東京陵水99号 - 株式会社MPO

東 京 陵 水 2012年(平成24年)1月15日発行 第99号
平成二十四年度東京支部総会
七月七日㈯七夕総会として開催
目 次
1面
二十四年度総会
2面
年頭所感
2~4面 二十三年度総会
4~ 面 羽渕氏講演内容
~ 面 「こんにちは」
~ 面 告別の辞
17 10
18 15 10
①
年も昨年同様、多くの会員の皆
様にご参加いただけるよう土曜
日開催としております。
支部のホームページにも詳細を
掲載いたしますのでご覧いただ
けます。
会社関係・クラブOB・ゼミ
OB等を通じご連絡を取ってい
同期で・クラスで・ゼミで・盛り上げよう
ただき一人でも多くの会員の皆
弘、金子俊治、奥村淳一、高木 様にご参加頂き、盛大なる総会
章、田中恒男(以上一〇名)
に致したく存じまので宜しくお
既に昨年九月二八日、同期一 願い申し上げます。
〇名が銀座に集まり、役割分担・
平成二十三年度
運営方法等の打ち合わせを致し
東京支部総会会場風景
ました。参加される方も年々増
加しており、会員の輪がますま
す拡がってきておりますが、今
平成二十四年度支部総会の概要
○開催日時・平成二十四年七月
七日㈯ 午後五時~午後八時
○会 場・上野精養軒
(台東区上野公園四―五八)
― 八二一 二
― 一八一
電話〇三 三
○会
費・七〇〇〇円
○ 記念講演・
「講談で語る成年後見制度」
○講
師・神田 織音 講談師
○幹事一同挨拶
~ 面 随想(河添・法橋両氏)
~ 面 ゴルフ会・散歩会・
囲碁会
~ 面 同期会
面 年会費納入者一覧
面 奥付・広告
①支部長挨拶 ②新入会員
③学歌斉唱 ④年次幹事一同
⑤同期の人達
—1—
26 25 23
21 19
24
23 20
⑤
④
賀 正
親の輪がさらに拡がるように工
夫してまいりたいと思います。
尚、あらためて総会のご案内
状をお送りさせていただく予定
でございます。また陵水会東京
②
③
平成24年 元旦
陵水会東京支部役員一同
!!
田中 恒男(大 ) 詳細の詰めは同期幹事にて鋭
今回は昭和五十一年卒の大二 意準備中ですが、当日の席次に
四回が支部幹部の皆様のご指導 つきましても、同期・部活・ゼ
とアドバイスを頂きながら打ち ミ等の要素を加味しながら、懇
合わせをおこなっております。
幹事メンバーは左記のとおり
ですので宜しくお願い致します。
河江泰平、湧川勝巳、仙田修
蔵、山崎勉、高橋俊之、本田吉
24
平成二十三年度東京支部総会
就任
新支部長に守谷貞夫氏
さらに、昨年、九、十一月と え、これはと思うことには積極 山 本 保、 木 津 勝 治( 大 ) 柴,
二度にわたって、若手会員が彦 的に取り組み、しかも実績を積 原 良 昭( 大 )、 中 村 嘉 秀( 大
根 ま で 出 向 か れ、 就 職 懇 談 会、 み重ねていくことが肝要と存じ
) の 各 氏 が 副 幹 事 長 を 退 任。
相談会に協力して来られました。 ます。
本部評議員には新たに林史欣
比較的恵まれているとはいえ
悲観論ばかり目立つ昨今、同 ( 大 )、 田 村 寿 夫( 大 )、 竹
厳しい状況下にある就職運動の 窓生という絆を大切にし、充実 森二郎(大 )、大八木勉(大 )、
一助となるよう支部としても助 した生活の一助としたいと念願 脇 坂 守( 大 )、 長 井 和 男( 大
力して行きたいと考えておりま いたします。
) の 各 氏 が 就 任。 西 坂 徹 雄、
す。
重ねて会員各位の一層のご助 吉原悟一(大 )、宮野幸雄(大
いずれにいたしましても、従 言、ご協力を衷心よりお願い申
)、 木 津 勝 治、 柴 原 良 昭、 中
来からの活動に新しい試みも加 し上げます。
村嘉秀の各氏が退任。
支部規定の幹事会召集に当た
って、電子メールを採用するこ
と、準則に支部長経験者に顧問
(大 )
を委嘱する事を付加すること
大会場を埋め尽くす未曾有の出席者
が、提案され承認された。
東京陵水人の熱意、ここに集結
この後、新副幹事長の挨拶に
平 成 二 十 三 年 七 月 九 日( 土 ) 兼 事 務 局 長( 大 ) か ら 報 告。 続き守谷新支部長が挨拶した。
午後五時から、上野公園内の老 監 査 報 告 を 高 木 早 苗 監 事( 本
講演会は午後五時四十五分か
舗レストラン「上野精養軒」に
)が、二十二年度の財務目録、 ら開始された。
おいて、本年度東京支部総会が 収支計算書とも正当に処理され
講師はマブチモーター株式会
16
8
会員約二百三十名の出席者を迎 たことを報告。続いて平成二十 社 専 務 取 締 役 羽 淵 展 世 氏( 大
えて開催された。
三年度事業計画及び収支予算計
)。 演 題 は「 高 ま る 中 国 リ ス
今回の開催には、大学二十三 画について同副幹事長から提案 クと一日系企業の中国戦略」(本
12
年頭所感
事 と し て 担 当 す る 制 度 と な り、
十年を経過しました。それぞれ
意欲的に取組まれ、これを契機
東京支部長 守 谷 貞 夫
に同期会が活発になり、総会に
無関心に過ごしてきた人が、積
極的に参加されるなど、成果が
出ております。
ま た ゴ ル フ、 囲 碁、 グ ル メ、
散歩等同好会も定期的に催さ
れ、 交 流 は 深 ま っ て お り ま す。
他にもクラブやゼミのOB会の
ように力強く連綿と続いている
ものもあり、これらをホームペ
ージの活用により、連携して新
たな展開を目指したいものです。
明けましておめでとうござい
ます。年頭に際し、会員の皆様
のご健勝を心よりお祈り申し上
げます。
このたび西坂徹雄氏より陵水
会東京支部の支部長を引き継ぐ
ことになりました守谷貞夫(大
回)です。前々宇治原支部長
時代から、当会の運営に微力な
が ら 係 わ っ て 参 り ま し た の で、
進むべき方向については理解し
ているつもりです。小梶幹事長
を中心に役員の方々と一致協
力、次の五項目に果敢に挑戦し
て行きたいと考えておりますの
で、会員各位のご協力をお願い
致します。
一、年々参加者が増え盛会にな
近年、卒業後五年前後の若い
20
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19
21
9
18
の輪の拡大。
た。
)が担当。西坂徹雄支部長(大
現支部長西坂徹雄氏の退任を り上げて進行した。聴衆は現今
一、年会費の徴収率アップ。
このようにして、より多くの
)の挨拶(別記)の後、議長 受けて、守谷貞夫氏(大 )が の中国問題の複雑さ、後進性に
一、陵水会本部への支援、協力 方々に関心を持っていただくこ に鈴木重成氏(大 )を選び総 就任。新しく副幹事長に田村寿 ついて改めて認識を深めること
7
12
の継続。
とが出来るようになれば、自ず 会議事審議に進んだ。
夫( 大 )、 大 八 木 勉( 大 )、 ができた。
平成十四年度から、総会の企 と諸問題は解決されると確信し
平成二十二年度事業報告並び 脇坂守(大 ・事務局長兼務)、 午後六時五十五分から懇親会
画、運営を同年卒回生が年度幹 ます。
に収支決算が、山本保副幹事長 長井和男(大 )の諸氏が就任。 が、近藤修当番幹事の司会によ
9 18
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—2—
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一、関東五県と広範囲にわたる 会員が、自主的に総会出席を勧 回卒業生が当番幹事として諸設 が行われ承認された。
紙別ページ講演内容参照)とし
会員のより正確な把握。
誘され、特に昨年新入会員七名 営、運営に当たった。
次に支部役員・本部評議員の て、講師が豊富な中国における
一、会員相互の交流促進、親睦 が出席されたことは画期的でし
司 会 を 小 梶 清 司 幹 事 長( 大 改選案が承認された。
経験をもとに実践的な話題を取
っております支部総会の、更
なる増員と内容の充実。
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22
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12
には素晴らしい循環システムが
稼働しており、日本の力でこの
世界で初めての経験を踏まえて
部の人事提案がされると思う
が、賛成して頂き応援してほし
い。
今日は縦横の関係にこだわる
ことなく充分に楽しんで欲し
い。
く努力をしなければならない 現
金
七六、一二九
が、それには中国との付き合い 普通預金 七三九、六二二
方が大きな問題である。日本の 郵便貯金
七二八、八三四
政治が中国とどう向き合うかに 定期預金
一、〇六〇、〇〇〇
ある。今日は四十年間にわたり 合
二、六〇四、五八五
計 業務を通して中国に携わってき ○貸借対照表
たマブチモーター株式会社専務 【借方】
取締役羽淵展世氏にこの問題を 現金・預金 一
、五四四、五八五
講演頂く。大事な話だ。楽しみ 基本金引当預金
にしてほしい。
一、〇六〇、〇〇〇
今日を以って私の東京支部長 合
二、六〇四、五八五
計 の任期が終わる。役員皆様を始 【貸方】
め会員の皆様のおかげで無事順 前受金 五四六、〇〇〇
調 に 務 め を 果 た す 事 が で き た。 基本金 一、〇六〇、〇〇〇
陵水会の活動は長い駅伝競争で 次年度繰越金 九九八、五八五
あり、私は前任の宇治原嘉政さ 合
二、六〇四、五八五
計 んからたすきをもらい、今度後
注・前受金は翌年度の年会費
任の守谷貞夫さんにたすきを渡 ○収支計算書
す事になる。守谷さんは陵水会 【支出の部】
幹部として長い経験をお持ちで 計 四、三六二、五九四
ある。社長として経営の任にあ 総会費
二、〇二三、八一四
る貨物用エレベーター会社の経 運営費
三八〇、二四〇
営も順調であるとのことで、支 印刷費
三三六、四七〇
部長の務めも十分こなされてい 通信費 三二八、〇九九
かれると思う。これから新執行 ホームページ費 一 五六、〇〇一
一〇〇、〇〇〇
編集費 一、二六〇
事務用品費 三八、
一二五
雑 費 次年度繰越金 九九八、五八五
【収入の部】
四、三六二、五九四
計 平成二十二年度収支報告
り開会された。
「総会で同期会」 今年度年次幹事二十三回生を た。そして今なお重い復興の負 ものである。
これからは日本もよくなるべ ○財産目録(単位円・以下同じ)
のコンセプトも徹底されたテー 代表して堀江氏が挨拶。続いて 担を感じている。亡くなられた
ブルの配置。又ボート部、ヨッ 本会年次幹事の二十四回生を代 方、被災された方に対し心から
哀悼し、お見舞いしたい。あの
ト部と言った代表的クラブには 表して、田中恒男氏が挨拶。
高田大樹氏(大 )リードに 日はそれぞれの方にドラマがあ
専用テーブルも置かれ一層の親
睦 が 図 ら れ る よ う 工 夫 さ れ た。 よるエールの演出で彦根高商校 っ た。 こ れ か ら も 予 想 さ れ る、
女子卒業生の姿が例年に増して 歌二番まで。続いてグリークラ 都 下 直 下 型 地 震 や 相 模 灘 沖 地
目に付いた。司会から会場の奥 ブの三井照次氏の指揮に従って 震、東海地震などが起きたら大
に新しく設けた滋賀県・彦根の 滋賀大学学歌を全員で斉唱した。 変 な こ と に な る。 今 度 の 機 会、
最後に中辻喜蔵氏(本 )が 経験をもとに我々自身の生活を
地産名産店の利用が呼びかけら
挨拶、手拍子も全員の手がぴた しっかり見直さねばならない。
れた
乾杯の挨拶と発声を、陵水会 り と 一 致 し て 午 後 八 時 三 〇 分、 産業界も悲観的にみられる所
もあるが、いち早く復興してき
理 事 長・ 大 森 修 太 郎 氏( 大 ) 大成功裡に総会が終了した。
た所もあり、消費生活も次第に
が 行 っ た。
「母校は授業内容に
特筆すべきものが多く、やる気 西坂徹雄東京支部長挨拶(要旨) 戻りつつある。現役時代のプラ
酷 暑 の な か ご 出 席 を 担 当 幹 ント輸入の経験で言うと、日本
のあるものは益々のびる大学で
事、役員ともども感謝する。各 の現場の力、技術力にはものす
ある」
。
滋賀大学大学院教授久保英也 テーブルにも特色あり、メイン ごいものがある。例の放射能汚
氏が陵水奨学金や「リスクフラ テ ー ブ ル に 高 商 二 十 一 回 の 皆 染水の汚染除去循環システムは
ッシュ」のことを含めた挨拶を 様、団塊の世代が十名まとまっ フランスやアメリカの技術を併
ていくつか、二十歳代の若手陵 せ た 技 術 で 進 め ら れ て い る が、
された。
彦根市産業部観光振興課から 水会の席。更には四年前はゼロ これを本当にものにして行くの
彦根観光の協力を求めた挨拶が だった女性会員の出席が今回六 は日本の現場の力である。希望
的な見方で言えば、来年の今頃
名で花を添えている。今回の設
あった。
その後、当番幹事の棚橋稔氏 営に当たっては大学二十三回の
ス ラ イ ド 当番幹事の皆さんが健闘、準備
に よ る 解 説 で、 DVD
の 放 映。 懐 か し い 母 校 の 写 真、 してくれた。皆さん全員がまだ
21
新しい技術が生まれてくるので
はないかと思っている。昨今の
政治の世界の混乱は見るに耐え
ない状況であり、政治家のして
いることに憤りを感じる。なん
とか皆で力を合せて解決したい
49
現役でがんばっている。仕事も
やり設営も着実にすすめる、彦
根スピリットが発揮された姿と
思った。
三月十一日の東日本大震災は
国民に大きなショックを与え
10
大きく様変わりしたキャンパス
と学生の規模・内容、クラブ活
動の今などが披露された。
今年度新入会員(大 )の男
子六女子一の七名が自己紹介と
挨拶をした。
59
—3—
年会費収入 一、
三六二、〇〇〇
総会会費収入一、
三八二、五〇〇
寄付金収入 二一六、四九四
役員会会費収入 三 四五、〇〇〇
新聞広告収入 二二〇、〇〇〇
本部活動助成金収入
一三三、八〇〇
五、
八五二
雑収入 前年度繰越金 六九六、九四八
平成二十三年度収支予算書
【支出の部】
四、
三四八、五八五
計
二、
一〇〇、〇〇〇
総会費
四〇〇、〇〇〇
印刷費
四〇〇、〇〇〇
通信費 ホームページ費 一 五〇、〇〇〇
総会記念講演要旨
)
五、〇〇〇
九九八、五八五
氏(大
ったわけです。私自身は当時あ なことをずっとやってきました。
った香港の工場を拡大して、い 特に運転は免許は日本で取って
わゆる自由化、通貨の日本円の いたが、運転は一度もしたこと
自由化に備えて、貿易の拠点を が無い。中国では言葉も知らな
日 本 か ら 香 港 に 移 す 企 画 を 立 ければ、香港の町などは全く知
て、これを仕上げてみたいと思 らない状態でやらざるをえない
い自ら香港に出張しました。爾 から、いきなり荷物だけ積んで、
来四〇年間、時々は日本に帰っ 町 中 に 地 図 を 持 っ て 飛 び 出 し
てきてますけれど、延々と香港、 て、というようなことをずっと
中国に関わってきました。
やっておりました。一番ひどい
私が香港に赴任した当時は香 時には午後三時か四時頃出て行
って、仕事が終わったら午後八
時くらい、そこから帰ろうとし
たら、夜で道も暗く、あちらこ
ちらで道に迷い、着いたら朝に
なっていたという経験もありま
した。香港は当時大変に路の悪
い 所 で、 灯 り は あ り ま せ ん し、
港マブチの従業員は僅か二百人、 特に田舎ですから、三十件くら
したから。こういうことをやっ
て自分で責任を取る、というこ
とに比べればサラリーマンは楽
なもんだ、しかし非常に毎日が
楽しくなったと記憶しています。
その後、二年間くらいで香港
工場も十倍くらいな規模にな
り、二千数百人の職員になりま
した。
一九八六年初頭には、中国東
莞市に日系企業の第一号として
進出する事になりました。当時
の同市の人口は一一九万人、現
在では一二〇〇万人と言われて
います。
私が着いた頃は、どこの道を
走っても牛がいる。車はトラッ
クが偶に走る程度。道端に水牛
や豚がごろごろしている。アヒ
—4—
編集費 一〇〇、〇〇〇 り、 急 激 な 変 動 が あ っ た 時 で、 たいて、ときどき怪我をしなが 生 ま れ て き ま す。 そ う な る と、
一〇、〇〇〇 いろいろな会社の中に問題があ ら、夜中まで作業を続けるよう 夜眠れない日がしょっちゅうで
交通費
一〇、〇〇〇
事務用品費
一〇〇、〇〇〇
雑費 次年度繰越金
一、〇七八、五八五
【収入の部】
四、三四八、五八五
計 年会費収入 一、四一〇、〇〇〇
総会会費収入一、
四〇〇、〇〇〇
寄付金収入 二〇〇、〇〇〇
新聞広告費 二〇〇、〇〇〇
本部活動助成金収入
一三五、〇〇〇
雑収入 前年度繰越金
渕展世
「高まる中国リスクと一日系企業の中国戦略」
マブチモーター株式会社専務取締役 羽
いで、五~六年、豚を飼ってお とで緊張がありました。当時は 輸出用の梱包は木箱梱包、石炭 と思いました。田舎で毎日豚を
我々の工場はその後大連市に
りました。その後、まあ一生に 日 本 の 特 恵 関 税 が 外 さ れ た り、 箱ですね。あれの中に木箱を詰 飼って、冬なんかお産が始まる 造りました。蘇州市にも造りま
一~二年は、
人生経験のために、 円高に動いたりということがあ めて、それで帯封して金槌でた と、次々とお産が豚に伝染して した。深圳市と東莞市にだけで
ブ チ に 入 社 す る ま で の 数 年 間、 経済合理性を貫く
なく、自分でトラックを運転し らいに拡げました。自分自ら運 道が開通しました。速度三八九
郷里の田舎に帰りまして、百姓
入社一年の間にいきなり、ス てク―リ―の仕事もし、また昼 転しての拡大です。ただ、サラ キロです。八月一日から正式オ
をしながら、殆ど誰にも会わな トにであったり、いろいろなこ 間出て夕方帰ってきて、当時の リーマンは非常に楽なもんだな ープンする事になってます。
に卒業しました。
クラブ活動も、 ることになりました。
