魔王討伐したあと、目立ちたくないのでギルド

魔王討伐したあと、目立ちたくないのでギルドマスター
になった
とーわ
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︻小説タイトル︼
魔王討伐したあと、目立ちたくないのでギルドマスターになった
︻Nコード︼
N9565DJ
︻作者名︼
とーわ
︻あらすじ︼
アルベイン王国に突如として現れた、千年に一度の才能を持つ﹃
奇跡の子供たち﹄。彼らは十歳前後にして、並みの冒険者では何十
年かけても到達できない冒険者強度十万越えを達成する才能の持ち
主だった。魔王討伐隊を結成した彼らはたった5人でいともあっさ
り魔王を負かし、王国に平和を取り戻す。
彼らの中の五人目、最も器用貧乏なディック・シルバーは、魔王を
1
討伐したあといかに目立たずに自分のやりたいことをやるかを考え
た結果、魔王討伐の褒美として場末の酒場にしか見えないギルドハ
ウスをもらい、欠番だった王国で12番目のギルドマスターの座に
就任する。
自らが表舞台に立たずに最大の利益を得るため、彼が5年をかけて
辿り着いた究極のスタイルとは、自分は動かずにあくまで相談役と
して酒場に常駐するというものだった。
今日もただの常連客と見せかけて、ギルドに併設された酒場のカウ
ンターで飲んだくれるディックのもとに、婚約破棄を望む姫君が訪
れる︱︱。
2
プロローグ 忘却の五人目
﹁自分が魔王を倒す勇者になれたら﹂と思うことは、誰でも一度
くらいはあるだろう。
クジ
しかしそれは、宝籤を引いて一等を当てるくらいに難しい。
魔王のところに誰よりも早くたどり着き、魔王を倒して無事に帰
らなくてはいけない。わりと魔王がいる場所はハードな環境だから、
帰る途中に死んでしまって、死後に英雄になるやつもいる。
例え無事に帰れたとしても、魔王を倒した勇者は、魔王以上の力
を持っているわけだから、勝手に恐れる奴らも出てくる。
魔王を倒した勇者と認められ、栄華の極みを手に入れたとしても、
うまく立ち回らないとあとが面倒だ。
それならば、どうすればいいのか。俺は魔王を倒す前から、そん
な心配ばかりをしていた。
臆病と言われようが、せっかく魔王討伐の一行に加われたのだか
ら、できるだけリスクを減らして大きなリターンが欲しいに決まっ
ている。
栄華の極みなんてものは必要ない。俺はひっそりと目立たず、欲
しいものを手に入れられればそれでいい。
そのためには魔王を討伐するまでの過程においても、花型となる
3
前衛などはやらずに、後衛に徹するべきだ。むしろアドバイザーく
らいがちょうどいい。
︱︱俺は決して勇者パーティの一員などではなく、勇者が魔王を
倒すために協力しただけの、傍観者になりたい。魔王を倒すまで、
そう思い続けていた。
◆◇◆
魔王を倒すために必要な強さとは、端的に言ってしまえば、冒険
者ギルドでSSSランクと認められる強さがあればよい。
このグランガルムという世界、アルベイン王国においては、ギル
ドに所属する冒険者の強さを厳正に測ることができる。体力、魔力、
持っている技術、その他人脈などを加味して強さを﹃冒険者強度﹄
として数値化し、それが10万を超えている人間ならば、SSSラ
ンクの冒険者と認められるという寸法だ。
若くしてそんな力を持っている人間は滅多に現れないし、王国の
歴史の中で、SSSランクが数年間空席ということも珍しくなかっ
た。
しかし、俺たちの世代は例外だった。﹃求む! 魔王討伐﹄とい
う名目で出された依頼に応募してきた弱冠十歳前後の少年少女、そ
の﹃奇跡の子どもたち﹄は、それぞれに神が与えたとしか言いよう
のないありあまる天賦を持って生まれ、その才を磨き、純粋な強さ
だけでギルド基準における強度10万を達成していたのだ。
彼ら奇跡の五人には、その個性に応じて二つ名がついている。
4
﹃輝ける光剣・コーディ﹄
﹃可憐なる災厄・ミラルカ﹄
﹃沈黙の鎮魂者・ユマ﹄
﹃妖艶にして鬼神・アイリーン﹄
そして俺︱︱一応強度10万を超えているが、影の薄い存在であ
った俺は、﹃忘却のなんとか﹄と呼ばれていた。二つ名をつけよう
と思ったなら調べるくらいしてほしいのだが、俺の名はディック・
シルバーという。
そんな強度10万超えの驚異的ルーキーだった彼らだが、わかり
やすい弱点があった。
それは、脳筋であるということだ。全員が全員、天然で強すぎる
がゆえに、勝つための作戦を考えるということを苦手としていたの
だ。
コーディはどんな厄介な特殊攻撃を持っている相手でも、名乗り
を上げてからでないと剣を交えないという馬鹿正直な少年だった。
他の三人の少女たちも、並みの男では近づく前に腰を抜かすレベル
の強さなのだが、それぞれ性格に難があり、最初は魔王討伐隊を結
成しても、まるでパーティとしての機能を成さなかった。
そんなパーティを統括する役割を与えられたのが、四人とバラン
ス良く付き合うことのできた俺である。
他の四人に策を与え、その力を生かす。自分は先陣切って戦わず、
ほかの四人を戦わせて楽をしていた︱︱と言えなくもない。実際、
俺は近接戦闘ではコーディとアイリーンには勝てないし、攻撃魔法・
神聖魔法においてはミラルカとユマには及ばない。それゆえに、適
材適所であったとはいえる。俺の能力値は、﹃奇跡の子どもたち﹄
の中においては器用貧乏であったと言っていい。
5
そんなこんなで、俺は4人の仲間たちを指揮して、あっさりと魔
王の元にたどり着いた。
ミラルカは得意の殲滅魔法で魔王を攻め立て、ユマは魔王が呼び
出す死霊を片っ端から鎮魂して天国に送り、アイリーンは﹃鬼神﹄
に変化して魔王を肉弾戦で圧倒し︱︱最後はコーディが光剣で魔王
を討った。
俺は彼らに作戦を指示し、能力強化の魔法をかけてやり、あとは
ハイプリースト
戦いを傍観していた。みんな個人の戦闘力は図抜けているが、他人
をバックアップする能力を全く持たない。鎮魂の力を持つ上位僧侶
のユマですら、回復や防御の魔法を習得していないというありさま
だった。魔王もさるもので、まともに当たればSSSランク冒険者
の手足を吹き飛ばすくらいの攻撃を持っていたから、俺の強化魔法
をかけないと死人が出ていたかもしれない。まあ、そうならなかっ
たので良しとしよう。
あくまでバックアップに徹した俺は自分の影が薄いことを気にし
てはいたが、それは狙っていたことでもあった。魔王討伐隊の末席
にいたという事実によってある程度の功績を得られるが、俺がどん
なふうに貢献したかなどは、決して広く知られたくない。﹃みんな
を強化して補助した﹄と伝わろうが、後ろで応援していたのだな、
としか思わない人間は多いだろうと考えたわけだ。
﹁くっ⋮⋮私に膝をつかせるとは。人間よ、その力を認めよう﹂
﹁本当か? もう、悪さをしないと約束するのなら、ここは見逃し
てやろう。二度と人間を脅かさないよう、魔王の領地から出ること
は許さない﹂
﹁領地をそのまま残すというのか⋮⋮? 甘い男だ。それとも魔物
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が踏み荒らした地など必要ないか﹂
﹁誰にだって生きていくために必要な場所がある。僕はそう思うだ
けだ﹂
コーディは血まみれになって死闘を演じていたというのに、そん
なことを爽やかに言った。俺としては早く出血を何とかしろと言い
たいが、回復できるやつが俺しかいない。できれば魔王の城に来る
ヒールライト
までの道中で、回復専門のメンバーを参入させておきたかった︱︱
というのは今は置いておこう。﹃癒しの光﹄を詠唱し、コーディを
さりげなく回復してやる。
﹁ふん⋮⋮人間よ、今は貴様らに屈しても、光あるところに必ず闇
が生まれ、必ずや魔の力が再び人間の世界を覆い尽くして⋮⋮﹂
﹁そういうのいいから。魔王を倒した証拠になるものを渡しなさい。
そうじゃないと、身ぐるみを剥がして持って行くわよ﹂
﹁ひぃっ⋮⋮!﹂
﹃可憐なる災厄﹄と呼ばれるだけあって、ミラルカは脅し文句を
言っている姿すら可憐である。まったくくせのない金色の髪に、意
志の強い大きな瞳。まだ11歳で、俺より2つ年下だが、彼女はま
ったく意に介していない︱︱自分の容姿と実力に、絶対の自信を持
っているので、年齢差は関係ないとは本人の弁だ。
その性格は見てのとおり苛烈で、わりと容赦がない。肌の黒い美
女︱︱ダークエルフに近い姿をしている魔王の服を引っ張って剥ぎ
取ろうとするので、魔王が悲鳴を上げていた。
﹁魔王の魂ってどんなふうなのか、鎮魂してみたかったんですけど
⋮⋮ちょっぴり残念ですね﹂
﹁そ、それは⋮⋮殺生が前提になってるぞ。僧侶が言うことじゃな
いだろ﹂
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﹁ええ、どうしてですか? 私はこの世全ての魂を慰めてさしあげ
たいんです。ディックさんの魂も⋮⋮﹂
ユマはクレイジーサイコプリーストのように見えるが、単に﹃鎮
魂フェチ﹄なだけである。この天才僧侶はまだ9歳で、俺たちのパ
ーティの中で最年少だが、幼くして何をどうこじらせたのか今でも
気になるところではある。﹁僧侶とはそういうものです﹂と言って
いたが、違う気がしてならない。
﹁ねー、それでどうするの? 魔王を倒したって証拠は⋮⋮その首
にかかってるペンダントとか?﹂
待ちくたびれたという顔で、赤髪の武闘家少女︱︱アイリーンが
言う。人間と鬼族のハーフである彼女は、人間より成長が早く、1
2歳にしてすでに大人のようなスタイルをしている。自ら﹁ばいん
ばいん﹂と称する胸は、二十才前後の容姿をしている魔王と比べて
も遜色が無い豊かさで、俺の少年心を時折惑わしてくれる⋮⋮とそ
れはさておき。
コーディは魔王の首元を見て、ペンダントを見つける。その顔が
目に見えて赤くなり、挙動がおかしくなった。
﹁ぺ、ペンダントか⋮⋮ディック、取ってくれ﹂
﹁何をびびってるんだ、お前は⋮⋮むっ⋮⋮?﹂
魔王はボンデージみたいな衣装を着ていて、バストの上部分が覆
われていない。その豊満な谷間に、ペンダントが入り込んでいた。
コーディは女性に全く免疫がない︱︱といっても、13歳という
年齢からいって普通といえば普通なのだが、女性の色気というのに
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非常に弱い。一方俺は、この胸に熱くたぎる気持ちを抱いているの
で、胸の谷間からペンダントをサルベージすることなど、わりと進
んでやらせてもらいたい側の人間だった。
﹁んっ⋮⋮そ、その護符を奪うというのか⋮⋮それがなくては、私
の属性耐性や、自動回復能力などがなくなってしまうではないか⋮
⋮並みの人間が装備すると呪われるし、持っているだけで生命を吸
われるがな⋮⋮﹂
﹁ほう⋮⋮それはなかなか⋮⋮﹂
魔王が解説してくれる間も、俺はするするとヒモを引っ張ってい
く︱︱すると、金の飾りが出てきた。魔法陣を象ったような簡素な
ものだが、溢れる魔力は尋常ではない。
﹁そんなエッチな目で魔王を見るなんて最低⋮⋮この変態。変態デ
ィック﹂
﹁あはは、ミラルカヤキモチ焼いてる。心配しなくても、そのうち
大きくなるって。あたしみたいに♪﹂
﹁わ、わたしは、別に気にしてなんて⋮⋮﹂
ミラルカは俺を見ると、きっと睨みつけてからそっぽを向いてし
まった。黙っていれば可憐でも、彼女は男勝りで気が強い性格なの
だ︱︱もうすっかり慣れたが。
それよりも、今は護符だ。バストの谷間によって人肌︱︱もとい、
魔王肌のぬくもりが残ったこのペンダントを、外して持ち帰らなけ
れば。
﹁装備しなければ呪われないわけだし、魔王の護符はもらっていく
ぞ﹂
﹁む⋮⋮わ、わかった。おとなしくしていれば、返してもらえるの
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だな?﹂
﹁約束はできないけど、そうだな⋮⋮5年くらいしたら取りに来て
くれ。そのとき、まだ俺の言いつけを守ってたら、護符を返してや
る﹂
﹁⋮⋮まだ子供と侮っていたが、なかなかの胆力の持ち主だな。若
き勇者よ、名を何という?﹂
﹁さっきも言われてたけど、ディックだ。ディック・シルバー。忘
れてもいいが、できれば覚えててくれ。そうじゃないと護符を渡せ
ない﹂
俺は魔王の護符を受け取る︱︱並みの人間では呪われるというが、
俺の実力でもその力を抑えこむことができた。これを装備したら魔
王になれるのでは、と思わなくもないが、そんなことは目的として
いない。
︱︱そうだ、それと、もう一つ言うのを忘れていた。
﹁あと、俺は勇者じゃない。勇者はこのコーディだ。俺は、みんな
についてきただけだよ﹂
﹁っ⋮⋮そ、そのような⋮⋮なぜ、そこまで謙遜するのだ。どう見
ても、この一行の中心にいるのは⋮⋮﹂
俺は魔王の言葉を最後まで聞かずに、魔王城を後にした。生き残
っていた魔物たちは、俺たちを見ても、誰も手を出してくることは
なかった。
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プロローグ・2 それぞれの褒美
俺たちは魔王を討伐した証の﹃魔王の護符﹄を持ち帰り、国王陛
下から褒美を賜った。
コーディがもらったものは、アルベイン王国の騎士団長の位。
ミラルカがもらったものは、世界に数羽しかいないという幻の小
鳥。
ユマがもらったものは、身寄りの無い子どもを受け入れるための
孤児院。
アイリーンがもらったものは、﹃神酒﹄と呼ばれる希少な酒。
傍から見てそれでいいのかと思うようなものを選んだ者もいたが、
それぞれが満足して褒美を選んだ。
魔王の護符については持っているだけで生気を吸われてしまうよ
うな危険なものだから、その力を押さえ込める人物が預かることに
なった︱︱そこで俺が、捨て石のような顔をして申し出たら、預か
り役を任せてもらえた。そうでないと、王家の宝物庫に入った護符
を盗まなければ、魔王に返せなくなってしまう。
デメリットを抑え込む力があるなら、魔王の護符は強力な装備と
なる︱︱なんてことは隠匿していた。俺としては、手札は多く持っ
ておきたい方なのだ。使うことがあるかは分からなくても、カード
を集めるだけでも安心感が違ってくる。
それはそれとして、俺も魔王討伐隊の端くれということで、褒美
をもらえることになった。
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﹁ディック・シルバー。おまえはそれほどの勲功を上げなかったよ
うだが、勇者の一行と共に進み、魔王のもとにたどり着いたことは
確か。他の者のようになんでも叶えるというわけにはいかぬが、一
つ望みを申してみよ﹂
﹁っ⋮⋮国王陛下、それは訂正させてください。ディックは僕たち
にとって⋮⋮﹂
コーディは俺のサポートについて、恩義に感じてくれているよう
だった。ブラウンの髪と瞳を持つこのやたらと顔が整った少年は、
いつも柔和な笑みを絶やさずにいるのに、今は必死な顔をしている。
それは、俺のことを正当に評価するようにと言いたいからなのだろ
う。
﹁コーディ、気持ちは嬉しいが、俺はそこまでのことはしていない
よ﹂
ありがたい話ではあるが、俺は首を振った。国王だけではなく、
その側近たちも見ているここで、俺の能力が必要以上に高く評価さ
れてしまう事態は避けたい。
﹁ふむ⋮⋮しかし、魔王の護符を守る役目を請け負った件について
も、相応に報いなければなるまい﹂
﹁俺⋮⋮いえ、私はただついていっただけです。ついていくにもそ
れなりの能力は必要ですが、本当に、魔王のところに辿り着くだけ
で精一杯でした。護符の件も、私のような存在を知られていない者
が持っていれば、狙われることはないと考えただけです﹂
敬語を使う場とはいえ、﹁私﹂というのはあまり落ち着かない。
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それでも俺の言葉遣いは砕けているが、国王陛下は寛容だった。
﹁それでも、魔王討伐隊の一員であることには変わりない。謙遜す
るな、勇気ある少年よ﹂
ミラルカが不満そうに﹁ディックのウソつき﹂とつぶやく。ユマ
はいつものように微笑みながら、何も言わないが言いたそうにはし
ている。アイリーンは神酒が待ちきれないのか、そわそわと落ち着
きなく周囲を見回していた。
俺もそうだが、みんなまだ年若い。これから羽化するようにきれ
いになっていくのだろう。
惜しい気はするが、そんな彼女たちとも今日でお別れだ。俺たち
はあくまで、魔王討伐のためにパーティを組んだだけなのだから。
﹁魔王と直接刃を交えていないとはいえ、旅の道連れとして彼らを
支えたのであろう。さあ、今一度問う。望みを申してみよ﹂
﹁ありがたきお言葉です。私が賜りたいものは⋮⋮﹂
もう一度国王に問われた俺は、少し考えるそぶりをした。
本当はどうしたいかなんて、とうの昔に決めていた。
俺が選んだ、目立たずに最大の利益を得られる生き方︱︱それは。
﹁国王陛下に申し上げます。王都に、新しいギルドを作る許可をい
ただきたいのですが⋮⋮﹂
ギルドマスターとなり、自分は働かずに、冒険者を集めて功績を
上げさせる。
表舞台に出て目立つことがあるのはギルドの構成員たる冒険者で、
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俺は人を集め、育成や指導を主に行うという寸法だ。
SSSランクの冒険者が引退してギルドマスターになるなど、珍
しい話ではない︱︱もちろん資金やコネが必要だが、その辺りも国
王陛下に直談判すれば解決できる。
ここで大事なのは、トップギルドの立場を望まないことだ。トッ
プは目立ってしまう、それはよくない。
トップを狙わず、存在感を消しながら、その実態は︱︱所属する
冒険者と持ち込まれる依頼は、ともに最高級。
そんな状況を作るには、誰もが俺のギルドが優秀であることを秘
密にしつつ、希少な依頼を持つ人物に存在を知られるという仕組み
を作らなければならない。時間はかかるかもしれないが、仕込みさ
えうまくいけば、不可能ではないと俺は考えていた。
﹁ギルドマスター⋮⋮ディック、そんなことを考えていたの⋮⋮?﹂
﹁ギルドに集う冒険者の魂⋮⋮ああ、お鎮めしてさしあげたい⋮⋮﹂
﹁ふーん、面白そうなこと考えてるじゃん。ねえ、そのギルドって
あたしらも遊びに行っていいの?﹂
三人娘が好意的な反応を示しているが、それは置いておく。とき
どき遊びに来るくらいなら、俺の影のギルドマスターっぷりに支障
をきたすことはないだろう。俺以外はみんな有名なので、変装くら
いはしてほしいが。
﹁新たなギルドを作る⋮⋮か。わが国には12の冒険者ギルドがあ
るが、12番目のギルドの活動状況が芳しくなく、先月ギルドマス
ターを退去させている。そのギルドハウスをそのまま使うのであれ
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ば、ディックよ。おまえはすぐにでも、ギルドマスターとして活動
を始められる。それとも、新たなギルドハウスを望むか?﹂
﹁そのギルドハウスは、目立たない場所に建っていますか?﹂
﹁うむ、王都の12ある通りのうち、もっとも治安の悪い12番通
りにある。それも、経営が芳しくなかった理由の一つではあるのだ
が⋮⋮やはりやめておくか?﹂
王は何度も確認してくる。仮にも魔王討伐に同行した褒美だとい
うのに、中古で立地条件も悪いギルドハウスをもらいたがる奴がど
こにいる、と思うのは当然だろう。
しかし俺も腐っても冒険者強度100035なので、どれだけ治
安が悪かろうが関係ない。
そういう場所をひそかに訪ねてくる訳アリの人々だけを相手に、
秘密組織︱︱もとい、秘密裏に世界中から最高の依頼が集まるとい
う、俺の理想のギルドをつくるのだ。
実績が芳しくなくて潰れたギルドというのも、俺には都合がいい。
誰もそこに入った後釜が、たいそうな人物だなんて思いもしないわ
けだから。
﹁はい、そのギルドハウスでも身に余るほどです。ありがたく使わ
せていただきます﹂
﹁うむ⋮⋮少し気が引けるのだが、そこまで言うのならば良かろう。
謙遜しすぎではないかと儂は思うのだがな。やはり若いがゆえに、
大人とは望むものが違うということか﹂
端的に言うと、陛下は愛娘である姫を嫁にくれと言われなくて安
心しているようだった。そう言われたときのためだろうか、姫は俺
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たちがいる謁見の間にいつでも来られるようスタンバイしていた︱
︱それが空振りに終わった件について俺とコーディは謝罪しなくて
はなるまい。
◆◇◆
王との謁見が終わったあと、魔王を倒した勇者一行のためにパレ
ードが行われるというので、打ち合わせに呼ばれた︱︱しかし、コ
ーディを除いて誰もが出席を拒否して王城から退出してきてしまっ
た。
﹁君たちというやつは、本当に⋮⋮いや、もう旅に出るときから分
かっていたことか﹂
コーディは打ち合わせの前に時間をもらい、王城を離れようとす
る俺たちを追いかけてきた。
城門を出たところにある石橋の傍らで、俺たち五人はそれぞれの
ポーズで駄弁る。ミラルカは腕を組んで橋の欄干に背を預けており、
ユマは僧侶だからと地面に正座し、アイリーンは欄干の上に座る。
コーディは立ったまま、そして俺はガラの悪い座り方をしていた。
﹁魔王を倒したかったのは、フェアリーバードが欲しかったからよ。
それが手に入ったのだから、見世物にまでなるつもりはないわ﹂
﹁フェアリーバード、可愛らしい鳥さんですよね♪﹂
﹁ええ、鎮魂したいなんて言ったら頬をつまむわよ。ユマ、あなた
はそんなに幼いのに、さすがは大司教の娘ね。孤児院を営みたいな
んて、大人も顔負けの奉仕精神だわ﹂
﹁魔王を討伐するまでに通った町で、お腹をすかせた子供たちを多
く見ましたから。私、その子たちと約束していたんです。魔王を倒
したあかつきには、王都に来て私を頼ってくださいね、って﹂
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ほんとに9歳か、と言いたくなるが、俺も5歳から頭角を現して
いたので何とも言えない。
﹁⋮⋮ってか、俺、ユマが大司教の娘とか初めて聞いたんだが?﹂
﹁言わなかったもの。わたしもそうだけど、アイリーンも家のこと
は言ってないんでしょう?﹂
魔王討伐まで三ヶ月ほど一緒に旅をしただけで、俺たちはまだ理
解し合っていない︱︱まあ、仲間としては互いの事情を知りすぎな
いほうがちょうど良かったのかもしれないが。
﹁ねーディック、この神酒、大人になったら一緒に飲まない? 私、
見た目が大人だから大丈夫だと思ったのに、ギルドカードで12歳
ってわかったら飲むなって言われちゃった。16歳になるまでは、
寝かせておかないといけないんだよね﹂
﹁あ、ああ⋮⋮構わないけど。一つ言っておくが、俺のギルドハウ
スを訪ねてくるときは、正体が分からないように変装してくれよ。
みんなは有名人なんだからな﹂
﹁そんな面倒な気遣いを求められても困るわね。わたしは、わたし
のしたいようにするわ。指図しないで﹂
﹁お、おう⋮⋮﹂
ミラルカは自覚がないが、俺のギルドハウスを訪ねてくると言っ
てるようなものだった。冒険の間あれだけツンケンしてきた少女が、
俺に何の用があるというのか。
﹁せめて裏口から来てくれると助かるな。今の王都に﹃可憐なる災
厄﹄の名前を知らないやつはいないぞ﹂
﹁っ⋮⋮その名前で呼ばないでって言ったでしょう。殲滅魔法の美
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しさも理解できない愚民たちが勝手に災厄呼ばわりしていることに
は、本当に遺憾の意を覚えるわ﹂
﹁ミラルカはこれから、魔法大学⋮⋮じゃなくて、お父さんのとこ
ろで勉強するの?﹂
﹁え、ええ。そのつもりだけど⋮⋮﹂
ここに来てミラルカ、ユマの素性がなんとなくつかめてきた。ミ
ラルカはおそらく、王都にある魔法大学の教員の娘なのだろう。
コーディは冒険者の両親を持ち、その背中を見て育ったという。
4歳で親を追い抜いてしまった天才だが、今でも親のことは尊敬し
ているとよく言っていた。
﹁ああそうだ。コーディ、お前は強いが、一応言っとく。国のため
とか、そんな理由で死なないようにな﹂
﹁⋮⋮やはり君にはかなわないな。そう言うと嫌がられるだろうけ
ど、僕は君がそうやって忠告してくれるおかげで、ここまで生きの
びてこられた。そう思っているよ﹂
﹁お、おう⋮⋮いや、反応に困るから、あまり真面目に返さないで
くれ﹂
﹁ははは、ごめん。国のためには死なないが、自分の信念のために
なら死ぬかもしれない。剣士とは、そういう生き物だと僕は思う﹂
こういうセリフを真顔で言えるのも、勇者に必要な才能なのでは
ないか、とたまに思う。
﹁あ⋮⋮そろそろ戻らないといけないみたいだ。みんな、またいつ
かどこかで会おう﹂
﹁ええ。わたしたちが出ない分も、勇者として祭り上げられてくる
といいわ﹂
﹁コーディさん、頑張ってくださいね﹂
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コーディは城に戻っていく。そして残された俺たちは、しばらく
解散するでもなく、その場にとどまる。
﹁⋮⋮ね、ねえ。ディック、あなたはどこの生まれなの?﹂
﹁俺は田舎町の農家の息子だよ。どこの町かまでは、機密に相当す
るから漏らせないな﹂
﹁そ、そう⋮⋮じゃあ、これから、一度田舎に戻ったり⋮⋮﹂
﹁いや、俺には大勢兄貴がいるから。どのみち家を出る予定で出て
きたし、このまま王都で暮らすよ﹂
なにげなく答えたが、みんなの間に微妙な沈黙が流れる。俺はこ
ういう空気を読むのはわりと苦手だ︱︱それも慣れていかなければ
と思うところだが。
﹁ディックさん、ギルドハウスを見に行っていいですか? このま
まお別れするのはさみしいですから﹂
﹁あたしも今から帰るのはちょっとめんどいから、ディックのとこ
にお世話になろうかなー﹂
﹁⋮⋮わ、わたしも⋮⋮実家はすぐそこだし、ディックはすぐアイ
リーンをエッチな目で見るから、それを注意する意味でもついてい
くわ。監督役ね﹂
﹁あはは、男の子ってしょうがないよね。ばいんばいん、って言う
とディックったらすぐ喜んじゃって﹂
喜んでねーよ、とぶっきらぼうに言いたくなるが、俺は思っても
みなかった展開になり、微妙に安堵していた。
コーディには悪いが、ここで解散するのは、精神的に孤独という
ものを克服しているであろう俺でも、それなりにナーバスな気分だ
った。
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﹁じゃあ俺の隠れ家的ギルドハウスに行くか。みんな、行く前に変
装しろよ。俺はしなくてもいいけどな﹂
﹁また変なこだわりを⋮⋮そんな面倒なことを言っていると、婿の
貰い手がないわよ﹂
﹁あ、そういいつつも言うこと聞いてる。ミラルカってほんと、最
後にはディックの言うこと聞いちゃうよね﹂
﹁そ、そんなこと⋮⋮わたしはただ、子供のわがままを聞くくらい
の度量は持ち合わせているというだけよ﹂
﹁あはは、良かったです♪ やっぱり私たちはこうですよね、これ
からも♪﹂
鎮魂発言のないユマは普通に妹系の魅力を発揮しており、俺とし
ては肩車をしてやってもいい気分になったが、あまりにも浮かれす
ぎなのでやめておいた。
勇者パーティでなくなった俺たちだが、個人としてもこれから関
わっていける。せいぜい俺のギルドの発展のため、たまに協力して
もらうかとひねくれたことを考えつつも、純粋に嬉しいと思ってい
るのは確かだった。
︱︱こうして俺は、王都の12番通りにある、うらぶれたギルド
ハウスの主となった。
与えられた資金を元手にギルドを運営し、あくまで目立たず、俺
のギルドを世界中から冒険者と依頼が集まる場所にすることができ
るのか?
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その計画が軌道に乗り始めたのは、俺がギルドを設立してから五
年後のことであった。
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第1話 飲んだくれ男と美しき依頼者
エクスレア大陸北部に位置するアルベイン王国は、建国から二千
年の歴史を持っている。
国民は1000万人、王都アルヴィナスの人口は50万人。その
うち貴族は地方領主を含めて数百人しかおらず、国王を頂点に戴く。
騎士団長となったコーディの発言権は、貴族位における公爵に等
しい。曲がりなりにも勇者であるにも関わらず、冒険者上がりで貴
族に肩を並べた彼は、13歳のあの当時からわりと苦労をしたらし
い。
SSSランクの冒険者が国を一人で切り崩せるというのを、貴族
たちは知らない︱︱コーディは切れもせず、よく貴族たちのイビリ
に耐えたものだと思う。
彼は16になって酒が飲めるようになると、お忍びで俺のギルド
に来ては、ふだん一滴も口にしない酒を飲んで﹁貴族と軍人の間の
折衝で苦労している﹂とよく言っていた。俺はそのたびに言う、役
職を持つっていうのはそういうもんだと。
ギルドマスターも立派な役職だよ、とコーディは言う。俺は笑う、
俺はただここで酒を飲んでいるだけだと。
だが、こうして飲んだくれていられるのも、俺が作ったシステム
が見事に機能しているからだ。
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俺のギルド︱︱﹃銀の水瓶亭﹄以外に王都には11のギルドがあ
るが、現在そのうち7つはトップ・ギルドである﹃白の山羊亭﹄が
作った組合に加盟しており、相互に依頼を回されたり、冒険者を手
配したりという協力体制を取っている。
俺は組合には加盟せず、秘密主義を保っている。そうするために
前準備として、元は全てのギルドが加盟していた組合から、他のギ
ルドをいくつか脱退させるという工作を行った。そうすることで、
俺のギルドだけが独立しているという特異性は薄れさせることがで
きた。
自分のギルドの機密性を高めたあとは、﹃12番通りのギルドは、
他のギルドに持ち込めない依頼を受けてくれる﹄という都市伝説め
いた噂を流した。もちろん、その噂を聞いて真正面からやってくれ
ばいいわけではない。さらに詳しく調べると、俺のギルドに所属し
たい場合、もしくは依頼を持ち込みたい場合の﹃合言葉﹄を知るこ
とができる。
具体的にどういうことなのか、一例を紹介するとしよう。
◆◇◆
俺が十八歳になってから、三ヶ月ほど経った頃のこと。
ある日の昼下がり、俺はいつもと同じように、ギルドに併設され
た酒場のカウンターで、お気に入りの酒で喉をうるおしていた。
﹁ご主人様、いかがでしょうか。ボルゴーニュ地方で産出しました、
今季最高の白ブドウを用いた一級果実酒でございます﹂
23
カウンターの中にいる、メイド服のエルフの女性︱︱彼女は客が
いるときでもいないときでも、誰も聞いてないと思うとすぐに俺の
ことをご主人様と呼ぶ。呼ぶなと言っても聞かないので、そのたび
に訂正するのが面倒だった。
ちなみに今は客はいない。朝十時に開いたあと、付近住民が食事
を取りに来たりするが、昼下がりのこの時間帯は開店していても、
酒場には客は来ない。だが、ギルドとしてはいちおう客待ち・志望
者待ちをしてはいるわけだ。飲んでいればあちらから来てくれるの
で、俺としては別に退屈はしていない。
さておき、このメイドエルフには、ひとつ厳重に注意をしておか
なければなるまい。
﹁ご主人様じゃなくて、そこのお客様と呼んでくれ。そう呼ばない
と返事はできないぞ﹂
﹁そ、そんな⋮⋮では、お酔いになると、匂い立つ色気が出ていら
っしゃる、濡れた瞳が魅力的なお客様とお呼びすれば良いでしょう
か﹂
﹁どこまで俺を全力で褒めれば気が済むんだ⋮⋮濡れた瞳って褒め
言葉か? まあいいや。今度俺が指定する以外の呼び方をしたら、
お仕置きだぞ﹂
﹁っ⋮⋮は、はい。この卑しい雌犬に、どうか厳しいお躾けをいた
だければ⋮⋮っ﹂
期待の目で見るメイドの肉体は、控えめに言っても成熟しきった
たわわな果実のようである。スカートが短めなメイド服は王都では
邪道なのだが、彼女は俺の目を惹くためだけに身に着けている。
五年前とその体型にまったく変わりはないが、俺が知っている肌
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の色とは違い、白い肌なので普通のエルフに見える。ダークエルフ
が王都を歩いていたら大騒ぎになるので、彼女なりに秩序を重んじ
た結果というか、少し前に再会したときにはすでに普通のエルフっ
ぽくなっていた。
﹁一つ覚えておくといい。男はな、追われると逃げるもんなんだ。
押してダメなら引いてみろって言うだろ?﹂
﹁むぅ⋮⋮﹂
メイドが不服そうにする。ご主人様と言ってるわりに﹁むぅ﹂と
は、不遜なメイドである。
しかし、それは無理もない。彼女のメイド服は形だけで、実際は
俺のメイドではないのだから。
メイド姿のエルフはすぅ、と息を吸い込む。彼女の中での切り替
えの儀式というやつだろう。
﹁そうは言うがな、私は5年も待ったのだぞ。ご主人様が言ったの
ではないか、5年後に護符を返してやると。私はこうして、護符を
返してもらうためにご主人様への忠誠を態度で示している。他に何
が足りないというのだ﹂
ガラリと口調が変わるメイド︱︱そう、彼女はお忍びで王都にや
ってきている魔王である。
俺の隠れ家的ギルドハウスに一ヶ月前から転がり込んできて、ど
こでそんな知識を得たのか勝手にメイド服を調達してきて、あげく
ギルド酒場のカウンターで働き始めてしまった。酒のブレンドや、
つまみを作るなどの段取りの覚えがやたらと早く、今ではベテラン
店員のような空気を醸し出している。
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紫の髪に黒褐色の肌だった魔王は、今では白い肌に亜麻色の髪を
持つエルフとなっている。魔法で偽装しなければ元の髪と肌に戻る
のだが。
﹁私の国のことなら心配するな、弟に任せてきたからな。弟は私の
言うことを聞く良い子なのだ﹂
﹁いや、それは心配してないが。凶悪な魔物もいるわりに、統治し
てる側は案外平和なんだな⋮⋮﹂
﹁人間を襲わなければ生きていけない者も、種族的にいるのはしょ
うがない。しかし、彼らも品種改良︱︱もとい、教育の結果、農業
や狩猟をして暮らせるようになったぞ。褒めてくれてもいいのでは
ないか?﹂
﹁うーん、俺が頼んだわけじゃないしなあ。ま、いいんじゃないか
?﹂
﹁勇者ならば、もう少し私の努力を誉めても良いのではないか。そ
んな反応では、あまりに甲斐がないぞ。私は頑張ったのだ、少しは
評価してほしいものだな﹂
斜に構えてるというより、俺は清らかな言動をすると身体がかゆ
くなる病気なので、﹁魔物が人間を襲わないようにするなんて、す
ごいことをしたな﹂とか素直に褒められないのである。
﹁俺は勇者じゃない。今度このギルドハウス内で俺を勇者と呼んだ
ら、マジでお仕置きするぞ。アイリーンが﹂
﹁むぅ、あの鬼娘か。五年経ってもご主人様の元に出入りしている
どころか、酒飲み友達になっているとはな。まったく、私のご主人
様を酒に乗じてあれやこれやしようとは、羨ましい⋮⋮いや、けし
からん﹂
﹁どうでもいいけど、客が来たらあれだから、そろそろ口調を戻し
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ておけよ﹂
どうでもよくはない、と言わんばかりに魔王は﹁むぅ﹂と言うが、
俺の命令には従順で、咳ばらいをすると再びメイドモードに切り替
わった。
アイリーンの話が出たが、彼女は五年前、俺のギルドハウスで数
日間遊んでいったあと、一度里帰りをしている。鬼族の住んでいる
山岳地帯がアルベイン王国の西部にあり、そこで鬼族の頭領である
父に、魔王退治の報告をしたそうだ。そして、半分だけ神酒を両親
と親戚たちに振る舞い、あとは残して持って帰ってきた。
以来、アイリーンは適当に仕事をして金を稼ぐと、王都に自分で
家を買い、ほぼ毎日この酒場に飲みに来ている。鬼族は10歳で見
た目が大人になるので、そこから酒を飲んでいいらしいのだが、な
ぜか王国の法律に準じて16歳まで我慢していた。今では酒に強く
うわばみになったが、初めて飲んだ日は普通に酔ってしまい、それ
なりに色っぽい話もあったのだが、それは置いておこう。未遂に終
わったし、今も特に進展がない。友達を異性として見るのが難しい
というくらいに、付き合いが長くなってしまった︱︱
と、詮無きことを考えているうちに、どうやら客人が来たようだ。
俺は魔王と視線を交わし、酒場の店員と客としての振る舞いに切
り替える。
ドアベルがカランコロンと鳴り響き、灰色の外套を身に着け、フ
ードで顔を隠した人物が店内に入ってくる。コツコツと木床を鳴ら
す足音︱︱あれは女物の靴だ。
彼女はカウンター席に座る。俺が一番奥で、四つほど離れた席だ。
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俺は白ブドウ酒を口に運び、酒の味を愉しむ。今はまだ、それでい
い。
﹃灰色の外套﹄は、この酒場にとっての特別な客であることをす
でに示している。
だが、まだ﹃手続き﹄は残っている。それを確実にこなさなけれ
ば、彼女の持ち込んだ相談事は聞いてやれない。
接客モードに入った魔王に、外套の女性が話しかける。俺は、そ
れにさりげなく耳を傾けた。
﹁⋮⋮﹃ミルク﹄をいただけるかしら。それがなければ、﹃この店
でしか飲めない、おすすめのお酒﹄をくださいませ﹂
﹁かしこまりました。﹃当店特製でブレンド﹄いたしますか?﹂
﹁ええ、お願いしますわ。﹃私だけのオリジナル﹄で﹂
彼女は全ての合言葉を口にした。その瞬間、このギルドにおいて
﹃依頼者﹄として認められる。
曜日に対応した色の外套を着て、今の合言葉を口にする。その条
件を知るには、﹃他のギルドで依頼を断られ、俺のギルド員の接触
を受ける﹄か、あるいは﹃俺のネットワークを媒介する人物に接触
する﹄などの方法が必要になる。そのどちらかは、依頼者が自分で
明かすことになっている。
しかし依頼者と認められても、俺はあくまで傍観しているだけだ。
どんな対応をするかは、受付役の魔王との会話を、客のふりをして
聞くことで判断する。
ちびちびと酒をやりながら、俺は依頼者に怪しまれないよう、視
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線をそちらには向けずにおいた。
﹁⋮⋮もう、話してもいいのかしら?﹂
﹁はい。あなたはこの銀の水瓶亭にとって、大切な客人であると認
められました﹂
﹁ふぅ⋮⋮本当にこんなところにあるギルドが、私の依頼を達成で
きるのかしら。心配だけれど、仕方がないですわね。他のギルドに
は、とても頼むわけにはいきませんから﹂
女性は言いながら、フードを外す︱︱そうして広がったブルネッ
トの髪に、思わず反応してしまいそうになる。
かなりの︱︱いや、この王都において、並ぶものがいないほどの
極上の美少女がそこにいた。年の頃は俺と同じか、少し年上くらい
だろうか。少し気が強そうだがどこか品のある振る舞いは、誰かさ
んを思い出させる。
︵しかし⋮⋮どこかで見た覚えがあるような。これは、既視感とい
うやつか⋮⋮?︶
﹁率直に言いますわ。第一王女マナリナと、ヴィンスブルクト公爵
の婚約を、破棄させてもらいたいのです﹂
﹁婚約を、破棄させる⋮⋮あなたは、どのような立場でそれを望ん
でいるのです?﹂
第一王女マナリナといえば、御年15歳で、今年16歳になる。
王国の成人年齢である16になると同時に、父親である王が、王女
の伴侶を選ぶことがある。それは昔から続く王室の風習であり、有
力な貴族と王族を結びつけることで、権力の地盤を固めるという狙
いがある。
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ヴィンスブルクトといえば、王政を補佐する立場の貴族たちが構
成している元老院において、第一位に位置する貴族である。王女を
娶る資格は、身分という意味では十分に有しているといえるが︱︱
確か、もう四十半ばだったはずで、王女とは年齢差が開きすぎてい
る。
﹁私は⋮⋮お、王女の侍女ですわ。マナリナ殿下は、結婚を望んで
おられない。国王陛下の決定とはいえ、このまま従えば自害なされ
るのではないかというほど、思いつめているのです﹂
﹁それは⋮⋮﹂
王女は王国を支える権力者の元に嫁ぐことも、生まれながらに持
つ義務である。
︱︱しかしそんな常識的な反応を、魔王が返すわけもなかったり
する。
﹁それは、望まない結婚であれば、断固拒否すべきですね。婚約破
棄すれば良いのではないでしょうか﹂
﹁っ⋮⋮で、できるというの!? わた⋮⋮い、いえ、マナリナ殿
下と、あのいけすかない中年男の結婚を、取りやめにできるのです
ね!?﹂
いきなり詰め寄る、自称﹃王女の侍女﹄。もうだいぶネタが割れ
てきた︱︱というか、俺のネットワークも王族にまで届くようにな
ったか、と我ながら感心する。あまり王室や貴族との接触は持ちた
くないのだが、彼らの状況をまったく知らないというのも王都で生
きる上では落ち着かないので、情報収集だけは常にしていた。
ジャン・ヴィンスブルクトは絵に描いたような美形中年であり、
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今の年まで未婚を貫いているが、そこらじゅうに女を作り、他の貴
族の細君や息女にも手を出し、子を産ませているという凶悪きわま
りない男である。
しかし、貴族の中では顔は利くし、王には忠誠を示している。そ
れも将来王女を娶り、自分の権力をさらに十全にするためのものだ
ったと考えれば、まあわかる話だ。
︱︱わかりはするが、面白くはない。俺は魔王に﹁いつもの﹂と
オーダーし、冷やしたエール酒の入ったジョッキを受け取った。
﹁⋮⋮そこの男は、さっきから何なんですの? 真面目な話をして
いるのに、かぱかぱとお酒ばかり﹂
﹁お嬢さん、俺のことは気にしないでくれよ。ただの酔っ払いさ﹂
﹁昼間からお酒なんて⋮⋮なげかわしい。身体を壊したら、あなた
の大事な人が心配しますわよ﹂
﹁っ⋮⋮げほっ。余計な心配だ、俺にはそういう相手はいない。独
り身で飲む酒はいいぞ、とても自由だ﹂
いきなり親身に話しかけられ、虚を突かれてしまう。これくらい
で﹁実は優しいんだな﹂とか思ってしまうくらいは、俺も優しさに
飢えているといえばそうだ。魔王は﹁優しい﹂とはちょっと違う。
﹁ふぅ⋮⋮まあ、自分の身体ですから、好きにしていただくのが一
番だと思いますけれど。話を元に戻しますわ。婚約破棄、できるん
ですのね? このギルドなら﹂
﹁はい、私どものギルドに不可能はございません。依頼を受けるに
あたって、幾つか質問がございます﹂
﹁何でも聞いてくださいませ、依頼を受けていただけるのなら、ど
んなことでもお話ししますわ﹂
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最初、こわばった顔をしていた自称侍女は、依頼を受けてもらえ
るか分からず、緊張していたのだろう。それが受け入れられたあと
は、本来はそうなのだろう、雰囲気の柔らかさが前面に出てきてい
た。
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第2話 冷たいミルクと麒麟乳酒の千年桃割り
外套の袖から覗いている、やんごとなき身分の人間だけが身に着
けるだろう服の袖︱︱それを見れば、彼女の素性など丸わかりなの
だが、外套と一緒に庶民の服を調達することができなかったのだろ
う。ここまで来るにも、大きな苦労をしたはずだ。
俺は魔王にオーダーの紙を渡すふりをして、自称侍女への質問事
項を伝えた。魔王はそしらぬふりで目を通し、俺につまみを作って
出したあと、質問を始める。
﹁では、一つ目です。マナリナ殿下が、破棄を望んでいる具体的な
理由はなんでしょうか?﹂
﹁⋮⋮王女の知らないうちに陛下が婚約を決めたあと、一度話した
だけの男性に嫁ぐというのは、それが義務だと分かっていても望ま
しくはないものですわ﹂
﹁確かに⋮⋮私も、この方だと決めたお方と再会してからは、なる
べく多く会話をするようにつとめ、相互理解を進展させています﹂
なんの話だ、と言いたくなるがここはぐっと堪える。魔王は俺に
ウィンクをしてくるが、そのアピールは逆効果だ。
﹁⋮⋮それは、いつまでも話していたいと思えるような相手だから
ではなくて? ヴィンスブルクト公爵は、女性の外面をほめること
はしても、内面に興味を持たない。それに、マナリナ殿下ではなく、
父君の国王陛下のおぼえばかりを気にしている。そんな方だから、
話していても、心がひかれないのです。彼が手に入れてきた他の女
性と価値を比べることを、悪気もなくされる方ですし⋮⋮﹂
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王族と貴族からしてみれば、それは王女のわがままだ、と言われ
てしまうところかもしれない。
最高権力者である国王のことを常に意識し、娘である王女個人を
見ない︱︱それを王女が苦痛に思うことこそ、国王に対する不敬。
そんな考えを持つ者が、国王に気に入られ、爵位を上げることもあ
る。
俺が話したときの国王陛下は公明正大と言っていい人物だったが、
そんな人物でも、自分に対して媚びを売られているのか、それとも
﹁真の忠誠﹂であるのかを、見定められないことはあるのだろう。
国のためならば、ヴィンスブルクト公爵との強い繋がりを持ってお
きたいと思うのは自然なことだ︱︱しかし。
彼の奔放な女性関係が、俺はどうも後で混乱を生むような気がす
るので、マナリナ殿下が婚約を破棄したいというのならば、あと腐
れのないやり方であれば良いのではないかと思う。ギルドとしては、
依頼を受けるにあたって異存はないということだ。
﹁殿下の心情はわかりました。では、現時点で、可能かどうかは度
外視して、マナリナ殿下とその協力者の力を用いて、婚約を破棄す
る方法は存在しますか?﹂
﹁⋮⋮存在は、します﹂
答える声には、力がない︱︱方法が存在しても、絶対にできない、
そう分かっているからこそだろう。
﹁王族は、他者からの要求を、決闘によって退けることができる。
つまり、ヴィンスブルクト公爵と御前試合を行い、勝つことができ
れば⋮⋮王女は、婚約を破棄することができます﹂
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アルベイン王国において、古くから伝わる風習。決闘によって望
まぬ要求を拒否する、その自由が全ての臣民に許されている。
決闘による意思決定の自由を奪うことは、戦いと栄光を司るアル
ベインの主神に逆らうことと同義であるとされている。国民の半数
を信者とするアルベイン神教に背くことは、国の頂点に立つ王族だ
からこそ許されないのだ。
公爵も例外なく、その法に従わなければならない。王女の婚前の
我がままとでも解釈して、力でねじ伏せようと考えてくれれば、決
闘の構図には無理がなくなる。
しかし普通に決闘をしても、勝つことはできない。それは、自称
侍女の思いつめた顔を見ればわかることだ。
﹁ヴィンスブルクト公爵の実力は、冒険者強度に換算すると、戦闘
面だけの評価点は1200ほどだと聞いています。剣の評価が80
0点、魔法が400点。マナリナ殿下は⋮⋮﹂
﹁⋮⋮マナリナ殿下の戦闘面の評価点は、700点ほどです。純粋
に、剣術のみの評価で⋮⋮﹂
貴族には冒険者強度など必要はないが、自分の実力を知るための
指針として好まれ、ギルドから測定官を招いて測らせる者が多い。
ヴィンスブルクトはつい二週間前に測定しており、1231という
数値を示していた。公爵という立場などを鑑みると、総合的な冒険
者強度は6764となる。
そう、貴族の実力は、冒険者の基準からすれば、強度1万のAク
ラス冒険者にすら届かないのである。それは、冒険者は依頼の中で
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戦闘の実力が必要とされる場面がほとんどであるため、個人の戦闘
力を主に評価するからだ。
公爵としての権力も、任務を遂行するために利用できるという点
では評価は大きいが、その指数は6000点である。戦闘評価と公
爵としての評価を足した数値より低いのは、彼が女性関係で多くの
人物から恨みを買っているからとされているが、測定官も不興を買
いたくはないので、詳しくは教えなかったということだった。そこ
まで把握することは、今の俺にはさして難しくはない。
戦闘評価点に話を戻すと、100の違いでも差は大きく、覆すこ
とはできないとされている。まして500も差があれば、数値が低
い側が勝つには、パーティを組むしか方法がない。
剣術のみで戦闘評価700というのは、マナリナ殿下が素人より
は剣をたしなんでいて、それなりの才能を持っていることを示して
いるが、剣だけでも800のヴィンスブルクトには、ほぼ勝ち目が
ないということを示していた。
しかし、それは。マナリナ殿下が、なんのバックアップも受けな
ければだ。
俺は音を発することなく、詠唱の準備を始めた。
もう、この依頼を達成するために必要なことは把握できている。
あとは実行に移すだけだ。
決して、自称侍女︱︱マナリナ王女その人に、俺が何をしたのか
を気づかれないように。
﹁店主、ミルクをくれ﹂
﹁かしこまりました。少々お待ちください﹂
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﹁⋮⋮ミルク? 少しは私の言うことを考えて、身体を気にするよ
うになったということですの⋮⋮?﹂
不思議そうな顔をしている自称侍女。
俺はオーダーしたミルクの入ったグラスを受け取り、﹃なにげな
く手をかざしたあと﹄︱︱。
カウンターをすべらせ、自称侍女の目の前で、ミルクのなみなみ
と入ったグラスを、一滴もこぼさずにピタリと止めた。
﹁お嬢さん、これはあんたの分だ。俺のおごりだ、飲んでくれ﹂
﹁っ⋮⋮み、ミルクは、合言葉で⋮⋮そんなつもりで言ったわけで
は⋮⋮っ﹂
﹁見たところ、まだ酒を飲める歳じゃないみたいだしな。同じカウ
ンターに座った縁だ﹂
﹁こ、こんなものっ⋮⋮子供扱いしないでくださいませ! 不愉快
ですわ!﹂
子供扱いされたのかと、彼女が憤る︱︱その反応は予想していた
が、この場では色々と理由があって、ミルクが最適な選択だ。何と
か、一口でも飲んでもらわなければならない。
﹁お客様、依頼についてのお話が残っております。失礼ながら、お
飲み物を出すのを失念しておりましたので、お気を損ねたやもしれ
ませんが、そちらのお客様のご厚意に甘えていただければ、こちら
としても幸いでございます﹂
魔王が畏まって言うと、席を立とうとしていた自称侍女は、顔を
赤くしたまま俺を見たあと︱︱ミルクの入ったグラスを手に取った。
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﹁⋮⋮冷たい。本当をいうと、ちょうど喉が渇いていましたの。席
を立とうとしてごめんなさい、依頼の話を続けさせてくださいませ﹂
彼女が席に座り直し、グラスを持ち、口をつけ︱︱ミルクを飲ん
だ。
本当に喉が渇いていたようだが、王女としての嗜みなのか、ふた
口だけしか口をつけなかった。
しかし、それでもかまわない。この時点で、依頼はほぼ達成され
たと言っていい︱︱俺の読み通り、彼女が﹃マナリナ王女本人﹄で
あるのなら。
﹁お客様に申し上げます。ご依頼の内容については、十分把握する
ことができました。私どもが提案しますのは、﹃ヴィンスブルクト
公爵との決闘﹄により、婚約を破棄する方法でございます﹂
﹁そ、それは⋮⋮っ、彼女の力で、あの男に勝つことは⋮⋮っ﹂
﹁必ず勝てるように、こちらで段取りをしておきます。王女殿下に
は、何も心配せず、決闘の場に赴かれるようにとお伝えください﹂
﹁⋮⋮本当に、そんなことが⋮⋮あの男に、毒でも盛るというの?﹂
﹁﹃銀の水瓶亭﹄は、ご依頼の達成ののちに、禍根を残すことは決
してございません。お客様に秘密を厳守していただくことと同様に、
私どもも情報を漏らすことはありません。王女殿下の今後のご活躍
に支障が出ることはございませんので、ご安心ください﹂
まだ受付役をやらせて一ヶ月だというのに、魔王の説明は俺の意
志を完全に反映していて、完ぺきと言えるものだった。雇っている
受付嬢はもう一人いるが、彼女は俺の育成によって優秀な冒険者と
なったので、今は依頼で店を離れている。
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﹁⋮⋮わかりました。貴女のこと、そして、この﹃銀の水瓶亭﹄を
信じます。報酬は⋮⋮﹂
それについても、俺は魔王にすでに伝えていた。彼女の素性が王
女であり、公爵との結婚を拒んでいると分かって、考えていたこと
だ︱︱少々、やつれたコーディの顔が思い浮かんだということもあ
るが。
貴族が国王の権威をかさにきて、騎士団を小間使いのように使っ
ている︱︱それでコーディは苦労している。なぜそんなことが起こ
るかというと、ギルドに依頼すると個人で金を払う必要があるから
だ。自分の領地の魔物の掃除など、自力でするべきことなのに、騎
士団の力を借りている。雑魚散らしに光剣を使わされるコーディも
不憫だし、貴族からの依頼が減って、ギルド全体にもいいことがな
い。その状況を変えるにはいい機会だった。
﹁騎士団に対して、貴族が高圧的な干渉を加えることのないよう、
国王陛下に進言していただくこと。それが、当方の示す条件でござ
います。貴族の方々によって騎士団を冒険者の代わりに使われると、
彼らも疲弊しますし、王都内の冒険者の仕事も減ってしまうのです﹂
﹁⋮⋮騎士団⋮⋮そうね、貴族たちはときどき、国を守るものであ
るはずの騎士団を、私用で動かそうとすることがある。それについ
ては、王女殿下も気にかけていたようだから、二つ返事をいただけ
ると思うわ。それだけでは足りないから、前金を支払っておきます
わね。気持ちと思って、受け取ってくださいませ﹂
そう言って、マナリナ王女がカウンターに置いた、銀色のペンダ
ント︱︱それはアルベイン王家に伝わる、﹃王家のしるし﹄だった。
俺は思わず、そのペンダントを凝視してしまいそうになる。今回
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の仕事は王族にコネクションができるだけでも良く、報酬に期待し
てはいなかったのに、いきなり国宝級のアイテムが出てきたからだ。
アルベイン王国内に五箇所ほどある、旧時代から残されている古
代遺跡。﹃王家のしるし﹄はその中に入るために必要となる、レア
アイテムを追い求めている冒険者ならば垂涎のアイテムだった︱︱
全部で3つあるというが、手に入るとしてももっと先になると思っ
ていたのに。
古代遺跡の内部は熟練の冒険者すら阻む罠と魔物にあふれていて、
王国は管理を放棄している。俺のギルドで調査しても、気づかれて
詮索されることはまずないだろう。
﹁良いのですか? これを私どもに預けるということは⋮⋮﹂
﹁ええ、いいのです。私の人生を、あなたたちは望むように変えて
くれるという。それならば、命に等しいものを差し出すべきだと思
うのです。そうでなければ、釣り合いませんわ﹂
喉から手が出るほど欲しいアイテム︱︱しかし。
それをその場で取るよりは。俺は婚約破棄が成ったあとに、もう
一度王女の話を聞いてみたいと思った。
横にいる酔っ払いとしてでいい。ミルクをおごってやるのは、今
回だけでかまわない。
俺は魔王にオーダーする。今の彼女にふさわしいものは、ミルク
ではない。
人生を決める一世一代の戦いのための、景気づけだ。
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﹁⋮⋮これは⋮⋮よろしいのですか? お客様﹂
﹁ああ、構わない。さっきはミルクなんて頼んで、子供扱いをした
ようですまなかった﹂
﹁い、いえ。そのことは、私も大人げありませんでしたわ﹂
王女が俺に謝るうちに、魔王は俺のオーダーに従い、表に出して
ない材料を厨房に取りに行く。
そして、ブレンドを済ませてから戻ってきて、王女の前にグラス
を置いた。
﹁これは⋮⋮?﹂
﹁あちらのお客様からでございます。こちら、酒精はお若い方でも
お召しいただけるよう弱くなっておりますので、ご遠慮なくお召し
上がりください﹂
グラスに満たされているのは、白と桃色に分かれた酒。そしてそ
の上には、情熱と勝利を示す、赤い小さな花びらが飾られていた。
その花言葉は﹃自称侍女﹄には必要のないものだが、﹃王女﹄なら
ば話は違う。
﹁﹃この店でしか飲めない、特別なお酒﹄でございます。麒麟の乳
を発酵させて弱い酒精をつくり、千年桃という果実で割り、国花の
花びらを散らしてみました﹂
﹁⋮⋮きれい⋮⋮これ、本当に飲んでも⋮⋮?﹂
魔王が頷くと、マナリナ王女は酒の入ったグラスに唇をつける。
そして、感嘆するようにグラスを見つめた。
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﹁美味しい⋮⋮野暮な人だと思いましたけれど。こんなに繊細な味
のお酒も知っていますのね⋮⋮﹂
俺は特に反応せず、野暮な味のするエール酒を飲む。
まだ彼女は、俺が依頼を達成するために何をしたかなんて気づい
ていない︱︱だから、俺にそこまで感謝する理由はない。
そう思っていたのだが、﹁麒麟乳酒の千年桃割り﹂は、俺が思っ
ていた以上に、彼女の心を動かしてしまったようだった。
席を立った王女が、俺のところまでやってきて、グラスを差し出
してくる。そこまでされて気づかないふりなどできるわけもない︱
︱俺は苦笑し、小さなグラスに対して大きなジョッキをチン、と合
わせる。
﹁先ほどのミルクも美味しかったですが、このお酒が先に出ていた
ら、もっと心が動いていたと思いますわ﹂
﹁っ⋮⋮い、いや、お嬢さん。俺は別に口説いてるわけじゃない。
ただ、同じカウンターに座った縁で⋮⋮﹂
﹁ええ、分かっていますわ。これは私が、一方的に言いたかっただ
けです⋮⋮酔っ払いさん﹂
それまで横顔しかまともに見てなかったが、正面から見る王女の
笑顔は、どんな言葉も無粋になりそうなほど魅力的だった。
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第3話 第一王女と可憐なる災厄
俺は王女が店を出る前に魔王に言って、﹁王家のしるし﹂は成功
報酬として王女に一時返却させた。
それならば代わりにと、前金として希少価値のある古金貨10枚
を置いていかれた。これだけでギルド運営が三ヶ月回ってしまった
りするのだが、それはよしとする。金は天下の回り物ではある。
そして、依頼から三日後。
マナリナ王女がヴィンスブルクト公爵に決闘を申し込み、そして
勝利したという知らせが届いた。
なぜ、彼女が勝つことができたのか。それは間違いなく、俺のギ
ルドに依頼したことが理由なのだが、まだどんな方法を使ったのか
は明かしていない。
彼女が報酬を届けにくるときも、俺が何をしたのかを明かすつも
りはない。
真相は、俺が魔王討伐までに何度も使った、信頼のおける魔法︱
︱強化魔法を利用したのだ。
俺は強化魔法を、飲食物に付与することができる。これの利点は
何かというと、対象者が気づくことなく、食べさせたり飲ませたり
するだけで魔法をかけることができるのだ。
43
王女に強化魔法を付与したミルクを飲んでもらい、王女の戦闘評
価を一時的に1000プラスした。身体能力を向上させる麒麟乳酒
と、敵の魔法を軽減する力を持つ千年桃をサービスした効果もあり、
マナリナ王女は500ポイントの評価差を悠々と逆転して、ヴィン
スブルクト公爵に剣のみで勝利したのだ。
彼女が勝利したところはギルド員が見届けた。マナリナ王女は長
いブルネットの髪をひとつに結び、白銀の軽鎧を身につけて決闘に
臨み、余裕ぶっていたヴィンスブルクトの競技用サーベルを一撃目
で跳ね飛ばし、戦いを見守っていた国王を、そして貴族たちを大い
に驚かせたという。
依頼を達成したのは良いが、こういうやり方には一つリスクがあ
って、王女が自分の実力を過大評価してしまうのは困る。しかし、
王女が今後決闘をする機会などないだろうし、もしあったとしても、
事前に仕込みさえすれば勝たせることは造作でもない。
もし次に決闘の必要が出てきたら、また銀の水瓶亭を利用してく
バフ
れ、と頼んでおく。王女の信頼を得ていれば、その頼みは聞き入れ
られるだろう。
ドーピング
これは不正ではなく強化である。まだ弱い冒険者を育成するとき
にも使える手で、俺の店にはあらゆる能力を強化するための酒、つ
まみが集められていた。
自称侍女が王城を抜け出してくるのは難しいだろうから、彼女と
また会うのは少し先になるだろうか。
﹁ディック、どうして王女様だってわかってたのに、言わなかった
の?﹂
44
アイリーンは俺が回していた難度の高い依頼をこなして帰ってく
ると、その足でギルドに顔を出した。俺のギルドに所属していると
なると、﹃魔王討伐隊の武闘家が所属するギルド﹄と評判が立ちか
ねないので、彼女にはフリーの立場で仕事を受けてもらっている。
報酬は雇っている場合と変わらないし、税金はギルドで処理して払
っているが。
17歳になり、﹃ばいんばいん﹄から﹃はち切れそう﹄まで成長
した彼女は、相変わらずの脳筋武闘家なのだが、こう見えて酒のつ
まみを自分で作っていたりして、結構料理が得意だ。それで、うち
の厨房を手伝ってくれることがある。もちろん出入りするときは裏
口からで、彼女もある意味店員のようなものだった。
俺の器用貧乏の中には料理がそこそこできるというのも含まれて
いるので、店で雇っている料理番が休みのときは、二人で夜の部の
料理の準備をすることがある。俺も年中24時間飲んだくれではな
いのだ。
﹁王女は素性を隠して依頼に来てるんだから、こっちも知らないふ
りをしなきゃ意味がないからな﹂
﹁あ、そっかー。でもこれからどうなるんだろ。ヴィなんとか伯爵、
ショックで寝込んじゃったっていうよね﹂
﹁伯爵ではない、公爵だ。彼は王女との結婚を急いだことで、関係
を持っていた女性たちに離反を起こされたようだな。中には他の公
爵家のご息女もいて、今貴族の間で、大変な騒ぎになっているとか。
自業自得ではあるが、ひどい修羅場だな﹂
魔王は夜の開店までは休憩時間なのだが、自主的に手伝いをして
くれている。彼女は根菜の皮むきがやたらとうまい。アイリーンも
45
対抗して頑張っているので、俺はやることが減って楽だった。
貴族と騎士団の間で板挟みになっていたコーディだが、マナリナ
王女が国王に進言してくれたおかげで、貴族からの干渉が劇的に減
ったようだ。これで騎士団に回されていた貴族の依頼が、冒険者ギ
ルドに降りてくるようになった︱︱その恩恵は、うちのギルドも一
部受けている。
コーディからは、またうちに飲みにきたら話を聞きたいところで
はある。高い酒でも飲んでもらい、大いに気分を晴らしてもらいた
いものだ。
﹁でも、マナリナ王女ってすごく美人だってうわさだよね。成人し
てからは表の行事に出てくるようになるし、また結婚の申し込みが
あるんじゃないの?﹂
﹁王女は誰の求婚も受けることはあるまい。ご主人様の魅力を知っ
てしまったからな﹂
﹁なんでそうなる⋮⋮俺は横で飲んでただけだ。もう俺のことなん
て、王女は忘れてるさ。というか、うちの店に来たのはあくまで侍
女という体だぞ﹂
そう言いながら、あのフードを外した瞬間に見た美貌を、俺はい
まだに忘れることができていない。
しかし、それに近い気持ちを、俺は5年前にも味わっていた。
ミラルカと、初対面のとき。彼女が最初に口を開くまで、﹃荷物
持ちにしても、冴えない男ね﹄と罵倒されるまでは、俺は完全に見
とれていたし、彼女と旅ができることを嬉しいと思いもした。
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彼女は殲滅魔法とかわいい小動物にしか興味がなく、男などその
へんのジャガイモにしか見えていない。それでも絶世の美少女であ
ることに間違いはなく、魔王討伐を終えてから、ミラルカは星の数
ほど交際を申し込まれた。
しかし誰もその鉄壁の守備を崩すことはできず、﹁あなたには私
に興味を抱かせる要素が、未来永劫見受けられないわ﹂の決めゼリ
フで全て切り捨ててしまった。おそらくは、今も一人のままだろう。
1年前、俺とアイリーンとの関係を勘違いされてしまってから、
ミラルカとは会っていない。ときどき文句を言いながらうちの店を
訪れていた彼女の姿が、例え罵倒されるだけであっても、懐かしく
感じることもある。
﹁そういえば、第一王女が通ってる学校って⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ん? 何か言ったか、アイリーン﹂
﹁あはは、ううん、何でもない。気のせいかもしれないけど、そう
じゃなかったら、そのうちディックも分かると思うよ﹂
﹁何のことだ⋮⋮? 気になるな。教えてくれないと、他のことが
手につかないぞ﹂
﹁むぅ、やはり鬼娘はご主人様の関心を引く技術に長けているな。
私も見習わなくては﹂
アイリーンの思わせぶりな言葉が気になって、その後も何度か尋
ねたが、彼女は答えてくれなかった。
そうこうしている間に、準備中の札を出しているはずの店のドア
ベルが鳴る。
﹁あれ、お客さん入ってきちゃった?﹂
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﹁俺が店員と知られるわけにはいかない。魔王、ちょっと行ってき
てくれ﹂
魔王が応対に出るところを、俺とアイリーンは、厨房から気配を
消してうかがう︱︱すると。
外套を羽織り、フードで顔を隠した二人の女性。そのうち一人は、
マナリナ王女︱︱そして、もう一人は。
﹁お客様、今は準備中でございますが、いかがなさいましたか?﹂
﹁この﹃銀の水瓶亭﹄の責任者⋮⋮ディック・シルバーを出しなさ
い。隠してもためにならないわよ﹂
一年前と、何も変わっていない。
常に俺に対して優しさのない、しかし聞き入ってしまうような、
鈴のように耳に心地よく響く声。
彼女はフードを脱ぎ、その下に隠されていた金色の髪が広がる。
強すぎる魔法の力を封じ込めるためのピアスを見なくても、声だけ
で分かりすぎるほどに分かっていた。
ミラルカ・イーリス。2年前、14歳のときに魔法大学の教授と
なり、その知性と美貌、そして変わらない苛烈な性格と、殲滅魔法
の破壊実験のすさまじさから、﹃可憐なる災厄﹄と呼ばれ続ける少
女。
いや、もう少女といえるような容姿ではない︱︱立派な女性だ。
魔法大学の全ての男はまずミラルカに恋をすると言われるほど、彼
女の美貌は16歳になった今、憎らしいほどに完成されきっていた。
こんな場末の酒場に居ても、輝かんばかりの存在感を持ち、昔のよ
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うに腕を組んで立っていても、コンプレックスを克服して育った果
実が腕に乗っている。
そんな彼女が、なぜ王女と一緒に俺に会いに来たのか。薄々と想
像はついていたが、その燃えるような瞳に込められているものは、
俺に対しての攻撃的な感情だった。
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第4話 誤解の終わりと王女の真実
﹁ミラルカ、なぜ、そこまでディック様を敵視するのです?﹂
王女がフードを脱いで顔を見せ、困惑した様子でミラルカに聞く。
ミラルカはふぅ、とため息をつくと、事情の説明を始めた。
﹁私はマナリナと、あの公爵の決闘を見ていた。普通なら、マナリ
ナがあの男に勝つことは難しい⋮⋮いえ、常識的に考えれば、実力
の差を覆して勝つのは不可能だったはず。でも、マナリナは短期間
で戦闘評価を大きく上げて、あの男を負かした。そんなことを可能
にできるのは⋮⋮ディック。あなたしかいないわ﹂
さすがに勇者パーティ同士では、気配を消しても感じ取られる。
俺は腹をくくり、ミラルカの前に出て行った。王女は俺を見ると驚
いていたが、はにかんで微笑む。最初とは随分印象が変わったもの
だ。
ミラルカは腕を組んだままで俺を見ている。その腕に乗った胸が
凄まじい誘惑を仕掛けてくるが、俺は引力に逆らって、ミラルカの
顔を見る努力をする。怒っている、目が怖い、しかし逃げられない。
﹁王女を呼び捨てにするって、ミラルカ、彼女とはどういう知り合
いなんだ?﹂
﹁私はマナリナの先生よ。彼女は魔法大学に通っているの⋮⋮私の
ゼミに所属しているわ。彼女は魔法が使えないから、その指導をす
るところから始めているけれどね﹂
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魔法にも才能があって、習得に一年かかる者もいれば、一日で覚
える者もいる。マナリナ殿下からは魔力をほとんど感じないので、
魔法より剣のほうに適性があるのだろう。
﹁素性を偽ったことはお詫びいたします⋮⋮私の本当の名は、マナ
リナ・リラ・アルベインと申します。しかしディックさんのご様子
を見ると、やはりすでにお気づきになられていたようですね﹂
﹁あ⋮⋮い、いや。今、ミラルカに言われて確信が持てただけだ﹂
﹁ウソつき。あなたはいつもそうだから、見ていていらいらするの
よ﹂
刺さる言葉を容赦なく投げてくる︱︱俺に美少女の罵倒が褒美で
あるという素養が少しもなかったら、再起不能なほど精神的ダメー
ジを負っていたことだろう。
﹁ミラルカには、いつも魔法大学でお世話になっています。実は、
このギルドのことを教えてもらったのも、彼女からで⋮⋮﹂
﹁こんなことになるとわかっていたら、教えなかったわ。ディック、
あなたはもう少し理性があると思っていたけど、本当はけだものだ
ったのね﹂
﹁け、けだものって⋮⋮俺が一体何をしたっていうんだ﹂
本気でわからない俺を見て、ミラルカは﹁あなた馬鹿?﹂という
顔をする。この顔をされると死にたくなるので、できれば控えめに
してほしいところではある。
﹁ディック、あなたがマナリナを勝たせるために使った方法には落
とし穴がある。マナリナは、ヴィンスブルクト公爵より圧倒的に強
いと広まってしまった。彼女がもしもう一度同じ強さを示さなけれ
ばならないとき、おのずとディックにもう一度会わなければならな
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くなる。まるで蟻地獄ね、何も知らないマナリナに強くなることの
甘美さを教えて、逃げられないようにするなんて⋮⋮この変態。変
態ディック﹂
マナリナに俺がしたことを知られないまま、無事に依頼を終える
︱︱その目論見を、ミラルカは容赦なく破壊してしまう。
﹁あなたは蟻地獄の巣でマナリナを待ち構えて、その⋮⋮う、動け
なくなったところを、毒針で刺そうとしているのよ﹂
﹁ま、待て待て! それは、俺が王女に下心があった場合の話だろ。
俺はただ酒をおごって、調子はどうだと聞ければそれで良かったん
だ﹂
﹁⋮⋮どうだか﹂
ミラルカはまったく俺の言うことを信じてない。まあ、そうなる
のもわからないでもない。しかし毒針って、ちょっと比喩表現とし
ても、こちらが赤面してしまいそうだ。
なぜミラルカがここまで頑なになっているのか、俺に対して攻撃
的なのか。それには、思い当たる理由がひとつある。
1年前、初めての酒で酔ったアイリーンを介抱していたところを、
ミラルカは大いに勘違いしていて、俺とアイリーンが男女の関係に
あると思っているのである。
だからこそ、王女まで自分の近くに置こうとした俺が許せないの
だろう。
ここで﹁お前に口出しされたくない﹂と言おうものなら、ミラル
カは多分⋮⋮いや、大人になったからそんなこともないかもしれな
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いが。
俺はミラルカの涙を見たことが三回ある。魔王討伐まで、ギルド
ハウスでの滞在を終えて実家に帰るとき、そして俺とアイリーンの
ことを見たとき。
だから今回も泣きそうだと何となくわかるのだ。泣かせたときに
ダメージを受けるのは俺も同じで、一週間は軽く引きずるので、何
とか泣かせずにこの場をおさめたい。
︱︱と思っていると。アイリーンが、いつの間にか気配を消して、
ミラルカの後ろに回っていて。
何を思ったか、後ろから手を回してミラルカの豊かな胸を鷲掴み
にした。
﹁きゃぁっ⋮⋮!?﹂
﹁ミラルカ、私よりおっきくなってない? こんなの見せられたら、
ディックも気が気じゃないでしょ﹂
﹁も、もうっ⋮⋮アイリーン、あなたって人は、デリカシーがない
んだから⋮⋮﹂
アイリーンの手から逃れて、ミラルカは服を整える。そして頬を
紅潮させたまま、俺の方をうかがう︱︱俺は何て顔をすればいいの
か分からない。
成長したなと思ってはいても、こんな確かめ方ができるのは女同
士だけで、俺は蚊帳の外だ。魔王はあまり動じていないが、マナリ
ナ王女は顔が真っ赤になっていた。
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﹁⋮⋮ディックは私になんて興味を持つわけないわ。だって、アイ
リーンと⋮⋮﹂
話が一気に核心に向かう。その勘違いを正さなければと思いなが
ら、時間が経ってしまった︱︱俺から言っても全て言い訳になりそ
うで。
しかしアイリーンは、あっけらかんと笑って言った。
﹁ああ、あれ? あたしも初めて飲んだから、お酒が回っちゃって
さ。ディックに背中をさすってもらったの。それで気持ち悪いの楽
になって、カッコ悪いところ見せずに済んだんだよ。ね、ディック﹂
﹁あ、ああ⋮⋮危ないところだったな。でも気持ち悪いからって、
服を脱ぎ始めたときは驚いたぞ﹂
﹁あはは、酔ってたからあんまり覚えてないんだけど、そんなこと
してた? ほんと若気の至りってやつだよね﹂
口裏を合わせてるように聞こえるかもしれないが、それが真実だ。
ただ、アイリーンの肌を見て、俺が女性を意識したことは確かだ。
それは言い訳できることじゃない。
ミラルカは俺たちを見ようとせず、不機嫌そうな顔のままだ。や
はり、嘘をついていると思われただろうか。
そんな俺達を取り成してくれたのは︱︱黙って話を聞いていた、
マナリナ王女だった。
﹁私には、お二人が嘘をついているようには見えません。ミラルカ、
信じてさしあげてはいかがですか?﹂
﹁⋮⋮わ、私は⋮⋮本当にそうだったとしても、祝福しようと思っ
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ていたわ。ディックとアイリーンはお似合いだから、何も不思議な
ことじゃないもの⋮⋮﹂
ミラルカは昔からそうだった。いつも言葉は悪いが、旅の途中か
らは俺達のことを仲間だと思ってくれていた。
しかし勘違いは勘違いとして、正さなければなるまい。アイリー
ンの名誉のためにも。
﹁アイリーンだって、相手を選ぶ権利はあるさ。勝手に俺とくっつ
けられちゃ、迷惑⋮⋮﹂
そう言いかけたところで、空気が変わった。なぜか魔王、アイリ
ーン、ミラルカ、そしてマナリナが、俺に視線の集中砲火を浴びせ
てくる。
﹁はー、こういう性格だとわかってはいるけどね。もうちょっと自
信持ってくれていいのに﹂
﹁常に思考が守りに入っているから、こんな体たらくなのよ。開き
直っていない変態なんて、中途半端もいいところね﹂
﹁なっ⋮⋮なんで俺が責められてるんだ。せっかく話が綺麗にまと
まりそうだったのに﹂
﹁ご主人様、こう言われるのも当然です。マナリナ王女殿下も呆れ
ていらっしゃいます﹂
﹁い、いえ⋮⋮私は、その⋮⋮ディック様の、そのような奥ゆかし
いところが、五年前にひと目見たときから⋮⋮﹂
耳まで真っ赤になって、完全に恋する乙女の顔をして、マナリナ
王女が言う。
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一瞬気づくのが遅れたが、王女の言葉の中には、思いもよらない
単語が含まれていた。
﹁⋮⋮五年前、って言ったか? いや、おっしゃいましたか? 王
女殿下﹂
﹁わ、私に敬語なんて使う必要はありません。呼び捨てにしてくだ
さい、勇者ディック様。﹃忘却のディック﹄の名前を、私は五年前
に謁見の間であなたを見てから、忘れたことはありません﹂
国王が、俺かコーディに妻として望まれるかもしれないと、謁見
の間の隣でスタンバイさせていた姫。
その姫君が、第一王女マナリナその人であり、俺のことを見てい
て、さらに好ましく思っていたなどと。
クジ
そんな都合のいい展開が現実にあるわけがない。ないのに、起こ
ってしまった︱︱宝籤で一等を当てるかのごとく。
﹁い、いや⋮⋮俺は大したことはしてないし、ギルドマスターにし
てもらえたのもお情けみたいなもので⋮⋮っていう流れになってな
かったか? なってたよな?﹂
﹁えっ、謙遜してるけど、ちゃんと魔王討伐隊の五人目としてカウ
ントされてたよ?﹂
﹁ただついてきただけと本気で思われていたら、たとえ経営悪化し
たギルドの後釜でも、ギルドマスターの位がもらえるわけないじゃ
ない。ディックは本当におめでたいわね﹂
確かにそうだ、そうなのだが︱︱王と側近は、褒美を与えたとこ
ろで安心して、半年もすれば俺のことをほとんど覚えていなかった。
それは、ギルド員に調査させて確認している。
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しかし謁見の間を見ていた第一王女が、俺のことをしっかり覚え
ていた。なんという片手落ちだろう。忘却のディックは、覚えられ
ていたらただのディックになってしまう。
﹁ディック様⋮⋮あなたは自分の功績を小さく見せて、常に謙遜な
さっていました。でも、見ていればわかることなのです。あなたが、
魔王討伐隊にとって重要な人物であったということは﹂
マナリナ王女の言葉に、魔王が頷いている。バレバレだったとか、
そういうのは本当にやめてほしい。バレてないと思っていた自分が
恥ずかしくて、穴があったら入りたくなる。
﹁この酒場で再会したときも、あなたは⋮⋮お酒に逃げている情け
ない男性のように見せておいて、私が気づかないように、私のこと
を考えてくれていた。ミルクを出されたときは、私のような子供は
相手をしないと言われているようで、悲しかった⋮⋮でも、そのあ
とに素敵なお酒を出してくれた。あのとき、私がどれだけ嬉しいと
思っていたか、おわかりになりますか⋮⋮?﹂
あの笑顔は今も覚えているが︱︱それが、あの日出会ったばかり
の俺に対してではなく、5年前からずっと再会を待ち望んでいた相
手に向けられたものだと思うと、その意味が全く変わってくる。
マナリナ王女は、袖の中に手を差し入れる。そして、その中に忍
ばせていた王家のしるしを取り出すと、俺の手に乗せ、包み込むよ
うに握ってきた。
﹁これは、今回のことのお礼です。本当は、これだけでは足りませ
んが⋮⋮それは、今後もご相談に伺う中で、私がディック様のお役
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に立つことで、お返しできればと思っています﹂
﹁⋮⋮王女殿下がそうおっしゃられるのであれば⋮⋮いや、敬語は
抜きでいいんだったな。ええと、マナリナがそうしてくれると、俺
も助かる。もし王家がらみのことで力を借りることがあったら、よ
ろしく頼む﹂
﹁はい。ディック様のお望みであれば、いかなることでも⋮⋮﹂
魔王といい、マナリナといい、俺が出会うやんごとなき身分の女
性は、信頼した男性に対して尽くしすぎる。
﹁ねーミラルカ、ディックのことで怒ってもしょうがないよ? わ
りといつもこんなだし﹂
﹁⋮⋮勘違いをしていたことは謝るけれど、ディックがだらしない
ことに変わりはないわね。やはり、たまに訪問して引き締めてあげ
るべきかしら﹂
アイリーンとミラルカの間にも、友情が戻った︱︱あとはこれか
ら始まるであろう、依頼達成を祝しての飲み会において、彼女たち
の集中砲火をどうかわして生き残るかだ。夜の部の営業に差し支え
ないよう、ぜひともお手柔らかにしてもらいたいものだ、と他人事
のように考える俺だった。
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第5話 光剣の勇者と新たな依頼
﹃銀の水瓶亭﹄は、夜になると酒場としてそれなりに繁盛してい
る。といっても席数が少ないので、キャパシティ以上になると店の
入り口の気配が薄れ、来客が減るというシステムになっている。列
ができたりするのは良くない、人気店すぎても目立ってしまう。あ
くまでギルド員同士の交流や、依頼者の接客のために酒場として機
能させているだけなので、飲食業で儲けたいわけではないのだ。
夜の部が始まったあとも、ミラルカと王女、そしてアイリーンは
普通に店に残って話していきたい様子だったので、目立たない席に
移ってもらった。こんなこともあろうかと2席ほど個室を用意して
ある。カーテンで中が見えないようになっているが、カウンターか
ら近いので、たまに会話の一部が聞こえてきていた。
﹁ミラルカ、最近大学はどう? また派手な実験してたって話だけ
ど﹂
﹁魔法でいろんな材質の建物を破壊して、攻城戦における効率的な
破壊の仕方を研究しているわ。でも実行できる魔法使いは私しかい
ないから、もっと汎用性のある実験をするべきかしらね﹂
﹁魔王を討伐してからも、﹃はぐれ﹄と呼ばれる魔物たちは残って
いて、砦を作っていたりするんです。ミラルカは付近の人たちが困
っているときは、その砦を攻撃して⋮⋮﹂
﹁オークやオーガ、トロルのたぐいは繁殖力が強いし、放っておく
とろくなことにならないのよ。本当はギルドがやる仕事なんでしょ
うけど、依頼料が高すぎて頼めないということもあるみたい﹂
ミラルカも勇者らしく人助けをしてるんだな、と感心する。今の
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話を聞いていると、破壊実験のついでというように聞こえなくもな
いが。
﹁私の国の魔物はもう暴れていないのに、まだ魔物の害が出ている
のだな⋮⋮﹂
﹁大分減ってはきたけどな。他の国境からこっちに入ってくる魔物
もいるし、空からってのもある。その都度倒すしか方法はないな﹂
﹁そういうことか。空中を飛ぶ魔物といえば、最近王都の近くの森
に火竜が現れたそうだな。繁殖期になると、食料の少ない火山帯か
ら飛来するとか﹂
火竜のつがいが飛来して、森で仕事をする人々が困っているとい
う話は俺のところにも入ってきた。
俺としてはギルドに依頼が持ち込まれれば対応するが、今のとこ
ろそういう話にはなっていない。
白の山羊亭にはSランク冒険者がいるので、おそらく依頼が入れ
ば火竜は討伐されるだろう。
﹁ご主人様は、火竜討伐には興味はないのか?﹂
﹁素材的には、竜の素材はここらじゃ手に入りにくいからな⋮⋮興
味はある。しかし、そんな大きな功績を上げると目立つからな。動
くとしても手順ってものがある﹂
﹁手順⋮⋮なるほど。火竜に苦しむ人々を、ずっと放っておくとい
うわけではないのだな﹂
﹁ヴェルレーヌさん、オーダー入りました∼。﹃お客さま﹄とお話
はほどほどにして、お仕事してくださいね∼﹂
夜の部になると、バイトで雇っているウェイトレスが出勤してく
る。もともとはスラム街でスリをしていた少女だったりして、ギル
ド員としては盗賊として登録されていたりもする。
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﹁オーダー、承りました。お客様、それではまた後ほど﹂
﹁ああ。俺は適当に飲んでるよ﹂
ヴェルレーヌ=エルセインというのが、魔王の本名である。人々
は﹃魔王﹄という呼称しか知らないので、本名を名乗っても魔王だ
とはバレないといえばそうなのだが、俺としては若干オープンすぎ
る職場という感がなくもない。
魔王の国はエルセイン魔王国という名前で、ヴェルレーヌは12
代目の魔王だそうだ。アルベイン王国より古い歴史を持っているの
に、アルベイン国王が52世ということを考えると、種族による寿
命の差と、内乱の頻度の差がよく分かるというものだ。アルベイン
でも王位継承戦争が起きたことがあるが、今の治世は落ち着いてい
るほうである。
﹁ねえ、アイリーン。あのエルフのメイド、いつの間にか普通に働
いているけれど、あなたは何か思うところはないの?﹂
やはり気が付いたか︱︱偽装しても顔が変わってないだけに、ミ
ラルカが看過するわけもない。
﹁話してみると分かるけど、ヴェルレーヌはいい人だよ。手伝って
くれてお店も助かってるし、ディックも喜んでるんじゃない?﹂
﹁⋮⋮ふぅん。ディックを陥れようとか、そういう危険はなさそう
なの?﹂
﹁あ、いちおう心配してるんだ。大丈夫じゃないかな、ディックに
認められるように頑張ってるし﹂
﹁認められる⋮⋮あ、あの、お二人とも。あのエルフの方は、ディ
ック様に、好意を寄せていらっしゃるのですか?﹂
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この時間まで王女が店にいてもいいのか、と心配になるが、今日
はミラルカのところで泊まり込みで勉強を見てもらうことになって
いるらしい。夜遊びには変わりないが、まあバレなければ問題はな
いだろう。
﹁うーん、どうなんだろ。ディックが預かってるものを返してほし
いみたいだけどね﹂
﹁それを口実にして働いているというのに、ディックは気づいてい
るのかしら⋮⋮ときどき抜けているところがあるから、ちゃんと言
ってあげないと﹂
﹁ミラルカ、職業選択の自由というものもありますから、良いので
はないですか? 私もできるのならば、このお店でディック様と⋮
⋮﹂
﹁やっぱり⋮⋮あなた、本当にディックのことしか考えてないのね﹂
﹁ご、ごめんなさい。でも、公爵とのことでディック様がお力にな
ってくれて、本当に嬉しくて⋮⋮﹂
あの女子会の席に呼ばれないだけ助かっているが、もし呼ばれた
ら色んな意味で逃げられる気がしない。
そして酒に逃げかけたとき、カランコロン、と店のドアベルが鳴
り︱︱焦げ茶色の地味な外套を羽織り、顔をフードで隠した客が入
ってきて、カウンターにいる俺のところへやってきた。
﹁隣、空いてるかな﹂
﹁ああ、空いてるぜ﹂
俺の店に来るときは、目立たないように︱︱そう言われている客
のひとり。
﹃輝ける光剣・コーディ﹄。近いうちに来るとは思っていたが、
62
今日になるとは思っていなかった。
フードを脱ぎ、コーディは常にそうであるように、爽やかに笑っ
て見せた。その顔色も、前に店に来たときよりは、ずいぶん良くな
っている。
﹁お客様、オーダーは何になさいますか?﹂
﹁冷たいエールをお願いできるかな﹂
﹁かしこまりました﹂
エールはブレンドと違って、注ぐだけですぐに出せる。冷蔵用の
氷室を備えている酒場は、王都に数ある酒場の中でもここしかない。
ヴェルレーヌは何も言わなくても、俺の分もエールのお代わりを
出してくれた。ジョッキを合わせると、コーディは半分ほどを一気
に飲み干す。
﹁ふぅ⋮⋮うまい。この店のエールはやはり格別だね﹂
﹁他の酒場の仕入先とは違うからな。エールも素材と作り手の腕で、
味が大きく変わる﹂
﹁昔から凝り性だね、ディックは。君ならどんな店をやっても、他
とは違う特色を出せるんだろうな﹂
﹁俺がうまい酒を飲みたいだけだ。酒場として工夫するほど、本来
の姿も見えにくくなるしな﹂
俺はコーディにはわりと包み隠さず喋る。酒場としての偽装が、
ギルドとしての優秀さを隠すため︱︱そんなことは、他の人間には
滅多に言わない。
コーディは残りのエールを飲み干すと、出されたつまみを口にし
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始める。そうやって飲んでいるところだけを見ると、騎士団長だと
いうより、若い騎士が友人と飲んでいるようにしか見えないだろう。
友人というのもなんだが、そこは意地になって否定してもしよう
がない。コーディは裏表のないいい奴で、それは色々なしがらみを
知って少し枯れてしまった今でも変わっていない。
﹁⋮⋮王女のことだけど、あれは君の助けによるものなんだろう?﹂
﹁ミラルカも試合を見てたって言ってたから、騎士団長のお前も可
能性はあると思ってたが⋮⋮まあ、俺の魔法を知ってるやつには一
目瞭然か﹂
﹁いや、魔法の気配は感じなかった。けれどあの﹃強化されている
感じ﹄を見て、懐かしいと思ったんだ。もう、完全に勘みたいなも
のだけどね﹂
﹁それで俺に会いに来たのか。まったく、律儀なやつだな﹂
﹁ははは⋮⋮でも、ミラルカもそうだったんじゃないかな。あんな
ものを見せられたら、ここに来ずにはいられないだろう。君はやは
り、この王都に影響力を持っている。﹃忘却のディック﹄の名を口
にする者が、ごく限られている状況でもね﹂
コーディがそういうのなら、俺の目論見は上手くいっていると考
えていいのだろう。騎士団長の元に入る情報量を考えて、俺の存在
が表に出てこないのなら、うまく隠蔽できているわけだから。
﹁ん⋮⋮このつまみも美味しい。木の実を揚げたものかな?﹂
﹁火炎クルミの素揚げだな。そのままでも食べられるが、加熱する
とピリッとした辛みが出てくるんだ﹂
﹁へえ⋮⋮この辛みは癖になるね﹂
﹁ちなみにこれはお通しってやつだが、うちの店ではタダにしてる。
遠慮無くつまんでくれ﹂
64
﹁相変わらず気前がいい店だね。しかし、この感じは⋮⋮どうやら
炎の耐性がつくみたいだ﹂
﹁多少はな。もっと強い耐性がつくようにするには、酒も合わせる
必要がある。そこまでするのは、炎を吐く魔物と戦うときくらいだ
な﹂
俺も火炎クルミを口に運び、その辛みを味わう︱︱この木の実の
調理法としては、最もこれが適しているだろう。エールとの相性も
抜群にいい。
しかし何を思ったか、コーディは火炎クルミの入った小皿をじっ
と見ている。こいつがこういう顔をする時は、わりと真剣な相談事
を持ちかけてくる時なのだが︱︱今回も例外ではなかった。
﹁ディック、一つ頼みたいことがある。できれば仕事を僕から持ち
込むことはしたくなかったが、やはり君にしか頼めそうもないこと
なんだ﹂
﹁断る。と言いたいが⋮⋮内容次第だな。俺のギルドに不可能はな
いが、何でも屋ってわけじゃない﹂
俺はミラルカたちが聞いていないかうかがうが、彼女たちは近況
などの世間話をしていて、まだコーディが来店したことすら気づい
ていないようだった。
﹁それで、頼みたいことってのは? 猫探しとか、そういう依頼は
普通のギルドにしてくれ。絶対に受けないわけじゃないがな﹂
﹁猫探しだったら、騎士団でも解決できる案件だよ⋮⋮と言いたい
ところだけど、君が1日で探せても、僕らは何日もかかってしまう
だろうね﹂
65
俺の作った情報網について、コーディは具体的には知らないが、
俺が王都のことに誰よりも詳しいという評価を下している。それは
あながち間違いでもないだろう。
柔和な笑みを浮かべていたコーディが、不意に真剣な顔をする。
そして、周りに決して聞こえない小さな声で言った。
﹁僕の部下に、ティミスという女性騎士がいる。彼女は百人長を務
めているんだけど、今回王都の東にある森に現れた火竜討伐に志願
したんだ﹂
﹁百人長か⋮⋮その、ティミスっていう騎士の戦闘評価は?﹂
﹁1840。Cランクの冒険者に相当する数値だ﹂
騎士団では千人長になると、ようやくBランク冒険者に戦闘評価
が並ぶ。
そして火竜討伐の難度は、Aランク冒険者が6人でパーティを組
んで、ようやく達成できるかどうかとされている。つまり、そのテ
ィミスという女性騎士は、このまま行けば確実に討伐失敗し、下手
をすれば命を落とすということだ。
﹁そんな無謀な志願をしたところで、許可しなければいいことだろ﹂
﹁それが⋮⋮国王陛下直々に、僕に命令が下った。ティミスの希望
には、できる限り答えてやってほしいと。そして、彼女が昇進のた
めに努力するなら補助するようにとおっしゃっているんだ﹂
﹁⋮⋮あんまり聞きたくないんだが、そのティミスと国王の関係は
?﹂
﹁国王の側室の娘なんだ。子供のころから、ある程度武芸に長けて
いて、槍使いとしては同期の士官の中では特に優秀だと思う。でも、
少し功をあせりすぎているところがある﹂
66
火竜が近くに現れたというのは、功績を急ぐ者にとっては、渡り
に船と映ったのかもしれない。
﹁正室の嫡子⋮⋮マナリナ王女でなければ、王位継承権はない。だ
から、騎士として勲功を上げようとしてるのか。それ自体は、悪い
ことじゃないと思うが。王の命令に従って、結果として王の娘を死
なせたら、その方が問題になるだろう﹂
﹁ああ⋮⋮だから、僕が火竜を倒してしまうことも考えた。しかし、
僕は騎士団長だ。影武者を用意しているわけでもないし、留守にす
れば周囲にすぐ悟られてしまう﹂
﹁⋮⋮まあ、そうだろうな﹂
コーディに対する周囲の信頼は厚く、直属の副将軍たちは、こと
あるごとにコーディの指示を仰ぐ。彼が居なくなれば、部下たちを
動員してでも探そうとするだろう︱︱そしてコーディが動いたと国
王が知れば、事情を察知される可能性がある。ティミスが望んだ火
竜討伐を、コーディが事前に潰したと思われても仕方がない。
ひたすら面倒な話だが、コーディはそれでも国王に忠誠を誓って
いるのだ。今では冒険者を引退したコーディの両親に、手厚い保障
をしているということもある。
勇者としての力だけで国を興せるというのに、コーディはそうい
った野心を全く持っていない。それを傍から見ていて勿体ないとも
思うが、彼が騎士団長だからこそ、国は安泰であるというのも間違
いはない。
﹁⋮⋮ティミスのパーティが、火竜討伐に必要な情報を求めて、こ
の店にやってくるとしたら。君は、彼女を勝たせてあげられるだろ
うか?﹂
67
王女の決闘の時とは、難易度がはるかに違う︱︱相手は人間でな
く、火竜だ。戦闘評価にすれば、成竜ならば最低でも1万2千点。
1840の騎士など、一撃で鎧を破壊され、二撃目で命に危険が及
ぶだろう。
仮にティミスが部下を引き連れて行けば、火竜は集団の敵を一掃
するため、必ずブレスを吐く。そうすれば甚大な被害が出てしまう。
しかし︱︱火竜討伐には、コツがある。それを踏まえれば、戦闘
評価の差を覆すことも不可能ではない。
ベルフォーンの森に火竜がやってくるのは、今回が初めてのこと
ではなかった。俺は二年前、別の火竜の個体を討伐したことがある
のだ。ギルド員に、俺の作戦を代行させてのことだが。
血気盛んな女性騎士に火竜を倒させ、さらに自分の実力に見合わ
ない行動を今後取らないように指導する。
その両立が可能であるのかと問われれば、俺は答える。条件さえ
整えば、不可能ではないと。
68
第6話 ラストオーダーと誕生祝い
﹁勝たせてやることはできる。そのティミスに、ギルド員を接触さ
せよう。部下を無駄に犠牲にしたくなければ、12番通りのギルド
の力を借りるようにと伝えさせる。あとは、そのティミスって騎士
の考え次第だ﹂
﹁⋮⋮ありがとう。こんな無茶なことは、断られるのが普通だ。そ
れなのに君は⋮⋮﹂
﹁いや、無理なことなら普通に断るさ。面倒なことを背負うために、
ギルドをやってるわけじゃない﹂
﹁それでも、僕は恩に着るよ。国王陛下は、自分の娘を昇進させて
やりたいと思っているだけだ。ティミスを守ることを第一に考える
と、僕は彼女の望みを叶えられない。同じ部隊に入って戦うとして、
もし最後の一撃をティミスに譲ったとしても、火竜の最後の暴走に
巻き込まれる危険を消すことができないんだ﹂
それについてはコーディが冷静に分析できていて良かったところ
ではある︱︱彼の言う通り、火竜は追い込まれると最後の抵抗を試
みて暴れたり、ブレスを吐き散らすことが珍しくない。
﹁報酬については、そのティミスから払ってもらうのが良さそうだ
な﹂
﹁場合によっては、彼女が報酬として提示するものは⋮⋮いや、そ
れは話してみないと分からないか﹂
﹁思わせぶりだな⋮⋮まあいい。コーディ、後は任せろ。﹃面談﹄
次第で依頼を受けるか決めるが、どう転がっても、彼女が死なない
で済むようには考える﹂
﹁⋮⋮すまない。本当は僕が上手く、危険な任務に手を出してまで
69
昇進を急ぐことはないと諭すべきなのに﹂
﹁説教役は嫌われてもいい奴が務めればいい。騎士団長殿は、常に
皆に尊敬されるのが仕事だろ⋮⋮と、堅苦しい話はここまでだ。ま
あ酒場に来たんだから、もう少し飲んでいけよ﹂
俺が話を切り上げたのは、ミラルカたちが個室から出てきたから
だった。彼女たちはコーディを見つけると、軽く挨拶をして、空い
ているカウンターの席を埋めた。席は俺、コーディ、アイリーン、
ミラルカ、マナリナの順だ。
﹁あ、コーディの顔色がよくなってる。気苦労がなくなったってこ
と?﹂
﹁いや、こいつはまた厄介ごとを抱え込んでるよ。マナリナのはか
らいで、多少は楽になったみたいだけどな﹂
﹁王女殿下、その節は大変お世話になりました。国王陛下に、貴族
と騎士団の関係についてご進言をいただいたそうで⋮⋮﹂
﹁あまりそういう話題ばかりも良くないわね、ディックは目立ちた
くない病だから﹂
﹁病とはなんだ⋮⋮まあでも、うちの店ではあまり国家規模の話は
しないでもらえると助かるな﹂
﹁あはは、それにしても懐かしいよね。こうやって4人揃うのって、
すごく久しぶりじゃない?﹂
﹃奇跡の子供たち﹄の最後のひとりであるユマは、俺たちの中で
最も忙しくしていると言っていい。まだ14歳だというのに、孤児
院の院長と、大司教の後継者としての勉強で、ほとんど遊ぶ時間も
ないという。
しかしアイリーンとミラルカは、たまに彼女に会いに行っている
そうだ。俺にも会いたがっているというが、そう聞いてから会いに
70
行くのも照れるものがある。それも複雑な男心だ。
﹁お客様、そろそろラストオーダーのお時間になりますが、いかが
なさいますか?﹂
﹁あ、あの⋮⋮ディック様、一つお願いしてもよろしいでしょうか。
私のために作ってくださったように、﹃特別なお酒﹄を、また作っ
てくださいませんか⋮⋮?﹂
﹁あ、ああ⋮⋮まあ、別に構わないが。じゃあ、ちょっと待ってて
くれ﹂
俺はひそかに店の厨房に入り、4人に出すための酒をブレンドし
た。
ミラルカには落ち着いた淑女になってほしいとの願いを込め、月
夜草から作ったリキュールと、ロイヤルパパインの実を絞った果汁
を合わせたものを。
アイリーンは強い酒が好きなので、酒精の純度を高めたドワーフ
の火酒を、永久凍土産の結晶氷割りで。
マナリナには、アルベイン王国の伝統ある名酒のひとつであるチ
ェリー酒にクリームを合わせ、飲みやすくするためにシロップを足
した。
エール酒が好きなコーディには、そのままお代わりを出す。まあ
俺も、今日はエールで通すつもりだ︱︱いつもは一つの種類の酒で
はまったく酔わないので、ほろ酔い気分を味わうには複数種類を飲
むしかないのだが。
俺の代わりに、ヴェルレーヌがみんなにブレンドした酒のグラス
を出す。グラスの形をいろいろと作れる職人を見つけるのは、かな
り大変だった︱︱しかしブレンドした酒を入れる器が、エールと同
じジョッキというわけにはいかない。酒は雰囲気を楽しむものでも
あるのだ、と自分が飲むようになってから思うようになった。
71
﹁⋮⋮ディック、どこでこんなレシピを覚えたの?﹂
﹁まあ、独学で色々試してるんだ。時間はあるからな⋮⋮あ、そう
だ。ミラルカ、念のために聞いておくけど、酒が飲める年だよな?﹂
﹁え、ええ⋮⋮あっ⋮⋮﹂
ミラルカが何かに気づいたような顔をする。年齢的に、ミラルカ
はぎりぎり16になっているか、なってないかのはず︱︱誕生日も、
確か今くらいの時期だったような⋮⋮。
﹁⋮⋮あっ! ミラルカ、今日誕生日じゃない? ちょうど一年前
って、まだお酒飲めなくて、来年になったら飲めるって言ってたよ
ね﹂
﹁⋮⋮え、ええ。そうだったみたい﹂
﹁良かった、偶然だけどみんなで祝うことができるね。あ⋮⋮もし
かしてディックは、知っていたのかな?﹂
もちろん知らなかったのだが、ミラルカははっとしたような目で
俺を見る。
可憐なる災厄が、誕生日を祝われていると思い込み、俺の評価を
爆上げする︱︱そんなことになったら、彼女はデレてくれるのだろ
うか。俺の精神衛生的には非常に助かるが、そんな甘い話は⋮⋮。
﹁⋮⋮あれ、ミラルカ、どうしたの?﹂
﹁っ⋮⋮い、いえ、何でもないわ。ちょっと、目にごみが入っただ
け⋮⋮﹂
アイリーンに心配されて、ミラルカは目元をハンカチで押さえる。
それでもなかなか涙が止まらないようで、うつむいたままで止まっ
てしまった。
72
俺はミラルカ以外のみんなに視線を注がれる。コーディは自分の
ことになると、女性に対してからきし弱いくせに、人のことになる
とわりとお節介なところがあり、﹁何か言ってあげなよ﹂という顔
で見ている。アイリーンもそんな感じだ。
﹁⋮⋮え、えーとだな、その、誕生日だったのなら、それは結構め
でたいことだよな﹂
﹁うわ、すっごいあいまいな感じ。全力で照れ隠ししてる﹂
﹁ミラルカ、おめでとうございます。こんな時は、みなさんでその、
グラスを合わせたりするのでは⋮⋮?﹂
王女殿下の言葉に、ミラルカは誤魔化しきれないと悟ったのか、
まだ目が赤いままで顔を上げると、﹁何か文句があるの?﹂という
顔で俺を睨んだ。そんな目で見られても苦笑するほかない。
﹁⋮⋮お客様、仕切りはお任せいたします﹂
﹁なにげに自分も飲もうとするんじゃない、勤務中だろ﹂
﹁酒場の店員ですから、まかないでお酒を飲むというのも、風雅で
よいのではないでしょうか﹂
店員の特権と言わんばかりに、高い酒をグラスに注いでいる持っ
ているヴェルレーヌ。エルフの神秘的な外見もあいまって、やたら
とサマになっていた。
彼女が好きな酒は、初めて店に来たときに飲んだ霊命酒だ。滋養
強壮に効くとかそういう類のものが大好きらしく、栄養のありそう
な素材が入荷すると、新メニューになるかもしれないと言ってよく
酒に漬けている。
﹁風雅というのか知らんが、まあいいや。えーと、依頼達成と、誕
73
生日を祝って。乾杯!﹂
﹁⋮⋮目立ちたくないからって、名前を省略するなんて。まあ、い
いけれど﹂
﹁かんぱーい! うぉー、今日はまだ飲むぞー!﹂
﹁えっ、まだ飲まれるんですか? もう、強いお酒を一瓶ほど開け
られているのでは⋮⋮?﹂
﹁アイリーンは生半可なことでは酔わないので、水みたいに飲んで
しまうんですよ。僕とは大違いだ﹂
立派なザル女に成長するまでは、酔うと色っぽくなる姿を見られ
たのだが︱︱まあそれはそれで、そんな状態が続いたら俺も据え膳
的なものに箸を伸ばさざるを得ないので、良かったのかもしれない。
﹁く∼、目から火が出そう! ドワーフのお酒って、身体が溶岩み
たいに熱くなるよね!﹂
﹁純度が高すぎて、本当に火がついてしまうんじゃないかしら⋮⋮﹂
﹁よし、アイリーンの火吹き芸でお祝いしよう。火打石なら常備し
てある﹂
﹁鬼族最強の武闘家が火を吹くようになったら、さらに伝説が一つ
加わってしまうね。僕も負けていられないな﹂
こうして話していると、旅をしていたころを思い出す。毎日破天
荒な彼らの行動にツッコミを入れて矯正しようとする日々︱︱懐か
しいが、二度と同じ旅路は繰り返したくない、心からそう思う。
﹁ふふっ⋮⋮みなさん、本当に仲が良いんですのね。これだけ強い
人たちが仲良しだったら、魔王を倒せたことも不思議ではありませ
んわ﹂
﹁うむ、全くもって⋮⋮い、いえ。何でもございません、お客様﹂
74
魔王が思わず相槌を打ちかけて誤魔化す。マナリナは魔王の顔を
知らないとはいえ、目の前にいるとは夢にも思わないだろう。
そして俺の作ったブレンドを、ミラルカとマナリナが口にする。
経験上、二人のようなタイプには体質的にも合っていると思うし、
味もなかなかだと思うのだが︱︱この瞬間が一番緊張する。
﹁⋮⋮お酒って、苦いものだと思っていたけど⋮⋮そうじゃないも
のもあるのね﹂
﹁んっ⋮⋮美味しい。すごくまろやかで、お酒が本当に入っている
のかわからないくらいですわ﹂
﹁もう大人になった二人には、相応に濃くしてあるけどな﹂
﹁何を言ってるの、ふたつ年上なだけなのに。ずっと大人みたいな
顔をしているけど、この人、まだ20歳にもなっていないわよ。騙
されないようにね、マナリナ﹂
﹁ディック様の御歳は、初めて謁見の間に来られたときに存じ上げ
ています。私より2つ年上とお伺いしましたから⋮⋮もう一度お会
いしたとき、すごく大人びた風貌になられていて驚きました﹂
いちおう酔っ払いとしても身だしなみというのがあるし、客が減
るような姿でカウンターに座っているわけにもいかないので、それ
なりに服などには気を使っている。だらしなくしているとヴェルレ
ーヌとアイリーンの注意を受けるというのもあるが。
大人びたかどうかは、自分で鏡を見ても多少はやさぐれたなと思
うものの、5年経ったなりの変化だと思う。酒で身体を悪くすると
いうことは全くない、俺は翌日に酔いを残さないよう、医療魔法で
酒の毒を中和することができるのだ。これはギルド員にも好評で、
飲んでも翌日の任務に差支えがなくなると喜ばれている。
75
そんなわけで、ミラルカとマナリナも大丈夫だろうと思ったのだ
が⋮⋮。
最初は一口ずつ上品に飲んでいたミラルカが、半分ほどグラスの
中身が減ったところで、くぃっと残りを飲み干してしまう。マナリ
ナはグラスをぽーっと見つめながら、少しずつ口をつけているが、
ゆっくりとはいえきつめの酒精が入った一杯を、短い時間で飲んで
しまった。
﹁み、ミラルカ、マナリナ。甘くて飲みやすいかもしれないけど、
ほんとに酒としては普通にきついから、ほどほどにしておけよ?﹂
﹁⋮⋮誕生日なのに、何を我慢する必要があるの? いいからもう
一杯出しなさい﹂
﹁い、いや⋮⋮それくらいにしとけって。千鳥足で、家に帰れなく
なるぞ﹂
酒については俺の方がはるかに先輩なので、親切心で忠告する︱
︱しかしミラルカは席を立つと、あろうことか、俺の肩に手を置い
てぐっと迫ってくる。
﹁ち、近いっ⋮⋮一杯で酔うとかどういうことだ、個室ではジュー
スしか飲んでなかったろ!﹂
﹁⋮⋮あんな美味しいものの味を教えておいて、お預けをするなん
て許されると思う?﹂
﹁ディック様、わたくしも、もう一杯いただきたいのですが⋮⋮ラ
スト・オーダーを、一度だけ延長してくださいませんこと⋮⋮?﹂
金と黒の髪の美少女コンビが、俺に酒をねだってくる。飲ませる
んじゃなかった、酒の味がするけど成分が薄いやつを出せばよかっ
た、と後悔してももう遅い。
76
﹁では⋮⋮お店じまいをした後ならば、それはオーダー外となりま
すので、良いのではないでしょうか﹂
﹁あ∼⋮⋮わかったよ、俺の蒔いた種みたいなもんだしな。何がい
い?﹂
﹁わたくしは、美味しいお酒が飲みたいですわ。ディック様の手に
よるものならば、なんでも⋮⋮﹂
﹁私は⋮⋮さっきと同じものでいいわ。ディックの、とても美味し
かったから、いくらでも入りそう⋮⋮﹂
﹁ね、狙って言ってるんじゃないだろうな⋮⋮潰れるほどは飲ませ
ないぞ。あと一杯にしておけよ﹂
﹁ディック、僕ももう一杯いいかな。それを飲んだら、騎士団の詰
め所に帰るよ﹂
酒の匂いをさせて帰ってきたら、コーディのイメージが悪化しな
いかとも思うが、こいつなら酔っぱらっていても爽やかなままだろ
う。酔い覚ましの魔法も、適度に酔って気分が良くなっている時に
かけるのは無粋というものだ。
77
第7話 若き女騎士と二人の護衛
俺はみんなに酒を出したあと、残っていた客に声をかけて退店し
てもらい、店じまいをした。一仕事終えた俺の元に、ヴェルレーヌ
がやってきてエールを差し出す︱︱その後ろでは、カウンターで三
人の女性がまだくだを巻いている。
﹁ねー、ディックって女の人に興味ないのかな∼。あたしのこと友
達としか思ってないのかな∼?﹂
﹁友達以上になることを、すごく真面目に考えているのよ⋮⋮ひっ
く。ごめんなさい、何かしら⋮⋮しゃっくりなんて⋮⋮ひくっ﹂
﹁ミラルカはディックさんのことを、どう考えているんですの? 今の気持ちを知りたいですわ﹂
﹁今の⋮⋮私は昔から、ディックのことは⋮⋮ひっく。ひねくれて
いるけど、優しい人だと思ってるわ⋮⋮﹂
﹁うん、僕もそう思うよ。ディックはなんだかんだいって、僕らの
ことを常に考えてくれていたからね﹂
コーディが爽やかに受けてくれたので、ミラルカの本音を聞いた
照れくささが若干中和された。
優しい、という評価が喜ぶべきなのか分からないが、まあそんな
ふうに思ってくれているのなら、普段の毒舌によるダメージも緩和
されるというものだ。
﹁⋮⋮アイリーン、ディックは優しかった?﹂
﹁えっ⋮⋮だ、だから違うよ? あたしとディックは、まだそうい
うの、全然っていうか⋮⋮﹂
﹁きっとディック様は、とてもロマンチックな気分にしてくださっ
78
て、そのまま夢見心地のままで⋮⋮ああ、いけませんわ、そんなこ
と。わたくしたちは、まだ知り合って間もないというのに⋮⋮﹂
頭を抱えたくなる会話が続いているが、コーディは言っていたと
おりに最後の一杯を飲み干すと席を立ち、ヴェルレーヌに代金を渡
してから店をあとにした。
﹁じゃあみんな、またそのうち会おう。ディック、今日は世話にな
ったね﹂
﹁おう、まあ気にするな﹂
﹁世話になった⋮⋮コーディ、何かディックに頼みごとでもしたの
?﹂
﹁まあ、ちょっとな。今のところは内密にさせておいてくれ﹂
﹁ふぅん⋮⋮今日は私も、少しくらいはあなたのために何かしても
いい気分なのだけど。今回は必要ないというなら、それでもいいわ。
そのうち借りを返させなさい﹂
借りというと、さっきの酒のことだろうか。誕生日祝いが、それ
だけ嬉しかったということで⋮⋮何だろう、すでに微妙にデレてい
る気がしなくもない。
﹁すぅ⋮⋮すぅ⋮⋮﹂
﹁あら、王女殿下が寝ちゃってる。ミラルカ、連れて帰れる?﹂
﹁無理ではないけれど⋮⋮ディック、この店に休めるところはない
かしら﹂
この展開は︱︱飲み会の後につぶれてしまい、仕方ないので泊ま
っていくという例のあれだろうか。
﹁ご主人様⋮⋮今夜は、お楽しみになりそうですね﹂
79
﹁なんだそれは⋮⋮というかお前も同じ家だろ。アイリーンは近く
なんだから、帰って寝るんだぞ﹂
﹁えー、あたしもせっかくだから泊まりたいな。ミラルカ、王女さ
ま、一緒に寝ようよ﹂
アイリーンは王女を軽々と抱き上げると、ギルドの二階︱︱俺の
居住スペースに行ってしまった。ミラルカも当然というようについ
ていこうとして、立ち上がった拍子に少しふらついてしまう。俺は
反射的に立ち上がり、彼女の体を受け止めた。
﹁おっと、気をつけろよ。﹃可憐なる災厄﹄も、酒には勝てなかっ
たか﹂
﹁⋮⋮あ、ありがとう⋮⋮少しふらついただけよ、心配しないで﹂
ミラルカはすぐ離れると、二階への階段を上がろうとする。しか
し足に力が入らないようで、その場に座り込んでしまった。
﹁⋮⋮足にくるなんて、いったいお酒に何を入れたの?﹂
﹁初めてなのに、結構きつめのを飲むからだよ。解毒してやろうか
? 肝臓の上から触る必要があるけどな﹂
﹁い、いいわ⋮⋮肝臓って、おなかに触るってことじゃない。まさ
かいつもそんなことしてるの?﹂
﹁し、してないけど。体が心配だから、必要ならそういうこともで
きるぞっていうだけで⋮⋮まあいいや。肩を貸してやってもいいし、
おんぶでもいいから、上に連れてってやるよ﹂
﹁⋮⋮わ、私に選択の余地を与えないで。そんなの、どちらでも同
じくらい⋮⋮﹂
﹁では、私が連れて行ってやろう。案ずるな、魔王と勇者というの
は過去の話。私はただのメイドなのだからな﹂
﹁っ⋮⋮あ、あなたにつれていって欲しいと言っているわけじゃ⋮
80
⋮﹂
ヴェルレーヌは何を思ったか、ミラルカを抱え上げて連れて行っ
てしまった︱︱さすが魔王。アイリーンといい、人一人運ぶなど造
作でもない力の持ち主たちだ。
ミラルカは恨めしそうに俺を見ていたが、俺もおんぶをすること
によって、彼女の発育を確かめられなかったのが残念といえば残念
だった。友情を重んじる俺だが、男女の間に友情は存在しないとい
う言葉にも、それなりに心を動かされてしまうのだ。
こうして銀の水瓶亭は営業を終える。俺は魔法で灯しているラン
タンを消し、客の忘れ物などがないかを確かめ、戻ってきた魔王と
一緒に使った食器とグラスの拭き上げ、そして明日に向けての仕込
みを行うのだった。
そして、2日後の昼下がり。ティミスの依頼に備えて一日で﹃仕
込み﹄を終えた俺は、彼女の来店を待っていた。
火竜の被害は今のところ軽いもので、森の近くの住民が手を出そ
うとして、威嚇されたというくらいだった。威嚇で済めばいいが、
虫の居所が悪ければ人間を襲うこともあるので、すでに森には侵入
制限がかけられている。
時間が経てば火竜たちの繁殖期が終わり、飛べるようになった幼
竜とともに、火山帯に帰っていく。
しかし餌は確実に不足するので、火竜たちは近隣の村まで飛んで
いき、家畜を襲うようになる。そうなる前に対処しなければならな
い。
81
︱︱そして、ドアベルが鳴り。﹃依頼者﹄であることを示す、火
曜日に対応した褐色の外套を羽織って、一人の女騎士と、一人の虎
獣人の女性、そして射手らしき物静かな男がやってきた。
女騎士の容姿を見て、すぐに悟る︱︱マナリナと、どこか面影が
似ている。しかし鎧を着て、槍を背負ったその姿は勇ましく、堂々
と立派な胸を張って歩く姿は、武人としての誇りを感じさせる。
その隣にいる虎獣人に、俺は瞠目せずにいられなかった。彼女は
刀を持っている︱︱はるか東方の国で特殊な鍛造技術を用いて作ら
れる、こちらで主流の長剣とは一線を画する強度、切れ味を持つ武
器。彼女のクラスが﹃ソードマスター﹄であることを、その武器が
示していた。
カウンターに座っている俺を、女騎士と虎獣人は一瞥するが、ま
だ客としか認識していない。そして女騎士のほうが、ヴェルレーヌ
に問いかけた。
﹁ここは、銀の水瓶亭で間違いありませんか? 私はアルベイン王
国騎士団の︱︱﹂
﹁お客様、こちらでは素性を明かされる必要はございません。ここ
はただ、お酒を楽しんでいただくための場でございます﹂
マナリナの時と違い、ティミスは真面目すぎるのか、﹃合言葉﹄
を言う前に名乗ろうとする。他の客が来ないように出入り口に魔法
をかけて選別しているから、問題はないのだが。
﹁オーダーはいかがなさいますか?﹂
﹁﹃ミルク﹄を。それがなければ、﹃この店でしか飲めない、おす
すめのお酒﹄をお願いします﹂
82
﹁かしこまりました。﹃当店特製でブレンド﹄いたしますか?﹂
﹁はい、﹃私だけのオリジナル﹄で﹂
合言葉が通り、女騎士はヴェルレーヌを静かに見つめる。ヴェル
レーヌが微笑むと、女騎士はふぅ、と安心したように息をついた。
﹁あぁ、良かった。やっぱりここで良かったみたい﹂
﹁⋮⋮ティミス様、やはりこんな場末のギルドに依頼など必要あり
ません。火竜は、私が一刀で切り伏せてみせます﹂
﹁ライア、私もそう思っています。私とあなたが組めば、火竜など
敵ではありません﹂
彼女たち二人のやりとりを聞いていて、俺は思う︱︱これは、コ
ーディが困るわけだと。
ティミスはCランク冒険者に相当する力しかないのに、火竜を倒
せるという絶対的な自信を持っている。
それはどうやら、同行している虎獣人の女性を信頼しているから
でもあるようだ。俺の目から見ても、Aランクに相当する力は確か
に持っている︱︱しかしそれは、戦闘評価6000程度ということ
になる。
Aランクが6人揃い、最大の連携効果を発揮すれば、パーティで
の戦闘評価が1万2千となり、火竜を倒せる可能性が出てくる。し
かし、ライアだけでは全く足りていない。もう一人のずっと喋らず
に控えている射手の男も、俺の経験上、Bランク相当の腕しかない
ようだ。
未経験、無知というものがどれほど恐ろしいか、と見ていて思う。
ティミスはマナリナと比べると、自信に溢れているように見える︱
︱それも、自分の力ひとつでのし上がろうとする野心があるからだ
83
ろう。
﹁ライア様とおっしゃいましたか。彼女とそちらの男性は、ティミ
ス様とはどのようなご関係ですか?﹂
﹁ライアとマッキンリーは、私の護衛です。ですから、今回は特別
に同行してもらいました。何か問題でも?﹂
﹁いえ、問題はありません。依頼を受けさせていただく上で、ティ
ミス様のパーティについて情報を教えていただくことも、必要なこ
とというだけです﹂
まず騎士が護衛をつけているというのも違和感はあるが、それも
彼女が国王の側室の娘であるから、ということだろう。百人長なら
ば騎士団の部下もいるが、ティミスは連れて来なかった︱︱それは、
火竜討伐で犠牲者を出さないようにという考えからか。
それにしても、ライアという虎獣人にはどうしても一目置いてし
まう︱︱彼女は虎と人間のハーフではなく、まったく別個の種族だ。
虎のような獣耳を持ち、その体の一部が体毛に覆われているが、見
た目はほとんど人間と変わらない。年齢は二十歳ほどだろうか、髪
は短くしていて、その瞳は一見すると静かだが、奥には鋭い光を宿
している。
虎獣人の筋力はまさに肉食獣のもので、全身が引き締まっている。
身に着けている革の胸当てに腰鎧、脚絆と、前衛としては軽装備に
も見えるが、それはスピードを殺さないためだろう。刀を使って大
ダメージを狙い、俊敏さを活かして離脱する、それがおそらく彼女
の戦闘スタイルだ。彼女は片方の目を眼帯で覆っている︱︱おそら
く、ティミスの護衛となる前は、傭兵でもやっていたのだろう。俺
のギルドに欲しい、そんな考えがよぎるほどの逸材だ。
84
マッキンリーは俺と同じか少し上くらいの年齢で、フードを未だ
に外さず、その目には何か陰があるように見える。中肉中背でそこ
そこ筋肉がついており、重量のありそうなクロスボウに似た形の武
器︱︱アルバレストを担いでいる。アルバレストは普通のクロスボ
ウで撃てない大きな矢弾を放つことができるので、ただの矢では通
じない火竜討伐にも使える武器だ。
ティミスは二人の実力を信頼しているが、過大に評価してもいる。
だからこそ、火竜討伐に志願したのだろう︱︱仲間を頼るのは悪い
ことじゃないが、実力の劣るティミスがパーティに入れば、それだ
け戦闘評価を下げてしまう。
﹁この店を紹介してくれたのは、私の信頼できる同僚です。ですか
ら様子を見には来ましたが、どうしても力を貸してほしいとは思っ
ていません。あなたがたが、火竜討伐をする上で有益な情報を持っ
ているのならば、その限りではありませんが﹂
そのティミスが信頼できる同僚というのが、コーディの忠実な部
下というわけだ。騎士団長が自分のために動いているなど、この血
気盛んな女性騎士は、まだ全く気がついていない。
﹁お客様のご心配を解消する意味で申し上げますが、当ギルドの情
報は常に有益です。そして、火竜討伐を確実に成功させたいと望む
のならば、一つお約束をお願いいたします。私達の指示には忠実に
従ってください﹂
ヴェルレーヌも一歩も引かない。ライアの視線が鋭さを増すが、
彼女は何も言わなかった。
ティミスも少し考えている様子だったが、ここで依頼をせずに帰
るというほど、彼女は浅慮ではなかった。
85
﹁⋮⋮私は火竜をどうしても狩らなければなりません。お父様の期
待に応えるためにも、母のためにも﹂
﹁お嬢様⋮⋮﹂
ライアは心から主人の身を案じている。本来なら彼女がティミス
の無茶を諌めるべきなのだろうが、彼女の願いを成就させることの
方が、ライアの中で優先されているのだろう。
﹁私どもに従ってくだされば、ティミス様のパーティ三名の生還と、
火竜討伐の成功を保証いたします。半分ほどプランを説明して、そ
こで決めていただくこともできますが⋮⋮﹂
﹁⋮⋮いいえ、それだけの誠意を示していただけるなら、私も誠意
をもって応じます。お話を聞くというのは、そういうことです⋮⋮
情報には、それだけの価値がありますから、聞いただけで終わりと
いうわけにはいきません。失礼なことを言ってすみませんでした﹂
﹁いえ、そのように言っていただければ、こちらとしても嬉しく思
います。そちらの席をどうぞ、お飲み物をお出しします﹂
ティミスもただ自信過剰なだけではなく、勝率を上げる方法があ
るなら知っておきたい、そう思う冷静さはある。俺の立てた討伐計
画通りに動くことができれば、彼女は確実に勝利を手にする。
そしてライアの刀の一撃は、弱点を突ければ火竜に打撃を与えら
れる。マッキンリーのアルバレストも、俺の立てた計画をさらに安
全にし、難易度を下げるために寄与する。これは、嬉しい誤算だっ
た。
すべては、これから始まる交渉次第だ。俺はティミスとヴェルレ
ーヌの会話に、酒を口にしながら耳を傾けた。
86
第8話 火竜の生態と討伐指南
ティミス、ライア、マッキンリー。この三人の関係性は、ライア
はティミスに三年前から護衛として雇われ、マッキンリーは今回の
討伐作戦のために、もともと傭兵ギルドの出身であるライアが、ツ
テを使って傭兵ギルドから雇ったとのことだった。
傭兵ギルドは冒険者ギルドとは違い、戦争に関与することもある。
冒険者ギルドに国が協力を要請することはめったにないが、傭兵ギ
ルドは各地の戦場に傭兵を送り込んで収益を得ている。金さえ払え
ば相応の仕事はする、それが傭兵ギルドである。
そういう理由もあって、彼らは冒険者ギルドに依頼を持ち込むこ
とができない。冒険者ギルドと傭兵ギルドの縄張りは明確に仕切ら
れており、一つの仕事に二つのギルドが関わることは、よほどの事
情がなければありえないことだからだ。
ティミスたちが軽い事情説明を終えたあと、ヴェルレーヌから今
回の作戦についての話が始まった。
﹁まず、皆さんに確認させていただきますが、火竜の生態について、
どれくらいご存じでしょうか?﹂
﹁生態など、知りようがないのではないですか? 元は危険な火山
帯に生息する魔物ですし、観察するだけでも相応の危険が伴います﹂
知らなくて当然、と言わんばかりのティミス。確かに彼女の言う
通り、火竜の生態は広く知られていない。
Aランク以上の冒険者を集めて、力押しで討伐されたことは過去
87
に何度もある。しかし、それは本当にゴリ押しというやつで、戦術
も何もない火力の勝負でしかなかった。
ならば、そこに戦術を持ち込めばどうなるか。その有効性を、テ
ィミスたちに理解してもらわなければならない。
ヴェルレーヌは羊皮紙のノートを一冊取り出す。そして、ティミ
スにその表紙を見せた。
﹁⋮⋮﹃誰にでもわかる 火竜を討伐する方法﹄⋮⋮?﹂
﹁っ⋮⋮ティミスお嬢様を愚弄しているのか。こんなノート一冊、
火竜を倒すための何の助けになる!﹂
ライアは思ったよりも熱くなりやすいようで、がたんと席を立っ
てヴェルレーヌに詰め寄る。しかし元魔王もさるもので、全く動じ
ずにライアの視線を受け止める。
﹁このノートを執筆した人物⋮⋮デューク・ソルバーは、間違いな
くこの国における、火竜研究の第一人者です。彼はこのノートを用
いて、Bランク冒険者たちの力だけで火竜討伐を成功させています﹂
﹁⋮⋮デューク・ソルバー⋮⋮知らない名ですね﹂
﹁Bランク冒険者が火竜に勝つなど⋮⋮そんなことが可能なら、そ
の研究者⋮⋮デューク・ソルバーはもっと有名になっているはず。
そして、そのノートも公に出回っているはずだ﹂
ライアは納得がいかない様子でヴェルレーヌに食い下がる。
しかしそのノートが公に出回るわけなどないのである︱︱デュー
ク・ソルバーという人物を探しても、見つかりはしないだろう。
隣で冷静に飲んでいるのが難しくなるので、もっと凝った偽名を
88
つけるべきだった。デューク・ソルバーという名を聞くたびに、変
なところに酒が入りそうになる。
﹁⋮⋮そのデューク・ソルバーって人は、一人で火竜を討伐できる
力を持っているんじゃ?﹂
ここでマッキンリーが初めて口を開いた。寡黙なので硬派な口調
かと思ったが、普通に若者らしい喋り方だ。人というのは見た目に
よらない。
﹁だとしたら、彼の力を借りたい⋮⋮と言いたいところだけど、そ
れは無理ですかね。お嬢に功績を上げていただくためには、その方
法は使えない﹂
﹁マッキンリー、﹃様﹄をつけろ。ティミスお嬢様だと何度言えば
わかる﹂
﹁ええはい、お嬢様です。性根が不躾で申し訳ない﹂
ライアは生真面目で、マッキンリーは適度に肩の力が抜けている
ようだ。彼は今になってようやくフードを外す。灰色と黒の中間の
ような髪色をした、それなりに整った面立ちの男だった。
ティミスはリボンを取り出すと口にくわえ、黒く豊かな髪をかき
上げ、後ろで結い上げる。それは彼女なりの気合いを入れる儀式ら
しく、真剣そのものの顔でノートを受け取り、ページを開いた。
︱︱そのページをめくる手が震える。そして、止まらなくなる︱
︱。
﹁これは⋮⋮こ、こんなことを、どうやって調べたというのです⋮
⋮?﹂
89
ティミスはあるページを開くと、隣に座るライアに見せる。それ
を見たライアの目が、大きく見開かれた。
﹁⋮⋮火竜は、一日に三回、必ず決まった時間に水を飲む⋮⋮水場
は限られていて、ある特定の鉱物が含まれている地下水しか飲まな
い。火竜の鱗は皮膚のようなものであり、新陳代謝によって定期的
に新たなものに変わるため、新しい鱗を作るために鉱物が栄養素と
して必須となると考えられる⋮⋮﹂
ライアは口に出して読まずにはいられない、という様子だった。
それだけ内容に感銘を受けたのだろう。それは、横から見ていたマ
ッキンリーも同じだった。
﹁こいつは凄い⋮⋮デューク・ソルバー、一体何者なんだ。徹底的
に火竜を観察し、一見して討伐に必要のないように見える部分まで
分析して、有用なヒントを割り出している。こんな人物が、名前を
知られることもなく、火竜研究をこのギルドのために上奏したって
いうのか⋮⋮?﹂
デューク・ソルバーの評価が三人の中でうなぎ上りになっていく。
こんなノートはデタラメだ、と言われてしまうとまた説得が面倒な
ので、ここまでは順調だ。
﹁お分かりいただけましたか? 火竜の生態を知ることで、森のど
の場所から討伐作戦を開始すればよいのか、火竜がどの時間帯にど
の場所にいるのか、実際の戦闘において気をつけることは何か︱︱
これらを知ると知らないとでは、討伐の成功率は雲泥の差となりま
す﹂
﹁⋮⋮正直を言うと、これほどとは思っていませんでした。このギ
90
ルドは、火竜討伐専門のギルドなのですか? それとも、大物の魔
物を専門にしているとか⋮⋮﹂
﹁いえ、あくまでも私どもは、持ち込まれる依頼を達成するのみで
あり、何かを専門にしているということはございません。火竜につ
いてのノウハウがあるのは、幸運な偶然とも言えましょう﹂
実際、前回の討伐で火竜の動きを研究していなければ、あのノー
トは存在しなかった。
二年前、まだBランクだったギルド員4名を、多少荒っぽい方法
ではあるが、一皮剥けさせるために俺が行った指導︱︱それは、火
竜を彼らに﹃倒させる﹄ことだった。
同じやり方が通用するかは、下調べのときに確認している。火竜
が水を飲む時刻が少しずれていたのと、森の地形が多少変わってい
たことをノートに反映してあるので、あのノートは今回の作戦専用
のものとなっている。
しかしCランクのティミスがそのまま参加し、無傷で生きて帰れ
るほど甘くはない。戦闘評価1840の彼女を、評価3000︱︱
Bランクにまでは上げておく必要がある。
﹁店主、﹃とっておきの﹄ミルクをくれ。それと、もう二つだ﹂
﹁かしこまりました﹂
とっておきのミルク︱︱それは、マナリナに飲んでもらったもの
よりも一つ上のランクのものになる。
巨獣ベヒーモスのミルク。乳でありながら、ベヒーモスの凄まじ
い生命力に由来する高い保存性を持ち、俺の強化魔法を媒介するミ
ルクの中では最高のものである。これを使わないと、戦闘評価を1
91
500上げることはできない。
﹁⋮⋮ミルク? 他にお酒を頼んでいるのに⋮⋮﹂
﹁お嬢様、酔っ払いの考えることなど気になさらぬほうが。今は依
頼の件に集中しましょう﹂
﹁あんたらにもおごってやろう。カリカリしてちゃ、思うようにい
かないもんだ﹂
俺はマッキンリーに﹃隠密ザクロのシロップ漬け﹄で風味をつけ
たラムを、そしてライアには﹃サラマンダーの骨酒﹄、そしてティ
ミスにはベヒーモスのミルクをそれぞれ出した。
テーブルの上を滑ってきたグラスを見て、マッキンリーは﹃おお﹄
と小さく声を上げ、ライアは何事かという顔をし、ティミスは︱︱
姉とは違い、俺の方を見て笑ってみせた。
﹁私の年齢を考えて、ミルクというわけですか。騎士団では、年齢
など関係ありませんが﹂
﹁お嬢さんにはまだ酒は早いな。代わりに、﹃クッキー﹄でも食べ
るといい﹂
﹁⋮⋮無礼な男だ。酒場ならば無礼講とでも思っているのか?﹂
﹁まあ、いいんじゃないですか。この店は信頼できそうだし、そこ
の客が毒を入れてくるってこともないでしょう。俺が毒味をしても
いいですが、どうします?﹂
﹁⋮⋮いえ。これがこの酒場の流儀というならば、郷に入っては郷
に従いましょう﹂
ティミスは言って、ミルクに口をつける。流儀ということはない
が、飲んでもらわなければ始まらないので、初めの過程は突破でき
た︱︱魔法をかけた俺にしか分からないが、彼女は元の彼女よりも、
92
二倍ほど強くなっている。それでもこのパーティでは一番弱く、前
衛で盾役を務めるには荷が重い。
しかし、そのためにクッキーをつけてある。火炎クルミは、炒り
続けていると香ばしさが増し、辛みが消える。その火炎クルミをペ
ーストにして練りこんだマーブルクッキー︱︱その味の良さもさる
ことながら、食事効果としては、ただ火炎クルミを摂取する場合と
は全く違う。
﹁クッキー⋮⋮食べるのは久しぶりですね。お話の途中ですが、一
枚だけいただきます⋮⋮んっ⋮⋮﹂
思ったよりも素直な娘なのかもしれない、と見ていて思う。それ
とも、若さゆえに、先ほどのノートの情報量だけでこの店を完全に
信頼したのか。それにしても、見ず知らずの俺を信用するかは別問
題なのだが。
﹁⋮⋮美味しい。これはクルミのクッキーですか? でも、食べた
ことがない味です。すごく香ばしくて、少しほろ苦くて⋮⋮﹂
﹁お気に召したようで何よりです、お客様﹂
にっこりとヴェルレーヌが微笑む。ティミスが率先して口にする
のならばと、護衛たちもそれに倣う︱︱マッキンリーは少し嬉しそ
うに、ライアは厳しい顔のままだが、酒に口をつける瞬間だけは緊
張がゆるむ。
﹁くぅ、五臓六腑にしみわたる⋮⋮すっきりとした甘さだ。こうい
う酒もたまにはいいもんですね﹂
﹁⋮⋮辛口で、なかなか良い酒だな﹂
93
虎獣人は氷雪吹きすさぶ高山に住んでいることが多く、身体を温
めるためにドワーフから火酒を分けてもらったり、自分たちで酒精
の強い酒を作ったりもする。それゆえか、俺が飲んでも喉が燃える
ほどのサラマンダーの骨酒を飲んでも、ライアはけろりとしていた。
それどころか、きゅぅぅ、と飲み干してしまう。
﹁ライア、そんなに一気に⋮⋮いつも言っていますが、体を壊しま
すよ﹂
﹁恐れ入ります、お嬢様。しかし、思ったよりもこのお酒が上質で
⋮⋮﹂
酒好きなのは酒場としては歓迎すべきことだ。悪酔いさえしなけ
れば、いくらでも酔ってもらって構わない。
依頼の場である以上、必要量だけにしておく方が良いだろうが、
適度な酒は舌のすべりを良くして、交渉をスムーズに進ませる効果
もある。事実、ライアの顔が赤らんできて、雰囲気が柔らかくなり
つつあった。酒を分解する力も強いはずだが、回りも早いようだ。
﹁⋮⋮我々は、酒を飲みに来たわけではない。火竜討伐のために、
このノートを読めばいいのか?﹂
﹁はい、基本的には。しかし一つご忠告しますと、このノートの方
法で火竜を討伐できるのは、今回限りです。森の環境は常に変化し
ますので﹂
﹁分かりました。一度でも討伐することができれば、それで十分で
す﹂
これで依頼は成立︱︱というわけにはいかない。
俺は火竜の素材に興味があるので、火竜をただ倒してしまうのは
惜しい。
94
﹁もうひとつ条件がございます。この作戦では討伐するのではなく、
捕獲を試みます。ティミス様には火竜撃退の証拠として、鱗を持ち
帰っていただきます。捕獲した火竜の処遇については、当ギルドに
お任せください﹂
火竜を撃退さえできれば、ティミスの勲功は相当なものとなる。
そして、騎士団は魔物の素材にはあまり興味を持たない︱︱ならば、
ティミスたちはこの条件を飲む。
その読みどおりに、ティミスは頷き、ヴェルレーヌが提示した契
約書にサインをした。
﹁私は火竜がどんな魔物か、知らずに挑もうとしていた⋮⋮その無
知を訂正していただけたことに、感謝しています。ライアが強くて
も、私はまだ未熟⋮⋮騎士団の同年代の中で負ける気はありません
が、驕りで身を滅ぼすところでした﹂
﹁⋮⋮デューク・ソルバーという人物には、一度会ってみたい。こ
のページに書いてある、火竜の動きについての文章など、武人でな
ければこれほど細やかに書けるものではない。間違いなく、これを
書いた人物は、恐ろしいほどの武術を身につけている﹂
﹁世界は広いですね。デュークさんという方は、この店に時々来ら
れているんですか?﹂
マッキンリーの質問に、ヴェルレーヌは一瞬だけ言葉に詰まるが
︱︱俺の方を見たりすることはなく、長い睫毛に縁取られた瞳を細
め、みやびやかに微笑んで答えた。
﹁ええ、よく来られます。とてもお酒が好きですが、安上がりなお
酒ばかり飲んでいらっしゃいますよ﹂
95
そんな言い方をされると、さらにデューク・ソルバーの評価が上
がってしまう。ティミスたちの中では、高い能力を持っているのに
驕らない人物として、かなり美化されてしまっているようだった。
︱︱だがひとつ断っておくが、もちろんノートは基礎知識と手順
の指南であり、それだけで平穏無事に火竜討伐が済めば苦労はしな
い。
彼らはこれから、ベルフォーンの森で知ることになる。
﹃デューク・ソルバー﹄の組んだ﹃討伐計画﹄に書かれた筋書き
は、あらゆる手段を使い、絶対に記述通りに遂行されるのだという
ことを。
96
第9話 魔法文字と作戦開始
俺のギルドに依頼をしてから三日、ティミスたち三人はヴェルレ
ーヌから火竜討伐作戦の説明を受け、事前に準備を整え、地図と駒
を利用して再現される仮想作戦を、テーブル上で話し合いながら成
功させるに至った。
すごろく
﹁こんな作戦の予習の仕方があったとは⋮⋮まるで双六をしている
ようです﹂
﹁双六というよりは戦戯盤ですね。火竜がどのように動くか、その
パターンは頭に組み込めましたよ。いやぁ、しかし実際にうまくい
くのか⋮⋮﹂
マッキンリーは作戦において重要な役目を担っている。Bランク
の射手の命中率は絶対とは言えないが、彼が狙撃ポイントに入り、
ティミスが火竜の注意を引いて特定の行動を誘発させ、遠距離から
アルバレストで特殊弾を撃ち込む︱︱それが作戦の要なのだ。
﹁もし火竜が想定通りに動かなければ、お嬢様を守ることを優先す
る。これだけの情報を集めた研究が、全くの無駄になるとは思いた
くないがな⋮⋮﹂
﹁いいえ、私を特別だとは考えないでください。私はこのままでは
足を引っ張ることになります⋮⋮火竜がどれほど強いのか、説明を
聞くほどに実感できましたから。私がこれまで倒してきたオークや、
低級な魔物とはわけが違うのですね⋮⋮しかしオークを一万体倒し
たところで、私は⋮⋮﹂
オーク一万体でも千人長くらいには昇格できそうだが、それでは
97
十分ではないのだろうか。千体も倒すとオークロードが出てきて、
Bランクに強化したティミスといえど、厳しい戦いを強いられると
思うのだが。ライアがいれば問題はなさそうではある。
﹁ティミス様、ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか。なぜ火竜
にこだわられるのです?﹂
﹁⋮⋮それは、騎士団の規定です。火竜相当の魔物を倒さなければ、
副騎士団長の昇格審査が受けられないのです。現在の騎士団長は恒
久的に騎士団長の地位を約束されていますので、他の騎士が団長と
なることはまずありません。そうなると、私たち騎士の最終的に目
指す場所は、副騎士団長なのです﹂
﹁地位⋮⋮ですか。ティミス様は副騎士団長となられて、どうする
つもりなのです?﹂
﹁⋮⋮私には会いたい方がいます。堂々と、正面からお会いするこ
とができない相手ですが、私はその方を尊敬しているのです﹂
よもや色恋沙汰か︱︱まあ、この年頃の少女なら無理もないか。
思春期の衝動に左右されがちな、そんなデリケートな時期だ。
﹁王位継承権をお持ちになっているのに、みずから剣を握り、結婚
を迫る公爵と誇りをかけて決闘し、華麗になぎ倒されたマナリナお
姉さまに、副騎士団長の叙勲式で一目お会いしたい⋮⋮﹂
途中までティミスが会いたがっている人物は男かと思っていたが、
あっさりと覆された。コーディまである、と思っていたのだが、ど
うもコーディは不思議なほど女性に縁がない。
ティミスはマナリナの、母親違いの妹である。正室の娘であるマ
ナリナに、ティミスは複雑な気持ちを抱いているのではないかと思
ったが、むしろかなり深く尊敬しているようだ。
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﹁⋮⋮私がマナリナ殿下の妹であるということは、隠してはいませ
んが。私の母は庶民の出で、国王陛下の庇護を受けてはいますが、
他の貴族出身の側室の方々から、嫉妬を受けてしまっています。そ
ういった状況も、私が揺るぎない勲功を上げることで、変えたいと
思っています﹂
理由の二つ目は、火竜を倒してでも勲功を上げたいという覚悟に
見合うものだった。
ティミスが姉に会いたいというなら、俺が会えるように計らうこ
とはできる。しかし、ティミスの母を取り巻く状況を変えることは
一朝一夕では難しい︱︱不可能ではないのだが。
﹁ティミス様の覚悟は、十分に伝わりました。討伐作戦の決行は明
日となります。本日は十分な休息を取り、明日の出発に備えてくだ
さい。ご武運をお祈りしています﹂
﹁はい、先生! ⋮⋮ではありませんでした、受付の方!﹂
﹁お、お嬢様⋮⋮騎士らしく振舞おうとなさっていたのに、それで
は努力の甲斐が⋮⋮﹂
﹁ははは、いいじゃないですか。俺も久しぶりに、授業を受けてい
る気分になりましたよ﹂
ティミスの年齢を聞くと、14歳︱︱まだ若いといえば若い。そ
れで百人長をやっているのは大したものだし、火竜討伐でつまずか
なければ、きっと騎士団でも大物になるだろう。
そしてこの仕事が終わったあと、ライアとマッキンリーにはスカ
ウトを試みたいところだが︱︱まあ、ライアはティミスにべったり
なので、そこはできたらというくらいで考えておこう。
99
︱︱と、忘れるところだった。俺は三人に気づかれないように、
カウンターを指で二回鳴らした。ヴェルレーヌはその合図に気づく
と、俺の方にやってくる。
俺は彼女にオーダーの紙を渡すふりをして、ヴェルレーヌに﹃あ
る魔法﹄を託した。ヴェルレーヌは手に触れると頬を赤らめるが、
何事もなかったふりをして酒とつまみを俺に出したあと、ティミス
たちの前に戻った。
ルーン
﹁こ、こほん。ティミス様、火竜討伐の前に、最後にしておくこと
がございます。そのお身体に、魔法文字を書き込ませていただけま
すでしょうか﹂
﹁ルーン⋮⋮それをすると、火竜討伐に有効なのですか?﹂
﹁はい。それがゆえあって、ティミス様の胸に近いところに書き込
む必要がございます。専用の部屋がございますので、そちらにいら
していただけますでしょうか﹂
﹁⋮⋮それはどうしても必要なことなのだな? もし変なことをす
れば⋮⋮﹂
﹁ライア、大丈夫です。女性同士でしたら、そんなに恥ずかしくあ
りませんから﹂
筆を使うのでくすぐったいかもしれないが、すぐに終わると説明
し、ヴェルレーヌはティミスを連れていく。
﹁⋮⋮俺とライアさんは必要ないんですかね?﹂
﹁な、なにを期待している。マッキンリー、お嬢様が文字を書かれ
る姿を想像などしたら叩っ切るぞ﹂
﹁い、いや⋮⋮何となく気になっただけですよ。そんなに睨まない
でくれませんかね﹂
100
マッキンリーの気持ちはよく分かる。俺は妖艶な色気を持つエル
フメイドが、まだ穢れを知らぬ若き女騎士の肌に、筆で文字を描い
ていくさまを想像する︱︱何とも神秘的というか、あでやかな情景
だ。
ルーン
魔法文字は特殊な塗料で描かれるが、数日で消えるので問題はな
い。自分で指示したことながら、俺も心配性だと思ってしまう︱︱
だが、約束したのだからしょうがない。
俺はティミスを絶対に死なせないと言った。魔法文字は、そのコ
ーディとの約束を守るための保険だ。
作戦通りにうまくいけば必要はない。しかし人間とは間違える生
き物でもある。
かの魔王討伐隊ですら、ミスで窮地を招くことはあった︱︱だか
ら俺は、他人を十割信用するということをしない。それは人間不信
というわけではなく、間違えることも含めてフォローアップし成功
を導くことが、俺にとっては至極当然のことだからだ。
﹁しかし⋮⋮あの人、常にカウンターのあの席から僕らに酒をおご
ってくれますが、一体何者なんですかね?﹂
﹁⋮⋮案外、彼がデューク・ソルバーということだとか、そういう
ばかげたことを考えもしたが。ただの物好きだろうな﹂
﹁デューク⋮⋮なんだって? 知らない名前だな。まあいい、あん
たらも色々大変みたいだし、後でもう一杯オマケしてやるよ﹂
﹁おっ、いいんですか? 遠慮なくご馳走になりますよ﹂
﹁⋮⋮やはり、あるわけがないな。ただの気前がいい飲んべえだ。
しかし、お嬢様が心配だ⋮⋮あのエルフ、時々目の奥が笑っていな
かったからな⋮⋮妙な趣味を持っていなければいいが⋮⋮﹂
101
ライアはふるふると足を震わせている︱︱ティミスが心配過ぎて
貧乏ゆすりをしているらしい。なぜそこまでティミスに入れ込んで
いるのか不思議だが、彼女にも残念なところがあるようだった。
お前がデュークか、と言われるかと思って愉快な気持ちになった
ものの、結局バレなかったことで、俺は完全に正体を明かすタイミ
ングを逸した︱︱いや、それでいいのだが。俺はただの飲んべえだ、
ライアの言う通りで問題ない。
ところで文字を描く過程がどんなふうになっているか、俺は施術
室での二人の会話を魔法で聞くことができるので、ちょっとだけ耳
を傾けてみたいと思う。
﹁っ⋮⋮﹂
﹁動いてはいけません、この塗料は一度肌につくと、一定の時間が
経たないと取れませんので⋮⋮そう、いい子ですね⋮⋮﹂
﹁⋮⋮恥ずかしいです、受付の方⋮⋮私、受付の方と違って、騎士
をしているので筋肉がついてしまって⋮⋮﹂
﹁筋力は強くなるうえで必要なものです。女性は筋肉をつけづらい
というのに、この若さでよく頑張りましたね。運動をすると胸から
落ちるというのに、健やかに発育されていますし﹂
﹁剣を振るにはじゃまなので、もうこれ以上大きくなってほしくな
いのですが⋮⋮そういった相談も、このギルドでは受けていたりし
ますか?﹂
﹁私のご主人様は大きくすることには定評がある方ですが、小さく
する方法は存じ上げないようです﹂
﹁そ、そうなんですね⋮⋮大きくする場合はどうするのですか?﹂
﹁神の右手、悪魔の左手と呼ばれる技を用います。胸を大きくする
過程で女性は忘我の境地に追い込まれてしまうため、ご主人様は﹃
102
忘我の5人目﹄という異名で呼ばれており⋮⋮﹂
﹁す、すごい⋮⋮そんな方がこのギルドに。デュークさんといい、
凄い人たちの集団なんですね⋮⋮﹂
俺がいないと思って、ティミスにデタラメを吹き込み続ける魔王。
どこからそんな妄想を仕入れてきたのかを、あとで時間をかけて赤
裸々に告白させてやらなければならないが、それはまた別の話だ。
◆◇◆
翌日。ティミスたちが火竜討伐を始める時間、俺は店のカウンタ
ーにいた。
朝6時半、開店までは時間がある。ヴェルレーヌは開店の準備を
しつつも、俺の前に黒エールをことりと置いた。通常のエールより
上質な黒エールだが、生産量が少ないので、仕入れられたときしか
飲めない。
ジョッキに口をつけて、泡ごと冷たいエールを喉に流し込む。俺
にとってはもはや酒は水替わりである︱︱医療魔法さまさまだ。
﹁⋮⋮ふぅ﹂
﹁ご主人様、今回はやはり、﹃仕込み﹄を入念にされていたようだ
な﹂
ティミスの身体には強化魔法の効果を定着させるため、ベヒーモ
スのミルクを毎日飲んでもらった。貴重なものなので他の二人には
飲ませられなかった︱︱依頼を受けてこちらの支出が大きくなるの
は美学に反している。経費を引いてもちゃんと黒字になる範囲でこ
とを完遂する、それもプロとして当然のことだ。
﹁作戦の指南もそうだが、同じくらい食事効果の定着が重要だった。
103
あとは、三人が上手くやるさ﹂
﹁⋮⋮ご主人様。昨日の夜のご主人様よりも、﹃魔力が大きく減っ
ている﹄ように見受けられるのだが。それは、気のせいと思った方
がいいのだろうか﹂
ヴェルレーヌも元魔王だ、魔力の大きさが変わればすぐ気づかれ
る。俺は笑い、何も答えなかった。
﹁ご主人様と戦ってから、5年⋮⋮﹃奇跡の子供たち﹄とは恐ろし
いものだな。今の、理由あって魔力を減らしているご主人様の力で
も、私は⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ヴェルレーヌ、少しいいか。俺は﹃いつものように飲んだく
れてる﹄。﹃一時間﹄くらいしたらまた声をかけてくれ﹂
亜麻色の髪を持つエルフは、俺の言葉の意味を、少し遅れて理解
する︱︱そして、微笑む。
﹁心配せずとも、ご主人様が﹃心ここにあらず﹄であろうとも、そ
の間に護符を盗むことなど考えはしない﹂
﹁⋮⋮ああ。信用してるぞ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮悪戯はするかもしれないがな。開店するまでは、私とご主人
様の二人きりだ﹂
﹁ほどほどにな⋮⋮俺がショックを受けない程度に⋮⋮﹂
飲んだくれが一瞬意識を落とす、ただそれだけのことだ。
ちょうどそのとき、ティミスたちが火竜討伐を始める時間であっ
ても︱︱それはただの偶然だ。
◆◇◆
104
︱︱火竜討伐隊の朝は早い。
ベルフォーンの森を訪れたティミスたちは、事前に予習していた
通りの地形であることに感嘆していたが、すぐに気持ちを切り替え、
作戦を開始する場所へと向かった。
︵ノートの内容も、盤上での演習も、しっかり覚えている。私は絶
対、うまくやれる︶
ティミスは自分に言い聞かせながら森を進む。ライアとマッキン
リーも、しばらく前から無言である。ここが火竜の生息域であると
いうことが、戦闘経験の多い彼らをも緊張させていた。
目指す場所が近づく中で、デューク・ソルバーのノートの内容を
思い返す。
繁殖期のあいだ、オスの火竜が森を離れ、火山帯の巣の様子を見
に戻る時期がある。今はそれに相当しており、火竜のつがいのうち、
メスの火竜だけがこの森に残っている。
メスの火竜は森の中にある洞窟に巣をつくり、卵を産む。産み落
とされた卵からは、すぐに幼竜が生まれる。火竜は卵を胎内で育て、
卵が孵化する直前に産むのである。
母竜は産卵後の体力を回復するため、森の動物を捕食し、幼竜に
餌を与える。幼竜は3か月ほどで背中の羽根が開くようになり、短
距離を飛行して親竜の背中に乗ることができるようになる。そのこ
ろには、火山帯での餌不足の時期が終わり、彼らは火山帯に帰って
いく。
105
火竜はただ、種の本能に基づいて行動しているだけである。しか
し人間が成すすべもなく、生活の場としている森を追われるだけと
いうことにならないためには、時に戦うことも必要となる。
︵捕獲⋮⋮撃退するだけで難しい火竜を。でも、やってみせる⋮⋮
!︶
朝6時34分。
この時刻に、火竜は洞窟から出て、採餌と給水のために移動を始
める。
6時36分、火竜が水場に到着する。ティミスたちはその前に、
水場が見える位置にたどり着き、偽装するための草のむしろを取り
付けたマントを被って、茂みに潜んでいた。
ティミスはそのとき、胸のあたりに違和感を覚える︱︱そして鎧
の中から、ひゅるん、と何か小さなものが飛び出してきた。
﹁きゃっ⋮⋮な、なに⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮明かり虫? 森に生息していると言いますが、お嬢様の鎧に
入り込んでいたのでしょうか﹂
﹁胸に入り込んでるなんて、なんてうらやま⋮⋮あ、いや、何でも
ありません﹂
マッキンリーは口を滑らせかけ、ライアに睨まれる。ティミスは
ふわふわと浮かんでいる、光る小さな虫のようなものをしばらく見
ていたが、あまり気に留めないことにした。
︱︱そして、ノートに記されていた時刻通りに。空から、翼をは
106
ためかせて火竜が降りてくる。
ズシン、と重々しく地面を震わせて着陸すると、人の5倍ほどの
巨体を持つ火竜は、岩の間から流れ出した水が溜まっている池に首
を伸ばし、水を飲み始めた。
﹁本当に来た⋮⋮なんていう大きさだ。あんなものを、本当に俺た
ち三人で⋮⋮﹂
﹁マッキンリー、あまり声を立てるな。火竜が気づく﹂
﹁まず私が出て、火竜の注意を引きます。マッキンリー、手筈通り
に頼みますよ﹂
﹁はい。お嬢様、最善の努力をしますが、くれぐれも気を付けてく
ださい﹂
三人は頷き合う。ティミスはからからになる喉を、ライアの差し
出した水で潤したあと︱︱何度もノートを見て予習したとおり、茂
みから飛び出していった。
︱︱火竜が気づき、振り返る。そして槍を構えたティミスを視界
に入れたあと、大きく口を開く︱︱敵を発見したことを森中に知ら
せるための、咆哮を放とうとしているのだ。
﹁︱︱マッキンリー、今ですっ!﹂
すでにマッキンリーは、アルバレストを構え、狙いを研ぎ澄ませ
ていた。
彼が狙うのは︱︱大きく開いた、火竜の口。経験に基づいて軌道
に補正をかけ、引き金を引き、射出する︱︱!
