2015年度 年報

矢向正人 [email protected]
コンテンツ創成科学部門
芸術工学研究院 コミュニケーションデザイン科学部門・教授
■自己紹介
1958 年生まれ。最終学歴:1985 年 3 月東京芸術大
学大学院音楽研究科修士課程修了。学位:博士(学術)
東京工業大学。職歴:1990 年 12 月九州芸術工科大学
芸術工学部音響設計学科助手,2013 年 11 月より現職。
本来の専門領域は音楽学であるが、歌舞伎を中心と
する伝統芸能も研究対象としている。記譜法の研究、
音楽データベースの研究、伝統芸能のコンテンツ研
究、音楽美学の研究、情報科学の方法を用いた音楽
研究に実績がある。研究のスタンスは、(1) 日本及
びアジアの伝統的な音楽芸能を主たる研究対象とし
資料批判及びデータの収集を体系的な方法で行なう
図1 明治撰定譜・篳篥譜≪三臺塩急≫の一部(左)
左の3行目下半分を拡大したもの(右)
こと、(2) 新しい科学技術の方法を積極的に用いる
こと、(3) 研究結果を西洋をはじめとする他の文化
圏の音楽芸能の構造および美学と比較しあるいは統
合を図ることである。
■代表的な研究業績
『音楽と美の言語ゲーム』(勁草書房),『言語ゲ
ームとしての音楽』(勁草書房) ,「標準データ記述
言語を用いた未解読楽譜の認識と記述」『音楽学』
52(2)
■雅楽譜のデータベース化と旋律パターンの分析
篥・竜笛・笙)別に三種類があり、それぞれにおい
て楽曲は六調(壱越調・平調・雙調・黄鐘調・盤渉
調・太食調)に分類されている。本研究では篳篥の
パート譜である明治撰定譜・篳篥譜を研究対象とし
た。明治撰定譜は、
「本譜」と「仮名譜」の二種類の
記譜法を併用して記される。本譜とは、篳篥譜であ
れば指孔のポジションを記したもので運指を指示し
ている。仮名譜とは、片仮名で唱歌を記している。
図1に明治撰定譜・篳篥譜の譜例を示す。図1左のA
(赤枠)は曲名、B(緑枠)は曲の大まかな長さ(小
曲は短めの曲、大曲は長めの曲)、C(青枠)は拍子
1. はじめに
雅楽の標準的な楽譜である明治撰定譜をデータ化
し、パターン分析手法MGDPを適用して特徴的なパタ
ーンを抽出した研究を報告する。研究は指導学生の
竹下秋雄が行った。明治撰定譜は、現代においても
っとも普及している雅楽の楽譜であり、100曲ほどの
楽曲を継承している。明治撰定譜は雅楽の三管(篳
(打物のリズムパターン)を示す。図1右は左の拡大
図である。赤枠内は仮名譜で唱歌を示す。大きな仮
名の右下に付随する小さな仮名「リ」
「ラ」「ロ」は
前後の大きな仮名を歌うときのつなぎとして歌われ
る。唱歌の間にしばしば挟まっている小さい白丸は
読点であり、休符やブレスと同じ意味を持つ。
塩梅
の組み合わせが特定の旋律パターンを示しているこ
とがある。これらの旋律パターンの中には塩梅を含
むものもある。すなわち、明治撰定譜の記譜には、
本譜で示したポジションの音高に、仮名譜の旋律パ
図2 明治撰定譜の表記(左)と五線譜への訳譜(右)
ターン単位の指示を加えて情報を補完している例が
ある。したがって、演奏に役立てたり旋律パターン
2. 明治撰定譜と旋律パターン
明治撰定譜の長所は、奏法譜であるため、雅楽の
特徴的な旋律を、五線譜よりも少ない記号の量で表
せることである。図2左が明治撰定譜、右は同じ音高
の動きを五線譜で表記したものである。左の譜の方
が記号の量が少ない。また、左の譜では、F(雅楽の
十二律では勝絶)を表すのに「上」と「一」の運指
を書き分けるなど、奏法による音色の違いが書き分
けられているが、右の五線譜に運指やアクセントな
どの情報を書き加えればさらに記号の量の差は大き
くなる。他方、明治撰定譜の短所は、音高、奏法、
リズムの情報が十分ではないことである。雅楽の演
奏経験者であれば、唱歌と運指の組合せから音高や
奏法やリズムをある程度は推察することができるが、
それでも一意に定めることはできない。例えば、篳
篥には口を用いて音高を変化させる「塩梅」の奏法
があるが、塩梅についての直接の指示は楽譜中に存