行 っ た 工 場 長 に も 原 因 が あ っ というようなことをやっていま の大都市です。地下鉄を始め全
軟式テニス、ワンダーフォーゲ ○香港・中国で仕事を進めるに て、ストライキが起き、部下が した。三件くらいあった外注を ての交通機関があって、最近で
ルに籍を置きました。卒業後マ あ た っ て の 姿 勢。 姿 勢( 至 誠 ) 相当辞めてしまいました。仕方 拡大もせにゃならんと三十件く は深圳市から広州市まで高速鉄
○自己紹介
サラリ―マンをやっとくべきだ 小さな工場でした。赴任した一 い外注をもっていて、いろんな ル、鶏が走っている。それはと
私は一九六一年に滋賀大学に と思い、ひょうきんなきっかけ カ月も経たないうちに、私も原 部品をデリバリーして、二~三 てつもなく汚い田舎道の都会で
入学、一年留年して一九六六年 から、マブチモーターに入社す 因があるのですけれど、一緒に 日 置 い て そ れ を 全 部 回 収 し て、 した。それが今や一二〇〇万人
14
も十三個所くらい工場を造りま ですが、私は真っ先に飛び込ん て、ストの潮目の変わるところ、 は 全 部 体 を 壊 し て し ま い ま し ってきた、それだけのことです。
した。そのうちの半分以上は閉 でゆきました。車が着くまでに タイミングをつかまえて、一瞬 た。十年過ぎくらい当地にいま 香港ではある業者にピストルを
鎖 も し ま し た。 会 社 も 閉 鎖 し、( そ の 当 時 東 莞 か ら 行 っ た ん で ストを収めました。
すと、例えば私の上司で総経理 見せられて脅かされたこともあ
統合しました。これをどんどん す)車の中で考えました。この
私が香港に就任して直ぐの時 であった方、その五代目で私の ります。中国の政府の役人と話
繰り返しながら現在にいたって 年齢になって、こんなストライ もそうです。行った所で常にス 前任者、私と同じ日に赴任した している時も、中国の共産党は
いるわけです。現在は東莞市に キを起こしてしまって。しかも トライキに遭っています。これ 工 場 長、 別 の 工 場 長 だ っ た 方、 いわばとんでもない組織ですか
約五工場を統合を重ねて持って 俺の力でおさまるのか。あるい にはずいぶん慣れましたが、ス 皆さん在任中、もしくは日本に ら、時にはひやっとさせられる
います。昨年は湖西省に新しい は、いつも定年の退任のことを トライキだけは本当に厭だと今 帰られてから、残念ながら七十 ような経験を何度もして来まし
工場を開き、生産を開始してい 考えておりますから、退任間際 でも思っています。幸いにこれ 歳までに亡くなりました。海外 た。
ます。今年も更に一つ開設しま になって、
これもまた厭な話だ、 まで起きたストは全て三日以内 で 十 数 年 間 勤 め る と い う の は、 ○日系企業から見た中国リスク
日本で言われている“中国リ
した。同時に昨年はマブチ最大 と思っていました。工場に着い で収まっていますが、中国のい いろいろなところに負担がかか
の工場で、かって一万四千人の た途端、工場の敷地内にいた五 ろいろな現場の経験をさせて貰 るものだと思い、そういう意味 スク”は、反日感情であったり、
従業員を擁した深圳工場を閉鎖 ~六千人のワーカーが大歓声を ったつもりです。
で、 ラ ッ キ ー だ っ た ん だ ろ う、 これは歴史問題、領土問題を含
めてでしょうが、あるいは労働
しましたが、閉鎖を発表した瞬 上げ、
轟音に似た声がとどろき、 こうやって四〇年間今日まで と思います。
間 に ス ト ラ イ キ が 発 生 し ま し 「ウオ―」と取り囲まれました。 やってきました。その間先ほど
四 十 年 間 に わ た っ て 後 進 国 争議であったり、あるいは人件
た。閉鎖の発表の仕方がまずか 彼らにしてみれば「敵の大将を ご紹介いただきました東莞市の で、 香 港 も 以 前 そ う で し た が、 費の高騰や、人民元の高騰であ
ったと思います。
取り込んだぞ」という感じだっ 名誉市民になったり、日本で通 そ こ に 長 年 居 た と い う 功 績 で、 ったりします。私はこれは全部
当時広州の本多自動車はじめ たと思うんです。幸いにも「殺 商産業大臣の表彰を受けたりし 皆さんの推薦もあって通産大臣 中国が抱えている“内なる問題”
北京の松下電器、あるいは台湾 される」ということもなく二日 ました。
表彰を貰いました。四十年にわ から生まれてきているものと思
系のホックスコンドなどあらゆ 間で終わりました。
会社では、立場上お客さんや たって会社や工場を経営しなが います。その“内なる矛盾”を
この二日間ぶっ続けにいろん 幹部社員などと酒を飲む機会が ら数万の人を束ねていくという 爆発しないようにガスを抜いて
る工場でストライキが発生し非
常に困難な時期で、その真っ最 な指示を出しながら、徹夜です 非常に多く、私の場合は浴びる のは、それなりに一筋の信念み いく過程の中で、ここにあげた
中に我々の工場もストを起こし ね。とにかくフルに知恵を絞っ ほど酒を飲んでいました。香港 たいなものがないとやれないと 問題が現象となって現れてくる
ました。客先供給責任というも て戦いました。まず全員一緒に の場合はブランデーですし、中 思います。私の場合はそれは働 と思います。
中国の抱えている問題に所得
のがあってこの期間のせめぎあ な っ て い る の を 分 断 す る こ と。 国の場合は「バイリュウ」とい く姿勢だと思います。要するに
いに、大変な緊迫感を覚えなが それぞれの利害に幾分の相違が う白い酒でアルコール度数五十 経済人として、経営合理性を徹 格 差 が あ り ま す。 評 価 の 問 題、
らスト発生と同時に工場に飛ん ありますから、一寸した点に計 三度を毎日、毎晩乾杯しながら 底 的 に 貫 く 努 力 を す る こ と が 不良債権、一人ッ子政策、或い
で行きました。一般的には日本 略 を 使 っ た こ と も あ り ま し た。 何十年飲み続けてきました。幸 「 誠 」 に 至 る 道 だ ろ う と 思 っ て は民主化問題、或いは環境問題、
の責任者がいきなりスト現場に 大多数が女工さんとその間に立 い病気にもならず今に至ってい やってきました。役員や従業員 こういった問題なんだろうと思
飛んでいくようなことは比較的 つ人、管理職、この三者を徹底 るのですが、強い胃袋と肝臓を とうまくやろうと思ったことは います。中国は社会主義国であ
ない。おそらく日本とか、香港 的に分断させる。他と自分達と くれた両親に感謝している次第 一度もない。ただ誰に対しても りながら世界有数の貧富の差の
とか後方にいて、現地の工場の は違うんだと思わせるような仕 です。私と一緒に香港に行かれ 自分はこうだと思うことを説い 大きい国です。社会主義国とは
総経理に指示を与えると思うん 組みを作る。これが上手くいっ た上司や同僚、十人のうち七人 て説いて説きまくってそれでや 本来国民みんなの幸せをめざし
—5—
たできるだけ貧富の差の少ない り、政府の人間であったり、こ と思われています。
の 人 が 買 う と ば れ る か ら で す。 な事件が結構沢山起きています。
国家を目指しているはずですけ ういう人に行き渡るような仕組
今は好景気ですね。非常に見 南 の 豪 邸 だ っ た ら 北 の 役 人 が、 さらに反体制運動の問題、特
れど、現実にはそれとは別の途 みが出来上がってしまっている えずらいけれども。もし不動産 北の方の豪邸は南の役人が買う に中国政府は、いわゆるジャス
を辿っている。また政治社会機 のです。此の国にとって大変な バブルがはじけたら一挙に不良 という形で売り買いがされてい ミン革命にはものすごく神経を
構そのものが 汚職や裏金と深 問題となっています。
債権が表面化して経済は間違い ます。売り買いはどんどんされ 使っています。ジャスミン革命
く結び付いた仕組みになっちゃ
例えば三菱東京UFJの深圳 なく破綻する。中国の不動産開 るし、値段は上がる。しかし誰 が始まってから、一年近くたっ
っている。これは一人や二人の 支店長の話では、しょっちゅう 発の実態はけた外れの規模で進 も住んでいない。この規模がも ているが一度も中国の中に情報
人間がどうのこうのという問題 自 分 の 行 員 が 引 き 抜 か れ て い んでいます。至る所で大規模な のすごい。マンションが延々一 として出たことが無い。インタ
ではなく、国を挙げてそういう る。なぜですかと聞いたら、う マンションの開発がどんどん進 キロくらい、更に一キロと繋が ー ネ ッ ト で 一 寸 探 そ う と し て
仕組みのなかに全部組み込まれ ちの給料よりも三倍から四倍も んでいる。あるいは一戸何億円 っている。その中には何百軒の も、“ジャスミン”の英文のJも、
ているわけで、これは大変なこ 給料を出している。中国の国有 もするような豪邸が何百戸単位 大豪邸も建っています。誰も居 中国語でいう“モリファー”の
とです。この実態が時々表に一 企業に、四つの大きな銀行があ でどんな都市にも出来ています。 ません。値段だけはどんどん上 モもネット上消されていて出ま
寸 出 ま す が、 氷 山 の 一 角 で す。 るけれどそこへ引き抜かれてい
がっています。しかしこれはバ せん。中国にとってこの事が脅
威だと思っているのでしょう。
古くは北京市の市長や上海の市 るんですよ。彼等は我々の給料
ブルの一端です。
現在では世界一になったエネ
長が逮捕されたり、最近では重 よりはるかに高い給料を貰って
三十年間続いた一人っ子政
慶の公安トップが死刑になった います。表向きはそうなってい
策、この結果二〇一五年から労 ルギー消費国はまたCO2の世
り、深圳市の市長が死刑宣告を ないんだと言うような話でした。
働人口が減少に転ずると言われ 界一の排出国です。そこから派
受 け た り、 枚 挙 に 暇 な し で す。 このように隠れた部分の構造
ています。昨年生まれの人口比 生する環境汚染。中国の問題抱
最近では、クシュン・、ハンシ がいかに大きいものかというこ
率で言うと男女比率では、男子 えている問題は非常に多い。此
ャオ市の副市長が死刑の判決を とが言えます。先の百兆円が事
弊社の深圳工場の十年前にい の比率が女子より二十パーセン の国はガス抜き政策の一環とし
受けました。また元国家副主席 実かどうか知りませんが、少な た社員、当時彼の給料はせいぜ トアップ。しかも田舎では女子 て、CO2の排出を抑えるとい
の息子が夫婦でシドニーに二十 くとも七十兆円以上であるとは い 十 万 円 ち ょ っ と で し た け ど、 がどんどん都会に出てくるもの って、いきなり石油の値段、ガ
八億円の豪邸を買い新聞の話題 言われています。人民元を低く いまでは中国の十大国有企業に だから。結婚が非常に難しいと ソリンの値段を上げてしまった
になりました。元副主席とは江 管理する事でインフレが常に起 入る企業の職員で三億円の家に いうことになりました。そこで り、ガソリンスタンドの営業を
沢民の懐刀の一人でした。
こり易い問題があります。日本 住んでいます。しかし一般的に 人身売買が何時も起きていると 全部停止したり、簡単にやれる
要するに中国で政府機関や国 がプラザ合意によって円があが は豪邸もマンションにもほとん いう噂がしょっちゅうです。一 ですから。
中国が最も重要視してるのが
有企業の幹部にいわゆるグレー り、失われた二十年の大不況を ど人は住んでいません。一戸建 人っ子政策の生んだ人口問題は
マネーと言われているお金、日 よんだことを中国は反面教師と ての家にしても何百戸も建って そのうち大きな矛盾となって出 失業とインフレです。細心の注
本円で年間百兆円と言われてい し て き っ ち り と ら え て い ま す。 いるのですが、人は一人も住ん てくるでしょう。最近はヴェト 意を払いながらコントロールし
る、金が渡っている。百兆円と そこで人民元の引き上げには頑 でいないところがあります。み ナムなどいろいろな国から若い ている問題です。もしコントロ
いう金は日本の一般会計の国家 なに反対しているわけです。そ んなほかの省の政府の役人が買 女の子を新しい中国の勤め先に ー ル が 拙 く 均 衡 状 態 が 崩 れ た
予算よりも多い。それだけのお れがインフレ問題に結び付く可 っている。高級マンションにし とかいって募集してきて、それ ら、一挙に所得格差の問題や不
金が中国の銀行の幹部であった 能性が非常に強いのではないか ても住んでいない。理由は地元 を田舎の嫁さんにはめ込むよう 正問題等に飛び火して、社会不
—6—
安を巻き起こす可能性を持って
います。最近広州で大規模な暴
動が発生しました。暴徒と化し
た群衆が人の住んでいない豪華
マンションになだれ込んで窓ガ
ラスをバンバン割るような破壊
活動がありました。これは中国
国内には報道されなかったけれ
ど、インターネットを見たら流
れていて、誰でも知っている事
件になりました。こういう問題
を抱えながら中国は凄まじい速
さで発展し続けています。
今から十年くらい前には、中
国がアメリカに追いつくのに五
十年かかると言われていまし
た。それが最近では二十五年で
す。通貨が人民元ですから購買
力平価を勘案したら二〇一六
年、これから五年先に追いつく
本企業としては、中国抜きで経
営を、企業活動を考えることは
出来ない。例えば弊社にとって
は中国の売り上げはすでに四十
パーセントです。生産に至って
は六十パーセントを中国が占め
ています。いかような進展を辿
るにしても、中国をはじめとす
る依存度はこれから高まること
はあっても低くなることは絶対
あり得ない。どういう対処をし
て行くかということになるんだ
ろうと思います。
○弊社の中国展開と戦略
弊社の簡単な歴史を見てまい
りますと、一九七九年、これは
開放政策が始まった年です。香
港にいてこのニュースが盛んに
流れていましたので、独断なん
ですが、深圳市の経済特区に外
とを中国の地方政府と交渉の際
に訴え、そこで大歓迎されて出
て行ったわけです。今まさに中
国は世界の工場から世界のマー
ケットに切り替わりつつありま
す。後三年もしないうちに東莞
市と深圳市に数万人規模の工場
を何箇所か造ることになりまし
た。その間は香港マブチ工場か
ら二百人近い人材をそれぞれの
工場に送り込んで、技術面や管
理面、品質面などすべての部門
にわたって徹底した人材教育を
実施しました。私の経営方針は
極めて判り易い。簡単にそのこ
とを表現してみます。
物を減らせ、人を減らせ、時
間を減らせ、場所を減らせ、そ
して仕事を減らせ=余分な仕事
はするなというこの五項のこと
参 加 し ろ、 と 呼 び か け ま し た。
出てきたのは幹部ばかりでした
けど。これらを丸一日かけて先
ほどの管理仕様に基ずいたグラ
フ を 一 つ づ つ 見 な が ら、 逐 一、
目標の管理状況を全員の前で報
告させて、問題点は指摘し、具
体的な指示を与えながら二十年
の間続けてきました。
当初は数年間にわたって管理
職と技術職養成のため四階建て
ビルを一棟、学校に切り替え古
い設備を利用して、一線に居る
管理職を先生として実際の実務
教育と管理教育を何年間にわた
りしてきました。それから製品
開 発、 設 備 開 発 の 工 場 も 造 り、
今では品質を高め省エネ活動と
か、商品開発活動とかの効率化
に努めています。工場経営にお
ーケットに変わってゆくことを
どうとらえるかということ、も
う一つは、中国はこれまで貿易
依存型の外需から今後は内需に
切り替わっていくことです。こ
の流れにどう合わせるかという
ことが大きな問題と思います。
数年前までは、わが社の場合
八十五パーセントを中国で生
産、 一 辺 倒 に 頼 っ て い ま し た。
十五パーセントが台湾やヴェト
ナムでした。依存度が高い、国
家的リスクが高すぎるというこ
とで中国の生産を六十パーセン
ト、ヴェトナムの生産を四十パ
ーセントに切り替えました。そ
の 為 ヴ ェ ト ナ ム に 工 場 を 造 り、
中国の工場を一部閉鎖しまし
た。先ほど深圳の工場を閉鎖し
たのはこの一環です。中国がい
ことになります。この時にはG 注を使って試験的に進出を試み です。いろいろな面から管理仕 いては中国のパイオニア企業と わゆる労働市場から製品のマー
DPでアメリカを超すという説 ました。それが後でばれて、え 様を造って、それを徹底的に二 して多大な成功を収めてきたん ケットに変わったということに
が有力視されています。
らい叱られましたけれど、その 十年間に亘って追及してきまし じゃないかと自負を感じており たいして、我々が一番最初に中
どのような成長をするにして 後八六年に東莞市、深圳市に本 た。判り易い管理手法ですけれ ます。少なくともそれが日系企 国に出た時にそうなるだろうこ
も、中国は今後大きな時代の流 格的に進出を始めました。当初 ど、一つの工場で二百個くらい 業や中国の企業にとって一つの と を 予 想 し て 動 い た わ け で す。
れの中で急速な対応の変化に迫 は開放政策が始まったばかりで こ の 管 理 仕 様 を グ ラ フ 化 し て、 モデルを示してきたんじゃない 日本は組み立て産業分野から進
られるだろうと思います。そこ 中国は非常に貧しい状態にあり 徹底的に追求することで、人材 かというふうに思っています。 出してきました。しかし中国は
すでに変わってきています。現
からいろいろな現象が生み出さ ました。我々は先ず、中国の労 の育成と工場の管理水準やレベ ○今後の中国戦略
れるでしょうけれど、日系企業 働力を買うんだ、多くの企業が ルの向上を図ってきました。
さてそれではこれからどう取 に私のところでしたら売り上げ
毎 月 百 数 十 人 の 幹 部 を 集 め、 り 組 ん で い く か と い う こ と で の 四 十 パ ー セ ン ト が 中 国 で す。
にとっては大きなチャンスであ そこに来ることで、やがて国の