ティミスが横にステップして射線を空ける。放たれた弾は何にも
阻まれることなく、火竜の口に命中する。
107
﹁グガォッ⋮⋮ガフッ、ゴフッ!﹂
マッキンリーは﹃銀の水瓶亭﹄で預かってきたいくつかの弾丸の
うち、ひとつを放った。そこに入っているものは、﹃沈黙弾﹄︱︱
火竜の咆哮を封じる弾。
見上げるような身の丈を持つ巨大な火竜が、一発の弾に翻弄され
る。その時には、すでにライアが飛び出していた︱︱肉食獣そのも
のの速さで駆け抜け、刀を一閃する。
﹁︱︱はぁぁっ!﹂
狙う場所は、足。火竜の翼は厚い鱗に覆われているために、刀で
は刃こぼれする︱︱しかし、足は違う。
﹁グォォォッ⋮⋮!﹂
ライアの一撃で鱗を削られ、火竜がたたらを踏む。危険を感じた
火竜は、翼を大きくはためかせて浮き上がる︱︱その凄まじい風圧
に、ライアは追い打ちをかけることができず後ずさる。
戦いはまだ始まったばかりだ。しかし三人は、火竜を相手に立ち
回れていることに自信を深めていた。
突然の襲撃に脅威を覚えた火竜が飛び、場所を移動する。ティミ
スが空を見上げると、火竜は右に旋回して一周し、それから目的地
へと向かった。
本来なら、地上から追いかけることなどできない火竜。しかし、
108
行く先が分かっていれば話は違う。
﹁お嬢様、右に旋回した場合、火竜が行く先は⋮⋮﹂
﹁ええ、ノートに書いてあった通りです⋮⋮急ぎましょう、二人と
も!﹂
三人が頷き合って駆けていく。
その後ろから、ティミスの胸から飛び出した光るものが、ふわり
と飛行して追いかけていった。
109
第10話 荒ぶる火竜と明かり虫
デューク・ソルバー著﹃誰にでもわかる 火竜を討伐する方法﹄。
その第二章には、討伐作戦の順序が事細かに記されている。
まず第一に、火竜は給水の際に隙ができる。火竜は視覚にすぐれ
ているが、視野は広くはない。真横から後ろまでは完全に死角とな
っており、後ろから接近しても、火竜が完全に振り返るまでは気づ
かれない。
しかし一度敵を視認すると、その前方の攻撃に特化した発達した
腕を使い、爪を振るって攻撃する。後ろから攻撃されていると感じ
れば、強靭な尻尾を振り回して、視界に映らないことなど関係なく、
接近者を薙ぎ払おうとする。
この尻尾の表面はトゲつきの鱗で覆われているが、その中身は鍛
え上げられた筋肉の塊であり、切り落としてテールスープにすると
大変美味である。
それはさておき、火竜は給水に使う泉で襲撃を受けると、まず振
り返って敵を視認しようとする。
敵を発見すると火竜は咆哮するが、これは元来、仲間の火竜を呼
ぶためのものである。この習性は、近くに他の火竜がいない場合で
も変わらない。
その咆哮を﹃沈黙弾﹄で封じると、火竜は動揺を見せ、十秒ほど
110
隙だらけになる。手練れが揃っていれば、この隙に集中攻撃して倒
すことも可能であるが、そうでない場合は、ダメージの蓄積を図る
べきである。
鱗が比較的薄い尻尾の付け根、脇腹、足、首などが狙うに適して
いるが、あまり一撃でダメージを与え過ぎると、火竜は激昂し、体
の周囲に高熱を発生させる場合がある。これをされると、火竜が走
るだけで森が焼け野原になりかねないので、討伐の終盤まで避ける
べきである。
適切なのは、足であろう。大きめの斬撃武器を用いて一撃を入れ
れば、実力が足りていれば、火竜はこれは堪らない、と離脱を図る。
火竜が離脱して目指す先は、火竜が左に旋回した場合は、森の北
西にある高台である。
右に旋回した場合は、森の南東にある川辺に移動する。このとき
火竜が着陸する位置はだいたい決まっており、その近くは火竜の体
重で踏み固められている。
着陸後、火竜の頭は必ず下がる。真正面から接近すると、振動や
爆風の影響を受けにくく、頭に安全に攻撃を入れることができる。
そこで鈍器や盾で衝撃を与えてやると、火竜は高確率でめまいを起
こす。
ここで集中攻撃し、畳み掛ける。もし打撃が足りず、火竜がめま
いから回復するようなら、攻撃役にはもう一頑張りが要求される。
腕の構造上、真横に攻撃することが難しく、キックは飛行中にしか
行わないので、脇腹に張り付いて攻撃すると、安全にダメージを蓄
積できる。
111
このとき、攻撃役の武器に麻痺毒、睡眠毒を塗っておくとなお良
い。最終局面では、火竜は猛反撃を試みるため、動きを無理矢理に
でも遅らせなければ、思わぬ事故の原因となりやすい。
盾を持った防御役、あるいは囮役は、もし攻撃役・射手役が火竜
の攻撃を受けて危険な状態にある場合、相手の注意を引くことが必
要になる。
火竜の攻撃は非常に重いため、盾で受けるのは最後の手段である
が、一度ならば攻撃を止められる可能性は高い。盾で受けてもその
衝撃は重いため、何度も受ければ命に関わる。
それでも、盾で受けず、火竜の攻撃にこちらの攻撃を合わせるこ
となど考えてはならない。それを可能にするのは、Sランク以上の
近接戦闘に特化した者だけである。
全てが、恐ろしいほどに記述通りに運んだ。まるで、火竜がデュ
ークの筋書き通りに動いているかのように。
ティミスたちはノートに記されていた獣道を利用し、最短距離で
火竜の移動先に先回りをした。着陸する瞬間、他の行動が一切でき
なくなる習性を突いて、ティミスは盾を構え、火竜の頭に体当たり
を仕掛ける。
﹁︱︱えぇいっ!﹂
﹁グォォォッ⋮⋮!﹂
ガゴッ、と重々しい音が響き、火竜が一歩後ずさる。
本当に、目眩を起こしている︱︱そうティミスが理解したときに
112
は、ライアが刀を抜いて火竜に斬りかかっていた。
﹁ここで仕留めさせてもらう⋮⋮っ! はぁぁっ!﹂
隙だらけの火竜とはいえ、渾身の斬撃を入れても簡単に鱗を切り
裂くというわけにはいかず、ライアはその硬さに舌を巻いていた。
それでも確実に効いている、そう信じて剣技の限りを尽くし、舞う
ような動きで攻撃を重ねていく。
﹁私もっ⋮⋮やぁぁっ!﹂
ティミスは槍を突き出し、火竜の脇腹を狙う︱︱しかし、傷ひと
つつけられない。それでも打撃は通っているというノートの指南を
信じ、槍を引いて下半身をひねり、再び全力で突きこむ。
﹁︱︱グガァァォッ⋮⋮!﹂
火竜が再び後ずさる︱︱そこに、マッキンリーが弾丸を撃ちこん
で追い打ちをかける。最終局面で火竜の動きを鈍らせるための、麻
痺毒と睡眠毒を混入した弾頭は、初めは鱗に阻まれて弾かれたが、
次に放った弾頭が、ライアの刀によって鱗の削れた部位に突き立っ
た。
﹁いける⋮⋮このままなら、火竜に勝てる⋮⋮!﹂
マッキンリーは手応えを覚え、次弾を装填する。
そして狙いをつけようとしたとき、彼らにとって予想外の出来事
が起こった。
﹁グォォォォッ!﹂
113
目まいを起こしているはずの火竜が、張り付いて攻撃を重ねるテ
ィミスとライアを弾き飛ばそうと、翼を強引にはためかせて暴れた
のだ。
﹁きゃぁっ⋮⋮!﹂
﹁︱︱お嬢様っ!﹂
ティミスが風を受けて、構えが崩れる︱︱そして無防備になった
ところに、無差別に振り回した火竜の尾が襲いかかる。
﹁っ⋮⋮!﹂
ライアは瞬時の判断で、ティミスにぶつかるようにして突き飛ば
し、地面を転がる。
しかし火竜の尾を回避しきることはできなかった︱︱ライアの脇
腹が切り裂かれ、一瞬遅れて、彼女の体を凄まじい激痛が襲う。
﹁なんてこった⋮⋮くそっ!﹂
マッキンリーは冷静さを失い、ライアが火竜に負わせた傷を狙う
ことができず、放った弾頭は暴れる火竜に弾かれる。
目眩を起こしていた火竜が我に返る。その瞳には燃えるような怒
りが宿り、鱗が赤熱する︱︱火竜の周囲の空気が熱によって揺らめ
き、陽炎を起こす。
火竜の一撃を侮っていたわけではない。しかしその想像以上の苦
痛が、ライアに死というものを実感させる。
そして彼女は刀を突いて立ち上がる。片手で傷を押さえた状態で
114
は、火竜の攻撃を一撃も受け止めることはできない、そう知りなが
ら。
﹁お嬢様、お逃げください⋮⋮ここは、私が⋮⋮!﹂
﹁⋮⋮いいえ。盾があれば、一度は攻撃を受けられる⋮⋮ライア、
貴女はそのうちに逃げてください﹂
﹁っ⋮⋮無茶ですっ! 今の火竜は怒り、荒ぶっている⋮⋮次は先
ほどの攻撃より何倍もっ⋮⋮!﹂
﹁それでもです。私の我がままを許してくれた貴女を、死なせるわ
けにはいかない⋮⋮やぁぁっ!﹂
傷を負ったライアは、普段なら簡単に止められるはずのティミス
の動きに追随することができない。
ティミスは盾を構え、体当たりを仕掛けてくる火竜に向き合う。
︱︱もう少しで、勝つことができたかもしれない。
それが出来なかったのは、火竜も生き物であり、子を守るために
必死に戦っているからだ。
︵お母様⋮⋮お父様。申し訳ありません。私は、ここで⋮⋮︶
﹃︱︱諦めるなっ! 今日まで学んだことを忘れたのか!﹄
﹁っ⋮⋮!?﹂
どこからか、声が聞こえた。どこかで聞いたことがあるようで、
けれど、聞いたことのないほど勇ましい声。
覚悟を決め、死に傾いていた心に熱が戻る。ティミスは槍を捨て、
盾を両手で構える︱︱そして。
115
﹁グオォォォォォッッ⋮⋮!﹂
火竜の大気を震わせるような唸り声。それを聞きながら、ティミ
スは全身全霊を込めて、盾を信じて構え続けた。
◆◇◆
川の水が流れる音が聞こえている。
あたたかな光が差し込んでいる。見上げた空に浮かぶ太陽の位置
は、まだ昼前であることを示している。
討伐作戦が始まってから、まだ、さほど時間が過ぎていない。
最初は、うまくいった。逃げていった火竜を追いかけ、戦い︱︱
そして、窮地に陥った。
﹁っ⋮⋮ライア! マッキンリー!﹂
跳ね起きるようにして、ティミスは仲間たちの名前を呼び、周囲
を見回す。
地面に置いてある槍と盾。そして︱︱すぐ近くにライアが倒れて
おり、マッキンリーは潜んでいた茂みの近くで、うつ伏せに倒れこ
んでいた。
﹁ライア⋮⋮あぁ⋮⋮良かった。本当に、無事でよかった⋮⋮っ﹂
﹁⋮⋮お嬢⋮⋮さま⋮⋮﹂
116
おびただしい出血をしていたはずのライア。しかしその脇腹を裂
いていたはずの傷が、今は塞がっている。
虎獣人の回復力は高く、たいがいの傷はすぐに塞がる。それにし
てもあまりにも早過ぎる︱︱しかし、ライアが無事であったことに、
ティミスは安堵し、涙していた。
﹁⋮⋮騎士は⋮⋮涙を見せてはなりません。武人たるもの⋮⋮常に、
心を動かさず⋮⋮﹂
﹁はい⋮⋮わかっています、ライア。ごめんなさい⋮⋮﹂
ライアは自分はもう大丈夫だと示すように、わずかに微笑みを見
せる。
そしてティミスは、今さらに戦慄を覚える。
あの火竜が、どうなったのか。その答えは、彼女の後方にあった。
振り返って、心臓が止まりそうになる。しかし、状況を理解する
と、安堵と、理解できないという気持ちが同時に湧き上がってくる。
デューク・ソルバーの討伐計画の続きはこうである。
火竜が川辺に移動した場合、十分な打撃を与えることができれば、
火竜を罠にかけることができる。
川辺には、﹃森の狩人﹄が仕掛けた罠が残されている。弱った火
竜をその上に誘導すれば、﹃拘束の鎖﹄という名の罠が発動し、火
竜を捕らえることができる。
討伐する場合は、そこにさらに攻撃を重ねれば良い。もし捕獲を
試みるならば、用意した麻痺睡眠弾の残りを火竜に適宜打ち込むこ
とで、この計画は完遂となる。火竜の血中に一定の麻痺睡眠毒が溜
117
まると、火竜はそれを自浄するために、長い眠りを必要とするから
である。
︵⋮⋮﹃拘束の鎖﹄に、火竜がかかって⋮⋮マッキンリーが、麻痺
睡眠弾を⋮⋮いえ、違う⋮⋮それだけでは、説明がつかない︶
そう、ティミスの視線の先には、鎖によって体中を拘束され、眠
っている火竜の姿があったのである。
しかし、ティミスが拾い上げた盾には、火竜の突進をまさに受け
るというところだったのに、傷もへこみもない。そして、ティミス
には自分が突進を受け止めたという手応えもない。
マッキンリーが火竜の捕獲を成し遂げたのなら、彼が倒れている
ことに説明がつかない。ここには自分たち以外の誰かがいた、いや
そんなはずはない、考えはぐるぐると頭をめぐる。
混乱を深めながら、ティミスはふと視線を巡らせ︱︱あるものを
見た。
﹁明かり⋮⋮虫⋮⋮?﹂
討伐作戦を始めるとき、ティミスの甲冑の中から出てきたもの。
ライアが、森に生息していると言っていた。
﹁⋮⋮まさか⋮⋮﹂
ティミスは鎧の上から胸に手を当てる。そこにあるはずの魔法文
字︱︱それがどうなっているのか、すぐにでも確かめたい。しかし
外で肌をさらすことはできず、今は断念する。
118
火竜討伐の助けになると、書き込まれた魔法文字。
それが、自分たちが窮地に陥ったとき、救うためのものだったと
すれば。
﹃森の狩人﹄が仕掛けた罠も。マッキンリーが撃ち込んだより、
数多く火竜に撃ち込まれた麻痺睡眠弾も。先ほどの火竜の突進から、
ティミスを救ったのも。ライアの傷を癒やしたのも︱︱すべて。
﹁⋮⋮デューク・ソルバー⋮⋮貴方なのですか⋮⋮?﹂
明かり虫は最後にティミスの視界に現れると、まるで幻のように
ふっと消え去る。
あとには川の流れる音と、森の動物たちの声が響くのみ。
ティミスは迷いを感じはしたが、ライアの攻撃によって一枚だけ
剥がれて落ちた火竜の鱗を拾い上げる。そして、胸に抱いて祈る︱
︱未熟な自分の身に余るものであっても、これは、大切な贈り物な
のだと思いながら。
そしてティミスは、ノートの中のある記述を思い出した。
︱︱火竜討伐は、多くとも四人のパーティで行うべきである。五
人以上で戦おうとすると、火竜はより安全に脅威を排除しようとす
るため、空からブレスを吐くのみとなってしまう。四人までなら火
竜は地上戦に応じる。絶対に四人というわけではないが、三人以下
の場合は、四人目を補助役としてでも加えるべきである。これは経
験上の持論であるため、あしからず。
﹃四人目﹄がこの場にいたのかどうか、それは定かではない。
119
それを確かめることも、自分にはできないのかもしれない。
しかしティミスは信じることにした。自分たちを救ってくれた幻
の四人目が、きっといたのだと。
﹁⋮⋮デューク様⋮⋮﹂
彼ではないのかもしれない。しかし、彼だとしか考えられない。
姉に対するあこがれにも似て、けれどどこか異なる感情が、若き
女騎士の胸を焦がしていた。
120
第11話 魔王の膝枕と王女姉妹
何か柔らかいものが、俺の後頭部を支えてくれている。
誰かが俺の髪を優しく梳かすように触れている。あまりにも心地
良くて、もう一度眠ってしまおうかと思うくらいだが、そういうわ
けにもいかない。
﹁⋮⋮寝てる間に手出しするとは、さすがは元魔王だな﹂
目を開けると、予想した通りに、亜麻色の髪のエルフの悪戯な微
笑みがそこにあった。
彼女は俺のいつも座っている席の隣に腰かけ、俺の体勢を変えて、
膝枕をしてくれていたようだ。頭の下にある柔らかいものは、つま
りヴェルレーヌの太ももだったというわけだ。
彼女は機嫌良さそうにしていたが、そのうちに少し困ったような
顔をすると、口を尖らせて言う。
﹁もう少し動揺するかと思ったのだが、そうでもなくて残念だな﹂
﹁⋮⋮分かってるかもしれないが、他のことを考えてたからな。俺
が寝てから一時間くらいか?﹂
﹁いや、それよりは少し早いな。ご主人様が眠っていたのは、三十
分ほどだろうか﹂
﹁そうか。まだ開店まで時間があるな﹂
俺は身体を起こそうとするが、肩を引っ張られて戻される。
121
﹁⋮⋮起き上がれないんだが?﹂
﹁少しくらいいいではないか、私も毎日の勤務でくたびれているの
だ。時々潤いがなければ早く老いてしまう気がする﹂
﹁膝枕は女性の老化を防止するのか⋮⋮? 膝が痛くならないか﹂
﹁ふふっ⋮⋮これくらいでどうにかなるものか。私はこう見えても、
元魔王なのだぞ﹂
それはごもっともだが、これ以上この状態が続くと、さしもの俺
も、成熟した女性の太ももの柔らかさに対して、男としての反応を
示しかねないことは否めない。
﹁⋮⋮それで、どうだったのだ?﹂
﹁何の話だ? ⋮⋮と、とぼけてもしょうがないか﹂
﹁私はご主人様の魔法を代行したのだからな、何が起きているのか
は分かっている。心配するな、ティミスたちに教えることはない。
気づかれてしまったら、それはご主人様の落ち度だがな﹂
﹁﹃明かり虫﹄って言われてたから、大丈夫じゃないか。まあ、一
見すればそんな感じだしな﹂
さらっと言ったつもりだったが、ヴェルレーヌは口元を押さえて
笑った。
﹁よもや、その﹃明かり虫﹄が、ご主人様の写し身⋮⋮SSランク
級の冒険者強度を持っているなど、彼女たちは想像もしていないだ
ろうな﹂
そう︱︱俺がヴェルレーヌに頼んでティミスに付与した魔法文字
は、﹃スモールスピリット﹄という魔法を発動させるためのものだ。
122
俺の力の一部を分けて分身を作り出すのだが、その分身は、ごく
小さな光の玉にすることもできる。すると見た目が﹃明かり虫﹄に
似ているので、悟られずに済むという寸法だ。
そして俺は、﹃スモールスピリット﹄に意識を移し、自分で操作
することができる。ティミスの胸に書かれた魔法文字から発生し、
外に飛び出したあと、俺はずっと彼ら三人を見守っていた。
そのスモールスピリットが持つ力は、俺の力の一部︱︱冒険者強
度にして、5万相当。戦闘評価2万5千、回復魔法や補助魔法を含
めた他の評価が2万5千という内訳だ。
﹁その様子を見ると、作戦はうまくいったようだな。捕獲した火竜
の様子を見に行くのか?﹂
﹁いや、火竜についてはうちの連中に任せる。前から考えてたこと
があってな﹂
﹁ほう⋮⋮もしティミスたちが窮地に陥ったら、彼らに救助させる
ことも考えていたのか﹂
﹁それは絶対に無しだ。そこまですると、今回の依頼の趣旨に反す
る﹂
俺は言ってようやく身体を起こすことを許された。まだヴェルレ
ーヌは物足りなさそうだが、いつまでもこの姿勢に甘んじているわ
けにはいかない。
﹁⋮⋮まあ、俺ももう少し我慢するべきだったんだがな。あと少し
だったんだ、本当に﹂
﹁やはり⋮⋮ご主人様が、ティミスたちを守ったと。そういうこと
なのだな。なぜ、そうも浮かない顔をしているのだ? 彼女たちに
気づかれず、依頼を達成させたのではないのか?﹂
123
﹁俺が代わりに仕上げをするのは、なるべく避けたかったからな。
依頼の内容は、彼女たち三人に勲功を上げさせることなわけだから。
これじゃ、ティミスたちも手ごたえがないだろう﹂
ティミスが火竜の攻撃を盾で受けたあと、最後のチャンスが作れ
た可能性もある。そこまで我慢すべきところを、俺はティミスが突
進を受ける前に介入してしまった。あれは、プロとしては我慢すべ
きところだった。 ﹁ふむ⋮⋮しかし、彼女たちが耐性を上げていなければ、火竜に近
づくだけで火傷をしていた。マッキンリーは﹃隠密ザクロ﹄で気配
を薄れさせなければ、存在に気づかれて狙われていただろう。そう
いった仕込みがなければ、途中まで作戦を進めることもできなかっ
たのではないか?﹂
火竜は怒った時だけでなく、常に身体の周囲に高熱を放っている
︱︱そのことに構わず攻撃できたのは、﹃火炎クルミ﹄のクッキー
と、﹃サラマンダーの骨酒﹄の効果があったからだ。
﹁それにご主人様が介入したということは、彼女らのパーティは壊
滅しかかったのではないか? その状況を冷静に見ていられるよう
なら、私はご主人様に対する認識を変えなければならない。ご主人
様が冷徹な観察者であったとしても、それはそれでそそられるもの
もあるのだがな﹂
﹁⋮⋮難しいもんだな。火竜のランダムな動きを吸収するために、
もう少し研究を重ねたい﹂
﹁研究⋮⋮あのノートを、さらに完全なものにするというのか? あれだけでも、資料としては完ぺきに近いと言うのに。まだ足りな
いというのか⋮⋮?﹂
124
完ぺきであったなら、俺はただ見守っているだけで、ことを完遂
できたはずだ。
﹃銀の水瓶亭﹄はどんな依頼にも応じ、こともなく達成するため
に、事前にやれることは全てやっておかなければならない。
幸いにも、俺には火竜をこれから、いつでも観察することができ
る環境が手に入る予定があった。
そのとき、店のドアベルが鳴った。
まだ開店前だというのに、客が入ってくる︱︱緑色の外套を被っ
た男が入ってきて、俺の隣に座る。
﹁毎度どうも、ウェルテム商会です。酒と食料の納品にあがりやし
た﹂
ヴェルレーヌは男の出した納品書にサインをして戻す。男の名は、
ジョイス・ウェルテム。俺の店に出入りしている商人である。
主な仕事は、酒と食料の販売︱︱というのは、表向きの話だ。
ウェルテム商会の裏の顔は、ふだん王都に流通しない希少な物品
を商う﹃希少物商﹄である。
ジョイスは俺の隣に座るとラム酒を頼み、そして言った。朝でも
関係なく酒というのは、他人のことは言えないが、彼のいつもの習
慣である。
﹁旦那、例の話ですがね。管理人もすでに雇って、環境の整備を始
めさせてます﹂
﹁ああ、火竜と幼竜は信頼できるやつらに運ばせる。食料なんかは
125
充実してるのか?﹂
﹁ええ、私も行ってみたんですがね、あれはなかなかいい場所です
よ。なんだって火竜は、人間のいる森を選んで、あの森を選ばなか
ったんだと思うくらいです﹂
﹁人間のほうが、火竜よりあとに森にやってきたんだろうな。だが、
特定の森でなければならない理由はないはずだ。環境的には、それ
ほど差はないからな﹂
﹁そうだといいんですがね。それにしても旦那、考えやしたね。人
の近づかない森をまるごと管理して、火竜を放牧するとは⋮⋮こん
なこと、普通は実現できやせんよ﹂
俺とジョイスの話を聞いて、ヴェルレーヌが目を見開いている。
しかし彼女はすぐに事情を理解すると、何も言わずに納入された物
品の確認を続けた。
﹁火竜の素材は需要があるのに、貴重すぎるからな。鱗なんかは、
金貨50枚なんて値段で取り引きされてる。新しい鱗に生え変わる
ときに、古い鱗を取るのは簡単なのにな﹂
﹁古い鱗でも質は落ちやせんからね。むしろ古ければ古い方が、強
度があっていいくらいで﹂
ジョイスはヴェルレーヌの出したラムをあおり、一息つく。
彼も俺と同じ飲んだくれの類だが、義理人情には厚く、取り引き
においては誠実そのものである。だからこそ俺も、火竜を放牧する
なんていう話を持ちかけたわけだ。
﹁しかし幼竜が育って、また繁殖期に同じ森を使うとなると、火竜
だらけになっちまいませんかね?﹂
﹁そうだな。だが、幼竜は成竜と違って、子供のころに手なづける
と人間の言うことを聞くようになるんだ﹂
126
﹁ああ、そうだって言いますな。ドラゴンマスターと呼ばれる連中
は、幼竜と一緒に育つとか。もしかして旦那も、そういった経験が
おありになるんで?﹂
﹁俺はただの農家の息子だ。ドラゴンマスターだったのは知り合い
だよ﹂
﹁っ⋮⋮そ、そんなところにまでツテがあるんですかい? 旦那、
あんたはどこまで⋮⋮﹂
﹁さて、火竜が放牧地に移動したあと、俺も一度様子を見に行く。
幼竜を見せたいやつがいるんでな﹂
話を切り上げると、ジョイスは肩をすくめ、残りのラムを飲み干
し、代金を置いて出ていく。最後に俺たちの方を見て深々と頭を下
げる︱︱それが彼が商人として、最も大切にしている流儀だった。
◆◇◆
王都に帰還したティミスは、店の夜の部になってから顔を出した。
そして、他の客が聞いていないことを確認したあと、持ち帰って
きた鱗をヴェルレーヌに見せる。俺はいつものごとくエールを飲ん
でいた。
﹁火竜は、このギルドの方がどこかに運んで行きましたが⋮⋮どち
らに運ばれたのですか?﹂
﹁それについては明かすことはできませんが、今回の火竜は討伐︱
︱殺されるわけではありません。あの森から移動させた時点で、﹃
撃退成功﹄とさせていただきます﹂
﹁は、はい。森の近くで暮らす人々も、安心できると思います⋮⋮﹂
ティミスも、ライアも、マッキンリーも。三人とも、この店に入
ってきてからの態度が変わっている。
127
何か、畏まっているような。少し砕けたところのあったマッキン
リーすら、その顔は真面目そのものだった。
﹁今回の依頼の報酬について、厳密に決めていなかったと思うので
すが⋮⋮私は、どんなものであっても、必ずお支払いできればと思
っています。このギルドに依頼を持ち込んで良かった、そう心から
思います﹂
﹁⋮⋮私たちは火竜と戦ったが、そこまでの打撃を与えられなかっ
た。しかし、火竜は倒れ、﹃森の狩人﹄の罠にかかった。未だに、
何が起きたのか分からない⋮⋮しかし⋮⋮﹂
無念そうなライアの言葉を、マッキンリーが引き継ぐ。
﹁俺たちが未熟だと知っていて、それでも依頼を達成できるように
導いてくれた。デューク・ソルバーという人が、俺たちを守ってく
れたような気がしてならないんです﹂
︱︱明かり虫だと思っていたはずなのだが。そこまでデュークが
神格化されてしまうというのは想定外だった。
実際、俺は彼らを見ていた︱︱というか、ティミスに襲いかかる
火竜に目つぶしを食らわせ、ひるんだところに魔法弾でダメージを
与え、罠の上に誘導して捕獲し、マッキンリーの持っていた残りの
麻痺睡眠弾を代わりに撃ち込んでおいた。
そこまでしてバレないということも、やはりない。三人の記憶を
飛ばすことも考えたが、そこまでするのは逆に非道である。
唯一の救いは、デュークが架空の名義であるということだ。三人
が俺に辿りつくことは、絶対にない。
128
﹁報酬は⋮⋮私の持てる全てでお支払いします。ですから、お願い
します。デューク様に、一目お会いさせてください。このお店に出
入りされているのなら、直接会って感謝の気持ちをお伝えしたいん
です⋮⋮!﹂
︱︱絶対にないというのに。
ティミスが目を涙で潤ませながらヴェルレーヌに訴える。ヴェル
レーヌはそれでも俺の方に視線を向けたりはしない、それは彼女の
俺に対する優しさであろうか。
﹁私も自分の未熟さを痛感した。デューク殿に鍛えなおしていただ
き、お嬢様を守るために強くならなければ⋮⋮私からもお願いする。
どのようなことをしてもいい、デューク殿に会えるのならば、何で
もする⋮⋮!﹂
﹁俺もお願いします、このギルドに入れてください! ただ働きで
いい、デュークさんに会えるなら何でもします!﹂
俺は本当に、こんな展開になるなど想像もしていなかった︱︱ノ
ートを介して指導するだけなら、デューク・ソルバーという人間の
存在を、そこまで彼らが意識するとは思っていなかったのだ。
だが、彼らは自分たち以外の力で火竜が倒されたとき、真っ先に
デュークがやったのだと思うくらいには、彼に対する敬意を抱いて
いた。
つまり、俺に対しての敬意を。
そしてティミスはデュークに会えなかったらものすごく落ち込ん
でしまいそうな、言うなれば片恋の状態にまで、デュークへの敬愛
129
を募らせてしまっている。鈍い俺でもそれくらいは分かってしまう。
﹁私の命は、デューク様の教えのおかげでここにあります。この火
竜の鱗も、デューク様に捧げるべきものです⋮⋮力が及ばない私を、
優しく導いてくれた。そんな彼に、一目でも会ってお礼を⋮⋮っ﹂
ティミスが必死に訴えるのを、ヴェルレーヌは優しく微笑んだま
まで聞いていた。
﹁⋮⋮では、ティミス様。あなたが自分の力で強くなり、副騎士団
長となることができた暁には。それを祝うために、あなたの前に姿
を現すようにお願いしておきましょう﹂
﹁っ⋮⋮ほ、本当ですか⋮⋮?﹂
﹁ええ。でも、決して無理をなさらないでください。急がずとも、
あなたはまだ若い。デューク様も、あなたが想像されているよりは
お若い方です。きっと、待っていてくださいますよ﹂
﹁あぁ⋮⋮デューク様⋮⋮デューク様が待っていてくださるのなら、
私⋮⋮必ず、強くなります⋮⋮!﹂
ティミスは涙を拭いながら、誓いを新たにする。これから彼女は、
着実に腕を磨いていく道を選ぶだろう。
ヴェルレーヌに感謝しなくてはならないところなのだが、もう一
段階クリアしなければならない関門がある。
カランコロン、とドアベルが鳴る。そして姿を現したのは︱︱ミ
ラルカと、マナリナだった。 振り返ったティミスが、すぐに気づく。そこにいるのが、自分の
敬愛している姉だということを。
130
﹁お姉さま⋮⋮マナリナお姉さま、どうしてこちらへ⋮⋮?﹂
﹁ティミス⋮⋮久しぶりですね。あなたに会えると聞いて、ディッ
ク様に呼ばれて来たんです﹂
﹁⋮⋮ディック? ディック様とは、どなたですか?﹂
姉に会いたいというティミスのために、今日会えるようにミラル
カとマナリナに連絡していたのだが︱︱そのおかげで、正体バレの
危機に陥ってしまった。
﹁そちらの席の方です。ディック様は、私の恩人で⋮⋮﹂
﹁ディック⋮⋮そのような名前だったのか。デューク・ソルバーか
と思ったこともあったが、やはり違うのだな﹂
﹁そ、そうか⋮⋮そうだよな。気前がいい良い人なんだけど、やっ
ぱりただの酒好きなお客さんだよな﹂
ライアは勘がいいのか悪いのか分からないが、彼女のおかげで俺
は最大の危機を乗り越えられた。
ミラルカは全てを察しているようで、俺の方を見ると、ふぅ、と
ため息をつく。
﹁気前のいいディックさん、お酒をいただけるかしら? あなたの
お勧めでいいわ﹂
﹁っ⋮⋮あ、ああ。まとめておごってやるから、向こうのテーブル
にでも座ったらどうだ?﹂
﹁ディック様⋮⋮いえ、分かりました。今日は、妹と一緒にご馳走
になります﹂
俺の気持ちを察してくれて、マナリナは妹を連れて、カーテンで
区切られたテーブル席に歩いていく。ライアとマッキンリーも今日
131
はテーブル席に座り、他の客に混じって飲んでいた。主人であるテ
ィミスが姉に会えたことを、ライアは自分のことのように喜んでお
り、マッキンリーは一人酒でも、何か満ち足りた顔をして飲んでい
た。彼が俺のギルドに入りたいというのは、どうやら本気のようだ。
残された俺を、ヴェルレーヌはしばらく仕事をしながら見ていた
が、たっぷり間を空けてから言った。
﹁お客様、ティミス様に正体を明かすときには、なんらかの責任を
取る必要が出てきそうですね﹂
こんなときだけお客様扱いするヴェルレーヌ。俺はカウンターに
突っ伏して、空になったエールのジョッキを振る。白旗を振るよう
な気持ちで。
﹁王女姉妹を心酔させてしまうとは⋮⋮﹃幻の五人目﹄が、この国
を影から支配する日も遠くありませんね﹂
﹁そんなつもりはなかったんだが⋮⋮俺には女心が分からん﹂
﹁お教えしてさしあげましょうか? ﹃女心が分かる方法﹄という
ノートでもお作りいたしましょうか﹂
﹁⋮⋮暇があったら是非頼みたいところだな﹂
皮肉を言う気にもならない俺を見て、ヴェルレーヌが嬉しそうに
笑う。ティミスたちの席からは、再会を喜ぶ姉妹の声が聞こえてき
ていた。
ミラルカには、別件の用事があったのだが。あとで酒がいい具合
に機嫌を良くしてくれたら、とある交渉に臨まなければ︱︱ただ、
休みの日に一緒にある場所に来てくれというだけなのだが。
132
◆◇◆
後日、なんとかミラルカを説得した俺は、彼女を連れて火竜の放
牧場となった森に向かった。
放牧場の管理人としてジョイスが雇ったのは、ドラゴンマスター
の経験がある老人だった。ジョイスはそれを知らず、竜の知識があ
る人間というだけで募集をかけ、大当たりを引いていたのだ。老管
理人は俺たちを快く迎え、竜がいる巣へと案内してくれた。
ティミスたちが戦ったメスの火竜は、ドラゴンマスターによって
警戒を解かれ、幼竜の近くにいても俺たちを攻撃してはこなかった。
﹁火竜の幼体ってのは、何ていうか、めちゃくちゃ可愛いんだ。だ
から、見せてやろうと思ってな﹂
﹁ふぅん⋮⋮そうなの。竜の子供が、可愛いとは思えないけど⋮⋮﹂
洞窟の中に木の枝などを敷き詰められた巣が作られ、人間の赤ん
坊くらいの大きさの幼竜が三匹いて、ピイピイと鳴いている。丸っ
こい体でよちよちと歩いてくると、巣の端っこによじ登り、ミラル
カの足元にべち、と落ちた。
幼竜はそれでも起き上がり、ミラルカの足にすがりつき、ピイピ
イと鳴く。俺から見ても何とも庇護欲をそそる︱︱これは母親でな
くとも、守りたくなる気持ちがわかる。
﹁おお、かなりなついておられますな。この子は三匹の中でも警戒
心が強いのですが﹂
﹁⋮⋮かっ⋮⋮﹂
﹁そうなのか⋮⋮ミラルカ、どうした?﹂
133
ミラルカは何も答えないまま、幼竜を抱え上げる。そして腕の中
で大人しくしている幼竜を撫で始めた。
﹁⋮⋮可愛い。育ててあげたい⋮⋮こんなに可愛い生き物がいたな
んて⋮⋮よちよち、いい子でちゅねぇ﹂
幼竜は喜ぶようにピイピイと鳴き、ミラルカはもうデレデレにな
っている。
可愛い生き物が好きだというから、見せてやろうかと気まぐれを
起こしただけなのだが、どうやら想像以上に大ヒットしてしまった
ようだ。
﹁⋮⋮はっ。あなた、私とあなたの間に子供ができて、こうやって
可愛がっている姿を想像したりしていないでしょうね。そんなこと
をしたら殲滅するわよ﹂
﹁俺もそこまで命知らずじゃないぞ⋮⋮って、なんで機嫌が悪くな
るんだ﹂
﹁う、うるさいわね⋮⋮ああごめんなさい、驚かしちゃいまちたか
? 怖いお兄ちゃんがいるから、向こうで遊びましょうね﹂
赤ちゃん言葉で幼竜をあやしつつ歩いていくミラルカ。その後ろ
を、もう二匹の幼竜がピイピイと鳴きながらついていく。
その姿を見て意外に母親に向いてるのかもしれないと思うあたり、
俺はミラルカに怒られても無理はないかもしれない。
少し離れた場所から、母竜はミラルカと遊ぶ子供たちを、時々く
るる、と喉を鳴らしながら見守っていた。
134
第12話 情報部員と少女司祭
﹃銀の水瓶亭﹄には情報収集を専門とするギルド員がいる。彼、
そして彼女らは、常に町の噂に耳をそばだて、情報屋と接触しては、
俺の元に王都内の情報をもたらしてくれる。
12の冒険者ギルドはいずれも情報収集部門を持っているが、ト
ップギルド﹃白の山羊亭﹄の情報部を除いて、いちおう部門として
存在している程度である。持ち込まれる依頼をさばいているだけで
も、仕事の量が十分であればギルド経営には問題ないからだ。
しかしただ待っているだけでは、代わり映えのしない依頼が持ち
込まれるだけだ。
人手不足なので農家の収穫を手伝ってほしい、素材を代わりに集
めてほしい、商人の護衛、さほど強くない魔物の討伐、犬や猫の捜
索、家出人の捜索︱︱そういった依頼を他のギルドと取り合ってい
るのは労力の無駄だし、そこに割くよりは、ギルドに持ち込まれな
い依頼こそを掘り出すべきなのだ。
そんなわけで、俺のギルドの情報部は日夜情報収集に励んでいる
のである。今日も、夜の部になると、飲んだくれている俺の元に、
情報部員が報告にやってきた。
﹁ヴェルさん、きんきんに冷やしたエールお願いしまーす。今日は
一日動き回って、汗だくになっちゃって﹂
﹁お疲れ様です、リーザさん﹂
135
カウンターの俺の席の隣に座り、エールを受け取って美味しそう
に飲んでいるのは、情報部員のリーザである。もともとは12番通
りの界隈で情報屋の小間使いとして働いていた少女だが、その才能
を見込んで俺がスカウトした。
会ったときは13歳だったが、今は16歳。ショートカットにさ
っぱりとした笑顔が印象的で、右耳だけピアスをしている。そのピ
アスは聴力を強化するためのもので、情報部員ご用達の魔法具であ
る。俺が作り方を習って自作したのだが、なかなか気に入ってもら
えている。
情報部員はみんな外套を羽織っており、革製の軽い防具を身につ
けている。しかし他にも冒険者が出入りしているので、その姿が特
に目立つということはない。一般の客も慣れたものだった。
﹁あ、座ってから言うのもなんですけど、となり空いてますか?﹂
﹁ああ、空いてるぜ﹂
﹁えへへ、ありがとうございます。相変わらずですね、マスター⋮
⋮いえ、常連さん﹂
マスターと言いたいだけじゃないのか、という訂正の仕方に苦笑
しながら、俺はエールを喉に流し込む。そしてヴェルレーヌが出し
たつまみを口に運んだ。今日入ったばかりの新鮮なチーズだ。
リーザにも勧めてやると、彼女は嬉しそうに口に運ぶ。乳製品が
好きなので、この﹃雲羊のチーズ﹄はたまらないだろう。普通の羊
のチーズとはコクと旨みがまるで違う。
﹁ヴェルさん、聞いてくださいよ。今日、町でこんなことがあって
ですね⋮⋮﹂
136
リーザは世間話をしているようだが、暗号を用いて、どんな情報
を集めてきたかを俺に伝える。
マナリナとの婚約を破棄されたヴィンスブルクトが、懲りずに他
の王女との婚約を申し込もうとしたが、第三王女はまだ幼すぎて却
下されたこと。
騎士団を便利屋のように使っていた貴族が、それができなくなっ
て冒険者ギルドに依頼を持ち込むようになったということ。
その貴族がギルドに持ち込もうとした依頼というのが、購入した
格安物件の屋敷に死霊が出るので、退治してほしいというものだっ
たということ。しかし依頼を断られたので、貴族は諦めて屋敷を手
放し、今は空き家となっているらしい。
いずれもあまり興味を引く話ではなかったが、マナリナとティミ
スにさらに妹がいるというなら、ヴィンスブルクトの魔の手からい
ずれ守ってやらねば、と思いはする。年端も行かぬ少女に手を出そ
うとは、よほど王族との姻戚関係が欲しくてしかたないのだろうか。
﹁あ、それとですね⋮⋮マナリナ様がまた国王陛下から結婚を勧め
られたそうですが、きっぱりと断ってますね。これは、ある人物の
影響なんだそうです﹂
﹁ふふっ⋮⋮そうなのですか。それは興味深いですね。そちらのお
客様も、隅におけないようで﹂
女王として即位することもできるので、絶対結婚しなければなら
ないわけではないが、もし俺に操を立てていたりなんかしてしまっ
たら、ちょっと何というか、一度意識調査が必要だろうか。そんな
ことを言っていたら、またミラルカにさげすんだ目で見られそうだ
が。
﹁そうそう、聞きました奥さん?﹂
137
﹁奥さん⋮⋮私のことですか? 確かに私は、精神的にはご主人様
のおしかけ妻のつもりではございますが。もしや私のご機嫌を取ろ
うとなさっているのですか。リーザさん、あなたは優秀ですね﹂
﹁そこまで考えてなくてノリだったんですけど、ありがとうござい
まーす﹂
勝手に奥さんにするな、と喉から出かかるが、俺は隣席でひとり
飲んでいる体なので、黙っているしかない。
﹁ええとですね、王都の教会区のはずれに、孤児院があるじゃない
ですか。そこの孤児院の院長さんが、今寝込んじゃってるみたいで、
子供たちが心配してるんです。そこの孤児院の年長の子が院長さん
の代理をしてるんですけど、けっこう大変みたいですね﹂
﹁それはお気の毒に⋮⋮その院長をされている方は、何かご病気を
されたのですか?﹂
﹁それが、原因不明みたいです。ちょっと前から不調だったみたい
ですけど、今は特に深刻で⋮⋮あ、ユフィール・マナフローゼって
いう女性の方なんですけどね﹂
プリエステス
ユフィール・マナフローゼ。その名前を、俺はとても久しぶりに
聞いた。ふわりと柔らかく笑う、少しぶかぶかな女僧侶の服を着た
少女︱︱その姿を思い出す。
﹁長い名前なので、短くして呼んでください﹂と言われ、アイリ
ーンがつけた略称。名前の頭文字を取って、﹁ユマ﹂︱︱そう、﹃
沈黙の鎮魂者﹄と呼ばれる、魔王討伐隊の一員だ。 ユマが病気になった。ミラルカが知らなかったということは、こ
こ最近体調を崩したということになる。
138
﹁ユフィールさんのお父上は、アルベイン教会の大司教なんです。
大っぴらにギルドに依頼を出すわけにいかないみたいですけど、ど
んな方法を使ってでも、娘さんの病気を治したいと思っていらっし
ゃるそうで⋮⋮今は、お母さんがつきっきりで看病をしているそう
ですよ﹂
リーザは俺とユマの関係について知っているので、それも込みで
俺に情報を伝えてくれているのだろう。
﹁ではでは、私はこれで。今日はもうくたくたなので、うちでゆっ
くり寝たいです﹂
﹁ええ、またのお越しをお待ちしております﹂
ヴェルレーヌに送り出され、リーザはさりげなく俺にも手を振る
と、ほろ酔いながらしっかりした足取りで店を出て行った。
この近くには﹃銀の水瓶亭﹄によって買い上げられた集合住居が
あり、そこがギルド員の寮となっている。いわば社員寮というやつ
だ。俺は店の二階を住居にしていて、ヴェルレーヌも一緒に住んで
いる。
﹁⋮⋮お客様、聞きましたか? リーザさんが、私のことを﹃奥さ
ん﹄とおっしゃっていましたが。酒場の店主として勤めるあいだに、
若妻の艶が出てきたということでしょうか。お客様は、どう思われ
ますか?﹂
店主と若妻に何か関係あるのか不明だが、ヴェルレーヌはとにか
くうれしかったようだ。
最近魔王の護符を返せと言わなくなったのは、目的が変わったか
らなのではないかと薄々気づいている俺だったが、同居していても
139
襲われないうちは、まだ大丈夫だ︱︱何が大丈夫か分からないが、
とにかく自分にそう言い聞かせていた。
◆◇◆
そして翌日。俺は店の昼下がりの休憩時間に、裏口から出て、あ
る場所へと向かった。
首都には南北に走る12の通りがあって、一番西から順番に番号
がつけられており、それぞれ特色が異なっている。
一番通りは﹃教会区﹄に隣接している。徒歩で教会区に行くには
時間がかかるので、王都を巡回している馬車に乗り、楽をさせても
らった。最近の馬車は客席の質が良く、乗っていてもそこまで尻が
痛くならない。
一時間ほどかけて教会区の近くまでやってきた俺は、外套をかぶ
って馬車から降りた。運賃は銀貨5枚、この距離を運んでもらうに
しては安い。これは、乗り合い馬車に国から補助が出ているからだ。
教会区は文字通り、アルベイン神教会の施設が集まった地区であ
る。人々が礼拝に通う礼拝堂、そして僧侶たちが修行に励む修道院
︱︱いくつもの建物を横目に俺は歩き続け、その孤児院にたどり着
いた。
孤児院には隣接して礼拝堂が立てられている。ユマはここで司祭
を務めつつ、孤児院の院長をしているわけだ。そして大司教になる
ための勉強もしているとなれば、疲労で倒れても無理はない。
孤児院の庭では、子供たちが遊んでいる。それを見守っていた若
い女僧侶が、俺のところに歩いてきた。
140
﹁こんにちは。こちらに何かご用向きでしょうか?﹂
﹁ここの院長に会いたいんだが、面会はできるか﹂
﹁院長先生でしたら、今日はそちらの礼拝堂にいらっしゃいます。
しかし、最近はご体調がすぐれないとのことで、ご面会は⋮⋮﹂
ユマはまだ酒を飲める年齢じゃないし、僧侶に酒は厳禁だから、
俺のギルドに来ることはできない。
だからこそ、彼女の様子を見るために、足を運ぶべきだと思って
はいたが。過保護なことをしているようで、ここまで足が遠のいて
しまった。
今回だけは、例外だ。俺は酒場で、持ち込まれる依頼を解決する
だけ。
自分から動くのは、そうせざるを得ない場合だけだ。言い訳めい
ていると思いながら、俺は腹をくくる。
﹁俺はユマ⋮⋮ユフィールさんの、古い友人なんだ。ミラルカ・イ
ーリスのことも知ってる﹂
﹁ミラルカ・イーリス⋮⋮あ、あの、﹃可憐なる災厄﹄のご友人で
あらせられるのですか⋮⋮?﹂
女僧侶は驚きを顔に出す。こんなことで説得できるのかと思った
が、ミラルカの名前は強力だった。ここに出入りしているそうだか
ら、この女僧侶も面識があるようだ。
﹁で、では、ユフィール様にお伺いしてまいります。しばしお待ち
ください﹂
おそらくユマより年上の女僧侶は、慌てて礼拝堂に速足で向かう。
おそらくユマなら、俺だと気づいてくれるだろう。
141
その予想通りに、戻ってきた女僧侶に案内され、俺はユマの居る
礼拝堂に案内してもらった。
礼拝堂に入ると、神像の前で祈りを捧げる女司祭の後ろ姿が目に
入った。
天窓から降り注ぐ光の中で、彼女は静かに祈り続けている。近づ
いていいものかと思うが、意を決して歩き始めると、女司祭が後ろ
を振り返った。
︱︱そして、昔とまるで変わらない笑顔で笑う。彼女は片手を上
げ、小さく動かして挨拶をした。
﹁ディックさん、お久しぶりです。さきほど神託があって、あなた
が来るのはわかっていました﹂
﹁それはすごいな⋮⋮どういう神託だったんだ?﹂
﹁⋮⋮それは秘密です。神様のご意志は、簡単に他の方に教えてい
いものではないのです﹂
口元に人差し指を当てて言う。相変わらず小柄だが、やはり年齢
相応に身長は伸びて、もう子供っぽいとばかりも言っていられない。
白を基調とした司祭の服は、彼女の身体の柔らかな曲線を、ふんわ
りと浮かび上がらせている。
﹁⋮⋮ちょっと痩せたか? 長いこと会ってなくて、そういうこと
言うのもなんだけど﹂
﹁くすっ⋮⋮ディックさん、私が寝込んでいたこと、知っていて来
てくれたんですよね?﹂
﹁お見通しか⋮⋮まあ、使いの者を見舞いに行かせるってのは、さ
142
すがにどうかと思うからな﹂
﹁ありがとうございます。ディックさんは昔から優しいですよね、
いつも他人に興味がないっていうふうなのに﹂
﹁他人に興味がないなら、ギルドなんて初めからやらないさ。俺は
ただ、目立ちたくないだけだ﹂
お決まりのセリフを言うと、ユマは楽しそうに笑う。
しかし、こうして話していても一見元気そうに見えるが、違和感
があることは否めない。
ユマといえば何か。今の彼女は、あまりにも毒気がなさすぎるの
だ。俺が知っているユマは、こんなに絵に描いたような聖女ではな
い。
﹁孤児院、うまくいってるか?﹂
﹁はい、受け入れ人数がもういっぱいになってしまったので、お父
様に相談してもう一つ孤児院を作ろうと思っています﹂
﹁⋮⋮今でも忙しくて、大変じゃないか? あまり根を詰めすぎる
と、身体に悪いぞ﹂
ユマらしさといえば、﹃鎮魂﹄。しかしどうも、今の彼女からは、
その言葉が出てくる気配がない。
それはおかしいことなのだ。あれほど鎮魂にとりつかれた彼女が、
久しぶりに会った俺の魂をお鎮めしたい、と言わないなどと、あき
らかに異常だ。いや、普通は言わないのかもしれないが、ユマは普
通ではない。
﹁仕事や勉強も大事だけど、たまには何も考えずに、楽しいことを
してもいいんじゃないか﹂
﹁はい⋮⋮でも、王都は平和ですから。私の魂を震わせる出来事は、
あまり起きてはくれないのです﹂
143
しゅん、としているユマ。
やはりそうだ︱︱もしかしなくても。彼女に元気がない理由は、
鎮魂ができてないからだ。
﹁王都に戻ってきてから、その⋮⋮できてないんじゃないか? ﹃
鎮魂﹄﹂
﹁っ⋮⋮ど、どうしてそれを⋮⋮?﹂
﹁いや、見てればわかるよ。あれだけ鎮魂したいって一日中言って
たのに、今はごく普通のことしか言わない。そんなのは、ユマらし
くないからな﹂
﹁⋮⋮王都は平和になりましたし、私は慰霊などのお仕事をまだ任
せてもらえませんから、冒険をしていたときと違って、ち⋮⋮鎮⋮
⋮鎮魂⋮⋮は、あまりできなくなってしまったのです﹂
ユマは﹃鎮魂﹄という言葉を口にすることにすら躊躇するほど、
鎮魂に飢えている︱︱口にしたら我慢できなくなる、おそらくそう
いうことなのだ。
﹁⋮⋮でも⋮⋮ああ⋮⋮そんなふうに言われてしまったら⋮⋮思い
出してしまいました。ディックさんの魂をお鎮めしたい⋮⋮ほんの
少しで構いませんから⋮⋮﹂
﹁ま、待て⋮⋮俺はまだ生きてる。生前に魂を鎮めるって、どうい
うことになるんだ?﹂
﹁強制的に神の国へ⋮⋮神聖魔法⋮⋮昇天⋮⋮﹂
﹁っ⋮⋮ゆ、ユマ、落ち着け。俺の魂はいつか、俺が天寿を全うし
たときに鎮めさせてやる。だから今はちょっとお預けというか⋮⋮
っ﹂
目がとろんとして、俺にじりじりと迫ってきていたユマの目に光
144
が戻る。
︱︱やはり、痩せている。俺は安堵の溜息をついたあと、礼拝堂
の席に腰かけ、革のザックからユマのために持ってきた土産を出し
た。
﹁礼拝堂は飲食禁止か? それなら、場所を変えるけど﹂
﹁いえ、大丈夫です⋮⋮ディックさん、私のために⋮⋮?﹂
﹁ああ。とりあえず、滋養強壮のために⋮⋮酒ではないから、安心
して飲んでくれ﹂
俺はコルクで栓をした瓶を出して開けると、割れないように運ん
できたグラスに中の液体を注いだ。
﹃安らぎの雫﹄。エルフが独自に調合した薬用の飲み物で、希少
な生薬のエキスを調合し、飲みやすいように風味をつけてあるもの
だ。
ユマは俺のとなりの席に座ると、グラスを受け取る。そして、そ
っと唇をつけた。
﹁んっ⋮⋮あ⋮⋮濃厚そうなので、苦いかなと思いましたが。甘く
て飲みやすいです﹂
﹁薬でも、味は大事だからな。まあ、上等なポーションだと思って
くれ﹂
﹁はい⋮⋮身体が少し温まってきました。気持ちも、とても落ち着
きます⋮⋮﹂
疲れているほど即効性があると言われているので、ユマにはてき
めんに効いたようだった。
安らぎの雫を飲むと食欲が出るので、肉を食べることが禁じられ
ている僧侶でも食べられるバゲットサンドと、果実のジュースを出
145
す。
﹁これも良かったら食べてくれ。うちの店では結構人気がある軽食
なんだ﹂
﹁⋮⋮はい。お薬を飲んだら、はしたないですが、少しおなかがす
いてしまいました。いただきます﹂
ユマはサンドウィッチの包み紙を剥くと、はむ、とかぶりつく。
あまりレディの食事を見ているのも何なので、俺は神像に視線を移
した。
﹁ディックさん⋮⋮懐かしいですね。魔王討伐の旅をしていたとき
も、こんなふうに食事をしたことがありました。そのときより、ず
っと美味しいですけど﹂
﹁それは良かった。ただでさえユマは体重が軽そうだからな、ちゃ
んと食べたほうがいいぞ﹂
﹁はい。ディックさんも一緒に食べてくれたら嬉しいです﹂
ユマがそう言うならば、ご相伴にあずかるほかはない。俺は後で
食べようと思っていたバゲットサンドを取り出し、彼女の視線をく
すぐったく思いながらかぶりついた。
今のところ、ユマは食事がとれないというほど衰弱はしていない
が、このままでいいとは思っていない。
ユマのストレスを解消してやらないと、根本的な問題解決はでき
ない。ならば、どうすればいいか。
それには、溜まりに溜まった彼女の鎮魂欲を満たしてやればいい。
146
今のしおらしく、淑やかなユマも正直を言って悪くはないと思う
のだが、やはり彼女らしさを取り戻してやりたい。
あくまでも、俺らしいやり方で。俺はすでに、ユマにしてやれる
ことを思いついていた。
147
第13話 幽霊屋敷と大司教夫妻
ユマに会ったあと、俺はその足である場所に向かった。
教会区から北に向かうと、王都を見下ろすことができる高台に上
ることができる。そのあたりは、貴族の邸宅が幾つか建っているの
だが、そのうち一つに用があった。
リーザが言っていた、死霊が出るという屋敷。高い塀に囲まれ、
建物は年季が入っているが、造りがしっかりしていてそれほど老朽
化しているようには見えない。
一階に八部屋と食堂、浴室。二階には十二部屋ある大邸宅である。
貴族は十人から二十人くらいの一族が一つの家に住むことが多いの
で、他の屋敷と比べてみても最大クラスの規模だ。
これが金貨千枚という破格で売り出されており、持ち主は一週間
も経たずに退去して、不動産屋にそのたびに手数料と屋敷の購入代
金が支払われて、丸儲けをしているという。そこも引っかかる部分
ではあるが、相場の二十分の一という破格なので、次々と購入希望
者が現れるのも無理はない。
しかし屋敷を壊して立て直すということもできなくはないのに、
なぜ購入した貴族は手放し、近寄ろうともしないのだろうか。よほ
ど恐ろしい目にでも遭ったということか。
﹁⋮⋮それにしては、全く死霊の気配を感じないな﹂
148
思わず独りごちる。死霊は昼でも夜でも関係なく現れるものだが、
その家からは邪悪な気配を感じない。
普通の人間には死霊とそれ以外の霊の区別がつかないので、邪悪
ではない霊であっても、知識のない人にとっては同じくらい脅威で
あり、逃げてしまったという可能性もある。
それとも、昼間だけは死霊が集まらず、夜になると問題が発生す
るのか。それについては、この地区で情報収集を担当しているギル
ド員を呼び寄せ、聞いてみることにした。俺が自分で調査してもい
いのだが、それよりは今回も﹃依頼解決﹄の形をとるべきだろう。
幸いにも、ユマの父親である大司教からの依頼という形をとること
ができそうだからだ。
◆◇◆
︱︱そして、二日後。
俺はギルド員に命じて、大司教の側近に﹃銀の水瓶亭﹄の情報を
与え、大司教に俺たちのギルドへの依頼を検討してもらうように仕
向けたのだが、その結果が早速出た。
夜の部の営業が始まって間もなく、巨体の大男と、一人の女性が
入ってくる︱︱ふたりとも外套を身に着けており、色は曜日に合わ
せて黄土色だ。地味な色が多いのは、印象に残りにくい色を選んで
いるからだ。
彼らはカウンターにいるヴェルレーヌのところにやってくる。大
男はフードを被ったままだが、その中の顔を見ると、だいたい五十
代といったところだろうか。壮年で、白い髭をたくわえており、浅
149
黒い肌に鋭い瞳をしている。伴っている女性は男性が大柄すぎて、
対比で子供のように見える︱︱その容貌からして二十代ほどだろう
か。整った顔だちをしていて、柔らかい微笑みを浮かべている。
この女性の雰囲気に似た人物に、心当たりがある。ユマ︱︱ユフ
ィール・マナフローゼ。彼女の血縁者というか、もしかしたら⋮⋮。
﹁⋮⋮﹃ミルク﹄を所望したい。もしくは、﹃この店でしか飲めな
い、おすすめの酒﹄を﹂
﹁かしこまりました。﹃当店特製でブレンド﹄いたしますか?﹂
﹁酒が欲しいと言ったが、ゆえあって飲むことができない身分でし
てな。酒精を抜きにして﹃私だけのオリジナル﹄をお願いしたい﹂
酒が飲めないのに、合言葉を知っていて口にした︱︱そこで俺は、
その二人が何者であるのかを悟る。
﹁それでは、お酒を用いずに飲み物の方作らせていただきます﹂
﹁すみません、主人も私も、職業柄お酒を口にすることができなく
て⋮⋮無粋なことをして申し訳ありません﹂
どうやらこの二人は夫婦らしい。それで、女性の方はユマに似て
いる︱︱となると。
﹁私はグレナディン・マナフローゼと申します。娘のことで、ご相
談に上がらせていただきました﹂
﹁グレナディンの家内のフェンナと申します。こちらのお店で、娘
の病気を治療する方法を教えていただけるとお伺いして⋮⋮﹂
まさか、ユマの父︱︱大司教グレナディンさんと、その妻である
フェンナさんの二人が、直々にやってくるとは。
150
モンク
娘の体調を、それほど案じているということだろう。大司教とは
いうが、巨体に筋骨隆々という拳闘士のような外見で、僧兵上がり
なのではないかと想像がついた。どうやらユマは、母親似のようだ。
﹁では、合言葉も確認させていただきましたので、さっそく本題に
入りましょう。娘さんというのは、ユフィールさんという方のこと
ですね。魔王討伐隊で功績を上げた、勇者の一人と聞き及んでいま
す﹂
﹁娘は天性の才能があったのです。迷える魂を導き、穢れた地を浄
化する能力にかけては、この国に⋮⋮いや、世界に並ぶ者はいない
でしょう﹂
﹁子供のころから、親の手がかからない子でした。魔王討伐を成功
させ、孤児院を開いてからも、運営は上手くいっていたのですが⋮
⋮最近、少しずつ食欲が落ちてきていて、ため息も増えているんで
す。それで心配していたら、突然倒れて⋮⋮お医者様にも原因がわ
からず、とりあえず療養せよとしか言ってくださらないのです﹂
フェンナさんは瞳を涙で潤ませ、ハンカチで押さえる。グレナデ
ィンさんは妻を案じつつも、ヴェルレーヌの出した﹃聖域梨の清水
割り﹄を口にする。その名のとおり、アルベイン神教の聖地のある
山で採れる梨を、同じ山で採取される湧き水で割ったものである。
教会の関係者には特に受け入れられやすい飲み物だ。
﹁娘は仕事が充実していると言っていたし、私の跡を継ぐために努
力を重ねていた。そんな娘が体調を崩すには、やはり医者では診断
できない病に侵されているとしか⋮⋮﹂
﹁お願いします⋮⋮っ、ユフィールを、私たちの娘を、どうか、ど
うかお救いください⋮⋮!﹂
神に仕える人々が、このうらぶれたギルドに救いを求めている。
151
しかしそれは、このギルドならどんな依頼でも達成できると聞いた
からこそだろう。
二人とも、藁にもすがる思いでここに来た。そして俺は、ユマを
自分が関与したと知られずに元気にしてやりたい。目指すところは、
ユマの両親と一致している。
﹁かしこまりました。このギルドには、不可能はございません。ユ
フィール様が体調を崩されている原因をたちどころに把握し、必ず
や回復させましょう﹂
﹁⋮⋮かたじけない。神の恵み、癒しの魔法を使うことができる我
々が、娘一人助けられないなどと⋮⋮あまりにも不甲斐ない限りで
す。それでも私たちは、娘を失いたくない﹂
そこまで深刻な問題ではない︱︱原因が分かっているし、すぐに
でもユマを元気にしてやれる。
そのためには、あの死霊が出るという屋敷に、ユマたちに出向い
てもらう必要がある。孤児院から離れることができないユマに、両
親から働きかけ、休みを取るように言ってもらう。
実を言うと、すでにあの屋敷は金貨千枚で購入してある。中に入
っても誰も文句は言われないし、浄化を済ませてしまえば、このギ
ルドに物件がひとつ転がりこんでくるわけだ。俺は、それが報酬で
いいと思っている。
﹁娘さんの体調を案じられるお気持ち、お察しします。ですが、も
うご安心ください。ユフィールさんには一日か二日ほど外泊をして
いただきますが、それで彼女の体調は回復します﹂
﹁むぅ⋮⋮娘は私が言うのもなんですが、仕事熱心です。子供たち
の元を離れることを、受け入れるかどうか⋮⋮﹂
﹁ユフィールには私から言っておきます。娘がどちらに行くかは、
お伺いしても⋮⋮?﹂
152
﹁王都の中ですし、もしご心配でしたら、いつでも連絡がつくよう
にいたします﹂
ウソはついていないが、幽霊屋敷で宿泊するとなったら、逆に心
配をかけてしまう。そこは、伝えずにおいた方がいいだろう。
しかし間違いなく、ユマはあの屋敷に死霊が出るとしたら︱︱か
つての彼女の活力を取り戻すだろう。
﹃沈黙の鎮魂者﹄たるゆえん。あまりにも強力すぎる浄化能力を、
また見せてくれるはずだ。
報酬については、宿泊準備の費用を前金として受け取ったのみで、
後払い分はのちに検討することになった。大司教から受け取る報酬
を考えたとき、ピンとくるものが現時点ではなかったからだ。
大司教夫妻が帰っていったあと、俺は別の席で飲んでもらってい
たミラルカとアイリーンを呼び寄せた。二人はカウンターに座り、
ヴェルレーヌから事情の説明を受ける。
﹁そう⋮⋮ユマはそんなに体調が悪いのね。前に会ったときは元気
だったけれど、そういえば少し頬がやせて見えたわ﹂
﹁うーん、ここはあたしたちが何とかしてあげたいよね⋮⋮﹂
﹁はい。そこで、お二人にお願いがございます。ユフィールさんと
一緒に、ある場所で外泊をお願いできますでしょうか﹂
﹁外泊⋮⋮? ユマと、アイリーンと、私で?﹂
﹁あ、そっか。お仕事で疲れたときって、温泉地に行って静養した
りするもんね。ユマちゃんも疲れてるから、連れていってあげよっ
か。うんうん、それいい! お酒おかわり!﹂
アイリーンはテンションが上がったらしく、上機嫌で酒を頼む。
153
俺はエールを飲みながら、炒った﹃知恵の豆﹄をかじっていた。あ
とはミラルカたちに任せる、といった気持ちでいるわけだが︱︱
いつの間にかミラルカが席を立っており、肩に手を置かれた。
﹁そちらの酔っ払いさんは、何を他人事のような顔をしているのか
しら?﹂
﹁い、いや⋮⋮お嬢さん方、友達同士で外泊なんて、楽しそうじゃ
ないか。俺のことは気にせず楽しんで⋮⋮﹂
﹁えー⋮⋮あそっか、今はお客さんなんだ。じゃあ﹃お客さん﹄に
言っておくけど、酒場で飲むお酒もいいけど、たまには場所を変え
るとまた格別だよ﹂
﹁お、俺はこの店で飲むのが一番落ち着くんだよ﹂
﹁あ、ちょっと心が動いた。そんなに無理しなくてもいいからね、
いつ来ても私たち歓迎するし。あ、でもこんなこと﹃お客さん﹄に
言ってもしょうがないか。あはは☆﹂
もう普通に誘ってるようなものなのだが、しらばっくれざるを得
ない。しかしミラルカは俺の肩に手を置いたままだ。
﹁その外泊先について、お店が終わったら説明してもらおうかしら
⋮⋮ねえ、酔っ払いさん﹂
﹁ご説明については、こちらで承ります。もちろん﹃ご主人様﹄も
同席されますので、ご心配なく。今は、ゆっくりとお酒をお愉しみ
ください﹂
ヴェルレーヌがブレンドした酒をミラルカに出す。彼女はすっか
り、俺の作ったブレンドがお気に入りになっていた。﹃気に入って
いる﹄とは一言も言わないのだが。
154
﹁ん⋮⋮美味しい﹂
﹁ミラルカ、お休みに一緒にどこか行くなんて初めてじゃない? あたし、もう楽しみで楽しみで﹂
﹁⋮⋮そうね。お疲れ様の旅行くらい、しておいた方が良かったか
しら。その点においては、なかなか気の利いたことをすると考えな
くもないわね﹂
死霊が出るという屋敷だが、ミラルカとアイリーンなら特に怖が
る理由もない。
︱︱というか、出てもらわないと困るのだが。ユマ一人で宿泊さ
せるのもなんなので、彼女の友人であり最強のメンバーを揃えてみ
たわけだが、どう転ぶのだろう。
まかり間違って屋敷を破壊されたりしたら困るので、俺もひそか
に、陰ながら見守るべきだろうか。
屋敷に明かり虫が一匹紛れ込んでいたところで、殲滅されること
はないと思いたい。幻の四人目として、死霊屋敷でのお泊り会に潜
入する︱︱バレたら殺されるかもしれないが。彼女たちが昔と同じ
制御不能の集団であるなら、監督役は必要であり、それをこなせる
のは俺だけだ。
﹁え、温泉じゃないの? 北西の高台にあるお屋敷? ふーん⋮⋮
そこってお風呂広いの? いっぱいお酒置いてある?﹂
﹁⋮⋮何か気になるのだけど、まあいいわ。責任を取ってもらえば
いいだけだから﹂
ミラルカが俺を横目で見ながら言う。じゃあ責任を取らせてもら
おう、とは言わずに、俺はまだ十分に冷えているエールを喉に流し
155
込んだ。
156
第14話 三勇者の外泊と仮面の執事
俺は閉店後、ミラルカとアイリーンに、彼女たちにユマを連れて
いってもらう屋敷について説明した。
ギルドで購入した屋敷を保養施設として使おうと思うのだが、使
い心地をリサーチしてほしい︱︱そんなふうに頼んでみたのだが。
﹁その屋敷に何かあるということでしょう? ユマを連れていくっ
てことは⋮⋮﹂
﹁あ、分かっちゃった。もしかして、おばけが出るとか?﹂
﹁二人はやはり勘が鋭いな。ご主人様、どうやら説明を省くことは
難しそうだぞ﹂
店が終わるとヴェルレーヌが魔王口調に戻るが、ミラルカとアイ
リーンは慣れたものだった。ヴェルレーヌの正体を知っているし、
もともとの性格がメイドに収まるものでないとも分かっているだろ
う。
﹁事情は分かったけれど⋮⋮ディック、あなたが事前に泊まってく
ればいいじゃない﹂
﹁それだと意味がないんだ。ユマが体調を崩してる理由を、解消し
てやらないと﹂
﹁え、なになに? ユマちゃんがそこで外泊すると、どうして元気
になるの?﹂
﹁ユマといえば、鎮魂したいが口癖みたいなものだったから、そう
いうことでしょうね。つまりその屋敷には、何かろくでもないいわ
れがあるということよ﹂
157
天才教授は俺の目論見を見事に看破してしまった。俺にユマと二
人で宿泊し、あの屋敷の異常を解決しろということになってしまっ
たら、ご両親からの依頼を受けた手前、達成時の報告がとても気ま
ずい。
﹁ユマちゃんがそのお屋敷に行くと鎮魂できるの? 迷える魂が住
みついてるの? わー、なんかゾクゾクしてきちゃった﹂
﹁あなたほど強くても、そういう類の話は苦手なの?﹂
﹁そういうミラルカこそ大丈夫? 悲鳴を上げて、お屋敷を吹き飛
ばしちゃったりして﹂
﹁急に驚かされるのは苦手だから、それ以外でお願いしたいわね。
でも、そういうものは空気を読まないって相場が決まっているから
⋮⋮何を笑ってるの? ディック﹂
﹁いや、そういえば魔王討伐の途中に、アンデッドの住む洞窟を通
ったなと思ってさ。足元からレイスが出てきて⋮⋮﹂
﹁っ⋮⋮や、やめて。レイスは体に触れるとひんやりするから、嫌
なのよ。あれって精気を吸っているんでしょう?﹂
レイスはアンデッドの中でも中位の魔物で、霊体であるがゆえに、
壁や地面を通り抜けられる。
いきなり足元から出てこられて悲鳴を上げ、近くにいた俺に抱き
ついてきたということもあった。アイリーンは﹁冷やっこくて気持
ちいい﹂などと言っていたので、彼女はお化けなど全く恐れていな
いが、ミラルカは若干苦手にしている。
そんな彼女を友情の名のもとに幽霊屋敷に送り込むことに対し、
俺も罪悪感がないわけでもない。
﹁ご主人様は、女性だけの外泊に同行してもいいものか葛藤してい
158
るようだな﹂
﹁ちょっ⋮⋮そんな男子ってしょうがないわね、みたいな片付け方
をしてくれるなよ。俺の内部で渦巻く葛藤はもっと高次なものであ
ってだな⋮⋮﹂
﹁でもディックがいないと、私たちだけじゃご飯の用意とか大変だ
し﹂
﹁俺は炊事係ではないんだがな⋮⋮分かった、もうストレートに打
ち明けるぞ。俺はユマにばれないように、ユマの抱えてる悩みを解
決してやりたいんだ﹂
﹁伏せる必要がないから却下するわ。普通に私たちをもてなしなさ
い﹂
何か当初とは別の方向に話が向かっている︱︱俺が別荘に彼女た
ちを案内し、もてなすという話になっている。
﹁どうしてもというのなら、正体を隠してみてはどうだろうか? ご主人様ならば、魔法で声を変えるくらいのことはできるだろう﹂
﹁その手があったか。それなら、ユマに気づかれずに事を運べるな﹂
明かり虫に偽装しても、ネタが割れていたら正体はバレバレだ。
それならば、ユマにだけ正体を伏せていればいいのではないか。
﹁ねえねえ、どうしてバレたらだめなの? ミラルカはわかる?﹂
﹁この人はいい格好をするのが苦手なのよ。目立ちたくないという
か、褒められたくない病ね﹂
﹁ご主人様の性格をどう表現していいものかと考えていたが、なか
なか適切な表現だな﹂
﹁でもディックだって、褒められるとほんとはすごく喜んでるよ。
そういうとこ、ちょっと可愛いよね﹂
﹁ご主人様がたまに可愛いことをすると、愛でたくて仕方がなくな
159
るな。なかなかさせてもらえないのだが﹂
﹁っ⋮⋮め、愛でるって一体何をしているの? 大の大人をあまり
甘やかすのはどうなのかしら﹂
閉店後なのでそろそろ帰らないかと言うこともできず、俺は三人
の話を横で聞いて拷問のような気分を味わいながら、とりあえず酒
に逃げるのだった。元から酔わないほうだが、ますます酒が回らな
いのが困りものだ。
◆◇◆
数日後、ユマが休みを取ることを承諾したので、ミラルカとアイ
リーンに誘いに行ってもらった。
俺はと言えば、ユマたちが泊まりに来る日の朝からギルド員と共
に例の屋敷に入り、客を迎える準備をしていたのだが︱︱その時か
らすでに、この屋敷の異常に気がついていた。
﹁マスター、この屋敷、数週間は放置されてたんですよね。それに
しては手入れが行き届いてるんですが、不動産屋が清掃人を入れた
んですかね?﹂
若い男性のギルド員が異変に気付いて声をかけてくる。今日は男
一人、女二人に手伝いに来てもらったが、思ったよりも屋敷が綺麗
で、特にすることがなかった。
﹁清掃人とか、そんな話は聞いてないな。不動産屋も、ここには近
づきたがらないし﹂
﹁そんないわくつきの屋敷を転がして金儲けしてるってのも、何か
引っかかりますが⋮⋮もしかして、この屋敷に何か仕込んでるんじ
160
ゃ⋮⋮?﹂
﹁そうと決まったわけじゃない。それにしても死霊が出るって話な
のに、遭遇する気配もないな﹂
俺は食堂とキッチンの様子を調べたが、何も異常がない。材料庫
には、まだ使えそうな食材がそのまま残されていた︱︱俺にも食材
の目利きができるので鑑定してみたが、何の変哲もない、保存状態
も良好な上質な食材が揃っていた。前に住んでいた貴族が残してい
ったものなら、そのまま食べる気がしないが。
﹁昼でも死霊は出ますけど、夜の方が出てくる頻度は多いですから
ね。あ、マスター、お部屋の点検終わりました!﹂
﹁ああ、ご苦労だった。あまりやることがないのに呼んですまなか
ったな、それぞれの仕事に戻ってくれ﹂
﹁いえ、久しぶりにマスターと話せて嬉しかったです! ありがと
うございました!﹂
﹁﹁﹁ありがとうございました!﹂﹂﹂
若いといっても俺と同年代なのだが、スカウトして雇ったギルド
員はみな俺の指導を経ているので、未だに俺に会うと指導していた
当時の空気が戻ってくる。
︱︱というか、火竜討伐で訓練したBランク冒険者三人というの
が彼らなのだが。今では立派にAランクとなり、それぞれ独立した
りパーティを組んだりしながら、うちのギルドで依頼をこなしてい
る。
ギルド員が依頼をこなすことによる収入だけで十分な収益が出て
いるのだが、景気は常に変動するものなので、報酬は価値の変動し
にくい宝石に交換して貯めてある。もし景気が悪くなり、仕事が激
161
減するようなら、そこからギルド員の給料を支払うつもりである。
俺の読みでは、あと10年はこの国の経済は安定しているので、戦
争でも起こらない限りは大丈夫だろう。
そしてその日の夕方、ミラルカとアイリーンがユマを連れて屋敷
にやってきた。
俺は別荘を管理する執事を装うべく、日頃は着ない正装をして待
っていた。そして、屋敷の玄関の前で、三人を出迎えたのだが︱︱。
﹁⋮⋮その仮面はなに? ふざけてるの?﹂
﹁いえ、わけあって素顔を見せられないのです。ミラルカお嬢様、
どうぞお気遣いなく﹂
顔を隠すために俺が選んだ方法とは、仮面で目元を隠すことであ
った。貴族のあいだで家来にファッションとして仮面を着けさせる
という趣向が流行ったことがあるので、そこまで俺の行動は奇異で
はないはずだ。
﹁うわ、かっこいい。ディ⋮⋮じゃなくて、執事さん、今日はよろ
しくお願いね。美味しいお酒、準備しておいてくれた?﹂
﹁はい、お酒も用意しておりますし、お酒が駄目な方でも楽しんで
いただける飲み物を用意しております﹂
﹁それは良かったです、私は教義に従わなければなりませんので、
お酒はお料理の味付け程度でしか身体に入れられないのです﹂
ミラルカとアイリーンもそうだが、ユマは司教の服ではなく私服
姿だ。魔王討伐の旅の途中も寝るとき以外は僧侶服を着ていたので、
新鮮な印象を受ける。
162
そして仮面の効果で、俺の声は年季の入った執事らしさを醸し出
している。まずユマにばれないかどうかだが︱︱。
﹁あなたがこちらを管理されている方ですね。今日はよろしくお願
いいたします﹂
﹁はい、セバス=ディアンと申します﹂
﹁セバス=ディアンさんですね。私はユフィール・マナフローゼと
申します﹂
アイリーンは何か言いたそうな顔だが、知らぬふりをしてくれて
いる。ミラルカの視線が刺さるようだが、もう名乗ってしまったの
だから、押し通すしかあるまい。仮面の執事として。
﹁今回はミラルカ様からご予約いただき、ありがとうございます﹂
﹁ええ、今日はよろしくお願いね。ユフィール、彼はおもてなしの
スペシャリストだから、どんなことを申しつけても大丈夫よ﹂
﹁えっ、いいの? じゃああたし、後で肩と足を揉んでもらおうか
な。人にやってもらうのって恥ずかしいけど、こういうときは開き
直ってリフレッシュしたいよね∼﹂
アイリーンは特に裏表なく言っているのだろうが、俺も仮面執事
とはいえ、中身は何の変哲もない男子である。二人きりでお客様の
疲れをほぐすなどと、そんな役得を甘んじて受けていいものか。
﹁⋮⋮アイリーンがしてもらえるのなら、私もしてもらおうかしら。
変なところを触るなんてことはありえないものね、あなたほど優秀
な執事なら﹂
﹁はい、お嬢様方がご不快になるようなことは決していたしません。
アルベインの神に誓わせていただきます﹂
﹁私がアルベイン神教の人間ということをご存じなのですね。神は
163
いつでも、アルベインの民を優しく見守っておられます﹂
ユマは胸に手を当てる。それは、祈る時の仕草だ。
この簡易な祈りですら、邪気を払う効果を発生させる。俺は周囲
の空気が、若干軽くなったように感じていた。やはり、この屋敷に
は何かある。
﹁⋮⋮お鎮めする魂の気配⋮⋮邪気の残滓⋮⋮ほんの少しだけ感じ
ますが⋮⋮いえ⋮⋮﹂
﹁ユマ、どうしたの? 何か気になることでもあったら、教えても
らえるとありがたいのだけど﹂
ミラルカがユマのつぶやきに反応する。俺も気になるが、ユマは
ふわりと笑って答えた。
﹁いえ、何でもありません。よくあることなのですが、こちらのお
屋敷には無害な魂だけを感じます。そういった魂は、お鎮めして天
界にお送りしなくともよいことになっていますから﹂
︱︱さすがだ。俺は何の気配も感じられなかったのに。
しかし無害な魂では鎮魂の対象でないとなると、ユマの体調を回
復することができなくなってしまう。
だが、諦めるには早いだろう。さっきユマは確かに﹃邪気の残滓﹄
と呟いた。この屋敷には、無害な魂がいるだけでなく、まだ何かが
あるということだ。
﹁それではまず、お部屋にご案内させていただきます。夕食の準備
ができるまで、ごゆるりとおくつろぎください﹂
164
俺は恭しく一礼し、屋敷の扉を開けた。中に入った三人は、玄関
ホールの広さに声を上げる。
﹁わー、おっきいお屋敷⋮⋮私の一族だと、大きい家っていうと、
もともとあった洞窟とかなんだよね﹂
﹁鬼族はそうだというわね。私の家と比べても、一回りは大きいか
しら⋮⋮﹂
﹁私は屋根裏が好きなのですが、屋根裏部屋をお借りすることはで
きますか?﹂
ユマは屋根裏や地下など、霊が住み着きやすいところに好んで行
きたがる。俺も事前に調査して何もなかったが、ユマなら何かを感
じ取るのだろうか。
﹁屋根裏にもお部屋はございますが、本日はお三方ともに、同じ部
屋をご用意しております﹂
﹁そうですか⋮⋮では、あとでお屋敷の中を見て回っても良いでし
ょうか?﹂
﹁ええ、どうぞご自由にご覧ください。美術品のある部屋もござい
ます﹂
屋敷の二階にある部屋のうち、二つは美術品を飾るための部屋だ
った。それすらも置いていってしまったわけだから、前の住人がい
かに慌てていたかがよくわかる。
﹁ユマ、この屋敷に来て少し元気が出たようだけど、あまり無理は
しないようにね﹂
﹁はい。ご心配ありがとうございます、ミラルカさん﹂
﹁まずはセバスさんに﹃おもてなし﹄してもらおうよ。せっかくの
165
お休みなんだし。あと、後でみんなで一緒にお風呂に入らない?﹂
﹁っ⋮⋮わ、私は⋮⋮皆さんと比べると、その⋮⋮﹂
﹁気にすることはないわ、ユマはまだ14歳だもの。私も14歳の
ときは⋮⋮﹂
二年前のミラルカは確かに成長途上で、今のユマと比べても遜色
ないくらいだった。 しかし成長期には個人差があるので、それほど気にしなくてもい
いと思う。
﹁⋮⋮あなたがいるのを忘れていたわ。セバス、今のは聞かなかっ
たことにしなさい﹂
﹁重々承知しております、お嬢様方﹂
﹁ユマちゃん、そういうことは気にしないで一緒に入ろうよ。久し
ぶりにゆっくりしよ?﹂
﹁は、はい⋮⋮では、そうさせていただきます﹂
三人で一緒に風呂に入るのか。この家の浴室は広いし、何も問題
はない。そして俺はただの執事である。一つ屋根の下で彼女たちが
風呂に入っていようと、心を動かすことはない。
そう、俺に求められているのは究極の接待、奉仕の精神のみであ
る。
俺は二階の客室に三人を案内すると、ディナーの準備をするため
に部屋を辞する︱︱はずだったのだが。
﹁セバス、どこに行くの? アイリーンに言われていたことをもう
忘れたのかしら﹂
﹁っ⋮⋮い、いえ、忘れてなどおりません。大変失礼いたしました﹂
166
客室は寝室と談話室に分かれており、談話室にはテーブルと椅子
が置かれている。俺はミラルカとアイリーンに一番摘みの﹃リプル
リーフの葉﹄で入れたお茶を、嗜好品の類を禁じられているユマに
は、両親に出したものと同じ聖域梨の清水割りを出した。
﹁じゃあ⋮⋮セバスさん、お願いしちゃおっかな﹂
アイリーンは腕を回してから、座ったままで肩を空ける。ここか
ら始めてくれということらしい。
そういえば魔王討伐中も、彼女たちでも疲労が溜まることはあっ
たので、宿屋で揉んでやったことがあった。もしかしてその時のこ
とを覚えているのでは、と思いつつ、両肩に手を置き、ぐっと押し
こむ。
﹁んっ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮アイリーン、声が出てるわよ﹂
﹁えっ? あ、そ、そっか⋮⋮だってディ⋮⋮セバスさんが⋮⋮ん
ぁっ⋮⋮﹂
いつ﹃ディック﹄と口走ってもおかしくないのでヒヤヒヤさせら
れる︱︱こうなったら仕方ない、俺の全身全霊を込めて癒しの時間
を味わってもらい、夕食の時間までぐっすり休んでもらうしかない。
﹁お客様、大変恐縮ですが、うつぶせに寝ていただけると施術がし
やすいのですが⋮⋮﹂
﹁⋮⋮う、うん、わかった。じゃあ、飲み物は置いといて、順番に
してもらおっか﹂
﹁ま、まあ⋮⋮セバスは執事だから、変なことはしないでしょうし
⋮⋮﹂
167
﹁はい、決してそのようなことはいたしません。アルベインの神に
誓わせていただきます﹂
ミラルカは﹃変なことをしない﹄を強調するが、そのほうが意識
してしまうのは男のサガだろうか。
絶対何もしないから、と言いつつ、王国最強の女武闘家を寝室に
招き入れる俺。しかも仮面をつけているなどと、怪しいことこの上
ないのだが。
﹁⋮⋮わ、私は⋮⋮神にお仕えする身なので、男性の方に触れてい
ただくのはその、だめなのでっ⋮⋮こ、心に決めた方しか⋮⋮﹂
﹁ユマちゃん、それは大丈夫。だって、セバスさんは⋮⋮﹂
﹁アイリーン、いいから先に行ってきて。夕食の準備もあるから、
あまり時間をとらせられないわ﹂
では今すぐに夕食の準備に戻りたいのですが、と言いたいところ
をぐっとこらえて、俺は場所をベッドルームに移し、うつぶせに寝
そべったアイリーンを前にして覚悟を決める。
夜に死霊が出るとしたら、今身体を休めておいてもらって悪いこ
とはない。三人ともを眠りの世界にいざなうべく、俺は無心となり、
ひととき癒しの施術師と化した。
168
第15話 癒しの施術と屋根裏の少女
俺が魔王討伐隊の五人目として、四人を見守りつつ討伐を完了す
るまでには、様々な問題が発生した。
そのうちの一つとして、世界の頂点をうかがうほどの強さを持つ
メンバーが揃っても、誰かが体調を崩して旅の中断を余儀なくされ
るということは何度もあった。
まだ9歳だったユマ、11歳のミラルカなどは、遠距離の移動に
慣れておらず、徒歩で移動する必要があるときは半日も歩き続ける
ことができず、俺がおんぶをして運んだものだ。
足が筋肉痛になり、次の日にまともに動けないなどと言われたら、
俺は冒険者強度とはなんぞやと疑問に思いつつも、彼女たちがいな
いとパーティとしては弱体化してしまうので、パーティメンバーの
疲労のケアを常に考えることになった。
ミラルカとユマに比べ、あまりにコーディが頑丈すぎるので﹃コ
ーディは風邪をひかない﹄という格言が生まれたりもした。アイリ
ーンは女性の中で一人だけ男性陣に負けない体力を持っていたので、
個人的に﹃鋼の女﹄という異名を与えさせてもらった。特に定着は
しなかったが。
とにかく、俺はメンバーのコンディションを常に絶好調に管理す
るべく、色々な技能を磨く必要があった。
そして編み出した技が、回復魔法、強化魔法を利用した﹃魔法整
体﹄である。
169
﹁はぅっ⋮⋮ん⋮⋮ディック、やっぱり上手⋮⋮こんなに中まで届
くの、久しぶり⋮⋮﹂
﹁魔法の効果がちゃんと、芯まで届いているようですね⋮⋮って、
説明をつける必要があるようなことを口走らないでくれ。そして俺
はセバスだぞ﹂
﹁だ、だって⋮⋮違う名前で呼ぶと落ち着かないんだもん﹂
﹁まあ、二人が聞いてなければいいけどな。アイリーンも日ごろ高
ランクの仕事を受けてくれてるし、たまにはこれくらいはサービス
してやる。どこか集中的にやってほしいところはあるか?﹂
﹁⋮⋮本当にやってほしいところは別にあるけど、じゃあ、腕とか
?﹂
﹁本当にやってほしいところを言ってもらった方が、こっちとして
はありがたいんだがな﹂
﹁ちょ、ちょっと言ってみただけだから。ディックはそういうこと
しないってわかってるし﹂
ミラルカと同じく、アイリーンは俺に対する信頼を口にする。
背中から腰までの凝りをほぐしただけで、もう彼女は完全に力が
抜け、無防備となっている。
そしてこの部屋には、心身をリラックスさせる香が炊いてある。
もともと寝つきが良くするようにと思ったのだが、魔法整体を施術
する際においては、これ以上ない環境である。
﹁⋮⋮え、えっと、今のはその、ディックのことを男の子として扱
ってないとか、そういうわけじゃなくて⋮⋮﹂
﹁お気遣いいただきありがとうございます。では腕の方に移らせて
いただきます﹂
﹁あ、そういう話し方すると執事っぽいかも。ディックってそうい
うのも意外と似合うんだね﹂
170
﹁意外ととはなんだ、意外とは⋮⋮と、言いあってる場合じゃない
な﹂
アイリーンはいつも着ている武闘家の服とデザインは似ているが、
装飾を押さえたシンプルなワンピースタイプの服を着ている。袖が
短いので、服を脱がなくてもそのまま施術ができる。俺は両手でま
ず肩に手を置くと、血流を改善することを意識しながら、両腕に向
かって揉みほぐしていく。
﹁んぁっ⋮⋮ご、ごめんね、声出ちゃって⋮⋮あたし、自分で思っ
たより凝ってるみたい﹂
﹁お客様が、日ごろから頑張っていらっしゃるからこそ疲れも溜ま
るのです。気が付いていないうちに蓄積するものですから、時々こ
うしてほぐした方がいいでしょう﹂
﹁あ、ありがと⋮⋮んんっ⋮⋮でもこんなこと、定期的、にっ、し
てたら⋮⋮っ、あっ、そこ⋮⋮そこいい⋮⋮﹂
﹁できるかぎり普通にやってるんだから、多少は反応しないで我慢
してくれ﹂
﹁だ、だって⋮⋮ディック、上手すぎ⋮⋮う、腕なのに、なんでこ
んなにっ⋮⋮﹂
﹁そりゃまあ、﹃手当て﹄っていうくらいだから、触るのは気持ち
いいもんなんだよ。痛いくらいの方が効くっていうけどな、魔法を
使えばそこまで力を入れる必要はないから﹂
﹁そ、そっか⋮⋮魔法を使ってるからこんなに効いてるんだ。ディ
ック、さりげなく本気出しすぎ⋮⋮﹂
俺は常に本気だ、と口には出さずに、アイリーンの腕をほぐし終
わる。その後は背中から腰にかけて、筋の緊張を伸ばし始めた。
くびれた腰から下はどこからが臀部なのか︱︱お尻が大きいと安
産型だというが、アイリーンは見事にそれにあてはまる。我ながら
171
親父が入った思考だが。
﹁うぅ∼、腰を押されるとまた中までくるぅ⋮⋮この魔力が入って
くる感じ、病みつきになるよね∼⋮⋮﹂
﹁骨盤のゆがみを矯正するには、魔力を流しながらやった方がいい
からな﹂
﹁そ、そこは腰なの、おしりなの? 中間のところをうぅっ、ぐい
ぐいくるぅ⋮⋮っ﹂
﹁もう突っ込まないぞ、やれと言われたからやってるだけだからな。
しかしすごい下半身だな⋮⋮なんだこの理想的な筋肉は﹂
﹁い、今褒められてもっ⋮⋮あっ、だめっ、ほんと無理、無理ぃ⋮
⋮っ﹂
﹃無理﹄というのはいいのか悪いのか。本当に無理なら終了でも
いいのだが、アイリーンはもう声を出すこともできなくなり、俺の
魔力を流し込まれるたびにビクビクしている。痙攣してるわけじゃ
なく、筋肉に直接回復魔法を送り込むとこういう反応が出て、後で
完全に回復する。
太ももからふくらはぎ、そして足の裏までほぐすころには、アイ
リーンは気絶していた。腰から足先までのラインが武闘家ならでは
の完成度を誇っており、鑑賞するには最適といえたが、俺は額をぬ
ぐって気持ちを切り替え、次の客︱︱ミラルカを招き入れる。
﹁⋮⋮なぜさほど疲れてるわけでもないアイリーンが、徹底的に施
術されて失神してるのかしら﹂
﹁これが当屋敷における、心づくしでございます。さあ、お客様も
こちらのベッドにどうぞ﹂
﹁べ、ベッドとか言わないで。あなたの口から聞くと、いやらしい
言葉に聞こえるわ﹂
172
どんな妄想をしていらっしゃるのですかお嬢様、と執事モードで
質問したいのはやまやまだが、確かにミラルカの言う通り、今回の
主賓はユマなのである。そんなわけで、ミラルカには早々に眠って
もらわなければ。
﹁⋮⋮昔してくれたときは、足だけをやってくれたと思ったのだけ
ど。アイリーンは全身だったの?﹂
﹁ええ、全身に回復魔法を使いながら、筋肉疲労を完全に取らせて
いただきました﹂
﹁ぜ、全身⋮⋮それは、体の背中側だけということでいいのね? アイリーンは仰向けになっているけど⋮⋮﹂
﹁ええ、後ろだけです。ご希望の箇所がございましたら、あくまで
も施術ということで承りますが﹂
﹁⋮⋮私もアイリーンと同じでいいけれど、足からお願い。その方
が落ち着くから﹂
ミラルカはベッドに座ると、しっかりスカートを引いて中が見え
ないようにする。そして俺は昔そうしていたように、彼女のブーツ
を脱がせた。
魔王討伐の旅路では素足だったが、今は黒いタイツだ。彼女もこ
の5年で大人になったのだな、と改めて思う。タイツは貴族を始め
としてごく一部でしか普及していないが、魔法大学の教授ともなれ
ば、専属の洋服仕立て屋を抱えており、オーダーメイドでタイツを
作らせることもできるということだ。
カイコ
そして白い麻のものが主流なのだが、ミラルカは貴重な﹃ブラッ
クモス﹄の蚕から取れた絹を使った黒いタイツを身に着けている。
俺ともなれば触っただけで服の材質を見抜けるのだが、絹をタイツ
173
に使っている人など他に見たことがない。
﹁⋮⋮な、なに? タイツも脱いだ方がいいのかしら。素足を見せ
るのは恥ずかしいのだけど⋮⋮﹂
﹁いえ、このままで問題ございません。では、始めさせていただき
ます。ここまでお歩きになって、お疲れになったでしょう﹂
﹁これくらいの距離で、疲れたなんてことは⋮⋮﹂
﹁新品のブーツとお見受けしますので、まだ足が慣れていないので
は?﹂
﹁そ、それは⋮⋮んっ⋮⋮﹂
俺はミラルカの差し出した足を持つと、足裏を指圧しながら、慣
れないブーツで靴擦れになりそうになっていると診察し、回復魔法
をかけ始めた。
﹁⋮⋮本当に上手ね。ギルドマスターよりも、医者をやったほうが
向いていそうなくらい⋮⋮あっ⋮⋮そ、その温かい感じは、魔法を
使ってるの?﹂
ヒールライト・リジェネレ
﹁私の施術は、常に魔法を用います。お客様がブーツに慣れられる
イト
まで、継続する回復魔法をかけておきましょう。﹃継続する癒しの
光﹄﹂
ミラルカは何も言わず、俺の施術を受ける。ミラルカは教授とい
うことで、机に座って仕事をすることが多いせいか、目や肩、腰も
少し疲労しているようだ。
﹁お客様、もう少しだけお時間をいただいて、やはり全身を施術し
た方が良いかと存じますが﹂
﹁⋮⋮そうね。私はアイリーンと違って、絶対眠ったりしないわ。
大事な用があって来たんだから、ちゃんと起きていないと﹂
174
﹁いえ、お客様方は夕食のお時間までは、お好きなようにお過ごし
ください。日頃の疲れもありますから、一休みされた方が良いかと
思います﹂
ミラルカは足の施術を終えると、自分のベッドにうつぶせに寝そ
べる。隣で寝ているアイリーンの様子をうかがっていたが、何も言
わずに、施術の続きを待っている。
﹁⋮⋮もてなしなさい、と言ったのは私だから。その執事の口調は
⋮⋮わざとらしいけれど、思ったより悪くはないと思うわ﹂
ミラルカがいつもよりもおとなしい理由が、もしそれだとしたら
︱︱俺は彼女に言うことを聞いてほしいとき、紳士的になればいい
のだろうか。
無防備なミラルカの姿に遠慮を覚えつつも、まず背中から始める。
ぐっと押し込んだ瞬間にミラルカが小さく声を上げたが、それは無
理もないこととして、淡々と、魔法整体のプロフェッショナルとし
て施術を続けた。
◆◇◆
ミラルカもほどなく寝入ってしまい、最後にやってきたユマは、
男性に触れられることに対してかなり緊張していたので、﹃触れな
い施術﹄をすることにした。指圧などをせず、魔法だけで治療する
方法だ。
ベッドに座ったユマの身体には触れず、手をかざして回復魔法を
使う。やはり、アイリーンとミラルカと比べても、多忙を極めるユ
マが最も疲労がたまっていた。小さな体で頑張っているのだと思う
175
と、自然に施術にも熱が入る。決して触れないようにしなくてはな
らないが。
﹁⋮⋮とても心地よいです。セバスさんは、回復魔法を使われるの
ですね﹂
﹁お客様をおもてなしするために必要なことは、一通り会得してお
ります﹂
回復も強化もどちらもできる、と言ってしまうと、ユマにあっさ
り正体がバレてしまう。
しかし、俺の回復魔法を受けたことのあるユマなら、気づいても
おかしくはないところだが。幸いにも、彼女は気づいている様子は
なかった。
﹁私の大切な友人⋮⋮いえ、仲間の方にも、回復魔法を使われる方
がいます﹂
﹁⋮⋮さようでございますか﹂
﹁はい。その人はいつも、そっけない態度だったりするんですけど、
本当は誰よりも周りの人のことを考えているんです。私は僧侶なの
に回復魔法が使えなくて、それでもその人は怒らなくて、いつも魔
法で私たちを癒してくれました。私もその人のことを見ていて、こ
んなふうに、誰かを癒せる人になりたいって⋮⋮﹂
ユマが言っているのは、おそらく俺︱︱ディック・シルバーのこ
とだ。
彼女がそんなふうに思ってくれていたなんて知らなかったし、こ
んな形で聞いていいのかとも思う。
今の俺にできることは、ただ執事のセバスとして、ユマに答える
ことだけだ。
176
﹁その方も、きっとユマ様を尊敬していらっしゃいますよ。僧侶と
いうのは、人々の心を安らげる素晴らしい仕事ですから﹂
﹁そ、そうでしょうか⋮⋮私、まだ未熟で、全然できてなくて⋮⋮﹂
﹁それだけ一生懸命でいるユマ様を、私も僭越ながら応援させてい
ただきたいと考えました。私だけでなく誰もが、そう思われるので
はないでしょうか⋮⋮では、施術は終わりです﹂
﹁あ⋮⋮は、はい。すごく体が軽くなりました、ありがとうござい
ます⋮⋮っ﹂
ユマは立ち上がって、頭を下げてお礼を言う。
礼をした拍子に肩のあたりまで伸ばした髪が揺れて、ユマははに
かみながら両手で髪を撫でつける。そのあどけない仕草は、昔の彼
女と大きく変わってはいなかった。
﹁⋮⋮では、私は夕食の準備に取り掛からせていただきます﹂
﹁は、はい⋮⋮ありがとうございました。私は、お二人が起きるま
でゆっくりしていようと思います﹂
﹁ええ、どうぞおくつろぎください。それでは失礼いたします﹂
俺は三人を残して部屋を出る。夕食の仕込みは終えているし、俺
一人でも準備は問題ない。
︱︱そう考えたところで、俺は廊下の奥から誰かの足音を聞いた。
この屋敷には俺と三人以外、誰もいないはず。しかし、確かに聞
こえた。
俺は足音が聞こえた方角に向かう。二階にある十二部屋のうち、
ミラルカたちの客室は東側にある。
177
西側には、誰も使っていないはずの部屋があるだけのはず。ドア
を開けてみても誰の姿もなく、美術品のある部屋も入ってみたが、
人の姿はなかった。
一つ考えうるとしたら︱︱屋根裏部屋。屋根裏部屋に上がる階段
が、屋敷二階の西側にある。
屋根裏も地下も調査を終えている︱︱しかし夜が近づいて、何ら
かの変化が起きたのか。
死霊が現れるという屋敷。その理由を目の当たりにすることにな
るのかと、多少の緊張を覚えながら、俺は屋根裏部屋に続く階段を
上がっていく。
そして扉を開け、屋根裏部屋に入る︱︱窓から夕陽が差し込み、
室内の一部を照らしている。
︱︱その夕陽を背にして、何者かが立っている。
﹁⋮⋮何者だ? この屋敷に、どうやって入った﹂
その人物が、こちらに歩いてくる。黒いドレスを着た少女︱︱銀
色の長い髪にヘッドドレスを身に着けたその姿から、俺は彼女の素
性を想像する︱︱おそらくは、貴族。
﹁⋮⋮初めてお目にかかります。私は、この館をかつて所有してい
た一族の者です﹂
スカートの裾をつまんで一礼する、貴族の挨拶。俺の推測はどう
やら当たっていたようだ。
この屋敷の、かつての所有者。彼女がなぜこの屋根裏にいるのか、
俺とギルド員が屋敷の中を調査していたときは、どこにいたのか。
178
尋ねたいことは山ほどあるが、それよりも、何よりも。
まるで絵画の中から飛び出してでもきたかのような、人間離れし
た少女の美しさが、俺の意識を奪っていた。
179
第16話 過去の住人と聖女の覚醒
さらりとした銀色の髪を編み込みにしたその少女は、夕陽の中で
もそれと分かる、左右違う色の瞳で俺を見ていた。青と金色︱︱金
色の瞳は、魔族しか持たないはずなのだが。
﹁この屋敷を所有してた一族って⋮⋮何年前の話だ?﹂
﹁十年ほど昔になります。シュトーレン公爵家というのですが、ご
存じありませんか?﹂
アルベイン王国の貴族の頂点に立つ三つの公爵家が、ヴィンスブ
ルクト、オルランズ、そしてシュトーレンである。俺もその名前は
勿論知っている。
俺がこの屋敷を買うとき、権利書には二つ前の所有者までしか記
載されていなかった。王国の法律ではそこまでしか遡って記載する
義務はない。
しかし公爵が最初に所有していたというなら、そのことを教えて
くれても良かったのではないか。それとも不動産屋も、この屋敷を
最初に誰が建てたのかも知らなかったということか。
﹁俺は売りに出されていたこの屋敷を買い取らせてもらった者だ。
ディック・シルバーという⋮⋮今はわけあって、この屋敷に来てる
客にはセバスと名乗ってるがな﹂
﹁はい、事情は理解しています。この屋敷で起きた出来事は、すべ
て把握しておりますので。それは、かつてこの屋敷に暮らしていた
者に許された権限ということで、ご容赦ください。悪用する気はあ
180
りません﹂
屋敷のどこにいても、彼女には事情が知れてしまう。限られた範
囲の情報を収集する魔法は普通に存在するので、不思議なことでは
ない。
屋敷一帯にその効果を広げるとなると、家のあちこちに魔法文字
が書き込まれているか、それともこの屋敷の敷地一体が、巨大な魔
法陣の中にあるということも考えられた。事前の調査で気づかなか
ったので、高度な隠蔽が施されていると考えられる。
﹁そのシュトーレン公爵家は、なぜこの屋敷を手放したんだ? あ
んたは、どういう立場の人間なんだ﹂
﹁私はベアトリス・シュトーレン。シュトーレン家の一族の者です。
それ以上は、申し上げられません﹂
﹁⋮⋮何か事情があるのは確かみたいだな。さっきの質問に答えて
もらってないが、シュトーレン家の人間は、この屋敷に自由に出入
りできるのか?﹂
﹁いいえ⋮⋮私は、﹃どこからも出入りなどしていません﹄﹂
﹁⋮⋮それはありえない。俺たちは、昼のうちにこの屋敷を隅々ま
で見て回った。それとも、どこか隠れられるような場所が別にあっ
たっていうのか﹂
﹁私はずっとここにいました。ここだけでなく、この屋敷のどこに
でも、私はいます﹂
︱︱ゾクリ、と背中に冷たいものを感じる。
どこからも侵入しておらず、この屋敷のどこにでもいて、屋敷内
の情報を把握している。
その荒唐無稽にも思える発言の意味を、そのまま汲み取るとした
ら⋮⋮彼女は。
181
﹁私は、この屋敷を見守らなくてはならない⋮⋮一族が捨てた場所
であっても、責任を放棄するわけにはいきませんから﹂
﹁責任⋮⋮?﹂
それは何かと問いただす前に、俺は気づいた。
ベアトリスの姿が、薄く透けていく︱︱そこでようやく俺は、彼
女が普通の人間ではないと気が付いた。
﹁あんたが、この屋敷に姿を現す霊⋮⋮そういうことなのか?﹂
﹁⋮⋮はい。不浄なる者を浄化する力を持つ僧侶の方が、ご一緒に
来られていますね。でも、私は消えるわけにはいきません﹂
﹁彼女は、無害な魂を昇天させることはないと言ってる。ベアトリ
ス⋮⋮あんたを見つけても、すぐさま鎮魂したりってことにはなら
ないよ﹂
﹁⋮⋮彼女の持つ力は、抑え込まれているように感じます。もし解
放されたら、私の前にも、天へと続く道が示されるに違いありませ
ん。私はまだ、消えるわけにはいかない﹂
﹁⋮⋮何か事情があるのなら、話してくれないか? この屋敷に死
霊が出るっていう噂は、本当なのか﹂
ベアトリスの姿はさらに薄くなっていく。どうやら、自分の意志
では姿を保つことができないようだ。
﹁私はこの屋敷を、そのままの姿で残しておきたいだけです。いつ
でも、家族が戻ってこられるように﹂
その言葉を最後に、ベアトリスの姿は見えなくなる。
屋敷の中の手入れが行き届いていた理由は、これで察しがついた。
ベアトリスがこの屋敷を、一族が戻ってこられるように維持してい
182
たのだ。
それならばやはり、俺も、今までにこの屋敷に住もうとした貴族
も、彼女にとっては退去させる対象ということになる。
しかし、この屋敷を捨てたシュトーレン公爵家の人間が、今さら
戻ってくることなどあるのだろうか。
もう一度ベアトリスに会わなくてはならない。俺はミラルカとア
イリーンに事情を説明し、専門家であるユマに相談してもらうこと
にした。
◆◇◆
夕食の時間になると、ユマがミラルカとアイリーン起こして連れ
てきてくれた。
既に外は日が落ちて、室内は魔法を利用した明かりで煌々と照ら
されている。十人ほどが一緒に席につけるダイニングテーブルの端
に、ミラルカとユマが並んで座り、向かいにアイリーンが座ってい
た。
ベアトリスが俺たちをすぐに追い出そうとしている、ということ
はないようだ︱︱料理をしている時も何の支障もなかった。
﹁ユマちゃん、このお屋敷に無害な魂がいるって言ってたよね。そ
れって今でも感じる?﹂
﹁はい、今でも私たちを見ていらっしゃいます﹂
﹁一方的に見られているというのは、あまりいい気分はしないわね
⋮⋮何とかならないものかしら﹂
183
ミラルカにはベアトリスに会ったことを話しているが、事情が分
かっていても落ち着かなさそうだ。
アイリーンはまったく気にしておらず、羊のローストにワイン仕
立てのソースをかけたものを、美味しそうに口に運んでいる。
﹁はむっ⋮⋮うーん、美味しい。整体もしてもらってすっきり爽快
だし、美味しいものを食べて、お酒を飲んで、あとはお風呂だよね
∼﹂
﹁⋮⋮大丈夫かしら。お風呂といえば、一番無防備になる時間だし
⋮⋮不意を突かれたりしたら、つい魔法を使ってしまうかもしれな
いわ﹂
﹁一緒に入れば大丈夫、あたしがちゃんと見ててあげるから。ふだ
んでも、髪を洗うときとか、後ろに何かいそうな気がしたりするも
んね∼﹂
﹁ちょ、ちょっと⋮⋮意味もなく警戒心をあおらないで。後ろにな
んて何もいないに決まってるわ﹂
ミラルカは今は気にする必要がないのに後ろをうかがう。そして
安全を確かめたあと、野菜スープを口に運んだ。彼女は小食のよう
で、肉もパンも少なめにしか口にしていないが、アイリーンに合わ
せて酒はそこそこ進んでいる。
﹁お客様方、この屋敷には多少﹃いわれ﹄がございますので、夜間
に部屋を出られるときはくれぐれもお気を付けください﹂
﹁っ⋮⋮このタイミングで言わないで。わざとやっているなら大し
たものね、褒めてあげるわ﹂
﹁ミラルカ、スプーンを持つ手が震えてるんだけど⋮⋮あれ、もし
かしてほんとに怖い?﹂
﹁こ、怖いなんて一言も言っていないでしょう。それに、ユマがい
れば何が出ても関係ないわ﹂
184
ミラルカがユマに話題を振ったが、ユマがなかなか返事をしない。
彼女は水の入ったグラスを両手で持ったまま、小さく唇を動かして
いる。
﹁⋮⋮鎮魂⋮⋮でも、無害⋮⋮邪気を感じないので、鎮魂は⋮⋮い
けないこと⋮⋮したい⋮⋮鎮魂したい⋮⋮﹂
﹁えっ⋮⋮ユマちゃん、いけないことしたいの? それって例えば
ディックに協力してもらう必要があるやつ?﹂
﹁⋮⋮はい? 私、今なにか言っていましたか?﹂
もう完全に目がいけないところに行ってしまっていたのだが、ユ
マにはまったく自覚がないようだった。
﹁これは重症ね⋮⋮早く何とかしないと、ユマの心がもたないわ﹂
﹁えっ⋮⋮こ、心ですか? 私の心が、どうなってしまっているん
