大橋 しのぶ

まほろば宮下社長のルーツ案内記
福島復興から日本の立て直し探訪
4
その
旅の案内人:神奈川県在住
大橋 しのぶ
1 会津から近江そして倭へ
福島復興から日本の立て直し探訪
4
その
二〇一五年五月、まほろばの宮
下社長と母方の先祖が同じ福島
前回までのあらすじ
宮下社長の御祖母様である秀子さ
る こ と 数 分、「 甲 賀 町 五 番 地 」 が
甲賀町口門跡を後にして、その
まままっすぐ甲賀町通りを北上す
甲賀町通りの悲喜こもごも
歳半の時のことでした。
とになります。まだ秀子さんが一
の腕に抱いて北海道へ飛び立つこ
やがて曽祖父の蔵田(倉田)喜
一郎さんが、愛娘の秀子さんをそ
構ありますよね(笑)
ようですが、そういうことって結
頁 )。 名 前 が き っ か け の ご 贔 屓 の
大ファンだそうです!(倭詩七六
る往年の大女優・高峰秀子さんの
は、この御祖母様と同じ名前であ
に宮下社長と宮下社長のお父様
なお店になっていました。ちなみ
ー・ファッション小物を扱う素敵
白清堂」という化粧品やジュエリ
んの出生地です。そこは現在、「星
県・ 会 津 若 松 で あ る 事 が 分 か り
案内しました☆☆☆
興善寺・甲賀町口城門跡などをご
二日目は田中稲荷・鈴木屋利兵衛・
タ リ ア ン レ ス ト ラ ン・ ル ー チ ェ、
ず初日は倉田本家の跡地にあるイ
て会津をご案内する事になり、ま
七月、福島県二本松市で講演会
をするという奥様の日程に合わせ
な り ま し た。 ルーツ探しのお手伝いをする事に
甲賀町郭門(大手門)跡
この甲賀町通
りは鶴ヶ城の大
手門から北にま
っ す ぐ 伸 び、 甲
賀 町 口 郭 門( 大
手門口)を出る
と町方の通りと
な り ま す。 町 か
ら郊外に出ると
白虎隊自刃の地
である飯盛山の
脇を通り滝沢峠
を越え、やがて
二本松街道や白
川街道に繋が
り、ついには江戸にまで至る大手
通りです。その為、この甲賀町通
りは江戸時代には参勤交代の通り
道として使われ大いに賑わいまし
た。
敵の侵入を告げる半鐘が鳴り響
く と、 藩 士 や そ の 家 族 の 多 く は、
あらかじめ決められていた指示通
りに鶴ヶ城に駆け込みました。こ
の時の混乱で、お城に入れなかっ
母成峠・戸ノ口原を突破し滝沢峠
士の奮戦もむなしくやがて西軍は
出陣しました。会津藩士や白虎隊
二十一名の壮絶な集団自刃などの
人、 そ し て 家 老 の 西 郷 頼 母 一 族
して迷惑かかる事を厭う病人や老
や白虎隊士自刃、城下町では籠城
た娘子隊(じょうしたい)の戦死
を越え、この道を通り、甲賀町口
悲劇が起こりました。
戊辰戦争時には会津藩主・松平
かたもり
容保公と白虎隊士もこの道を通り
郭門をはじめとする北口郭門から
たのも
郭内になだれ込み鶴ヶ城に迫りま
西郷頼母は会津藩の筆頭家老
で、その屋敷は鶴ヶ城の大手門の
した。
甲賀口郭門に入る参勤交代の列
2
まほろばだより No.4349 16-125 9/2
会津婦道の精神を伝える、下記の
西 郷 頼 母 の 妻、 千 重 子 は 三 四 歳。
するところにありました。この時、
前、甲賀町通りと本一之丁が交差
に撃ち込みました。
城内は死傷者で
一日に二千発以上もの砲弾を鶴ヶ城
アームストロング砲を据え、
最高で
西 軍 は お 城 の 東 南 約 一・五 キ ロ
にある小田山に当時最新と言われた
の辞世の歌にあらわれています。
敷かれ、最後の会津藩主となった
ゅうたん・今でいうフェルト)が
五メートル)四方の緋毛氈(赤じ
れました。式場には十五尺(四・
降伏の調印式は、鶴ヶ城大手門
前の甲賀町通りの路上で執り行わ
枚の白旗をこしらえたそうです。
こ
有名な辞世の歌を残しています。
溢れ埋葬しきれなくなった死体は井
松平容保は降伏文書に調印しまし
え
~なよ竹の 風にまかする
戸へと投げ込まれました。
ち
身ながらも たわまぬ節は
もはや降伏の
白旗にする分量
す。
ついに降伏しま
の末、会津藩は
しかし約一
か月の籠城戦
応戦しました。
式の銃を使いこ
ら男装し、最新
の身でありなが
クと言われた山本八重さんも、女
ますが、一か月に
錦絵ではお城は
綺麗に描かれてい
す。
されているそうで
血氈の実物が展示
津名宝館」には泣
り、館内にある「会
こ の 場 所 は 現 在「 会 津 酒 造 歴
史館」になってお
後に泣血氈 き
( ゅうけつせん と
)
呼ばれるようになります。
刻んで懐中深く持ち帰り、それは
忘れぬよう、緋毛氈を小さく切り
会津藩士たちは、逆賊の汚名を