り、一方大きなリスクでもある 経済成長が大きなマーケットを また工場全部に暇なやつは誰で す。中国の経営には一つの大き 日本の企業はマーケット化の進
わけです。中国のリスクがいか 成長させていくだろう、という も来い、掃除のおばさんでも構 な 流 れ が あ る と 思 っ て い ま す。 行している中国に対し、それに
なるものであろうとも、我々日 ことを高らかに謳って、そのこ わない、誰でも来てこの会議に 一つは世界の工場から世界のマ 応 じ た 体 制 を 整 え て い ま せ ん。
—7—
我々の場合は販売会社を持って
います。しかし、広い中国に二
つ し か な い、 上 海 と 深 圳 で す。
これではいかにもパワーがたり
ないと考えています。中国で前
述の通り四十パーセントを中国
で売っているといっても、すべ
て日本から中国に行って中国の
工場で造っているお客さんと
か、アメリカやヨーロッパから
中国に来ている会社、もともと
先進国が開いている工場、そこ
へ売り込んでいるわけですか
ら、実際にはコップの中身が移
り変わっただけということです。
新しい中国のマーケットが本
当の意味で広がったわけではな
い。こういうことでは売って行
くという力にならない。工場は
本社の決めた材料や部品、業者
ケットを拡大することは絶対に
できない。何のために中国に人
材 を 育 て て、 開 発 会 社 を 造 り、
製品開発を行って、設備機械の
出来るポイントを造ったのだ
と。これからは工場という工場
に全部営業部門を設けろと言い
ました。工場は一つの会社とし
て、製品開発もやります、販売
活動もやります、生産もやりま
す、客先対応もやります、と全
部責任をもって対応します。こ
れが会社じゃないかと思いま
一つの会社であり、全部を自分
達の考えでするとして出てゆく。
台湾の「台湾マブチ」では売
っているものは全部台湾マブチ
が開発した。お客さんも同社が
開拓した。売り上げのセールス
も、客先対応も自分達でやって
います。
一昨年のリーマンショックで
が た っ と 売 り 上 げ が 落 ち た が、
それから急速に立ち上がりまし
た。中国での売り上げは十から
二十パーセントしか向上しない
が台湾マブチは一年間で対中国
売り上げが一〇〇パーセント増
えました。何故か。一つの会社
が工場であり、販社であり、全て
がスピーディに対応できたから
です。本社にお伺いを立てて承
認を貰ってからの形態では売り
ーケットに変わってゆく中国に
対応する事が必要です。しかし
日本は立ち遅れるのではないか
と思っています。
いわゆる外需から内需への切
り替えです。今まで貿易に頼っ
て い る 部 分 が 非 常 に 多 か っ た。
中国は内需重視に切り替わって
いる。以前は中西部開発という
こ と を 盛 ん に 行 っ て き ま し た。
これは所得格差や地域格差が大
きな問題になってきたからで
す。開発を広め格差を薄めるた
めにも、外需から内需に切り替
え、内部の経済を発展させるこ
とは大きな課題です。外国企業
はこの課題に乗ってこなかった
のですが、最近は違います。リ
―マンショック以降中国は一挙
に七十兆円の財政投融資をし
を使って、
本社で言われた数を、 す。本社の言ってきた通りのこ 上げを伸ばすなんて出来ません。 て、インフラを徹底的に整備し
経営体制を変えようと各工場に ピーディに物事を解決して客先 ど奥の方まで完璧に整備された
品質問題に気を付けてただ作っ とをやっているのでは、親方日 商売に繋がらないと思います。 ま し た。 現 在 で は、 高 速 道 路、
ているだけです。いま日系企業 の丸では会社じゃない。そこで
新興国には現地完結型で、ス 高速鉄道、一般飛行場、港湾な
の大半はそうやっています。
こんなことをしていて中国で 全 部 営 業 部 門 を 今 造 っ て い ま 対応できる仕組みのできた会社 と思っています。おそらく二十
モノが売れますか。何をするに す。これによって中国の中に八 として出てゆくべきです。ただ 一世紀の最大のニューディール
しても本社に全部お伺いを立て ヵ所に、技術を備えた営業活動 工場それぞれで全部機能を持つ 政策ですよ。とんでもなく様変
部門、設備の部門に任せる形に 歩調を合わせての進展、同じ路
ている。何から何まで本社の承 の 出 来 る 拠 点 を 拡 げ て い ま す。 こ と は 非 常 に 無 駄 が 多 い か ら、 わりの状態です。外需から内需
認が得られないと動けない。本 日系企業の人の意識も相当変わ 例えば中国事業部の形で開発の への切り替えと、中西部開発は
社は本社で遠くにいて地元をコ ってくるでしょう。
ントロールしてきているつもり 「 工 場 は 工 場 で あ る 」 の 考 え なります。スピーディにそこで 線の歩みです。
でいるわけです。こんな経営形 方でマーケットのある新興国へ 完 結 す る 会 社 作 り が 必 要 で す。 昨年江西省に新しい工場を造
態では日系企業が、中国でマー 出ていくのは間違いと思います。 工場でなく会社作りで世界のマ りました。今年も十万平米の土
株式会社トッパン NEC
サーキットソリューションズ
相談役 田川 行雄(大 9 回卒)
〒108ー8536 東京都港区芝浦3ー19ー26 トッパン芝浦ビル 103ー5419ー9700
—8—
地を買って、工場を造る予定で
す。断っておきますが、江西省
が人件費が安いから出たわけじ
ゃない。人件費はどこに出ても
上がる。それよりもその地域と
ともに発展するんだということ
です。三十年前東莞市に出まし
た時にこの地域と一緒に発展す
るんだといって出ました。人件
費 が 安 い か ら 出 た の で は な い。
この市は百二十万から千二百万
人の大都市に変わりました。こ
れは沿岸都市どこも変わりまし
た。
かって労働集約的な企業が海
外に出てゆく時、いわゆる雁行
型 の 経 営 移 行 を し た の で す が、
たしかに人件費が安いから出て
行ったかもしれない。出て行っ
た所は、台湾、ニーズ諸国であ
発展してきた。江西省に出た時
に も 言 っ た。
「あんた方は賃金
が安いなんてことは売り物にせ
んでくれ。
」と。賃金は高くても
いい。高いくらいのことは企業
で吸収します。それより賃金が
上がらないような魅力のない場
所の方が問題だ。上がらないよ
うな魅力のない地域に誰が出て
ゆきますか。そこには将来はな
いし、人材も育たない。効率的
な生産も出来ませんよ。それよ
りも賃金はどんどん上げてくれ、
そしてその地域が発展するよう
な都市を造って下さい。それを
期 待 し て 我 々 は 出 て き て い る。
そのために中国の経済の発展が
外需から内需に変わっているん
なら、我々もそれに合わせて中
国も第二の発展を目指そう、と
なくとも天の刻の流れは、そう
大きな間違いはない。地の利も
何も難しいことではない。以上
三ッつの要素のうち二つはもう
考えることはない。やるのは自
分達が努力するだけです。人間
が知恵を使って努力するだけで
いいんです。そんなに難しく考
えないで、簡単に答えが出てく
るんじゃないですか。
今、 わ れ わ れ の 戦 略 は 会 社、
工場を中西部に出して更に発展
を目指すということと、中国内
のマーケットにどうやって取り
組んでいくかということです。
○ 香 港・ 中 国 の 仕 事 を 通 じ て
残っている強い思い出
現地経営者として大変苦労さ
せられるのは正直申し上げて対
本社です。現地の従業員や社員
が通らない。五年間たったら五
百億円近い設備投資になりまし
た。借金が二四〇億円出来まし
た。当時レートがよく動く時代
でした。為替変動の思惑から日
本円が高くなったときに、我々
の借金分を本社が、どういう訳
か 一 銭 も 貸 し て く れ な か っ た。
自分達で考えろと言われまし
た。この二四〇億円の借金全部、
三和銀行さんや東京銀行さんに
借りました。金利が一五パーセ
ントです。年間そんな金を払い
ながら経営をどうやって維持で
きるんだと、私は本社に三回も
帰ってきて言いました。当時の
財務担当専務と三回にわたって
大 喧 嘩 し ま し た。「 お 前 は 本 業
を考えていればいいんだ。なん
のかんのとつまらぬことを考え
えるだろう、なぜ会社の金だっ
たらそれができないんだ、そこ
ま で 言 っ て や っ て く れ ま し た。
一介の課長が専務に楯突くとい
うことは結構危険なことでした。
中国で一九八九年、天安門事
件の少し前に最初のストライキ
がおきました。私はこの時には
ストライキのことは本社に一切
報告しなかった。深圳工場には
九千人ぐらいいました。戦場の
ようなストの真っ最中に本社に
報告したら、ストの原因はなん
だ、首謀者は誰だ、要求は何だ、
現地はどうなっているのか、政
府関係者はなにをやってるの
か、弁護士に相談したか、彼の
意 見 は ど う な ん だ、、 等 々 つ ま
ら ぬ こ と を 言 っ て き て ま し た。
い ち い ち 受 け 答 え し て い た ら、
れアセアンであれ、
中国であれ、 言うつもりで出てきているんで に対する努力は、本当に報われ るな、通貨を変えるなんて必要 タ イ ミ ン グ を 外 し て し ま う し、
人件費事情による進出で大々的 す よ。 そ の こ と を 訴 え て い る。 る努力。やっただけの努力のし な い。」 と。 私 は 円 が 高 く な っ その意味でなにも解決にならな
に発展してきている。それらの けれど人件費の幾分安いことは 甲斐がある。しかし一番苦労さ たからもう損はないだろうと米 い。とにかくお客さんに供給責
企業も地域の発展と併せて自分 コスト計算に入れています。し せられるのは本社の管理職や役 ドルの借金を日本円に替えろと 任があり、納期ぎりぎりまでに
達も発展してきました。賃金は かしそんなものが何時までも続 員との折衝です。香港マブチが 主張してやっと通りました。何 解 決 す る つ も り が あ り ま す か
出た当初に比べてすでに二十倍 くとは思っていませんし、人件 香港に出てゆく時に百四十億円 が本業だと。本業とは経営にま ら、それまでの間一切本社に何
に上がっています。我々が東莞 費が安いから次の戦略としてこ の現金預金がありました。本社 つわる全て、金にまつわる全て も言わない。結局、三日目にた
に一番最初に出た時は賃金は一 ういう所に出ていくということ ではこれから中国に出ていくの のものを考えていくことじゃな った十元の手当を出すことでけ
四〇元でした。新入社員は一一 はもうないと思っています。
に こ ん な 金 は 要 ら な い と い っ いか。金のことは考えなくてい りがつきました。ストが終わっ
企業は天地人と言われていま て、運用で出た配当等本社に持 いなんて、そんな経営がどこの てから、本社にストはもうとっ
〇元。
今は二千数百元でしょう。
十数倍になっている。賃金は安 す。天とは天の刻、タイミング っていってしまったわけで、五 世界にあるんだ、と言いました。 くに終わりました。と言ったら
いから出たわけじゃない。此の です。時の流れです。地は立地 年間でこの金が全然少なくなっ 自分の金だったら放っといてお とたんにものすごく怒られまし
中で企業も賃金が上がるように 条件です。人とは人の知恵。少 た。足りないんだからといった くか。自分の金だったら円に替 た。クビを覚悟していたんです
—9—
がなんとかつながりました。
ですが、工場が沢山ありますか どの工場もそのまま動かした。
四十年もこういうことをして う駅名が残っています。名古屋
私 が 覚 え て い る 大 き な 事 件 ら、そこの総工場長、営業部長、 深圳から広州いたる地域です いると、最近は常に日本に帰っ と大阪の中間で奈良、京都に隣
は、一九八九年六月六日に香港 経理部長とか日本人の主なもの ね。当時十万以上で工場が犇め てきますと、女房によく言われ 接 し て お り、 特 異 な 地 点 で す。
中のラジオ、ファックス、電話、 が僕のところに血相を変えて来 いていました。それが騒動情報 ます。何時までもこんなことが 卒業したのは上野高校で伊賀上
等に騒動の情報がじゃんじゃん て、
「 な に を し て る の だ、 こ と で人っこ一人いないゴーストタ 続くんですかと。女房は日本に 野城の真下にあります。お城は、
と流れました。広州で政府軍と は命に関わる問題だ、あんたは ウンになちゃった。たった一つ いますから、まあいいじゃない 藤堂高虎が築城したもので高石
反政府軍がものすごい内戦をや そ こ ま で の 権 限 は な い だ ろ う 」 一軒私のとこの工場が夜中もず かしょうがないだろう。俺は今 垣が有名です。
っ て い る。
「 深 圳 か ら 広 州 に 至 といって責め立てます。今にも ーっと生産を続けました。
年限りでと考えてはいる。今日 ――滋賀大学には何年入学です
る国道に何百台という戦車が轟 殴 ら れ ん ば か り で す よ。「 そ れ
こ れ が 後 に な っ て、 東 莞 市、 も 日 本 に 来 て い る わ け で す が。 か。大学生活についてお聞かせ
音を立てて走っています。危な じゃわかった。本社と相談しま 深圳市、広州市などから非常に 女房にむしろ何時でも香港に来 下さい。
い で す よ 」 と 廻 り が 言 う。
「 も しょう」
。
「本社にも何らかの騒 評 価 さ れ る 結 果 に な り ま し た。 ればいいんだ、そうすれば愚痴 竹森 昭和四十二年に入学しま
う す ぐ 深 圳 の ゲ ー ト 第 二、
( 特 動についての証拠があれば、即 マブチ一社はあの大騒動のなか を言わんでいいだろうなどと言 した。野球などスポーツが好き
でしたし、また卓球をやってい
区と深圳を分けているゲートで 刻 閉 鎖 し て 帰 り ま す け れ ど も、 で、冷静に生産を続けた、我々 っています。
すが)
、これがもう閉まります。 何の証拠もないのに、お客さん の言っていることを信じてくれ
今年はこれで終わりと思って ましたので、卓球クラブに入ろ
危ないですよ。なにをしてるん に言われて、ああそうですかと た。何も起きていないといい続 いますから。ただ次から次へと うかと考え旧体育館へ行きまし
だ、早く工場を閉めて、早く早 言って帰ることなどできない」。 けたけれど、皆踊らされて怖い 仕事を増やして、自分でまいた たが、途中バドミントンクラブ
く。日本人も香港人も早く引き 本社の役員の中にもそう思う人 という事で帰ったりした。要す 種の為に自分で帰れないように に誘われて入部しました。三年
揚げろ」とこれまた周囲が言う が一人ぐらいいるだろう、と思 る に 私 が 思 い、 言 い た い の は、 してしまっているけれど。お陰 生で一度休部し、四年生で復活
のです。知人やお客さんなどか っ て こ の ニ ュ ー ス を 知 ら せ た 時には本社と真っ向から対決す さまでここ一期でなにはともあ しましたが、大変楽しいクラブ
ら も、
「 な に を や っ て る ん だ。 ら、部長たちは本社から即刻帰 る、あるいはクビを覚悟に本社 れ終りにしようと思っています 生活で、中部リーグで活躍でき
早 く 逃 げ ろ。
」 と 言 っ て き ま し れと言われると期待しているよ を無視する、時には本社を奉っ けれども。非常に雑駁な話で申 た事も思い出です。当時のクラ
た。私は本当にそのような混乱 うでした。しかし案の定、本当 て本社の権威にすがる。これが し訳ないですが終わらせて頂き ブ仲間とはその後もずっと交流
勝ち切れませんでした。大学二
回生の頃から仕事は商社関係の
が多くいて、最後になると中々
強もして実力を付けようと大会
にも出場しましたが、強い選手
小 さ い 時 に 祖 父 が 教 え て く れ、
小学生の時から楽しんでおりま
した。大学の囲碁部では少し勉
文責編集部 があり有難く思っております。
状態になっているのかと、それ かどうか証拠が出たら即刻帰っ 一番いい方法だということです。 ます。(完)
その他、囲碁部とESSにも
ぞれの工場に確認するよう指示 ていいだろうと本社。それまで
rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr
足を入れておりました。囲碁は、
をしました。第二ゲートは本当 様 子 を 見 な さ い と い う 訳 で す。 こ ん に ち は
に 門 を 閉 め る 準 備 を し て る の 結局その日は夜遅くなっても何
竹森 二郎 氏 (大 回)
か、などと。そうしたら確認し も分からない。次の日も何もな
伊藤忠ロジステイックス
たけれどだれ一人銃撃戦の音を かった。けれども香港人スタッ
株式会社・相談役
聴いたこともないし、戦車の影 フが二百人近くいたのが、皆震
を見たこともない。というわけ えあがってどうにもならないの ――竹森さんは三重県のご出身
です。しかし、もう皆震えあが で、彼らを全部帰しました。で とか。
っていて、とにかく帰せ、帰せ もその時から現地急仕立ての管 竹森 そうです。元は、上野市 併で伊賀市となりました。ただ、
です。僕の場合は香港にいたん 理職を作って、日本人と一緒に と言いましたが、今は市町村合 関西本線には、伊賀上野駅とい
19
—10—
仕事をしてみたいと考えていま
したので、自然にESSにも入
りました。
――彦根の下宿生活は如何でし
たか。
竹森 古い偲聖寮もまだありま
したね。私は、市内に下宿して
ました。
――マージャンなど良くやりま
したか。
竹森 マージャンは小学生の頃
に憶えました。実家の隣に学校
の先生が住んでまして、その先
生がマージャン大好きな先生
で、教わったのです。
――勉強の方はいかがでしたか。
竹森 授業に余り出た記憶はあ
りません。良い時代でした。た
だ、 試 験 の 時 は 集 中 し ま し た。
要領が良かったのでしょう。成
