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2016
2016年 10 月 2 日
Oct 2, 2016
聖書:ローマ人への手紙
聖書:ローマ人への手紙 2 章6-
章6-24 節
Scriptures: Romans 2:6-24
タイトル:「
タイトル:「人間の罪(
人間の罪(3)」
Title: "Sin of man (3)"
序 論
Introduction
●孔子の教えをまとめた「論語」の中に「中庸の徳」と言う言い方、考え方がある。
孔子の教えをまとめた「論語」の中に「中庸の徳」と言う言い方、考え方がある。それは、「両極
それは、「両極
性」に溢れたこの世界で、「
性」に溢れたこの世界で、「二つの対照的アイデアのどちらにも偏らない」
二つの対照的アイデアのどちらにも偏らない」姿勢のことで
姿勢のことである。ギリ
ある。ギリ
シャ哲学ではアリストテレスの言う「メソテース」に
シャ哲学ではアリストテレスの言う「メソテース」に当たるものである。
哲学ではアリストテレスの言う「メソテース」に当たるものである。
In "the Analects of Confucius", which is a collection of teachings of Confucius, there is this saying or
what can be called philosophy called "the Doctrine of the Mean." It is to live "without leaning towards
either one of contrastive ideas" in this world that is filled by "extremes." It is equivalent to "the golden
mean" of Aristotle in Greek philosophy.
●儒教においても、アリストテレス哲学においても、そのようないずれにも偏らない、中庸的な考え方、
あり方は、人間の持つべき最も高い徳と考えられた。
In both Confucianism and the golden mean of Aristotlelianism, being in the middle and having
moderate thoughts were thought to be the highest virtue that a man should have.
●クリスチャン人生にも同じことが言える。クリスチャン人生においても、沢山の「対照的」な要素を
挙げることができる。今日のメッセージに関連するものを少し例として挙げるなら、
挙げることができる。今日のメッセージに関連するものを少し例として挙げるなら、
It's the same for Christian life. In Christian life, there are many elements that are "contrastive." Some
of the examples that are related to today's message are:
1.信仰の「理論と実践」
"logic and action" of faith
2.信仰の「理性面と感情面」などの「両極」性
2.信仰の「理性面と感情面」などの「両極」性である。
の「両極」性である。
"reasoning side and emotional side" of faith.
●それらのいずれにも偏ることの
●それらのいずれにも偏ることのない信仰、それらの両面をもった信仰が望ましい。
ない信仰、それらの両面をもった信仰が望ましい。
Faith that doesn't lean to either side but has both sides is desirable.
●あるクリスチャンたち
●あるクリスチャンたちは、感情面だけ
クリスチャンたちは、感情面だけを
は、感情面だけを強調し
強調して、「頭だけの信仰ではダメだ
て、「頭だけの信仰ではダメだ、喜びがほとばしる信
仰が必要、それが恵まれている人であり、集会の徴である
が必要、それが恵まれている人であり、集会の徴である」と
、それが恵まれている人であり、集会の徴である」と言って
」と言って、とにかく、
言って、とにかく、集会や日常生活に、
、とにかく、集会や日常生活に、
感情的高まりを求め、期待する傾向が強い
感情的高まりを求め、期待する傾向が強い。
傾向が強い。
Some Christians emphasizes only emotional side saying "Faith without emotions is not enough.
Joyfulness is a must have. That is the one who is blessed. That is the symbol of gathering." They tend
to expect high emotions and look for them in gathering and everyday life.
●勿論、そ
勿論、そのような面は必要であり、大切である。
のような面は必要であり、大切である。感情的に高められる
は必要であり、大切である。感情的に高められる「喜びや笑い」に溢れる生涯
感情的に高められる「喜びや笑い」に溢れる生涯や
「喜びや笑い」に溢れる生涯や
生活は何と魅力的
生活は何と魅力的なことか!