ですか?﹂
﹁んーとね、すっごく溜まってるんだと思う。これだけ溜まっちゃ
うともうね、普通はイライラしちゃったりするよね。ユマちゃんは
内にため込むタイプだから、一気に発散しなきゃ﹂
﹁は、はい⋮⋮私、何かをためてしまっているんですね。どうした
ら発散できるんでしょうか﹂
﹁答えは明白よ。そこのセバスを、何も考えずに鎮魂して昇天させ
てあげなさい﹂
﹁お、お嬢様⋮⋮何か失礼がございましたでしょうか、神の国に招
かれるほどにご不快な思いを⋮⋮?﹂
﹁だ、だめです、私が昇天させてさしあげたいのは⋮⋮い、いえ、
何でもありません⋮⋮﹂
やはりユマは俺︱︱セバスではなくディックの方だが︱︱を昇天
185
させたいらしいが、なんてどう聞いても人聞きが悪い。そんな想像
をしてしまうのは心が汚れているからだろうか。
﹁ユマちゃんの昇天って気持ちよさそうだよね、アンデッドを昇天
させたときもそんな感じだったもんね﹂
﹁っ⋮⋮ごほっ、ごほっ。何をいきなり言い出すの、アイリーンに
は不死者の気持ちがわかるっていうの?﹂
﹁あはは、そうじゃなくて、見ててそう思っただけ。ミラルカ、ど
うしてむせてるの?﹂
﹁あ、あなたが変なことを言うからよ⋮⋮﹂
﹁いえ、何も変なことではありません。アイリーンさんのおっしゃ
る通りです﹂
﹁⋮⋮ユマ?﹂
ユマの目がまたとろんとしている︱︱俺に迫ってきたときと同じ。
今のユマには、鎮魂に関係する話は刺激が強すぎるのだ。
﹁魂をお救いするということは、現世への執着から解き放たれると
いうことですから。その時に感じる感覚を、教義としては﹃法悦﹄
と表現しています。これは、魂を導く僧侶も、その一端を味わうこ
とのできる感覚です。しかし最も大きな法悦を感じる瞬間とは、魂
同士が引き合っていると感じるお相手を、お導きする瞬間なのです。
私がただ一度、魂の引力を感じた方というのは⋮⋮﹂
﹁ゆ、ユマ⋮⋮落ち着いて、とてもよく分かったから、とりあえず
深呼吸をしなさい﹂
﹁はっ⋮⋮あ、あれ? ミラルカさん、私今いったい何を⋮⋮﹂
﹁これはちょっと、さすがのあたしも気付いちゃったよ⋮⋮ユマち
ゃん、もうギリギリなんだね﹂
﹁ぎ、ギリギリ⋮⋮そうなんでしょうか。セバスさん、私はぎりぎ
りなのですか?﹂
186
﹁と、とんでもございません、大変素晴らしい教えを説いていただ
き、ありがとうございます﹂
俺を昇天させたときに法悦を味わうというが、法悦って一体どん
な感覚なんだろう。ユマの興奮ぶりを見る限り、とても教育によく
ない感覚のような気がする。
◆◇◆
ある意味で波乱に満ちた夕食の時間は終わり、俺は夕食の片付け
を終えたあと、屋敷の一階の廊下から中庭を見ていた。
すっかり日が落ちているが、外にも魔法の明かりをともした柱が
立っており、視界は確保されている。だが、死霊が現れる気配はな
い。
一人になったらベアトリスがまた出てきてはくれないかと思った
が、そう都合よくはいかないようだ。
今、三人は入浴の時間だ。屋敷の一階の東側に浴室があり、俺は
そこから少し離れた位置にいるが、何かあったらいつでも浴室に駆
けつけられるように準備をしている。
この屋敷を買った貴族は、例外なく短い期間で退去している。
ベアトリスからその理由を聞けていれば︱︱そんなことを考えな
がら、何もなかったはずの庭に視線を送る。
﹁⋮⋮お出ましか⋮⋮!﹂
全く気配がなかったというのに、庭に幾つかの人影が見える︱︱
187
あれは、死霊。
人の姿をしているが、ほとんど薄れて見えないゴースト。黒いも
やのような、決まった形を持たないガスト。
そしてミラルカが苦手だと言っていたレイス︱︱その数は、こう
して見ている間にも少しずつ増えていく。
﹁︱︱きゃぁぁぁっ!﹂
﹁っ⋮⋮!﹂
絹を裂くような悲鳴が上がる。声が聞こえたのは浴室から︱︱非
常時ということで仕方なく、脱衣所に踏み入る。
﹁お嬢様方、いかがなさいましたかっ⋮⋮おおっ!?﹂
﹁か、身体を洗っていたら、下からいきなりっ⋮⋮﹂
ミラルカは裸のままで飛び出してきている。まさに身体を洗って
いる最中だったのか、体中に石鹸の泡がついている︱︱そのおかげ
で、大事な部分がかろうじて隠れていた。
﹁ひゃぁぁ、ひゃっこいっ! このぉっ、当たらないからって調子
に乗ってっ⋮⋮!﹂
浴室の中では、アイリーンが湯煙の中で、迫りくるゴーストたち
に蹴りを繰り出していた。しかし彼女の言う通り、﹃鬼神化﹄する
か魔法の武器を装備していなければアンデッドに有効打を与えるこ
とができず、アイリーンの攻撃は手ごたえなく空を切っている。
腰に一枚タオルを巻いただけの姿の彼女を見て、当然上半身も視
界に入るが︱︱俺はプロとして心を動かさず、この事態を打開でき
るはずのユマに視線を送る。
しかし彼女は、床にぺたんと座り込んだままだ︱︱久しぶりのこ
188
とで、すぐに鎮魂するとはいかないのか。
﹁お嬢様方、ここは危険です! 一度脱出して、体勢の立て直しを
⋮⋮﹂
﹁っ⋮⋮待って、セバスさん! ユマちゃんなら、きっとやってく
れるから!﹂
﹁そうよ⋮⋮ユマ、あなたの力を貸して! こんなとき、いつもあ
なたなら、私たちを助けてくれたでしょう⋮⋮! 立ちなさい、ユ
マ!﹂
アイリーンとミラルカが叫ぶ。しかし放心したように座り込むユ
マに、死霊たちが近づいていく︱︱。
もし触れるようなことがあれば、俺がユマの代わりに死霊を吹き
飛ばす。
そう決意した直後のことだった。ユマに触れようとしたゴースト
が、音もなく浄化されて消滅する。
﹁⋮⋮こんなに多くの迷える魂が⋮⋮王都じゅうから、ここに集ま
ってきている。どうして私は、今まで気づかずにいられたのでしょ
う⋮⋮お鎮めする魂が、こんなにも多くあふれていたのに﹂
ガストだろうが、レイスだろうが、ユマには関係がなかった。
彼女の裸身を覆う光は、浄化の光。本来ならば、どんなに熟練し
た僧侶であっても、呪文の詠唱を経て不死者の浄化を行う︱︱しか
し、ユマは違う。
﹃沈黙の鎮魂者﹄。そう呼ばれるゆえん︱︱ユマは詠唱を必要と
しない。
それでいて、その浄化の力は常軌を逸している。アンデッドだら
けの洞窟でも、一体を浄化しようとして、洞窟の全域を浄化してし
189
まう。
だからこその、冒険者強度101180。不死者を浄化する、そ
の一点のみで、SSSランクの評価を受けた少女︱︱それが、ユフ
ィール・マナフローゼだった。
﹁さあ、お鎮めしてさしあげましょう⋮⋮どのような迷いも、お悩
みも、私が全て聞いてさしあげます。神様が用意した約束の地で、
誰もが原始の姿に戻るのです⋮⋮生まれたばかりの赤子のように﹂
ユマはただ、両手を組み合わせて祈っているだけだ。しかし際限
なく浄化の力が広がり、全ての障害物をお構いなしに、どこまでも、
どこまでも広がっていく。
﹁ど、どこまで浄化を⋮⋮ユフィールお嬢様っ、お身体に差しさわ
りはっ⋮⋮!﹂
あくまで執事口調で問う俺に、ユマはにっこりと微笑みかけ、そ
して答える。
﹁⋮⋮アイリーンさんがおっしゃった通りです。鎮魂は、とても気
持ちが良いことなのです。ずっと忘れていました⋮⋮どうして我慢
していられたのでしょう。これは私が生きていくために、必要なこ
と⋮⋮とても、とても大切なこと⋮⋮ああ⋮⋮でも、本当にお鎮め
してさしあげたいのは⋮⋮﹂
︱︱その時俺は、ユマの浄化の力に触れた。アイリーンとミラル
カも、同じ気分を味わったのかもしれない。
彼女の力は、不死者を打ち払い、天国に送るためだけのものでは
190
ない。
生者の魂すらも、鎮める。まるでユマの手で、直接魂を撫でられ
ているようだった。
それを恐ろしいとも思わず、ただ心地良いと思った。ユマが言っ
ていたとおり、鎮魂する側もされる側も、同じだけの感覚を味わう
のだ。
気が付けば、外から入り込んできていた死霊の姿はどこにもなく
なり、床の下から湧いてくる気配もなくなった。静寂に包まれる中
で、ユマは︱︱額に少し汗をかき、肌が紅潮していたが、疲れては
おらず、むしろ一気に生気が戻り、生き生きとしていた。
﹁さあ⋮⋮ベアトリスさんの魂は、これからお話しして鎮めてさし
あげなければいけません。セバスさん、屋根裏部屋に行きましょう。
彼女はそこで待っています﹂
ユマはそう言うが、俺は彼女の方を見られなかった。
ついに再び覚醒した聖女に、こんなことを言うのは無粋かもしれ
ない。しかし一糸まとわぬ姿である彼女が、そのことに気づいたと
きのためにも、俺はしばらく目をそらしたままでいようと誓ってい
た。
191
第17話 執事の葛藤と召喚契約
ユマの鎮魂によって死霊が浄化され、静かになった屋敷の廊下に
出る。窓から見ても、中庭に姿を見せていた死霊の姿はどこにもな
い。
そしてユマは鎮魂する相手を選ぶことができるため、この一帯を
浄化しながらも、ベアトリスを問答無用で天国に送るということは
なかったようだ。
ガラス窓を見ていると、そこに先ほど見た三人の姿が映し出され
るかのような感覚に陥る。ミラルカの身体についた泡が落ちかけ、
頼りなく隠された山脈の頂、あの淡いチェリーのような色づきは、
やはり気のせいではないのだろうか。
そして堂々とさらけだされたアイリーンの上半身、その引き締ま
るところは締まった体に、酒好きながらも武闘家として鍛錬を怠ら
ない彼女の節制に、俺も戦いを知る者として深い共感と尊敬を抱か
ずにいられない。
二人分の豊穣の丘を見て吟味した結果、大きさという点ではアイ
リーンが勝るが、腕で隠したときのまるでスライムのような柔らか
い変形の仕方から、柔らかさはミラルカが勝るのではないか、と俺
は思った。これ以上の判定を行うには、俺の魔法整体によって二人
の胸の形を整えるアプローチを申し出て、許諾してもらわなければ
ならない。あくまで胸の形を整えるだけだから。何もしないから。
そして自分が選んだ男性にしか肌を見せない主義であろうユマの
192
裸を、仮面執事セバスとして目撃してしまった件については、せっ
かく復活したユマの心にダメージを負わせないためにも、このまま
何事もなかったかのように押し切りたいところではある。幸いユマ
は、久しぶりの鎮魂で高揚しているからか、見られたことはまだ自
覚していないようだった。これぞ神の奇跡である。
﹁お待たせしました、セバスさん﹂
﹁は、はい、お待ちしておりました。本当ならば、この屋敷の問題
ですから、私が一人で赴くべきですが⋮⋮﹂
﹁そんなに遠慮しなくていいよ、あたしたちもその幽霊の人を見て
みたいし﹂
﹁あんなふうに驚かされたりしなければ、私も幽霊くらいで動じた
りはしないわ。さあ、連れていきなさい﹂
アイリーンは平気なふりをしているが、顔が赤らんでいる。照れ
るのは無理もないが、俺も意識してしまうところだ。
ミラルカは落ち着いたようだが、あからさまに胸をかばっている。
寝間着が他の二人より大人びていて、言うなればネグリジェの上か
らガウンを羽織っている状態だ。なるほど、その状態で手を外して
しまうと、この薄手の生地では形がくっきり見えてしまうかもしれ
ない。
﹁ところでミラルカ、そのネグリジェって今日のために用意してき
たの?﹂
﹁こ、これは普段から着ているものよ。どうして王都の中の外泊く
らいで、新調する必要があるのかしら﹂
﹁大人の女性っていう雰囲気で、素敵です⋮⋮私なんて、こんなに
子供っぽいかっこうですし﹂
ユマのパジャマは短い袖の柔らかそうな生地のシャツに、ショー
193
トパンツというシンプルなものだ。しかしその子供っぽい服だから
こそ、実は彼女もそれなりに5年間で成長したのだな、というのが
よく分かる。司祭の服を着ていると、着やせして見えるようだ。
﹁ユマちゃん、今が育ちざかりだよね。会うたびにおっきくなって
るし﹂
﹁い、いえっ⋮⋮私、そんなに大きくなってません、ごはんを食べ
てもなかなか大きくならなくて⋮⋮﹂
﹁身長や、全体の話をしているのよ。どこかの誰かと違って、身体
の一部だけに着目したりはしないわ﹂
俺が胸にこだわりがあるとでも言いたいのだろうか。そんな態度
を示したことはないが、女性は視線には敏感だというし、俺が鋼鉄
の意志をもってミラルカの顔から下に視線を下げまいとしているこ
とも、悟られていたりするのだろうか。そんな恥の多い人生を送る
より、生涯仮面をつけて視線を隠蔽して生きていきたい。
﹁どこかの誰かは、どちらかというと申し訳なくなるくらいに見て
こないけどね。それはいいとして、屋根裏部屋に行かないとだよ﹂
﹁ええ、お嬢様方、お手数ですがご一緒においでいただいてもよろ
しいでしょうか﹂
﹁はい、すみません、私ったら関係ないお話ばかりしてしまって﹂
ユマとアイリーンが先に歩き始め、二階に上がっていく。
﹁ユマは鎮魂に集中していて気づかなかったみたいだけど、あなた
が裸を見たことには変わりないわよ﹂
﹁くっ⋮⋮ユマがセバスに見られたと思うよりは、俺の正体を明か
したほうが⋮⋮いや、どっちもショックを受けることに変わりない
か﹂
194
真剣に悩む俺を見ているうちに、不機嫌そうだったミラルカはは
ぁ、とため息をつき、俺の肩をぽんと叩いた。
﹁私から言うのはお節介だから、何も言わないけれど。まあ、せい
ぜい悩むといいわ。悩む必要のないことをね﹂
﹁ど、どういうことだ⋮⋮というか俺、お前のことも見たんだけど、
それは無罪放免なのか﹂
﹁記憶ごと殲滅してあげる⋮⋮と言いたいところだけど、今回だけ
は大目に見てあげる。ユマが元気になったのは、あなたがここに連
れてきてくれたからだもの﹂
ミラルカは言って、やはり俺を置いて歩いていく。善行を積んだ
からこその役得と自分で言うつもりはないが、ユマが元気になった
ことで、ミラルカも寛容になってくれたようだ。
アイリーンはたぶん改めて聞くと恥ずかしがりそうなので、これ
まで通りのさっぱりした関係を保つためにも、時が来るまで見てな
い体を通すべきだろう。そんな時が来るのかと思うところではある
が。
◆◇◆
三人に追いつき、俺が持っているマスターキーで屋根裏部屋の扉
を開けると、そこにはユマの言うとおり、ベアトリスの姿があった。
﹁ベアトリス様、こちらがアイリーン様、ミラルカ様、そしてユマ
様でございます﹂
﹁ご紹介いただきありがとうございます、セバスさん。先ほどはこ
ちらの都合で話を切り上げてしまい、申し訳ありませんでした﹂
195
俺の執事口調に疑念を呈することなく、彼女は丁寧に受け答える。
俺たちのことを警戒してはいないようだ。
﹁うわ∼⋮⋮すっごいきれいな女の子。人間離れしてるって、こう
いうことを言うのかな﹂
﹁あなた⋮⋮その目の色を見ると、魔族だと思うのだけど。もしか
して、あなたが死霊を呼びよせていたの?﹂
俺が聞こうと思っていたことを、ミラルカが言ってしまう。しか
も俺が考えていたより、一歩踏み込んだ質問だった。
﹁⋮⋮私のことは、セバスさんから聞いているようですね。私はベ
アトリス・シュトーレンと申します﹂
﹁シュトーレン公爵家の家名を⋮⋮では、その目はどういうことな
の? シュトーレン公爵が、魔族とつながりを持っていたというこ
と?﹂
﹁つながりを持っていた⋮⋮ということではありません。シュトー
レン様は、この屋敷である魔法の研究をしていたのです﹂
﹁魔法⋮⋮それってもしかして、召喚魔法か?﹂
まだ研究途上だが、人間が魔族を召喚し、使役するという魔法が
ある。成功率は低いが、場合によっては高位の魔族を呼び出すこと
もあるらしい。
﹁はい。私はシュトーレン様の抱えていた召喚魔法士によって召喚
されました。﹃レイスクィーン﹄という種族になります﹂
﹁レイス⋮⋮あなたが? あの、地面から出てきて驚かせてくる魔
物なの⋮⋮?﹂
﹁それなら、さっきのユマちゃんの浄化で消えちゃうような⋮⋮﹂
196
﹁私は召喚されたときの契約によって、シュトーレン家の一族とし
て迎え入れられたのです。それから、人間に害意を持ったことはあ
りません⋮⋮ですから、ユマさんに見逃していただけたのでしょう。
さきほど、私の魂にも、ユマさんの力が触れていきましたから﹂
﹃レイスクィーン﹄は、名前こそレイスとついているが、下位の
レイスとは全く違う種族に見える。
アンデッドだが意志を持っていて、会話もできる。そういう存在
もいるのかと、俺は感心していた。まだ魔族の研究は完全ではなく、
未知の種族がいるということだ。
﹁これで、このお屋敷に死霊が集まってくる理由がわかりました。
﹃レイスクィーン﹄さんは、レイスの女王ですから、不死者を集め
てしまうのです﹂
﹁⋮⋮それでシュトーレン公爵は、ここにベアトリスを残して退去
したのね。召喚して契約しておいて、勝手なことをするものだわ﹂
﹁それでも契約は契約です。私は、このお屋敷を守るようにと言わ
れています⋮⋮ですから私は、消えるわけにはいきません。もしど
うしても退去してほしいとおっしゃるなら、戦わなくては⋮⋮﹂
ベアトリスの身体を青白い魔力が包み込む。どうやら、魔法を使
うことができるようだが︱︱。
彼女の身体は、夕方もそうだったように、魔法を使おうとするだ
けで薄れて消えかかっていた。
アンデッド
﹁不死者は、生命力と魔力がほぼ同一だったと思うのだけど⋮⋮そ
の状態で魔法を使ったら、あなたは消えてしまうわよ﹂
﹁⋮⋮それでも私は、この屋敷を守らなければなりません。そのた
めなら、例え消えても⋮⋮﹂
197
このままでは、ベアトリスを浄化して終わることになる。
彼女が消えて、この屋敷に死霊が集まることがなくなる。しかし
それでいいのか、という思いがある。
ベアトリスを殺さずに、彼女と戦わずに済む方法。それを考えて、
俺は一つ、試してみるべきことを思いついた。
﹁ベアトリス様、一つご提案があるのですが⋮⋮ベアトリス様は、
魔族なのですね?﹂
﹁はい、希少な種族ではありますが﹂
﹁魔族を支配しているのは魔王のはずです。人間との契約より、魔
王の支配力の方が優先されるのでは⋮⋮?﹂
﹁魔王様がこちらに赴かれなければ、私の契約を上書きすることは
できないと思います。あの方は、魔王討伐隊によって自国から出る
ことを禁じられています⋮⋮ですから、私の契約を解くことはでき
ません﹂
︱︱つまり、それは。
魔王がここに来ることさえできれば、召喚時の契約を破棄し、ベ
アトリスを魔王の支配下に置くことができるということだ。
198
第18話 レイスの素肌と遠い朝
﹁⋮⋮こうして改めて名乗るのもなんだけれど、私たち三人は魔王
討伐隊の一員なのよ。だから、ベアトリス⋮⋮あなたを解放するた
めに、極秘で魔王をここに連れてくることができるわ﹂
﹁あなた方が、魔王討伐隊⋮⋮﹃可憐なる災厄﹄﹃沈黙の鎮魂者﹄
﹃妖艶にして鬼神﹄のお三方なのですか?﹂
﹁あははー⋮⋮やっぱりそれって、けっこう知れ渡っちゃってるん
だ⋮⋮﹂
アイリーンはこの二つ名が恥ずかしいようで、赤面して頬をかい
ている。彼女の武闘着姿を見た誰かが﹃妖艶﹄と評したのだろうが、
自分では妖艶は言い過ぎだと思っているそうだ。
そして俺は正体を伏せているので、ミラルカはカウントせずにお
いてくれた。
考えてみれば、俺は宿泊準備のためにディックとしてこの屋敷を
訪れているので、ベアトリスが気づいている可能性もあるのだが︱
︱不死者は日が高い時間帯に出現しても弱体化するので、彼女はデ
ィックとしての俺を見ていなかったのかもしれない。
﹁ユマに結界を敷いてもらえば、あなたの死霊を引き寄せる力も遮
断できるわ。それなら、屋敷の所有者がシュトーレン家の人でなく
なっても、共存できると思うのだけど⋮⋮セバスもそうしたいみた
いだし﹂
﹁ミラルカお嬢様のおっしゃる通りです。よろしければこれからも、
このお屋敷を、お客様をおもてなしするために使わせていただけれ
ばと﹂
199
ベアトリスはしばらく返事をせず、驚いている様子だった。
彼女は何も言わないうちに、瞳から涙をこぼした。不死者である
はずの彼女が、実体のある涙を流したのだ。
契約に従い、戻ってくるはずのないシュトーレン家の人間を待ち
続けた。そんな年月の中で彼女が何を思っていたのか、俺は想像す
ることしかできない。寂しかったのだろうと思うことしか。
﹁⋮⋮本当に⋮⋮ずっと人間に迷惑ばかりかけてきた私を、このま
ま浄化せずにいていただけるのですか?﹂
ユマはベアトリスの前に進み出る。彼女は何もしなくても、浄化
の力で身体が包み込まれている︱︱しかしそんなユマに近づいても、
ベアトリスは祓われることはなかった。
﹁あなたがどれだけ純粋にご主人様を待ち望んでいたか、私にもよ
くわかりました。あなたの魂はまだ天国に召されるべきではありま
せん﹂
﹁⋮⋮あ⋮⋮あぁ⋮⋮っ﹂
ずっと感情の波を押さえてきたベアトリスが、その場に膝をつい
て顔を覆う。
ビショップ
ユマは床に膝をついて、彼女を正面から抱きしめる。
レイスクイーンを、司祭が慰めている。その得難い光景に、俺は
ユマを連れてきて良かったと思う。
この屋敷に、こんな秘密があるとは思っていなかった。死霊が集
まってきている理由も想定外だったし、今回は教えられることばか
りだ。
200
ベアトリスはしばらく泣いていたが、そのうちに落ち着いて、再
び立ち上がった。
﹁お恥ずかしい姿をお見せしました。人前で泣いたことなどなかっ
たのですが⋮⋮﹂
﹁泣いちゃうとまた魔力を消費しちゃうみたい⋮⋮ベアトリスちゃ
ん、また薄くなってるよ? 大丈夫?﹂
﹁⋮⋮このようなお願いができる立場ではないと承知しております
が、精気の補給をさせていただけませんか。もう一度朝が来たら、
消えてしまうかもしれませんので﹂
レイスに精気を吸われることを、ミラルカは大の苦手としている。
アイリーンもひやっこいと言っていたし、ユマから精気を吸って直
接聖なる力を取り込んでしまったら、さすがにひとたまりもなく浄
化されてしまいそうだ。
そうすると選択肢は俺しかない︱︱いや、アイリーンか。しかし
彼女は俺を見て親指を立てる。
﹁セバスさんって回復魔法も使えたりして、いっぱい魔力持ってる
から、精気も少しくらい大丈夫だよね﹂
﹁女性同士ということで、私が魔力を供与するべきなのでしょうけ
ど⋮⋮ごめんなさい、ひんやりするのは苦手なのよ﹂
﹁お気遣いいただきありがとうございます。セバス様さえよろしけ
れば、少し分けていただいても⋮⋮?﹂
精気を吸うといっても、手で触れて吸うとかそれくらいのことだ
ろう。それくらいなら何も問題ない。吸われても一日経てば回復す
るので、減るものでもない。
201
﹁ええ、私の魔力でよろしければ、存分にご利用ください﹂
﹁⋮⋮では、また後ほど。少し、準備をしてから参ります﹂
ベアトリスの姿がふっと薄れる。精気を吸うにも、それなりの準
備が必要ということだろう。
﹁これでひと段落ね⋮⋮やっとゆっくり休めるわ﹂
﹁ミラルカ、ユマちゃん、お部屋で話さない? ユマちゃんも元気
になったことだし﹂
﹁はい、ぜひ。セバスさん、ベアトリスさんのこと、よろしくお願
いします﹂
三人が屋根裏部屋を出て、自分たちの宿泊する部屋に戻っていく。
ふと周りを見回すと、この部屋にはベッドも何もなく、ただ机と
書棚、小さなカンテラだけがあった。
不死者に属する魔族は、眠る必要がないのだろうか。そんなこと
を考えながら、俺は戸締りをして自室に戻った。
◆◇◆
久しぶりに仮面を外し、風呂に入ったあと、俺は部屋で落ち着い
ていた。
長い一日がやっと終わる。あとはベアトリスが消えてしまわない
ように、精気を提供するだけだ。
準備をしてから来ると言っていたが、どんな準備なのだろう。考
えながら、俺は葡萄酒で喉を潤したあと、ベッドに仰向けに寝転が
る。
202
そうしてしばらく立つと、部屋の中に人の気配が生じた。
ドアが開かなかったので、ベアトリスが壁を抜けてきたのか、と
身体を起こす。
そして目の前にあるものを見て、俺の思考は完全に停止する。
カンテラの明かりの中で、恥じらうように自分の身体を抱きなが
ら立っているのは、ベアトリスだった。
しかし彼女は黒いドレスを身に着けていない。ヘッドドレスはそ
のままだが、ミラルカが着ていたものよりもさらに布地が薄く、頼
りない範囲しか隠していないネグリジェを身につけていた。
﹁べ、ベアトリス様⋮⋮お召し物はどうされたのですか、上着を着
なければ⋮⋮っ﹂
俺は跳ね起きて言うが、ベアトリスは青と金色の瞳を細めて微笑
むばかりだった。
おそらく浮遊して移動できる彼女だが、一歩ずつ進んで俺に近づ
いてくる。そして、胸を覆っていた手を外す︱︱カンテラの明かり
の中、薄すぎる生地越しに、人間と変わらない色づきが見えてしま
う。
﹁殿方から精気を吸うのは初めてなのですが⋮⋮セバスさん⋮⋮い
え、ギルドマスター様からはじめての精気をいただくのですから、
私もレイスクィーンとして、作法を尽くさせていただきたく思いま
す﹂
俺の正体を知っている。それならば、もう執事を装う必要もない
︱︱俺は腹をくくり、演技をやめることにした。
﹁やっぱり、俺が準備に来たときから見てたのか⋮⋮知ってて、俺
203
の芝居に付き合ってくれたのか?﹂
ベアトリスは俺の口調の変化に、頬を赤らめて微笑む。不死者で
あるはずなのに、その血の通った少女らしい仕草を見ていると、魔
族とは奥が深いと思わされる。
﹁彼女たちに正体を知られたくない、というのは分かりました。い
え、ユマさんにですね。他のお二人は、ギルドマスターさまのこと
をご存じでしたから﹂
﹁⋮⋮俺の名前はディックだ。本当は、﹃銀の水瓶亭﹄のギルドマ
スターをやってる。ユマのことは⋮⋮体調がすぐれなかったから、
影ながら何かしたいと思ってな﹂
﹁でも、きっと知られてしまうと思います。後から事実を知った方
が、感激されてしまうのでは?﹂
﹁そういうつもりはなかったんだが⋮⋮でも、言う通りだな。俺は
ここをギルドの保養施設にしたいと思ってる。ユマにもまた来ても
らおうと思ってるし、その時も仮面の執事ってのは回りくどいから、
どのみち正体を明かさないとな﹂
﹁仮面を着けて執事をされるのが今日だけというのは、勿体ないと
思います。とてもよくお似合いでしたよ﹂
ベアトリスは言って、ベッドサイドのチェストに置かれている仮
面を手にする。そして、それを自分の顔に合わせて見せる︱︱本当
にすべての仕草が、男性を翻弄するために特化しているようだ。
そして仮面を外したベアトリスは、覚悟を決めたように俺の前に
歩いてくる。そして、右手を差し出してきた。
﹁ですが⋮⋮仮面を外されたお姿のほうが、ずっと見ていたいと思
うお顔をされています﹂
204
﹁そんなこともないと思うけどな。俺の仲間の方が、顔は抜群に整
ってるぞ﹂
﹁それぞれ、好みというものがありますから。私は好きですよ、デ
ィックさんのお顔﹂
﹁どうやって精気を吸うのかと思ってたが⋮⋮もしかして、サキュ
バスみたいなやり方じゃないよな?﹂
ベアトリスは何も答えない。その手が俺の寝間着の胸元に伸ばさ
れ、一つボタンを外される。
﹁⋮⋮質問に答えてもらってないんだが﹂
﹁今日は、触れさせていただくだけです。決して、痛みなどはあり
ません⋮⋮ですが、手のひらから吸うだけでは、時間がかかってし
まいますので⋮⋮﹂
﹁だ、だから触れる面積を増やすとか、そんな安直な⋮⋮いいのか、
俺とは今日会ったばかりなんだぞ﹂
彼女がどんなふうに俺の精気を吸おうとしているのか、さしもの
鈍い俺でも想像がついた。
ベアトリスは俺のボタンをもう二つ外すと、今度は自分のネグリ
ジェの胸元に結ばれたリボンに触れた。それを引いてしまうと、お
そらく前が開いて素肌が見えてしまう。
﹁死霊しか集まらない屋敷で、一人で夜を過ごすのは、レイスクィ
ーンといえど寂しいものです。それが十年も続いたのですから、少
しだけ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮そうか。そういうことなら仕方ない﹂
俺はそのとき、自分でも浅はかだと思う勘違いをしていた。
レイスクィーンは実体がないので、触れられない。つまり彼女が
205
望んでいる添い寝をしても、男女が同衾するという意識を持つ必要
はない。
全くそんなことがないというのは、ベアトリスが俺のボタンを外
した時にわかっていたのだが、それでも俺は、後戻りのできない許
可を出してしまった。
するり、とベアトリスがリボンを外す。そうしてはだけたネグリ
ジェは、もはや白く透き通るような素肌に絡みつくだけの飾り布と
なり、ほとんど裸身を覆っていなかった。
﹁⋮⋮一晩中、少しずつ精気を分けていただきます。あくまでも、
精気の供与ですから、別室で休まれているお三方にやましく思う必
要はありません﹂
淡々と説明するように言ってから、ベアトリスはさらに、ヘッド
ドレスまでも外そうとする︱︱しかし。
﹁そ、それはそのままでいい。また後で外してくれ﹂
﹁⋮⋮はい。ディックさん⋮⋮いえ、ディック様のご希望であれば﹂
ここまで敬意を払われる理由はないと思うのだが、ついに﹃様﹄
づけになってしまった。ヘッドドレスを残してあとは脱いでくれな
どと、どうかと思うようなことを言っているのに。
何でも言うことを聞いてくれそうだ、という手ごたえを感じたと
き、男はわりと歯止めがきかなくなるものだ。俺も例外なくそうだ
が、一つ屋根の下に三人が寝ていると思うと、なけなしの自制が仕
事をする。
206
﹁一緒のベッドで寝るだけだな。それで、精気を与えられるんだな﹂
﹁はい。少しだけ触れさせていただきますし、必要であればそれ以
上のことも⋮⋮﹂
﹁⋮⋮本当にいいのか? なんてな。俺はそこまで我慢が効かない
わけじゃ⋮⋮﹂
余裕を取り戻すために冗談めかせて言おうとした瞬間、ベアトリ
スの手が、俺の首筋に伸びてきてつぅ、と滑った。
﹁っ⋮⋮今、吸ったのか?﹂
ベアトリスは俺に触れた自分の指先を口に運び、ぺろりと舐めた。
﹁ん⋮⋮甘いです。でも、これだけでは身体を保つには足りません
⋮⋮﹂
﹁そうか⋮⋮それなら仕方ない。遠慮しなくても、必要なだけ吸っ
てくれ﹂
﹁はい。朝までには満たされるかと思いますので、ご心配なく﹂
﹁あ、朝まで⋮⋮? ちょっと時間かかりすぎじゃないか?﹂
ベアトリスは肝心のことには答えない。今度は首筋から鎖骨まで
手を滑らせてくると、ボタンの続きを外し始める。
﹁執事の服を着ているときから、分かっていましたが。魔王討伐隊
の中で、一番磨き抜かれた身体をしているのは⋮⋮もしかしなくて
も、ディック様ですね⋮⋮﹂
﹁俺はただの飲んだくれだし、不摂生だぞ。訓練も昔よりはやって
ないしな﹂
俺は酒でいい気分になったあと無毒化できるので、酒太りなどは
207
起こしたりしない。毎日ある程度働いているといってもそれは仕込
みの時間だけだ。
強いて言うなら常に強化魔法を利用して筋肉に負荷をかけている。
そうすることで、カウンターに座って客にドリンクをサービスして
いる間も、俺は筋力の鍛錬を常に行っているわけだ。面倒くさがり
の俺としては、子供の頃に強化魔法を習得する機会があったことは
まさに天恵だった。
﹁⋮⋮全部脱がせる必要あるのか?﹂
﹁時間を短縮するには、触れあう表面積を増やす必要がありますの
で⋮⋮﹂
本当にするのか、と聞くのも無粋に感じて、俺はベアトリスにそ
れ以上尋ねなかった。
彼女は俺の前に身を乗り出すと、ふわりと上に重なってきた。
物質を通過することができるのに、触れた感触が確かにある。冷
たくはない︱︱もしかすると、レイスの接触を冷たく感じるのは、
攻撃するときだけだということなのだろうか。
鼓動すら感じるくらいで、何も人間と変わらない。手のひらで包
み込めそうな適度な大きさの膨らみが、胸板に当たっている。
﹁レイスクィーンって、実体があるのと変わらないのか⋮⋮まった
く奥が深いな﹂
﹁魔力が充実していくほど、実体化の程度を引き上げることができ
ます。不死者には体温がないとお思いでしょうが、冷たく感じさせ
ないよう、こうして体温を合わせることも可能です⋮⋮ディック様
の身体、温かい⋮⋮﹂
﹁ミラルカが冷たいのはびっくりするって言ってたから、今後も温
208
かいままでいてやってくれ﹂
﹁⋮⋮ミラルカさんとは、どのようなご関係ですか? 討伐隊で男
女の親睦を深められたのでしょうか⋮⋮でも、深い仲ではないよう
にお見受けしますが﹂
﹁あまり詮索すると怒られるぞ。まあ、見た通り知人ってやつだな
⋮⋮な、なんで嬉しそうなんだ?﹂
﹁ふふっ⋮⋮それはプライベートにかかわることですので、秘密に
させていただきます﹂
自分の意に沿わず召喚され、屋敷に縛り付けられた魔族の少女。
彼女を助けることにしたのはいいが、なぜこんなことになってい
るのだろう。
そう思いつつ、俺はベアトリスに魔力を供与するという名目で、
覆いかぶさられたままで遠い朝を待ち望むのだった。
209
第19話 魔王の訪問と再契約
気が付くと、窓から朝の光が差し込んでいた。どうやら、まだ朝
早いようだ。
俺が身じろぎをしたからか、寄り添って寝ているベアトリスの睫
毛が震える。
﹁ん⋮⋮﹂
そして彼女は仰向けになり、しどけない寝姿を見せる。精気を十
分に吸収し、魔力に変換したことで、彼女の身体の実体化はより完
全なものとなっていた。身体の向こうが透けて見えたりすることも
ない。
まだ眠らせておいてやることにして、俺はベッドから抜け出す。
昨日の夜も寝付くまでが大変だったが、彼女があまりに俺を信頼
しきっているので、間違いを起こそうという気にはならなかった。
協力してくれた仲間たちに対しても、これで筋を通せただろうか。
しかしそれにしても、このベアトリスの無防備さは、彼女がまっ
たく世間ずれしていないからだろう。もしくはレイスの上位種族で
ある彼女は、男を警戒する必要のない実力を持っているからか。
﹁⋮⋮ディックさま⋮⋮もう、行ってしまわれるのですか?﹂
﹁お、起きてたか。また魔王を連れてここに来るから、待っててく
れ﹂
210
俺はシャツのネクタイを締め、ジャケットを身に着ける。貴族に
仕える男性が用いる、上等な仕立て屋で作ってもらったものだが、
俺はその着心地が気に入っていた。上下で金貨15枚という値段は
衣服としてはかなり高いと言えるが、有名な仕立て屋が上等な生地
で作ったものなので、価値相応と言える。
ベアトリスは実体化した体を、引き寄せたシーツで隠しながら上
半身を起こした。眠るときにほどいた銀色の髪に、少し寝癖がつい
ている︱︱それも実体化が進んだことの現れだろう。
﹁お伺いするのを失念していたのですが、魔王さまをお連れするに
は、交渉を含めて数ヶ月は必要なのでは⋮⋮?﹂
俺は少し考え、ベアトリスに魔王が俺のギルドで住み込みメイド
店長をしていることについては、まだ言わずにおくことにした。シ
ュトーレン公爵との契約を上書きするまでは、ベアトリスの意志に
関係なく、魔王の情報がシュトーレン公爵家の人間に洩れてしまう
可能性があるからだ。
﹁連れてくるだけならそこまで複雑な手続きは必要ないさ。俺たち
は一応、魔王を討伐した立場だからな。魔王に自分の領地を出るな
とも言ったが、一時的に来てくれと頼むこともできる﹂
﹁そんなことが可能なのですね⋮⋮それは、魔王様を討伐したとき
の契約によるものですか?﹂
﹁まあ、口約束ではあるがな。ヴェルレーヌはそれを、律儀に守り
続けてくれた。魔族全部を残らず滅ぼすなんてことをすれば、他の
魔族の国を治める王が黙っちゃいないだろう。可能なら、永久停戦
が最も望ましかった﹂
211
俺たち五人の意見は、遠からず一致していた。コーディが魔王に
降伏を勧告したのも、元から話して決めていたことだ。
魔王が魔物たちに人間を襲わない生き方を教える前は、凶悪な魔
物がほとんどだった。知恵を持つ亜人種の類は人間の町や村を日常
的に襲っていたし、俺が育った村も魔物の被害を受けていた。そん
な環境だからこそ、俺が戦闘を学ぶ機会には事欠かなかったわけだ
が︱︱と、昔話は置いておこう。
しかし知能があるということは、魔王を倒した人間に逆らうこと
の無益も理解できるということだ。
エルセイン魔王国の降伏後、ギルドに入る魔物退治の仕事は激減
したが、そうでなくとも害獣の類の退治、他の魔王の支配下の魔物
が国に侵入してくるという事態はあるので、冒険者には変わらず戦
闘力が求められている。おかげで俺たちの戦闘力に対する評価も、
下がることなく維持されているわけだが。
﹁⋮⋮魔王様を討伐したのが、ディック様たちのような勇者で良か
った。もし魔族が滅ぼされていたら、私もあなたたちと戦うしかな
かった。かなわなくても、一族の無念を晴らそうとしたでしょう﹂
﹁だろうな。レイスクィーンというか、レイスの上位種族とは戦っ
てないから、ベアトリスの一族は無事だろうと思う。まあ、確かめ
もしないで無責任なことは言えないが﹂
﹁シュトーレン家との契約を解除し、この屋敷を離れることになっ
たら、一度は一族の元に帰りたいと思います。私の家は﹃六魔公﹄
という地位にありますので、ディック様から私が受けた恩義を知っ
たら、きっと謝礼を⋮⋮﹂
﹁ああいや、今回のはなりゆきで助けただけだからな。できればこ
の屋敷の管理人として残って欲しいが、それも強要はしない。これ
からのことは自由に選んでくれ﹂
212
俺は自分の思うままを伝えた。この屋敷に残ってもらえれば、彼
女の死霊を集める力で、ユマの鎮魂欲を定期的に満たしてやれると
いう考えもある。
だが、この屋敷で一人過ごしてきた彼女を、家族もきっと待って
いるはずだ。
﹁分かりました。魔王様の手でシュトーレン様との契約が解除され
たら、その先のことは自分で選ばせていただきます﹂
﹁ああ。それじゃ、風邪ひかないように服を⋮⋮いや、レイスは大
丈夫なのか﹂
﹁はい、病気の類は不死者にもありますが、風邪などはひきません。
お気遣いいただきありがとうございます﹂
レイスである彼女のネグリジェは特殊な素材︱︱霊体に類するも
のでできているようだ。
彼女と同様に実体化の度合いが変化する、﹃エーテル素材﹄とい
うやつだろう。それはベッドサイドのチェストに綺麗に畳んで置か
れていた。
不死者が俺のギルドに所属してくれたら、こなせる依頼の幅が広
がりそうだ。そうは思うが、俺は今勧誘することはしなかった。そ
うすることで彼女の選択を狭めてしまうことはしたくなかったから
だ。
◆◇◆
ベアトリスの死霊を集める力は、ユマが敷いた結界によって遮断
され、屋敷で幽霊騒ぎが起こることはなくなった。ユマたち三人は
213
昼前にそれぞれの家に帰っていき、俺もユマを送っていってから、
ギルドハウスに帰還した。
ヴェルレーヌは俺の要請に応じて、次の日の夜がやってくる前、
夕方の時間帯にベアトリスの屋敷を訪れた。
ダイニングルームの窓際に立っていたベアトリスは、ヴェルレー
ヌを見ると深い一礼をする。
﹁頭を下げずともよい、私はもう魔王ではないのだからな。すでに
弟に位を譲っている﹂
﹁ヴェルレーヌ様が退位を⋮⋮?﹂
﹁うむ。私が女王となって三十年ほどの治世だったか⋮⋮ベアトリ
スの一族はよく尽くしてくれたな。家族のことなら心配はない、魔
王討伐隊と交戦することなく、後方の守りを命じていたのでな﹂
﹁っ⋮⋮六魔公は、魔王を守るための盾であるはず。なぜ、そのよ
うなご命令を⋮⋮?﹂
ヴェルレーヌはエルフの姿から、幻影の魔法を解除し、ダークエ
ルフの姿に戻る。その黒い肌と紫がかった髪は、それこそサキュバ
スのようにも見える︱︱普段のエルフ姿が貞淑なメイドならば、今
は文字通り魔性のメイドという印象だ。
﹁魔王討伐隊は、六魔公が前に出ないように、魔王国に入ってから
神出鬼没な振る舞いをしたのだ。そして見事に、私の居城に六魔公
が不在であるうちに、戦いを挑んできた。正直を言って信じがたか
ったぞ、一人だけならばまともに戦えるという存在が5人も来て、
それが少年と少女なのだからな﹂
﹁ディック様が魔王様のところに辿りつかれたのは、5年前⋮⋮こ
の屋敷を買った人の話から、それは存じておりました﹂
214
﹁俺はそのとき13歳だったな。最年少のユマは9歳だ﹂
今でも最年長のコーディと俺が、同じ18歳︱︱その事実を聞か
され、ベアトリスは改めて言葉を失い、ヴェルレーヌは俺たちと戦
ったときのことでも思い出したのか、感慨深そうにしていた。
﹁ディック⋮⋮いや、もはや隠す気もないので、ご主人様と呼ぶが。
私は彼に、魔王としての大切なものを預けていてな。それを取り返
すために、彼に忠誠を示しているのだ﹂
﹁それは、ヴェルレーヌ様が、ディック様のしもべとして契約して
いるということですか?﹂
﹁⋮⋮それについては伏せておくが、似たようなものであるとは言
っておこう﹂
﹁いや、契約はしてないはずだが⋮⋮してないよな? 俺と何か契
約書を作ったとか、そういうことはないはずだし﹂
﹁い、いえ。ディック様⋮⋮﹂
﹁ベアトリス、それよりも人間との契約を解除したあとのことだが、
私の支配下に戻ることになる。つまりそれは、ご主人様の支配下と
いうことでもあるのだが、それで良いか?﹂
ヴェルレーヌは勢いで話を進めようとする。契約の件について誤
魔化すということは︱︱俺が知らないうちに、ヴェルレーヌと契約
している可能性が出てきた。
いつ、どこでそんなことになったのか。考えるうちに俺は一つの
答えに辿りつく。
そう、﹃魔王の護符﹄。俺とヴェルレーヌに強い拘束力を発生さ
せうるものは、あれしか考えられない。
﹁⋮⋮ん? い、いや、俺はベアトリスを支配するつもりは⋮⋮そ
215
れじゃ、契約者が変わるだけで、人間のしもべのままじゃないか﹂
﹁それでいい、という可能性は考えないのか? ご主人様の魔力の
味を知ったレイスクィーンが、なぜ簡単に離れられると思うのだ。
こう言うと引かれるかもしれないが、ご主人様の魔力は、近くで感
じているだけでも心地良いものなのだぞ﹂
﹁ヴェルレーヌ様、それ以上は、その⋮⋮この身体にあふれたディ
ック様の魔力を、意識してしまいますから⋮⋮﹂
ベアトリスは、俺との召喚契約を結ぶことを希望している。
彼女をスカウトするにしても次の機会を待ちたいと思っていたが、
それなら話は百八十度変わってくる。
﹁では、始めるとしよう。契約を結べば、ご主人様に魔力が枯渇し
たときに伝わるようになる。そしてご主人様から呼ばれたときは、
いついかなる場所でも召喚に応じなければならない。それで良いか
?﹂
﹁ディック様がよろしければ⋮⋮召喚の契約を、結ばせていただき
たいです⋮⋮﹂
ベアトリスは顔を真っ赤にして言う。ヴェルレーヌは他の魔族が、
俺と契約することを何とも思っていないのだろうか︱︱それとも、
同居しているがゆえの余裕か。
﹁ヴェルレーヌ・エルセインが、いにしえの魔神の力を借り、再契
約を宣言する。ベアトリスの旧き契約を破棄し、新たなる契約の主、
ディック・シルバーと結びつけたまえ⋮⋮﹂
﹁っ⋮⋮﹂
ヴェルレーヌはベアトリスの首元に触れる。すると、白い肌に青
白く輝く印が浮かび上がった。同じものが、俺の手の甲にも浮かん
216
でいる。熱くもなく、冷たくもない、契約魔法特有の奇妙な感覚が
あった。
﹁これよりベアトリスの真名を新たに刻む。ベアトリス・シルバー。
ディック・シルバーのしもべとしての名を、汝が魂に銘記せよ﹂
﹁⋮⋮ベアトリス・シルバー。私の、新たな名前⋮⋮謹んで、お受
けさせていただきます﹂
印は契約の儀式を終えると消え去る。ベアトリスは印の浮かんで
いた首筋を撫でながら、嬉しそうに俺を見た。
﹁これで、私はディック様の所有物になれたのですね⋮⋮﹂
﹁召喚者と、契約者だ。そこまでバランスの崩れた関係でもないさ﹂
﹁ふふっ⋮⋮それはどうだろうな。ベアトリスにとっては生殺しに
なるかもしれんが、私もそれは同じなのでな。ともに、ご主人様を
愛でつつ見守っていくとしよう﹂
﹁なにをどさくさ紛れに言ってるんだ⋮⋮簡単に愛でさせると思う
なよ﹂
ヴェルレーヌとベアトリスは楽しそうに笑いあう。元魔王と臣下
の壁を越えて、二人の女性の間に友情が生まれていた。
217
第20話 タリスマンと仮面の救い手
それから二日後、夜になって、例のごとく外套を被ってユマの両
親が酒場にやってきた。
今回は、ユマも一緒だ。彼女がここに来ると思っていなかった俺
は、少なからず驚かされる。
﹁このたびは、依頼の件で大変お世話になりました﹂
﹁娘をすっかり元気にしていただいて、本当に、なんとお礼を言っ
ていいのか⋮⋮﹂
﹁報酬については、お気持ちの範囲でご検討いただければと思いま
す。当ギルドのギルドマスターから、そう承っております﹂
友人の両親から金はとれない、という思いはある。グレナディン
さんは金貨500枚を出してきたが、俺はヴェルレーヌに指示して、
200枚しか受け取らせなかった。あの屋敷を手に入れられただけ
でも十分だし、金貨200枚なら経費を引いても150枚近く黒字
となる。
両親がヴェルレーヌと話しているあいだに、ユマがこちらにやっ
てきた。外套の下に着ているのは、外泊したときに着ていた私服と
はまた違う、ブラウスとスカート姿だ。
﹁お久しぶりです、ディックさん。お隣に座ってもいいですか?﹂
﹁ああ。ユマ、ずいぶん顔色が良くなったな﹂
﹁はい、おかげさまで⋮⋮﹂
﹁い、いや。俺は何もしてないぞ? ここで話は聞いてたけど、そ
れだけで⋮⋮﹂
218
ユマがここに来た時点で、気が付くべきではあった︱︱俺がただ
話を聞いてただけだなんて誤魔化しは、通じるものではないと。
﹁では、そういうことにしておきます。でも⋮⋮私の裸を見たのは、
ディックさんです﹂
致命的なところを的確に突かれる。いや、見たのは俺じゃないと
言ったら、博愛主義者のユマでも俺に対して不誠実だと思うところ
だろう。
﹁⋮⋮まいった。全面降伏だ。途中まで上手く隠せてると思ってた
んだがな﹂
﹁私にディックさんの魂がわからないわけがないです。これまで五
年間、毎日ディックさんの魂をお鎮めしたいって思っていたんです
よ⋮⋮?﹂
それはユマにとって挨拶のようなものかと思っていた。クレイジ
ーサイコプリーストであるところの彼女は、誰の魂も鎮めたくて仕
方ないのではないかと。
しかしどうやら、俺の魂は、他の人々と比べても、彼女にとって
特別なものであるらしい。そう、五年ごしに気づかされる。
酒を一滴も飲まなくても、ユマの目が酔っているかのように色っ
ぽく、とろんとしている。俺の魔力が心地よいものだとヴェルレー
ヌは言うが、ユマは魂の波動にでも酔っているのか。
﹁しかし、やはりユフィール様のお力は並外れていますね。久しぶ
りに鎮魂を行ったことで、王都全域を浄化してしまうなどと⋮⋮﹂
219
﹁ええ⋮⋮僧侶たちの修業のために、死霊の浄化を行っているので
すが、それができなくなってしまいました。浄化した分だけ、教会
に寄進が集まりましたが﹂
﹁娘に鎮魂をしないようにと言ってきたのは、僧侶たちの修行のた
めもありまして⋮⋮ですが、それで鬱憤が溜まっていたのですから、
他の修行方法を考えます﹂
﹁も、申し訳ありません、お父様、お母様⋮⋮私、これからは王都
での鎮魂は、本当に必要なときしか行いません﹂
鎮魂をしないようにと言われていた事情も、言われてみればその
通りだ。ユマの鎮魂能力があると、他の僧侶の仕事がなくなってし
まう︱︱今回のように。
しかし死霊は人々が生活していれば次第に集まってしまうものな
ので、それほど期間を置かずにまた発生するだろう。だが、それを
ユマが鎮魂すると、またも王都全域が浄化されてしまう。
どうするべきか、幾つか案はある。それには、ユマにある条件を
飲んでもらう必要があるのだが。
﹁鎮魂をしないと、また体調を崩されてしまうのでは? ⋮⋮いえ、
対策はおありのようですね﹂
﹁はい。私、今回のことを通して思いついたことがあるんです﹂
そう言ってユマが、持っていた鞄から取り出したのは⋮⋮見覚え
のある、けれど俺が使ったものではない仮面だった。
ユマは両親には聞こえないように、俺に近づき、ささやくような
声で言う。眠気を誘うような優しい語り口だが、至近距離でささや
かれると違う感覚に変わる。神に帰依したくなるほど、陶酔をもた
220
らす甘い声色だ。
﹁アルベイン神教の僧侶であるとわかったら、鎮魂をしたときに寄
進をしてもらうことになります⋮⋮ですから、この仮面を使って、
私も仮面の僧侶になります。そうすれば、お金を受け取らずに鎮魂
ができます﹂
﹁⋮⋮本気か?﹂
﹁はい、本気です。仮面の僧侶として王都の外に出て、死霊が出て
困っている村の人たちを、定期的に助けて回ります。でもそうする
と、孤児院を留守にする時間が出てきてしまうので、準備をしてか
らになります﹂
孤児院、そして教会を離れるつもりもなく、弱っていたユマだが、
それではいけないと思ってくれたようだ。
ユマが乗り気なら、俺はいくらでも協力する。ヴェルレーヌを通
じ、大司教夫妻に、ユマの今後のことを話してもらうことにした。
﹁ユフィール様は、鎮魂を行うことで体調を健やかに保つことがで
きます。それでしたら、定期的に王都の外に出て、鎮魂の力が際限
なく広がらないように、限定的な範囲で鎮魂を行えばよいのです﹂
﹁なるほど⋮⋮しかし、良いのか? ユフィール。子供たちのこと
は⋮⋮﹂
﹁孤児院の人手が足りない場合は、適宜適切な人員を孤児院に派遣
し、ユフィール様の不在時も子供たちの安全を保障いたします。そ
してユフィール様につきましても、王都の外に出られる場合、護衛
をつけさせていただきます﹂
﹁そこまで至れりつくせりにしていただけるなんて⋮⋮本当にあり
がとうございます﹂
ユマの母親のフェンナさんが頭を下げる。グレナディンさんは奥
221
さんに倣ったあと、懐から何かを取り出した。
﹁これは⋮⋮?﹂
﹁アルベイン神教会と深いかかわりを持つ団体・機関に与えられる
﹃タリスマン﹄です。王都の冒険者ギルドにはこれまで渡してきま
せんでしたが、これを﹃銀の水瓶亭﹄に贈与させていただきたい﹂
︱︱アルベイン神教会のタリスマン。それを持っていれば﹃銀の
水瓶亭﹄は、アルベイン神教会からの依頼を優先的に受けられる立
場となる。
今までは知名度順で白の山羊亭にまず依頼が行っていたが、これ
からは俺たちのギルドが優先となる。もちろん優先的に依頼が回っ
てくるだけで、受けるかどうかはその都度決められる。
他のギルドから目をつけられない程度に仕事を流しつつ、重要な
依頼を独占する︱︱そういったことが可能になるわけだ。何事も、
やりすぎは禁物だが。
﹁では、ありがたく受け取らせていただきます﹂
﹁そうしてもらえると、こちらもありがたい。しかし、さすがはデ
ィック・シルバー殿⋮⋮調べなければ表に出てこないギルドだが、
その実は極めて優秀。かつての勇者は、ギルドマスターでも一流と
いうことか﹂
﹁お客様、どうかそのお話はご内密にお願いいたします。依頼の達
成は当然のことで、それを広く誇ることは、ギルドマスターの本意
ではございませんので﹂
グレナディンさんもフェンナさんも、俺がディックだとは知らな
い。ユマはそんな二人を見てくすっと笑うが、秘密にしていること
222
を申し訳なさそうにもしていた。
﹁謙虚さは、アルベイン神教でも第一の美徳とされています。でき
るならば、娘にはディック殿のような男性を選んでもらいたいもの
だ﹂
﹁っ⋮⋮ゴホッ、ゴホッ!﹂
思いがけない一言に、酒が気管に入りそうになる。ユマは俺を気
遣って背中を撫でてくれていた。
﹁あなた、ユフィールはまだ14歳ですよ。結婚するにはまだ早い
です﹂
﹁む、そうか。しかしあと2年というのは、あっという間だぞ。私
と母さんの時もそうだったろう﹂
﹁あ、あなたったら⋮⋮人前でそんなこと。恥ずかしいわ﹂
もはや惚気にしか聞こえない両親のやりとりに、ユマは自分のこ
とのように顔を赤らめていた。
﹁す、すみません⋮⋮お父様は、私が元気になったことが、嬉しい
みたいで⋮⋮こんなに浮かれているところを見るのは、初めてかも
しれません﹂
﹁そ、そうか⋮⋮﹂
俺と結婚するのはどうかと言われたが、それについてどう思って
いるかなんて聞けるわけがない。
しかしユマは頬にかかる髪をかきあげ、耳をしきりに触っている。
その仕草から、ユマがとても動揺していることは伝わってきた。
223
大司教夫妻は前と同じように、僧侶でも飲める飲み物を口にして
一息つくと、席を立った。
﹁では、私どもはこれで失礼させていただきます。ディック殿にも
よろしくお伝えください﹂
﹁はい、かしこまりました。お帰りの際は、足元にご注意ください﹂
﹁ありがとうございました。また何かありましたら、ご相談にあが
らせていただきます﹂
両親と一緒に、ユマも帰っていく。彼女は最後に俺の方を振り返
ると、手を上げて小さく振った。
﹁酔っ払いさん、ユマちゃんのお婿さん候補認定おめでとう! さ
あ、今日は飲み倒そー!﹂
﹁うわっ⋮⋮アイリーン、来てたのか﹂
後ろから肩を組まれたものだから、アイリーンのたわわに実った
果実的なものが思い切り当たってしまう。既にできあがっている彼
女は、構わずに俺の隣に座ると、持っていた酒瓶からグラスに酒を
注いでくれた。
﹁ねえねえ、あのときは聞かなかったけど、ベアちゃんにどうやっ
て精気を分けてあげたの?﹂
﹁そ、そんなこと気にしてたのか⋮⋮一緒のベッドで寝ただけで、
何もしてないぞ﹂
﹁それでは効率が悪いので、触れあう表面積を広くされたはずです
が⋮⋮お客様、詳しくお聞かせ願えますか? 後学のためにも﹂
グラスをキュッと拭き上げながらヴェルレーヌが言う。俺は彼女
たちの酒の肴にされるのは、まったくもって御免なのだが、こうな
224
ると逃げることは困難だ。
はぐらかしてもろくなことにならないので、ここは腹をくくって
話すことにする。俺にはやましいところがないので、何も問題ない
はずだ。
﹁ヴェルレーヌの言う通り、精気を吸うときは触れ合う面積を増や
す必要がある。つまり⋮⋮﹂
俺の説明を、二人は真剣そのものの顔で聞いていた。といっても、
服を脱いで触れ合って寝たというだけなのだが。
そのうちに俺に密着しているアイリーンの身体が熱くなってきて、
ヴェルレーヌの瞳が何か、濡れた輝きを放ち始める。
﹁⋮⋮思ったよりも羨ましいことをされていたのですね、お客様﹂
﹁そ、それって変な気持ちになったりしないの? ディック、もし
かして女の子に興味なかったり?﹂
﹁精気の供与だから、過剰に意識するのもよくないしな。というか、
アイリーンがそうやって触れてるのも、俺にとっては同じくらい大
胆だぞ﹂
﹁⋮⋮ほんとに? そうなんだ⋮⋮じゃあ、もう少しサービスして
あげよっかな♪﹂
﹁アイリーン様、上機嫌でいらっしゃいますね⋮⋮私と店主を変わ
っていただけないでしょうか﹂
口惜しそうなヴェルレーヌが、店が終わったあとに何かしてほし
がるのは分かっていた。なんとか膝枕で手を打ってほしいが、それ
が無理だったときのことも考えなければならないところだ。
225
◆◇◆
︱︱それから二週間後。
王都アルヴィナスの南西に位置する村に、仮面をつけた僧侶と、
魔法使いと、武闘家が姿を現したという。
彼女たちは死霊に困らされていた村人を救い、付近の魔物を討伐
すると、名前も名乗らずに颯爽と帰っていったとのことである。
その後もおよそ一ヶ月ごとに、彼らは王都の周辺の村に姿を見せ
ることになる。
人々の間で﹃仮面の救い手﹄と呼ばれることになる彼らを、遠く
で見守る仮面の四人目がいたというのは、知る人ぞ知る話である。
226
第21話 騎士団長の憂鬱と公爵家の企み
ベアトリスと契約することで、俺は旧シュトーレン家の屋敷を手
に入れることができたが、不動産屋は俺が退去すると言い出さない
ので、表面上は﹁気に入っていただけたようで何より﹂と言ってい
た。
本音を言えば、死霊騒ぎで退去が続いた方が稼げると思っていた
のだろうが、いずれは退去した人々の怒りの矛先が不動産屋に向く
というリスクも、想定してはいたのだろう。
あの屋敷は保養施設として、ギルド員が予約して利用できるよう
にした。もちろん俺がもてなすわけではなく、屋敷を管理する人間
を雇ってある。ベアトリスは実体化していれば、魔族の瞳さえ見せ
なければ人間と見分けがつかない︱︱そんなわけで、今彼女は、金
色の目だけを覆う形の仮面をつけている。
俺が目立ちたくないばかりに、銀の水瓶亭の関係者のあいだで仮
面が大流行してしまった。あのミラルカも、友達付き合いはいいほ
うで、ユマが鎮魂のために王都を出るとき一緒に﹃仮面の救い手﹄
をやることになったとアイリーンから聞かされたとき、俺は思わず
酒を吹き出しそうになった。そのあと訪問したミラルカに、﹁初め
に仮面をつけたあなたに言われたくないわね﹂と釘を刺されたのは
言うまでもない。
◆◇◆
﹃仮面の救い手﹄がデビューしたあと、その噂は徐々に広がりつ
227
つあった。なにせ、仮面をつけているが雰囲気だけで美女だとわか
る三人組なのである。その姿を見た男性たちは、彼女たちが魔王討
伐隊だとはつゆ知らず、口々に美人に違いない、そして声からして
若い、いや妙齢の美女だ、妙齢ってどれくらいの歳だ、と議論をあ
さっての方向に白熱させていた。うちの酒場に来る客ですら話題に
するほどだ。
﹁まったく⋮⋮どうして僕にも声をかけてくれないのかな。人々を
救う仕事をしているのに、僕だけ仲間外れにするというのは意地が
悪いよ﹂
騎士団の情報網を通して、ユマたちの活躍はコーディの耳にもあ
っさり入り、彼は小柄な僧侶、金髪の魔法使い、スタイル抜群の武
闘家というだけで、仮面の救い手のメンバーをかつての仲間たちだ
と断定していた。
﹁僕たちは魔王討伐隊の仲間だ。僕は今もそうだと思って、こうし
て酒場に顔を出しているのに。ディック、聞いてるのかい? 僕は
まじめにクレームをつけているんだよ﹂
﹁ああ、聞いてるよ⋮⋮というか俺はただの酔っ払いだ。大きい声
で名前を呼ぶなよ﹂
﹁っ⋮⋮そうだった、ごめん。つい、カッとなってしまってね。で
も反省はしていないよ﹂
コーディは良くも悪くも、馬鹿正直で真面目を絵に描いたような
性格だ。しかし直情的でもあり、こうやって騎士団の仕事が終わっ
たあと、真っ先にやってくるくらいには、我慢のできない性格でも
ある。
気持ちは分からないでもない︱︱コーディには、分かっているの
228
だろう。魔王討伐の過程でいつもそうだったように、俺も彼女たち
の活躍の陰にいることを。
俺は遠くからハラハラと親のような気持ちで見守っていたが、ミ
ラルカは殲滅魔法で地形を変えたりはしなかったし、アイリーンは
鬼神化して人々に恐れられるようなこともなく、見事に正義の味方
をやってのけた。ユマは事前にちゃんと準備をして、村の僧侶の力
が及ばない死霊のみを限定的に浄化するだけにとどめた。
彼女たちの仕事は完ぺきすぎて、初回は何もすることがなかった。
それでも見ているだけで楽しかったというのは、否めないところ
だろう。彼女たちの戦いには、相手のレベルを問わず華があるのだ
︱︱手加減しても無駄がなく、美しい。とても面と向かっては言え
ないことではあるが。
﹁コーディは光剣を使うと一発でばれるからな。唯一無二の戦い方
だから﹂
﹁普通の剣を使って参加するのはだめなのかい? 僕が忙しいとい
っても、時間は作ろうと思えば作れるものだよ﹂
﹁わかった、本当におまえの力が必要なときは遠慮なく頼らせても
らうよ。だからそんながぶ飲みするなって﹂
﹁⋮⋮まあ、君がそういうのなら、僕は必要な時のために待機して
おくよ。ディ⋮⋮いや、君は、そういうことに関しては律儀だから、
信用できる﹂
﹁おまえの力が必要になったら、わりと国のピンチっていう状況だ
けどな﹂
﹁ははは⋮⋮僕の立場上、そんな事態になることを望むべきじゃな
いんだろうね﹂
今日のコーディはエールを頼まず、最初からきつめの酒を頼んで
229
いた。十年ものの、熟成して味がまろやかになったラム酒を氷で割
って飲んでいる。その氷は王都の北方にある﹃氷の洞窟﹄と呼ばれ
る場所で取れる﹃極純氷塊﹄から削り出したもので、濾過された地
下水が時間をかけて凍結してできる。飲むだけで氷の耐性がつくと
いうおまけつきだ。
﹁⋮⋮不躾な質問をいたしますが、お客様は類まれな容姿をされて
いますし、女性にはとても人気があるはず。貴族の女性たちも、夜
会に出席されるのを今か今かと待ち望んでおられるはずです。なぜ、
こちらの酒場に足しげく通われるのですか?﹂
ヴェルレーヌはずっと気になっていたらしく、ここぞとばかりに
コーディに尋ねる。
コーディはブラウンの瞳で、グラスの中に入った氷がカラン、と
音を立てるところを見つめていたが、ふっと笑って答えた。
﹁僕は友達が少ないから、こうやって昔の友人に会いに来るくらい
しか、肩の力を抜く方法がないんだ﹂
﹁騎士団⋮⋮いえ、職場では、たいへん同僚と部下から慕われてい
るとうかがっておりますが﹂
﹁僕を同僚というか、対等の立場で見てくれる人は、職場にはいな
いんだ。僕が人と違う方法で、今の地位を手に入れてしまったから
ね。部下は僕を人間としてじゃなく、冗談を抜きにして神様みたい
に見ているものだから、なかなか人間の姿は見せられないんだ﹂
﹁⋮⋮おまえも色々大変なんだな。まあ、飲めよ。帰る時には酒は
抜いてやる﹂
﹁いや、多少は酔いを残しておかないと、今日は寝られなさそうだ
からね。それに、酒を分解するところに触れる必要があるんだろう
?﹂
230
酒は肝臓で代謝されるので、そこに触れる必要がある。医療的な
行為のうえに、男同士なら何ら問題ないと思うのだが︱︱考えてみ
れば、コーディは腹などの、服を脱ぐ必要がある部分に怪我をした
ことがないので、回復魔法をそういった部位にかけたことはなかっ
た。
男同士でも身体を見られたくないという主義の人物は時々いるの
で、コーディもそのうちの一人ということだろう。一緒に風呂に入
らないからといって、付き合いの悪い奴だと思うこともない。
﹁なぜ、そこまで遠慮されるのですか? 二日酔いを避けるには、
そちらのお客様の魔法はうってつけですが⋮⋮﹂
﹁明日の朝まで響かないくらいの酒量は心得ているよ。あと一杯く
らいが限度だけどね﹂
コーディは爽やかに笑うと、ラムを飲み干し、同じものをもう一
度頼んだ。確かに俺は、コーディが悪酔いしたところを見たことが
ないので、彼の酒量調節には間違いがないといえる。
この一杯に付き合ったら、もう閉店の時間も近い。
そこで俺もラストオーダーを頼もうとしたところで、ドアベルが
鳴り、外套を羽織った客が入ってくる。
閉店までの時間を惜しむような客席の喧騒の中で、俺とヴェルレ
ーヌのスイッチが切り替わる。入ってきた客は、水曜日に対応した、
藍色の外套を羽織っていたからだ。
眼力の強い、いかにも気の強そうな女性︱︱彼女はカウンターに
歩いてくるなり、ヴェルレーヌを睨みつけるようにして言う。
231
﹁⋮⋮﹃ミルク﹄を出せ。なければ﹃この店でしか飲めない、おす
すめの﹄⋮⋮﹂
﹁お客様、恐れ入りますがこちらは紳士と淑女の社交場でございま
す﹂
﹁⋮⋮客に注文をつけるのか、このギルドは⋮⋮﹃ミルク﹄が欲し
い。そうでなければ、﹃この店でしか飲めない、おすすめのお酒﹄
を頼む﹂
いらいらとしている︱︱いや、ひどく焦燥している。相当の美人
であるのに、その剣呑な態度で印象を悪くしてしまっている。勿体
ないと思うが、今はそれを気にするところではない。
この客が持ち込む依頼は、おそらくただ事ではない。
これは俺の経験上の勘だが、今までギルドで請け負った中でも、
とびきり際物の依頼となりそうな気がした。
﹁かしこまりました、﹃当店特製でブレンド﹄いたしますか?﹂
﹁そうしてくれ。﹃私だけのオリジナル﹄で⋮⋮これでいいのか?﹂
﹁ええ。貴女は当ギルドにとって、大切な客人であると認められま
した﹂
女性はフードを外すと、コーディの二つ隣の席に座る。その横顔
を見て、コーディは何かに気づいたようだった。
彼女に聞こえないように、コーディはラム酒のグラスを置いてい
たコースターを手に取ると、グラスについた水滴を使って文字を描
く。王国最強の剣士としては細い指が、﹃彼女は貴族の従者だ﹄と
記していた。
﹁このギルドは、どのような仕事も受けると聞いた。無理だとは思
232
うが、それを承知で頼みたい⋮⋮私の力では、どうなることでもな
い。こんなことがあっていいわけが⋮⋮﹂
﹁まあ、落ち着けよ。ずいぶん焦ってる様子だが﹂
俺は早い段階で、客に声をかける︱︱そして、ヴェルレーヌに目
だけでコンタクトし、オーダーを指示した。
コーディが空気を読んで、カウンターから少し体を離す。
オーダーしたドリンクを、俺はコースターの上にグラスを乗せた
ままで、依頼者の前に滑らせた。
﹁⋮⋮何のつもりだ?﹂
﹁この店に初めて来た記念だ。常連としておごらせてくれ﹂
﹁フン⋮⋮酔っ払い風情が。若い身空で遅くまで酒とは、嘆かわし
いことだな﹂
﹁お客様、こちらがラストオーダーでございます。閉店時間のあと
もお話を続けられるのであれば、お飲み物を召し上がっていただか
なければ、こちらとしても心苦しいのですが⋮⋮﹂
今回の客は見知らぬ他人の施しなど受けん、と言いかねない雰囲
気だったが、俺に向けて鋭い視線を送ったあと、ふう、と肩をすく
めた。どうも彼女は、芝居がかった振る舞いがくせになっているよ
うだ。
まあ俺としては多少性格に難があろうと問題ない︱︱話を聞く間
だけ、落ち着いてくれればいいのだから。
あんず
﹁この、黄色いものは⋮⋮杏か。こんな裏通りの店に、新鮮な果実
が置いてあるとはな﹂
233
今回彼女に提供したブレンドは、精神を落ち着ける作用を持つも
のを組み合わせたものだ。
まず一つ目は、﹃潤しの杏﹄と呼ばれる、アルベイン東部湿地に
暮らす少数部族の中で、気の立っている女性が口にすると三日は興
奮が鎮められ、慈母のごとく優しくなると言われている果実︱︱貴
重だが、こういう場面でこそ使うべきものだ。その果実を漬けた酒
も、成分が浸出して高い効能を持つ。
オトメヤシ
それを、純度100%の﹃乙女椰子﹄のジュースと均等に混ぜる。
するとどうなるか︱︱それは、彼女が口にしてみてのお楽しみだ。
﹁⋮⋮ん⋮⋮思ったより酸味がとげとげしくない。それに、喉にす
るりと流れ落ちて、全身にしみこむような、この感じは⋮⋮﹂
﹁ご気分はいかがですか?﹂
ヴェルレーヌの問いに彼女は答えず、しばらくグラスを見つめた
あと、恥じらうように頬を染めつつも、きゅぅぅ、と残りを飲み干
してしまった。
そしてしばらくすると、きつくつりあがっていた彼女の瞳が、次
第に穏やかになっていく。即効性があることは、これまでも何度か
確かめてあった。
﹁⋮⋮たびたびの無礼な発言を、全て撤回させてください。あなた
方のギルドに、どうか話を聞いてもらいたい⋮⋮大きなギルドであ
れば解決できる問題ではない。このまま見過ごしても、何かを間違
えても、この国は危機に陥ります﹂
急に口調が丁寧になった彼女を見て、コーディは目を見張る。そ
して俺の方を見てくるが、俺は知らぬふりをしてエールをぐびりと
234
やる。
﹁どうか、ある人物の企みを、阻止していただけませんか。この国
を救うために、あなた方の力をお借りしたいのです﹂
﹁⋮⋮その、ある人物とは? 口に出すことが難しいのであれば⋮
⋮﹂
依頼者の女性はヴェルレーヌの出したオーダーシートに、羽ペン
である名前を書き記し、そしてヴェルレーヌだけに見せた。
それを見たヴェルレーヌが、周りに悟られぬよう、かすかに唇を
動かす。しかし俺には、その微細な動きを正確に読み取ることがで
きる。
その人物の名は、﹃ゼビアス・ヴィンスブルクト﹄。
第一王女マナリナとの決闘に破れ、婚約を破棄されたジャン・ヴ
ィンスブルクト︱︱その父にあたる人物。その家名を、こんな形で
もう一度聞くことになるとは思っていなかった。
235
第22話 悩める従者と迷わぬギルド
店の営業が終わったあとも依頼者の女性は他の客に悟られないよ
う店に残り、﹁潤しの杏の乙女椰子割り﹂をもう一杯口にする。そ
れで完全に気分が落ち着いて、見違えるほど雰囲気が柔らかくなっ
た。
﹁申し遅れましたが、私の名はキルシュ・アウギュストです。これ
までの無礼を重ねてお詫びしたい﹂
キルシュと名乗った彼女は、腰にエストックを帯びている。武芸
はたしなんでいるようだが、見たところ冒険者強度は三千をわずか
に超えるくらいだろうか。Bランク冒険者に相当する実力だ。
貴族家に仕える護衛の平均的な実力としては、高いほうだと言え
る。一人で食っていける力のあるBランク以上の強度持ちは、どこ
かの家に縛られる生き方を選ぶよりは、独立した方がいいと考える
からだ。
﹁営業時間の終わり近くに訪問してしまい、申し訳ない﹂
﹁いえ、日中はお仕事もあるでしょうし、簡単に持ち場を離れては
怪しまれるということもありましょう﹂
﹁⋮⋮はい。お察しの通り、私はヴィンスブルクト公爵家に仕える
者⋮⋮本来、密告など、忠義に反する行いです。しかし、今回のこ
とばかりは⋮⋮﹂
店が終わったあとということで、俺とコーディは厨房に引っ込み、
そこで話を聞いていた。
236
﹁いいのか? 明日も仕事だろ。これはうちのギルドの問題だから、
気にすることないぞ﹂
﹁何を言ってるんだい、公爵が何か企みごとをしているというなら、
騎士団長の僕ができることもあるはずじゃないか。大丈夫だよ、君
の意向は尊重するし、手足として便利に使ってくれていい﹂
﹁最強の駒は、最後まで動かないくらいがちょうどいいんだがな﹂
コーディは笑うだけで、俺の皮肉はまったく通じなかった。言い
分には一理あるので、これ以上は言わずにおく。コーディはまだラ
ムの残っているグラスを口に運びながら、表のカウンターで話して
いるヴェルレーヌたちの会話に耳を澄ませる。
﹁それで⋮⋮ゼビアス・ヴィンスブルクトは、どのような企みごと
をしているのです?﹂
﹁ゼビアス様は、息子であるジャン様に当主の座を譲りました。し
かし、実質上はヴィンスブルクト家の実権を握ったまま、ある目的
のために動き続けていた⋮⋮それを、私は知ってしまったんです﹂
キルシュの声だけで顔は見えないが、並々ならぬ緊張が伝わる。
それでも涼しい顔をしているあたり、コーディの肝の据わり方には
改めて感心させられる。まあ、彼の実力を考えれば、ほぼ恐れるも
のなど無いというのは当然のことだ。
﹁ヴィンスブルクト公爵家は、我が国と西の国境を面する、ベルベ
キア共和国と結び、我が国を転覆させようとしているのです﹂
﹁⋮⋮つまり、謀反を起こそうとしている。そういうことなのです
ね?﹂
﹁はい⋮⋮何を世迷言を言っているのかと思われることは、覚悟し
ています。しかし、私は証拠を持っています。公爵がベルベキアと
237
密通する際、密使に手紙を運ばせているのですが、その密使がこと
もあろうに、盗賊に襲われて手紙を奪われてしまったのです﹂
運が悪かったのか、それとも良かったのか。アルベイン王国の平
和を望む立場としては、後者だととらえるべきだろう。
乱世を望まないからこそ、俺は魔王討伐隊に参加した。そうしな
くても好きなことをやって生きていけたかもしれないが、人間の暮
らしを魔物が日常的に脅かす状況は変えておきたかった。それも、
俺が思う通りに気楽に生きていきたいからというだけだが。
﹁その手紙を見た盗賊が、ヴィンスブルクト公爵家を脅迫した⋮⋮
ということですか﹂
﹁お察しの通りです。しかし手紙はヴィンスブルクト家の人間しか
読めない暗号を使って記されていましたから、盗賊たちは密使を拷
問して、彼がヴィンスブルクト家とベルベキアの間を繋いでいたこ
とを聞き出したのです。私は盗賊たちから手紙を買い取るため、ヴ
ィンスブルクト様の命を受けて、部隊を率いて取り引きを行う場所
に向かいました⋮⋮しかし⋮⋮﹂
部隊という時点で、取り引きの後に盗賊を逃がすつもりなど無か
ったのだと分かる。疑い深い人間にはなりたくないものだが、穏や
かな展開を想像して聞いていられるような話ではない。
﹁⋮⋮盗賊たちを、逃がすなと。あるいは、皆殺しにせよ、と命令
されたのですね﹂
﹁⋮⋮一枚目の命令書には、ただ手紙を回収するようにと書いてあ
りました。しかし、取り引きの直前に開けるように命じられた二枚
目には⋮⋮盗賊たちを、殺せと⋮⋮﹂
﹁あなたは、その命令に従ったのですか?﹂
238
キルシュはその問いに、すぐに答えなかった。しかし震える声で
彼女は言う。
﹁⋮⋮脅迫を行ったことは許せることではありません。私たちは盗
賊と交戦しましたが、一人残らず殺すということはできなかった。
異常を感じた私は、手紙の封緘を剥がさないままに、﹃透視﹄の技
能で中の文字を読み取りました。それが許されないことであるとは
分かっていました﹂
透視︱︱薄い紙程度ならば透かして見ることのできるその技術は、
学ぼうと思えば盗賊ギルドに行けば学ぶことができる。俺の場合は、
別の方法で透視に近いことができるので必要ないが。
しかし盗賊ギルドは冒険者ギルドと違い、技能を学ぶだけでも本
来は罰せられる。盗賊ギルドに所属している者には、当然のことだ
が罪を犯している者が多いからだ。技能の教官も例外ではなく、過
去に大きな盗みをしていたりすることは珍しくない。
そこまでしてでも、キルシュはヴィンスブルクトに仕えていた。
その果てに、汚れ仕事として任されたのが、脅迫してきた盗賊の抹
殺だったというわけだ。
盗賊たちの行為は罰せられるべきだが、密使を使って隣国と通じ
ていた事実は、看過できるものではない。キルシュは自分の身の危
険を承知で、告発者となってこのギルドに来た。
﹁ベルベキア共和国は、この国の領土を奪おうとしているのですか
? 公爵家と通じて﹂
﹁⋮⋮はい。ジャン様がマナリナ王女と結婚を急いだのは、王家の
239
血筋を持つ者を妻とすることで、統治者としての正当性を主張する
ためです﹂
ベルベキアの力を借り、王位を簒奪する。ジャン・ヴィンスブル
クトはそこまでのことを考えて、マナリナに結婚を迫っていた。
あの婚約破棄がなければ、今頃すでにベルベキアが攻め入ってき
ていたかもしれないと思うと、いい気分はしない。魔物と同じか、
それ以上に恐ろしいのは、やはり昔も今も人間なのか。
﹁⋮⋮ディック。久しぶりだね、そんな顔をするのは﹂
﹁そんな顔? ⋮⋮まあ、誤魔化しても無駄か。酒が妙なところに
回りそうな話で、悪酔いしそうだ﹂
﹁僕も同じ気持ちだよ。久しぶりに、血が熱くなってしまった。や
はり君のところに来ると、僕は勇者だったときの気持ちを忘れずに
いられるみたいだ﹂
﹁国のピンチを喜ぶのは、立場上まずいって言ってなかったか?﹂
﹁そんなことも言ったね。けれどピンチというのは、未然に防ぐこ
とができれば、誰も危機だったと気づくことすらない。ディックは
そういうやり方が好きなんだろう?﹂
目立たないという意味では、それがベストだ。問題が起きたこと
にも気づかないままに解決していたら、それは問題にすらならない。
今回のケースで言えば、国民が戦争になりかけたことすら知らず、
ヴィンスブルクト家が原因不明の爵位剥奪処分となり、三大公爵家
のメンツが入れ替わるということになるか。国王からの処遇次第で
はあるが。
﹁僕もそのやり方を習わせてもらうよ⋮⋮と言いたいけど、僕の﹃
240
光剣﹄では目立ちすぎるのかな﹂
﹁まあそうだな。でも適材適所ってやつだ。今回、お前のことを頼
る可能性はかなり高まってきてるぞ﹂
﹁絶対に頼るとは言ってくれないんだね。じゃあ、楽しみにして待
っているよ﹂
﹁悪いな。こんな言い方もなんだが、お前は間違いなく最後の駒な
んだよ。簡単に動かすべきじゃない﹂
コーディのグラスは空になっていたが、彼はもう酒を飲むことは
ない。魔法で酒を抜くことに遠慮があるのならば、と俺は代わりの
飲み物を出した。﹃潤しの杏﹄は、男にも十分効能があり、飲んだ
日の夜の安眠を約束してくれる。
﹁⋮⋮これ、女の人が飲むものじゃないのかい?﹂
﹁どっちでも効能は変わらない。女の方が特に効くってことはある
けど、男でもそれなりに効く。俺が、自分で飲んで試してるからな﹂
﹁それなら安心だ。ミラルカたちに飲ませてあげたら⋮⋮いや、あ
まり気持ちを鎮めすぎるのも良くないか﹂
潤しの杏を炭酸水で割ったものを作り、コーディに出す。そうし
ている間に、ヴェルレーヌとキルシュの話は佳境にさしかかってい
た。
﹁つまり、キルシュ様が透視した手紙は、王女との結婚は成らず、
ということをベルベキア側に伝えるものだったのですね﹂
﹁はい。ベルベキアは、すでにゼビアス様の手配によって、この国
に密かに攻め入る準備をしていました。我が国とベルベキアの国境
は、南側の平野部には砦と城壁が設けられ、侵入への備えがされて
います。しかし、北部は険しい山脈となっており、そこを自然の防
壁としているため、警戒の目が行き届いていません﹂
241
﹁⋮⋮その山脈を通る、秘密の経路をベルベキアに教え、軍を招き
入れるということですか。確かにそうされれば、攻め入られたこと
にアルベイン側が気づいたときには、王都決戦ということになりか
ねませんね﹂
ヴェルレーヌは魔王として戦争を経験しているため、キルシュの
話を聞いて、状況の危険さをすぐに理解したようだった。
﹁その山脈一帯の守備を任されているのは、ヴィンスブルクト家な
のです⋮⋮その立場を利用し、敵と通じるなどと⋮⋮﹂
﹁あまりにも、自分本位な考えですね。キルシュ様、よくこのギル
ドに来られました。他のギルドに相談していたら、公爵家に把握さ
れ、あなたは捕縛されていたかもしれません﹂
﹁⋮⋮はい。私の部下は、盗賊たちの一部を逃がしたことを黙って
いますが、それもいつまで続くかどうか⋮⋮ゼビアス様は、部下の
失敗に大変厳しい方です。ことが露見すれば、私は放逐されるか、
もしくは⋮⋮﹂
気丈に話していたキルシュが言葉に詰まる。無理もない、命の危
険を感じてここに助けを求めてきたのだから。
﹁自分の身可愛さに、仕えた家を裏切るなどと、してはならないこ
とだと分かっています。しかし⋮⋮﹂
﹁ゼビアス卿の企みが成ってしまえば、王都の民に被害が及びます。
あなたの決意は尊いものです。それを密告だと後ろ指を差すような
者を、﹃銀の水瓶亭﹄は決して許しはしません﹂
キルシュがヴェルレーヌの正体を知ったら、その正義感に満ちた
発言をどう思うだろう︱︱元魔王であるからこそ、家臣が王を裏切
るという行為に義憤を覚えているのか。
242
しかし﹃銀の水瓶亭﹄を正義の集団みたいに言われてしまうと、
若干身体がかゆくなる。コーディはそんな俺を見て笑っていた。
ヴェルレーヌはいったんキルシュを待たせて、俺たちのいる厨房
にやってくる。俺が頷いてみせると、ヴェルレーヌは嬉しそうに笑
い、再び表に出て行った。
この依頼を受けるか否か︱︱そんなことは、迷うべきですらない。
貿易でやってくるくらいならさしたる問題でもないが、土足で王
都の近くまでやってこられるとなると、話は別だ。
俺はただ、穏やかに暮らしたいだけだ。毎日酒を飲んで、それな
りに仕事をして、仲間たちとたわいのないことを話して笑う、それ
だけでいい。
そのために何をすればいいか?
決まっている、これまで通りだ。コーディの言う通りに、危機を
未然に防ぐ︱︱もしくは、目立つことに問題のない立場の誰かに目
立ってもらい、俺は暗躍する。 ﹁⋮⋮やっと僕の力を頼りにしてくれる気になったのかい?﹂
﹁ああ。﹃仮面の救い手﹄にはまだ入れられないが、魂だけは分け
てやる。明日、また店に来てくれ﹂
﹁約束したよ。それと分かれば、あとは君に任せることにしよう。
僕は難しい話が苦手なんだ﹂
コーディはこういうやつでもある︱︱悪い奴を倒すということに
かけては、熱意は人並み外れているが、その裏にある事情だとかを
243
考えるのは苦手だ。簡潔明瞭でないと嫌がる、そういうところがあ
る。
裏口からコーディを送り出したあと、俺は最後まで話を聞き届け
る。ヴェルレーヌは契約書を出し、キルシュと報酬の交渉をしてい
るところだった。
﹁依頼内容を考えると、個人で報酬をご用意されるのは難しい規模
だということになりますが⋮⋮それについては、依頼達成の後に、
本ギルドにもたらされる利益などを算定することにいたしましょう。
このギルドが存在するのは、アルベイン王国からギルドとして認可
されているからです。その認可を継続いただくという意味でも、報
酬としての意味合いは大きいでしょう﹂
﹁し、しかし⋮⋮本来ならば、ギルド一つが背負うべき問題ではな
く、それこそ国家全体の⋮⋮﹂
﹁当ギルドの依頼達成率は、依頼者様のお気持ちに添えない特殊な
場合を除いて、例外なく十割です。それは依頼の規模に比例せずに
同じであり続けます。ご信用にあたるだけの実績を、形としてお見
せできないことが残念ですが、あえて断定いたしましょう。この依
頼を達成できるのは、私どもだけです。そして、依頼を受けるだけ
の十分な理由がある。契約を結ぶには、その条件が揃っていれば十
分かと存じます﹂
ヴェルレーヌの言葉に、キルシュはただ聞き入っていた。
本当に俺たちのギルドが、依頼を達成できるのか︱︱達成できる
ギルドなどあるのか。そう思うことは当然で、藁にもすがる思いで
ここに辿りついても、確信など持てはしないだろう。
それならば、結果を見せてやるだけだ。
244
キルシュが抱えてきた問題を、問題として表出する前に、影なが
ら解決してやる。これまでそうしてきたのと同じように。
依頼の内容を話すうちに再びキルシュは緊張し、張りつめた空気
が続いていた⋮⋮しかし。
﹁⋮⋮私にできる限りのことで、あなたがたに報いたい。何度生ま
れ変わって人生を捧げても、報酬として見合わないことは分かって
います﹂
﹁命はそれほど価値の低いものではありません。何よりも尊いとは
申しませんが。私から個人的に報酬をお支払いいただくとすれば、
キルシュ様がその選択に誇りを持つこと、それで報酬に足りると言
えましょう﹂
﹁っ⋮⋮く⋮⋮うぅぅっ⋮⋮﹂
何を立派なことを言っているんだ、と思いはするが、正直を言っ
て、器の大きさを見せつけられた気分だった。
俺はヴェルレーヌほど上手いことは言えないだろう。だからこそ
店主役を任せているわけだが︱︱あれほどの風格を見せられたら、
どっちがギルドマスターだか分からなくなりそうだ。
キルシュはしばらく泣いていたが、ヴェルレーヌの差し出したハ
ンカチで涙を拭うと顔を上げた。
厨房から見た彼女の顔は晴れやかだった。まだ依頼を受けるか否
かという段階だが、そんなことは関係ない、泣いたことで抱えてい
たものが楽になったのだろう。
﹁⋮⋮どうか、お願いします。この国を救い、ヴィンスブルクト家
245
の暴走を止めてください﹂
﹁かしこまりました、お客様﹂
キルシュが契約書にサインをする。これで﹃銀の水瓶亭﹄は、明
日から動き始められる。
彼女の話から浮かび上がった、いくつもの問題。俺はそれに順序
をつけ、解決していくことにした。
ヴィンスブルクトが知っている、国境を越える秘密の経路。まず
は、その穴を塞ぐ︱︱そうして、ベルベキアが何の苦労もなく侵入
してくるという事態を防ぎ、敵の手を遅らせる。
同時にするべきことは、ゼビアスとジャンの親子の企みが、キル
シュの把握しているものですべてなのかを調べることだ。
ギルド員では少し荷が重い仕事もある。やはり、彼女たちに頼ら
なければならないようだ。
最後の最後には、俺が動く必要もあるかもしれないが。基本的に
は、この酒場から動くことなく、全てを終わらせたいものだ︱︱そ
んなことを考えながら、俺は契約を終えたキルシュが裏口から出て
いくのを、物陰から気配を消して見送った。
246
第23話 魔法大学と若き女教授
キルシュについては、身辺の安全を保障するために護衛をつける
ことにした。俺のギルドには隠密警護系の任務も持ち込まれるため、
専門のギルド員が何人かいる。情報収集を担当しているリーザもそ
の一人だ。
契約書を店の二階にある事務室の金庫に入れ、ヴェルレーヌはそ
の場でエプロンを外し始める。事務室が彼女の私室を兼ねているの
で無理もないが、俺も見ている前で大胆極まりない。
﹁⋮⋮む? エプロンを外しただけだぞ。まさか、ご主人様はこの
まま見ているから脱げと命令してくれるつもりか? それはなかな
か興味深い趣向だな﹂
﹁まあお願いしたいのは山々なんだが、今はそれより仕事の話をし
ておこうと思ってな﹂
﹁冷静きわまりないな⋮⋮私がダークエルフなので、女としての魅
力を感じないのか。人間の男は白いエルフの方が好みだというが、
本質的には元は同じ種族なのだぞ。暗黒神を崇めるか、光明神を崇
めるかの違いで、肌の色に差異が生じたのだ﹂
﹁そういう理由があったらしいとは知ってるけどな。ダークエルフ
本人から聞かされると、信じざるをえない﹂
﹁ふふっ⋮⋮それこそ、神話の時代の話だからな。それが今の私た
ちの種族に影響を与えているというのは、正直を言うと私たち自身
にも、あまり実感はない﹂
ヴェルレーヌは言いながらエプロンを畳んで机に置くと、次にヘ
ッドドレスを外そうとする。
247
﹁⋮⋮そうして見てくれているということは、やはり愛でていいと
いうことなのだな? 私は見ていたぞ、今日はまだ酒を抜いていな
いので、ご主人様は少し気分が良いようだな﹂
﹁まあ俺も、毎回魔法で解毒してるわけじゃないからな﹂
白いエプロンを外すと、下には黒を基調としたドレスだけになっ
て、それもまたなかなか似合っている。白いエルフの姿のヴェルレ
ーヌは言うなれば清楚だが、このドレスはダークエルフの姿でも似
合うことだろう。
﹁しかし、なかなか規模の大きい依頼が入ったな。国家の存亡を賭
けた依頼が、あっさり持ち込まれてきてしまうとは。ご主人様の仕
込みのたまものだな﹂
﹁普通のギルドじゃないと知ってる人物が増えすぎても、それは目
立ってるってことだからな⋮⋮まあ、この仕事が終わったらほとぼ
りを冷ましたいもんだ﹂
﹁ベルベキア軍は今にも兵を動かしそうな状況だと思えるが、それ
についてはどうする? もし敵軍がすでに動いているようなら、多
少は派手な手を打つ必要が出てくるのではないか。私が動くという
のもいいが、ご主人様ならもっと適切な手を思いついていそうだな﹂
﹁ヴェルレーヌは戦いから退いて結構長いから、無理はさせられな
いな。まあ、代わりに打つ手は確かに派手だし、まず要請する相手
の難易度が高いんだが﹂
名前を出さなくても、ヴェルレーヌは誰のことを言っているか分
かったようで苦笑する。
﹁あの娘か⋮⋮我が国でもさんざん好き勝手してくれたものだ。あ
の娘のおかげで新たな湖ができてしまい、観光名所になってしまっ
248
たぞ。他にもいくつか、変動した地形が今でもそのままになってい
るな。﹃歩く天変地異﹄とでも、通り名を改名してはどうだ?﹂
﹁あいつは手加減を知らないからな⋮⋮なんでも、それが美学なん
だそうだ﹂
﹁美学か⋮⋮私はそういう拘りを持つ者は嫌いではないぞ。我が道
を往く、それでこそ人生ではないか﹂
魔族でも魔生とは言わないんだな、と無粋なことは言わず、俺は
ヴェルレーヌに心中で同意しておいた。
﹁もし話を聞いてもらえなければ、また酒場に連れてくるがいい。
私も接待に協力してやろう﹂
﹁ああ、頼む。できるだけ急ぐ必要があるから、素直に聞いてくれ
るといいんだが﹂
今ごろ、﹃歩く天変地異﹄はくしゃみでもしているんじゃないだ
ろうか。そんなことを考えつつ、俺は事務室を後にしようとする。
﹁ご主人様は、コーディが結婚するまでは自分も結婚しないなどと、
友情の誓いでも立てているのか?﹂
﹁いや、そんなことはないけど。というか、エプロンドレスのエプ
ロンってのは、なぜ外すとこうも魅力的なんだろうな﹂
﹁っ⋮⋮そ、そう思っているのなら、態度に出してくれてもいいで
はないか。全く、人が悪い。ご主人様の方が、よほど魔族らしいぞ﹂
﹁あまり人を堂々と誘惑するからだ。調子に乗ってると、酔ってる
俺は何をするか分からないぞ﹂
﹁⋮⋮やはりご主人様は一筋縄ではいかない。ますます燃えてくる
ではないか⋮⋮だが、あまり私を侮らないほうがいいぞ。これでも、
元魔王なのだからな﹂
249
全く侮ってはいないし、いずれヴェルレーヌに護符を返してやる
ことも考えなければならない。
しかし店主としての優秀ぶりを毎日目にしていると、魔王国に返
すのは惜しいと思い始めていることも間違いなかった。
◆◇◆
翌日の朝、店をヴェルレーヌに任せ、俺は午前中に魔法大学に向
かった。
王都の北東部にある魔法大学前まで乗合馬車で向かう。敷地はか
なり広く、前庭から研究室棟まで5分ほど歩かなければならないほ
どだ。生徒たちが野外で食事を取っていたり、魔法の練習をしてい
たりして、キャンパスは活気に満ちている。
研究室棟の入り口に総合受付があり、そこに受付嬢がいた。さす
がに顔を隠していると不審に思われるので、ここは普通に正体を隠
さず近づく。俺がディックだと名乗っても、すぐ魔王討伐隊の一員
だと気が付く人間はそういない、それはこの五年間で存在感を消し
てきたがゆえの成果だ。しかし一応、フェイクを入れて名乗りたく
なるのが俺の性分でもある。
﹁こんにちは、こちらでご案内できることはございますか?﹂
帽子をかぶった受付嬢が話しかけてくる。やたらと胸を強調する
形の制服で、そちらにどうしても目が行きそうになる︱︱ミラルカ
といい、魔法大学の関係者は胸に栄養が行くのだろうか。
快活な笑顔で、幼めの容姿に見えるが、ここで働いているという
ことは、18の俺よりは年上だろう。
250
﹁デューク・ソルバーという者だ。攻撃魔法学科I類のミラルカ教
授の研究室に伺いたいんだが﹂
﹁デューク様ですね。ミラルカ教授でしたら、さきほど図書館の方
に出向かれましたが、こちらでお待ちになりますか?﹂
﹁いや、直接行かせてもらうよ。教えてくれて感謝する﹂
﹁いえ、こちらこそ。ミラルカ様には男性のお客様が沢山いらっし
ゃいますが、だいたいは門前払いするようにお願いされています﹂
﹁そうなのか⋮⋮あれ。じゃあ、なんで俺を案内してくれたんだ?﹂
﹁今日あたり、黒髪の若い男性が訪ねてきて、デのつく名前を名乗
られたら、案内すればいいとおっしゃっていましたので﹂
﹁案内してほしい﹂ではなく﹁すればいい﹂というのが、何とも
ミラルカが言いそうなことだった。そしてデのつく名前って、偶然
他人とかぶったらどうするつもりだったのか。
﹁声が見た目より低めだともおっしゃっていたので、間違いないか
と⋮⋮そうですよね?﹂
﹁まあ、たぶん俺のことだな。ミラルカとまた会ったら言っておい
てくれ、人の個人情報をいたずらに流さないでくれとな﹂
﹁かしこまりました。私とミラルカ教授のあいだの秘密にしておき
ますね﹂
受付嬢はにっこりと笑って会釈をする。それに追随して、大きな
胸部が残像を残して揺れる︱︱そこにつけられた名札には、﹃ポロ
ン・マーコット﹄と書かれていた。
﹁関係ない話で悪いが、男子学生に意味もなく話しかけられたりし
ないか?﹂
﹁私のお仕事は、外部の方のご案内をすることですから。そういっ
たお声がけは、お断りしています﹂
251
なるほど、じゃあ俺は外部の人間だからまた案内してもらえるな
︱︱と、ナンパしている場合ではない。ミラルカに知れたら致命的
なので、これ以上の軽口は慎むことにした。
◆◇◆
魔法大学の図書館に入り、司書からミラルカが向かった先を聞い
て、そちらに向かう。ミラルカは資料として、攻撃魔法の資料を探
しに来たそうで、図書館二階の東側書架にいるとのことだった。
攻撃魔法といっても精霊の力を借りるもの、神の力を借りるもの、
自分の中の魔力を引き出して世界の理に干渉するものといろいろあ
る。俺の魔法は人から学んだものを独学で発展させたものだが、基
礎的な部分は魔力で世界に干渉する種別に分類される。
二階に上がり、立ち並ぶ書架の蔵書数に感心しながら歩いている
と、ようやく目的の姿を見つけた。
ミラルカは高い位置にある本を見つめている。そして背伸びをし
て取ろうとするが、あと少しというところで、指先が届かない。
﹁なぜこんな高いところに本を入れるのかしら。教授の手が届かな
いところには、本を置かないべきよ﹂
届かなかったことがよほど悔しかったのか、ミラルカは誰もいな
いと思って文句を言う。
俺のことに気づいていない彼女に近づき、俺はミラルカが取ろう
としていたとおぼしき本を引き抜くと、彼女に差し出した。
252
﹁取ろうとしてたのはこれか?﹂
﹁っ⋮⋮ディ、ディック。いつから見ていたの?﹂
﹁本を取ろうとしてたとこからだけど。これじゃないのか?﹂
﹁⋮⋮まあ、これだと言えなくもないわね﹂
ミラルカは俺から本を受け取ると、ぱらぱらと目を通す。やはり、
この本で良いらしい。
﹁ちょっと私より背が高いからといって、颯爽と本を取ってくれて
も、それほど見直したりはしないわよ﹂
﹁じゃあ、今度からは踏み台を持ってきてやる。それとも、肩車し
てやろうか?﹂
﹁っ⋮⋮ちょ、調子に乗らないで。あなたが自分で踏み台になりな
さい。乗るときは靴くらいは脱いであげるわ﹂
ミラルカはきゃんきゃんと噛みついてくるが、慣れている俺には
そこまでの口撃でもない。
魔法大学の若き教授︱︱といっても、16歳なので、普通に学生
に見える。受付嬢もそうだったが、学内では学位を示す帽子をかぶ
っており、それがなかなか似合っていた。
﹁⋮⋮そのうち来そうな気はしていたけれど。私に何か頼み事でも
あるの?﹂
﹁ああ。ミラルカに、仮面の魔法使いとして﹁嫌よ﹂待て、話を聞
いてくれ﹂
全部言う前に遮られる。ミラルカは金色の髪を撫でつけつつ、不
機嫌そうに本を待ったまま腕を組んだ。
253
﹁あれはユマのために、例外的にしていることよ。そうそうやすや
すと仮面をつけると思わないでくれるかしら﹂
﹁それは俺も重々分かってるよ。ミラルカは、本当に友達思いだよ
な﹂
﹁お、おだてても何も出ないわよ。アイリーンだけをユマの保護者
につけておくのは、少し危なっかしいと思っただけで、大したこと
じゃないわ﹂
一番危なっかしいのはミラルカなのだが、そう言いたいところを
ぐっとこらえる。
彼女の力を借りることができれば、それで一段階目の問題は解決
する︱︱豪快な形で。
﹁⋮⋮本を取ってくれたから、少しくらいは検討してあげる。まだ
資料を集めなくちゃいけないから、あなたが私の代わりに取ってち
ょうだい。強化魔法を使えば、50冊くらいは運べるでしょう?﹂
﹁バランスを取るのが大変そうだが、やってみるか。ミラルカ、わ
りと普通に教授らしいことしてるんだな﹂
﹁ここの本を読んでも私の魔法の参考にはならないけど、教え子た
ちには、理論を教えないと魔法が身につけられないもの⋮⋮あ。あ
の青い背表紙の本を取って。その二つ左隣の本もお願い﹂
ミラルカは遠慮なく、次々と俺に本を取るように申し付けてくる。
しかし、これで彼女が話を聞いてくれそうなら安いものだろう。
そうして二十冊ほど取ったところで、次の本を申し付けられるか
と思いきや︱︱ミラルカがふと、柔らかい笑顔を見せて言った。
﹁今日あなたが来てくれて良かったわ。一人で運ぶのは大変だもの。
ありがとう、ディック﹂
254
﹁っ⋮⋮そ、そうか。そいつは何よりだ﹂
﹁⋮⋮? 何を変な顔をしているの? 私の顔に何かついている?﹂
﹁世間一般的に見て、きれいな目と鼻と口がついてるな﹂
﹁そんな当たり前のことを今さら言われてもね。あなたの顔には、
世間人並みの目と鼻と口がついているわよ﹂
まずミラルカが礼を言ったことにも驚かされたが︱︱こうして彼
女と一緒に資料本を集めていると、何ともいえず、楽しそうに見え
るのは気のせいだろうか。
﹁ああ、そういえば。どうせディックのことだから、受付のポロン
の胸をまじまじ見たんでしょう? いやらしい。気を付けるように
ね、って言っておいたから、次からは警戒されるわよ﹂
そして一瞬で気のせいだな、と思い直した。デューク・ソルバー
がこの大学内限定で、女性からの警戒対象として名前が広まること
は、何とかして回避したいものだ。ティミスの耳に入りでもしたら、
少々失望させてしまう気がする。
そして俺は自分の身長の二倍以上に積みあがった本を図書館司書
に渡し、目を剥いて驚かれながら、貸出許可を受けた本を再び担い
でミラルカの研究室に向かうのだった。意味もなく目立っている気
がするが、力だけがとりえだからと誤魔化しておいた。
255
第24話 研究室と空飛ぶ仮面
ミラルカの研究室にやってきて、空いている書棚に資料本を入れ
る。そのうちに、ミラルカは一冊のノートを持ってきて俺に見せて
くれた。
﹁マナリナの研究ノートよ。もうすぐ魔法の習得ができそうだから、
ディックにも見せたいと言っていたわ﹂
﹁攻撃魔法の勉強をしてるのか。精霊魔術は使ったことないが、簡
単に覚えられるものなのか?﹂
﹁教本通りで覚えられるから、生徒たちのほとんどは精霊魔術を専
攻しているわね。神聖魔法は、この国ではアルベイン神教の教義を
学ばないと覚えられないから、僧侶しか習得できないわ。他の神の
力を借りる魔法は、この国ではそれほど力を発揮できないの﹂
ミラルカの話を聞いていると、何か講義でも受けているような気
分になる。
魔法大学は生涯いつでも入学できることになっているから、俺が
今から通うというのも無理ではない。学生としての生活に、少し興
味が湧いてしまった。
まあ今から勉強というのもガラじゃないので、興味を持つだけに
留めておく。ミラルカの意外な先生ぶりに、彼女を﹁先生﹂と呼ん
でみたくなってしまっただけだ。
﹁ミラルカのゼミには、他にどういう生徒がいるんだ?﹂
﹁私のゼミには、マナリナとあと数名生徒がいるわ﹂
﹁へえ⋮⋮10人くらい教えるのかと思ったけど、そうでもないの
256
か﹂
﹁できるだけ、自分の研究に時間を使いたいもの。私の研究の性質
上、あまり大学にはいられないしね﹂
攻撃魔法学科Ⅰ類の教授の中で、ミラルカは明らかに異端と言え
るだろう。
ミラルカの﹃空間展開魔法﹄は、他の人間に真似ができるもので
はない。通常ならば決まった詠唱句を唱え、精霊や神の許可を得て、
魔法を行使するのだが、彼女の魔法はそういった手続きを必要とし
ない。
魔力によって魔法陣を編み、それを空間に展開し、世界に直接干
渉を行う。その魔法効果の及ぶ範囲は、ミラルカが魔法陣を展開す
ることができる範囲であり、王都全域にも及ぶ。
そしてミラルカの展開する魔法陣には無数の種類があり、それぞ
れ効果が違う。そのすべてが破壊、殲滅を目的とするもので、彼女
は攻撃魔法以外を一切使えない。
魔王討伐隊に志願した当時の冒険者強度は、102952。その
うちのほとんどが、攻撃魔法の評価だった。彼女は実力を示すため
に、王都から遠く離れた荒野に向かい、そこで﹃広域殲滅型百五十
二式・振動破砕陣﹄と呼ばれる魔法陣を使い、危険な魔獣の巣食う
洞窟を埋め立ててしまった。
SSSランクの冒険者とは、もはや人間ではない。俺は自分のこ
とを棚に上げてそう思ったものだった。
初めはそんなミラルカを怒らせないようにと細心の注意を払った
ものだが、その力の大きさのわりに、彼女は理性的でもあった。魔
法陣を展開する範囲を制御し、必要な相手だけに必要な打撃を与え
257
ることも、彼女の美学のひとつだ。最も美しい殲滅魔法とは、最大
にして最高の破壊をするものだとも言うが。
﹁それで、私に何を頼みたいの?﹂
﹁ああ、そうだったな。大学のことも聞いてみたいが、まずはその
話だ﹂
俺はヴィンスブルクト家の従者であるキルシュが、主人の謀反を
防いでほしいと依頼してきたこと、これから対処するべきことにつ
いて説明を始めた。
話しながら、手土産に持ってきた、南方国の樹海で採れる﹃神秘
の葡萄﹄を絞ったジュースと、﹃知恵の豆﹄の粉から作ったマーブ
ルクッキーを用意する。ジュースには精神集中効果があり、知恵の
豆は記憶力を増強する効果がある。どちらも必要ないほどミラルカ
の基礎能力は高いが、彼女の口には合ったようで、俺の話を聞きな
がらいくらか口に運んでいた。
﹁このクッキーは、まさか魔王が焼いたものじゃないでしょうね?