績はまずまずでした。ゼミは片
総数二六七名の入社で、安宅産 ら ど う か と 聞 か れ ま し た の で、
業と合併した後は同期が三二〇 当然配置すべきだと答えしまし
程となり、年度別では団塊の世 た。そうしたら暫らく後に、お
代で最高でした。
前行けということで、駐在が正
――勤務地は。
式 に 決 ま り 赴 任 し た 次 第 で す。
既に結婚していましたが、六ヵ
月、ホテル住まいをした後で家
族 を 呼 び 寄 せ ま し た。 当 時 は、
社 員 が ま ず 赴 任 し 現 地 に 慣 れ、
その六ヵ月後家族を呼び寄せる
という規則でした。今は、一緒
に行きますけどね。それから五
年八ヵ月駐在しました。
――伊藤忠さんは何で香港に駐
在員を置かなかったのでしょう
か。
竹森 伊藤忠は当時、重工業関
連は未だ弱く、出遅れていまし
た。船舶取引きにも慣れていま
せんでしたから、第一勧業銀行
グループの一員の川崎重工の人
竹森 入社式とオリエンテーシ
ョンを大阪で済ませた後はずっ
と東京勤務です。
――最初の配属はどこでしたか。
竹森 船舶部でした。あのころ
は、配属希望を書くようになっ
ていて、私は、機械の輸出、繊
維の輸出、石油を希望としまし
たが、返ってきた答えは船舶部
でした。機械希望なのにどうし
て船舶かと思いましたら、機械
の中に確かに船舶部がありまし
た。
そ れ か ら、 入 社 以 来 三 十 年、
船舶一筋でした。入社五年目に
香港会社への駐在で赴任しまし
山貞雄先生の国際金融論で「S た。初めての海外出張先のマレ 達の協力等も得ていたと記憶し
DR」を卒論テーマに選びまし ーシアからの帰りに、上司から ます。
た。
香港に立ち寄りを指示され、船 ――伊藤忠さんは繊維が中心だ
――伊藤忠入社の動機は。
舶駐在員が必要かどうか調べて ったが、それじゃいかんという
竹森 私の叔父が「伊藤忠は面 こいと言われました。香港には ことで、拡充されたのですね。
白いぞ」と言ってくれましたの 立派な船主が沢山いて大きな市 竹森 そうです。それで有名な
瀬島龍三さんが入社され、重化
場でしたので。
香港の社長が、船舶の担当者 学工業への転換を一生懸命に推
を寄こせと本社に強く言ってい 進されたということです。あの
たようです。三菱商事、伊藤忠 当時、日本で船を作って海外の
以外はみな駐在員を置いていま お 客 さ ん に 売 る の で す け れ ど、
した。出張から帰国後、上司か 大きな市場の一つが香港だった
で、三年生の三月末に伊藤忠の
面接を受けたのです。結果がな
かなか来なくて、どうなったの
か催促したら、採用決定という
ことでした。滋賀大から五名入
社してましたね。我々の年度は
のです。戦後、十数年経った後 いったんです。日本郵船、ジャ
の時代では為替の規制がまだま パンライン、川崎汽船、商船三
だ厳しく自由化されてませんか 井、昭和海運、山下新日本汽船
ら、外貨の調達が日本でも難し と大きな船会社が六社ありまし
かったのですね。
たが、その辺が皆コミットした
従って船を作る時に、一つは、 のですよ。この船、一〇年間使
日 本 の 船 会 社 は 資 金 の 調 達 は、 いますとか言って、それで香港
計 画 造 船 と い う の が あ り ま し の 船 主 が 大 き く な っ た の で す。
た。今でいう政策投資銀行みた 一番大きくなったのが、ワール
いなものです。例えば日本郵船 ドワイドシッピング(WW)と
がこういう船を作りたい、新日 言ってSIR.Y.K.PAO
鉄の鉄鉱石をここからここまで というのがおりましてね。これ
運ぶということで日本政府系の が 一 番 大 き く な っ た 船 会 社 で
す。その他で有名なのがギリシ
ャのオナシスですね。この二社
が双壁です。
別に香港に行ってなくても商
売は出来るのですけども、矢張
り駐在員がいなくては日々の情
報も分からないからということ
銀 行 が 資 金 を 貸 し 付 け る 方 法 で駐在しました。
商売ができず二年目にやっと商
売ができかけて、その後からブ
ームになりましてね。日本の造
船所の皆さんにも大勢来て頂い
て忙しかったです。その意味で
は良い駐在をさせて頂きました
が、最初は大変でした。
で、造船会社に船を発注すると ――初代駐在員ということで他
いうことです。もう一つは、外 社との競争も有ったり大変だっ
貨 を 海 外 で 調 達 出 来 ま せ ん の たでしょう。
で、香港の船主さん達に船を作 竹森 駐在当初は石油ショック
もあり大不況でした。なかなか
って頂く時に、裏ずけとなる傭
船保証を出して造船発注を行っ
ていました。
その建造された船を日本の海
運 会 社 が 長 期 に 借 り 上 げ ま す、
とコミットをしたんですね。定
期傭船といいますが。そういう
形で香港は一大船主国になって
—11—
当初は行ったこともないお客
さんの所ですから「伊藤忠は繊
維の会社じゃないのか?」と言
われた方が何人もいらっしゃい
ました。香港は元々繊維などの
軽工業が活発でしたし、伊藤忠
は当時一番駐在員の数が多く五
十数名いました。また、二十名
近くが繊維の担当をしていまし
た。機械のグループも三から六
名 へ と 多 く な り ま し た け ど ね。
駐在員は六十名近くで、現地の
ローカルのスタッフが二百名近
くいました。駐在は香港だけで
また本社に戻って来ました。
――海外は香港だけですか。
竹森 香港だけです。出張では
三十、四十ヵ国行ったところは
あります。幸い、船舶の営業は
貧乏な国には行かないのです
よ。お金のない国に行っても船
なんて売れませんから先進国が
中心です。勿論アジアはインド
ネシアとかそういった所には行
きましたけど、お金持ちの国が
多かったです。砂漠で大変でし
たという経験はあまりありませ の造船業がこれだけ発展できた
のは、良質で安い鋼板、新日鉄
ん。
――オイルマネーを狙って行っ さんとか、良い製鉄会社があっ
たということはありませんでし たのと、もう一つは全部FOB
なんですよ。船を取りに来てく
たか。
れるんです、極東まで。通常プ
ラントの連中は、向こうへ持っ
て行って据え付けますよね、こ
れが要らない。全部飛行機に乗
っ て 取 り に 来 て く れ る ん で す。
こんな楽な商売はないだろうと。
――本当の機械だと向こうへ据
付けに行きますね。
今の船舶営業は当時より大変で は競争力が無いので、一時は韓
すね。
国の人が多かったのですが、今
はフィリッピンの人が多くなっ
ています。中国の人も乗ってま
す。この人たちはインフレで給
料 が ど ん ど ん 上 が っ て い ま す。
コストは全部上がり、収入は下
がり、為替では、やられるはで、
三重苦ですね。商社がいま儲か
っているのは資源です。三〇年
前、二〇年前穴掘った人(投資
した人)は苦労しましたが、今
それを売っている人が儲かって
います。
――資源とは。
竹森 鉄鉱石と、石炭と、油と
かガスですね、これ全部高いで
すよ。鉄鋼石は今一七〇ドル(ト
ン当たり)しています。昔は多
分四〇ドルでした、つい一〇年
竹森 全部持って行って検収し
て、プラントなど砂漠の中にい
ろいろな石油のプラントを作っ
ていますよね。全部向こうへ行
かなければなりませんね。一回
も経験してないのです。FOB
で極東の端まで取りに来てくれ
竹森 ただ二〇〇四年から二〇
〇七年まで中国経済が大いに伸
びましたでしょう。中国の船舶
需要が増えましたから。あの頃
は 船 舶 一 大 ブ ー ム で し た か ら、
船 会 社 さ ん も 大 儲 け し ま し た。
船会社、商社も儲けました。地
方の船主さんも儲けました。今
は逆に塗炭の苦しみです。為替
で皆やられていますよ。船会社
さんをオペレーターと言うので
すが、郵船さん、商船三井さん、
みな大変です。一時は中国南北
の五千キロ全部造船所になるぞ
という位、名も無い造船所が幾
らでも出ています。
日本の地方の船主さんは地方
銀行から円でお金借りるでしょ
竹森 あの時代はオイルマネー
ではありませんでした。他の業
界の人から良く聞きます。繊維
な ど は 良 く そ う 言 っ て ま し た。
資金調達という意味ではそのよ
うなお金を頼りにした人は大勢
います。船舶は輸出一筋なんで
すよ。一九七一年に会社に入り
まして、一九九九年まで船をや
っておりました。国内、アジア
とかいろいろな市場の仕事をし
ましたが、全て船です。今でも
船は懐かしいですね。三十年も
やりましたから。
――仕事としては面白かったで
韓国です。二番は中国、三番が 円で返さなければなりませんの
日本でしょう。
で、物凄い負担で、為替でやら
――そうすると韓国とか中国と れて、更に燃料の油の値段が高
か に、 造 船 の ト ッ プ を 譲 っ た。 くなりました。船員は日本人で
部は必要なのかと会社からも言
われたりもしましたが。
――今でも船舶の中心は香港で
た。僕は日本の造船業の成功の う。一〇〇円から一〇五円位の か一五年前は。鉄を作る原料炭
すか。
竹森 面白いし、ロマンがあり 二つはそうだと思います。入社 間 で 計 算 し て 借 り て た の で す なんか、二五ドルくらいになっ
すし、ダイナミックですね。儲 してすぐ不況産業だったですけ よ。 今 七 六 円、 七 七 円 で し ょ、 ているのではないですか、正確
は別にして、規模からいきます ど、 為 替 が 円 高 に な っ た 時 も、 収 入 は 八 割 方 ド ル な ん で す よ。 ではないですけど。BRICS
と、十億円の商売は小さいと言 ものすごく不況になって大変だ 円 の 収 入 は 若 干 あ り ま す が ね。 といって、それらの国の経済が
っておりましたから。手数料も ったんですけどね。だから、会 一 一 〇 円、 一 〇 〇 円 の 収 入 が、 伸びて自分で資源開発もしてま
社に入った頃から造船規模は四 今 七 五 円 し か 貰 え な い の で す すし、世の中、様変わりになり
分の一くらいになりました。当 よ。二五%レスなんて目茶苦茶 ました。死ぬような苦労もしま
時は世界一でした。今は一番は な大きさですから。一方返済は したが、商売は物凄く楽しかっ
たですよ。一時大損もして船舶
小さいし、止めろとか。一隻で
番大きな仕事は今でもそうでし
ょうけど、LNG船(天然ガス
を液化圧縮して運ぶ)で四百億
円近く、今は円高ですから二百
五十億くらいでしょうか、プラ
ントそのものですからね。日本
—12—
も今ではPOSCOという立派 儲かっていますが、逆に僕は商 か。
すか。
竹森 いいえ、至る所です。ギ
リシャ、ロンドンにも駐在員が
います。昔は、ニューヨークと
ロンドンでした。アメリカは海
運国から直ぐ駄目になりました
が、今でも香港、韓国、ギリシ
ャ、英国、ノルウェーとか、北
欧が一大拠点なのです。
造船国としては韓国です。韓
国の船会社とはたくさんお付き
合いしました。又、造船会社と
しては現代重工とか三星重工と
か。中国の船会社さんで、CO
SCOという世界に冠たる船会
社さんとも永くお付き合いしま
した。
――韓国の造船会社が日本をは
るかに凌駕して行くそれだけの
理由はあるのでしょうか。
竹森 一番はですね、
国が若い。
日本より労働力が若い。日本と
いえば高齢化で、若いブルーカ
ラーの労働力が集まっていな
い。3Kだと昔は言われました
開発はスローダウンしていま
ませんが、日本のメーカーさん というのですが、政府が補助を ープ、それぞれが独立した企業
と一緒に苦労してないとか、商 出して電気を買い上げましたか グループです。
この機械カンパニーのEVP
品知識が無くなる商社で大丈夫 ら世界中の投資家が集まりまし
た、一時は。それがリーマンで と い う 副 社 長 を 一 年、 そ の 後、
なのかと心配です。
――新しいマーケッティングと 全部ダメになりました。最近の 二年間社長(常務取締役)をや
して今後の方向はどうでしょう ギリシャ問題でヨーロッパの大 って、そしてここに来ました。
な製鉄会社があります。新日鉄 社危機説を勝手に言っているん 竹森 市場としてはアジアが一 す。これからは中国が砂漠で発
と肩を並べる会社です。良質の です。
番。商品としては新技術とエネ 電するだろうと言われています
鉄板の供給、
通貨安の為替管理、 ――どういうことですか。
ルギーに行かざるを得ないでし が、それでは割に合わないだろ
若い労働者。韓国では造船業と 竹森 商社冬の時代というのが ょうね。
うなと思います。原子力とは言
いうのは新しい産業ですので地 昔ありました。それは乗り越え ――儲けるには長期に掛かりま いませんが、普通の発電の規模
位が高いですよ。給料も良いし、 て来ているのですけどね。商社 すね。
と比べて物凄く小さく、産業界
設備は全部新しいですよ。日本 は今は良いのですが、五年一〇 竹森 それと日本も世界も、一 を賄うことは殆ど出来ないと思
は老朽化しながら少しずつ規模 年後危機だというのです。マー 寸した新技術はすぐキャッチア います。仲々これからは商社も
を 大 き く し て 来 た 歴 史 で す が、 ケッティングというのが商社の ップして来ますから。太陽光発 大変だと思います、中国とかイ
韓国は一度にドンと大きな造船 力でした。メーカーさんと一緒 電といって、皆さんのお家の屋 ンドなど新興国が伸びて来ます
所 を 作 り ま し た か ら。 現 代 も、 に後進国を廻って、新しい市場 根にあるもの、日本が一番です ので、頑張って欲しいです。
三星も、大宇も全部そうです。 を開拓して行き、それなりに営 よね。部材として輸入している ――伊藤忠ロジスティクスに移
最近あの原発の事故から、L
のは中国ですが。世界のパネル られたのは。
N G 船 ブ ー ム に な り ま し て ね。
メーカーで一番強い会社がある 竹森 二〇〇六年です。九九年
それまではちょっと大変だった
のは完全に中国ですよ。日本か に船舶の部長からプラントの部
んですけど、海外の需要も急激
ら 部 材 は も の す ご く 出 る の で 門長になり三年やりました。プ
に大きく今年も今迄に、世界で
す。液晶なんて全部そうですよ ラ ン ト 部 門 は そ の 傘 下 に 船 舶
六 〇、 七 〇 隻 の 発 注 が あ っ て、
ね。有機ELも全部、中心にな 部、化学プラント部、電機プラ
そ の う ち 九 十 九 % が 韓 国 で す。
る 物 は 日 本 で 作 っ て い ま す が、 ント部、インフラ部などがあり
日本は一ないし二隻です。最近 業 マ ン は 商 品 知 識 も あ り ま し まとめて完成品を作り上げてい ます。そこの部門長を三年、二
中国も日本と技術提携しながら た。一方、日本メーカーさんも るのは中国ですね。
〇〇三年に機械グループという
作っています。
ヨーロッパ経済がここまで悪 のがありまして、丹羽さんが当
海外進出してますし、商社なん
――そういう韓国、中国、新興 かコストがどんどん上がってい くなる前ですが、スぺイン、ギ 時、擬似カンパニー制度という
国の中で商社活動も大変ですね。 ます。普通の商売していたので リシャ、イタリアで物凄く政府 のを作ったんですよ。繊維カン
は駄目なんです。従って投資に が支援したのですよ、所謂太陽 パニー、機械カンパニー、何と
傾斜しています。古いかもしれ 光発電を。フィードインタリフ かカンパニーという七つのグル
しね。危険、汚い、きつい、働 竹森 普通の商売をやっていた
く の は 大 変 だ と 言 わ れ た で す のでは合わなくなって来てます
ね。兎に角、働いている人が若 し、商社もコストも上がってま
い。それと為替がダントツに違 すので、一寸したものを売って
います。ウオン安をうまく為替 いたのでは儲からなくなり、割
介入しながら管理をしています に合わなくなっています。その
ね。 ド ル 建 て で 競 争 し ま す と、 コ ス ト を 賄 っ て 利 益 を 出 す の
必ず日本は負けています。鋼板 は、大変です。今は商社は一番
—13—
竹森 インドにも新しく出て行
きました。現地資本とジョイン
トベンチャーの会社も作りまし
た。インドネシアが最近復活し
ているのです。最近は物凄く伸
びています。この辺ではインド
ネシア、インド、タイ、ベトナ
ムでしょうか。ベトナムって日
本人好きなのですよね。日本人
もベトナム好きですし、シンパ
シーが合うのかな。
――体格も同じぐらいですし。
竹森 それは間違いありません
ね。 上 手 で す、 人 の 扱 い 方 が。
日本人をおだてるのも上手です。
ODAという政府援助があり
ますね。一時は、中国が一番で
した。今はベナムとインドネシ
アですが。例えば極端な例で申
〒112–0002 東京都文京区小石川 2 丁目 3 番28−805号
TEL 03−3815−3451(代表) FAX 03−3815−3637
E-mail : [email protected]
—14—
――自分の技術のようにね。
竹森 新幹線と同じですよ。ベ
トナムは違いますから。ベトナ
ムはいい奴だとなるのです。ベ
トナムが一番だと思います。新
幹線も敷くとか色々言って来ま
すからね。二番目がインドネシ
アです。インドネシアは歴史的
にもずっと多いですけど。中国
一国だけではということで、メ
ーカーさんは工場を作るときに
は過去からインドネシア、マレ
ーシアでも作ってましたけど矢
張 り ベ ト ナ ム に 行 っ て ま す ね。
タイも物凄いですけどね。ベト
ナムの人は賢いのは確かですね、
民族的には。大した人達です。
――ところで、身体の具合とゴ
ルフなどどうですか。
竹森 健康は大丈夫ですが、椎
間板ヘルニアを患って腰が悪い
のです。でもゴルフはやってま
す。ハンデイ九で、つい二、三
年前には八でした。西坂大先輩
よりは上手いですかな? 陵水
ゴルフからもお誘いを受けてお
出 潔(大13回)
所長 星
かは、簡単に考えれば、保管業 ――インドは。