なことか! 「笑う宗教」
笑う宗教」と言うのがあるのもその顕われ
と言うのがあるのもその顕われであり
のもその顕われであり、
であり、「笑う」
笑う」ことを
ことを
代表とする感情的な喜びや高まりは、肉体的な健康にも大いに影響することは皆が認めること
代表とする感情的な喜びや高まりは、肉体的な健康にも大いに影響することは皆が認めることである。
や高まりは、肉体的な健康にも大いに影響することは皆が認めることである。
It is certainly necessary and important. How attractive the life and everyday life that have high
emotions filled with "joy and laugh" are! That is why there is "religion of laugh." Everyone admits that
joy and high emotions, typically "laughing," have tremendous effect on physical health as well.
●しかし、人間の
●しかし、人間の感情面は、信仰者であっても、必ずしも一定も、安定もしていない
感情面は、信仰者であっても、必ずしも一定も、安定もしていない。
は、信仰者であっても、必ずしも一定も、安定もしていない。上がったり、下
がったりする。当てにならない。そのような中、その不安定な人間の感情を支える
がったりする。当てにならない。そのような中、その不安定な人間の感情を支えるのが、人間の理性
当てにならない。そのような中、その不安定な人間の感情を支えるのが、人間の理性
である。即ち、困難・試練・時間の経過の中で、信仰の感情面が、冷えたり、下がったりするとき、
である。即ち、困難・試練・時間の経過の中で、信仰の感情面が、冷えたり、下がったりするとき、
私たちは理性的に信仰を考え始めるのである。そして、理性を通して信仰が働き始めるのである。
However, man's emotional side is not necessarily unchanging or stable even if he/she is a believer. It
goes up and down. We can't count on it. What supports such unstable human emotions in those ups
and downs is human reasoning. That is, in hardships and trials when emotional side of faith goes cold
1
and down as time goes by, we start to think about faith reasonably. Then faith starts to work through
the reasoning.
●だから、私たちは、信仰を理性的に整理しておく必要があるのである。そのことを聖書はペテロを通
●だから、私たちは、信仰を理性的に整理しておく必要があるのである。そのことを聖書はペテロを通
しても
してもこのように言っている。「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、誰にで
もいつでも弁明できる用意をしていなさい」(
もいつでも弁明できる用意をしていなさい」(第一ペテロ 3 章 15 節)と。
That is why we need to organize our faith reasonably. The bible tells us about it through Peter. "Always
be ready to give a defense to everyone who asks you a reason for the hope that is in you." (1 Peter
3:15)
●その意味で、私たちが持っているキリスト教信仰が何であるかを知性的に整理するために、
●その意味で、私たちが持っているキリスト教信仰が何であるかを知性的に整理するために、3
私たちが持っているキリスト教信仰が何であるかを知性的に整理するために、3 週間前
から私たちは、題目的と言うより、どちらかと言うと
から私たちは、題目的と言うより、どちらかと言うと講解的に
どちらかと言うと講解的に「
講解的に「ローマ人への手紙」
ローマ人への手紙」を学び始めた。
To do that, to reasonably organize what our Christian faith is, we started to study "the book of
Romans" 3 weeks ago not just as an topic to talk about but rather to interpret what it is.
●今日は、その第四回目である。そして、今日も、先々週、先週に引き続いて、「人間の罪とは何
か?」について学ぶ。私たちにとって「聖書で言う罪とは何か?」を学ぶことは
か?」について学ぶ。私たちにとって「聖書で言う罪とは何か?」を学ぶことは大切なことである。
いて学ぶ。私たちにとって「聖書で言う罪とは何か?」を学ぶことは大切なことである。
なぜなら、キリスト教の言う「
なぜなら、キリスト教の言う「救い」
救い」は、「罪からの救い」であるからである。
Today is the fourth lesson. Continuing from last week and the week prior, we'll study "what sin of man
is." It is important for us to study "what sin that the bible talks about is." That is because "salvation"
that Christianity talks about is "salvation from sin."