着せられたこの日の無念と屈辱を
逆賊の汚名の下に明日は明け
慣 れ 親 し ん だ 鶴 ヶ 城 を、 命
を か け て 守 っ た こ の お 城 を、
お城に残す月影~
ながむらむ慣れし
~明日の夜は何国の誰か
を刻みました。
頼りにかんざしで下記の和歌
山本八重さんは開城の前夜、三
の丸雑物庫の壁に月明かりを
はありませんでした。
に耐え、降伏するまで、ついに一
かし会津藩士やその子女達はそれ
た。
の布地さえ包帯に使い果たし無く
渡る籠城戦で大量
ありとこそきけ~
会津藩が、逆賊の汚名を着せられ
なっていました。女達は包帯の血
の砲弾を浴びたお
渡 さ な け れ ば な ら な い、 無 念
大河ドラマ「八重の桜」の主人
公であり、幕末のジャンヌ・ダル
た無念の思い、しかし天地神明に
に染まっていない白い部分をかき
城はボロボロにな
の 開 城 前 夜 の、 そ れ で も 天 空
意 味「 な よ 竹 と 同 じ よ う な 弱 い 女
かけて仁義をつらぬくのだ、とい
集め、無念の涙を流しながら小さ
っていました。し
に忠節を尽くした
全藩をあげて皇室
守 護 職 を 引 き 受 け、
困難であった京都
明 天 皇 の 信 任 厚 く、
主の松平容保は孝
を 高 く 持 ち、 現 藩
藩 祖・ 保 科 正 之
以 来、 勤 皇 の 精 神
みせる」
ように節義に殉じて
げられない竹の節の
で あ る 我 が 身 だ け れ ど、 強 風 に も 曲
う誇り高い精神が、この「なよ竹
い端切れを縫い合わせ、何とか一
なし、お城に迫
る西軍に果敢に
いづ く
4
その
福島復興から日本の立て直し探訪
3 会津から近江そして倭へ
歩も西軍をお城に踏み込ませる事
の歌」を始めとする多くの会津人
旧・倉田喜一郎さん宅付近で見つけた看板です
せ、 会 津 藩 は 再 興 を 許 さ れ
る事になりました。
と
新 た な る 藩 の 名 前 は「 斗
なみ
南 藩」場所は陸奥国の北
( 現・ 青 森 県 下 北 半 島・ 十
和 田 湖 近 辺 ) と、 蝦 夷 地 の
西 南( 現・ 北 海 道 の 瀬 棚 近
辺)に分散して三万石と決
隊士達、そして宮下社長のご先祖
かつては参勤交代のお殿様や白虎
だ の 狭 い 通 り し か 見 え ま せ ん が、
現在の甲賀町通り(町方)は閑
散としていて、車も一方通行のた
響きの歌です。
の月を仰ぎ見る、悲しくも美しい
地に分散されての立藩となったの
斗南藩が、青森・北海道と津軽
海峡を隔ててかなり距離のある土
分かります。
るとかなり極端な減俸である事が
り、会津藩の表高二十三万石(実
三万石と言っても実際は
七千石と言われる不毛の地であ
まりました。
様が行き来したのです。まさに道
は明治政府の都合でもありまし
質は三〇万石と言われる)に比べ
に歴史ありですね。
た。新政府は蝦夷地の開拓を推し
進める為に、謹慎中の会津人に目
に 分 散 さ れ 謹 慎 処 分 と な り ま す。
落城後、約一七〇〇人の会津藩
士達は猪苗代や塩川村、東京など
好の方法でもありました。
開発は敗者を体よく処分できる恰
と なみ
をつけたのです。会津人は優秀で
翌・明治二年、旧家老の萱野権兵
藩の再興が許さ
明治二年、斗南
ひょうぶしょう
れると新政府の兵部省は、さっそ
斗南への道
衛が戦争責任を一身にかぶり切腹
く東京に謹慎していた会津人から
てい
処分となり、それで面目を保てた
四四四人を選び、第一陣として品
勤勉な人材であり、また蝦夷地の
明治政府は次第に態度を軟化さ
川港からアメリカ船ヤンシー号に
乗せ小樽港へと運びました。やが
て第二陣の九〇数世帯が追加さ
れ、小樽の会津人は倍に増えまし
た。彼らはその後しばらく小樽に
据え置かれ、紆余曲折の末、余市
へ入植する事が決まります。余市
は小樽から約二四キロ西にある寒
しゅったつ
村で、彼らは小樽から新天地であ
る余市まで徒歩で出立したのでし
た。
最終的に北
海道に渡った
会津人の戸口
は 二 二 〇 戸、
七百余人であ
ったらしいで
すが、明治四
年の廃藩置県
以降、青森県
に開拓団の募
集が何度かあ
り、その募集で札幌の琴似や函館
へも入植している会津人もいるの
で、その人数も加えるともっと多
くの会津人が北海道に渡っている
事になります。ちなみに私の親族
の山田道守も明治九年開拓団の一
員として下北半島から函館に渡
り、その地で若くして死亡してい
ます。
斗南藩の本拠地である下北半島
への移住は明治三年の春から始ま
りました。旧・会津藩士とその家
族達は東京・猪苗代・高田の各謹