――今の仕事は。
務なんかですね。
竹森 全くの素人です。
――前の仕事と違いますか。
竹森 全然違います。船舶と物
流というのは少しはお付き合い
も伊藤忠時代にはありました
が、全く違います。物流とは商
品・荷物を相手に届けるわけで
すね。船というのは引き取りに
来てくれるのです、相手が。だ
か ら 届 け た こ と が な い の で す。
B/Lも殆んど見たことがない
のです。要らないんです。荷物
竹森 保管業務では全然儲かり
ません。今、世の中、在庫をし
な い こ と が 商 売 の 基 本 で し ょ。
そんな保管業務のような仕事を
し て い た の で は 駄 目 な ん で す。
今、3PL(サードパーティー
ロジスティクス)というのです
が、 メ ー カ ー さ ん の 商 品 管 理、
配送、仕分け、要するに商品の
受配送から管理を、一括アウト
ソーシングする商売がものすご
く増えてましてね、そういうの
をトータルとしてやって行かな
いと全然ダメですよ。私共この
会社では、トラックは一切保有
してませんから余所さんにお願
いしてやってます。
国内、海外と分けて七割は海
は、どの辺が。
竹森 アジアです。中国もどう
したって、これからの市場とし
ては大きいですし。
く物流なんかもやらせて頂いて れは日本政府のODAで作った ります。来年は出れますからと
橋 で す と 記 念 碑 に 書 く の で す 言ってますが。
ます。
――これからの海外というので よ。日本人、感激するのですよ。 ――十九回の方々が支部総会当
中国人は日本にお世話になった 番幹事を務められてから、総会
と書きたくないのです。二つ目 も育って来て年々盛大になりま
は 自 分 で つ く っ ち ゃ う の で す した。その後、仲間達とはどう
ですか。
よ、真似て。
を運ぶ本体を売ってましたので 外 関 係 で す。 商 社 系 で す の で、 しますと、日本が中国で橋を作
ね。船に乗せる荷物のアレンジ 物が出て行く、
入ってくるとか、 りました。有難うございました
もした事がないです。だからこ そ う い う 商 売 の 方 が 多 い で す とは言いますが、二度目から習
の会社に来て大変でした。マネ ね。今のところ、日本のメーカ った技術で、自分たちで作るの
ージメントは同じですけど、商 ーさんが海外に色々な工場を作 で 金 だ け く だ さ い と な り ま す
品知識はないのですよ。
られて、そこに原料を持って行 が、ベトナムは賢いですよ。こ
――社長にご就任になって三年。
竹 森 四 年 や り ま し た。 去 年、
取 締 役 相 談 役 を や り、 今 年 は、
相談役となりました。もう卒業
します。よく仕事もさせてもら
いました。
――我々素人が考えて、倉庫と
星 出 公 認 会 計 士 事 務 所
竹森 仲間達とは、年二回ゴル
フ。思いついては、暑気払いだ
とか名目付けて、食事会とか良
く集まっています。二〇人くら
い集まりますかな。
――あの幹事をやった後、みん
なの結束が強くなったと聞きま
すが、如何ですか。
竹森 確かに結束が強くなりま
した。当番幹事をすることによ
って相互の連携は密になります
ね。二〇〇七年に当番幹事をや
りましたが、二〇〇八年、関西
の 人 間 が 頑 張 っ て く れ ま し て、
も う 還 暦 だ か ら と い う こ と で、
何十年振りに彦根で集まりまし
た。滋賀にいる人が皆に声かけ
て く れ て 東 京 の 人 も 集 ま っ て、
二百人ちょっとの卒業生の中で
八十五人集まりました。勿論住
所不明もありましたが良く集ま
りました。それも一つのきっか
けになっております。メールア
年次幹事所感
学生生活の思い出と現在
――いえいえ何を仰って。今日
北 尾 聡 子(大 )
は長い時間、有難うございまし
私は四年間(一九九三・四~
た。
一 九 九 七・ 三 )、 大 阪 か ら 二 時
間かけて滋賀大学に通いました。
一時間に数本しかない新快速と
の乗り継ぎを考え、やっと彦根
英語には興味があり、演劇も好
大学在学中は、ESSクラブ
に所属していました。もともと
とだと思っています。
講義で聞いたことをノートに取
りまとめる力が格段についたこ
な っ た の は、 優 の 数 で は な く、
るか分からないとか、分からな それぞれ担当決めましてね。バ
駅についたと思っても、そこか
いと困りますが。声かけ役がい ドミントン、柔道、ラグビーな
ら自転車で彦根城のお堀の傍を
るといないとでは大きく違いま どクラブ活動別、ゼミ別に頼ん
半周しなければなりません。雨
すね。転勤もあって難しいです でもらったんです。彼らもそろ
大学二十五回卒以降の各期幹 や 雪 の 日 は も っ と 大 変 で し た。
けどね。
そろ出席しても良いなと思い掛 事 の 皆 様 か ら 次 の 設 問 に よ り、 滋賀県の天気は、野洲辺りを境
――今、幹事会には年度毎に入 けていると思ったので。丁度い ア ン ケ ー ト さ せ て 頂 き ま し た。 に、北(彦根側)と南(京都側)
ってもらってます。全年次入っ いタイミングだったと思います。( 回 答 を お 願 い し た 際 の、 設 問 で異なることが多く、大学から
てもらってますが、若年次の人 ――今、竹森さんの年代は現職 を省略しました。)
彦根駅に着くまでに大雨で傘も
達はその代表すら余り関心が無 が多いのでしょう。
①滋賀大学、彦根の思い出を 服 も び し ょ 濡 れ に な っ た の に、
いのがネックかなと思います。 竹森 半分現職、半分退職です
②現在の職場で担当されてい 京都に着いたら傘をもっていな
竹森 二〇年前にそういう役を ね。働きたいので、自分のコネ るお仕事について。
い人の方が多いことによく驚か
③お勤め先での経験など。
やれと言われたら勘弁して下さ 活用とか、付き合い先で働いて
されました。そのため、朝は必
④クラブ活動やゼミで得られ ず天気予報をチェックして出か
い と 言 っ た で し ょ う ね。 今 は、 いますとか、一週間に二日働い
土曜日にやっているのは良いで ていますとか、そういう人も多 た こ と が、 社 会 生 活 に お い て、 けていました。今みたいに、ス
仕事の上でどのように生かされ マートフォンで電車に乗りなが
すね。昔は平日でしたね。平日 いですね。
ですと会社ですから、早目に会 ――元気でますますご活躍下さ ますか。
ら天気をチェックできるような
⑤将来的な人生設計をどのよ 時代ではありませんでした。
社 か ら 出 な け れ ば な ら な い の い。
で、 土 曜 日 の 方 が 良 い で す ね。 竹 森 い や 来 年 は 退 職 予 定 で うに立てられていますか。
私は、ほとんどの講義を真面
⑥ご関心をお持ちの政治経済 目に受ける、めずらしい学生で
我々の引き継ぎの時は、門平君 す。充分働きました。
が良くやってくれました。幹事 ――最後に座右の銘はなにです 問題について意見、ご感想をお した。父が大学で首席だったこ
聞かせ下さい。
会の十八回がやってくれた時に か。
とへの対抗心が私をそうさせて
皆様から戴きましたアンケー いたのだと思います。後半、ダ
十九回へのその引き継ぎに総会 竹森 いや何もないのです。竹
で、彼一人がやってくれたんで 森語録などはその時々に作りま トの内容を、編集部において適 ブルスクールもあり、結果的に
したが、私はこれだという座右 切にアレンジして記事にまとめ は首席にはなれなかったのです
の銘は無いのです。いい加減な たものです。
が、専攻した講座はもうほとん
のです。
どが優でした。ただ私の財産と
ド レ ス も 登 録 さ れ て ま す し ね。 す。
門平君が一番の世話役をやって ――あの時、竹森さんが代表リ
ーダーで良く頑張られたと聞い
くれています。
――陵水会の参加についても年 ております。
齢的にある程度までは難しいと 竹森 ただホテルのアレンジと
か、会場の段取りは。日航ホテ
ルは当時伊藤忠の関係会社でし
たから全部頼みました。住所の
分からない人が沢山出て来まし
て ね。 色 ん な コ ネ 使 い な が ら、
か、何かご意見ありますか。
竹森 年度幹事を誰か一人ずつ
指名して、毎年総会の時に声を
掛けてくれる人が出来たら良い
ですけどね。ただ東京に何人い
45
—15—
きでしたので、とても楽しく過
ごすことができました。非常に
面倒見のよい先輩方、信頼でき
る同期、やる気にあふれた後輩
と行事を通じて協力しあえたこ
と は、 と て も い い 思 い 出 で す。
関東に住んでいるクラブのメン
バーとは、今でもたまに集まる
機会があります。久しぶりに会
うと、新鮮で、各方面で活躍し
ているメンバーの話を聞くこと
ができるので、いい刺激を受け
ることができます。
三、四回生のゼミでは、吉田
修先生のゼミに所属していまし
た。経済学部に属しながら、吉
田先生の講義に魅かれ経営学に
興味を持ち、ゼミ幹事を務めさ
せていただきました。卒論のテ
ー マ は、
「日米独のコーポレー
会計士試験を目指しました。四
回生で一回目の受験をし、一般
事 業 会 社 へ の 就 職 活 動 は せ ず、
卒業した年の十月、二回目の受
験で合格し、青山監査法人(大
阪)に入所しました。入所して
三年後に結婚し、結婚した年(二
〇〇〇年)に、主人の転勤で東
京に異動(半年ずれ)しました。
それから二度の産休をとり、現
在は、あらた監査法人(東京)に
勤めています。以前は監査ばか
りやっていましたが、ここ数年
は、IFRS関連のアドバイザ
リー業務に多く関わっています。
会計の分野は、日々新しく進
化していくため、勉強は欠かせ
ず大変です。しかしながら、専
門性を高めれば高めるほど、付
加価値のあるサービスを提供で
ています。家事のできる時間に
帰り、夜子供が寝た後で、片づ
けなければならない仕事は片づ
ける。なんとかなるものです。
今は、会計士になっても就職
難の時代ですが、信念を持ち続
けてがんばっていれば、道は開
けてくるものだと思っておりま
す。IFRSでも監査でも、私
で何かお役に立てそうなことが
ございましたら、是非ともご一
報下さい!
仕事を続けていたいという思
いはありますが、正直先のこと
はわからないです。定年後の具
体 的 な 計 画 も 今 は あ り ま せ ん。
た だ、 趣 味 の ピ ア ノ を 続 け て、
ピアノをひけるおばあちゃんに
なりたいという希望はありま
す。子供をピアノ教室に通わせ
をとらえることが重要だと感じ
ます。企業がグローバル化せざ
るをえないように、会計のグロ
ー バ ル 化 も 必 至 だ と 思 い ま す。
IFRS適用を遅らせるなんて
いっている場合ではないと思い
ます。もちろん会計士という職
業も、国境の垣根がなくなるで
しょう。このような環境変化に
柔軟に対応し、各国の会計専門
家と会計について議論できるよ
う、これからも精進して参りた
いと思います。
私よりご多忙な先輩方が、陵
水会を運営してくださっておら
れることに、こころより感謝申
し上げます。いつか、もう少し
落ち着いた頃に、同期を誘って、
少しずつ活動にも参加していけ
ればと思っております。皆様の
トガバナンス」でした。吉田先 き る の だ と 思 い ま す。「 質 問 さ ているうちに、昔ならっていた ご健康とますますのご発展をお
彦根の思い出と現在
生は、私の結婚式で、主賓のス れ て 答 え る。
」 そ の 繰 り 返 し で ピアノをまた弾きたいと思うよ 祈り申しあげます。
ピーチを快くお引き受けくださ すが、クライアントからの信頼 うになり、月に二回、私もピア
り ま し た。 仲 人 を お 願 い し た、 を得ることができてきたと実感 ノ を 習 っ て い ま す。 年 に 一 回、
30
武 田 吉 史(大 )
横浜国立大学の稲葉先生ご夫妻 できる瞬間が、この職業の醍醐 大人の発表会(二月)もあるた
彦根の思い出と言う意味では
とは、お知り合いであったこと 味だと思います。
め、今年はショパンの“ノクタ
にもご縁を感じました。
先にも述べましたとおり、私 ーン№ ”を練習しています。 冬の寒さ、若干、二期校という
私が在学中、世の中は就職難 には二人の子供がいます。かけ
予測不可能な事態がいつ起こ ことで田舎へ都落ちした感もあ
の時代でした。卒業後、結婚し がえのない宝物です。仕事の代 る か わ か ら な い と い う こ と は、 りましたが、その中で小さくこ
たとしても一職業人であり続け わりは見つかっても、母親の代 心の片隅で意識するようになり じんまりと友人に恵まれて狭い
たいという思いがあり、そのた わ り は 見 つ か り ま せ ん。 幸 い、 ました。タイの洪水被害をみて が暖かい社会の中で四年間のん
めには何か資格があったほうが 周 り の 温 か い 支 え に 助 け ら れ、 も、当然日本だけに目を向けて びり延び延び過ごした感があり
よいのではということで、公認 私流の家庭と仕事の両立を続け いてはだめで、世界の中で物事 ます。
2
又昨今の綺麗になった彦根の
街並ではない本当に入り組んだ
城下町の細い道などをたまに思
いだします。日常生活、クラブ
な ど そ れ ぞ れ に 思 い 出 が あ り、
たまに友人と旧交を温めてはお
りますが、年代的にそれぞれ忙
しいので、年に一度出来ればの
程度です。
護国神社の能舞台を部活(能
楽部)で手入れを少しだけお手
伝いしていたのが、今ではお城
で丁寧に保存されているのには
感銘をうけました。
現在ジャパンシッピングサー
ビス株式会社に勤務していま
す。ここは同族会社ではないの
ですが、その他の同族会社を含
めて後、数社関係会社の代表取
締役をしております。シップブ
ローカーという海運仲介業(甲
仲業)がこの会社の業種です。
卒業以来のことです。商社入
社、研修生、海外駐在を経て八
年経過前に独立、現在に至って
おります。数年前より業界の協
会の常任理事もやっておりま
す。まだまだ経験を活かしきれ
ていないので、コメントは控え
させて頂きます。敢えて言えば
辛い時期もまた楽しい時期もあ
るということでしょうか。
定年後はとの質問ですが、ま
—16—
だまだ現役で朝から朝まで仕事
三昧の日々にてご迷惑をおかけ
しております。昨今リーマンシ
ョック以来、また九〇パーセン
ト以上がドル収入の業界ですの
で、かなり稼働率があがってい
るというのが現状です。出来れ
ばもう少しペースダウンもトラ
イしたいのですが、後継者やそ
の他問題も山積みでして今しば
らくご迷惑をおかけいたします
が宜しくお願いします。
政治経済情勢を考えてみま
す。まさに政治不況ともいえる
と思います。英国がそうやって
きたように、我が国も産業が衰
えて行くと危機感も募り、また
改善もあるのかもです。人口の
減少が深刻になる前に政治家・
公務員削減を徹底して、誰かが
やらないとまた海外進出や税務
とは「何事も途中で投げ出さな
いこと。」と言うことです。
将来定年後のことは現在のと
ころまだ考えていません。
政治経済の問題で関心を持っ
ていることは、何と言っても我
が国の財政再建に尽きると考え
ています。
—17—
小池英夫氏の思い出
細々した物を詰めている最中
に、 小 池 さ ん か ら、「 ワ シ の 後
任として社長を引き受けて貰い
たい」と唐突な電話がありまし
た。 私 は 驚 い て、「 出 張 か ら 帰
国後、改めて話をさせて下さい」
とだけ話しましたが、諸先輩が
居られるのに、何故私が……と
言う気持ちが錯綜したまま、翌
朝離日しました。
帰国後、小池社長に出張報告
を済ませ、出発前の電話の件に
ついて話をしました。
「 色 々 考 え た が、 君 に 社 長 を
託したい」との説明だけで、そ
の「色々……」に就いては敢て
聞かず、社長引き受けの条件は、
ァのウィーン出張の前夜、鞄に 姻戚関係の無い者に全てを託す
一九九六年十二月にオーストリ ナ ー 社 長 は、 大 株 主 で も な く、
当役員として、小池さんの直接 社長としては、院政を敷かれた
の 部 下 と し て 仕 事 を し ま し た。 くないと言う意志でした。オー
前任社長に相談し、助言を得る
ものの、最終決断は新任社長が
一九九五年四月、人事総務担 行うと言う確認でした。つまり
は親しみを感じました。
藤 本 幸 延(大 )
私が、小池さんに初めてお目
に掛かったのは、富士貿易入社
面接の一九六六年夏でした。オ
スロ駐在から帰国されて暫くの
頃で、小池さんは余り多くを語
られなかったが、此の人が滋賀
大学ボート部の先輩と知り、同
じ湖上スポーツのヨット部の私
15
関西ゴルフ連盟主催の大会に出 ( 日 本 生 命 ) で 企 業 融 資 営 業 を
て、
「 滋 賀 大 学 」 の 名 前 を 印 象 担当しています。入社以来全国
各地で色々な仕事を経験しまし
た。人情の機微に触れるような
関係を取引先と築けたとき、や
り甲斐を感じました。
クラブ、ゼミで得られたこと
で今活かされていると思えるこ
付けたことが思い出です。
三菱東京UFJ銀行リテール
事務部(本部)勤務で支店の事
務指導をしています。旧三菱銀
行に入行。大阪の梅田支店に配
属されてから、転勤十一回を経
験しました。その間に東京銀行
との合併やUFJ銀行との合併
を経験。お客様や職場の仲間に
恵まれ「人との繋がり・絆」の
大切さを得ることができました。
社会生活に入って、ゼミやク
ラブ活動で培った団体行動での
規律や、組織力の活用は仕事の
上で非常に役立っています。
将来のことは先輩のお話を聞
いて、
将来設計を立てています。
政治経済のことでは、日本の産
業空洞化がとても心配です。そ
彦根の思い出と現在
対策において空洞化が進むこと れと円高対策を構じていく努力
が懸念されます。憂国というこ が欠かせません。
とではなく、愛国を持って臨め
水 上 康 弘(大 )
ゴルフ同好会に所属し毎週末
キャディのバイトをしていたの
