが神を知
ろうとしたがらないので」と。
3.ローマ人への手紙 12 章 2 節でも、パウロはこのように言う。「この世と調子を合わせて
はいけません。いや、神の御心は何か、即ち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全
であることをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」と。
4.私たちはどうであろうか? 神の御心・み旨に聴き、それを求めるより、自分の願望を追求
し、それを神様に聞かせ、それを叶えてもらうことに、より関心があるのではないか?!
5.それは、正に罪の始まりであり、罪である。
B.罪とは何か? それは、「律法」を持っているだけで満足していることである。
1.17節を見て頂きたい。パウロはイスラエルの人々に向かって言う。「もし、あなたがたが、
自分をユダヤ人ととなえ、律法持つことに安んじ、・・・」
2.彼らは「律法」を守るどころか、読むことさえしなかった。ただそれを「持っている」だけ
で「安んじていた」、即ち、「満足してしまっていた」のである。
3.それは、今の時代の私たちにに当てはめるなら、クリスチャンとなったこと、聖書を持って
それは、今の時代の私たちにに当てはめるなら、クリスチャンとなったこと、聖書を持って
いることだけで、満足し、安んじてしまって、それを真剣に読みもしないし、ましてや守
ことをほとんどしていない人々と同じである。
4.パウロは、ここで、それを罪として糾弾しているのである。
5.「ユダヤ人ととなえられる」こと、或いは、「律法を持っている」こと、等々の、名称や、
IDや、ステータスは、人を救うことができない。だから、私たちは、そこで安んじては
ならないのである
ならないのである。
のである。
6.しかし、何と多くのクリスチャンたちが、この罠に陥っていることか?!
(1)クリスチャ
(1)クリスチャンになったところで、安
クリスチャンになったところで、安心して、座り込んでしまいう。
(2)聖書と言う
(2)聖書と言う神の律法を持っていることだけで、あたかも、自分はもう神の御心を知って
いて、その真ん中を生きていると錯覚してしまっている。それで、
(3)「
(3)「律法」、今で言うなら「聖書」を自分の生活と人生の中に真剣に求めようとしない。
3
(4)それは罪であると
(4)それは罪であるとパウロは糾弾する。
C.律法との関係から学ぶ聖書の言う罪についての最後のポイントは、罪とは「律法を行わない」ことである。
1.この
1.このポイントこそが、パウロが、このローマ人への手紙 2 章 12~29 節までで、中心的に
言いたかったことである。
2.何
2.何故なら、イスラエル人、ユダヤ人を中心に、或いは代表・
代表・筆頭にして、
して、余りに多くの人々
が、律法を行わないからである。
3.それでは、人々は、
.それでは、人々は、律法を行わないで、どうしている
わないで、どうしていると言う
どうしていると言うのか?
と言うのか? パウロは言う:
(1)彼らは、み言葉を「行わない」で、み言葉を「聞く」だけの人になっていると。
く」だけの人になっていると。
●パウロは言う:13
ロは言う:13 節「それは、律法を聞くものが、神の前に正しいのではなく、律法
を行う者が、正しいと認められるからです」と。
●このこと、即ち、律法、み言葉を聞くだけのものであってはならない、行う者になら
なければならないことの重要性については、イエス様の貴重なメッセージがまとめて
紹介された有名な「山上の垂訓」と呼ばれる説教の締めくくりで語られた「岩の上に
建てられた家と砂の上に建てられた家」のたとえ話からもきわめて明らかである(
からもきわめて明らかである(マタ
イ 7 章 24-
24-27 節)。
●多くの人は、この
くの人は、この譬え話を誤解している。「
解している。「違い」は、み言葉を聞くか、聞かないか
だと思っている人が多い。即ち、今で言うなら、教会に来て説教を聞くか、聞かない
か、聖書を毎日読んでいるか、いないかだと思っている。
●しかし、それは間違っている。イエス様は、ハッキリと、どちらの人も、「
ッキリと、どちらの人も、「み言葉は
聞いた」と言っておられる。イエス様は、「聞いて行った人」と「聞いても行わなか
った人」と区別されたのである。
●そして、その
●そして、その重要性は
要性は、更に、後に、イエス様の兄弟であるヤコブによって、その手
紙 1 章22-24
章22-24 節において強調されている。
(2)彼らは、また、み言葉を「行わない」で、み言葉を「語る」だけの人になっていると。
●パウロはこのことについて、17節以降で語っている。
●私たちも同じ罪に陥っていないだろうか? 自分では実行していないのに、人にはそ
れを要求し、していないことを裁いていないだろうか?
いていないだろうか?
●その逆に、自分でもしてしまっている悪を棚に上げ、人の悪を攻めていないか?
●キリスト教を語るクリスチャンより、キリスト教を実行するクリスチャンを神様は求
めておられるのである。
結 論
●「律法」は、「
」は、「モーセの律法」を始めとする書かれた
を始めとする書かれた神のみ言葉としての「聖書」を意味すると共
に、そのような形態で持つことがなかった人々にも、神さまは、人間が生まれながらにもっている
良心や人間の本性の中に、御心を書き込んでおられる。
んでおられる。
●あの有名な子供の物語「ピノキオ」の中に、ことあるたびにピノキオの取る判断・行動の是非をチ
ェックするために登場するジミニ—・クリケットの存在を通して、誰もが感じることは、私たちが、
そのような心の声に聞くことの大切さである。
●そのように、神の御心を求め、信じ、従がうことが正しいことであり、それをしないことが罪であ
ると聖書は言う。
●しかし、今、私たちは、神様の御心を明確に記した「聖書」を頂いている。何という感謝なこと
か! だから、聖書を聞くだけ、読むだけで満足することなく、そこに書かれていることを、命か
けて信じ、実行するものとなりたい。そのとき、初めて、神さまは、私たちの心と生涯に、聖書に
と生涯に、聖書に
書かれていることを実現してくださるのである。
●最後に、自ら三重の身体的障害を背負いながら、世界の教育と福祉の発展に多大な貢献をしたヘレ
ンケラーが如何に聖書の言葉を尊び、原動力として生きたかを表す言葉を引用して閉じたい。彼女
は言う。「
は言う。「私が毎日、最も愛読する書物、それは聖書です。私の辞書に『悲惨』という文字はあり
ません。聖書はダイナミックなカであり、変わることのない理想を示すものです。」
すものです。」
4