慎所からそれぞれ陸路・海路を辿
って新領地を目指しました。海道
を辿った者は船酔いに苦しみなが
らも短期間の旅
だったのです
が、陸路をたど
った者達はかな
り悲惨な旅路だ
ったそうです。
お
宿泊に難色を
示 す 宿 も 多 く、
折 り 悪 く 前 年・
明治二年が凶作
だった為、よう
やく泊まれた宿
でも粥をすする
4
まほろばだより No.4349 16-125 9/2
て下北半島まで歩いて落ち延びて
私の四代前のご先祖様も当時ま
だ一〇歳でしたが、腰に刀を差し
多人数にのぼりました。
藩まで辿り着けず亡くなった者も
の寒さの中、この過酷な旅で斗南
のが手一杯でした。みぞれまじり
百十余年前、会津は〝厳寒〟の
て、不遇の時を耐える。
人々は声をひそめ、身を屈め
く塗りつぶされる。
海は荒れ、一寸先の風景は白
るのだ。
雪は足もとから吹き上げてく
みるといい。
厳寒の下北を、一度は訪ねて
を象徴しており、当時の会津人の
座は薩長藩閥政府を、射手は会津
るようなのです。もちろんさそり
座が矢を隣のさそり座に向けてい
す。この星座をよく見ると、射手
と言い、射手座の中央部を指しま
名を「斗宿」、和名を「ひつきぼし」
座の呼称であり、中国古代の星座
は北斗七星に対してつけられた星
語源とするものです。南斗六星と
人々が多数登場して読み応えのあ
ひたむきに数学や星空に向き合う
化 も さ れ て い ま す。 人 生 を か け、
小説になり、二〇一二年には映画
こ の エ ピ ソ ー ド は 二 〇 〇 九 年、
冲方丁により「天地明察」という
せました。
々な困難の末、
新たなる暦を完成さ
しまっていたのです。
渋川春美は様
が蓄積して二日分もずれが生じて
だ私は、ずっと長い間、それは先
行ったと言い伝わっています。た
なかにあった。
る物語です。
祖の一家族だけが、たまたま青森
(
『北辺に生きる会津藩』より)
心境にぴったりだったと言われて
まで落ち延びたのだと思っていま
中にある「北斗以南皆帝州」から
一番有力の説としては中国詩文の
も異色の響きがあると思います。
の作成は切っても切れな
と「 暦( カ レ ン ダ ー)」
んでした。そして天文学
会津藩は藩祖・保科正
之の時代から天文学が盛
も納得できる事なので
用したというのはとて
星にちなんだものを採
して北斗七星や南斗六
す、新たな藩の名前と
これほど天文学に通
じていた会津藩士達で
まで備わっている藩校というのは
取 っ た と 言 わ れ て い ま す。「 北 の
い関係にあります。保科
す。そんなご先祖様達
全国でもかなり珍しかったそうで
辺境に流されてきたが、ここも天
正之は、碁石方であり数
の影響があるのか分か
にある墳墓の地・会津へと帰るの
皇の国である。我々は朝敵でもな
学者でもあった渋川春海
りませんが、私も小さ
だ」という願いも込められていた
え、天文台がありました。天文台
います。
人生を変えた一冊と言えます。
会津藩と天文学
ければ賊軍でもない、共に北斗七
に新たな暦作りを命じま
い時から星空を眺めた
す。
星を仰ぐ帝州の民であるである。」
す。当時、朝廷が発行し
のではないでしょうか。
という思いを込めて付けたと言わ
ていた宣明歴は八百年以
り宇宙の事を考えるの
と なみ
れています。
上使う内に少しづつ誤差
ところで斗南とはちょっと聞き
なれない単語で、藩の名前として
きっとどちらの説も当たってい
ると思いますし、更に「いつか南
会津藩では、お城の側にあった
藩校・日新館で生徒に天文学を教
した。しかし十一年前に初めて会
津 若 松 に 行 き、 会 津 武 家 屋 敷 で、
「 北 辺 に 生 き る 会 津 藩( 斗 南 に 移
さ れ た 人 た ち )」 と い う 本 を 手 に
して、これが挙藩流罪ともいうべ
き藩を挙げての大移住だったと知
ってかなりの衝撃を受けたのでし
た。
今 一 つ の 説 は、「 南 斗 六 星 」 を
4
その
福島復興から日本の立て直し探訪
5 会津から近江そして倭へ
天文台の副台長である天文学者・
県中津川市に移住し、九十八歳で
この曽祖父の樋口勝世は、昭和
初期に木曽路の終着点である岐阜
矢野顕子さんのご生母である鈴
木淳さんは、まさに侍の娘と言う
の校長を務めていくことになりま
渡部潤一氏も会津人で、最近はテ
他界しましたが、私が小学生の時
にふさわしいしっかりした方だっ
が大好きです。ちなみに現・国立
レビでも宇宙番組のコメンテイタ
まで生きていたので、はっきりと
子さんのルーツが取り上げられて