別にいいけれど﹂
﹁はは⋮⋮俺が焼いたよ。菓子を作るのは苦手なんだがな﹂
﹁あなたの苦手は、私から見ると普通よりは上だということは、そ
ろそろ自覚しておくべきね。過ぎた謙遜は、逆に傲慢と映るわよ﹂
﹁肝に銘じとくよ。自分の性格を、俺はそれほど評価してないんで
ね﹂
﹁⋮⋮まあ、そういうところがいいという物好きもいるけれど。マ
ナリナは、その代表ね。あなたがコーディの前でいいかっこうをす
るからよ﹂
そう言いつつはむ、とクッキーを口に運ぶ。口に粉がつくからか、
258
口元を隠してもぐもぐと食べる姿が、いつも大人びている彼女にし
ては、やたらとあどけなく見える。
﹁そのあたりで売っているクッキーとは比較にならないわ。どうし
てくれるの? 大学の購買部でお菓子を買っても、これでは味気な
く感じてしまうわ﹂
﹁それほどのものでもないと思うが、取りに来てくれればいつでも
出すぞ。だいたい銀貨5枚だな﹂
﹁⋮⋮クッキーの相場としては高いけれど、材料と味を考えると妥
当ね。あなた、お菓子屋さんもやろうと思えばできるんじゃない?
お店を出すなら出資してもいいわよ﹂
﹁遠慮しとくよ。酒場の土産ならいいとしても、専門の菓子屋には
かなわないさ﹂
﹁⋮⋮そんなこともないと思うのだけど。この葡萄のジュースも美
味しいわね、そつがなくて腹立たしいわ﹂
機嫌が良さそうに﹁腹立たしい﹂と言う人物を、俺は他に知らな
い︱︱と、それはさておき。
﹁それで、私がするべきことだけど。ヴィンスブルクトがベルベキ
ア軍を誘導するための経路を、魔法を使って塞いでほしいというこ
とね﹂
﹁話が早いな。ミラルカの力を借りるのは大人げない気もするが、
それが一番いい手だと思うんだ﹂
﹁ひとつ言っておくけど、敵軍を私の魔法で巻き込んで大量虐殺⋮
⋮というのは、私としても避けたいところなの。私だって、なんで
も関係なく壊したいわけじゃないのよ﹂
﹁そうだな。だから、今すぐにでも作戦を決行したいところなんだ
が⋮⋮これから頼めるか?﹂
259
いきなり研究室を留守にして、西の国境︱︱それも山中まで来て
くれなどと言って、快諾してくれるわけもない。
しかしミラルカは俺を無言で見つめ、ジュースをくい、と飲んで
グラスを置き、そして言った。
﹁あなたは私に依頼を持ち込んだ、ということでいいのよね。それ
なら一つ条件を出すわ﹂
﹁ああ、何でも言ってくれ。よほど無茶じゃなければ、だいたいの
報酬なら支払える﹂
﹁お金を貰って殲滅魔法を使うのは私の美学に反するから、これか
ら時々、私の研究室に差し入れを持ってきて。あなたの店のメニュ
ーなら何でもいいわ、今のところ口に合わなかったものはないから﹂
﹁大学の常連になって、顔を覚えられるのは困るんだがな⋮⋮ああ
いや、分かった。何回くらい持ってくればいいんだ? それは﹂
﹁私がいいと言うまで⋮⋮と言いたいけれど、あなたの気持ち次第
でいいわ。じゃあ、さっそく行きましょうか﹂
ミラルカはあっさりと言って、外出の準備を始める。
今日か明日に出発できれば御の字だと思っていたが、即行動を起
こしてくれるとは。
﹁⋮⋮なに? 準備が整っていないなんて言うつもり?﹂
﹁いや、正直を言ってかなりありがたい。恩に着るよ﹂
﹁私は無差別に殺戮をするような破壊は好まないというだけよ。早
く済ませてしまいましょう、ベルベキア軍が経路を抜けてしまう前
に塞いでしまわないと。その辺りに、人が住んでいたりはしない?
西方山脈には、山岳民族がいると聞いたけど﹂
﹁ヴィンスブルクトがベルベキアを通すときに邪魔をさせないため
に、山岳民族も経路に近づかないようにしてると思うが⋮⋮辺り一
260
帯を見ることはできるから、気付かずに吹き飛ばすってことはない
さ﹂
﹁辺り一帯⋮⋮山の中をどうやって見渡すというの? そういう魔
法があるということ?﹂
強化魔法で視界を広げることもできるし、﹃スモールスピリット﹄
を偵察に出すこともできる。しかし、今回はスモールスピリットは
別の目的に使うので、山岳地帯の広い範囲を見渡すには別の方法を
使う。 そう、徒歩で見通せない地形でも、空から見下ろせばいい。
◆◇◆
王都の西にある、火竜の放牧場。そこではドラゴンマスターの老
人・シュラが、火竜たちの世話をしている。
俺は馬を借り、魔法大学からミラルカを乗せて、二時間ほどかけ
てシュラ老のもとを訪問した。
﹁おお、ディック殿。火竜の様子を見に来られたのですか? それ
とも、例の件ですかな﹂
繁殖期はもう少し続くので、火竜の母子、そして今は父親の竜も
そろっている。よちよち歩きだった火竜はかなり大きくなって、抱
っこはできなくなってしまったが、ミラルカは火竜の子供の頭を撫
で、餌をやっていた。
﹁よしよし、いい子ね。お父さんとお母さんにちょっと似てきたか
しら﹂
261
大きくなってもまだ鳴き声はピィピィという愛らしい声だ。火竜
たちはミラルカと遊んだことを覚えていて、よく懐いていた。
﹁幼竜たちについてもですが、このじいの言うことを良く聞いてく
れております。息子も孫も手元を離れて久しいものですから、可愛
くてなりませんでな﹂
﹁楽しんで仕事をしてもらえてるなら何よりだ。それで、火竜を騎
乗用に調教してもらうって話だが⋮⋮﹂
﹁ええ、父親の竜に﹃竜笛﹄を使い、わしが許した相手に従うよう
に教えてあります。鞍をつければ、二人までは問題なく乗れますで
な。あちらのお嬢様と、空の散歩に出られますか?﹂
﹁っ⋮⋮まさかディック、あなた、この火竜に私も一緒に乗せて行
くっていうの? あなた、ドラゴンに乗ったことなんてあるの?﹂
﹁ああ。田舎に住んでたころ、怪我をしてたワイバーンを助けて、
乗せてもらったことがあってな﹂
﹁ワイバーンを乗りこなされるのであれば、他の竜種も問題なく乗
れるでしょう。ワイバーンは前足がないので、騎乗するにはバラン
スが悪く、四足の竜より難易度が高いとされております﹂
あの時助けたワイバーンは、怪我が回復したあと群れに戻ってい
ったが、今も元気にしているだろうか。
火竜の放牧場を作ると決めたときは考えていなかったことだが、
ドラゴンマスターを管理人として雇えたことで事情が変わり、俺は
火竜を非常時の移動のために、騎乗用に使うことを考えるようにな
った。
少し慣らせばすぐ飛べるだろうか。俺はシュラ老から受け取った
竜専用の鞍を持って、父竜の肩の突起に足をかけて登っていき、鞍
をつける。
262
シュラ老にベルトを渡して、竜の腹に巻いてもらい、しっかりと
固定する。子竜と共に見ていたミラルカを、鞍をつけ終えたところ
で手招きすると、彼女は自分で父竜の背に上ろうとするが、俺のよ
うに上手くはいかなかった。慣れが必要なので無理もない。
﹁ミラルカ、手を貸してくれ。引き上げるから﹂
﹁え、ええ⋮⋮きゃぁっ!﹂
手をしっかり握ったところで一気に引き上げ、ミラルカを俺の前
に乗せる。腕力を強化しているので、ミラルカはまるで空中を舞っ
たような感覚を味わったことだろう。
﹁⋮⋮普通の馬より3倍くらい高いのだけど。よく平気で乗れるわ
ね、この高さで﹂
﹁高所恐怖症か? それなら、目を瞑ってた方がいいぞ﹂
﹁そ、そうじゃなくて⋮⋮初めてなのだから、突然乗せられても落
ち着かないというか⋮⋮もっとしっかり、乗り方を教えなさい﹂
﹁俺が後ろから支えてやるから、落ちるとかそういう心配はないぞ。
命綱も結んでおくからな﹂
﹁っ⋮⋮﹂
後ろから腰と肩に手を添え、座り方を矯正する。俺の方に体重を
預けるようにしてもらい、あとは俺が後ろから抱くようにしていれ
ば、飛行を始めてもパニックを起こすことはないだろう。
﹁⋮⋮手綱はあなたが握ってくれるの? 何か、主導権を握られて
るみたいなのだけど⋮⋮﹂
﹁ディック殿、竜笛は使用者の魔力に反応し、火竜に指示を与えま
す。これを使っている間は、あなた様も熟練のドラゴンマスターと
263
変わらぬと言えましょう﹂
そんな笛を自分で作るシュラ老は、やはり老練たるドラゴンマス
ターと言えるだろう。彼が送ってきた人生も気になるところなので、
この仕事が終わったら、酒でも持ってこの森に来るのもいいかもし
れない。
﹁じゃあ、手綱はミラルカに任せる。俺は笛を吹く役だな﹂
﹁え、ええ⋮⋮でも最初はわからないから、補助をして﹂
﹁補助⋮⋮?﹂
ミラルカは何も言わず、俺の手を引いて、一緒に手綱を握らせた。
﹁これでいいわ。さあ、竜を飛び立たせて。ベルベキア軍の前に、
﹃仮面の救い手﹄の力を見せてあげる﹂
魔王討伐隊ではなく、あくまでも﹃仮面の救い手﹄として。
火竜に乗った謎のふたりとして、俺たちはベルベキア軍の道を阻
むのだ。
そして二人して仮面をつけながら気が付く。ミラルカはわりと仮
面をつけることに乗り気だ、ということに。
﹁若いというのは、本当に素晴らしいことですなぁ⋮⋮このおいぼ
れの血もたぎりますわい﹂
シュラ老は俺たちのいでたちを笑うでもなく、人生の先輩として、
しみじみと頷きながら見守ってくれていた。
264
第25話 山中の遭遇戦と決め台詞
火竜の巣となっている洞窟には、天井から出入りできる穴が開い
ている。火竜はなぜか、地上から自分の巣に出入りすることを好ま
ないのである。それは、地竜などの天敵が留守中に巣穴に侵入し、
待ち構えているという事態を、種族の本能として恐れているからだ
と言われている。
そんなわけで、俺たちは竜の巣から天井の穴を抜け、空へと飛び
出して行った。竜の表皮には磁力を含む鉱石の成分が含まれている
ので、乗っていると方位磁石が利かなくなる。しかし空から見える
王都の方向が東なので、その逆に進めばいいわけだ。
シュラ老の言っていた通り、翼が前足と一体化しているワイバー
ンと比べて、飛行中の上下動が少なく、乗り心地がいい。竜笛は吹
くものではなく、首飾りとしてつけ、魔力を込めて音を発生させる、
魔道具というやつだ。これで方向を示すだけで、火竜は俺の意志に
従って西の方角に飛んでくれる。
﹁⋮⋮ねえ、何か魔法を使っているでしょう? 気持ちが落ち着き
すぎていて、逆に怖いくらいなのだけど﹂
スピリット・
﹁さすがにこの高さを初体験だと、誰でも恐怖感はあるだろうから
ガード
な。怖いっていう感情はリスクが大きい。そんなわけで、﹃精神防
御﹄をかけさせてもらった﹂
﹁怖がる私を見て喜ぶとか、そういう趣味はないのね。普段の仕返
しをすればいいのに﹂
﹁どうせなら、この景色を楽しんでもらいたいところだしな。怖い
と思うことがなければ、なかなか見られない絶景だと思わないか﹂
265
ミラルカはまだ俺に背中を預けるのが落ち着かないようで微妙に
身体を浮かせていたが、だんだん遠慮がなくなってきて、体重がこ
ちらにかかってきた。やけに軽いのは、頭脳を使う仕事でもエネル
ギーを消耗するからということだろうか。
﹁⋮⋮重たい、ということはないと思いたいのだけど。思うところ
があったら言うべきだと思うわ﹂
﹁いや、軽すぎてびっくりするくらいだぞ。さっき運んだ本より確
実に軽いな﹂
﹁そ、そう⋮⋮それならいいのだけど。あなたは無神経だから、重
たいと感じていないだけかもしれないわよ﹂
﹁デクの棒と言われるほど身長はないがな。まあ、ミラルカの代わ
りに本は取れるが﹂
﹁高めの靴を履けば、私でも手が届くわよ。足が痛くなるからあま
り好きじゃないのだけど﹂
これから敵国の侵攻を阻もうというのに、俺たちはいかにも平和
な話をしている。それもこれも、俺たちにとってベルベキア軍がい
かなる大軍であり、精鋭を揃えていたとしても、まともに戦ったら
敵にすらならないからである。
ベルベキア共和国には、ヴェルレーヌの魔王国とは違う魔王の国
が隣接している。その魔王は、ヴェルレーヌの話によると、Sラン
ク相当の力しか持っていないらしい。その魔王を討伐することがで
きず、毎年大量の貢物を送る条約を結んでいるというのだから、ベ
ルベキアには最強クラスでもAAランク︱︱冒険者強度20000
程度の者しかいないということになる。つまり一般兵はCランク以
下だ。それは、アルベイン王国においても同じことなのだが。
266
つまりベルベキアは、アルベイン王国の魔王討伐隊︱︱俺たちが、
SSSランクの魔王であるヴェルレーヌを討伐したことを知らない。
そしてヴィンスブルクト公爵家は、魔王討伐隊がいかに強くとも、
物量で押しつぶせるという勘違いをしている。
﹁子供のけんかに、大人が出ていくみたいなものだと思っているん
でしょう。私も同じ気持ちだから、分からないでもないわ﹂
﹁実際に戦った魔王国の連中じゃなければ、俺たちの強さが実感で
きないんだろうな。人間同士の戦いは、俺たちの専門外だ﹂
﹁凶悪な魔物の集団だったら、問答無用で吹き飛ばしてあげるのに
ね﹂
ミラルカはその言葉通り、魔王討伐の道中で、人間を襲う魔物の
巣をいくつか壊滅させている。
話が通じない獣もそうだが、知能のある亜人種が大集団で巣を作
ったりすると、周辺の人里への被害は甚大なものとなる。
そういう光景を見たあとのミラルカは、まさに魔物にとっては荒
れ狂う天災︱︱﹃可憐なる災厄﹄そのものだ。
ひら
﹁ディック、何か見えてきたわよ。私よりあなたの方が目がいいで
しょう?﹂
﹁森をある程度拓いて、一定の距離ごとに目印の石塔が置かれてい
る⋮⋮間違いない。あれが、ヴィンスブルクトの作ったベルベキア
に通じる経路だな﹂
﹁国の防衛費を使って、あんなものを作っていたなんてね。愚か者
には、相応のお仕置きが必要だと思わない?﹂
﹁ああ、俺もそう思うよ。マナリナに婚約を申し込んだ時点でここ
まで読んでれば、もっと静かに事を済ませられたんだがな﹂
267
﹁そこまで読めていたら、あなたはこの国の支配者になれるわよ⋮
⋮魔王討伐を終えた時点で、誰かが王になることを望んでいたら、
そうなっていたかもしれないけれど﹂
ミラルカに言われて思うが、俺たちは揃いも揃って、権力という
ものに無頓着だ。
特にアイリーンは無頼漢のような生活を送っているが、その気に
なれば武術の師範にでも、この国の拳聖と呼ばれることも、難しく
はないだろうに。
﹁今からでも、アイリーンに王様になってもらうか。そうしたら、
もっと引き締まるかもな﹂
﹁それはいい考えだけれど、彼女は角があるから、王冠をそのまま
では被れないわ﹂
珍しいミラルカの冗談に、俺は思わず笑ってしまう。まったく、
緊張感がなくて困ってしまう限りだ︱︱と考えたところで。
山岳地帯を抜ける、森を拓いて作られた道。それに視線を辿らせ
ていった先に、集落のようなものが見える。
﹁あれが、この一帯に暮らしている民族の村ね⋮⋮すぐ近くを、軍
道が通っているじゃない﹂
﹁ああ。ベルベキア軍との間に何もなければ⋮⋮待て、何か見える。
あれはベルベキアの斥候部隊か?﹂
﹁どうやらそのようね。私たちの国では、騎兵は﹃黒鉄﹄を使った
武具を用いない。でも、彼らは⋮⋮﹂
ミラルカの視力でも、敵が黒い鎧を身に着けていることは分かる
268
らしい。赤褐色のマントに黒い甲冑を身に着けている彼らは、五騎
ほどで一つの部隊を組み、山中の軍道を駆けている。
何か、荒々しい声を上げている。まるで、獲物を見つけて追い立
てる狩人のようだ。
視線を巡らせると、想像は的中していた。ベルベキアの斥候が、
何者かを追い立てている︱︱弓を持った騎兵が、矢を放とうと番え
たところで、俺はミラルカの身体を強く抱いて固定する。
﹁きゃっ⋮⋮な、なに? そんなことをしてる場合じゃ⋮⋮きゃぁ
ぁっ!﹂
﹁ミラルカ、下降するぞ。あいつらは、誰かを追いかけてる⋮⋮こ
のままだとまず殺される﹂
﹁っ⋮⋮そ、そういうことね。分かったわ、ちゃんと固定していて﹂
俺はミラルカを抱いて姿勢を低くさせ、竜笛を胸に当てて念じる。
火竜は命令を受けて、翼の開き具合を調節し、滑空の姿勢に入る。
﹁くぅっ⋮⋮そういえば、こんなふうに空から近づいたら、敵に気
づかれると思うのだけどっ⋮⋮﹂
﹁大丈夫だ、この火竜には﹃隠密ザクロ﹄を食わせてある。すぐ近
くに来るまで、奴らは気が付かない。遠くに仲間がいるとしても、
視認はできないさ﹂
﹁準備がいいわね⋮⋮分かったわ。相手の上空をかすめるように飛
んで、﹃それだけで終わらせる﹄から﹂
火竜が近づいているのに、不思議なほど黒い騎兵たちは気が付か
ない︱︱だが、さすがに高度が下がってくると、目の前から来る圧
迫感が、隠密ザクロの効果を勝ったようだった。
269
﹁な、何か来るっ⋮⋮﹂
﹁りゅ、竜だっ。隊長、空から火竜が⋮⋮っ﹂
﹁どこに潜んでいやがったんだ⋮⋮くそっ、矢を放てっ!﹂
上空から弧を描くようにして、急降下をかける。最も高度が低く
なり、五人の騎兵の頭をかすめるように飛んでいくところで、俺は
確かに見た。
瞬きをしただけで、見逃してしまいそうなほどの速度。﹃可憐な
る災厄﹄は俺の腕の中で身体を縮めつつも、その瞳を騎兵に向け︱
︱そして。
﹁﹃限定殲滅型六十六式・粒子切断陣﹄﹂
ミラルカの身体から、魔力で編まれた魔法陣が、視認できない速
度で展開する。
それは猛進する動く標的、騎兵たちを、急降下して交錯する刹那
の間に捉える。
魔法陣の範囲に入ったならば、あとは起動させるだけ︱︱ミラル
カが指をパチンと鳴らすと、展開していた魔法陣が音もなく効果を
発現する。
﹁なんだ、何が起きたっ⋮⋮なぜ矢を撃たない!﹂
﹁ゆ、弓が、鎧がっ⋮⋮うぁぁぁぁぁっ!﹂
騎兵たちは、何が起きたのかも理解していないだろう。
上空から突如として降下してきた火竜が猛然と通り過ぎたあと、
発生した豪風によって馬たちが煽られて歩みを止めた。それだけに
とどまらず、自分たちの防具が一つ残らず、ぼろぼろときめ細かな
270
砂のようなものに変わり、崩れ落ちたのだから。
一度上空に舞い上がったあと、俺は火竜に切り返しを命じ、上空
にホバリングする。
装備をすべて失って全裸になった騎兵五人のうち、隊長と呼ばれ
た男︱︱思ったより若い︱︱が、辛うじて混乱する馬を御し、俺た
ちの方を振り仰いだ。
﹁な、なんだ貴様らっ⋮⋮アルベインのドラゴンマスターか!? ふざけた仮面など着けてないで、顔を見せろ!﹂
まだ噛みつける威勢が残っているようだが、下着一枚で馬に跨っ
て威圧されても迫力がない。
ミラルカは魔法陣を展開させ、精密極まりない制御で、下着だけ
を残して装備を破壊していた。女性らしい細やかな気遣いではある
が、やっていること自体は常軌を逸している。物質を分解して砂に
するなどという魔法を呼吸するように使えるのは、俺の知る限りで
は彼女だけだ︱︱これからも、他の使い手に出会うことなどあるの
かと思うほど、希少な才能である。
﹁コホン。あなたたちはベルベキア軍の人間のようね。私たちはゆ
えあって、貴方たちを本隊の元に帰すわけにはいかないわ。大人し
く降伏して、拘束されなさい﹂
﹁やはりアルベインの⋮⋮くそっ、無能な奴らめ⋮⋮!﹂
悪態をつく対象は、ヴィンスブルクトだろう。分かるように言わ
ない辺り秘密を守るように命令されているか、あるいは末端の斥候
部隊には、アルベイン側の内通者が誰なのか知らされていないのか
271
もしれない。
﹁隊長、馬は無事ですから逃げきれます! 一人でも帰還すれば⋮
⋮!﹂
斥候の一人、若い男が震える声で進言する。隊長は返事をしなか
ったが、五人の騎兵全員が動き始め、逃げ出そうとする︱︱しかし。
﹁ミラルカ、耳を塞いでろ﹂
﹁⋮⋮? 何をするつもり?﹂
俺はミラルカの耳に手をかざし、聴覚保護の魔法をかける。彼女
が俺の言う通りに耳を塞いだあと、同じように自分も耳を塞ぎ、火
竜にある命令を下した。
竜笛という魅力的な道具を教えてもらって、俺は久しぶりに戦い
の中で胸を躍らせている︱︱こうやってミラルカと二人で竜に乗り、
連携して空中戦をするというのも存外に楽しいものだ。シュラ老の
言葉を借りれば、血がたぎるというやつだ。
﹁︱︱グォォォォアァァァォォォンンッ!﹂
滞空しながらの、竜の強靭な声帯を振り絞るような咆哮︱︱これ
が本物の威圧だと言わんばかりのバインドボイス。
馬たちは震えあがり、すくみあがって動けなくなる。乗っていた
騎兵たちはひとたまりもなく失神し、馬の上でぐったりとうなだれ
ていた。
咆哮を終えた火竜がズズン、と着陸する。すると、ミラルカは失
272
神している騎兵たちに向けて言い放った。
﹁たとえ天が許しても、私たちの仮面の奥に光る瞳は、決して悪事
を見逃しはしないわ﹂
俺はどんな顔をすればいいのか分からず、みんな失神しているの
だが、と突っ込むこともせず、とりあえず胸を張ってふんぞり返っ
ているミラルカが、楽しそうで何よりだとか日和見的なことを考え
ていた。
﹁⋮⋮それ、みんなで考えたのか? ﹃仮面の救い手﹄の決め台詞﹂
﹁いえ、今私がひとりで考えたのだけど。やはり天に対応させて、
﹃地﹄にかかわるセリフを入れるべきかしら﹂
﹁ま、まあ、毎回変えてもいいんじゃないか。それより、追われて
た方はどこに行った?﹂
周囲を見回そうとしたところで、手を打ち鳴らす音が聞こえてく
る。
後ろを振り返ると、俺たちより少し年下くらいの獣人の少女が、
ぱちぱちと手を叩いていた。軍道の脇の木陰に隠れていたらしい。
﹁ミラルカ、拍手してくれてるぞ。良かったな﹂
﹁ええ、助けてあげたのだから当然よ。やはり決め台詞は必要だと
いうことね。私の見立てに狂いはなかったわ﹂
俺の皮肉はまったく通じず、ミラルカは嬉しそうにしている。基
本的には大人びているはずなのだが、正義の味方をやって興奮冷め
やらぬ姿は、俺より年下なのだということを改めて確認させてくれ
る。子供っぽいとは口が裂けても言えない、俺も正直を言うならば、
273
そういう趣向は嫌いではないからだ。
騎兵五人を一度に無力化するという難しいことを呼吸するように
成功させつつ、ミラルカが決め台詞を考えていたのだと思うと、ア
イリーンがいてくれなかったことが悔やまれてならなかった。彼女
ならば、ミラルカの機嫌を損ねることなど恐れず、お腹を抱えて笑
ってくれただろうからだ。
ティグレス
耳の形と縞柄の尻尾を見た限り、虎人族らしき獣人の少女は、俺
たちを見て目を輝かせながら、ぱちぱちと手を叩き続けていた。
274
第26話 囚われた虎人族と月下の仮面
ミラルカが獣人の少女に近づいていく。警戒されることもなく、
少女は好意的な様子だった。
亜人は亜人語を使うが、俺もある程度亜人の言葉は理解できるし、
ミラルカは流暢に話すことができる。
﹁虎人族なら、新獣人語で大丈夫かしら。私が言っていることはわ
かる?﹂
﹁っ⋮⋮わかる! お姉ちゃん、人間なのに、私たちの言葉、わか
るの!?﹂
虎人族の少女は興奮して言う。獣人語は使われていた年代によっ
て古と新があり、文法がまるで違うという難解なものなのだが、よ
ほどの秘境に住んでいる獣人以外はおおむね新獣人語が通じる。
﹁私たちはアルベイン王国の人間よ。あの人間たちはベルベキアの
軍人だと言っていたけど、なぜ追われていたの?﹂
﹁っ⋮⋮アルベイン、私たちの山、壊した。だから、アルベインの
こと、みんなきらい﹂
ヴィンスブルクト家はこの山を抜ける道を作るとき、虎人族たち
が暮らす領域を侵した。考えてみればわかることだが、そうすると
同じアルベインの国民である俺たちも、虎人族の敵と疑われてもお
かしくはない。
なんとか誤解を解きたいと思っていると、虎人族の少女が言葉を
続けた。
275
﹁でも、お兄ちゃんとお姉ちゃんはちがう。私を捕まえようとした
ベルベキア、やっつけてくれた。大きい竜も友達。虎人族、竜人族
とは仲良し。竜は竜人族の守り神﹂
獣人同士は対立関係にあることもあるが、虎人と竜人は友好関係
にあると分かった。獣人の文化や種族の事情について知る機会は少
ないので、これは貴重な情報だ。
そして竜人は、火竜を守り神とする。つまり俺が火竜を従えてい
れば、友好的にやりとりができるというわけだ。その必要ができた
ときには、シュラ老にも相談したいところだが。
﹁ベルベキア、この道をずっと行ったところに集まってる。長老様、
野営地って言ってた。その野営地から、私たちに食べ物を分けるよ
うにってベルベキアが来た。それで、男の人と、女の人と、たくさ
んで持っていった。持ってこないと、山に火を放つって言われたか
ら⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ディック、すぐにでもベルベキア軍の野営地に行くわよ。痕
跡も残らないくらい真っ平らにしないと﹂
﹁俺もそうしたいところだから、詳しいことを聞かせてくれ。その
食料を持って行った虎人族はどうなったんだ?﹂
そう尋ねると少女の表情が曇る。それだけで、何が起きたのかは
想像がついた。
﹁ベルベキア、虎人族、力持ちだからって連れて行った。女の人た
ち、食べ物を料理するために行ったのに、一緒につかまった。私た
ちに手を出させないための、人質﹂
﹁そう⋮⋮辛かったわね。でも、もう大丈夫よ。私たちが来たのだ
276
から、あなたはもう何も心配することはないわ﹂
ミラルカは虎人族の少女を抱きしめる。虎人族の少女は目を潤ま
せたが、気丈にも涙はこぼさなかった。
﹁私より、みんなの方がつらい。私は、私だけでもって言われて、
逃げるしかできなかった﹂
﹁あなたには何も責任はないわ。こうして無事だっただけでも十分。
だから、心配せずに村に帰りなさい﹂
﹁いや、村まで送って行こう。一つ、長老に聞いておかなきゃなら
ないことがある。切り拓かれた道を崩すことでまた山を騒がせるこ
とを、許してもらわないとな﹂
﹁長老、人間の手で開かれた道、元に戻したいって言ってた。道に
人間が通らなければ、時間がかかっても、元の山に戻るって﹂
そういうことならミラルカの殲滅魔法で、軍道の何か所かを塞い
でしまえば良い。そうすれば人は通らなくなり、塞がれた区間はや
がて、人が踏み入る前の自然に戻るだろう︱︱少しは自然に戻すた
め、手を加える必要はあるかもしれないが。土や樹の精霊の力を借
りるというのも一案だ。
﹁ありがとう、これで今すぐベルベキアの野営地に向かえるわ。捕
まった人たちのことを考えると、一刻を争う事態だものね。あなた、
名前はなんていうの?﹂
﹁名前、リコ。ティグ族のリコ。お兄ちゃんと、お姉ちゃんは?﹂
﹁私たちは⋮⋮﹃仮面の救い手﹄よ。わけあって名乗れないけれど、
許してね﹂
﹁うん、わかった。仮面の救い手、長老様に伝える。リコ、助けて
もらった。みんなも助かる﹂
277
山がもとに戻るとまでは、リコはさすがに思っていない。まだ、
ミラルカの実力の一部しか見ていないからだ。
﹁村、もし後で来てくれるなら、匂いつけないとだめ。人間のにお
い、ティグの村の人たち、あまり好きじゃない﹂
﹁それはそうだろうな⋮⋮何の匂いをつければいいんだ?﹂
﹁リコのしっぽ、身体にこすりつける。村の外に、傷がついた大き
い木がある。そこに来てくれたら、リコが迎えにいく。必ずいく﹂
俺たちが来たときに、都合よく彼女が気づいてくれるかどうか︱
︱と思ったが、こんなに真っすぐな瞳で言われては、信用するほか
はないだろう。
ベルベキアの野営地を無力化し、捕らえられた虎人を救出し、そ
して軍道を塞ぐ。そののちに、リコの村に事と次第を伝えに行く。
俺たちのするべきことが決まった。
﹁気絶してる連中は⋮⋮まあ仕方がないか。リコ、村の大人を連れ
てきて、捕まえておくように頼んでくれ﹂
﹁わかった。ベルベキアがもう何もしないって約束するまで、捕ま
えたままにする﹂
牙のようにとがった八重歯を見せつつ、リコは噛みつくような身
振りをする。彼女も追いかけられ、弓で射られるかというところだ
ったのだから、怒りはおさまらないだろう。
捕まった虎人族を無事に救出できれば、ベルベキア軍の捕虜も無
事に帰れるだろう。何だかんだで気の優しいミラルカが後に引きず
ることのないよう、そんな展開を期待したいところだ。
278
◆◇◆
ベルベキア軍の野営地は、虎人族の村から馬を使えば20分ほど、
火竜ならば5分も経たずに着くという位置にあった。
夕暮れの時間帯になり、辺りは薄暗くなってきている︱︱その方
が、虎人族を救出するにあたっては好都合だ。
﹁まず、捕まってる人たちを助けてくる。ミラルカなら、段階的に
野営地の建物を分解して、兵士を無力化して、なんていうこともで
きるんだろうが﹂
﹁多くの種類のものを一度に分解しようとすると、解析にも時間が
かかるのよ。さっきは、敵の装備の素材がほとんど黒鉄だったから、
簡単に壊せたけれど﹂
﹁じゃあ、あの野営地のテントや敵の装備を全部破壊するにはどれ
くらいかかる?﹂
﹁15分といったところね。それだけあれば、私の展開した魔法陣
に接触した人物ひとりひとりの装備を分解して、テントの建材、そ
の他もろもろを分解しても十分おつりがくると思うわ﹂
﹁よし。じゃあ、火竜を野営地の見えるところに降ろすから、ミラ
ルカは魔法陣を展開して、破壊準備をしてくれ。俺が野営地に潜入
して虎人族を救出したら、合図するよ﹂
﹁ええ、分かったわ﹂
ハイディング
俺は一旦ミラルカと別行動を取り、気配を消す﹃隠密﹄の魔法を
使って、野営地に近づいた。
野営地の軍道に面している側から見て逆側は明かりも少なく、盲
点になっており、楽に近づくことができた。誰も、山を抜けて森の
中から野営地に潜入を試みるとは思わないのだろう。まして、この
野営地は国境線を挟んで、ベルベキアの内側にあるのだから。
279
いちおう野営地の裏側にも、柵だけでなく櫓があり、その中には
熱心そうでない兵士がいる。俺は鍵縄を投げて櫓に引っ掛けたあと、
柵を駆けあがるようにして一気に高く飛び上がり、兵士の後ろに回
った。
﹁な、なんだ? この縄、いつの間に⋮⋮﹂
櫓の中に着地するときは魔法で足音を減殺する。アイリーンなら
ば体術のみで無音の歩行術を可能とするが、俺は何でも魔法に頼っ
てしまう︱︱修行が足りない、と自戒するところだ。
﹁動くなよ。虎人族はどこにいる?﹂
﹁ひっ⋮⋮だ、誰だ⋮⋮まさか、獣人の⋮⋮そ、それとも、まさか
アルベイン⋮⋮?﹂
﹁いや、個人的な動機で来ただけだ。質問だけに答えろ﹂
﹁じゅ、獣人は⋮⋮あの、向こうにあるテントに⋮⋮﹂
スリ
﹁よし、いいだろう。一つ言っておくが、この野営地は今日で消え
てなくなる﹂
﹁な⋮⋮っ﹂
ープ
手刀で眠らせるとダメージが大きすぎる可能性があるので、﹃睡
眠﹄の魔法をかけて無力化する。ミラルカの魔法陣が発動したら、
櫓から落下する︱︱ということも考えられるので、一応降ろしてや
り、物陰に横たえておくことにした。
虎人族が捕らえられているというテントに、俺は物陰を移動しな
がら近づいていく。途中で接近してきた兵士は酒を飲んで酔っぱら
っており、俺がすぐ近くにいても全く気が付かない。俺の﹃隠密﹄
は一般兵に気づかれるほど生易しいものではないが。
280
そして問題のテントの裏に回ると、俺はナイフでテントの幕に穴
を開け、中を覗き込んだ。
虎人族の男性︱︱殴られて怪我をしている︱︱が数名と、大人の
女性、そしてリコと近い年齢の子供がいる。全員が縛られており、
足には鎖をつけられ、鎖の端には杭が打たれていた。虎人族の膂力
ならば抜けなくもないだろうが、子供がいる手前、抵抗できないの
だろう。
見張りの兵がにやつきながら彼らを見ていたが、虎人族の男性の
うち一人が少し顔を上げ、兵を見た。
﹁なんだその目は。まだ、自分たちの立場が分かってないのか? お前たちはこれから、ベルベキアの奴隷市場に送られる。男は鉱山
送りで、女は金持ちにでも買われるだろうさ﹂
﹁⋮⋮!!﹂
挑発に耐えられず、うなだれていた虎人族の若者が立ち上がろう
とする。どうやら、彼の恋人か妻もまた、一緒に捕まっているよう
だった。
若者は何かを訴えるが、その言葉は兵には通じなかった。
﹁良かったな、お前。何を言ってるか分かっていたら、この鞭が物
を言っていたところだぞ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁いや、分からなくても不愉快なことに違いはないか。だったら、
鞭をくれてやるとするか⋮⋮お前の代わりに、こいつにな﹂
﹁っ⋮⋮!!﹂
281
兵士が虎人族の女性の方を向く。その手にあるのは、茨のような
棘のついた鞭だった。
﹁女には傷をつけるなと言われてるがな。獣人ってのは、化け物み
たいな速さで傷が治るんだろ? だったら、鞭の一発や二発、打っ
てみてもすぐに治るよな⋮⋮そこの女、じっとしてろよ。可愛い顔
に鞭が当たっても︱︱﹂
﹁いい加減にしとけよ、三下﹂
﹁うぉっ、だ、誰ぶぁっ!﹂
兵がべらべらと喋っている間に隙だらけになっていたので、密か
にテントに侵入するための入り口を広げ、俺は兵が気づかないうち
に背後に回っていた。
兵が後ろに振り返る間もなく、俺は今度は手刀を叩きこみ、昏倒
させた。睡眠の魔法などでは少々生ぬるいかと思えたので、つい手
が出てしまったが、敵にそこまで遠慮する必要もないだろう。
虎人族たちは何が起きたのかわからず、俺を見ている。そこで俺
は、自分が仮面をつけていることを思い出した。
﹁あー⋮⋮何だ、俺は怪しいものじゃない。こんな格好をしてるが、
お前たちを助けに来た。裏手の柵を壊すから、そこから逃げてくれ
るか﹂
うろ覚えの新獣人語を何とか記憶から引っ張り出し、話しかける。
何とか通じたようで、彼らの中心人物らしい壮年の男性が、少しだ
け警戒を緩めてくれた。
282
﹁⋮⋮見たところ人間のようだが、なぜ私たちを助ける?﹂
﹁人間も、獣人を迫害するだけの連中が全てじゃない。俺はアルベ
インの人間だが、虎人族の聖域である山を侵した奴らとは違う⋮⋮
と言っても、にわかに信じられないかもしれないが。俺はあんたた
ちを助けたい、今はそれを信じてくれるか﹂
﹁むう⋮⋮﹂
﹁⋮⋮妻を助けてくれたことには感謝する。仮面の男よ、俺はあな
たを信じようと思う﹂
﹁ルード⋮⋮そうだな、私も信じよう。無礼な態度を取ってすまな
かった、改めて礼を言う。仮面の男よ、どうやってこの野営地を出
るのだ?﹂
仕方ないことではあるが、﹃仮面の男﹄と連呼されると、虎人族
たちに正体を隠す必要があったのだろうかとちょっと思ってしまう。
いや、そんなことを考えている場合ではない。 ﹁俺が手引きをする。さあ、拘束を外すぞ。野営地の外に出たら、
まずは森の中に身を隠すんだ﹂
十人ほどの虎人族が、まさに救い主のように俺を見て指示に従う。
俺は久しぶりに、使わなさすぎて錆びかけていた剣を意識する。
柵をどうやって最短時間で抜けるかを考えると、多少派手になって
しまっても、実力行使が最も早いからだ。
虎人族たちが脱出の準備を整え終わると、俺はテントの裏に開け
た穴から外に出て、一直線に柵に向かって走っていく。
俺の背丈の二倍ほどある、丸太を結び合わせた柵。飛び越えるの
は容易だが、ご丁寧に先端が槍のように尖らせてあるため、子供も
いる以上は安全策を取らせてもらう。
283
俺は剣を抜くと、強化魔法で刃を覆った。コーディの﹃光剣﹄に
は及びもしないが、俺でも鉄を斬るくらいのことはできる︱︱久し
ぶりなので、上手くいくか少しだけ緊張するが、それも集中力を増
すスパイスだ。
﹁︱︱っ!﹂
スピリット・ブレード
強化魔法﹃斬撃強化﹄を用いて、魔力で覆った剣を振りぬく。
俺の放った斬撃は魔力によって間合いの三倍の範囲を切り裂き、
丸太は水平に真っ二つになる。続けて数発斬撃を入れると、丸太は
細切れになって吹き飛び、道が開けた。
﹁よし、森に抜けろ! すぐに俺も合流する!﹂
﹁なんという力⋮⋮一体何者なのだ、仮面の男よ⋮⋮っ!﹂
﹁あぁ、みんな無事で外に⋮⋮ありがとうございます⋮⋮っ!﹂
﹁ありがとう、仮面のお兄ちゃん!﹂
﹁あなたは俺たちの恩人です!﹂
俺の力に驚いている間もなく、虎人族は持ち前の敏捷性で、獣の
ような速さで野営地を脱出する。
中の兵たちが異変に気付き、こちらにやってこようとするが、も
う遅い。
﹁ベルベキア軍に告ぐ! 死にたくなければ地面に手をついて動く
な! お前たちにも家族がいるだろう!﹂
そう告げたあと、俺はミラルカに合図を送る。天に手をかざし、
284
ライティング
﹃明かり﹄の魔法を改良して、空高く光弾を放ち、上空で炸裂させ
た。
何が起きているのか、と混乱するベルベキア軍。日が落ちた矢先
の出来事で、気が抜けていた彼らは、ようやく事態の深刻さを知る
︱︱虎人族は逃げ出し、内部には謎の侵入者がいる。
しかし、彼らが対策を講じる時間はもうない。十五分、ミラルカ
がそう申告した時間は、もう過ぎている。
︱︱﹃広域殲滅型百二十式・城砦破砕陣﹄︱︱
俺の声を聞きつけてやってきた兵士たちは、まず信じがたい光景
を目にする。
野営地のテントが、櫓が、柵が︱︱あらゆる建造物が砂に変わり、
山風に吹き流されていく。
それだけではない。ミラルカは建物と同時に、兵士の装備だけを
狙う魔法陣を、すでに野営地の全域に張り巡らせていた。
︱︱﹃限定殲滅型六十六式・粒子断裂陣﹄︱︱ リコを追いかけていた兵たちと同じように、兵士たちの装備が崩
れ落ちていく。阿鼻叫喚の様を前にして、俺はとどめの一言を見舞
おうとするが、その大役を譲ってくれるほどミラルカは甘くはなか
った。
火竜の背に乗り、月を背にして、﹃可憐なる災厄﹄が舞い降りる。
彼女は野営地の上空に現れると、ゆっくりと高度を下げ、無力化し
285
た兵士たちに告げた。
﹁あなたたちはアルベインを侵そうとするだけでなく、虎人族を迫
害しようとした。その罪は許されるものではないわ。山の神に変わ
って死の裁きをと言いたいところだけど、この山を血で汚したくは
ないから、見逃してあげる。二度とこの山に踏み入らないことね。
そうでなければ﹃仮面の救い手﹄は何度でも現れるわよ﹂
月光を浴びて、自信たっぷりに胸をそらせ、よく通る声で降伏勧
告をするミラルカ︱︱彼女を連れてきた俺の判断は、最良と言うほ
かなかった。
恐怖にかられて一目散に逃げていく兵士たちの喧騒など、俺の耳
にはまったく入っていなかった。
ミラルカと一緒に火竜で見下ろしながら、決め台詞を放ちたかっ
た。そんな俺らしくもないことを考えているうちに、野営地は跡形
もなく消え去り、後には広い空き地が残るだけとなった。
そしてミラルカは兵士たちが戻ってこられないように、広域殲滅
魔法で軍道を塞いだ。 あとで彼女と合流したとき、まさに天変地異といえる奇跡を起こ
し続けるミラルカに対して、虎人族たちは地に伏して拝み奉るとい
う行動に出たが、その光景を前にしたミラルカはさすがに照れて顔
を赤らめていた。
286
第27話 虎人族の感謝と鬼娘の潜入任務
やぐら
夜風が分解された野営地の粒子を吹き流すと、後には黒土の広い
空間と、テントや櫓を建てるための杭や、柵が打ち込んであった部
分の穴が残るのみとなった。
スリープ
俺が初めに﹃睡眠﹄をかけて眠らせた兵が取り残されていたので、
もう一人気絶している兵のところまで連れていってやる。
﹁⋮⋮ん? なんだ、まだ夜か⋮⋮﹂
﹁お目覚めだな。もう、お前の仲間は全員逃げていったぞ﹂
﹁え⋮⋮なっ、なっ⋮⋮﹂
何があったのかすぐに理解できるわけもないが、懇切丁寧に教え
てやるのも面倒なので省略する。
﹁心配するな、指揮官も含めて全員逃げたから命令違反の責を問わ
れることはない。お前はこいつを背負って連れていけ。そのうち起
きるだろう﹂
﹁は、はい⋮⋮うわっ、な、なんだその仮面!﹂
﹁答える義理はない。分かったらさっさと行け、虎人族の村で捕ま
えてもらってもいいんだぞ﹂
﹁ひ、ひぇぇっ⋮⋮お助けぇぇっ!﹂
絵に描いたような悲鳴を発し、兵士は俺の手刀で昏倒していた仲
ヒールライト
間を担いで逃げていった。それでは山を降りられるか分からないの
で、情けとして﹃癒しの光﹄をかけておいてやる。
287
捕虜はすでに捕らえている5人で十分だ。あまり数が多くても虎
人族の村の負担になってしまう。
そして、逃げて行った敵兵たちだが︱︱装備を整えなおして再び
ここに戻ってくることはもうできない。ミラルカがベルベキア側か
らの軍道への入り口を殲滅魔法で塞いだので、もう一度道を作るま
でにはそれなりの時間を要するだろう。撤退の際に、彼らは山中を
進むことを余儀なくされる︱︱獣や魔物も出るこの山で無事に生き
残れるかは、彼ら次第だ。それくらいの脅しはかけておかなければ、
懲りもせずこの山を侵そうとする可能性がある。
しかし山を抜けて攻められないとなれば、ベルベキアはアルベイ
ンの国境警備の隙を突くことにこだわらず、正面から戦争を仕掛け
てくるということもありうる。 ベルベキア側の動きを知るために、俺はすでに今現在、アイリー
ンに潜入調査を頼んでいる。今はまだヴィンスブルクトの部下とし
て彼の屋敷にいるキルシュに協力を頼んでいるので、屋敷に潜入す
るまでは簡単だろう︱︱念のために、アイリーンには俺の﹃目﹄を
つけているので、後で状況を見てみようと思う。
﹁さて、虎人族の村に帰るか⋮⋮おいおい、まだやってるのか?﹂
森に隠れて野営地の崩壊と、ミラルカの降伏勧告を見ていた虎人
族たちは、軍道の封鎖を終えたミラルカが火竜に乗って戻ってくる
と、ずっと地面に頭をつけていた。
おもて
﹁あなたからも面を上げるように言ってちょうだい、ずっと微動だ
にしないから困ってるのよ﹂
﹁虎人族が危機に陥るとき、その者空より火竜と共に舞い降りて、
288
悪しき軍勢の砦を泡沫に帰す⋮⋮この伝承は、長きにわたって虎人
族の支えとなるでしょう。此度の大恩、このジェダが長老にしかと
報告させていただきます﹂
壮年の虎人族男性は、精悍な顔つきで2メートル近い体躯を持っ
ているのに、まるで少年のような目で俺たちを見ている。ミラルカ
の姿が、あまりにも絵になりすぎていたからか。
﹁仮面の魔法使い様、ああ、なんとお美しい⋮⋮﹂
﹁仮面の剣士殿も剣の腕は達人の域を超え、魔法の力も一級とお見
受けします。もしやあなたがたは、さぞ名のある英雄なのでは⋮⋮
?﹂
ルードという若い男性とその奥さんも、興奮冷めやらぬ様子だ。
やはり賞賛されるのは落ち着かないが、今回ばかりは甘んじて受け
るほかはない。
﹁俺たちはティグ族のリコがベルベキア兵に追われていたから、あ
んたたちが捕まってるってことを偶然知っただけだ。そういう窮地
にあるときは、俺たち﹃仮面の救い手﹄が助けに来ることもある。
そう思っていてくれ﹂
﹁仮面の救い手⋮⋮獣人を見れば搾取することしか考えない人間の
中に、そのような志を持つ方々がいたとは。人間も、判を押したよ
うに同じというわけではないのですな﹂
俺たち以外にも、獣人を敵視していない人間は居るだろうが、残
念ながら王国全体を見渡してみれば、﹃獣人は人間より劣った存在﹄
という、間違った認識を植え付けられている人の方が圧倒的に多い。
俺はそうでないことを知っている。計り知れない知識を持つ獣人
289
の賢者もいるし、戦闘においても人間より優れた基礎運動能力を活
かし、凄腕の傭兵をやっている人物もいた。
そんな彼らがなぜ軍に捕まったか。それは獣人が火を恐れること
が理由だろう。ベルベキアはその弱みを突いて、無辜の民である彼
らを搾取しようとした。その罪は、この戦争が終わったあとに賠償
させなければならない︱︱そのための道筋も考えておかなければ。
﹁私たちに対して、あまり恩義に感じることはないわ。あなたたち
の安全は保証するから、村に戻って穏やかに暮らしなさい。アルベ
インからあなたたちに干渉することのないように、何とか動いてみ
るから﹂
今回のミラルカは特に面倒見が良くて、俺から言うことがほとん
どなかった。正義感が強くなければ魔王討伐隊に志願などしないと
いえばそうなのだが。
ジェダと名乗った男性は、ミラルカの言葉を受けて、身を低くし
たままで顔を上げた。
﹁虎人族には、受けた恩を必ず返すという掟があります。あなた方
が先を急がれるのであれば、無理にとは申しません。しかし、もう
夜もすっかり更けております。この近くにある我らの村で、心ばか
りの歓待をさせていただきたい﹂
そして、全員で再び地面に手を付き、その上に額をつける姿勢と
なる︱︱こうなると、俺もミラルカも弱かった。
幸いにも、今から急いで王都に戻らなければならないということ
はない。
290
スモールスピリット
アイリーンの肌に魔法文字を描かせてもらい、﹃小さき魂﹄の魔
法を施してある。あちらに意識を飛ばせば戦闘の補助もできるが、
そうでなくても状況だけは伝わってくるのである。
彼女はヴィンスブルクトの屋敷に侵入する予定だったが、キルシ
ュと接触したところで予定が変わった。ヴィンスブルクトの手先と
して動いている家来たちが、屋敷の外で会合を開くというのだ︱︱
キルシュはその会合の参加者が、謀反の計画に加わっていると見て
いて、アイリーンが潜入調査を請け負ったのである。
そして彼女は、今まさに会合が行われている一番通りの宿に潜入
し、窓の外に潜んで会合の内容を聞いているところだった。ときど
き﹁ほうほう﹂とか﹁そろそろやっちゃっていい?﹂とアイリーン
が尋ねてきているので、もう少し待って全部話を聞いてしまえ、と
引き止めているところだった。
どうやらベルベキア軍は、山中の軍道がもし使えなくなった時に
は、南の平野にある国境を強行突破するつもりでいるらしい。ベル
ベキア軍の主力である﹃黒鉄騎兵団﹄は、本来ならば馬の機動力を
最大限に発揮できる平原でこそ力を発揮するもので、ベルベキア共
和国を束ねる指導者は、その力に絶対の自信を持っているとのこと
だ。
﹁リコとも約束しているし、一晩泊まるかどうかは別として、ティ
グ族の村には立ち寄りましょうか﹂
﹁ああ、そうだな。あんたたち、俺たち人間の匂いが苦手なんだよ
な?﹂
﹁恩人であれば話は別ですが。我らの村に入るのであれば、確かに
老人たちを驚かせてしまうかもしれませんから、虎人族の匂いはつ
291
けておいた方がいいですな。おい、おまえたち⋮⋮﹂
﹁ああいや、リコがやってくれるって言ってたからそれは問題ない。
ルードの奥さんの尻尾でやってもらうっていうのは、何か申し訳な
いしな﹂
﹁い、いえ、決してそのようなことは⋮⋮むしろ救い手様にそのよ
うなことをさせていただけるなど、私も妻も光栄に思うところです﹂
ルードが勝手に奥さんの気持ちを代弁しているわけではないよう
で、奥さんの方が俺とミラルカを見て顔を赤らめている。
こうして見ると、虎人族といえど、腕の先や足など、人間より体
毛に覆われている部分が多いだけだ。着ている服は多少露出度が高
いが、革や布の加工技術がそこまで発達していないのと、人間ほど
しっかり肌をカバーしなければ恥ずかしいという文化でもないのだ
ろう。
﹁⋮⋮よその奥さんに尻尾をこすりつけてほしいの? それとも、
必要もないのにモフモフしたいのかしら。尻尾の先の丸い毛玉が、
いかにも柔らかそうだものね﹂
﹁確かにな。でもそこまでは考えてないぞ。リコの尻尾ならいいの
か、という話でもあるし﹂
﹁大人の女性と、無邪気な子供ではわけが違うわ⋮⋮と思ったけれ
ど。リコって何歳なのかしら﹂
﹁リコは今年で13歳ですな。虎人族は12歳から一人前とみなさ
やしゃご
れますから、彼女も立派な大人の女性です﹂
﹁リコ様は長老の玄孫さまですので、私より一つ下の世代の者は皆
憧れております﹂
リコが﹃長老様﹄と呼んでいたから分からなかったが、彼女自身
も長老の血を引いているということか。ティグ族は、長老の一家を
292
中核として集まっているのかもしれない。リコが玄孫ということは
その上に孫、子の世代がいるわけで、長老の血を引く人たちが多数
いると考えられる。
﹁⋮⋮一つ聞いていいかしら。結婚できる年齢の虎人族が、人間の
男性ににおいをつけるというのは、何か特別な意味があったりはし
ない?﹂
﹁ええ、友好のしるしということにはなりますが。ご安心ください、
それだけで嫁がなければならないとか、そこまでの掟はございませ
ん。リコ様も、﹃尻尾に触れて欲しい﹄とは救い手様には頼まぬで
しょうし。彼女も分別がつく年齢ですからな﹂
ジェダ氏が話している横で、4人いる虎人族の女性たちが苦笑し
ている。
それがなぜなのか分からず俺は首をひねるが、ミラルカは何か察
したらしく、仮面越しに俺をじっとりと見つめていた。
◆◇◆
ティグ族の村の外に、リコの言っていた傷のついた大木があった。
どうやらイノシシか何かの巨獣が体当たりしたようで、樹齢何百年
という巨木の幹に大きな古傷が残っている。
ジェダ氏たちが先に村に戻っていったあと、入れ替わるようにし
てリコがやってきた。彼女は一度家に戻って着替えてきており、手
や足首などに飾りをつけている。そして、黄色と黒の混じった髪は
綺麗に整えられ、先ほど会った時とは見違えるようだった︱︱唇に
は紅までさしている。
293
ミラルカが額を押さえて天を仰いでいたが、俺はその意味をたっ
ぷり五秒ほど考えてようやく理解した。
リコは立派な大人の女性だとジェダ氏は言った。その彼女が着飾
って俺を出迎えたということは、何を意味するのか。
﹁あ、あの⋮⋮救い手さま、匂いつける前に、ひとつお願いしたい
こと、ある⋮⋮﹂
﹁ん、んん?﹂
﹁何がんん、よ。舞い上がっちゃって﹂とミラルカが毒づいてい
るが、俺も我ながら情けない声を出してしまったという自覚があっ
た。それは、リコが何を言い出すか予想がついていたからだ。
﹁⋮⋮リコのしっぽ、触ってほしい。しっぽ、もふもふで気持ちい
いと思う⋮⋮だ、だから。救い手様、ちょっとだけでいいから、触
って﹂
﹁き、気持ちいいというのはその、こんな野外においてはなんとい
うかだな⋮⋮﹂
﹁リコ、尻尾を触らせるというのは、どういう意味があるの?﹂
ミラルカに尋ねられると、リコは両の頬を押さえて恥じらい、俺
から逃げるようにして走っていき、うずくまってしまった。
﹁⋮⋮尻尾、大事な人にだけ、触ってもらう。だいじょうぶ、二番
目でいい﹂
﹁に、二番目⋮⋮待ってくれ、俺は多くの妻を娶れるような立場に
はない。しかも出会ったばかりで、互いのこともまだ理解してない。
俺たちは、まず多くの時間を対話に費やすべきだ。そう思わないか
?﹂
294
﹁何を堅物みたいなことを言ってるのかしら、酔っ払いのくせに﹂
﹁俺は酔っ払いだが、酒は飲んでも飲まれたりはしない。リコ、尻
尾は触ってもいいが、それには特別な意味はない。そういうことで
も許してくれるか?﹂
なぜ俺が下からの態度になっているのだろうと思うが、こんな無
垢な瞳をした少女の心を傷つけたくない。しかし尻尾を絶対に触ら
ないと言えば、それも傷つけてしまう気がする。自意識過剰と言わ
れればそれまでだが。
リコはしばらくして落ち着いたのか、立ち上がってこちらに戻っ
てくる。そしてにっこり笑って言った。
﹁仮面の人、私といっぱい話してくれるって言った。いつか、また
来た時に触ってもらう﹂
﹁ああ。その時は俺も腹をくくるよ。結婚するとまでは約束できな
いけどな﹂
﹁⋮⋮すがすがしいくらいに最低なのだけど。いたずらに期待を持
たせないところは評価してあげる﹂
やはり尻尾を触らせるのは、虎人族の女性からの求婚行為だった
ようで、リコは耳まで真っ赤になっていた。
彼女の尻尾で俺は軽く全身をなぞってもらい、人間の匂いをカム
フラージュする。次はミラルカの番なので、俺は腕を組んで見守っ
ていた。
﹁腕、上にあげる。そこもちゃんとしないとだめ。だいじょうぶ、
私も虎人族の香をつけてる。いいにおい﹂
﹁ご、ごめんなさい⋮⋮くすぐったいのは弱いものだから⋮⋮﹂
295
外套をめくられ、腕を上げさせられ、リコのふわふわとした尻尾
で弱い部分をなぞられるミラルカを、俺は何の不純な気持ちもなく、
少女同士の交流として見守っていたのだが︱︱気がついたミラルカ
に下等な生き物を見る目で見られたので、やむにやまれず目をそら
した。
そのときちょうど、王都で潜入任務中のアイリーンが、しびれを
切らしている様子が伝わってきた。
﹃ねー、もうやっちゃっていい? いいよね? ディック、いっち
ゃうよ?﹄
︵待て、俺もそっちに意識を五割くらい移す。こっちも安全なとこ
ろに来たから大丈夫そうだ︶
﹃ん、分かった。うまくいったみたいって声の感じでわかるよ。さ
すがミラルカとの黄金ペアだよね。よーし、あたしも負けてらんな
い!﹄
﹁二人とも、俺はこれからちょっと上の空になるかもしれないが、
あまり気にしないでくれ。何かあったら頭にチョップするなりして
教えてくれるとありがたい﹂
﹁え、ええ⋮⋮﹃あっち﹄に行くのね。分かったわ、心配しないで
行ってきて﹂
﹁⋮⋮? こんな夜に、どこか行く?﹂
﹁いえ、ちゃんと村には訪問するわ。ちょっと彼の反応が鈍くなる
けど、しばらくの間だけだから気にしないで﹂
ミラルカとリコの了解を得たあと、俺は﹃スモールスピリット﹄
296
を発動させた。
◆◇◆
アイリーンの胸に書いてある魔法文字から、俺の写し身が生まれ
る︱︱つまりそれは、彼女の服の胸元から飛び出してくるというこ
とだった。
﹁ふぁっ⋮⋮び、びっくりしたぁ。こんなふうに出てくるの?﹂
﹃ああ。待たせたな、奴らはこの中にいるのか﹄
一番通りの宿の二階の部屋、その外のベランダ。アイリーンはそ
こで息を潜めて、中の様子を伺っていた。
悟られないように部屋の中を伺う。すると、中にいた四人の男の
うち一人が、決定的な一言を口にした。
﹁ベルベキア軍が動き、西方平原の国境線を破ったら、我々が王女
殿下のいずれかを誘拐する。できればマナリナ第一王女が良いが、
王位継承権を持っている第三王女でも良い﹂
﹁ラーグ殿、王女を手に入れてしまえば、私どもがゼビアス閣下に
成り代わるということも⋮⋮﹂
﹁私は何も聞かなかったぞ。ジャン様は凡愚ではあるが、その部下
はなかなか優秀な者がいるから侮れぬ。特にキルシュは、見目も麗
しく、命令に忠実な良い女だ﹂
﹁また悪いクセが出ましたか。ラーグ殿は女と見れば目がないです
からな。あれほど優秀な女なら、欲しがるのは理解できますが。一
応、同僚なのですぞ?﹂
いかにも下品で、胸が悪くなるような話だ。酒場でどこそこの店
297
の看板娘が可愛いと噂をしている人々が、いかに健全かと思い知ら
される。
この部屋の中にいる男たちは、利己的な考えしか持っていない。
女を道具としか考えていないのだから。
そしてそういう連中に対して、アイリーンがどう考えるか。そん
なことは、彼女の今の姿を見れば明白だった。
﹁できるだけ手加減するけど、もし無理だったら⋮⋮ごめんね♪﹂
楽しそうに言いながら、アイリーンは俺達とは色違いの青色の仮
面をつけ、両手に使い込まれた指ぬきグローブを嵌めた。
﹃妖艶にして鬼神﹄。その二つ名の所以を、今から見せてもらえ
る。そう思うと、俺も血が騒ぎ、武者震いがくる思いだった。
298
第28話 闘う舞姫と終戦への道筋
侵入の準備を整えたあと、アイリーンはすぅ、と息を吸い込むと、
拳を引いて突きの構えを取る。
﹃待て待て、窓をわざわざ破らなくても、あれくらいの相手なら無
傷で倒せるだろ﹄
﹁えー、ぱりーん! って窓を突き破って侵入した方がかっこいい
のに﹂
﹃ここのガラス窓は質が悪いから、簡単に粉々になるぞ。部屋の中
にガラスが飛び散ったら、あとで宿の人が掃除に困るだろ﹄
﹁あ、そっか。ここの宿の人は何も悪いことしてないのに、窓壊し
ちゃったら悪いよね﹂
アイリーンはぽんと手を打ち、素直に俺の言うことを聞いてくれ
る。
﹁でも戦ってるときに、ちょっと壊しちゃうのはしょうがないよ。
相手に弁償してもらえばいいんだし﹂
﹃まあ、そうだな⋮⋮だが、極力建物は破壊せずに戦ってくれ﹄
﹁りょーかい♪ よーし、やるぞー!﹂
そう、彼女は良く言うならば素直で真っすぐな性格だが、悪く言
うと、考えなしなところがある。
299
この状況で宿の従業員の心配をするというのも悠長だと思われる
かもしれないが、﹃仮面の救い手﹄が宿屋を破壊したという噂を立
てられては困る。自分でも細かいことを気にしているとは思うが。
﹁じゃあ、鍵もかかってないし正面から入っちゃおっかな∼。お邪
魔しまーす﹂
ガチャ、と窓を開けてアイリーンは中に入っていく。中にいた四
人は、あまりに堂々とアイリーンが侵入してきたので、逆に反応が
ワンテンポ遅れた。
アイリーンは堂々と窓枠から飛んで、部屋の中に音もなく降り立
った。そして誰もが茫然としている中で、余裕を持ってひらひらと
手を振る。
﹁な、な⋮⋮なんだ貴様っ! 賊か、それとも王国の手の者か!﹂
﹁ラーグ殿っ、ここは我らがっ!﹂
﹁何をしてる、雇った連中を呼べ! 侵入者だ、早く何とか︱︱﹂
﹁なんとかって、どうするつもり?﹂
﹁ひぃっ⋮⋮!?﹂
アイリーンは外に助けを呼ぼうとした男性の後ろに瞬時に回ると、
その肩に手を置いた。
外套を羽織った状態で、身軽というわけでもないのに、この身の
こなしは恐ろしいとしか言いようがない。鬼族よりも俊敏なはずの
虎人族でも、彼女の素早さには白旗を上げるだろう。
﹁まだ何もしてないよ? これからするんだけど。でもつまんなさ
そうかな、あんたたちじゃ本気出すと可哀そうだし⋮⋮まあいっか、
300
結構ひどいこと言ってたし。あ、用心棒の人たちはそこそこ戦える
みたいね﹂
﹁い、今、今のうちに、逃げっ⋮⋮﹂
﹁うーん、でもまあそっか。ディ⋮⋮じゃなくて、あの人はいいけ
ど、他の人に戦ってるとこ見られるのはちょっとね﹂
まさに一瞬の早業だった。男たちが雇った用心棒二人が部屋に入
ってくる前に、アイリーンの姿が四つに分かれ、四人の男の後ろに
回る。それはただの残像のはずが、男たちに一撃を加えたあと、一
つに収束する︱︱まるで魔法でも使っているようだが、アイリーン
は純粋に体術と足さばきで、この動きを可能にしている。あまりに
も早すぎて、アイリーンの技が遅れて見えているのだ。
うめき声すら上げる間もなく、四人の男たちが昏倒する。しかし
俺は見ていた︱︱アイリーンは、ラーグと呼ばれた男だけに手加減
をしていた。おそらく、後で事情を聞き出すためだろう。
今の俺は一見すると明かり虫のように小さな魔力の球体だが、戦
闘評価は5万ほどになる。SSランク冒険者に相当する今の状態で、
辛うじてかすかに視認できるスピード︱︱それが、近接格闘のみで
冒険者強度10万を超えるアイリーンの実力だ。
﹁今のはシュペリア流格闘術、修羅幻影拳っていうんだけど。ごめ
んね、地味な技で倒しちゃって﹂
見ている側にとっては決して地味などではない。実力差がありす
ぎて、アイリーンは汗一つかいていない︱︱ただ遊んでいるだけだ。
﹁じゃあ次は用心棒の人⋮⋮手ぶらってことないよね。そのマント
の下に何か隠してる?﹂
301
﹃アイリーン、気をつけろ! 何か投擲してくるぞ!﹄
用心棒の一人、小柄な男がマントを跳ね上げ、隠し持っていたナ
イフを投擲する。
アイリーンはにやりと笑うと、長いおさげを振り乱しながら、飛
んでくるナイフを拳で叩き落とす。パン、パンッと小気味のいい音
がして、投擲された二つのナイフが弾かれて壁に突き立った。
﹁けっこう速いけど、女の子の顔を狙うのはちょっとね﹂
﹁くっ⋮⋮!﹂
まさかそんな防がれ方をするとは思わなかっただろうが、男はす
かさずもう一度投擲の体勢に入る。
﹁どけ、俺がやるっ! うぉぉぉぉっ!﹂
痺れを切らしたもう一人の用心棒が、剣を構えて突進し、アイリ
ーンに突きを繰り出そうとする。アイリーンはゆらりとした立ち姿
で、微笑みながら言った。
﹁刃物があれば、素手の相手をなんとかできると思った?﹂
﹁黙れぇぇっ!﹂
アイリーンの言葉を挑発と受け取ったか、黒髪に鉢金を巻いた男
が激高し、渾身の剣を繰り出す︱︱しかし。
﹁よいせっ!﹂
302
アイリーンは軽やかな掛け声とともに、突きをいなすようにして
回避すると、そのまま男の頭に手を置き、飛び上がる︱︱並みの敏
捷性では、そんな回避の仕方は不可能だ。
羽織っていた外套がはためき、深いスリットの入ったスカートの
中から伸びた長い素足があらわになる。
﹁これ持ってて!﹂
﹁うぉっ⋮⋮!﹂
そのままアイリーンは外套を脱ぐと、ナイフを投擲しようとして
いる男に投げつける︱︱男が放ったナイフは外套に突き立ち、穴を
開けた。
そこまで読んで外套を脱いだのかと思ったが、それはどうやら違
ったようだ。
﹁ちょっとぉ! それ、ディ⋮⋮じゃなくて、あの人にもらった結
構お気に入りなんだけど! あったまきたぁ!﹂
自分で投げておいて何を言うかと思うが、ナイフを防ぐために使
われたのなら、ギルドの支給品であるところの外套が破れようと必
要経費である。 ﹁舐めるなぁぁぁっ!﹂
あっさりアイリーンに突きを避けられた男も、Aランク相当の力
を持っている︱︱されるがままではない。後ろに振り向きざまに繰
り出された斬撃は、見覚えのある剣術の型に沿って放たれ、なかな
303
かの太刀筋をしていた。
しかし、なかなかというだけだ。アイリーンにとっては、止まっ
て見えるものでしかない。
﹁︱︱ハイッ!﹂
アイリーンは気合いの一声と共に足を踏ん張る。﹃震雷﹄と呼ば
れるその歩法は、次に繰り出す必殺の一撃のための構えである。
後ろから横薙ぎに襲いかかる敵の剣を、アイリーンは凄まじい速
さで身体を落として回避すると、地面に着くほどの低い姿勢から、
上にカチ上げるように掌底を繰り出す。
バギン、と音がした︱︱アイリーンの一撃で剣が折れたのだ。剣
の側面、重心の関係で折れやすい点を正確に撃ち抜くことで。
そして、それで終わりではない︱︱低くした身体を跳ね上げるよ
うにして、アイリーンは背中から肩を、後ろにいる用心棒に思い切
りぶつける。
シュペリア流格闘術奥義、﹃羅刹星天衝﹄。アイリーンの美しい
足が伸びきり、力をすべて激突点に集約させる︱︱ドゴォ、と凄惨
な音がして、食らった用心棒は弓なりに反って飛んで行き、、壁に
激突する。そのまま数秒張り付いたあと、ドサッ、とようやく重力
に引かれて落下した。
それでももう一人は逃げることをしない。技を放った直後のアイ
リーンの隙を狙い、再びナイフを投じる︱︱Bランク冒険者ならば、
このナイフを回避することはできない、それがAランクとの実力差
304
だ。
しかしアイリーンはSSSランクである。どのような不利な体勢
に見えても、Aランクの相手に対して隙を生じるということはあり
えない、それが厳然たる力の差というものだ。
﹁︱︱はぁっ!﹂
アイリーンは瞬時に体勢を立て直し、蹴りを繰り出す︱︱美しい
白い足が正確にナイフを弾き、そこから彼女の神業が始まる。
蹴りの力を加減し、アイリーンはナイフを少し浮かせるだけに留
める。
そして回転しながら滞空するナイフに、振りぬいた足を戻して蹴
りを入れる。どれだけの身体能力があれば、そんな動きが可能にな
るのか︱︱俺はもう何も言わず、彼女の技を見せつけられるほかな
い。
﹁ぐっ⋮⋮ば、化け物かっ⋮⋮!
蹴り返されたナイフは、用心棒の男が羽織っていた外套の肩の部
分を貫き、彼が背にしていたドアに縫い留める。
アイリーンはすたすたと歩いていくと、もはや圧倒されて抵抗も
忘れている男の目の前に立ち、腰に手を当てて尋ねた。
﹁ドアの弁償代金、後で請求するから。うちのボスって、そういう
とこしっかりしてるからね﹂
﹁⋮⋮は⋮⋮?﹂
305
アイリーンは﹁ハイッ﹂と軽めに、けれど床が震えるほどの﹃震
雷﹄を行ったあと、哀れな用心棒に、彼女の得意技をお見舞いした。
﹁あたたたたたたっ!﹂
アイリーンは目にも止まらぬ速さで連撃を叩きこむ。どんな原理
か、後ろまで打撃の衝撃が貫通しており、ドアに無数の打突痕がつ
けられていく。
﹁かはっ⋮⋮﹂
用心棒の服はずたぼろになり、白目を剥いて気絶してしまった。
俺が渡した外套を破られたことで、アイリーンは本気で怒っていた
ということだ。何かむずがゆいものを感じるが、アイリーンの逆鱗
に触れてしまった敵も気の毒ではある。
アイリーンはふー、と息をつくと、誰も動く者がなくなり、見て
いる者がいなくなった部屋で派手な蹴りを二発繰り出し、ビシッと
構えて言い放った。
﹁世の中の悪事は見逃さない! 困った人は放っておけない! 絶
対無敵の﹃仮面の救い手﹄、ここに見参!﹂
やはり誰も聞いていないのだが、なぜミラルカといい、相手を倒
してから名乗りを上げるのだろう。というか、名乗りは絶対に必要
なのだろうか。目立ちたくはない、だがやってみたら気持ちいいだ
ろうというのは分かる。
﹃ミラルカとは、決め台詞について意見の相違があるみたいだな﹄
306
﹁え、ミラルカはなんて言ってた? ユマちゃんも一緒に、今度意
見を出し合って決めることになってるんだけど。あたしの方がかっ
こいいよね?﹂
﹃僅差だな⋮⋮しかし、俺は本当にやることがなかったな﹄
﹁あたしだって、本気出すところなくて力を持て余してるんだけど。
あ、今のディックってこの人たちより全然強いよね? ちょっと戦
ってみる?﹂
﹃遠慮しとくよ。それより、このラーグって男が言ってたことが問
題だ。アイリーン、マナリナたちの警護に当たってくれるか。続け
ての仕事で悪いが﹄
﹁うん、わかった。この人たちどうする? ギルド員の人に頼んで、
捕まえといてもらう?﹂
ラーグ以外の三人、そして用心棒二人は起きる気配がない。ラー
グの動きを封じると、確実にヴィンスブルクトは、自分の企みが阻
止されようとしていることに気づくだろう。
﹃とりあえず、ラーグからもう少し話を聞くか。おい、ベルベキア
はいつ攻めてくるんだ﹄
﹁⋮⋮ベルベキア⋮⋮前の連絡では⋮⋮明日あたり⋮⋮ジャン様と
は、決裂⋮⋮利用されただけ⋮⋮﹂
そうなるとは思っていたが、王女を手に入れられなかったジャン
は、ベルベキアにとって必要ないと見なされ、軍道を作らされただ
けで切り捨てられたということだ。
﹃お前たちは、国を売って生き延びるつもりででもいたのか?﹄
﹁⋮⋮国境の砦に、部下⋮⋮ベルベキアが攻めてきたら、投降する
ように手配を⋮⋮ぐぉっ!﹂
307
俺が何も言わないうちに、アイリーンはラーグの脳天に頭突きを
する。彼女が本当に怒ったときに出る攻撃だ︱︱鬼族は石頭なので、
見た目以上の威力がある。
﹁そんな工作ばっかりして、アルベインがほんとに負けたらどうす
るの? こんな人たちの言うことを聞く人も、まとめてお仕置きし
なきゃ。ねえディック、やっちゃっていいよね?﹂
﹃気持ちは分かるが、まあ待て。ベルベキアが国境に接近する前に、
こっちとの力の差を教えてやればいい。アイリーン、マナリナの警
護に行く前に、コーディに伝言を頼めるか﹄
﹁うん、分かった。ディックに呼ばれたら、コーディも喜ぶと思う。
ディックのこと、大す⋮⋮じゃなくて、友達だもんね﹂
﹃何か不穏なことを言いかけなかったか⋮⋮? まあいい、最後は
光剣の勇者に任せるとするか﹄
アルベイン王国には、魔王討伐隊︱︱﹃仮面の救い手﹄を装って
はいるが、絶対的な力を持つ俺たちがいる。
そのことをベルベキアに知らしめる役目は、やはりあいつが一番
の適任だろう。
輝ける光剣・コーディ。彼の力があれば、ベルベキア軍に戦うこ
との無益を教えることなど造作もない。
﹁あ⋮⋮そういえば。さっきいっぱい回し蹴りしたけど、ディック、
見える位置にいたよね?﹂
﹃⋮⋮黙秘する﹄
﹁ふぁぁっ、きょ、今日はちょっといい感じの下着だけど、見せた
いわけじゃないから! 忘れてね、ほんとに!﹂
﹃白いものが見えた気がするが、気のせいってことにしておくよ﹄
308
﹁ま、待って、赤ってことにしておいて! 白はだめぇ!﹂
﹃妖艶にして鬼神﹄、その二つ名の所以を十割見せてもらうとま
ではいかなかったが、見学している俺にしてみれば、アイリーンの
戦う姿は、踊り子が舞いでも踊っているかのように艶やかだった。
309
第29話 勇者の嘘と虎人族の宴
倒した用心棒の素性は、所持していたギルドカードで把握できた。
律儀に持ち歩いているものだ。
5番通りにある﹁紫の蠍亭﹂に所属するAランク冒険者が二名。
暗殺者、用心棒を多く擁していることで有名なギルドだ。その性質
上、ガラが悪い連中が多い。
ラーグたちはヴィンスブルクトの部下ではあるが、これまでの経
歴は必ずしも貴族の家来にふさわしいものではなさそうだ。貴族の
中にも王都の暗部に関わる者がいるというのは、嫌というほど情報
が入ってきているが。
﹁他のギルドの人でも、この場合はいったん捕まえておかないとだ
よね?﹂
﹃まあそうだな。ラーグたちの依頼を受けて動いていたんだから仕
方がない。ギルドは受けた仕事をこなすものだが、受諾するかは判
断の自由があるわけだからな﹄
﹁ディックはいつも、依頼者の話をじっくり聞いて決めてるもんね。
だいたい受けちゃうけど﹂
ギルドは何でも屋ではないし、依頼者の素性と内容については、
精査しなければならない。そこで判断ミスを犯すのは致命的だ。
しかし俺のギルドに接触できるよう情報を与える時点で、すでに
ギルド員による予備審査は済んでいるといえる。そのおかげで、ギ
ルドを汚れ仕事の処理場と勘違いしたような依頼を持ち込まれ、対
310
応に困ることもそうそうなかった。
◆◇◆
十分な腕力のある男性のギルド員を何人か呼んで、ラーグたち六
人を、ギルドでいくつか持っている近くの物件へと運ばせる。そし
てアイリーンを介して宿の店主に金を払い、室内の修繕費を払って
おいた。あとでラーグ達から回収させてもらうが、それが絶対必要
だとは考えていない。
報酬はこの国の平和だなどと、綺麗ごとを言うつもりはないが。
内乱を阻止し、戦争を回避することの利益を考えれば、今回の仕事
が成功した時点で十分なリターンを得ている。
﹁それじゃ、あたしはコーディのとこに行ってくるね。ディックは
向こうに戻るの?﹂
アイリーンに問われて俺は少し答えに迷った。俺の本体は何事も
なく無事ではあるのだが、そろそろミラルカとリコが痺れを切らし
てしまっている。
俺とミラルカは長老の家での酒宴の席に招かれ、大勢の虎人族の
歓待を受けているが、そのうち酒が入った虎人族たちは陽気になり、
芸などを見せ始めた︱︱それを見ながらミラルカは手持無沙汰で、
俺に話し相手を求めているのだ。虎人族はなじみの仲間で盛り上が
ってしまっている、それは仕方のないことだろう。
本体の俺はミラルカに酒を注がれている︱︱ろくに返事をしてく
れないからつまらないわ、とミラルカは言っている。
311
スモールスピリット
やはり戻るべきか。しかし、アイリーンの胸にある魔法文字が消
えない限り、﹃小さき魂﹄の効果は︱︱
﹁ディック、聞いてる?﹂
﹃あ、ああ。わかった、俺は向こうに戻るよ﹄
﹁うん、ミラルカによろしくね。帰ってくるとしたら明日? ⋮⋮
それって朝帰りじゃない?﹂
﹃あいつが俺に何かさせると思うか? 俺はそこまで怖いもの知ら
ずじゃないぞ﹄
﹁そんな思ってもないこと言っちゃって。ディックって可愛いよね、
ときどき﹂
﹃お、思ってもないってどういうことだ。俺は⋮⋮﹄
﹁はいはい、いいからそろそろ戻ってあげなよ。ミラルカって寂し
がり屋だから、きっと待ってるよ?﹂
それはおそらく、アイリーンの言う通りではあるのだろう。もち
ろんミラルカに﹁寂しかったか﹂などと言えば、彼女の機嫌はここ
しばらくの最低を記録するのだろうが。
﹃アイリーン、ありがとうな。今回は、世話になった﹄
﹁っ⋮⋮う、うん。そんな、お礼なんていいって。あたし、フリー
だけどディックのギルドの一員だしね﹂
アイリーンは長いおさげに指先で触れながら言う。鬼族と人族の
ハーフである彼女の髪は、鬼族の血が濃いために白に赤が少し混じ
ったような色になっている。桃の色が近いだろうか。
﹁じゃあ行ってくるね。仕事が終わったら、みんなで集まってお疲
れ様会しない? ユマちゃん、今回呼んであげなくて寂しがってる
かもだし﹂
312
﹃そうだな。たまには何も考えずに、頭を空っぽにして飲みたいも
んだ﹄
アイリーンは微笑み、穴が空いてしまった外套をそのまま羽織る
と、フードを被って宿の窓から出ていった。ベランダから屋根に上
がり、屋根から屋根に飛び移って移動するのは、俺の思想である﹃
目立たない﹄を実行するための、彼女なりの常套手段だった︱︱猫
のように足音がしない彼女は、住人に気づかれずに駆け抜けていく
ことができるからだ。
◆◇◆
コーディが住んでいる区域は、騎士団の幹部家族が住んでいる区
域だった。貴族の住んでいる地区とは反対側にあり、王都の北東部
にある。
アイリーンは馬車よりも遥かに早いスピードで飛ぶように移動し、
コーディの家の前までやってきた。
﹁あれがコーディの部屋だよね⋮⋮よっ!﹂
正面玄関から入らず、アイリーンは庭の木を足場にして飛び、コ
ーディの部屋のベランダに着地した。
﹁ふー⋮⋮コーディ、いるー?﹂
アイリーンが軽く窓を叩くと、コーディが窓に近づいてきた。
﹁アイリーン、こんばんは。相変わらずだね、こんなところから来
て。裏口から入ってもいいのに﹂
313
﹁あはは、ごめんね。ちょっと急ぎで伝えなきゃいけないことがあ
って﹂
﹁何となくそんな気はしていたよ。ディックが、そろそろ呼んでく
れそうな気がしてたんだ﹂
コーディは窓を開けてアイリーンを部屋に招き入れる。部屋の中
には床に布が敷かれて、その上に鎧装束と剣が置かれていた。手入
れを終えたあとで、明かりを受けて指紋のくすみ一つなく輝きを放
っている。
騎士団長の位を授かったときに、国王から授与された白銀の鎧と、
柄に王家の紋章を刻まれた長剣。彼はその剣を戦いに使用すること
はないが、鎧を着るときは常に帯びていた。
﹁髪が濡れてるけど、戦いに出る前に、身体を清めてたとか?﹂
﹁そんなところだね。というより、今日は一日部隊の訓練をつけて
いたから、汗をかいてしまったんだ﹂
コーディは上半身にサラシを巻き、下はショートパンツという、
騎士団長としてはあるまじき格好でいた。
装備の手入れを終えたあと、入浴する︱︱それが、彼の剣士とし
ての毎日の備えだった。それはSSSランク冒険者として認定され、
魔王討伐隊を組んでからも、変わることのなかった習慣である。
そのはずが、一つだけ、冒険者として旅をしているときとは変わ
っていることがあった。
﹁お風呂から上がったらすぐに巻いてるんだ。コーディ、家にいる
ときもずっとそうしてるの? たまには楽にした方がいいと思うよ、
314
育ちざかりなんだから﹂
﹁アイリーンほどじゃないよ。しかし、最近は自分で巻くのが大変
になってきてしまった⋮⋮君にやってもらっていたときは、しっか
り巻いてもらえていたのにね﹂
﹁あの時はほんとにびっくりしたよ∼。でも、何となく分かってた
けどね。女の勘ってやつ﹂
﹁ははは⋮⋮そういうのは、あまりアイリーンには似つかわしくな
いけどね。僕が言うのもなんだけど﹂
﹁あ、そういうこと言う? はぁ∼、でも言いかえせない。コーデ
ィ、すっごく大変な思いしてるもんね⋮⋮五年前にディックと会っ
てから、ずっとだもんね。あたしなら途中で開き直っちゃって、デ
ィックにほんとのこと言っちゃうよ﹂
アイリーンはコーディに近づき、彼の身体に巻かれたサラシを指
さす。肩や腕の動きを殺さないようにしながらも、上半身全体が過
剰なほどに締め付けられ、固められていた。
﹁慣れるとそれほど大変でもないよ。弓使いは、常にこうするもの
だしね﹂
﹁胸に弓の弦が当たっちゃうからっていうよね⋮⋮コーディはもっ
と苦しそうだけど﹂
﹁これくらいはどうということはないよ。僕が、自分で決めたこと
だから。巻き方を工夫すれば、常に体に負荷がかかって、鍛錬にも
なるしね﹂
コーディは布で髪の残りの水分を拭き取る。拭きあげるときに白
い首筋を露わにすると、アイリーンははぁ、とため息をついた。
﹁ディックもなんで気づかないのかな。あたしとミラルカもすぐに
は気づかなかったけど、あれだけコーディと一緒にいるのに﹂
315
﹁それは、僕のことを信頼してくれているからだよ。僕が彼に対し
て、そうしているようにね﹂
コーディはアイリーンに椅子を勧めたあと、テーブルの上に置か
れていた、鎧の下に身に着けるアンダーシャツに袖を通す。すると、
サラシを巻いていることが一見して判別できなくなった。
﹁⋮⋮ごめん、コーディ。あたし、ディックに余計なこと言いそう
になっちゃった。コーディがディックのこと、大事に思ってるみた
いなこと言いかけて⋮⋮﹂
﹁それのどこに問題があるのかな。気にすることはないよ、アイリ
ーン。僕はディックを大事に思っているし、その気持ちは君たちに
対しても、国王陛下、この国の人々全員に対しても同じだよ﹂
﹁そんな優等生みたいなこと言って。じゃあ開き直って言っちゃう
けど、コーディはディックが大好きって言いそうになったんだけど、
それでも動揺しないの?﹂
コーディはアイリーンの言葉に答えない。やがてかすかに微笑む
と、目を閉じて答える。
﹁それでも彼は気が付かないよ。今までも、ずっとそうだった﹂
﹁そうなんだよね⋮⋮ねえ、コーディはもうずっと、ディックに本
当のこと言わないの?﹂
﹁僕が最初に、必要だと信じてつき始めた嘘だ。だから、最後まで
貫き通すよ﹂
﹁もう必要ないって分かってるのに? ディックのこと、信じてる
って言ったじゃない﹂
﹁⋮⋮そうだ。だから僕は、彼の信頼を決して裏切りたくはないん
だ﹂
316
アイリーンはまだ言葉を探していたが、やがて諦めると、外套を
脱いで椅子の背もたれにかける。そしてコーディに了解を得て、テ
ーブルの上にある水差しから、グラスに水を注いで一口飲んだ。
自分だけでなく、コーディの分も注ぐと、彼はグラスを受け取っ
て半分ほどを一息に飲んだ。﹁銀の水瓶亭﹂で冷たいエールを頼み、
飲むときと同じ仕草で。
﹁コーディはどうして、あんなことしたの? それ、いつか聞かせ
てもらおうと思ってたら、五年も時間が経っちゃったんだけど⋮⋮
今さらって言わないで、教えて﹂
﹁⋮⋮くだらない理由だよ。僕の考えが、幼すぎたというだけさ﹂
﹁くだらなくなんてないと思う。コーディはまじめだから、ちゃん
と考えて決めたことなんでしょ?﹂
コーディは残りの水を飲む。そして、真っすぐに見つめてくるア
イリーンを見返す。
﹁⋮⋮僕には兄がいたんだ。レオンという名前でね。SSランクの
冒険者として、僕が育った町では名を馳せていた﹂
﹁レオン⋮⋮聞いたことあるような。SSランクって、この国に2
0人もいないもんね﹂
﹁﹃白の山羊亭﹄の支部に所属していたから、この王都で話を聞く
こともあるかもしれないね。ただ、それは悪名かもしれない。兄は
実力はあるけれど、品行方正とは言えないから﹂
そこまで言うと、コーディの表情が陰る。彼は空になったグラス
を手に持ち、見つめながら言葉を続けた。
﹁兄は一緒にパーティを組んだ女性冒険者や、町の女性に簡単に手
317
を出してしまう人だった。家族のひいき目かもしれないけど、容姿
は整っていたし、実力は文句なく一流だったからね﹂
﹁あー⋮⋮お兄ちゃんがそんなことしてたら、確かに、下の子は町
で気を遣わないといけなくなっちゃいそう﹂
﹁事実、その通りだったよ。僕が子供の頃から世話になっていた近
所のお姉さんも、兄が手を出してしまった人の一人だ⋮⋮兄は、彼
女と添い遂げるつもりはなかった。別れたあとは、兄のかわりに僕
に罵倒をぶつけて、違う町に引っ越していってしまったよ﹂
アイリーンは言葉を無くす。コーディは顔を上げると、そんな彼
女に柔らかく笑いかけた。
﹁今となっては昔の話だよ。だけど僕は、兄を見て学んだんだ⋮⋮
冒険者になるなら、パーティは全て同じ性別か、もしくは均等な人
数の方がいい。男が一人であとは女性だけだとか、その逆は、きっ
といざこざを生む。自分でもばかなことだと思うけれど、そうやっ
て頑なに思い込んでしまったんだよ。世の中の男性には、兄と違う
考えを持つ人だって多いだろうとは思いもしなかったんだ﹂
﹁⋮⋮それで、魔王討伐隊のメンバーを見て⋮⋮っていうこと?﹂
﹁今でも自分を恥じる思いしかない。僕はディックを、初対面では
信じていなかったんだ。彼が強いということが肌でわかったからか
もしれない。僕は自分でも信じられないほど、強烈に彼を意識した
んだ﹂
コーディは胸に手を当てる。まるで、そのときのことを思い出す
と胸が高鳴るとでもいうように。
﹁自分と近い実力の相手が4人⋮⋮その中でも、ディックはなぜ僕
と同じくらいの強さを持っているのか、初めて見た時はまるでわか
らなかった。こんな強さの種類があるのか、と驚かされたよ﹂
318
﹁うん、それはあたしも。ディックの強さは、今でも不思議だよね
⋮⋮ただ腕っぷしが強いだけのあたしとは違う。あの人の強さは、
任せておいたら大丈夫っていう強さなんだよね﹂
アイリーンの賞賛に、コーディも笑って答える。そして今度はコ
ーディが、二人分のグラスに水を注いだ。
﹁彼と一緒に戦ううちに、僕は彼を疑ったことを悔やむようになっ
たけれど⋮⋮でも、良かったとも思っている。もし、僕が彼に嘘を
つかなかったら、今みたいな関係ではいられなかったかもしれない
からね﹂
﹁⋮⋮嘘をついたままで、騎士団長にまでなっちゃって。それで、
引き返せなくなっちゃったっていうのも⋮⋮﹂
﹁痛いところを突いてくれるね⋮⋮もちろんそれはあるよ。僕は単
純だから、この国を守り続けるために必要な役目を、騎士団長しか
思いつかなかったんだ﹂
﹁それで今も忙しくしてて、立派に務めてるんだからえらいよ。あ
たしとミラルカも、ユマちゃんもそう言ってるから。だから、同時
に心配してもいるんだけどね﹂
﹁⋮⋮ありがとう。僕は大丈夫だよ。辛いとは感じていないし、嘘
をついているということも忘れそうになるくらいだ﹂
アイリーンは﹁それこそ嘘つきだよ﹂とつぶやく。
コーディの耳には届かなかったのか、それとも、聞かないふりを
したのか。彼は席を立ち、そして手を前にかざす。それは、﹃光剣﹄
を呼び出すときの構えだった︱︱今は剣を呼ぶことはなく、ただ構
えだけを見せる。
﹁僕はこれからも、彼の剣であろうと思っている。彼が行けと言え
ば、どこにでも行くよ﹂
319
﹁⋮⋮ほんとに好きなんだね。ディックも気にしてたよ、男同士な
のにお腹に触らせてくれないって﹂
﹁⋮⋮見られてしまったら、僕はディックを気絶させて、記憶を消
さないといけないからね。彼には、絶対に知られてはいけないんだ。
僕が⋮⋮﹂
コーディがアイリーンの前で、誓いを立てようとする︱︱その途
中で。
彼の声が途切れ、﹃俺﹄の耳には、何も聞こえなくなり、コーデ
ィの部屋の光景が遠のいていく。
︱︱ック、ディックったら。もう⋮⋮上の空どころか、意識が完
全に向こうに行ってるじゃない。
俺のことを呼ぶ声がする。ここで、魔法は時間切れだ︱︱否応な
く、意識が本体に引き戻されていく。
◆◇◆
﹁⋮⋮ん⋮⋮なんか、柔らかい⋮⋮﹂
﹁何を言ってるのよ⋮⋮お酒を注いであげてたら、急にこっちに倒
れてきたんじゃない。重いから早く起きて、足がしびれてしまうわ﹂
﹁足って⋮⋮み、ミラルカ、悪いっ⋮⋮!﹂
虎人族の祝宴が行われている、100人ほどが入っても余裕のあ
るテント。
その主賓席で、俺はミラルカに膝枕をされていた。ヴェルレーヌ
320
にされたときと負けず劣らず、それでいて唯一無二の弾力が、後ろ
頭を適度に沈みこませ、受け止めてくれていた。
しかし甘んじて膝枕をされ続けるわけにもいかないので、身体を
起こす。
﹃小さき魂﹄の媒介としてアイリーンに描かれた魔法文字。それ
が効果を喪失するまで、俺にはアイリーンとコーディのやりとりが
聞こえていた。魔法文字は時間経過で消す以外には特殊な薬品を使
わないと消せないし、ヴェルレーヌの手を借りることになる。
それゆえに、盗み聞きになると知りながら、俺は仲間たち二人の
やりとりに意識を向けてしまった。コーディに兄がいたこともそう
だが、二人の話を聞いていると、何か俺は重大なことに気づかずに
いるようだと思えてならなくなる。
コーディが、兄レオンの女癖の悪さから男性を警戒しており、初
対面の時に俺を信用していなかった。
そのためにコーディは、嘘をついたという。どんな嘘が必要だっ
たのか。
それよりも何よりもコーディが上半身に包帯を巻いている姿や、
髪を拭くときの仕草を見て、自分でも自覚したくはない感情を覚え
たことに、俺は大いに罪深さを感じていた。
コーディは男だ。髪が男としては綺麗で、肌がきめ細かくとも、
気の迷いを起こしてはならない相手だ。俺はミラルカに注がれた酒
を上の空で口にして、酔っているだけだ。
321
﹁⋮⋮何だか動揺してるみたいね。リコ、気付けの飲み物を用意し
てあげて﹂
﹁わかった。これ、ドワーフから作り方教わった、火酒。飲んだら
身体が熱くなって、気付けになる﹂
﹁す、すまん⋮⋮ぐっ、こいつは効くな⋮⋮だが、製法上の問題で
少し純度が低いようだ。三日待ってくれ、俺が本物の火酒をこの村
にもたらそう﹂
﹁仮面の人、美味しいお酒の作り方知ってる! すごい! 長老様
に教えてくる!﹂
リコは興奮ぎみに長老のところに走っていく。つい酒場を経営す
る者として酒の味にうるさくなってしまった︱︱そんな俺を見て、
ミラルカは不思議そうな顔をしていた。
﹁何かあったみたいだから、後で詳しい話を聞くわね。今夜じゅう
に帰るのは難しそうだから、泊まれるように話をつけておいたわよ﹂
﹁あ、ああ⋮⋮ありがとう、ミラルカ﹂
そう答えてから気が付く。客人を泊めるためのテントは、もしか
して一つしかなかったりするんじゃないのかと。
俺が疑問を口にできずにいるうちに、ミラルカは果物の果汁で割
った酒の杯を傾けながら、テントの中央で繰り広げられる虎人族の
女性たちの舞いを、興味深そうに見つめていた。
322
第30話 輝ける光剣と秘められた名前
アイリーンとの談話を終え、彼女と別れたあと、コーディ・ブラ
ンネージュは南西の国境に向かうため、密かに王都を離れた。
﹃銀の水瓶亭﹄は、王都アルヴィナスだけでなく、アルベイン王
国の全域に幾つかの拠点を持っている。その拠点間は、転移魔法陣
によって相互に行き来をすることができる。
転移魔法陣を設置するには、転移魔法を封じ込めた魔法結晶が必
要である。この魔法結晶は古代遺跡などから発掘されたものを使用
するが、それを利用することはできても、原理は解明されていない。
そのため、転移魔法の魔法結晶は希少価値が高く、金では取り引
きすることができない。銀の水瓶亭は遺跡や古代迷宮の調査をある
時期に精力的に行い、設置済みのものを含め、それを八つ所持して
いた。
そのうちの一つが、南西の国境近くの宿場町に設置されていたと
いうのは、コーディが銀の水瓶亭の要請を受けて行動を起こす上で
の大きな助けとなった。
騎士団の中に、コーディが王都を離れることを知る者は、副団長
の重騎士マルロのみ。しかしコーディは彼の家に仕えるメイドに﹃
体調不良により騎士団詰所への出頭が遅れる。翌日の昼までに戻る﹄
という封書を渡したのみで、マルロに自分がどこに行くのか、何を
するのかまでを伝えることはなかった。怪しまれる前に戻れるかは
賭けであったが、ラーグからもたらされた﹁ベルベキアが明日攻め
323
てくる﹂という情報を信じての行動だった。
アイリーンに教えられたとおりコーディは銀の水瓶亭に向かい、
ヴェルレーヌの案内で、店の地下の酒蔵に降りた。ヴェルレーヌは
並んでいる名酒の酒瓶の棚を見て、ある一本の瓶を外すと、その奥
にある仕掛けを押した。
部屋の奥、酒瓶を持つ女の絵画が飾ってある壁が、ゆっくりと回
転する︱︱隠し扉だ。
﹁なるほど⋮⋮裏口から出入りするようにと言われたわけだ。こん
な秘密があったとはね﹂
﹁ご主人様が店にいるときは、彼がここの門番のようなものだから、
何も案ずることはないのだがな。私も引退したとはいえ、元魔王だ。
貴君でもなければ、転移結晶を狙う者が現れても負けることはない﹂
﹁昔はあなたの暗黒魔法に、僕も苦戦させられた。流血させられた
のは初めてだったよ﹂
﹁血まみれになっても私を殺そうとしなかったな。光剣を全力で振
るえば、私など八つに切り裂かれていただろうに﹂
過去の戦いについて二人が語るのは初めてのことだった。ヴェル
レーヌは店主として、コーディは客として、常にその距離を保って
いた。
﹁ディックはあなたと戦う前から、魔王討伐が終わったあとのこと
を考えていた。あなたを殺してしまったら、魔族は必ず最後の一体
になるまで、アルベインへの憎しみを絶やすことがない。魔王国に
入ってから各地を見聞する中で、彼はそう判断したんだ﹂
﹁⋮⋮魔王国に入って三ヶ月。魔王城の守備を手薄にするための攪
乱が目的だと思っていたが、ご主人様は、私の国を見ていたのだな。
324
どんな者がいて、どんな考えを持っているか﹂
﹁あなたの所に駒を進めるための準備だと言っていたけど、ディッ
ク以外の四人は、全員が魔王城になぜ向かわないのかと疑問に思っ
ていたし、衝突もしたんだ。でも彼は最低限の労力で目的を果たす
には準備が必要と言って、僕らを説得したのさ﹂
ヴェルレーヌはその考えに13歳で至ったことを信じがたく思う。
ダークエルフは長命だが、ヴェルレーヌもまた早熟と呼ばれ、二十
代から才覚を示し、前王の退位を早める形で女王の座に就いた。そ
の彼女から見ても、ディックは自分より長く生きているのではない
かと思えることがあった。
﹁ご主人様にとっては、それは当たり前のことなのだ。周囲から見
れば遠回りであっても、彼にとっては最短であり、そうでなかった
ことは一度もない。だからこそ私は疑問に思う⋮⋮なぜ、コーディ
殿の正体に気づかずにいるのかを﹂
﹁貴族の女性たちが、僕がパーティに出るのを心待ちにしている⋮
⋮なんて言っていたのに。あなたも人が悪い﹂
﹁本当に魅力的な人物には、男も女もない。女勇者が、宮廷の女性
を篭絡するなどという物語も、耽溺する者はさほど珍しくない。私
に仕えていた者にも、同性にしか興味を持たない者がいたからな﹂
﹁僕もきっと、ディックにそう疑われていると思う。必要がなけれ
ば会わないくらいでちょうどいいのかもしれない﹂
﹁ご主人様はギルド員には慕われているが、気を許して話せる相手
は少ない。コーディ殿もその一人なのだから、私としては通っても
らったほうがありがたい。あの方が18歳という年齢相応の顔をす
るのは、コーディ殿が来たときくらいなのだから⋮⋮さて、雑談は
これまでとしよう﹂
ヴェルレーヌは隠し扉の向こうにある部屋にコーディを招き入れ
325
る。そこには、空中に浮かぶこぶし大の大きさの転移結晶があり、
その下の床には複雑な紋様︱︱魔法陣が描かれていた。
﹁これが転移の魔法陣⋮⋮誰でも利用することができるのかい?﹂
﹁大まかな目安になるが、この国における魔術評価が2万以上の者
でなければ、魔法陣を起動することはできない。ご主人様が条件付
けをしているのでな﹂
﹁ディックはそんなことまで⋮⋮﹂
﹁ご主人様は特定以上の魔力量が無ければ起動しない魔法陣を描く
リミッター
ことができるのだ。強化魔法の逆の作用を起こし、術者の魔力を百
分の一に絞る﹃関門﹄を設定する。それを通過することができれば
起動できるというわけだな。コーディ殿も、魔力量だけなら条件を
満たしているぞ﹂
﹁いや、僕は魔法のことは他のみんなに任せるよ。僕が使える魔法
は一つだけで、他の魔法を覚えようとするとうまくいかない。転移
の魔法も、あなたに起動してもらうのが一番いいだろう﹂
コーディは謙遜しているのではなく、本当に﹃一つの魔法﹄以外
を使わないのだとヴェルレーヌは理解する。コーディから感じられ
る精霊の気配はただ一つで、火や水といった元素精霊を呼び出す魔
術を使用した痕跡はまったくなかった。 そう︱︱コーディが契約している精霊は、たった一つ。その一つ
を前に、ヴェルレーヌは膝をついたのだ。
﹁転移する先は国境の内側だが、それでいいのか? ベルベキア軍
を国境の中に入れるわけには行くまい﹂
﹁国境壁に上り、ベルベキア軍が見えたところで戦いを終わらせる。
僕は本来、そういうことに特化しているからね。間合いに入らなけ
れば打撃を与えられないのは、あなたのような魔王だけだよ﹂
326
﹁それは光栄と言っていいのか⋮⋮光剣の勇者と近接戦闘をして、
生き残ったことを喜ぶべきなのか。いや、手加減をされたことを恥
じるべきなのだろうな﹂
﹁そんなことはないよ。僕たちは五人で、ようやくあなたを倒せた
んだから﹂ コーディは爽やかに笑うと、ヴェルレーヌに握手を求めた。ヴェ
ルレーヌは右手の手袋を外すと、勇者の手を握り返した。
﹁健闘を祈る。ご主人様が帰って来たら、ぜひ活躍を報告してくれ﹂
ヴェルレーヌは魔法陣を起動させる。コーディの視界は光に包ま
れ、白に染まる。
そして光が薄らいだあと、コーディの目の前にある景色は一変し
ていた。目の前には、壮年の男性魔法使いが立っている。﹃銀の水
瓶亭﹄に所属するギルド員だとコーディは判断した。
﹁ギルドマスターから連絡は受けております。こちらで協力できる
ことはございますか、騎士団長殿﹂
﹁一つ頼みたいことがあるんだ。それと⋮⋮僕のことはこう呼んで
くれ。﹃仮面の救い手﹄と﹂
﹁これは失礼いたしました⋮⋮まったく、あの方も、そのお仲間も、
考えることが破天荒でいらっしゃる﹂
コーディは白銀の鎧が目につかないように赤い外套を纏い、黄色
の仮面を被る。正体を偽装しているにしては派手で目を惹く姿に、
男性魔法使いは皺の刻まれた瞳を細めて笑った。
◆◇◆
327
コーディが国境近くの宿場町に転移し、数刻ほどあとのこと。
夜明け前の国境の砦近くに、派手な仮面の人物が現れた。守備兵
に質問されても何も答えず、砦の外壁を恐るべき体術で跳躍を繰り
返して登っていき、瞬く間にその頂上に辿りついてしまった。
﹁な、なんだ貴様! そこから降りろ!﹂
﹁ここは無関係の人間が来ていい場所じゃ⋮⋮うわっ! て、敵襲、
敵襲ぅぅっ!﹂
﹁西の方角に、大軍が⋮⋮っ、ベルベキア軍が⋮⋮っ!﹂
ベルベキア側を見張る兵たちが騒ぎ始めると同時に、コーディは
砦の見張り塔の屋根の上から、まだ薄暗い西方の平原に、ベルベキ
アの大軍の姿を認める。
およそ五万にも及ぶ、騎兵と歩兵、攻城兵器で構成された軍。ベ
ルベキアはヴィンスブルクトの力を借りずとも、アルベインを攻め
るつもりでいたのだ。
エクスレア大陸北部に広大な版図を持ち、豊かな鉱産資源と穀倉
地帯を持つアルベインだが、ベルベキアにとって魅力的であったの
は、国土を南北に貫く大河が流れ、地下水も豊富であるという土地
事情であった。
水はベルベキアの民にとって貴重であり、奪い合い、争いの原因
となってきたものであった。現在ベルベキアは九つの民族が統合し
て共和国と名乗っているが、その実は、強力な騎馬隊を持つガラバ
族が、一つずつ他の部族を併合していき、国の形を成したという、
実質的には軍事独裁国家の様相を呈していた。
328
しかし軍事国家であるベルベキアは、それ以上の武力に屈し、長
く他国から搾取を受けていた。
ベルベキアのさらに西方には、Sランクの魔王が統べる領土があ
る。魔王は一度ベルベキアの領土に侵入し、一つの村を灰燼に帰し
た。それは、ベルベキアの民にとって国の滅亡を覚悟する出来事で
あった。
魔王はそれ以上侵攻せず、貢物を求めた。村を攻めたのは滅ぼす
ためではなく、奪うためであった。
長く奪い続けられたベルベキアは、それでも国力を軍事に注ぎ、
﹃黒鉄騎兵団﹄を編成した。魔王の国を相手に決死の戦いを挑むよ
りも、人間の国の方がまだ勝てる見込みはあるとそう考えたのであ
る。
ベルベキアの将官、そして兵士たちは、この戦争に希望を託して
いた。かつて九つの民族を平定したガラバが、もう一つの民族︱︱
アルベイン王国の国家を併呑する、それができないはずはないと信
じていた。
しかし、彼らは知らされていなかった。
アルベインの平和が、SSSランクの魔王を討伐することで得ら
れたものであることを。
ヴィンスブルクトは彼らに教えなかった。ベルベキアに都合の良
いことだけを吹聴し、ベルベキアもまた異国の民であるヴィンスブ
ルクトを信じなかった。
329
それで、どうして勝てると思ったのか。コーディは怒りではなく、
哀れみを抱いていた。 そして同時に、進軍してくる兵たちが、ひとりも命を無駄にせず
に済むようにと願った。
﹁︱︱アルベインの守備兵たちよ、そこを動くな!﹂
仮面の効果で、コーディの声は別人のように変化していた。その
低く響くような声に、守備兵たちは圧倒される。
﹁何を言って⋮⋮て、敵が攻めてきてるんだぞ! あの大軍じゃ、
ひとたまりも⋮⋮﹂
﹁に、逃げろっ! 砦を捨てて逃げろ、そうすれば助かる!﹂
声高に言って逃げていく何人かの兵。コーディは砦まで連れてき
た﹁銀の水瓶亭﹂のギルド員たちに、彼らを捕縛するように指示を
していた。
アルベイン騎士団に、敵を前にして逃走する者はいない。コーデ
ィは騎士団長として、自分の部下に離反者が出たことを悔やんでも
いたが、それは今後につなげる反省にもなった。
﹁ベルベキア⋮⋮今回は、帰ってもらうよ。いずれ、あなたたちも
救われる時が来るから﹂
隣国を脅かす魔王の存在を知り、あのディック・シルバーが放置
するはずがない。
330
彼ならば、酒場から一歩も動くことなく、遠く離れた場所にいる
魔王を倒すことができるだろう。
彼なら当たり前にやってみせるだろう、今までそうしてきたよう
に。コーディはそう思って疑わない。
夜明けが近づき、コーディの背後の遥かな後方から、太陽が昇り
始める。
その仮面の下の白い頬に、光る雫が一筋流れた。
それがなぜなのか、コーディには自分でも分からなかった。
﹁僕は、君のための駒となれているだろうか⋮⋮ディック﹂
誰にも届くことのない声で言うと、コーディは背に太陽の光を浴
び、正面に手をかざした。
無音詠唱︱︱それを幼くして体得していなければ、どうなってい
ただろうかと思う。
︵きっと君を欺くことができずに、僕は⋮⋮﹃変な女﹄だと思われ
てしまっていたかな︶
男性を信じられずに、ディックのことも信じずに、ミラルカより
も酷い態度を取って、嫌われていたかもしれない。
それとも、どんな過程を経たとしても、ディックは自分の心を開
いてしまうだろうとも思う。
331
︵そんなことを考えると、何だか、馬鹿らしくなってしまう。君と
いうやつは、本当に⋮⋮︶
コーディは流れる涙を気にすることなく、長くの間封じ込め続け
た、両親から与えられた本当の名を口にした。
﹁コーデリア・ブランネージュの名において請願する。剣精ラグナ
よ、我が手に光の剣を与えよ⋮⋮!﹂
コーディとは、コーデリアが冒険者強度の測定を受け、SSSラ
ンク冒険者となったときからの偽名であった。
魔王討伐の旅路では真の名前を名乗らず、無音詠唱で光剣を呼び
出してきた。それはただ、ディックを欺くためのことだ。
剣精は﹁特異精霊﹂と呼ばれ、元素精霊と違い、世界に一体しか
存在しないとされている。コーディ︱︱コーデリアが初めに精霊と
の契約を行ったとき、彼女は剣精に選ばれ、契約者となった。
ライトブレード
剣精の力がもたらす魔力剣のうちひとつが、﹃光剣﹄である。
それは光の属性の刃を持つ剣という側面もあり、ヴェルレーヌと
の戦いではそのような形で使用された。
しかしコーデリアの光剣の真の姿とは、﹃光そのもの﹄である。
近接戦闘において剣の形で使用すれば最大の威力を発揮するが、
必ずしもその形にこだわる必要はない。光そのものの性質を持つ武
器として使用したとき、何が起こるか︱︱。
332
ライトブレード ホライゾンバレット
︱︱光剣・超長距離光弾︱︱
光剣の形状が変化し、二つの光弾の形に収束しきったあと、光弾
が消える。
ほぼ同時にベルベキア軍の旗印が射抜かれ、その近くにいた総指
揮官の鉄兜が、異音と共に弾け飛んだ。 光の速さで敵に到達し、二発の光弾は正確に狙った通りの場所を
ほぼ同時に射抜いた。
剣精の補助によって、コーデリアは自分のいる位置から光が到達
する場所までを精細に視認し、狙うことができる。つまり、光が届
く場所であれば、射程は理論上無限大だ。精霊の力によって作り出
される光は通常の光のように屈折することもない。
﹁なんだ⋮⋮ベルベキア軍が混乱してる⋮⋮!?﹂
進軍を続けていた大軍に、動揺が走る。あと半刻で国境に到達し、
砦を突破できるだけの兵力が揃っている。しかし彼らは歩みを止め
た。
﹁あの大軍が、止まった⋮⋮仮面のあいつが、何かしたのか⋮⋮?﹂
﹁バカな、この距離で一体何ができる﹂
﹁だ、だが、何かしたようには見えたぞ⋮⋮くっ、太陽が眩しくて
見えんっ﹂
光剣を使ったことを知られれば、正体の特定につながる。コーデ
リアはアルベイン兵の言動を緊張しながら聞きつつ、ベルベキア軍
の動向を見ていた。総指揮官の兜だけを射抜いただけでは、彼らは
333
戦意を失わない可能性がある。
︱︱しかし、コーデリアが思うよりもずっと、ベルベキア軍は未
知の恐怖に対して耐性がついていなかった。
﹁逃げて⋮⋮いく⋮⋮﹂
﹁ベルベキア全軍が⋮⋮ど、どういうことだ⋮⋮?﹂
全てを賭けて攻めてくる軍が、こんなことで戦意を失うのか。コ
ーデリアはそう叱責する念も覚えない。
自分の力は、これまでも恐れられてきた。剣精と契約し、その力
を知られた時には、強かった兄すらもコーデリアを恐れるような目
で見た。SSランクの冒険者が、5歳も年下の少女に恐怖したのだ。
予想外の事態に混乱する兵士たちに、コーデリアはすぅ、と息を
吸い込み、ディックならばこう言うだろうというセリフを考え、高
らかに言った。
﹁今、敵の総指揮官の兜を射抜いた! いいか、兵士たちよ! 僕
ら﹃仮面の救い手﹄が、何度も窮地を救うとは思わないことだ! 気を引き締め、敵に備え、日々の訓練を続けるんだ!﹂
コーデリアは騎士団長としての口調が出てしまったことを気にし
つつ、見張り塔の屋根から、足場を飛び移りながら砦の下まで一気
に降りていく。
﹁仮面の救い手⋮⋮す、すげえ⋮⋮一体何者なんだ⋮⋮!﹂
﹁兜を射抜いたって、この距離で⋮⋮み、見ろ! 奴らの旗が破れ
てるぞ!﹂
334
﹁あれもあいつがやったのか⋮⋮か、神業だ⋮⋮!﹂
ベルベキア軍の旗は破れ、もはやただの大きな布切れになってい
る。それだけで発言の補強になるかどうかはコーデリアにとって賭
けだったが、ある程度彼女の目論見の通りに進んだ。
たる
﹁みんな、あとで僕が直々に指導してあげないと⋮⋮長く敵が来な
かったからといって、弛んでいるのは良くない。これは、厳しい訓
練計画を組まないとね﹂
コーデリアは砦を後にしつつ、振り返りながら独りごちた。その
口元に、涼やかな笑みを浮かべながら。
そして、砦からある程度離れた街道に入ったところで、コーデリ
アはギルド員と合流する。魔法陣の管理をしていた男性魔法使いが、
部下を連れて、ラーグに買収された兵たちを捕らえていた。
﹁お疲れ様でございました。いや、こちらからは何が起きたのか、
全く見えてはおりませんが。敵軍が撤退したというのは、砦の様子
から伝わりました﹂
﹁うん、ありがとう。ディックのギルドは、やはり優秀な人が揃っ
ているね。離反者は、それで全員かな?﹂
﹁いざとなって、逃走しなかった者がいるかもしれませんが。後で
あぶり出さねばなりませんな﹂
﹁いや。あとであの砦の兵たち全員に厳しい訓練を課すつもりだか
ら。それに参加したなら、きっともう裏切ろうとは思わないはずだ
よ。僕や、僕の直属の部下の指導は、少々厳しいからね﹂
コーデリアの言葉を聞いて、ギルド員たちはその訓練の苛烈さを
想像し、兵たちに同情せずにはいられなかった。彼女︱︱誰もが﹃
335
彼﹄だと思っている︱︱の放つ気迫は、Bランク以上の男性冒険者
の集団であっても、戦意を根こそぎ奪われるほどのものだったから
だ。
捕縛した兵たちを王都に連行する手はずを考えながら、コーデリ
アは再び転移魔法陣を使い、王都へと帰還した。それは彼女が自分
の屋敷を出てから夜が明けるまでの、およそ数時間のあいだの出来
事であった。
336
第31話 虎人族の温泉と公爵の抵抗
酒宴を終えたあと、あれよという間にミラルカとリコの二人と同
じテントで休むことになってしまったが、客人用のテントが広く、
間が幕で仕切られて男女別になっていたことで、それほど寝つきが
悪い夜を過ごすことにはならなかった。
﹁いや⋮⋮寝るわけにはいかないだろ。どれだけ飲ませたんだ、ミ
ラルカのやつ﹂
そう、ゆっくり寝て明日の朝を迎えるわけにはいかない。空が白
む前には、この村を発たなければ。
俺の読みでは、明け方までにコーディがベルベキア軍を撃退する
だろう。その一報が、王都に伝わればどうなるか︱︱ヴィンスブル
クト家が取る行動には、幾つかのパターンが考えられる。
一つは、謀反を企んだことが露見する前に、王都から逃げ出す。
もう一つは︱︱露見しないとタカをくくり、隠蔽工作を行う。ラ
ーグやその手下たちを捕らえている以上、完全に悪事の証拠を消す
ことはできないので、それは意味がない。
最後は、権力を持つ者が、追い詰められたときに取る方法。誰か
に罪を背負わせ、王都に出頭させる⋮⋮あるいは。考えるだけでも
唾棄すべき思いだが、王位を簒奪しようとした人間ならば、手段を
選ばないという可能性も否定できない。
酔いが抜けず、少し身体がふらつく。俺は思い出したように腹に
337
手を当て、酒の解毒を始めた。
虎人族の酒はなかなかの味ではあるが、製法の問題で不純物が入
ってしまい、悪酔いしやすい。その野趣あふれる味がいいという客
もいるから、虎人族のどぶろく酒はぜひ店に置きたいところだ。
﹁⋮⋮あれ?﹂
幕の向こうで寝ていたはずのミラルカ、リコの気配がしない。
この時間に外に出歩くとは、﹃可憐なる災厄﹄といえど少し心配
だ。リコと一緒なら、案内してもらってどこかに行っているのかも
しれないが。
俺はテントを出て、ミラルカとリコの無事を確認するべく、魔力
を辿って捜索することにした。
ミラルカは特に魔力が特徴的なので、通った場所に痕跡が残りや
すい。どうやらミラルカは、リコと共に、村はずれの森の中へと向
かったようだ。
﹁これは⋮⋮﹂
森に入ってしばらく進んでいくと、正面から霧が出てきた。温か
く湿ったこの感じと、特徴的な匂い︱︱これは、なんだっただろう
か。
ますます白い霧が濃くなり、まだ早朝で辺りは暗く、まばらにし
か明かりが設置されていないので、前方がよく見えない。魔力を辿
ることも困難になるが、引き返すわけにもいかずに進んでいく。
338
︱︱すると、目の前に背の高い竹を横一列に組み合わせた壁が出
現した。その竹の隙間から、白い霧があふれてきている。
﹁⋮⋮この向こうにいるのか? おーい、ミラル⋮⋮﹂
呼びかけつつ、竹の隙間からその向こうを覗いて︱︱俺は、ちゃ
ぷん、という水音が聞こえてきていることとその意味にようやく気
が付いた。
﹁ふぅ⋮⋮やっぱりお風呂に入らないと落ち着かないわ。案内して
くれてありがとう、リコ﹂
﹁私も入りたかったから、一緒に来てくれてうれしい! 仮面の女
の人、大好き♪﹂
﹁⋮⋮あなた、彼になついていたんじゃなかったの?﹂
﹁仮面の人たち、ふたりとも私の恩人。同じくらい、大事な人。み
んなの人間嫌いも、ちょっとなおった﹂
﹁そう簡単に心を許すのも危険よ。私たちは例外的なんだから﹂
︱︱なぜ、ミラルカは仮面をつけたままで風呂に入っているのか。
そんなことはいいとして、俺の視界に飛び込んできたのは、岩で
形作られた風呂︱︱いわゆる露天風呂というやつで、リコに背中を
流してもらっているミラルカの姿だった。
湯気で絶妙に隠れているが、湯気とは流れるものである︱︱じっ
と見ているうちに見えてはいけないものが見えた気がして、頭に血
が上ってしまう。
︵昔討伐隊で旅をしてたとき、三人で水浴びをしてたこともあった
339
な⋮⋮これは覗きじゃないぞ。温泉の匂いだと気が付くのが遅れた
だけだ︶
声を発したにも関わらず、耳がいいはずのリコが気づかないとは
︱︱こんな時に天が味方してしまう、自分の運が恐ろしい。
﹁⋮⋮ねえ、リコは本当に彼と結婚したいの?﹂
﹁にゃっ⋮⋮う、うん。仮面の男の人、素敵な人。すごく強くて、
優しい﹂
ミラルカがそんな意見を聞かされても、素直に肯定することはな
いだろう。
そう、思っていたのだが⋮⋮。
﹁ふふっ⋮⋮あの人、周りが気が付かないと思っているのよね。機