が一番記憶にのこっています。
社会に出てから接客の経験を
したことや、身体を鍛えていた
ことが役立ちました。
現在の仕事は、生命保険会社
32
る人を増やしたいものです。
彦根の思い出と現 在
金 岡 昌 彦(大 )
思い出は何と言ってもクラブ
活動。新入生でゴルフ同好会に
入会し、同好会での活動を体育
会総会で認められてゴルフ部に
昇格。約四十名の部員とともに
36
経営再建コンサルタント協同組合
理 事 長
公認会計士 長井和男(大22回)
〒103–0028 東京都中央区八重洲 1 − 5 − 4 共同ビル
(八重洲口)
505
TEL 03−5255−3511 FAX 03−5255−3512
E-mail : [email protected]
不 安 感 が 有 る の は 当 然 で す が、
私の申し出に小池さんは暫くの
間、
沈黙され、「それで良いから、
宜 し く 頼 む 」 と の 返 事 で し た。
その瞬間に富士貿易の三代目社
長が決定しました。
社長就任以降は、役員会議等
では、小池さんから常に私の意
見をサポートして頂いた。しか
し、
二つの案件に就いては、
中々
納得されませんでした。 社長
の私としては、是非、進めたい
案件でしたので、かなりの日数
を掛けて繰り返し説明し、やっ
と「判った。社長の思い通りに
やってくれ。しかし私が反対だ
と言う事は忘れるなよ」とのご
意見でした。それ等案件の実行
は、小池さんの意向を汲み慎重
を重ね、上手く完了する事が出
来ました。
会社継続上、勇気ある経営決
断をされた小池さんは、素晴し
い経営者だと実感しています。
故小池英夫先輩と の 思 い 出
北 澤 勝太郎(短 )
小生、昭和三十五年春入社し
て以来富士貿易では営業一筋五
十年間共に働き苦難を共にして
来ました。小池さんの主義主張
は以下の様な事であったように
5
思っております。
り、四 十 年 前 に オ ス ロ で 買 っ た だしさでした。月並みな表現で です。
一、顧客は世界に求めよ。その
吉原君は陵水会の活動にも熱
の 時 計 を 常 に 身 に 着 け すが「人の命のはかなさ」を思
Longin
ためには世界の業界全体に認 ていた。五十年間小池さんがオ い知らされました。
心 で 長 年 役 員 を 勤 め ま し た し、
めさせる統一したカタログを スロ時代から使っていた、模様
思えば吉原君とは長い付き合 ゴルフの会、囲碁の会、散歩会
富士貿易が作成し、商品に共 の塗料も落ちたペーパーナイフ いでした。出会いは一九五七年 などマメに顔を出して交友の広
通の言語、規格、番号を定め を現在、小生が使っている。小 四月、彦根キャンパスの水泳プ さは抜群でした。彼は誰とでも
世界の顧客のユーザである船 池さん良く叱咤激励してくれて ー ル の 奥 に あ っ た 武 道 場 で す。 すぐに打ち解けられる独特の懐
員も購買権のある船主も我々 ありがとう。冥福を祈り、合掌。 私が柔道部四回生で、彼はその の深さを持っていました。証券
サプライヤーの三者が共通で
年入学した新入部員でした。彼 マンにありがちなギラついたと
告
別
の
記
世界中で使用できるものを作
は中学高校ですでに柔道の部活 ころが無く、仲間内では仕事の
吉 原 悟 一 君 (大 )
成する。
を
経
験
し
、
同
期
の
谷
口
幸
二
君
と
話 は あ ま り し ま せ ん で し た が、
二、
商売はお金持ちと取引せよ。
林 謙 冶 郎(大 ) ともに貴重な有段者でした。
コスモ証券の後輩の人によれ
吉原君の病気入院を知ったの
ば、売り込みに行っても顧客に
は、五月の連休明けでした。し
商品のリスクを丁寧に説明して
か も か な り 深 刻 だ と の こ と で、
「そこまで言わなくても」と思
およそ病気とは無縁の男でした
うほど誠実であり、一面後進の
から大変驚きました。五月十九
教育では厳しさも持ち合わせて
日に大 の久木義雄さんと病院
いたようでした。
に見舞った折には、まだすこぶ
長崎東高校からきた吉原君は
吉原君はゴルフが大好きでし
る元気でしたが、それでも説明 谷口君とともに一回生ながら即 た。五番ウッドが得意で「ミド
“ No Money–No Foods
”の精
神で営業。売掛金の回収で厳
しく教育を受けてきた。
三、国際価格競争にも負けない
購買体力の確立と営業面で信
頼できる顧客とは長期に渡る
信頼関係を確立する。
四、海外拠点の設立には優秀な
質のサービスを提供する事を 与になるが、もしそれが効かな 試合巧者でした。同じ道場で共 的なゴルフでした。ドライバー
目指す。
ければ余命は三カ月」とのこと に汗を流したのはわずか一年で が当たると「芯を食った」と大
小生から小池さんの人物像を で、悲痛な思いで帰りました。 しかありませんが、以来柔道部 喜びでした。電話をかけてくる
述べると、質実剛健であり無駄
奥様をはじめご家族は、当該 OB仲間として半世紀を越える と決まって第一声は「ああ吉原
を嫌い、経費面では自分自身に 病院の治療メニューとあわせて つきあいになりました。付き合 です」で始まります。電話をと
対しても厳しく、賭け事、異性 別の有効との世評高い治療も試 いの中心はもちろんOB会活動 る家内が「吉原さんはいつも明
関係も全くなかった。酒は北欧 み ら れ ま し た が そ の 甲 斐 な く、 です。吉原君は夏の総会、秋の るく元気ですね」と感心してい
のアクアビットとビールを飲む 七月中旬には帰らぬ人となりま シニアOB旅行会、暮の忘年会 ました。その声はもう聞けませ
のが好きな人であった。又、決 した。本人が不調を訴えた四月 と定例の会合には皆出席を誇っ ん。心からご冥福をお祈りしま
してケチでないが質素な人であ 下旬から僅か二ヶ月半のあわた ていました。実に健康だったの す。
—18—
9
6
人材派遣を行い日本の富士貿 では「肝臓と膵臓がガンにやら 戦力になってくれました。小柄 ルホールは三オン、ロングホー
易の精神を生かして現地人と れている、部位との兼ね合いで でしたがすでに五年の柔道歴が ルは四オン、そして一パットで
協力し、日本の富士貿易と同 切除ができない、抗がん剤の投 あり、右の背負い投げが得意で パー」が口癖で常に強気で楽観
5
岐・昂揚・弛緩等の法則性によ た。加えて学生の徴兵猶予制が 高橋源次(英語)、桑原晋(経済)、
漢方医師になりました
三十七年振りの卒業式
りて)音楽的に汲み盡し得るか 廃止されたため、次々と陸軍や 片山陽一(英語)、石田興平(金
河 添 治 男(本 ) もしれない。けれども、哲学的 海軍に入隊する者が出て、終戦 融 )
、 長 谷 川 六 二 郎( 事 務 長 )
法 橋 正 虎(大 )
終戦により、海軍航空隊から に 汲 み 盡 す こ と は 不 可 能 で あ の時、瑞泉寺に残っていた者は の諸先生もご出席いただいた。
退職した翌年の二〇〇二年二
復員して滋賀県草津の自宅にい る」のを読んで、いかにも学問 僅かに九名であった。その中の
滋 賀 大 学 学 長 川 崎 源 先 生 が 月六十三歳、北京で中国医師国
た私の許に、学校から一通の封 の 府 に 入 学 し た と の 感 慨 を 覚 一人鳥居和也が八月十五日に詠 「 皆 さ ん は 十 分 な 勉 強 は で き な 家試験を受け、五月国際中医師
書が届いた。
え、向学の志を新たにしたのを める歌。
かったが、動員先で別の勉強を A級合格の免状が送付されてき
「 九 月 十 四 日 ヲ 以 テ 卒 業 ニ 決 憶えている。
「刀折れ 矢尽きて死なむ された。老いて学べば死して朽 ました。受験資格の取得、病院
定 致 候 間、 此 段 御 通 知 申 上 候。 しかし教室で講義を聴いて勉
ますらおの 命かなはず
ちず」と「卒業式辞」を述べら での臨床実習を含め、準備に五
追而、時局下、卒業証書授与式 強する時間は長くは続かなかっ
耐えてゆくべき」。
れ、続いて五人の先生が次々と 年をかけた事になりますが、受
ハ 執 リ 行 ハ ザ ル コ ト ニ 相 成 候 た。
戦局は日に日に厳しくなり、
登壇、当時の思い出などを話さ 験は、どたんばになって決心し
間、御了知相成度」とあり、卒 「 一 億 総 決 起 」 の 号 令 の 下、 教
昭和二十年九月、卒業の扱い れたが、特に高橋先生が、瑞泉 ました。年齢的に最後の機会で
業証書が同封されていた。
室を出て、能登川や河瀬の農村 になったものの、終戦直後の激 寺の頃に詠まれた短歌を朗誦さ し た。 試 験 は 先 ず 暗 記 で す が、
かくして、昭和二十一年三月 への稲刈奉仕、大津に新設され 動混乱の中、就職は儘ならず学 れてのお話に当時を思い出して その量に驚かされます。医師は
の予定が半年繰り上げられて卒
校に相談しても「在学生への対 涙し、また桑原先生が「卒業記 人の生死に関わる職業です。あ
業の扱いとなった。
応で手一杯、卒業生の面倒まで 念講義」として「経済学の本質 る医学知識を持っているかどう
昭和十八年四月、彦根高等商
は見られない」とのこと。已む と景気の現代的性格」と題して かが、人の生死を分けます。試
業学校に入学した。当時は国立
無く自力で手蔓や縁故を頼って 講演されたが、先生の独特の口 験科目は十科目。例えば診断学
とは言わず「官立」と称し、入
就職先を見つけねばならなかっ 調に往年の教室の講義を思いだ では、脈診だけでも二十七種類
の脈の取り分けが要求されます。
学者の名簿は官報に掲載され
た。それでも何とか糊口を凌ぎ、 して懐かしく拝聴した。
た。新入生は本科A・B組(中 る海軍兵舎の建設工事への勤労 漸く生活の安定を得て、クラス
そのあと、校歌、寮歌を合唱、 合格基準は臨床各科の主要科
学出)
、C組(商業出)
、東亜科 動 員、
、 敦 賀 連 隊 に 短 期 入 隊 し 会を持てるようになって「瑞泉 講堂前で記念撮影をして卒業式 目で、八十点以下が一科目あれ
( 中 商 混 合 ) の 四 組、 二 百 十 名 ての軍事教練などに出掛けるこ 寺で散り散りに別れて、卒業式 を終えた。式後、経済資料館な ばアウト、他は六十点でアウト。
11
の教科書の冒頭に「人生は(内 や、米軍の空襲で怪我をする者
的生命の流動曲線及び緊張・分 も で る 厳 し い 動 員 生 活 で あ っ 馳せ参じる者、七十五名、恩師、 目を引きずっている。
た。中国医学を始めたのは、全
人に必ず聞かれるのは、なぜ
済地理、簿記、国史、近世史等 産に携わることになるが、過激 る講堂で三十七年振りの卒業式 彦根の学園生活であった。十分
の科目が並んでいる。経済原論 な重労働の為に健康を損ねる者 を行うことになった。
な勉強が出来なかった悔いは今 始めたのか、どこが面白いのか、
九州、北海道はじめ全国から でもあり、未だにある種の負い この資格は金になるのか、でし
訳・英作・英会話)第二外国語 需 工 場 に 出 動 す る こ と に な っ 有志が大学当局と交渉し快諾を
戦 時 下 の 国 策 に 翻 弄 さ れ て、 庭医でもあります。十年来、毎
(独・仏・支那)
、経済原論、法 た。名古屋市鳴海の瑞泉寺を宿 得て、昭和五十七年九月十一日、 教室での実質的な授業を受けた 月数回会い勉強会をやっていま
学通論、配給論、商業数学、経 舎として工場に通い、兵器の生 在学時代の校舎で唯一残ってい のは僅かに一年半、誠に苛酷な す。人間的にも尊敬しています。
であった。
とになる。そして遂に、昭和十 もしていなのは誠に無念、自前 ど校内を見学した後、席を湖畔 受 験 仲 間 は 現 役 の 漢 方 医 が 多
今、手許に「第一学年第一学 九 年 八 月、 学 徒 動 員 令 に よ り、 でも良いから卒業式をやろうじ の旅館に移して、宴を開き夜遅 く、ここで優秀な内科医と親友
期時間割」があるが、英語(英 全員が名古屋の大同製鋼㈱の軍 ゃないか」との話が持ち上った。 くまで思い出話に花を咲かせた。 になりました。彼は我が家の家
21
—19—
くの偶然です。退職後は、四世
紀末の求法僧、法顕(注)の十
四年の旅を追って、妻と何年か
掛けて西域を歩くつもりでした。
八 十 年 代 に 入 り 四 十 歳 代、
次々と、海外、人事、財務の担
当役員になり、担当を代わるた
び に 激 変 が お こ り 激 務 で し た。
これは同年代の方々皆そうだっ
たのではないかと思います。ふ
と、このままでは保たぬかもし
れないなあ、の感覚がよぎりま
した。しかし現実には、手抜き
を許しません。
考えての結論は、
第二の人生を作る事でした。人
生に第一も第二もありません
が、休日は、万難を排し別世界
で過ごそう。ただし週日は一切
に こ の 世 界 に は 手 を 触 れ な い。
これを原則としました。これは
た。これと少し重ねて、若い頃
から読んでいた、老子と易経に
取り掛かりました。老子は、早
稲田の楠山春樹先生の,馬王堆
出土老子の解読を,易経は,別
の先生から周易本義を,四年ほ
ど繰り返し聞きました。これは
結果的に漢方哲学の勉強に役立
ちました。中途半端は、時間の
無駄です。納得いくまで、時間
をかけました。時間は十分あり
ます。週日は一切、手を付けな
い規則は、結果的に集中力を付
けてくれました。馬王堆からは、
ほ か に 医 学 書 が 出 土 し ま し た。
これにも興味を持ち、漢方の古
典を立ち読みしましたが、理解
不 能 で し た。 あ ち こ ち 歩 い て、
中国の医学書にめぐり合いまし
た。医科大学の看板教授で付属
去 ら れ ま す。 私 の 今 の 興 味 は、
歴史の節目で新しい理論が生ま
れた背後の、天才達の苦闘の解
明にあります。人間ドラマです。
こうして漢方理論は、臨床のチ
ェックに耐えて科学として洗練
されてきました。宮廷医は、皇
帝 の 治 療 を 誤 れ ば 殺 さ れ ま す。
医師は必至で患者を観察してそ
れを理論化しました。これらが
集大成され、一世紀ごろ科学体
系の基礎が確立されました。テ
道を見つけ、こつこつ勉強して
いたようです。どうして蝶なの
かときいても「そりゃ、綺麗だ
か ら よ。」 で 終 わ り で す。 私 は
今 七 十 三 歳、 漢 方 は 趣 味 で す。
臨床医の仕事は、かなりの国で
可能なのですが、日本では規則
が 強 く て 駄 目。 し か し 医 学 は、
臨床以外にも広い分野をもった
世界ですから、その気になれば
仕 事 は あ り ま す。 が、“ 芸 は 身
を 助 く る 身 の 不 幸 せ。” 幸 い、
細々の国民年金のお陰で、芸で
身 を 助 け る 必 要 は あ り ま せ ん。
ただ家族の風邪や、腹痛ぐらい
なら、私の処方の知識が役立ち
ます。すぐ効きます。これだけ
は信用があります。現在、日本
東洋医学会に入り、又、友人と
宋 代 の 医 師 の 名 著 を 翻 訳 し て、
第八十三回東京陵水ゴルフ会
平成二十二年十二月三日(金)
金乃台カントリークラブ
西坂支部長念願の優勝
十二月と言うのに穏やかなゴ
ルフ日和に恵まれ、三十三名九
組で熱戦が繰り広げられた。
大九回西坂支部長が念願の優
勝 を 果 た し た。 グ ロ ス 八 十 八、
ネット六十四、七アンダーとブ
ッチギリでの優勝であった。第
五十八回大会初参加以来、実に
二十二回目の参加での優勝であ
り感激しきりであった。準優勝
は ベ テ ラ ン 大 五 回 の 中 西 選 手、
退職の日まで貫きました。着手 病院院長をされた方、第一級の レビなどで言われる“漢方”の 友人の弟子で、医大准教授クラ 三位には八十三歳本科二十二回
は、何時かやろうと思いながら 人物です。先生の講義にもぐり 多 く は、 漢 方 薬 を 使 う だ け の、 ス三人と院生一人の少数精鋭の の山口選手、第五位に大二回の
四十代になってしまった座禅で こみ、聞いてみると面白い。医 ただの民間療法です。科学では 塾 を 手 伝 っ て い ま す。 こ れ は、 岡田選手が入賞する等、支部長
の優勝に花を添えるベテランの
す。臨済宗の寺で受戒して“正 学が面白くてしようがない人の ありません。私にとって漢方の 楽しみなことです。
傳”の法名を頂きました。スリ 講義が、面白くないわけがあり 面白さは、その深い人間観察と ( 注 ) 法 顕( ホ ッ ケ ン ) は 三 九 活躍が目立った大会であった。
ラ ン カ の 高 僧 の 所 に も 数 年 通 ません。この世界を勉強してみ 理解にあります。良き先生に面 九年、六十四歳で、中国の戒律
賞金獲得各賞入賞者は下記の
通りである。
成 績
優勝: 西坂 徹雄
(大 )( )
位:中西 三一
(大 )( )
位:山口 昭夫
(本 )( )
位: 田村 寿夫
(大 )( )
巌(大 )( )
位:岡田
2 12 22 5 9
75 70 70 68 64
27 24 40 29 24
い、南伝仏教の座禅を習いまし よう。医師試験は考えの外でし 白さを教えられました。友人で の経典の不備を嘆き、印度に向
た。受験資格も結果的に取れて 退職後、第一線の蝶類学者にな かい、十四年後七十七歳で帰国。
いただけです。学んだ事は、漢 り、新種の発見で認められた男 法顕伝(仏国記)は旅行記とし
方医学は精密に体系化された科 がいます。もう一人は退職すぐ ても優れ、玄奘三蔵もこれを携
学だという事でした。しかし医 に、プロの茶道宗匠になった男 えて天竺に向かいました。穏や
学 は 治 し て ナ ン ボ の 世 界 で す。 がいます。二人とも猛烈重役で かな人柄で、南北朝乱世の西域
理論は実績に耐えなければ捨て したが、何十年も前から自分の に向かいました。
5 4 3 2
—20—
脈診の場面
9
71
5 4 3 2
40
80
9 15 18 14 14
76 75 73 72 71
15 9 19 18 9
40
18 14
9
14
9 12
松浦選手、念願の初優勝、真新
第八十六回東京陵水ゴルフ会
平成二十三年九月六日(火)
金乃台カントリークラブ
30 25 20 15 10 7
しい守谷杯を手に!