在しない。そのため、演奏者は篳篥の伝承者などの
を分析する目的で明治撰定譜をデータ化する場合、
五線譜に訳譜したうえでデータ化する手順は好まし
くない。
3. 明治撰定譜のデータ化
本研究では、唱歌における大きな仮名一字を中心
とする仮名と運指の複合体をセルとし、セルの組み
合わせにより楽曲を記述した(図3)。この方式によ
り、明治撰定譜・篳篥譜の全72曲を
入力しデータ化した。入力したデー
タの合計行数は677行、合計セル数は
10832セルである。セルは、唱歌と運
指の情報を併せ持つため、音高のみ
ならず微妙なニュアンスなどが漏れ
なく記述される。データ化したCSV
ファイルを図4に示す。図4左側の表
中の1列目(唱歌No)は曲頭から数えた
セルの個数すなわちセルの
演奏を聴いた
うえでこの奏
法を判断して
いる。しかし、
これらの奏法
の有無が明治
撰定譜からま
ったく発見で
きないわけで
はない。仮名
譜は仮名の組
み合わせによ
って唱歌が示
されるが、こ
図4
データのCSVファイル
図3
セル
通番である。二列目(行番号)はそのセルが何行目
表1
コーパスの設定と得られたMGDPの数
にあるかを示す。12列目(読点の列)にある「○」
は読点もしくは叩きがセル中に存在することを示す。
13列目(拍子)中の「大」「小」はそれぞれ大拍子、
小拍子がセル中に存在することを示す。14列目(特
殊指示)には、二返・還頭などの演奏上の特殊な指
示がセルに含まれている場合に記した。
4. 雅楽の調と拍子
雅楽の六つの調は、西洋音楽における調ではなく
旋法の一種であり、壱越調はD、平調はE、雙調はG、
黄鐘調はA、盤式調はB、太食調はEを基準音としてい
る。他方、雅楽の拍子は、早拍子系と早只拍子系に
分析を行った。楽曲群の設定、および得られたMGDP
大別される。早拍子系は西洋音楽の4拍子系に準ずる
パターンの数を表1に示す。表中の前半6条件は調に
拍節構造で、早四拍子、早六拍子、早八拍子がある。
関する分析、後半6条件は拍子に関する分析である。
早只拍子系は西洋音楽の6拍子系に準ずる拍節構造
早拍子は早四・早六・早八拍子の楽曲群、早只拍子
で、早只四拍子、早只八拍子がある。早拍子の曲で
は早只四拍子・早只八拍子の楽曲群を意味する。括
はセル1つは2拍に相当する。早只拍子の曲ではセ
弧内の数値は左側が楽曲数、右側がセル数を示す。
ル1つは1拍に相当する。
6. 分析結果
5. MGDP手法
本研究で分析に用いたMGDP手法(Maximally
MGDP手法により抽出されたパターンは音楽学で認
識されている旋律パターンとそのまま一致しないが、
General Distinctive Pattern Method)は、特徴性
1)旋律パターンの発見を助ける、2)楽譜の表記方
の判定と一般性の判定を別々に行ったうえで統合す
法についての情報を得る、3)複数の旋律パターンの
るパターン分析手法である。特徴性の判定は、パタ
つながりに関わる情報を得る、のいずれかにより音
ーンPが分析対象とするコーパス楽曲群において特
楽分析に利する。以下は、調と拍子について1)の結
徴的である度合いを、コーパス楽曲群と背景をなす
果をもとに音楽学の知見を加えて述べる。
アンチコーパス楽曲群とを比較することにより行う。
特徴性は、あらかじめ設定した特徴値ΔP との比較
6-1. 調の分析結果
により判定される。本研究では、入力したデータの
壱越調の旋律パターンには、低音域に細かくうね
性質を考慮したうえ、ΔP=5のときパターンPが特徴
るような動きが多いが、中高音域には音高の細かい
的であるとして分析を進めた。一般性の判断は、パ
動きがほとんどない。平調の旋律パターンには、雅
ターンの包含関係にもとづいて行う。明治撰定譜へ
楽らしく篳篥らしいと雅楽演奏家に評価されるパタ
の適用に際して、セルが同一であるかを判定する要
ーンが多く発見された(図5)
。雙調の旋律パターン
素には、唱歌、運指、叩きなど音高変化に関与する
はすべて、雅楽の奏法である「メリ上がり」から「上」