転が利くし、顔もそんなに悪くないし、男性としては他に彼以上の
人を見つけるのは大変だから、リコの気持ちもわからないでもない
わ﹂
心臓︱︱もとい、ハートをつかまれる思いだった。
いや、こんなふうにミラルカの本音を聞かされたところで、俺は
知らないふりをしなくてはならないし、不誠実なことをしていると
分かっているが。
﹁あの人のこと、もっと知りたい。本当にもう一回、村に来てくれ
る?﹂
﹁ええ、訪問させてもらうわ。その時は、仲間も連れてくるかもし
れないけれど、いいかしら?﹂
﹁仮面の人の友達なら、歓迎する! すごく楽しみ♪﹂
﹁私たちも、お休みの日に遊びに来られる場所が増えてうれしいわ。
340
このあたりは珍しい動物が多いし⋮⋮それに、あなたのこの尻尾も
⋮⋮﹂
﹁えへへ、くすぐったい。リコのしっぽ、あの人より先に、あなた
に触ってもらった。女の人に触ってもらうのは、友だちのしるし﹂
﹁そうなの? じゃあ、これで私とリコも友達になれたのね﹂
ミラルカはリコの尻尾の先のモフモフとした部分を触る。リコは
そのお礼というように、さらに丁寧にミラルカの体を流し始めた。
俺は竹で出来た目隠しの仕切りを離れ、テントに戻っていく。何
も心配することはなかったし、このまま見ていたことが知られたら、
後が怖いでは済まされない。
﹁⋮⋮仮面の男のひと、仕切りの向こうまできてた。リコ、見られ
た?﹂
﹁っ⋮⋮ど、どうして言わないの? どこから聞かれていたのかし
ら⋮⋮場合によっては殲滅⋮⋮﹂
﹁だ、だいじょうぶ、そんなに近づいてない。人間の耳、虎人族と
違って、この距離なら声は聞こえない﹂
﹁そ、そう⋮⋮それならいいのだけど。もし聞かれていたら、私も
身の振り方を考えないと⋮⋮﹂
﹁一緒に仮面の人と結婚する? あなたが一番目、リコは二番目♪﹂
﹁⋮⋮本当に素直ね、あなた。見ていると、何だか怒る気もなくな
ってしまうわ﹂
今のミラルカは昔のとがっていた時期からすると、想像もできな
いほどに人当たりが優しくなった。
昔のように触れるものみな傷つけていたミラルカも、それはそれ
でポリシーを貫いていて格好いいじゃないかと思うことはあったが、
341
今の柔らかい雰囲気はさらに魅力的だ。
しかし魔王討伐隊は俺にとって、男女の関係を意識してはならな
い存在だ。
たとえミラルカの姿を見てのぼせてしまい、自分に﹃癒しの光﹄
を使う事態になったとしても。
◆◇◆
そして夜が明ける前に、俺たちは火竜に乗って、王都へと帰還し
た。
ミラルカはもうすっかり俺を背もたれにして騎乗することに慣れ、
空から見える景色を楽しんでいた︱︱しかし。
﹁⋮⋮ん? 王都のほうから、何か飛んでくるぞ。あれは、ミラル
カの⋮⋮﹂
﹁フェアリーバード⋮⋮動きがあったら知らせるようにとお願いし
ていたから、来てくれたのね。シャルロット、何があったの?﹂
フェアリーバードはミラルカの肩に止まる。やたらと可愛らしい
名前に見合う美しい姿をしている︱︱その羽毛はサファイアのよう
な色で、翼の先に行くほどグラデーションがかかっており、見る者
の目を楽しませる。
フェアリーバードは周囲の風景と一体化し、完全に気配を消す能
力を持っている。ミラルカは独断で、俺のギルド員とは別に偵察を
出していたのだ。
342
ミラルカの耳元で、フェアリーバードがくるくると鳴く。ミラル
カ教授は動物の言葉を話すことができるのである︱︱攻撃魔法学科
I類の教授としての功績より、現時点では動物言語の研究のほうが
有名だったりする。
﹁ディック、ゼビアス前公爵は自分のしたことを部下⋮⋮キルシュ
たちに着せて、切り捨てようとしている。このままでは、彼女たち
は処刑されてしまうわ﹂
怒りも何もない。それを通り越して、俺の胸はただひたすらに静
かだった。
そうなる可能性もある、と考えてはいた。ギルド員を急行させる
こともできるが、俺はもう、王都の上空にいる。
﹁⋮⋮ジャンのほうはどうした?﹂
﹁彼は王都から逃げ出そうとしているわ。父親とは袂を分かつとい
うことね⋮⋮私が捕縛するわ。あとで、応援のギルド員をこちらに
回してちょうだい。捕まえたら、然るべき裁きの場に連行してもら
わなくてはね﹂
火竜に乗ってからは仮面を外していたミラルカだが、再び装着す
る。その瞳には、燃えるような強い意志が宿っている。
ジャンのことは彼女に任せれば問題ないだろう。指示通りに応援
のギルド員も急行させる︱︱そして俺はどうするか。
ゼビアス・ヴィンスブルクト。公爵の座を息子に譲ってから、こ
の国を奪うために暗躍し続けた男。
その野望は、俺が完全に絶つ。王都の人々は何も知らないままに
343
平穏を享受し続ける、そうでなくてはならない。
﹁⋮⋮﹃忘却のディック﹄。その存在を知らなかったことを、ゼビ
アスたちに後悔させてあげて﹂
﹁俺は忘れられたままでいいさ。これから俺のすることは、大した
ことでも何でもないからな﹂
俺もミラルカにならい、仮面を着ける。ギルドマスター自らが動
くというのは、相談役に徹するという俺の主義には反している⋮⋮
しかし。
﹃仮面の救い手﹄となった魔王討伐隊の仲間たちを見ているうち
に、俺も彼らとともに、魔王を倒すために旅をしていたことを思い
出していた。
あくまでも目立たぬように。しかし決して負けることなどないよ
うに、パーティを見ていた。
あのとき俺は、ただ冷静に仲間たちを見ていたわけではなかった。
コーディ、ミラルカ、アイリーン、ユマ。四人が持つ華に少なか
らず憧れ、戦いに胸を躍らせた。彼らの仲間であることを誇りに思
い、同じパーティに加われたことを喜んでいたのだ。
﹁全部終わったら、まず私たちをどうやって労ってくれるの? 仮
面の執事さん﹂
﹁楽しみにしておいてくれ。﹃銀の水瓶亭﹄のフルコースでもてな
すよ、お嬢さん﹂
火竜に隠密ザクロを与え、王都北西部目がけて急降下する︱︱ヴ
344
ィンスブルクトの屋敷は、すでに前方に見えていた。
345
第32話 忘却の五人目、再び
フェアリーバードの先導に従って火竜を降下させ、まずミラルカ
をジャン・ヴィンスブルクトの足止めに向かわせる。そのまま俺は
ヴィンスブルクトの屋敷に向かった。
火竜を貴族の邸宅が集まる地区の外れに降下させ、飛び降りる。
事前に調査していた屋敷、その広い前庭で、今まさに凶行が行われ
ようとしていた。
キルシュと数人の部下が、腕を後ろ手に拘束され、並んで座らさ
れている。その後ろには、処刑刀を持った男の姿があった。
キルシュの目の前に立っている、豪奢な衣服を身に着けた禿頭の
老人。その瞳は氷のように冷たく、口元には歪んだ笑みが浮かんで
いる。
﹁お前たちはベルベキア軍に通じ、我がヴィンスブルクト家を脅迫
し、不当な利益を得ようとした。キルシュ、お前はジャンの忠実な
下僕だと思っていたが、とんだ雌猫だったようだな﹂
﹁くっ⋮⋮!﹂
﹁おっと、動くなよ。動けば、その首を切り落とせと命令を下さね
ばならん。キルシュ、最後の機会をやろう。あの愚かな息子はもう
逃げ出したが、儂の下僕として働く気はないか? もし忠誠を誓う
ならば、お前だけは赦免してやろう﹂
﹁ま、待ってください、ゼビアス様! それじゃ、俺たちは⋮⋮ぐ
ぁっ!﹂
346
キルシュだけが赦免される、その言葉を聞いた部下が声を上げる
が、ゼビアスの配下の男に蹴りを入れられ、悶絶して沈黙する。
﹁いつ口を開けと言った? 儂は実力を買った者しか手元には置か
ぬ。貴様らなぞ、幾らでも替えが効く存在でしかないのだ﹂
﹁そんな⋮⋮お、俺が、キルシュ隊長が盗賊を逃がしたってことを
言わなければ、あんたは⋮⋮﹂
﹁貴様も逃がしたことに変わりはあるまい? 密告者が厚遇を受け
られると思うなどと図々しい﹂
﹁っ⋮⋮くそぉぉぉっ⋮⋮!﹂
キルシュは配下の密告によって、ゼビアスの前に引き立てられた。
経緯は理解した︱︱これ以上見ている必要はない。
俺はどのようにキルシュを救出するかを考える。
何も難しいことはない。しかし、ゼビアスの部下に一人だけ、A
ランクの戦闘評価を持つ剣士が混じっている。奴が動いてキルシュ
を狙ってしまうと、後手に回れば彼女が命を落としてしまう。
万全の仕事をするためには、俺が姿を見せるしかない。Aランク
の剣士を引き付け、後は︱︱。
︵どうとでもなるか。あのご老体が、驚きすぎて死ななければいい
が︶
この場合、キルシュたちの身を守るために最も有効な手段は、強
化の魔法を発動することだろう。
本来強化魔法は食事に付与するものではなく、それは俺が後から
編み出した手法であって、元は戦闘中に味方を強化することが基本
347
だ。
魔力を隠蔽し、誰も気が付かないままに、俺はキルシュを強化す
る。しかしそれだけでは、仕込みは足りない。キルシュの強化は念
のためであり、敵にかけるべき魔法があるーーそれで、準備段階で
かける魔法は完了だ。
俺がもう一つ選んだ魔法は、今まで何度か練習してきてものにし
ていた。ミラルカの前では拙すぎて見せられないが、実用に足る効
果が発現することは確認できていた。
キルシュは顔を上げることを許され、ゼビアスを見上げる。彼女
は捕縛されるときに抵抗したのか、結んでいた髪をほどかれ、唇に
は血がにじんでいた︱︱殴られたのだ。
﹁私は⋮⋮私は間違ったことをしたとは思っていない! ゼビアス・
ヴィンスブルクト! 貴様がしてきたことはいつか、白日の下に晒
される! 私がここで死のうと、誰かが必ず⋮⋮!﹂
彼女は全く折れてなどいない。そう、折れる必要などどこにもな
いのだ。
ヴェルレーヌは言った。キルシュが自分の選択に誇りを持つこと、
それが銀の水瓶亭が、彼女に報酬として求めるものなのだと。
契約は履行された。ならば俺たちは、キルシュの依頼をどんな方
法を使ってでも達成してみせる。
ゼビアスは静かに、しかしキルシュの反抗に、度し難いほどに憤
激していた。
348
奴が出す答えはわかっていた︱︱処刑人に仕事をさせる。ゼビア
スにとって、キルシュが欲しい理由はラーグと同じで、女性として
見目麗しいというくらいだったのだろう。
﹁⋮⋮儂は罪人を捕らえ、身内の恥を濯ぐべく、断腸の思いで処刑
を行うのだ。理解してくれるな﹂
﹁っ⋮⋮!﹂
キルシュはそれでも瞳の光を失わなかった。その頬に涙が伝って
も、彼女は決して屈してなどいない。
処刑人が、ぎらりと光る剣を高く掲げる。
スピリット・レデュース
そして振り下ろそうとしたとき︱︱俺は﹃二つの魔法﹄を、同時
に発動させた。
スピリット・ライジング
︵︱︱﹃戦闘力貸与﹄︱︱そして、﹃戦闘力低下﹄!︶
﹁うっ⋮⋮!?﹂
処刑人が動きを止める。そして刀を持っていられずに、ふらふら
とバランスを崩して倒れこんだ。
﹁お、重い⋮⋮け、剣が、急に⋮⋮!﹂
﹁おい、何をしている! 儂は殺せと言ったぞ! ええい、貴様が
やらんならお前がやれ、グランス!﹂
﹁︱︱処刑なんてのは、悪人が裁かれるものだ。そうは思わないか
?﹂
俺はすでに動いていた︱︱こればかりは、自分で姿を見せるのが
一番効率がいい。Aランクの剣士が拘束されたキルシュたちに向か
349
う前に、剣を抜いて切りかかる。
久しぶりに人間と切り合う。しかし、俺にとってはこんなものは、
戦いとして成立すらしない。
﹁そんな仮面をつけて、正義の味方のつもりか⋮⋮ふざけやがって
!﹂
﹁俺はただ仕事をしてるだけだ。あんたと同じだよ。﹃紫の蠍亭﹄
のグランス・バルドーだったか﹂
﹁それがどうした⋮⋮死ねっ!﹂
Aランク︱︱冒険者強度1万のうち、ほとんどを剣術の評価で計
上されているようで、なかなかの腕だ。
スピリット・ブレード
しかし﹃斬撃強化﹄で強化した俺の剣と一合でも打ち合うのは、
普通の剣を使っている以上は自殺行為としか言えなかった。
ギィン、と鈍い音がする。魔力によって硬度を高められた俺の剣
は、グランスが使う鋼鉄の剣の刃を、半ばから断ち割っていた。
﹁バカなっ⋮⋮黒鉄の剣が、ただの鋼の剣で⋮⋮!﹂
﹁ベルベキアから供与された武器でも使ってたのか? これは根が
深い問題だな⋮⋮!﹂
﹁ぐぉっ⋮⋮!﹂
武器を失った相手に切りかかることもない。俺は蹴りを繰り出し、
シュート・ライジング
グランスを吹き飛ばした。
﹃蹴撃強化﹄。常に強化魔法を使う必要もないが、手加減ばかり
している主義もないので、つい発動させてしまう。
350
しかしグランスが飛んでいく先に大木があり、激突した衝撃で木
の幹に亀裂が入った。
﹁さて、次は⋮⋮ん、もう誰もかかってこないのか? じいさん、
顔が赤紫色になってるぞ﹂
﹁む、無能どもがぁっ⋮⋮ここを逃げ切れば、逃げ切りさえすれば
⋮⋮っ﹂
もはや、部下を陰で操り、この国を手に入れようとした策謀家の
顔などどこにもなかった。
息子にも離反され、最後の手を打ったつもりが、すべての希望を
絶たれようとしている。ゼビアスは自ら剣を抜き、俺に切りかかっ
てくる︱︱その顔にあるのは権力への妄執と、俺への憎悪だけ。
﹁ウガァァァァッ!﹂
理性を失い、獣のような声を上げながら、剣を繰り出す︱︱しか
し。
自らの実力はCランクにも満たないゼビアスの攻撃を許してやる
ほど、俺は甘くはなかった。
様々な方法の中から、俺はあえて﹃実験﹄を選ぶ。そう、俺にと
っては、これは初めから戦いではないのだ。
俺は﹃魔法陣﹄を、﹃隠蔽したまま﹄展開していた。
そういう使い方ができないかと、ミラルカを見ながらいつも思っ
ていた。
彼女以外に、空間展開魔法を使える者はいないだろう。彼女のこ
351
とをずっと見てきた、あらゆることをそこそここなすことのできる、
﹃器用貧乏﹄の俺以外は。
︱︱﹃限定殲滅型六十六式・粒子断裂陣﹄︱︱ ゼビアスが剣を突き出す︱︱それは俺の体に届いたかに見えた。
﹁ど、どうだ⋮⋮儂はこんなところでは終わらぬ⋮⋮決して⋮⋮﹂
﹁いや、終わってるよ。そして、二度と始まりはしない﹂
﹁なっ⋮⋮あ、あぁっ⋮⋮!﹂
ゼビアスの剣がぼろぼろと、黒い炭のような塊になって崩れ落ち
る。武器を失ったゼビアスは腰を抜かし、ただ化け物を見る目で俺
を見ていた。
﹁け、剣が⋮⋮貴様、魔族⋮⋮魔族だな。魔族が王都に入り込み、
国を侵そうと言うのか!﹂
﹁魔族を侮るなよ。ゼビアス、あんたよりもずっと誇り高い魔族を
俺は知ってる。いや、あんたには誇りなんて初めから無かったんだ
な。国を売るようなやつに、誇りなんて言葉は勿体ない﹂
﹁⋮⋮ぐがっ、がっ⋮⋮!﹂
ゼビアスは敗北を認められず、口から泡を飛ばして何かを言いか
けたが、それは言葉にならなかった。
スピリット・レデュース
憤激のあまりにゼビアスは失神する。まだ残っている部下の誰も
が、戦う力など残していなかった。﹃戦闘力低下﹄の効果を受けた
者は、一定の強さがなければ武器を握ることすらできないほど弱体
化するからだ。
﹁主人を連れて逃げろっていうのも、むしろ酷な話だろう。おとな
352
しく捕まってくれ﹂
誰もが言葉もなく、頷くこともできないでいるが、俺の言葉に逆
らう気力ももうないだろう。
俺はキルシュたちの拘束を外してやる。解放されたキルシュの腕
に縄が食い込み、血がにじんでいたので、彼ら全員に﹃癒しの光﹄
をかけた。
﹁この光は⋮⋮回復魔法まで⋮⋮﹂
﹁ひ、ひぃぃっ⋮⋮俺は悪くねえ! 全部キルシュ隊長が⋮⋮ぐぁ
っ!﹂
キルシュのことを密告した彼女の部下には、仕置きの意味も込め
て手刀を食らわせ、失神させる。
﹁他に、彼女を裏切った者はいるか?﹂
﹁⋮⋮いえ。他の者の中にそういった気持ちを持つ者がいたとして
も、それは私の不徳が原因です﹂
﹁そ、そんなことは⋮⋮﹂
﹁キルシュ隊長、すみませんでした⋮⋮俺は、あなたがゼビアス様
の部下になって、俺たちを見捨てるものかと⋮⋮﹂
キルシュの部下の三人の男性が、申し訳なさそうに言う。しかし
キルシュは笑って言った。
﹁そう思うのは無理もない。そうしたら助かるかもしれない、と思
ってしまったことは確かだからな⋮⋮しかし、あの老人に屈従する
よりは死んだほうがいいという気持ちが勝った。それだけのことだ﹂
﹁隊長⋮⋮﹂
353
本来は、キルシュは彼らに慕われているのだろう。その信頼関係
をおかしくしたのは、彼女たちに汚れ仕事を命じたジャンと、利用
するだけして切り捨てようとしたゼビアスの父子だ。
ミラルカもつつがなく任務を完了したのだろう、フェアリーバー
ドが上空を横切っていき、その後ろをミラルカの乗った火竜が飛ん
でいく。
﹁あ、あの⋮⋮仮面の方。なぜ、私たちを助けてくれたのですか?﹂
仮面を着けていると声が偽装されるため、キルシュは俺の正体に
気づいていない。
彼女は俺の答えを待っている︱︱俺はそれよりも、捕縛されると
きに破られてしまった彼女の服が気になり、着ていたジャケットを
脱いで羽織らせた。
﹁あ⋮⋮も、申し訳ありません、そのようなお気遣いまで⋮⋮っ﹂
﹁いや、気にしないでくれ。これくらいは当然のことだ﹂
俺は踵を返し、立ち去ろうとする。あとは王都の役人を呼び、キ
ルシュたちに処理を任せるつもりだ。彼女ならば、事情を理路整然
と伝えることができるだろう︱︱難しければ、コーディの力を借り
る必要が出てくるが。
﹁か、仮面の方⋮⋮っ、どうか、お名前だけでも⋮⋮!﹂
﹁俺の名前か。名乗っても忘れられるから、名乗らないようにして
るんだ﹂
それは半分本当で、半分は嘘だ。俺は決して、表舞台に名前が通
354
るようなことをしたくない︱︱今回自分で仕事をしたのは例外的な
措置だ。
本人を補助するか、ギルド員に指示を与えるか。あとは酒場で飲
んだくれるだけの酔っ払いに、名乗る名前など必要ない。
必要ないのだが︱︱だからこそ、俺はここに仮面を着けてきたの
だ。
﹁俺は﹃仮面の救い手﹄の五人目だ。そう覚えておいてくれればい
い﹂
﹁は、はいっ⋮⋮! 絶対に、この恩は忘れません⋮⋮ありがとう
ございます、﹃忘却の﹄勇者どの!﹂
﹁っ⋮⋮!?﹂
﹁勇者⋮⋮あの男が?﹂
﹁俺たちを助けてくれたっていう意味での、勇者じゃないか?﹂
キルシュの言葉に部下たちは勝手に納得してくれたが、俺は少な
からず動揺していた。
まさか、知られていたのか︱︱いや、銀の水瓶亭のギルドマスタ
ーの名が、ディック・シルバーであることを、どこかで調べて知っ
たのか。公式にそう記録されているので、調べればわかる話なのだ
が。
彼女が依頼を持ち込んだ銀の水瓶亭と、ディック・シルバー、そ
して仮面の救い手が結び付けられてしまった︱︱だが、あまり目く
じらを立てるのも野暮だろう。
キルシュは秘密を守ってくれる。もし守ってくれないならば、ヴ
355
ェルレーヌを介して、成功報酬にこんな条件を追加させてもらいた
い。
﹃仮面の救い手﹄は、当ギルドとは無関係の、王国を守る集団で
ある。
もし彼らに救われたとしても、それは当ギルドで一切関与しない
出来事である︱︱ぜひ、そのように念を押しておきたいところだ。
356
第33話 戻ってきた平穏と執事の招待
ヴィンスブルクト公爵家の企みは、他の二公爵家の後見を得て、
キルシュ・アウギュストによって国王に直接報告された。初めは宰
相に報告されるはずだったが、宰相自ら、国を揺るがす事態につい
て未然に防いだ功績を評価し、国王への謁見の場を設けられること
になった。
歴史の長い公爵家の一つが、ゼビアスの代から腐敗していたこと
については、他の公爵家も察知していないわけではなかった。公爵
とはいえ一貴族であるヴィンスブルクト家の当主が、王女との婚約
を強引に進めようとしたことを、公爵の中でも筆頭とされるオルラ
ンズ家、そしてシュトーレン家でも由々しきことと見なし、ジャン
の放蕩な女性問題もあって、内部事情の聞き取りを行うべきという
声が高まっていたのである。
シュトーレン家は、かつて所有した屋敷が俺のギルドによって安
全に運用されていることを知ると、友好的な書状を送ってきていた。
オルランズとシュトーレンの信頼関係は強いもので、そこをツテに
することで、キルシュの件の後見人になってもらえたわけだ。
どんな仕事でも受けておくものだ、と思う。あの屋敷に集まる死
霊を浄化してくれたユマも、今回の件に間接的に助力してくれたと
言えるわけだ。その話をすれば、ユマも一人だけ参加することがで
きなかったと寂しがることはないだろう。
◆◇◆
357
ヴィンスブルクト家は爵位はく奪の憂き目に遭うところだったが、
温情を受けて子爵に降格ということで落ち着いた。ゼビアスとジャ
ンに一族全員が加担していたというわけではなく、彼らのしている
ことを把握していない者もいたからだ。
公爵家のひとつは空席となり、侯爵から再選出されることになっ
た。侯爵家の中でもっとも公爵にふさわしいとされる家を決めるま
では十分な期間を設け、それまでは二つの公爵家が貴族たちの頂点
に立つこととなった。
キルシュは幸運にも、オルランズ家に雇われることになった。そ
の能力と、国のために主君を諫めようとした忠誠心を買われたのだ。
彼女の部下は、裏切りを犯した者以外はそのままキルシュの下につ
くことになった︱︱彼女の近況と報酬については、また日を改めて
話すことになっている。もう貰うものは貰っているとも言えるのだ
が、キルシュはそれでは気が済まないと言っていた。
そして、国王からの裁定が下りて、一週間後。
俺は仮面の執事として、﹃救い手﹄の四人をベアトリスの屋敷で
のディナーに招待した。
晩餐の席に着く前に、今回の依頼で協力を要請しなかったことに
ついてユマと話したが、彼女は何も気にしていないようだった。
﹁人と人との争いで、私の力がお役に立つとしたら⋮⋮それは、無
念を抱えて亡くなられた方々を鎮魂することになってしまうでしょ
う。それが私たち僧侶の本来の仕事の一つではありますが、それを
喜んでいたらディックさんに心配をかけてしまいますしね﹂
﹁ユマ⋮⋮大人になったな。全ての魂を鎮めたい、って言ってたの
358
に﹂
﹁いえ、本当はお鎮めしたいですけど⋮⋮我慢して、我慢して、溜
まってきてから、ディックさんにお願いして、鎮魂の場を設けても
らうのもいいかなと思っていまして﹂
間違いなく聖女と言える微笑みを浮かべているが、言っているこ
とは、どこかしら背徳を感じさせられる。
﹁⋮⋮仮面の僧侶では、ちょっとしかストレス解消できないのか?﹂
﹁は、はい⋮⋮すごく満たされますし、私がアルベイン神教会の僧
侶というのは、仮面をつけていても服で知られていますので、寄進
の額は増えるいっぽうです。でも、ベアトリスさんが死霊を集めて
しまったとき、一気に浄化したときのあの感覚が、忘れられないん
です⋮⋮ああ⋮⋮あのときみたいに、ディックさんの魂に触れたい
⋮⋮﹂
﹁そ、そうか⋮⋮触れるだけでいいのなら、いつでも構わないぞ?﹂
ユマは俺を見て、ぱちぱちとつぶらな瞳を瞬かせる。その反応の
意味が、俺にはすぐにわからなかった。
﹁いいえ。ディックさんがおじいさんになって、ご家族に看取られ
て神のみもとに旅立たれるときまで、とっておきます﹂
﹁⋮⋮家族か。まず家族を作るには、嫁をもらわないとな﹂
﹁あっ⋮⋮は、はい。その件についてはですね、私のお父様とお母
様も、将来的には、ディックさんさえよかったら⋮⋮あ、あのっ⋮
⋮﹂
﹁執事さん、ユマ。もう着席してずっと待っているのだけど、まだ
お取り込み中かしら?﹂
﹁っ⋮⋮す、すみませんっ。執事さま、今のお話はまた、また今度
でお願いしますっ⋮⋮!﹂
359
ユマはぱたぱたと走っていき、ミラルカの隣に座る。ミラルカは
俺を牽制してくるかと思いきや、ふっと笑っただけで、ユマと何や
ら話していた。
﹁お客様方、食前酒はいかがなさいますか?﹂
﹁私は執事さんのお勧めでいいわ﹂
﹁私もー! ユマちゃんはミルク? 今日くらい禁を破ったりは⋮
⋮だめだよねー﹂
﹁はい、ミルクかお酒以外の飲み物をお願いします﹂
﹁じゃあ、僕は⋮⋮いつものにしようかな﹂
オーダーを最後に出すのは︱︱コーディ。今日は私服姿で、アイ
リーンの隣に座っている。
俺にどんな服を普段着てるか、と聞いてくるくらいに、コーディ
は服装には頓着しないやつだ。俺がいつも世話になっている仕立て
屋を紹介したこともある。
これからも、そんな日々が続くのだろうと思っていた。
数少ない、腹を割って話せる親友。そういう存在を失いたくない
からといって、俺は今後も一生、自分が見たものを否定し続けるの
か︱︱。
のぞき見をしたことを知られたら、コーディは俺を許さないだろ
うか。
コーデリア・ブランネージュ。彼女の故郷の村には、その名前で
出生記録が残っていた。
360
それは、俺の情報網があれば、動かずして調べられることだった
のだ。俺は仲間たちの素性を改めて調べようなんて思ったことはな
かったし、コーディの出生について知ろうと思ったのも、これが初
めてだった。
彼女がブラウンの髪を常に短く切っていても、時折長く伸びてく
ると思うことがあった。俺と一緒に旅をしているのは、隣で飲んで
いるのは、本当に男なのかと。
そのたびに、そんなことはありえないと考えを打ち消してきた。
実は女なんじゃないのか、そんなことを尋ねれば、信頼を無くして
しまうと思った。
だからこれからすることで、コーディを怒らせ、絶交されたとし
ても仕方がない。
それでも、もう少しだけでも、彼女が楽にしていられるように。
これからも男を装い続けなければならないとしても、どこかで肩の
力を抜けるようにしたい。
﹁本日は皆様を労う、特別な晩餐会でございます。よろしければ、
コーディ様のお飲み物も、お任せいただければ幸いです﹂
﹁⋮⋮? うん、それじゃお願いしようかな﹂
心臓が跳ねる思いがした。こんなことをしなくても、知らないふ
りをして、俺は酔って夢でも見たのだということにすれば、同じ関
係を続けていられる。
それが、俺の望んだ平穏だ。それで間違いはない。
361
これからすることが間違いだというのも分かっている。こんなに
怖いと思うのは初めてだ。
俺はコーディが定期的に店に顔を出してくれることを嬉しく思っ
ていた。
それはコーディが男であっても、女であっても、変わることのな
い気持ちだった。
﹁失礼いたします。食前酒のご用意をさせていただきます﹂
ベアトリスが、食前酒のグラスを乗せたワゴンを押して、ダイニ
ングルームに入ってくる。
そのワゴンの上には、4つの色のブレンドした酒を満たしたグラ
スが置かれている。ミラルカは赤、アイリーンは青、ユマは白、そ
してコーディは黄色。
﹁﹃銀の水瓶亭﹄のオリジナルブレンド、﹃虹の雫﹄でございます﹂
ブレンドの最後に加える一滴で、七色に変わる酒。リキュール、
ブランデー、ジュースを独自の比率で混合したベースだけでも十分
に美味いが、最後の一滴で大きく味の印象が変化する。
﹁⋮⋮ディック⋮⋮これは⋮⋮﹂
俺は仮面の執事という体だが、コーディはそんなことは気にして
いられないというように、俺の名を呼んだ。
何も言わず、俺はベアトリスにワゴンを押してもらい、四人の前
362
にグラスを置く。三角のグラスに、四人それぞれの色をした、透き
通る酒が満たされている。
コーディはエールを頼むだろう︱︱そう思った。それは初めに店
に来たとき、﹁だいたい男性客はエールを頼む﹂と俺が教えたあと
から、ずっと守られている習慣だった。
そのあともコーディは、﹁男が飲む酒﹂をそれとなく俺から聞き
出して、それしか頼まなかった。
優男だと言われるのがいやで、男らしく振る舞おうとしている︱
︱そう思っていた。それは半分は正解で、半分は的外れだった。
俺に女だと悟られないために、演じていたのだ。
だから、俺が終わらせなければならない。言葉にしなくても伝え
られる方法で。
﹁⋮⋮これは、何かの間違いじゃないかな。僕は、エールかラムし
か⋮⋮他のお酒は、よほどの例外がなければ頼まないよ﹂
﹁いえ、例外ではありません。決して、気の迷いでもない﹂
ミラルカとユマ、アイリーンの表情が変わる。信じられない︱︱
そんな顔をされるのも無理はない。
五年間だ。五年間ずっと気づかずに、今日という日を迎えたのだ
から。
コーディは俺に何か言おうとする。初めは怒っているようにも見
えた⋮⋮しかし。
363
﹁⋮⋮君には、後で問い詰めなければいけないことができた。これ
はきっと、大きな貸しになる﹂
﹁ええ⋮⋮承知しております。それでも、今お出ししているものに、
間違いはございません。もし気分を損ねましたら、何なりと罰をお
申し付けください﹂
俺は深く頭を下げる。バカにしているのかと怒られることも覚悟
しながら。
しかしいつまでも叱責は訪れない。そして、コーディはふぅ、と
息をついた。
﹁⋮⋮何のつもりかは後で聞くとしよう。でも、そういうことだと
思っておくよ。覚悟を決めるべきは、僕の方だったみたいだね﹂
頭を上げることを許され、俺は四人の視線を浴びる。
誰も責めるような目はしていない。むしろ、ミラルカとアイリー
ンは今更気がついたのかと言いたげだった。
﹁なぜ今日という日を選んだのか、いつからなのか⋮⋮いろいろ聞
きたいことはあるけれど。今日のところは、コーディに免じて、不
問に付してあげる﹂
﹁恐れ入ります、ミラルカお嬢様﹂
﹁えー、それでも執事のままなの? ディック、素顔でコーディと
話すのが恥ずかしいんでしょ﹂
﹁⋮⋮僕はあまり気にしないけど。今までだってそうだったし、こ
れからも⋮⋮﹂
コーディはそう言いつつも、耳まで真っ赤になっている。
364
そんな顔を見たのは、魔王討伐隊として旅をしているときに、一
緒に風呂に入るかと誘ったとき以来だった。
﹁それにしてもディックは、これで男性の親友がいなくなってしま
ったわね﹂
﹁い、いや。僕はいいんだ、これからも男性扱いしてくれていい。
そうじゃなかったら⋮⋮そ、その、困るから⋮⋮﹂
﹁いろいろ察してね、っていうことね。そんなわけで、今日は飲む
ぞー!﹂
﹁あ、あの、私、執事さまのお気持ちはうれしいのですが、お酒は
⋮⋮﹂
﹁同じ仕立てにしてありますが、ユマ様のものだけは酒精を抜いて
ありますので、ご心配なく﹂
﹁さすがディック様ですね⋮⋮お酒なしでも、近い味になるブレン
ドの仕方を用意しているんですから。これからも、定期的にレシピ
をお教えしていただかなくては⋮⋮﹂
ベアトリスはもう十分に、この屋敷の主人としてこなれているの
だが、彼女がそう言うならば定期的な訪問は必要だろう。
しかし四人の目が恐ろしい︱︱ベアトリスの屋敷を訪問するとい
うことは、つまり彼女の実体化を維持するために、魔力を供給する
ということでもあるからだ。必ず毎回というわけではないが、彼女
もそれを期待しているふしがある。
ユマは笑っていて、コーディも顔が赤いままながらも、いつも通
りの爽やかな笑顔に戻っているが、こちらを見る目の意味が微妙に
変化しているように感じた。
﹁⋮⋮今後はやきもちを焼くと、そういう意味に取られてしまうの
365
か。みんなも大変な思いをしてきたんだね﹂
﹁やー、やきもちなんて焼いてもしょうがないって。ディック、全
然自覚ないし﹂
﹁本当にね。引きよせるだけ引き寄せて、餌をあげないタイプよ。
とんだ釣り師ね﹂
﹁ぐっ⋮⋮私はただの仮面の執事でございまして⋮⋮﹂
﹁私も仮面の僧侶です。そんな私から一言言わせていただきますと
⋮⋮もっと私をかまってください﹂
ユマがいきなり爆弾を投下する︱︱しかしそれは、みんなを笑顔
にする。
彼女には昔からそういうところがある。浮世離れしているようで、
本当はそうでもない。
﹁ディック、私との約束も覚えているわね? 忘れたなんて言った
ら許さないから﹂
﹁あ、今回の仕事ってそういうのもOKなの? じゃあねえ、今度
うちに来て一緒に飲も? ヴェルレーヌさんも連れてきていいよ﹂
﹁じゃあ、僕は⋮⋮ディックははぐらかしていつも先送りにするか
ら、剣の稽古に付き合ってもらおうかな﹂
みんなが口々に俺への要望を出す。俺はずっと酒場で飲んでいた
いわけだが︱︱どうやらそれだけではいさせてもらえないようだ。
﹁それではディック様⋮⋮いえ、仮面の執事様。乾杯のあいさつを
お願いいたします﹂
﹁なぜ私が⋮⋮と言ってる場合でもないか。皆様、グラスを掲げて
いただいて⋮⋮乾杯!﹂
﹃乾杯!﹄
366
魔王討伐隊、そして今は仮面の救い手が声を揃える。
今夜の晩餐会は、終わる時間を予定していない。彼女たちは大い
に飲み、大いに話し、互いに労いあった。
今回の一件を通して起きた変化があり、そして変わらない部分が
ある。
明日から俺は、また変わり映えのしない日常へと帰るのだろう。
今は皆と共に、心地よく酔わせてもらいたい。
﹁執事様、何か飲まれますか?﹂
﹁僕たちにも作り方を教えてもらえないかな。君だけいろいろ知っ
ていてずるいと思っていたんだ﹂
﹁ディックはねえ、レシピは見様見真似で覚えろっていうから、見
せてもらえばいいよ﹂
﹁ふぅん⋮⋮どんなふうに作っているのか、興味深いわ。やってみ
せて、仮面の執事さん﹂
﹁では、リクエストにお答えして⋮⋮﹂
ベアトリスが用意した酒をブレンドするためのシェイカー︱︱こ
れは王都の酒場には普及していない。酒を混ぜるという文化自体、
俺が異国の人間から聞いて興味を持っただけで、アルベインには広
まっていないからだ。
シェイカーにブレンドする材料を入れ、振り始める。そしてグラ
スに注ぐところを、親愛なる俺の仲間たちは、まるで宝石でも見る
かのように目を輝かせて見つめていた。
367
閑話1 飲んだくれと侍女服の店主
アルベイン王国の暦には、﹃星神﹄と呼ばれる神たちの名前がつ
シルバー
けられている。それはギルドの名称にも使われていて、俺のギルド
は水瓶神の名前を冠している。それで﹃銀﹄の﹃水瓶﹄亭というわ
けである。
今は五番目の月で、﹃獅子神の月﹄と呼ばれている。星神と数字
の対応については暦を決めるときに適当に決められたらしく、別に
法則性は無いらしい。 だいたい3月∼7月は同じような温暖な気候で、8月だけが異常
に暑い。火の精霊王が最も活力を増す月だからだそうである。アル
ベイン王国の領内に火竜が生息しているのは、そのような事情もあ
るそうだ。
今の時期、朝日はだいたい5時半に昇る。それと同時に俺は目を
覚まし、とりあえずカーテンを開けて日光を浴び、もう一回閉める。
すぐに朝に弱いヴェルレーヌを起こし、朝食を摂り、朝十時の開店
に向けて準備をしなくてはならない。
一日中飲んだくれるためには、店にある程度客が入り続ける状況
を維持する必要があるのだ。そのためには料理の質については常に
考える必要があるし、人気のないものは調理や材料にテコ入れをし
たり、メニューの名前を変えたり、あるいは新メニューに入れ替え
たりする。酒や飲み物についても同じで、高級酒は店の地下の保存
庫で温度と湿度を管理して保存し、果実のジュースの類を作る際に
も、絞る前に鮮度を確認している。
368
今日仕入れられる食材については出入りの業者に任せているが、
俺が王都の朝市に通っている時期もあった。あのときに食物を鑑定
する資格を身につけたが、楽をするために努力をするというのは、
当然必要なことであろう。
飲んだくれにも身だしなみというものもあり、服はヨレヨレ過ぎ
てもいけないし、かといって小ざっぱりとしすぎていてもいけない。
絶妙なコンディションとなった服を一週間分+予備分用意してお
き、古くなってきたら新しい服を適度に着古してからローテーショ
ンに採用する。﹁あの客、いつも同じ服で飲んでるぜ﹂などと噂が
立っては、不衛生な店だと思われかねない。同じ理由で、俺は髪を
切る周期もほぼ固定している。子供の頃は姉の機嫌次第で切っても
らったりもらえなかったりして伸び放題だったりもしたが、今では
一ヶ月に一度、なじみの店で切ってもらう。
俺はほとんど髭が伸びない体質なのだが、一応顔を剃ってもらう
ときに、顔剃りをしている理髪屋の娘の大きな胸が頭に当たり︱︱
というのはいいとしよう。
大きな胸は見慣れている、しかし接触する機会はない。それは、
全く機会に恵まれていないからというわけでもなく、目の前に常に
ぶら下がった人参を、食わずに我慢する馬のような心境だった。
俺は洗顔を済ませたあと、事務室のドアをノックした。こうして
起きなかった場合は、入室しても良いと許可されている。
﹁入るぞ﹂
369
一声かけてからドアを開け、中に入る。事務室からは資料部屋に
入ることができるのだが、まだスペースに余裕があったので、ヴェ
ルレーヌはそこにベッドを入れて寝起きしていた。彼女は資料をギ
ルド員に整理させ、自分の家具を設置したりしているが、よく働い
てくれるので許可している。
﹁⋮⋮すー﹂
俺が入ってきたと同時に、ころんとヴェルレーヌが寝返りを打つ。
その狙ったようなタイミング︱︱実際に狙っているのだが︱︱に、
彼女がもう起きているのだと明らかにわかる。
﹁もう何度目だと思ってるんだ。朝の挨拶として順応してきてるぞ﹂
﹁⋮⋮むぅ。ご主人様はつれない。自分は釣り師として名を馳せて
いるだけに、釣られるわけにいかぬということか﹂
正直を言うと、視線がその一点に止まらないようにするなど無理
な話である。ヴェルレーヌはシャツ一枚で寝ていて、前のボタンを
胸の下あたりまで外しており、仰向けになっている︱︱そんな体勢
になるとどうなるか。一つ間違うと大変なことになってしまう。
﹁そのうちボタンがはじけ飛んだら、ご主人様は責任を取ってくれ
るはずだと踏んでいるのだが⋮⋮﹂
﹁身体を張るのはいいが、そんな格好で寝てると風邪ひくぞ﹂
﹁魔王として城で暮らしていたころは、裸で寝ていたのでな。何か
身に着けていると落ち着かない、というのは説明したはずだが﹂
﹁その配慮には感謝するが、下をはいて寝てくれ﹂
﹁下着ならばつけているが⋮⋮と、とぼけてばかりいても、露出趣
味だと思われてしまうか。難しいものだな﹂
370
ヴェルレーヌはベッドから降りる。このギルドにやってきた初め
の日に、俺が寝間着代わりに貸したシャツを彼女は気に入っており、
たまに俺の部屋から持っていってしまう。今日もそのうちの一枚を
着ており、下にはズボンをはかないものだから、褐色の素足があら
わになっている。
メ
﹁はいたほうがいいと思うけどな⋮⋮というより、普通の寝間着を
着てみないか?﹂
イド
﹁締め付けがきついのは、勤務中だけで十分だ。もう慣れたが、侍
女服は着るのも脱ぐのも大変なのだぞ? 本職の侍女にあらかじめ
教えてもらってはいたわけだが、私はその手間に感服して、彼女た
ちの給料をその場で2割ほど上げてしまったほどだ﹂
﹁普通の服装で店主をしてもらってもかまわないぞ。一応、用意は
してあるし﹂
﹁ご主人様が用意した、酒場の女店主としての衣装⋮⋮それは興味
深いな。一度だけなら試してみてもいい。いつもメイド服では、お
客様も飽きてしまうからな﹂
ヴェルレーヌのサービス精神には頭が下がる。彼女のメイド姿を
見るために来ている男性客も実際多かったりするので、彼女が定期
的に服装を変えると客が増えるかもしれない︱︱いや、もう客が多
すぎて入店制限がかかっていたりするので、彼女の衣装替えは慎重
に行わなくては。
彼女は立ち上がると、浴室に向かった。夜も朝も風呂に入るのが
好きだというが、そんな貴族のような生活をしてるやつはこの12
番通りにはそういないだろう︱︱いや、元魔王だから不思議でもな
いが。
◆◇◆
371
三十分後、支度を終えたヴェルレーヌと一緒に朝食を摂り、階下
に降りる。そして開店までに必要な種々の準備を終え、日替わりの
メニューを更新し、開店時間を迎えた。
最初の客︱︱いや、ギルド員の一人がやってくる。中肉中背で黒
髪を短く切った小ざっぱりとした青年で、リゲルという。一年前に
冒険者認定試験を受けて合格し、縁あってうちに入ってきた。普通
なら12番目のギルドを選ぶ者などいないのだが。
リゲルはBランクで、最近はライア、マッキンリーと共にパーテ
ィを組み、依頼をこなしていた。Aランク相当のライアがリゲルの
下についているのは、ギルドに入ってからの経験を重視した俺の判
断だ。ライアは特に不満はないようで、Bランクの依頼から慣らし
ていくという俺の方針を受け入れてくれた。マッキンリーはあれか
ら俺に心酔してしまっており、俺の言うことなら一も二もなく聞く
という状態だが、経験を積めば自然に自立心が養われるだろうと思
っている。
﹁兄さん、今日もすでにできあがってるみたいですね﹂
﹁よう、なかなか調子がいいみたいじゃないか。まあ俺のおごりだ、
一杯飲んで行けよ﹂
﹁ご馳走様です! いやぁ、昼から飲むエールはたまんないっすね
!﹂
リゲルは調子に乗りやすいところはあるが、基本的には真面目な
性格だ。剣の腕もそこそこ見込みがあるし、5年もしないうちにA
Aランクまでは上がれるだろう。
Sランク以上は才能の世界で、時間と経験があれば到達できる領
372
域ではない。現在Aランクのライアでも、年齢を考えると伸びしろ
には限界があって、Sランクまで上がれるかは難しいところだ。
﹁ところでこれ、預かりものなんですが⋮⋮﹂
リゲルはできるだけさりげなくカウンターの上に紙を置き、こち
らに出してくる。
そこには﹃親愛なるギルドマスター様 ギルド員一同﹄と書かれ
ていた。
﹁⋮⋮またか。こんな飲んだくれを呼び出して、何が楽しいんだ?﹂
﹁みんな日ごろから感謝してるんです。いや、それは真面目に言わ
せてもらいますけどね﹂
俺のギルドの構成員は、百名余りである。これを多いか少ないか
でいえば、12のギルドの中では最も少ない。最大の﹃白の山羊亭﹄
は千人を擁しているが、二位のギルドからはがくんと数が減り、3
00人以下となっている。
冒険者という仕事を成り立たせるには相当数の依頼が必要だが、
今の冒険者の数でも少し供給が過剰になっている。俺はこれと見込
んだ人物は迷いなくスカウトしてきたが、たまには事情があってギ
ルドを抜けていく人物もいて、一年あたりで十人ほどメンバーが入
れ替わり、100人を大きく超えることはない。
国内の各地方にもギルド員を配置したいところだが、今のところ
転移陣を設置してある場所、そして主要な都市、俺が決めた拠点だ
けに、50人ほどがいる。残りの50人は王都にいて、この店に顔
を出してはヴェルレーヌから依頼を受け取り、必要があればパーテ
373
ィを組んで仕事をしている。
銀の水瓶亭の席数は、カウンターの8席を含め、62席。つまり
王都のギルド員が一堂に会することはできるわけだが︱︱そんな会
合を開いていたら、こうやって依頼を渡したり、こちらでパーティ
編成をしてメンバーを引き合わせたり、個別にやっている意味がな
いではないか。
﹁お客様、良いのではないですか? 前回からおよそ一ヶ月ぶりで
すし、数日後に店の貸し切りもできます﹂
﹁やっぱり店主さんは話がわかるな∼。兄さん、ほんとに良かった
ですね! こんな綺麗な人が来てくれて!﹂
﹁俺は客で、彼女は店主だ。まあ、確かに綺麗ではあるが﹂
﹁ふふっ⋮⋮お客様、ありがとうございます。お世辞であっても嬉
しいお言葉です﹂
白いエルフの姿で、ヴェルレーヌは微笑んでみせる。お世辞では
ないが、彼女は店主でいる間は、こうやって謙遜するのである。
﹁分かった、まとめて俺がおごってやるよ。何人でも連れてこい﹂
﹁ホントですか!? あ、いや、すみません大声出しちゃって⋮⋮﹂
﹁ところでリゲル様。最近、お客様からこんなお話を伺ったのです
が、ご興味はございますか?﹂
﹁あ、はい! 俺、何でも興味ありますよ!﹂
こうやってヴェルレーヌは﹃噂話﹄の体で、ギルド員に依頼を振
る。誰にどの依頼を振るかは、前日までに彼女と事務室で検討して
決めていた。
開店してしばらく経ち、店内には客が入ってきている。そこまで
374
忙しくはならないが、厨房係も出勤してきて、店は賑やかになって
きた︱︱こうなると、依頼の話は大っぴらにはできないので、雑談
の体を装う必要がある。
﹁最近、王都の近くである商人の一行が、﹃事故﹄を起こしたらし
いのです。そのとき、商人たちが運んでいた動物が逃げ出し、近隣
の洞窟に立てこもっているとか⋮⋮﹂
その依頼は、昨日のうちに誰に振るかと話していたものだった。
商人の一行とは、珍しい獣を扱う動物商のことだ。その動物がど
うやら人間の手に負えない猛獣らしく、捕獲してくれという依頼が
出ている。
すでにいくつかのギルドに並行して依頼を出しているので、請け
るギルドが重複することになるかもしれないが、その場合は成功し
たギルドに報酬を払い、あとのギルドは前金のみにさせてもらいた
いという契約だった。
﹁へえ⋮⋮そういう話があるんですね。﹃もっと詳しいことを聞か
せてもらえませんか﹄﹂
﹁はい。﹃お話をするお時間はございますか?﹄﹂
﹁はい、﹃予定なら空いてます﹄﹂
ギルド員が依頼を受諾するときの合言葉。これで、リゲルに依頼
の資料が渡され、彼はそこに示されたメンバーと組んで、依頼を遂
行することになる。
依頼にとりかかるのはできるだけ早いほうがいいが、俺からの﹃
仕込み﹄もあるので、一日は時間をもらうことになる。リゲルはそ
375
れを分かっていて、酒を飲み干すと席を立った。
﹁ありがとうございました! 兄さん、今日はまた﹃知り合いを連
れて﹄夜に来ます!﹂
﹁ああ、また来いよ﹂
知り合いを連れてくるというのは、店を貸し切りにする前に、ギ
ルド員を連れて飲みに来るということだった。
まあ五十人の予定を合わせるには時間もかかるし、それは全く問
題ない。﹃銀の水瓶亭﹄のギルド員は、いつでもうちの店に来てく
れて構わないし、その時は気楽に飲んでいってもらいたい。
﹁お客様は、今夜のご予定は?﹂
﹁俺も知り合いが何人か来るかもな﹂
﹁ふふっ⋮⋮そうですか。最近は、来店される頻度が増えていらっ
しゃいますね﹂
ヴェルレーヌが思わせぶりに言う。フリーではあるが、うちのギ
ルドの一員のようなものであるアイリーンはいいとして、ミラルカ、
ユマ、そしてコーディが、代わる代わる店に来るようになったのだ。
酒が飲めないユマにも飲めるものを出したことが、彼女をいたく
感激させてしまったようだ︱︱本来なら、忙しい彼女のもとに持っ
て行ってやってもいいくらいなのだが。
そう考えていて思い出した。今日あたりミラルカの研究室を訪問
しないと、差し入れを持っていかない日が4日続いてしまう。しば
らくはあまり間を空けずに通うことにしていたので、4日は少々空
きすぎだ。
376
﹁⋮⋮すまない、昼になったら一度店を出る﹂
﹁かしこまりました。私はいつでもお店で待っておりますので、ご
ゆっくりどうぞ﹂
﹁悪いな、いつも﹂
﹁心は世話女房、ということでございます。どうかお気になさらず﹂
店に客が少ないからといってヴェルレーヌは大胆なことを言う。
俺は彼女が出した三杯目のエールに口を付ける。そんな俺を見な
がら、ヴェルレーヌはグラスを曇りひとつなく磨き上げ、満足そう
に微笑んでいた。
377
閑話2 王女への魔法指導と特別研究生
ヴェルレーヌに留守を任せ、俺は差し入れの準備をすると、魔法
大学行きの馬車に乗った。
研究室棟の受付には、今日もポロンがいる。俺が訪問するのはこ
れで3度目になるが、すでに顔なじみとして認識されていた。
﹁いらっしゃいませ、デュークさん。ミラルカ教授でしたら、今は
ご在室ですよ﹂
﹁ああ、ありがとう﹂
初めに名乗った名前で呼ばれる状態が続いているが、実は偽名だ
ったのだと言うわけにもいかず、そのままだ。ティミスたちの件も
あり、デュークは現実にいる人物であり、俺はその友人だという設
定で認識している人物も多い。
こうなったら火竜研究者として、デューク・ソルバー名義を運用
しても良いかもしれない。魔法大学でそういう研究が求められてる
か分からないが、論文の評価をミラルカ教授に頼んでみるというの
も手だろう︱︱いや、普通に彼女のアドバイスを受けて魔法の研究
をすべきか。
﹁ふふっ⋮⋮いいですね、お弁当やお菓子の差し入れをしてくれる
男性がいるなんて。私なんて、味気ない購買と学食で済ませる毎日
です﹂
﹁手作り弁当とかは作らないのか? それなら、配達してやっても
構わないが﹂
378
﹁本当ですか? 社交辞令にしておくなら今のうちですよ、私、本
気にしちゃいますよ?﹂
﹁昼前に魔法大学を訪問することがあれば、ついでに持ってくるっ
てことならいいんじゃないか?﹂
﹁ついでにっていうのは引っかかりますけど、デュークさんって本
当に面倒見のいい方だっていうことはわかりました﹂
現状の食事に不満があると言われると、どうも全力で美味なるも
のを食べさせたくなるというのは、食事を出す店をやっていれば不
思議ではない思考のはずだ。
﹁お気持ちはうれしいですし、甘えたい気持ちもありますけれど、
デュークさんの差し入れがすごく美味しかったりしたら、ふだんの
食事がますます味気なくなりそうですし。今のところは遠慮してお
きます﹂
﹁いつでも気が向いたら言ってくれ。めちゃくちゃ美味いかは分か
らないが、昼の軽食には自信がある。あと3時のおやつにもな﹂
﹁至れり尽くせりですね。デュークさんがそこまでお世話を焼くの
って、それだけミラルカ教授が魅力的な女性だからってことですよ
ね﹂
﹁う、うーん? いやまあ、それは否定しないけど。それに釣られ
てるわけじゃなくて、ちゃんとした理由があるとは言っておこう﹂
﹁そうなんですね。あ、いけない、あまり引き止めちゃいけないで
すよね。ごゆっくりどうぞ﹂
ポロンに挨拶を済ませ、ミラルカの研究室に向かう︱︱すると、
ミラルカが廊下に出てきていた。
じっとりと見つめられ、俺はかなり前から見られていたのでは、
と察する。
379
﹁⋮⋮やっぱり。あなたの好みの系統だものね、ああいうほわほわ
した人懐っこい子は﹂
﹁まあ否定はしないが、世間話をしてただけだぞ﹂
﹁うそつき。購買と学食が物足りないから、美味しいものが食べた
いって言われてたじゃない。あの子、前に私があなたのお菓子を分
けてあげたとき、すごく気に入っていたもの﹂
﹁なるほど、それで俺の差し入れの評価が高かったのか。だが、あ
れは序の口だぞ。差し入れが続くほど、質は上がっていくからな。
二度と同じものは出さない、それが俺の流儀だ﹂
酒場の日替わりメニューを毎日変えるというのも俺のこだわりだ
ったが、100日ほど続けたところで断念した。季節ごとの食材を
使ったメニューでローテーションするのが、客の需要を最も満たし
ていると分かったからだ。
しかし差し入れはまだ三回目だ。一度目のクッキーがそこまで受
けていたとなると、今日持ってきている白パンの三色サンドイッチ
は、さらに高い評価を受けるに違いない。肉、魚介、そして新鮮な
フルーツとクリームのサンド。食べ過ぎを考慮して大きさはプチサ
イズにしてあり、全て二つずつ用意してある。余ったら俺が帰りに
食べればいいという戦略だ。
﹁料理のことになると、急に目が輝きだすのよね⋮⋮あなた、本当
は料理人になりたかったの?﹂
﹁料理は趣味だ。でも店で客に出すとなると、手は抜けない﹂
﹁趣味でプロ意識があるっていうのも、何か矛盾したものを感じる
わね⋮⋮そうだ、今日はマナリナが来ているから、彼女にも食べさ
せてあげていい?﹂
﹁だったらちょうどいいな。残ったら俺が食う予定だったが、二人
380
で分けるといい﹂
﹁⋮⋮あなたって時々いい人すぎて、突っ込みどころに困るのだけ
ど。何か下心でも持っていてくれたほうが、落ち着くくらいよ﹂
﹁実を言うと、俺は女性が美味しそうに食べる姿を観察するのが好
きなんだ﹂
﹁っ⋮⋮あ、あまり見るのは趣味がいいとは言えないわよ。何が嬉
しくてそんなところを見たいの? そういうのを変態っていうのよ。
知らなかったのなら教えてあげる﹂
ミラルカの毒舌が調子を取り戻すと、安心してしまうのはなぜだ
ろう。俺もすっかり毒舌耐性がついてしまったということか。
◆◇◆
研究室に行き、待っていたマナリナにも食事を摂ってもらう。う
ちの店には何度か来てもらっているから、俺の考案した料理は食べ
てもらっているわけだが︱︱今回の喜びようは、見ているこちらも
ほっこりとしてしまうほどだった。
﹁こんなに美味しいパンがあるのですね⋮⋮私が日ごろ食べている
ものはなんだったんですの⋮⋮?﹂
今日のマナリナは、勉強するときはそうしているのか、ブルネッ
トの髪を後ろで結っていた。ふだん下ろしているので、ギャップが
あって新鮮な印象だ。
ミラルカは今日は左右でおさげにしている。その髪型は昔から時
々やっていたが、見るのは久々だった。やはり彼女も勉強するとき
は、長い髪が本にかかったりするのを気にするらしい。
381
﹁んむ⋮⋮はむ。んくっ⋮⋮頭を使ったあとにこんなものを出され
たら、私まで餌付けされてしまうじゃない﹂
﹁考えるにも、食べないと頭が回らないからな。足りなかったら果
物もあるぞ﹂
﹁ミラルカ、こんなに美味しいものを定期的に差し入れてもらって
いるんですのね⋮⋮はしたないですけれど、すごく羨ましいですわ﹂
﹁これはまだ序の口だぞ。徐々に奥の手を出していかないと、最初
の方で飽きられるからな﹂
﹁本当に恐ろしいわね⋮⋮すでに、私らしくないことを言ってしま
いそうだもの﹂
﹁次に来る日を早めてほしい、と言いたくなってしまいますわね。
ディック様、そのときは私もご一緒してもよろしいですか?﹂
﹁ああ、いいぞ。マナリナはこのゼミの生徒だしな﹂
﹁だ、だから。そんなに簡単に、誰のオーダーでも請けるのはどう
なのかしら。私は、あなたにお礼として、差し入れをしてもらって
いるはずなのだけど⋮⋮﹂
ミラルカに言われて思い出した︱︱俺は食事を届けるお得意先を
増やしに来たのではなかった、決して。
﹁⋮⋮私が大学で関わっている人たち限定ならいいわ。それ以上ま
で手を広げないこと。いい?﹂
﹁ああ、分かった。俺もあまりギルドを離れるわけにいかないしな、
人任せにしておくのも悪い﹂
﹁では、私までは許可をいただけたということですね。ありがとう
ございます、ディック様﹂
当たり前のように会話しているが、彼女はこの国の姫君であり、
第一王位継承者である。
382
そういえば、ヴィンスブルクトの件で彼女も狙われていたわけだ
が、その件について彼女は把握しないままだったのだろうか。
﹁下の妹が、私と母が同じで王位継承権を持っているのですが、ま
だ八歳だというのに、ジャン公爵が婚約を申し込んできて⋮⋮お父
様も最初はジャン様との関係を強くすることに乗り気だったのです
が、それでおかしいと思ったようです。その後に、ヴィンスブルク
ト家の大きな問題が発覚して⋮⋮本当に驚きました﹂
﹁マナリナが婚約破棄を望まなければ、もっと難しい事態になって
いたかもしれないわ。あなたの人を選ぶ目も大したものね﹂
﹁い、いえ⋮⋮私は、本当を言うと、互いをゆっくり、自然に理解
できる関係にあこがれていたんです。そんなふうに、相手を選んで
はいけない立場だと分かっているのですが⋮⋮﹂
身分の高さゆえに、結婚する相手を自分で選べない。生まれに応
じた義務というものがあるというのも分かるが、マナリナの気持ち
は否定されるべきものではないと思う。若造の考えかもしれないと
分かってはいるが。
﹁好きなように生きられたら、それが一番だな。もしそうすること
が難しくなるようだったら、また俺のところに依頼を持ち込んでく
れ﹂
﹁そ、そんな⋮⋮すでに、一生かかっても返せないほどのことをし
ていただいたのに。ディック様に、あまり甘え続けるわけには⋮⋮﹂
﹁気にしなくていいのよ、マナリナ。この人は面倒がっているよう
に見えて、人の世話を焼くのが大好きなんだから﹂
﹁面倒なことは御免だが、マナリナの悩みの相談に乗るのは、面倒
だとは特に思わないな﹂
一度依頼を受けて人生に関わったのなら、後のことにも責任を持
383
つ。何もなければそれでいいが、後で問題が生じるようなら、それ
も含めて﹃銀の水瓶亭﹄の仕事だ。
﹁⋮⋮ディック様は心からそう思って言っていらっしゃるので、何
も言えなくなります。胸がいっぱいで⋮⋮﹂
﹁ディック、あなたがいるとマナリナが勉強に集中できなくて単位
を落としてしまいそうだから、そのときこそ人生の悩み相談に乗っ
てあげてね﹂
﹁勉強は苦手なんだがな。まあ、魔法は得意分野ではあるから相談
に乗るぞ﹂
ファイアフライ
﹁本当ですか? 私、炎の精霊と契約はできたのですが、なかなか
基礎の﹃蛍火﹄が発動できなくて⋮⋮﹂
﹁習うより慣れろってやつだな。一回やってみせてくれ﹂
﹁は、はい。少し待っていてください、ノートを見ながらでないと、
呪文が⋮⋮﹂
マナリナは勉強するときはいつもそうしているのか、眼鏡をかけ
る。ミラルカも教授モードのときはそうなのか、同じように眼鏡を
かけた。金色の髪には赤い眼鏡が似合う、と発見してしまった。マ
ナリナの眼鏡は珍しく縁がないタイプだ。
﹁マナリナ・リラ・アルベインの名において請願する。炎の精霊よ、
我が前に小さき火を灯したまえ⋮⋮﹂
﹁それじゃ魔力が精霊に干渉してないぞ。まずそこの訓練からだな。
最初だけ﹃補助﹄してやるから、それで感覚をつかんでみようか﹂
﹁っ⋮⋮は、はい。よろしくお願いします、ディック様﹂
ギルド員の中にも、加入した当初は魔法が使えず、才能に気づい
ていない者がいる。
彼らは精霊と契約しても、魔力を精霊に接続し、力を借りるとい
384
う感覚を持っておらず、自分には魔法の素質がないと諦めているこ
とが往々にしてある。
エレメンタルライズ
マナリナも魔力を持っているが、最初のきっかけが掴めていない。
俺は彼女の頭に手をかざし、﹃精霊感知上昇﹄という強化魔法をか
け、精霊に対する感度を上げた︱︱すると。
エレメンタルコール
﹁この、感覚は⋮⋮精霊は、こんなに身近に存在しているものだっ
たのですね⋮⋮﹂
﹁ああ。精霊魔法の基礎には﹃精霊招集﹄っていうのがあって、場
の特定の精霊力を増やすことができる。精霊と魔力をつなげられる
ようになったら、次はそれをやってみるといい﹂
エレメンタルコール
﹁はい⋮⋮マナリナ・リラ・アルベインの名において請願する。炎
の精霊よ、我が元に集まりたまえ⋮⋮﹃精霊招集﹄!﹂
空間の炎の精霊密度が上昇する。ミラルカは精霊魔法の理論はわ
かっているが、習得しようとはしないので、俺の授業をマナリナと
一緒になって聞いていた。
ファイアフライ
﹁これで﹃蛍火﹄を使ったら、爆発したりしない?﹂
﹁蛍火はそこまで強力にはならない。かなり明るくなるだけだ﹂
緊張した面持ちにマナリナに、俺は頷いてみせる。今の彼女でも、
発動要件は満たしているはずだ。
ファイアフライ
﹁⋮⋮マナリナ・リラ・アルベインの名において請願する。炎の精
霊よ、我が前に小さき火を灯したまえ。﹃蛍火﹄!﹂
緊張しながら詠唱を終えるマナリナ。ぎこちないながらも、魔力
が火の精霊に干渉し︱︱そして。
385
彼女のかざした手の前に、ぽわっ、と小さな炎の玉が生まれる。
それはふわふわと、上下に揺れながら揺蕩い、そして消滅した。
﹁で、できましたわ⋮⋮っ、ディック様、ミラルカ、私、魔法が使
えました⋮⋮っ!﹂
﹁きゃっ⋮⋮な、なぜ私に抱きつくのかしら。私は見ていただけで、
何もしていないのに﹂
﹁いいんじゃないか。俺は授業料をもらうつもりはなかったからな﹂
﹁い、いえ⋮⋮これに乗じてディック様に甘えるわけにはいきませ
んわ。差し入れも、このたびのご指導も、ディック様にはなんとお
礼を言っていいのか⋮⋮﹂
﹁精霊魔法の指導の仕方として今のやり方をレポートにしたら、俺
もミラルカゼミの門下生になれるか?﹂
﹁な、なにを突然言い出すのよ⋮⋮私のゼミに入りたいって、それ
は私の研究旅行などに、あなたも同行してもらうということになる
のだけど⋮⋮﹂
魔王討伐の旅をしていたときも長い旅路だったし、特に問題はな
い気がするのだが、ミラルカとマナリナは揃って何か言いたげにし
ている。
﹁こんなこと、ディック様の前でいうのははしたないですけれど⋮
⋮これから、とても楽しくなりそうですわ﹂
﹁何を楽しみにしているのよ⋮⋮いい? ディック。あなた、レポ
ートなんて出したら騒ぎになるし、有名になるわよ。その対策はで
きているの?﹂
﹁ああ、できてる。これで俺も魔法大学の図書館を利用したり、ミ
ラルカの研究室で実験を見学したりできるようになるわけだな。研
究、いい響きじゃないか﹂
386
こうしてミラルカゼミの学生名簿に、特別研究生として﹃デュー
ク・ソルバー﹄の名前が加わることになった。
デューク︱︱俺の書いた﹃魔法適性の有無の客観的判断基準と、
初歩魔法発動の手引き﹄というレポートは、魔法大学に入ったはい
いがなかなか魔法が使えずに悩んでいる学生たちにとって、救いの
教本になってしまった。
結局俺にしかできない指導法なので、デューク・ソルバーを講師
とする﹃初歩魔法指導室﹄が開設されるという話にもなりかけたが、
さすがにそれは辞退した。正体を隠すために仮面で授業をするわけ
にもいかず、姿を見せずに魔法だけを覚醒してやるというのも都合
が良すぎるので、レポートを読んで努力してもらうことにした︱︱
俺はミラルカと違って先生ではないので、それで勘弁してもらいた
い。
﹁あなたが書いた火竜研究のレポートを学会に出したら、王室から
研究者としてスカウトがかかると思うわよ﹂
﹁そう言われると、企業秘密にしておきたくなるな。何事もほどほ
どが一番だ﹂
﹁⋮⋮また何か書いたら、私には見せてね。代わりといってはなん
だけど、私の研究レポートも見せてあげるわ﹂
ミラルカのゼミに学生として顔を出すのも悪くはない。俺は﹃大
規模建造物の重心計算と効率的破壊﹄と書かれた、ミラルカにしか
実践できなさそうな論文を見ながら、もっと汎用性のある研究をし
たまえ、と教授ばりに言いたい気持ちをぐっと我慢するのだった。
387
第34話 流浪の影撃士と逃げ出した獣
大学から戻ったあと、その日の夜営業が始まってからしばらくし
て、店が落ち着いたあとでコーディが来店した。
女性だと知った以上は、初めから女性向けの酒を出すというわけ
でもない。コーディは相変わらず男装しているので、店での振る舞
いはさして変わらなかった。
﹁どうした、今日は特に機嫌がいいな﹂
公爵家の中で最も騎士団の手を煩わせていたのは、ヴィンスブル
クト家であった。以前も騎士団に対する貴族の干渉を弱めるように
と国王に働きかけたわけだが、さらに問題だらけの公爵家の力が弱
まったことで、コーディの悩みはさらに軽減されたことだろう。
しかしそれだけが理由ではないようで、コーディは俺を見やると、
爽やかに笑って言った。
﹁騎士団が貴族たちの用件で動員されることも随分減ったから、今
度の日曜に、半日だけ休暇が取れそうなんだ﹂
﹁おお、よかったな。できるだけ怠惰に過ごせよ、普段の疲れをリ
フレッシュしたほうがいい﹂
﹁身体というのはね、一日動かさないだけでも錆びついてしまうん
だ。だから僕は、休みの日も関係なく一定の鍛錬の時間を取ってい
る﹂
コーディが真面目すぎるというのはこういうところで実感できる
388
が、それを悪いとは思わない。
うちの店は年中無休である。回復魔法が使える人間にとって、日
常生活における疲労など、疲労の類に入らないのである。4時間半
寝れば十分なところを6時間は毎日寝ており、身体にガタも来てい
ない。魔力に満ち満ちたエルフはさらに疲労に強いらしく、時間の
感覚も人間とは違うので、72時間ごとに休むだけで十分だそうだ
った。なので、今の生活でもヴェルレーヌは楽園のようにのどかに
感じているらしい。
﹁そんなわけで、魔法大学の実技訓練場が近いから予約しておいた
よ﹂
﹁おまえと訓練すると、久々に筋肉痛になりそうだな﹂
﹁うん、僕もそうなるんじゃないかと思って。でも心配はいらない、
君が回復魔法を使えるからね﹂
﹁心配いらないって、俺が言う立場じゃないのか⋮⋮?﹂
なぜこうも俺と訓練をしたがるのか。分かっている、同レベルの
相手がいないからだ。
しかし俺の剣術における﹃現在の戦闘評価﹄はどうなっているの
だろう。かなり前に測定器を使って測ろうとしてみたのだが︱︱と
考えて、俺の脳裏には、壊れてガラクタとなった測定器が浮かんだ。
測定器が無理なら測定技術を持つ人間に頼まねばならない。そう
思いつつも面倒で測るのを忘れていた。ほかの魔王討伐隊の面々も、
おそらく5年前から再測定をしていないだろう。
﹁⋮⋮少し目の色が変わったね。何か思うところでも?﹂
﹁ああ、少しな。よし分かった、訓練には付き合おう。建物を破壊
しない程度にな﹂
389
﹃光剣﹄の威力は、近接武器としても絶大だが、それに留まるも
のではない。密着、近距離、中距離、長距離、
超長距離をまったく苦にしない、恐るべき戦闘技能である。ミラル
カの殲滅魔法と違って範囲攻撃は苦手だが、直線的な攻撃において、
おそらくこの世界に並ぶ者はいない。
レンジ
俺のカバーできる射程も多岐にわたるが、超長距離における光剣
の唯一無二の射撃性能にはどうしても追随できない。見ていて羨ま
しくなるほどである。剣精の力で作られる光弾を再現しようとして
も、どうしても速度で劣ってしまう。
﹁やる気を出してくれてよかった。面倒なのに付き合わせたら悪い
からね﹂
﹁そっちこそ、貴重な休暇をそんなことに費やしていいのか?﹂
﹁これ以上有意義な時間の使い方はないよ。騎士団長として部下に
実務をさせるだけでは退屈なんだ﹂
﹁ははっ⋮⋮前までは忙しすぎて目が死んでたのにな。だいぶ、い
い職場になったみたいで良かったよ﹂
﹁楽すぎると今度は余計なことを考える時間が増えてしまう。ほど
ほどが一番だね﹂
コーディの意見に、全くもって同感だった。俺はエールを飲み干
し、今日の三杯目を頼もうとする︱︱すると。
カランコロン、とドアベルが鳴る。そうして入ってきたのは、ハ
ードレザーアーマーの上から黒い外套を羽織った、蒼黒の髪を持つ
若い男だった。
その姿には覚えがある。現在王都に滞在するSSランク冒険者5
390
人のうちで、最強を争う力を持つという男。
頬に傷を持つその男は、ヴェルレーヌの前までやってくると、無
表情のままで声をかけた。カウンターから見てもその体躯は恵まれ
ているが、筋肉はむやみに肥大化せず、絞り、研ぎ澄まされている。
しかし言ってしまえば、SSランクとSSSランクの間には、や
はり超えられない壁がある。ほかの人間が対峙すれば威圧感の塊だ
ろうが、俺とコーディはそんなプレッシャーは全く感じない。
﹁⋮⋮このギルドの、ギルドマスターはいるか?﹂
﹁失礼ですが、お客様。こちらは夜の部は、酒場のみの営業となっ
ておりまして⋮⋮﹂
ヴェルレーヌも気圧されず、落ち着いて受け答える。男は不快な
顔をするでもなく、ただ静かに目を閉じた。
王都を賑わせる舞台の役者でも通用しそうな、無表情ながらも整
った顔立ち。頬の傷があっても、それがまたその男に強い印象を持
たせる要素として働いている。
﹁⋮⋮では、一つだけ伝言を頼む。﹃氷の洞窟﹄に来ることは許さ
ん。もしこのギルドの人間が来るようなら、命の保証はできん﹂
氷の洞窟︱︱コーディにも飲んでもらったことがあるが、この店
できつめの酒に入れて氷割りにするときに使う﹃永久氷塊﹄が取れ
る場所である。
その場所こそが、まさにうちのギルドのリゲルに任せた仕事で向
かう先だった。動物商が逃がした猛獣は、氷の洞窟の奥に逃げ込ん
391
だというのだ。
﹁お客様、一方的にお話をされるだけでは、こちらもすぐには把握
しかねます。カウンター席でよろしければ、お掛け願えますか?﹂
﹁⋮⋮長居をする気はないが。同業者には、それなりのルールがあ
るというものか。分かった、郷に入っては郷に従うとしよう。だが、
俺の言いたいことは変わらん﹂
この件から降りろ、と彼は言う。そんな彼に、酔っ払いであると
ころの俺ができることは一つだ。
俺はヴェルレーヌに目配せして、男にもエールを出すように指示
した。男は目の前に置かれたエールを、やはり無表情のままで見つ
める。
﹁⋮⋮酒で誤魔化すというつもりでもなさそうだな﹂
﹁まずは一息ついてからだ。何かこの店に話があるのなら、それか
らでもいいんじゃないか﹂
声をかけると、男は静かに俺を一瞥する。値踏みするでもなく、
本当にただ見ただけ、という仕草だった。
﹁その氷の洞窟っていうところに、用があるんだね。なぜ、そんな
場所に?﹂
コーディは客には聞こえないよう、声を落として尋ねた。男はエ
ールを飲むと、コーディの方ではなく、ヴェルレーヌを見据えなが
ら言う。
彼女をこのギルドの重要人物と睨んでのことだろう。俺のことは
392
ノーマークというのは、今の様子から見て間違いない。
﹁個人的な事情だ。俺は冒険者で、﹃青の射手亭﹄に所属している。
依頼人はギルド同士で競わせてでも、逃げた獣を捕獲しろと言って
いるようだが⋮⋮そんなことは時間の無駄だ。﹃あれ﹄を追うのは
俺だけでいい﹂
﹁お客様、恐れ入りますが、所属を証明するものは拝見できますか
?﹂
﹁⋮⋮これでいいのか?﹂
男は素直に、首にかけているギルドタグを引き出し、ヴェルレー
ヌに見せた。
ギルドタグは、小さな鋼板に冒険者の所属情報などを刻むもので
ある。ちらりと見えただけで読み取れた︱︱SSランク冒険者、青
シャドウチェイサー
の射手亭に所属するゼクト・クルシファー。年齢は22歳で、職業
は﹃影撃士﹄。青の射手亭に所属しているのは半年前かららしい。
国内の別の場所で冒険者をしていて、王都に流れ着いたのが半年
前ということか。俺から言うことではないが、なぜ十一番通りにあ
る知名度の低いギルドに、あえて所属しているのだろう。
そのきっかけも気になるが、一番は、猛獣の捕獲依頼になぜそう
もこだわるのかということだ。報酬が破格というわけでもなく、危
険度に見合った相場通りの額のはずである。
﹁拝見させていただきました。事情の全ては把握しかねますが、青
の射手亭で依頼を独占したいということでしょうか﹂
﹁⋮⋮個人的な事情だ。青の射手亭には、関係ない﹂
﹁そうはいかないんじゃないかな。君は冒険者なんだろう? 所属
393
するギルドの代表として仕事をするというのは当然のことだよ﹂
﹁⋮⋮横から口を出すな。俺はこのギルドのマスターを呼べと言っ
ている﹂
すげなく言い返され、コーディは肩をすくめる。これでは埒が空
かないと言いたいところだが、俺はヴェルレーヌを介して、ある点
について尋ねてみることにした。
﹁その獣というのは、お客様にとって、何か特別な意味があるので
すか?﹂
酒場の喧騒の中にかき消されそうな声だが、男︱︱ゼクトの耳に
は届いていた。
ゼクトは答えず、エールをあおる。そして杯を空にすると、無言
で席を立ち、店から出て行った。
﹁⋮⋮何も答えない。それが答えということか﹂
﹁まあ、そういうことだな⋮⋮﹂
考えられる可能性は幾つかある。一つは、ゼクトが動物商と懇意
にしているか、あるいは因縁があり、逃がした獣を自分で捕獲した
いと思っている。
あるいは、氷の洞窟に逃げ込んだ獣に憎しみを抱いているか、そ
の逆も考えられる。
何も分からないも同然だが、一つ言えることは、猛獣捕獲に赴い
たリゲルのパーティがゼクトに妨害者と見なされれば、かなりの危
険を冒すことになるということだ。影撃士はその名前の印象と違い、
394
どちらかといえば補助的な役割を担当する職業だが、それでも平均
ランクがBのパーティでは絶対にSSランクには勝てない。
﹁動物商から逃げ出した猛獣⋮⋮か﹂
﹁どうする? 僕も手を貸そうか﹂
﹁いや、その必要はない。まあ、気にせずに飲んでくれ﹂
これは俺の考えるべき問題だ。それを分かってくれたのか、コー
ディはそれ以上は何も言わなかった。
本当に力が必要なときは頼らせてもらう。しかしまだ、俺のギル
ドが単体で解決するべき範囲の問題だ。
ゼクトが競合するギルドとして、俺たちのギルドを特定できたの
はなぜか。それについては、素直にゼクトの調査能力を評価したい
ところだが、それよりも思ってしまったことがある。
﹁⋮⋮くやしいな、そんなに楽しそうにして。訓練に誘ったときは、
そんな顔はしなかったのに﹂
﹁そうか? 訓練もちゃんと楽しみにしてるぞ﹂
﹁エールだけでは、先ほどのお客様に満足のいくおもてなしはでき
ていない⋮⋮ということですね﹂
ヴェルレーヌの言うとおりだ。あれほど優秀な冒険者を前にして、
俺がギルドマスターとして思うことは、ゼクトを勧誘することがで
きれば、俺のギルドに良い影響をもたらすだろうということだった。
彼が﹃青の射手亭﹄に身を置く理由はまだ知らないが、上手くす
れば引き抜ける。その鍵を握っているのは、まさに今回の依頼だろ
う。
395
ゼクトとぶつかり合わず、彼の目的を尊重し、なおかつ依頼を達
成する。
SSランクの冒険者を勧誘すれば、俺はもっと隠居した生活がで
きる︱︱というのが本音でもあるが、青の射手亭と比べてうちのギ
ルドの仕事の質が劣るということはないので、ゼクトも損はしない
だろう。
﹁猛獣を手なづけるための準備が必要ですね﹂
そう︱︱ゼクトが何を考えているにしても、俺たちが打つ手を決
めるために、知っておくべき情報が一つある。
逃げ出した猛獣の素性。それを今から知ることは、俺のギルドの
情報網を用いれば決して難しいことではなかった。
396
第35話 氷の狐と月兎族
俺はギルドに来店していた客に紛れていた情報部員のひとり、リ
ーザを呼び寄せ、動物商についての情報を聞き出すことにした。
﹁面白いお話があるんですけど、何か美味しい飲み物でもおごって
いただけたら、口も軽くなっちゃうと思うんですよね。どうですか
お兄さん﹂
﹁なんだ、もう酔ってるのか。何かあったのなら、話くらいは聞く
ぞ﹂
﹁何でもないですよー、情報収集中にちょっといいなーっていう男
の人を見つけたんですけど、なんか女には興味ないとかって、連絡
先も聞けなかっただけですよ。私なんて私なんてどーせ、胸無し色
気なし食い気ありの三重苦ですよーだ!﹂
俺の見たところではそこまで自分を下げることはないと思うのだ
が、彼女は面食いなので、男性の理想が高いのだろう。
ちなみに﹃勤め先で恋愛はしない﹄という主義も持っているので、
外での相手探しに熱心ということらしい。コーディも俺の友人とい
うことで、男と思っているようだが、むやみにアプローチしたりは
していなかった。
﹁僕も何かもらおうかな。違う種類のお酒を一緒に飲むのは良くな
いっていうけど﹂
﹁そうだって言いますけど、あれってなんでなんですかね? お兄
さん、教えてくださいよー﹂
﹁酒飲みは一度に一種類の酒精をたしなむのが基本だ。舌も鈍るし、
397
酔いも回りやすくなる。俺は酔うためにそういう邪道も仕方なくや
るがな﹂
﹁ふえー、そうなんですね。お酒を覚えたてのときにべろんべろん
になったので、私も気を付けることにします﹂
﹁帰り道でふらつかないように、酔いが抜けやすくなるドリンクっ
てのもある。マスター、﹃清爽のレモンエード﹄を出してくれ﹂
ただの果実の搾り汁を天然水で割ったものではなく、酔いの時間
経過による回復を促進する飲み物だ。糖分がほとんど含まれていな
いので、締めにこれを飲んで帰る客が多い。そういう客は酔いを翌
日に持ち越さず、気分よく仕事をこなすことができ、また店に来て
くれる確率が高くなるという寸法だ。そんなわけで、原価ぎりぎり
の銅貨8枚という価格である。
コーディもそれを見て他の酒を頼むのをやめ、同じものを頼んだ。
酔っ払って肝臓を見てもらいたいのではと少し思ったが、彼女はそ
こまで狙って俺に隙を見せたいということもないだろう。
そんなことを普通に考えるあたり、やはり意識してしまっている。
男女の間に友情は成立しないとよく言うが、俺はそんな他人の決め
た価値観になど縛られるわけにはいかない。
﹁んっ⋮⋮美味しい。へえ、締めにこういう飲み物があるんだね﹂
﹁美形さんは飲んだことなかったんですか?﹂
﹁はは⋮⋮そこで返事をしたら、僕が自信過剰みたいじゃないか。
それより、面白い話を聞かせてくれるんだろう?﹂
今日はコーディが進行役をしてくれていて、ますます俺は飲んだ
くれるほかないわけだが、まあ支障はないので良しとする。
398
これが男だったら何も気にしないのだが、女性で俺の世話を焼い
てくれていると思うと、また違う見方をしてしまう︱︱そんなこと
ばかり考えてしまい、本当に申し訳なさすぎる。
﹁あのですね、王都って動物を飼おうと思うと、動物商から買わな
いといけないじゃないですか。登録外の動物を飼おうとすると、や
っぱり伝染病とかいろいろあるので、王都の中では検査を受けた動
物しか飼ってはいけないんですよ﹂
ミラルカのフェアリーバードは、国王に献上されるときに検査を
受けているので問題ない。俺とミラルカは火竜に接触しているが、
それも火竜放牧場のシュラ老が病気について事前に調べてくれてい
るので問題なしだ。
﹁でも、王都で動物を飼おうとすると、とても高いんです。それで
も動物商っていう商売が成り立っているのは、貴族の方が愛玩用に
動物を欲しがるからなんですよ。でも、そのあたりにいるワンちゃ
んだとか、人間に慣れてない狼さんだとか、猫さんだとか⋮⋮そう
いった普通の動物は、そこまで需要がないんですね。そうなると、
やっぱり動物商の人は珍しい動物を捕まえることにやっきになるん
です﹂
﹁それはもう、動物を商うというより、希少な宝を売ってお金にし
ているのと変わらないね﹂
﹁そうですそうです。それで、貴重な動物を取り合いになっちゃっ
たりして、いざこざも多いみたいです。それが、﹃ガラムドア商会﹄
という動物商がですね、最近王都で貴重な動物を一手に扱っていて、
急成長しているっていう話なんですよ。でもこれが、少しきなくさ
い話もあって⋮⋮﹂
事前の調査で、そこまでは俺も把握していた。
399
うちに出入りしている商人のジョイス・ウェルテムもまた、動物
を商品の一つとして扱っている。そのため、ガラムドア商会の扱っ
ている動物が、めったに手に入らない動物ばかりで、仕入先を調査
しているがなかなか把握できないと悩みを相談されていた。
今のところ表に出ている情報だけでは、ガラムドア商会のやって
いることに問題があるということはないが︱︱どうも、﹃表に出て
いる情報だけ﹄では済まない気がしてきた。
ゼクトがガラムドア商会の逃がした動物にこだわるのは、貴重な
動物だからなのか︱︱いや、もっと何か、根が深い問題があるよう
に感じる。
﹁リーザ様、そのきなくさい話というのは⋮⋮?﹂
アイス・フォックス
﹁これは、今日入ったばかりの情報なんですけど。ガラムドア商会
で、少し前に﹃氷狐﹄という動物が入荷されて、貴族の方に売られ
る予定になっていたんですね。ですが、そんな動物は誰も見たこと
がないし、本当に幻の動物なんじゃないかと言われていたんですけ
ど⋮⋮その動物の毛並みなんですけど、どうやらある獣人種のもの
によく似ているみたいなんです﹂
かなり具体的な話をしてしまっているが︱︱まあ、他の客は聞い
ていないみたいなのでいいとしよう。噂話の体を装う必要はない。
﹁ある獣人種⋮⋮それは、﹃青狐族﹄ですか? その氷狐という名
前からして、水色か、青色の体毛をしているのだと思いますが⋮⋮﹂
﹁あ、店主さんはお詳しいですか? 私は聞いたはいいんですけど、
ぴんとこなくて⋮⋮﹂
青狐族。名前だけ聞くと、青っぽい体毛を持つ、狐のような獣人
400
種ということになるのだろうか。
﹁はー、私の知ってる面白い話ってそれくらいなんです。すみませ
ん、オチがつかなくて﹂
﹁いえ、大変興味深いお話でした。リーザ様、﹃楽しいお話のお礼﹄
は、のちほどさせていただきます﹂
﹁いいんですか!? ありがとうございます♪ ではでは、また何
かあったら面白いお話を持ってきますね!﹂
﹁ええ、良い男性が見つかったというお話でも、お聞かせ願えれば
幸いです﹂
ヴェルレーヌはそういったゴシップが意外に好きで、ギルド員の
恋愛事情には俺より遥かに詳しい。まあ意外に、若いギルド員の男
女でも、相当のきっかけが無ければ、距離が仕事のパートナー以上
に近づくことはない。リゲルたち三人がライアを取り合ったりとか、
そういうことも起こりにくいわけだ。
リーザはギルド員の中では人気があるのだが、彼女のポリシーで
男性のアプローチを遮断しているだけで、本当は普通にもてると言
える。性格は明るく、仕事熱心で、子供や老人にも分け隔てなく優
しく︱︱問題があるとすれば、繰り返しになるが面食いということ
くらいか。
﹁さて⋮⋮僕はもう一杯飲んだら帰るとしようかな。ディックは、
さっきの話が参考になったのかい?﹂
ささやくような声でコーディが言う。思い切り別のことを考えて
いた俺だが、もちろんリーザの話は整理して、打つべき手は考えて
いる。
401
﹁なかなか面白い話だった。知ると知らないとでは大違いだな。そ
ういう話が聞けるから、飲んだくれは辞められない﹂
﹁全然酔ってなんていないくせに。君の眼はいつも、この店の誰よ
りも見開かれているよ﹂
﹁ふふっ⋮⋮眠たそうな目をしていらっしゃいますが。カッ、と目
を見開いてみたところを、私も見てみたいものです。長い間見てお
りませんので﹂
﹁そんなに眠たそうか⋮⋮? 普通じゃないのか﹂
俺は目を少しだけ見開いてみるが、ヴェルレーヌとコーディは顔
を見合わせて笑うばかりだった。
◆◇◆
コーディが帰っていき、閉店したあと、俺は片付けの途中で一度
店の裏口から外に出た。
﹁誰かいるか? ちょっと、頼みたいことがあるんだが﹂
﹁はっ。いかがなさいましたか、マスター﹂
そこに控えていたのは、ギルドの情報部に所属している獣人の女
性。リーザとも同僚の関係になる、サクヤという女性だった。
ラヴィリム
白い髪と肌に、ウサギのような獣耳を持つ、﹃月兎人﹄という種
の獣人族である。本来は色のある髪を持つ種族だが、彼女は先天的
に白く、他にはない赤い瞳を持っている。目元の泣きぼくろが特徴
的な、硬質な印象を持つ美人だ。
月兎人は気配を消したり、聴覚を研ぎ澄ませて普通の人間では聞
こえない音を聞いたりなど、敏捷性を要求される職業に高い適性を
402
持っている人々だ。魔力も高く、魔法の適性も高い水準で持ってい
る。
そして平均的に、露出度が高い。スレンダーな身体を覆う布地の
少ない防具は、月兎人に人間と同じ羞恥の観念が少ないということ
を示していた。掛け値なしの美女であるのに、その無防備さは男性
にとっては凶器といえるだろう︱︱遊びで手を出してしまえば常人
なら一撃で殺されてもおかしくない、Sランクの冒険者である。
﹁ちょっと頼みたいことがある。ある場所の調査をしてもらいたい﹂
﹁今夜中に、ということですね。分かりました。調査を行ううえで、
許可などは得られていますか? それとも、調査して証拠をつかむ
ということになるのでしょうか﹂
﹁そうなるだろうな。すまない、博打みたいなことをやらせて﹂
﹁いいえ。マスターの指示が間違っていたことなど、これまで一度
もございません。あなたが睨んだ場所を調査する、それが私の役目
です﹂
推理なんていう上等なものではなく、今のところはただの想像に
過ぎない。しかし、確かに俺は確信を持っている︱︱ガラムドア商
会には何かがある。﹃青狐族﹄と、﹃氷狐﹄を結びつける何かが。
﹁今回の件は、獣人族にからむ問題だ。少し、嫌な思いをさせるか
もしれない﹂
﹁⋮⋮なぜ、マスターが詫びる必要があるのです? あなたは獣人
を差別していない。もしそれをしているとしたら、これから調査す
る対象ということになりましょう﹂
﹁今夜中に頼みたい。リゲルに仕事を遂行させるために準備をした
いが、競合するギルドが明日にでも動く可能性がある﹂
﹁了解しました。では、場所の方を⋮⋮こちらの文書に記載されて
403
いるのですね。承りました﹂
ハイディング
サクヤは﹃隠密﹄を発動させて姿を消す。彼女が向かった先は、
ガラムドア商会だ。
潜入捜査というのは力技になるが、それをするしかない状況では
ある。俺の想像通りならば、ガラムドア商会には、獣人に干渉する
何らかの魔道具があるはずなのだ。
﹁ご主人様⋮⋮やはり、そうだと思うか?﹂
店の中に戻ると、ヴェルレーヌが待っていた。もう彼女の手で、
残りの閉店作業は済んでいる。
﹁ああ。獣人族の中には、自分の意志で先祖返りを起こす﹃獣化﹄
ができる者がいる。その獣化した獣を、そのままで固定する魔道具
があったら⋮⋮﹂
﹁私はそこまでは考えていなかった。そうか、魔道具か⋮⋮魔法を
かけて獣化から戻れなくさせた、というくらいで想定していたのだ
が﹂
﹁そこまでの魔法の使い手がいるとしたら、それはまた別の脅威に
なる。いずれにせよ調査は必要だな﹂
﹁鬼が出るか、蛇が出るか。いずれに転んだとしても、今回の仕事
は、思わぬ展開になりそうだな。あのゼクトという男については、
どうするつもりなのだ?﹂
﹁上手く行けば勧誘できるだろうと思ってる。組織は緩やかであっ
ても、常に成長を続けるべきだと思わないか?﹂
魔王であったヴェルレーヌの人材登用の方針について、今まで聞
いたことはなかった。彼女は腕組みをして、エプロンの下の豊かな
404
胸を支えながら、指をぴっと一本立てて言う。
﹁強いだけが良い人材というわけではないが、今のギルドにはSS
ランクの人物はいない。その穴を埋めることができれば、Sランク
以下の所属者に刺激を与えられる。連鎖反応は期待できるな﹂
﹁やはりそう思うか。その点においては気が合うな﹂
﹁むう⋮⋮常にある程度気が合っていると思うのだが。ご主人様は
やはり堅物だな⋮⋮だが、堅ければ堅いほど、私は燃えてくるほう
らしい。最近気が付いたのだがな﹂
﹁なんの話だ⋮⋮と言いたいが。夜這いは勘弁してくれ、夜の間も
サクヤさんの報告待ちだからな﹂
﹁なぜサクヤには敬称をつけるのだ⋮⋮? 私の方が、年上のお姉
さんらしさは出ているはずだ。彼女は私よりも年下だぞ﹂
﹁なんとなくだから、あまり気にするな。出会った時からそうだっ
たんだ﹂
ヴェルレーヌはまだ﹁むう﹂とうなっているが、本当にあまり深
い意味などない。出会ったときには俺もまだ14歳で、サクヤのこ
とが自分と比べて大人に見えたということはある。
︱︱いずれにせよ、調査結果を待って、明日は氷の洞窟にリゲル
たちを向かわせる必要がある。
もし、氷の洞窟に逃げ込んだ猛獣が、﹃獣化﹄した獣人族だとし
たら。何かの理由で、獣化を解くことができなくなっているとした
ら。
それを解く術を用意しておくことが、最善の結果を生む。俺はそ
う確信していた。
405
第36話 優美なる探索者と商会の真実
ギルドマスターであるディックからの指令を受けたサクヤは、十
番通りにあるガラムドア商会の本部に向かった。
エクスプローラー
彼女の職業は﹃探索者﹄である。隠密潜入に特化した職業ではな
いが、秘匿された情報を調査する能力にかけては、諜報専門の職業
でも及ばないケースがある。銀の水瓶亭においては諜報を専門とし
てはいないが、情報部に所属し、ギルドに入ってくる情報を整理し、
時には自ら実地で調査することもある。
月兎人の寿命は人間より長いが、彼女はそこまで容姿と年齢が乖
離していない。年齢は未詳としているが、それはある程度年を重ね
たところで、数えることをやめたからだった。
彼女は4年前にある一件を通してディックに出会い、ゆえあって
彼のギルドに身を置くことにした。それまではランクというものに
興味のなかったサクヤだが、冒険者ギルドに登録して、初めて冒険
者強度について知った。身を守るために身につけた護身術だけでも
戦闘評価は一万に近く、月兎人の特殊能力、探索者としての職能な
どを総合すると、総計の強度は32384となり、Sランクの冒険
者と査定される。
この数値を持つ者は、王都の人口の1万分の1に満たず、SSラ
ンクとなるとさらに減少し、SSSランクは神にも等しい。サクヤ
はそう認識しているが、魔王討伐隊の面々、そしてヴェルレーヌは、
その力を濫用することがないため、人々には実感として伝わらない。
406
︵かといって、すべてあの方にお任せするというわけにもいかない
のですが︶
足音を消し、気配を隠蔽し、灰色の外套を羽織ってその露出の高
い姿を隠しながら、サクヤは深夜まで営業している酒場の喧騒を意
にも介さず、その前を通り過ぎて目的地に向かう。誰にも見とがめ
られることなどない。
やがて賑わしい場所を離れ、商店などが並ぶ街区に入る。その街
区の四分の一ほど占有しているのが、ガラムドア商会だった。
ぐるりと高い塀に囲まれた中に中庭があり、二階建ての豪勢な屋
敷が建っている。サクヤは手元の資料を見て、最近希少動物を取り
扱って急成長している、という項目に目を留めた。
︵マスターの読みは当たっていそうですね。この屋敷からは、かす
かですが、獣人の匂いがする⋮⋮︶
サクヤは誰も見ていないことを確かめたあと、ぐっと地面を踏み
しめ、飛び上がった。ゆうに彼女の身長の倍はある塀を、背面宙返
りで飛び越える。
塀の内側に降り立ったあと、サクヤは庭先に犬が放たれているこ
とに気づく。
兎ならば犬は天敵だが、月兎人にとっては特に恐れるようなもの
ではない。サクヤは走ってくる犬たちに向けて手をかざすと、小さ
く呪文をつぶやいた。
イリュージョン
﹁﹃幻影﹄﹂
407
幻術の初歩であるその魔法が効果を発揮する︱︱犬たちに抵抗の
術はなく、猛然と走ってきていた犬たちが足を止め、その場に寝転
がって腹を見せる。
心地よさそうにしている犬たちを見て、サクヤはふっと笑う。
﹁あなたの主人たちがここからいなくなるようならば、然るべき自
然に帰してあげましょう。群れならば、生きていけるでしょうから﹂
サクヤは別の獣の匂いは好まない。そのため、必要以上に近づか
ず、幻影に囚われた犬たちを置いて屋敷に向かう。
種族が違っても許容できるのは、﹃血の契り﹄を結んだ場合のみ
である。そうしたとき、獣人は契りを結んだ相手の匂いを忌避する
ことがなくなる。
しかし獣人と人間が交わることは、どちらの種族でも簡単に許さ
れることではない。
ウルフリム ドッグリム
同じ起源を持つ種であり、違う神の祝福を受けただけの違いだと
いうのに、ダークエルフとエルフは対立し、狼人と犬人は決して相
容れない。人間と獣人ほど姿が違えば、もはやそこには対立ではな
く、蔑視が生まれる。
こういったことを自分が考えるだろうと予測して、ディックは気
遣ってくれたのだろうとサクヤは思う。
だが、サクヤはそういったことから目を逸らしてはいない。
﹃悪い人間﹄が、獣人を利用して一方的に利益を得ているのなら
ば、それを看過することはできない。
サクヤは﹃悪い人間﹄が嫌いである。同時に﹃善い人間﹄を見つ
408
けることを、ささやかな喜びともする。
︵そうして私も、人を区別している。世界が平等で、平均的であっ
たならば、もっと違う景色も見えるでしょうに︶
考えながらサクヤはすでに、屋敷の裏手に回ると、建物の近くに
ある木に目をつけ、音もなくその幹を駆け上がり、屋根の上まで難
なく上がる。
外観から屋根裏があることは分かっていた。屋根裏部屋の小窓に
近づいて、サクヤは異常に気が付く。
すでに、何者かがここから侵入したあとがある。外から鎖をかけ
られ、封じられていただろう窓が、何者かによって鎖を引きちぎら
れ、無理やりに開けられた跡があった。
これほどの力技ができるのは、獣人︱︱人間でもありえなくはな
いが、ディックのように強化魔法でも使わなければ、鋼鉄の鎖を素
手で引きちぎることは難しい。
︵⋮⋮侵入者がまだ、この中にいる可能性がありますね。しかし、
人間ではない⋮⋮そうすると⋮⋮︶
オボロ
サクヤはリスクを感じはしたが、戦闘になることもある程度覚悟
ガスミ
する。敵の攻撃に対処するために、物理攻撃を無効化する魔法﹃朧
霞﹄を唱える。探索者としての技術ではない、月兎人特有の魔法で
ある。
窓を開けて中に降り立つ。サクヤの赤い瞳は、真の闇に近い状況
でも関係なくものを見ることができ、鋭い聴覚で、微細な音の反響
409
から空間を正確に把握することができる。
盗賊になるために生まれてきた種族だ、と揶揄されることもある。
しかしディックは、暗い迷宮や遺跡に潜ったりするときに頼りにな
ると評してくれた。
︱︱そして今、彼女の能力は、気配を殺している獣人が、すぐそ
ばにいることを見抜くために役に立っている。
﹁⋮⋮気づかれてる、か。でもまあいいだろう、いきなり攻撃して
こないってことは、どうやら俺たちの目的は同じようだからな﹂
闇に潜んでいたのは、獣人︱︱狼人族の男だった。若くはなく、
しかし老人というほどでもない。
そのいでたちは盗賊のようにも見えるが、サクヤはそれが本職で
はないと判断した。盗賊ならば基本的には短剣などを使って戦うが、
狼人族の男は武術をたしなんでおり、立ち姿に無意識に表れている。
﹁先客がいるとは思いませんでした。物盗りに入ったというわけで
もなさそうですね﹂
﹁いや、もう探し物は済んだ。﹃ここにいた﹄というのが分かった
だけでも十分だ⋮⋮あんたはもう帰りな。俺はこれから、この屋敷
の連中を皆殺しにする。巻き込まれたくはないだろう﹂
男の探し物とは何なのか︱︱サクヤは部屋の中に視線を巡らせ、
それを推測する材料を得る。
屋根裏部屋にはいくつか、誰かが使用していたとおぼしき毛布が
打ち捨てられていた。
410
ほかの痕跡を総合すると、ここで何が行われていたのかは自ずと
想像がつく。数人の獣人が、ここで監禁されていたのだ。
﹁少しだけ、話をする時間をいただけますか。私も目的があってこ
こに来ているので、あなたの言うことにそのまま従うわけにはいき
ません﹂
﹁あんたは頭が切れるようだから、想像はついただろう。この商会
で扱ってる商品は﹃獣人そのもの﹄だ。俺が探している⋮⋮娘も、
ここにいた。もう売られたか、足がつくことを恐れて場所を移され
たか。どちらにしても、ガラムドアの連中には然るべき報いを与え
なければならん﹂
﹁ガラムドア商会は、﹃希少動物﹄を扱っているはず。奴隷を扱っ
ているわけではない⋮⋮表向きはそうなっていますが﹂
﹁表向きはな。だが、奴らは冒険者や、盗賊団の連中が、奴隷とし
て売るために捕らえた獣人を買い取っている。それは事実だ﹂
サクヤはディックの推論、そしてここで見た真実から、ある結論
を導き出す。
しかしそれを証明するためには、一つどうしても手に入れなけれ
ばならない証拠がある。
﹁もし、この屋敷にいる人々を殺してしまうと、あなたの探し人の
安全が保障できません﹂
﹁⋮⋮冷静になれとでも言うつもりか? 言葉は選べよ。既に事は
起こっていて、俺には報復する理由がある。娘は人間の町に興味を
持ったばかりに、この商会の奴らに騙されて攫われたんだ﹂
﹁誰もそんなことは言っていません。彼らのしたことには報いを受
けさせます。殺してしまって楽になどさせてはならない、そう言っ
ているのです。生き地獄というものが、この世界には存在するので
すよ﹂
411
狼人族の男が目を見開く。穏やかな語り口と容姿から非戦主義な
のかと想像していた女性の口から、想像もしていない言葉が出てき
たからだ。
彼女の言葉には、自分などよりも、遥かに深い人間への敵意が込
められている。男はそう感じずにはいられなかった。
﹁⋮⋮あんたの話を聞き入れれば、俺の娘が無事に帰ってくる可能
性は上がるか?﹂
﹁ええ。少なくともここで凶行を行い、彼らの警戒を強めてしまう
よりは、少し泳がせたほうがいいでしょう。ガラムドア商会の罪は
公にされ、裁かれるべきです。そのために、証拠を得なくては﹂
﹁証拠⋮⋮奴らが、獣人を売り物にしているというのなら、この屋
敷に痕跡はいくらでも残ってるだろう﹂
﹁いいえ、彼らが取引しているのはあくまでも﹃希少な動物﹄です。
あなたの娘さんは、獣化能力を持っているのではないですか?﹂
獣化能力を持っている一部の獣人族は、それを秘匿する傾向にあ
る。
獣化能力を持つ者は先祖返りを起こしており、﹃純血種﹄と同格
の血統とされる。同族からは敬意の対象となるが、その血を取り入
れることを望んで、同系統の獣人の村同士で奪い合いの対象になる
こともあるのである。
﹁⋮⋮純血の獣人に、人間どもが価値を見出すとでもいうのか?﹂
﹁いいえ、違います。獣人が獣化することで、彼らにとっては﹃希
少な動物﹄と同じになる。すると、商品としての価値が跳ね上がる
⋮⋮﹂
412
﹁獣化したあと、娘はいつでも元の姿に戻れる。そんな状態で、動
物扱いなんぞできるわけがない。そのまま売られたとしても、獣人
だとすぐに気づかれて⋮⋮﹂
男は言いかけて、何かに気づいたように言葉を止める。
﹁すぐに気づかれるはずなのに、気づかれていない。だからこそ、
動物商などという偽りの看板がまかり通っている。それを可能にし
た方法は、必ずここに隠されているはずです﹂
サクヤは断言する。男はしばらく何も答えず、落ちていた毛布の
一つを拾い上げた。
それが、彼の娘が使っていたものなのだろう。男はその毛布を手
放すと、何かを祈るように額に拳を当てた。
ウルフリム
﹁⋮⋮あんた、名前は? 俺はギュスターブ。狼人族のギュスター
ブ・ヴォルフガングだ﹂
﹁私は⋮⋮サクヤと名乗っています﹂
﹁そうか。奇縁と言うやつか、目的が同じ部分もあるとは分かった。
ここは、あんたに従わせてもらう﹂
﹁はい。気づかれぬよう調査をする必要がありますが、隠密技術は
持っていますか?﹂
﹁あんたには劣るだろうが、人間に気づかれることはない。頼りな
いおっさんに見えるかもしれんがな﹂
ギュスターブと名乗った男は、Aランク相当の実力を持っている。
彼に協力させても問題ないと判断したサクヤは、屋敷内部の調査を
始める前に、最後に一つだけ聞いておくことにした。
413
﹁外にいた犬は、どう対処しましたか?﹂
﹁睨んだだけで逃げていったよ。飼いならされた犬が、狼にかなう
わけがあるまい﹂
先ほどまで怒りに駆られ、殺気を放っていたはずの男が、ニヤリ
と笑って言う。本来は心優しい父親なのだろう、とサクヤは思う。
︵願わくば、彼の娘が無事であることを︶
サクヤは胸に手を当て、外套の上から首飾りに触れる。
すべての獣人が迫害されることなく、穏やかな暮らしを送ること。
それは、彼女にとっての切なる願いだった。
そして、はからずも獣人を救う仕事を与えてくれたディックに感
謝を捧げる。やはり彼の見通しに間違いなどない、そう改めて感じ
ながら、サクヤは屋根裏を出て、屋敷の二階廊下に降りた。
414
第37話 一人暮らしの鬼娘と獣の首輪
氷の洞窟は、3階層から成る洞窟である。3階層の奥に水の精霊
の一種である﹃氷精﹄が住まう湖がある。
その影響で湖は氷結しており、その中でも透明度の高いものを﹃
永久氷塊﹄として切り出す。これは氷精の力で凍結しているため、
常温で持ち帰ることができるのである。さすがに8月の炎天下を持
ちかえれば、氷精の力が弱まって解けてしまうが、そのときは多く
の氷塊を荷車に乗せ、藁をかぶせ、それを何重にもすることで、氷
塊の一部を持ち帰ることができる。
アイス・フォックス
﹃氷狐﹄が洞窟に逃げ込んだのならば、うちの店に氷塊を入荷す
ることができなくなる。だがそんなことは些細な問題で、今回の件
は想定していたより根が深く、大きな話になりつつある。
人間と獣人族の関係が悪いことは、リコや虎人族たちを助けた時
にも感じてはいたが、王都でも現在進行形で問題になっているのに
今まで見過ごしてきたことは、俺としても反省の至りだった。
﹁⋮⋮種族の対立か﹂
﹁ご主人様は責任を感じる必要はない。対立問題があると分かって
いても、それは今に始まったことではなく、国の歴史と同じだけ長
く続いている。古来から変わらぬことなのだ﹂
俺は事務室の椅子に座って、氷の洞窟の内部をある程度マッピン
グした地図を広げ、リゲルたちにどう動いてもらうかを考えていた。
その間につい独りごちると、ヴェルレーヌは濃いめの茶を淹れたカ
415
ップを俺の前に置きながら、向かいに座りつつ言う。
彼女はまだメイド姿のまま着替えていないが、ヘッドドレスを取
り、ダークエルフの姿に戻っていた。一日仕事を終えた女性が気だ
るげにしているのを見ると、労いたいという気持ちもあるが、気を
使い過ぎると逆に怒られるという経験をしているので、普通にして
おくのが一番だろう。我ながら何をそこまで従業員に遠慮している
のか、と思うところでもあるが。
﹁なかなかよくできた地図だな。これは、ご主人様が作ったのか?﹂
﹁最初に氷塊を仕入れるとき、俺が自分で潜ったんだ。氷の洞窟自
体は、そこまで危険のある洞窟じゃない。時々湧く魔物に対応する
には、Bランクは欲しいけどな﹂
﹁﹃氷狐﹄の強さを、ご主人様はどう見る?﹂
﹁⋮⋮Bランク相当、と依頼書には自己申告されてるが。それも疑
ってかかるべきだな﹂
やはり、リゲルたちだけでは少し荷が重い。もともとアイリーン
に補助を頼むつもりではあったが︱︱今から彼女に頼んで、明日動
いてもらうように話をつけておかなければ。
﹁青の射手亭の男⋮⋮ゼクトのことを考えると、氷狐はもしかする
と、彼と同様のSSランク、あるいはSランク相当の魔物というこ
ともありえるな﹂
﹁可能性としてはな。ゼクト、そして氷狐の両方に安全に対応でき
る人間に頼むしかない﹂
﹁むぅ⋮⋮鬼娘か。光剣の勇者ということも考えられるが、相手が
獣となると、対応に慣れているのはアイリーンの方だろうな。あの
野性的な動きには舌を巻かされた﹂
﹁その通りだ。だいたい俺の考えが読めるようになってきたな、ヴ
416
ェルレーヌ﹂
﹁私はご主人様を見ていて、策を献じるために常に頭を動かしてい
る。今のところは、さほど褒められる結果は出ていないがな﹂
そう言って自分のカップを取りあげて口をつけ、彼女は足を組み
替える。狙っているのか、そうでないのか︱︱深夜という時間帯に
は獣が潜んでいる。日ごろ考えないことが頭をよぎってしまうから
だ。
﹁鬼娘もあまり遅くにご主人様がやってくると勘違いするかもしれ
んが、鋼鉄の意志を持つのだぞ﹂
﹁寝ぼけると危険なんだ、あいつは。もう寝てたら慎重に魔法で起
こすよ﹂
俺は戦々恐々としつつも、リゲルたちのサポートを頼むために、
近くにあるアイリーンの家に向かった。
◆◇◆
アイリーンの家は俺のギルドからほど近く、12番通りの中では
最高クラスの集合住宅に住んでいる。
あまり部屋にはこだわらないとのことだが、収入には困っていな
いので、家賃を気にせず﹁これがいい﹂と選んだ部屋が、12番通
りの最上層のために作られた物件だったというわけだ。
とはいっても12番通りの最上層とは、情報屋の元締めであった
り、疲れた男女にひとときの享楽を提供する店の店主だったりの家
族である。そういった肝の据わった女性たちと普通に近所づきあい
をしてしまうのが、アイリーンのすごいところである。
417
彼女の住む集合住宅は、二階建ての家がいくつも一つに接続した
ような形で建てられている。同じ形の家が並ぶ一番奥に、﹁シュペ
リア﹂の表札が出ていた。アイリーンと書いていないのは、魔王討
伐隊の一員であったというのが知れると、観光名所扱いをされてし
まうからという懸念のためである。彼女はご近所では﹃アイリ﹄と
名乗っていて、なんとか正体の発覚を防いでいる。
入り口に置かれた呼び鈴を鳴らすと近所迷惑なので、ドアをノッ
クする。﹃2、1、3﹄というリズムで叩くのが、俺が来たという
合図である。こんなところまで暗号を使用してしまうのは、自分で
も悪い癖だと思うところだ。
聞こえなかったらもう一度繰り返そうかと思ったが、その前にド
アが開いた。
﹁入っていいよー﹂
﹁ああ、こんな遅くに悪いな。実は、頼みたいことが⋮⋮うわっ!﹂
ドアを開けて中に入ると、アイリーンが予想もつかない姿で立っ
ていた︱︱いや、ドアを開けるときに、何か石鹸のような匂いがす
るなとは思ったのだが、まさか風呂上がりの、タオル一枚の姿で出
迎えられるとは。
﹁心配しなくても、ディックだって合図で分かってるから。ふだん
はこんな格好で出ないよ﹂
﹁お、俺の訪問時でも問題あるからな、それ⋮⋮﹂
﹁そんなことより、何かお願いがあって来たんだよね? 急ぎの仕
事の話?﹂
418
ふだん結い上げている髪を下ろしている姿も、血色のいい健康的
な肌も、俺をひどく動揺させるというのに、彼女はけろっとしてい
る。
これが男女の友情が成立した関係というやつなのか。俺は男とし
て見られていないのか。いやそれでいい、多くを求めることで人は
大切な何かを見失う。我ながらまったくもって生産性のない葛藤だ。
﹁そんなとこに立ってないで入りなよ、あたしは髪を拭かなきゃだ
から、ちょっと待っててね。あ、ディックが魔法で乾かしてくれる
?﹂
﹁あ、ああ⋮⋮それは構わないが。その前に、服をだな⋮⋮﹂
﹁今熱いのに服着たら、汗びっしょりになっちゃうじゃない。そし
たらまたお風呂入らなきゃでしょ?﹂
しかし、そのタオルはそこまで生地が厚くはなく、カバーできて
いる範囲も、下方面に少し手薄だ。その状態で後ろを向いたら危険
だという予感が︱︱
﹁じゃあ、向こうでやってもらおうかな。ディックに乾かしてもら
うとすごくラクなんだよね∼、みんなも一家にひとつディックが欲
しいって言ってたよ﹂
くるり、とあっさり振り返って歩いていくアイリーン。その部分
は臀部なのか、太ももなのかという部分が後ろから見えており、俺
は眉根を寄せて集中して判定に臨むが、﹁太ももである﹂という消
極的な結論に落ち着いた。
◆◇◆
419
髪を乾かすときに俺が使う手法は、櫛を魔力で覆い、髪に回復魔
法をかけて表面のダメージを補修しつつ、保湿に必要になる水分だ
けを残して飛ばしてしまうというものである。
アイリーンの桃色に近い髪は、住んでいる地域の過酷な環境もあ
ってダメージには強いのだが、それでも俺が櫛を通したあとの指通
りがまったく違うそうで、かなり気に入られていた。といっても、
魔王討伐の旅に出ていたとき以来なので、実に5年ぶりだ。
﹁よし、これでいいか。何か気になるところはあるか?﹂
﹁ううん、もう最高。久しぶりにやってもらったのに、ぜんぜん慣
れてる感じだね⋮⋮あれえ? もしかしてヴェルレーヌさんに毎日
やってあげてたり⋮⋮?﹂
﹁いや、頼まれたことないしな。毎日自分で乾かしてるぞ﹂
﹁そうなんだ⋮⋮それなら、今久しぶりにやったってこと? ディ
ックってほんと器用だよね﹂
﹁そんなこと言って、またやってくれと言われても困るぞ。一ヶ月
おきくらいにしてくれ﹂
﹁はーい。あはは、なんか子供に戻ったみたい。昔はお母さんに乾
かしてもらってたから﹂
俺は子供の頃、姉に面倒を見られていたなと思い出す。両親が留
守がちだったので、俺にとって二人の姉が母親代わりだった。
たまに実家の家族は元気だろうかと思うものの、帰るという気に
はならない。俺の家は自立した人間の集団であり、家族にとって実
家は拠点の一つという考えでしかないのだ。それを言うと寂しくは
ないかと聞かれることもあるが、家族にもいろいろあると思ってい
る。
420
﹁でもそっか、ディックと一緒に住んでても、毎日乾かしてもらえ
ないんだ。ヴェルレーヌさんって意外に遠慮がちなところがあるの
かな?﹂
﹁アイリーンがその話をして、頼まれるのが目に見えてるな⋮⋮ま
あ、毎日じゃなけりゃいいけどな。それより、アイリーン。前の仕
事が終わったばかりで悪いんだが、急ぎで頼みたいことがあるんだ﹂
﹁ん、いいよ。急ぎって明日とか?﹂
﹁ああ。リゲルたちに頼んでる仕事があるんだが、他のギルドと依
頼が競合してて、SSランクの冒険者が介入してきた。ゼクトって
男なんだが、そいつとぶつからないように立ち回って欲しいんだ﹂
俺は事情を説明するために依頼の資料を見せる。アイリーンはふ
むふむと言いながら、それに目を通していった。
﹁うん、なんとなくわかった。氷狐をやっつけるんじゃなくて、生
け捕りにしたいってことね。そのゼクトって人は、氷狐の前にあた
したちに会ったら、攻撃してきそうなの?﹂
﹁可能性はあるが⋮⋮たぶん、こちらから仕掛けなければ大丈夫だ
ろう。あっちは、氷狐の元に自分が先に辿り着ければそれでいいっ
て感じがした﹂
俺は﹃氷狐﹄が、﹃青狐族﹄の獣化した姿である可能性があり、
ゼクトと何らかの関係があるようだとアイリーンに説明する。
﹁⋮⋮獣化した獣人の人を、珍しい動物だって言って売ろうとする
なんて。ねえディック、そのガラムドア商会はやっちゃわないの?