『今年も皆様のご来場をお待ちしております』
TEL 029-872-0182 FAX 029-872-3182
1 24 5 10 12 10 10
80 95 91 87 83 80 78 77
40 23 20 15 24 27 12
15
14
9
14
10
株式会社 金乃台カントリークラブ
塚 謙 二
〒 300-1211 茨城県牛久市柏田町 3432
)( )
)( )
)( )
15
16
(大
位:北村
徹
(大
位:小倉 好博
(大
位:小山捷二郎
13
10 21
10
9 17 4 14 14 18 14
85 89 86 83 79 77 75 75
6 15 26 18 21 18 23
(大 )( )
位:小口
晃
(大 )( )
位:竹内 鋭二
(大 )( )
位:蔵田 昭憲
BB賞:日高信次
(短 )( )
ベスグロ:名口(大 ) 、大
波:守谷(大 ) 打差、水平
賞:山本(大 )
ニ ア ピ ン: 中 村 弘( 大 )・ 名
口(大 )・中村2(大 )
10 10
14
—21—
位:畠山 義生
(大 )( )
十
五歳を迎えた井口選手がグロ
位:田中 俊男
(大 )( )
ス九四、ネット六五と六アンダ
位:田村 寿夫
(大 )( )
ーで、ブッチギリ優勝を果たし
位:佐藤 秀孝
(大 )( )
た。 準 優 勝 は 大 四 回 簑 島 選 手、
位:中西 三一
(大 )( )
同じく大四回の竹内選手が十
位:西澤
正
(本 )( )
位、北川選手が十五位と活躍し
BB賞:川本 茂
(大 )( )
た。又、八十歳の大一回川本選
手がラッキーセブンに入賞する
ベスグロ:名口(大 ) 、大
等、ベテランが大活躍であった。
波:守谷(大 ) 打差、水平
第三位に大十回の佐藤選手が入
賞:西坂(大 )
り中堅組の面目を何とか保って
ニアピン:山本(孝)
(大 )
・
いた。
三 井・ 田 中( 大 )
・ 小 口・ 名
成 績
・木戸(大 ) 第八十五回東京陵水ゴルフ会 口(大 )
優勝:井口 博民
(本 )( ) 平成二十三年六月十六日(木) 山本保 記(大 )
位:簑島 安夫
(大 )( ) 金乃台カントリークラブ
30 25 20 15 10 7 5 4 3 2
9
代表取締役 戸
14
15 12
位:佐藤 秀孝((大 )( )
位:中村 嘉秀
(大 )( ) 念願の初優勝と若手大活躍!
位:吉田 久典
(大 )( ) 風も無く穏やかな天候に恵ま
位:川本 茂(大 )( ) れ
、三十四名九組で熱戦が繰り
位:竹内 鋭二
(大 )( ) 広げられた。
位:北川
享(大 )( ) 自他共に認める実力者、十四
位:松浦 幸作
(大 )( ) 回名口選手が / / 、ネッ
位:田中 俊男
(大 )( ) ト でベスグロと念願の初優勝
位:坂田 忠彦
(大 )( ) に輝いた。二位に同じく十四回
第八十四回東京陵水ゴルフ会
平成二十三年四月十二日(火) BB賞:西澤 正(本 )( ) 小口選手、三位には十八回中村
ベスグロ:小梶(大 ) 、大 ( 嘉 ) 選 手 と 久 方 ぶ り に 若 手 が
金乃台カントリークラブ
波:田中(大 ) 打差、水平 巻き返した大会であった。
成 績
驚異の八十五歳!ベテランまた 賞:佐藤(大 )
ニアピン:井口(本 )
・山本(孝) 優勝:名口 幸夫(大 )( )
また大活躍!
・佐藤(大 )
・日高(短
位:小口 晃(大 )( )
風も無く穏やかな天候に恵ま (大 回)
)臼井(大 )冨田(大 )
・
位:中村 嘉秀(大 )( )
れ、三十二名八組で熱戦が繰り
中 村( 嘉 )・ 小 梶( 大 中 村・
位:冨田 博司(大 )( )
広げられた。
第八十回記念大会に続き、八 小梶 山本保 記(大 ) 位:田川 行雄(大 )( )
18 24 9 10 8 4 4
1 13 18 10 4 21
85 89 88 84 81 78 75 74 72 70 70 70 65
23 27 27 21 21 26 40 15 20 18 27 29
15
Kinnodai
30 25 20 15 10 7
一日間違えば大変だった全国 なる練習はしないことにしてい
的に豪雨被害をもたらした台風 る。というのは、緊張感を持っ
十二号が過ぎ去り、当に台風一 てラウンドする為である。」
賞金獲得各賞入賞者は下記の
過の晴天の下、三十六名九組で
通りである。
熱戦を繰り広げた。
大八回松浦幸作選手がネット 成 績
七 二 で 念 願 の 初 優 勝 を 果 た し 優勝:松浦 幸作(大 )( )
た。今までも何度か優勝に絡み
位:田中 俊男
(大 )( )
ながらもチャンスを逃して来て
位:名口 幸夫
(大 )( )
いた。準優勝は同ネットで大十
位:金井
肇(大 )( )
回田中俊男選手が、また三位に
位:柴田 茂夫
(大 )( )
は連続ベストグロス八十の大十
位:田川 行雄
(大 )( )
四 回 名 口 幸 夫 選 手 が 入 賞 し た。 位:冨田 博司
(大 )( )
若手中堅が活躍する中、ベテラ
位:滋野 輝彦
(大 )( )
ンの大二回柴田選手の五位入賞
位:中村 弘(大 ) ( )
が光った。
位:小梶 清司
(大 )( )
松浦選手優勝の弁
位:山本 孝之
(大 )( )
「 今 日 は 一 打 一 打 に 集 中 し て BB賞:古山捷二郎(大 )
ラウンドした。☆☆選手を目標 ( )
にして気を抜かなかったのが良 ベスグロ:名口(大 ) 、大
19
12
4
5
陵水散歩会九月例会
還沿いで最も賑わった場所と言
われる本町。道沿いにある本陣、
脇本陣の石碑を眺めながら浅間
神社へ。ここには延喜式内社で
嘗ては大きな社であった丸子神
社が合祀にされている。旧東海
道の交差点を渡ると、南側に庭
園が整理された淨運寺。本堂の
姿が良い。この寺は戦国時代に
荒廃した千本松原を復元した増
誉上人、若山牧水夫婦、その長男
る。碑に彫ってある著作を全部
読んだ人は少ないだろう。
牧水碑に出る前に沼津地方の
子守唄「この子の可愛さ」の歌
碑に逢う。牧水碑はどっしりと
大 き い。「 い く や ま か わ こ え さ
りゆかばさみしさのはてなんく
に ぞ き ょ う も た び ゆ く 」。 全 国
に 数 多 あ る 牧 水 歌 碑 の 第 一 号。
十二時半を過ぎていた。
海岸沿いに開けた堤防道に上
がる。富士山がやや薄いヴェー
ル 着 け て 高 く 高 く 聳 え て い る。
駿河湾の紺青が澎湃とどこまで
も拡がり、これほど好天のもと、
これほどの素晴らしい景色の見
られる幸せを皆で喜ぶ。日差し
は強いがさして暑くない堤防道
はウォーキングに最高。時間が
無くて沿道の牧水記念館を失礼
アドレスにご連絡下さい。Xの 史に沿って眺める。ビル街に井 松公園の松林の中に入る。松の 津 市 の 全 景 と 駿 河 湾 の 大 海 原、
次 に ア ン ダ ー バ ー が あ り ま す。 上 靖「 夏 草 冬 涛 」 の 碑 を 発 見。 木の匂いが松林の広がりと厚み 壮大な展望を暫く楽しむ。
山本保: [email protected]他にも井上文学ゆかりの場所が を教えてくれる。井上靖文学碑
沼津魚市場食堂に入ったのが
蔵田昭憲 記(大 ) 多い。沼津宿当時は東海道の往 は落ちた松葉で少し覆われてい 一時半過ぎ。皆が食べた「いさ
)
) に 着 く。 津 波
らの香貫山の稜線が美しい。橋 人 が 松 を 植 え る 姿 の 石 造 が あ お 」( view uo
【新規参加をご希望の方】
対策として建設した日本最大級
の 脇 か ら 降 り て 船 着 き 場 を 辿 る。
氏名・住所・☎番号・生年月 り、旧東海道の一部、川郭通り
首塚を探す。戦国時代に戦死 の水門。地上三十メートルの高
日・卒業回・所属ゼミ・クラブ・ を歩いて御成橋の袂に出る。御 した若い武士達の遺骸を集めて さを活かした展望室から、秀麗
ハンディキャップを下記メール 成橋を御用邸との関係、町の歴 供養した供養塔。ここから千本 な姿の富士山を仰ぎ、眼下に沼
17
17
—22—
「富士と海と史跡の街」沼津
九 月 二 十 八 日( 水 )、 天 気 が
素晴らしくいい。富士山が全体
像を晴天の下に晒している。十
一時九分に久木さんと中川さん
が到着。十一時二十分宮野さん、
平居さん御夫婦の到着。コース
と行程時間を、時間が窮屈なた
め路を急ぐと世話人が伝える。
十一時三十分、スタート。ま
づ駅前の蒸気機関車の窯、車輪
の 置 か れ て い る の に 目 を や る。
沼 津 兵 学 校 の 址、 城 岡 神 社 へ。
兵学校沿革を石碑に見る。大手
町、中央公園の沼津城本丸址の
碑に一直線に進む。城全体規模
の掲出されてる図を見る。参加
者のほとんどが沼津が城下町で
かったと思う。………。私は主 波:簑島(大 ) 打差、水平 あることを知らない。
宿場町か、
する。
義としてだらだらと打つことに 賞:中西(大 )
漁業の街と思っていた。
松林の中、港口公園では、
「出
ニアピン:守谷(大 )
・名口(大
陽光燦燦として、狩野川の大 旅人、三枚橋城主松平康親、沼 船 」、 本 居 長 世 の 作 曲 作 品 碑 の
)・ 蔵 田( 大 )・ 宮 武( 大 きく蛇行した流れやあゆみ橋か 津城主水野忠友の墓や、増誉上 確認。沼津港大型水門「びゅう
80
9 18 14 17 15 9 2 14 14 10 8
14 87 85 82 80 79 76 76 75 74 72 72
95 15 9 19 15 9 15 21 11 6 27 21
14
30 26 20 16 10 6 5 4 3 2
21
20 14
きの焼き魚定食」が好評。狩野 平成二十三年散歩会開催記録
川 が 海 に 最 も 近 い 港 大 橋 を 渡 ●一月二十五日(水)
り、バスで芹沢光治良記念館に コース:北品川駅~品川宿本陣
向かう。館長さんが、親切に対 跡~法禅寺~正徳寺~荏原神社
応してくれた。二時五十五分頃 ~品川寺~海運寺~鈴が森刑場
同館を辞去。海岸通りに出て伊 跡~大森貝塚~大森駅。参加者
豆の海の景色を堪能しつつも御 十名。
用邸へ急ぐ。予定の午後三時到 ●二月二十五日(金)
着(閉廷時間午後四時半)にや コース:都立大学駅~呑川沿道
や遅れ、予約していた御用邸ガ ~東工大~池上梅園~池上本門
イド鈴木さんの気をもませてし 寺~池上駅。参加者七名。
●四月五日(火)
まう。
沼津は海の軽井澤と言われた コース:浜田山駅~神田川沿道
過去がある。沼津御用邸は明治 ~明治大学和泉校舎~多摩川上
二十六年造営、明治、大正、昭 水沿道(花見酒の会)~消防学
和の三代に亘り使われ、昭和四 校 ~ 笹 塚 ~ 幡 ヶ 谷 ~ 新 宿 駅 南
十四年に廃止され記念公園とな 口。参加者十三名。
って美しい庭園や皇室の権威を ●五月十七日(火)
感じる邸が公開された。西付属 コース:池袋東口駅前~法明寺
邸の皇室使用の内部を係員が案 ~鬼子母神~雑司ヶ谷霊園~宣
内してくれた。建物の他家具調 教師館~護国寺・・突然の雷雨
度品も展示されている。西付属 の為、先のコースに向かえず池
邸の庭園はガイド鈴木さんが植 袋駅に地下鉄で引き返す。参加
生樹木、景観、付帯設備、更に 者十人。
東付属邸に移る途中の茶室や周 ●六月二十三日(木)
り の 庭 園 の 美 し さ を 丁 寧 に 説 コース:駒込駅~六義園~吉祥
明。東付属邸では内部を係員が 寺~白山神社~鴎外記念館~根
文化活動の施設であることも併 津神社~御徒町駅。参加者六名
せて細かく説明してくれた。御 ●七月二十五日(木)
用邸前のバス停を午後五時過ぎ コース:新座駅~野火止用水~
に出発。沼津駅前で打ち上げ開 平林寺~新座市総合公園~史跡
催。六時半の電車で沼津に別れ 公園~用水遊歩道~清瀬駅。参
を告げた。 林
史欣(大 )記 加者七名
8
●九月二十八日(水)
たが、各組の入賞者は次の通り ③元プロ棋士による指導碁(右
沼津街歩き
(別記)
。
参加者六名。 です。
記①②③は第三土曜日に前述の
●十月二十六日(水)
A組
年金基金会館で開催。
)
コース:阿佐ヶ谷駅~神明社~ 優勝 水引芳雄 六・五段
(大 ) ④年間二回の囲碁大会実施(六
欅並木道~南蔵院~氷川神社~ 二位 中澤 龍彦 七段
(大 ) 月と十一月第三土曜日を予定)
正覚院~江古田の森公園~蓮花 三位 鈴木 克治 七段
(大 ) ⑤年に一回陵水会三地区
(東京・
寺~中野駅。参加者七名
五位 畠山 義生 七段
(大 ) 大阪・名古屋)対抗戦への参加。
●十一月二十四日(木)
七位 森本 忠徳 五段
(大 ) 行事に参加する時以外会費は
コース:高尾山登山
ありません。現在の会員数は二
B組
京王線高尾山口駅~ケーブル高 優勝 小原 捷冶 二段
(大 ) 十八名です。最近は各地でリタ
尾山登山口~琵琶滝コースを経 二位 小林 仁美 初段
イア―された方々の囲碁が盛況
(大 )
由高尾山頂上~薬王院~高尾山 三位 大谷毅丈夫 五段
(大 ) です。多数皆様のご入会をお待
登山口。参加者五名
五位 細井 恭一 二段
(大 ) ちしております。
●十二月二十一日(水)
七位 小口 晃 三級
(大 ) (刀祢館信雄・大 )
コース:東京駅から皇居東御苑、 入賞者以外の出席者は新宮毅
北の丸公園経由新宿の予定
(大 )
、 神 崎 栄 治( 大 )
、 天 大学十八回同期会の開催
※原則毎月一回開催。新たに参 田志郎(大 )
、
青島弘(大 )
、
加希望される方は開催の都度内 大 久 保 義 雄( 大 )
、刀祢館信
容をご通知しますので、メール 雄( 大 )
、 三 井 照 次( 大 )
アドレスをご連絡下さい。
の各氏でした。大会終了後は恒
連絡先メールアドレス
(世話人・ 例の懇親会で談笑と歓談が出来
8
5
6
3
年金基会館において開催しまし
た。当日は雨天でしたが、十七
名の参加者により、四回戦の熱
戦が行われました。五段以上を
Aグループ、五段未満をBグル
ープと二組に分けて実施しまし
○囲碁会の運営と年間行事
①毎月第三土曜日一〇時から通
常の対局を実施。
②希望者により棋楽会と呼ぶ持
ち 点 制 に よ る リ ー グ 戦 を 上 期、
下期実施。
−
中 村 嘉 秀(大 )
大学十八回同期会を四月十八
日、東京駅八重洲北口「ニュー
ト―キョー・旬さがみ」にて開
催しました。東京支部総会の当
番幹事を契機として、同期会を
六人で開催してから六年経ちま
した。同期生の数も今年で四十
九名になりました。
毎年四月十八日に開催してい
