第11講 日中戦争の勃発 / 1304KB

第11講
日中戦争の勃発
――ドイツの関わりを含めて――
ドイツ極東政策の矛盾 1936年
日独防共協定
1936年11月
独中ハプロ協定
1936年4月
ライヘナウ路線
1936年10月
ナチス・ドイツ
満州事変 1931年9月18日
日本
「満洲国」の成立
1932年3月日
中華民国
蒋介石政権
1937年7月7日 盧溝橋事件
Ⓒ田嶋信雄
現在の盧溝橋
Ⓒ田嶋信雄
ドイツ外務省の態度
「ドイツ政府は極東の紛争において、厳正な
中立を守る意向である。我々は事態の進展を
大いなる憂慮を以てフォローしており、極東に
おける我々の経済的利益のために、更に
我々の反コミンテルン政策に鑑みて、事変の
早期の平和的解決を真剣に希望している」
7月20日 外務次官マッケンゼン
日本「日中戦争は共産主義との戦い」
ああ
そうですか
ドイツ駐英大使
リッベントロップ
(親日派)
日中戦争は
共産主義と
の戦いです
駐独日本陸軍武官
大島浩
Carl Boyd, The Extraordinary Emboy, Washington DC, 1980, p. 114.
ドイツ外務省の日本批判
「中国での行動を共産主義に対する戦いとし
て防共協定で正当化しようとする日本の態
度は邪道である」
「日本の行動はむしろ防共協定と矛盾してい
ると見なされる。なぜなら日本の行動は、中
国の統一を妨害し、それにより中国の共産
主義の拡大を促進し、結局は中国をロシア
の手の内に追い込むからである」
(1937年7月28日 外務省幹部ヴァイツゼッカー)
ヴァイツゼッカー外務次官
中国での行動を
共産主義に対する戦いとして
防共協定で正当化しようとする
日本の態度は邪道である
http://www2.bc.edu/~heineman/weizsacker.jpg
ドイツ国防省の態度
8月12日 ブロムベルク=孔祥熙会談
「ブロムベルク将軍は、総統から禁止されな
い限り、中国との交易を貫徹するため、あら
ゆる努力をすると語った。在華ドイツ軍事顧
問団の引き上げは問題にならない」
ブロムベルク=孔祥熙会談
(1937年8月12日)
中国との交易を
貫徹するため、
あらゆる
努力をする!
孔祥熙
国民政府行政院長
親中派 ブロムベルク
国防大臣
http://www.aschern.de/resistenz/Von%20Blomberg.jpg
http://news.xinhuanet.com/
8月13日 上海で戦闘開始
楊克林・曹紅『中国抗日戦争図誌』中巻、天地図書有限公司 1994年、282頁
ヒトラーの態度
「日本との提携は維持する。しかし現在の日
中紛争ではドイツは中立を保持しなければな
らない。中国との協定に基づいて輸出される
提供品については、中国から外国為替ないし
原料供給で支払われる限り、続行せよ。
ただし、その場合でも、可能な限り対外的な
隠蔽工作をせよ」
(8月16日 外相ノイラートとの会議)
中立政策を模索するヒトラー
(1937年8月16日)
現在の日中
紛争ではド
イツは中立
を保持しな
ければなら
ない。
外務大臣ノイラート
(中立派)
http://www.joric.com/Hitler-worn1.jpg
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/sv/thumb/3/3c/200px-Neurath.jpg
上海での市街戦(第二次上海事変)
楊克林・曹紅『中国抗日戦争図誌』中巻、天地図書有限公司 1994年、297頁
日本海軍陸戦隊司令部
Ⓒ田嶋信雄
日本海軍陸戦隊
http://www.geocities.jp/y_80000001292585/z_syanriku04.jpg
中国軍精鋭部隊
楊克林・曹紅『中国抗日戦争図誌』中巻、天地図書有限公司 1994年、306-308頁
クルップ社製大砲
Ⓒ田嶋信雄
ドイツ軍事顧問団長
ファルケンハウゼン
http://www.sspanzer.net/zl/german_gw/b13-bio2-af_w.jpg
トラウトマン工作の開始
中華民国(南京)駐在ドイツ大使トラウトマン
参謀本部「不拡大派」 石原莞爾
横山臣平『秘録 石原莞爾』芙蓉書房
日本軍、上海から南京へ
http://www.neobackpackers.com/guide/map/china.gif
南京城
笠原十九司『南京事件』岩波書店 1997年、108頁
派遣軍戦闘詳報
『第16師団歩兵第33連隊 戦闘詳報』
「午後二時三十分、前衛の先頭下関に達し、
前面の敵情を探索せし結果、揚子江上には
無数の敗残兵、船筏その他あらゆる浮物を
利用し、江を覆いて流下しつつあるを発見す。
すなわち連隊は前衛および速射砲を江岸に
展開し、江上の敵を猛射すること二時間、殲
滅せし敵二千を下らざるものと判断す」
南京戦史編集委員会『南京戦史史料集』偕行社 1989年、601頁。
歩66第一大隊『戦闘詳報』(12月13日)
午後2時0分、聯隊長より左の命令を受く・・・
イ、旅団命令により捕虜は全部殺すべし。その方法は十数名を捕縛し、逐
次銃殺しては如何。・・・
右命令に基づき午後3時30分、各中隊長を集め捕虜の処分に附意
見の交換をなしたる結果、各中隊(第一、第三、第四中隊)に等分に分
配し、監禁室より連れ出し、第一中隊は露営地南方谷地、第三中隊は露
営地西南方凹地、第四中隊は露営地東南方谷地付近において刺殺せ
しむることとせり。
但し、監禁室の周囲は厳重に警戒兵を配置し、連れ出す際絶対に感知
されざる如く注意す。
各中隊共に午後5時準備を終わり、刺殺を開始し概ね午後7時30分
刺殺を終わり、聯隊に報告す。
捕虜は観念し恐れず、軍刀の前に首を差し伸ぶるもの、銃剣の前に
乗り出し従容とし居るものありたるも、中には泣き喚き救助を嘆願せるも
のもあり。