いました。矢野さんの母方の先祖
も会津藩士であり、先祖の丸山主
水は戊辰戦争後、殿様に付いて東
京で謹慎、斗南藩へと移住しまし
た。そして矢野さんのご先祖様も
青森に残留した数少ない藩士の一
人だったのです。丸山主水は斗南
藩では寺子屋を開き、子供達に会
津仕込みの学問を教えました。明
治になるとその博識を見込まれ地
元小学校の校長に迎えられまし
た。そして丸山家は代々その学校
鈴木 淳
平成十三年二月一二日
御献花ありがとうございました
灯を取りに
川面に映る 雪ひとひら
参加する事でしょう
やがて他の生命誕生に
自然の大循環の中に組み込まれ
この先は宇宙の塵となり
感謝申し上げます
楽しく過ごさせていただき
幸い家族・友人・趣味に恵まれ
この度 寿命により
お別れする事となりました
にご紹介させて下さい。
意したそうです。その内容を以下
して、葬儀の会葬礼状を自分で用
ながら、外科的な治療を一切拒否
す。
―として大活躍されています。
樋口家の始祖は木曽路で木曽義
仲に仕え、木曽家の滅亡後、子孫
は信濃の武田家に仕え、またその
たかとお
武田家滅亡後は高縁藩で保科正之
公に仕え共に会津へ、そして幕末
の会津藩滅亡を体験し青森の斗南
藩へ流されました。約千年に渡り
様々な栄枯盛衰を体験し、樋口家
の血筋は再び故郷の木曽路へと帰
っていったのでしょうか。
そして今、下
北半島のむつ市
では、石井家の
子 孫 の 方 達 が、
会津藩士上陸の
地の側で幸せに
暮らしていま
す。斗南藩士達
の苦労がこの地
で実っているよ
うでとても嬉し
く思いました。
ーでは青森県出身の歌手・矢野顕
たそうです。自分の寿命をさとり
偶然にも今月七月七日に放映さ
れたNHKのファミリーヒストリ
斗南に残る石井家の方達と
覚えています。
と なみ
斗南に残った人々
そんな志のもとに再興された斗
南藩でしたが、下北半島は作物が
育ちにくい極寒の地で、最初の冬
から多くの藩士とその家族達が飢
えと寒さで次々と亡くなっていき
ました。そして二年後の廃藩置県
の後は、多くの藩士達が会津や東
京、北海道など全国各地に散って
いくことになります。
私のご先祖の石井家・樋
口家は青森に残留した少数
グループの一員でした。四
代前の先祖、石井勝吉は実
母の石井つる(旧姓・樋口)
と共に斗南藩に行き、一〇
歳にして斗南藩士として家
督を継ぎました。
後に、石井勝吉の次男で
ある勝世が、絶家した祖母
の実家である樋口家を再興
する事になります。
斗南磐梯と呼ばれた釜臥山
6
まほろばだより No.4349 16-125 9/2
よ う に 全 て に 感 謝 し て、 潔 く
私 も あ の 世 に 逝 く 時 は、 こ の
「 な よ 竹 の 歌 」 も そ う で す が、
の基盤ができた
も北海道で生活
たのか、それと
離れたくなかっ
自身が会津から
それかシンさん
の で し ょ う か、
ことを反対した
が北海道に行く
ですね。もしやシンさんのお父様
にも会津藩士の血が流れていたの
書 か れ て い た の を 読 ん だ 時、「 こ
来て、札幌で造園業を始めた、と
私は最初、宮下社長のご著書「倭
詩」の中で、先祖が会津若松から
を開拓することになるのです。
の北広島市輪厚)
に
「まほろば自然農園」
平成三 (一九九一年
) 、
その敷地内(現在
は下り、やがて子孫の宮下社長が
にて始め大成功を収めます。時代
造園業「蔵田喜芳園」を札幌の地
に圃場を構え、北海道で初めての
幌に移住。郊外の恵庭という場所
して下さいましたが、その解説の
永峰さんは、まるでブラタモリ
さながら、琴似町を事細かく説明
郷土史家の永峰貴さんに神社や屯田兵
長とご一緒に初めて琴似神社を訪れ、
らせていただきました。
そして宮下社
この六月、家族旅行で一年ぶり
に北海道を訪れ、
まほろばさんにも寄
屋が保存されています。
増祀され、境内には当時の屯田兵
である保科正之(土津霊神)が御
素晴らしい心境ですね。先にご
紹介した会津婦道精神を伝える
宇宙に帰りたいと思いました。
ら喜一朗さんは
れはきっとご先祖様は札幌の琴似
お上手な事! 元教師であったと
聞いて合点がいきました。そして
北の大地・北海道へ
斗南の白狼感謝して 天の川面に~
天駆け帰る
~白き虎(会津白虎隊)
シンさんを迎えに来るつもりだっ
に入植した会津藩士に違いない」
の戸籍からひしひしと感じる事が
の秀子さんに対する愛情だけはそ
もはや今となっては推測するし
か術はありませんが、喜一郎さん
た 明 治 八 年 よ り も 二 八 年 も 後 の、
に来たのも、会津藩士達が入植し