ます。東日本震災後の会合であ
ったので心配しましたが、今年
も十五名の懐かしい顔ぶれが集
まりました。近況報告を一人ず
つ行いました。一巡する頃には
程よくお酒も廻り、四十余年前
の彦根某所での酒宴と同じ状況
—23—
8
18
9 10 14 10 2
6 12
14 5 6
5
10
林史欣) [email protected] ました。
次回の開催は平成十二年六月
第三土曜日、東京築地の全国情
報サービス厚生年金基会館
(電・
○十一月十九日東京陵水会囲碁 03 3546 5151)にお
大会を、全国情報サービス厚生 いて。
2
−
が再現されていました。機会が
十 月 二 十 七 日( 木 )、 晴 れ。
あれば同期で会おうということ 上野駅発十二時特急草津五号に
から、ゴルフ、ハイキング、昼 乗車、高崎駅にて乗り換え、水
食会等の色んなアイディアが出 上駅着十四時三十七分。宿差し
て、今後は益々楽しい同期会に 回しの車にて宿泊先の水上館に
なりそうです。
到着。早速持物を宿において温
泉街を散策するも、途中の利根
川にかけられた吊り橋が腐食し
て居て危険であるとの判断。已
む無く引き返す。水上の温泉街
は、利根川の源流に近い渓谷に
沿 っ て あ る 細 長 い 町 で あ る。
我々の宿泊する水上館もまた
利根川の源流が眼下に流れる
水辺に沿って建てられた大き
な 宿 で あ る が、 三 棟 が 細 長 く
連なっていて当初の建築棟か
ら 順 次、 増 築 し て い っ た の だ
同 期 会 参 加 者 は 以 下 の 通 り。 ろ う。
(しかも渓谷の畔だから
(敬称略)
地盤が傾斜している)。その為、
今津松雄、岡田憲治、小倉好 各 棟 が 繋 が っ て は い る も の の、
れている(小さな滝もある)と
いった趣向である。谷川と言っ
ても水量は豊富で轟々と音をた
てて流れている。ひと風呂浴び
さっぱりしたところで宴会であ
る。呑むほどに酔うほどに、政
治、経済や健康談議で盛り上が
り、お酒もすすんだ。
翌朝の九時出発。宿の車で水
上駅前まで。次いでバスに乗り
換え、谷川岳ロープウェイの土
合口駅(標高七四六米)へ。ロ
下りた天神峠付近はほとんど樹
木が無く、山の大草原と言った
ところであった。昨夜僅かなが
ら積雪があったようで、雪解け
の 為、 地 面 は ぬ か る ん で い た。
快晴のなか、我々は展望台に上
り、其の眺望を楽しんだ。その
眺めは三百六十度の大パノラ
マ。 遠 く の 山 々、 近 く の 山 々、
は る か 眼 下 の 谷 間 の 小 屋 等 々。
雄大、豪華な美観等が適切な言
葉だろうか。とても一言では言
い表すことが出来ない素晴らし
い眺めであった。我々はパノラ
マを充分堪能し、近くのレスト
ランにて昼食を摂った。再びロ
ープウェイにて下山。水上駅へ。
約一時間の待ち時間があるの
で、一同駅前の喫茶店に入った。
ところがこの店の御主人は面白
い人で、スチ―ルギターの名手
博、影山哲也、兼松泰男、喜田 それぞれの棟の階数が一致しな ープウェイにて約十分、天神平 でもある。我々の年齢を見抜い
峰 幸、 栗 原 喜 代 次、 小 梶 清 司、 い。例えば第一棟目の七階が第 駅に着き、そこでペアリフトに たのか、我々に相応しい懐メロ
新戸基次※、田中和夫、徳山秀 二棟目の四階に繋がって居る如 乗り換える。約七分で天神峠に を何曲も演奏してくれ、我々一
再会です。
の風呂で館内にはいくつものい さまを見ることができとても面 った。
が ら に し て 良 い 運 動 に な っ た ープウェイで昇ってゆくと紅葉 く締めてくれた。二日間快晴に
が。早速温泉に浸る。無色透明 の深まりが徐々に変わっていく めぐまれ、本当に楽しい旅であ
※印は初参加。四十余年振り 迷路のようなものだった。居な 始まったばかりであったが、ロ したようで、旅行の最後を楽し
雄、中村嘉秀、直井一博※、林 しである。従って慣れない私共 着 く( 一 五 二 〇 米 )。 土 合 駅 付 同 も そ れ に 合 わ せ て 唄 い 続 け
良孚※、吉村政彦。
には昇ったり降りたり、一種の 近では、まだ紅葉もごく一部で た。まったく思わぬ拾いものを
東京五陵会
細 井 恭 一(大
「紅葉の水上温泉一泊と ろんな種類の風呂があるようだ 白かった。天神平付近では今が 参加者・青島 天田 市木 岡
天神平散策」 が、いずれも宿の最下階にあっ 盛りの見ごろで、紅葉パラダイ 田 龍口 中川 中西 樋上 ) て、風呂のすぐ眼下を谷側が流 スと言うところ。ペアリフトを 久木 細井 間宮 計十一名
5
—24—
室
感
22
27
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24
55
18
17 12
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5
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1
6
8
10
11
15
16
20
3
7
編 集
所
暢 夫 山 成 軒 六( 本 )
、 井 口 博 民 清次 池田弘孝 小塩正長 尾本政 憲 栗林 昭 柴原良昭 滋野輝 彦 俊輔 大下雅司 筒井泰三 中野達
犬塚昌一 河
二 大島明美 瀧
柘 治
也 牧
、
添 治 男 竹 内 政 太 郎 川雅一 刀祢館信
三 豊田徳司 西尾郁 夫 前
野 武 吉 本 準 一( 大 )
豊 田 弘 毅 鳥 居 和 也 樋 口 廣 太 郎 雄 並 川 淳 西 村 信 浜 崎 守 三 田 豊 山 本 節 夫( 大 )、 市 岡 隆 磯野和彦 鈴木秀利 武田吉史 中
中 辻 喜 蔵( 本 )、 伊 藤 亮 三 坂 谷 林 史 欣 松浦幸作 松岡健雄 安 治 今津松男 岡田憲治 岡本文夫 島 和 宏 吉 田 繁 喜 和 田 昌 信( 大
立郎 高山義雄 寺本康郎 丹羽鑛 田 一 雄( 大 )
、 小 野 浩 日 下 部 兼松泰男 喜田峯幸 小倉好博 影
)
、 藤 井 登( 大 )、 岩 田 雄 一
昨年号では同年総会の概要記 治 橋本 侃 林 隆治 山口照夫 百也 坂田忠彦 田川行雄 中川和 山哲也 小梶清司 田中和夫 千葉 小林智子 酒井康就 新藤盛之 田
事を、本部年報でカバーしまし (本 )、瀬川泰助 西田延弘 西尾 己 中島勝司 永田博己 西坂徹雄 茂 徳山秀雄 中村嘉秀 西川清悟 邨弘樹 中井光治 廣田真哉 水上
實 前 川 彌 之 祐 松 本 義 吉 田 光 西田広彦 乗富俊二 野田卓司 平 林 良 孚 坂東明彦 村瀬尚 文 栗 康 弘( 大 )
、 今 田 淳 河 野 智 樹
たが、今号では要望もあり掲載
雄( 本 )、 大 竹 徳 行 岡 田 浩 瀬武明 藤江忠正 藤本裕一郎 宮 原 喜 代 次 山 本 利 雄( 大 )
、 稲 野 清 塚 徳 西 野 忠 宏( 大 )
、岡武
しました。当支部の発展に長年 加納淳司 楠田迪彦 高木早苗 西 田 昭 森本忠徳 山本孝之 吉原 辺 敬 義 井 上 博 之 伊 藤 博 邦 岡 俊雄 宇野桂太郎(大 )、岸田直明
貢 献 を さ れ て き た お 二 人 を 失 沢 正 保 正 保 矢 田 佳 三( 本 悟 一 吉 田 弘( 大 )、 井 上 義 隆 廣司 小野孝史 門平孝二郎 小山 清 水 範 之 能 登 英 彦( 大 )、 大 森 )、 奥 村 忠 雄 井 上 泰 一 加 藤 福 石 垣 康 臼 井 健 小 西 捷 治 佐 久 照 坂 野 友 之 竹 森 二 郎 田 辺 保 金 森 裕 樹( 大 )
、 久 野 康 成 い、個人の昵懇の方から告別の
志(東)、落合忠一(別)、小野盛四 藤秀孝 田中俊男 坪田清六 中川 徹 丹 波 信 治 寺 井 与 利 雄 永 田 富 岡 隆 史 吉 川 実( 大 )
、大原
辞を戴きました。ご冥福をお祈 郎( 工 )、 井 上 祐 一 川 本 茂 寿一 中沢龍彦 中村寿男 畠山義 修 中村達夫 西澤弘行 平田雅章 孝明 岸野正史 北川昌樹 柴田敬
りします。中国への関心が非常 柴 崎 隆 田 中 孝 太 郎 渡 辺 貞 二 生 服部全孝 細谷 隆 三井照次 宮川 誠 山崎竹夫 和田博之(大 三( 大 )、 立 木 賢 一 年 名 佐 葉 子 )
、 上 田 求 植 田 兼 司 上 野 恵 秦 聡 山 本 真 嗣( 大 )
、畑瀬英
に高まっている今、総会の羽渕 内 海 清 安 増 田 捨 四 郎( 大 )、 我 山 田 進( 大 )、 川 北 直 行 川 合
孫 子 孝 乾 哲 彦 岡 田 厳 郷 久 嗣 黒 澤 日 出 男 小 林 貞 夫 関 三 小 野 学 大八木勉 河原正 喜 樹(大 )
、上田 修 山本雅由(大
さんの特別講演は時宜を得たも 治 雄 柴
)
、佐 藤 篤( )、中谷光 栄 山
田 茂 夫 新 宮 毅 宮 崎 恵文 野一色公平 長谷村秀夫 法 蔵 彰 竹本進一 田中二郎 農守
ので、会員の皆さんの耳をそば 正 水 引 芳 雄 渡 辺 陽 彦( 大 )、 橋正虎 松浦紀久雄 松本隆一 吉 義文 角田健一 浜野信裕 平井善 本 理 恵( 大 )、 高 田 大 樹( 大 )、
だてました。竹森さんのインタ 神 崎 栄 次 小 八 木 俊 雄 清 水 善 和 岡 一 三( 大 )、 稲 邑 明 也 奥 村 啓 三 松山 仁 皆川則雄 宮武 修 秋 山 直 登 平 大 輔 中 島 幸 一 郎
田中 博 中川弥次 増田茂樹 村 一 小原捷治 守谷貞夫 田村寿夫 (大 )
、石川公一 射場茂喜 上田 (大 )
、十楽寺弘子 山下祐慶(大
ビューでうかがった内容も、活 井 永 治 用 田 政 一( 大 )
)
、 溝 畑 直 也 肥 田 茂 之( 大 )
、 青 山 松 平居俊雄 堀 内 和 堀川幸夫 宮 文男 植野克美 川嶋正隆 中井義
、
気ある日本経済の姿の一部を見 太 郎 今 井 常 清 粕 淵 健 三 北 川 野 幸 雄 山 口 和 俊( 大 )、 朝 比 奈 邦 藤野義男 米山 修 山口勝三 戸 田 友 香( 大 )、 杉 田 佳 世 子 西
せて頂きました。法橋さん、北 享 佐々次郎 田岡譲一 竹内鋭二 冬男 内川晃廣 小谷兼夫 小林三 山 下 修 司 脇 坂 守( 大 )、 川 分 本 絢 一( 大 )、 中 島 智 孝 平 良 友
谷 文 夫 辻 昇 平 西 岡 隆 夫 樋 郎 近藤達也 中村奎吾 西藤和弘 啓史 北野敏彦 小林忠志 孝内範 枝 藤 野 親 弘( 大 )
、 伊 藤 大 智 尾さんの最近の活動、所感には 上 不二子 寺田又三 箸方海三 廣 納堂秀樹 星 出 潔 村井邦彦 吉 生 長井和男 山代真佐行 山脇一 久米広知 濱田英嗣 柳瀬友歌(大
随分と元気づけられました。暗 内士郎 松井 茂 松岡正曜 簑島 田 久 典 若 山 忠( 大 )、 天 木 國 泰( 大 )、 青 木 市 次 郎 稲 波 信 一
)
、 岩 瀬 嘉 孝 奥 田 将 吾 加 藤 康
い世相を突き放すような、元気 安夫 安江郁夫 山中英一(大 )、 夫 安部 誠 石田昭郎 臼井和宣 太田敦生 岸上和夫 木場三郎 鯉 之 清水有希子 杉本大幸 田中健
青 島 弘 天 田 志 郎 飯 島 勲 井 小 口 晃 金 井 肇 葛 山 薫 加 江典之 近藤 修 品川悦夫 棚橋 太 郎 潰 瀧 祐 二( 大 )、 佐 藤 喜 代
で生き生きした東京陵水会を実
上 明 郎 岡田 和 義 神 谷 亨 田 中 藤博善 北 村 徹 古山捷二郎 清 稔 玉井達也 玉置辰司 中岡浩三 子 清水俊彦 北沢勝太郎 日高信
現しましょう。
修二 龍口秀夫 竹内伴道 中西三 水 叡 高 橋勝彦 田中泰弘 土井 中村勝己 平本義則 深谷靖純 堀 次 堀 口 発( 短 )、 島 康 介 深
一 中川郁三 樋上泰功 細井恭一 健一郎 中 村 弘 野村英機 羽渕 内 裕 堀江恒一 松田治久 若林 見康孝(院) 三 井 正 勝( 大 )、 青 木 滋 今 宿 展 世 古 川 浩 司 丸 居 裕 森 田 寛 関谷道昭 大矢武史 野村勝良 寄付金提供者(卒年次略)
年会費・併せて寄付金をお振
隆 弘 臼井 靖 大 久 保 義 雄 大 谷 孝( 大 )
、 海 老 洋 大 澤 義 隆 亘 伸 夫( 大 )
、 味 田 耕 二 一 円 髙木早苗 西坂徹雄 吉原悟一 岸
り込みいただきありがとうござ 毅 丈 夫 岡田 亨 大野一郎 河合 奥村勇雄 木下英男 黒田悦司 鈴 正之 河江泰平 川崎重喜 上ヶ市 田直明 水上康弘 小野盛四郎 田
正紀 川村和男 児嶋正次 草生知 木 勝 柘野茂樹 鶴見芳令 富田 俊之 斎藤裕士 仙田修蔵 田中恒 中修 二 林 良孚 竹森二 郎 小林
いました
治 小林仁実 田中 実 中村博一 博 司 中 沢 武 昭 長 嶺 英 則 二 宮 男 本田吉弘 山崎 勉 湧川勝巳 忠志 岩崎博之 中野達也 藤野親
平成二十三年度年会費納入者
橋本長夫 林謙治郎 久木義雄 藤 清 藤井駿治 細江謖夫 前田哲顕 (大 )
、岡本幸博 石黒俊一郎 田 弘
(十一月二 十 五 日 現 在 )
●
平
成
二
十
二
年
度
分
年
会
費
納
入
者
原
多
喜
男
三
馬
島
惟
安
三
村
弘
昭
安
、
長
宅 義 男( 大 )、 磯 部
谷 邦 男 山 本 保 吉
井 喜 重( 大 )
誠
初田 修(本 )、船見祐次(本 )、 一郎 伊藤芳朗 市川浩久 宇治原 田 勇 夫 ( 大 )
、小森清美(大 )
、
、 木 津 勝 治 木 戸 次 近森彦義 重田 博 高見政 史 三木健蔵(本 )
小 林 赳 夫( 本 )、 山 廣 新 若 林 嘉 政 浦
石田昭郎(大 )
、中島幸一郎(大 )
彪 佐
畑 澤 敏 之( 大 )、 足 立 浩 次 岩
谷 政 夫 木 下 実 佐 野 藤充宏 進 従道 浜口栄治 崎
定男(本 )、小笠原滋 高木克幸(本 了 鈴木重成 竹村孔作 富永義孝 渡辺雅利 (大 )
、 岡 野 茂 樹 馬 場 敬 夫 ●寄付金提供者(二十二年度分)
、池谷吉人 大原 博 之( 大 )
)、 葛 上 宗 一 郎 澤 成 二 郎 辻 西 野 宏 東 野 和 弘( 大 )、 天 木 和夫 岡本和之 川崎憲夫 蔵田昭 服 部 修( 大 )
、 浅 見 徹 緒 方 川村憲司 大学十九回有志
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駐車場の総合コンサルティング
日本駐車場開発株式会社
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