●即ち、このような学びを通して、
●即ち、このような学びを通して、私たちがどこから、どんなところから救われたかが明確となり、
このような学びを通して、私たちがどこから、どんなところから救われたかが明確となり、救
私たちがどこから、どんなところから救われたかが明確となり、救
われたことに対する感謝
われたことに対する感謝を新たに
感謝を新たにすることができる。更には、私たちが、今現在、またこれからも、
を新たにすることができる。更には、私たちが、今現在、またこれからも、
どんな歩み方、生き方をするべきかの指針を明確にすることができるのである。
That is, through studies like this, it becomes clear where we were saved from and it re-establishes our
gratitude for our salvation. Moreover, it clarifies direction for life that we should follow now and in the
future.
●そのような意味での、罪に関する学びとして、私たちは、先週から、ユダヤ人たちの中に代表される
人たちの中に代表される
罪について学び始めた。その筆頭として先週は
頭として先週は「
先週は「他人を裁く罪」
く罪」について学んだ。
について学んだ。
To achieve that, we've been studying about sin that was typical of the Jews since last week. The first
thing that we learned last week was "sin that judges others."
●今日は、その次として、聖書の言う罪とは、「律法の言っていることを行わない」ことであることに
ついて学びたい。
Today, what I want us to learn next is that the bible says it is sin "not to do what the law says."
●パウロは、罪について語るこの章で、「
ロは、罪について語るこの章で、「律法」と言う言葉を、新改訳聖書を見る限り、実に
り、実に 22 回に
もおよんで用いている。
Paul uses the word "the law" even 22 times in this chapter where he talks about sin as far as reading it
in New Japanese Bible.
●その
●その数の多さは、明らかに、聖書の言う「罪」と「律法」との「
との「密接」な関係を暗示している。
This number clearly indicates that there is "close" relationship between "sin" and "the law" that the
bible talks about.
●即ち、罪とは、神の「律法」を無視することであり、律法をなおざりにすることであり、律法に背く
ことであるからである。今日は、このことを少し
ことであるからである。今日は、このことを少し詳しく学びたい。
That is, sin is to ignore God's "law," neglect the law, and disobey the law. I want us to learn about
them in detail today.
本 論
Main Message
Ⅰ.まず、最初に考えたいことは、「律法」そのものについてである。即ち、律法とは何かである。
What I want us to think about first is "the law" itself. That is, what the law actually is.
2
A. 「律法」は、私たちに神の御心を教え、私たちになすべきこと、また、ことの善・悪を教えるものである。
"The law" is what teaches us God's will and what we should do. It also teaches us right and wrong.
1.ローマ2章1
1.ローマ2章18-19節を見て頂きたい。「御心を知り、なすべきことが何であるかを律法
に教えられてわきまえ、また知識と真理の具体的な形として律法を持っている」。
を持っている」。
I want us to take a look at Romans 2:18 - 19. "Know His will, and approve the things that are
excellent, being instructed out of the law, and are confident that you yourself are a guide to
the blind, a light to those who are in darkness."
2.即ち、私たちに
2.即ち、私たちに取って「
って「律法」こそが、私たちに何が真理であり、何が
理であり、何が神の御心であり、何
が善であり、何が悪であり、何をなすべきか、何をなすべきでないかを教えるのである。
That is, it is "the law" that teaches us what the truth is, what God's will is, what is right, what
is wrong, what we should do, and what we should not do.
3.「律法」なしに人生を歩むことは、地図も、旅行ガイドも、何も持たずに、未知の世界への
旅に出るようなものである。その
るようなものである。その結果は、・・・・
Walking life without "the law" is like traveling to unknown world without having any maps
and travel guides. The result is…
(1)個人的には:
人的には:導き手である羊飼い元から迷い出た羊と同じである。イ
と同じである。イザヤはこのように
記す。「私たちは皆羊のようにさ迷い、おのおの、自分勝手な道に向かって行った」(
った」(同
53 章 6 節)。
In person: It is like a sheep that strayed away from the shepherd who leads it. Isaiah
writes, "All we like sheep have gone astray; we have turned, every one, to his own way."