商人の家系で、曽祖父様が北海道
長は検断という会津藩お抱えの大
と思いました。結果として宮下社
峰さんこそ琴似に入植した会津藩
途中で分かったのですが、この永
だけは絶対に守る、必ず幸せにす
に飛び立ったのでしょう。この子
会津からさらに寒い北海道の大地
にもぐるぐる巻きにして、真冬の
に凍えないように暖かい布で何十
感じます。
導きとしか思えないようなご縁を
いるとの事、やはりご先祖様のお
所とした琴似神社の方も通われて
ろばには、会津藩士達が心の拠り
しかし現在「まほろば」のある
場所は琴似のすぐ側であり、まほ
明治三六年だという事が分かりま
できました。
した。
屋を案内していただきました。
たのでしょうか。
宮下社長のルーツ案内に戻りま
す。会津若松での最後の居住地は
「中六日町九十九番地」です。
今から約百十三年年前の、明治
三十六年二月宮下社長の曽祖父・
蔵田喜一郎さんはこの地から新
天 地 の 北 海 道 に 飛 び 立 ち ま し た。
喜一郎さんは、まだオムツも取
れていないような娘をしっかりと
ると誓って。
現在の琴似神社には、会津藩祖
その腕に抱いて、秀子さんが寒さ
北海道に渡った喜一郎さんは札
4
その
福島復興から日本の立て直し探訪
7 会津から近江そして倭へ
前 述 し た と お り、 そ の 腕 に は、
まだ一歳半の秀子さんがいまし
た。しかし何故かその母親である
シンさんの姿は北海道にはありま
せんでした。
戸籍や会津藩士の人名録による
と、シンさんはおそらく旧・会津
藩 士 の 大 塚 市 松 さ ん の 長 女 で す。
という事はやはりここで宮下社長
右から二人目が永峰貴さん
ており、食うや食わずの斗南藩時
われるほど師弟の教育に力を入れ
会津藩の藩校・日新館は当時全
国の藩校の中でも最高レベルと言
先祖様と一緒です。
ようで、まるで矢野顕子さんのご
見すると校長先生まで勤められた
士の末裔でありました。名刺を拝
福島県知事が下記の句を捧げてい
ます。後にそこを訪れた松平勇雄
地で亡くなった藩士の墓所もあり
ゆかり の
) 地は北
会津藩と縁 (
海道全域に渡り、宗谷岬にはその
たからです。
道の海岸線を防衛する任務に就い
に、幕府の命により会津藩が北海
船が北海道近海に進出してきた時
実は黒田清隆は薩摩人であった
ので、会津人にとっては憎き相手
から採ったと言われています。
開拓使の役人であった「黒田清隆」
の「田」の字は当時、
と命名します。黒川
川村、南側を山田村
余市川の北側を黒
た会津藩士達はまず
政府に対して入植者の保護を訴
だったのですが、黒田清隆は明治
村の「黒」と山田村
代にも真っ先に藩校を再興したほ
ます。
会津藩士の
~ たんぽぽや
どでした。なので、今でも藩士子
孫の方にお会いすると驚くほどご
先祖が教職に付いている確率が高
え、小樽で行き場を無くしていた
青森でも北海道でも、流された
北の地で子孫が続き、繁栄してい
の名前に採用したのです。
為、感謝の気持ちの表れとして村
墓はここ ~
る姿を見るのは本当に嬉しいもの
いのです。
です。一五〇年前はご先祖様が会
そんな会津人の気質を表す言葉
としてよく下記の「会津の三泣き」
会津藩士に力を尽くしてくれた
津 藩 で 検 断 を し て い た 宮 下 さ ん、
ように吹き去っていくような不思
百年の時が一陣の風に乗り、夢の
故郷であり、一昨年の朝の連続ド
です。宇宙飛行士・毛利衛さんの
余市は北海道の南西、積丹半島
の付け根にある人口二万人程の町
と仁義
会津人は人情
きゅうてき
に篤く、例え仇敵の薩
摩人であっても親切に
してくれれば恩義を感
じ、村の名前にまでし
てしまう、そんな純朴さを持って
いるのです。
さて明治八年、その黒田清隆は
入植者達にリンゴや梨、サクラン
ボなどの苗木を配布しました。会
津人たちは苦労の末、ついに四年
後、山田村にて日本で初めてのリ
ンゴを結実させました(青森が一
番で余市は二番目という説もあ
り)。そしてそのリンゴは緋衣(ひ
の こ ろ も、 ひ ご ろ も )」 と 命 名 さ
れたのです。
この名前は、会津藩主・松平容
保が幕末時に京都守護職を務めた
の御衣」の
折、孝明天皇から下賜された「緋
さ か ら、 よ そ 者 扱 い さ れ て
戦争の降伏
赤と、会津
二、しばらくすると、心の優しさ
毛氈の赤
調印式に敷
三、 最 後 に、 会 津 を 去 る 時 に は、
が、勤皇の
と、 底 知 れ ぬ 人 情 に 触 れ て
別 れ が つ ら く、 離 れ が た く
心を持ちな
かれた緋の