そんなひどいことしてるの、ほっとけないよ﹂
﹁サクヤさんに調査を頼んである。もうすぐ帰ってくるはずだ﹂
﹁あ、それなら安心だね。サクヤさんも獣人だから、怒ってめため
たにしてきちゃったりして﹂
421
﹁それはないとは言えないが、彼女も分かってくれてるだろう。ガ
ラムドア商会に制裁を加えることはいつでもできるが、然るべき形
ってものがある﹂
﹁うん、お仕置きするって決まってるのなら大丈夫。あたしが譲れ
ないのはそこだけだから﹂
アイリーンはぐっと拳を握る。しかしずっとタオル一枚なのだが、
まだ湯上がりで暑いのだろうか。
﹁アイリーン、そろそろ服をだな⋮⋮﹂
﹁あ、そうだった。ごめんね、すぐ着替えて⋮⋮﹂
︱︱無敵の武闘家でも、SSSランクでも。避けられない事故と
いうのはあるのだろうかと、俺はアイリーンが立ち上がった拍子に、
ゆるんだタオルが落ちるのを目の当たりにしながら思っていた。
﹁あ⋮⋮っ﹂
それしか声が出ない、という様子のアイリーン。俺は微動だにで
きず、声も発せず、頭が真っ白になった状態で、ふだんアイリーン
の武闘服の下に隠された、無駄なく鍛えられ、しかししなやかさを
失わない肢体を目の当たりにしていた。
それにしても特筆すべきは、やはり胸であった。鍛えると胸から
減っていくと聞いたことがあるのに、そんな法則もなんのそのと、
旅をしている間も常に発育していた。いつも友人としてさっぱりと
接しているうちは気にせずにいられるのに、一瞬で意識を切り替え
られてしまう。
そしてアイリーンも能動的に隠そうとせず、辛うじて長い髪が胸
422
にかかって、大事な部分を隠している。彼女は羞恥に慌てるわけで
もなく、ただ俺をじっと見つめている。
﹁⋮⋮ディック⋮⋮﹂
何度も呼ばれてきたはずの名前が、今は違うもののように聞こえ
た。
こんな夜に訪ねて行って、迎え入れられて。俺なら大丈夫だから
とタオル一枚の姿を見せられ、それでどうして冷静でいられたのだ
ろう。
そう思っているのは、彼女も同じようだった。
何か言葉を発すれば、決定的になる。
何を言えばいいのか、自分でも分からないままに、俺は⋮⋮
﹁⋮⋮マスター、お取りこみ中でしたでしょうか?﹂
﹁ひゃぁっ⋮⋮あ、あれ? サクヤさん、いつの間に⋮⋮?﹂
﹁お返事がありませんでしたので、異変を感じて鍵を開けて入らせ
ていただきました。マスターはこちらにいらっしゃると、ヴェルレ
ーヌ店長もおっしゃっていましたし﹂
﹁い、いや⋮⋮取り込んでるというか、ちょうどサクヤさんを待っ
てたとこだよ﹂
﹁⋮⋮裸で、ですか?﹂
﹁え、えっと、そのっ、それはあの、私の結び方が甘くて⋮⋮ご、
ごめんなさいっ!﹂
アイリーンは着替えをするためか、脱衣所に駆け込んでいく。タ
オルを巻きなおしてないので、その後ろ姿は︱︱いや、俺は何も見
ていない。そう思っておくのが世界平和のためだ。
423
﹁⋮⋮少し予想外のことで動揺はしましたが、私の中では事故とし
て処理しておきます﹂
﹁あ、ああ⋮⋮そうしてくれると助かる。それでサクヤさん、早速
なんだが⋮⋮﹂
﹁はい。詳しい報告は後ほどギルドに戻って行いますが、ひとまず
はこれを⋮⋮﹂
サクヤさんは外套の中から、革のベルトのようなものを出す。そ
れには魔法文字が入れられ、魔石とおぼしき宝石があしらわれてい
た。
それは、人が身につけるものではない。獣につけるために作られ
た首輪だった。
﹁⋮⋮獣化した獣人を、獣の姿のままで留めておくための魔道具。
それが、これなんだな﹂
﹁はい。ガラムドア商会の地下で、幸いにも一つだけ残っていたも
のを発見することができました﹂
﹁よくやってくれた。この首輪の効果については、調べられたか?﹂
その質問に、サクヤさんの長い耳が垂れ、瞳が陰る。それは、首
輪の効果がろくでもないものだということをこれ以上なく示してい
た。
﹁これは獣人から理性を奪い、獣の本能を目覚めさせる。そうして
使役するための魔道具です﹂
﹃氷狐﹄がガラムドア商会から逃げ出したのは、この首輪で獣化
した状態にとどめることができても、﹃使役﹄が完全ではなかった
からだ。
424
獣の本能の赴くままに、氷狐は脱走した。そしてサクヤさんの話
によれば、ガラムドア商会の扱っていた希少動物とは、ほぼすべて
が獣人の獣化したものだということだった。
最後に残った疑問は、ゼクトと氷狐の関係。それがいかなるもの
であったとしても、するべきことは決まっている。 氷狐の首輪を外し、獣人の姿に戻す。理性を取り戻せば、会話は
成立するはずだ。それで、氷狐がなぜ捕まったのか、ゼクトとの関
係についても、全てが判明する。
﹁サクヤさん、ありがとう。あとは、依頼を遂行するだけだ﹂
﹁はい。氷狐が獣人であったとして、首輪から解放された後に、ガ
ラムドア商会の告発を行うということですね﹂
﹁前金のみで終わることになるが、そんなことよりも、今回の仕事
で得るものはずっと大きい。俺たちに依頼を持ち込んだことを後悔
させることにはなるが⋮⋮それも教訓ってやつだ﹂
サクヤさんは張り詰めた面持ちでいたが、俺の言葉にふっと微笑
む。
﹁マスターは、ご自分では否定なさいますが、やはり魔王討伐隊の
一員にふさわしいお方です﹂
﹁俺はなりゆきで動いてるだけだよ。そこまで言われることはしち
ゃいない﹂
﹁それでも私はこう思います。やはり、これからもあなたについて
いきたいと﹂
結果的に獣人を救う方向に動いていることを、サクヤさんは心か
ら喜んでくれていた。
425
彼女の過去について、俺は少ししか知らない。月兎族は滅んだ種
族であり、彼女はその生き残りである。そして、彼女は人間を憎ん
でいる︱︱今知っていることはそれだけだ。
だからこそ、なおさらに思う。人間と獣人のいさかいをこれ以上
続けないために、陰から働きかけるべきときが来ているのだと。
426
第38話 氷の洞窟と影撃士との交渉
リゲル、ライア、マッキンリーの三人は、ディックの要請を受け
て参加することになったアイリーンと共に、王都の北にある氷の洞
窟に向かった。
馬を使って一時間ほどで、目的の場所が近づく。﹃永久氷塊﹄を
飲み物で溶かして摂取することにより、彼らは冷気に対しての耐性
を高めており、氷の洞窟に近づくにつれて気温が下がっても、さほ
ど苦にすることはなかった。
しかし、氷の洞窟の二階層からは、水が液体として存在できない
ほど気温が低くなる。そう聞いていた4人は、装備の上から厚手の
コートを着込み、寒冷地対策を行った。
﹁みんな、風邪ひかないようにしっかり着てね﹂
﹁はい、アイリーン殿。私は元から、寒さにはある程度強いのです
が﹂
﹁うん、そかそか。そういえばライアさん、ディックからあの話っ
て聞いた? 虎獣人の村のこと﹂
﹁ええ、伺いました。その村こそ、私の出身地です。ディック様に
は、また一つ大きな恩義ができてしまいました﹂
ティミスと共に初めてディックのもとを訪れた時のライアとは、
比較にならないほど笑顔が多くなっている。彼女は武人としてアイ
リーンのことを尊敬しており、二人の関係はリゲルやマッキンリー
から見ると、まるで師弟のようにも見えていた。
427
あね
﹁姐さん、俺たちも兄さんにいいとこ見せたいです! よろしくお
願いします!﹂ ﹁ほんとにこいつは怖いもの知らずだな⋮⋮リゲル、姐さんはやめ
ろって言われてたろ﹂
﹁あはは⋮⋮ディックが兄さんで、あたしが姐さんだったらいいか
な。あたしだけだったら、ちょっと浮いてる感じするしね﹂
アイリーンが、銀の水瓶亭の冒険者とパーティを組み、補佐する
のはこれが初めてではない。
魔王討伐の旅に出ているときは、全てのメンバーが強いために分
からなかったことだが、ディックの実体験によると、高ランクの冒
険者に引率されると、ランクの低いメンバーの成長率が高くなると
いうのだ。
それでも数日に渡る冒険を通して冒険者強度が5も上昇すれば御
の字で、強くなるということは冒険者たちにとって容易なことでは
ない。リゲルたちは、アイリーンが同行するこの機会がどれだけ貴
重なのかを理解していた。
﹁これ以上洞窟に近づくと寒いから、馬をそのあたりにつないでお
こっか﹂
﹁はい、ほかの獣が近づかぬように香を焚いておきましょう。おま
えたち、ここで待っていなさい﹂
馬は虎獣人を天敵としてその匂いを恐れるものだが、ライアはテ
ィミスの護衛に就いたときに与えられた馬とは信頼関係を築いてお
り、意志の疎通がよくとれていた。
愛馬を森の中に置いていくことはライアにとって少し気がかりで
428
はあったが、そこはディックの用意してくれた、﹃保護の香﹄が抜
群の威力を発揮した。馬の匂いがかき消され、ほかの獣が近寄らな
くなる。
﹁兄さんはほんと、色んなものを持っててすごいな。これも自分で
作ってるって、あの人、いったいいつ寝てるんだろう?﹂
﹁ディックさんもすごいが、そのご友人のデュークさんはもっとす
ごいぞ。とんでもない博識の持ち主で、火竜を苦にせず捕まえちま
うからな﹂
﹁デューク殿といえば、魔法大学に最近姿を見せたらしい。一度お
会いして、教えを請いたいものだ﹂
三人が心酔している人物の顔を思い浮かべて、アイリーンは思わ
ず笑ってしまう。
ディックが変に目立ちたくないということにこだわるから、デュ
ーク・ソルバーという人物に神秘的なイメージがついてしまってい
る。その正体を知っている立場からすると、言いたくてしょうがな
いと思うのだが、アイリーンは必死で自重していた。
彼の秘密主義は、理解のある仲間たちによって守られている。ア
イリーンは、やはり髪を乾かしてもらうのは二週間に一度くらいで
あってもいいのではないかと思う。
そして彼に、うかつながら裸を見られてしまったことを思い出し
て、耳まで真っ赤になる。
﹁姐さん、もしかして暑いんですか? すごいですね、俺なんてこ
れだけ着てもガタガタ震えてますよ﹂
﹁う、うん、ちょっとね、厚着は苦手だから。大丈夫、洞窟の中は
429
寒く⋮⋮﹂
アイリーンは言いかけて気が付く。このまま森の中の道を進めば
氷の洞窟がある︱︱しかしそこに辿り着くまでの途上から、何者か
が争う音が聞こえてくる。
︱︱金属音、風切り音、そして男の悲鳴。複数人が交戦している、
そう察すると、四人は無言で頷き合う。
気配を殺し、物陰に姿を隠しながら、可能な限り急いで四人は進
んでいく。アイリーンだけは先行するが、それでも戦いが終わるま
でには間に合わなかった。
白い岩壁を穿ち、ぽっかりと口を開いた巨大なほら穴。それが、
氷の洞窟の入り口だった。
その前にある開けた場所で、武装した冒険者たちが倒れている。
一人だけ立っている人物︱︱彼がやったのだ、とアイリーンは判断
する。
蒼黒の髪を持つ、ハードレザーアーマーを装備した男。その手に
している武器は、円形の金属の輪に刃を付けた、投擲用の武器︱︱
﹃スライサー﹄だった。
しかしすべて武器攻撃で倒したのではなく、倒れている冒険者は
一部しか怪我を負っていない。それは、男が圧倒的な力の差を見せ
つけて冒険者を叩き潰したのではなく、最低限の力で倒してみせた
ということを示していた。
﹁⋮⋮ゼクトさんっていうんだっけ。うちのギルドに挨拶に来てく
430
れたんだよね?﹂
﹁﹃銀の水瓶亭﹄⋮⋮それとも、別のギルドか。どいつもこいつも、
話を聞かん奴らだ。耳はついているのか﹂
苛立ってはいるが、声を荒げてはいない。問答無用で戦うよりも
よほどいいとアイリーンは考える。
ディックはゼクトとはぶつかるな、と念を押してきていた。しか
し、SSランク相当とはいえ、久しぶりにある程度戦える相手を前
にして、アイリーンの拳がうずく。
﹁好戦的な顔だな。鬼族は戦いを好むというが、例外ではないとい
うことか﹂
﹁そんなことないよ、鬼族にも武闘派じゃない人なんて大勢いるか
らね。あたしがヘンなだけ。それはいいとして、今から氷の洞窟に
入るの? あたしたちもこの中に用があるんだけど﹂
﹁⋮⋮お前たちには関係ない。この男たちのようになりたくなかっ
たら、余計なことはしないことだ﹂
アイス・フォックス
﹁余計なことはしない⋮⋮と言いたいけど。ひとつ聞いていい? 氷狐を見つけたら、どうするつもり?﹂
ゼクトはアイリーンを無視して洞窟に入ろうとしていたが、足を
止める。そして振り向く。
その手にある武器を使い、氷狐を︱︱ゼクトは暗にそう示してい
るとアイリーンは感じ取る。
﹁それはちょっと困るんだよね。ガラムドア商会からの依頼は、氷
狐を生け捕りにしろって話だから﹂
﹁⋮⋮貴様には関係ない。俺には、﹃あれ﹄を元に戻してやる方法
431
が、それしか思いつかん﹂
︵きた⋮⋮!︶
ゼクトの言葉に、アイリーンは電撃的に反応する。
彼女はディックから事前に言われていた。氷の洞窟の深層に向か
う前に、ゼクトと氷狐の関係について、可能なら聞き出せると理想
的だと。
今の言葉からすると、ゼクトは氷狐の正体が、獣化した獣人であ
ると知っている。つまり、知り合いであるということになる。
﹃元に戻してやる﹄という言い方から、ゼクトが氷狐を助けよう
としていることもわかった。しかし、ゼクトはその方法を﹃氷狐を
倒すこと﹄だと考えているふしがある。
︵こんなに頭使うの、やっぱりディックに任せちゃいたいよ⋮⋮報
酬、週一に引き上げだからね︶
ディックならば、どう判断するか。アイリーンはそれを必死に考
えた末に、次の言葉を導き出した。
﹁あたしなら、氷狐を無事で助けられる。獣化した姿から戻すには、
ちゃんと方法があるんだよ﹂
﹁⋮⋮どこで、それを? この短期間の間に、調べたのか⋮⋮?﹂
﹁うん。あたしは、氷狐と格闘して﹃首輪﹄を外す。キミにそれが
できるなら、あたしはただ見てるだけでもいい。でも、やっつけて
からどうするか考えようとか思ってるんだったら、あたしはキミの
邪魔をするよ﹂
432
アイリーンはそこまで言うと、隠さずに殺気を放つ。ゼクトほど
の実力があれば、その力の差が感じ取れないはずがないと踏んでの
ことだ。 挑発と見なして戦うことになるかもしれない、と覚悟もしている。
アイリーンは右手と右足を前に出す、シュペリア流格闘術において
の基本の構えを取る。
ゼクトのスライサーを握る手に力が入る。
しかしそれを投擲することなく、スライサーの刃をしまうと、定
位置であろう腰のベルトに差した。
﹁⋮⋮首輪、か。それが原因で、﹃あれ﹄の理性が失われたと⋮⋮
信じていいのか?﹂
彼は、氷狐が獣と化したまま戻れなくなった理由を知らなかった。
アイリーンは胸中で安堵しつつ、必死にディックに聞いたことを引
き出して答える。
﹁首輪を外してすぐ元に戻るかはわからないけど、原因がその首輪
なのは間違いないよ。まだ直接見てもいないのになんでわかるって
思うかもしれないけど、事前に調べてきたから。うちのギルドの情
報部は、とっても優秀だからね﹂
﹁⋮⋮いや。確かに俺も最後に見たとき、﹃あれ﹄は首輪をつけて
いた。あの商会の連中が、まさか魔道具を持っていたとはな⋮⋮そ
の可能性を考えずに、弱らせて洞窟から連れ出すことしか考えてい
なかった。それしか方法がないなどと、愚かな考えしか頭になかっ
た﹂
433
自嘲するように言うゼクトには、もはやアイリーンと戦って排除
しようという意志はなかった。
競合は、今から共闘に変わる。ゼクトと争う必要がないのならば、
氷狐の捕獲作戦を成功させることだけを考えられる。
﹁氷狐をやっつけるとか、弱らせるとか、そんなことしなくても大
丈夫だよ。ほんとはしたくないのに、そうしなきゃって思うくらい
大事なんだよね。あたしにはまだ、詳しいことはわからないけど﹂
﹁できるならば、殺したくはない。魔獣としてこの洞窟に住み着き、
いつか誰かに討伐されるのを待つよりは、自分の手で⋮⋮そう思っ
てはいたがな。まったく的外れな覚悟だったようだ﹂
﹁ううん、誰だっていつも正しい答えを出せるわけじゃないから。
間違ったままじゃなくて、最後に正しい答えが出せたら、それでい
いと思う﹂
アイリーンが話しているうちに、リゲルたちが姿を見せる。ゼク
トは彼らを見る︱︱それぞれの実力を測るように。
﹁⋮⋮俺から言うことでもないが、お前たちは氷狐と遭遇しても前
には出るな。獣の姿に戻った﹃あれ﹄は、お前たちが相手にするに
は荷が重い﹂
﹁う、マジすか⋮⋮姐さん、それだと俺たちにできることって、他
に何があります?﹂
﹁リゲルたちは、他の魔物の対処をお願い。あたしは氷狐を生け捕
りにするために集中するから﹂
﹁なるほど⋮⋮氷狐との戦いに茶々を入れられぬようにするという
ことですね。了解しました﹂
﹁アイリーンさん、俺は睡眠弾と麻痺弾を持ってきてます。生け捕
りにするなら、補助になると思うんですが⋮⋮﹂
434
﹁うん、マッキンリーはできたらそのふたつのどっちか⋮⋮最初は
麻痺弾を撃ち込んで。目とかには当てないようにね﹂
﹁当てやすい胴体を狙いますよ。昨日店でもらった酒を飲めば、指
がかじかむってことはなさそうだ﹂
リゲルは昨日の夜、ライアとマッキンリーを連れて酒場に顔を出
すと、ディックの用意した戦闘評価が加算される﹃ミルク﹄、そし
てそれぞれに補助効果のある酒を飲んでいた。
マッキンリーは体温の低下を防ぐための﹃ドワーフの火酒﹄を小
さな瓶に入れて持ってきており、それを洞窟に入る前にぐいっとあ
おる。
﹁ダンジョンに潜る前に酒とは⋮⋮変わったギルドだな﹂
﹁悪酔いさえしなければ、お酒はすごく身体にいいから。うちのマ
スターも言ってたけど、この仕事が終わったらまた飲みに来なよ﹂
﹁⋮⋮どの面を下げて、と自分でも思うがな。許されるなら、非礼
を詫びたい﹂
ゼクトをスカウトしたいというディックの思惑は、全く望み薄と
いうことでもないとアイリーンは思う。
ディックにできるだけ実力が近いゼクトをギルドに入れられると、
彼の負担が軽くなる。それは現金な考えではあったが、ディックは
自覚なく仕事をしすぎているので、アイリーンは常に心配していた。
負担を負担とも思わない彼に対して尊敬を抱いていることは確か
だが、それだけではいけない。
具体的に言うと、髪を乾かしてもらうのは、できるだけ毎日がい
435
いのだ。一ヶ月に一度というのはとんでもない、それでは足りない。
自分は強欲だとアイリーンは自覚している。しかしそれを知って
いて仕事を頼むディックが悪いと開き直ってもいた。
﹁それじゃ、いよいよ洞窟攻略といきますか。みんな、準備はいい
?﹂
﹁﹁﹁はいっ!﹂﹂﹂
リゲル、ライア、マッキンリーが威勢のいい返事をする。そして
フローズンゴブリン
五人は、冷気の流れ出す洞窟に足を踏み入れ、出迎えとばかりに襲
い掛かってきた凍てつく小人の集団を薙ぎ払いながら進んでいった。
436
第39話 吹雪の幻狐と武神の神髄
アルベイン王国において、﹃洞窟﹄と呼ばれるものには二つある。
一つは階層を持たない、自然発生的な地形のひとつとしての洞窟で
ある。
ダンジョン
もうひとつは2層以上の階層を持つ、﹃迷宮﹄と呼ばれることも
あるものである。これは自然発生したものではない場合があり、人
や魔物の手で作られたものであったり、精霊が意志をもって迷宮を
作るということもある。
氷の洞窟は、元は魔物が作った地下迷宮が、支配者を失って放置
されたのちに、水の精霊が住み着き、環境が変わっていったという
成り立ちを持つ。
洞窟に精霊力が満ちると、その環境に合わせた生物が集まってく
る。魔物もそうで、もともと生育する環境を追われたりしたものは、
必死で自分に適応した住処を探すのである。
ゴブリン
ヒートゴブリン
もしくは、環境に合わせて適応し、変異を起こす者もいる。代表
的なのは小鬼である。
フローズンゴブリン
ゴブリンは環境に応じて﹃凍てつく小人﹄﹃火走りの小人﹄など
に変異し、対応することが可能である。適応できずに命を落とす者
もいるが、数が多いので、変異を起こしたあとのゴブリンはふたた
びある程度の数まで増える。
氷の洞窟の一階層には、ゴブリンが数十体の群れを作って住んで
437
いる。彼らは果敢にも冒険者に襲い掛かるが、Cランクの冒険者で
撃退できるほどの強さで、Bランクもあれば脅威にはならない。毒
などの特殊攻撃を使うことも、現状ではない。氷の洞窟の周囲の環
境では、毒を採取することはできないからである。もしゴブリンが
外に出てきて害を及ぼしている場合、冒険者ギルドではCランク以
上の討伐依頼として告示される。
一階層に住む他の生物は、人を襲う習性を持たないので、放置し
てよい。フローズンスライムがたまに見かけられるが、これは氷の
洞窟の東にある、湖のほとりの村で珍味として珍重されている。調
理に手間がかかるので、素人が食べることはお勧めはしない。売る
と金にはなるが、捕獲しようとすると、Bランク相当の実力がなけ
れば、死ぬことはないがやられてしまうかもしれない。
フローズンスライムはスライムらしく、相手を捕らえて、装備を
溶かして食べるという習性を持つ。動物性のものを捕食することは
なく、無機物を食するだけなので、たまに冒険者が捕まって大変な
ことになっている。その場合は捕まっているのが男性であっても女
性であっても、塩をかけてやって助けるべきであろう。フローズン
スライムは塩をかけるとなぜか嫌がり、逃げていくのである。
塩がなければ、ほかの方法は︱︱それは想像に任せる。筆者から
はおすすめはできない、救助したところで微妙な空気になってしま
う可能性が否定できないからである。
スノーウルフ
二階層に降りたところでよく遭遇するのが、雪狼である。狼であ
りながら氷結のブレスを吐いてくるため、Cランクの冒険者では全
滅する可能性がある。必ず10体近くの群れで襲ってくるので、そ
の数でブレスを吐かれては被害は甚大である。先手を取り、確実に
仕留めて数を減らし、ブレスの被害を抑えなくてはならない。安全
438
を期すにはBランク以上の冒険者でパーティを組む必要があるだろ
う。
彼らは一度戦いを挑んで敗れた相手には二度と襲い掛からない。
そのため、ほかの魔物が雪狼たちを従えているということがある。
その場合は、平均Bランクのパーティならば深追いはしないほうが
いい。
雪狼を従えている者は、Aランク以上の戦闘能力を持つと考えら
れる。これが事故の原因になるため、冒険者ギルドでは、氷の洞窟
での二階層以降の依頼に﹃潜在的危険度:Aランク以上﹄の注意書
きを記載するべきである。
銀の水瓶亭によって定期的に氷の洞窟の環境確認が行われている
ため、このような事態は起こりにくいが、絶対に無いとは言いきれ
ない。
万が一のことはいつでも起こりうるのだ、と肝に銘じておく必要
がある。
︱︱ ﹃銀の水瓶亭﹄作成 迷宮攻略資料 氷の洞窟編 第一章
より抜粋 ︱︱
﹁⋮⋮俺たちは事前に聞いてたから良かったっすけど、けっこうヤ
バいですね、あのスライム﹂
﹁スライムはろくなものではない。飼い慣らすことができれば、廃
棄する装備品などを食べさせることができて、重宝するというが⋮
⋮﹂
439
﹁ライアさん、スライムに嫌な思い出でも?﹂
﹁わ、私ではない。昔、スライム退治を頼まれた時に⋮⋮いや、そ
んな話をしている場合ではない﹂
﹁その話はまた今度聞かせてもらおうかな⋮⋮みんな、もう一回ゴ
ブリンたちが来るよっ!﹂
薄暗く視界の悪い洞窟の中でも、アイリーンはまったく苦にしな
い。索敵を得意とする獣人のライアが驚かされるほど、彼女の感覚
は鋭敏だった。
洞窟の壁には、高い位置にゴブリンが身をひそめるための穴が開
いている。そこからある者はこん棒や凍てついた短剣を振りかざし
て飛び降り、ある者は投石して攻撃してくる。アイリーンはミトン
を嵌めた手で飛来物を打ち払い、リゲルはゴブリンの攻撃をいった
ん回避したあとに反撃し、無傷で撃破する。マッキンリーはゴブリ
ンのいる穴に火炎弾を叩き込み、飛び出してきたゴブリンをライア
が一刀で切り伏せる。彼女は返す刀で、地面に降りて走りこんでく
るゴブリンを突きの一撃で仕留めた。
メイジ
ゴブリンの魔法使いが前方に姿を現したところで、それまで様子
を見ていたゼクトはつぶやくようにして呪文を詠唱する。ゴブリン
メイジの持つ、松明の役割を果たしている木の杖の明かりが、引き
連れたゴブリンたちの影を濃くする︱︱彼はそれを見逃さなかった。
シャドウ・バインド
﹁﹃影縛り﹄﹂
詠唱の直後、ゼクトが視認した﹃敵の影全て﹄に魔法の影響力が
生じ、ゴブリンたちが体勢を崩す。
ゴブリンたちの上半身は動くのに、足が動かない︱︱影に縫い留
められているのだ。
440
﹁︱︱ライア、松明は斬っちゃだめ! 他の場所を狙って!﹂
﹁っ⋮⋮!﹂
アイリーンだけが、ゼクトが何をしたのかを理解していた。ライ
アは反射的に指示通り動き、ゴブリンメイジをかばうために前に出
てきたゴブリンを切り払い、メイジまで突き進み、突きを繰り出す。
ゴブリンメイジが動きを止め、燃え盛る杖を取り落としかかる。
リゲルは走りこんでそれをキャッチするが、アイリーンはもう﹃影﹄
を保つ必要はないと判断し、蹴りで火を消した。
﹁おおっ⋮⋮姐さん、もう消していいんですか?﹂
﹁うん。キミの職業って、相手の影に干渉する魔法が使える⋮⋮っ
ていうことなんだよね?﹂
﹁そうだ。今は手出しする必要はないと思ったが、これくらいはし
ても邪魔にはならんだろう﹂
﹁ええ、助かりました。相手も死にもの狂いですから、捨て身で突
っ込んでこられると手傷を負う可能性がありますし﹂
﹁何してるのか全然分かんなかったっすよ⋮⋮つまり、どういうこ
となんです?﹂
﹁敵の影に魔法をかけて、足を地面に縫い留めてる⋮⋮ってことで
すかね? アイリーンさん﹂
﹁うん、正解。それを戦いの中で判断できるようになったら一人前
だね﹂
リゲルがおお、と感心し、マッキンリーは少し得意げにする。そ
れを横目で見つつ、ライアはゼクトに尋ねた。
﹁この魔法を使えば、氷狐を捕獲するのは容易なのではないですか
441
?﹂
﹁ゴブリンならば容易にかかるが、あくまでも初歩の技術だ。俊敏
に動き回る﹃あれ﹄に通じるなら苦労はしていない﹂
ゼクトの言葉にアイリーンはそうそう上手くはいかないものだ、
と肩をすくめる。
捕獲を行うには、捕獲対象と同じランクの者が複数でパーティを
組むか、単独ならば1ランク上でなくては難しいとされている。
氷狐の強さはSSランクに相当する。それを抑え込めるとしたら、
このパーティではアイリーンしかいない。
絶対に失敗できないと、アイリーンは気を引き締めなおす。
そのとき、間近に迫った二階層から、強烈な冷気が吹きつけてき
た。風に乗って飛ばされてきた白く冷たいものが、一行の肌に触れ
て消える。
﹁これは⋮⋮雪⋮⋮?﹂
﹁二階層にとどまっていたか⋮⋮四人とも、油断するな。おそらく、
この先に⋮⋮﹂
﹁おいおい⋮⋮一匹だっていう話じゃなかったのか? なんだ、あ
の群れは⋮⋮!﹂
二階層に降りる下り坂。その先の広い空間に、白い獣が群れをな
している。
スノーウルフ
︱︱雪狼。その集団が円を作って何者かを囲んでいる︱︱まるで、
崇めでもしているかのように。
442
﹁あれが、氷狐⋮⋮雪狼の群れを従えているのですね﹂
﹁この迷宮のボスになっちゃってたみたいだね。ありうるとは思っ
てたけど。こうなると、やっぱり三人にも頑張ってもらわなきゃ﹂
﹁ういっす! 姐さんは氷狐に集中してください! 俺たちはこっ
ちに来た雪狼と戦います!﹂
﹁あまり近づかれるとキツイな⋮⋮ライア、マッキンリー、よろし
く頼むぞ﹂
﹁分かっています。ブレスをまともに受けると凍傷を起こしかねま
せんから、気を付けてください﹂
ライアとリゲルが武器を構える。マッキンリーはその後ろで、ア
ルバレストに火炎弾を装填した。
﹁3、2、1⋮⋮行くよっ!﹂
アイリーンが駆け出し、ゼクトがその後ろに追従する。雪狼のう
ち何体かはゼクトの﹃影縛り﹄で動きを止め、彼の投擲したスライ
サーで一網打尽にされる︱︱しかし、飛ぶように駆けて地面に足を
ついていない瞬間にすり抜けた雪狼たちは、獲物とみなしたリゲル
とライアに数体で飛びかかる。
﹁速ぇぇっ⋮⋮だがっ!﹂
リゲルが剣を一閃、雪狼の一匹が怯む。そこにマッキンリーの火
炎弾が着弾し、燃え上がって雪狼たちが怯んだ瞬間に、ライアが踏
み込んで、鞘から抜き放った刀で二体をまとめて切り払う。
彼らが戦えていることを確認し、アイリーンは暗がりの中に浮か
び上がる、氷狐の姿に向かって高く跳躍する。
443
ゼクトの目には、アイリーンの跳躍は高すぎるように見えた︱︱
しかし理解する、彼女はあえて天井に届くように飛んだのだと。
氷狐の目が空中のアイリーンを捉え、銀色の輝きを放つ。そして
巻き起こった氷雪の嵐で、アイリーンの視界が遮られる︱︱しかし
そのまま、彼女は赤く輝く魔力で全身を覆って防護しながら、洞窟
の天井を蹴って反転し、氷狐を強襲する蹴りを放った。
﹁シュペリア流格闘術奥義⋮⋮﹃天崩破山脚﹄!﹂
天井にヒビが入るほどの踏み込み︱︱﹃震雷﹄を入れ、その力を
すべて、氷狐に向かう推進力に変える。
︱︱しかし回避不能のはずの蹴りが空を切り、氷狐のいたはずの
地面を砕き、巨大な穴を穿った。
︵さっきの雪の嵐は、攻撃じゃなくて目くらましのため⋮⋮!︶
ぞくり、とアイリーンは鳥肌が立つような感覚を味わう。次の瞬
間、ゼクトの投げ放ったスライサーが、アイリーンの視界を奪い続
ける吹雪の中を駆け抜けていく。
ギィン、と音を立ててスライサーが弾かれる。吹雪に紛れて姿を
消していた氷狐が、一瞬だけ姿を現し、再び雪に溶け込むようにし
て消えてしまう。
﹁この吹雪が続く限りは、﹃目以外﹄であれの居場所を知るしかな
い﹂
﹁そういうことだよね⋮⋮っ!﹂
444
氷狐のことを事前から知っているゼクトの方が、気配を感知する
ことに関しては慣れている。しかしそんな彼でも、氷狐に近づくこ
とはできていない。
︵どうやって捕まえれば⋮⋮ううん、何とかしなきゃ。ディックに
頼まれたんだから⋮⋮!︶
﹁っ⋮⋮後ろだ、回避しろっ!﹂
﹁くっ⋮⋮!﹂
アイリーンは飛びのくが、突風のような激しさで氷結のブレスを
吹き付けられ、身体の一部が雪の塊に捕らえられてしまう。
すでに吹雪が膝まで積もり、武闘家として最も重要な足さばきの
自由が利かなくなる。
このままじわじわと体温を奪われ続ければ、どうなるか︱︱。
わずかならず命を脅かされている。そう感じた途端に、アイリー
ンの胸の中には、今までにない感情が湧き上がった。
﹁⋮⋮キミならあたしたちのところまで来られるかな。やっぱり、
難しいかな⋮⋮?﹂
ゼクトはスライサーを構える。次にアイリーンに攻撃するために
氷狐が姿を現せば、その時は︱︱影撃士としての最大の攻撃を繰り
出し、氷狐に深手を負わせるつもりでいた。
﹁手は出さなくていいよ。あたしに任せてって言ったでしょ?﹂
445
ゼクトの手が止まる。この状況で何を言っているのか、いくらア
イリーンが強者とはいえ、凍結させられてしまえば動きの自由は利
かず、氷狐の次の攻撃をまともに受けてしまう。
強者が強者たりえるのは、生命力が無尽蔵であるからではない。
敵の攻撃をまともに受けず、被害を最低限にする立ち回りができて
こそなのだ。
運が悪ければ、どれほど強くても勝負を落とすことはある。それ
は無理もないことだ、ゼクトはそう思いながらも、ぴくりとも動く
ことができなかった。
︱︱ゆらり、とアイリーンの体を包む赤い魔力の発露が、その量
を増す。
彼女の桃色の髪の色が、真の紅に近づいていく。その瞳から放た
れる赤い光に、ゼクトは子供のころ以来感じたことのなかった思い
を味わっていた。
恐ろしい。
決して、触れてはならない。ゼクトは微動だにもできないまま、
アイリーンの魔力が爆発的に膨れ上がるさまを見ていた。
﹁⋮⋮妖艶にして、鬼神⋮⋮アイリーン・シュペリアなのか⋮⋮?﹂
アイリーンの体を凍結させていた氷が解けていく。もはや必要な
いというように、アイリーンは羽織っていたコートを脱ぎ捨て、ド
レスだけの姿となった。
446
彼女の体からあふれる魔力の密度は、あまりにも高すぎた。その
短く目立たない角からは、赤い稲光がほとばしり、彼女の周囲の雪
は存在することも許されず、球形に蒸発している。
﹁これでやっと自由に動けるよ。ごめんね、大人げなくて﹂
鬼気迫る姿に似つかわしくないほど、アイリーンは穏やかに微笑
む。
そしてゼクトが一度瞬きをしているうちに、アイリーンの姿はそ
こから消え、離れた位置に移動していた。
後ろを取られた氷狐が高い声を上げ、尾を振るって氷の刃を放つ
︱︱しかしアイリーンは素手でそれを受け止め、握りしめて粉々に
砕く。
今の彼女に攻撃を通すことができるのは、同じSSSランクの者
だけ。
すみか
氷の狐はそれでも最後の抵抗を試みる︱︱野生の目覚めた獣は、
命を賭してでも住処を守らなければならない。
しかし、もうその必要はない。アイリーンはただの手刀で、氷狐
の首につけられている首輪を断ち切る。
﹁︱︱マッキンリー!﹂
﹁っ⋮⋮当たれええええっ!﹂
リゲルとライアが雪狼を退けているうちに、後方にいたマッキン
リーは、ちょうど麻痺弾を装填したところだった。アイリーンの声
447
に応じて麻痺弾を放つ︱︱回避のために動こうとする氷狐は、足が
地面に縛りつけられていることに気が付く。
影縛り。ゼクト自身が通じないと言ったはずの魔法は、氷狐がア
イリーンに気を取られて動きを止めたことで、その効果を発揮して
いた。
氷狐の身体に、麻痺弾が着弾する。すると、少しの時間を経て、
侵入者への敵意に満ちていた瞳が閉じられ、その身体は動きを止め
た。
その体長はアイリーンでも抱えあげられるほどに小さい。この獣
が、吹雪を御して暴れまわっていたのかと思うと、彼女は苦笑して
しまう。
﹁こんなかわいい狐さんに、ひやひやさせられちゃったんだ⋮⋮あ
たしもまだまだだね﹂
アイリーンの姿は、すでに元に戻っていた。ゼクト以外の誰も、
彼女が先ほどまでどんな姿をしていたのかを見ていない︱︱吹雪が
吹き荒れていたからだ。
﹁⋮⋮﹃影縛り﹄を解く。もう、必要あるまい﹂
ゼクトが魔法を解くと、氷狐はその場に横たわる。そして、アイ
リーンの見ている前で、その姿が変化していく︱︱人の姿へと。
眠っていても明らかなほどその容貌は整っていて、肌は辺りに積
もった雪と変わらぬほど白く、幼さを感じさせる見た目ながら、ア
イリーンの目からはユマと比べると一回り発育が進んでいるように
448
見えた。
︱︱発育状況などより、それ以前に。アイリーンは目を瞬かせた
あと、ゼクトに尋ねた。
﹁⋮⋮お、女の子だったの⋮⋮?﹂
﹁これを見て男だと思うのか?﹂
ゼクトはこともなげに言うと、外套を脱いで少女にかける。アイ
リーンはまだ理解が追い付けず、寝息を立てている少女を呆然と見
つめる。
後からやってきたリゲル、ライア、マッキンリーもまた、氷狐の
正体を見て驚きの声を上げ、それでようやくアイリーンは、目の前
の事実を受け入れることができたのだった。
449
第40話 氷狐の正体と新たな仲間
今日も昼間は、店にはまばらにしか客が来なかった。依頼人やギ
ルドの関係者を迎え入れるために店を開けているのだから、ランチ
などを提供するのは利益のためではなく、付近の住民へのサービス
のようなものなので、問題はないのだが。
俺は昼休みのうちに外に出て、世話になっている食料品を扱う店
に行ってきた。俺は王都の食料品問屋、小売店の全てに出入りした
ことがあり、扱う商品などもだいたい把握している。
王都の十番通りにある、﹃カルディラ食料品店﹄という看板が出
ている小さな店。ここの店主は、市場に出回らないようなマニアッ
クな食料品を仕入れてきて売っている。仕入れのために店を空ける
ことが多いので、週に一日開いていればいいほうだが、訪問するた
びに地方で買い付けてきた品物が入っており、来るたびに俺の興味
を惹きつける。
﹁水瓶の、﹃青狐族﹄に興味あるのかい?﹂
﹁ああ。何か、青狐族にゆかりのある食べ物があったら仕入れたい
んだが﹂
店主のカルディラは年齢不詳だが、二十代後半とみられる女性で
ある。夫と一緒に店をやっているというが、彼女よりも旅に出てい
る頻度が高く、まだ一度も見たことがない。
彼女は南方の砂漠地帯の国の出身だそうで、肌が小麦色に焼けて
いる。そして店の中ではやたらと露出の高い格好をしている。首や
450
腕に飾りを多くつけているが、それは占いをたしなむ彼女が、的中
率を上げるためにつけているアクセサリーらしい。本当に上がるの
かどうかは知らないが、ただの飾りではないというのは見ればわか
る。
彼女は俺のことを、﹃銀の水瓶亭﹄の人間として﹃水瓶の﹄とい
う呼び方をする。それは彼女の主義のようなもので、他の店の人間
も名前ではなく、店名で呼ばれている。
﹁その﹃ココノビの実﹄は、青狐族の居住地の近くで見つかるもの
だよ。だけど、その実を見つけたはいいけど青狐族自体には会えな
かったね。山奥で吹雪に見舞われちまってさ﹂
﹁へえ⋮⋮珍しい形だな﹂
九つの房に分かれた、少し曲がった青色の果実。近づくだけで甘
い香気を放っているのが分かる。
﹁こいつは糖度が高そうだな。青狐族が品種改良したのか?﹂
﹁そうかもしれないね。青狐族はそれの皮を剥いて、中の白い実を
干して保存食にしたり、新鮮なうちにすりつぶして、家畜の乳と混
ぜて飲んだりするそうだよ。厳しい冬を越すための、完全栄養食な
のさ﹂
﹁なるほどな。これを一つもらってもいいか?﹂
﹁1房で銀貨10枚。5房合わせて買ってくれるなら、一つ当たり
2枚引いて40枚にしとくよ﹂
﹁仕入れの労力を考えると、引いてもらうのは悪いくらいだ。元値
で払うよ﹂
俺は50枚の銀貨を数え、支払い用の小さな麻袋に入れて渡す。
カルディラは微笑み、そこから5枚抜いて戻してきた。
451
﹁自生してた果物を、タダで取ってきたもんだからね。1つ銀貨5
枚でも元は取れてるくらいだよ﹂
﹁いや、これは相当いいものだと思うぞ。鮮度も取れたての状態だ
し﹂
﹁もう採ってから三日経ってるよ。この果物は腐りにくくて、十日
常温で放っておいても痛まないのさ。一日ごとに徐々に甘くなって
いって、腐る直前で食べるのがいいとも言われてるね﹂
﹁なるほどな⋮⋮熟れきったところで食べる、ってことか﹂
果物には自らを熟成させるための仕組みがあり、それが果物を甘
くしたり、果物の果汁から酒を造るときに利用されたりする。
王都における果実酒といえば葡萄酒が主に流通しているが、それ
以外の果実でも、糖度が高ければ酒は造れる。この﹃ココノビの実﹄
でも酒が造れそうだが︱︱と考えて、俺は前々から考えていた計画
を、そろそろ実行に移すことを考えていた。
﹃銀の水瓶亭﹄で提携する酒蔵を探すか、あるいは酒造りができ
る職人を雇い、新しく酒蔵を作ってみたい。それができれば、独自
の酒を作って、店の目玉として提供することができるようになる。
しかし、銀の水瓶亭でしか飲めない美味なる酒を提供したら、う
ちの店が隠れ家的な店として存続することは難しいのではないか。
知る人ぞ知る感じで出していけばいいが、それで酒蔵を維持するこ
とができるのか。趣味で運営するならいいのでは、しかしギルドと
酒場の運営は趣味ではないし、と色々考える。
﹁何か色々考えてるみたいだけど、若いうちはなんでもやってみる
もんさね﹂
452
﹁ああ、そうだな⋮⋮ありがとう、助かったよ。また近いうちに顔
を出させてもらっていいか﹂
﹁三日後にはまた旅に出るから、それまでに来なよ。まだ、見て欲
しいものがいくつかあるからね﹂
俺はココノビの実を持ってきた荷物袋に放り込むと、担いで店を
出た。
青狐族が獣化した存在︱︱氷狐を、アイリーンたちがもうすぐ連
れて帰ってくる。
俺はその氷狐を、うちの店でもてなさなければならないと考えて
いた。ガラムドア商会のしたことで、人間に対して不信を抱いてい
るかもしれない。俺たちはガラムドアと同じではなく、獣人との関
係を悪くしたくはない︱︱率直に言えば友好を築きたいと思ってい
る。
うまくいくかはわからない。しかし、毎回事前に相手のことを知
り尽くして、店に迎えられるわけではない。
成功するか分からなくても、できる限りを尽くす。それが、アイ
リーンたちに全てを任せ、店で待つ俺のするべき仕事だろう。
◆◇◆
夕方の開店まであと一時間ほどという頃に、アイリーンたちは氷
狐を連れて帰還した︱︱ゼクト・クルシファーも一緒に。
﹁兄さん、ただいま帰りました! アイリーンさんがやってくれま
したよ!﹂
453
﹁ただいまー、ディック。なんとか連れて帰って来たよ。首輪はも
う外してあるから﹂
﹁ああ、よくやってくれた⋮⋮この子が氷狐⋮⋮なのか?﹂
ゼクトに抱えられている、水色の髪を持つ、狐耳と尻尾を生やし
た少女。彼女はゼクトのものらしき外套にくるまれ、運ばれていて
も目覚めず、寝息を立てていた。しかし長いまつげがふるふると震
えているので、どうやら意識が戻りそうではあるらしい。
飲んだくれていた俺と一度会っただけのゼクトは、俺がギルドマ
スターらしいと悟ると、かすかに目を見開く。だがそれは一瞬だけ
で、すぐにいつもの無表情に戻った。
﹁ギルドマスター⋮⋮だったのか。ただの常連客かと思っていたが、
どうやら俺の目は節穴だったようだな﹂
﹁ああいや、こちらこそ済まないな、最初に名乗らなくて﹂
﹁いや。俺こそ、脅すような真似をして済まなかった。このギルド
の力がなければ、今ごろ俺は取り返しのつかんことをしていただろ
う。あの時の非礼は、全面的に詫びさせてもらう﹂
狐耳の少女を抱えたまま、ゼクトは深く礼をする。その様子から、
ゼクトと少女の関係が近しいものであるというのは十分に感じ取れ
た。
﹁そのことはもう気にしないでくれ。ゼクト、あんたのおかげで、
俺たちはガラムドア商会の行っていることについて知ることができ
た。彼らを野放しにしておくつもりはない﹂
﹁⋮⋮獣人を捕らえ、獣の姿にして、商売の道具にしている。その
証拠を掴んだというのか?﹂
454
ゼクトの質問には、ヴェルレーヌが俺の代わりに応じた。メイド
服姿で、今日は眼鏡をかけている︱︱ミラルカとマナリナが勉強中
にかけていると話したから、興味を持ったのだろうか。
﹁当ギルドの調査の結果、ガラムドア商会で扱っている希少動物の
正体は、獣人であると把握しました。役人に報告すれば、すぐにで
もガラムドア商会の立ち入り調査が行われるでしょう﹂
﹁そうか。やはり、ガラムドアの連中が知らずに獣化した者を動物
として扱っていたのではなく、自ら獣人を捕らえていたのか⋮⋮俺
のギルドとは関係が深く、あまり疑いをかけたくはなかったのだが
な。証拠が見つかったのなら、そうも言っていられまい﹂
﹁それはどういうことだ? ゼクトのギルドと、ガラムドア商会に
どんな関係があるんだ﹂
ゼクトは視線を伏せ、考えている素振りを見せる。自分の所属し
ているギルドの情報を明かすことが難しいというのは分かるが、聞
き逃せる話ではなかった。
︱︱このまま沈黙が続くかと思われたとき。透き通るような声が、
重い静寂を破った。
﹁⋮⋮兄上、もう隠し事はいけません。うちがこうして生きてられ
るのは、この方たちのおかげですから﹂
それは青狐族特有の言葉遣いなのか、少女の口調は特徴的だった。
彼女は外套を羽織ったままで、ゼクトの腕から降りる。
俺からすると見下ろすくらいの身長しかない少女︱︱その足元は
裸足だが、彼女は意に介しておらず、つぶらな目で俺を見上げてい
た。フードを取ると、ぴこん、と二つの狐耳が現れる。
455
﹁兄上⋮⋮って。ゼクトは人間に見えるけど、獣人の君のお兄さん
ってことは⋮⋮﹂
﹁初めてお目にかかります、うちの名前はミヅハと申します。兄上
はうちの、母親違いの兄なんです﹂
彼女は礼儀正しく頭を下げ、俺だけでなくほかの皆にも頭を下げ
る。ゼクトは無表情のままだ︱︱いや、妹が頭を下げているのを、
兄として見守っているのか。それにしても兄妹という時点で驚きだ
し、こうして見ていてもそこまで似ているという感じはしない。
﹁⋮⋮俺の父親は、青狐族だ。母親は人間でな。そうすると、人間
の姿で生まれるか、獣人の姿で生まれるか、あるいは半々というこ
とになる。俺は前者だが、髪の色は父親のものを継いでいる﹂
﹁青っぽい黒髪だと思ってたけど、それってそういうことだったん
だ⋮⋮﹂
蒼黒の髪は確かに特徴的だが、それだけで獣人の血を継いでいる
と判別できる特徴ではない。
ヴェルレーヌでも気づかなかったようなので、ゼクトの見た目だ
けで獣人の血を引いていると見抜くことは不可能だと思っていいだ
ろう。
﹁ですが、その方⋮⋮ミヅハ様は、兄君とは全く違う外見的な特徴
を備えているようにお見受けしますが﹂
﹁うちは両親とも、青狐族なんです。青狐族はごくまれに、先祖が
えりを起こすことがあって⋮⋮うちは、それで獣になる力を持って
るんです。アイリーンさん、その節は、大変なご迷惑をおかけしま
した﹂
﹁あたしは大丈夫だから、ほんとに気にしなくていいよ。それより
456
ミヅハちゃんは怪我とかない? あたし、久しぶりに強い相手と戦
えると思って、結構思いっきりやっちゃってたから⋮⋮﹂
﹁いいえ、アイリーンさんが手加減してくれてるのは、獣の姿にな
ってるときも、何となくわかってました。首輪を切ってもらったと
き、すぅって気持ちが楽になって、元のうちに戻れたんです。うち、
アイリーンさんたちが来てくれるまでは、もう戻れへんのかなって
やけになってしまって、どんどん自分の体が言うことをきかなくな
っていって⋮⋮﹂
よほど怖い思いをしたのだろう、ミヅハが目を潤ませる。アイリ
ーンは床に膝をついて彼女を抱きしめると、頭を撫で、背中をぽん
ぽんと撫でてあやした。
﹁俺たちの生まれた村は、雪深い山奥にある。妹はこの姿と能力を
持って生まれたために、村から出ることを長い間許されなかった。
それでも、どうしても一度外に出たいという願いを、族長は聞き入
れてくれたのだが⋮⋮人里に降りるにしても、いきなり王都という
よりは、手順を踏むべきだった。もっと人のいない田舎町で暮らし
ていれば⋮⋮﹂
﹁いや、ゼクトさん、あんたも妹さんも何も悪いことはしちゃいな
い。俺は、二人に王都に来たことを後悔してほしくないと思ってる。
これからどうするか決めるまで、少しだけ待ってもらえるか?﹂
こんな目に遭ってそれでも王都に留まるというのは、難しい選択
だろう。しかし外に出たいと思って出てきたミヅハが、このまま失
望して村に戻るというのは、あまりにもやるせない話だ。
﹁兄上様は、一宿一飯の恩義がある﹃青の射手亭﹄のことを悪く思
いたくないんやと思います。でも、そうも言っていられません⋮⋮
うちのことを捕まえて、ガラムドア商会に渡そうとしたのは、青の
457
射手亭の⋮⋮﹂
﹁⋮⋮つまり、獣化した姿を、青の射手亭の関係者に見られたこと
があると?﹂
﹁は、はい⋮⋮うち、月が満ちているときは、勝手に獣の姿になっ
てしまうことがあるんです⋮⋮それで⋮⋮﹂
ミヅハの言葉を聞き、ゼクトは目を閉じる。
彼は知らなかった︱︱青の射手亭のことを信用しているからこそ、
みなぎ
身を置いていたのだろう。だからこそ、妹の話を聞いて、自分の所
属するギルドの裏切りを知り、今初めて殺気を漲らせている。
﹁どうやら、最後のお仕置きが必要みたいだね。ライバルギルドが
一つ減っちゃうことになるかも﹂
﹁⋮⋮このギルドの手をこれ以上煩わせることはない。俺は青の射
手亭のギルドマスターから、真実を聞き出す﹂
﹁けじめをつけるってことか。俺は、公的な裁きを受けさせること
を勧めるが﹂
﹁止めるつもりか?﹂
﹁いや。奴らの悪事を暴く前に何が起きたとしても、他のギルドの
問題に干渉はできない﹂
ギルド同士で争いが起きることは、絶対にないわけではない。時
に個人同士の争いが、抗争に発展することもある。
俺のギルドと青の射手亭が争っていると知れたら、その時は両方
のギルドの活動に制限がかけられることになる。ギルド同士の争い
は、王都の秩序を乱すことだとみなされてしまうからだ。
︱︱しかし、だからといって、何もしないと言っているわけでは
ない。
458
﹁だが、こうやって事情を知った以上は、あんたと妹さんには無事
でいてもらいたい。そっちからうちの店に顔を出したんだ、それく
らいの義理は通してもらおう﹂
﹁⋮⋮義理、だと? 俺は一方的に、お前たちに無礼を働いただけ
だ。詫び、償うことはできても、このギルドに果たすことのできる
義理など⋮⋮﹂
﹁私どもも、初めはガラムドア商会の思惑を知らず、ただの依頼と
して氷狐を捕らえようとしていました。その依頼が事実上の破棄と
なった今、ここにお連れした氷狐の今後の動向について、連れ出し
た私どもが責任を持つべきなのです。それが、当ギルドの主張する
義務であり、ギルドマスターの主義でございます﹂
ゼクトは信じがたい、という顔でヴェルレーヌを見ている。それ
はそうだろう、俺もお人好しなことを言っているという自覚はある。
﹁率直に言おう。俺はあんたのような人材を求めている。そして、
獣人が差別を受けることのない環境を作りたいとも思っている。表
向きの権力を行使しなくても、それができると信じている。ミヅハ
にとって、この王都はきっと良い思い出ができる場所になる。その
手助けをさせてもらえないか﹂
﹁⋮⋮っ、兄さん、あんたって人は⋮⋮﹂
﹁いつも飲んだくれてるだけかと思ったら⋮⋮そんな大きなことを
考えて⋮⋮﹂
﹁やはり、ティミス様の姉君が頼りにされるお方⋮⋮僭越ながら、
感服いたしました﹂
リゲルたち三人にあまり持ち上げるなよ、と言いたくなるが、冗
談めかせて誤魔化すわけにもいかない。
俺はゼクトに右手を差し出す。ゼクトはしばらく何も言わずにい
459
たが︱︱ミヅハは兄の手を引っ張ると、俺の手を握らせた。
﹁うちはミヅハ・クルシファーと申します。兄ともども、もしお許
しいただけるのなら、こちらに身を寄せることをお許しください﹂
﹁⋮⋮ミヅハ、それは甘え過ぎだ。このギルドが俺たちにしてくれ
たことを考えれば、これ以上は⋮⋮﹂
﹁できればでいいんだが、王都にいるうちは﹃銀の水瓶亭﹄で働い
てくれないか。あっちのギルドよりは、あんたの実力に見合う待遇
を約束する。その子と安心して暮らせる部屋も用意しよう。慈善事
業をしてるわけじゃないから、遠慮はいらない﹂
交渉が成立するか、その場にいる皆が固唾を飲んで見守っている。
ゼクトは思ったよりも時間をかけず、俺の手を握った。使い込ま
れた手甲を装備した手は、その戦闘経験の豊富さを物語っている。
﹁ことが落ち着いたら、このギルドで働かせてもらいたい。よろし
く頼む、ギルドマスター﹂
ゼクトは笑わないが、その言葉はどこまでも実直だった。妹のミ
ヅハは兄を見上げて、嬉しそうに微笑む。
一つ間違えば、ゼクトは妹を救う方法を知らず、傷つけてしまう
かもしれなかった。そんな状況を生んだ者たちには、然るべき措置
を講じなければならない。
青の射手亭、そしてガラムドア商会。二つの組織との予期せぬ衝
突は、最後の局面を迎えようとしていた。
460
第41話 青狐族の兄妹と故郷の果実
青の射手亭は、ガラムドア商会の獣人売買に加担していた。
実際に捕まったミヅハがそう言っているのだから、俺はそれを信
じることにした。二つの組織の繋がりを証明する材料はまだなく、
状況証拠だけなので、ガラムドアを告発することはできても、青の
射手亭の責任を追及することはできない。
そうなると、やはり決定的な証拠が必要になるわけだが︱︱と考
えたところで、サクヤさんが店の裏口から入ってきた。俺たちのや
りとりを見守っていたらしい。
﹁マスター、ガラムドア商会は、彼らの商館の屋根裏部屋に捕らえ
ていた獣人を、別の場所に移した形跡がありました。その場所の目
星をつけておいたのですが⋮⋮﹂
﹁相変わらずいい仕事だ、サクヤさん。それで、その場所っていう
のは?﹂
﹁こちらの地図をご覧ください。十一番通りにある、この宿屋です。
表向きはただの安い宿ですが、深夜にガラムドア商会の人間が、大
きな荷物を持ち込んでいるとの目撃情報がありました。おそらく、
地下室か隠し部屋があるのでしょう﹂
獣人たちが監禁されていると聞いて、ゼクトとミヅハの表情が陰
る。ゼクトもそうだが、ミヅハも明らかに怒っていた。
怯えてなどいない、この少女は戦うつもりだ。アイリーンを手こ
ずらせたというから、この小柄な身体には、やはり相当な力が宿っ
461
ている。
﹁うちにも、何かさせてください。仕返ししたいって気持ちもある
けど、それだけじゃありません。同じように捕まってる人を、助け
たいんや﹂
﹁⋮⋮俺も動かせてもらいたい。王都の中では、簡単に殺しをする
つもりはない。このギルドの評判を落とすようなやり方はしないと
約束する﹂
ゼクトとミヅハ。SSランクの冒険者と、アイリーンにある程度
力を出させた獣人の少女。この二人だけでも十分だが、もう一人だ
け同行させることにする。
﹁私が、二人を案内いたします⋮⋮ということで、よろしいのです
か?﹂
﹁ああ、そうしてくれると助かる。すまない、ずっと働かせ通しで﹂
﹁いえ。私が自分でしたいと思っていることでもありますから﹂
サクヤさんの獣人を救いたいという思いが伝わってくる。だから
こそ、監禁場所を特定するところまで調べを進めていたのだろう。
放っておいたら、彼女が一人で捕まった獣人を救出していたかもし
れない。
﹁リゲル、ライア、マッキンリー。三人の仕事はここまでだ、ご苦
労だった。ゆっくり休んでくれ﹂
﹁はい! 俺たちも同行したいっすけど、あまり大勢だと目立っち
ゃいますからね﹂
﹁何か人手が必要なことがあったら、いつでも動けるようにはして
おきますよ﹂
462
リゲルとマッキンリーはそう答えて、いったんギルド員の寮へと
帰っていった。
﹁⋮⋮ギルドマスター殿、できれば私も、彼らに同行したいのです
が⋮⋮同じ獣人として、虐げられている者がいるなら力になりたい
のです﹂
﹁大丈夫か? 任務から帰ったばかりで、疲れてないか。まあ、回
復させるっていう手があるけどな﹂
﹁っ⋮⋮あ、ありがとうございます。ですが、ご心配には及びませ
ん。体力には自信がありますので﹂
ヒールライト
﹃癒しの光﹄を使ってライアの体力を回復させる。せっかくなの
で、全員に対して使っておくことにした︱︱これくらいなら、魔力
の消耗は大したことはない。
﹁ご主人様、私まで回復してくれるとは⋮⋮その心遣いには、私も
心を動かさざるをえないぞ﹂
﹁本職の僧侶ですら、回復魔法は魔力の喪失が大きいので躊躇する
というのに⋮⋮ギルドマスター殿の慈悲の心には、常日頃から感服
しております﹂
﹁⋮⋮ギルドマスターは、いったいどんな職業についているのだ?﹂
﹁いややわ兄上、ギルドマスター様は、ギルドマスターが職業に決
まってるやんか。そうですよね?﹂
﹁あいにく、ギルドタグを持ち歩いてなくてな。そこには一応書い
てあるはずだが﹂
そう言って誤魔化すが、俺のギルドタグに何と書いてあるのか︱
︱それを考えると、とても見せられない。
SSSランクの冒険者と認められ、そして魔王を討伐した者の職
463
業が、何と呼ばれるか。それを知られたら、俺がこれまで目立たな
いようにしてきた意味が無くなってしまう。
︱︱しかし最近思うのは、今のままでは、俺は陰に隠れて表舞台
に干渉しようとしていながら、自分から前に出過ぎているのではな
いかということだった。
原点に戻らなければ、そう思っていると、アイリーンがミヅハを
見て、何かに気づいたような顔をした。
﹁あっ、そうだ。ミヅハちゃん、それ羽織ってるだけじゃ寒いだろ
うし、着替えてから行った方がいいんじゃない? あたしの家が近
くにあるから、服を持ってきてあげようか﹂
﹁店の二階に、小柄な店員用の、私と同じような侍女服も置いてあ
りますが⋮⋮どちらにいたしますか?﹂
﹁いいんですか? せやったら、うちは⋮⋮ええと、どっちがええ
かなぁ⋮⋮﹂
アイリーンの武闘家服︱︱深いスリットの入ったワンピースタイ
プのドレスと、メイド服。その二つは、ミヅハにとっては甲乙つけ
がたい選択のようだった。
﹁⋮⋮ここのお店で働くんやったら、そっちの服はいつでも着れる
から、アイリーンさん、借りていいですか?﹂
﹁うん、わかった。じゃあちょっと待っててね、ちょっぱやで行っ
てくるから﹂
アイリーンは裏口から出て家に向かう。それを見送りながら、ヴ
ェルレーヌが頬に手を当てて言った。
464
﹁当店の店員には、常に侍女服を身に着ける心構えが欲しいもので
すが⋮⋮何か、アイリーン様に負けたようで、少し悔しさを覚えて
しまいます﹂
﹁店員として働くことが前提になってるが、とりあえず配属先はま
だ決まってないぞ。ゼクトさんと一緒がいいんじゃないか?﹂
﹁ギルドマスター、俺に敬語を使う必要はない。俺は部下なのだか
ら、気を遣うな。雇われの身で言うことでもないがな﹂
﹁分かった、ゼクトでいいんだな﹂
﹁すみません、兄上は見た目通り、融通のきかへんところがあるん
です。昔から、頭かちかちなんやから﹂
﹁⋮⋮悪かったな﹂
ゼクトは不愛想に言うが、そこまで怒っているというわけではな
さそうだった。ミヅハも兄が本気で怒ることはないと知っていて、
冗談を言っているのだろう。
﹁⋮⋮では、着替えの前に一度入浴されますか? それとも、帰っ
てきてからになさいますか﹂
﹁あ⋮⋮す、すみません。うち、お風呂何日も入ってへんから、気
になりますよね⋮⋮に、においとか⋮⋮﹂
﹁それほどでもない。俺の外套は無臭だからな﹂
﹁何言ってるんかなあ、うちやから我慢して着てられるだけやない
の、こんなん。何日洗濯してへんの?﹂
冒険者は野営も多いので、自分の匂いには慣れてしまうものだが、
こういう時に入浴という習慣の大切さを確認させられる。
俺も昔は、野山を駆け巡って何日も風呂に入らないことがあった。
姉たちに捕まってよく風呂に入れられたが、今は彼女たちの気持ち
が良くわかる。風呂はいいものだ、湯船を張るのは贅沢ではあるが、
465
できれば毎日入るべきだろう。
﹁ヴェルレーヌ、じゃあ手早く風呂に入れてやってくれるか。アイ
リーンの服を着ることを考えると、その方がよさそうだ﹂
﹁いいんですか? 久しぶりのお風呂に、今入れるやなんて⋮⋮え
えなあ、このギルド。兄上もそう思わへん?﹂
﹁元気になったのはいいが、あまりはしゃぎすぎるな。俺にも恥じ
る感情はある﹂
﹁こんなに可愛らしい妹さんなのですから、少しくらいのおてんば
は大目に見てさしあげてください﹂
﹁ヴェルレーヌさんは優しいなぁ⋮⋮うち、お姉さんのこと好きや
わ。うちだけここに住み込んだらいけませんか? 兄上はひとりで
お部屋に住んでたらええわ、うちも遊びに行ってあげるから﹂
﹁なぜおまえが勝手に⋮⋮いや、いい。好きにしてくれ⋮⋮﹂
ゼクトは妹に翻弄されて困惑している。こんな姿を見ていると、
彼がSSランクの冒険者というのをつい忘れそうになってしまうが、
俺が伝え聞いている、彼が青の射手亭にいる間に残した実績は、そ
の実力に見合うものだ。
彼にとって今回獣人を牢から助け出すことも、何ら困難なことで
はない。サクヤさんも同行するならば、俺はいつも通り、店で飲み
ながら安心して待つことができる。
﹁⋮⋮マスター、ミヅハさんを看板娘として雇うのですか? 情報
部の適性もあると思いますが﹂
﹁お、サクヤさんも目をつけてるのか。この兄妹は揃って優秀だよ
な、見た限りでは﹂
﹁はい。一度、冒険者強度を測ってみてはいかがでしょうか﹂
466
ミヅハの実力は、サクヤさんに及ぶものか、それ以上の可能性が
ある。獣化すると強くなるとしたら、今の獣人の姿では、AからS
ランク相当といったところだろうか。
測定器を俺が壊してしまったので、新しいものを買ってくる必要
がある。もしくは二人を連れて、測定師のもとを訪れるのも良いか
もしれない。
◆◇◆
ガラムドア商会が獣人を監禁していた宿には、サクヤさんの予想
通り、地下に隠された牢があった。青の射手亭のギルド員が警護に
当たっていたが、BランクとCランクの男が一人ずつで、ゼクトた
ちは素性を気づかれる前に彼らを倒して捕縛した。
牢に入れられていたのは、狼人族の少女と、狸人族の男性。二人
は獣化能力を持ち、獣の姿のままで固定するための首輪をつけられ
て、一人ずつ別の牢に入れられていた。
首輪をつけられると、意識が野生に戻ってしまう。そうすると違
う種類の獣同士は互いを攻撃することが多く、調教がうまく行かず
に放り出されることもあったという。
ゼクトたちはそれを聞いて怒りを募らせたが、監禁に加担した宿
の主人も、青の射手亭の男たちも、その場で罰するということはな
かった。
二つの組織の悪事を明るみにする材料は揃っている。それならば、
467
ゼクトとミヅハが直接に手を下す必要はない。
ゼクトは助け出した獣人二人を担いで帰って来たので、俺は近く
のモグリの医者に治療を頼み、二人を一晩寝かせておくことにした。
サクヤさんは狼人族の少女の父親に会ったとのことで、父親に引き
渡すために医者に話を通してきたとのことだ。
︱︱そして、俺の店は今日も賑わっている。
ミラルカとユマも来店して、今日は個室でアイリーンと一緒に飲
んでいる。リゲルたちも戻ってきてライアと合流し、テーブル席で
今日の冒険の成果について話しながら、楽しそうに騒いでいた。ラ
イアはいつも寡黙で、男たちの話に相槌を打ちつつ、たまに釘を刺
すような鋭い発言をしている。
そしてカウンター席には、アイリーンと似た服を着て、狐耳を帽
子で隠したミヅハと、ゼクト、そしてサクヤさんの三人が座ってい
る。サクヤさんがここで飲むことは滅多にないが、今日は気が向い
たらしく、ヴェルレーヌと話しながら、人参のリキュールを柑橘の
果汁で割ったものを飲んでいた。
﹁いつもお疲れ様です、サクヤ様。今日は、特にご気分が良いご様
子ですね﹂
﹁はい。いつも充実した仕事をさせていただいていますが、今日は
特に喜ばしいことがありましたので⋮⋮﹂
大人の女性二人の会話も気になるが、俺は隣に座っているミヅハ、
そしてもう一つ隣に腰かけたゼクトのために、用意したものを振る
舞うことにする。
468
﹁二人とも、口に合うかどうか分からないが、こんなものを用意し
てる。良かったら飲んでみてくれ﹂
ヴェルレーヌが俺の指示通りに作っていた酒、そしてドリンクを、
俺の前にやってきてことりと置く。
﹁っ⋮⋮この、香りは⋮⋮﹂
俺は久しぶりに、二つのグラスをコースターに乗せ、カウンター
テーブルの上を滑らせた。
﹁⋮⋮ココノビの実の、山羊乳割り⋮⋮どうして、これが⋮⋮﹂
寒冷地に強い家畜で代表的と言えるのは山羊である。そして、青
狐族と同系統の獣人族である﹃狐人族﹄は、山羊を飼うことで知ら
れている。
そこから考えて、ゼクトとミヅハにとっても山羊乳はなじみがあ
る飲み物だろうと予想した。
ココノビの実の皮を剥き、中の白い実を取り出して潰し、裏ごし
したあと、スパイスと蜂蜜で味を調え、冷やした山羊乳と一緒にシ
ェイカーで混ぜる。それが、ミヅハに出した﹃ココノビシェイク﹄
だ。
そしてゼクトには、ラムに漬けて風味を染み出させた、﹃ココノ
ビラム﹄。一日でどれだけエキスが出るかはやってみなければ分か
らなかったが、見事にうまく行った。
ココノビの実は、そのままでは青色は食欲をそそる色ではないが、
469
中は白い。しかしラムに漬けてみて分かったが、色素に黄色が含ま
れているようで、ココノビラムはほのかに黄色く色づいていた。
﹁飲んでみてくれ。青狐族には、ゆかりがある味だと思うんだが⋮
⋮﹂
﹁⋮⋮これを、いつ仕入れた? 俺たちを迎えることになると分か
っていて、用意したのか⋮⋮?﹂
俺は何も答えない。全てが自分の予想通りになったなどとは思っ
ていないし、その味が彼らを満足させるかどうかも、まだ分からな
いのだから。
﹁⋮⋮いただきます。んっ⋮⋮こくっ⋮⋮こくっ⋮⋮﹂
ミヅハはグラスを両手で持って、一口目は慎重に口をつける。そ
してよほど気に入ったのか、驚くほどの勢いで飲み始めた。
﹁⋮⋮お母様の味がする。うちの村の⋮⋮お母様が作ってくれた、
あの味⋮⋮それだけやない⋮⋮ああ、ココノビの実って、こんなに
美味しい飲み物にできるんや⋮⋮﹂
ミヅハは再び飲み始める。氷の洞窟では、十分な食事を取れてい
なかったのかもしれない。
ゼクトもまた、ラムのグラスに口をつけた。その目が見開かれ、
彼は妹の様子を横目で見たあと、自分も同じようにぐいっと二口目
を喉に流し込む。
﹁⋮⋮雪が降る日に、酒で身体を温めることはあったが。ココノビ
を酒に漬けるとは⋮⋮どこでこんな発想を⋮⋮﹂
﹁ここは酒場だ。俺は美味い酒を飲んで、飲んだくれるためには労
470
力を惜しまない。喜んでもらえて何よりだ﹂
今俺が飲んでいるのはただのエールだが、二人に出す前に一度作
ったものを味見はしていた。
ココノビの仕入れが安定しないことを解決すれば、二つのメニュ
ーは間違いなく好評を得られる。そして嬉しいことに、ココノビに
は魔力を回復させるという副次的な効果もある。
﹁⋮⋮ギルドマスター様って、素敵な仕事なんですね。まだ会った
ばかりのうちのこと、こんなに喜ばせてくれるなんて﹂
笑顔で言うミヅハの瞳から、涙が伝う。それは、故郷を思い出し
たがゆえの涙だろうか。
ヴェルレーヌがハンカチを出し、ミヅハに渡す。涙を拭く妹を見
ながら、ゼクトはグラスを持ち、席を立つと俺のところにやってき
た。
﹁⋮⋮懐かしい味だ。ギルドマスターよ、遅れて済まないが、改め
て頼めるか﹂
彼が言わんとするところは分かっていた。ミヅハもグラスを持ち、
俺の方に差し出す。
俺は木製のジョッキをゼクト、そしてミヅハと合わせたあと、彼
らに改めて念を押しておくことにした。
﹁俺が店で飲んでるときは、ただの酔っ払いとして扱ってくれ。ギ
ルドマスターと呼ぶのは禁止だ﹂
471
ゼクトとミヅハは顔を見合わせる。ヴェルレーヌとサクヤさんも
こちらを見て微笑んでいる︱︱また仕方ないことを言っている、と
少し呆れている様子でもあるが、俺の主義は曲げられない。
そして青狐族の兄妹は、俺の言葉を聞き入れ、二人揃って笑顔を
見せる。
ゼクトという男が笑うことがあるのだと、俺はその時初めて知っ
た。それは妹の前で見せる、兄としての彼本来の姿なのだろうと思
った。
472
第42話 ギルドの王と水中の潜伏者
ギルド員の寮はまだ二部屋ほど空いているが、寝具などを即日で
手配するというわけにもいかなかったので、ゼクトとミヅハには泊
まっていくように提案した。
﹁俺は明日になったら、青の射手亭を正式に抜ける。今借りている
部屋に荷物を残しているから、整理をしておきたい。持ち出すほど
重要なものはさほどないがな﹂
﹁それやったら、うちも手伝う。うちの荷物も、あのお部屋にちょ
っと置いてあるし﹂
﹁お前のものはさほど多くないし、全てまとめておく。今日はここ
で休ませてもらえ⋮⋮では、よろしく頼む﹂
ゼクトはミヅハを俺たちに預け、いったん出ていこうとする。
﹁ゼクト、青の射手亭の連中を倒したんだよな。彼らは獣人が監禁
されてた宿に残してきたのか?﹂
﹁ああ。後ろからの一撃で気絶させているから、俺たちに倒された
ことは知らんだろう。しかし、これから青の射手亭を告発すること
になると、彼らも路頭に迷うことにはなるな⋮⋮﹂
﹁悪事に加担していたのですから、それは仕方がありません。しか
し、彼らに仕事を与えた青の射手亭に責任があるとも言えます。場
合によっては、他のギルドに再就職することもできるでしょう。青
の射手亭と私たちのギルド以外に、王都には10のギルドがあるの
ですから﹂
動物商と名乗っていたガラムドア商会が、獣人を監禁して人身売
473
買をしていた。それは王都では重い罪になり、商会は商売の免許を
停止されるか組織解体となり、青の射手亭もギルドマスターが罷免
ということになるかもしれない。
その判断を下すのは、国王直属の法務庁の審問官たちである。人
々に法を遵守させるために、必要ならば武力を行使することも許さ
れた集団だ。ギルドによっては、実力行使で抵抗するだけの力を備
えている場合もあるが、審問官は騎士団などの国有戦力に協力を要
請することもできるので、表向きは審問官に逆らえる組織は国内に
存在しないと言っていい。
俺たちや、﹃白の山羊亭﹄のように強力な冒険者を擁している場
合は、法に逆らうこともできるといえばできるが、いたずらに国を
乱すことは望ましくないし、俺は現行の法に不満を覚えているわけ
でもない。
﹁青の射手亭のギルドマスターは、ガラムドアのしていたことを知
っていて受けたと見るべきだろう。それを考えると、やはりギルド
の一定期間活動停止か、罷免ということになるか﹂
﹁ご主人様、このギルドハウスを拠点にしていた前のギルドマスタ
ーは、実績不良で罷免されたのでしょう? では、ギルドマスター
が新しい人物に入れ替わるというのは、それほど珍しい話ではない
と思うのですが﹂
﹁しかし、俺が就任してから5年、自分から引退した人もいるが、
辞任させられたってケースはなかったからな。王都じゅうに話題と
して広まるだろう⋮⋮一過性のものだとは思うがな﹂
そうなると、一つ気がかりなことがある。
青の射手亭は、トップギルドである白の山羊亭の傘下のギルドな
474
のである。白の山羊亭が、俺たちの干渉によって青の射手亭の悪事
が暴かれ、活動停止に追い込まれたとなると、俺たちのことをどう
考えるかというのは、注意深く様子を見なくてはならないところだ。
最も、俺がギルドを作ったばかりのころ、俺以外の全てのギルド
が白の山羊亭の傘下にある状態だった。そこから切り崩し、3つの
ギルドを傘下から脱退させて今に至る。
ヴィンスブルクトの部下が雇っていた冒険者の所属する﹃紫の蠍
亭﹄も、白の山羊亭の傘下である。それを考えると、白の山羊亭の
ギルドマスターが、今どのような指針を持って行動しているのか、
調べておく必要があると感じる︱︱青の射手亭の件も、白の山羊亭
のギルドマスターが関知していた可能性は否定できない。
八つのギルドを束ねる白の山羊亭が、王都の闇を生んでいるのだ
としたら。そんな考えがふと頭を過ぎるが、すぐに陰謀論に結び付
けるのは、あまり俺としては好ましくない。
﹁ギルドマスター、どうした?]
﹁ああ、いや。青の射手亭とガラムドア商会の告発の件は、俺に任
せておいてくれ。情報部で証拠は揃えてあるし、あとはそれを審問
官に提出するだけだ﹂
しかし、二つの組織の罪状を明らかにするだけで、終わりという
気はしていない。
﹃白の山羊亭﹄のギルドマスターか、所属する人物か。今回の獣
人売買の件に関して、後ろで糸を引いていた人物の影を感じる。
王都に多大な影響力を持つギルドの内情を探るには、慎重に事を
475
運ばなくてはならない。一度、情報部の全員を集めて話をした方が
よさそうだ。
◆◇◆
白の山羊亭の傘下に、俺の知り合いが全くいないというわけでは
ない。﹃赤の双子亭﹄と仕事が競合したとき、話をつけるためにギ
ルドマスターに会ったことがある。
ここ最近は会っていなかったが、白の山羊亭について聞くには、
彼女が適切かもしれない。ほかには、独立したギルドである﹃黒の
獅子亭﹄の男性ギルドマスターも知り合いだ。白の山羊亭とは対立
関係にあるので、協力を得られるかもしれない。
しかし、白の山羊亭に想像以上の闇が潜んでいたとき、王都中を
騒乱に陥れる事態に発展しかねない。そうなる覚悟を持って、調査
を進める意味があるのか、俺はギルドハウス二階の事務室で小一時
間ほど考えていた。
﹁ご主人様、どうしたのだ? 難しい顔をしているな﹂
﹁青の射手亭は、白の山羊亭の傘下だ。つまり、対立することにな
るかもしれない﹂
﹁⋮⋮なるほど。そうなると、ギルド員や、私たちの近しい人物に
も危険が及ぶかもしれないということか。そこまで悪どい相手では
ないと思いたいが、もし獣人売買の件について裏で糸を引く人物が
居たなら、その人物の存在は、王都にとって猛毒と言っていい。ご
主人様が警戒する気持ちも、わかるつもりだ﹂
そこまで汲み取ってもらえると、俺としても気持ちが幾らか楽に
なる。
476
俺は白の山羊亭を恐れてはいない。しかし、俺は自分の力を発揮
して白の山羊亭とやり合い、この王都を自分の思い通りにしたいと
思っているわけではない。
﹁⋮⋮だが、自分から首を突っ込まないと、ミヅハや捕まっていた
獣人たちのように、被害者が出る可能性がある。その﹃猛毒﹄が、
実際に存在するのなら﹂
﹁ならば、調べればいい。これまでそうしてきたように、情報部を
使ってな。この王都の中のことなのだ、隠蔽するにも限界はある。
銀の水瓶亭のディック・シルバーが本気を出せば、全ての情報を丸
裸にできるだろう?﹂ 元々は、このギルドでしか受けられない依頼を見つけるために作
った情報網だった。
他のギルドの内情を知ることがあっても、それは他の情報に紐つ
けられた付加的な情報であって、ギルド自体を探れと命じたことは
ない。
12のギルドのそれぞれに存在意義があり、役割がある。俺が外
部からの干渉を望まないように、俺からも他のギルドに干渉するこ
とはタブーだと考えてきた。
しかし今回、結果的にとはいえ、俺は他のギルドの活動に干渉し
た。
そして、青の射手亭だけでなく、全てのギルドの実情を知る必要
があると考えてしまっている。
陰から干渉し、自分にとって良い方向に持っていく。それは、全
てを思い通りにしたいわけではない︱︱だが、そうすべきだと思い
477
始めている。
獣人たちが迫害されている状況を変えるには、一つ一つの案件に
対応しているだけでは追いつかない。そのことに気がついてしまっ
たからだ。
﹁⋮⋮ご主人様のメイドとしては、行き過ぎた発言ではあるが、許
してもらいたい。元魔王として、忌憚なく言わせてもらう。ご主人
様は、この王都のギルド全ての主導者となるべきだ﹂
﹁っ⋮⋮な、なんでそうなるんだ。俺は12番目のギルドマスター
がちょうどいい。他のギルドにまで手を出すほど傲慢でもない﹂
﹁能力のある者が上に立つことは傲慢とは言わない。求められて人
を率いるだけの資質を持つ者を、人は王と呼ぶが⋮⋮ご主人様は、
ギルド全ての王となるべきだ。表向きは12番目でも構いはすまい
が、実権を掌握するべきだと私は思う。ご主人様の理想を叶えるに
は、そうしなくてはならないと感じている﹂
元魔王として、と前置きをした通り、大胆極まりない進言だった。
︱︱だがそれは、俺が考えてもみなかったことではないというの
が、また悔しい。
俺は表舞台に立たず、日陰にいながら、最大の利益を得たい。
平穏で気ままな暮らしを送りながら、興味深い仕事を受けつつ、
今まで通りに飲んだくれて暮らしていきたい。
俺のギルドは、初めに抱いた理想にほとんど近いところまで来て
いる。
だから、他のギルドにまで影響力を持つ必要はない。今日までは
そう思っていたのに、状況は変わってしまった。
獣人と人間のわだかまりを無くしたい。そんな、俺には似つかわ
478
しくないくらい、大義じみた目的を見つけてしまったのだから。
﹁⋮⋮そうだ。他のギルドを支配したいわけじゃない。影響力を持
てればいい﹂
﹁ふふっ⋮⋮それでも、大きな前進と言えるだろう。私は、ご主人
様はいつでもこの王都を掌握できると思っていた。情報という強力
な武器を、誰よりも多く収集する機構をすでに作っているのだから。
その気になれば、遠く離れたところですら影響力を持てるだろう。
転移陣の数だけ、このギルドの拠点は増やせるのだからな﹂
国を手に入れろ、というのか。実質上の影の支配者︱︱表向きは
国王が統治し、俺は裏の王となる。
俺はそう考えて笑ってしまった。そういう存在こそを、人は﹃魔
王﹄と呼ぶのではないかと思ったからだ。
﹁むぅ、何か楽しそうだな。どうしたのだ? 私の言うことが、大
げさすぎると思っているのか﹂
﹁いや、そうでもないよ。ヴェルレーヌはやっぱり魔王だっただけ
はあると思ってさ。もちろん、いい意味でだ﹂
﹁⋮⋮偉そうなことを言っておいてなんだが、今の私では魔王失格
だがな。こうやって人間の男の家に転がりこんで、何かを期待して
毎日尽くしている。やっていることは、思い込みの激しい家出娘と
何も変わらないな﹂
自嘲するように言うが、彼女はそんな自分を肯定しているからこ
そ、そんなふうに微笑んでいるのだろう。
トップギルド
﹁⋮⋮まあ、当面はこれまで通りやっていくが、必要とあれば行動
を起こす。白の山羊亭の内部が、腐敗してないことを願うよ﹂
479
﹁そのときは、ご主人様が陰から王都の全ギルドを掌握する大義名
分ができるだけだ。私は、その方が良いと思っているがな﹂
ヴェルレーヌの俺に対する評価は揺るぎない。彼女こそ高い能力
を持っているのに、俺の部下として人生を浪費してもいいのだろう
かと、ふと真面目なことを考える。
髪の色を濃くしたような、紫水晶のような輝きを放つ瞳で、ヴェ
ルレーヌはふと俺を見つめる。
彼女は俺と話すことが好きだと言っていた。理解を深めるには、
会話の時間を多く重ねることが必要だと。
それは、彼女の言う通りだと思う。俺の迷いを取り払おうとして
言葉を尽くしてくれるのは、なぜなのか。
何かを期待しているとヴェルレーヌは言う。その何かをずっと与
えないでいれば、いつか彼女は魔王国に帰ってしまうのだろうか。
﹁⋮⋮あ、あまり見つめるな。私は⋮⋮自分から攻めるのはいいが、
攻め入られるのは、苦手だ﹂
﹁そうか⋮⋮だから、あのときは俺たち五人が勝ったんだな﹂
そういう意味ではないと分かっているが、冗談が口をついた。ヴ
ェルレーヌはくすっと笑うが、その瞳はずっと、俺のことを捉えて
いる。
目をそらすことができない。どちらかが動けば、今まで築いてき
た関係が、決定的に変わる。
480
それが良い方向であるのだと疑わないのは、俺もまた、一人の男
だからだろうか︱︱。
と考えたところで、ガチャ、と後ろでドアが開いた。このタイミ
ングで開くことについて予測できるようになってしまったあたり、
俺は運命の女神にもてあそばれているのかもしれない。
﹁む⋮⋮み、ミラルカ殿か。どうしたのだ、居間で休んでいたので
はなかったか﹂
そう、ミラルカとユマ、アイリーンは今うちに泊まっているのだ
った。居間の応接用のソファを使って寝ていたはずで、ミラルカは
寝ぼけてぼーっとしている。
﹁⋮⋮お手洗いを借りたいのだけど、どこにあるのかしら。ああ、
頭が痛い⋮⋮殲滅しようかしら⋮⋮﹂
﹁ま、待てミラルカ。頭が痛いのはすぐに魔法で治してやるからな。
悪い、酔い覚ましをかけるのを忘れてて﹂
﹁良い気分になっていたから、それはいいのだけど⋮⋮ディック、
私が寝ているうちにどうして変なことをしなかったの?﹂
﹁ぶっ⋮⋮な、何を言ってるんだ。ほんとに寝ぼけてるな、今のは
ノーカンにしといてやる﹂
﹁ご主人様、私はミラルカ殿を連れて行ってくる。女性同士の方が
良いだろう﹂
ヴェルレーヌは身だしなみを整えると、ミラルカに肩を貸して階
下へと降りて行った。一階にしか化粧室はないので、そこを利用し
てもらわないといけない。
俺はヴェルレーヌの残したお茶のカップに、口をつけたところに
481
薄く紅が残っていることに気づく。
そして先ほどまでの、取り返しのつかないことになりそうだった
空気を思い出し、脳内で自問自答する。もしミラルカが来なかった
ら、どうなっていたのだろうと。
◆◇◆
俺も風呂に入ろうと思っていて、つい遅れてこんな時間になって
しまった。
浴室に入り、ぬるい湯をかぶる。ミヅハが風呂に入るときに沸か
したが、これなら夜の分も再度沸かしておいた方がよかったかもし
れない。
﹁⋮⋮ん?﹂
あまり気にせずにいたが、浴槽の水面に、ぷくぷくと泡が浮いて
きている。
︱︱誰かが水の中に潜んでいる。まさか暗殺者か、いや普通に考
えたら泊まっている誰かだ、浴槽に隠れられるくらい小柄なのはユ
マかそれとも、と考えたところで。
﹁⋮⋮ざばーーーん! うちでしたーーー!﹂
待ちかねたように風呂の中で立ち上がり、姿を見せた人物を前に
して、俺はミラルカとヴェルレーヌが階下に行っていてよかった、
と一時しのぎの安堵を覚えるのだった。
482
第43話 ほろ酔い狐と鬼神化の影響
浴槽から出てきたミヅハを前にして、俺はなぜこのような状況に
なったのか、さりげなく腰から下をタオルでガードしながら考えて
いた。
ミヅハはこともあろうにノーガードである。ユマと比べると、ど
こがとは言わないが、発育にも、天が与えた成長曲線の差が歴然と
存在している。例のごとく髪でガードされていなければ、俺は即座
に浴室を出ることを強いられていただろう。今の場合、辛うじて即
退場ではない。
先ほどのココノビシェイクに彼女が感激していたのは確かだし、
兄妹を雇うことになった件で、俺に恩義を感じているというのも考
えられなくはないのだが、かといって、見た目俺より一回り年下の
少女が、会ったばかりの俺に浴室で恩返しをするなどという事態は
考えづらい。
考えづらいのだが、実際にミヅハは浴室で待ち構えており、嬉し
そうに俺を見ている。
﹁あ∼、ディック様が二人に見える⋮⋮三人⋮⋮いっぱいに増えて
はる。そんなに増えたら、うちどうしたらええんやろか⋮⋮﹂
﹁何が見えてるんだ⋮⋮ん? なんか赤いな⋮⋮こんなぬるい風呂
でのぼせるわけが⋮⋮﹂
そう考えて、俺はミヅハに何が起こって、こんなことになってい
るのかを何となく察した。
483
﹁⋮⋮まさか、ゼクトの分の酒を飲ませてもらったとか⋮⋮?﹂
﹁えへへ⋮⋮ごめんなさい。お兄様がお酒に浸かったココノビを食
べずに残してたから、勿体ないなと思って食べてみたら、これがび
っくりするくらい美味しくて、全部食べてしまってん﹂
﹁あ、あれを食べたのか⋮⋮? ラムに浸かったココノビを?﹂
﹁最初は苦いと思ったんやけど、噛んでみたら甘くてとろけるみた
いになってて、気が付いたら全部食べてしまってたんや。あんな美
味しいもの食べたの、久しぶりやわぁ﹂
ラムは酒精がきつく、端的に言えば少量でもエールよりはるかに
酔いやすい。そのラムがしみ込んだココノビを食べたとなると、大
人ならまだしも、ミヅハの年齢では酔っ払っても無理もない。
﹁それで、ちょっぴり残ってたお酒も飲んでしまってん。うち、ミ
ルクも好きやけど、お酒はもっと好きかもしれへん⋮⋮兄上様、ま
た残してくれへんかな?﹂
﹁俺に言われてもな⋮⋮ミヅハの年では飲ませられないから、今度
からは禁止だぞ﹂
﹁は∼い。なんや、ディック様も、お兄さんみたいやなぁ⋮⋮ヴェ
ルレーヌさんとディックさんで、お姉さんとお兄さんが増えて、う
ち、うれしいなぁ⋮⋮ひっく﹂
支離滅裂とまではいかないが、思いついたことをあまり考えずに
喋っている状態︱︱つまり、普通に酔っ払いである。
酒を抜く魔法を使うには、お腹に触れる必要がある。しかしこの
場合、誤解を受ける可能性があるのでそれもできない︱︱手を当て
ずに酒を抜けるように、解毒魔法を改良しておくべきだった。
484
﹁うち、ここのお風呂気に入ったわ。前のおうちやと、ときどき外
のお風呂屋さんに行かへんとお風呂に入られへんねん。獣人がお風
呂屋さんに行くと、他の人が気にするから、なかなか行けへんかっ
てん﹂
﹁そうだったのか⋮⋮ライアも、ティミスの家で風呂を借りてるら
しいな﹂
﹁そうなんや。あの虎のお姉さん、帰るときに悩みがあったらなん
でも言ってって言うてくれたんや。うち、それでこのギルドのこと、
ますます好きやなぁって⋮⋮﹂
﹁俺のギルドは獣人を差別しない。それはこれからもずっと変わら
ないから安心してくれ﹂
﹁⋮⋮ディック様⋮⋮﹂
特に感動させたいと思って言っているわけではないのだが、酒が
回っていてほんのりと頬を赤らめたミヅハは、感極まったように目
を潤ませて俺を見つめてくる。
ユマよりおそらく年下︱︱いや、同じくらいか。その4歳下のユ
マにも、最近大人になったなと思うことがあるくらいなのだから、
ミヅハに対して子供っぽいながらも女性なのだな、と思ってもそれ
は無理もない︱︱と、自分を肯定している場合ではない。
ゼクトという兄が今部屋の片づけをしているというのに、その妹
と裸で向き合っているこの状況において、俺はギルドマスターとし
て最大の配慮をして、無難に切り抜けるべきであろう。
﹁み、ミヅハ。そろそろ、濡れたままだと風邪を引くから、風呂か
ら上がったほうがいい﹂
﹁寒いのは平気や。あったかいお風呂やとすぐのぼせてしまうから、
ぬるいくらいが丁度ええんや。それよりうち、ディック様にお礼が
485
したいと思ってて⋮⋮﹂
ざば、と片足を浴槽のへりに乗せて、ミヅハがこちらに上がって
くる。何という無頓着さ。酔っ払っているのか、それとも彼女の俺
に対する感謝は、それほどに大きいのか。
最近ベアトリス、アイリーンと立て続けに女性の裸身を見てしま
ったが、彼女たちと遜色ないというか、小柄な狐耳娘なりの魅力が
あるというのはとても素敵なことなのだが、とにかく落ち着かなく
ては。
濡れたしっぽと耳をぷるぷると振って水気を払うと、ミヅハは嬉
しそうに笑う。酔っ払っているから羞恥心が薄れているのだとした
ら、後で気が付いたら心の傷を負わないだろうか。彼女の雇用主と
してとても心配だ。
﹁ディック様、えらい筋肉ついてはるんやなぁ⋮⋮兄上よりすごい
体してるやんか﹂
﹁い、いや⋮⋮まあ、ギルドマスターってのは、常に非常時に動け
るように備えておくものだからな﹂
﹁そうなんや⋮⋮アイリーンさんより強いんやったら、うちなんて
でこぴんでやられてしまいそうやね﹂
酒場に常駐していても筋肉が落ちないように強化魔法で負荷をか
けているが、ゼクトの体格の良さからして、俺の方が普通の鍛え具
合に見えると思うのだが、ミヅハはそれでも恍惚とした顔で俺を見
ている。兄に対しての視線と、俺を見る視線で意味が違うのは当た
り前なのだが︱︱あまり見られると落ち着かない。
酔った女性が、いつもより少し大胆になったりするところを見た
486
ことは何度もあるが、風呂場で相対するというのは別次元の問題だ
ろう。緊張感、そこはかとない背徳感、どちらも尋常ではない。
さきほどアイリーンがミヅハに服を貸して着せたのは、外套の下
が裸だったからということなのだが、こうやって見せられることに
なるとは思いもしなかった。やはり女性を家に泊めるときはあらゆ
る展開を想定し、あらぬ姿を見ないように最大の注意を払わなくて
はならない。
﹁⋮⋮あ、でこぴんしてみようとか思ってへん? 一発だけなら試
してみてええよ﹂
ミヅハが無造作に、額を押さえて笑う。その拍子に、胸にかかっ
ていた髪が、遮蔽物の機能を果たさなくなった。
﹁っ⋮⋮う、腕を上げないほうがいい。というか、俺は一度出るか
ら。ゼクトにも悪いしな﹂
﹁兄上はうちのこと、まだ子供やっていうけど、そんなことあらへ
んからね。兄上のことは好きやけど、うちはもう、じゅうぶんに大
人なんやから﹂
兄の名前を出したことで、子ども扱いされたと思ったのか、ミヅ
ハは口をとがらせて反論する。 しかしその顔は真っ赤で、やはり酔っ払っている。怒ったかと思
うとふにゃ、とこちらの力が抜けそうな笑顔になり、俺に座るよう
に促してきた。
﹁もうむつかしい話はええから、お礼だけさせてください。うちが
お風呂入ってるときに来るからあかんのやからね。ほんとは、あと
487
であんまでもしようかと思ってたんや﹂
お礼をしたいという気持ちは嬉しいのだが、どうも俺は獣人の少
女になつかれる速度が速い気がする。リコのときもそうだったので、
何かなつかれやすい要素でもあるのかもしれない︱︱匂いだろうか。
﹁うわ⋮⋮めっちゃ背中広い。お父様より大きい⋮⋮﹂
﹁父親の背中を流すことがあるのか? 孝行娘だな﹂
﹁う、ううん、もっとちっちゃいときやけど⋮⋮お父様は人間より
体が凄く大きいのに、なんでかなぁ⋮⋮﹂
男は背中で語るものだ、というのも何か違うだろうか。とにかく
ミヅハは、俺の背中に見た目以上の大きさを感じているらしい。
なかなか照れるものがあるが、彼女が純粋に俺に何か礼をしたく
て背中を流してくれるというなら、必要以上に慌てることもない。
泡を立てたタオルで、ミヅハは俺の背中を、くすぐったいくらい
の力加減で洗い始める。それにも慣れてきて、背中を流してもらっ
たら、そこでやはり先に上がろうと考えたところで、
ふにっ、と背中に何かが触れる。柔らかいものが二つ、背骨の両
側についた筋肉の盛り上がりに接触し、俺は思わず動きを止める。
﹁後ろからやと、腕まで手が届かへん⋮⋮ディック様、両腕を上げ
てください﹂
﹁こ、こうか⋮⋮?﹂
何か当たってないかと聞くと逆に恥ずかしがられそうで、俺はミ
ヅハの言うがままになる。両腕を上げると、脇にタオルがすべって
488
いき、さすがに身もだえしそうになる。
SSSランクでも、魔王討伐隊の一員でも、脇は弱い。だとして
も誰が俺を責められようか。脇を責められてもびくともしない、そ
んな人間味のないやつは、間違いなくゴーレムか何かである。
﹁くっ⋮⋮み、ミヅハ。そろそろいいだろう、流して終わりにして
も⋮⋮﹂
﹁まだ片方しかやってへんからあかんよ。すごいなあ、脇にも筋肉
がついてはる。うちなんてぷにぷにやのに﹂
男の筋肉にそんなに興味を持たせてしまい、ゼクトに対して非常
に申し訳ない。しかしこの拷問のような時間も、ようやく終わろう
としている。
﹁これでええかな⋮⋮ディック様、一回流しますね﹂
俺の忍耐は、ミヅハのおかげでかなり鍛えられたと断言できる。
今冒険者強度を測れば、忍耐的な意味で1は上昇しているだろう。
人間は常に成長する生き物なのだ。
﹁んしょ⋮⋮じゃあいきますね、ディック様⋮⋮ひゃぁっ!﹂
﹁っ⋮⋮!﹂
風呂場で起きる事故の中で最も多いのは、足を滑らせるというこ
とだろう。
俺は転倒の気配を察し、ミヅハが転んで頭を打ったりすることの
ないよう、とにかく彼女の体を支えるためだけに、電光石火の速さ
で体を動かした。
489
﹁⋮⋮ご、ごめんなさい、足がふらついて⋮⋮﹂
﹁気にするな、それより怪我はないか?﹂
﹁け、けがは、あらへんけど⋮⋮なんか、胸がふわふわします﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺の手もふわふわするというか、先ほど背中に当たったものと同
じ感触がある。
﹁⋮⋮ディック様⋮⋮﹂
ここに来てから、そんなふうに切ない声で呼ばれたのは二度目で
ある。一度目に呼ばれたときに、爽やかに退出するべきだったと思
う。
事故とはいえ、俺は責任を取らなければならない領域に足を踏み
入れてしまった。ミヅハの身体を抱きとめた拍子に、俺の右腕と左
腕は彼女を支えるためとはいえ、思い切り触れてしまっている。
ミヅハの顔は真っ赤になり、俺を見る目が再びしっとりと潤んで、
熱に浮かされたように一言、
﹁⋮⋮頭がぼーっとして⋮⋮もうあかん⋮⋮﹂
﹁⋮⋮み、ミヅハ?﹂
ミヅハの狐耳がしなっ、と倒れて、身体から力が抜ける。
俺に抱き留められたことで、酔いがさらに回ったのか。それとも、
もう寝てしまいそうなぎりぎりの状態で、俺への感謝を伝えてくれ
たのか。
490
どちらにせよ、ユマ、アイリーン、あるいはミラルカとヴェルレ
ーヌに頼み、彼女に服を着せてやらなければならない。
そこで一体何があったのかと聞かれたとき、どんな説明をすれば
いいのか。ココノビの実を酒に漬けて食べると、酔っ払うようだと
当たり前のことを真面目に解説し、状況を打開できればいいが︱︱
ダメだったら俺は、会ったばかりの獣人少女をたぶらかし、風呂場
で気絶させた極悪人ということになってしまう。
﹁⋮⋮ディック様⋮⋮おっきい⋮⋮背中⋮⋮﹂
どれだけ俺の背中を広く感じているのだと考えつつ、俺はミヅハ
を抱き上げ、できるだけやましくなく見えるように、紳士の顔で浴
室から脱出した。
◆◇◆
ディックさん、ミヅハさんに何をしていたんですか? そんなけ
がれた魂は私が浄化しなくてはいけませんね。ディックはそういう
ことしないって信じてたのに、最低。こんな人だと思わなかった︱
︱などと、最悪の展開にならないように祈りながら、俺は居間に救
助を求めにやってきた。
﹁んっ⋮⋮ユマちゃんの手、あったかい⋮⋮﹂
﹁アイリーンさん、じっとしていてください⋮⋮すぐにすみますか
ら⋮⋮すごい、こんなに⋮⋮﹂
立て続けに動揺するしかない事態を迎え、俺はのぼせて夢でも見
ているのかと現実逃避したくなる。
491
しかし俺の目が見たものをありのままに受け止めるならば、居間
のソファでアイリーンが服をはだけ、白いお腹をユマに見せて、ユ
マはそのお腹に触れている。
まさか二人がそこまで親密だったなんて、思いもよらなかった︱
︱というのはもちろん大いなる勘違いで、よくよく見ると、アイリ
ーンの体から赤と黒が混じったような魔力が生じていて、それがユ
マの体に入ると、清廉な赤色に変わってアイリーンの中に戻されて
いく。
魔力の浄化︱︱いや、これは魂の浄化だ。
アイリーンは鬼神化すると、魂が鬼神の力に侵食される。それを、
ユマは魂に触れる力と彼女自身の浄化能力によって、元に戻すこと
ができるのである。
﹁⋮⋮はぁ∼、ありがとう。すっごくすっきりした。ごめんね、ユ
マちゃんも疲れてるのに﹂
﹁いえ、いつでも言ってください。アイリーンさんの魂を清らかな
ままで保つのは、私の生涯のお仕事だと思っていますから﹂
﹁ユマちゃん⋮⋮本当に、持つべきものは親友だよね。あたし、ユ
マちゃんがいなかったら、自分が魔王になっちゃってたと思う﹂
氷狐︱︱ミヅハを元の姿に戻すために、アイリーンは鬼神化して
いたのだと、今になってようやく悟る。
アイリーンの冒険者強度は、素の状態では95000ほどで、実
はそのままではSSSランクには届かない。
しかし、鬼神化したときの戦闘評価は明らかに跳ね上がる。それ
は言ってしまえば、獣人族の獣化と同じで、アイリーンも先祖返り
492
をした鬼族だということだ。
鬼族は地上で最強の戦闘能力を持つ種族だった。その当時の力を、
アイリーンは自ら引き出すことができる。しかし、鬼族の破壊衝動
は凄まじいものがあり、もし鬼神化を使い過ぎると、彼女は破壊衝
動に振り回されてしまうことになる。
アイリーンへの施術が終わり、服を戻したあと、彼女はユマの頭
を撫でる。ユマは柔らかく笑って、少し恥ずかしそうにしながら、
感謝の気持ちを受け取っていた。
﹁⋮⋮悪い、取り込み中だったか。アイリーン、力を使わせてすま
なかったな﹂
﹁あ⋮⋮だ、大丈夫。あたし、鬼神にはならないよ。ユマちゃんが
いてくれれば大丈夫だから﹂
﹁はい、大丈夫です。きれいに浄化してしまいました⋮⋮あぁ⋮⋮
アイリーンさんの魂が、純白のきれいな姿に⋮⋮ディックさんのも
やもやも、清らかにしてさしあげたい⋮⋮﹂
ユマには隠し事はできない︱︱魂が見えているのだから。俺にや
ましいところはない、しかしアイリーンが珍しく、俺をじっと無言
で見ている。この圧力に勝てる男など、地上に存在するのだろうか。
﹁ディック、ミヅハちゃんがいないけど、もしかして⋮⋮﹂
﹁ち、違うぞ。ええとだな、ミヅハが兄貴の酒を飲んでしまって酔
っ払ってるんだ。すまないが、介抱してもらえるか﹂
﹁かしこまりました、ご主人様﹂
﹁⋮⋮いったい何をしてるのかしら。こんな夜更けに、まだみんな
起きているなんて。仕方ないわね。あとで私もまぜなさい﹂
493
いつの間にか、階下から二人が戻ってきていた。タイミングとし
ては良かったと言えるが。
酔っ払い度数でいえばミラルカも相当なもので、文句を言いつつ
もヴェルレーヌと共に浴室に向かった。二人に任せておけば、ミヅ
ハは大丈夫だろう。
﹁ディックさん、とても疲れていらっしゃるみたいですね。やはり、
お鎮めしてさしあげましょうか﹂
﹁ユマちゃん、ずっと言おうと思ってたんだけど、その﹃お鎮め﹄
って、いけない感じに聞こえちゃうかも﹂
﹁⋮⋮? お鎮めするのは、私にとっては、とても素敵なことなの
ですが⋮⋮いけないこと、ですか?﹂
﹁あ、あははー⋮⋮ごめん、あたしの考えすぎだったから気にしな
いで﹂
ユマは本当に意味が分かっておらず、アイリーンもそれ以上は説
明できずに、笑って誤魔化す。
浄化されるとアイリーンはすっきりしたようだが、俺の邪念も払
ってもらえるのだろうか。それならば、一度はユマに鎮魂してもら
った方がいいのかもしれない︱︱天国に送られない程度に。
494
第44話 三ギルドの鼎談とマスターの矜持
ゼクトとミヅハはギルドの寮に入ることになり、ゼクトは依頼を
実際に実行したり、時にダンジョン探索を行ってもらったりする﹃
探索・実行部﹄、ミヅハは﹃情報部﹄に見習いとして所属すること
になった。
ミヅハは店員としても働きたいというので、ヴェルレーヌの下に
ついてウェイトレスの仕事を覚えている。俺のギルドに来るまでは
あまり家から出られず、窮屈な思いをしていたそうで、外で働ける
こと自体が嬉しくて仕方がないとのことだった。 ﹁ミヅハさんが元気に挨拶をしてくれるので、常連の方々にも好評
です。これからも続けてください﹂
﹁はい! うち、これからも頑張ります!﹂
開店直後、ヴェルレーヌがミヅハを激励したところで、ちょうど
客が入ってきた。
一人は黒く長い髪に赤いリボンをつけた、暗褐色の外套を羽織っ
た女性。外套の下にはブラウスとスカートを着ているが、極力目立
たないようにとの配慮が見られる。
もう一人は、銀色の髪を総髪にした、長身で筋肉質の男性。壮年
と言っていい年齢だが、青い瞳は眼光鋭く、ミヅハが姿を見るなり
びくっとするほどの迫力を放っている。やはり彼も、黒に近い色の
濃紺の外套を羽織っていた。体格が大きいだけに、どんな格好をし
ても人目を引くのだろうが。
495
二人はそれぞれ﹃赤の双子亭﹄﹃黒の獅子亭﹄のギルドマスター
である。女性はシェリオン・ハーティス、男性の方はレオニード・
バランシュという名だ。
﹁お客様いらっしゃいませ、お席にご案内いたします﹂
﹁おおディック、いつの間にか娘が生まれていたのか。狐人族がお
相手とは、隅に置けんな﹂
迫力のある見かけにそぐわず、レオニードさんはわりと軽い性格
である。ミヅハが俺の娘だなどと、とんでもない。せめて妹にして
もらいたい、というのはゼクトに悪いか。
﹁うちがディック様の娘⋮⋮ヴェルレーヌさん、どう思います?﹂
﹁私とご主人様の娘という設定にしても、特に問題はございません
が﹂
﹁明らかに問題ありだ。レオニードさん、前に会ったのは半年前く
らいだぞ。いくら獣人の成長が早くても、俺の娘のわけがないだろ。
クローク
それに俺を、店の中では名前で呼ばないでくれ﹂
﹁⋮⋮こうやって外套を着てきただけでも、感謝してほしい。外は
結構暑くて、中が蒸れる﹂
シェリオン︱︱愛称としてシェリーと呼ばれている︱︱は、ぱた
ぱたと外套を引っ張って風を入れる。彼女は暑がりなので、六月の
今の陽気でもかなりこたえたようだ。
﹁彼女とは偶然そこで会ってな。ディック、安心しろ﹂
﹁⋮⋮おじいちゃんと同じくらい歳が離れてるから、勘違いされる
ことはない﹂
﹁はっはっ、ではおじいちゃんらしく、今度孫とデートでもするか
496
な﹂
レオニードさんは孫がいる年齢で、ギルドマスターの中でも最古
参である。冒険者強度は54820、若かりしころより低下してい
ランサー
るが、SSランクの水準を保ち、﹃黒の獅子亭﹄を現役で牽引する
歴戦の槍闘士だ。
そしてシェリーの方は、赤魔法士という特殊な職業に就いている。
彼女は俺と同じ万能タイプだが、使える魔法の種類が異なっている。
彼女は攻撃、回復もできるが、他に特殊な用途の魔法を身につけ
ている。それは男性を篭絡するための魔法だ。俺は耐性があるので
通用しないが、シェリーの魔法は男性に対して無類の強さを発揮す
る。それも評価に入れて、彼女の冒険者強度は33927と、Sラ
ンク相当である。
ギルドマスターに求められるランクは、最低でもSとされている。
しかしギルドマスターが自分で依頼を遂行することは滅多にないの
で、マスターの強さがギルドの格付けを決めるわけでもない。この
二つのギルドは、12のギルドの中では同じ中堅層に位置している
と言える。
﹁ミヅハさん、お二人を個室に案内して差し上げてください﹂
﹁はい、かしこまりました。こちらへどうぞ﹂
シェリーとレオニードさんは俺を一瞥したあと、仕切られた席へ
と入っていく。昼間は客が少なく、昼食を取ることに集中していて、
ギルドマスター二人がやってきたことには誰も気づかなかった。
◆◇◆
497
シェリーは自分の愛称と同じ、甘めのシェリー酒を好む。喉が渇
いていそうなので、彼女には水分の補給にも適した柑橘ジュースと
シェリー酒のブレンドを勧めた。
レオニードさんは黒エールをジョッキで頼んだので、俺も同じも
のにしておいた。飲むために集まったわけではないが、せっかく酒
場に来てくれたのだから、それなりのもてなしをしたい。
﹁では、三つのギルドの繁栄を願って、まずは乾杯と行こうか。乾
杯!﹂
レオニードさんは景気づけと言わんばかりに、木のジョッキをな
みなみと満たしたエールを豪快に飲み干す。シェリーは一口飲んで
﹃美味しい﹄とつぶやいた。
﹁ふう⋮⋮美味い。やはりこの店のエールは特別だな﹂
﹁⋮⋮ディック、話があるって聞いたけど。なにかあった?﹂
シェリーは淡々と言う。席に着いて外套を脱いだ彼女は、自覚が
あるのかないのか、大きすぎる胸がテーブルに乗っている︱︱レオ
ニードさんが意に介していない手前、俺が指摘するのもどうかと思
うので、そのまま話を進行することにした。
﹁シェリー、あんたのギルドでは、白の山羊亭からどんな依頼を振
られてる? 話せる範囲でいいから教えてくれないか﹂
﹁⋮⋮そのことなら、もう少し様子を見てから話そうと思ってた。
ディックはもう気づいてた?﹂
﹁なんだ、どういうことだ? 白の山羊亭が何かやってるのか。そ
いつは捨て置けんな﹂
498
レオニードさんが熱くなりかけたところで、ミヅハがお代わりの
エールを持ってきた。ヴェルレーヌが、レオニードさんの飲みっぷ
りを見て持っていかせたのだろう。
﹁お客様、おかわりをお持ちしました﹂
﹁おお、気が利くな。ありがとうお嬢ちゃん、これはお小遣いだ。
好きなものを買うといい﹂
﹁えっ⋮⋮い、いただいてええんですか? じゃなくて、いいんで
すか?﹂
﹁ああ、もらっておくといい。この人は一度出したチップをしまわ
ないからな﹂
ミヅハは金貨を受け取ると、ぺこりと頭を下げて退出する。レオ
ニードさんは銀貨より下の金を持たず、釣りを受け取らないので、
ギルドマスターのわりには手元に金が残らないらしい。
シェリーはミヅハが行ったあと、しばらくしてから話を続けた。
俺のギルド員でも容易に聞かせられない、そんな話なのだろう。
﹁白の山羊亭から、最近来る仕事の中に、﹃実験﹄みたいなものが
ある﹂
﹁実験⋮⋮?﹂
﹁まだ出回ってない、新しい魔道具の効果を確かめるための依頼⋮
⋮だと思う。そうやって書いてはいないけど、依頼書の内容を見る
と、そういうことだとしか思えない﹂
いきなり不穏な話が出てきた︱︱白の山羊亭に対する信頼は、い
きなり大きく揺らいでしまった。
傘下のギルドに、未承認の魔道具の実験をさせている。それが事
499
実だとしたら、その時点で法に触れている可能性がある。ガラムド
ア商会で使われていた首輪も魔道具だが、用途によっては、魔道具
は所持するだけで違法なのだ。使用申請を出し、受理されたもので
なければ、王都の中では使うことができない。
﹁その新しい魔道具ってのは、どういうものなんだ?﹂
﹁⋮⋮依頼を受けなかったから、現物は見てない。でも、依頼書の
内容を見る限りでは、人の行動を操ったりするものだと思う﹂
﹁催眠の魔道具か⋮⋮何てこった。そんなもん、ろくな使い方をし
ないに決まってるじゃねえか﹂
その情報が、白の山羊亭が、獣人の売買に絡んでいたのだという
疑惑を強くする。
ミヅハたちを希少動物として売るために使われた獣化の首輪も、
言うなれば、獣人に催眠をかけるための魔道具だ。
それだけでなく、人間に対しても、催眠をかける魔道具を作って
いるとしたら︱︱それを利用する用途には、あまり良い想像はでき
ない。
﹁その依頼、他のギルドが受けたのか?﹂
﹁⋮⋮気になったから、他のギルドにも聞いてみた。いくつかのギ
ルドは断ったっていう確認がとれたけど、﹃紫の蠍亭﹄は答えなか
った﹂
﹁シェリー嬢ちゃん、大丈夫か? 探りを入れたことで、奴らに目
をつけられたんじゃないのか﹂
﹁問題ない。紫の蠍亭に後ろめたいことがあるのなら、私も戦う覚
悟はできている。面倒だけど仕方ない﹂
500
眠たそうな目で言うシェリーだが、彼女にはギルドマスターとし
ての矜持と強い自覚がある。
シェリーはグラスに口をつけ、酒で喉を潤す。そして、俺を眠そ
うな目で見やった。
﹁⋮⋮白の山羊亭と事を構えるのは難しい。魔道具の実験依頼を受
けたギルドには、白の山羊亭の幹部が送り込まれて、外に情報が漏
れないようにされる。もう、紫の蠍亭はそうなってる﹂
﹁ということは、シェリー嬢ちゃんが依頼を請けたら、白の山羊亭
に乗り込まれてたってことか﹂
﹁そうだと思う。白の山羊亭には、SSランクの幹部が2人いる。
彼らが入り込んできたら、ギルドの中をめちゃくちゃにされる⋮⋮﹂
SSランクの実力を持っていても、他のギルドに干渉しようとい
う野心を持たなかったゼクト。彼と違い、白の山羊亭の幹部が、思
惑通りに他のギルドを動かすために手段を選ばないような人間だっ
たとしたら。
シェリーの肩が、小さく震えている。彼女はいつ白の山羊亭の幹
部が来てもおかしくないという脅威を感じながら、今日まで耐え続
けていたのだ。
﹁もっと早く、白の山羊亭の動きを知っておくべきだった。すまな
い、手が遅れて﹂
﹁⋮⋮そんなことはない。本来なら、白の山羊亭の傘下にいる以上、
私は彼らの命令には逆らえない。でも、彼らがそれまで良い仕事を
振ってくれていたのは確か。状況が変わってしまっただけ﹂
﹁白の山羊亭に何かが起きたのか、ギルドマスターの心変わりか⋮
⋮直接話を聞いてみるべきか。ディック、お前さんはどう思う?﹂
501
﹁俺たちが疑念を持ってることは、まだ伏せておいた方がいい。白
の山羊亭が俺たちを牽制するために動くと、人数が多いだけに厄介
だ﹂
かといって、傘下のシェリーが置かれている状態を考えると、彼
女を安心させてやることがまず第一だ。
レオニードさんも考えは同じようで、二杯目のエールの残りを飲
み干すと、腕組みをして言う。
﹁白の山羊亭は、冒険者ギルドという立場から、王都の秩序を維持
したいと言っていた。その意味が、どうもねじ曲がっちまったよう
に思えてならん﹂
﹁⋮⋮まだ、分からない。私が、深読みをしすぎているだけかも⋮
⋮本当はいけないことだけど、白の山羊亭からきた依頼の写しを残
してある。それを、ディックに見て欲しい﹂
情報部員に頼むことも考えたが、シェリーが俺に見て欲しいとい
う気持ちもわかる。
俺が赤の双子亭に行ったと、白の山羊亭に知られないようにすれ
ばいいだけだ。情報部がなかったころ、自分で隠密活動をしていた
時のように。
﹁分かった。﹃赤の双子亭﹄に訪問させてもらうよ﹂
答えると、シェリーはほっとしたように胸に手を置く。彼女は店
に来て初めて、表情を緩めた。
ずっと、緊張していたのだろう。彼女のギルドが置かれていた状
況を考えれば、無理もない。俺の店に来るときも、助けを求めたい
502
という気持ちがあったはずだ。
しかしギルドマスターは、ギルドに所属するすべての人の人生を
背負っている。だからこそ簡単に弱音を吐いたりはしない。シェリ
ーにも、その強さがある。
シェリーは改めてグラスに手を伸ばすが、その手が震えている。
マインドキュア
それに気づいた俺は席を立つと、シェリーの手に手のひらをかざし、
﹃安らぎの光﹄の魔法を唱えた。
魔法が効果を奏して、手の震えが止まる。だが、シェリーは瞳を
伏せ、自嘲するように言った。
﹁⋮⋮なさけない。こんなことで、怯えている場合じゃないのに﹂
﹁いいんだよ、たまにはな。このディックって男は、ここぞという
ときに頼れる奴だ。美人の頼みなら絶対に断らねえよ﹂
﹁まあ、おおむね断らないけどな。困ったときはお互い様だ。それ
で二人とも、何か食べていくか?﹂
シェリーは少し驚いた顔をする。そして、きゅるる、と彼女のお
腹が鳴った。
﹁⋮⋮朝食を食べられてなかったから⋮⋮恥ずかしい﹂
﹁いいじゃねえか、生きてる証だ。さて、俺は肉が食いたい。ディ
ックよ、久しぶりに腕を振るってくれ﹂
﹁俺は料理をしなくても良くなったんだ。優秀な料理人を雇ったか
らな﹂
ヴェルレーヌ︱︱もそうだが、他にも料理人を雇っている。オー
ダーを通すとすぐに香ばしい匂いがしてきて、シェリーが鳴りそう
503
になるお腹を気にしていたので、火炎クルミのおつまみを出した。
レオニードさんは楽しそうに笑いつつ、再びミヅハにチップを渡し
ながら、持ってこられた黒エールのお代わりを豪快に喉に流し込ん
だ。
白の山羊亭に対する疑念を放置せず、すぐに行動を起こして良か
った。
シェリーのギルドが、本当に悪事に加担させられそうになったの
かは分からない。それを確かめるためにも、白の山羊亭が所持して
いるという未承認の魔道具を手に入れなければならない。
その魔道具の出所が、どこなのか。誰かが作っているのか、外か
ら持ち込まれたのか。
俺の作り上げた情報網が、白の山羊亭に通用するのか否か。それ
が今、試されようとしていた。
504
第45話 襲撃者と限界解放
二人のギルドマスターとの話を終えて、俺はその日の夜の部が終
わったあと、深夜に赤の双子亭に向かうことにした。店を出ようと
すると、ミヅハとヴェルレーヌが見送りをしてくれる。
﹁ディック様、大変やなぁ、こんな遅くに。うちもお手伝いできた
らええんやけど﹂
﹁いや、二人も一日働いて疲れてるだろ。今日の俺は飲んでばかり
いたから、体力は余ってるぞ﹂
﹁お気をつけて行ってらっしゃいませ。二時までにお帰りになりま
したら、その時は少しお話にお付き合いしていただければと﹂
﹁うちも夜更かししたいなぁ⋮⋮でも兄上様が心配するしなぁ。明
日は泊まっていってもいいですか?﹂
﹁ええ、いつでもどうぞ。ご主人様は二人同時でも大丈夫ですので﹂
﹁同時ってなんだ、同時って⋮⋮﹂
﹁うちとヴェルレーヌさんで、同時に⋮⋮や、やっぱりあれかなぁ
⋮⋮﹂
﹁ミヅハさん、﹃あれ﹄については後日改めて、じっくりとお話い
たしましょう﹂
何を企んでいるのか知らないが、ヴェルレーヌは楽しそうだ。ま
あミヅハと一緒にということなら、さほど過激なことを考えてもい
ないだろうと思いたい。
◆◇◆
赤の双子亭は9番通りにある。南北に伸びる9番街区、その南端
505
に位置しており、住宅や店からは少し離れている。
双子亭は俺のギルドよりかなり規模が大きく、ギルドの事務所、
訓練所、食堂などを敷地内に備えている。敷地の入り口には、常に
警備をしているギルド員がいるはずだが︱︱。
そのギルド員のいる詰所の扉が、遠目に見ても分かるほど大きく
破壊されている。
近くには街灯があったはずだが、辺りは真の闇に近く、月明かり
しか照らしていない。街灯は何者かによって切り倒され、釣り下げ
られたカンテラは割られていた。
俺は詰め所の中を覗き込む。皮の鎧を切り裂かれ、頭から血を流
した男性が一人、中に座り込んでいた。
﹁おい、何があった。誰かの襲撃を受けたのか? 敵は何人だ﹂
幸いにも命に支障はなく、﹃癒しの光﹄をただちに使用して回復
させる。すると男は、青ざめた顔を上げ、怯えきった顔をして言っ
た。
﹁ろ、六人くらい⋮⋮いきなり、無断で敷地に入ろうとするから⋮
⋮止めたら、そこの扉を壊されて⋮⋮風の刃の魔法を食らった⋮⋮
お、俺は⋮⋮﹂
﹁分かった、とりあえず落ち着け。これはお前の責任じゃない。襲
撃してきたのが、誰かわかるか?﹂
﹁⋮⋮わ、分からない⋮⋮ただ、シェリー様が、白の山羊亭の者が
来るかもしれないと⋮⋮そうしたら、すぐに入れずに、自分を呼ぶ
ようにと、言って⋮⋮﹂
506
﹁⋮⋮白の山羊亭の人間かもしれないと、思ったんだな?﹂
男は震えながら頷き、うつむいてしまう。よほど恐ろしい思いを
したのだろう。
︱︱俺もこうしている場合ではない。侵入者の目的が何であるに
せよ、このギルドは今攻撃を受けているのだ。
﹁とりあえずここでじっとしてるんだ。事が終わるまでは、その方
が安全だろう﹂
﹁⋮⋮お、俺は⋮⋮門番の役目も果たせずに⋮⋮﹂
ハイディング
﹁いきなり攻撃してくる方が悪いに決まってるだろ。ちゃんと詫び
は入れさせてやるよ﹂
ミュート
俺は男を落ち着けるように肩を叩いたあと、外に出て﹃隠密﹄の
魔法を発動させる。さらに﹃消音﹄の魔法を使って足音を消すと、
最高速度で走り始めた。
﹃赤の双子亭﹄ギルドの本部の外観を見た時点で、俺は事態が切
迫していることを悟った。
三階建ての最上階から、争う音が聞こえてくる。そして一階の出
入り口は、詰め所と同じように風の魔法で破壊されている︱︱敵は
最低でもSランク以上。白の山羊亭のSSランク幹部が来ている可
能性もある。
破壊の痕跡を残しているということは、赤の双子亭が審問官に訴
えることのできないよう、手を打つ用意がある︱︱あるいは、完膚
なきまでに叩き、機能を停止させようというのか。
507
︵何が理由なんだ⋮⋮まさか、シェリーが依頼を断ったことへの報
復なのか? それは完全に逆恨みじゃないか︶
敵が何者かを確かめるまでは、断定はできない。俺はギルドの一
階に入る︱︱﹃仮面の救い手﹄として使用している仮面では口元が
隠せないので、今回は完全に顔が隠せるよう、鉄仮面を作ってきた。
我ながら緊張感がないとは思うが、俺の頭は冷え切っている。こ
れから俺が見るだろう光景は、ろくでもないものに違いないからだ。
ヴェルレーヌの言葉が脳裏によみがえる。全てのギルドの実権を
掴むべきだ︱︱白の山羊亭がまっとうにギルドを運営してくれてい
れば、そんなことを考える必要も無かったのに。
﹁上手くいかないもんだな⋮⋮まあ、仕方ない﹂
腹を括るうえで、この段階に来てしまうと迷いはなかった。
襲撃者が誰であろうと、全員を沈黙させる。こういうやり方は好
かないが、俺の仮面を恐怖と共に、記憶に刻み込んでもらうしかな
い。
壊された扉から、俺は堂々と侵入していく。深夜でもギルド本部
には若干名の冒険者が残っていて、襲撃者と一戦を交えた後だった
︱︱しかし、赤の双子亭のギルド員は全てが倒れ、立っているのは
二人の男だけだった。
彼らのうち一人が、俺を見るなり戦闘態勢に入る。一人は魔法使
い、一人は剣使い︱︱俺は長剣を抜き、切りかかって来た男の太刀
筋を読んで避けると、剣の峰を背中に叩き付けて吹き飛ばした。
508
﹁うぐぁっ!﹂
﹁っ⋮⋮な、なんだこいつ⋮⋮このギルドに、こんな仮面の男がい
たか⋮⋮?﹂
﹁俺の素性なんてどうでもいいだろう。それでお前たち、何をしよ
ファイアボール
うとしてた?﹂
﹁﹃火炎球﹄!﹂
鉄仮面で変質した、歪んだ声で尋ねる。魔法使いは問いかけに答
えることなく、炎の精霊魔法で攻撃してきた。一抱えもある巨大な
火球を飛ばす、なかなかの威力の魔法だ。
︱︱だが、建物の中で火炎魔法を使うなど、あまりに後先考えて
いない。これは、教育の必要がある。
プロテクト・プリズン
﹁﹃防壁の檻﹄﹂
ただ魔法を防ぐだけでは、反射した炎がまき散らされてしまう。
それを避けるには、防壁を﹃檻﹄として展開し、敵の火炎球を抑え
込んでやればいい。
防壁の檻は火炎球を包み込むと、急速に狭まってもろともに消失
する。それを見ていた魔法使いの男は、驚愕に目を見開いていた。
﹁なっ⋮⋮んだと⋮⋮!?﹂
俺の前で驚くというのは、距離を詰める隙を与えるということで
ある。彼が瞬きをした後には、俺はすぐ横まで移動していた。
サイレス・ルーン
﹁﹃静寂の印﹄﹂
509
﹁ぐっ⋮⋮な、何を⋮⋮ま、魔力が、魔力が使えん⋮⋮!﹂
﹁火炎魔法を屋内で使うやつに、魔法の力なんて必要ない。しばら
く反省してもらおうか﹂
﹁き、きさっ⋮⋮きささっ⋮⋮ぐぇっ!﹂
貴様、と言うことすらできないでいるうちに、俺はミヅハに言わ
れたことを思い出し、額に指を弾いて打ちこんでみた。魔力で強化
したことで、ズドン、と弾けるような音がする。
スモールスピ
吹き飛んだ魔法使いは、額から煙を発している。首筋には俺が刻
リット
ルーン
み込んだ、魔法を封じるルーンが浮かび上がっている︱︱﹃小さき
魂﹄のように特殊な塗料を使う必要のある魔法文字もあるが、簡易
的な魔法文字ならば、その場で刻むことができる。
といっても、静寂の印の効果時間は、今の俺が施術すると一週間
ほど継続する。その間魔法が使えないというのは、冒険者としては
かなりのハイリスクとなる︱︱今回の襲撃の罪状を考えると、そん
なことは心配する必要もないのだが。どのみち、場合によってはし
ばらく牢獄送りだ。
一階にいたギルド員は、全員が気絶している︱︱いや、違う。
今倒した男たち二人が、何をしようとしていたのか。一人の女性
ギルド員が、身体をかばって座り込んでいる︱︱装備を剥がされる
ところだったのだ。
ただ倒しただけでは生ぬるいか、と思えてくる。こういう場面に
出くわしたことは初めてではないが、そのたびに思う︱︱女を力で
屈服させようとする輩は、生きている価値が無い。
﹁⋮⋮っ、か、仮面の方⋮⋮ギルドマスターが⋮⋮シェリー様が、
510
上にっ⋮⋮今の人達よりもっと、比べ物にならないほど⋮⋮っ﹂
ヒール
﹁わかった、必ず助ける。襲撃してきた奴らは全員、上の階にいる
のか?﹂
ライト
俺は問いかけながら、彼女と他の倒れているギルド員に﹃癒やし
の光﹄をかける。回復していく仲間たちを見て、まだ若い女性ギル
ド員は目を白黒させていた。
﹁あ、ありがとう、ございます⋮⋮っ、この御恩は、いつか必ず⋮
⋮﹂
﹁このまま残していくのは心細いと思うが、何かあったら呼んでく
れ。すぐに終わらせてくる﹂
﹁⋮⋮はい。お気をつけて⋮⋮どうか、シェリー様を⋮⋮﹂
ハイディング
俺はふたたび﹃隠密﹄をかけ、二階に上がっていく。
深夜のギルドに、予想以上に人が残っている︱︱それは、シェリ
ーが白の山羊亭を警戒していたからか。
二階には三人の男たちがいて、室内を荒らし、何かを探していた。
倒したギルド員の装備を探り、金品を奪ってもいる。
まさに無法者たちという光景を目にして、俺の心はさらに冷めて
いく。
︱︱こんな奴らを守るために、俺たちは魔王と戦い、停戦に導い
