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﹁ウスバ﹂の名がついています。
特 に 大 き く も な く、 薄 そ う な
翅のせいでちょっと弱そうにも
見えるウスバカマキリ。しかし
日 本のカマキリの中で唯一、北
は 北 海 道 か ら 南 は 沖 縄・ 南 西
諸 島 までの 広い分 布 域 を 持つ
歴史探訪
上城下の工匠稲垣治平が造
り、 稲 垣 治 平 が ﹁ お し ゃ ぎ
り﹂の名匠であったことか
金刀比羅神社本殿
刻 が 施 さ れ ま し た。 四 方 に
などすべての面に精緻な彫
ら 四 方 壁 面 柱 や 軸 部・ 組 物
村松浜
向拝がありそれぞれに軒唐
千鳥破風という珍しい造り
破 風 が つ き、 屋 根 が 四 方
シア、アフリカ、オーストラリ
塗装せずにケヤキ材の木目
比 羅 神 社 は、 村 松 浜 の
で、 彫 刻 を 多 く 施 し あ え て
ア など 世 界 各 地にも 広 く 分 布
周囲を池で囲まれた浮島
を境内とする村松浜の金刀
を見せる点は江戸後期の特
生 活 力 を 持 つカマ キ リ な の で
年後の嘉永
年 ︵1851 年 ︶ に 本 殿
本殿完成の
徴を表しています。
問 屋 平 野 安 之 允 が、 天 明
川県︶の金刀比羅神社を分
す。 他 の 種 類 と 見 分 け る ポ イ
が前 脚の内 側の付け根 近 くに
霊 し、 私 社 と し て 建 立 し た
ントは、写 真にも写っています
あ る 黒 い 紋 で す。 こ の 紋 は 中
のが始まりといいます。
年︵ 1 7 8 8 年 ︶に 讃 岐︵ 香 が 抜 け て リ ン グ 状 に な ること
︵村松浜︶
➡浮島を境内とする金刀比羅神社
前 に 拝 殿 が 造 れ ま す。 こ の
め、 本 殿 同 様 に 彫 刻 が 多 く
施されたものとなりました。
年 ︵1939 年 ︶ の 幣
殿 造 営 工 事 な ど が 行 わ れ、
和
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現在も地域の人々の手で大
胎内市文
本殿は江戸の名匠後藤三次
郎 を 棟 梁 と し、 西 蒲 原 郡 角
饉 が お こ り、 村 松 浜 も 飢 饉 に
田村の中村貞蔵が大工を務
カマ キ リ は 種 類 ご と に 好 む
環 境 が 違 い ま す。 ウ ス バ カ マ
とで多くの住民が救われまし
見 舞 わ れ ま し た が、 こ の と き
で よ く 見 ら れ ま す。 生 活 は 他
た。 村 松 浜 の 住 民 は こ れ に 感
キ リ は 開 け た 草 原 に 多 く、 市
も あり ます 。
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平 野 家 が 在 庫 米 を 放 出 し た こ そ の 後 大 正 年︵ 1 9 1 6
年 ︶ に 本 殿 の 覆 屋 工 事、 昭
天 保 年 間 ︵1 8 3 0 年 ∼
1844 年 ︶ に 全 国 で 大 飢
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す る と い う、 実 は た く ま し い
船
⋮だけでなくヨーロッパからロ
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内 で も 海 岸 沿 いの 明 るい 草 原
の カ マ キ リ と 同 じ く、 他 の 昆
虫 を 食 べ て 育 ち、 秋 に 産 卵 さ 謝 し 、 平 野 家 が 救 済 事 業 と
︶が冬 を越します。 し て 讃 岐 の 金 刀 比 羅 神 社 の
れた卵︵卵
化財
➡金 刀 比 羅 神 社 本 殿
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切に保護され続けています。
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市 内 に は 数 種 類 の カマ キ リ
が 生 息 し て い ま す が、 あ ま り
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《127》
象頭山を模して神社を新しく
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卵は枯 れ 枝や石の下 など目 立
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注目されないのがこのウスバカ
江戸時代を代表する歴史的建
造物として本殿部分が平成 年
月 日 に 中 条 町 の 文 化 財 に、
平成 年 月 日に胎内市の文
化財に指定されました。
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ウスバカマキリ(右:拡大)
マ キ リ で す。 体 長 は ∼ ㌢ た な い 場 所 に 産 み つ け ら れ る 建 立 す る 際 に 、 小 山 を 築 き 壕
で、コカマキリより 少し大きい ことが多いようです。
を 巡 ら す な ど の 労 働 奉 仕 を 引 文・写 真
胎内市教育委員会
程 度。 体 の 色 は 薄 い 緑 色 が 多
き 受 け、 飢 饉 の と き の 恩 議 に 生涯学習課
く、他に黄 色っぽいもの、茶 色っ 文 ・ 写 真
報 い ま し た。
胎内昆虫の家
☎ ・3300
ぽ い も の も い ま す が、 透 明 感
金刀比羅神社の本殿は天
保 年 ︵1835 年 ︶ に 村
5
胎内市の
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ウスバカマキリ
《カマキリ目
カマキリ科》
が 強 く、 翅 が 薄 く 見 え る の で
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《125》
市報たいない 2016.10.1 p.28