リサーチ TODAY 2016 年 8 月 26 日 日銀は適合的期待で金融政策の限界を示唆 常務執行役員 チーフエコノミスト 高田 創 日銀が7月の金融政策決定会合で重視した適合的期待形成(adaptive expectation)とは、合理的期待 形成に対する考え方で、将来への期待が現時点での需給関係だけでなく、過去から積み重ねられてきた 歴史・履歴による影響を強く受けるとするものだ。7月の金融政策決定会合は、物価上昇への不確実性が 高まるとした。そしてこの適合的期待形成の考え方を示すことで、従来の物価へのスタンス、さらに金融政 策そのもののスタンスを大きく転換させた点で、この会合は画期的なものと位置づけられる1。ここで示した 適合的期待形成は、理論上インフレ時にもデフレ期にも当てはまるが、今日の日本のようにデフレ意識が 定着した場合は、より当てはまりが良い。1970年代の狂乱物価は適合的な期待形成によるインフレマインド の定着によるものと議論された。ただし、金融政策手段上、引き締め策は劇薬のように強く、景気を冷やす 副作用さえ恐れなければ、比較的短期間でインフレを抑制させることができた。しかし、今日、市場が改め て認識しているのは、デフレに対しては対応手段が乏しく、一旦期待が落ち込んだ状況からの蘇生は容易 ではないということだ。下記の図表は、インフレとデフレで対応が異なること、対応が非対称的であることを 示す概念図である。インフレのような貨幣的現象は理論的には金融政策で対応が可能とされる。しかし、日 本がバブル崩壊後の20年で体験したのは理論とは異なる世界だった。インフレの抑制は、金融政策の独 立性を中央銀行に与え、景気減速の副作用はあっても思う存分利上げをすれば、可能だ。しかし、デフレ への対応では金利の引き下げに限度があり、一度、適合的期待形成の中で落ち込んだマインドを元に戻 すことは困難で、早期には解決しにくい。 ■図表:インフレとデフレの非対称性 インフレへの対応 政 府 不人気政策 デフレへの対応 非対称 政 府 独立性 日 銀 一体となった 取り組み 政 策 の 総 動 員 主体的に対応 日 銀 (資料)みずほ総合研究所 バブル崩壊後の縮小均衡、すなわち企業のリストラモードのなか、企業行動のあり方、先行きへの期待 1 リサーチTODAY 2016 年 8 月 26 日 の低下が定着してしまった状況を元に戻すには、外部から大きな圧力を人為的に加え企業の「意識」を転 換させるしかない。筆者は長らく、一旦「草食系」に進化した行動形態を元に戻すのは、大変な力と時間を 掛けるしかないとしてきた。下記の図表は、日本においてバランスシート調整に伴い期待を引下げる行動 パターンが定着し、それまでの「肉食系」がもっていたレバレッジやインフレマインドが一転してデ・レバレッ ジやデフレマインドに陥った「草食系」になったことを示すものだ。 ■図表:「草食系」と「肉食系」の行動原理 草食系(herbivore) 期待水準引き下げ 社会行動 縮小均衡 財務行動 デ・レバレッジ 物価行動 デフレマインド 個人行動 草食系男子 肉食系(carnivore) 理想追求 拡大基調 レバレッジ インフレマインド エコノミック・アニマル (資料)みずほ総合研究所 筆者は、日本のバブル崩壊後の長期の停滞を説明する際、人気映画『アナと雪の女王』を用いながら、 日本はさながら魔法によって「雪の世界」に閉じこめられたような状態にあるとした。すなわち、1990年代以 降のバブル崩壊にともなうバランスシート調整によって生じた資産デフレと、バブル崩壊後も続いた超円高 基調によって企業行動が「持たない経営」と「リストラ」のモードになってしまったことを「雪の世界」と例えた。 アベノミクスの3年間で、「雪の世界」がもたらした資産デフレと超円高は大幅に改善し、「雪」は溶け始めた。 しかし、バブル崩壊以降四半世紀近くが経過したことで、適合的期待形成により日本人の行動様式は、そ れまでのアグレッシブな「肉食系」から慎重な「草食系」に「進化」してしまった。四半世紀の年月で出来上 がった行動様式と魔法は、3年やそこらでは過去の履歴効果が残っているので、払拭できない。 アベノミクスの三本の矢には、『アナと雪の女王』のなかでは魔法を解く「真の愛」のような強いメッセージ が必要である。アベノミクス当初の3年間(2015年まで)では、金融政策主導による円安・株高で、円高によ るリストラというトラウマを払拭し、かつ資産デフレを払拭し、持たない経営を脱することに主眼が置かれた。 しかし、2016年以降、金融政策の効果が限界を迎えた。ここでそのまま放置すれば、折角、過去3年で生じ てきた企業や国民の意識の改善を水の泡にしてしまうため、政府には政策を総動員し、これまで改善した 意識を保持していく必要がある。また、日銀を孤立無援にし政策の限界を晒すことは、アベノミクスの政策 そのものの限界にもつながるため、政府としては日銀に一定の助け船を出す必要もあるだろう。政策の目 的が、マインドの転換であるとすれば、やはり、ここで求められるのは成長戦略とそのスタンスを持続的に示 すことである。また日銀が今回、適合的期待形成を持ち出してきたことは、物価目標の実現が事実上困難 であることを、日銀が認めたことを意味する。しかし、日銀から物価目標の後退を言い出すのは難しいので、 物価目標に加え、賃金目標や名目成長率目標を掲げて政府との一体感を改めて演出することも選択肢に なる。日銀の行う金融政策に加え、財政政策や成長戦略も含めて、総合的に自然利子率を高めるような持 久戦が求められている今、持続的な効果をもつ緩和策については改めて長期にわたる時間軸を設定する こと等も考えられるだろう。 1 金融政策について詳しくは、野口雄裕 「緩和長期化へと舵を切る日銀」(みずほ総合研究所 『みずほインサイト』 2016 年 8 月 16 日)を参照いただきたい。 当レポートは情報提供のみを目的として作成されたものであり、商品の勧誘を目的としたものではありません。本資料は、当社が信頼できると判断した各種データに基づき 作成されておりますが、その正確性、確実性を保証するものではありません。また、本資料に記載された内容は予告なしに変更されることもあります。 2
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