たのか。
考えないようにしてきた、そんな愚にもつかない考え。そして俺
は、家探しに夢中で気がついていない男に近づくと、思い切り脇腹
511
に目掛けて蹴りを入れた。
﹁がはっ⋮⋮!﹂
男が倒れこみ、奥にいた二人が俺の存在に気づく。
﹁い、いつの間に⋮⋮1階の奴らは何をしてやがる!﹂
﹁うるせえ、うろたえてんじゃねえ! 邪魔する奴は殺せ!﹂
﹁殺せ、か。お前たちは、このギルドの人間を殺してもかまわない
と思ってるのか?﹂
﹁っ⋮⋮うわっ、うわぁぁぁっ!﹂
︱︱﹃限定殲滅型六十六式・粒子断裂陣﹄︱︱ 残り二人の男が持っていた金属の武器が、ぼろぼろと黒い塊にな
って崩れ落ちる。
無力化する方法は幾らでもある。しかし三階に上がる前に、奴ら
に聞いておきたいことがあった。
﹁こ、こいつ⋮⋮一体どうやって⋮⋮﹂
﹁化け物⋮⋮ま、魔族だ。こいつ、魔族だっ⋮⋮!﹂
﹁だから、簡単に魔族を貶しめるなよ。お前たちより遥かにまっと
うに生きてる奴もいる⋮⋮それより。俺の質問に答えろ。お前たち
は、白の山羊亭の人間か? それとも⋮⋮﹂
﹁︱︱うぁぁぁぁっ!﹂
俺から離れた位置にいた男が、最後の賭けに出る︱︱隠していた
短刀を出し、俺に向かって駆け込んでくる。
︱︱アイリーンと組手をするとき、彼女は俺に武器を使うように
512
と言う。
そして教えられたのが、武器を持つ相手に対する対応の仕方。短
刀を突き出した腕を極め、そのまま投げ飛ばし、地面に倒して背中
を踏みつける。
﹁答えろと言ったはずだ。話を聞けよ﹂
動かなくなった男から足を外す。死ぬほどではないが、明らかに
戦闘不能の状態だ。
見たところAランクの連中でも、どこまで手加減をしても、やり
過ぎているという感覚は否めない。しかし今は、多少やり過ぎても
いいという気分ではある。
﹁⋮⋮白の山羊亭の命令を受けて来たのか? 答えてもらえるか﹂
﹁お、俺たちをやったところで、あの人には絶対勝てねえ⋮⋮ざま
あみろ、ははっ⋮⋮はははっ⋮⋮ひっ⋮⋮!﹂
自暴自棄に陥り、笑っていた男が、ひきつった声を出す。
そして、笑いながらその場に座り込む。男はもはや戦意を失って
いた。
﹁これで三度目だ。どうする? 俺はどちらでも構わないぞ﹂
﹁お、俺達を殺しても何もならねえぞ⋮⋮何もならねえって、や、
やめろっ、来るなっ、来るなぁぁっ!﹂
ただ歩いているだけなのに、怯えられる。
魔法の使い方を覚えるまでは、﹃師匠﹄に会うまでは、ずっとそ
うだった。
513
気がつけば、皆に怯えられるようになっていた。その頃のことを
思い出すと、無性に笑いたくなる。
﹁⋮⋮これに懲りたら、違う生き方でも探すんだな﹂
目の前に立っただけで、男は泡を吹いて気絶する。今の俺は、自
制が効いていないようだ。
白の山羊亭のことを、俺はまだどこかで、トップギルドの自覚を
失っていない部分があると期待していた。
それが甘い考えだったというだけだ。裏切られた、と思うような
ことですらない。
赤の双子亭に無理を強いるなら、それは俺の主義に反している。
ならば、するべきことは一つだ。
今の白の山羊亭の支配構造を叩き壊し、作り直す。そのために、
これからシェリーを助ける。今は無心になって三階に上がり、そし
て︱︱。
﹁︱︱ロッテ、お願い! 私が動きを止める⋮⋮!﹂
﹁はい、お姉さまっ⋮⋮やぁぁぁっ!﹂
明かりが失われ、淡い月光だけが照らすギルドマスター室で、シ
ェリーとその妹のロッテが何者かと戦っている。
部屋の中は荒れ果てている︱︱まるで、嵐が吹き荒れたかのよう
に。
﹁頑張るねえ、姉ちゃんたち。じゃあ、これはどうかな⋮⋮? ﹃
514
ソニック・ブレード
烈風刃﹄﹂
目の前に見えるのは、実際の風景とは別のもの。
敵の技をこのまま発動させればどうなるか。
吹き荒れた風の刃は、シェリーとロッテを切り裂く。
敵の実力とシェリーたちの力の差を考えれば、彼女たちは致命的
な傷を負う。
ならば、どうすればそれを阻止できるか。
敵よりも後出しで、先に魔法を発動させ、割り込めばいい。俺に
はそれができる︱︱詠唱を破棄することで。
プロテクトプリズン・ダブル
︱︱﹃防壁の二重檻﹄︱︱
﹁これは⋮⋮﹂
﹁⋮⋮魔法⋮⋮あの人の⋮⋮﹂
﹃烈風刃﹄とやらを発動させようとした男を、魔力の壁が包み込
む︱︱二重にしたのは正解だった。
敵はSSランクだ。それも、レオニードさんよりも実力は上⋮⋮
冒険者強度は、おそらく8万を超えている。
﹁はははっ⋮⋮面白えじゃねえかぁっ⋮⋮!﹂
魔法を封殺されたにもかかわらず、敵︱︱金色の髪を逆立てた男
515
が、心から楽しそうに笑う。防壁の中で風が吹き荒れているが、彼
自身には風の精霊魔法は効果を成さないのだ。
その獲物は、柄の長い大鎌。黒い外套もあいまって、死神のつも
りでもいるのかという装いをしていた。
ソニック・ブレイド
﹁うぜぇ⋮⋮ッ、弾け飛べっ! ﹃烈風刃﹄!﹂
内側から魔法をさらに重ね、男が防壁を破る。どうだと言わんば
かりの顔をする男だが、俺は別のことに意識を向けていた。
窓から差し込む月光の中で、シェリーとロッテが傷を負っている
ことが見て取れる。俺は回復魔法を発動させながら、吊り上がった
目をした男と向き合った。
﹁言っとくが、今ので俺を凌いだと思うなよ? こいつら二人を倒
すために、全力なんて出す必要ねえんだよ。オマエは別だがな﹂
﹁なんだ、負け惜しみか? ランクが高くても、度量は狭いんだな﹂
軽い挑発を投げてやると、男の表情が明らかに変わる。こめかみ
に血管が浮かび上がるほど、その怒りはわかりやすいものだった。
﹁⋮⋮俺に舐めた口を聞いたやつは、全員殺してきた。オマエもそ
の一人にしてやるよッ!﹂
思わず苦笑いしてしまうほどに、典型的な﹃殺人狂﹄。
こんなのを相手にするほど暇ではないのだが、と思いつつも、こ
れくらいの相手になると、一撃で昏倒させるというわけにもいかな
い。
516
大鎌を振り上げ、切りかかってくる男を前にして、俺は抜いたま
まの剣を構えた。仮面をつけたままでも、シェリーは俺の戦い方で、
正体を感じ取っている。
﹁っ⋮⋮彼の本気が見られる⋮⋮ロッテ、ちゃんと見てて﹂
﹁は、はい、姉さま⋮⋮っ﹂
自分が強いと思っている人間に、さらに上の世界を見せ、心を折
る。それをいい趣味だとは思わないが︱︱。
今までずっと自分の身体にかけ続けてきた、強化魔法を逆転させ
て使うことによる﹃負荷﹄を、外す。
スピリットリリース・リミットバースト
︱︱﹃負荷解除・限界解放﹄︱︱
﹁なっ⋮⋮!?﹂
その瞬間、自信に満ちていた男の顔が歪んだ。二階に居た男たち
と、その顔に浮かぶ感情は、何ら変わりはしなかった。
517
第46話 SSSランクの領域
スピリット・リミットホールド
﹃限定拘束﹄。それが、俺の力を常に制限している、逆強化魔法
と言うべきものである。
その拘束は筋力、魔力、そして思考速度にも及ぶ。
人間の頭というのは、普段はその能力を最大まで発揮することは
できていないらしい。ならば、その使っていない脳を使えるように、
常に負荷をかけて訓練しておくとどうなるか︱︱。
言うなれば、﹃一瞬の判断﹄を要求される場面で、最適の行動を
確実に取ることができるようになる。正確に計測する手段が存在し
ないが、常人では俺の状況解析速度に追随することはできない。
まだ、目の前にいる金髪の死神じみた格好の男は、俺がどのよう
に変化したのか理解できてはいないだろう。
しかし未知の相手に怯んだことを屈辱と感じ、面食らった顔は即
座に怒りに染まる。
﹁⋮⋮クソがぁぁぁッ!﹂
大鎌を振り上げたあと、風の精霊の力で加速して距離を詰める。
先に仕掛ければ有利になる、経験上そう判断しているのだろう。
誰でも、初手で未知の攻撃を放てば、対応するためには一度受ける
か、避けるかしなければならない。
518
しかしそれは、相手が何をしてくるか、﹃一撃目で分からなけれ
ば﹄の話だ。
﹁おらぁぁぁぁぁっ!﹂
スピリット・ブレード
男が鎌を横薙ぎに振り抜く︱︱俺はそれを﹃斬撃強化﹄を施した
長剣で受ける。
ニヤリ、と男が笑う。釣りあがった目に、嘲笑するように吊り上
がる口元︱︱。
ランダマイズ・シザース
﹁﹃破乱風刃﹄ッ!﹂
精霊魔法が発動、鎌は魔道具であり、相手の魔法に従って形状を
エレメンタルフレーム
変化させる。収納されていた十字の刃が飛び出し、鎌槍に変化する。
ジン
﹃精霊反応機構﹄を備えている武器によって、風の精霊の力を最大
限に利用し、技を繰り出す。魔力の流れ、その場に存在する風精霊
の反応、これまでの経験からの推測、鎌から放たれる何重もの風の
刃。物理的に武器を受け止めても、風の刃は止められず、俺に襲い
掛かる。
だが俺は勝ち誇るように笑う奴に、刹那の一瞬、こちらからも笑
いかけてやる。
読み切ったあとは、返すのみ。次の一撃に繋がるように、反撃を
繰り出すだけ。
スピリット・ブレード・アタックライズ
︱︱﹃斬撃回数強化﹄︱︱
笑っていた男の目が見開く。先ほどと同じ、余裕めかせた次の瞬
519
間に足を掬われる。
自分が強いという絶対の自信が、破られる。無数に発生して俺を
切り刻むはずの風の刃が、確実に全て﹃斬り返され﹄、防がれてい
るのだから無理もない。
﹁風の刃⋮⋮悪くはないが。手数を増やすだけのトリックじゃ、俺
には届かない﹂
﹁︱︱っざけ⋮⋮!﹂
奴には大技を繰り出した後でも、すぐに追い打ちをかけるだけの
実力はある。Sランク以下ならば、再度精霊魔法を使えるようにな
るまでに、どうしてもブランクが生じるところを、次の詠唱にスム
ーズに移行できている。
ストーム・テンペスト
﹁⋮⋮このギルドごと吹き飛ばしてやるよ⋮⋮風の精霊どもよ、嵐
を巻き起こし、破壊し、無に帰せ⋮⋮﹃破嵐﹄!﹂
﹁ディックッ⋮⋮!﹂
﹁っ⋮⋮姉さま、あの仮面の方が、ディック様なのですか⋮⋮!?﹂
シェリーが俺の名を呼ぶほど心配するのも、無理もない。彼女に
今まで、俺は実力の一部すら見せる機会がなかった。
元勇者で、強いとは分かっているけれど、実感がわかない。そう
淡々と言う彼女に、俺はいつか機会があったら、俺が強いかどうか
を見て判定してくれと言った。
しかし、こうして改めて全力の一端を解放してみると、思い知ら
されてしまう。
520
同じSSSランクの相手でなければ、俺が本気を出しきるには実
力が不足しているのだと。
大鎌の男の金色の髪が、巻き起ころうとする嵐の中で逆立つ。体
内の魔力が収束し、風の精霊が呼応し、俺たちを巻き込み、建物を
破壊するだけの力を生み出そうとする。
﹁あるわけがねえ⋮⋮俺が怯えるなんざ、あっていいわけがねえん
だッ!﹂
﹁︱︱あっていいわけがないか。だったら、これはどうする?﹂
俺はその場で剣を振りぬく。
スピリットエッジ
コーディの光剣を、我流で模した技︱︱﹃魔力刃﹄で、俺にしか
見えていないあるものを斬った。
魔法とは、いかにして発動するものか。多くの者は精霊と契約し、
その力を魔力を代償に引き出すことで、世界に干渉して変化を起こ
す。
火の精霊ならば炎を、水の精霊ならば水を生み、時には極低温で
氷結させ、土の精霊ならば土を盛り上げて壁にし、精霊の力でゴー
レムを動かすこともできる。
風の精霊は風、極まれば嵐の力を生み出す。しかしそれらは、魔
法使いが自分で一から構築して現象を起こしているわけではない。
あくまでも、精霊の力を決まった手続きで引き出しているだけなの
だ。
521
ならば︱︱精霊に干渉する魔力の経路を絶てば。契約によって簡
略化された手続きでなくては魔法を使えない﹃現世代の魔法使い﹄
は、一切の魔法を使うことができなくなるということだ。
﹁な⋮⋮んで⋮⋮お、おい⋮⋮ふざけんなッ、俺が、俺が失敗する
わけが⋮⋮ッ!﹂
ストーム・テンペスト
発動しかけていた破嵐は、何の現象も起こさずに終わる。空を斬
ったように見えるだろう、俺の魔力刃で、魔力の経路を絶たれてい
るのに、奴は気がついてもいない。
ストーム・テンペスト
ストーム・テンペスト
﹁クソがぁ⋮⋮っ! 風精霊ども、こいつらを打ち砕け、ぶち壊す
んだよッ! ﹃破嵐﹄! ﹃破嵐﹄ォッ!﹂
その魔法の威力だけを見れば、このギルドの建物を破壊すること
はできる。
SSランクの冒険者は千人の兵が駐留する砦を、1時間かけて攻
略する力を持っているという目安もある。
しかし戦闘評価だけで10万を超える者に攻撃されれば、その程
度の砦は、一分も原型を保っていられない。俺やミラルカ、コーデ
ィ、アイリーンは、そういった領域にいるのだ。
俺の戦闘評価は測っていないが、理論値でいうならば、通常状態
のアイリーンと格闘し、勝ったり負けたりしている時点で9万はあ
ると考えられる。それは、近接戦闘における評価のみ︱︱魔法の評
価を含んではいない。
初めから、SSランクだろうが、SSSランクの前には相手にな
522
らない。Aランクに対してもそうだったように、どれだけ手加減を
しても負けられない。
自分に何が起きているかもわからずにいる男は、魔法が使えなく
なったという事実をようやく受け止める。
︱︱そして、握りしめた鎌を俺ではなく、離れて見ていたシェリ
ーとロッテに向けて振りかざした。
﹁邪魔さえ入らなければ、てめえらを操ってそれで終わりだったん
だよッ⋮⋮クソ女がぁッ!﹂
﹁姉さまっ⋮⋮ここは私が⋮⋮!﹂
﹁ロッテ、だめっ! 私たちではっ⋮⋮!﹂
Sランクの冒険者6人がパーティを組んで、ようやくSSランク
の冒険者一人に勝つことができる。シェリーとロッテでは、一撃で
戦闘不能にされてもおかしくはない。
鎌男は魔法が使えなくとも、武器だけでSランクを喰らえるつも
りでいる。しかし、俺がその場にいて何もしないと思っているのな
スピリット・レデュース
ら、やぶれかぶれもいいところだ。
スピリット・ライジング
﹁﹃戦闘力貸与﹄︱︱﹃戦闘力低下﹄﹂
シェリーとロッテに、俺の戦闘評価を貸し与える。近距離で、短
時間ならば、一度に貸与できる戦闘評価は5万︱︱そして。
同時に鎌男の戦闘力を低下させる。風の精霊と契約していても、
俺の強化・弱体化魔法に抵抗する対抗手段をまったく持っていない
彼は、自分の能力が恐ろしく低下したことに、まさにロッテに切り
523
かかった瞬間まで気が付かなかった。
﹁ぐっ⋮⋮!?﹂
男には大鎌の重量が、数倍にも増して感じられていることだろう。
限界解放をした状態での、俺の﹃戦闘力低下﹄は、大人の男を赤
ん坊と変わらない身体能力に変えてしまう。SSランクでもBラン
ク相当まで落ちてしまう、自分でも悪夢のようだと思える威力だ。
﹁はぁぁっ⋮⋮!﹂
チェーンフレイル
ロッテが意を決して、鎖鉄球で一撃を繰り出す。大鎌の刃は弾か
れ、男は武器を離す︱︱今の戦闘力では武器を保持し続けることす
らできない。
﹁姉さま、今ですっ!﹂
﹁ええ⋮⋮っ、﹃鞭縛り︵ウィップバインド︶﹄!﹂
﹁うぉぉっ⋮⋮!﹂
シェリーは鞭を相手に絡みつかせ、拘束する。彼女が使う鞭はリ
ーチが恐ろしく長く、あれよと言う間に天井の梁に男をつるし上げ
てしまう。
﹁てめえらっ⋮⋮! 殺す⋮⋮絶対に殺してやるッ⋮⋮!﹂
どれほどの屈辱かは察するに余りあるが、彼がやろうとしていた
ことを考えると全く同情はできない。
つるし上げられた拍子に、男が持っていたものだろう、革のベル
トのようなものが床に落ちる。俺はそれを拾い上げ、確認する︱︱
524
これは、魔道具だ。
アイリーンが持ち帰って来た、ミヅハの首につけられていたもの
と似ている。あれは切断されて使えなくなっていたが、この首輪は
まだ使うことができる。
﹁シェリーとロッテを操ろうとしたと言ってたな⋮⋮獣人だけじゃ
なく、人間を従属させるための道具を作ってたのか。一体、何のた
めだ﹂
﹁てめえらに関係あるかよ⋮⋮ッ、いいから降ろせッ! 降ろしや
がれッ! がぁぁぁぁっ!﹂
空中でもがき、暴れまくる男。しかしシェリーの鞭の技術は流石
のもので、弱体化した男がいくら暴れても、ゆるむ気配は全くなか
った。
﹁これが、私たちに持ち込んだ依頼で、試すように言われてた魔道
具⋮⋮?﹂
﹁人を操って、言うことを聞かせる道具ですね。こんなものを持ち
込んで、私たちを操って⋮⋮赤の双子亭を、意のままにしようとし
ていたのね。なんて恐ろしい人たちなの﹂
シェリーの双子の妹であるロッテは、姉と容姿がよく似ているが、
髪型に大きな差異がある。シェリーは髪が背中に届くほど長いが、
ロッテは肩くらいの長さだ。しかしつけているリボンは同じで、二
人とも年齢のわりに艶っぽい雰囲気をしている。
ロッテは自分の体を抱くようにして、吊られている男をけだもの
を見る目で見やる。彼女には潔癖なところがあり、男性に対しては
姉が認めた人物以外、決して警戒を崩さない。
525
男は唾でも吐きそうな勢いだったが、抵抗しても無駄だと悟った
のか、がっくりとうなだれた。
﹁⋮⋮クソ女ども⋮⋮絶対に犯す⋮⋮殺してから犯してやる⋮⋮﹂
﹁折れないのは大したもんだが、あまり汚い言葉を吐くなよ。こっ
ちも、別に聖人じゃないんだ﹂
ユマならば、これほど絵に描いたような下衆が相手であっても、
神の教えを諭すだろう。しかし俺は、そこまで寛容でもない。
﹁⋮⋮だが真っ先に殺すのはてめえだ。そのふざけた仮面を取りや
がれッ!﹂
﹁あなたにはもう発言権はない。彼を侮辱することは許さない﹂
シェリーは男を見上げて淡々と言う。男はシェリーを睨みつけて
いたが︱︱彼女がただ見上げているだけで、その目から徐々に力が
失われていく。
赤の双子亭のシェリー︱︱彼女の魔法は、﹃芳香﹄を操るもので
ある。花の精霊と契約している彼女は、特殊な植物を召喚し、芳香
を発生させることができるのだ。俺も、防御せずにうかつに嗅ぐと
大変なことになってしまう。
﹁⋮⋮あなたたちとしていることが同じみたいで、あまりいい気分
はしないけど。しばらく、言うことを聞いてもらう﹂
﹁⋮⋮はい⋮⋮かしこまりました、お嬢様⋮⋮オレを、好きに使っ
てください⋮⋮﹂
あれほど反抗的だった男が大人しくなり、従順そのものになる。
526
何度見せられても恐ろしい︱︱彼女の芳香も魔力によるものなので、
俺ならば遮断できるが、男性相手にはほぼ無敵の能力だ。
しかし風の精霊使いが相手では、芳香を散らされてしまうために
相性が悪い。今の状態なら問題なく効果を発揮できるわけだ。
ふぅ、とシェリーは息をつき、芳香を金髪の男が吸い続けるよう
に、彼の周囲に固定する。そして吊るした男を下ろすと、彼は自主
的に、床に這いつくばってシェリーの靴を舐めようとする。
﹁そこまではしなくていい。汚らわしいから﹂
﹁はっ⋮⋮申し訳ございません、お嬢様⋮⋮﹂
﹁ギルドタグを渡して。そして、何が目的でここに来たのか、全て
話しなさい﹂
シェリーは金髪の男からギルドタグを受け取り、俺に渡してくる。
そこには、﹃クライブ・ガーランド﹄という名前と、SSランクの
冒険者であること、白の山羊亭に所属していることが明記されてい
た。
俺はシェリーたちと共に、クライブという男から話を聞くことに
した。白の山羊亭が何を考えて行動しているのか︱︱そしてこの首
輪を使って、何をしようとしているのか。
だが、話を聞く前に、シェリーとロッテは俺を改めて見て、感嘆
を隠さずに見つめてくる。
﹁仮面で来るから、最初はだれかと思った。でも、すごく安心した
⋮⋮﹂
﹁私も姉さまと同じ気持ちです。やはりディック様⋮⋮いえ、あな
527
た様は、特別なお方なのですね。あまりにも強すぎるので、劇を見
ているみたいでした﹂
もう少し緊張感のある戦いができるかと思ったが、そんなことよ
り、二人が無事で何よりだ。
そう言おうとして、二人を正面から見て、俺はまずいことに気が
付いた︱︱能力の抑制を解除したままだ。
スピリット・リミットホールド
︵﹃限定拘束﹄︶
解除していた負荷を元に戻す。そうしなければ、俺のすべての感
覚が鋭敏になりすぎる。
何が問題かというと、視覚から得られる情報から、ふだんより遥
かに多くのことを解析できてしまう。服を着ている相手でも、じっ
と見ているだけで中の体形が分かってしまうのである。
﹁⋮⋮? どうしたの?﹂
﹁ああいや、何でもない。それより、さっそく話を聞くか﹂
﹁はい⋮⋮ああ、そのさっぱりしたところも奥ゆかしい。あなたの
ような方こそ、姉さまにふさわしい⋮⋮﹂
﹁ロッテ⋮⋮余計なことは言わなくていい。勘違いされたら、困る﹂
それが勘違いなのかどうかも、限界解放した俺なら、感情を読み
取って解析できてしまうのだろうが︱︱自分で言うのもなんだが、
人間の領域を外れているので、自重しなくてはならないところだ。
そして俺は地面に這いつくばったままで微動だにしないクライブ
を見て、シェリーの能力もまた、使い方次第でSランクの範疇を外
れる強力なものだと実感するのだった。
528
第47話 もう一人の幹部と最強の駒
シェリーの能力によって言いなりとなったクライブだが、赤の双
子亭を襲撃して荒らしまわったこと、ギルド員たちに傷を負わせた
件については、一通り話を聞きだしてから罰を与えることになった。
﹁これからお前にいくつか質問する。その内容に関係なく、やった
ことは償ってもらうぞ﹂
﹁⋮⋮はい。何なりとお尋ねください⋮⋮お嬢様のお知り合いの方
であれば、お嬢様と同じように敬わねば﹂
荒い言葉を使っていたのに、がらりと言葉遣いが変わって、何か
気味悪くも感じる。シェリーが芳香で魅惑した相手に対し、丁寧な
態度を要求するという志向の表れだろう。
﹁姉さま、従属の魔道具は量産ができないようですね。二つだけ出
てきましたが、やはり私たち姉妹の分だけ⋮⋮ということなのでし
ょうか。ああ、鳥肌が立ってしまいます⋮⋮﹂
﹁誰が、私たちのギルドを襲撃するように指示を出したの?﹂
シェリーは初めから核心に触れる質問をする。クライブは絶対に
答えなければならないはずだ。
﹁ギルドマスターの血判が押された指令状を受け取り、オレはそれ
に従って行動した⋮⋮それは、オレがその指令を面白いと思ったか
らです。お嬢様方を屈服させ、オレの意のままに動かすというのは、
この指令においてオレに与えられた特典だった。その節は、大変失
礼を⋮⋮うぐぉっ!﹂
529
ガスッ、とチェーンフレイルの先端についた鉄球がクライブの脳
天に落とされる。気が付くと、ロッテの瞳から光が消えていた︱︱
薄暗い中ということもあって、俺でもゾクッとしてしまう。
﹁すでに無力化されているとはいえ、言っていることがあまりに下
衆すぎます。最低中の最低です。それもこれも、この男が男として
生まれてきたからいけないんです。ちょうど鎌を持っていますし、
いらないものは刈り取ってしまった方が⋮⋮姉さまとディック様も、
そう思いませんか?﹂
﹁前科があるだろうから、止めはしないけどな。その顔は怖すぎる、
俺を怖がらせないでくれ﹂
﹁ディックが怯えている⋮⋮さっきの戦いでも、余裕の笑顔があっ
たのに。ロッテ、すごい⋮⋮﹂
﹁はっ⋮⋮ね、姉さま、私、何か姉さまに褒められるようなことを
? 今、意識が飛んでしまったのですが⋮⋮あっ、フレイルが勝手
に⋮⋮﹂
このままだとロッテは勝手に手が動いたことにして、クライブを
物理的に性転換させてしまいそうだ。それはさておいて、あらかた
情報を聞き出しておきたい。
﹁ギルドマスターの血判っていうのは、幹部に重要な指令を下す時
にでも使われるのか?﹂
﹁お、オレが⋮⋮王都に来て⋮⋮白の山羊亭と契約した時に、そう
いう内容になっていて⋮⋮ギルドマスターはオレと同格だから、本
来なら従う理由もなかったんですが⋮⋮﹂
﹁おい、しっかり答えろ。それくらいで、何をフラフラしてるんだ﹂
俺はクライブの胸倉を掴みあげる。しかし忘れていた︱︱そうい
530
えば、双子とクライブに対して補助魔法を使っていた。
今のロッテはSSランクに相当する力を持っており、クライブは
Bランクまで弱体化している。フレイルで一撃でとどめを刺されな
かっただけ、ロッテが手加減をしていたということだ︱︱危ないと
ころだった。
﹁白の山羊亭のギルドマスターに従い、契約する理由があったんだ
な? それは何なんだ﹂
﹁⋮⋮それは⋮⋮オレの力を、﹃あの方﹄が、一つ引き上げてくれ
たから⋮⋮﹂
﹁あの方⋮⋮その人物は、ギルドマスターではない⋮⋮?﹂
シェリーの質問に、クライブは答えない。いや、答えないのでは
なく、﹃知らない﹄のだ。
クライブの元の実力は今より低く、﹃あの方﹄という人物によっ
て、今の力を引き出されたということになる。
俺の強化魔法と同じようなことができる者が、白の山羊亭にいる。
そいつは表に姿を見せることなく、クライブに力を与え、その忠誠
を得たということだ。俺の目立ちたくないという姿勢に似たものを
感じて、思わず苦笑してしまう。
白の山羊亭のギルドマスターが、傘下のギルドに対する支配を強
めるために動き出した。事態はそれほど単純な構図ではなく、ギル
ドマスターの背後に何者かがいる。
﹁その何者かが王都にいるとするなら、所在を掴むことは不可能で
はないはず﹂
531
﹁シェリー、これからは連携を密に取ることにしよう。このギルド
に、転移陣を設置してもいいか? そうすれば、どんな状況でも即
座に助けに来られるからな﹂
﹁っ⋮⋮て、転移陣なんて貴重なもの、そんな、そこまで遠くない
のに⋮⋮﹂
﹁そ、そんな⋮⋮私たちも、ギルドマスターを務める身です。他の
ギルドマスターの方に、そこまで頼りきりになってしまってはいけ
ません。姉さまがどうしてもとおっしゃるなら、話は別ですが﹂
ちらっ、とロッテがシェリーを見やる。シェリーはしきりに遠慮
しているが、無理もない。
普通なら、転移陣を設置するために必要な転移魔法の封じられた
結晶は、遺跡迷宮に何か月も潜って一個手に入るかどうかという希
少品だからだ。
しかし今回の件で、侵入者を感知した時点で俺を呼んでくれてい
たら、無傷で迎撃できた。そう考えると、俺は友好関係にあるギル
ドには転移陣を置かせてもらった方がいいのではないかと思ったの
だ。
﹁転移魔法陣の使い方を、私にも教えてくれるの? すごく貴重な
機密のはずなのに⋮⋮﹂
﹁使い方自体はそこまで難しくないからな。今のところ、人の手で
は一から作ることができないっていうだけで﹂
﹁クライブさん、これは機密ですから、聞かなかったことにしてく
ださいね⋮⋮あ、聞こえていませんね﹂
﹁⋮⋮お嬢様⋮⋮み、水を⋮⋮水を⋮⋮﹂
﹁しょうがないな。おい、死ぬなよ﹂
フレイルの一撃がやはり重かったようで、クライブの意識が朦朧
532
としているので、回復魔法をかける。ロッテのフレイル攻撃と回復
魔法のループで凶悪な拷問が完成しそうだが、そんなことをしてい
る暇はない。
﹁この首輪で操られてるギルドマスターは、既に他にいるのか?﹂
﹁紫の⋮⋮蠍亭の、マスターは⋮⋮オレから首輪を奪って、利用し
ようと攻撃してきました。返り討ちにしてやりましたが⋮⋮﹂
﹁彼はなぜ誇らしげにしているのでしょう⋮⋮?﹂
﹁ロッテ、話が進まないからフレイルはだめ。今のあなただと、床
や壁に当たったら壊れる﹂
紫の蠍亭のマスターは、既に従属の魔道具をつけられている。つ
まり、俺たちの敵に回っている。
あのギルドの性質上、そこまで急いで助けてやるという気もしな
いが、敵に回られると面倒なのは確かだ。
︱︱いや、もうまだるっこしいことは言っていられない。
紫の蠍亭は暗殺や、悪人の依頼を金で受けることが主になってい
る。それらは冒険者の本分を外れている仕事だが、汚れ仕事を必要
とする者がいるからこそ、取り潰しにならずに済んでいたというだ
けだ。
すでに白の山羊亭の傀儡となってしまったなら、一度内部を正常
化させた方がいい。このまま放置しておけば、ならず者の集団に落
ちるだろう。
しかしそうすれば、俺の動きは白の山羊亭に感知され、対策を打
たれる。場合によっては面倒なことになりそうだ。
533
では、どうすればいいのか。
白の山羊亭の正体を暴くこと、操られているギルドを解放するこ
と。それを、同時に行ってしまえばいい。
﹁赤の双子亭が言うことを聞かなかったから、従属の魔道具の実験
対象にしようとしたっていうのはわかった。なぜ、そんな強行手段
に出る必要があったんだ?﹂
﹁強行手段⋮⋮何を言っているんです? オレたちにしてみれば、
傘下のギルドが逆らうというのは反逆行為ですよ。反逆者には意志
など必要ない。素直に言うことを聞いた黄の魚亭、橙の牡牛亭は、
従順に指示を受けて動いている。青の射手亭のように使えない連中
は、もっと早くに切り捨てるべきだったんだ⋮⋮ハハハッ⋮⋮!﹂
魅惑の芳香の支配下に置かれているのに、その本質は変わらず、
クライブはここにいない者たちに向けて嘲笑する。ロッテの殺気が
増すのを見て、俺は手を上げて制した。
グラディエイター
彼女の職業は﹃決闘士﹄である。姉を守るという目的のために闘
士となった彼女は、高い戦闘力を得るために、大人しそうな見た目
に反して、その内面は闘争本能で満ち満ちているのだ。
﹁この人が、全ての元凶ではないと分かっています。ですがディッ
ク様、もうこれ以上聞くに堪えません﹂
﹁俺も同じ気分ではあるが、中途半端が一番よくない。ロッテ、一
度下に降りて、ギルド員たちの様子を見てきてくれ﹂
﹁はい⋮⋮すみません。姉さまのこと、よろしくお願いします﹂
ロッテは階下に降りていく。残ったシェリーも気分は良くなさそ
534
うだが、この場に残ってくれた。
﹁妹は正義感が強いから、このまま聞かせていたら、本当に殺して
しまうかもしれない﹂
﹁心配するな、俺も同じ気持ちだ。ちゃんと後悔させてやるさ⋮⋮
クライブ、最後の質問だ。今挙げなかったギルドには、もう一人の
幹部が出向いてるってことか?﹂
﹁⋮⋮違う。幹部⋮⋮表向きは⋮⋮﹃あの方﹄⋮⋮ぐっ⋮⋮あぁぁ
ぁぁっ⋮⋮!﹂
急にクライブが頭を抱えて苦しみ始める。
どんな状況に置かれても、それだけは言ってはならないという戒
め︱︱もう一人の幹部が、クライブに自分の素性について口封じを
しているのだ。
いや、もう断定してもいいだろう。その幹部こそが、白の山羊亭
を腐敗させた原因だ。
クライブはもう一人の幹部に対して、﹃あの方﹄という呼称を使
った。それが意味することは、考えるまでもない。
﹁つまり⋮⋮もう一人の幹部は、表向きは実力を偽っている。クラ
イブを従わせて、白の山羊亭を実質上の支配下に置き、ギルド全て
を意のままに操ろうとしている﹂
﹁そういうことだろうな。魔道具の出所も、そいつだ﹂
﹁⋮⋮あまりにも無警戒すぎた。外部から来た高ランクの冒険者⋮
⋮それがトップギルドに入り込むのは、乗っ取りの危険をはらんで
いるのに﹂
535
シェリーは唇を噛んで悔しそうにするが、彼女の責任ではない。
白の山羊亭は、その幹部が入り込むまで、まっとうにトップギルド
の役割を果たしていたのだから。
だからこそ、シェリーも白の山羊亭の傘下を抜けず、仕事を振っ
てもらっていた。敵はその信頼関係に付け入り、一気にすべてを掌
握しようとした。
王都において、ギルドは大きな影響力を持っている。12のギル
ドに分かれているのは、一つのギルドに冒険者の力を結集させない
ためでもあった。アイリーンを正式に俺のギルドに登録できないの
もそのためだ。
しかし、長年のルールを破り、全てのギルドを支配下に置こうと
している者がいる。
それは俺の理想と正面からぶつかる。12のギルドがそれぞれの
役割を果たし、俺のギルドはあくまで目立たず、特殊な役割を果た
す︱︱その構造をせっかく構築したのに、他のギルドに干渉したが
るやつがトップギルドを動かすようになっては台無しだ。
﹁シェリー。他のギルドが危機に陥ったとき、俺のギルドで助ける
体制を作るっていうのは、傲慢だと思うか?﹂
﹁⋮⋮今日、あなたの強さを見る前だったら、少し思ったかもしれ
ない。でも、今は全く思わない。傲慢どころか、あなたが自分の力
を使わないでいたのが不思議に思える﹂
使ってはいた。ただ、目立たないようにして、本気を出さずにい
ただけなんだ︱︱なんて言えば、流石にシェリーはあきれるだろう。
536
それとも、心酔されるのだろうか。すでに彼女が俺を見る目は、
今までとは変わってしまっているのだから。
﹁これから赤の双子亭は、俺のギルドと協力体制を結ぶ。それでい
いか?﹂
﹁⋮⋮こちらこそ、お願いしたい。これからは白の山羊亭に頼らな
くても、自分たちだけで仕事をとれるようにする﹂
﹁それは難しい相談だ。オレたちのギルドに対する貴族や民衆の信
頼は未だに高い。弱いギルドふたつが手を結んだところで、何がで
きるっていうんです? シェリー様、悪いことは言わない。オレを
解放し、白の山羊亭にふたたび頭を垂れることです。これは、あな
たのことを思って⋮⋮うごっ!﹂
﹁もう、黙って﹂
妹に続いて、今度はシェリーが動いた。高く足を上げて落とす、
踵落とし︱︱彼女は強化されたままなので、衝撃が貫通して床にヒ
ビが入ってしまった。
﹁⋮⋮妹のことを言えない。やりすぎた⋮⋮ごめんなさい、勝手な
ことをして﹂
﹁いや、気にするな。そうか、シェリーの魔法だと言うことを聞か
せられるのはいいが、余計なことを言わないようにはできないんだ
な﹂
﹁⋮⋮ディック?﹂
俺は回収した二つの首輪のうち一つを、伸びているクライブの首
にかけてやる。
﹁狂犬もこれで大人しくなるだろう。あとはロッテに任せるとする
か﹂
537
﹁⋮⋮ディック、もしかしてすごく怒ってる? いつもと変わらな
いから、わからなかった﹂
﹁顔にあまり怒りが出ないんだ。ふだん、怒ることがないんでな﹂
そう言うとシェリーは、久しぶりに笑顔を見せてくれた。ずっと
緊張していた様子だったので、笑顔が見られると気分が落ち着く。
﹁さて⋮⋮レオニードさんのところにも行ってくるか﹂
﹁ディックが動きまわってるの、珍しい。もしかして、いつもそう
だった? たまに会っても飲んだくれてるだけだと思ってたけど⋮
⋮﹂
﹁その評価が正しい。俺が働いているなんて話は、広めないでくれ
ると助かる。というか、今動き回ってる俺は、ディックじゃなくて
﹃鉄仮面﹄だ﹂
﹁⋮⋮すごく蒸れそう。外してもいい?﹂
かぽ、と鉄仮面を外される。汗をかいているわけでもないので、
開放感を感じるだけだ。
﹁中身もちゃんとディックでよかった。よく働くディックと、酔っ
払いのディックは、同じ人﹂
﹁いや、同一人物だと困るんだが⋮⋮﹂
﹁めんどうだから、一緒でいい﹂
﹁お、おい⋮⋮そんなの着けて大丈夫か?﹂
何を思ったか、シェリーは俺から外した仮面をかぶってしまう。
﹁⋮⋮どう?﹂
﹁それなりにいい感じだな。まあ、シェリーが被るのはすすめない
けどな﹂
538
﹁⋮⋮それは残念。ぶかぶかだけど、着け心地はよかった﹂
何とも緊張感のない、平和なやりとりだ。気絶しているクライブ
を前にしてというのも、雰囲気としては微妙なところだが。
ともかく、赤の双子亭は銀の水瓶亭との連携体制を築くことにな
った。
次の一手は、どう動くか。クライブが﹃あの方﹄と呼ぶもう一人
の幹部を見つけ出し、支配されているギルドを解放する。
そのためには、やはり彼らの力を借りる必要がある。
おそらく俺の指名待ちをしているだろう騎士団長殿に、誠心誠意
を持って、今回の件への協力を依頼する。最初から最強の駒を繰り
出して万全を期す、それは今回の襲撃において第一に学ばされたこ
とだった。
539
第48話 勇者の師とギルド正常化作戦
クライブを赤の双子亭の拘留部屋に入れるところまで見届けてか
ら、俺は一度外に出てきた。
リーザに黒の獅子亭の動向を見に行ってもらっていたので、彼女
に持たせている連絡用の魔道具を使って呼んでみたところ、到着ま
で数分待つことになった。黒の獅子亭が襲撃されているなら駆け付
けるつもりだったが、これなら状況を聞くだけで大丈夫そうだ。レ
オニードさんも自宅で大いびきをかいて寝ているそうである。
俺のギルドの情報部員は常時連絡が取れるように、王都の中程度
の距離ならいつでも意志の疎通ができる魔道具を持っている。それ
らも全て、一つずつ俺が魔法を付与して作ったものである。
魔道具は、魔法が使える者ならば、作り方さえ知っていれば作れ
るのだ。魔法を永続的に付与するにもコツがあり、それを知らなけ
れば魔法の効果が数日で薄れてしまったりもするのだが。
︵クライブを従わせていたもう一人の幹部⋮⋮外から入り込んだ冒
険者。SSランクの冒険者を従わせる者は、それ以上の力を持って
いる︶
千年に一人と言われた力を持つ、﹃奇跡の子供たち﹄。俺たちが
戦った魔王、ヴェルレーヌ。
それ以外に、SSSランクの力を持っている人物を、俺は今まで
540
生きてきて一人しか知らない。俺に魔法を教えてくれた師匠だ。
俺は十三歳のとき、師匠の元を離れて魔王討伐に志願した。それ
から、一度も会っていない。
もともと自由に生き、諸国を放浪していた師匠は、俺のことなど
忘れて、今もどこかで気まぐれに弟子を取ったり、好きなことをや
って生きているだろう。
しかし、強化魔法でクライブの力を引き出し、従属の魔道具まで
自分で作ったのだとしたら︱︱そんなことができるのは、やはりあ
の人しか考えられない。
世界の各地に現れては、語り継がれるほどの善行を行うか、ある
いは忌み嫌われる邪悪として振る舞う﹃灰色の道化師﹄。
彼女が今この王都にいて、俺と敵対しているなどと考えたくはな
いし、あってほしくはない。しかし彼女の性格を考えると、不思議
ではないと思える。
︱︱私はディー君に殺してもらいたいと思ったから、育ててあげ
ようと思ったんだよ。
そんな冗談を笑って言う彼女は、子供のようで、ずっと追いつけ
ないほど大人のようで。最後まで何を考えているのかわからなかっ
た。
師匠の真意を知ることのないままに、俺は彼女の元を離れ、魔王
を討伐し、彼女の元には帰らなかった。
541
彼女が新たな弟子を作り、戯れに白の山羊亭に送り込んだのか。
それとも、彼女自身なのか。
俺が勝手に、自分の記憶と結びつけているだけで、強化魔法の使
い手は他にもいるのか。
だが、SSランクの冒険者を従わせる力を持つ者など、俺たちと
ヴェルレーヌ以外にそうそう現れるわけがない。
師匠だと断じることはできない。しかし誰が相手であったとして
も、戦いは避けられない。
ならば俺にできることは、持てる力の全てを尽くし、相手を封殺
することだけだ。
◆◇◆
考えているうちに、リーザが到着する。彼女は壊された門を見て
目を丸くしていた。
﹁こ、これ、ここだけ竜巻が起きて壊れちゃったみたいに見えます
けど、何があったんですか?﹂
﹁白の山羊亭の幹部に襲撃されたが、なんとか凌いだ。黒の獅子亭
は無事だったみたいだな﹂
﹁は、はい、何事もなかったです。あ、でもうろちょろしてる怪し
い人がいたので、黒の獅子亭の守衛の方に突き出しておきました﹂
敵はシェリーに首輪をつけて操り、彼女の男性を魅惑する能力を
利用しようと考えたのだろう。ロッテと二人合わせて支配下に置け
ば、赤の双子亭を掌中にできる。
542
黒の獅子亭については、敵は探りを入れるだけにとどまった。対
立しているギルドを潰すよりも、まず傘下のギルドを完全に従わせ
ることを優先したからだと考えられる。
﹁それにしてもマスター、今回はどうしたんですか? いつも、よ
そのギルドに干渉するのはルール違反だって言ってたじゃないです
か﹂
﹁今もそう思ってるが、例外はある。今回ばかりは、他のギルドの
内情を知る必要があるんだ﹂
﹁分かりました、マスターがそうおっしゃるなら。ではですね、サ
クヤさんたちから入ってきた情報をこちらで整理しておきましたの
で、お伝えしますね﹂
白の山羊亭の傘下に置かれた七つのギルドのうち、ここ最近で大
きな変化があったのは、紫の蠍亭、青の射手亭、緑の大蟹亭の三つ
だった。青の射手亭は獣人監禁の件で処罰され、既に活動を停止し
ているので、現状活動しているギルドでは二つとなる。
いずれも、白の山羊亭に振られた仕事の内容が表に出なくなり、
一般の依頼を受けることがなくなった。所属している冒険者が大量
脱退するという話もあったようだが、どういったわけかうやむやに
なり、それ以降の情報が出てきていない。 ﹁一般の依頼を受けることがなくなった時点で、それを生業にして
いた冒険者の人たちは抜けるはずです。でも、そうはならなかった。
おそらく、ギルドマスターや幹部からの圧力があったってことです
よね⋮⋮そんな状況なら、末端の人たちから内情が漏れてもおかし
くないんですけど、すごくガードが堅いんです。緘口令を敷くなり
して、情報統制を行ってるとしか思えないですね﹂
﹁そうか⋮⋮それらのギルドは、完全に白の山羊亭の操り人形にな
543
ってたってことだな﹂
﹁はい。サクヤさんも言ってましたが、うかつに近づくと戦うしか
ないくらい、殺気立った感じになっちゃってます。紫の蠍亭も、少
し前までは最低限の話は通じる組織だったのに、今はぜんぜんだめ
ですね﹂
前にアイリーンが紫の蠍亭と交戦したときは、彼らはギルドとし
て依頼を遂行しているだけだという考えもあった。
しかし、そうでなかったとしたら。紫の蠍亭だけでなく、緑の大
蟹亭も、まっとうな冒険者ギルドであることをあきらめ、法を犯す
仕事に手を染めるようになっていった︱︱それは白の山羊亭に干渉
されてからか、それとも、その前からなのか。現状ではどちらとも
言えない。
﹁このまま普通じゃない状態のギルドを放っておくのは、私個人と
しても、すごく危険なんじゃないかと思います。マスター、どうす
ればいいんでしょうか﹂
﹁ここから先は俺に任せておいてくれ﹂
﹁ほ、本当にですか⋮⋮? 白の山羊亭と、様子がおかしいギルド
を、一気に何とかしちゃうんですか? マスターならできるとは思
いますけど、その、言い方は悪いですけど、そんな大きなことを進
んでするのって、マスターらしくないっていうか⋮⋮﹂
﹁俺も自分でそう思ってるけどな。俺がこれまで通りに隠棲するに
は、然るべき環境作りが必要なんだ﹂
リーザは最初、ぽかんとしていたが、しばらくしてくすっと笑う。
﹁ふふっ⋮⋮安心しました。そういうことなら、すごくマスターら
しいです﹂
544
﹁リーザ、できればサクヤさんと合流して、しばらく固まって行動
してくれ。一番怖いのは、敵が個々のギルド員を狙ってくることだ
からな﹂
﹁はい、分かりました。私たち情報部員が安全確保を徹底したら、
そうそう捕まったり、危ない目に遭ったりはしませんから。また状
況が落ち着いたら知らせてください﹂
﹁ああ。今は武闘派の出番ってことで、よろしく頼む﹂
リーザは頷いて、夜の闇に消えていく。彼女のことだ、身を守れ
と命じれば、それを遂行することに徹するだろう︱︱サクヤさんや、
他の情報部員も同じだ。
あとは、3つのギルドを同時に制圧するために、どのようにメン
バーを割り振るかを決めなければならない。相手にするギルドごと
に、適任者は変わってくる。
俺は白の山羊亭のもう一人の幹部を見つけ出す。魔王討伐隊の仲
間でも、無傷では済まない相手かもしれない︱︱ならば、俺が直接
相手をする。
相手が誰であろうが、手加減抜きで迅速にことを終わらせる。赤
の双子亭で傷ついたギルド員たちのように、誰かが苦しむところを
もう見たくはない。
◆◇◆
翌日の朝、俺は魔法大学の近くにある訓練場に、魔王討伐隊の面
々を集めた。
545
﹁ディック、あたしはどこに行けばいい? 一番危なそうな紫の蠍
亭に行ったほうがいいのかな﹂
﹁アイリーンなら大丈夫だとは思うが、紫の蠍亭は毒を使うやつが
多い。格闘よりは、距離を取って戦った方がよさそうだ﹂
﹁わかった、僕が行こう。彼らの仕事の対象が、騎士団の人間だっ
たということがあってね。一度、挨拶をしておきたかったんだ﹂
暗殺か、それとも誘拐か︱︱冒険者の仕事ではないそれらを生業
としてしまった、いわば闇のギルド。そこに乗り込むのが光剣の勇
者というのは、因果なものだ。
﹁ユマは﹃緑の大蟹亭﹄に行ってくれるか。このギルドにはゴーレ
ム使いがいるが、ユマの力があれば無力化できる。アイリーンに護
衛をしてもらえば、近づかれることもないだろう﹂
﹁はい、わかりました。ゴーレムさんは、精霊さまや、人の魂を宿
して動くものですからね。お役に立つことができて光栄です﹂
﹁よーし、ユマちゃんのことはあたしが絶対守ってあげるから! もし鬼神化しても、すぐ鎮めてもらえるしね。あれって、しばらく
放っておくと色々大変なんだよね∼⋮⋮﹂
鬼神化の副作用は、破壊衝動以外にもいろいろとあるらしい。ア
イリーンが言いたがらないので、教えてもらってはいないのだが。
﹁それじゃ、私とディックで、白の山羊亭ということになるのかし
ら⋮⋮一番の強敵だものね。私たち二人なら、相手にならないでし
ょうけれど﹂
﹁そうだといいがな。状況から見ると、白の山羊亭には、SSSラ
ンクの敵がいる可能性がある﹂
546
そう言うと、皆に緊張が走る︱︱しかし、コーディ、アイリーン、
ミラルカの武闘派三人の瞳には、すぐに並々ならぬ闘志が宿る。
﹁ディック、僕も自分の仕事を終えたらすぐに駆け付けるよ﹂
﹁ヴェルレーヌさんと戦ったときみたいに、フルパーティで戦えば
絶対負けないしね。ちょっと卑怯かもだけど、それがあたしたち﹃
魔王討伐隊﹄だし﹂
﹁どんな能力を持っているのか、興味はあるわね。一瞬で終わらな
いといいのだけど﹂
まったく、頼りがいがあることこの上ない。クライブがこの三人
を前にしたら、俺なんかが世間の広さを教えるよりも、何倍も良い
教育になったことだろう。
﹁それと、ディック。今回の件が終わったら、ここで僕と鍛錬をし
てくれると嬉しい。本当は、今日もそれで呼んでくれたんだと思っ
て、準備もしてきたんだよ﹂
﹁わ、悪い。できるだけ早いうちに、時間を作るよ﹂
﹁うん、分かった。ここまで念を押しておけば大丈夫かな。忘れら
れると寂しいからね﹂
コーディは気持ちを切り替え、練習用の剣ではなく、実戦用の長
剣を持ち出す。﹃光剣﹄を剣として使う場面は、今回の作戦ではそ
うそう訪れないということだ。
そして全員で揃って仮面を取り出す。俺一人だけが、顔をすっぽ
り覆う鉄仮面を取り出すと、なぜか全員から注視される。
﹁⋮⋮その仮面の方が、デザインがいいわね。次からは私もそれに
するわ﹂
547
﹁もー、ディックったら。そうやって、一人だけ抜け駆けするんだ
から﹂
﹁本当だね。このほうが正体を完全に隠せるし、僕の分も作っても
らおうかな﹂
﹁ディックさん、とってもお似合いです♪ ますます正義の味方と
いう感じがします﹂
﹁い、いや⋮⋮いつも同じ仮面だと、特定されるかと思っただけな
んだがな﹂
この四人の一体感は何なのか︱︱元から仲は良かったのだが、ま
すます良くなったように思える。
俺たちのパーティは、魔王討伐の旅をした時から全く変わってい
ない。仮面の救い手を名乗るようになってから、それを実感させら
れる機会が増えていた。楽しいと言っては不謹慎だが、全員が同じ
方向を向いてくれていることを、とても有り難く思う。
白の山羊亭を狂わせた存在と対峙する時は、そう遠くはない。そ
の時を待ち望みながら、俺は皆と共に訓練場から出て、散開してそ
れぞれの作戦行動を開始した。
548
第49話 紫の蠍亭と光剣の勇者
コーディはディックたちと別れたあと、単独で5番通りにある紫
の蠍亭に向かった。
銀の水瓶亭のある12番通りと比べれば、それほど治安は悪くな
い場所のはずが、12のギルドの中で最も所属する人間の性質が悪
に寄っているというのは、コーディには疑問に感じられる。
しかし、紫の蠍亭の所在地を実際に尋ねてみて、その認識は大き
く変わった。住宅の集まる街区にあるのだが、建物はカムフラージ
ュのために民家を装っており、地下に本部を置いているのだ。
︵やましいことがなければ、地下ギルドなんて在り方はとらないは
ずだ。初めから、ギルドマスターの中にも闇を抱えている人物がい
たということかな︶
コーディの目的は、首輪によって操られているギルドマスターを
解放することである。
紫の蠍亭に所属する最高ランクの冒険者はSランクで、その程度
の相手ならば、コーディは無傷で全員を戦闘不能にできる。
しかしギルドマスターの元に辿り着くまでに、できるだけ発見さ
れないほうが良い。コーディは正面から突入して制圧してしまいた
いという気持ちを抑え、建物の裏に回った。
敷地内には番をしている獣がいて、裏に回ろうとするコーディの
549
眼前に飛び出してくる。紫の蠍亭もさるもので、犬ではなく狼を調
教して番をさせていた。
︵犬は好きだけど、狼も⋮⋮いや、ちょっと怖いかな︶
﹁ガルルルッ!﹂
﹁ギャォォッ!﹂
二匹の巨躯の狼は、飢えた野獣そのものという形相で、開いた顎
からよだれをまき散らしながらコーディに飛びかかろうとする。そ
の出鼻をくじくように、コーディは右手をかざし、高速詠唱を行っ
て光の剣精を呼び出した。
フラッシュ・ヴェール
︱︱明滅の幕︱︱
﹁キャゥンッ!﹂
目の前で光が瞬き、狼たちは面食らい、地面に倒れてのたうち回
る。コーディは続けて、剣精によってもたらされる魔力剣の中から、
狼を殺さずに無力化できるものを選択し、その力を解放した。
ハーモニクス
︱︱魔力剣解放・鈴鳴︱︱
音叉のような形状の魔力剣を召喚し、生物を眠りに就かせる音を
放つ。ディックがいれば必要のない技だったが、コーディは彼の万
能性に少しでも追随するべく、魔力剣の研究を重ねていた。
起き上がろうとした狼たちが、その場に座り込んで横になり、動
かなくなる。毛並みのいい腹を見せて横たわる狼たちを見て、コー
ディは微笑した。
550
﹁そういう姿は可愛いものだね。どんな動物でも﹂
コーディは続けて、建物内にいる人間も眠らせられないかと試み
るが、音が壁に遮断されていた。音の魔力剣の性質を確かめつつ、
裏口の扉に罠がかかっていないことを確認すると、コーディは扉の
隙間に﹃光剣﹄を差し入れ、音もなく錠前を切断する。
ドアを少しでも開けてしまえば、コーディは剣精によって制御さ
れた光を屋内に投射し、その反射によって、内部の構造を把握する
ことができる。
︵この方法が使えなかったら、ディックと旅をするなんて危なっか
しくてできなかったな︶
宿で着替えているときに出くわすなどの事故が起きなかったのは、
コーディが常に宿の中でのディックの位置を把握していたからだっ
た。申し訳ないと思いつつも、当時のコーディはどうしてもディッ
クに正体を知られるわけにはいかなかったのだ。
ディックは最初は不愛想で、何を考えているか分からないように
見えた。コーディは自分に近い実力の男性と接したことがなく、必
要以上に警戒していたのだが、そのことを今では反省している。
一緒に旅をして分かったことは、ディックが信じられないほどに
女性に優しいということだった。他の三人がどんな我儘を言っても、
気が進まないようなそぶりをしつつも全て受け入れてしまう。そん
な彼を見ていると、コーディは男性は信用できないと思ったこと自
体を撤回したいという気持ちになる。
551
︵僕はうわついてるのかな。本当のことを知られて、やっと隠さな
くて良くなったって、安心しているのか。自分勝手で嫌になる︶
ディックと訓練がしたいと誘ったのは、友人だからだ。しかし、
絶対に約束を守ってもらわなければならないわけでもない。
それでも念を押したのはなぜなのか。考えれば考えるほど、コー
ディはやはり正体を知られるべきじゃなかった、いつから気づかれ
ていたんだろう、一度問い詰めた方がいいのだろうか、と考えるこ
とをやめられなくなる。
頭を切り替え、コーディは建物の中に侵入する。裏口から入ると
そこは台所だったが、食料の備蓄などは置いていない。外面だけ普
通の家のように見せているだけで、中は生活感などなく、饐えたカ
ビの匂いがするほどだった。おそらく、外部からの来訪者に応対す
る場所だけは整えてあるのだろうとコーディは推察する。
カビの匂いに耐えかねて、口元を覆うことのできるディックの鉄
仮面を羨ましく思いながら、コーディは手巾を取り出して口元を覆
うように巻く。まるで自分が盗賊になったようだと苦笑しながら、
通路からこちらにやってきた男を物陰でやり過ごし、背中を見せた
ところで後ろから組み付き、腕を決める。 ﹁ぐっ⋮⋮!﹂
﹁動かないでもらえると助かるな。外の狼の様子を見に行くところ
だったのかな? あの二匹には、外で寝てもらっているよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
完全に腕を極められていると理解すると、男は抵抗を諦める。コ
ーディはその腰に帯びている、毒を塗った短刀を引き抜き、放り投
552
げ、﹃光剣﹄で射抜いて破壊する。
﹁⋮⋮!?﹂
男は驚愕するが、声が出ていない。光の速さを視認することなど
できず、放り投げられた武器が焼かれたところだけが見えただろう
ライトイレイサー
︱︱コーディの﹃光剣﹄を応用して放つ光線には、熱エネルギーを
持たせることができる。それを﹃光熱線﹄と呼び、金属でもバター
のように切り裂き、照射した物体を燃やすことができる。
床に落ちた、元短剣だったものは、溶解して原型をとどめていな
かった。荒事に慣れているはずの男が怯え、膝ががくがくと震えて
いる。
﹁武器に塗布する毒は、王都の外で害獣を駆除する目的以外では使
用不可とされている。何か申し開きはあるかい?﹂
﹁⋮⋮がぁぁぁぁっ!﹂
最後の意地か、男が暴れ、コーディの拘束を逃れようとする︱︱
しかしコーディはそれを抑え込み、仕方なく男の肩を外した。
苦鳴の声を上げる前に、コーディはディックに昔教わった通りに、
首元を狙って手刀を入れる。狙い通りに、男はその場に倒れこんだ。
︵やはり僕は、潜入任務には向いてないみたいだ⋮⋮ディックほど
スマートにできない︶
﹁おいっ、何があった⋮⋮ぐぁっ!﹂
静かにことを終わらせるつもりが、敵が集まってきてしまう。コ
553
ーディはやってきた敵に﹃明滅の幕﹄を浴びせたあと、狼たちと同
じように﹃鈴鳴﹄を使って無力化する。
昏倒した三人のうち一人の頬を叩いて起こし、地下に降りるため
の入り口を聞き出す。一階の廊下にある蠍の彫像を操作すればいい
︱︱そこまで聞き出したところで、コーディはもう一度手刀を放ち、
再び失神させる。
所属するギルド員が毒の短刀を所持していて、使い込まれた形跡
があった。つまり、このギルドは殺人者の集団であると断じてもい
い状況だった。
しかし、騎士団長にあるまじきことだとコーディは自分で思うが、
どんな凶悪な相手であってもあまりに弱すぎると、手加減してあし
らうだけでも弱いものいじめをしているように感じてしまう。
︵ディックがギルドを作った理由のひとつは、こういうことだった
んだろうか︶
コーディも部下を率いるようになって、自分で戦う機会が減った。
それを退屈だと思っていたが、いかに恵まれたことだったのかとい
う思いが生まれる。
地下に降りるために、コーディは廊下の壁に埋め込まれていた蠍
の彫像の毒針の部分を回転させる。すると、廊下の壁の一部が左右
に分かれて開いていき、階下に降りる階段が出現した。
階段を下りてからも何人か敵が出てきたので、コーディはそこで
初めて剣を抜いた。魔力剣ですらないただの剣で、純粋な剣技だけ
で敵を撃退していく。鎖鎌、山刀、機械弓、吹き矢︱︱様々な武器
554
オートカウンター
を持っている輩が出てきたが、コーディは剣精に﹃自動反撃﹄を命
じ、投射攻撃を光線で撃墜させることで、自らは近接戦闘に徹して
一人ずつ相手を排除していく。
︵一階にいた敵もそうだったが、みんな戦闘の際に話さないな⋮⋮
暗殺者の集団というとこんなものか︶
無言で急所を狙って攻撃してくる敵たちに辟易しながらも、コー
ディは二十人近い敵を倒しきる。そして、最後の部屋まで辿り着い
た。 地上からすでに空気が淀んでいたが、地下に入ってからはますま
す瘴気が濃くなっている。最後の部屋にギルドマスターがいるのか、
それとも︱︱コーディは気を緩めず、扉を開くための仕掛けを動か
した。
歯車仕掛けの重い鉄扉が、左右に開いていく。そして入室したコ
ーディのすぐ背後に、天井から降りてきた何者かが降り立ち、すか
さず凶刃を振るおうとする。
﹁︱︱死ね﹂
かぎつめ
他に何の感情も混じっていない、純粋な殺意。コーディの背中に
向けて振るわれたのは、毒を塗った鉤爪だった。
しかし切り付けられたはずのコーディの姿が歪み、かき消える。
そして薄暗い部屋の中、コーディの姿が三つに増えた。
︱︱幻影。しかしただの幻影魔法で発生させる幻影よりも遥かに
精細に結像している。光を自在に操ることのできるコーディには、
555
相手の視界に入る光を操り、自分の像を増やすなどわけもないこと
だった。
濃い紫のぼろぼろの外套をまとい、顔も含めた全身に包帯を巻い
た凶手︱︱それが、紫の蠍亭のギルドマスターの姿だった。コーデ
ィはその首に嵌められた首輪を認める。
クライブ・ガーランドとの交戦で負った傷を、彼は治療していな
かったのだ。それがどのような経緯によるものかは分からないが、
コーディは哀れみを覚えていた。
﹁辛かっただろう。もう、そんなにぼろぼろになってまで戦う必要
はないんだ﹂
﹁︱︱シャァァァァッ!﹂
れっぱく
その説得を聞き入れず、ギルドマスターはコーディの声が聞こえ
た方角に、裂帛の一撃を繰り出す︱︱前傾し、地面すれすれの高さ
で駆け込み、両の爪を振り上げる。
ライトミラージュ
しかしそれで本体を切りつけられるほど、コーディの光幻影は甘
いものではなかった。
敵の眼球に入り込む光を操る︱︱視界を支配するということは、
方向感覚も完全に狂わせることができるということだ。音が聞こえ
る方角を狙っても、正反対の方向に攻撃してしまう。
むなしく鉤爪は空を切り、その瞬間に爪は根元から断ち割られる。
そして、ギルドマスターの意志を奪っていた首輪も同時に切断され
ていた。
556
コーディが一瞬だけ﹃光剣﹄を召喚し、振るったのだ︱︱自ら挑
んできたギルドマスターに敬意を表するために。
﹁今はおやすみ。目覚めたら、君のしてきたことは償ってもらうけ
れど﹂
コーディが最後に選んだ魔力剣は﹃鈴鳴﹄だった。
ギルドマスターは音を防ぐ装備をつけていない︱︱暗殺を生業と
しているならば音などへの対抗措置も考えられるはずだが、首輪で
操られていることで、本来の知識を使うこともできなくなっている。
コーディはそう判断していた。
首輪と一緒に切られたギルドタグが落ちている。コーディはそれ
を拾い上げ、﹃マスターシーフ﹄と書かれたその職業欄を見て、か
つては彼も、冒険者として役割をこなし、実績を積んでマスターと
なったのだということを確かめる。
シーフはその能力から﹃盗賊﹄と呼ばれるが、冒険者のシーフは
﹃賊﹄ではない。しかし鍵を外す技術、隠密行動を得意とするとい
う性質から、暗殺者や盗人に身を落としてしまうことも多い。
実際にそうなってしまったこのギルドマスターを見て、コーディ
は思う。冒険者ギルドは、その本分である﹃冒険﹄を、常に続けな
くてはならない。我欲のために金で他人の力を借りる、そういった
依頼を受けるための存在になってしまってはならないのだと。
ディックはこの考えを理解してくれるだろうか。彼ならきっと、
耳を傾けてくれるはずだ︱︱そう信じて、コーディは切断した首輪
を拾い、紫の蠍亭を後にした。
557
そして、もう一つ彼に頼んでみたいことを思いつく。
魔王討伐の旅ではない、﹃冒険者らしい冒険﹄を、一度ディック
たちと一緒にしてみたい。SSSランクの冒険者と認められながら、
純粋に冒険者らしいことをしたことがないと気が付いたからだ。騎
士団長である自分がその時間を取るには、まとまった休暇を取らな
ければならないが。
︱︱しかし、その時。
﹁⋮⋮っ!﹂
コーディはディックに貰った連絡用の魔道具︱︱魔石のピアスか
ら、ディックとミラルカが交戦していることを感じ取った。
信じがたいことに、二人が相手を圧倒することができていない︱
︱互角の戦いをしている様子が伝わってくる。
コーディは紫の蠍亭の後処理を銀の水瓶亭のギルド員、そして騎
士団の部下たちに任せることにして、ディックたちの元に急いだ。
1番通りにある、王都最大のギルドの本部へと。
558
第50話 鬼神と聖女、そして可憐なる災厄
王都の8番通りにある緑の大蟹亭は、命なきものを操る﹃人形使
クリエイトゴーレム
い﹄が多く所属するギルドである。
クリエイトパペット
﹃人形創製﹄﹃巨人創製﹄という魔法で、精霊や浮遊霊を無機物
に宿すことでさまざまな素材から意のままに操作できる人形を作る
ことができるのだが、ユマの鎮魂の力は浮遊霊だけでなく精霊の魂
にすら干渉できるため、彼女がいるだけで完全に封じ込められてし
まった。
地面の土塊を材料としてゴーレムを召喚するため、広い敷地を持
つ緑の大蟹亭だったが、防衛の際に主力となるゴーレムが機能しな
いことで、アイリーンとユマは何ら苦労なく警備を突破してギルド
マスターの元にまでたどり着くことができた。他のギルド員の実力
は最高でもAランクで、アイリーンを足止めできるような者は一人
もいなかった。
ギルド本部の最上階に辿り着き、待ち受けていたギルドマスター
が戦闘態勢に入るなり、アイリーンは容赦なく瞬時に移動して背後
を取り、加減した一撃で昏倒させる。
﹁ぐっ⋮⋮な、何者⋮⋮﹂
﹁ごめんね、起きた時には全部終わってるから。えーと、首輪って
これかな?﹂
ギルドマスターは精霊使い︵シャーマン︶の女性で、肌の露出の
多い民族衣装を身に着けている。アイリーンはディックには目に毒
559
だと思いながら、彼女の首輪を外し、近くにあった外套をかけてお
いた。
﹁アイリーンさん、大丈夫でしたか? あ⋮⋮無事にすんだみたい
ですね。わぁ、色んな人形がいっぱい⋮⋮﹂
後から入って来たユマは、部屋の中の人形を見て、その数に感嘆
する。それらを操ることもできるのだろうとアイリーンは推測する
が、今回は一つたりとも動くことなく、棚の中に整然と並べられた
ままだ。
﹁ユマちゃんはこのギルドにとっては天敵だったみたいだね。考え
てみたら、魔王討伐の旅をしてるときも、ゴーレムとかって全然出
てこなかったもんね﹂
﹁魔王軍の方々は、精霊ではなく、魔族や人、動物の霊などを使っ
てゴーレムを作ると言いますから、私は敵の方々がいるところに入
るときは、常に周囲を浄化してさしあげるようにしていたのです﹂
﹁それやっても全然疲れないのが、ほんとすごいよね。あたしから
見ると、浄化の力? が、常に広がってるように見えるんだけど⋮
⋮近くにいるだけで落ち着くよね﹂
﹁討伐隊の皆さんには見えるようですが、私自身は、これが自然な
ので⋮⋮﹂
潜在的な魔力だけを見れば、ユマは討伐隊の中でも最高の容量を
持っている。しかし彼女はそれを鎮魂にしか使わないので、戦闘評
価などが加算されていないのである。
鎮魂能力だけでSSSランクと認められることが、どれだけ常識
はずれなことであるかとアイリーンは思う。本人には魔力を他のこ
とに応用したりという考えが全くない。物理的な戦闘能力、汎用性
560
のある魔法を捨てることで、鎮魂に特化しているという考えもある
ので、ディックはいつも、﹁ユマはそのままで、彼女なりの完成系
なんだ﹂と言っていた。
﹁うーん、やっぱりユマちゃんがいてくれて良かった。魔王討伐隊
の癒し担当だしね。どれだけ殺伐とした戦いのあとでも、ユマちゃ
んがいるとほっこりするし﹂
﹁そう言っていただけるとうれしいです、司祭のつとめは、皆さん
の心を安らげることですから。そしていつか、みなさんで手を取り
合って神の国へ⋮⋮﹂
﹁ユマちゃんは、とりあえずディックに神の国を見せてあげて。あ
の人、好奇心が旺盛だから﹂
﹁い、いえ⋮⋮そうしたい気持ちはやまやまなのですが、肉体から
魂が離れすぎると、この地上で触れることができなくなってしまう
というか、昇天⋮⋮してしまいますので⋮⋮﹂
仮面をつけたままでもじもじとしているユマを見ていると、アイ
リーンはいつも心配になる。
昔はアイリーンも世俗のことに興味がなく、父と武闘の修行ばか
りに励んでいたのだが、王都に住み始めてからアイリーンの耳には、
男女の関係についての知識がいろいろと入ってくるようになった。
︵ユマちゃんは天然なところがあるからわかってないけど、ディッ
クはよくがまんできるよね⋮⋮男の人はむらむらを鎮めてあげると
大人しくなるとか、昇天させてさしあげるとか、それって歓楽街に
つとめてるお姉さんたちもよく冗談で言ってるんだけど⋮⋮︶
﹁アイリーンさん、何かお悩みごとですか?﹂
﹁ひゃぅっ⋮⋮ち、違うよ? あたしはただ、ディックはよく我慢
561
できるなーって⋮⋮じゃなくて、ちょっと考え事してただけってい
うか⋮⋮﹂
﹁アイリーンさんの魂から、桃色の波動が⋮⋮これは鬼神の力と、
人間の魂の力が混ざっているのでしょうか⋮⋮いえ、これは、魂の
中にある欲求が漏れているみたいですね﹂
﹁そ、それはだめぇ! あたしは別に、昇天させたいとか思ってな
いから!﹂
アイリーンはユマに駆け寄り、その口に手を当ててふさぐ。息が
苦しくない程度で、ユマはそのままでも話続けられたが、微笑んで
頷く。
﹁はい、アイリーンさんのお気持ちは、私の胸にとどめておきます。
昇天はまだ早いですからね、私たちには﹂
﹁あ、あはは⋮⋮はぁ∼、あたしたちってなんなんだろうね。こう
やって別行動しててもディックディックって、どれだけディックに
依存しちゃってるんだろう﹂
﹁そんなこともありませんよ?﹂
﹁えっ⋮⋮そ、そうなの? ユマちゃんは、ディックから自立でき
てるの?﹂
アイリーンは意外に感じて問いただす。ユマは倒れているギルド
マスターの首輪を広い、それをぎゅっと握りしめる︱︱彼女の浄化
の力は、魔道具に残っていた魔力の残滓すら消し去り、刻まれてい
た魔法文字が消えていく。
﹁私は数ヶ月、ディックさんに会わなくてもがまんできました。そ
れは、王都の中でディックさんが元気でいらっしゃるのを感じてい
たからです。会わなくても大丈夫ですから、ちゃんと自立していま
す﹂
562
﹁⋮⋮そっか。でもそれって、ディックがこの王都から離れちゃっ
ても分かるってことだよね﹂
﹁そ、それは⋮⋮大丈夫です、私たちが王都の外で救い手の仕事を
していても、ときどきディックさんは様子を見にきてくれています
し⋮⋮﹂
﹁えっ、そうだったの? まったく、外に出るの面倒みたいな顔し
て、ほんとは全然違うよね。世話焼きで、料理が上手で、何をお願
いしても断らなくて﹂
﹁そんな方ですから、なかなかお会いする約束ができないのがつら
いところですね。酒場に出かけられるようになって良かったです、
お父様とお母様が許してくれたので﹂
アイリーンはユマの言葉から、彼女もディックに会いたいのだ、
ということを感じ取る。
自覚がないだけで、ユマもまた、ディックを中心に動いている。
魔王討伐隊を組んでいたときから、まるで変わっていない︱︱そう
思うとアイリーンの胸は温かくなる。
﹁ミラルカを優先してあげようと思ってたけど、私たちだって若い
んだし、遠慮ばかりしてちゃだめだよね﹂
﹁⋮⋮? 遠慮とは、何についてでしょうか?﹂
﹁ううん、なんでもない⋮⋮﹂
何気なく答えたところで、アイリーンは耳につけた魔道具のピア
スから、ディックとミラルカが交戦を始めたことを感じ取る。
﹁っ⋮⋮ディックさんが、緊張しています。うかがっていた通り、
白の山羊亭というギルドには、私たちと同じランクの方が⋮⋮﹂
﹁うん、急いで行かないと。えっと、他にここですることってあっ
たかな?﹂
563
﹁あとのことは、ディックさんのギルドにお任せして良いとのこと
です。私たちは、急いで1番通りに向かいましょう﹂
﹁ユマちゃん、おんぶがいい? それとも抱っこ?﹂
﹁え、えっと⋮⋮おんぶでお願いしますっ﹂
アイリーンはユマを背負うと、窓を開けて跳躍し、外に飛び出し
ていく。彼女の跳躍力を持ってすれば、隣の通りの建物の上まで飛
び移ることは不可能ではなかった。
﹁ディック、あたしの分も残しておいてよねっ!﹂
﹁あ、あいかわらずすごいです、アイリーンさん⋮⋮っ﹂
ユマはアイリーンに必死にしがみつくが、本当はその必要はない
と分かっていた。アイリーンの背中の安定感は、他のどんな乗り物
よりも安定しているのではないかと思うほどだったからだ。
︱︱そして時間は数刻前、ディックとミラルカが白の山羊亭に到
着したところまで遡る。
◆◇◆
1番通りにある白の山羊亭は、八つのギルドを統括するだけあっ
て、最大の規模を持っている。敷地だけなら、魔法大学にも匹敵し
ていると言えるだろう。
ハイディング
﹃隠密﹄は複数人でも効果があるので、俺は正門を通らずに敷地
内に入った。ミラルカも慣れたもので、俺の魔法の効果を信用して、
見張りの視界に入るところでも大胆に進んでいく。
敷地内には樹木の数はまばらではあるが、林があり、そこを抜け
564
て行けばギルド本部の近くまで出られる。
﹁ディックの﹃隠密﹄は、会話をしても敵に聞こえなくなるのよね
⋮⋮既存の魔法を改造する技術は、いつもながら大したものね﹂
﹁ミラルカが褒めてくれるのは珍しいな﹂
﹁評価するべき点は、素直に評価するわ。そこで意地を張るのは無
意味だから﹂
そのきっぱりとしたところも、教授といて生徒に慕われる理由に
なりそうだ。頑張れば褒めてくれる、そういう先生のもとで学ぶの
は良いことだと思う。
﹁敵を全員敷地から追い出して、ミラルカ先生の殲滅魔法を使うっ
ていうのが、最も分かりやすい攻略法なんだがな﹂
﹁王都の中でそんな破壊魔みたいなことをしたら、たとえばれなく
ても後ろめたいわ。私は誰に対しても、胸を張れる生き方をしてい
きたいの﹂
﹁全くもって同意するよ⋮⋮待て、ミラルカ﹂
︱︱どうやら敵に見つかったらしい。それをありえないことだと
は思っていなかった。
俺の﹃隠密﹄がかかっている状態では、Sランク以下の敵であれ
ば、攻撃されるまで気づかない。
しかしSランクの敵が何らかの方法で戦闘評価を上げ、SSラン
ク相当の力を手に入れていたら話は別になる。もしくは、俺と同等
のランクの人物が俺たちの侵入を察知する方法を持ち、それを部下
に伝えることが可能ならば、初めから隠密行動など不可能というこ
とになる。
565
﹁林を抜ければ気づかれないとでも思ったか⋮⋮馬鹿めっ!﹂
ギルド本部の周囲で警戒していたのは、男女二名ずつの冒険者だ
った。男性二人が前衛で、全員の力がSランク相当︱︱さすがに、
クライブと同等の力を持つ者を強化魔法で量産するとまではいかな
かったらしい。
地力に合わせて、強化の限度は変わってくる。AランクならばS
ランクまで引き上げられる︱︱俺の強化魔法は抑制された状態では、
3000までしか戦闘評価を上げられない。
しかし敵がかけられている強化は、それ以上の補正がかかってい
るように見える。
︵やはり、あの人しかいない⋮⋮こんな実力者が何人もいるなんて
思いたくはないが⋮⋮︶
だが、もし俺の知らないSSSランク冒険者がいて、この先に待
ち受けているとしたら。それを俺は厄介だとは思うものの、同時に
﹃欲しい﹄と思ってしまう。
﹁ここをどこだと思っている⋮⋮白の山羊亭に土足で入り込んで、
無事で済むと思うなッ!﹂
ブレイカー
三十台ほどの、中年の男︱︱筋肉質な﹃槌闘士﹄が、林を駆け抜
けて俺に肉薄してくる。
︵魔法の武器を使っているのか⋮⋮これは﹃分解﹄するには手間だ
な。ならば⋮⋮!︶
566
﹁︱︱おぉぉぉぉっ!﹂
ポールハンマー
ボーンクラッシュ
槌闘士は長柄槌を振りかざし、柄がしなって見えるほどの勢いで
叩きつけに来る。﹃骨砕き﹄という技で、打撃による骨折を狙って
いる。槌闘士の戦い方の基礎といえるが、俺の個人的な考え方では、
単純にしてえげつない戦法だと感じている。
しかしそれは当たればの話だ。武器で受けるまでもないと判断し、
体術のみで避ける。
重量のある武器ゆえに、隙が大きい。初撃を外したあとのリカバ
リーを考えていないのなら、これで終わりだ︱︱と思うところだが。
俺は隙だらけの敵に打撃をあえて撃ち込まなかった。距離を取り、
剣を抜いて﹃斬撃強化︵スピリット・ブレード﹄を発動させる。
﹁素直に釣られていればいいものを⋮⋮くっ!﹂
スピリット
﹁︱︱ネタばらしはまだ早いだろ。借り物の力に頼りすぎるのは良
くないな﹂
・リフレクト
強化魔法には、一度だけ物理攻撃を反射するものがある。﹃物理
反射﹄︱︱他人に付与する強化魔法は、種類によっては重複させる
ことができるのである。俺はそれを破るべく、魔力で強化したコイ
ンを飛ばして発動させた。跳ね返って来たコインは受け止めておく。
︵師匠⋮⋮あんたなのか。あんたは俺になんて拘っていなかったは
ずだ⋮⋮なのに⋮⋮︶
﹁︱︱借り物の力で何が悪いッ! あの方の邪魔をさせてなるもの
567
かっ!﹂
師匠は簡単に人の心を掴み、掌握してしまう。初めて俺に出会っ
たとき、そうしようとしたように。
けれど彼女はいつでも気まぐれで、善悪というものに囚われるこ
とを拒み、いつでも自分がしたいように振る舞った。
﹃ディー君の優しさを私は尊敬するけど、同時に、ぐちゃぐちゃ
に踏みにじりたくなる。たまらなく好きで、壊したいほど嫌いでも
ある﹄
頭の中に彼女の言葉が蘇る。
俺は、師匠の元に一度でも帰るべきだったのか。でもそうすれば、
目の前にいる彼らのように、自分を見失っていたかもしれない。
﹁︱︱ディック、気が抜けているわよ。私がやってあげるから、立
て直しなさい﹂
︱︱﹃広域殲滅型十式・地裂岩砕陣﹄︱︱
﹁なっ⋮⋮!?﹂
再度俺を狙って攻撃しようとした男、遠くから攻撃魔法を放とう
としていた女、木陰から俺たちに短刀を投擲しようとしていた男︱
︱残り一人の女は回復役か。
前衛後衛の距離に関係なく、ミラルカの足元から展開した魔法陣
が一気に飲み込み、一瞬にして地面を破断し、地形を変貌させる。
568
﹁うぉぉぉっ⋮⋮!?﹂
大の男でも叫ぶしかないだろう︱︱いきなり自分の足元の地面の
地層がずれて高低差が生じ、断崖絶壁と言っていいほどの高さに押
し上げられていくのだから。
スピリット・ホーミング
分断され、混乱する彼らを倒すために俺が選んだのはコインだっ
た︱︱どんな投射武器でもいいのだが。﹃射撃誘導﹄の魔法を発動
させ、地形に関係なく全員の額にコインを着弾させて倒す。物理反
射がかかっていることを見越して、残りの三人には二発ずつ撃ち込
んだ。
﹁これだけ派手にやれば、もう隠密行動なんて必要ないわね。ディ
ック、私をエスコートしなさい。敵が誰であろうが、殲滅してあげ
る﹂
胸を張って言うミラルカを見ていて、俺は思う。今の俺がついて
いきたいと思うのは、師匠ではない︱︱それくらいに、今のミラル
カは頼りがいという言葉を体現して見えた。
﹁⋮⋮世話かけたな、お嬢さん。ここからはもう迷わない⋮⋮行く
ぞっ!﹂
ミラルカとの阿吽の呼吸で、俺は彼女を抱え上げて、近くの木の
梢を足場にして飛び上がった︱︱ギルド本部の屋上へと。
俺は師匠に会うことを恐れているわけではない。
﹃灰色の道化師﹄と再会したとき、どんな言葉からもう一度時間
569
を動かせばいいのか、決めかねていただけだ。
俺は彼女を殺すつもりはない。しかし、白の山羊亭からは手を引
いてもらう。
そんなことを言えば、彼女は静かに激昂すると分かっていた。そ
の怒りを鎮めるには、少々今の俺でも手を焼くだろう︱︱あくまで
も少しだけで、こちらが折れるつもりなど全くなかった。
570
第51話 再会の時と果たされぬ約束
白の山羊亭の屋上に目がけて飛ぶ間に、迎撃に出てきた冒険者た
ちが、次々と俺たちに向けて攻撃魔法や投射武器を放とうとする。
﹁﹃あの方﹄の言った通りだ! 空中にいてはかわせまいっ、総攻
ファイアボール
撃しろ!﹂
アイシクルランス
﹁火炎球ッ!﹂
﹁氷結槍ッ!﹂
飛んでくる火球と氷の槍。属性こそ統一されていないが、Sラン
クに相当する威力の攻撃魔法は、何の対策もなく受ければ多少は被
害を受ける。
しかし俺の腕に抱えられているミラルカは、一瞥しただけで敵の
攻撃を全て解析し︱︱俺たちに近づく前に、一定の距離で﹃分解﹄
して消滅させる。
︱︱﹃限定殲滅型九十一式・絶対領域陣﹄︱︱
限定殲滅型は八十番台までしかなかったはずだが、九十番台が追
加されている。他にも防御に使える陣はあるのだが、今回のものは
魔法も投射武器も関係なく遮断している。
︵さすがだな。そんなの使われたら、一国の軍隊でも怖くないんじ
ゃないか︶
戦闘中に話すほど悠長にもしていられないので、魔道具のピアス
571
を介して意志を伝える。
︵既知の技能であれば全て防げるわ。その場に応じて目で見て解析
する労力を省くために、魔法陣にあらゆる攻撃のパターンを組み込
んでおくことにしたの。今までの防御陣と比べると展開に0.3秒
ほど遅れが出るけれど、実用に足りることは検証できたわね︶
思考だけでやりとりをすると、ミラルカの頭の回転がいかに早い
かが良くわかる。そうでなければ、数百種類の魔法陣をすべて暗記
し、状況に応じて展開することなど不可能だ。
﹁な、なんだあれはっ⋮⋮魔法が届かずに消えてる⋮⋮!?﹂
﹁馬鹿なっ⋮⋮今の俺たちはSランクの奴らにも負けないはずなの
に! 何かの間違いだっ!﹂
SSSランクの冒険者が攻めてくることをまったく想定していな
い物言いに、俺が王都での存在感を消してきた成果を実感する。
︱︱しかしあわてふためく彼らを前にして、俺は異常に気が付く。
俺たちが空から急襲してくることを読んで、﹃彼女﹄がギルド員
に迎撃させるだけで終わるだろうか。
︵ディック、敵の様子が⋮⋮いけないっ!︶
ミラルカが何を言わんとしているかはすぐに分かった。このまま
俺たちを着地させることなく、敵の魔法使いが第二波の迎撃を試み
る︱︱しかし、一度目とは全く収束している魔力の量が違う。
︵未知の技能⋮⋮精霊魔法以外にも隠して⋮⋮いえ、違う⋮⋮!︶
572
スピリット・アクタライズ
︵︱︱あれは借り物の力だ。﹃代行発動﹄⋮⋮!︶
もう、直接姿を見るまでもない。相手は、俺を挑発しているのだ。
代行発動は、初めは魔法が使えなかった俺の資質を引き出すため、
師匠が指導の際に使った魔法だ。
ありあまる魔力を放出する方法を知らず、暴走させては他人に迷
惑をかけてきた俺は、その魔法で生き方そのものを変えてもらった
ようなものだった。初めに俺が覚えた魔法は、師匠の魔法の知識を
そっくり身体に流し込まれて覚えたのだ︱︱彼女の魔法を代行して
発動し、身体で覚えることで。
しかし、ギルド員の器では代行発動に耐えられない。SSSラン
クの魔法を、たとえ強化されていても、Sランクの実力しかない者
が使えば、魔力枯渇どころか、魔力位相反転による﹃自己崩壊﹄を
起こす︱︱足りない魔力を補うために、発動しようとする魔法が周
囲の人の魔力を吸うのだ。生命の維持にも必要な魔力は消耗するだ
けで命の危険があるのに、ゼロになってしまっては無事では済まな
い。
よくよく見れば、俺たちを迎撃に出てきたギルド員全員に、首輪
がつけられている。それでは、自分が死ぬかもしれない行為であっ
ても、命令に抗うことはできない。
︵許さないってことなんだな。俺が、あんたの元に帰らなかったこ
とを︶
︵⋮⋮ディック⋮⋮?︶
573
どちらにせよ、魔法を発動させるわけにはいかない。敵の魔法使
いは3名、彼らの行動を操作しようとする魔力の接続を断ち切って
やるしか方法がない。
剣を抜かずに、魔力の刃を放つ︱︱それでもまだ遅い。俺はミラ
ルカに意志を伝え、彼女は躊躇なく魔法陣を展開し、三名のギルド
員を範囲に入れて発動させる。
︵︱︱間に合いなさいっ!︶
︱︱﹃限定殲滅型六十六式・粒子断裂陣﹄︱︱
ミラルカは空中から魔法陣を展開し、首輪だけを狙って破壊する。
わずかに遅れれば魔法の発動を許すところを、見事に間に合わせて
くれた。
直後、俺はミラルカと共に屋上に着地し、彼女をその場に降ろす
サイレス・ルーン
と、駆け抜けるようにして魔力で強化した剣を振るう。今回は﹃斬
撃強化﹄ではない、﹃静寂の印﹄を剣に付加した。こうすれば、攻
撃した相手の魔力が外部に干渉できないように一時的に封印するこ
とができる。打撃で直接魔法文字を刻み込むよりは効果は短いが、
数時間持てば問題ない。
﹁ぐっ⋮⋮﹂
﹁う⋮⋮﹂
首輪を壊され、操っている者との魔力のつながりを絶たれて、敵
のギルド員たちが倒れこむ。
574
﹁ミラルカ、助かったよ。今の魔法を発動させるわけにはいかなか
ったからな﹂
サイレス・ブレード
﹁ええ⋮⋮いきなり知らない魔法を使ってきたから、どうしていい
ものかと思ったけれど。﹃静寂の剣﹄だったかしら、こういうとき
に役に立つわね﹂
彼女はそう言ったあと、続けて何か言いたそうにする。俺は問い
かけられる前に、自分で答えた。
﹁これから戦おうとしてるのは、俺に魔法を教えた人だ﹂
﹁ディックに、魔法を⋮⋮どうしてそんな人物が、ギルドを混乱に
陥れるようなことをするの?﹂
﹁あの人はおそらく、見ていたんだと思う。俺が今、ギルドマスタ
ーとして何をしているのかを﹂
﹁⋮⋮それが気に食わなくて、ギルドを乗っ取って悪事を働いてい
るんだとしたら。それは、ただの八つ当たりだわ﹂
ミラルカのような感想を抱くのが普通で、何も間違ってはいない。
しかし常識的な考えは、彼女には通じない。彼女自体が、千年に
一度の才能を持つと言われた俺たちと同じように、常識を外れた存
在だからだ。
﹁乗っ取ったなんて、人聞きが悪い言い方はしないでほしいな。私
は、このギルドに﹃帰ってきてあげた﹄だけなんだから﹂
﹁っ⋮⋮!?﹂
その声は、﹃後ろから﹄聞こえてきた。
建物の中から屋上に上がるには、俺たちの前方にある階段を使わ
575
なければならない。
︱︱ならばどうやって俺たちの後ろに回るのか。
転移魔法陣すら使わず、独力で転移を成し遂げたからに他ならな
い。彼女ならば、それができた︱︱俺と出会ったときも、こうやっ
て忽然と姿を現して、悪戯に微笑んでいた。
昔とその姿はほとんど変わっていない。不老不死だと自称してい
た彼女は、それを五年の時を経て体現していた。
吸い込まれそうなほど青い空の下で、銀色の長い髪が光を受けて
波打つ。全身が光を帯びているようだ︱︱しかしそれは、ユマの神
聖な光気とは違う。
彼女のまとう輝きは冷たく、無機質で、他人の理解を阻む幕のよ
うなものだ。だから俺は彼女の名前を知らず、﹃師匠﹄としか呼ん
だことがない。
﹁﹃可憐なる災厄﹄を伴って来たのは、私がいると想像してたから
? 一人ではかなわないと思ったのかな。そんなに大きくなったの
に、まだ心はちっちゃい頃のままなんだね﹂
その人を食ったような、けれど邪気のかけらもない笑顔を見てい
ると、背反する感情が同時に湧きおこる。
︱︱ひどく、懐かしい。そして、同じだけ胸が苦しくなる。
子供の頃の俺から見れば、彼女は追いつけないと感じるほど大人
だった。しかしその背丈を追い越した今となっては、いつまでもか
576
なわないのだとは思わない。
だが、その気になれば一瞬で距離を詰められる場所にいても、近
づけない。彼女が、とても遠くに見える。
﹁あいにくだが、いつまでも子供と言っていられるような立場じゃ
ないんだ﹂
﹁強がらなくていいよ。私を見た時、懐かしいと思ったでしょう。
私がどんな悪辣なことをしても、私ならしょうがないって思ったよ
ね? それはディー君が、私を受け入れようとしてるからだよ﹂
﹁っ⋮⋮黙って聞いていれば、好き勝手なことを言ってくれるわね。
あなたがディックの先生であっても、あなたのしたことは看過でき
ることじゃないわ。王都をかき乱してどうするつもり?﹂
ミラルカに問われても、師匠の笑顔には曇りひとつない。無防備
に、一歩ずつ俺たちに近づいてくる。
﹁それ以上近づかないで。一定の距離を超えたら、攻撃するわよ﹂
﹁空間魔法の使い手なら、転移魔法陣もそのうち使えるようになる
はず。使い方、教えてあげようか? ディー君も今なら使えると思
うから、昔みたいに教えてあげる。そうじゃないと、私に負ける要
素がないからね﹂
自信たっぷりで、その自信を裏打ちするだけの途方もない力があ
って︱︱。
彼女は俺だけには、いつも優しかった。
そんな彼女が、呪いのように俺に言い続けた。﹁いつか私が望ん
だ時に、私をちゃんと殺すんだよ﹂と。
577
﹁⋮⋮あんたの心が、どうして壊れたのか。昔は知ろうともしなか
ったし、弱かった俺には、その資格もなかった。でも、今は違う﹂
﹁本当にそう? まだ私の名前を聞くこともできないのに、何かが
変わったって言える?﹂
全てを見透かしたようなその瞳が、そうやって俺をからかうとき
だけ悪意をのぞかせる口元が、たまらなく嫌いだった。
羽織ったケープの下にはまるで天女のような装いをしながら、そ
の瞳には引きずり込まれそうなほどの真の闇がある。そしてあろう
ことか、彼女は自らの首にも首輪をつけていた︱︱それは従属の首
輪に対応した、支配するための魔道具だ。
それを首輪の形状にする意味を問えば、﹁支配するということは、
自分も縛られているようなものだから﹂とでも言うのだろう。
﹁ふふっ⋮⋮そっか。あなたたちに魔力の繋がりがないところを見
ると、やっぱりディー君は、私のことが忘れられなかったんだね。
私がもらってあげるって言ったこと、ちゃんと覚えてたんだ﹂
ミラルカの眼前で、彼女は俺の古傷を容赦なくえぐろうとする。
自分が強いと、誰にも負けないと思っていたころ。その勘違いを
正したのも、彼女だった。
︱︱俺を力づくで組み敷き、人間が一番美しくて、最も醜い部分
を教えると言って。
あのとき何を言って解放されたのかは覚えていない。師匠との間
578
にあるのは、思い出したくもない記憶ばかりだ。
ミラルカが心配そうに俺を見ている。そんな顔をさせていること
さえ、男として情けない限りだ︱︱だが、俺も言われているままで
はない。
﹁⋮⋮今言われるまで忘れてたよ。俺も自分なりに、今を生きてる
んでね﹂
﹁私は忘れてないよ。私が忘れてないんだから、ディー君も絶対に
忘れない。そういうふうに教えたはずだよ﹂
﹁ディック、もう話す必要はないわ。この人があなたとどんな関係
であっても関係ない﹂
ミラルカの魔力が、いつでも魔法陣を展開できるように収束して
いく。殲滅か、破壊か。それを前にしても、師匠は動じることはな
い。
﹁ディックは、あなたの所有物じゃない。今でも自分が支配してい
るつもり? おあいにくさま、この人は誰かの言うことを聞くほど
弱くはないわ﹂
﹁ディー君と私の間には、誰も入れないよ。だってディー君は、私
が教えてあげた魔法をまだ使ってる﹂
﹁それがどうしたっていうの? 教え子が先生を超えられないなん
て、決まってはいないわ﹂
﹁ミラルカ、大丈夫だ。俺は全く動揺してない﹂
﹁⋮⋮ディック﹂
俺は抜き身の剣を構える。それを見た師匠は、同じように腰に帯
びた剣を抜いた。重量のある剣を使わなくても十分な破壊力を得ら
れる彼女は、昔から細身の剣を用いる。
579
フェアリーソード
﹃妖精剣﹄と呼ばれる、希少素材でできた剣。魔法による強化と
の相性が良く、魔法使いが用いる剣としては、俺が知る限り最強の
威力を持つ武器。
同等のものを探し求めた時期もあったが、そのうち必要がないと
悟った。
なぜなら、妖精剣を用いてできることは、俺には普通の剣でも再
現することができるからだ。ただ、威力だけは追随できるかどうか、
やってみなければ分からない。
剣も、魔法も、彼女から学んだ。だからこそ俺は、ここで彼女を
超えなければならない。
そうしなければ、彼女の時間が流れない。俺が変わったことを認
めず、支配できていると思ったままでは、何も変わらない。
子供だった俺はもういない。俺は俺の道を選んで、師匠の元を離
れた。だから、もう戻るつもりはない。
﹁この剣で死なないくらいに傷を負わせて、治すことを繰り返して
⋮⋮それで君は回復魔法を、命をかけた戦いでの立ち回りを、そし
て剣の技そのものを学んだ。おいで、ディー君。昔と同じようにし
てあげるから﹂
﹁ああ。練習じゃない、本気で殺すつもりでやろう。そうじゃなき
ゃ、あんたはいつまでも分からない﹂
﹁⋮⋮分からないのはディー君のほうだよ。どうして私の言うこと
が聞けないの?﹂
﹁っ⋮⋮﹂
580
ミラルカですら一歩後ずさる。こんな凄絶な殺気を向けられれば、
SSランクの冒険者ですら、威圧されて一瞬思考を止めてしまうだ
ろう。
教えを受け始めたころなら、俺もそうだった。
しかし魔王討伐の旅に出るころには、俺はもう︱︱。
スピリット・ブレード
声もなく戦いは始まる。師匠が眼前に転移し、妖精剣がかすかに
輝き、魔力を通して放つ初手の斬撃は、﹃斬撃強化﹄︱︱同じ技で
スピリット・ブレード・アタックライズ
打ち合い、相殺し、衝撃を魔力で緩和したあと、彼女は二撃目に﹃
斬撃回数強化﹄を重ね、無数の魔力の刃が発生し、俺はそれを読み
テレポート
切って同じ回数で返す。互いの魔力がせめぎ合い、弾け、巻き込ま
れることを防いで俺は後ろに飛び、そして師匠は転移で俺の裏に回
る。
︱︱バイバイ、ディー君。
ミラルカが声を上げている。だが俺は思う、そんなに心配しない
でくれと。
後ろから迫り来る殺気。突き出された刃が、俺の防御強化の魔法
を容易に突き破り、心臓を貫かれる感覚が生じる一瞬前に、
テレポート
俺はさらに師匠の裏に回る。打ち合う間に仕込んでいた﹃転移﹄
を発動させて。
背中に剣を突き付けられ、師匠の動きが止まる。声を上げなかっ
たのは、流石と言ってもいい。
581
﹁気が早すぎるんじゃないか? 俺は自力で転移できないとは一言
も言ってないぞ﹂
﹁ディック⋮⋮!﹂
ミラルカが驚嘆の声を上げる。こんなに嬉しそうな彼女の声は、
なかなか聞けるものじゃない。
しかしこのまま剣を突き出せば終わるというほど甘くもない。師
匠は再度転移し、俺から距離を取る。追い打ちをかけても同じこと
の繰り返しになると思ったのだろう。
﹁⋮⋮良かった。これで死んじゃったら、君を育てるのに失敗した
ってことだからね﹂
﹁期待に応えられるといいんだがな。手加減なんてしないでくれ、
師匠﹂
俺は5年前の俺と同じではない。それを彼女に知らせることがど
んな結末を生むとしても、この戦いは、勝って終わらせなければな
らない︱︱絶対に。
582
第52話 成長限界と限界解放
転移魔法の結晶を初めて入手したとき、俺はその原理を解析しよ
うとした。
その頃はまだミラルカの協力を簡単に頼める状況ではなかったし、
後にヴェルレーヌに協力してもらって解析を試みたところ、いくつ
かの事実が分かった。
まずひとつ、遠距離の転移を可能にするための魔法陣の記述は、
人間の魔法使いの独力では再現しきれないということ。遥か遠くの
座標に安定して転移するためには、近距離の転移とは全く違う原理
が必要で、それが複製できないからこそ転移結晶は希少なのだ。
しかし近距離の転移ならば、魔力の消費が激しいことを度外視す
れば、俺でも不可能ではなかった。
﹁師匠も転移結晶を解析したから、転移できるようになったのか?﹂
﹁ふふっ⋮⋮そっか、ディー君にもできちゃうのか。幾つか転移結
晶を持ってるんだもんね。でも私は、どうやったら魔道具に記録さ
れた魔法を解析できるかは教えてなかったのに﹂
ステラファクト
﹁基礎は教えてくれただろ。魔法文字さえ読めれば、転移結晶がど
んな原理で発動してるのかは分かる﹂
﹁ううん、やっぱりディー君は特別だよ。﹃星の遺物﹄の魔法文字
は、普通の子には教えたって読めるものじゃないから﹂
師匠が俺のことを、少なからず認めてくれている。皮肉にも、一
度剣を交えたことで。
583
スピリット・リミットホールド
それを喜んでしまう自分を抑えつける。﹃限定拘束﹄によって、
俺は自分の感情も抑制することができる。
﹁ステラファクト⋮⋮そういうものの一つなのか、あの転移結晶は﹂
﹁この王国の遺跡は、深層まで到達されてないからね。ディー君も、
王国の調査部に遠慮して奥まで行かなかったんじゃない? そこま
で行けば、私の言ってるようなことはだいたい分かるよ﹂
﹁⋮⋮どうしてそんなことを、今教えるの?﹂
ミラルカが問いかける。先ほどの技の応酬にはあえて割り込まな
かったようだが、今はいつでも魔法陣の範囲に師匠を入れられるよ
うに集中している︱︱こちらの肌までひりつくほどの緊張感だ。
しかし師匠も俺と同じく、相手の魔法を封じる術に長けている。
陣魔法がどれだけ速く発動できても、当てることは難しいだろう。
﹁私はディー君が私のところに戻ってきてくれるって、確信してる
から。彼の知りたいことは、何でも教えてあげたいと思ってる﹂
﹁本気で殺そうとしておいて⋮⋮私が言うことじゃないけれど、あ
なたの愛情は歪んでいるわ﹂
﹁ふふっ⋮⋮本当に人のことは言えないよね。他の人にとられそう
になったくらいで、ディー君から逃げ出して、彼を傷つけて。それ
でも未練がましく、何度も酒場の近くまで行って、ディー君を見て
たよね﹂
﹁っ⋮⋮﹂
﹁ミラルカ、挑発に乗るな。心を乱そうとしてるだけだ﹂
師匠はどこまで知っているのか︱︱どこまで把握することができ
るのか。﹃何を知っていてもおかしくない﹄、それが答えだ。
584
知ろうと思えば何でも知ることができる、それが彼女の強さを支
えている能力でもある。
俺の作った情報網は、ギルド員たちの調査によって作り上げられ
たものだ。しかし師匠は近づいただけで他人の記憶を読み取ること
ができる︱︱王都に数日滞在するだけでも、膨大な情報を得られて
しまう。
だから彼女は、俺が彼女に対して絶対の殺意を抱いていないこと
マインドガード
も分かっている。初めからこうしておくべきだった︱︱俺はミラル
カと自分に﹃精神防御﹄という魔法をかけ、思考を読み取られるこ
とを防ぐ。
﹁優しいね、ディー君は。傷ついたワイバーンに攻撃されても、必
死で治療してあげてたよね﹂
﹁それで怪我をした俺を助けたのは、あんただろ﹂
﹁うん。ディー君があんまりばかだったから、助けてあげてもいい
かなと思って。君は今だって、私の気まぐれで生かされてるだけな
んだよ﹂
﹁あなたは、どこまで⋮⋮っ!﹂
優しくしたかと思えば、すぐに傷つけるようなことを言う。昔な
らそれを、俺が子供だから、大人である彼女のことが分からないの
だと思った。 ﹁気まぐれでも、あんたは俺の力を認めて弟子にした。だから俺は、
あんたを止めなきゃならない﹂
﹁⋮⋮一つ言っておくとね。私が来る前から、青の射手亭と、紫の
蠍亭はもうだめだったんだよ。彼らは時代に取り残されて、所属す
585
る冒険者を支えるだけの仕事を取れなかったし、新しい仕事を開拓
することもできなかった。王都の12のギルドは、半分に減らすべ
きだった。だって、必要ないんだもの﹂
﹁なぜ、あなたはギルドのことをそれほどに知っているの? 帰っ
てきたというのは、どういうこと?﹂
その答えは、もう見えかけている。彼女がなぜ、﹃灰色の道化師﹄
と呼ばれていたのか︱︱。
12のギルドに、なぜ色の名前がつけられているのか。
初めから、ギルドは12だけだったのか。俺は、そうでなかった
ことを知っている。
だがそのことに師匠が関係しているとは思わなかった。関連を見
出すことはできたはずなのに、俺はあえて師匠のことを思い出そう
としていなかった。
﹁もしディー君が私に勝てたら、その時は教えてあげる。陣魔法は
私には届かないから、邪魔はしないでね﹂
﹁なっ⋮⋮!?﹂
﹁この人に対して魔法が通じるのは俺だけだ。あまり、手の内を見
せないほうがいい⋮⋮ミラルカが物質の構造を解析できるのと同じ
ように、この人は魔法を解析して、その場で無効にできるんだ﹂
﹁っ⋮⋮ありえないわ、そんなこと。私の陣を、その場で解析でき
るなんて﹂
師匠は俺にも同じことができると分かっていて、ミラルカに言わ
ないでいる。これからの戦いを見れば、分かってしまうことだとい
うのに。
﹁魔王討伐隊の中で、相手をするのが大変なのは鬼族の子だけかな。
あの子の瞬間的な攻撃力は、私が見てきた中でもずば抜けてると思
586
う。騎士団の子と、陣魔法のあなたは、対処するだけなら難しくな
い。﹃剣精﹄はやっかいだけど、絶対に対処できないわけじゃない
し⋮⋮こんなふうにね﹂
師匠ならばあり得ると思っていたが、本当に見せられると素直に
厄介だと言わざるを得なかった。
剣精と同じく、世界に一体ずつしか存在しないという希少精霊の
ひとつ、﹃楯精﹄︱︱絶対的な防御力を持つだろうそれを召喚して
みせ、丸楯の形状に変えて、腕に装着する。
古代遺跡の壁画には、同じような楯を身につけ、槍を持つ女神の
姿が描かれたものがある。師匠の武器こそ妖精剣だが、俺はその姿
を想起せずにいられなかった。
﹁装備を召喚するなんて⋮⋮剣の精霊のほかに、まだそんな力を持
つ精霊がいたの⋮⋮?﹂
﹁鎧の精霊もいるよ。強くなりたいのなら、手に入れておいた方が
よかったかもね。SSSランクって言っても、防御はこんなに脆い
んだから﹂
殺気がなくとも、師匠の行動を俺はいつでも警戒している。彼女
は妖精剣を振るい、魔力の斬撃をミラルカに飛ばそうとするが、俺
は転移して斬撃の軌道に割って入り、弾き返した。
﹁そんなに必死になって。ディー君、本当にこの子が大事なんだね﹂
﹁⋮⋮全く殺気を感じなかった。この人は、無感情で⋮⋮﹂
﹁昔はそこまで酷くなかったはずなんだがな。師匠、生意気を言わ
せてもらってもいいか﹂
587
ミラルカが離れるまで、俺は師匠を牽制し続ける。俺にも、彼女
が魔法を発動する瞬間の魔力の流れが見える︱︱そして、発動する
魔法の種類も判別できる。
﹁この楯は壊せないよ。私が自分で壊そうとしてもできないんだか
ら、ディー君にも無理だよ﹂
彼女は俺の力がどれほどのものか、既に測ったつもりでいる。
しかし、俺はまだ抑制を解放していない。そのことに師匠も気が
付いているのかどうか、判別がつかない。
分かっていれば、何の対策も講じてこないということはない。師
匠も必ず奥の手を隠している。
﹁やってみなければ分からない。楯を壊さなくても、相手を倒す方
法はある﹂
﹁今の魔力じゃ無理だよ。すごく窮屈そうにしてる今のディー君じ
ゃ、私には絶対勝てない﹂
︱︱違う。
俺は5年前に彼女の元を離れる前にも、確かめていなかっただけ
で。
この5年で、師匠の威圧感も、その魔力の容量も全く変わってい
ない。それを俺は、彼女の強さが変化していないからだとは考えな
かった。
魔王討伐したあと、俺が自分で編み出した、絶え間なく自分を訓
588
練するために身体に負荷をかけ続けるやり方。そこから見出された
副産物が、限界解放だ。
彼女はそれを知らなかった。知る必要もなかったのだとしたら。
SSSランクに相当するだろう冒険者強度を持つ者が、自分の実
力をさらに上げる方法を、求めなかったのならば。
﹁⋮⋮やめて。そんな目で私を見ないで﹂
思考が漏れているわけではない。俺の表情だけを見て、師匠の様
子が変わった。
﹁どうして私を憐れんでるの? ディー君はそんな子じゃなかった
はずだよ。私より弱くて、私の後をずっと追いかけて、これからも
ずっと、ずっと、そのままじゃなきゃいけないのに﹂
﹁憐れんでなんかいない。今の俺は、師匠には負けない。そう分か
ってるだけだ﹂
﹁⋮⋮どうしてそう思うの? ディー君みたいに戦い方に縛られて
る人が、私に勝てるわけない。私を殺そうとも思ってないディー君
に、どうやって私を倒せるっていうの?﹂﹂
俺は何にも縛られていない。彼女が勝手に俺を定義して、自分の
もとに戻ってくると信じていただけだ。
それをはっきり告げずに、ここまで来た。師匠が俺のことを忘れ
ていると期待していた。彼女がずっとそうやって放浪の日々を送り、
全てを捨てて次の場所に流れていったように。
﹁この楯を破れないし、私に攻撃を当てることもできない。ディー
589
君は︱︱﹂
︱︱言いかけたところで、俺は転移していた。師匠の眼前に。
剣を振り抜く動作と、転移するタイミングを合わせることで、出
現すると同時に斬撃を繰り出す。
﹁くっ⋮⋮!﹂
楯を使って防いだ師匠の顔に、初めて感情が現れる。こうして近
くで見ると、本当に時が止まったかのように、少女のような面影を
残している。
少女のままで大人になれない。本当に不老不死なら、彼女はずっ
とその境界線の上で生き続けていることになる︱︱俺たちと違い、
成長することができずに。
﹁私はあの村でずっと待ってた⋮⋮ディー君が帰ってきてくれたら、
君に戦う術を教えたあの場所で、約束を守ってもらうつもりだった
⋮⋮それなのに⋮⋮っ!﹂
俺の攻撃を防いだあと、楯から魔力の力場が生じ、俺を吹き飛ば
そうとする。
アンチマジック
その﹃力場﹄も、楯精を媒介にして発動する魔法の一種だ。解析
する速度、そして反魔法の発動さえ追いつけば、俺の前では意味を
なさない。
速度を上げるには、使うほかはない。普段の俺が封じ込めている
能力を、最大限に引き出して。
590
それを見せることが、師匠に対してどれほどの絶望を与えるのか
分かっていても。
スピリットリリース・リミットバースト
︱︱﹃負荷解除・拘束開放﹄︱︱
全身を抑制する枷が取れて、解放される。目に映るものが、解放
された俺の能力に合わせて変化する。
思考速度は振り切れ、楯精の発生させた力場︱︱防御結界を解析
し、それを相殺する魔法を編み出し、展開させる。
﹁っ⋮⋮どうして⋮⋮私より速いはずないのに⋮⋮っ、私が負ける
わけないのに⋮⋮っ!﹂
﹁⋮⋮殺してくれって言ったじゃないか。それなのに、そんな泣き
言を言うのか?﹂
﹁︱︱あなたは私のものなのに、どうしてっ、どうしてぇぇっっ⋮
⋮!﹂
感情がない︱︱それとは、やはり違っている。
彼女は俺以外の全てに興味がなかっただけだ。俺に出会ってから、
ずっと。
俺はアイリーンの技を借りる。彼女との組み手によってその奥義
を覚え、剣技に転用し、さらに今回の戦いの要素を取り入れた、こ
の場限りの技。
︱︱修羅残影剣・﹃転移千裂﹄︱︱
591
魔力を消費して実体のある残像を生み出し、同時に複数の敵を攻
撃するシュペリア流格闘術の奥義。
そこに転移魔法を組み合わせることで、残像を敵の周囲に飛ばし、
同時に斬撃を繰り出す。その一つ一つが、﹃斬撃回数強化﹄を行っ
たものならば︱︱。
﹁っ⋮⋮きゃぁぁぁぁっ⋮⋮!﹂
楯精の防御結界を封じている今、彼女は剣と楯本体だけで、無数
の斬撃を受けきらなければならない。
それができるわけもない。けれど最初の百に近い斬撃を、彼女は
返しきった。全方位に完全に斬り返し続け、それでも追いつかずに
力尽きたのだ。
﹁ディック⋮⋮その技は、アイリーンの⋮⋮﹂
﹁俺自身の技は、そんなに強力じゃない。だから、教えてもらうの
が一番いいんだ﹂
﹁⋮⋮あなたの冒険者強度は、10万を少し超える程度なんかじゃ
ない。私たち4人を足しても、あなたには⋮⋮﹂
﹁それは言い過ぎだ。俺の技は、本物には及ばないよ。器用貧乏な
分だけ、組み合わせの自由は利くけどな﹂
ミラルカはどんな顔をしていいのか、という顔で笑う。そんな顔
をさせてしまって、申し訳ない限りだ。
俺が彼女の﹃陣﹄を使えると知っても、今ならそれほど驚かない
だろうか。アイリーンの﹃修羅残影拳﹄を、精度は八割といったと
ころだが、再現してみせたのだから。
592
﹁⋮⋮うっ⋮⋮く⋮⋮﹂
斬撃を浴びてぼろぼろになり、師匠が膝をつく。彼女は妖精剣を
突くが、限界解放した俺の一撃は通常よりもはるかに鋭く、剣にも
無数の傷がつき、刃が欠けていた。
おそらく﹃光剣﹄を防ぐ防御力を持つはずの楯も、傷だらけにな
っている。丸い鏡のように磨き上げられた表面が見る影もない状態
だが、その傷は次第に修復していく︱︱楯精には自己修復能力があ
り、自己の破損を補うことができるようだ。
光剣を模倣した魔力剣は、楯精に傷をつけることができる。破壊
できるかは分からないが、俺の魔力剣でコーディと打ち合っても、
折られないのではないかという手ごたえは掴めた。
戦いが終わったところで、ユマを背負ったアイリーン、そしてコ
ーディ、ヴェルレーヌまでが到着する。彼女たちも俺が限界解放し
ている姿を見てしまったが、俺はすぐに剣を納め、再び力を抑制す
る。
﹁ディック⋮⋮最初は苦戦しているかと思ったのに。完膚なきまで
に、倒してしまったんだね﹂
﹁⋮⋮さっきのディック、見てるだけでゾクゾクして⋮⋮あたしに
も後で、事情は説明してくれるの?﹂
﹁ディックさん、その方が、白の山羊亭の幹部⋮⋮あっ、ふ、服が
ぼろぼろに⋮⋮﹂
慌てるユマを横目に、ヴェルレーヌは自分のエプロンを外しなが
ら進み出て、師匠の身体にかけた。斬撃で深い傷を負わせたわけで
593
はなく、師匠の魔法による防御を削り切り、消耗させて倒したとい
うのが正確なところで、さほど酷い出血などはない。
それでも、俺の手でぼろぼろにしてしまったことは確かだ。一糸
まとわぬほどに防具を破壊してしまい、エプロンの下はほとんど裸
身という状態になっている。
ヴェルレーヌは師匠の傍らに屈み込み、その姿を見て、思うとこ
ろがあるようだった。しばらくじっと見つめ続けている。
﹁⋮⋮よもや、ご主人様の師が、﹃かの者たち﹄だったとは。本当
に実在するとは思いませんでした⋮⋮そして、倒してしまうとは﹂
﹁かの者⋮⋮ヴェルレーヌ、師匠のことを知ってるのか?﹂
白の山羊亭に深い関わりを持ち、SSSランクに相当する力を持
ちながら、放浪を続けていた師匠。
エルフのように姿が変わらないままで、けれどエルフではない。
そんな彼女の正体が何者なのか。ヴェルレーヌは、俺にそれを教え
てくれようとしていた。
594
第53話 ギルドの始まりと彼女の正体
白の山羊亭で起きていたことについては、日を改めて審問官へと
報告されることになった。
紫の蠍亭、緑の大蟹亭に調査に入った騎士団は、同行した審問官
と共に、彼らの行っていた仕事が王国の法律に触れていることを確
かめ、ギルドマスター、ならびにギルド員を拘束した。今後は一人
ずつを審問にかけ、その罪状の重さに応じて刑罰が下されるとのこ
とだ。
白の山羊亭のギルドマスターは、首輪をつけられたからではなく、
自ら師匠の言いなりになっていた。
師匠の異名である﹃灰色の道化師﹄。その意味を、俺は白の山羊
亭のギルドマスターから聞かされることになった。
かつてアルベイン王国の冒険者は、ギルドという組織に属さず、
個人で仕事を請けて遂行していた。あるいは名声や宝物を得るため
に冒険に出るだけで、依頼を受けない冒険者というのも存在したの
だ。
しかし百年前、王国で初めてSSランクを超える冒険者強度の持
ち主︱︱師匠が現れ、彼女の手によって﹃冒険者ギルド﹄が創設さ
れた。
師匠は自分のギルドに﹃蛇遣い亭﹄と名付け、ギルドマスターと
して優秀な冒険者を集め、王都の民や貴族からの依頼をこなし、国
595
王にも匹敵するほど、民衆から絶対的な信望を集めるようになった。
始まりのギルドは一つであったため、象徴する色を持たず﹃無色﹄
だった。
だが、師匠は王都にずっと留まろうとは、最初から考えていなか
った。
ギルドを作って十年後、彼女は突如として姿を消した。何の前触
れもなく、大いに冒険者たちは混乱した。
絶対的なカリスマを失ったあと、SSランクの4名、Sランクの
8名の冒険者は、師匠がかつてそうしていたように、彼女のやり方
に倣って自分たちのギルドを創設した。
自らが作り上げた組織をあっけなく捨て、戻ることのなかった彼
女に対して、残されたギルドマスターたちの中には感情を整理でき
ず、彼女は自分たちを化かしていたのだと、﹃道化﹄のようだと罵
る者もいた。
そして他のギルドマスターが選ばなかった不吉を表す灰色を冠し
て、師匠に対する﹃灰色の道化師﹄という呼び名が生まれた。そう、
当時のギルドマスターたちも、師匠の名を聞かされていなかったの
だ。
それでも彼女のことを、白の山羊亭のギルドマスターだけは、他
のギルドに知られず崇拝し続けていた。代替わりしても、変わるこ
となく師匠を神格化し、敬い続けていた。
師匠がそうするように仕向けたわけではない。白の山羊亭のギル
ドマスターだけは、彼女がその気になれば再び全てのギルドを支配
596
し、冒険者たちを支配下に置くことができるということを忘れてい
なかった。
白の山羊亭は再び真の主が戻ってきたとき、彼女が座るためにふ
さわしい椅子を用意するため、トップギルドとしての地位を盤石に
しようとした。
俺は、その目論見を知らないままに、白の山羊亭の傘下から三つ
のギルドを脱退させた。その時から、白の山羊亭にとっては俺は注
意するべき人物と見なされていた。
しかし俺の素性を調べ、白の山羊亭のギルドマスターは、俺のギ
ルドを潰すことは考えず、残ったギルドへの支配を強めることに執
心した。
︱︱だが、時代は変わろうとしていた。俺たちが魔王を討伐して
帰還したあと、魔物の数が目に見えて減り、魔物討伐を主にしてい
た冒険者たちは仕事を失っていった。
そして初めに紫の蠍亭が、次に青の射手亭が、悪事に手を染めた。
緑の大蟹亭もまた時代に適応できずにいたところを、白の山羊亭の
勧誘を受け、自ら完全に取り込まれた。
師匠の言う通り、王都に12もギルドが存在する必要はなくなっ
ていた。
権力を維持するために従属の首輪を必要としたのは、白の山羊亭
のギルドマスターだった。師匠はその要望を受け入れて、首輪を作
った︱︱だから罪がないとは言えない。彼女は何に使われるかを知
っていて首輪を作り、白の山羊亭のギルド員に身につけさせ、命を
597
捨てさせるような命令をしたのだから。
それでも俺は、彼女をすぐに審問官に出頭させることはしなかっ
た。
今更言っても遅いのかもしれないが、どうしても伝えたいことが
あった。だから俺は、師匠をギルドハウスに連れて帰った。
◆◇◆
ヴェルレーヌのベッドに寝かせるわけにもいかず、師匠はシーツ
を替えた俺のベッドに寝ている。 既に二時間ほど経っているが、目を覚まさない。俺の攻撃を防御
するために一時的な魔力の枯渇を起こしているので、供与すれば良
いことなのだが、簡単にできることではない。
技術の問題ではなく、俺の魔力を受け取ることを、師匠が望むか
分からないからだ。
だから、自然に回復するのを待っている。魔力を与えるために触
れることすらできずにいる。
ここに連れてくるまでは、彼女を背負ってきた︱︱それさえも躊
躇したのは、俺がまだ師匠を尊敬しているからだ。
俺に生き方を教えてくれた。魔王討伐に向かう俺に、好きにした
らいいと言ってくれた。
今では、俺を放任した理由が分かる。彼女は自分のところに、俺
598
が帰ってくると信じていた。
俺がどれだけ望まれても、彼女を殺したくないと思っていること
を伝えなかったから。
﹁ご主人様、飲み物をお持ちしました。少し交代いたしましょうか﹂
﹁いや。彼女はいつでも転移できる⋮⋮俺が見てないと、いなくな
るかもしれないからな。ありがとう、気遣ってくれて﹂
﹁⋮⋮そんなふうに礼を言われると、調子が狂う。弱っているご主
人様にも、魅力を感じる部分はあるがな﹂
ヴェルレーヌは元魔王としての口調に変わると、ベッドの傍らの
テーブルに飲み物を置いた。心を安らげる効果のある﹃ミシカ草﹄
というハーブを使った冷茶だ。
一口飲むと、胸がつかえていたものが取れるようにすっと楽にな
った。ヴェルレーヌは微笑み、師匠の額に乗った熱さましの布を取
り換える。
消耗した魔力を回復するとき、熱が出る。俺の攻撃によって受け
た傷は回復しているが、それで魔力を使い果たしていた︱︱今は自
然回復を待つしかない。
﹁ヴェルレーヌ、師匠が何者か知ってるみたいだったな。この人は
エルフじゃない⋮⋮他の亜人でも、そこまで長命な種族を俺は知ら
ない。一体、彼女は⋮⋮﹂
あが
たた
﹁強力な魔法を操り、万物に通じる知識を持つ。そして、不老不死。
各地を流浪し、崇めれば祝福を、祟られれば呪いをもたらす。魔族
の間にも、そういう存在がいると伝わっている﹂
599
そこまでは俺も知っている。そんな存在を、何と呼ぶのか︱︱ど
こから来て、どこに行くのか。
その手がかりも、ヴェルレーヌは知っている。彼女は眠っている
師匠を見ながら、言葉を続けた。
うつしみ
﹁彼女はおそらく、﹃遺された者﹄と呼ばれる存在だ。神がまだこ
の世界に居たころ、自分たちの現身として作ったものたち⋮⋮その
生き残りがいたのだよ﹂
彼女が持つ力を初めて見た時、俺は思った。
まるで、神様の使いのようだ。どんなことでもできて、何でも知
っている。
それを口にしたとき、師匠がどんな顔をしたのか︱︱それも思い
出した。
彼女はとても寂しそうな顔をして言った。﹁私には一つだけ、自
分ではできないことがあるんだよ﹂と。
﹁⋮⋮この人は常識から外れすぎてて、どんな正体でも驚かないが。
その﹃遺された者﹄だったとして、いったいどれだけ長い間生きて
るんだ﹂
﹁人間がこの世界に生まれたころから、ずっと存在している⋮⋮そ
う考えられるな﹂
絶対に理解できない、そう思っていた。師匠が自分を殺すことが
できる存在として、俺を育てたと言うたびに、なぜそんなことを言
うのかが分からなかった。
600
だが、ヴェルレーヌの仮説が正しいのなら。
百年前に王都に冒険者ギルドを作ったのも、自分を殺せる力を持
つ冒険者を見出すためで。その可能性が無いと見限って、姿を消し
たということになる。
そして80年を経て、同じアルベインという国の片隅で、俺を見
つけた。一度通り過ぎた国に戻ってきたのはなぜか︱︱80年とい
う歳月で、世界を歩き尽くしてしまったからなのか。それは、聞い
てみなければ分からない。
しかし、辻褄が合ってしまう。彼女が俺に殺してほしいと願った
理由に、納得させられてしまう。
あまりにも長く生きすぎたから。彼女が一つだけできないことが、
自分で死を選ぶことだったとしたら。
﹁それでも俺は、この人を認めるわけにはいかない。目覚めたら、
真っ先に否定してやる﹂
﹁それは手厳しいな。しかし師匠の乱心を諫めるのは、弟子の役目
とも言えるだろうか﹂
﹁⋮⋮不出来な弟子だけどな。俺は、彼女に嘘をついたんだ。最後
まで、騙し続けた﹂
︱︱君が生きていくために必要なことを全て教えるから、その代
わりに、最後には私を殺してね。
︱︱何を言っているのかって思うかもしれないけど、私にとって
は、切実な問題なんだよ。
601
︱︱その約束さえ守ってくれたら、君は自由だよ。それまでは、
私も君に縛られていてあげる。
﹁俺は約束を守るつもりなんて、最初からなかったんだ。魔王を討
伐するために彼女のもとを離れたら、もう⋮⋮帰らないつもりで⋮
⋮っ﹂
握りしめた冷たいグラスを砕くほどに力を込める。
自分がどれだけ最悪の裏切りをしたのか、ずっと目をそらしてい
た。死にたいなんて認められない、そんな世迷言には付き合ってい
られない。
何も師匠のことを知らないで、そんなふうに自分を正当化して、
のうのうと生きてきた。自分が楽しければそれでいいと、望むこと
だけをして、自分だけ幸福になろうとした。
初めから、俺が得たものは全部、師匠に与えられたものだったの
に。
﹁⋮⋮そんなに、自分を責めるな﹂
グラスに亀裂が入ったところで、ヴェルレーヌの手が、俺の手に
重ねられていた。
そのまま彼女は、座っている俺を後ろから抱きしめた。流すべき
でもない涙が、俺の頬を伝っていた。
﹁ご主人様にとって、彼女は大切な人物だった。ならば、これから
またやり直せばいい。彼女がしたことは罪になるのだろうが、それ
602
を償う方法がないわけではないはずだ﹂
﹁⋮⋮師匠をここまで追い込んだのは俺なんだ﹂
﹁そうやって自分が全てを背負いこむというのは、私たちが許さな
い。ご主人様が、本当はどれだけ生真面目で、自分を追い込む性格
なのかを、私は近くで見てきて知っている。だからこそ、放ってお
けないし、黙って見ているつもりもない。ご主人様が自分を追い詰
めて、取り返しのつかない心の傷を負うようなことがあっては、そ
れこそそこで寝ている彼女を、私たちはどうにかしてやらねばなら
なくなるぞ﹂
冗談めかせているが、ヴェルレーヌは本気だった。
俺を抱きしめる腕は細く、けれど決して離さないという、強い意
志が込められていた。
﹁⋮⋮ご主人様の決断ならば、私たちはそれに従う。ガラムドア商
会に捕らえられ、売られた獣人の件のみは、何らかの責を負うべき
ところだろうが⋮⋮白の山羊亭、ならびに法に触れたギルドは、元
より腐敗していた。彼らは、戻って来た彼女に助けを求めただけな
のではないか⋮⋮?﹂
﹁それは⋮⋮まだ分からないが。それも、師匠が起きてからだな⋮
⋮﹂
自然に任せると、これほど人の回復というのは遅いのかと思う。
しかし今は待つしかない。
もしこのまま死にたいと思っているのだとしても、それはできな
いはずだ。俺にはもう、師匠を傷つける意志はない︱︱しかし、先
ほど放った技で死に至らしめるようなことがあったら、悔やんでも
悔やみきれない。
﹁何か遠慮しているようだが、こればかりはご主人様が何と言おう
603
と、彼女の心臓が止まるようなことがあれば手段を選ばずに回復さ
せるぞ。私たちも、目覚めたら一言文句を言いたいのだからな。我
らの中心であるご主人様を、いたずらに振り回すなと﹂
﹁⋮⋮できれば、お手柔らかに頼む。師匠とみんながケンカしたら、
俺でも止めるのは大変そうだ﹂
﹁⋮⋮むぅ。良く見たら、泣いたあとがあるではないか。弱いとこ
ろを見せるのはやめてもらおう、こうやって抱きしめるだけでも、
私としてはいっぱいいっぱいなのだぞ﹂
ヴェルレーヌは頬を染めながら、手巾を出して俺の頬を拭ってく
れる。
こんなところを見られたら︱︱と思うが、師匠はやはりまだ目覚
めない。その代わりに、後ろから不穏な気配を感じて、俺はゆっく
り振り返った。
﹁⋮⋮こら。黙って見てるのは趣味が悪いぞ﹂
ミラルカ、ユマ、アイリーン、そしてすぐ隠れてしまったが、コ
ーディも観念して出てくる。
﹁向こうで待っていた方がいいかと思ったけれど⋮⋮そんな大事な
話をするなら、同席するべきだったわね﹂
﹁ひっく⋮⋮ぐすっ。ディックさん、お辛い思いをされていたんで
すね⋮⋮そんなに大事な人を、殺めなければならないと言われて⋮
⋮それを、誰にも言えずにいたなんて⋮⋮っ﹂
﹁なんていうか、究極に素直じゃない⋮⋮って言ったらいけないけ
ど、そう思っちゃった。でも、ディックがお師匠様を倒せたから、
素直な気持ちが言えるようになったんだよね⋮⋮あ、ごめん、泣い
てないよ?﹂