て泣く。
泣く。
泣く。
一、移り住む人は、閉鎖的で頑固
が引き合いに出されます。
議な気持ちになります。
ヰスキー株式会社の創業地として
余市と会津魂
藩士の家系だった永峰さんと私
が、平成の今、会津を接点として
遙か遠く札幌の町をそぞろ歩いて
ちょっと余談になりますが、実
は会津藩はもともと北海道ととて
登場しました。
いる。こういう時にはいつも、数
もご縁があります。それは江戸時
明治四年六月この地に入植し
ラマ「マッサン」では、ニッカウ
代にロシア帝国を初めとする外国
黒田清隆
8
まほろばだより No.4349 16-125 9/2
も取り上げられて、放映を見た時
このリンゴのエピソードは朝ド
ラ「 マ ッ サ ン( 九 四 話 )」 の 中 で
いわれています。
人の心に深く刻まれていたからと
がら逆賊の汚名を着せられた会津
を着せられ無理やり船に押し込
に変わって親父達は逆賊の汚名
親 父 は 会 津 の 侍 だ。 時 代 が 明 治
親父たちがここに来たのはその
八 年 前 の 明 治 四 年 だ、 俺 た ち の
前の事だ。
て実を付けた木だ、今から三五年
らさっさと内地へ帰れ」
とにかく生半可な気持ちではこ
こではやっていけない。分かった
ならないんだ。
もこの土地を守っていかなくては
いでこの大地に根付いたんだ。だ
生きたんだ。そして死にものぐる
になったのですよ。」
「 実 は 先 月 余 市 の 方 で 良 い 土 地
が見つかって、そこに入植する事
先日、宮下社長とお電話で話し
ていたところ、
でになっているのです。
ど上質のウイスキーを製造するま
からオラたちはどんな事があって
には驚きました。
め ら れ て こ の 北 海 道 に 流 さ れ た。
しかしウイスキーはなかなか売れ
ず蕎麦や豆を蒔いた。だけど熊は
親父達は刀を鍬に持ち替えて生
きるか死ぬかで土地さ耕して、ま
か?」
「 え え? 入 植 で す か? そ
して余市ってあの余市の事です
と聞かされました。
ず途方に暮れていたところ小樽で
出るキツネやウサギは出るやっと
(NHKドラマ『マッサン』より)
会津人の森野熊虎と出会い余市に
実った作物を夜中に鹿が喰っちま
主人公のマッサンはウイスキー
の 営 業 で 北 海 道 に や っ て き ま す。
連れていかれます。マッサンは余
か良い場所がなくて、それが先月
「 そ う な ん で す よ。 ず っ と あ ち
こち探していたのですが、なかな
つあまの手はいつも豆だらけ、お
思いがけず見つかって、バタバタ
う。まさに自然との闘いだ。父っ
ある事を発見し、余市にウイスキ
っかあの手は赤ぎれだらけだった。
市がウイスキー造りに最適な地で
ー工場を造ろうと奔走し始めま
と決まったんです。」
す。
やがて開拓使からリンゴの苗木
が配られた。親父達はワラにもす
人は、あるリンゴの木の前にマッ
て欲しいと頼むと、その農家の主
北海道に渡ってきたので話を聞い
そして余市のリンゴ農家の主人
に、自分はそれなりの覚悟をして
それは親父達が会津の魂、武士の
何でそこまで我慢できたと思う。
てた。四年目にやっと実が成った。
もないリンゴの木を植え必至で育
がる気持ちで見たことも食った事
いウイスキー工場を建設し、やが
達の協力のもと、余市に素晴らし
その後はご存じの通り、マッサ
ンは会津人を初めとする現地の人
を突き付けられたのでした。
マッサンはこの大地で生きる人
達の思いに触れ、改めてその覚悟
ですねえ」
「 そ う で し た か ……。 北 海 道 も
広いのに。よりによって余市なん
「 そ れ で 札 幌 の 自 宅 か ら 余 市 ま
で通って行くのですか?」
サンを連れて行き、先祖の話を始
誇りを捨てなかったからだ。お前
て余市や日本の産業に大きく貢献
場スコットランドにも負けないく
していきます。そして現代では本
郡なんですよ……。」
うところなんですが、そこも余市
す。」
会津だけじゃない、北海道には
日本中から大勢の人が移り住み厳
らい、世界の愛好家達も認めるほ
4
その
福島復興から日本の立て直し探訪
9 会津から近江そして倭へ
「 い え い え、 家 も 買 っ た の で、
徐々に拠点を移していくと思いま
めました。
にそこまでの覚悟があるか? あ
しい自然と向き合って自然と共に
んのか
「そうなんですよ(笑)。正確に
は余市町の隣町にある仁木町とい
「 覚 悟? こ こ が こ れ だ け の 町
になるのに何年かかったか、俺た
ちの親父がどんな苦労をしたか知
ってっか? この木は日本で初め
?!