(Isaiah 53:6)
(2)社会的には:無秩序と混乱である。それは、絶対的な指導者、支配者のいなかった、即
ち「導く」者のいない社会の姿である。
In society: It results in no rules and confusions. It is society which had no absolute leader
or ruler. It is society that has anyone who "leads" it.
●モーセを失い、ヨシュアを失い、神さまを失ったイスラエルの「士師」の時代の社会
が、正にそれであった。
それであった。
Israel in the age of "the judges" when they lost Moses, Joshua, and God was exactly
like that.
●それゆえ、「
え、「士師記」の記者はこのように締めくくる。「そのころ、イスラエルには
王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っている」(21
っている」(21 章 25 節)。
That is why the writer of "the book of Judges" closes the book like this, "In those days
there was no king in Israel; everyone did what was right in his own eyes." (21:25)
4.先日、日本語のテレビ番組で、「こどもたちの恋愛問題」に親としてどのように対処するべ
きかと言うテーマの番組があった。
There was this Japanese TV program the other day, discussing over how parents should
handle "relationship issues of kids."
(1)あるテ
(1)あるティーン・エージャーは母親に、率直に、(
に、(聖なる講壇からこのように言うことを許
して戴きたいが)
きたいが)、「私、Hしても良い?!」と
?!」と聞いたと言う。親は返事に詰まった、
まった、戸
惑ったと言う。逆にここまで聞かれると返事はし易かったのかもしれない。
This teenager asked her mother straight (please forgive me to mention things like this),
"Can I have sex?" The mother was confused and couldn't answer. But it could have been
easier to answer to such a direct question.
(2)しかし、
(2)しかし、問題はそこで終わらない。それじゃ、セックスでなくても、「キス」はどうな
セックスでなくても、「キス」はどうな
のか? 等々の問題が、現実には、
題が、現実には、次々に出て来る。
But the question doesn't stop there. If not sex, what about "kiss"? Questions like that
comes one after another in reality.
3
(3)番組では、母親たちを中
たちを中心に(「さすが日本」と思った。父親が余り子育ての場に登場し
ない)
ない)色々な悩みが紹介されていたが、見ていて、突き詰めるなら、
In the TV program, mainly mothers (I thought "this is very Japan." Fathers don't
participate in raising kids that much.) were bringing up various problems. Looking at it,
ultimately,
●親たち自身が、何を基準に、それを良い、それは
い、それは悪いと判断するかの
するかの基準をもってい
ない。
the parents themselves don't have basis to judge what is right and what is wrong.
●今は、もうそんな時代じゃない。絶対的価値観など存在しない。だから、
在しない。だから、誰かが
だから、誰かが価値
観を決めるのではなく。それを
めるのではなく。それを押し付けられるのでもなく、
けられるのでもなく、
They're in new age. There is no absolute value. No one decides what the value is. No
one should be pushed to have the value of others.
●一人一人が自分で自分のための価値観を決めるのである。だから、誰も、それはダメ
だなどと他人、たとえそれが自分の子供でも言えない、
でも言えない、等々の議論が出て来る。
Everyone should judge on their own. So no one can say no to others even if it's their
own child. Discussion like that comes one after another.
5.しかし、そのような現代的風潮は、本当に正しいのか?!
But is that new trend indeed right?
(1)確かに、私たちは、一人一人、性
(1)確かに、私たちは、一人一人、性格も、考え方も違う。違って良いのである。皆が同じ
であってはならないのである。
It is certainly true that each one of us has different temperament and thoughts. It is fine
to be different. Everyone should be different.
(2)しかし、同時に、人
(2)しかし、同時に、人類として、人間として、すべての人に共通の価値観があるのである。
それは私たちがそもそも偶然の所産としてではなく、神さまに造られた目的と計画にか
なうために必要である。また、ほかの人々と共に生きて行くためにも不
くためにも不可欠である。
At the same time, as human being, there is common value among all men. It is necessary
for us as God's creature that were created in God's plan and God's purpose rather than us
being creatures of accident. It is necessary for us to co-exist.