南京戦史編集委員会『南京戦史』偕行社 1989年、213-214頁。
南京安全区国際委員会のメンバー
http://www.swastika-info.com/images/_amazon/john-rabe-gr.jpg
安全区国際委員会委員長ラーベ
(ナチス党南京支部長・ジーメンス社南京支社長)
ジョン・ラーベ 『南京の真実』講談社 1997年
ラーベの日記
(1937年12月16日)
「下関へ行く道は一面の死体置き場と化し、そ
こらじゅうに武器の破片が散らばっていた。あ
たり一帯は文字通り死屍累々だ。日本軍が
手を貸さないので、死体はいっこうに片づか
ない。銃殺する前に、中国人元兵士に死体の
片づけをさせる場合もある。我々外国人は
ショックで体がこわばってしまう。いたるところ
で処刑が行われている。一部は軍政部のバ
ラックで機関銃で撃ち殺された。」
揚子江岸の累々たる死体
村瀬守保『私の従軍中国戦線』日本機関紙センター2005年、48頁
石射猪太郎(外務務省東亜局長)日記
(1938年1月6日)
「上海から来信、南京に
おける我が軍の暴状を
詳報し来る、略奪、強姦
目も当てられぬ惨状と
ある。嗚呼これが皇軍か。
日本国民民心の
廃頽の発露であろう」
(240頁)
伊藤隆・劉傑編『石射猪太郎日記』中央公論社 1993年
南京事件に関する
日本政府・外務省の立場
「南京大虐殺」に対して、日本政府はどのように考えていますか
• 日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、多くの非戦闘員
の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。
• しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府とし
てどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。
• 日本は、過去の一時期、植民地支配と侵略により、多くの国々、とり
わけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えたことを率
直に認識し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを常に心に刻み
つつ、戦争を二度と繰り返さず、平和国家としての道を歩んでいく決
意です。
http://www.mofa.go.jp/MOFAJ/AREA/taisen/qa/08.html
安倍首相、日中歴史共同研究で合意
• 北岡伸一 東京大学法学
部教授 【座長】
• 小島朋之 慶應義塾大学
総合政策学部教授(逝去)
• 波多野澄雄 筑波大学大
学院人文社会科学研究科
教授
• 坂元一哉 大阪大学大学
院法学研究科教授
• 庄司潤一郎 防衛庁防衛
研究所戦史部第1戦史研
究室長
http://news.sina.com.cn/
日中歴史共同研究
第2 章 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦
中支那方面軍は、上海戦以来の不軍紀行為の頻発か
ら、南京陥落後における城内進入部隊を想定して、「軍
紀風紀を特に厳粛にし」という厳格な規制策(「南京攻略
要領」)を通達していた。しかし、日本軍による捕虜、敗
残兵、便衣兵、及び一部の市民に対して集団的、個別
的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪や放火も頻発した。
(執筆者 波多野澄雄・庄司潤一郎) 6頁
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf
「日中歴史共同研究」日本側報告書
(2010年2月発表)
「中支那方面軍は、上海戦以来の不軍紀為の頻発から、
南京陥落後における場内進入部隊を想定して、「軍紀風紀を
特に厳粛にし」という厳格な規制策(「南京攻略要領」)を通
達していた。しかし、日本兵による捕虜、敗残兵、便衣兵、及
び一般市民に対して集団的、個別的な虐殺事件が発生し、
強姦、略奪や放火も頻発した。・・・・
日本軍による暴行は、外国のメディアによって報道される
とともに、南京国際安全区委員会の日本大使館に対する抗
議を通じて外務省にもたらされ、さらに陸軍中央部にも伝え
られていた。その結果、閑院宮参謀総長名で、松井司令官
宛に、「軍紀・風紀の振作に関して切に要望す」との異例の
要望が発せられたのであった。」
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf
近衛首相
「国民政府を対手とせず」声明
(1938年1月16日)
帝国政府は
爾後
国民政府を
対手とせず
http://www.ndl.go.jp/portrait/260_260/S-1142/0051_r.jpg
参考文献
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偕行社『南京戦史・資料集』1989年
偕行社『南京戦史資料集Ⅱ』1993年
伊藤隆・劉傑編『石射猪太郎日記』中央公論社 1993年
小野賢二他編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』大月書
店 1996年
石田勇治編『ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店2001年
村瀬守保『私の従軍中国戦線』日本機関紙センター2005年
秦郁彦『増補版 南京事件』2007年
笠原十九司『南京事件論争史』2007年
工藤章・田嶋信雄『日独関係史』全3巻 東京大学出版会
西村成雄・石島紀之・田嶋信雄『国際関係のなかの日中戦争』
慶應大学出版会 2011年