えてくれる。
自 然 は 容 赦 な く 変 化 し、 成 長 し、 鍛
る休みのない毎日。
ら 晩 ま で、 ハ ー ド な 労 働 に 明 け 暮 れ
だ が、 か つ て し た こ と の な い 早 朝 か
と言う。
老 体 に は、 適 度 な 運 動 と 休 息 が 必 要
本格的な農業経験のないまま、突入。
て零からの出発。
だ が、 こ れ か ら 壮 大 な 大 地 に 向 か っ
作るために……。
そ し て、 誰 に も 作 れ な い キ ャ ベ ツ を
を過ごしている。
誰でも作るキャベツを、作るべき日々
ことを、あえて選んだ。
し か し、 あ な た が い な く て も 出 来 る
誰でも作れるでしょう。
あ な た が キ ャ ベ ツ を 作 ら な く て も、
るべき。世間は、そういうであろう。
あなたでなければ出来ないことを、や
何か違うような気がしていた。
第三の人生は、原点に立ち帰り、
農業を志すことに決めました。
……。
まほろばの真実なような気がする
ここで、大地を一人耕している方が、
げを伸ばすより、
ま ほ ろ ば の 店 を 拡 げ る よ り、 売 り 上
本当に、これからも解るのかな……。
……。
何 に も 俺、 解 っ ち ゃ い な か っ た な
一からの開墾生活に入るという
事にも本当に驚きましたが、宮下
ろば創業三二周年のご挨拶・土に
誰 が、 驚 こ う が、 体 が 一 番 驚 い て い
ク タ ク タ に 疲 れ た 体、 風 呂 に 入 る 心
七月に宮下社長が書かれた「まほ
まほろばのお客様なら既にお読
みになったとは思いますが、この
ようとされていたのでした。
と深い縁のある、この余市で始め
社長と奥様は、第三の人生を会津
帰る」を、今一度ご紹介させて下
るだろう。
今 は、 妻 と 次 男 の 三 人 で、 人 口
3000人ほどの小さな町で野菜
さい。
空を見上げれば、碧空。何もない。
大地に立つ
て来れた。
晴 れ て「 ま ほ ろ ば 」 の 始 ま り に 帰 っ
そして、今年5月。
ったのだ。
で も、 今 は 朝 か ら 晩 ま で、 家 族 の 顔
物物物………。
今 ま で は、 周 り は 人 人 人、 事 事 事、
ったな………。
言 葉 だ け で、 本 当 は 分 か っ て い な か
何時からか、掲げた「小国寡民」。
70
余市へは私も先祖探しを始めた
翌年の、二〇〇六年秋に訪れまし
まほろば主人
を作っています。
家族との会話の安らぎ、
地よさ、飯の旨さ、
内と二人で帰郷した時、
布団に入ると泥のように眠る。
年 前、 内 地 か ら 家
「農業をやりたい!」のハズだった。
心には、何も残んなくなった。
思 い 起 こ せ ば、
だ が、 何 も か も 無 い 無 い 尽 く し で、
そ の ま ま、 あ の 世 に 行 き そ う な 感 じ
ポカーンとするようになった。
なかった。
だ。人間って、こんなだったのだ。
最も身近な自然食品店からやるしか
それが、「まほろば」の始まり。
ここに立っていることの不思議。
その立脚点に立てたのだ。
今さらながら思う、遅きに失した私。
一 陣 の 風 さ え、 そ の 答 え を 教 え て く
「まほろば」がここまで育ち、
しかいない。
年以上も費やしてしま
れない。
充 分 力 も、 余 力 も 付 き、 ど ん な こ と
あぁ、これ以上少ない民は無いよナ。
その前提に
だが、居ることで風になってゆく。
さえも開ける気に充ちている。
小っちゃい国もない。
歳 と い え ば、 引 退、 隠 居 の
普 通 な ら、 経 営 者 な ら、 拡 大 す る で
老子は、ここを言ってたのか。
歳、
時節。
あろう。
って。
一線を引いて、悠々自適か、道楽か、
った。
平 和 っ て、 小 さ な と こ ろ に あ る ん だ
土に帰る
33
し か し、 あ え て、 そ の 道 を 選 ば な か
30
奉仕か……余生を楽しむ。
65
10
まほろばだより No.4349 16-125 9/2
は会津藩士の共同
た。町の丘の上に
来を作る為に後世に伝
ではなく、より良い未
事を、恩讐を伝える為
だ。人間って、こんなだったのだ。
そのまま、あの世に行きそうな感じ
で歩き続けたいと思います。
空を見上げ、宇宙に帰るその日ま
すべ
墓地があり、高台
ろうか等々…。様々な
さく、無力感に苛まれる時も多々
れが何よりの先祖供養であり、世
界をより良くする一ピースとなれ
るのでは……。
命を与えてくれた大地と先祖に
感謝して、昼は紺碧の空の下で大
地を耕し一家の食べる分のお米や
野菜を作る。夕方は小さくても我
が家に通じる確かな道を辿り、美
味しい食事を食べ温かな湯に浸か
次回は宮下社長の尊崇するご先
祖さまの一人、会津藩教学の祖・
横田三友俊益の人生を中心に、会
津の町並みと歴史をご紹介したい
と思っています。
それでは残暑厳しき折、どうぞ
皆様くれぐれもご自愛くださいま
せ。
天の星空を仰ぎながら眠りにつ
笑みも涙も
天駆け帰る天の川
~いつの日か
く。
まだまだ探訪の旅は続いて
い ま す。 も し か し て 本 当 に 解
大橋しのぶ
二〇一六年八月八日
星のまたたき~
地よさ、飯の旨さ、
る日は来ないのかもしれませ
能性を与えていただきました。
に、 一 つ の 道 標 と 未 来 へ の 可
この夏は宮下社長の第三の人生
の 日 に な る か は 分 か り ま せ ん が。
家族の理解や協力も必要な事な
ので、実現できるのか、またいつ
る。そして夜は天の川が見える満