6.「律法」はそのためにある。私たちの個人と社会を正しく導くために必要なのである。その
ために神様が私たちのために作られたのである。
"The law" exists for that purpose. It is necessary to lead us individually and as society to the
right way. That is why God created it for us.
B. 律法とは何か?
次に学ぶことは、「律法は私たちの世界に、色々な形で存在している」ことである。
What is the law? The next thing we'll learn is that "the law exists in the world in various forms."
1.イス
1.イスラエルの人々は、一つの「律法」しか考えられなかった。
The people of Israel could think of only one "law."
(1)即ち、モーセを通して神様から与えられた「十戒」を中心とする彼ら独特の「律法」だ
けが「
けが「律法」だと堅く信じていた。
That is, they firmly believed that "the law," which was unique to them and mainly
formed by "the Ten Commandment" which God gave to them through Moses, was the
only "law."
(2)そのことが、
(2)そのことが、彼らの「選民思想・信仰」を歪めた。他民族を見下げ、傲慢になった。
It twisted their "ideology of chosen people and their faith." They looked down other
races and became arrogant.
2.しかし、
2.しかし、神さまは、人間が必要とする「律法」は、イスラエルの人々に与えられた「律法」
だけではない。それは最も典型的な律法ではあるが、それだけでないと言われる。
4
But "the law" that God gave to the people of Israel is not the only "law" that man needs. We
can say that it is the most typical law there is, but that's not all there is.
(1)イスラエルの人々のように、いわゆる典型的な律法を持っていない人々にも、神さまは、
さまは、
「その心の中に」「
の中に」「良心」と言う形で「律法」を刻み込まれたと聖書は言う。
The bible says that God has written "the law" "into the heart" of men as a form of
"conscious" for those who don't have the typical law like the people of Israel.
(2)即ち、ローマ
即ち、ローマ 2 章 14-
14-15 節
It is in Roman 2:14 - 15
●14 節「・・・・」
●15 節「・・・・・」
verse 14 "…"
verse 15 "…"
(3)言い換えると、異邦人と呼ばれるイスラエル人以外の人々、即ち、私たち日本人は勿論
のこと、その他すべてのアジア人、アフリカ人、欧米人、すべてにこのことが言える。
人、すべてにこのことが言える。
Another words, it includes all people who are called gentiles, those who are not the
people of Israel; we Japanese of course, all other Asians, Africans, Europeans, all people.
●彼らは、民族的に、宗教的に、イス
的に、宗教的に、イスラエル人が、神様からモーセをとおして与えられ
たような「律法」は持っていない。
They don't have "the law" that God gave to the people of Israel as a race and in their
religions.
●しかし、聖書は、「形・様態こそ違うが、彼らにも、神さまは、イスラエル人と同じ
ように伝えたい律法のメッセージを、彼らの心の中に刻み込んで記している」と言う。
But the bible says, "It is in various forms, but God has written the message of the law
which is the same as the one given to the people of Israel in their heart and shows it."
3.このように、神様は、形は違っても、世界中の人々に等しく語り、等しく扱い、等しく裁か
れるのである。神様は、すべての人に
は、すべての人に等しく公平・公正であられるのである。
God talks to all people in the world equally even if it's in different form, treats everyone
equally, and judges everyone equally. God is fair and right to all people equally.
(1)パウロは言う。6-11節全体を見たいが、特に 11 節でこのように言う「神にはえこ
ひいきなどはない」と。
I want us to look verses 6 - 11, but especially in verse 11 Paul says, "There is no partiality
with God."
(2)だから、イス
(2)だから、イスラエル人も、異邦人も、「知らなかった。律法がなかったから」と言い訳
はできないのである。
はできないのである。
Therefore, neither the people of Israel or the gentiles can excuse themselves saying "I
didn't know because there was no law."