﹁⋮⋮君の悩みは、僕たちの誰より深いじゃないか。僕が悩んでい
604
たことが小さすぎて、恥ずかしくなるよ⋮⋮そういうのって、卑怯
じゃないかな?﹂
コーディはそう言うが、親友だからこそ言えないことというのも
ある。
それこそ、一生言うつもりはなかった。しかしもしそうなってい
たら、俺は彼女たちに、本当に心を開くことはできていなかっただ
ろう。
︱︱しかし、全部聞かれていたと思うと。
さすがの俺も、感情を抑制できるなんて強がりは言っていられず、
顔が熱くなるのがわかる。
﹁⋮⋮今のは、見なかったことにしてくれ。泣いたんじゃなくて、
突然目が痛くなっただけだ﹂
その言い訳が通じたのか否かは、五人の表情を見れば一目瞭然だ
った。
今にも笑い出しそうで、けれどもらい泣きしてるような顔で、皆
が部屋に入ってくる。しかしヴェルレーヌは、自分のものだと主張
するように俺を抱きしめて、肩越しに顔を乗り出して満足そうに微
笑んでいた。
605
第54話 回想と動き始めた時間
自分に眠る必要がないと知ったのは、回復魔法を睡眠不足による
疲労を取るために使えると知ったときだった。
魔力を回復するための基本的な方法は睡眠で、身体を成長させる
ためにも眠ることは不可欠だ。しかし眠る必要が無いとなると、時
に思うことがある。
眠るということは、限られた人生を無駄にするということだとも
いえる。眠らなければ、常に俺の中で物事は動き続けて、やりたい
と思うことをこなせる量が増える。
︱︱それでも俺は、人に合わせて眠り、朝方に目覚め、毎日の日
課である酒場の開店準備をし、食材の仕入れに行き、ギルド員に指
示を出す。
俺のギルドしか受けられない依頼を探し、それしか受けない。そ
うやって自分の好奇心を満たすこと、なかなか手に入らない報酬を
手に入れ、できることを増やすことだけを、目標としていた時期も
あった。
しかし実際にギルドを始めてみると、俺はギルド員の能力に合わ
せ、彼らの力を生かすことを第一に考えるようになった。危険な仕
事をするときは十分な配慮をし、必要ならばサポートして達成させ、
ギルド全体を成長させるように心がけてきた。
5年間、俺がずっと第一に考えてきたことは、ギルド員を一人も
606
依頼の中で死なせないことだった。
それは改めて考えることでもなく、ギルドマスターとして当然の
ことだ。ギルド員に仕事をしてもらう俺が、最も彼らの安全に気を
配るべきだと思った。
しかしその考えは、人の命は失われるべきではないという思いは、
師匠に通じるものではなかった。
人は簡単に死ぬもので、それは悲しいことではない。
当然のように訪れる死というものを、恐れる必要はない。だから、
自分を殺すことを躊躇う必要はない。
そう言う師匠を、俺は恐ろしいと思いながら︱︱同時に、超然と
した存在に対する憧れを覚えた。
ずっと敵わないはずだった。しかし師匠から教えを受け始めてあ
る日、俺は気が付いてしまった。
このまま学び続ければ、彼女を超えられる。彼女の望み通りにで
きる力を、手に入れられるということに。
◆◇◆
眠るつもりはなかったし、師匠をずっと起きて見ているつもりだ
った。
それでも夢を見ているということは、俺は自分を完全に律するこ
とができていないということだろう。
607
それとも、ヴェルレーヌと皆が来てくれて安心したからか。
ヴェルレーヌと共に、彼女たちが店の手伝いをしてくれると言っ
て部屋から出ていったあと、ほどなくして俺は眠りに落ちたようだ
った。
俺は、師匠と出会った当時︱︱十歳だった頃のことを思い出して
いた。
子供の頃、俺は成長するにつれて大きくなる魔力を制御できず、
意図しない魔法を発動させてしまうことがあり、同年代の子供たち
から怖がられ、遠ざけられていた。
代々うちは農家をやっていたが、父親は早くに引退し、長男︱︱
俺の一番上の兄に家を譲って、若い頃に志していたという冒険家の
道に戻り、家を出て行った。母親もそれについていったのだが、子
供たちは既に俺を含めて自分で生きていくことができる力を身につ
けていたため、両親の希望を受け入れた。
俺は三人の兄と二人の姉の意志に従った。五歳の頃から家の手伝
いをしていた俺だが、長兄は両親が出て行ったあとで、俺に子供ら
しいことをしても良いと言った。
しかし俺には、一緒に遊べる友人などいなかった。兄や姉は末の
弟である俺を可愛がってくれたが、彼らには彼らの交友があり、い
つも相手をしてもらうというわけにもいかなかった。
そうして俺は、山に出るようになった。山ならば、魔法が暴走し
ても誰にも迷惑をかけないし、元から探検の類が好きであったこと
608
もあり、家の手伝いを減らした分だけ山に行き、そのうち野営の仕
方を覚えると、数日家に帰らないこともあった。泥だらけになって
帰って来た俺を姉たちが捕まえ、風呂に入れてくれた︱︱兄たちは
﹁おまえはきっと大物になるよ﹂と笑っていた。
それまでの俺の狭い世界では、年の離れた兄たちは自分よりずっ
と立派だし、容易に追いつけないと思っていた。大人であるという
ことは俺にとって憧れであり、早くそうなりたいと思っていた。
冒険家として旅に出た父と母に会うには、自分も大人になり、同
じ道を選べばいいという思いも多少はあった。二人は時々帰ってく
るものの、滞在は短く、俺たちは引き留めるような理由も持ち合わ
せていなかった。
そんな家族の形を俺は悪いと思わないし、両親のことを非難する
気持ちもない。長兄を残して、他の兄たちも旅に出るようになり、
家に戻らなくなった。そういう血筋なのだと思う。
家を離れ、山にこもる時間が長くなっていくほど、俺は誰かと話
すということを忘れそうになり、その代わりに魔力の流れで獣の感
情を読み取ることができるようになった。
しかし俺は、獣にまで恐れられた。山に住む獣たちは、人間であ
る俺を受け入れず、近づいてくることはなかったし、攻撃してくる
こともあった。
それでも山で暮らし続けるうちに、感覚はどこまでも鋭敏になり、
自分がただの人間ではなくなっていくように感じた。険しい山奥で
生き延びる日々が、自覚なく俺の能力を強くしていたのだ。
609
ワイバーン
︱︱そして俺はあの日、豪雨の降り注ぐ中で雨宿りに駆け込んだ
山奥の洞窟で、傷ついた二足の飛竜に出会った。
冒険者の討伐対象となり、命からがら逃げてきた飛竜は、重傷に
よる死への恐れと人間への怒りから、近づこうとする俺を攻撃した。
飛竜ほど強い生物なら、俺の気持ちが分かるかもしれないと思っ
た。
その時の俺はもう、正気を失いかけていたのだと今は分かる。
魔力の暴走で、家族に迷惑をかけたくない。それで家に帰らずに
いるうちに、家族にもいつか忘れられるのではないかという恐怖が
あった。
飛竜は俺を受け入れず、爪を振るい、炎を吐きかけた。俺はあき
らめず、山で採った薬草をすり潰して作った薬を、飛竜に塗ってや
ろうとした。
飛竜が苦痛によって気絶したところで、俺は薬を塗った。そこで
俺の意識は、一度途絶えた。
自分のことは、どうなろうと興味はなかった。
飛竜がそのまま死んでしまったなら、そのことにだけは後悔があ
った。そして最後に、俺は家族のことを思い出し、ようやくかすか
に思った。
ここで死ぬことには、意味がない。そのことをひどく寂しく、虚
610
しいと感じた。
俺にはしたいことがあった。父と母のように冒険に出て、知らな
い世界を見て︱︱そして。
普通の人のように、人の中で生きたかった。
ワイ
まだただの子供でいられたころに、村の子供たちと遊んだ日々が、
途切れ途切れにめぐった。
バーン
結論からいうと、その時俺を助けたのが師匠だった。傷ついた飛
竜が飛んでいくのを見た彼女は、なぜか追いかけてみる気になって、
叩き付けるような雨の山林を転移しながら移動してきたという。
リ
そして、いつの間にか俺の目の前に立っていた。火傷と爪による
カバーライト
傷でぼろ屑のようになっていた俺を覗き込み、手をかざし︱︱﹃快
癒の光﹄を使った。
目覚めたとき、俺は焚火のそばで、師匠に膝枕をされていた。
揺らめく明かりの中で初めて見る、透き通るような銀色の髪を持
つ師匠は、この世の存在とは思えないほど美しく見えた。
彼女は俺の頭を撫で、頬に触れて微笑みながら、優しく語りかけ
てきた。
その声を聴いた時から、俺は彼女に心酔していた。文字通り、心
を奪われていた。
611
﹁君の名前はディック・シルバーって言うんだね﹂
﹁⋮⋮どうして、おれの⋮⋮﹂
久しぶりに出した声はしゃがれていて、自分の声でないように感
じた。師匠は口元を押さえて笑い、俺に目を閉じるように促した。
﹁もう少し寝てたほうがいいよ。大丈夫、この子は君に感謝してる
よ。痛くて、苦しくて、暴れてただけだよ﹂
彼女には、飛竜の気持ちが分かる。
自分と同じだ。やっと仲間を見つけられた、そんな勝手な思いが、
俺の胸を焦がれるほど熱くさせた。
出会ったばかりの彼女は、ひたすらに優しかった。
後になって、本当は生死というものにさして興味がないことを知
るまで、俺は彼女に信仰に近いものを抱いていた。
柔らかい膝の感触。それほど年齢が離れているように見えないが、
身を預けたときの安心感は、二度と抜け出せなくなると自覚できる
ほどだった。
彼女のためならば、俺は何でもできると思った。
何をしたら、感謝の気持ちを伝えられるのか。
どうしたら喜んでもらえるのか、そう尋ねて、いつもと変わらぬ
612
笑顔で彼女が答えるまでは。
◆◇◆
焚き火の光ではない、暖色の光が頬に当たっていた。
まだ昼だったはずなのに、目を覚ますと夕暮れ時になっていた。
髪に、触れられていることに気が付いた。俺は師匠の寝ているベ
ッドに伏して、うたた寝をしていたのだ。
触れている指が動いた。そうやって触れられていたから、俺は昔
の夢を見たのだと思った。
そうやって、俺は彼女に出会った。師匠、師匠と呼んで、彼女の
後ろをついて回った。
俺のことを、自分のものだと彼女は言った。5年前まで、それは
紛れもなく事実だった。
俺が失った他者との繋がりをもう一度与えてくれたのは、この世
界で生き続けることを望まない彼女だった。
だが、最後の望みをかけて、俺は言う。5年前には、失望させる
ことが怖くて言えなかったことを。
﹁俺は師匠に、生きてて欲しいんだ﹂
613
喉が痛んで、しゃがれた声が出た。それもまた、初めの時と同じ
だった。
俺の髪に触れる、師匠の指が止まった。俺はまだ、顔を上げるこ
とができなかった。
﹁殺してくれなんて言わないでくれ。俺にとって、それは自分を殺
すのと同じことなんだ﹂
答えは返ってこなかった。彼女の心を変えることは簡単じゃない、
そう分かっている。
師匠は何も言わないまま。止まっていた指が、かすかに動いた。
︱︱そしてその手が、俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。そこで俺
はようやく顔を上げ、師匠を見た。
彼女は静かに微笑んでいた。大きな瞳に俺を映して、差し込む光
を受けて、俺のことを肯定してくれていた。
﹁⋮⋮君にとって命と同じくらい大切な人は、私だけじゃない。そ
れが、王都に戻ってきて良くわかった﹂
﹁俺は⋮⋮﹂
﹁君は元から、人の中で生きていくべきだった。私は、そのための
道筋をつけてあげただけ。気まぐれで助けただけで、そんなに恩を
感じる必要なんてなかった⋮⋮なのに、いつの間にか、私の方が君
に依存していた﹂
彼女の瞳には、殺してくれと口にする時の狂気はもうなかった。
614
長い間見ていた悪夢から覚めたようだった。俺の言葉が、彼女に
届き、聞き入れられている。それは師匠のもとを離れるまで、どれ
だけ願っても叶わなかったことだ。
﹁初めて失うことが怖いと思った。私は、君に殺されて終わるのな
ら、寂しくないと思った。寂しいなんて気持ちは、ずっと昔に忘れ
たつもりだったのに⋮⋮おかしいね。いつ、思い出しちゃったんだ
ろうね﹂
﹁⋮⋮師匠は⋮⋮ずっと寂しかったんだ。ただ、気が付かなかった
だけで﹂
そんな傲慢な決めつけを、口にしていいはずもないのに、気が付
けば声に出していた。
頬を打たれても仕方がないと思った。まだ二十年も生きていない
俺に、何が分かると。
だが、俺の想像通りにはならなかった。
師匠はベッドの上で顔を背け、窓の方を見た。その長い髪を窓か
ら入って来た微風が揺らし、その頬に光る滴を覆い隠そうとする。
﹁⋮⋮ディック・シルバー。やっぱり君は今でも、やんちゃな﹃デ
ィー君﹄だね﹂
﹁⋮⋮ごめん。成長してるつもりが、そうでもなかったかな﹂
師匠はこちらを向かない。意地になっているようで、それとも違
う。
なぜなら彼女は、笑っている。道化師の笑顔ではなく、自然で、
こちらまで嬉しくなるほどの笑顔で。
615
﹁⋮⋮師匠。これから、色んな所に謝罪しなきゃならないし、許さ
れるかどうかも分からないこともある。俺を今でもあんたの弟子だ
と思ってくれてるなら、俺も一緒に責任を取る。それで今回のこと
は、一度決着をつけよう﹂
﹁ディー君は私に恩を売って、死なないで欲しいっていうの?﹂
﹁それは⋮⋮そうだな。これくらいのことで、師匠が言うことを聞
いてくれるとは⋮⋮﹂
思わない。そういう前に、師匠は涙を拭いてからこちらを見た。
﹁私はディー君に負けちゃったから、本当は発言する権利はないん
だけど、一つだけお願いをさせてくれる?﹂
﹁⋮⋮殺してくれ、以外なら。何でも承るよ﹂
﹁ディー君がおじいちゃんになって、もう死んじゃうって時になっ
たら、その時には私を連れていって。それまで、私はできるだけ、
ディー君の邪魔をしないように生きるから﹂
それは、彼女にとって最大限の譲歩で︱︱それでも俺は、弱音を
口にしてしまう。
﹁⋮⋮それなら俺は、師匠も老衰で亡くなるための方法を探すよ﹂
﹁それ、本当にあるのかな? 少なくとも私が探してきた限りでは、
見当たらなかったけど﹂
﹁じゃあ⋮⋮俺も不老不死になるか。それは、みんなに怒られるか﹂
﹁ディー君と一緒だったら、みんなはずっとこのままでいたいと思
うかもしれないね﹂
そんなことを言ったら、ミラルカたちは笑うだろうか。それとも
不老不死というものに、興味を抱くのだろうか。
616
選べる選択肢ならば、手に入れておきたい。そう思うが、絶対に
手に入れたいわけでもない。
師匠を孤独にしないと決めた今、そのための方法は、幾らでもあ
るはずだ。彼女が死を望まないのなら。
彼女の罪を考えると、すぐに穏やかな日々が始まるというわけで
はないが︱︱それでも、今までよりはずっといい。
﹁⋮⋮師匠に、聞きたいことがあるんだ。出会ってから今まで、ず
っと気になってたんだけど﹂
﹁私の名前? それはね、忘れちゃった。大昔にはあったような気
がするけど、誰も呼ばなくなったから﹂
﹁そうなのか⋮⋮﹂
今なら聞けると思ったが、そう言われてしまっては仕方がない。
﹁俺も﹃忘却のなんとか﹄なんて言われてたから、師匠譲りなのか
もな﹂
﹁今ごろ気がついた? 私と同じでギルドマスターもしてるし、デ
ィー君は私と行動がよく似てるよ。情報網のつくりかたは、ちょっ
と甘いかなと思ったけどね。おおむね、よくできました、って言っ
ていいかな﹂
久しぶりに褒められた気がする。もうずっと昔で、最後にそうさ
れたのがいつかも覚えていないが。
﹁⋮⋮レイスのベアトリスと同じで、これからは私もディー君の眷
属みたいなものになるから。ふたりめだね、ディー君の家名をもら
617
うのは﹂
﹁い、いいのか? 師匠はベアトリスの場合とは⋮⋮﹂
﹁家名はそれでいいとして、名前のほうは、ディー君に考えてもら
おうかな。師匠って呼ばれるのも、私は嫌いじゃないけど⋮⋮ディ
ー君の方が強いから、もう私の弟子からは卒業しちゃってるからね。
一人前として、認めてあげないとね﹂
﹁⋮⋮そいつは光栄だ。じゃあ俺も、師匠を一人の人間として認め
て、まずやってほしいことがあるんだ﹂
﹁ディー君、いたずらっぽい顔だね。私に何をさせようって言うの
?﹂
怪訝そうながらも、楽しそうな顔をする師匠に、俺はこのギルド
に入った者への通過儀礼を申し付ける。
まずは、酒場の夜の部に向けての準備を手伝ってもらう。先輩の
ヴェルレーヌ、ミヅハ、そして階下にいるだろうミラルカたちと一
緒に。
618
第55話 仮面の酒場と狼人族の親子
師匠が俺の言うことを素直に聞いてくれるなど、今までなら考え
られなかったことなのだが、酒場を手伝ってくれというのをそのま
ま受け入れ、彼女は今着替える前にお風呂に入りたいと言って入浴
している。
風呂の扉は湿気ないように防水加工を施してある。こんなことを
しているのは王都でも一部の家だけで、貴族ですらこんな加工の仕
方は知らない。これはカルディラ食料品店に行ったとき、﹃珍しい
ものを見つけた﹄と言って見せられた﹃ラバルの樹皮﹄というのを
利用するのだが、この樹皮に含まれている樹液を取り出し、それに
ある加工を施すことで、防水効果のある物質になるのである。
これを利用すれば、雨の日にも使えるし、湿地帯を歩くためにも
適した靴などが作れそうだと思うが、ラバルの樹皮が大量に必要に
なるので、王都にその技術がもたらされる日はまだ遠そうだった。
︱︱というのはいいとして、風呂場からは、なぜか一緒に入浴し
ているミヅハと師匠の声が聞こえてくる。ミヅハも夜の部のウェイ
トレスとして店に出る前に、風呂に入りたいと言いだしたのである。
﹁うちを獣の姿にする首輪を作ったって⋮⋮なんで、うちに直接言
うんですか?﹂
風呂場の中の様子は分からないが、声だけが聞こえる。師匠は、
ミヅハがガラムドア商会に捕まった件にも関わっている︱︱それを、
自らミヅハに明かしたようだった。
619
﹁ディックは私が師匠だから、私がしたことを一緒に謝るって言っ
てくれたけど、それは違うって私でも分かるから。私のことが憎か
ったら、どんなことをしてくれても構わないよ﹂
師匠なら、そういうことを言い出す可能性はあると思っていた。
彼女は自分がしたことを悪辣なことだと分かっていたのだから、被
害を与えた人々の悪感情についても理解している。
これまでなら、憎まれても彼女は気にしなかっただろう。しかし
今の師匠は、俺と戦ったことで大きく変わったように見える。
﹁うちは、許します。だって、うちが狐の姿になってなければ、悪
い商人から逃げてなかったら、ここに来ることもできてませんでし
た。兄上様も、ディック様の所に来られてから、毎日いきいきして
ます。青の射手亭の仕事は、兄上様の心を苦しめるものもありまし
たから﹂
﹁⋮⋮本当にいいの? 私はどんな償いでもするよ﹂
﹁いいんです。うちには、何となくわかるんです。さっき見たディ
ック様は、何ていうか⋮⋮うちみたいなちんちくりんがこういう言
い方するのも変ですけど、子供みたいに無邪気に見えたんです。お
師匠様と会えたのが、ほんとに嬉しいっていうのがわかりました﹂
それはミヅハの言う通りなのかもしれないが、そんな話をされる
と落ち着かないことこの上なかった。
身体を拭くためのタオルを持ってきただけなので、盗み聞きは良
くない。タオルをここに置いておくぞ、と声をかけようと思ったが、
やめにして脱衣所を出ようとする。
620
﹁そうや、ディック様のお師匠様やったら、うちは孫弟子やって思
っててもいいですか?﹂
﹁⋮⋮青狐族の村にはね、すごく大昔に行ったことがあるから、ミ
ヅハの村のことも知ってるかもしれない。ココノビの実っていうの
があってね、それを改良して、寒い中でも大きく実が育つようにし
たの。今でも育ててくれてるのかな。他にもっと美味しいものが見
つかったかな?﹂
それを聞いて、俺は思う。ココノビは食べやすいように品種改良
されていると俺は思った。それすら師匠が関わっていたとなると、
このアルベインを見回すだけで、どれだけ彼女の功績が残っている
のだろう。
何もかも全て、ということではないにしても、長く生きるという
ことはそういうことだ。決して死ぬためだけに旅を続けてきたので
はないと思うと、少なからず安堵する。
階下に降りると、ヴェルレーヌが新人店員︱︱というか、手伝っ
てくれている魔王討伐隊の面々に、仕事内容を言い渡していた。
﹁皆様手伝ってくださるとのことですので、本日は私を店主、チー
ムリーダーとして信頼し、ついてきてもらうことになるが良いのだ
な?﹂
﹁口調は接客用のもので固定した方がいいんじゃないのかしら⋮⋮
急に変わったらお客さんに誤解を受けるわよ﹂
﹁あの、店主さまはディックさんではないのでしょうか?﹂
ミラルカとユマ、そして全員が、それぞれの制服に着替えている。
コーディは男装のウェイターで、他の三人はウェイトレスの制服と
いうか、ヴェルレーヌと同じメイド服だ。
621
こうして見ると、コーディはとても女性にもてそうだ。貴族の令
嬢たちは彼女が夜会に出てくるのを未だに待ち望んでいるというが、
本当に出たらそれはもう、宮廷演劇の役者のように持て囃されるだ
ろう。実際に、女性だけの演劇団というのもあり、かなりの人気を
博しているらしい。
そして他の三人は︱︱ユマのメイド服だけ胸のサイズが合ってな
いらしく、少しぶかぶかになっているが、他の二人は見事にヴェル
レーヌ仕様のメイド服を着こなしていた。アイリーンはスカートが
短いが、それは彼女のこだわりらしく、ヴェルレーヌは﹃従者のス
カートは長く、肌の露出を減らすのがたしなみ﹄と言ってはばから
ない。あくまでオーナーとして、全員の店員姿を俺は合格と評価す
る。そうはっきり言ってしまうと、ミラルカに下等な生き物を見る
目で見られてしまいそうだが。
﹁御主人様は、陰のオーナーというべき存在です。私は雇われの店
主ですが、この酒場の運営においては総責任者という立場になりま
す。皆さんには私の指示を聞いていただき⋮⋮﹂
﹁では、店長。着替えておいて何なのだけど、この服で男性客の前
に出るのは気が進まないから、厨房の手伝いを専任させてもらって
いいかしら﹂
﹁大丈夫、ミラルカは顔を出すと知ってる人が来た時に困るから、
仮面をつけることになってるから﹂
﹁っ⋮⋮そんなことは聞いていないわよ。仮面なんてつけて接客し
ていたら、まるで怪しいお店みたいじゃない﹂
﹁でも、確かに⋮⋮僕も知り合いが来ることはそうそうないと思う
けれど、部下が来たら困るな⋮⋮仮面というのはいいかもしれない
ね﹂
﹁皆さんで同じ装いでしたら、恥ずかしがることもないですし、私
622
はいいと思います♪﹂
ユマは聖職者だが、いつもノリがいいというか、ムードメーカー
としての資質には稀有なものがあると思う。彼女が賛成すると、﹃
ユマがそう言うなら﹄という空気になるのだ。
﹁アイリーン様、そのスカートの丈についてはしつこいと言われよ
うと再三注意をしたいのですが⋮⋮﹂
﹁え、この中はドロワーズだから大丈夫じゃない?﹂
﹁ドロワーズといえど肌着と考えるのが、淑女のたしなみというも
のです。常日頃の、スリットの深いドレスについても、みだりにご
主人様を刺激する危険があるので、私としては危機感を感じている
のです﹂
﹁あ、あれは別にそういうつもりじゃなくて、武闘家としてのたし
なみっていうか⋮⋮﹂
﹁たしなみという言葉はこれほど連呼するものではないと思うのだ
けど、私も魔法大学教授のたしなみとして、ウェイトレスのバイト
をしていると大学に知れたら示しがつかないわ。だから調理担当を
させて﹂
﹁ミラルカ様は、調理の免許を持っているのですか?﹂
﹁っ⋮⋮そ、そんなものを急に持ち出すなんて卑怯よ。私をどうし
ても接客させたいの? いいわ、全員殲滅してあげる﹂
そう恥ずかしがるのも無理はないと思う。彼女に接客されたら、
それは男性客なら見とれずにいられないだろう︱︱驚くべきことだ
が、ヴェルレーヌのサイズでも窮屈そうで、胸が凄いことになって
いる。
︵そこばかりに目が行くのは良くない⋮⋮しかし⋮⋮俺は、メイド
服が好きだったんだな⋮⋮︶
623
ヴェルレーヌが初めて着た時は、驚きの方が勝っていたが、いつ
も違う装いしか見ていない彼女たちが身に着けると、なぜこうも心
を揺らされるのだろう。
コーディはユマの袖が余っていることに気づき、手がちゃんと出
るように折り返す。そして他の皆の服装も確認し、最後に自分のシ
ャツの襟を正した。
﹁ディックをがっかりさせないように、新人だけど頑張って仕事を
させてもらうよ。それで、仮面は?﹂
﹁仮面は必須なのですね。では、今夜の銀の水瓶亭は、仮面舞踏会
ということにいたしましょうか﹂
﹁踊らなくてもいいけど、仮面をつけることに理由をつけてもらえ
るのはありがたいわね。私たちが趣味でやっていると思われたら恥
ずかしいもの﹂
﹁でも、素敵ですね。舞踏会⋮⋮私、一度も見たことがないので﹂
﹁ふふーん、じゃあディックが降りてきたら、あたしがステップを
教えてあげようかな。たまには出し物とかしたりするしね、このお
店でも﹂
アイリーンだと舞踏会というより武闘会になってしまう。彼女は
故郷の祭りにおいて、祖先に舞いを納める踊り子を担当しているが、
それはどうやら武術における演舞のようなものらしいのである。
﹁ステップということなら、私も手習いだけど、少しくらいは身に
つけているけれど⋮⋮﹂
﹁楽しそうだけど、僕はこの格好だと、女性をエスコートすること
になるのかな﹂
﹁女性のお客様には喜んでいただけると思います。今夜は店内の装
いとして仮面舞踏会と銘打ちますが、実際にホールで踊っていただ
624
けるような催しも、ゆくゆくは開いても良いかもしれません。ご主
人様は、賑やかすぎるのはお好みでないかもしれませんが﹂
﹁ああいや、そうと限ったことでもないぞ﹂
ここで姿を現すのもどうかと思ったが、普通に出ていく。みんな
俺を見るなり、ほっと安心した顔をする。
﹁おはよう、ディック。どうやら、彼女との話はついたみたいだね﹂
﹁ああ、今後も敵対するってことはなくて⋮⋮俺のところで預かる
というか、そういう感じになりそうだ。この家じゃなくて、ベアト
リスの屋敷に住んでもらうかもしれないが﹂
﹁そうなの? 同居するものだと思っていたけれど⋮⋮﹂
﹁ひとつ屋根の下だと、やっぱりディックも年頃だからね。お師匠
様、あんまり歳が離れてないように見えるけど、いったい何歳くら
いなの?﹂
師匠が﹃遺された者﹄だとして、ヴェルレーヌの推測通りだと桁
違いの数字になりそうだ。人間が世界に生まれた時から生きてるか
もしれないと言ったところで、みんなを唖然とさせてしまうだけだ
ろう。
しかし逆に、みんなからすると、師匠の年齢はいくつくらいに見
えるのだろうか。
﹁実は俺も、よく知らないんだ。師匠の容姿だけ見て、何歳くらい
に見える?﹂
﹁年齢については、想像だけで口にするのは良くないけれど⋮⋮見
た目だけなら、私と同じくらいかしら﹂
﹁うーん、あたしも年上っていうふうには見れないっていうか、デ
ィックと比べると、あの人が妹に見えるくらいっていうか。そんな
625
に幼いってふうでもないけど﹂
﹁私よりずっと大人の方に見えますし、包容力というか⋮⋮言葉を
選ばずに言うのであれば、お母さまにも似た慈愛を感じます。とて
も孤独で、虚ろなところもあるのですが、本当はあたたかい方なの
だと思います﹂
ユマは見た目というより、魂を見ているのだろう。師匠の不安定
さのようなものも、彼女はしっかりと感じ取っている。
ミラルカとアイリーンがそう言うのならば、やはり師匠は俺と変
わらない歳に見えるのだろう。出会った頃から全く変わっておらず、
髪型こそ少し違うが、その長さも変わっていない。
﹁僕も同じくらいか、少し下に見えるかな。一瞬、少女のようだと
思ったくらいだよ﹂
﹁そうか。じゃあ、十六歳か十七歳ってところか⋮⋮対外的には、
そういうことにしておくかな。ヴェルレーヌ、二人が風呂から出た
ら、着替えさせてやってくれるか﹂
﹁かしこまりました。本日は人員が充実しておりますし、ミラルカ
様にも希望の配置についていただきましょう。他の方々も、希望が
あればご提案ください﹂
そしてつつがなく分担が決まり、ミラルカとユマはカウンターの
中に入ってヴェルレーヌの助手をすることになった。
コーディとアイリーンはホール担当で、先に出てきたミヅハもそ
の中に加わることになった。
そして師匠はというと︱︱ヴェルレーヌに着付けをさせられて出
てくると、俺も正直を言って圧倒されてしまった。
626
﹁ディー君のお店の子たちは、こんな服を着て働いているんだね。
これは、ディー君の趣味?﹂
﹁い、いや⋮⋮ヴェルレーヌの影響なんだ﹂
﹁そして、ご主人様にお気に召していただけたという流れになりま
す。今も大変喜ばれているようで⋮⋮﹂
﹁私も悪くないと思う。このヘッドドレスは特に気に入ったから、
いつもこの服でもいいよ﹂
師匠がどんな服を好きだとか、そんなことは全く知らなかった︱
︱俺は彼女の何を見てきたのだろうと思う。
しかしいかにメイド服が似合っていても、そればかりに見とれて
いるわけにはいかない。まだ、浮かれていい状況ではない︱︱それ
は忘れてはならないことだ。
﹁最初は自分で見て仕事を覚えるから、見学していていい?﹂
﹁はい、そうしていただければ⋮⋮﹂
ヴェルレーヌが答えかけたところで、カランコロン、とドアベル
が鳴った。
そうして、二人の客を案内してきたのは、サクヤさんだった。一
人はいかにも戦士という体格の、狼人族の男性。そして、同じ種族
の少女だ。年齢はミヅハと同じくらいだろうか。男性と同じ、黒と
銀の混じった髪をしている。
師匠は、彼らが何者かを察したようだった。最初にサクヤさんを、
次に狼人族の二人を、静かに見つめる。
627
﹁マスター、ご紹介します。ギュスターブ・ヴォルフガングさんと、
そのご息女のミミアさんです﹂
ガラムドア商会によって囚われ、売られそうになっていた、獣化
能力を持つ狼人族の少女。そして、彼女を助けるために王都にやっ
てきた父親。
少女︱︱ミミアは、師匠の作った首輪によって獣化したままで留
められていた。彼女は緊張しながら、俺達を一人ずつ見ている。
﹁初めて挨拶させてもらう、ギュスターブという者だ。ここに、娘
の件に加担した者がいるという話だが⋮⋮﹂
﹁私がそう。あなたを捕まえるための首輪を作ったのは、私﹂
師匠は自らそう言うと、狼人族のふたりの前に出た。ギュスター
ブは長身で、師匠が子供のように小さく見えるほど体躯が大きく、
娘の三倍はあるのではないかというほどだ。
ギュスターブは師匠を見る目を細め、かすかに怒りを漲らせたが
︱︱ミミアに手を握られ、首を振った。
﹁⋮⋮娘は無事だった。こんな言い方も忌々しいが、奴らは獣化し
た娘を大事な商品とみなしていたから、最悪の事態は免れた。この
女があの忌々しい首輪を作ったとして、それを利用したのはガラム
ドア商会だ。俺が求めることは一つ、二度とこんな首輪を作らない
こと。そして可能ならば、拡散した首輪を回収することだ。俺は娘
を村に連れて帰らねばならん。既に売られた獣人を解放したいが、
俺にも家族があるからな﹂
﹁お父さん⋮⋮ごめんなさい。私が、外にあこがれて、家出なんて
したから⋮⋮﹂
628
﹁いや、お前は謝らなくてもいい。もう、お父さんは全部許したか
らな。無事でいてくれたこと、それだけで十分に報われたよ﹂
ミミアの肩に手を置いてギュスターブは言う。そして立ち去ろう
とする彼らの背中を、ヴェルレーヌが呼び止めた。
﹁お客様方、よろしければもう少しだけご滞在ください。まだ開店
を迎えてはおりませんが、お二人をおもてなしさせていただければ
と、オーナーならびに従業員一同願っております﹂
﹁⋮⋮いいのか? 王都では、獣人を嫌う者も多いだろう﹂
ギュスターブが心配する気持ちは分かる。しかし、俺のギルドは
一貫して、獣人を差別することはない。
俺は二人の前に出て、そして言った。それだけは、ヴェルレーヌ
に代弁してもらうわけにはいかない。
﹁この酒場では、どんな種族も関係ない。できれば、旨いものでも
食べていってくれ﹂
思えば、ガラムドア商会の件が、今回の発端だった。
獣人に対する差別。希少動物として扱われた獣人たち︱︱そんな
ことが二度と繰り返されないよう、これから行動しなくてはならな
い。
そして師匠の弟子として、ギュスターブ父子への謝罪の意味もあ
るが、心ばかりのもてなしがしたい。
戸惑っていたギュスターブは、ミミアの顔を見やる。つぶらな瞳
629
で父を見上げたあと、まだ緊張した様子のまま、少女は俺を見る。
これから何が起こるのかと、不思議そうな顔をして。
630
第56話 雪解けへの道と、弟子から師匠へ
夜の部が開店し、次々に客が来店する。仮面をつけた魔王討伐隊
の面々を見て、それでも仮面の下の美貌は感じ取れるのか、男性客
は素顔を気にしていたが、無粋な詮索はしなかった。
コーディは女性客に人気で、その接客も初めてだというのにさま
になっている。アイリーンも快活に客を席に案内し、よく通る声で
オーダーを通す。
スラム街でたくましく生きる常連の男たちが乾杯をして、いかに
も訳ありな姿をした女性が隅の席で通好みのブレンドをたしなみ、
リゲルとマッキンリーがエールのジョッキを突き合わせ、珍しくゼ
クトもその席に加わっている。
ライアとリーザ、そしてサクヤさんは、師匠のことが気になって
いるようだった。当の師匠は俺が想像した以上に仕事の飲み込みが
早く、接客が淡々としていることが少し気になる程度で、コーディ・
アイリーンと共にホールは問題なく回っている。
師匠は仕事をする傍ら、いつでもこちらに来られるように目を配
っていた。首輪によって囚われてしまったミミアは、やはりまだ、
師匠のことを怖がっている。
まだ師匠は謝罪の言葉を口にしていない。自分がミミアの誘拐に
加担したことを告げて、それで父親のギュスターブに罰されると思
っていたようだが、そうはならなかった。
631
娘をさらわれてもなお、ギュスターブ︱︱いや、年上なのだから
敬称をつけるべきだろう。ギュスターブさんが師匠を責めなかった
ことについて、俺自身も意外だと感じていた。
狼人族の親子は、今はカウンターに座って落ち着かなさそうにし
ている。娘のミミアは膝の上に手を置いて身をぎゅっと縮こまらせ
ているが、酒場の喧騒は新鮮に感じているようで、好奇心をそそら
れていることを示すように、ふさふさの尻尾が音に合わせてふわふ
わと揺れている。
﹁⋮⋮あそこにいる獣人は、普通に耳を見せているな。外を歩くと
きは、フードで隠している者がほとんどだったが。本当にこの酒場
は、獣人を差別しないのか﹂
﹁王都の全員が、獣人に偏見を持ってるわけじゃない。ライアの主
人は、騎士団の百人長を務めている人間の女性だ。二人とも、そう
そう真似できないくらいに互いを信頼し合ってる﹂
﹁そうか⋮⋮王都で暮らしている獣人全てが、蔑視を受けているわ
けではないんだな﹂
ギュスターブさんは狼の毛質をした顎髭を撫で、三角の耳を垂れ
る。獣人は耳に感情が出る︱︱それはミミアも同じで、話を聞きな
がらフードを取りたそうにしていた。耳にかぶさっていると気にな
るのだろう。
それにしても父親は剛毅そのものだが、娘は小柄︱︱というと、
ユマの家もそうなので、ユマはこの親子に親近感を感じているよう
だった。カウンターの中でヴェルレーヌの指導を受け、ギュスター
ブさんに出す黒エールの泡を消さないように注いでいる。ミラルカ
は自分から志願して、ミミアに出すための飲み物を作っていた。教
授らしく、少しの狂いもなくレシピ通りに作るために、秤まで使っ
632
て材料を量っている。
﹁お待たせいたしました、お客様﹂
﹁ん、俺はまだ何も頼んでないが﹂
﹁そちらのお客様⋮⋮いえ、オーナーからでございます﹂
いつもと同じ流れだが、隅で飲んでいる酔っ払いからという流れ
でないと、微妙に気恥ずかしいものがあった。ギュスターブさんは
黒エールを受け取り、しばらく呆然としていたが、くっ、と口元に
笑みを浮かべる。
﹁ミミア、飲んでもいいか。父さん、今日は酔っ払わないからな﹂
﹁⋮⋮私のことは、気にしなくていい。お父さん、お酒好きだから、
いっぱい飲んで﹂
見た目から推察できる年齢にしては、話し方がたどたどしいのは、
まだ捕まっていた時のショックが抜けていないからか︱︱そう思う
と、胸が詰まる。
﹁俺が思うに、あんたは何も気に病む必要はないと思うが⋮⋮あの
サクヤという月兎族は、俺を娘のところに案内してくれた。娘を助
けたのはあんたのギルドだ。そんなあんたの仲間があの首輪を作っ
たというのは、何かしらの訳ありなんだろうが、俺には難しいこと
はわからん。一つ言えるのは、あの娘に俺が復讐したところで、ミ
ミアは喜ばんということだ﹂
﹁⋮⋮あの人が首輪を作ったっていうのは、今でも怖い。でも、こ
のギルドが私を助けてくれたのなら、あの人が悪いことをしないよ
うに、見ていてくれる。それなら、安心できる﹂
師匠は遠くから俺たちを見て、会話を聞いている。その瞳を見て
633
も、何を考えているのかまでは分からない。
﹁俺の単純な頭では、まったく理解が追いつかん。恩人のところに
憎むべき相手がいるというのは、複雑すぎていかんな。そしてその
憎むべき相手が、あんな少女となればなおさらだ。悪事を働くのな
ら、もっと凶悪な外見をしていてもらいたいもんだ﹂
﹁⋮⋮ギュスターブさん。ミミアも、それで許してくれるのか?﹂
﹁⋮⋮本当のことを言うと、獣になっていた時のことは覚えてない
から、いつの間にかお医者様のところにいて、お父さんが来てくれ
てた。だから、怖かったのは首輪をつけられた時だけ。でも、もう
はずれた﹂
あざ
彼女はそう言って首元を見せる。首輪のあともなく、拘束されて
いたことによる痣などは残っていなかった。それは、獣人の回復力
によるところもあるだろう。
﹁私は、ここにお礼を言おうと思って来た。サクヤさんは、ここの
偉い人にお仕えしてるって言ってた﹂
ミミアが比較的、このギルドや俺たちに好意的な理由が分かった。
ミミアを助け、父親と引き合わせたサクヤさんに感謝しているから
だ。
そして俺が師匠と組んで、獣人を捕まえていた︱︱と疑われるこ
ともなかったのは、やはりサクヤさんの話し方が良かったのだろう。
普通ならば俺と師匠の関係を見て、共謀を疑われてもおかしくない。
﹁お客様方、大切な話の途中で失礼いたします。エールは泡を楽し
むものでございますから、消える前にお飲みいただければ幸いです﹂
﹁ああ、そうだな。では⋮⋮娘のことで、世話になった。改めて礼
634
を言わせてもらう﹂
﹁⋮⋮お父さん、乾杯は?﹂
ミミアがギュスターブさんの肘をつついて言う。すると彼は苦笑
して、身体を引いて娘も乾杯できるようにすると、三人で杯を合わ
せてくれた。
﹁乾杯﹂
﹁ああ、すまんな。娘はどうも、こういう酒場でのやりとりに憧れ
ていたようだ﹂
﹁大人になったら、お父さんみたいにお酒を飲めるから、楽しみに
してた⋮⋮でも、お酒じゃないみたい﹂
﹁おまえにはまだ少し早いな。王都では、16歳から飲んでも問題
ないそうだ﹂
ギュスターブさんは王都の法を知っている。娘を助けるために訪
れた彼は、王都に良い印象を持っていないように見えたが、王都の
ことを全く知ろうとしないということではなかったようだ。
獣人たちのほうが、人間に対して理解を示そうとしている。それ
でも突き放してしまう人間が多いのは、﹁獣人は人間より強く、集
団になれば人間を駆逐することができる﹂という恐怖からきている。
実際に人間が獣人に支配されている地域もあるため、無理もない
部分はある。しかし王都で人間がしていることは、多数派として力
を振りかざし、獣人に圧力を加えることによる支配だ。
﹁種族の違いを、人間のすべてが受け入れられるわけじゃないかも
しれない。でも、今よりは、わだかまりを薄くできればと思う。人
間が獣人を利用するなんてことが、二度と起こらないように﹂
635
﹁⋮⋮あんたのような人間が増えれば、それも不可能ではないのか
もな。いや、俺も何か行動を起こすべきだと分かってはいる。親父
はもう老いているから、俺はじきに次の族長になる。狼人族の代表
として、他の獣人族にも働きかけ、人間と和議の場を持ちたい﹂
ギュスターブさん、そして虎人族の族長の玄孫であるリコ。彼ら
の力を借りれば、アルベイン王国の全ての獣人の代表と、人間側の
代表が一同に会し、すべての種族の今後を考えられるかもしれない。
国王陛下と交渉し、大々的に全種族会議を呼び掛けてもらうとい
う手もある。しかしまずしておくべきことは、俺が今までのように
陰で動き、一つ一つの種族の理解を得ることだ。
獣人は王国の干渉を警戒し、各地に分散して暮らしている。そん
な彼らを集合させようとしても、簡単にはいかないだろう。事前に
王国側の獣人差別派を説得し、態度を軟化させ、相互理解を導かな
くてはならない。そのうえで集まらなければ、悲劇が起こることも
ありうる。
人間と獣人が和解できれば、それは王国の歴史に残る出来事にな
るだろう。
そこに名前を刻むのは、表舞台に立つ人物に任せたい。俺はお膳
立てをするだけだ︱︱そう、国王陛下の息女であり、王位継承権を
持つマナリナに、百年、いや千年続く花を持たせる。もちろん、彼
女とも話して、その意向を汲む必要はあるが。
何もかもが、師匠の代わりに詫びたいからというわけではない。
獣人たちと話し、その想いを知るうちに、何かがしたいという気
持ちになっただけだ。
636
﹁⋮⋮堅苦しい話は一旦置いておくか。旨そうな酒だ⋮⋮こんな酒
は、村では飲んだことがない﹂
黒いエールのジョッキに口をつけ、ギュスターブさんはぐいっと
飲む。
そこでピタリ、と彼は固まると︱︱残った黒エールを一気に喉に
流し込んでしまった。
﹁っ⋮⋮かはぁ⋮⋮なんだこれは。なんなんだこの酒は⋮⋮うまい。
旨すぎる⋮⋮!﹂
すでに一杯目で目を赤らめ、ギュスターブさんが興奮気味に言う。
ミミアは隣で驚いていたが、父の飲みっぷりを見届けたあとに、自
分のドリンクを見る。
ミルクに狼人族が好む﹃ムーンベリー﹄の果肉入りシロップを入
れ、白と黄色の二層に分かれた飲み物﹃ホワイトムーン﹄。香りだ
けでそれと気づいたのか、ミミアはグラスを包むように両手で持っ
て口をつけた。
こくっ、と一口飲んだあと、ミミアの目が輝き始める。俺とヴェ
ルレーヌ、そしてカウンターの中にいるミラルカとユマを見やり、
口をぱくぱくと動かすが、声にならない︱︱感激しすぎているのだ。
ギュスターブさんが娘の頭に手を置き、落ち着かせる。ミミアは
恥ずかしそうに顔を紅潮させつつも、再びドリンクに口をつけた。
獣人は育った地の果実を好み、老若男女があらゆる方法で食べる
という。その好物の味を、今回は甘味の方向で引き出した。
ムーンベリーのシロップを作る時に使う蜜は、﹃クィーンキラー
ビー﹄という魔物の巣で採れる特別な蜂蜜で、その上品な甘さが彼
637
女に気に入ってもらえたようだった。
﹁⋮⋮こんなに甘くしたムーンベリーは、初めて食べた。パンに塗
ってもおいしそう﹂
﹁瓶詰にしてお持ち帰りもございますので、よろしければお土産に
お持ちください。日持ちしますので、村まで持ち帰られても良いか
と思います﹂
﹁ああ、娘だけでなく、妻にも食べさせたい。甘いものを摂りたく
ても、なかなか手に入らない土地だからな⋮⋮﹂
キャラバン
砂糖は貴重品で、アルベイン王国の国内でも、地域によっては全
く手に入らない。そういった地では、ごくまれに隊商が持ち込む砂
糖が、同じ重さの金と交換されることもあるという。
クィーンキラービーは毒を持っていて一般人には危険な魔物だが、
俺は解毒ができるので怖くはなく、その生態を巣に潜って調べたこ
とがあった。その結果、キラービーを養蜂して蜂蜜を量産すること
ができそうなのだが、その方法を獣人に伝えられれば、彼らも自前
で甘味を得ることができるだろう。
﹁俺たちは互いの文化を良く知らない。黒エールがギュスターブさ
んに喜んでもらえたように、狼人族の名産が、多くの人間の心を動
かすこともあると思う。現金な考えかもしれないが、俺はそういう
方法で溝を埋めることも考えたい﹂
﹁⋮⋮俺が、無類の酒好きなだけかもしれんぞ? と言いたいとこ
ろだが。あんたの言うことには一理ある﹂
ユマがもう一杯エールを注ぎ、ヴェルレーヌにパスし、ギュスタ
ーブさんに出す。二杯目が出てきて、ギュスターブさんは少年のよ
うに喜びを顔に出し、娘の手前自重して、咳ばらいをした。
638
﹁コホン。食文化の交流か⋮⋮考えてもみなかったが。同胞たちを
説得するには、そういう方法もあるのかもな。狼人族には、正直を
言うと、俺と同じような酒好きが多い⋮⋮ん? この香ばしい匂い
は⋮⋮﹂
﹁お酒だけではありません。こちら、リブロースの香草焼きでござ
います﹂
酒に合うと思って食べ物を出すと、何も食べていなかったのか、
親子のお腹が揃って鳴った。
﹁⋮⋮これは、この三叉の道具と、ナイフを使って食うのか?﹂
﹁それでは簡単に、作法についてお教えいたします﹂
狼人族は、ふだん手掴みでものを食べる。虎人族は食器を使って
いたが、そのあたりは種族ごとに差があるようだ。
ミミアも見よう見まねで食器を使い、手を使って食べそうになる
ところを我慢して、最初はヴェルレーヌが切り分けた肉を口に運ん
だ。
﹁むぐっ⋮⋮!﹂
﹁∼∼∼∼っ!﹂
二人の尻尾が跳ねる。ミミアは椅子の上で飛び跳ねるくらいに感
激し、興奮気味に父の背中を叩く。そんな二人をホールから見て、
コーディとアイリーンも楽しそうに笑っていた。
﹁なんだこの肉は⋮⋮この骨の近くの部位は、そこまで柔らかくな
らないはずだ。一体どうすればこんな⋮⋮﹂
639
﹁果汁につけておいたり、乳を加工したものに漬けると、肉の繊維
が柔らかくなるのです﹂
﹁⋮⋮ほっぺたが落ちそうって、こういうことを言うんだってわか
った。すごい⋮⋮このお肉、お肉じゃない。もっと別の美味しい何
かだと思う﹂
肉も調理法次第で味が変わる。それを人間だけの技術としておか
ないで、無類の肉好きと言われる獣人たちにも伝えるべきだと俺は
思う。
そして野菜をまったく食べないという彼らは、ミラルカが厨房か
ら運んできたサラダを食べて、再び未知の感動を味わうのだが︱︱
何を食べさせても喜ぶので、料理番も厨房から顔を出して嬉しそう
にしていた。
◆◇◆
店の営業が終わるまで、ギュスターブさん親子は飲み物と酒に舌
鼓を打ち、最後はギュスターブさんは上機嫌になって、リゲルたち
と肩を組んで歌っていた。こういうときに、リゲルの誰とでも打ち
解ける明るさは頼りになる。
ゼクトも絡まれていたが、彼とミヅハが兄妹であると知ると、ギ
ュスターブさんは娘と仲良くしてやってくれ、とミミアを紹介し、
ミヅハも快諾した。自分たちの境遇が近いことを知ると、彼女たち
は急速に親しくなり、ミミアの口数も増えて、笑顔が見られるよう
になった。
︱︱しかし楽しい時間は、あっという間に過ぎる。
640
閉店ぎりぎりまでミヅハと話していたミミアに、ギュスターブさ
んがついに声をかける。
﹁ミミア、そろそろお暇させてもらうぞ。片付けもあるだろうから
な﹂
﹁⋮⋮わかった。ミヅハちゃん、またね﹂
﹁うん、また来てな、ミミアちゃん﹂
店の一同で、二人を見送る。ずっと何も言わず、少し遠くから見
ている師匠に、ギュスターブさんが言った。
﹁俺とミミアは、このギルドに助けてもらった。その分で、あんた
がしたことは手打ちにする。だが俺たちが許しても、この国の法は
あんたを裁くことになるだろう﹂
﹁どんな罰でも受けるよ。それが、ディー君が私にしてくれたこと
に応える、唯一の方法だから﹂
﹁そうか。それなら、俺はもういい。ミミア、どうする?﹂
ギュスターブさんが聞くと、ミミアは意を決したように、師匠の
前に歩いていく。
﹁⋮⋮私じゃなくて、あのお兄ちゃんに、ごめんなさいって言わな
いとだめ﹂
﹁⋮⋮うん。これから、毎日謝っても足りないくらいだよね﹂
ミミアが、師匠と俺の関係をどれだけ察しているのか︱︱想像し
ていたよりも、少女の勘は鋭いものだ。
﹁二度と悪さをしないことだ、とおじさんは偉そうに言っておくぞ。
それじゃ、またな。ギルドマスター﹂
641
﹁道中、気を付けて。何かあったら、いつでも俺たちを頼ってくれ﹂
狼人族の親子が店を出ていく。最後にミミアはこちらに頭を下げ
てから、父を追いかけていった。
﹁⋮⋮さて。ディック、ひとつ大仕事を終えたところで、課題が山
積みのようだけど。僕に何かできることはあるかい?﹂
コーディが言うと、横からリゲルとマッキンリーが出てきて割り
込む。
﹁兄さん、あの狼のおじさん、すごく喜んでましたよ! 娘が笑う
のを見るのは久しぶりだって!﹂
﹁同じ年頃どうし、友達ができたようで良かった。これもマスター
の人徳のもとに、人が集まってるからですね﹂
マッキンリーはたまに優男らしからぬ青臭いことを言うが、それ
がこの男の良いところだとも思う。熱血型のリゲルともうまくやっ
ていけるわけだ。
そして、次はライアとサクヤさんが真剣そのものの顔でやってく
る。彼女たちも今日はずっと一緒に酒を酌み交わして、親交が深ま
ったようだ。
﹁獣人と人間の問題の解決⋮⋮冒険者ギルドの扱う問題の範疇では
ない、そう思っていた時期もありました。しかし、マスターの率い
るこのギルドなら⋮⋮﹂ ﹁私はマスターの意志に従います。これまでも、そしてこれからも。
存分に手足としてお使いください﹂
﹁二人とも、ありがとうな。期待に応えられるように、何とかやっ
642
てみるよ﹂
魔王討伐隊の面々も、今日は遅くまで一生懸命に働いてくれた。
彼女たちには借りが増えてばかりだ。
﹁これからも決して目立たないように⋮⋮だね。そのために、僕た
ちが手伝えることはあるかな?﹂
﹁あなたにしては大それた考えだけど、悪くはないと思うわ。種族
の和解に反対する者がいたら殲滅するだけよ﹂
﹁どんな方でも、お話しすることできっと心は通じます。そして、
全員で約束の地へと導かれるのです﹂
﹁それは天国に行っちゃってるような⋮⋮ユマちゃんだからそれは
仕方ないとして、あたしも鬼族の代表になってくれるように、お父
さんに話してみようかな。獣人の人たちと鬼族って立場が近いから、
ずっと気になってたんだよね。どうせならみんなで仲良くすればい
いじゃない、って﹂
4人全員、相変わらず意見が一致していて頼もしい限りだ。しか
し昔の俺たちだったら、﹁世の中を良くするために﹂なんて動機は
持てなかっただろう。
初めからそれを考えていたコーディは、昔も今も変わらず正義感
に満ちている。5年かけて、俺は彼女に追いつくことができたのだ
と思う。
﹁うちと兄上様も、お話を聞いて感激してました。このギルドに入
るのは、運命やったんやって﹂
﹁ギルドマスター、その志に俺も全面的に賛同する﹂
﹁ディックさんがこんなに真面目になるなんて⋮⋮それも、お師匠
様っていう人と会ったからなんですか?﹂
643
ミヅハとゼクトに続いて、リーザが聞いてくる。師匠のことは、
今日店に来ているギルド員には、全員に紹介してあった。
﹁⋮⋮私はもう師匠じゃないよ。ディー君には、教えることがなく
なっちゃって、教えられる立場だから﹂
﹁お、教えられる⋮⋮それって、手取り足取りですか? 今夜は寝
かさないぜってことですか?﹂
﹁俺のセリフか、それ⋮⋮一生言いそうにないんだがな﹂
﹁では、お師匠様は、ご主人様から何を教わるおつもりなのですか
? 後学のためにお聞かせください﹂
ヴェルレーヌの質問に、師匠はしばらく考えて︱︱そのメイド服
を着てから初めて、かすかに微笑んで答えた。
﹁みんなが聞いたら笑うくらいのこと。きっと誰もが知ってる当た
り前のことを、ディー君に教わりたい﹂
その答え合わせをするのは、師匠が罪を償うことができた後にな
るだろう。
人を傷つけること、心を踏みにじろうとすること。それを、師匠
はもう繰り返すことはない。
それが期待に終わるのか、その通りになるのか。一度は離れた不
肖の弟子だが、これからは彼女を近くで見守っていきたいと思った。
644
第56話 雪解けへの道と、弟子から師匠へ︵後書き︶
※更新が遅くなって申し訳ありません!
いつもお読みいただきありがとうございます、大変励みになって
おります。
今回で第二部が終了となり、次回から三部に入っていきます。
節目になりますので、よろしければご意見ご感想などいただける
と幸いです。
今後とも引き続き、本作にお付き合いいただけると嬉しいです。
よろしくお願いいたします!
645
第57話 光剣と魔力剣の激突
魔法大学の構内にある、攻撃魔法などの訓練を行うための実技訓
練場。
今日は店の昼休みに、コーディと時間を繰り合わせて、ここで手
合わせをすることになった。
俺たちは練習用の木剣など使わない。多少の傷は俺の回復魔法で
回復させる前提で、実戦さながらの戦いの最中だった。
﹁︱︱そこっ!﹂
﹁おっと⋮⋮!﹂
ライトブレード
コーディは剣精によって召喚した﹃光剣﹄を振るい、瞬きもでき
ないほどの速さで攻撃してくる。
俺が使っているのは鋼鉄の剣で、﹃斬撃強化﹄で常に強化し続け、
光剣で折られることを防いでいるが、徐々に刃が欠けてくる︱︱光
剣の物質に換算した硬度が、尋常ではないのだ。
そして﹃剣精﹄は、剣を扱うコーディの動きをも強化する。それ
でSSSランクちょうどくらいの強さなのだが、そこに俺の強化魔
法を乗せることで、かつての魔王戦ではヴェルレーヌの守りを破る
ことができた。
ヴェルレーヌは魔王城の玉座の間に魔法陣を敷いており、その中
では防御力が飛躍的に向上する。俺たちは魔法陣を維持するヴェル
646
レーヌの魔力を削り切って勝ったわけだが︱︱と思い出している間
にも、コーディは斬り下ろし、突き、払い抜けと猛攻を続けている。
︵限界解放してるから反応が追い付いてるが⋮⋮恐ろしいな、本当
に⋮⋮!︶
﹁迂闊だね、ディックッ!﹂
﹁︱︱なんのっ!﹂
コーディは打ち合った手ごたえで俺の剣が耐久限界と判断し、剣
の出力を上げて武器破壊を狙ってくる。
スピリットブレード・アタックライズ
︱︱﹃斬撃回数強化﹄︱︱
俺はまともに剣を受けるのではなく、魔力の刃を多数発生させる。
剣が破損していなければ魔力の刃の威力は強くなるのだが、今のぼ
ろぼろの剣でも十分な攻撃力があり、コーディは受け、回避するこ
とを余儀なくされる︱︱はずなのだが。
ラグナ・ブレイドウォール
﹁︱︱﹃無限剣壁﹄!﹂
しまった、と舌打ちをしたくなる︱︱武器の精霊だからといって、
防御手段がないわけではない。
攻撃こそ最大の防御と言わんばかりの、光剣による自動反撃。そ
れはまさに剣の壁だ︱︱光剣の射程は無限に近いので、油断すれば
流れ弾を被弾しかねない。
予想通りに、俺の魔力の刃を返しきり、視認することなどできな
い光の速さの攻撃が俺に迫る︱︱しかし、光剣は曲がることがない
647
ので、着弾場所を長年の勘で予想すれば、なんとか受けることはで
きる。
だが、そこで俺の剣がついに折れる。よくここまで持ったと言い
たいところだ。俺が確認する中では地上最強の武器である光剣を、
受けられる武器などない。強化しない鋼鉄の剣では、光剣にかかる
とバターのようにサクッと切断されてしまう。
しかし俺は武器を失ったわけではない。練習の段階では成功率は
半分ほどだが、折れた剣を補う方法がある。
限界解放をした状態で、魔力を爆発的に圧縮する︱︱そうすると、
何が起こるか。
﹁もらったよ、ディック!﹂
﹁︱︱いや、まだだっ⋮⋮!﹂
スピリットブレード・マテリアライズ
︱︱﹃魔力剣・物質変換﹄︱︱
﹁っ⋮⋮折れた剣を、蘇らせた⋮⋮!?﹂
﹁作り物ではあるけどな⋮⋮っ!﹂
鋼鉄の刃を強化したときと、光剣を受けたときの手ごたえがまる
で違う。俺は自分から攻めることができるようになり、コーディに
連撃を繰り出す。
俺の剣の威力が高まったため、一撃打ち合うごとにコーディの消
耗する魔力が大きくなる。それは俺も同じで、このまま打ち合えば
いずれどちらかが力尽きる。
648
それでも、俺もコーディも笑っていた。極限の読み合いを続け、
一瞬気を抜けば致命傷を負うような剣戟を続けながらも、楽しくて
仕方がない。
﹁くっ⋮⋮!﹂
完璧な受けを続けていたコーディだが、ごくわずかに剣の軌道が
狂い、身体のバランスがぶれる。
︱︱手加減なんてしたら、許さないよ。
コーディの目がそう言っている。ここで容赦なく一本を取りに来
いと言っているのだ︱︱だから俺は、躊躇する前に追い打ちを繰り
出す。
魔力剣を物質変換した状態で、斬撃回数強化を繰り出す。ただで
さえコーディが受けるのに苦労した一撃が、魔力によって十六の斬
撃に増え、コーディにあらゆる方向から襲い掛かる。
﹁︱︱まだっ!﹂
一瞬だけ体勢を崩しただけでコーディは踏みとどまり、自動反撃
に費やす魔力を爆発的に増やして、俺の魔力の刃を受ける。それで
も防御しきれず、コーディの練習着が破れていく。
それでも14、15︱︱ほぼ同時に襲い掛かった斬撃を凌ぎきり、
そして。 ﹁っ⋮⋮!?﹂
649
正面から来た15回目の斬撃を防いだあと、すぐ裏に16回目が
重なっていて、コーディはついに無防備な状態で一撃を受けそうに
なる。
﹁︱︱はぁぁっ!﹂
緊急回避︱︱何よりも速い﹃光﹄を操るからこそできる、有無を
言わさぬ割り込み。全身から魔力を爆発させ、魔力の刃を生身で受
けることを避ける。
ザシュッ、とコーディの身体の中心を、斬撃が駆け抜けるように
見えたが、これでは浅すぎる。しかし即座に追い打ちをかけること
はできない。
物質変換は強力だが、維持できる時間は短い。俺の折れた剣に継
ぎ足された魔力の刃が、かき消える︱︱コーディはそれを見逃さず、
俺が剣を再生成する前に踏み込み、光剣を突き付けてきた。
﹁⋮⋮これは⋮⋮判定に困るところだね。僕が勝ったと思っていい
のか⋮⋮﹂
﹁いや、コーディの一本だな。俺の詰めが甘かった﹂
物質変換した剣での魔力刃の制御が、まだ完全ではない。気を抜
けば物質変換がその場で解けてしまう状態で技を繰り出すと、どう
しても技を終えた直後に魔力剣の維持が難しくなり、今のように消
えてしまう。
斬撃が二つ重なったのは、偶然だった。それを意図的に仕込み、
コーディが絶対に回避できない状態まで詰められなければ、一本は
取れないのだ。
650
コーディは自分に厳しいので、俺の言葉をそのまま受け取ってい
いか、考えていたが︱︱やがてふっと笑って、光剣を引き、剣精の
召喚を解除した。
﹁あまりに一撃が重いものだから、久しぶりに思い出したよ。負け
るというのは、こういう時に起こるものなんだって﹂
﹁光剣の性能には、やっぱり勝てなかったけどな。俺は常に自分を
強化しまくってるのに、ほとんど生身のコーディに勝てないんだか
ら﹂
﹁剣精は、僕の戦う力を引き出してくれるからね。それでも、相手
の一撃が重いと、剣を維持するために意識を向ける必要が出てくる。
まだ、洗練の余地がありそうだ﹂
汗で濡れ、頬に張り付いた髪を払いつつ、コーディは言う。
その頬に伝った滴が流れていく先を、なんとはなしに見て︱︱俺
は、思わず目を疑った。
﹁ディック、何を見て⋮⋮あっ⋮⋮﹂
コーディもようやく気付いた。先ほど緊急回避していたが、浅く
入った斬撃で、服の前が大きく破れている。
しっかりと胸を押さえつけていたサラシも切れて、その下の肌が
見えてしまっている。コーディはすぐに、破れたサラシをたぐり寄
せて胸を手で隠し、俺に背を向けた。
﹁⋮⋮ご、ごめん。戦いに夢中になっていると、やっぱり、意識か
ら飛んでしまうみたいだ﹂
651
﹁い、いや⋮⋮俺の方こそ悪い⋮⋮っ﹂
自分でも驚くほどに動揺してしまう。サラシというものが、どれ
くらい体型を隠すことに貢献しているのか、俺は実情を知らなさす
ぎた。
彼女には胸がほとんどないので男装しやすいのでは、と思ってい
たのだが、そんなことはなかった。サラシを巻かずにいたら、俺の
彼女に対する認識がまるで変わってしまうだろうと思うくらいには
あった。
︵ま、まずい⋮⋮こんなこと考えてたらコーディに悪い、そう分か
っているが、これは⋮⋮いや、その前にするべきことがあるな︶
俺の攻撃を凌いだとはいえ、魔力刃の余波で練習着はぼろぼろに
なり、白い肩から背中にかけてが見えてしまっている。全方位から
の攻撃なので、そうなるのは無理もない。
俺は訓練中の汗を拭くためのタオルをまだ使っていなかったので、
それを取ってくると、コーディの背中にかけた。
﹁あ、ありがとう。ディックは使わなくていいのかい?﹂
﹁更衣室にもう一枚あるから、あとで汗を流した後に使うよ﹂
﹁⋮⋮うちのタオルの匂いとは違うね。石鹸の、いい匂いがする。
それとも、これがディックの家の匂いかな﹂
﹁何を言ってるんだ⋮⋮まあ、家ごとに特徴的だとはいうけどな﹂
コーディが珍しくそんなことを気にするので、思わず笑ってしま
う。コーディもこちらの様子を省みつつ、楽しそうに笑って、タオ
ルで首まわりの汗を拭いた。
652
コーディの髪型は特徴的で、肩よりも短くしているのだが、一部
だけ長くして後ろで結び、おさげにしている。これはコーディの母
親が好きな髪型で、昔からそうしているということだった。
そのおさげを上げて首を拭こうとするとき、白いうなじが露わに
なり、息を飲む。
意識しては無粋だと思うほど、コーディの女性らしい部分を続け
て見せられ、とりあえず視線を別の場所に逃がしつつ、今見たもの
を反芻してしまう。
﹁⋮⋮でも、よかった。ディックが手加減無しで、攻めてきてくれ
て﹂
﹁まあ、それはな。手加減なんてできる相手じゃないし、気を抜け
ば命にかかわるからな﹂
﹁あはは⋮⋮僕も何度か危ないなと思ったよ。さっきの一撃も、緊
急回避をしないと危ないところだった。胸の間を、縦に切りつけら
れていたところだよ﹂
胸の谷間からへそにかけて、俺の残した傷が︱︱なんてことにな
らなくてよかった。よほどの重傷でなければ、すぐに回復魔法をか
ければ、傷は綺麗に消せるのだが。
﹁それにしても、悔しいな。ラグナの力を引き出せば、どんな武器
でも押されないと思ったのに。ディックの一撃が重くて、後ろに下
がりたいと何度思ったか⋮⋮﹂
﹁俺も色々と研究してるからな。でも剣の維持で精一杯だったよ﹂
﹁魔力の剣か。その性質を考えれば、突き詰めると光剣と同じ性能
になると思う。僕も追いつかれないように頑張らないとね﹂
653
コーディは話しながら、破れてぼろぼろになったサラシを外すと、
代わりに俺の渡したタオルを巻いた。長さがちょうど足りていて、
なんとか端と端を結ぶことができている。
彼女はタオルの上から胸を押さえたままで立ち上がると、俺の方
を振り返った。
﹁よっと。ちょっとピリピリすると思ったら、色んなところにかす
り傷ができてるみたいだね。さっき斬られかけたところも⋮⋮﹂
﹁そ、そうか⋮⋮しまったな、コーディはそういうとこに回復魔法
をかけるのは嫌なんだよな﹂
俺に女性だと知られた今は、なおさら見せたくないだろう。
しかしコーディは、昔と違って、少しだけためらったあと、自分
から腹部を見せてきた。引き締まっているが、幾つにも腹筋が割れ
ているというわけでもなくて、同じ剣士でも男性とは体つきが全く
違う。
これは、見られるのを嫌がられるわけだと思った。俺との違いが
一目瞭然だ︱︱腰のくびれ方が、俺には絶対真似できないことにな
っている。
﹁⋮⋮ちょっと、擦り傷が、ここのところに⋮⋮あまり見ないよう
にして、治してくれるかな。このまま水を浴びると、しみるからね﹂
それは大胆に踏み込みすぎているのではないかと思ったが、コー
ディはあくまで治療と思って頼んでいる。そのうっすらとついた赤
い痕は、タオルで抑えられている胸のあいだの部分にまで続いてい
654
た。
久しぶりに頭に血が上り、俺はコーディがどんな顔をしているか
と伺って、さらに後悔する。顔を赤らめ、しっとりと汗をかいた体
を恥じらっている彼女の顔は、騎士団長以前に、ひとりの女剣士と
しか言いようがなかった。
俺はコーディの要望通りに、直視しないようにしつつ、コーディ
の肌の赤くなった部分に手を伸ばす。
ヒール
﹁見ないようにするからな。﹃癒しの﹄⋮⋮﹂
﹁ディー君、ちゃんと見て治癒したほうがいいよ。私がやってあげ
ようか?﹂
まさに治療を開始せんとしたところで声をかけられる。いつの間
にか、師匠が俺たちのそばに立っていた。
﹁っ⋮⋮い、いつから居たんだ? まさか転移してきたのか﹂
﹁光剣の子と練習をするって言ってたから、私もあとで様子を見に
行くかもって言ったよね? だから、来てみたんだけど⋮⋮お邪魔
だった?﹂
﹁い、いや、そんなことはないですよ。ありがとうございます、師
匠殿﹂
リカバーライト
コーディはどちらかというと騎士団長らしい呼び方で敬称をつけ、
師匠の治療を受ける。﹃快癒の光﹄を惜しみなく使って、師匠は傷
の上に指を浮かせてなぞらせるだけで治してしまった。
﹁これでよしと。ディー君、手加減なしだったんだね。そういうの、
すごくいいと思う﹂
655
﹁そいつは光栄だ。まあ、俺たちの手合わせは常に手加減なしだか
らな。そうでないと意味がない﹂
﹁今のディックには勝てる気がしなかったけど、まだ置いて行かれ
ずに済みそうだね。次の手合わせに向けて、研鑽しておくよ﹂
そうしてコーディが切磋琢磨してくれることで、俺は随分助けら
れている。
自分ひとりだけが、他の誰よりも遠いところに行ってしまうとい
う感覚を持たずに済むからだ。
﹁⋮⋮ディー君、魔王討伐隊の人たちと旅をして、本当に良かった
んだね。昔よりすごくいい顔してる﹂
﹁そ、それは⋮⋮師匠、あまり恥ずかしいことを言わないでくれ﹂
﹁あはは。ディックも師匠殿の前ではかたなしなんだね。これは、
見ていて面白いな﹂
コーディはすっかりぎこちなさから解放され、いつもの彼女に戻
る。しかし、肌を見られたことはやはり意識していて、時々俺を見
る目が今までと違っている。
︱︱しかし、今はそう浮ついていることもできない。師匠が審問
官によって審判を受けるため、これから俺と一緒に出頭することに
なっているからだ。
﹁師匠⋮⋮じゃあ、行こうか。俺たちが着替えてくるまで待ってて
くれ﹂
﹁うん。大丈夫、逃げたりしないから﹂
白の山羊亭で戦ったときの戦闘用の衣服とは違い、ヴェルレーヌ
656
に借りたモノトーンの洋服を着ている師匠は、罪人である自覚を示
すように、いつもより静かに振る舞っていた。
審問官の他にも、俺と縁のある人物が出席する。一方的に罪状が
決められ、師匠が磔刑に処されるということはないだろうが、牢に
入れられるという可能性は否定できない。
コーディも神妙な様子で俺たちを見ていたが、そうしてばかりも
いられないと着替えに向かう。俺もまだ訓練の興奮が冷めやらぬ中、
自分の更衣室に歩いていった。
657
第58話 審問と忘れられた迷宮
アルベイン城は城壁と堀に囲まれ、市街とは橋で繋がっている。
城壁の内側には王宮の他に、国民の犯した罪について審問が行われ
る﹃審問所﹄がある。
審問官は十六人いて、王族・貴族・庶民のいずれにも帰属せず、
独立した権限を与えられている。国王によってその地位と審判の正
当性が保証されるが、5年に1度ずつ審問官の仕事ぶりについて内
部調査が行われ、能力が足りていない、判断の正しさに疑いがある
という場合、入れ替えが行われる。そういった任命・免職の権限も
また、国王が持っている。
審問官の判断は、国王の判断である。アルベインの民は逆らうこ
とはできない。
そして、特定の居住地を持たなかった師匠についても、王都で行
った行為に対する裁きには従わなければならない。
﹁ディー君、私のことは気にしないでいいよ。死ぬことはできない
けど、他の刑なら受けられるから﹂
﹁⋮⋮師匠、自分の素性を知られてもいいのか?﹂
師匠が不老不死であるという事実が広まってしまうと、周囲が騒
がしくなったり、不老不死を求める人間から狙われるということも
考えられる。
狙われたところで、俺たちの強さで窮地に追い込まれることはな
658
い。しかし、王都で平穏に暮らすことは難しくなるだろう。周囲か
ら好奇の視線を受けることは避けられなくなる。
﹁うーん、確かにそれはね。私が昔王都を離れたのは、自分の姿が
変わらなかったってこともあるから。幻影の魔法で年を取ったよう
に見せることはできるけど、そこまでして王都にいる意味を感じな
かった。今は、ちょっとそういうわけにもいかないけど﹂
﹁師匠は、俺がいるから王都に来たんじゃなかったのか?﹂
尋ねると、彼女はしばらく考える間を置く。どう答えていいかと
いう顔で、橋の欄干に近づき、手すりに手を置いて、豊かな水を湛
えた堀を眺めた。
﹁もうすぐ、二千年になるんだよ。王都アルヴィナスが、ここにで
きてから﹂
﹁⋮⋮師匠は、その頃も生きてたのか。その時のことと、関係があ
るんだな﹂
﹁うん。私にも、昔仲間たちがいてね。ディー君たちと同じように、
私以外に5人の仲間がいて、そのうちの一人が、アルベインの初代
の王様になったの。他にオルランド、シュトーレンっていう仲間も
いたんだけど、知ってるよね?﹂
﹁アルベインの初代王に、オルランド家と、シュトーレン家⋮⋮師
匠は、建国した人々の仲間⋮⋮ってことか?﹂
師匠は何でもないことだ、というように俺を見やって微笑んだ。
﹁ディー君みたいに強い人はそれこそ、この国で初めてっていうく
らいだけど。冒険者強度が10万を超える﹃人間﹄は、千年に1人
は出てくるからね。二千年前は、そういう人が3人いたっていうこ
とだよ﹂
659
俺たち五人は、その千年に一人が同時代に五人集まったからこそ
﹃奇跡の子供たち﹄と呼ばれた。
二千年前に、SSSランクの人間が三人いた︱︱そのうち一人が
初代王で、二人は公爵家の開祖だったということになるのか。そし
て師匠以外に二人、人間とは違う存在がいた。
﹁三人が人間ってことは、残りの二人は、別の種族だったのか?﹂
﹁うん。そのうちの一人は私と同じで、不老不死だった。でもね、
彼女は亡くなったの﹂
﹁不老不死なのに、死んだ⋮⋮師匠は、死ぬ方法がないって言って
たのに﹂
﹁ひとつだけあるんだよ。でもそれは、一度きりしか使えない方法
だから、もう一度使うには、時間が経つのを待たないといけないの﹂
﹁⋮⋮そうなのか。それなら、ひとまず安心だな﹂
その方法を使えば、不老不死の師匠が、永久に続く生を終わらせ
ることができる。
しかし、俺と一緒に生きると言った彼女には、それを使わせるわ
けにはいかない︱︱そんな俺の心中を思ってか、師匠は微笑んで言
った。
﹁あれだけ死にたいって言っておいて、こんなこと言うのも勝手だ
けど。今は、ディー君がいいっていうまでは、生きていたいと思っ
てる﹂
﹁俺の意志に関係なく、自分の好きなだけ生きてくれ⋮⋮って言う
と、無責任か﹂
﹁ううん、ディー君らしいと思う。私が死んじゃうの、ほんとにだ
660
めだと思ってくれてたの、今ならわかるから﹂
﹁⋮⋮希望ってのは、自分から捨てた時に失われるものなのかもな﹂
﹁捨てなくてよかった、っていうこと? ディー君、恥ずかしいこ
と言うんだね﹂
俺はあえて答えなかった。自分でも、急に何を言っているんだと
いう気持ちはあったからだ。
﹁⋮⋮でもそういうことを、これからディー君に教えてもらわない
とね。人と人の、思いやり?﹂
﹁そっちも師匠らしからぬことを言ってるな。でもまあ、いいんじ
ゃないか。完璧な人格者になんて、なる必要はないんだけどな﹂
﹁私は頑張っても、そうはなれないと思う。悪いことばかりしてた
から、少しでも悪い部分をなくさないとね﹂
反省しているかどうかも、刑罰を決める上で考慮される要素だ。
師匠が悪びれずに開き直ってしまうと、審問官の印象はそれだけ悪
くなってしまう。
しかし今の師匠なら、大丈夫だ。そう確信できた俺は、再び橋を
歩き始める。師匠も後からついてきて、俺の横に並んだ。
◆◇◆
第一審問所に入ると、まず三人の審問官が席を立ち、俺と師匠に
向けて礼をする。俺たちはそれに応じたあと、周囲の席にいる人た
ちの顔ぶれを確かめた。
アルベイン神教会の大司教であるグレナディンさん、そして先に
到着していた騎士団長のコーディ︱︱さらには、貴族らしい若い男
661
性と女性が一人ずついる。身に着けている衣服に入れられた家の紋
章から、男性はオルランド家、女性はシュトーレン家の人間だとわ
かった。
オルランド家の男性︱︱マーキス・オルランドはブラウンの短髪
で、糸目の青年だった。青を基調とした服を着ており、常に笑みを
浮かべているが、油断のならない印象を抱かせる。俺の把握してい
る情報では、彼は現在25歳で、オルランド家の次男でありながら、
次期当主と目されている。
マーキスの後ろの席には、前に俺のギルドに依頼を持ち込み、今
はオルランド家の家令となった女性・キルシュの姿があった。彼の
秘書か、護衛の役割をしているのだろう。
シュトーレン家の女性は、顔を見られてはならない事情があるの
か、ヴェールのついた帽子を被っている。公爵家の人間とはいえ、
審問の席での服装としては見とがめられるところだが、既に審問官
には断ってあるのだろう。
名前は事前に調べたところによると、プリミエール・シュトーレ
ンという。彼女はシュトーレン公爵の長女であり、弱冠23歳にし
て公爵家の跡継ぎである。シュトーレン家は女系家族であり、代々
女性が家を継いできたということだ。
そして、王家の頭脳と呼ばれる宰相ロウェ・ブランマイヤーまで
もが同席している。初めてその姿を直接見たが、﹃白麗公﹄という
異名で呼ばれる通り、若くして髪も眉も真っ白という、特異な容姿
をした青年だった。
まず、審問官の一人、壮年の男性が、師匠の情報を記したものだ
ろう資料を読み上げる。
662
﹁それでは、これより審問を開始します。対象者は、﹃白の山羊亭﹄
を実質的に統率する立場にあった⋮⋮百年前⋮⋮?﹂
﹁書いてあることに、間違いはないと思います。百年前も、私には
名前はありませんでした﹂
﹁⋮⋮あなたについては、当時﹃無色の蛇使い﹄と呼ばれていたと
の記録があります。百年前、王都に冒険者ギルドを創設し、その後、
行方不明となっていますね﹂
百年前というと、この場にいる誰も生まれていない。百年以上生
きていると言われても、師匠は少女の外見のままだ。信じられるわ
けもなく、同席した人物の誰もが驚く︱︱しかしマーキス、プリミ
エール、宰相ロウェの三人は、事前に知っていたかのように落ち着
いていた。
﹁彼女は今回、白の山羊亭のギルドマスターを従え、幾つかの事件
を起こしました。その事実の確認と、課せられる処分を決定するた
めに、全ての質問に、嘘のないように答えていただきます﹂
﹁はい。異存はありません﹂ 師匠は淡々と答える。審問官はその隣にいる俺を見やると、再び
手元の資料に目を移た。
﹁銀の水瓶亭のギルドマスター、ディック・シルバー。あなたは今
回の件について冒険者ギルドの一つとして関与し、未然に大きな事
件につながることを防ぎ、既に起きた事件については、解決のため
に尽力しました。そのことについても合わせて考慮させていただき
ます。よろしいですか?﹂
﹁はい。俺のことは、彼女の後見人として扱ってもらって構いませ
ん﹂
﹁分かりました。では改めまして、審問を始めます。皆さま、どう
663
ぞご着席ください﹂
師匠が王都に戻って来たのは、三ヶ月前。白の山羊亭のギルドマ
スターは、現状の傘下ギルドの冒険者たちを維持するための仕事が
確保できなくなり、一部の優秀なギルドのみに仕事を任せるように
なった。
その影響で紫、青、そしてつい最近、緑のギルドの運営が立ち行
かなくなり、大量の失職者を出しかねない事態となった。王都を離
れるという選択もあったが、長年の拠点を放棄して離れるという選
択はできず、犯罪に類する仕事を請けるようになった︱︱そして。
﹁白の山羊亭のギルドマスターの要請で、彼女は﹃首輪﹄を作りま
した。それは人間、あるいは獣人を従属させるための魔道具です。
一部ではすでに使用され、実際の被害者を出しました。ガラムドア
商会は﹃首輪﹄を利用し、獣化能力を持つ獣人を動物の姿で留め、
希少動物として売ったのです。その被害人数は、五十三名です。そ
のうちすでに半数は、調査の結果、首輪を外すことで解放できると
分かりました。購入者も希少動物の密売に加担したのですから、罰
金を科すことになります﹂
壮年の審問官が罪状を読み上げたあと、他の二人の若い女性審問
官が言葉を続ける。
﹁残り半数を解放できたとしても、被害者の受けた精神的苦痛、不
当に拘束された期間を考慮すると、やはり二十年以上の拘禁が妥当
かと思われます﹂
﹁さらに、魔道具を王都の中で作成、不正に所持し、使用を教唆し
た件については、所持する魔道具の廃棄と、8年以下の拘禁、強制
労働が課せられます﹂
664
青の射手亭などが犯罪に手を染めた件については、白の山羊亭の
ギルドマスターの責任となり、師匠は罪を問われなかった。師匠が
来る前から、白の山羊亭が黙認していた、あるいは犯罪に類する仕
事を紹介していたという証拠が出ていたからである。
﹁こちらの事実に、間違いはありませんか?﹂
﹁はい。間違いありません﹂
師匠は何も反論せず、正面を見据えて、罪状を認めた。これで、
審問官たちの言い渡す刑罰を受けることが確定となる︱︱しかし。
宰相ロウェ、そして公爵家の二人が立ち上がる。初めに口を開い
たのは宰相だった。
﹁厳正なる審問の途中だが、発言をさせていただく。この件を聞き
及び、私︱︱アルベイン王国宰相と、公爵家の御二方から、審問官
殿にぜひ申し入れたいことがあるのだ﹂
﹁発言を認めます。ロウェ殿、申し入れたいこととは?﹂
﹁冒険者ギルドには、これから困難な依頼に挑んでもらわなくては
ならない。そのため、彼女への処分については留め置いていただき
たいのだ。不安を煽るような言い方になってしまうが、この王都は
今、未曽有の危機に瀕しているのです﹂
宰相の発言に、審問所に緊張が走る。最も動揺しているのは審問
官たちだった︱︱そんな話を宰相から切り出されるとは、思っても
みなかったのだろう。
俺も今のところ、話のなりゆきを見ているしかない。俺のところ
に入ってくる情報では、﹃それ﹄が実際の脅威となるかは確定でき
665
ていなかったからだーーこの王都の成り立ちについての、既に市民
の全てが忘れてしまった伝説。宰相の話がそれと結びつくのではな
いかという予感はしていた。
﹁未曽有の危機⋮⋮それを、冒険者ギルドによって解決できるので
すか?﹂
﹁正確には、魔王討伐を成功させた勇者たち⋮⋮そして、ランクの
高い冒険者たちの力を借りる必要があります。冒険者の中には、平
均的な騎士と比べても個人戦力が図抜けている者が多くいる。彼ら
の力を借りねば、王都はいずれ灰となってもおかしくはない﹂
﹁それは⋮⋮魔物が襲撃してくるということですか? それとも、
隣国が攻めてくるとでも?﹂
﹁端的に言うならば、前者だ。王都の地下にあり、封じられた地下
迷宮。その二千年に渡る封印が、もたなくなるときが近づいている﹂
︱︱人々の記憶から失われた伝説は、作り話などではなかった。
王都アルヴィナスは、邪悪な存在を封じた大穴の上に作られた。
つまり、アルベインの初代王は、その存在と戦い、勝利したからこ
そ王になったのだ。
そして、師匠はその時のことを知っている。彼女は俺の方を見や
ると、何かを言いたげにする。しかし、今は何も言葉にはしなかっ
た。
﹁ディック・シルバー。かつて魔王を討伐した勇者の五人目である
あなたと、そして冒険者ギルドを創設した彼女に、無理を承知で頼
ませていただきたい﹂
宰相ロウェが頭を下げる。マーキスとプリミエールの二人もそれ
666
に倣うと、順に発言した。
﹁我らオルランド家も、王都を守るために戦う所存です。ですが、
ロウェ殿もおっしゃる通り、この王都において最強の戦力とは、魔
王討伐隊の面々であり、Sランクを超える冒険者の方々だ。私たち
貴族にできることは、あなた方に戦ってもらう環境を整えること、
報酬を用意することが主になります﹂
﹁この王都を捨てることも、国王陛下は考えていらっしゃいました。
しかし、封じられた存在が地上に出てしまえば、アルベインの国土
全てが亡びるかもしれない。それならば、わたくしたちは、最後ま
で徹底抗戦をしたいと考えています﹂
なぜ、彼らが出席したのか。その意味がようやくわかった︱︱彼
と彼女は、今後の王国を支える次世代の貴族たちだからだ。
彼らにも、本来なら審問に介入することはできない。しかし今回
ばかりは、師匠の力も王都を救うために必要になる︱︱そのために、
処分を留め置く。
﹁⋮⋮それが事実であるとしたら。今後、王都はどうなっていくの
です?﹂
壮年の審問官に問われ、宰相ロウェは、俺と師匠を真摯な目で見
据えながら言った。
﹁すべての戦う力を持つ者たちが、王都の地下にある迷宮に入り、
最深部を目指す。むろん、強制することはできないが、全てのギル
ドの冒険者に協力を仰ぎたい。魔法大学、騎士団、貴族、属する場
所に関係なく迷宮に挑まなければ、おそらく到達することはできな
いだろう。地下迷宮は百層あり、それをできるだけ短い時間で踏破
667
しなくてはならないのだから﹂
百層の地下迷宮。それに、アルベイン王国の戦う力を持つ者すべ
てが挑む。
もし、このままなら邪悪な存在が地上に解き放たれるというなら
ば、迷宮の攻略に失敗すれば国が亡びる。
重い緊張が審問所に満ちる。若い審問官ふたりは、全く宰相の話
を受け入れられずに、しきりに顔を見合わせていた。
﹁できるだけ短い時間というと、残された時間はどれくらいですか
?﹂
﹁⋮⋮ディック殿。私の話を、信じてくれるのか?﹂
﹁王都の地下に迷宮があって、もし魔物でも湧いてくるんだとした
ら、どのみち潜らなければならない。真偽は別として、冒険者の仕
事には魔物退治も、迷宮探索も含まれている。正式な依頼とあれば、
俺はギルドマスターとして受諾することを考える。それは当然のこ
とだ﹂
宰相は黙って俺の話を聞いていた。
まるで俺が王都のギルド全てを代表するような話になっているが、
どのみち白の山羊亭の統制が崩れた今、ギルドは再編成をしなくて
はならない。
だが、王都の地下迷宮を攻略することが急務ならば、再編成はそ
の仕事を終わらせたあとだ。
﹁私は国王陛下から、この件についての権限を委譲されている。騎
士団については、コーディ殿に全権がある。貴族たちの代表はこの
668
お二方であり、そして教会の長はグレナディン殿だ。この場におけ
る決定が、今後の国の運命を左右することになる﹂
﹁⋮⋮コーディ。俺は今でも、﹃俺たち﹄のリーダーはおまえだと
思ってる。俺は戦ってもいいと思うが、どうする?﹂
尋ねると、コーディは席を立ち、そして凛とした声で言った。
﹁僕は王国を守る楯となるために、騎士団長となった。その務めを
果たすだけです﹂
﹁⋮⋮ありがとうございます。私は宰相を務めているが、元は文官
であり、戦う力は持ちません。しかし、あなた方の迷宮攻略を支援
するために尽力させてもらいたい﹂
﹁そうしてくれるとありがたい。師匠の扱いをどうするかは、この
件が終わった後に、功績を加味してもらえると助かる。それと、売
られた獣人たちについては、俺のギルドで責任を持って解放する﹂
﹁⋮⋮ディー君﹂
すでに俺の情報網で、ガラムドア商会と取引をした者たちは特定
している。あとは、ギルド員を派遣して解放していくだけだ。
一人一人に償いをしなくてはならないが、それは王都を守り切っ
た後の話だ。師匠にも戦ってもらわなくてはならない、宰相の話を
聞く限りでは、迷宮攻略はそれほど過酷なものになる。
﹁⋮⋮このような審問は初めてです。罪状を確認したあと、刑の執
行を猶予することになるとは﹂
壮年の審問官は額の汗をハンカチで拭く。王都が存亡の危機にあ
るという事態が飲み込めてくると、その顔は蒼白になり、冷静を保
つことはできていなかった。
669
コーディは俺を見て、頷きかけてくる。グレナディンさんもそれ
は同じで、力強く頷いてくれた。教会に所属する僧侶、そして僧兵
は、迷宮攻略に多大な貢献をしてくれるだろう。
そして、俺たちも。はからずして、魔王討伐隊を再結成し、迷宮
に潜る時が来た︱︱ずっと暮らしてきた王都の直下にある、忘れさ
られた深部へと。
670
第59話 作戦会議と最強の七人
審問が終わったあと、審問官以外の参加者は全員が談話室に入り、
今後の方針を話し合うことになった。
20人ほどが着座できる円卓を、十人足らずで囲む。コーディは
向かい側で座っているが、それは公的な立場を考えてということで、
本当はこちら側に座りたいというのを、談話室に入る前に言ってい
た。
すでに彼女の心は、魔王討伐隊でパーティを組んでいたころに戻
っているのだ。俺も気持ちは同じで、既にどんな体制で迷宮攻略に
取り掛かるかということに意識が向いている。
宰相ロウェ、貴族のマーキス、そしてプリミエールが、全員が着
席したことを確認すると、立ち上がって頭を下げる。
﹁さて、本日は審問でお疲れのところ、ご足労を願い申し訳ない。
この面々が集まる機会は貴重なので、迷宮探索に向けての方針を話
し合わせていただく。よろしいか?﹂
全員の同意を得たあと、マーキスが持っていた金属の筒の鍵を開
け、中から図面を取り出し、円卓の上に広げた。
﹁これが、王都アルヴィナスの遥か深層より広がる、﹃ベルサリス
の遺跡迷宮﹄です。最深部までの図面は存在しませんが、このよう
に、1層から50層までは地形などが記録されております﹂
671
王都のすぐ地下に迷宮が広がっていれば、下水道などの地下施設
を作る時に突きあたりそうなものだが、その図面を見てそうならな
かった理由が分かった。
王都の地下迷宮は地上から繋がっているのではなく、遥か地下に
あり、どうやら転移陣を利用して中に入らなければならないようだ。
そうして初めに入る層が1層であり、そこから百層潜ることになる。
迷宮は一層ごとに次第に広くなっている。そして、50階層まで
降りたところで地図は途切れていた。出現する魔物の絵が描かれて
いるが、一層はゴブリン、大ネズミ、ジャイアントバットなどで、
十層ごとに大きく変化している。十層ごとに支配力を持つ魔物が変
わっているということだ。
三十層からリザードマン、コカトリス、エレメンタルなどの中位
の魔物が出始める。この段階から、すでにAランクの冒険者でも、
一戦闘ごとにかなりの消耗を強いられるだろう。
ドクロ
そして五十層から降りる階段の前に、獅子の身体に竜の翼を持つ
魔物の絵が描かれている。その足元に髑髏が積みあがっているのは、
かつて多くの被害者を出した魔物だということだろうか。
﹁五十層より下の地図は、なぜ残っていないのだ?﹂
グレナディンさんが見咎めて尋ねると、マーキスは首を振る。
﹁この地図は、千年ほど前に一度調査隊が入った時に作られたもの
です。騎士団を中心に編成された千人を投入し、慎重に探索が行わ
れましたが、残念ながら五十層に到達する頃には生存者は一割を切
っており、このドラゴンキマイラによって探索部隊の指揮官が命を
672
落とし、地図の作成を担当していた職人と、彼の護衛のみが辛うじ
て帰還しました﹂
﹁⋮⋮これがドラゴンキマイラか。百人近くの命を吸った魔物⋮⋮
それが、今でも生きているのか?﹂
﹁可能性はあります。迷宮に生息する魔物は、種によっては半永久
的に存命する個体もいますので﹂
それが迷宮の厄介なところだ。放置された迷宮の深部に手を出し
づらくなるのは、浅い層にいる魔物たちと違い、深部の魔物は長命
で、強力な特殊個体に成長することが多いのである。
そして魔物たちは﹃格付け﹄を行った結果、種族に関係なく﹃長﹄
を作る。これだけ長大な迷宮となると、いくつかの階層ごとに別の
長がいてもおかしくはない。
﹁俺たちが倒すべき邪悪な存在というのは、最深部の﹃長﹄なのか
?﹂
﹁いや、そういった存在ではない。もはや二千年の昔ともなれば、
記録の正当性を保証する材料もないのだが、史料を信じるならば﹃
ベルサリスの蛇﹄と呼ばれる存在だ。迷宮の魔物は、蛇によって幾
らでも生成されるという。実際に生まれてくるところを見た者は、
残っていないが⋮⋮﹂
師匠はおそらく、二千年前に、アルベイン王たちとパーティを組
んで﹃ベルサリスの蛇﹄と戦っている。しかし彼女は、今は何も言
わなかった。
俺もここで事実を明かせば、師匠に大して重圧がかかりすぎると
感じる。他の仲間が全て死んでいる以上、生き残りの師匠に頼らざ
るを得ないのは分かるが、彼女だけに全てを被せたくない。まして、
673
この円卓を囲んでいる人間は、王国に属する組織の最高権力者たち
なのだから。
﹁ドラゴンキマイラが50階層にいて、さらに50層潜らなければ
ならない。ベルサリスの蛇は、さらに強力な魔物を生み出している
可能性がある⋮⋮それが千年放置され、成長しているとしたら⋮⋮﹂
マーキスは笑みを絶やさないように見えるが、その頬に汗が伝っ
ている。見た目から油断ならない相手だと思ったことを、俺は訂正
することにした。公爵家を継ぐ者といえど、肝が据わりきっている
わけではない。
それはプリミエールも同じで、緊張して震えそうな声を抑えつつ、
マーキスの言葉を引き継ぐ。
﹁まさに、魔窟ですわ。しかし強力な魔物たちは﹃蛇﹄を守るよう
に深層に居るとのことですから、一層に入った途端に、強い魔物が
群れで押し寄せてくるということはないと思います﹂
﹁そうだといいですがね。迷宮への転移陣は王国によって管理され
ているが、転移した後のことは、何も保証がない。転移陣の周辺の
み安全を確保しているだけですから﹂
マーキスの発言で、俺の推論が裏付けられた。迷宮に飛ぶための
転移陣は実在している。
そうなると、まず先遣隊として一層に飛ぶのは俺たちが良さそう
だ。どれほど強い魔物であっても、俺たちがフルパーティで挑めば、
負けるということはまずないだろう。決して油断はできないが。
﹁宰相殿、俺たち魔王討伐隊のことを知っているなら、なぜ国の総
力を挙げて迷宮に挑もうと考えたんだ? 俺たちに任せておけば大
674
丈夫とは思わなかったのか﹂
俺が尋ねると、ロウェは弱り切った顔で苦笑する。どうも﹃白麗
公﹄は、今回の件は自分に荷が重すぎると感じているらしい。それ
でも逃げないだけ大したものだと言えるが。
﹁魔王討伐隊の方々に全てを任せ、私たちはただ祈って待つのみと
いうわけにはいきません。迷宮の浅い層にも、定期的に魔物が湧き、
それが一定数を超えると転移陣が機能しなくなってしまうのです。
ですから、五層潜るごとに安全な場所を確保し、転移陣を設置し、
一層から一気に深層に潜れるように転移陣を接続していきます。そ
して転移陣が使用できる状態を保つために、階層ごとに新たに湧い
た魔物を排除する人員が必要になります。それがどの層まで続けら
れるかは分かりませんが⋮⋮﹂
つまり、浅い層から深い層まで、魔物掃討を担当する戦力を配置
することが必要ということだ。5階層ごとということは、51階ま
で転移陣を接続し、その階層を守備できれば、51階まで転移し、
そこからは徒歩で探索を進めるというやり方ができる。
そして、王国は地下迷宮について、極力触れないようにしてきた
のだということも分かった。それは下策だったと言わざるをえない
が、千人の部隊が壊滅した件が尾を引いたということだろう。
﹁そういうことか。分かった、浅い層にいる魔物も放置しておいて
いいわけじゃないし、それらは実力の足りる戦士たちに任せよう。
魔物を倒したときには色々と宝も手に入るし、他の迷宮を冒険する
場合と同じ感覚で潜ってもらう方が、生活を大きく変えなくて良い
という点ではいいかもしれない﹂
675
俺が提案すると、誰もが感心したように言葉を失っている。注目
されるのは好きじゃないというのに、一言二言喋っただけで、この
議論の場の中心は俺になってしまった。
﹁ディー君、冒険者ギルドは今、統括する白の山羊亭が機能できて
ないから、代わりに指揮する人が必要なんだよ。その役割ができる
のは、ディー君だけだと思う﹂
﹁私もそう思っておりました。魔王討伐隊のあなたが、12番通り
の一角で最も小さなギルドを運営されているというのは、器に見合
わぬと誰もが思うところでしょう﹂
グレナディンさんが深く頷いており、マーキスの隣で記録係をし
ているキルシュも、俺をまっすぐに見やって微笑む。この空間にお
いて、俺は信望を集めすぎではないだろうか。
﹁⋮⋮分かった。だが一つ言っておく、今回は非常時の措置だ。冒
険者を統率するために、俺は一時的に指揮をするが、迷宮攻略を終
えたあとは別の筆頭ギルドを立てる。それでいいか?﹂
﹁ディック殿、そのご提案には高潔な精神を感じますが、わたくし
は少々疑問に思います。なぜギルドマスターの長となられることを
望まないのです? この王都において、冒険者ギルドを統べるとい
うことは、絶対的な権力を手に入れるということです。それなのに
⋮⋮﹂
﹁その理由については明言はできないが、俺は責任を放り出すとは
言っていない。これからも王都のギルドが乱れないように、俺なり
に目は光らせてもらう﹂
こんな言い方では、俺が冒険者ギルドの陰の支配者になると取ら
れてもおかしくないが︱︱誰も疑いの目は向けず、俺に質問をした
プリミエールは、感じ入ったように胸を抑える。そのとき初めて目
676
が留まったが、ドレスの胸元に切れ込みが入っており、大きな谷が
見えていた。そしてヴェールの下から覗く唇には紅が引かれており、
彼女の素顔への関心を強めることに寄与している。
︵⋮⋮ディー君? きれいな女のひとだからって、見とれてちゃだ
めだよ︶
隣にいる師匠が、机の下で手を伸ばしてきて、俺の膝をつまんだ。
痛くはないが、俺は気を引き締め直し、咳ばらいをして話を続ける。
﹁コーディ、俺たちがまず迷宮に転移して、様子を確かめよう﹂
﹁うん、それがいいだろうね。他のみんなにも声をかけて、迷宮探
索の準備をするとしよう。一階の安全が確保できたら、一度戻って
きて他の人員を投入すればいい﹂
俺たちだけで突き進み、一気に百階まで到達することが可能なの
か、強力な魔物を倒すごとに、地上に戻って休むべきか。それは、
潜ってみなければ分からない。
だが、俺は一刻も早く迷宮に入ってみたいという気持ちになって
いた。好きなように飲んだくれる生活に戻るためにも、足元の脅威
を払っておきたい。
﹁パーティは冒険者、騎士、僧兵などの所属する集団ごとに分かれ
ることになると思うが、いざというときに協力できるように、迷宮
探索の参加者全員に、立場は関係なく共闘するという意識を徹底さ
せたい。できれば、王室の方に探索者への激励を頼みたいんだが、
それは可能か?﹂
﹁おお、それは良いお考えです。私の方から、国王陛下にご意見を
お伺いしておきます﹂
677
ロウェは俺の言葉を素直に受け入れ、柔和な笑顔を見せる。何に
せよ、協力的であるに越したことはない。
激励に出てくるのは、おそらくマナリナということになるだろう。
彼女はその容姿もあって、国民に絶大な人気がある︱︱次期女王で
もあるし、彼女の存在を改めて王都の民に知らしめるという意味で
も、その演説には期待がかかるところだ。
﹁ロウェ殿、転移陣を5階ごとに設置されると言ったが、転移結晶
は非常に貴重なもののはず。どのように用意されるのだ?﹂
﹁おっしゃる通り転移陣の設置可能数には限りがありますが、千年
前の探索隊が設置したものが破壊されていなければ、46階までは
5層ごとに転移陣が残っているはずです。しかし魔物が湧いてしま
っているでしょうから、転移陣を使用可能な状態にするには、改め
てそこまで潜り、魔物を掃討する必要があります。51階以降に設
置する転移陣については、王国の宝物庫にある転移結晶を支給しま
す。13ほどありますから、数は足りるでしょう﹂
手に入れた冒険者の人生を百度保証するとまで言われる、莫大な
価値を持つ転移結晶だが、惜しんでいる場合ではないということだ
ろう。
そして可能なら、俺のギルドの地下にある転移陣にも接続できる
ようにすれば、俺のギルドの人員が休むときは楽になる︱︱という
のは、少しずるいだろうか。他のギルドの冒険者には白の山羊亭の
敷地内に転移陣を作って、そこを使ってもらうというアイデアもあ
る。できれば結晶は王国に提供してもらいたいが。
﹁冒険者への報酬については、王国と貴族連盟にて負担するとの取
678
り決めがなされています。報酬の配分についても、ディック殿にご
意見を伺いたいのですが⋮⋮﹂
現役のギルドマスターである俺は、報酬の相場などには答えられ
る。
こうして俺たちは必要な議論を済ませ、迷宮探索を開始する日を
三日後に定めて、それぞれに準備を進めた。
◆◇◆
三日後の昼、王城の中庭に、迷宮探索の参加者が集まり、王女マ
ナリナの応援演説が行われることになった。
探索者の人数は、俺たちを入れて千人をわずかに超える程度だっ
た。王国じゅうから集まっているので、Bランク以下が600名、
Aランクが250名、Sランク以上が40名という内訳だ。残りは
非戦闘員として、回復や物資の調達などの役目を担う。
王族の女性にふさわしい白いドレスを纏い、ティアラを戴いて姿
を見せたマナリナは、王宮のバルコニーに姿を現すと、そこから風
の精霊魔法を利用して、全員に声が届くようにして話し始めた。
﹁国王陛下に代わりまして、この場でお話しさせていただくことを、
どうかお許しください。ここにお集まりいただいた方々はすでにご
存じかと思いますが、今、王国は岐路に立たされています。二千年
前、建国王アルベイン一世が王都の地下に封じた邪悪な存在が、時
を経て目覚めようとしているのです﹂
マナリナは緊張しているが、その声は震えてはいなかった。集ま
679
った冒険者、騎士、僧兵、魔法使いの全てが、彼女の姿に、その言
葉に注目している。
﹁しかし、あなたがたは勇気を持って、邪悪な存在をふたたび封じ
込めるため、この場に集まってくださいました。私たちはその勇気
を誇りに思います。これから新たな千年の繁栄を手に入れるため、
皆さんと手を取りあわせ、尽力していきたいと願っています﹂
王族は戦う力を持たなくとも、国民を勇気づける力はある。それ
でいいと俺は思う。
﹁第一王女、マナリナ・リラ・アルベインの名において、祈らせて
いただきます。全ての戦うものたちに、神の祝福のあらんことを﹂
マナリナが目を閉じて祈る。そのあと、彼女が目を見開くと、割
れんばかりの歓声が起こった。
猛々しい戦士たちの声。手柄を狙い、目を輝かせる冒険者たちの
うねり。人々を救うためにその力を救わんと、静かに戦士たちを見
つめる僧侶たち。そして未知の迷宮に想像を働かせる魔法使い︱︱
誰もが、前を向いている。王女の名のもとに、同じ方向へと。
﹁ほえ∼、みんなすっごい元気。それで、ドラゴンキマイラだっけ
? どれくらい強いのかな﹂
﹁邪魔をするものは、全部殲滅して構わないのでしょう? 遠慮し
なくていいというのは久しぶりだわ﹂
アイリーンとミラルカの戦意は、すでに満ち満ちている。二人と
も瞳が燃えるようだった。
680
﹁王都の地下にまでは、私の浄化の力が届いていませんから、一階
層ずつ清浄化していきたいです。ああ⋮⋮それだけではなくて、デ
ィックさんともう一度、冒険ができるんですね⋮⋮﹂
﹁団員のみんなに騎士団を率いて欲しいと言われたけど、困った時
だけは助けると伝えてきたよ。こんな騎士団長は、やっぱり薄情な
のかな﹂
﹁そんなことはない。前線で戦う団長ってだけで、十分に部下思い
だよ﹂
サポーター
冒険に臨むみんなの装備は、当然王都で生活している時とは全く
違う。勇者、魔法使い、武闘家、僧侶︱︱そして補助役の俺。
そして、メイド服だが足元だけ歩きやすいブーツに履き替えたヴ
ェルレーヌと、白で統一した装備で身を整えた師匠。俺たちのパー
ティは、この七名となった。
﹁久しぶりすぎて、戦い方すら忘れそうだが。足を引っ張らぬよう
にしよう﹂
﹁外ではその話し方はしないんじゃなかった? ヴェルちゃん﹂
﹁むぅ⋮⋮そ、そのヴェルちゃんというのは、絶対に嫌というわけ
ではないが⋮⋮﹂
﹁頼むぞ、ヴェル。迷宮の中で食事をする必要があるときは、お前
の協力が不可欠だ﹂
﹁ご主人様まで⋮⋮卑怯だぞ、手を組むとは。まあいい、戦闘要員
のつもりなのだが、食事は大事だからな。ご主人様、何なりと申し
付けるがいい﹂
銀の水瓶亭は休業中︱︱というわけでもなく、ギルド員で交互に
店番をすることになっている。探索を終えたあと、地上に戻ってき
たら酒場で休憩したいという俺の個人的な考えもあるし、急に店を
681
閉じて12番通りの人々を驚かせたくないということもある。
﹁うちは一日探索したら、その次の日はお店で働くんですよね。な
んや、楽ちんやわぁ﹂
﹁おまえはまだ小さいからな。戦うのは俺たちの役目だ。そうだろ
う、ギルドマスター﹂
﹁ち、ちっちゃくなんてあらへんよ? もうちょっとしたら、ヴェ
ルレーヌお姉さんみたいにばいんばいんになって、兄上様より身長
も高くなってしまうんやからね﹂
﹁ふっ⋮⋮そうか、期待している﹂
﹁な、なんやのその言い方。もう怒った、間違えて凍らせても知ら
へんからね!﹂
SSランクの兄と妹が、これから迷宮に挑むとは思えない平和な
やりとりをしている。リゲル、ライア、マッキンリーも、俺たちが
安全を確認したあと、後から迷宮に入ることになっているが、気合
は充実していながらも、適度にリラックスできていた。
サクヤさんとリーザ、他の何名かのギルド員はギルドに残っても
らっているが、ローテーションで迷宮に入ることになる。今回の迷
宮探索を通して、俺のギルドの全体的なレベルが向上するだろう。
﹁ディー君、ギルドの子たちの冒険者強度はこまめに測定してる?
そうじゃないと、強さに応じて適材適所にできないよ﹂
﹁ああ、そうか⋮⋮測定器が今ないんだ。新しいのを調達しないと
な﹂
ギルド員の冒険者強度を、最新の情報に更新したい。しかし普通
の測定器では、俺の冒険者強度を測ることはできない。
682
﹁じゃあ、私が測定器を作ってあげる。材料がたぶん見つかると思
マグスタイト
うから。私は測定師の技能を持ってるけど、私でもディー君の力は
測り切れないから、超高品質な﹃充魔晶﹄を見つけて、それで測定
器を作るしかないね﹂
﹁なるほどな。今回の迷宮の深層にいる魔物なら、それを体内に生
成してる可能性があるか﹂
﹁そうしたら、私たちも測らせてちょうだい。しばらく測っていな
いけど、伸びているだろうとは思うから﹂
ミラルカも昔より使える陣が増え、魔力容量も上がっている。他
の面々も負けず劣らず成長しているだろう。
そのとき俺たちは、﹃奇跡の子供たち﹄という以上に、どんな名
前で呼ばれることになるのだろう。楽しみなようで、自分たちのこ
とながら、どうなることか計り知れないと思った。
683
第60話 混沌の一層と七人の連携
王都の西北西の方角に、転移陣の設置されている神殿がある。こ
れまで王室に深く関わる人間にしか知らされてこなかったが、今回
は探索者全員がその場所を知ることになる。
千年の間に何度も修繕されたのだろう、鬱蒼とした森の中にある
石造りの神殿とその周辺は、現在においてもその威容を保ち、周囲
の環境が保たれていた。
先遣隊である俺たち七人が神殿の中に入ると、百人が一度に転移
できる大きさの転移魔法陣が敷かれていた。一階立てだが屋根が非
常に高く、天井は雨を避けつつ太陽の光が入るような構造になって
いて、柔らかい光が差し込んでいる。
﹁俺とヴェルレーヌ、師匠は朝食のときに食事効果を得てきたが、
四人はどうする? 向こうに行ってからにするか﹂
﹁そうね、今のうちにミルクだけもらおうかしら。ディック、ここ
は火竜の放牧地にも近いわね﹂
﹁ああ、確かにな。でもまあ、集まった冒険者が向こうまで足を伸
ばすことはないだろう﹂
ヴェルレーヌは﹃エルフの隠し箱﹄と呼ばれる魔道具を持ってお
り、見た目は箱型のバッグのように見えるのだが、魔法で見た目よ
り中が広くなっており、収納・保存能力が拡張されている。エルセ
イン魔王国では長旅の際などに重宝されるとのことだ。
その中から冷やしたミルクの入った水筒を取り出すと、まだ食事
684
効果を得ていないみんなに飲ませる。﹃ディフの実﹄という実をペ
ーストにして入れてあるのだが、俺の付与魔術による戦闘力の増強
にプラスして、守備力が上がる。加えてミルクだけでは足りない栄
養分が補充されるというおまけつきだ。
﹁んっ、んっ⋮⋮ぷはぁ。ってするのがミルクの正しい飲み方だよ
ね﹂
﹁お父様がお風呂上りによくやっていたわね⋮⋮私とお母様は、や
めるようにと言ったのだけど﹂
﹁私のお父様もよくやっていました。ミルクはできるだけ飲んでは
いけないんですが、骨を強くしますからいいんですよね﹂
アイリーンとミラルカ、ユマが二口、三口くらいずつミルクを飲
む。目に見えて強くなるわけではないが、食事効果には馬鹿にでき
ないものがある。
敵の属性が分かっていれば、それを防ぐものも摂取するのだが、
手当たり次第というわけにはいかない。食事効果でなくても魔法な
どで防ぐことはできるので、潜入前の準備はこれくらいで十分だ。
﹁戦闘に備えてという意味では、適量だけにとどめた方が良さそう
だね﹂
﹁うむ。他にも食料は用意してあるが、後にした方が良いだろうな。
この箱を壊されてはいけないので、やはり私は前衛には出られない﹂
﹁ヴェルちゃんたちは私が援護するから、前衛はコーディとアイリ
ーンちゃんに任せるからね﹂
コーディを﹁コーディちゃん﹂と呼ばないのは、師匠も彼女が男
装している理由を理解して、心情を汲んでいるからだ。初めはどっ
ちで呼べばいいかと俺に聞いてきたが、呼び捨てを推奨しておいた。
685
ちゃん付けで呼ばれたら、コーディが困った顔をするのは目に見え
ていたからだ。
師匠は魔法陣の上に浮かんでいる転移結晶に向けて手をかざし、
起動の準備をする。
﹁⋮⋮それじゃ、転移するよ。転移した後にすぐ魔物が襲ってくる
可能性があるから、気を付けてね﹂
﹁向こうには、魔法陣の見張り人がいるっていう話だけどな。まあ、
念には念をか﹂
一階から下層までは繋がっているのだから、ブレスを吹く魔物が
スピリットウォール
上に上がってきているという可能性もなくはない。俺は全員に、ブ
レスの威力を一定時間激減させる﹃防護壁﹄の魔法をかけた。
﹁あたたかい⋮⋮ディックさんの防御魔法は、包み込まれるみたい
に優しいですよね﹂
﹁い、いや⋮⋮確かに魔力で包み込んでるけど、優しくはないぞ﹂
﹁⋮⋮全身が包まれていると何か落ち着かないわね。ディック、役
得だと思っていたりしないでしょうね﹂
﹁そんなことはない。俺はいつだって真剣だぞ。邪念なんてかけら
もない﹂
体を魔力で包み込むと、触れているのと同じ感覚が得られる︱︱
マインドガード
ということはそれほどないので、俺は堂々と答えた。師匠はふっ、
と口元に手を当てて笑う。精神防御をしてないので、ここで心を覗
くのはやめてほしい。
﹁ああそうだ、いちおう精神防御もしておくか。個人でも抵抗力は
あるけど、一番怖いのが混乱させられることだからな﹂
686
﹁うっうっ、ごめんねディック、昔は手間とらせちゃって。私が脳
みそ筋肉でできてるばっかりに﹂
﹁アイリーンが混乱したときは、確かに大変だったわね⋮⋮強くて
速くて、コーディがいなかったら抑えきれなかったわ﹂
﹁混乱してると鬼神化ができなくなるから、その点で助けられたね。
やっぱり、このメンバーで集まると色々と思い出してしまうな﹂
﹁私がその思い出の終着点となるわけか。あの時は死を覚悟したも
のだが、やはり今となっては、泥水をすすろうと生きてこそだと思
っている。泥水どころか、至上の甘露を味わう日々だがな﹂
ヴェルレーヌが流し目を送ってくるので、俺は手で防御した。至
上の甘露というのは、たまにヴェルレーヌと二人で店の片づけをし
たあと、ブレンドを出したりすると出てくる言葉で、どうやら口説
き文句らしい。﹁ご主人様と飲む酒は私にとって至上の甘露だ﹂と
いうように使う。
﹁﹃魔窟﹄というが、私にとってはただの洞窟だ。魔物が支配して
いるというなら、誰が真に支配する資格を持っているのか示してや
ろうではないか﹂
ヴェルレーヌが言うと、元魔王だけに説得力がある。俺たちは頷
き合うと、師匠が転移結晶を起動し、魔法陣から光の柱がいくつも
立ち上がり、魔法陣の外の景色が変化していった。
◆◇◆
転移した先は、アーチ形の石柱に支えられた、半球状の屋根の下
だった。魔法陣の大きさは変わらず、光が収まると、周囲はかなり
薄暗くなる。
687
魔法の火をともす燭台が、魔法陣の外にいくつか立てられている。
しかし目が慣れてくると、洞窟の岩壁全体が微弱ながら光を放って
いるのがわかり、燭台を離れると真の闇というわけではない。
﹁ちょっと待って。あなた、魔法陣の見張り番ね。そこで何をして
いるの?﹂
魔法陣のすぐ外側、燭台の近くで、一人の男性が頭を抱えてうず
くまっている。がたがたと震えていて、ミラルカの問いかけになか
なか応じなかった。
﹁しっかりして。私たちが何とかするから、事情を話しなさい﹂
﹁ヴェルレーヌ、﹃安らぎの雫﹄を出してくれ﹂
ヴェルレーヌに運んできてもらった気付けの効果がある飲み物を、
俺の手で男性に飲ませる。すると虚ろになっていた彼の瞳に光が戻
り、俺たちを見ると、救いの神を見るような顔に変わった。
﹁な、仲間が⋮⋮この一階の、魔法陣だけは死守しなければと、巡
回に出ていたのですが。世にも恐ろしい雄叫びが、下の階に続く穴
から聞こえてきて⋮⋮な、仲間が、逃げ遅れて⋮⋮﹂
﹁それは、少し前の話か? 何か強力な魔物が出たんだな?﹂
男は震えながら頷く。悪い予想は当たってしまった︱︱千年もの
間、この魔法陣が維持されていただけでも奇跡だ。
おそらく深層の魔物が、上の階層に上がってきたのだ。男の仲間
は、それに出くわし、襲われた。
﹁急ごう、一刻を争う事態だ。逃げてくれているといいが⋮⋮!﹂
688
クイックネス・ライズ
俺は全員に﹃敏捷強化﹄をかけ、アイリーンがミラルカを抱え、
俺はユマを抱えて進み始める。魔法使いと僧侶は交戦域に入るまで
身体能力の高い者が運ぶ、それは討伐隊の当時も同じだった。ヴェ
ルレーヌと師匠も後に続くが、彼女たちは自力の移動もSSSラン
クにふさわしい速度を持っている。
進む間、俺たちは無言だった。一階層は岩肌がむき出しになった
洞窟だ。ところどころに朽ち果てた武具や、魔物たちの骨があり、
他にも強くはないが、魔物が生息している気配がする。しかし、彼
らも怯え切っていて何もしてこない。深層の魔物に捕食されること
を恐れているのか。
そして俺たちは、遥か前方に、赤いゆらめきを纏う巨大な塊を目
にした。
その赤色は、炎。そしてその中に浮かび上がる、黒く巨大な影は、
見上げるほどの巨躯を持つ、竜の翼を持つ獅子だった。
ドラゴンキマイラ。事前に見せられた地図では五十層にいた魔物。
しかし、描かれていた絵とはまるで違う姿になっている。全身が黒
褐色に変わっており、肩から鋭い角が突き出し、全身の筋肉がはち
きれそうなほどに肥大化している︱︱明らかに、変異個体だ。
千年の放置がこんな怪物を生み出した。俺は全員と魔力で思考を
連結し、作戦を伝える。言葉もなく全員が連携を開始する︱︱SS
Sランクの冒険者たちが、フルパーティで連携すれば倒せないもの
などない。
ドラゴンキマイラが俺たちに気づき、選択した行動は威嚇行動で
689
はなく、即座に発動する即死攻撃。全身を包んだ炎が膨れ上がり、
灼熱の火柱となって俺たちに放たれる。
元から防壁を張っているとはいえ、それだけで受けてみる気はし
ない。俺は師匠と意志を疎通し、灼熱が撒き散らされることのない
よう、協力して広範囲に防壁を展開して抑え込む。
プロテクトプリズン・クアドラブル
︱︱防壁の四重檻︱︱
SSSランクの俺たち二人でなら、押し返すことは容易だった。
ドラゴンキマイラは防壁に阻まれて跳ね返った炎を浴びるが、構わ
ずに咆哮し、俺たちに突進してこようとする。
それを牽制する役目をコーディが担う。防壁を展開するうちに召
喚していた剣精ラグナを、剣の形に具現化する前に、無数の光弾に
変えて敵の巨体に撃ち込む。
ライトブレードバレット・カーテン
︱︱光剣・光弾幕ー
敵の進行を阻むか、攻撃を封じるために﹃幕﹄と名付けられてい
るが、やはり攻撃こそ最大の防御で、ドラゴンキマイラは突進する
前に一瞬だけ怯む︱︱額、目、胸、両肩、弱点にあたる部分を射抜
かれ、黒い血しぶきを上げ、それでもその目は白熱し、暴れ狂いな
がら進もうとする。
SSSランクの攻撃を受けてすでに3秒以上生存している。心臓
を射抜いたはずなのに死なないのは、再生速度が尋常でないからだ
った。コーディが射抜いた直後に傷が塞がっているのだ。
アースエレメント
﹁我が声に応じよ、土精霊!﹂
690
﹁ありがとう、ヴェルレーヌさん! はぁぁっ⋮⋮﹃修羅斬月蹴﹄
!﹂
しかし一瞬でも足止めすれば十分だった。ヴェルレーヌが大地の
精霊魔術を使って巨大な土の柱を立て、アイリーンがそれを駆け上
がり、足場にして飛ぶ。そして洞窟の天井から垂れ下がった岩塊に
蹴りを放って切断し、ドラゴンキマイラの上に落下させる。
その巨躯の上に同等の大きさの岩塊が落下するが、それを受けて
もなお、ドラゴンキマイラは地面に体躯をめり込ませながら、炎の
魔力を爆発させ、岩塊を破壊し飛び上がろうとする︱︱だが。
﹁完成したわ。これで終わりよ⋮⋮!﹂
︱︱﹃限定殲滅型九十二式・縮退消滅陣﹄︱︱
ミラルカの魔法陣が、ドラゴンキマイラの周囲に﹃球形に﹄展開
する。そして彼女の魔力を通されると、ドラゴンキマイラの動きが
止まり、魔法陣がゆっくりと縮小していく。
そしてミラルカが両手を合わせると、ドラゴンキマイラは一気に
圧縮され、永遠に姿を消した。展開まで時間はかかるようだが、凄
まじい威力を持つ魔法だ。
﹁迷える魂よ⋮⋮我がもとに集まりたまえ。神の赦しは隔てなく、
約束の地へと導きます﹂
ドラゴンキマイラの身体は消滅したが、その後から無数の光の球
が生まれ、迷うように浮遊する。その全てがユマの周りに集まって
いき、浄化されて消滅していく。しかしその中にあった、ひときわ
691
大きな光の球が、別の形に姿を変えた。
師匠はユマの足元に落ちたそれを拾い上げる。それは、赤色をし
た丸い宝石だった。
﹁これは⋮⋮魂の宝玉だね。長く生きたドラゴンキマイラの魂が、
変化したんだよ﹂
﹁これが、充魔晶⋮⋮ってことでいいんだよな﹂
﹁うん、そういう使い方もできるよ。こんなに大きい玉、初めて見
た⋮⋮本当に、生きてて初めてかも﹂
他の魂は、迷宮の魔物か、それとも犠牲になった人々の物か。
あの魔物を前にしては、生存は絶望的だ︱︱と思ったが。しかし、
奇跡は起こった。
﹁ご主人様、重傷だが生きている者がいる! 回復の魔法を頼む!﹂
発見された直後に殺されることもありうるというのに、無事でい
てくれた。物陰に二人の男女が倒れていて、男性が女性をかばうよ
うにして、背中に大やけどを負っている。
リザレクトライト
二人とも気絶しているが、男性は危険な状態だ。俺は師匠と共に、
部位欠損すら修復する最上位の回復魔法﹃再生の光﹄を使って、凄
惨な火傷を治療し始めた。
◆◇◆
治療を終えたあと、俺たちは一度転移魔法陣のところまで戻った。
恐怖に怯えきっていた男は、仲間二人が助かったことを知ると、地
面に頭をこすりつけて俺たちに感謝の言葉を繰り返した。
692
魔法陣の見張り番はAランクの実力を持っていて、交代制で三人
ずつ任務についていたという。二階層の入り口からドラゴンキマイ
ラが現れたときは、国が亡びることを覚悟したと彼らは言った。
あまりにも、手薄すぎる。この迷宮の危険性を考えれば、もっと
戦力を投入すべきだというのに︱︱国王陛下には、不敬になるが文
句の一つも言いたくなってくる。
﹁やはり、もう限界だったんだな。この魔法陣が壊されてたら、こ
こに入るには相当苦労するところだった﹂
﹁申し訳ありません⋮⋮しかし、あの怪物が現れるまでは、私たち
もなんとか任務を継続できていたのです。他の魔物はゴブリンなど
で、油断しなければ負けることはありませんから﹂
﹁それでも人数が少なすぎるよね。秘密にしなきゃいけないってい
うのは分かるけど、これからは無理しないでね。あ、今回であたし
たちが迷宮を攻略しちゃうのか﹂
アイリーンがあっけらかんと言う。三人の見張り番たちは信じら
れないという顔で見ている︱︱そこでコーディが自分たちは魔王討
伐隊だと告げると、彼らは大いに感激し、目を輝かせた。
元魔王のヴェルレーヌは﹁私は討伐される側だったのだが﹂と聞
こえないくらいの声で言いつつ、エルフの隠し箱から地面に敷く布
を取り出し、そして憔悴しきっている三人をその上に座らせ、食料
と飲み物を出した。肉と野菜を挟んだサンドを見ると、三人の腹の
虫が鳴る。食事など、取っている余裕はなかっただろう。
﹁時間にすれば短いが、激しい戦いだったからな。後続の人々を呼
ぶあいだに、身体を休めておこう。消耗などかけらもしていないと
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言いたいところだが、先は長いのでな﹂
全員がヴェルレーヌから飲み物を受け取り、喉を潤す。食事係と
いうのは冗談で言ったのだが、心憎すぎるほどに彼女は役割を果た
していた。殺伐としがちな迷宮で、そのメイドとしての振る舞いが
癒しとなる︱︱そして見張り番の三人にも、まだ弱弱しくはあった
が、笑顔が生まれていた。
やはり俺たちが最初に来なければ、いたずらに死者を出すことに
なっただろう。迷宮の情報は千年前と同じではないのだから、何が
待っていてもおかしくない。
ドラゴンキマイラが一層に上がってくるまでに、他の魔物を減ら
してくれていればいいのだが。そんなことを考えつつ、俺もサンド
を口に運び、皆と話しながら一時の休息を取った。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n9565dj/
魔王討伐したあと、目立ちたくないのでギルドマスター
になった
2016年9月6日05時46分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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