「東京人 2016年10月号」<Close up Tokyo, Books本

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持 ち の表 明 で は な か った だ ろ う か 。 憲 法
を も って 理 解 で き る か 、 共 感 で き る お 気
真 摯 な 御 言 葉 は 、 ほ と ん ど の国 民 が 実 感
記 ﹄ は 、 ま さ に時 宜 を 得 た 歴 史 的 証 言 の
き た前 侍 従 長 の川島裕 氏 によ る ﹃
随行
そ の意 味 で も 、 天 皇 陛 下 に 日 夜 仕 え て
集 大 成 と し ても 理 解 す べ き だ か ら であ る 。
られてきた、象徴天皇のお仕事の基礎に
に規 定 さ れ た 象 徴 と し て の お 立 場 を 忘 れ
書 と い つて よ い。 川 島 氏 の筆 を 通 し て浮
ぼ え た 。 今 回 の お 話 は 、 日本 史 で初 め て
ず に 、 人 間 天 皇 の 心 の内 面 を 率 直 に 語 ら
か び 上 が る 天 皇 ・皇 后 両 陛 下 の お 考 え と
御 信 念 と は 、 次 の よ う に ま と め る こと も
れ た 御 言 葉 は 、 ま さ に 歴 史 に 残 る ﹁記
録 ﹂ に な るだ ろ う 。
第 一に 、 憲 法 と 平 和 主 義 への義 務 感 と
でき よ う 。
成 二十 一
こ 年 三月十 六 日 の、東 北地 方 太
国 際 協 調 への責 任 感 に ほ か な ら な い。 こ
私 は 、 日 本 国 民 と し て 、 三〇 一 一 ︵
平
平 洋 沖 震 災 直 後 に お 出 し にな ら れ た ビ デ
れ は 両 陛 下 が 一体 と な って お つく り に な
日本や熊本の震災犠牲者 への御見舞と御
慰藉は、身体障害者など ﹁
弱者﹂への思
いやりとともに、時間をおかけになって
第二に、国民各層に対する公平な御姿
勢である。
国民の総意としての国民統
合の象徴たる天皇陛下は、誰に対しても
公平であることを心掛けられてきた。政
治家の基準に従って、重要な国だから大
事にするい重要な人物だから特別扱いす
るといった区別をなさらない。
第二に、思いやりと慈しみのお心であ
る。戦没者や犠牲者の慰霊と鎮魂や、東
二〇 〓 ハ 李 成 二十八︶年 八 月 八 日 の 天
山肉昌之
なっている。
明治大学特任教授 ,国 際関係史
象 徴 天 皇 と は 何 か と いう こと を 、 常 に お
川島 裕/支藝春秋/2700円
皇 陛 下 の御 言 葉 に感 銘 し た 国 民 は 多 い。
随行記
考 え に な ら れ て き た 天 皇 陛 下 の御 思 索 の
天皇皇后両陛下 にお供 して
二十 八 年 間 に わ た る 御 在 位 に つ い て の
前侍従 長による歴史 的証言。
寇
_
叫
お
オ メ ッセ ー ジ に 匹 敵 す る 感 動 と 緊 張 を お
作 ってこられた天皇陛下を象徴たらしめ
る不可欠な要素である。
第四に、神話や伝承の時代から二千七
百年ほどの古い歴史を誇る、天皇家の威
厳ともいうべきものである。他者に対す
る温かさと同時に、御自分 への厳しい課
題の設定は、長い皇統を受け継ぎ宮中祭
祀を絶やさない皇室の長たる所以でもあ
る。
川島氏によれば、天皇陛下が御見舞を
される場合、悲しみの ﹁
気﹂を御心の中
に抱いたままに、その後の生活を続けて
おられるという。被災者の悲しみを、経
験しなかった者が理解できるのかという
畏れにも似た ﹁
控えた気持ち﹂が、常に
おありになるようだと述べる。﹁
慣れる
ということの決して出来ない辛いお仕事
を、それでも、そこに行 って、その人た
ちの側にあることをご自分方の役割とし
。
てなさっているように拝察している﹂
かつて天皇陛下は、﹁
象徴とはどうあ
るべきかということはいつも私の念頭を
離れず、その望ましい在り方を求めて今
日に至っています﹂と述べられた。川島
氏は、被災者 へお心を寄せ続けられる御
様子について、﹁
象徴天皇制の定義付け
という歴史の歯車が動いている﹂のを実
感したと述べている。前侍従長ならでは
の味わい深い言というべきだろう。●
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OCЮ BER 2016東 京 人
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