(3)即ち、
(3)即ち、石の板に書かれた「
に書かれた「モーセの律法」であろうと、心の肉皮に記された「
された「良心と言
う律法」であろうと、「神の律法」として、真理と善悪のメッセージを伝えるのである。
That is, whether it is "Mosaic Law" that was written on the stone or "the law called
conscious" that was recorded in the heart, it gives you the message of the truth and right
and wrong as "God's law."
(4)それ
(4)それゆえ、私たちは、神の御心とお声を聴くために、もっともっと書かれた律法、今で
言うなら聖書に、また心に記された律法に耳を傾けるべきである。
Therefore, in order for us to hear His will and His voice, we should incline our ears to the
written law, which is the bible now, and the law that is written in our heart.
(5)私たちは、
(5)私たちは、余りにもこの世の声に、サタンの声に耳を傾けすぎていないか?!
Aren't we inclining our ears far more to the voices of this world and Satan?!
Ⅱ.次に、この「律法」との関係で「罪とは何か?」について考えたい。
Next, I want us to think about what "sin" is in relation to "the law."
5
A. 罪とは何か? それは、「律法」を求めないこと、「律法」の声を聞こうとしないことである。
What is sin? It is not wanting "the law" and not trying to hear "the law."
神の御心を求めようとしないことである
を求めようとしないことである。
しないことである。
What's the beginning of the sin? It is not wanting God's will.
2.ローマ 1 章 28 節でも、罪人の一つの姿をこのように述べている。即ち、「彼らが神を知
1.罪の始まりは何か?
1.罪の始まりは何か?
ろうとしたがらないので」と。
Romans 1:28 describes one of the attitudes of the sinner as "They did not like to retain God
in their knowledge."
3.ローマ人への手紙 12 章 2 節でも、パウロはこのように言う。「この世と調子を合わせて
はいけません。いや、神の御心は何か、即ち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全
であることをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」と。
Paul also says in Romans 12:2, "Do not be conformed to this world, but be transformed by
the renewing of your mind, that you may prove what is that good and acceptable and
perfect will of God."
4.私たちはどうであろうか? 神の御心・み旨に聴き、それを求めるより、自分の願望を追求
し、それを神様に聞かせ、それを叶えてもらうことに、より関心があるのではないか?!
What about us? Aren't we more interested in seeking after our desires, having God listen to
it, and having Him do it rather than seeking after His will and hearing His will?!
5.それは、正に罪の始まりであり、罪である。
It is exactly the beginning of the sin and it is itself sin.
B.罪とは何か?
それは、「律法」を持っているだけで満足していることである。
What is sin? It is being satisfied just by having "the law."
1.17節を見て頂きたい。パウロはイスラエルの人々に向かって言う。「もし、あなたがたが、
ルの人々に向かって言う。「もし、あなたがたが、
自分をユダヤ人ととなえ、律法持つことに安んじ、・・・」
I want us to look at verse 17. Paul says to the people of Israel, "Indeed you are called a Jew,
and rest on the law…"
2.彼らは「律法」を守るどころか、読むことさえしなかった。ただそれを「持っている」だけ
で「安んじていた」、即ち、「満足してしまっていた」のである。
They not only didn't obey "the law" but also didn't even read it. They just "had" it and "rest."
That is, they were "just satisfied."
3.それは、今の時代の私たちにに当てはめるなら、クリスチャンとなったこと、聖書を持って
いることだけで、満足し、安んじてしまって、それを真剣に読みもしないし、ましてや守
ことをほとんどしていない人々と同じである。
If we're to apply this to us in our days, it is the same people who are satisfied and in rest just
by becoming Christian and having the bible, don't read it seriously, and don't obey it most of
the time.
4.パウロは、ここで、それを罪として糾弾しているのである。
Paul is condemning it here as sin.