最後までお読み下さいましてあ
りがとうございました。
え て い く 術は な い の だ
川村、山田村を一
事を会津のルーツ探し
探 し で し た が、 も う そ の 頃 に は、
そう、もし私が心から満ち足り
てこんな人生を歩めたらなら、そ
からは余市川や黒
望のもとに見渡す
をきっかけに真剣に考
え始めるようになりま
事 が で き ま し た。
会津人達が苦労し
した。二〇一一年に同
じ福島で原発事故の悲
て開墾した北の大
地です。
に……。
問題があまりに大きすぎて、一人
劇が起こってからは更
もともとは予想
以上に悲惨だった
会 津 戦 争 と 斗 南 藩 の 歴 史 を 知 り、
の人間ができる事はあまりにも小
武士道を持ち強く誇り高く生きた
あります。
さいな
先祖供養の気持ちで始めたルーツ
ご先祖様達の生き様に、逆に教え
で仰ぎながら、再び自分に問いか
でもこの夏は、都心からは見え
ない天の川を何度も何度も心の中
られ支えられるようになっていま
した。
「土に帰る」を読ませていただき
け続けました。そして宮下社長の
幕末の歴史は悲劇ではあったけ
れど会津魂を貫いたご先祖様達は
ました。
家族との会話の安らぎ、
クタクタに疲れた体、風呂に入る心
きっともう誇り高く潔く成仏して
いるはず。それならば本当の先祖
供養ってなんだろう、そもそもど
うしてこんな悲劇が歴史には数多
な が ら …、 大 地 に 足 を 付 け 星
索 し な が ら、 笑 い な が ら 泣 き
ん。 そ れ で も、 迷 い な が ら 模
は、何も残んなくなった。ポカーン
布団に入ると泥のように眠る。心に
こんな悲劇を繰り返さない道とい
とするようになった。
く存在しているのか、また二度と
うものはこの世にはないのだろう
か。そしてこういう歴史があった
4
その
福島復興から日本の立て直し探訪
11 会津から近江そして倭へ
熊本地震
鬼官兵衛記念館・興梠館長からの
続報&義援金寄付情報
※先月、鬼官兵衛記念館・興梠館長から追伸のお手紙をいただきま
した。元読売新聞記者の田川さんという方が危険を冒し、徒歩で現
地の様子を見て来てくれたそうです。佐川官兵衛の顕彰碑は左下の
写真のとおり、地震で粉々に破損していたそうです。
もしも、特に「南阿蘇村」へ義援金を寄付したという方がいらっ
しゃいましたら、佐川官兵衛顕彰会事務局や会津武家屋敷でも義援
金の募集をしておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
下記に会津武家屋敷HPからの情報を転載いたします。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
平成28年熊本地震の被災地「南阿蘇村」への
義援金のお願い 去る4月14日以降に発生した地震により、熊本県の多くの自治体で災害
が発生し、その被害は甚大となっており、未だに地震が収束する状況には至っ
ておりません。まずは、被災された皆様にお見舞い申し上げますとともに、
一日も早い復興がされますことを心よりお祈り申し上げます。
旧会津藩家老・佐川官兵衛の終焉の地である南阿蘇村でも今回の地震によ
り被災し、多くの村民の方々が不自由な生活を強いられ、復旧もままならな
い状況となっております。南阿蘇村は佐川官兵衛が明治十年の西南戦争の際
に新政府の警視隊副指揮長として熊本県下に出征し、軍事的要衝・旧白水村
に本陣をおき、数日の滞在後に進軍、旧長陽村黒川に於いて薩摩軍と遭遇し、
その銃弾に仆れた場所です。
南阿蘇村では、生前の官兵衛が部下の規律を徹底し、村人にも親しくに接
したため、人々から慕われ、彼の死後、官兵衛を偲ぶための石碑が村人たち
の手によって村内に多く建てられ、現在でも彼の治績が顕彰され、語り継が
れております。
また平成十三年には官兵衛が討死した場所の阿蘇の石の寄贈を受けて、会
津で初めてとなる佐川官兵衛の顕彰碑が建立され、以来、会津若松市と南阿
蘇村は官兵衛が取りなす自治体として官民ともに交流を続けてきました。
この度、佐川官兵衛顕彰会は、この縁ある南阿蘇村において被災された方々
の支援と、地域の早期復旧の一助となればとの目的で義援金を募集すること
といたしました。何卒、被災地・南阿蘇村の状況をご賢察の上、皆様の温か
いご協力を頂きたくお願い申し上げます。
平成28年5月 佐川官兵衛顕彰会会長 菅家一郎
尚、義援金は直接、佐川官兵衛顕彰会事務局 会津武家屋敷にお持ちになる
か下記口座までお振込み下さい。 東邦銀行 会津若松市役所支店
普通 104045
佐川官兵衛顕彰会 事務局長 岩渕忠清
義援金追加情報(佐川官兵衛顕彰碑 再建基金)
●著者プロフィール 大橋 しのぶ
もしも特に「佐川官兵衛顕彰碑の再建」の為にご寄附を寄せて下さる方は、
下記の口座にお願い致します。こちらの方にご寄附いただ いた場合は、お名
前が礎石の台座に刻銘されるそうです。 締切は 11 月末日で、来年の 4 月の
再建に向け準備中との事です。
ゆうちょ銀行 記号 01720 - 9
口座番号 167637
寺田本家 23 代目当主故・寺田啓佐さんとの出会いにより、蔵の微生物
加入者 名 熊本 佐川官兵衛顕彰会
をテーマにした小説を書き、小冊子を発行することに。ペンネームで発
表した小冊子作品は 5 作になる。2015 年、まほろば社長宮下周平と共
にルーツ探しの旅の案内人として同行。神奈川県在住。
まほろばだより No.4349 16-125 9/2
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