要素のみを用いた。読点、拍子、特殊指示など音高
変化に関係しない要素は用いていない。本研究では、
調と拍子それぞれの特徴的な旋律パターンを抽出す
るために、コーパス/アンチコーパスの設定を変えて
図5 平調のMGDPから発見された旋律パターン
と呼ばれている運指によりGに移行するパターンで
7.展望
ある。黄鐘調の旋律パターンには、Aを維持するパタ
本研究で使用した分析プログラムはPerlを用いて
ーンが多い。盤渉調の旋律パターンには、太食調に
実装しており、Web上で利用できるようにすることが
も含まれている旋律パターンが多い。この結果から、
容易である。明治撰定譜の楽譜データベースととも
盤渉調と太食調が近親的な関係にあることが示唆さ
にWeb上で利用可能になれば、研究環境の共有など、
れる。太食調の旋律パターンには、平調および盤渉
雅楽研究のさらなる発展を促すことになると考える。
調のパターンと同じ特徴を持つパターンが多い。こ
の理由は、太食調が平調と同じくEを中心としており、
使用楽譜
主な使用音が盤渉調と同じであるからと推察される。
[1] 香川雅正会編, 1960.『雅楽篳篥譜』サヌキ印刷
6-2. 拍子の分析結果
株式会社.
早四拍子の旋律パターンには、楽曲にアクセント
を加える役割を果たすパターンが多く、また、Aから
参考文献
Cまでのメリによる細かい動きを含むパターンが多
[1] Conklin Darrell. 2010. “Discovery of
い。早八拍子の旋律パターンには、早八拍子固有の
Distinctive Patterns in Music,”Intelligent
ものが多く(図6)、このことから、早四拍子と早八
Data Analysis,14(5), pp.547–554.
拍子は聴感的にはほとんど違いを感じさせないにも
[2] Conklin Darrell & Anagnostopoulou Christina.
かかわらず、明確に異なる特徴があることがわかる。
2011. “Comparative Pattern Analysis of Cretan
早只拍子/早拍子から発見された旋律パターンには、
Folk Songs,” Journal of New Music Research,
類似する音高の動きを持つパターンが多く、このこ
40(2), pp.119-125.
とから、これらの拍子は1セルの拍数やリズム構造
[3] 遠藤徹. 2005.『平安朝の雅楽:古楽譜による唐
などに違いがあるが、セル単位で共有される特徴が
楽曲の楽理的研究』東京堂出版書.
あることがわかる。早拍子/早只拍子から発見された
[4] 蒲生美津子. 1986.「明治撰定譜の成立事情」
『音
旋律パターンには、同じ音高を6拍以上伸ばし続ける
楽と音楽学:服部幸三先生還暦記念論文集』音楽之
旋律パターンが多い。早四拍子/早八拍子の分析結果
友社, pp205-238.
は、早四拍子の分析結果と比較すると抽出されたパ
[5] 増本伎共子. 2000.『雅楽入門』音楽之友社.
ターンが少ない。このことから、早四拍子と早只拍
[6] 塚原康子. 2009.『明治国家と雅楽:伝統の近代
子に共有される旋律パターンが少ないことがわかる。
化/国学の創成』有志舎.
早八拍子/早四拍子の分析結果は、早八拍子の分析結
[7] 寺内直子. 1996.『雅楽のリズム構造:平安時代
果と比較すると抽出されたパターンが多い。このこ
末における唐楽曲中心に』第一書房.
とから、早八拍子と早只拍子に共有される旋律パタ
[8] 矢向正人, 土屋景一, 荒木敏規. 1996.「旋律パ
ーンが多いことがわかる。さらに、早只拍子は早四
ターンの分類 : 類似性判断と分析例」『情報処理学
拍子よりも早八拍子と近親的な関係にあることが示
会研究報告』96(75), pp.27-32.
唆される。
[9] 矢向正人, 荒木敏規. 1998.「ブロッキングによ
る長唄三味線の旋律分析法」『東洋音楽研究』63,
pp,37-56.
図6 早八拍子MGDPから発見された旋律パターン