5.「ユダヤ人ととなえられる」こと、或いは、「
いは、「律法を持っている」こと、等々の、名称や、
IDや、ステータスは、人を救うことができない。だから、私たちは、そこで安んじては
ならないのである
ならないのである。
のである。
Things like "being called the Jews", "having the law", name, ID, or status cannot save people.
Therefore, we shouldn't rest there.
6.しかし、何と多くのクリスチャンたちが、この罠に陥っていることか?!
But how many Christians are falling into this trap?!
(1)クリスチャンになったところで、安
(1)クリスチャンになったところで、安心して、座り込んでしまいう。
Once becoming Christian, they feel peace and sit right there.
6
(2)聖書と言う
(2)聖書と言う神の律法を持っていることだけで、あたかも、自分はもう神の御心を知って
いて、その真ん中を生きていると錯覚してしまっている。それで、
Just by having God's law called the bible, they mistakenly think that they're right in the
middle of God's will knowing His will. And
(3)「
(3)「律法」、今で言うなら「聖書」を自分の生活と人生の中に真剣に求めようとしない。
they don't try to seek "the law," which is now "the bible," in their life and their everyday
life.
(4)それは罪であると
(4)それは罪であるとパウロは糾弾する。
Paul condemns it as sin.
C.律法との関係から学ぶ聖書の言う罪についての最後のポイントは、罪とは「律法を行わない」ことである。
The last point about sin that the bible talks about in relation to the law is that sin is "not doing the
law."
1.この
1.このポイントこそが、パウロが、このローマ人への手紙 2 章 12~29 節までで、中心的に
言いたかったことである。
This is the point that Paul mainly wanted to mention in Romans 2:12 - 29.
2.何
2.何故なら、イスラエル人、ユダヤ人を中心に、或いは代表・
代表・筆頭にして、
して、余りに多くの人々
が、律法を行わないからである。
He wanted to mention it because far too many people don't do the law starting from the
people of Israel and the Jews.
3.それでは、人々は、
.それでは、人々は、律法を行わないで、どうしている
わないで、どうしていると言
どうしていると言う
と言うのか? パウロは言う:
Then, what are they doing without doing the law? Paul says that:
(1)彼らは、み言葉を「行わない」で、み言葉を「聞く」だけの人になっていると。
く」だけの人になっていると。
They are just "hearing" the word without "doing" the word.
●パウロは言う:13
ロは言う:13 節「それは、律法を聞くものが、神の前に正しいのではなく、律法
を行う者が、正しいと認められるからです」と。
Paul says in verse 13, "For not the hearers of the law are just in the sight of God, but the
doers of the law will be justified."
●このこと、即ち、律法、み言葉を聞くだけのものであってはならない、行う者になら
なければならないことの重要性については、イエス様の貴重なメッセージがまとめて
紹介された有名な「山上の垂訓」と呼ばれる説教の締めくくりで語られた「岩の上に
建てられた家と砂の上に建てられた家」のたとえ話からもきわめて明らかである(
らもきわめて明らかである(マタ
イ 7 章 24-
24-27 節)。
The importance of becoming doers of the law and the word rather than just hearing it is
very clear in the parable of "the house built on the rock and the house built on the
sand" that was told at the end of the famous "Sermon on the Mount," which introduced
valuable messages of Jesus (Matthew 7:24 - 27).
●多くの人は、この
くの人は、この譬え話を誤解している。「
解している。「違い」は、み言葉を聞くか、聞かないか
だと思っている人が多い。即ち、今で言うなら、教会に来て説教を聞くか、聞かない
か、聖書を毎日読んでいるか、いないかだと思っている。
Many people misunderstand this parable. Many people think that the "difference" is
hearing the word or not hearing the word. That is, in our days, it is whether you come
to church and hear the message or not, or, whether you read the bible everyday or not.
●しかし、それは間違っている。イエス様は、ハッキリと、どちらの人も、「み言葉は
聞いた」と言っておられる。イエス様は、「聞いて行った人」と「聞いても行わなか
った人」と区別されたのである。
That's not what it means. Jesus clearly says that both "heard the word." Jesus made
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distinction between "those who heard it and did it" and "those who heard it but didn't
do it."
●そして、その
●そして、その重要性は
要性は、更に、後に、イエス様の兄弟であるヤコブによって、その手
紙 1 章22-24
章22-24 節において強調されている。
節において強調されている。
Then the importance is emphasized more again in James 1:22 - 24 later by James, the
brother of Jesus.
(2)彼らは、また、み言葉を「行わない」で、み言葉を「語る」だけの人になっていると。
It says that they are "speakers" of the word "without doing" the word.
●パウロはこのことについて、17節以降で語っている。
Paul talks about it in verse 17 and after.
●私たちも同じ罪に陥っていないだろうか? 自分では実行していないのに、人にはそ
れを要求し、していないことを裁いていないだろうか?
Aren't we falling into the same sin? Aren't we forcing others to do it and judging those
who are not doing it without doing it ourselves?
●その逆に、自分でもしてしまっている
でもしてしまっている悪を棚に上げ、人の悪を攻めていないか?
Or, aren't we offending other's wrong doings while we ourselves are doing wrong
things?
●キリスト教を語るクリスチャンより、キリスト教を実行するクリスチャンを神様は求
めておられるのである。
God wants Christians who do Christianity rather than Christians who speak of
Christianity.
結
論
Conclusion
●「律法」は、「
」は、「モーセの律法」を始めとする書かれた
を始めとする書かれた神のみ言葉としての「聖書」を意味すると共
に、そのような形態で持つことがなかった人々にも、神さまは、人間が生まれながらにもっている
良心や人間の本性の中に、御心を書き込んでおられる。
んでおられる。
"The law" is "the bible," which is the written word of God like "Mosaic law." For those who were not
able to have it, God also wrote it in conscious that human has from birth and nature of man.
●あの有名な子供の物語「ピノキオ」の中に、ことあるたびにピノキオの取る判断・行動の是非をチ
ェックするために登場するジミニ—・クリケットの存在を通して、誰もが感じることは、私たちが、
そのような心の声に聞くことの大切さである。
In the famous tale "Pinocchio," what everyone feels through Jiminy Cricket, who checks Pinocchio's
every single judgment and action, is importance of hearing voice of the heart like that.
●そのように、神の御心を求め、信じ、従がうことが正しいことであり、それをしないことが罪であ
ると聖書は言う。
In the same manner, the bible tells us that the right thing is to seek God's will, believe it, and obey it.
Not doing them is sin.
●しかし、今、私たちは、神様の御心を明確に記した「聖書」を頂いている。何という感謝なこと
か! だから、聖書を聞くだけ、読むだけで満足することなく、そこに書かれていることを、命か
けて信じ、実行するものとなりたい。そのとき、初めて、神さまは、私たちの心と生涯に、聖書に
書かれていることを実現してくださるのである。
Now we have "the bible" that shows God's will clearly. How thankful we are! So, I want us to be
doers believing things that are written there for life rather than just hearer of the bible being
satisfied by reading it. At that point, for the first time, God does what is written in the bible in our
heart and in our life.
●最後に、自ら三重の身体的障害を背負いながら、世界の教育と福祉の発展に多大な貢献をしたヘレ
ンケラーが如何に聖書の言葉を尊び、原動力として生きたかを表す言葉を引用して閉じたい。彼女
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は言う。「
は言う。「私が毎日、最も愛読する書物、それは聖書です。私の辞書に『悲惨』という文字はあり
ません。聖書はダイナミックなカであり、変わることのない理想を示すものです。」
すものです。」
I'd like to close by quoting Helen Keller who had three disabilities and contributed extremely to the
development of the field of world education and welfare. It shows how she valued the word of the
bible and how it motivated her to live. She said, "What I love to read the most every day is the bible.
There is no word "miserable" in my dictionary. The bible has dynamic power and points us to
unchanging ideal."
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